2014年9月27日土曜日
1時間に100ミリ
最近は、月に何回かは日本のどこかが豪雨に襲われているという印象だ。昨年から気象庁が運用を始めた特別警報が出ることもある。特別警報は、「大雨、地震、津波、高潮などにより重大な災害の起こるおそれ」があり、警報の発表基準を「はるかに超える豪雨や大津波等が予想され、重大な災害の危険性が著しく高まっている」場合に出される。
気象庁は「特別警報が出た場合、お住まいの地域は数十年に一度しかないような非常に危険な状況にあります。周囲の状況や市町村から発表される避難指示・避難勧告などの情報に留意し、ただちに命を守るための行動をとってください 」としているので、特別警報が発せられるとテレビのニュースなどでは「直ちに命を守る行動をとってください」と繰り返す。聞くとギョッとする言葉だ。
広島での豪雨による土砂災害の記憶もあってか、大雨についての特別警報が多い印象だが、数十年に一度という大雨が、どの程度増えているのだろうか。気象庁によると、「最近30年間(1977〜2006年)と20世紀初頭の30年間(1901〜1930年)を比較すると100mm以上日数は約1.2倍、200mm以上日数は約1.4倍の出現頻度」というから大雨日数は増えているのだろう。
また、1時間降水量50mmおよび80mm以上の短時間強雨の発生回数は「ここ30 年余りの長期的な変化傾向をみてみると、連続する10 年程度の平均は少しずつ増加」しているともいうから、夕立のような強い雨も増えているのだろう。発生数と地域分布、時間、気象条件などが分かれば傾向が見え、原因の推定もできよう。
特別警報が出ていなくてもテレビのニュースでは、日本のどこかで「1時間に100ミリという雨が降りました」などのリポートが増えた。少し多めに雨が降ると“ニュース”にできるようになったのだから、テレビ局はニュース編成が楽になったかな。でも、1時間に100ミリ程度の雨は本当に珍しいのか?という疑問もある。
1時間に100ミリの雨が続けば、都市の配水能力を超え、被害をもたらすのだろうが、そんな強い雨でも2、30分もすれば弱まることも多い。日常では珍しくない夕立などの強い雨が、ゲリラ豪雨などと呼び名を与えられて異常気象の仲間入りをすることがあるとすれば、印象操作だな。
各地で豪雨などによる悼ましい被害が出たこともあり、気象庁は強く警戒を呼びかけるようになり、メディアは人々に危機感を促すようになったのだろう。それは必要なことだろうが、危機感を煽って異常気象の周知に務めているようにも見えたりする。人々に異常気象だと思わせれば、予報が外れるのも仕方がないと受け止めてもらえる……なんて思っているわけではあるまいが。
2014年9月24日水曜日
寝台列車ホテル
2016年3月に開業予定の北海道新幹線は、新青森−新函館北斗(約148キロ)を約1時間で結ぶ。新函館北斗駅まで東京からは約4時間9分、大宮からは約3時間44分、仙台からは約2時間37分となるので、函館も東京からの日帰り圏内に入る。さらに北海道新幹線は札幌までの延伸が決定したが、開通予定は2035年度までとずいぶん先の話だ。
東京からの日帰り圏内に函館が入ったといっても、函館に滞在できる時間は3、4時間程度だろうから、商談などのビジネスには使えようが、観光には慌ただしすぎる。仙台辺りからなら、観る目的地を絞れば日帰り観光でも楽しむことができそうだ。でも、あちこち観て回って、食事や温泉も楽しむとなると、新幹線を使った日帰り観光を重ねるしかない。
北海道新幹線の開業効果に期待が高まる一方で、青函トンネルを通る寝台列車が廃止される見通しとなっている。大阪と札幌を結ぶ「トワイライトエクスプレス」は2015年春に廃止されることが発表され、札幌と青森を結ぶ急行「はまなす」の廃止も報じられ、東京と札幌を結ぶ「カシオペア」「北斗星」も存続が危ぶまれている。新幹線開業で青函トンネルの架線電圧が2万5千ボルトに上がるため、現在使用されている電気機関車が使えなくなるためだ。
2万5千ボルトに対応できる電気機関車を製造すれば対応できるのだが、JR北海道は資金が乏しく、優先順位からすれば寝台列車存続は低いだろうから、いったんは廃止されそう。「カシオペア」「北斗星」が廃止されるとなれば、鉄道ファンが大騒ぎしそうで、チケットの争奪戦は過熱し、華やかなフィナーレになりそうだ。
さて、廃止されるとすれば「カシオペア」「北斗星」の車両の争奪戦も過熱するかもしれない。寝台列車は車両内で完結する宿泊設備を有するのであるから、そのまま「動かない寝台列車」ホテルになる。駅の構内の一郭でもいいし、駅の周辺でもいいし、観光地でもいいから、寝台列車を設置するだけで豪華な寝台列車ホテルが誕生する。
「トワイライトエクスプレス」を含めても豪華寝台列車の車両数は限られているので、日本のどこかに豪華寝台列車がホテルになっていれば、“動いていた”寝台列車に乗った経験がある人なら懐かしがるだろうし、チケットが取れずに乗ることができなかった人なら、寝台列車での宿泊を体験しようと集まりそうだ。
「カシオペア」「北斗星」といえば2時間ドラマの舞台でもある。走っている寝台列車は密室ともなるが、そこで殺人事件が発生するとの設定が多い。東京発の寝台列車が北海道で初めて停車するのは函館で、ここも2時間ドラマの舞台によくなる土地だから、函館に豪華寝台列車ホテルが誕生するのは違和感がなさそう。ただし、動かない寝台列車は密室にはならないから、2時間ドラマの舞台には不向きか。
2014年9月20日土曜日
名を売るチャンス
ほんまに、名を売る絶好のチャンスを逃したで、あいつ。産経の加藤達也ソウル支局長のことや。ソウル地検から呼び出し食らって、のこのこ出掛けやがったんや。「こっちは天下の産経だ。事情聴取したい言うんやったら、そっちから出向いて来んかい」とタンカ切って、居座っていていい場面だったけど、弁護士連れて出頭してしまいおった。
容疑は、情報通信網法違反だというから、韓国政府が隠したがっている情報をすっぱ抜いたのやろか。でも産経によると、大統領の朴氏の動静が確認できなかった7時間について韓国内で話題になっていることを取り上げ、韓国紙、朝鮮日報のコラム、韓国国会での議論などを紹介したコラムが原因だというのやから、スクープなんかとは全く関係なしや。
この記事は電子版に載っただけやそうやが、韓国の市民団体が記事を執筆した加藤ソウル支局長を告発し、地検がすぐに動いた。そういうシナリオだったんやないか。韓国の市民団体は日本のネットもようけ見張ってることが分かったが、日本語で書いたものも韓国に関係があるからとソウル地検が乗り出すというのは、奇妙な話や。日本の新聞社の日本国内での報道もソウル地検が見張ることが許されるなら、韓国の司法が日本国内にも及ぶことになるで。
話を戻して加藤支局長やが、韓国の異常な司法の“犠牲”になることができるチャンスやったんや。ソウル地検の呼び出しに応じず、「逃亡の恐れあり」とでも理由を付けられてソウル地検に身柄拘束されていたならば、報道の自由のために闘うジャーナリストとして名を挙げることができたンや。体を張らなきゃ、あかん。
それに、加藤支局長が身柄拘束されていたなら、韓国流の民主主義に対する国際的な疑念を一気に広めることができたかもしれん。ソウル地検が加藤支局長を事情聴取に呼び出し、行動を制限しただけでも国際的に「刑事上の名誉毀損に関する法律が言論の抑圧に使われる実例」などと、言論の自由に対する侵害が懸念されているんやから、身柄拘束されていたら国際的に大きなニュースになったはずや。
おまけに、ここぞと産経は大々的に得意の韓国批判を繰り広げることができたのになあ。加藤支局長が身柄拘束されたなら、立派な「被害者」ダ。韓国得意の、被害者感情を強調して自己を正当化するという手法を、今度は産経側が使うことができたンや。でもまあ、そんな被害者ぶって自己正当化するのは、冷静に見れば、みっともない振る舞いやが。
出頭したのは、加藤支局長の判断か、会社からの指示か、どっちや。検察に呼びつけられて、ビビって加藤支局長が出掛けて行きよったんなら、根性なしや。でも、国家権力を賞賛して支えるという会社の体質に見えるから、権力の命令には黙って従うよう会社が指示したのかもしれん。どっちにしても、自由な報道のために、少しは抵抗する姿勢を見せんかい……まあ、産経にジャーナリズム感覚を求めても無理だとは分かってるんやが。
2014年9月18日木曜日
クジラと食文化
日本が南極海で行っている調査捕鯨について国際司法裁判所は、科学的研究のためとは認められないと中止を命令する判決を下し、日本では「食文化を失う」「日本の食文化を守りたい」などの反応が出た。日本でクジラ料理は既に日常的には食べない特別なメニューになっているから、食文化として保存すべき対象となっているのだろう。
沿岸で捕ったクジラを食べることは欧州を含め世界で古くから行われていたが、沿岸でクジラが捕れなくなるにつれて多くの地域でクジラ肉を食べる機会が減り、やがて食べなくなった。酸化しやすいクジラ肉は保存が難しいから、遠くの海で捕ったクジラ肉を持ち帰っても、食えたものではなかったのだろう。一方、日本など沿岸でクジラが捕れるところでは鯨食が残り、日本では敗戦後の食糧難の時代にクジラ肉が大量に消費された。
人間は手に入るものを食べて命をつないできた。大昔の狩猟採集の時代には居住地周辺のものを食べていたのだろうが、農耕が始まり、やがて商品として食糧が流通するようになって、食材の種類が増えた。流通が国際化するにつれて、「手に入る」範囲が世界に広がり、新しい野菜、果物、魚介類、加工食品なども食卓に加わった。流通や家庭における冷蔵保存技術の発展も食材の増加を促した。
手に入る食材の種類が増えると、食文化は変化する。日本の食文化の基本にあるのは米食だろうが、敗戦後に米国から小麦が大量に輸入されるにつれ、パンや麺など小麦粉食が一大勢力になった。肉料理ではハンバーグが一般的になり、家庭でクジラ肉が食べられることはほとんどないであろう。米国からは各種のファストフードも日本に上陸、食文化を大きく変えた。
一昔前には「薬臭い」といわれたコーラは今ではフツーの飲料品となるなど、新しい食品は味覚を変える。一方で魚は、都会ではパックされて切り身で売られるようになり、野菜には、土はつかずに、生産者の名前がついていたりするなど、食品の流通スタイルは変化し、それにつれて家庭での調理法も変化する。もちろん、こうした変化は日本だけではなく、世界中で起きている。
世界中で新しい食品、料理が広まり、それにつれて味の好みが変わっていく中で、各国の食文化はなお「守らなければならない」ものなのだろうか。食べるものに困らない状況になっても「守る」べき食文化とは、食生活の必要から要請されたものではなく、選択の自由という象徴的な意味合いが強そうだ。それに、伝統的な食文化といったって、その伝統を検証すれば、様々な変化を繰り返していることが見えてきたりする。
クジラ肉を食いたいという人が、欧米から「食うな」と強制されても従う必要はなく、食いたいものを食えばいい。法規制などがなければ、食いたいものを食うのは個人の権利であり、尊重されるべきだ。味覚は人様々で、標準化できるものではない。ただし、「伝統の食文化だ」などと格好をつけると、味覚も食文化も変化し続けていることが見えなくなりそうだ。
2014年9月13日土曜日
ネットが先か、新聞が先か
新聞紙面に載っている記事を、どこまでインターネットで公開するかは各社によりまちまちだ。積極的に無料公開している新聞社もあれば、限定的に無料公開している新聞社、有料公開をメーンにしようとする新聞社など、ネット戦略はバラバラ。ネットは新聞社にとって、紙の新聞の単なる電子版か、情報提供の新たな可能性を秘めた場か。
ネットを収益源にしようと各社とも考えているのだろうが、ネットでの閲覧に課金して収益を上げるのは簡単ではない。収益を重視して有料記事を増やすとページビューは減り、無料記事を増やすとページビューは増えるかもしれないが、コスト割れになる。そもそも新聞紙面に載っている情報しかネットに上がっていないのだから、新聞を購読している人が、金を払ってまでネットで記事を見る意味が乏しい。
だから、新聞社がネットで有料記事の閲覧者を増やして収益を上げるには、新聞紙面には載っていない記事や分析、コラムなどを大幅に増やし、それらを有料とすることが手っ取り早い。紙の新聞を補完し、さらには、より多くの情報を入手できる場となれば閲覧者にとってもメリットがある。ただ、ネットを見ない紙の新聞の読者からは不満が出よう。
例えば、日経には本紙のほかに複数の新聞媒体があるように、紙の新聞とネットを別の媒体だととらえ、配信する記事やコラムなどを振り分けることも選択肢だ。だが、新聞社はネットを紙の新聞の二次的媒体としか位置づけていないから、限定された情報しか載らない見栄えのしない場になってしまっている。
どうすれば新聞社サイトは、魅力ある新たな情報発信の場になることができるか。紙の新聞には公器としての社会的信頼がまだあるのだから、収益にとらわれすぎずに、ネット空間を活用した「新たな新聞」について試行錯誤して欲しいものだ。紙がネットに脅かされているという危機感よりは、新たな情報提供、表現、言論の場をネット上に構築するという意気込みこそが必要だろう。
古い世代にとっては、紙の新聞を読む体験が先にあり、ネットに接したのは人生の途中からだが、若い世代は子供の頃からネットがあった。おそらく、ネットを使う体験が先にあり、新聞を読むのは後からの体験だろう。だから新聞社サイトを、古い世代は「新聞に載った記事がネットにも出る」という感覚で見ているが、若い世代は「ネットに載ったニュースが新聞にも出ている」感覚かもしれない。
世代は交代し、ネットに先にニュースが載ることを当然視する世代が主役になると、紙の新聞の位置づけは低下しよう。やがて、「新聞が先」という世代は少なくなり、「ネットが先」世代が多数を占める世の中になる。そうなると、ネットにおける情報発信の豊かさが当然視されるようになり、有料記事で読者を囲い込む戦略の新聞社サイトは見向きもされなくなるかもしれない。
2014年9月10日水曜日
事実を事実として報じる
「今日は晴れている」「今日は雨だ」などと天気のことを言う時には、「晴れていて良かった」「晴れていて気持ちがいい」「嫌だな。雨だ」などの気持ちを含めていることがある。感情というフィルターを通して、天気という自然現象を見ているわけだ。気象関係者なら、感情を交えずに客観的な事実認識として「今日は雨だ」などと言うのだろうが。
ある政治家(X氏とする)のスピーチを報じた記事が、新聞により“色合い”が異なることは珍しくない。X氏と政治的立場が近い新聞は好意的に伝え、X氏に批判的な新聞はスピーチの問題になりそうな個所を強調して伝えたりする。どちらが“正しく”伝えているのか。スピーチ全文を読めば読者自身が判断できるのだろうが、「全文を読め」と読者に求めるのなら、記者が書く記事は不必要だ。
事実認識に善悪などの価値判断を紛れ込ませずに、ありのままの事実のみを伝える報道機関があったなら信頼できるのだが、現実には存在しない。世界はニュースに溢れるが、その取捨選択の段階から報道する側の価値判断が入る。そうした価値判断を排除しようとすると、例えば、全てが1段見出しのベタ記事で埋まった新聞にならざるを得まい。読むのは大変そうだ。
事実認識に価値判断や感情を交えるナといっても現実に不可能なのは、報じる側も読む側も人間なので、感情の動きを封じることができないから。だから、経済記事なら数字の羅列だけでも済むだろうが、災害や戦争などで傷ついたり死んだりした人を報じる記事から、被災者への同情や励まし、戦争への怒りなどが伝わってこないなら、読者はついて来ないだろう。
感情に動かされるのが人間だからこそ、事実は事実として報じることに意識的になる必要がある。事実認識を間違えて報じていたことに気付いたならば、早急に「訂正」する責任が報じる側にはある。また、過去に報じた「事実」に、その報道機関の価値判断などによって“演出”が施されていたならば、それは報道ではなく、小説などと同類の創造的な表現である。その場合には、読者に明確に、報じる側の価値判断が入っていたと伝える責任がある。
事実を事実としてだけ伝える報道機関は現実には存在せず、それぞれに“カラー”があり、それぞれのフィルターを通して見たニュースを伝える。報道機関とカラーを共有する読者なら、そうして提供されたニュースに共感するだろうし、演出が加味されていることを意識しないだろう。「類は友を呼ぶ」構造で各報道機関は支えられている。
過去の報道に事実関係の誤りがあり、さらに、その誤りを正すことが報じる側の「正義(社論)」に関わって来るならば報道機関は窮地に陥る。事実関係の誤りは訂正しなければならないが「正義(社論)」を変えることはできない……だから、事実関係の誤りに気付かないふりを続けていたというならば、そんな報道機関は信用されなくなる。事実を事実として報じることにもっと意識的であり、もっと責任を持っていたならば、こんなことは起こらなかったのに。
2014年9月6日土曜日
黒人と人権
米ミズーリ州セントルイス郊外ファーガソンで8月9日、白人警官が黒人青年を射殺した。警察発表では、警官と黒人青年が言い合いになり、もみ合いで警官が暴行を受け、黒人青年が警官の拳銃を奪おうとし、警官が発砲に至ったという。射殺された青年と一緒にいた友人は、発砲された時、青年は両手を上げ「撃たないで」と叫んだという。検視では、少なくとも6発が命中し、うち2発は頭に当たっていたことが分かった。
翌日から、黒人青年射殺に対する人々の抗議活動が始まった。警官隊は群衆を追い払うため、催涙ガスやゴム弾を発射して対応。数日後に暴動へとエスカレートすると、警官隊は発煙弾や催涙ガスで応戦し、警察が装甲車を出動させ、群衆にM16ライフルを向けた。
9月に入って米政府の司法長官は、住民と地元警察の間に「根深い不信感」があったと指摘、ファーガソン市警の日常的な活動に違法性がなかったか捜査を始めたと発表した。新聞によると、白人が9割以上を占めるファーガソン市警察による逮捕や捜索、銃の使用、被疑者の扱いなど警察の通常業務で、人種差別的な行為がなかったかどうかを過去を含めて包括的に調べるという。
ファーガソン市の人口は2万人超で7割近くが黒人だが、市長や市議会議員の大半は白人。米では職務質問や逮捕は黒人に集中しているとの声があり、現在でも警官による黒人射殺事件は多い(2012年に警察、保安官、自警団に殺害された黒人は313人との調査もある)。黒人の所得は白人の6割にとどまるが失業率はほぼ2倍になるなど、白人と黒人の間の経済格差は歴然だ。
米では50年以上前に黒人が、公民権の適用と人種差別の解消を求めて運動を行い、南部諸州の人種隔離各法を禁止する法案を成立させ、さらに1964年に、人種や宗教、性、出身国による差別を禁止する公民権法が制定され、法の上での人種差別は終わった。とはいえ、人種差別感情を持つ白人が皆“改心”したわけではなく、黒人などに対する暴力事件や人種差別は起き続けている。
さて、黒人たちが、警官らによる人権侵害を告発するため、殺された青年の像を建てようとしたなら、議員の大半が白人という市議会は賛成するだろうか。現在であれ過去であれ、人権侵害は絶対的な「悪」であるとの立場に立つなら賛成しなければならないが、議員らは「正確な事実関係を調べろ」とか「対立をいつまでも煽るようなことはすべきではなく、和解への努力こそ大切だ」などと反対するかもしれない。
それで、黒人たちが米国外のどこかの国で黒人の像を建て、米国内における黒人に対する人権侵害を告発し、それが外国では同情とある程度の共感を持って受け止められたとしたなら、米国内の白人たちはどのような反応をするのだろうか……自分らの身に“関係”のない「正義」に、ええ格好をすることは容易だ。
2014年9月3日水曜日
ランクル70
「ランドクルーザー70」が期間限定(生産は2015年6月30日まで)で発売された。4.0LのV6エンジンを搭載し、価格はバンが360万円、ピックアップトラックが350万円。このモデルは1984〜2004年に国内販売されていたので10年ぶりの再発売だ。海外向けには生産が続けられていたので、“生誕”30周年を記念しての国内再登場となった。
トヨタには他にもランクルを名乗る車種がある。例えば、「オンロードシーンにおけるラグジュアリーな世界に磨きをかけ」たという「ランドクルーザー 200系」は4.6LのV8エンジンで価格は452万〜653万円。一回り小型の「ランドクルーザー プラド」は4.0LのV6、2.7Lの直4エンジンで価格は327万〜504万円。
ランクル70の後継者ともいえるプラドが発売されているのに、なぜランクル70が再発売されたのだろうか。トヨタは「『このクルマでなければならない。』という圧倒的な声を受けて、再びその姿をここに現しました」とするが、圧倒的な声なるものの中身が気になる。ベンツのGなど無骨なデザインの四駆を都会でオシャレに乗り回すことを好む人たちの趣味に反応したものではないと思うが。
四駆の位置づけは大きく変化した。レジャーに使われるようになって四駆にもフャッション性が求められるようになり、外観デザインは多彩になった。一方で、ヘビューデューティのイメージは必須だがタフネスさはさほど重視されず、乗用車ベースの四駆(SUV)が世界中で増えた。
更にSUVは街乗りの車となり、2WDも加えられ、車高が高くて運転しやすく、ぶつけられても乗用車よりは安全(?)な車としても選ばれるようになった。ベンツやBMWがラインアップを拡充したことからSUVは、ラグジュアリーな高級シティカーとの位置づけを確立し、荷室を減らしたクーペタイプのSUVさえ売られている。
ランクル70は無骨な外観だが、頑丈さと耐久性で過酷な環境下での酷使にも耐え、高い悪路走破性を有することから世界的に高く評価されているという。東京などに住んでいると実感しにくいだろうが、日本各地にも、厳しい環境の中で暮らしている人々がいる。ランクル70が、限定品なのに価格を抑えて再登場したのは、豪雪地などで生活の足として頑丈な車を必要とする人々の声に応えたものかもしれない。
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