2025年8月30日土曜日

大雨と治水

 今年は日本列島の北から南まで、あちこちで大雨に見舞われているようだ。気象庁は「大雨の年間発生回数は有意に増加しており、強度の強い雨ほど増加率が大きく」「1時間降水量80mm以上、3時間降水量150mm以上、日降水量300mm以上など強度の強い雨は、1980年頃と比較して2倍程度に頻度が増加」しているとする。

 さらに「全国の1時間降水量50mm以上の大雨の年間発生回数は、統計期間1976~2024年で10年あたり28.2回の増加」で、「全国の1時間降水量80mm以上の年間発生回数は、統計期間1976~2024年で10年あたり2.4回の増加」、「全国の1時間降水量100mm以上の年間発生回数は、統計期間1976~2024年で10年あたり0.5回の増加」とする。

 気象庁は豪雨を「著しい災害が発生した顕著な大雨現象」とし、大雨は「災害が発生するおそれのある雨」とする。集中豪雨は「同じような場所で数時間にわたり強く降り、100mmから数百mmの雨量をもたらす雨」とし、局地的大雨は「急に強く降り、数十分の短時間に狭い範囲に数十mm程度の雨量をもたらす雨」、強い雨は「1時間に20mm以上30mm未満の雨」、激しい雨は「1時間に30mm以上50mm未満の雨」、非常に激しい雨は「1時間に50mm以上80mm未満の雨」、猛烈な雨は「1時間に80mm以上の雨」とする。

 大雨は災害をもたらすことがある。増水した河川から水が溢れ、都市部で水没した道路を車が盛大に水飛沫を上げて走行する光景はニュース映像でお馴染みだ。また、土砂崩れにより家屋が損傷したり倒壊したり、道路が通行できなくなったり、河川の氾濫で住宅や農地が水没したりする。床下・床上の浸水も多く、人間には大雨に抗する術がない。

 大雨で大量の降水があった場合、地上に滞留する大量の水を可及的速やかに排水することが最優先だ。都市部なら、側溝などを大きくしたり、貯水地を増やしたり、河川を改修して深く広くしたり、排水用の人工河川の新設などが必要だ。地方なら、人が住んでいる住宅を浸水被害から守ることが最優先となり、川沿いの低地における居住を制限することも必要になる。

 都市部の下水道は「雨水流出率50%、降水量1時間当たり50mmに対応する計画が一般的だが、近年多発する集中豪雨の影響も加わって下水道への負荷は、その限界を超えることが多くなっている」(国交省)。降水量が50mm/時が珍しくなくなり、100mm/時も頻繁に発生している現状を考えると、都市部の排水能力の大幅な向上を急ぐべきだろう。

 大雨が増え、都市部では冠水した道路を走ることを車は余儀なくされ、地方では河川が氾濫する。国も自治体も降雨による水を治めることができていない。温暖化に伴い蒸発する蒸気量が増えるが、大気中に止めることができなくなった水蒸気は降雨となる。つまり大雨は今後も増え続ける。大雨対策を治水事業に組み入れ、まず都市部の排水能力を高めることが急がれる。

2025年8月27日水曜日

憎しみより愛

 相手に初めて会った時から互いに惹かれ、恋に落ちるというのは恋愛物語によくある設定だ。親しくなるまでの段階を簡略化し、惹かれ合う二人がじゃれ合ったり、些細なことで口論になって共に沈んだ心で過ごしながら相手を思ったり-を繰り返しながらハッピーエンドで終わるという物語はよくある。

 相手を愛することは相手を理解することだ。愛する対象として相手を理解するのであるから、好意的な判断が優先する。だから、時には相手を誤解することで相手を愛することもある。愛するという感情は幅広く、特定の人に対する愛のほかに人類愛など不特定の対象に対しても発揮され、また、人以外の対象に対しても喚起される(例えば、趣味の対象や好物など対象は幅広い)。

 愛することと憎むことは表裏一体だとも言われるが、憎む時には相手を理解することは放棄される。相手を理解せずに愛することは難しいが、相手を理解せずに憎むことは珍しいことではない。むしろ、憎い相手を理解することを拒否し、相手の嫌なところばかりを見るようになり、嫌なところを記憶して憎むことを正当化したりする。

 特定の個人に対する愛や憎しみではなく、不特定の他人に対する愛や憎しみがあり、そうした感情が社会を動かし、国際関係にも影響する。世界の多くの人々が人類愛や寛容を共有するなら世界は平和に少しずつ近づくだろうが、他国や他民族などに対する敵愾心や憎しみを持つ人々が多くなり、不寛容が広がると排外主義が各国に現れ、国際関係の緊張は徐々に高まっていく。

 愛することで得るものは、対象の存在に対する肯定感だ。一方、憎むことでは、対象の存在を否定的に見るようになる。否定的な対象に対しては、その排除を許容する感情が生まれやすく、憎まれた相手も憎み返して対抗するだろうから、相互に排除の感情が高まり、対立となって現れ、時には対立が激化する。愛することは対象とともに生きていこうとする機運を高めるが、憎むことで、ともに生きることの価値が低下する。

 政治が絡むと主張の違いが激しい対立となって現れる。異論を許容できない人々は、自分の主張に反する主張をする人々に反発し、さらに相手に対する憎しみとなったりする。最近では、米国でのトランプ支持者と反トランプ派の罵り合いや、欧州などでのパレスチナ支持者とイスラエル支持者の罵り合いなどは、政治的な見解の違いにとどまらず、自分と異なる主張をする人間への憎悪に発展しているような様相だ。

 憎みあうより愛し合うほうが、この世界は平穏で人々は幸せだろう。排除や対立よりも、共生し、共存することのほうが価値ある生き方だろうが、現在の世界は、愛することよりも憎むことが目立ってきている。愛する人々に対しては軍事力の行使は控えられようが、軍事力は行使され、その正当化に軍事力の対象の人々を憎む理由が並べられる。説得する言葉が無力な時代には、愛することよりも憎み合うことがふさわしいのか。

2025年8月23日土曜日

先入観から脱する

 水泳競技では選手はプール内の自分のレーンを往復するだけだ。陸上競技の短距離走では選手は決められたレーンを走り、中距離走では選手はトラックで周回を重ねる。展開が複雑な球技などと違って、単調とも言える運動(泳ぐ、走る)を選手が続けるだけの競技なのだが、どちらもオリンピックでは花形競技だ。

 技の良し悪しなどを審判員が決める採点競技とは違って、観客が出場選手の優劣や勝敗をすぐ理解できるのが水泳や陸上競技だ。泳いだり走ったりする選手の誰かがリードを広げたり、複数の選手が抜きつ抜かれつする様子に観客は声援を送ったり、歓声を上げたりする。分かりやすさが花形競技であり続けることを支えている。

 自転車競技も、展開や勝敗が観客に分かりやすい競技だ。プロが参加するツール・ド・フランスは五輪やW杯とともに世界3大スポーツイベントとされるそうで、欧州では自転車の長距離レースは人気があるという。日本でも長距離レースが行われているが、人気があるのは短距離のレースだ。それは競輪。

 競輪は地方自治体が主催する公営ギャンブルなので、競輪場にはギャンブル常習者が集まっているなどと色眼鏡で見られたりし、競馬が「健全」な娯楽とみなされていることとは対照的だ。JRAの圧倒的な集客力と資金力(マスメディアに大量の広告を流す)の効果でイメージアップが行われた。競輪場にも家族連れがいて、賭けずに見るだけのファンもいるのだが、「健全」な娯楽との社会的な認知には至っていない。

 自転車の短距離競技としての競輪の迫力は、スピードだ。先導員がいて周回する間は時速40キロ前後で走るが、先導員が退避して選手の自由な競争が始まると徐々にスピードが上がる(空気抵抗が大きい先頭を取りたくないと牽制しあって緩むこともある)。そしてゴール前の200mでは各選手が全力でペダルを踏み、時速60キロ以上にも達する。

 バンク(競輪が開催されるオーバルコース。1周が333m・335m・400m・500mの4種類あるが、最も多いのが400m)を周回する選手はラインを組み、他のラインと競うので団体競技の趣きだが、ゴール前の200mでは個人戦となり、各選手は一つでも上位でゴールするべく競う(ラインを組んでいた選手が前にいて邪魔になると、どかして自分が前に出る選手を見ることも多い)。

 「公営ギャンブル=悪」といった先入観から脱して、自由に見ることで競輪のスポーツ競技としての面白さが浮かび上がる。水泳や陸上競技と同じような、選手の優劣や勝敗が分かりやすく、スピードに加え、ラインの駆け引きや選手の位置取りなどで展開は複雑となり、見る楽しさに満ちている競技だ(1レースは3分ほどで終わる)。五輪にも出た選手たちの圧倒的なスピードの迫力は競輪場で実際に見なければ体感できないだろう。

2025年8月20日水曜日

リベラルの衰弱

 リベラル(liberal)を辞書では形容詞として①自由主義の、進歩的な、②自由な、融通性のある、③(教育で)一般教養の、④偏見のない、寛大な、度量の広い、⑤気前のいい、惜しまず使う、⑥豊富な、たくさんの、名詞として①進歩的な人、自由主義者、②(英国などの)自由党員-とする。形容詞としては広い意味で使用される。

 伝統的な文化や支配構造の継続を重視する保守に対し、リベラルは自由を重視し、国や社会に存在する諸問題を解決・解消するために改革を進める立場だ。国や社会には常に諸問題が存在し、それらに対処する必要があるとの認識では差がなかったとしても、保守は急激な変更を嫌うが、リベラルは「思い切った」改革を辞さなかったりする。

 伝統的な文化や支配構造に対する評価は人により様々で、国や社会に存在する諸問題に対する見方も様々だから、保守もリベラルも一枚岩ではない。穏健派から急進派まで保守・リベラルともに幅広く分かれ、ある問題に対しては保守的で、ある問題に対してはリベラルだ-などと個人の考えは複雑だから、保守もリベラルも固定したものではなく揺れ動く。ただし、政治が絡むと立場としての保守やリベラルにとらわれる人が多くなる。

 米国ではリベラルは、黒人の権利拡大を目指すなどの公民権運動を支持し、社会福祉や人々の平等を重視し、経済における規制を行い、環境問題に危機感を持ち、同性愛や人工中絶の容認などを主張する。一方、米国の保守はキリスト教の価値観を大事にし、小さな政府を目指し、経済における規制を嫌い、多様性の尊重より白人優先意識を持ち、同性愛や人工中絶に反対する。

 欧州からの移民により建国された米国では、リベラルも保守も個人の自由を尊重するが、改革を進めるために国家権力の行使に積極的なのがリベラルで、国家権力の関与を嫌うのだ保守だ。しかし、トランプ大統領は権力を積極的に使って、既存のリベラル寄りの政策を変更している。脱リベラルを国家権力の行使により実現し、保守の世界観を実現しようとする。

 共に個人の自由を重視する米国のリベラルと保守だが、鋭く対立し、社会が分断しているとされる。リベラルが国家権力を使って積極的に「改革」を進め、企業行動に制約を課し、気候変動に対する危機感を煽り、環境保護を強め、多様性の確保を強制し、LGBTQの認知を進めるなど社会を変えようとしたことは、保守の人々に対する価値観の強制だった。

 欧米の影響力で、リベラル寄りの価値観に沿った施策が国際的に進められてきた。主張する価値観を政策化したリベラルは、正しさ(polical correctness)を標榜したが、正しさを主張すると妥協がしづらくなり、対立は先鋭化する。トランプ大統領の一方的な政策変更に米国及び世界のリベラルが抵抗できていない現在は、リベラルの理念先行で「地に足がついていない」政策が問われているともいえる。

2025年8月16日土曜日

精神論にすがる

 気持ちの持ちようで状況がそれまでとは違った様相に見えることはある。だが、それは状況が変わったのではない。「成せば成る」とか「やる気があれば何でもできる」「願えば必ず叶う」「努力すれば夢はかなう」などの精神論は根強く残り、「やる気や根性を見せろ」などと組織で管理者が部下などを鼓舞することは廃れていないともいう。

 精神論がはびこるのは状況の分析がおざなりで、有効な対策を見いだすことができていないからだ。対人営業なら強い精神で臨めば相手を圧倒し、優位に交渉を進めることが可能になる場合があるかもしれないが、そういう交渉スタイルは組織相手では効果がないだろう。状況を変えることができず、精神論にしか頼ることができなくなって「負けられません 勝つまでは」などと国中で精神論にすがった過去が日本にはある。

 状況を変えることができないから、「すべては気持ちの持ち方次第」だと精神主義に傾く。合理的な思考や論理の客観性を軽視する風潮が社会に根強く存在すると感情論が優勢になり、精神論や精神主義がはびこる。日本における精神主義について加藤周一氏が論じた(「日本文化の雑種性」1979年=『加藤周一セレクション⑤』平凡社ライブラリー所収。適時省略あり)。

 「日本精神を説く人が純日本風の電車や選挙を説くことはない。そんなことは不可能だからであり、日本風といわれるものは常に精神的なものばかりである。日本の伝統文化を讃える当人が、自分の文章を毛筆で書かず、和綴じではなく西洋風の本にこしらえる」

 「政治、教育、その他の制度や組織の大部分が西洋の型をとってつくられたものだ。精神だけが純日本風に発展する可能性があると考えるのは、よほどの精神主義者でなければ難しいだろう。日本主義者は必ず精神主義者となり、日常生活や下部構造がどうあろうと、精神はそういうものから独立に文化を生み出すと考える。ところが、立論に欠くことのできない概念の多くが西洋伝来の、和風からは遠いものである。自由や人間性、分析、綜合などの概念を使わずに人を説得する議論を組み立てることは、議論の題目によっては不可能であろう」

 「日本の文化の雑種性を整理して日本的伝統にかえろうとする日本主義者の精神がすでに翻訳の概念によっって養われた雑種であって、翻訳の概念を抜き取れば忽ち活動を停止するにちがいない」

 「日本の文化は根本から雑種であるという事実を直視することを避け、観念的に日本文化を純粋化しようとする運動は、近代主義にせよ国家主義にせよ、枝葉の刈り込み作業以上のものではない。その動機は劣等感であり、劣等感から出発して本当の問題を捉えることはできない。本当の問題は、文化の雑種性そのものに積極的な意味を認め、それを、そのまま活かして行くときにどういう可能性があるかということであろう」

 日本主義は外国を意識したところから生じ、外国に対抗する何かを構築しようとする。だが、その構築の方法論が外国の影響下にあるので、外国を否定して日本の優位性を訴えても「借りもの」の議論でしかないことを加藤氏は指摘する。外国の影響を受けていない日本人が珍しい状況では、精神主義や精神論は感情や情緒に引きずられる。

2025年8月13日水曜日

部分の受け入れ

 日本は歴史的に外来の文化を取り入れてきた一方、独自の文化を育んできた。頑なに独自の文化に固執することが少なく、日本独自の文化と外来文化との対立・衝突は限定的で、うまく外来文化と共存してきた。外来の文化の流入が大量の人の移動を伴わず、日本人の主導によって「欲しい」部分だけを取り入れてきたからだろう。そのあたりのことを加藤周一氏は次のように語る(「中国の屋根の反り」1979年=『加藤周一セレクション④』平凡社ライブラリー所収。適時省略あり)。

 「日本の文化的伝統は枠組みと領域において、中国・西洋の文明の伝統とは根本的に違う。日本精神は体系化に向かわず、抽象的合理性を好まない。自然に対して自己を主張することにではなく、自然に従って生きることに文化の眼目を認める」

 「このような日本文化が中国文明の体系と対決したことはない。両者の接触は、補足的な関係の日本側での敏捷な利用ということに尽きる。補足的な関係において、相手の長を採るのに当方の長を捨てる必要がない。一方を捨て他方を採る思想的決断の問題ではなく、便宜に従う戦略上の問題に過ぎない。大都市の計画や大寺院の建物の配置は、日本側にないから唐の例に従う。住み慣れた住宅は日本で発達した日本流」

 「同じことは西洋文明に対してもいえる。19世紀後半の西洋と日本の文化は、対決したのではない。根本的に違い、互いに補足的な二つの文化が出合ったのであり、西洋側はそのことを理解しなかったが、日本側はその相互補足性を見抜いた。日本において近代化が、西洋文化の圧倒的な影響のもとに中国の場合よりも早く成功したのは、そのためである」

 「日本の対外関係の歴史は、補足的な使い分けと折衷主義の歴史であった。中国の対外関係の歴史は、対決と拒否または回心の歴史だ。西洋思想への回心は容易におこらず、民族的水準では文化大革命において徹底した。毛思想は折衷主義ではない。マルクス・レーニン主義の原則・枠組みを全面的に受け入れ(比喩的にいえば回心)、内容を中国に固有の条件との関連において、あらためて定義した。中国共産党はマルクス主義の長を採り、短を捨てたのではない」

 「補足的関係において相手をみることは、相手を部分において見ることである。相手の体系の全体と対決する機会がなければ、相手の全体と理解する機会もない(補足的関係が成立したのは、日本側に体系的思考の習慣がないからだ)。

 部分的現象は体系から必然的に導き出されるものであるから、体系の理解を前提としないときに相手側の部分は偶発的にみえる。その部分を、相手側の全体との関連においてではなく、こちらの全体との関連において意味づけるほかはなくなるだろう。何が我々の役に立つのか。そういう考え方は、相手方の体系の理解を遠ざける」

 「対決がないということは、大きな長所を意味すると同時に大きな弱点をも意味する。対決がなければ、真の接近もない。中国も西洋諸国も日本からみれば、原理的に不可解な仕組みで動いている。中国と西洋諸国には、対立があれば接近もある。ものの考え方の枠組みは似ているのであり、文化の基本的な原理は異質ではない」

 歴史的に世界で人々は行動範囲を広げ、異なる文化の摩擦を各地で生じさせ、優位な文化による制圧は珍しくはなかった(例えば、植民地采配)。外来文化を取り入れつつ日本が独自文化を保つことができたのは、外来文化の部分を日本人が主体的に取り入れてきたからだと加藤周一氏は指摘する。主体性を維持することで外来文化に圧倒されることはなかった。

2025年8月9日土曜日

高騰するウニ

 資源量の減少などで国内産のウニの価格が高騰を続けている。もともと漁獲量が限られているウニは価格が下がりにくかったが、海水温の上昇や磯焼けなど海の環境変化が顕著となって収穫量が減るとともに、収穫後の人手による選別や加工が必要なウニだから人件費の上昇などにも影響される。一方で、寿司や海鮮丼に欠かせなくなり需要は減らない。

 以前からウニは高級食材だったが、値上がりしても人気は落ちない。「高くても食べたい」と旺盛に消費される。小樽や函館などウニが名産とされる観光地では、7千円台のウニ丼は珍しくなく、高級なウニを使ったものは1万円を超すという(安いものは3千円台もあるとか)。ウニ丼は、高くなったと言われるウナギ以上の高級(高額)料理となった。

 ウニの漁獲量は全国で6518トンで、1位の北海道が3656トン、次いで岩手県999トン、宮城県568トン、青森県372トンと続き、上位4で全国の8割以上を占めた(2022年)。全国計の漁獲量は2019年は7880トンだったが、2020年は6650トン、2021年に6687トンと減った。1970年には2万トン以上あったが、2010年に1万トン割れとなった。

 漁獲量が減っているので、旺盛な需要を支えているのは輸入物だ。世界でもウニは以前から食べられているので各国で漁獲されており、日本に輸出されている。国内消費の8割は輸入ウニでまかなわれていて、主要輸入相手国はチリ、ロシア、アメリカ、カナダ、中国などだ。年中、ウニを食べることができ、回転寿司で安価に提供されているのも輸入ウニがあるからだ。

 世界でウニの漁獲量は6万トン以上あるとされ、第1位のチリは3万トン以上にもなる。チリをはじめ各国で収穫・加工されたウニの多くは日本に輸出され、日本が世界のウニ消費量の7割以上を占めているという。高級なウニは日本産で安価なウニは輸入もののイメージがあるが、日本の業者がチリなど海外産地で技術指導やノウハウ伝授を続けてきて、輸入ものにも日本産に劣らない品質のものがあるそうだ。

 縄文時代の遺跡からウニとみられる殻が発見され、8世紀の「風土記」にウニ食の記録があるなど日本人は古くからウニを食べていた。明治時代に塩漬けウニや粒ウニなどが誕生して広く流通するようになり、ウニは日本で一般的な食材となった。ウニの種類によって味わいは様々だが、高級感を手軽に味わうことができるウニは日本人に愛されてきた。

 周囲を海に囲まれた日本で人々は様々な海産物を食べてきた。刺身など海産物を美味しく食べる調理法を編みだし、多彩な日本食の世界を築き上げた。その日本食人気が世界に広がり、ウニの味を好む人も世界に増えただろう。中国など各国でウニの消費が増えれば世界でウニが取り合いになり、価格はさらに高騰し、ウニは「超」高級料理になりそうだ。その頃にはウニは国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定されているかもしれないが。

2025年8月6日水曜日

記憶の伝承

 1945年の敗戦以来、日本が直接に関わった戦争はないが、明治以降、日本の軍隊が関与した戦争が続いていた。日清戦争や日露戦争、第1次大戦などほぼ10年おきに日本は参戦し、負けなかった。だが「勝ち戦」であっても、死傷する将兵は少なからず存在し、肉親を失った人々は悲嘆にくれただろう。それらの戦争の記憶の伝承の重要さを説く声は現在ではほぼない。

 国内が戦場になった戊辰戦争でも多くの将兵が死傷し、戦禍に巻き込まれた人々も多かっただろうが、現在では戊辰戦争は歴史の1場面の扱いとなった。人々の記憶は様々に語り伝えられたのだろうが、それらを今なお語り伝えるべきだと主張する声は皆無だ。戊辰戦争に関わった生存者はほぼいなくなり、語り継がれた記憶は歴史の中に埋もれ、記憶の伝承は終わった。

 戦禍に巻き込まれた日常や戦場での悲惨さや苦しみなどを具体的な体験として伝えることは、戦争の愚かさを直感的に人々に理解させ、平和の尊さを再認識させるために効果があるだろう。しかし、個別の具体的な体験は戦争の細部を伝えるものであり、戦争の全体像ではない。

 体験者の記憶に偏重して戦争が語られると、「戦争は嫌だ」との感情に偏った戦争観が育まれる。戦争は愚かなことであり、廃絶されるべきものだ。だが、第二次大戦後も世界各地で戦争は繰り返されてきたし、ロシアやイスラエルの武力による領土拡大が続き、国際社会が座視するだけの現在、世界平和への歩みが後退していることは明らかだ。利害が衝突した諸国や、領土拡張を狙う諸国が軍事力を行使することはこれからも続く可能性が高い。

 戦争がなくならないという現実に対して、戦争は嫌だとの感情論だけでは無力だ。戦争は嫌だとの感情が優先すると、現実に世界で起きている戦争を「嫌だ、嫌だ」と否定することで済ませ、現実の戦争について知ること・見ることを軽視する。外国で起きている戦争などに関心を向けない人々は各国に珍しくないだろうが、それも世界平和の気運を弱めている。

 世界で「戦争はなくならない」という現実を多くの人々は知っており、戦争の廃絶は不可能だと思っているのかもしれない。だから、1945年以来、戦争に巻き込まれたことがない日本で、日本人が体験した「負け戦」の記憶の伝承が重視される一方、世界で起きている戦争に対する抗議活動は弱い(ベトナム戦争に対する反戦活動は例外か)。日本だけが戦争に巻き込まれなければいいと考えるなら、日本人が体験した戦争だけの記憶の伝承が戦争嫌悪のために役立つだろう。

 自国民が体験した戦争体験を特別のものとして扱うのは日本に限ったことではない。これは国民・民族としての記憶の形成過程だろうが、連合国諸国のように勝者としての戦争の記憶であるなら、戦争を肯定的に捉えるだろう。日本のように敗者としての記憶であるなら、「戦争は嫌だ」との思いを掻き立てるだけにとどまる。

2025年8月2日土曜日

リスナーの声

 局から一方的に電波を発信するのはテレビ放送もラジオ放送も同じだが、視聴者や聴取者ら電波の受け手の声を積極的に番組づくりに取り入れてきたのはラジオ放送だ。電波を送る側と受け手の活発なやり取りや巧妙な掛け合いなどでラジオ番組は聴取者を楽しませる。

 テレビ番組は事前に収録することが多く、生放送のニュース番組では内容が事前に決められているだろうし、お昼のワイド番組では並んでいるコメンテーターに喋らせるので、視聴者の声を取り上げる必要もない。ラジオ番組は生放送が多く、おそらく低予算でスタッフの人数も限られる中で、番組を盛り上げていくには聴取者の反応を取り込んで、話題を展開させる。

 現在はツイッターなどがあるのでリスナーの声を番組に反映させることは容易になった。SNSがなかったころは聴取者は番組にハガキを送ったり、生放送中にスタジオから聴取者に電話をかけたりして、受け手の声を番組に取り入れていた。一方的に送られてくるラジオ番組だが、コミュニケーションの場になっていた。

 一方、ラジオ番組のパーソナリティが各地に出向いて、様々な人々に会って、その声をスタジオに持ち帰ることに努めていたというのが永六輔氏(宮本常一氏の助言だという)。聴取者の大半はハガキを出さず、ただ番組を聴いているだけだが、その人々にも番組で取り上げるべき主張や指摘があるはずだから、それをパーソナリティが汲み上げて、スタジオに持ち帰って番組に反映させるとする。

 そうした行動はおそらく永六輔氏のほかには誰も行っていない。電波の受け手の声を聞きに行くことよりも、ハガキや電話やSNSなどで寄せられる電波の受け手の声を適当に紹介しておくだけでラジオ番組が成り立つのだから。それに、永六輔氏のように全国各地を訪れることを年中行っている人もいないだろう。

 人々に身近でアクセスしやすい存在であっても、ラジオの聴取者で「ほぼ毎日」聴く人はAM放送で17.7%,、FM放送で14.3%だ(総務省調査)。調査では聴取者は男性は40代〜70代、女性が70代と比較的高く、ラジオ聴取者の半数を占める。インターネットラジオでは学生の比率が高く、聴取機器はカーオーディオ、スマートフォン、据え置き型ラジオの順で、自動車乗車中の聴取が多い。

 情報源としてテレビとインターネットが圧倒的に利用され、ラジオの存在感は小さく、新聞閲読時間とラジオ聴取時間はほぼ同じだ(総務省調査)。10代・20代のモバイル機器(スマホなど)によるインターネットの平均利用時間は長く、平日の10代・20代はともに250分を超過し、休日の10代・20代では300分を超過する。

 情報源として重視されなくなったラジオだが、SNSで誰もが情報発信できる時代になったとはいえ、放送で自分の投稿が読まれて電波に乗ることに誇りや満足感などを感じる人もいるだろう。そうした人々の投稿によってラジオ番組は支えられているが、投稿する人々が限られているとしたなら、特定の人々のコミュニケーションの場と化したラジオ番組は聴取者の幅を広げることが簡単ではない。開かれたコミュニケーションの場を維持することがラジオ番組にとっては需要だ。