2017年2月25日土曜日

ナショナリズムと民主主義

 王制などに抵抗し、市民革命などを経て誕生した仏英などの近代国家ならば、人々の主権者意識と国家意識が結びつくのは自然だろう。主権者意識は民主主義を支えるものであり、自分たちが勝ち取った民主主義に基づく国家に対して、愛国心が生じるのも自然だろう。民主主義とナショナリズムが結びつくことも自然かもしれない。

 しかし、日本では、民主主義を強く唱える人達はナショナリズムにあまり親和的ではなく、むしろ国際主義(コスモポリタニズム)を指向したりする。一方で、ナショナリズムを重視する人達は民主主義を尊重せず、1945年の敗戦以前の国家体制を理想視したりする。

 日本は市民革命の歴史を持たず、国家=「お上」という意識が人々に強く残っているから、日本では民主主義とナショナリズムが結びつかないというのが、まず思いつく解釈だろう。さらには、自力で獲得したのではない“与えられた”民主主義であり、政府に対して、共感もなければ“思い入れ”もないから、民主主義もナショナリズムも弱いという見方もできる。

 ナショナリズムという言葉の意味するものは、日本では、「国体を死守せよ」てな国粋主義・国家主義から、政治色を削いだ愛郷心まで幅広い。国民主義・民族主義と解釈すれば、民主主義とでも反民主主義とでも結びつくことができるのだから、ナショナリズム自体は価値中立なのだろう。

 1945年の敗戦後の日本で、民主主義とナショナリズムが結びつかなかったのは、軍国日本で政府主導のナショナリズムがあまりに蔓延したことの反動で、軍国日本への反感がナショナリズム的なものにも向けられ、否定されたことが大きそうだ。軍国日本を批判する根拠となったのは民主主義であったから、民主主義とナショナリズムが結びつかなかった。

 否定されたとしてもナショナリズムは人々の自然な感情に支えられた部分があるので、消えることはなく、抑え込まれただけだ。敗戦後の“与えられた”民主主義と切り離されたナショナリズムは、敗戦以前の軍国日本を理想化する復古派の主張を正当化する道具になった。しかし、それが日本のナショナリズムの全てではあるまい。

 復古派に歪められたナショナリズムを、民主主義を重視する人々が取り戻すことができるなら、日本型の民主主義が成熟に向かい、イデオロギーの残滓や既成概念に縛られすぎない新しい展望が開けてくる可能性がある。ただし、“与えられた”民主主義がひ弱なものだったなら、ナショナリズムに引きずられることにもなりかねないが。

2017年2月22日水曜日

殺されたマサオ氏

 民主主義を制度として支えるのは、主権者である人々の意思が示される自由な選挙が行われることで、自由な選挙を経て形成された権力に対して正統性が与えられる。だが、独裁国家では権力の正統性に客観性が希薄なので、軍事力などを掌握した個人や一派が強権により異論を抑圧することで体制を維持する。

 強権支配する権力が正統性を装うために、民主的な憲法を飾り付け、選挙を行ってみせたりもするが、投票率や得票率が異常に高かったりして馬脚が現れる。だが、高い支持率は人々からの信頼の現れだなどと強弁して独裁者は居座る。

 独裁国家で権力者が正統性の根拠に血統を掲げるのが北朝鮮だ。日本敗戦後に、ソ連の支援を受けて指導者になった金日成主席を神格化する北朝鮮は、その金日成主席の血筋であることを後継の独裁者の条件とする。専門家によると、金日成主席の血統は「白頭の血統」と呼ばれるそうだ。

 金日成首席は目覚ましい抗日パルチザン活動を行ったとされるが、実はソ連領の沿海州に逃れていたともいわれ、「英雄」であったかどうかは定かではない。しかし、北朝鮮では建国の指導者として独裁体制を確立し、自身を絶対的な忠誠の対象とした。親子でも人格は別のはずだが、独裁者ともなると、親が偉ければ子も偉いとされるようだ。

 北朝鮮では粛清が繰り返し行われてきた。金日成首席は抗日パルチザン出身者や政敵を粛清して独裁体制を樹立し、その体制を維持するために粛清を続けたとされ、権力を世襲した息子も政敵を粛清し、さらに世襲した孫も政敵を粛清しているとされる。

 マレーシアのクアラルンプール国際空港で女性2人に毒殺されたという金マサオ氏も、粛清されたと報じられている。マサオ氏は北朝鮮国内では政治的に無力だったというが、国外にいる反体制の北朝鮮人から亡命政府のトップに誘われていたと伝えられ、「白頭の血統」の威力を独占しようとする側を刺激したのかもしれない。

 北朝鮮人の亡命政権を樹立する動きが本当なら興味深いが、亡命政府の正統性のために「白頭の血統」を持ち出すところに発想の限界があり、徹底していたであろう思想教育の怖さがうかがえる。「白頭の血統」を否定しなければ民主主義に基づく国家は成立しない。せっかくの北朝鮮人による亡命国家というアイデアが、これでは時代錯誤の物語にしかならない。

 血統が権力の正統性を主張するという独裁体制を崩壊させるのに最も有効な手段は、血統を絶やすことだ。血統「内」で仲間割れするなら終焉は近いかもしれないが、粛清で維持してきた独裁体制の結末は凄惨なものになる。マサオ氏の殺害は、血統による正統性の歪んだ側面を示している。

2017年2月18日土曜日

事実と代替的事実

 世界では、一緒に革命戦争を戦った同志であっても、共産党が政権を握ったあとに粛清された人は珍しくない。政権に参加していた人物でも、粛清されると政権首脳の集合写真から、その人物だけが消されたりする。現在なら写真の修整は簡単だが、当時はフィルムの時代。修正したこと自体が知られてはならないこととされ、見事に巧妙に写真は修正される。

 もちろん、写真だけではなく文書類からも記録が消され、粛正された人物が、そもそも存在していなかったことにされる。粛清された人物が存在したという事実は、存在していなかったという「新たな」事実に上書きされ、粛清や路線変更などのたびに、それ以前の過去の書き換えが行われ続ける。

 事実を権力に都合よく操作するという願望は共産党にだけあるのではない。写真や記録など過去の修正は行わないものの民主主義国の政治家、政党も、自分らに都合よく事実を解釈することはよくあることだろうし、自分らの主張に好都合な事実の1断面だけを強調したりもする。政治権力が絡むと、事実の認識そのものが政治性を帯びる。

 トランプ大統領の上級顧問が「代替的事実(alternative facts)」という表現を使って、就任式に集まった人数はマスコミ報道より多いと主張した。勘違いや思い込みによる事実誤認など、客観的な事実と主観的な認識が異なることは誰にもあることだが、権力サイドによる「代替的事実(alternative facts)」という主張は、正直ではあるが、珍しい。

 権力サイドが望むような現実が常に存在するわけではなく、むしろ権力サイドにとって不都合であったり、不利であったりするのが現実かもしれない。政治とは常に現実に働きかける活動であり、客観的な事実を軽視するならば、的確な政策を講じることに支障が生じるだろう。

 権力サイドが、見たいと望む現実しか見ず、事実よりも「代替的事実(alternative facts)」を主張するのは、現実認識が主観に偏りすぎていることに加え、自分らの主張に不都合な事実を無視する必要があるからか。つまり、「代替的事実(alternative facts)」という主張は現実逃避であるが、政府権力が逃避するなら人々は現実の中に置き去りにされる。

 過酷な権力闘争の歴史もあって極端な「代替的事実(alternative facts)」に基づく体制を中国はなお続けている。権力サイドに有利な現実が創造される体制では、例えば「歴史問題」などに見られるように「代替的事実(alternative facts)」の主張は国外に向けても発信され、事実認識の混乱を広げている。

2017年2月15日水曜日

米国のピックアップトラック

 2016年の米国の新車販売台数は1755万台で、15年の1747万台を上回って過去最高となった。乗用車は710万台で前年比8.1%の減少だが、小型トラックが同7.2%増の1044万台と好調で、全体の約6割を占めるまでに増えた。この小型トラックとはピックアップトラックやSUV、バンなど、乗用車と大型トラック以外の車種。SUVが伸びているが、ピックアップトラックの好調も続いている。

 2016年のメーカー別シェアは、1位がGMで17.3%(台数は304万台)、2位フォード14.8%(259万台)、3位トヨタ14.0%(244万台)、4位クライスラー12.8%(224万台)となる。米ビッグ3にテスラ(0.2%、4万台)を合わせた米国メーカーのシェアは45%ほどだ。ただし、現地生産が増えているので米国産車のシェアはもっと高い。

 メーカー別シェアを続けると、5位ホンダ9.3%(163万台)、6位ニッサン8.9%(156万台)、7位ヒュンダイ4.4%(77万台)、8位キア3.7%(64万台)、9位スバル3.5%(61万台)、10位メルセデス2.1%(37万台)の順。ちなみに11位がVWで1.8%(32万台)、12位BMW1.8%(31万台)と、日本では輸入車ベスト3に入る独2社が並ぶ。

 販売が増えている小型トラックだが、小型といっても、そこはアメリカ。5m超の車体に大排気量のものが主流で、燃費は良くなく、ガソリン価格が高くなると販売は陰り、安くなると好調になる。今やアメ車を代表する存在になった大型ピックアップトラックも、分類上は小型トラックになる。

 乗用車やSUVの後部を開放荷台にしたような形態のピックアップトラックは、税金や保険料が乗用車より安いこともあって、家庭で乗用車と同じように使われるようになって増えた。25%という商用車関税に保護され、利益率が高いので米メーカーは販売に力を入れている。トヨタなどは米国内に工場を新設してピックアップトラック市場に参入した。

 日本の2016年の新車販売台数は497万台、うち軽自動車が、不振が続くとはいえ172万台でほぼ3分の1強を占める。軽自動車という規格に対して米国や欧州などから批判があるが、米国メーカーも欧州メーカーも軽自動車市場に参入しない。市場があり、そこで売りたいと狙うなら、市場参入するしかない。

 なぜ、欧米のメーカーは、日本の軽自動車市場を批判はするが、参入しようとしないのか。安価でチープな小型車ならともかく、日本の軽自動車と競合できる品質と価格では欧米メーカーは製品化できず、「本気」で軽自動車市場を狙っていないからだろう。だから制度への批判にすり替えて対日圧力の材料とするしかない。

2017年2月11日土曜日

温暖化と保険

  例えば、1週間後に世界のどこかで大地震が起きるかもしれず、1カ月後に世界のどこかで火山の大噴火が起きるかもしれないが、それを前もって知ることはできない。自分のことでも、いつ事故に遭って大ケガをしたり大病を患うかもしれず、いつか寿命の終わりが来るだろうが、それを前もって知ることは不可能だ。

  将来、何が起きるのかは誰にも分からないから、成り行きまかせで生きるという人もあれば、不安だからとリスクに対する備えを予め確保しておく人もいる。そうした備えの代表が保険だ。とはいえ、この世はリスクに満ちているので、損害保険に限っても自動車事故などへの備えのほか火災、損害賠償、地震、盗難など保険の対象は数多い。

  個人だけではなく、企業も将来リスクに備えて保険を活用する。事業活動全体の包括保険のほか、休業損失や財物損害、工場や機械設備等の事故、労災事故、物流リスク、賠償リスク、PLリスク、個人情報漏洩などをカバーする保険のほか、利益の減少や営業継続費用といった間接損害を補償する保険もある。

   さらに、予測できない暖冬、冷夏、降水など天候の変動等に伴って生じる事業上の損失に備えるための天候デリバティブや、台風による事業上の損害に備える台風デリバティブもある。デリバティブは、実際の損害額ではなく、事前に約定した補償金が支払われ、保険会社による損害額の確認を必要としないと損保会社は説明する。将来のリスクは様々だから、対応策も様々になる。

  リスクといえば、世界的に懸念されているのが地球温暖化による環境の激変リスクだ。氷河が減少する、集中豪雨が増える、大型台風が増える、旱魃が増える、海面上昇で島嶼国家が浸水するなど様々な想定されうる危機が言い立てられている。それらが、本当に起きる可能性が高い危機ならば、リスクヘッジの大マーケットになるだろうから、多くの商品の販売合戦が始まっていてもよさそうだが、地球温暖化デリバティブなどはまだ見当たらない。

 世界のマスコミが不安をこぞって煽っているとも見えるので、世界の保険会社などには絶好のビジネスチャンスになりそうなものだ。地球温暖化を包括的にカバーする保険とか海面上昇デリバティブなどが発売されれば話題になるのは間違いないのに。地球温暖化を保険会社などは、現実的なリスクだとはまだ見なしていないのかな。

 そこには、1)集中豪雨や大型台風、旱魃などは珍しくはない気象現象だから、どこから地球温暖化に伴う気象現象による被害と定めるか、2)リスクヘッジ商品として成立する掛け金を具体的にどう設定するか、などの困難がある。地球温暖化による環境の激変リスクの実現可能性を判断するには、リスクヘッジ商品がいつ登場するのかも指標となりそうだ。

2017年2月8日水曜日

普遍性を捨てて個別利益を追う大国

 冷戦期の2大大国は米国とソ連だった。それぞれに自国の個別利益を追及しながら、同時に米国は自由主義、ソ連は社会主義という普遍的な理念のモデル国家でもあることを自認し、また、他国にも認めさせることで大きな影響力を持っていた。

 ソ連は崩壊してロシアになったが、ロシアには他国と共有できる普遍的な理念はないので、ただの地域大国となり、軍事力と豊富な資源で他国に影響力を及ぼすだけになった。冷戦後も米国は自由主義という普遍的な理念のモデル国家としての位置を保ち続けている。

 ソ連に代わって米国と張り合うようになったのが中国。外国からの資本・技術導入により成長した発展途上国の成功モデルであり、急速に世界第2の経済大国に上り詰めたが、中国は普遍的な理念のモデル国家になることはできなかった。中国の歴史に基づく普遍的な理念(「天下(中華)」概念)はあるのだが、それを共有するのは朝貢していた歴史を持つ国ぐらいだろう。

 中国が国際的な影響力を発揮するためには、世界各国で援助をばらまき、巨額の開発投資を行うなど資金を見せつけるか、最近の海洋進出に見られるように軍事力を見せるしかない。西欧主導の国際秩序に異を唱えることを中国は辞さなくなったが、それは中国が独自の普遍性を認めさせようとの試みでもあろう。

 国家ではないもののEUは巨大な経済圏を構築した。経済活動だけでなく人の移動も自由にし、各種の権利を重視するなどリベラルな理念による地域世界を構築、国家融合という普遍的な理念のモデルとなりそうだが、国家主権の委譲はハードルが高く、同様の経済体を構築しようとする国々は現れない。

 普遍的な理念のモデル国家ではないが地域大国であるロシアと中国に対し、自由主義のモデル国家として米国は世界に大きな影響力を有していたが、ここに来て自国の個別利益の重視に舵を切り、自由主義のモデル国家であることを放棄し始めるように見える。それは米国が、ただの地域大国に転じることを意味する。

 自国の個別利益を最優先することは国家として当然であるが、普遍性のモデル国家が存在しなくなる世界とは、むき出しの国家利益がぶつかりあう世界であり、おそらく弱肉強食と合従連衡に満ちた世界であろう。EUも解体に動くのなら、国家の復権は国家主義の復権にもつながる可能性が高い。

2017年2月4日土曜日

安保理決議の空振り

 米トランプ大統領の誕生をイスラエルがさっそく利用している。就任式の2日後にエルサレム市が東エルサレムでのユダヤ人住宅566戸の建設計画を承認し、さらに2日後にイスラエル政府は、ヨルダン川西岸の入植地に住宅2500戸を建設することを承認、1月末日にもヨルダン川西岸に3000戸を建設する計画を承認した。

 日本政府は外務報道官談話で強い遺憾の意を表明し、「入植活動は国際法違反であり」「二国家解決の実現を損なうような入植地建設計画を実施しないよう改めて強く」求めた。国連安保理は1967年に、第3次中東戦争でのイスラエルの占領を無効とする決議を米国を含む全会一致で採択していた(日本も賛成)。

 国連安保理は昨年12月に、イスラエルの入植地建設を違法だと非難し、建設停止を求める決議案を採択した。当時の米オバマ政権が拒否権を行使せず棄権したので採択されたのだが、イスラエル非難決議で米国が拒否権を行使しないのは異例。イスラエルの入植地の拡大が加速していることに、オバマ政権が任期最後になってから懸念を明らかにした格好だ。 

 採択されたことにイスラエルは猛反発、ネタニヤフ首相は「国連のこの恥ずべき反イスラエル決議を拒否する」とし、国連機関への資金拠出停止をちらつかせた。決議の採択前にネタニヤフ首相は、トランプ氏を動かして決議採択を阻止しようとしたが、失敗していた。

 非難決議の採択を許した米オバマ大統領をネタニヤフ首相は公然と批判し、次期のトランプ大統領への期待を表明してみせた。そしてトランプ氏が大統領に就任、すぐにイスラエルはヨルダン川西岸の入植地でのユダヤ人住宅の建設を拡大させた。

 トランプ大統領の大統領令とツイートに米国内も世界も振り回されているが、今のところイスラエルだけが、トランプ大統領の誕生を「チャンス」として活用できている光景だ。敵と味方をはっきり区別する自尊感情が強い権力者をうまく前面に立たせ、国連も世界も押し切る構えに見える。

 国連安保理決議に従わず入植地の建設を続けてきたイスラエルは、シリアは内戦、エジプトは「アラブの春」後の混乱で疲弊するなど、国境を接する周辺国に抜きん出た軍事力を有し、「原則」を固持して世界に対して非妥協を貫く姿勢は米トランプ大統領と共通する。心配は、イスラエルが非妥協を強めるほどに、対抗勢力も非妥協を強めるであろうことだ。

2017年2月1日水曜日

当事者でもあったという自覚

 福島第一原発で事故が起きてから原発批判を始めた人は多い。その大半は原発事故の影響の大きさに直面して驚き、危険性を現実のものとして認識するようになったと見える。想定されるリスクに万全の対策を講じているとされた原発で、電源喪失が現実に生じたのだから、原発に対する拒否感が広がるのは当然だろう。

 福島第一原発事故後に原発批判を始めた人の中には、原発の存在を完全否定する人も珍しくない。事故がまた起きたなら大変だと日常生活の中に存在していた原発に目を向けるようになり、新設はもとより再稼働も一切認めず、排除することを目指しているようだ。

 原発の危険性は以前から指摘されていて、反対運動があり、細かなトラブルが起きるたびに報じられたが、原発に対する批判は広がらず、日本各地で原発は建設され続けた。人々は原発により供給される電気を受け入れて生活し、福島第一原発の事故後に原発の批判を始めた人も、事故以前は原発の恩恵を享受していた。

 状況の変化に応じて見解が変わることは自然であり、福島第一原発の事故を見て容認から否定に変わるのも自然なことだろう。ただし、福島第一原発の建設に反対せず、存在を容認していた結果として2011年の事故があったと考えると、事故後に原発批判を始めた人にも責任がある。

 この責任とは、自分も当事者であったという自覚から生じる。巨大な原子力産業や行政などの責任に比べると個人の責任は無きに等しいが、福島第一原発の事故の以前は自分も原発の存在を容認していたとの自覚がなければ、原発否定は被害者意識に頼る批判でしかない。

 当事者でもあったことを自覚するのは簡単ではない。自分には何らの責任もないと、被害者として批判する側に身を置くほうが好まれようし、有利であろう。被害者はしばしば絶対的な批判者になることができる。原発事故という巨大災害に対して個人は無力であるから、個人が被害者であることは確かだが、原発を容認していた事実が消えるわけではない。

 当事者としての責任を自覚した上での批判と、被害者意識だけによる批判……批判する言葉だけでは同じに見えようが、後者の批判から被害者という「正当性」を消してみれば、薄っぺらな感情的批判に過ぎないことが浮かんできたりする。つまり、被害者というポジションに支えられているにすぎない。