2019年9月28日土曜日

韓国政府批判と嫌韓

 韓国政府の対日本外交には奇妙な言動が目立つ。国家間で交渉して取り決めた条約や協約、合意などを一方的な解釈で韓国政府は改変したり、実質的に廃棄しようとしているように見える。どういう価値観を韓国政府が持とうと彼らの自由だが、独自の価値観の日本への押し付けを、植民地支配された過去の「屈辱」で正当化している気配だ。

 そうした韓国政府の言動や国際機関などにおける韓国からの相次ぐ日本批判に、日本の多くの人は不快感を持っているようだ。日本政府は輸出優遇国グループAから韓国を除外し、韓国は猛反発したが、マスコミ各社の世論調査では日本政府の対応に対する支持が圧倒的に多い。

 こうした中、特集「厄介な隣人にサヨウナラ/韓国なんて要らない」を掲載した週刊誌が謝罪に追い込まれ、嫌韓の風潮を諌める論説を新聞が掲載した。そこでは「韓国への反感をあおるような一部メディアの風潮」「隣国を感情的に遠ざけるような言葉が多用」「韓国人という括りで『病理』を論じるのは民族差別」「韓国人全体への差別を助長し、憎しみを煽る」「韓国への憎悪や差別をあおる」などと厳しく批判している。

 なぜ韓国が嫌われるようになったのか、新聞など一部のマスコミは客観的な分析を避けている。「日韓間には感情的なあつれきを生みやすい歴史がある。だからこそ、双方の認識ギャップを埋める努力がいる」と説くが、認識ギャップを拡大させる韓国政府の言動の奇妙さの検証、批判には及び腰で、戦中戦後の歴史と絡めた「ご高説」で済ましてしまう。

 嫌韓の風潮の問題は、韓国政府に対する批判と韓国人に対する批判を峻別せず、混同していることだ。同時に、嫌韓の風潮を諌める新聞など一部マスコミの主張も、韓国政府の奇妙な言動に対する批判や反発から生じる嫌悪感を嫌韓と峻別せずに批判している。こうした一部マスコミの批判は、認識ギャップを拡大させることには役立っても、認識ギャップを埋めることには役立たないだろう。

 嫌韓の風潮を鎮めたいなら新聞など一部マスコミは、日韓間の認識ギャップを拡大させ、感情的なあつれきを政治的な大衆動員の道具として利用する韓国政府を厳しく批判し、それから日本の読者に向けて、韓国政府と韓国人を峻別し、韓国政府に対する反感を韓国人に向けないようにと説くべきだった。

 おそらく日韓間の感情的あつれきは今後も長く存在するだろうし、韓国政府は独自の歴史観を保持し続けるだろうから、いつまでも日韓間の認識ギャップは埋まらないだろう。双方に寛容の精神がなく、相手を尊重する精神もなく、互いに嫌い合うだけというのが日韓の未来かもしれない。その時にマスコミは、嫌韓を嘆いていた昔を懐かしみ、「あの頃ならまだ、関係改善の糸口はあった」とするのかな。

2019年9月25日水曜日

大規模な停電

 首都圏では台風15号の暴風により一時は93万戸以上が停電するなど広範囲で停電が発生した。特に被害が大きかったのが千葉県で、各地で電柱の倒壊や送電線の断絶などが発生、ピーク時には64万戸以上が停電し、停電解消まで2週間以上も要した。

 約2千本の電柱が倒壊したり損傷(経産省の推計)し、送電塔の鉄塔2基が倒れ、山間部などでは倒木による交通困難個所が多く作業車の通行が阻害されたりして復旧作業が遅れたという。被害状況の把握が遅れた東電は当初の被害想定が甘く、復旧見通しは修正に次ぐ修正を余儀なくされた。

 台風の暴風で多くの樹木がなぎ倒されたり枝が折れたりし、それらも電線や電柱を損傷させた。強い暴風が主原因だが、山林が手入れされずに放置されていたことも被害を拡大させたとの指摘がある。道路の周辺の樹木だけでも手入れし、倒木が通行を遮断しないように配慮しておけば復旧はもう少し早かったかもしれない。

 大規模な停電といえば、2018年9月の北海道胆振東部地震でのブラックアウト。一時は北海道全域のほぼ全世帯295万戸で停電した。苫東厚真火力発電所が道内需要のほぼ半分を発電していたが、その電力が被災で失われ、一気に発電量が減ったため周波数が低下(=停電)し、他の発電所も発電設備保護のために停止した。

 ブラックアウトで電気が来ない生活を人々は強いられた。電池式のラジオが主な情報源になり、スマホなどの充電場所を探した。車庫などの電動シャッターが動かず、ビルやマンションではエレベーターが動かず、汲み上げポンプが動かない家庭では水が出なかった。交差点では信号が消え、コンビニやスーパーに人々が殺到して食料品や飲料、乾電池、カセットボンベなどが売り切れ、ガソリンスタンドには長蛇の列ができた。

 同じことが千葉県でも起きた。千葉県の大規模停電は送電線網に多数の支障が生じたことで起き、北海道の大規模停電は主要な発電所が送電を突如停止したことで北海道全体での使用量と発電量のバランスが崩壊し、各地の発電所も送電系統から離れてブラックアウト(全系崩壊)に至った。

 ブラックアウトの教訓として、一か所の重要施設に頼ることの脆弱性が指摘された。発電所などは分散型の配置とし、自治体や企業は自家発電を含め非常用電源の整備などが対策として求められた。しかし、千葉県の停電では送電網の脆弱さが露呈した。多数の中規模の発電所を分散配置し、送電網を二重三重にすれば災害に強い系統になるだろうが、コストもかかる。電気に頼る現代生活は災害に脆弱であることだけはまた、明らかになった。

2019年9月21日土曜日

オピオイド中毒と経済活動

 米製薬大手パーデュー・ファーマが破産を申請した。同社の処方鎮痛剤「オキシコンチン」は麻薬性鎮痛薬オピオイドだ。同社は違法な方法で広く大量に「オキシコンチン」を販売、医師に処方させ、米国におけるオピオイド中毒を加速させた。同社は07年に罰金6億ドルの支払いに応じたが、さらに州レベルなどで数千件の訴訟が起こされている。

 訴訟の和解が裁判所に認められれば、同社の総資産を新たに設立する機関に移し、最大120億ドルを支払うという。だが創業一族の大富豪サックラー家が和解に向け支払う額は30億ドルとされ、一族の総資産130億ドルに比べ少なすぎるとの批判が出ている。同社のオピオイド系鎮痛剤の売り上げは累計で約350億ドルという。

 米国で蔓延したオピオイド中毒の責任をめぐってオクラホマ地裁は8月、ジョンソン・エンド・ジョンンソン(J&J)に5億7200万ドルの制裁金を命じた。J&Jが中毒性のある鎮痛剤のリスクを矮小化し、事実誤認につながる形で宣伝するマーケティングを展開し、自社利益を追求していたとの主張を裁判所が認めた。

 J&Jが「依存症リスクは低く、重度ではない慢性的な痛みにも有効だ」と宣伝していたことが審理で明らかになり、医師による鎮痛剤の過剰処方につながり、オクラホマ州での中毒死を急増させたと州側の弁護士は主張した。J&Jは原料成分の生成で全米6割のシェアを持ち、他メーカーにも供給していたという。

 米国では1999~2017年にオピオイドが関係する薬物の過剰摂取で約40万人が死亡し、2018年の死者は4万7000人(処方されたオピオイドや非合法のオピオイドによる死者)。オクラホマ州では2000年以降に約6000人がオピオイドの過剰摂取で死んだという。

 オピオイドを全米で大量に販売したことで製薬会社や流通業界は莫大な利益を得ていたとみられ、医師に処方されたオピオイド系鎮痛剤を入り口にヘロインなどの薬物の依存症になった人も多いとされる。オピオイドの乱用者は1200万人、オピオイドの蔓延による米国の経済損失は2015年で5040億ドルとの試算もある。

 また、合成オピオイドの「フェンタニル」はモルヒネの50~100倍強力で、主な供給源は中国とされ、偽装して郵便で米国に送り込まれているという。米国からの批判に対して中国の政府系メディアは「乱用の責任は使用者にある」と反論した。

 利益のためには手段を選ばないのが企業であり、オピオイドの流通に対する麻薬取締局の調査を制限する法律を連邦議会で成立させるほどの影響力を持っていた。人々を依存症にさせる商品を販売し、多数の中毒者と死者を出しながらマーケットを開拓し、大規模な産業に成長させた企業や業界や商売人。政治が資本に支配された結果でもある。

2019年9月18日水曜日

メスとオスの比率

 中国大陸の総人口は約14億人とされ、女性人口は約6.8億人で男性人口は約7.1億人なので、男性のほうが3千万人以上多い。男児重視の風習に加え一人っ子政策などの影響もあって男女バランスに偏りが生じた。単純に考えるなら、中国人の結婚相手を見つけることができず結婚できない中国人男性が3千万人となる。

 実際には、結婚相手の年齢・国籍などは幅広く、結婚離婚を複数回繰り返す人もいようから、「あぶれた」3千万人が結婚できないわけではないだろう。さらに、一夫一婦制による婚姻だけが男女関係の全てではないので、男女バランスの偏りは様々なひずみを生じつつも現実社会では潜在化されてしまうのかもしれない。

 世界の総人口は約76億人(2017年)で、女性人口は先進国では51%台、開発途上国では49%台という。生まれる子供は性別では男児のほうが少し多いというから、開発途上国の男女比が自然にも見えるが、いわゆる間引きなどが影響している可能性の指摘もある。先進国で女性人口が多いのは、医療体制の整備もあって女性の平均寿命が男性より長いからとされる。

 種の保存が生命の根本にある原則だとすれば、人為が加わらない自然な状態では、生まれる子供の男女比に極端な偏りは現れないだろう。男女数が同等であればペアの数が多くなり、繁殖に有利だ。男女のどちらか一方が増えすぎるとペアの数が減るから、適切な範囲内に男女比は維持されると考えられる。

 ただし、一夫一婦制などの社会制度を外して考えると違った構図も見えてくる。男女が同数であればペアの数は多くなるが、生殖数がペアの数に比例するとは限らない。例えば、自然界にはオットセイなどのように強い一匹のオスが複数のメスを独占するハーレムが存在する。人間界ではハーレムは不道徳とされたが、種の保存の観点でハーレムが不適当であるかどうかは明らかではない。

 おそらく妊娠や出産だけなら、男女比に偏りがあっても一定数以上の女性が存在するなら種の保存は可能だろう。だが、人間の子供が成長し、次世代を誕生させるまでには年月を要する。つまり人間では、生まれた子供を育てることが重要になる。そのため、過去には女系社会や強い男性に保護されることが有利になる時代もあったのだろうが、個人の権利意識が強固になった近代以降は一夫一婦制が子育てに最適だと認識されるようになった。

 男児の出生数が多いのは育てにくいからだとも言われ、過去には狩猟や近隣との闘争や戦争などで死傷することから社会的に男児が多いことが歓迎されたのかもしれない。中国では一人っ子政策が人口の男女比を歪めた。人類の男女比は自然状態では種の保存に最適になるようになるのだろうが、それはどういう状態か明らかにはなっていない。

2019年9月14日土曜日

環境保護というイデオロギー

 16歳の少女がヨットに乗って大西洋を横断して米ニューヨークに到着し、国連の気候サミットに出席するそうだ。この少女は気候変動への積極的な対策を求め、学校を休んでスウェーデン議会の前で座り込みを行って注目を集めた。欧州のリベラルなメディアは少女を環境保護活動家として大きく扱っている。

 ドイツでは環境政党である緑の党が、今年行われた欧州議会選挙や地方議会選挙で躍進している。緑の党はエコロジー運動や反原発(反核も)など環境保護をテーマに結集した運動体として始まり、平和や女性解放、差別撤廃、多文化主義、社会的な弱者の保護など広範な運動とも連携して活動するようになった。

 緑の党の支持者は若者や高学歴で裕福な人が多いとされ、長く政権を担ってきた2大政党から離れた支持者の受け皿にもなっているという。特に、既存の体制に取り込まれたとも見える既成の社会民主主義政党から離れたリベラルな人々の受け皿に緑の党がなったともいう。

 一般に、リベラルは既存の体制を大きく変えることに抵抗が薄く、保守は既存の体制を大きく変えることに抵抗が強いとされる。そこに経済的な利害やイデオロギーなどが絡むから、単純にリベラルと保守を決めつけることはできず、多くの人はリベラル的な面と保守的な面を持っているのだろうが、リベラル的な発想をする人と保守的な発想をする人に分かれるのは事実だろう。

 環境保護はリベラルだけの主張とは言い切れないだろうが、欧州を見ているとリベラルが環境保護運動の主体になっている。様々な環境保護運動に共通するのは、CO2排出増加による地球温暖化の抑制なのだろうが、既存の経済体制を大きく変えなければCO2排出の大幅削減は困難なので、この主張はリベラルと親和性が高い。

 一方で、自然保護という発想は保守にも抵抗がないはずだが、環境保護運動において保守の影は薄い。経済活動を優先して開発を積極的に進めてきたのは資本の側であり保守と重なる部分が大きいとみられることも、自然保護と保守の親和性を損ねている。

 環境保護の主張が政治的な主張に化した欧州。社会民主主義を支えていたイデオロギー部分が環境保護に変容したと考えるなら、リベラルが環境保護を掲げるのも理解しやすい。環境保護の主張に対する批判を許さず、感情的な激しい反発でリベラルが反応するのも、環境保護の主張がイデオロギーの代替物だと考えると理解できる。

2019年9月11日水曜日

注目されます

 最近のNHKラジオのニュースを聞いていると、外国の出来事を伝えたニュースなどの結びの言葉として「注目されます」が多用されている。注目される出来事だからニュースとしての価値を有する。「注目される」のは今後の動向のことだろうが、わざわざ加える必要はない言葉だ。

 この「注目されます」という結びの言葉は、注目されるニュースだと念押ししているようだが、実際は以前から使われてきた決まり文句だ。「注目されます」と述べたところで、そのニュースに対する大半の聴取者の関心が高まることはないだろうから、無意味な言葉(表現)だ。

 ニュースの送り手(NHK)は、注目せよと聞き手に注意を促しているわけではなく、無難な締め言葉として使っているのだろう。だが、国内のニュースを報じた最後に「注目されます」は使われないので、記者自身の取材が希薄なことをNHK内で識別するための記号として「注目されます」を加えているのではないかと勘ぐりたくなる。

 「注目されます」で締めるニュースは、取材した記者の言い訳なのかもしれない。外国でネタ元が現地メディア程度しかないという記者が、ニュースを送れという日本の本社からの要求に応えようと頑張って現地のテレビなどが報じることをまとめて記事に仕立てたが、独自の情報が希薄なので、つい「注目されます」と結んでしまう。

 全てのニュースは作られるものだ。どんな出来事でも、気づかれなかったり無視されたりして記者が報じず、メディア各社も記者に記事を要求しなければ、この世にニュースとして現れない。例えば、アフリカで数十人が死んでも日本人が含まれていなければ日本ではニュースにならず、紛争や自然災害などで外国で数十人規模の犠牲者が出ることは珍しくないが、日本が関係していなければニュースになることは少ない。

 記者が取材しない出来事はニュースにならないのは国内でも同じ。逆にいうと、ニュースに仕立てたい出来事を各社は記者に取材させる。最近の例では、あおり運転など路上のトラブルや高齢者が関わる交通事故などがある。記者に取材させ、発掘された様々な事例がニュースとして多く報じられると、問題が蔓延しているような雰囲気になったりする。

 事実だけを伝えるはずのニュースで、「注目されます」などとニュースの価値判断を急に聴取者など受け手に押し付けるのは、報道機関としての衰弱を示すものだ。NHKは災害報道などでは存在感を発揮するが、通常のニュースには妙な「印象操作」が紛れ込む。

2019年9月7日土曜日

制裁関税や報復関税

 米国は9月1日、1120億ドル分の中国製品を対象に15%の追加関税を課した。半導体メモリーのほかテレビなどの家電や衣料品、靴、時計、スポーツ用品、楽器など消費財を中心に3243品目が対象。これにより中国からの輸入額の約7割に制裁関税が課された。

 さらに米国はスマホやノートパソコン、玩具など550品目、計1600億ドル分に対して12月15日に15%を課す。年間で最も消費が盛り上がるクリスマス商戦に配慮して先送りしたものだが、これが実施されると、中国からの輸入品のほぼ全量に制裁関税が課される。また、すでに25%の関税を上乗せした2500億ドル分についても10月1日から関税上乗せを30%に引き上げるという。

 中国は一歩も引かず、計750億ドル分の米国製品に5~10%の報復関税を課すとし、まず9月1日に原油や大豆など1717品目に報復関税を課し、自動車など3361品目には12月15日に課す。すでに米国からの輸入額の7割には報復関税を課しており、新たな報復関税は上乗せになるものが多い。

 米国も中国も相手国からの輸入額の7割に関税を上乗せしたが、双方とも強気の対抗姿勢を崩していないので、関税を高め合う制裁合戦が収束する見通しは立っていない。両国では民衆レベルでも対立意識が高まっている気配で、国内政治的に両国とも先に譲歩する姿勢を見せることが難しくなったように見える。

 このまま両国が関税を互いに高め合って、ほぼ全ての輸入品に高い関税を課し合えば何が起きるか。他国からの代替輸入に切り替え可能なものは切り替えるだろうが、他国からの代替輸入が困難な品目は品薄になるとともに値上がりする。値上がりの度合いによってはインフレ懸念も出てこよう。

 「欲しがりません、(貿易戦争に)勝つまでは」と両国の消費者が、高い関税による輸入品の値上がりと品薄に「愛国的」な態度を示して消費を抑制するなら、制裁合戦が両国経済に与える影響は限定されるかもしれないが、両国ともに消費者の消費意欲は旺盛なので、輸入品の値上がりにどこまで耐えられるかがカギとなる。

 この制裁関税合戦は、米国と中国の覇権をめぐる争いだとの解釈は珍しくない。欧米日の大企業の低賃金生産地として経済成長を遂げた中国は、豊富な資金で独自の技術力を高め、分野によっては米国を凌駕するまでになった。世界への輸出基地として成長した中国が制裁関税合戦では劣勢だろうが、中国は国家が優先する資本主義だから劣勢だからといって譲歩する可能性は低い。この貿易紛争に中国が勝ったなら、それは国家資本主義の優位を示す。

2019年9月4日水曜日

民主主義を支えるもの

 制度としての民主主義(自由選挙)は世界各国で定着しているように見えるが、その結果として各国で民主主義の理念が実現しているとは限らない。強い指導力を誇示する強権的な人物に権力が与えられる国もあり、内政でも外交でも摩擦が起きていたりし、制度としての民主主義の機能不全が嘆かれたりする。

 もちろん全ての国で混乱が増えているわけではなく、制度としての民主主義により波紋が広がっても、政治も社会も基本的に安定している国は多い。一方で、潜在していた分裂が自由選挙によって表面化したり、対立が先鋭化する国も珍しくなくなった。

 制度としての民主主義は、どんな国でも導入可能だろうが、制度としての民主主義は理念としての民主主義の実現を保証するものではない。制度としての民主主義によって安定した社会を維持し、理念としての民主主義を実現するためには、おそらく社会に制度としての民主主義以外の何かの要素が備わっている必要がある。

 制度としての民主主義を定着させ、理念としての民主主義を支えるものは、はるか以前から社会に存在したものだろう。それは長い歴史の中で培われた、人々が共存する仕組み(他者の尊重や異論の尊重=異質なものを排除しない、自制心の奨励、互いの寛容、合意形成の重視など)が、制度としての民主主義を通して社会の安定につながっている。

 そうした歴史的な共同体を支えてきた共存する仕組みが、どの国にも存在するわけではない。例えば、植民地の境界を国境として独立した国では民族が混在していることが多く、形成された「国民」による共同体としての歴史に欠ける。他者や異論を尊重せず、互いに寛容にならず、合意形成より自己主張を重視する人々により形成された社会では、制度としての民主主義を通して分裂や対立が表面化する。

 また、移民や難民の流入によって歴史的な共同体が変質している国で、それぞれの自己主張が強くなると、共存する仕組みも変質せざるを得ないだろう。その変質が共存を強める方向に向かうものなら社会の安定は維持されようが、利害対立などに基づき個別集団の自己主張が活発化すると分裂や対立が先鋭化する方向に向かう。

 共存する仕組みが変質したり、崩壊し始めた社会では、制度としての民主主義が機能していないように見えたりする。人々が共存を重視しなくなった社会では、理念としての民主主義はぼやける。言い方を変えると、理念としての民主主義は分裂する集団の数だけ現れる。そうした細分化された民主主義は、共存する仕組みが崩壊した社会を立て直すためには無力だろう。