2024年2月28日水曜日

成長しすぎた自動車

 新型のクラウンのセダンは全長5030mmで全幅1890mm、車重2000kgと巨体になったが、1955年に発売された初代のクラウンは全長4285mm、全幅1680mm、車重1210kgだった。現行のカローラ・セダンは全長4495mm、全幅1745mm、車重1230〜1430kgなので初代クラウンはかなり小型だった。

 モデルチェンジが行われるたびに少しずつ「成長」するのは日本車だけではない。例えば、ベンツが小型車に参入したと騒がれたCクラスの現行型は全長4751mm、全幅1820mmだが、初代(190。1985年)は全長4420mm、全幅1680mmだった。BMWの各車種もモデルチェンジのたびに巨体化し、中型の5シリーズは初代(1972年)は全長4620mm、全幅1690mmだったが、現行5は全長5060mm、全幅1900mmと巨体化した。

 各国で自動車の保有台数が増え続け、各国メーカーの各車種はモデルチェンジのたびに車体が大きくなっているので、車道における自動車の密度は高くなる。各国で、絶え間なく車道を拡幅するとともに新しい車道を建設し続けているなら、巨体化して増殖する自動車に対応した道路環境となるだろう。だが、既存の住宅が密な都市における道路の拡幅や新設は簡単ではない。

 自動車は、安全基準に対応して車体は堅固になるとともに重くなり、装備を充実させると重くなり、車体が大きくなると重くなり、EVやPHV、HVなど積む電池が多くなると重くなる。自動車の重量を受け止めるのは道路だが、重量級の車両が増えると痛みつけられる度合いも増える。

 仏パリ市の住民投票で、重量の重いクルマに対して市内の駐車料金を3倍にすることが承認された。対象になるのは、重量が1600kgを超えるガソリン車、ディーゼル車、ハイブリッド車と、2000kgを超えるEVだ。居住者やタクシーなど業務目的の場合は適用されない。市長は「健康にも地球にも良い措置を支持する市民の明確な選択」だと歓迎したという。

 これはSUVを標的にした動きだと報じられた。販売台数が増えて路上に多くなったSUVは、大きく車重が重く、「公害や安全性などの面で多くの問題を引き起こしている」とパリ市。住民投票による賛同を得て駐車料金を大幅に引き上げることで、市内に入るSUVの台数を減らすことが狙いだという。

 大きく重量の重いクルマに対する規制は英ロンドン市も検討していると伝えられ、大型のSUVは各国でも増えているので、「成長」して大きく重くなる自動車に対する規制は今後増えるかもしれない。一方で小型でエコな2人乗り程度の自動車の普及は進まない。大きく重いSUVが売れるのは、人々が環境意識よりも別の何かを重視していることを示している。

2024年2月24日土曜日

科学的な思考

 科学者は、あらゆる事柄に対して常に科学的な思考を行っているわけではないということを加藤周一氏は分かりやすく説明している。加藤氏の発言を収録した『居酒屋の加藤周一』から引用する。

「『科学者はだまされない』というのは一種の迷信です。ある意味では、科学者の方が騙しやすいのです。何しろ、少ない情報から本質を推定したり、事実の断片を繋ぎ合わせて全時系列を頭に描いたりするのが得意ですから、逆に言うと思い込みに陥りやすいのです」

 思い込みに陥りやすい科学者が自尊心の高い人だったなら、科学者ではない人々の言うことを軽んじたり、無視したりするだろう。そこに、社会に対して説明責任を果たさない科学者が、一方的な発言に終始したりする遠因がありそうだ。

「科学技術が発達すればするほど専門化が徹底します。専門領域については科学的思考をするわけですが、極度に専門化した自分の領域を外れたら、自分の専門領域での、ものの考え方を他の領域に及ぼさないんです。

 専門化ということは、隣の領域は隣の領域で複雑で、それをやっている人以外にはなかなか分からないということを意味しますから、分かるのが容易でないということも絡んできて、自分の専門領域での思考の形式が、他のことを考えるときに作動しないんです。

 その意味では、科学技術者もそんなに摩訶不思議なものではなくて、自分の専門領域以外では全然、科学者でない人と同じ、ほとんど大抵の場合がそうです。

 つまり科学者であって自分の科学的な考えをいろんな面で応用するという人が少なくなってきている。科学技術が発達すればするほど、むしろ非科学的なものが栄える一つの理由です」

「人間は思ったより騙されやすいのです。ほどほどに理性的な心の働きが備わってくると、対象物の属性のごく一部の情報から勝手にその物の本性を推定するとか、目の前で時系列的に起こった一連の事実の断片を自分が理解しやすいように勝手に繋ぎあわせて解釈するといった『思い込み』が出てくるために、手品師の付け入る余地が出てきます。

 人間にほどほど理性的な心の働きがあるゆえに実は騙されるというと、やや逆説的に聞こえるかもしれません。理性は騙されないための心の砦だと思っていたら、どうも逆の面もある」

 科学者も自分の専門領域のほかの事柄に対しては、様々な思い込みを持ち、そうした思い込みに思考は影響されているだろう。問題は、科学者が専門外の領域について発言するときに、それは科学的に正確なのか、1人の人間の感想なのかが曖昧になることだろう。その曖昧さは科学者の発言を聞く側に、科学者の言うことは全て客観的で理性的だとの誤解をもたらす。

2024年2月21日水曜日

戦争と映画

  複雑な民族構成だったユーゴスラビアで、連邦を構成する共和国などが独立する過程で複数の戦争が行われた。独立を正当化するために持ち出されたのが民族自決だが、ある民族の自決の主張は他の民族の反発と民族意識の覚醒を生じさせ、妥協の余地を狭める。民族意識が権力闘争を正当化するために持ち出されるのは世界でよくあることだ。

 仲良く共に暮らしていた人々の中に、民族意識を刺激されて民族意識を強めた人々が現れ、やがて「彼らと我々」を峻別するようになり、摩擦や対立が広がるにつれ、「敵と味方」との意識に発展し、多くの民族が共生していた社会が分裂に向かう。分裂の過程で武力衝突を繰り返し、殺し合ったのがユーゴスラビアだった。

 人々が共生していた社会が分裂し、崩壊していく状況を見ていた人々の中には民族主義と距離を置く人もいて、崩壊する社会を複雑な思いで見ていただろう。民族主義の論理を用いずに当時の混乱を見ると、「なぜなんだ?」との疑問が次々に湧き出てきて、そうした疑問に創作意欲を刺激された映画人が少なからず存在していたらしく、ユーゴスラビア解体は多くの映画を誕生させた。

 例えば、「アンダーグラウンド」「ユリシーズの瞳」「ブコバルに手紙は届かない」「ビフォア・ザ・レイン」「戦場のジャーナリスト」「パーフェクト・サークル」「ボスニア」「ノー・マンズ・ランド」「灼熱」「バルカン・クライシス」など20本以上の作品が残る。

 それぞれに人々と戦争との関わりを描き、物語の中に取り込んだ戦争を記録することを意図した映画だと解釈できる。ところが、「アンダーグラウンド」はやや趣を異にし、現実の戦争を再構築して、おとぎ話のような架空の歴史物語で現実の戦争を表現した映画だ。ユーゴスラビアの形成から崩壊までを地下世界で生きる人々で描き、地下世界から脱出した人々が直面した世界が現実の戦争で、一気に現実の世界に投げ込まれる。

 戦争では交戦する側がそれぞれに正義を掲げ、やがて勝った側の主張が正義だったとして歴史に刻まれる。だが、ユーゴスラビアの解体過程に行われた複数の戦争では複数の正義が主張され、どちらかの無条件降伏といった結末には至らなかったこともあり、複数の正義の主張が残っている(西欧主導の世界ではセルビアが敗者とされ、その主張は否定の対象になるが)

 映画「アンダーグラウンド」は、連邦国家としてのユーグスラビアのレクイエムである。どの戦闘主体の側にも与せず、ユーゴスラビアの解体に進む戦争の過酷さを寓話として描くことで、ユーゴスラビアの歴史と解体を物語として記録した。戦争を記録するならドキュメンタリーの手法が適するだろうが、戦争を記憶するためには物語として再構築する手法があり、それで傑作と評される作品を作ることもできるのだと示した。

2024年2月17日土曜日

女遊びと性加害

 アラカンこと嵐寛寿郎は、「鞍馬天狗」「むっつり右門」の2大シリーズの主役を務め、脇役に回った晩年は鬼虎を演じて評判となった大スターだ。「50年も役者やってきて、胸を張っていえることなど、かけらもおまへんけどな。お客を楽しませてきた、これだけはまちがいのないことダ」と庶民に支持されてきたことを喜ぶ(『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』竹中労著。以下の引用も同書から)。

 「月給千円くれよった、たちまち芸者遊びです、ハメがはずれた」という二十代の頃は、小唄を習いに「三味線弾かせて、さしむかいの稽古、個人教授というやっちゃ。へえ毎晩ダ。撮影終わったらまっすぐ祇園・先斗町・宮川筋や、そら熱心なものやった」「月給千円や、つかいでがありました、そのころ祇園の芸妓を根引きにしても1ヵ月三百円」。

 「けっきょく寝る女でも、手つづきがおますわな、そこがウデとこうなる」「スケベイと好色とはちがうんですわ。千人斬りようせなんダ。まあ道草が多かったということやね、ワテの色の道は」「十人の女と1ぺんづつするよりも、1人の女と心ゆくまで十ぺんするのがよろしい、それがわかるには三年早かった」。

 「モテました。モテすぎた、役者が人気とるゆうことはこれやなと、まあはっきりいえば、タダでしようと思えば、オメコいくらでもでける、それが人気の正体ダ」「世間の目がこわくって、四畳半専門や。金でカタがつく水商売の女しか相手にしなかった、という人もおますやろな。それもある。ワテは臆病な人間です、後くされ、ご免や」

 「女に家建ててやる、着物買うてやる、貯金通帳持たせる、別れるときにはそっくりくれてやって、カマドの灰まで渡して、おのれは身一つで出る。そのくりかえしや」「鞍馬天狗、むっつり右門、コワモテの二枚目が、女と財産とりあい、できまっかいな」

 「祇園の芸妓総揚げにした」阪妻など大スターの女遊びに寛容だった時代があったが、時代は変わった。変わったのは、クロウトとシロウトの境目が曖昧になり、 芸者衆は減り、キャバクラ嬢が増えるなど芸人の遊び相手が変わるとともに、お茶屋遊びからホテルへと芸人の女遊びの場所も変わった。芸人はシロウトを相手に女遊びするようになり、それをネタとするメディアも増えた。

 女遊びと性加害の境目は曖昧だ。性交渉について何らかの同意が相手と成立しているなら女遊びで、女の意思に少しでも反することがあって何らかの強制を伴う性交渉が行われた場合が性加害か。何らかの同意とは恋愛感情の共有であったり金銭など何らかの対価の授受であったり様々だろう。人気商売の芸人が盛んに女遊びをすることは昔も今も変わらないが、シロウトを相手にする芸人は地雷原を進んでいるとの覚悟が必要かもしれない。

2024年2月14日水曜日

時間の存在

 時間には実体がない。物質でもなくエネルギーでもなく、どこに存在するのか誰にも分からない。だが、時間が存在すると誰もが確信しているようで、生活や社会活動など人間が関係する行動に時間は密接に関わり、時には、決められた時間に合わせて行動を強いられるなど、時間は人間の行動や活動を支配しているかのようにも見える。

 時間は測ることによって現れる(=意識される)。時間を測るためには何かの動き(運動)を必要とする。おそらく太古に人間は、日の出から日没までの太陽の動きを1区切りとして1日とした時間の感覚を持ったのだろう。それは太陽の動きによって時間を測ることである。日時計から水時計、さらに重りやゼンマイや振り子を動力とする時計が誕生し、現在ではクオーツ時計や太陽電池発電式時計などが一般化したが、何らかの動き(運動)によって測っていることは共通する。

 静止状態では時間を意識することは難しかったりするが、何かの動き(運動)があると時間の経過が意識され、時間の存在が現れる。真っ暗な部屋に閉じ込められて身動きできない人でも、空腹を感じたり眠ったり尿意を催したりと生命活動という体内の動き(運動)によって時間の経過を意識するだろう。体内時計は生命活動によって支えられる。

 時間と速度の積が距離となるので空間の存在が現れる。距離を時間で割ると速度が現れ、距離を速度で割ると時間が現れる。空間と時間は密接に関係していて、空間に現れる何らかの動き(運動)を用いて測ることによって時間は可視化される。時間と動き(運動)は空間を構成する要素であり、空間を測定するための道具でもある。

 長さや重さも実体がなく、人間が測ることによって現れる(=意識される)。長さや重さも、それに相当する何かが存在すると見なされるが、人間が測るまで長さも重さも現れない。時間も長さも重さも人間が単位を決め、人間が測ることによって存在が確認されるのであり、それらが人間の思考により生み出されたものであることを示す。

 触れることも捕まえることも見ることもできない時間という何かを人間が意識したのは、この世界は動き(運動)に満ちているからだ。太陽や月や風や波や雨など自然現象だけではなく人生や社会の変化なども動き(運動)と見ると、この世界は常に動いて変化し続けていることになる。変化し続けることで世界は基本的な秩序を保っているとの発想もできそうだが、そうなると時間とその秩序形成の関係が気になってくる。

 ※時間を辞書は「①時の流れのある点から別の点までの時の長さ、②時の流れのある一点。時刻、③時間の単位。3600秒、④学校などで授業の単位として設けた一定の長さの時。時限、⑤[哲学]空間とともに世界を成立させる基本形式。出来事や意識の継起する流れとして意識され、過去・現在・未来の不可逆な方向を持つ、⑥[物理学]自然現象の経過を記述するための変数」などと解説する(大辞林)。

2024年2月10日土曜日

財界の静かな憤り

 「日本の未来を守る〜日本社会と民主主義の持続可能性に向けて〜」の言葉を掲げて、多くの財界人や大学教授らが集まって発足した令和臨調(令和国民会議)は、「民主主義は政治家のみによって行われうるものではない。わが国の社会と民主主義の持続可能性を守るため、それぞれの立場や利害を乗り越えて、危機を乗り越えるために手を携えよう」と呼びかける。

 その令和臨調が公表した「政治資金制度改革等に関する緊急提言」は、「政治資金制度の緊急改革」で9項目、「政党のガバナンスの改革」で10項目の具体的な提言から成る。前者では、パーティー券の売買を含む現金による政治資金の拠出・収受の禁止や収支報告書誤記載・虚偽記載に対する罰則強化、政党助成制度の点検と見直しなどを挙げた。

 財界の危機感の一端が示されたともいえる令和臨調の提言は基本認識として、今回の疑惑は▽有力政党の有力政治家たちの関与が指摘され、事態はより深刻、▽予算を決め、税を扱い、法律をつくる立場にある政治家にその資格があるか問われている、▽改革の核心は政党ガバナンスの立て直しだ、▽「民主主義のコスト」 について政治の側と国民の側が共同作業として不断の改革を続けるべきーなどとしてる。

 パーティー券を大量に買っていたであろう財界側も、政治献金が多くの政治家の裏金になっていたことには我慢ならなくなったと見え、提言の文章には静かな憤りの気配が各所に滲み出ている。世論やメディアの批判は時間が経てば勢いが弱まり、やがて沈静化すると期待しているだろう自民党は、金ヅルの財界側から具体的な改革を突きつけられ、その場しのぎの改革で済ますことは簡単ではなくなる?

 提言の基本認識では「民主主義のコスト」として、政治に要するカネの存在を肯定し、そのコスト(カネ)を誰が、どのような形で負担すべきなのかを政治の側と国民の側とで率直な対話を開始しなければならないーとする。だが、「民主主義のコスト」には政党助成金に加え、企業団体からの献金が含まれることを前提に、政治資金などを監督する第三者機関の設置など現在の仕組みを厳しく修正すべきという立場にとどまる。

 「政党のガバナンスの改革」では、「政党の必要性が自明視されなくなりつつある危機感を各政党・政治家は持つべき」で、求められているのは「派閥を必要としない党運営・政党ガバナンスの確立に向けた実質的な改革論議」であり、「政党のガバナンス改革を実効あらしめようとするならば、関連する様々な政治分野の改革を必要とする」とした。

 政党に「内部統制の仕組みを確立した上で、ガラス張りの党運営を行うよう」求めるが、「国民の税金を原資とする政党助成金を受け取っているにもかかわらず、各党が必要な対応を行わないのであれば、政党政治の危機に対して政党の自律性に期待するのでは不十分である」とし、政党法の制定を示唆する。

 これらの財界から具体的に示された政治資金や政党を巡る改革要求に自民党が、どう応えるのか定かではない。財界が本気で自民党に抜本的な改革を求めるなら、自民党に圧力をかけるしかない。まず自民党への政治資金の提供を令和臨調に名を連ねる企業群がストップし、改革の進み具合に応じて政治資金の提供を行うようにして改革を強制する。そこまで財界が踏み切ることができるか、言いっ放しの提言に終わるか、試されているのは政党とともに財界だ。

2024年2月7日水曜日

権威主義

 中国やロシアなど権威主義国家が欧米主導の国際秩序に服さず、対抗心をあらわにして動く世界になった。権威主義とは、「政治的な権力が一部の指導者に集中する体制。大統領や首相などが形式的に選挙で選ばれていても実態は独裁的な場合も含む」とか「支配関係を価値の優越者 (上級者) と下級者との縦の関係において構成する秩序原理および行動様式」「権威を絶対的なものとして重視する考え方。権威をたてに権力者が思考・行動し、権威に対して人々が盲目的に服従する様式」などとされる。

 中国が世界2位の経済大国になり、ロシアが原油や天然ガスの欧州などへの輸出で国力を蓄えたことで中露は欧米と「対等」になることができた。中露が欧米主導の国際秩序に服さなくなった光景は、成り上がった金持ちが横柄な態度・振る舞いを隠さなくなったようにも見える。中露とも欧米とは異なる文化的伝統を有するので、強まった自己主張を正当化する材料には事欠かない。

 「王様は裸だ」と指摘した子供の声で大人たちも現実に見える光景を受け入れるようになったとの寓話があるが、欧米主導の国際秩序が欧米に都合のいい建前であると中露は堂々と主張し、欧米とは異なる秩序形成にも存在意義があるという現実に目を向けさせた。それは、欧米に追随するだけではなく、自己主張する重要さと誘惑を多くの国々に広めたかもしれない。

 権威主義の弱点は、権威を有するとされる指導者に権力が集中することで、周囲には指導者に盲従したり同調する人々が集まることだ。指導者の誤った判断や感情に影響されて偏った判断などを周囲が是正できなければ国の針路が揺らいだりする。それに個人には寿命があり、属人的な要素に影響されると権力継承が不安定化する。権威主義の弱点と個人独裁の弱点は重なり合う。

 権威主義国と欧米など民主主義国の対立が明確化し、世界は分断が深まるとともに不安定化したと見えるが、不安定であった実態が可視化されただけだ。諸国は、自国の利益を最優先に動くことと欧米主導の国際秩序を利用することを都合よく使い分けていただけだ。

 欧米の影響力が後退し、欧米の権威が失墜したことで、後発の中露の影響力が目立つようになり、民主主義の体裁で実態は独裁権力でも大国になることができると中露は実証してみせた。権威主義国の個人独裁は脆さを内包するが、不安定さが露呈した世界状況において、国家意思の決定の素早さなど議会の影が薄い権威主義国の優位さが浮かび上がったりする。

 権威主義国と民主主義国の対立は長く続いていくだろうが、権威主義の最大の弱点は権威に対する人々の賞賛や追従を獲得し続けなければならないことと、批判者や抵抗者らを強権で社会から排除し続けなければならないことだ。それは、権威主義国でも潜在的な国家主権は人々が有していることを示している。

2024年2月3日土曜日

記録と表現

  写真を撮ることは誰にでもできる日常の行為となった。その昔には、カメラは高価で写真を撮ることが特技であった時代があり、映像データのデジタル化ができず、写真を撮るにはフィルムカメラが必要だった頃には、写真を撮ることは家族などの思い出を残すための行為であったりした。

 デジタルカメラが登場したのは1980年代で、カメラ機能が搭載された携帯電話が発売されたのは1999〜2000年だった。携帯電話で写真を撮り、それをメールで送ることが手軽にできるようになって、写真を撮るという行為は特別なものではなくなった。スマートフォンではカメラ機能の高度化が進み、どこでも誰でもスマホを手にして写真を撮り、SNSなどに掲載することが世界的にも一般化した。

 こうしたスマホなどで撮った写真の大半は「記録」としての写真であり、背景に余計なものが写り込んでいることも珍しくなく、傾いていたり、シャッタータイミングが悪いこともよくある(手ブレはカメラ機能で修正されたりするようになった)。それらは笑って済まされ、家族や友人、自分や旅行先の風景などを写すことが目的だから、被写対象を中央に配置した写真が大量に出現した。

 一方で、構図や色彩などに工夫した「表現」としての写真がある。こちらはプロが撮るものとされるが、スマホでも撮影可能だからアマチュアでも撮ることができる。高画質の写真を撮ることも可能になったスマホの多彩な機能を使いこなして、単に人物や風景を写すのではなく、狙った「表現」に仕上げ、さらには手軽に簡単な修正や加工も施したりして、自分の作品に仕立てる。

 「表現」としての写真を撮る代表的な写真家に森山大道氏がいる。森山氏の写真は、例えば、新宿をテーマにしたものであっても、そこに表現されているのは、どこの街で撮ったといっても通用しそうな写真だ。渋谷でも池袋でも銀座でも六本木でも、更には世界のどこかの街で撮ったと言われても納得しそうな写真となる。それは森山氏の「表現」として自立している写真だ。

 「記録」としての写真を撮る代表的な写真家は戦場写真家だ。どこで何が起きているのかを現地に行って写すのが報道写真家だが、危険が伴う現場にも行く人は多くはいないだろう。だが、戦地や紛争地などで何が起きているのかを映像として伝えるためにはカメラを持った誰かが行く必要がある。戦場で撮影された写真は写真家の周辺で起きたことを写したもので戦争の全体像ではないが、そうして撮影された写真などで人々はその戦争のイメージをつくり上げる。

 戦場を写した写真は「記録」だが、戦争の悲惨さや惨さ、巻き込まれた人々の苦悩などを「表現」した写真でもある。戦場では構図や色彩や表現法などに工夫する余地はないだろうから写真家の意図による「表現」ではない。「記録」が同時に「表現」になる写真は、伝える情報量が圧倒的で見る人々の感情を揺さぶる場合に限られる。