2021年9月29日水曜日

非常事態

 国家における非常時の典型は戦時で、勝利を目指して国家権力が強権を発動し、総力戦体制を構築して生産力を統制したり人々を動員したりする。こうした非常時は国家権力への信任が問われる時でもあり、独裁的で民心から離反した国家権力が外敵に攻撃されていると人々がみなすと革命につながったりもする。

 大地震や巨大台風など大規模な災害に見舞われた時も国家的な非常時であるが、非常時そのものは時間的に限られる。短期間の非常時の後に長く続く救助活動や復旧・復興過程では国家権力が前面に出る。救助活動や復旧・復興過程は非常時が去った後なので、国家権力の強制力は日常における許容範囲に限られる。

 今回のパンデミックも非常時であり、終息の見通しがつかず長く続くかもしれない。日本以外の大半の国は非常時における国家の強制力を行使して都市を封鎖し、人々の外出や移動を制限し、商業活動を停止させたりした。だが、戦時が続くなら耐乏生活を人々に強制し続けることもできようが、感染症という目に見えない敵との戦いでは、そういつまでも非常時体制を続けることはできなかった。

 各国は徐々に人々の外出制限を緩和し、商業活動など経済活動を再開させた。だが、感染拡大の波が何度も繰り返す懸念があり、いつでも非常時の体制に戻すことができるように国家権力は備え、それを人々も想定しているようだ。

 日本政府が地域を限定したり全国に拡大したりして緊急事態宣言を行ったが、自粛の要請が主で強制ではなかったことに、非常時における国家の強制を認める諸外国から驚きの声が伝えられた。初期の緊急事態宣言では要請に応えて人々が外出を自粛し、商業活動が停止し、感染拡大の勢いは低下した。強制力の行使がなくても日本では人々の協力で諸外国と同等の効果をもたらしたように見える。

 非常時において日本政府が強権を発動できなかったのは、法体系が非常時を想定していなかったからだ。基本法である憲法が戦争放棄を宣言しているのだから、戦時を想定した非常時を法で正当化できない。パンデミックを想定した法整備もなされていなかった。持続する非常時に対応する法整備がなされていないのは、日本で国家権力が暴走した過去の歴史の反省ともいえるが、都合が悪いことは起きないとする思考停止でもある。

 非常時における国家権力の強制力行使の目的は、国家を守ることだ。国家を守る=社会を守る=人々を守るという図式で強制力行使は法で正当化されるが、おとなしく従う人ばかりではない。外出禁止解除や経済活動再開を集会などで要求したり、公園や海岸などに出かけたり、パーティーに集まって飲んで騒いだりと様々な人々の様子が各国から伝えられる。国家権力の強権は非常時であっても、自由を求める人々に常に試される。

2021年9月25日土曜日

新型から季節性へ

 インフルエンザとは「インフルエンザウイルスを病原とする気道感染症で、一般のかぜ症候群とは分けて考えるべき重くなりやすい疾患」で「人類に残されている最大級の疫病」である(国立感染症研究所。以下同)。

 インフルエンザウイルスは「A、B、Cの3型があり、流行的な広がりを見せるのはA型とB型」で、「A型では、HAには15種類、NAには9種類の抗原性の異なる亜型が存在し、これらの様々な組み合わせを持つウイルスが、ヒト以外にもブタやトリなどその他の宿主に広く分布」し、A型インフルエンザは「数年から数十年ごとに世界的な大流行が見られるが、これは突然別の亜型のウイルスが出現して、従来の亜型ウイルスにとって代わることによって起こる」。

 感染して「1~3日間ほどの潜伏期間の後に、発熱(38℃以上の高熱)、頭痛、全身倦怠感、筋肉痛・関節痛などが突然現われ、咳、鼻汁などの上気道炎症状が続き、約1週間の経過で軽快するのが典型的」な症状で、「呼吸器、循環器、腎臓に慢性疾患を持つ患者、糖尿病などの代謝疾患、免疫機能が低下している患者では、原疾患の増悪とともに、呼吸器に二次的な細菌感染症を起こし」やすくなり、「入院や死亡の危険が増加」する。

 インフルエンザの発生状況(2018/2019 シーズン)は、全国で医療機関を受診したインフルエンザの累計患者数は約1200万人で入院患者数は2万人強、死者(超過死亡)は約3400人で例年と同程度とされる。超過死亡とは「直接的、間接的を問わず、インフルエンザ流行がなければ回避できたであろう死亡者数」。

 新型インフルエンザが現れると世界的に流行することがある。過去には1918〜1919年のスペインインフルエンザ、1957〜1958年のアジアインフルエンザ、1968〜1969年の香港インフルエンザ、2009〜2010年の新型インフルエンザA(H1N1)などがある(厚労省サイトから)。

 スペインインフルエンザでは死亡者が日本で約40万人と推定されている(全世界で2千万人とも4千万人ともいわれる)。2009年に新型インフルエンザAが世界的に大流行し、日本では約2千万人が罹患したと推計され、入院患者数は約1.8万人、死亡者は203人だった(翌年以降も流行を繰り返し、季節性インフルエンザとして扱われるようになった)。

 新型コロナウイルスの感染がピークを過ぎたとは新規の感染者数の減少が続くことで判断できるだろうが、感染が終息したと判断するのは簡単ではない。感染者の発生がセロとなる状態が続いても、ウイルスが世界から完全に除去されることはあり得ないだろうから、感染の再発は想定される。

 新型コロナウイルスが消滅することはなく、今後、季節的な流行を繰り返すようになれば、人類は新型コロナウイルスと共存して行かざるを得なくなる。免疫を獲得する人々も増えるだろうから、いずれ新型コロナウイルスも季節性インフルエンザとして扱われるようになるかもしれない。

2021年9月22日水曜日

20年と15年

 米国は2001年10月にアフガニスタンに派兵し、タリバン政権を倒して民政政府を構築させたものの、タリバンを壊滅させることができず、勢力を盛り返したタリバンに追われる形で2021年8月末に駐留米軍はアフガニスタンを去り、20年に及ぶ「米国史上最長の戦争」は終わった。勝利したとの感覚はおそらく米国人にはないだろう。

 米国はアルカイダを駆逐し、オサマ・ビン・ラーディンを殺すことで同時多発テロに対する報復を成し遂げた。だが、弱体の民政政府を支えるために米国は駐留を続けたものの、タリバンはアフガニスタン支配を復活させ、米国流の民主主義の残滓を一掃するだろう。この20年間で米国は2461人の米兵や民間人が死亡し、2万人が負傷したという。それより遥かに多数のアフガニスタン人が死傷しただろうが、実数は不明だ。

 この20年間に米国は2003年にイラク戦争を始め(2011年に米軍はイラクから撤退したが2014年に再駐留)、2007年にソマリア内戦に介入、2011年にリビアに介入した連合軍に参加、2014年にシリアに介入するなど中東やアフリカで戦線を拡大した。だが、それらの戦争で米軍の勝利といえるのはイラク戦争だけだろう。

 20年間の戦争は長いが、15年間の戦争を続けたのが日本だ。1931年に柳条湖事件から満州事変を始め、1937年には盧溝橋事件を引き金に日本と中国との全面戦争である日中戦争に拡大、さらに1941年に真珠湾攻撃から太平洋戦争を始め、1945年に日本は無条件降伏した。中国大陸に侵攻して戦争を続けながら日本は米国などとの戦線を太平洋や東南アジアで拡大、大量の戦死者や餓死者を出して日本はボロ負けした。

 20年間の戦争と15年間の戦争の類似点は、第一に複数の戦争が組み合わせて行われた(20年戦争では個別の戦争が続いたが、15年戦争では最初の戦争が拡大した)。第二に戦争の達成目的が明確でなく撤退の判断が困難だった(達成目的が明確でないから、失敗と判断することに躊躇し、撤収する機会を逃す。国家の決定が失敗だったと認めることが難しい体制であるから、勝てない戦争が長引く)。

 相違点は①戦場(日本は戦場になったが米国は戦場にならなかった)、②兵站(戦線が拡大して日本は補給に支障をきたしたが、米国は補給を行い続けた)、③敵(15年戦争は国家間の戦いだったが、20年戦争は武装組織と国家の戦いが主)、④死者数、⑤核兵器の使用、⑥戦闘の規模(15年戦争では各地で戦闘が続いたが、20年戦争のほとんどで駐留米軍の任務は治安維持)。

 米国に軍事的・経済的に戦争を継続できる余力があり、米軍に比べて弱体な相手に対する戦闘だから20年も続けることができたが、最後には追い出される形でアフガニスタンを去らねばならなかった。15年戦争では米国は日本と4年間戦い、最後には核兵器を使って日本を降伏させた。米国は15年戦争では圧倒的な勝利者を演じ、20年戦争では武力だけでは民心を得ることができないと証明した。さらに土地によっては、核兵器を含む正規軍の武力より多数のゲリラが持つ銃のほうが優勢であることも証明した。

2021年9月18日土曜日

倫理観を先に立てる

  気候変動の危機なるものが共通認識とされる昨今、エコロジーに基づくとする人々の主張が、妙に倫理観を漂わせるのが気になっていた。未来予測は科学において確率で論じるべきものだが、決定したものとして未来を論じる人々が多すぎる。科学は全て真理で成り立っているとの誤解が未来予測を素直に信じることにつながっていると見える。

 エコロジーが倫理観と結びつくのは昔から珍しくなかったようだ。梅棹忠夫さんと鶴見俊輔さんの対談(「50年の幅で」1991年=晶文社刊『鶴見俊輔座談 民主主義とはなんだろうか』所収)で梅棹さんが指摘している。戦後を回想した対談の一部を紹介する(中略した箇所あり)。

鶴見 当時の京大マルクス主義系とは違う空気のなかで話のできる人だったな、あなたは。

梅棹 まったく違っていましたね。みなさん、どうしてあんなことになったのかなあ。50年代、60年代、マルキシズムを奉じる人がたくさんいた。どうしてそういうことが起こるのか理解できなかったし、どうしてそういう人たちが転んでゆくのかもわからない。マルキシズムは一種の新興宗教でしょう。そう思ったらわかるわけだ。ああ、これはやっぱり新興宗教の信者だなあと(笑)。近ごろのエコロジーがそれに近い。

鶴見 梅棹さんの陣営のほうに新興宗教的なものが入り込んできてしまった。

梅棹 そのときこちらはもうエコロジーをやめている(笑)。あれもマルキシズム、社会主義の代替物ですね。社会主義もエコロジーもひじょうに俗耳に入りやすい。だれにもよくわかるんです。いかにもほんとうみたいに聞こえる。だからみな、コロコロといかれてしまう、そういう現象だと思うんです。世界的にそうだと思います。

鶴見 まず倫理的なものを先に出しちゃうんじゃないかな。

梅棹 そうでしょう。倫理が先にあって、それがゆるぎのないものになって、それに全部あてはめてゆく。みんな道徳主義でゾルレン(当為=ねばならない)からはじまっている。

鶴見 客観的必然という考えをまずもとうとして、その必然とゾルレンがごっちゃになってしまう。科学的必然であり倫理的当為でもあるというかたち。「なすべきだ故になしあたう」という考え方。

梅棹 その科学的必然というのは、むしろあとからくっつけた理屈なんです。マルキシズムが日本知識人のなかで主流になったのは、まず道徳的な感覚があって、それを科学的に裏づけているらしく見えるので受容されたんだろうと思う。その道徳的なものも、日本に入ってくるのは江戸時代でしょう。江戸時代の侍の倫理観。

鶴見 侍の儒学。

梅棹 日本に宗教としての儒教が入ってきたとは思わないけれど、理論としての儒学がかなりの影響をおよぼしたのは事実です。とくに行動における倫理規範としての陽明学の影響が大きい。これは明治以後もつづいています。そうした倫理主義の流れがあって、それがマルキシズムにつながるのではないですか。客観的認識が先にあるのとは違います。

2021年9月15日水曜日

共同富裕

 中国共産党が以前から掲げる共同富裕という理念が、貧富などの格差をなくし、社会を構成する皆が等しく豊かになるという共産主義の理想を実現するものであれば中国にふさわしい。問題は、現在の中国は資本主義的な搾取が定着して貧富の格差が甚だしくなり、共産党の幹部が特権階級化していて、現代の中国で共同富裕を本当に実現するなら革命的な強権発動が必要だが、それは共産党の独裁支配を揺るがす。

 経済成長を続ける中国では富裕層が肥大した。富裕層のトップ1%が富の30%以上を得ているという。富裕層の誕生は先富論の実現として容認されたが、巨大化する民間企業が増え、億万長者が並ぶ資本家階級が形成されたとあっては中国共産党は坐視できなかったとも見える。

 「社会主義の本質的な要求だ」と習近平氏が持ち出した共同富裕だが、共産党の幹部や国有企業も対象になる増税による再配分は難しいので、民間企業や富裕層に寄付を求めることを打ち出した。共産党には逆らえないと、アリババは共同富裕の実現に向け2025年までに1000億人民元(約1兆7000億円)を拠出するとし、テンセントは500億元(約8500億円)を貧困層支援などに充てる計画を公表するなど民間企業は次々に政府の方針に従う姿勢を示している。

 富裕層に警戒感が出ているので共産党幹部は会見で共同富裕は「富裕層を犠牲にして貧困層を救うことではない」と説明したそうだが、富裕層の不安を解消できるか定かではない。中国共産党は中国国内では何でも実行できるのだから、必要となれば富裕層の富を国庫に吸収することもいとわないだろう。格差に対する人々の不満が高まれば(=不満を抑え込むことができなくなれば)共産党は豹変する。

 富裕層に富が偏り民間企業が巨額の内部留保を溜め込むという社会は中国だけではない。欧米や日本なども同様の傾向にあるといわれ、共同富裕の理想は各国にも当てはまりそうだ。中国は膨大な貧困層を抱える一方で億万長者など富裕層を肥大させたが、日本など各国は以前、中産階級を厚くすることで擬似的な共同富裕に近づけた。

 だが、その中産階級は非正規雇用の増加などの施策で解体に追い込まれている国が多いようだ。厚い中産階級は消費需要を活発化させるが、中産階級が解体されると可処分所得の総量も減るだろうから総需要は減少する。パンデミック前から日本はデフレが続くにも関わらず総需要が抑制気味なのは、中産階級の解体と下層移行の影響だろう。

 ごく少数の富裕層と大多数の下層で暮らす人々がいる社会が世界で増えると、共同富裕は各国の人々の理想ともなろう。だが理想は実現しないものだ。中産階級を厚くすることは国内の需要を厚くすることであり、社会の安定感をも高めることを各国政府は承知しているだろう。だが、強欲な富裕層の政治的な影響力に各国政府は抵抗できない気配だ。中国も同じに見える。

2021年9月11日土曜日

変化と破壊

  「生態系の変化」と「生態系の破壊」を人類は見分けて区別することができるのだろうか。例えば、ある地域で固有の生物が絶滅した場合、それは生態系の変化か破壊か。絶滅の要因が明確であるなら、変化か破壊かを判断はできようが、複数の要因による複合結果であるなら、どの要因を重視するかで判断は分かれよう。

 人為的に廃棄された有害物や乱獲などによって絶滅したのなら「生態系の破壊」と見なすことは容易だろうが、様々な要因が蓄積して数十年かかって絶滅した場合など、破壊か変化か簡単には判別できまい。客観的な判断が難しい状況では主観的な判断が勢いを得たりすることもある。

 さらに生態系の破壊だったとしても、それは長い時間軸で見ると生態系の変化に含まれる。恐竜の絶滅は小惑星がユカタン半島付近に激突し、その衝撃で広い地表に急激な環境変化がもたらされ、さらに舞い上がった粉塵により気温低下が長く続いたためとされる。これは生態系の破壊であり、環境の破壊でもあるが、新しい生態系や環境に移行したため、地球史からすれば生態系の変化であり環境の変化であろう。

 同じように「環境の変化」と「環境の破壊」の見極めも人類には簡単ではない。環境の破壊は許されないとの認識が広がっているが、環境の変化は人間が許そうと許さまいと人間の都合には関係なく進む。人間の時間軸で認識される変化を人間は環境の破壊と認識しがちだが、人間が環境の破壊と認識するものも地球史で見るならば環境の変化に過ぎない。

 地表の環境は激変を繰り返してきた。人類の歴史は猿人などを含めても1千万年ほどだが、数十億年にわたって超大陸が形成されたり分裂したりと地表の環境は変動し、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返す。人類が繁栄する現在の地表の環境を固定されたものとして基準にすると、環境の変化を破壊だとして危機意識を持つ。だが、人類の都合に関係なく地表環境は変化するので、「環境の変化」と「環境の破壊」の見極めは簡単ではない。

 地球史からすると、生態系や環境の破壊とされるものは生態系や環境の変化に含まれる。人為的な破壊だとしても百年、千年の時間で見ると変化の一つに過ぎない。だが、百年に満たない時間を生きる大半の人間にとって、人為的な要因による変化を破壊と見て、環境や生態圏を保護しなければならないとする。

 環境や生態系は固定されて変化しないものとするから、あってはならないものと破壊を解釈できる。自然を人間の力で制御できるとの思考が根底にある人々だから、破壊を人間の力で止めることができると発想する。だが、環境や生態系の変化ならば、対応することしか人類にはできまい。CO2排出削減で地球環境を変えることができるとの欧米主導による壮大な実験はおそらく失敗するだろうが、失敗だと判明するのは来世紀か(温暖化の危機を強硬に主張した人々の大半は亡くなっているだろう)。

2021年9月8日水曜日

言い返す

 日本は世界に向けての情報発信が下手だとの指摘がある。外国メディアの日本関連ニュースが正確でないと見えたり、日本批判の論評を偏った見方だと受け止めたりすると、誤解や曲解が広まっていて日本が「正しく」理解されていないと悔しがる。そして、情報発信を強化しろとの声が上がる。

 情報発信が下手とは、外国のメディアなどに理解不足や誤解があり、その主因は日本側にあるとの認識だ。だから日本からの情報発信を増やせば、「相手は正しく理解してくれる」に違いないと期待して、日本側の情報発信を改善しようと考える。一方で、外国メディアなどの日本礼讃は、理解不足や誤解があっても無邪気に嬉しがる。

 一般に理解不足や誤解がある場合、①情報の発信側に問題がある、②情報の受信側に問題がある、③双方に問題がある、に分かれる。外国メディアに問題があって理解不足や誤解になっているなら、日本側の情報発信を増やしても効果は限られようし、外国メディアに日本に対するバイアスや偏見があるなら、日本が発信をいくら増やしても期待する効果は得られないだろう。

 「話せば相手は理解してくれる」との期待は、相手が「聞く耳を持たない」なら空回りする。日本の情報発信が下手だから外国メディアに理解不足や誤解があると反省して、日本からの情報発信を増やしてもスルーされるだけだ。どこの国でもメディアが、特定の価値観に基づいてニュースや論を仕立てることは珍しくない。

 下手なのは、情報発信ではなくて日本のリアクション(反論)だとすると、必要なのは、情報発信量を増やすことではなく、言い返すことだと見えてくる。もちろん、情緒的な言葉や罵倒、中傷で言い返すのは禁物で、根拠が乏しい主張も逆効果だ。言い返すとは、相手を説得するための行為であると認識し、相手の理性と知性と理解力に働きかけること。

 理解不足や誤解が生じるのは、①情報の不足、②情報収集の偏り、③情報の解釈の偏りーが原因だが、④意図的な誤解(批判することが目的)の場合もある。言い返す(説得する)場合には、相手の理解不足や誤解の原因を見極めて言い返し、理解不足や誤解があると相手に認識させなければ、相手は認識を変えないだろう。

 何を言われても、言い返さなかったり、おずおずと小声で反論するような人は、何を言ってもいい対象だと甘く見られたりする。言い返すことは相手に理解不足や誤解を気づかせてあげることであり、言い返しの応酬が続くだろうが、そうした積み重ねでコミュニケーションは深まろう。

2021年9月4日土曜日

民主主義の限界

  アフガニスタンからまず大統領が国外に逃れ、米軍が撤収し、タリバンによる支配が20年ぶりに復活した。米国の後押しで誕生した民政政府と国軍が少しはタリバンの攻勢に抵抗するだろうとの米国の目論みはあっけなく瓦解、米軍の撤収はタリバンに追い出される格好となった。

 アフガニスタンに民主主義をもたらすことを米国が掲げたのは、アフガニスタンに侵攻したことを正当化するためだった。だが、「与えられた」民主主義はフガニスタンに根付かず、民生政府は腐敗にまみれていたと批判されるなど実態は「頭から」腐っていたとあっては、民主主義の良さを実感するアフガニスタンの人々は多くはなかっただろう。

 アフガニスタンの人々の多くは旧来の価値観に基づく社会で生きており、西欧起源の民主主義の必要性や価値などを理解できなかったのかもしれない。人権や自由など個人の権利を尊重する考え方も西欧起源だが、例えば、イスラム法などを西欧起源の価値観の上位に位置する社会において、民主主義など西欧起源の価値観が根付きにくいのは当然か。

 日本など西欧起源の民主主義が定着した社会は、統一国家が誕生した後に中央政府に対する人々の批判が活発に行われていたという歴史がある(そうした批判を封じ込めるために中央政府は従わない人々を弾圧した歴史もある)。自由を求める人々が存在したから、強権支配する中央政府が倒れた後に、民主主義が機能する社会に移行することができた。

 西欧起源の民主主義の必要性を理解しない人々が多数を占めている社会では、政治体制としての民主主義が導入されたとしても脆く、定着しても西欧における民主主義とは様相を異にする民主主義になったりもする。民主主義の精神を持たない人々にとって、民主主義の必要性は実感できないだろう。

 世界には自由選挙などを導入して民主主義の体裁を整えた国は多いが、ロシアなど強権支配が実態である国も珍しくない。制度としての民主主義は社会によって変形するものであり、西欧だけが民主主義の解釈権を独占しているわけではない。国情に合わせて様々な民主主義が存在するのであれば、民主主義という言葉の定義は複雑になる。

 タリバンは西欧起源の民主主義とは別種の国家を形成するだろう。サウジアラビアなど西欧起源の民主主義を拒否している国は珍しくなく、ロシアなど独自の民主主義体制の国もあり、中国など1党独裁を続ける国もある。西欧起源の民主主義の広がりには限界があり、多様な統治・支配形態があるのが現在の世界だ。

2021年9月1日水曜日

政権交代のチャンス

 感染爆発という状況に現在の政府が無力とも見えるのは、最優先の課題が何かをはっきりさせることができず、状況の後追いで手一杯だからだろう。新規感染者が大幅に増え、医療体制は逼迫し、経済活動の浮上のメドは立たず、生活に困窮する人々が増え、一方で外出自粛を呼びかけても人々はあまり真剣には受け取らなくなった。

 現在の政府は、人々に向けてポジティブなメッセージを発することもできていない。長引くパンデミックに人々は自分や家族らの感染の不安のほか、収入減や失職などによる生活不安などに直面し続けている。政府や政治家が人々に「よりそって」いるのなら、人々の不安を鎮め、少しでも前向きの気持ちを持ってもらうためのメッセージを発するだろう。

 政府が無力で人々の政府に対する信頼も低下していると見える今、野党は総選挙を待たずに政権交代を要求するチャンスだ。状況の後追いだけの現在の政府と与党にすぐ下野することを要求し、感染爆発の状況にも「我々なら、もっと適切な対応ができる」と具体的な政策を掲げ、人々の支持を得て新しい政府を形成するチャンスだ。

 だが、野党は政府を批判するだけで、現在の政府や与党に代わって政権を担おうとする姿勢を見せない。それは、第一に野党に政権をいつでも担うという意思がないからだ。第二に政権を担う準備がなく、独自の具体的な政策がない。第三に政府を批判するだけの存在である野党という立場に満足しているからだ。

 政権を担う意思がなく、政権を担う準備がなくても、野党が人々に「よりそって」いるのなら、人々の不安を鎮め、励ますメッセージを独自に発することはできる。だが、それも野党は行わない。政府を批判することだけが自分たちの責務だと思い込んでいる気配で、野党の議員は国会議員として相応の収入と地位を維持できることで満足し過ぎているのではないかと疑いたくなる。

 野党に独自の政策があったなら、長引くパンデミックに無力と見える政府が下野しない場合、緊急時における総力戦体制として閣外協力する方法もある。だが、野党は政府批判だけで、事態の打開に向けて具体策を示して協力する姿勢を示さない。政権の支持率が低下傾向だから野党は総選挙で有利かというと、野党に対する支持率は低迷する政府に対する支持率よりはるかに少ないのが現実だ。

 政府も与党も野党も、つまり政治家も政党も人々に「よりそって」いない日本の現在。人々の不安や痛みや嘆きなどを掬い上げて国政に反映させるのが民主主義における政治家や政党の責務だろうが、政治家が「上級国民」に化しているのなら、人々は統治や支配の対象でしかない。これは、主権者である人々が権力に従順であり続けたことが招いた状況でもある。