民主主義は善きことであると一般には見なされているようだ。軍部や特定階層などによる独裁体制よりも、民主主義のほうが多数の人々にとって望ましい体制であることは確かだろうが、民主主義という制度と善という価値観を結びつけると、民主主義が理想化されすぎ、民主主義の限界が見えなくなることもある。
民主主義の限界を理解するには、民主主義が全ての問題を解決する至高の制度ではなく、一つの政治システムでしかないと認識することがカギとなる。だが民主主義が善であり至高の制度であると見なすと、民主主義が実現すれば理想の社会が実現すると思い込んだりする。
独裁統治下においては民主主義への移行が人々の目標になるだろうが、民主主義に移行した後の政治が、利害対立が先鋭化したりして順調にいかない例は珍しくはない。民主主義に移行した後に、人々の中にある利害対立や分断が政治に強く反映されるのは民主主義が機能していることだが、議会での対立などを見せつけられた人々は、民主主義が損なわれていると早合点したりする。
民主主義は、人々の自由選挙により形成された議会で国家運営の方向を決定するシステムと定義すると、そこには善悪の価値判断は不要である。せいぜいが、主権者である人民の意向を国政に反映させる最も世界的に採用されているシステムであり、推奨されるべきシステムだと評価するぐらいか。
民主主義に善だと価値観づけを行うことが民主主義に過大な役割を負わせ、理想の政治に導くシステムだと誤解させる。民主主義が機能していると議会に利害対立や分断などが持ち込まれるという現実は、民主主義を善だと思い込む人々にとっては、民主主義が機能していないから議会が混乱しているなどの誤解や批判の根拠になったりする。
民主主義というシステムの限界とは、第一に、議会が機能するかどうかを保証するものではなく、第二に、正しい政治が行われることを保証するものではなく、第三に、利害対立や分断があるからこそ多数決で決めざるを得ないことであり、第四に、独裁統治を招くこともありうることだ。
皮肉な見方をするなら、「与えられた」民主主義だから多くの日本人は善きものと歓迎したのか。民主主義というシステムを日本人は使いこなすようになったが、達成感めいたものが野党側の体制批判派の人々に欠如しているので、民主主義を善だと位置づけ、体制批判の正当化のために、民主主義が損なわれていると言うのかもしれない。
2017年12月30日土曜日
2017年12月27日水曜日
早すぎる真冬
今年は寒波が早く来て、一気に冬本番になった印象だ。北日本から西日本まで各地での降雪が例年より早く、雪国で根雪になる時期も例年より早い。気象庁は、ラニーニャ現象が発生していると見られるとし、東日本の低温と西日本日本海側の少雨及び沖縄・奄美の寡照がラニーニャ現象時の特徴と一致するとした。ラニーニャ現象が起きると冬の日本付近では、西高東低の気圧配置が強まり、気温が低くなるという。
夏の暑さでも冬の寒さでも、季節の変化が一進一退を繰り返して徐々に進んでいくならば、寒暖の変化に体も慣れて順応しやすいのだろうが、この冬のように「冬の気配が漂ってきたな」と思い始めたところで一気に真冬並みの寒い日が続くと、真冬を迎える心の準備がまだできていないこともあってか、寒さが一層厳しく感じられる。
降雪もかなり多い。降っては溶けてを繰り返すのが例年の冬で、心の準備もできていくのだが、いきなり日に何度も雪かきをしなければならなくなって、今年の冬は体力的にも楽ではない。もう冬本番だと覚悟を決めるしかないのだが、気持ち的に冬に「負けた」という妙な敗北感めいたものさえ漂う。
「冬には寒さを楽しみ、夏には暑さを楽しむ」というように達観できれば季節の不順にも心を乱されず、いきなりの真冬にも「こんな冬もあるさ」などと平常心で受け入れることができるのかもしれないが、達観などということは簡単にできないのが人間(だから、時を超えて処世訓がいつの時代にも適合する?)。
季節の変化を愛でて四季の“表情”を楽しむのが、四季がはっきりしている日本における風流な生き方なのかもしれないが、夏の暑さや冬の寒さというものを愛でるようになるには、けっこう修行が必要だ。むしろ、暑さや寒さがストレス要因になる人は多いだろうから、体感を制御することは難しい。
気持ち的に冬に「負けた」という妙な敗北感は腹立たしい。だが、寒さや降雪に対する無力感に加え、一気に冬本番となった状況に抗う術も人間にはなく、季節の変化に人間は従って生きてきた。「負けた」という妙な敗北感は、季節の変化に対して人間が受け身であることを示す。
受け身であることから脱するには、季節の変化に立ち向かっていく心構えが要る。立ち向かうとは積極的に受け入れることに繋がり、暑さや寒さなど厳しい季節の変化を愛でる余地も出てくる。とはいえ、立ち向かう気持ちが簡単には出てこないのも現実。やはり寒さは厳しいと真冬の厳しさに負けを認めながら、雪かきに励みつつ、体を動かすことを楽しむぐらいから始めるか。
夏の暑さでも冬の寒さでも、季節の変化が一進一退を繰り返して徐々に進んでいくならば、寒暖の変化に体も慣れて順応しやすいのだろうが、この冬のように「冬の気配が漂ってきたな」と思い始めたところで一気に真冬並みの寒い日が続くと、真冬を迎える心の準備がまだできていないこともあってか、寒さが一層厳しく感じられる。
降雪もかなり多い。降っては溶けてを繰り返すのが例年の冬で、心の準備もできていくのだが、いきなり日に何度も雪かきをしなければならなくなって、今年の冬は体力的にも楽ではない。もう冬本番だと覚悟を決めるしかないのだが、気持ち的に冬に「負けた」という妙な敗北感めいたものさえ漂う。
「冬には寒さを楽しみ、夏には暑さを楽しむ」というように達観できれば季節の不順にも心を乱されず、いきなりの真冬にも「こんな冬もあるさ」などと平常心で受け入れることができるのかもしれないが、達観などということは簡単にできないのが人間(だから、時を超えて処世訓がいつの時代にも適合する?)。
季節の変化を愛でて四季の“表情”を楽しむのが、四季がはっきりしている日本における風流な生き方なのかもしれないが、夏の暑さや冬の寒さというものを愛でるようになるには、けっこう修行が必要だ。むしろ、暑さや寒さがストレス要因になる人は多いだろうから、体感を制御することは難しい。
気持ち的に冬に「負けた」という妙な敗北感は腹立たしい。だが、寒さや降雪に対する無力感に加え、一気に冬本番となった状況に抗う術も人間にはなく、季節の変化に人間は従って生きてきた。「負けた」という妙な敗北感は、季節の変化に対して人間が受け身であることを示す。
受け身であることから脱するには、季節の変化に立ち向かっていく心構えが要る。立ち向かうとは積極的に受け入れることに繋がり、暑さや寒さなど厳しい季節の変化を愛でる余地も出てくる。とはいえ、立ち向かう気持ちが簡単には出てこないのも現実。やはり寒さは厳しいと真冬の厳しさに負けを認めながら、雪かきに励みつつ、体を動かすことを楽しむぐらいから始めるか。
2017年12月23日土曜日
内なる植民地
欧米に比べて日本は移民の受け入れ数が少なすぎるとの批判があるが、飲食店やコンビニなどで見かける外国人労働者は珍しくなく、多くの外国人技能実習生も存在するというから日本で働く外国人は増えているようだ。住む国を変えて働く人を移民とするなら、日本にも少なからぬ移民が既にいる。
国際移民の法的定義はないそうだが国連は、定住国を変更した人々を国際移民とみなし、「3カ月〜12カ月間の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住」と区別するのが一般的と解説しているから、外国人技能実習生は移民と見なされる。
移民を受け入れることにより、開放された社会であることを誇示する欧州が、閉鎖的な日本を批判する一方で、中東やアフリカからの大量の移民殺到に耐えられなくなって、移民の制限(管理)を強化したり、政治問題化して国内対立が強まっているのを見ると、崇高な理念を掲げても現実に裏切られるのだなあと同情したくなる。
移民を受け入れてきたと誇示する欧米だが、移民はもっぱら低賃金労働に従事する労働力となってきた。最近では、先進国の多くでは人口が減少するから、それを補う労働力として移民を受け入れるべきだとする主張が現れ、さらに、ハイテクなど高度な技術開発に関わる人材がもっと多く必要だから、高度な知識を備えた移民を呼び込めとの主張もある。
移民をめぐる議論で抜け落ちているのは、移民は一人一人が意思を持った人間であるということだ。地球上のどこで暮らすかは個人が選択することであり、個人は国に縛られることなく、個人が国を選択するという意味も移民にはある。資本のグローバル化に個人が対抗する手段の一つが、個人も国境を越えて自由な移動を行うことかもしれない。
米国が移民受け入れに寛容なのは国の成り立ちからも理解できるが、欧州が移民受け入れに前向きなのは、かつての植民地経営で現地の人々を労働力としてのみ扱ってきた経験があるからかもしれない。不足する労働力を補うために、海を越えてアフリカなどから労働力(奴隷)を移動させたという歴史的な経験が英国などにはある。
移民として自国内に労働力を迎え入れて低賃金労働を担わせるというのは、内なる植民地の形成とも見なすことができる。どんな美しく人道的な言葉で飾ろうとも、移民受け入れの実態が使い捨て労働力の受け入れだとすれば、収奪が目的だと見るしかない。現代の移民問題と過去の奴隷貿易を対比させるなら、移民問題の別な面が見えてくる。
国際移民の法的定義はないそうだが国連は、定住国を変更した人々を国際移民とみなし、「3カ月〜12カ月間の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住」と区別するのが一般的と解説しているから、外国人技能実習生は移民と見なされる。
移民を受け入れることにより、開放された社会であることを誇示する欧州が、閉鎖的な日本を批判する一方で、中東やアフリカからの大量の移民殺到に耐えられなくなって、移民の制限(管理)を強化したり、政治問題化して国内対立が強まっているのを見ると、崇高な理念を掲げても現実に裏切られるのだなあと同情したくなる。
移民を受け入れてきたと誇示する欧米だが、移民はもっぱら低賃金労働に従事する労働力となってきた。最近では、先進国の多くでは人口が減少するから、それを補う労働力として移民を受け入れるべきだとする主張が現れ、さらに、ハイテクなど高度な技術開発に関わる人材がもっと多く必要だから、高度な知識を備えた移民を呼び込めとの主張もある。
移民をめぐる議論で抜け落ちているのは、移民は一人一人が意思を持った人間であるということだ。地球上のどこで暮らすかは個人が選択することであり、個人は国に縛られることなく、個人が国を選択するという意味も移民にはある。資本のグローバル化に個人が対抗する手段の一つが、個人も国境を越えて自由な移動を行うことかもしれない。
米国が移民受け入れに寛容なのは国の成り立ちからも理解できるが、欧州が移民受け入れに前向きなのは、かつての植民地経営で現地の人々を労働力としてのみ扱ってきた経験があるからかもしれない。不足する労働力を補うために、海を越えてアフリカなどから労働力(奴隷)を移動させたという歴史的な経験が英国などにはある。
移民として自国内に労働力を迎え入れて低賃金労働を担わせるというのは、内なる植民地の形成とも見なすことができる。どんな美しく人道的な言葉で飾ろうとも、移民受け入れの実態が使い捨て労働力の受け入れだとすれば、収奪が目的だと見るしかない。現代の移民問題と過去の奴隷貿易を対比させるなら、移民問題の別な面が見えてくる。
2017年12月20日水曜日
3つの宗教の聖地
マルコ伝福音書によると、イエスは死後、墓に葬られ、安息日が終わった後、女性の信者たちが墓に行ってみると入口が開いており(当時の墓は洞窟状に掘った広いもので、入口を円盤状の石で塞いでいた)、天使がイエスの復活を告げたという(中村圭志著『聖書、コーラン、仏典』)。
キリストの墓と伝えられている場所に立つのがエルサレム旧市街にある聖墳墓教会だ。近ごろ行われた調査で、教会の中にある埋葬用の洞窟(横穴)から採取された残留物を科学分析した結果、墓は古代ローマ時代には存在していたことが確認されたという。イエスが埋葬された場所だとの証明は難しいが、否定することも難しい。
イスラム教徒にとってもエルサレム旧市街は大切な土地である。預言者ムハンマドが一夜のうちに天に昇って神の声を聞く旅を行った時に、天に昇るために足をかけたのが聖なる岩とされ、ドームで覆った。岩のドームと称される神殿は聖地とされている。
この岩はユダヤ教にとっても、信仰を試されたアブラハムが、息子のイサクを神のために捧げようとした場所として聖地とされている。また、旧約を受けつぐキリスト教にとっても聖地となっている。
岩のドームがある神殿の丘の西側の外壁が嘆きの壁で、ユダヤ教徒にとって大切な場所だ。紀元前10世紀にソロモン王が神殿を建て、破壊されては再建されたものの、紀元1世紀にローマ軍によって破壊されたエルサレム神殿の唯一の遺構だ。ユダヤ教徒の歴史と物語を実感させ、祖国の喪失を嘆き、その再建と復興を祈る場所だ。
聖墳墓教会はカトリック教会、東方正教会、コプト教会などが共同管理し、信者以外も入場できる。岩のドームはイスラム教徒が管理しており、ムスリム以外は建物の中に入ることは禁じられている。嘆きの壁はユダヤ教徒が管理しているが、神殿の丘はイスラム教徒が管理しているので、ユダヤ教徒は入ることができない。
2000年にイスラエルのタカ派政治家シャロン氏が神殿の丘を強行訪問して挑発、パレスチナ人の第二次インティファーダを引き起こした。3つの宗教の聖地が複雑に存在する東エルサレムを含めてエルサレムがイスラエルの首都であると認定した米トランプ氏。中立的な立場と見なされることを放棄した米国が、中東で失うものは多い。
キリストの墓と伝えられている場所に立つのがエルサレム旧市街にある聖墳墓教会だ。近ごろ行われた調査で、教会の中にある埋葬用の洞窟(横穴)から採取された残留物を科学分析した結果、墓は古代ローマ時代には存在していたことが確認されたという。イエスが埋葬された場所だとの証明は難しいが、否定することも難しい。
イスラム教徒にとってもエルサレム旧市街は大切な土地である。預言者ムハンマドが一夜のうちに天に昇って神の声を聞く旅を行った時に、天に昇るために足をかけたのが聖なる岩とされ、ドームで覆った。岩のドームと称される神殿は聖地とされている。
この岩はユダヤ教にとっても、信仰を試されたアブラハムが、息子のイサクを神のために捧げようとした場所として聖地とされている。また、旧約を受けつぐキリスト教にとっても聖地となっている。
岩のドームがある神殿の丘の西側の外壁が嘆きの壁で、ユダヤ教徒にとって大切な場所だ。紀元前10世紀にソロモン王が神殿を建て、破壊されては再建されたものの、紀元1世紀にローマ軍によって破壊されたエルサレム神殿の唯一の遺構だ。ユダヤ教徒の歴史と物語を実感させ、祖国の喪失を嘆き、その再建と復興を祈る場所だ。
聖墳墓教会はカトリック教会、東方正教会、コプト教会などが共同管理し、信者以外も入場できる。岩のドームはイスラム教徒が管理しており、ムスリム以外は建物の中に入ることは禁じられている。嘆きの壁はユダヤ教徒が管理しているが、神殿の丘はイスラム教徒が管理しているので、ユダヤ教徒は入ることができない。
2000年にイスラエルのタカ派政治家シャロン氏が神殿の丘を強行訪問して挑発、パレスチナ人の第二次インティファーダを引き起こした。3つの宗教の聖地が複雑に存在する東エルサレムを含めてエルサレムがイスラエルの首都であると認定した米トランプ氏。中立的な立場と見なされることを放棄した米国が、中東で失うものは多い。
2017年12月16日土曜日
怨霊は今でも祟るか
疫病が流行したり、地震や水害、津波などが発生したり、暴風や雷雨に見舞われたり、日食などに遭遇した古の人々は、怨霊と結びつけて祟りが災いとなって現れたと解釈したという。現在では、疫病の流行や天変地異などにはそれぞれ原因があり、発生するメカニズムも解明されているから、怨霊の祟りの出番はなくなった。
しかし、怨霊信仰が否定されると、例えば、崇徳天皇、菅原道真、平将門らを祀っている神社の存在の意味がなくなる。怨霊が本当に存在するかどうか定かではないが、祟りがないのなら、怨霊を鎮めるとの主張は虚偽だということになる。
祟り封じの神社が存在し続けるためには、怨霊の存在を主張し続けなくてはならず、怨霊と天変地異などの祟りを切り離す必要がある。ただし、科学が発展した現在においても存在すると信じられる祟りは、客観的な検証が不可能で、解釈で祟りだと言い張ることができるものに限られる。
それは例えば、個人の死だ。菅原道真の政敵や失脚劇の関係者らが相次いで死んだり、平将門の首塚を撤去しようとした工事関係者に不審死が相次いだりしたことは怨霊の祟りだとされる。怨霊の祟りが個人に死をもたらすかどうかは検証不可能だが、そうした主張を続けることで神社は存続できよう。
東京の富岡八幡宮の主祭神は応神天皇(八幡神)で祟り封じの神社ではないが、怨霊になって祟るゾと脅して死んだ人物が現れた。宮司を務めたことがあるというから、怨霊と祟りの関係について知識はあっただろうし、遺書ともいえる長文の文書には、宮司職をめぐる家族間の争いや姉への中傷、暴露などが書かれていたという。無念の思いを残して死んだようだ。
その文書には、「私は死後に於いてもこの世に残り、怒霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に崇り」続けるとし、一の宮と二の宮神興を出したなら「私は死後に於いてもこの世に残り、怨霊となり、神興総代会の幹事総代とその子孫達を永遠に崇り」続けると書いているそうだ。
人知を超えた存在や事象を肯定することで信仰は成立するため、怨霊や祟りを否定することは神社には難しいだろう。だが、今回の怨霊宣言を神社は肯定できまいから、真の怨霊は極めて限られているとして、今回の怨霊宣言は死んだ男の妄想に過ぎないとでも否定するしかない。
でも、今回の怨霊宣言は神社にとってビジネスチャンスといえる。もしも関係者に変事があったなら、怨霊の存在を匂わせて神社の存在意義を強調できようし、なんの変事も起きなかったとしても、祟り封じが成功したのだとして神社の存在意義を強調できる。怨霊の祟りがあってもなくても、神社の商売に利用できる。
しかし、怨霊信仰が否定されると、例えば、崇徳天皇、菅原道真、平将門らを祀っている神社の存在の意味がなくなる。怨霊が本当に存在するかどうか定かではないが、祟りがないのなら、怨霊を鎮めるとの主張は虚偽だということになる。
祟り封じの神社が存在し続けるためには、怨霊の存在を主張し続けなくてはならず、怨霊と天変地異などの祟りを切り離す必要がある。ただし、科学が発展した現在においても存在すると信じられる祟りは、客観的な検証が不可能で、解釈で祟りだと言い張ることができるものに限られる。
それは例えば、個人の死だ。菅原道真の政敵や失脚劇の関係者らが相次いで死んだり、平将門の首塚を撤去しようとした工事関係者に不審死が相次いだりしたことは怨霊の祟りだとされる。怨霊の祟りが個人に死をもたらすかどうかは検証不可能だが、そうした主張を続けることで神社は存続できよう。
東京の富岡八幡宮の主祭神は応神天皇(八幡神)で祟り封じの神社ではないが、怨霊になって祟るゾと脅して死んだ人物が現れた。宮司を務めたことがあるというから、怨霊と祟りの関係について知識はあっただろうし、遺書ともいえる長文の文書には、宮司職をめぐる家族間の争いや姉への中傷、暴露などが書かれていたという。無念の思いを残して死んだようだ。
その文書には、「私は死後に於いてもこの世に残り、怒霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に崇り」続けるとし、一の宮と二の宮神興を出したなら「私は死後に於いてもこの世に残り、怨霊となり、神興総代会の幹事総代とその子孫達を永遠に崇り」続けると書いているそうだ。
人知を超えた存在や事象を肯定することで信仰は成立するため、怨霊や祟りを否定することは神社には難しいだろう。だが、今回の怨霊宣言を神社は肯定できまいから、真の怨霊は極めて限られているとして、今回の怨霊宣言は死んだ男の妄想に過ぎないとでも否定するしかない。
でも、今回の怨霊宣言は神社にとってビジネスチャンスといえる。もしも関係者に変事があったなら、怨霊の存在を匂わせて神社の存在意義を強調できようし、なんの変事も起きなかったとしても、祟り封じが成功したのだとして神社の存在意義を強調できる。怨霊の祟りがあってもなくても、神社の商売に利用できる。
2017年12月13日水曜日
新聞休刊と使命感
米リーマン・ブラザーズが破綻したのは2008年9月15日。6000億ドル以上という巨額の負債総額で、一挙に金融不安が米国から世界中に広がり、深刻化した。その15日は月曜日だったが日本では祝日。百年に一度の出来事とも称された世界的なビッグニュースだったので、翌日の新聞で詳しく事情を知りたいと多くの人が思ったかもしれないが、16日は新聞休刊日で新聞は発行されなかった。
百年に一度なら、まさしく世紀の出来事。ニュースを報じた新聞を世に送り出して対価を得る新聞社にとって、世界的なビッグニュースを大々的に報じることは義務であり、記者や編集スタッフの腕の見せ所だと高揚する場面でもあろう。しかし、16日の新聞は発行されず、新聞の使命を果たしているのかと疑念を生じさせた。
半世紀前には新聞休刊日は年2回ほどだったというが、次第に増え、現在ではほぼ毎月1回はある印象だ。年中無休や24時間営業の小売店などは珍しくなく、ネットでは365日24時間、切れ目なく世界からニュースが発信されている世の中になっているのに、日本の新聞社は休刊日を減らすことも廃止することもしない。
優秀な人材が集まっているだろう新聞社は世の中の変化を理解しており、新聞発行に使命感を持っている人たちも少なくないだろうから、休刊日を廃止することに抵抗はないと推察される。だが、宅配に販売を頼っている限り、休刊日を廃止することも減らすこともできまい。新聞休刊日がなければ、休むことができない配達員らが日本の新聞社を支えているのが現実だから。
新聞配達はブラックな職場だとの声もある。午前2時頃から準備する朝刊の配達や午後の夕刊の配達、集金など長時間労働に加え、慢性的な人手不足で休日が少なく、勤務時間が明確でないことから残業代がほとんど支払われていないという。そのため短期で辞める人が多く、求人難が常態化しているとか。
新聞配達といえば、苦学する新聞奨学生のイメージもあったが、応募者は激減し、むしろ日本語学校に通う外国人の留学生やパートの高齢者が増えているという。販売店に余裕があれば、人員を余分に確保して休刊日の減少・廃止に対応できるだろうが、新聞の発行部数が減少を続けているので、そんな余裕はないだろう。
使命感を重視するなら新聞社は休刊日の廃止へ向けて動くべきだろうが、販売店の負担が増して宅配が維持困難になると日本の新聞社のビジネスモデルは破綻する。各社はネットに活路を探るが、有料化は進展せず、広告頼みとあってはネット戦略も手詰まりの感が否めない。新たな収益モデルを打ち出せず、現状システムの改革も進まないとあっては、日本の新聞社は収縮を続けるだけだ。
百年に一度なら、まさしく世紀の出来事。ニュースを報じた新聞を世に送り出して対価を得る新聞社にとって、世界的なビッグニュースを大々的に報じることは義務であり、記者や編集スタッフの腕の見せ所だと高揚する場面でもあろう。しかし、16日の新聞は発行されず、新聞の使命を果たしているのかと疑念を生じさせた。
半世紀前には新聞休刊日は年2回ほどだったというが、次第に増え、現在ではほぼ毎月1回はある印象だ。年中無休や24時間営業の小売店などは珍しくなく、ネットでは365日24時間、切れ目なく世界からニュースが発信されている世の中になっているのに、日本の新聞社は休刊日を減らすことも廃止することもしない。
優秀な人材が集まっているだろう新聞社は世の中の変化を理解しており、新聞発行に使命感を持っている人たちも少なくないだろうから、休刊日を廃止することに抵抗はないと推察される。だが、宅配に販売を頼っている限り、休刊日を廃止することも減らすこともできまい。新聞休刊日がなければ、休むことができない配達員らが日本の新聞社を支えているのが現実だから。
新聞配達はブラックな職場だとの声もある。午前2時頃から準備する朝刊の配達や午後の夕刊の配達、集金など長時間労働に加え、慢性的な人手不足で休日が少なく、勤務時間が明確でないことから残業代がほとんど支払われていないという。そのため短期で辞める人が多く、求人難が常態化しているとか。
新聞配達といえば、苦学する新聞奨学生のイメージもあったが、応募者は激減し、むしろ日本語学校に通う外国人の留学生やパートの高齢者が増えているという。販売店に余裕があれば、人員を余分に確保して休刊日の減少・廃止に対応できるだろうが、新聞の発行部数が減少を続けているので、そんな余裕はないだろう。
使命感を重視するなら新聞社は休刊日の廃止へ向けて動くべきだろうが、販売店の負担が増して宅配が維持困難になると日本の新聞社のビジネスモデルは破綻する。各社はネットに活路を探るが、有料化は進展せず、広告頼みとあってはネット戦略も手詰まりの感が否めない。新たな収益モデルを打ち出せず、現状システムの改革も進まないとあっては、日本の新聞社は収縮を続けるだけだ。
2017年12月9日土曜日
荒れる日本海
西高東低とは冬季の日本列島上の気圧配置を指す言葉で、日本から西方の大陸に高気圧があり、東方の太平洋に低気圧があって、天気図では間隔の狭い等圧線が縦に並ぶ。大陸の高気圧から吹き出した強い北西の風は、日本海で大量の水蒸気を供給され、日本列島に降雪をもたらす。西から東に移動する低気圧が日本海で急発達することも珍しくない。
強い北西の季節風により、うねりや波が高くなり、冬季の日本海は荒れる。時化の日も多いが、ズワイガニやブリ、カレイ、ヒラメ、スルメイカ、マダラ漁など冬季にも日本海では漁業は行われている。今年は北朝鮮の木造船が大量に出漁しているらしい。
冬季の荒れる日本海に出て行くのだから、頑丈な構造の船舶で強風や高波、寒気に対応できる備えが必須だ。だが、東北や北海道の日本海沿岸に漂着する北朝鮮の木造船は古い船体のようで、荒れる日本海での操業に適しているとは見えない。日本の沿岸の岩などにぶつかって解体する例も複数報じられ、構造もそう頑丈ではないようだ。
日本海の「大和堆」と呼ばれる漁場では数百隻の北朝鮮の漁船が操業しているとも伝えられるが、母船を中心にした大規模な船団を構成しているのか、単独の木造船が密集しているだけなのか実態は詳らかではない。古い小さな木造船に見えるが、あれが北朝鮮では「主力」の漁船なのか、「使い捨て」の漁船なのかも不明だ。
北朝鮮の木造船と乗員は、冬の荒れた日本海では過酷な状況の中で操業している。東北や北海道の日本海沿岸に木造船や遺体の漂着が続いているが、日本海の洋上で転覆し、沈んだ木造船や遺体も多いと推察できる。だが、どれほどの木造船と乗員が日本海に沈んだのか実態は不明だ。
北朝鮮では、金正恩委員長の指示で海産物の供給量を増やすことが至上命令になり、それで荒れる日本海でも出漁が促されるが、北朝鮮近海の漁業権を外貨獲得のために中国に売ったため、北朝鮮船は日本海の沖合に出なければならないと報じられている。危険を承知で出漁を強いられるのだとすれば、彼らは北朝鮮の現体制の犠牲者といえる。
北朝鮮の現体制の犠牲者であろうと、勝手に日本の排他的経済水域で操業したり、日本の領海に侵入することは許されないのだが、独裁者に逆らえない(逆らわない)人々にとって、法を守ることの優先順位は低かろう。冬の荒れる日本海と同様に北朝鮮で生きることも過酷なのだと、漂着する木造船や遺体は示している。
強い北西の季節風により、うねりや波が高くなり、冬季の日本海は荒れる。時化の日も多いが、ズワイガニやブリ、カレイ、ヒラメ、スルメイカ、マダラ漁など冬季にも日本海では漁業は行われている。今年は北朝鮮の木造船が大量に出漁しているらしい。
冬季の荒れる日本海に出て行くのだから、頑丈な構造の船舶で強風や高波、寒気に対応できる備えが必須だ。だが、東北や北海道の日本海沿岸に漂着する北朝鮮の木造船は古い船体のようで、荒れる日本海での操業に適しているとは見えない。日本の沿岸の岩などにぶつかって解体する例も複数報じられ、構造もそう頑丈ではないようだ。
日本海の「大和堆」と呼ばれる漁場では数百隻の北朝鮮の漁船が操業しているとも伝えられるが、母船を中心にした大規模な船団を構成しているのか、単独の木造船が密集しているだけなのか実態は詳らかではない。古い小さな木造船に見えるが、あれが北朝鮮では「主力」の漁船なのか、「使い捨て」の漁船なのかも不明だ。
北朝鮮の木造船と乗員は、冬の荒れた日本海では過酷な状況の中で操業している。東北や北海道の日本海沿岸に木造船や遺体の漂着が続いているが、日本海の洋上で転覆し、沈んだ木造船や遺体も多いと推察できる。だが、どれほどの木造船と乗員が日本海に沈んだのか実態は不明だ。
北朝鮮では、金正恩委員長の指示で海産物の供給量を増やすことが至上命令になり、それで荒れる日本海でも出漁が促されるが、北朝鮮近海の漁業権を外貨獲得のために中国に売ったため、北朝鮮船は日本海の沖合に出なければならないと報じられている。危険を承知で出漁を強いられるのだとすれば、彼らは北朝鮮の現体制の犠牲者といえる。
北朝鮮の現体制の犠牲者であろうと、勝手に日本の排他的経済水域で操業したり、日本の領海に侵入することは許されないのだが、独裁者に逆らえない(逆らわない)人々にとって、法を守ることの優先順位は低かろう。冬の荒れる日本海と同様に北朝鮮で生きることも過酷なのだと、漂着する木造船や遺体は示している。
2017年12月6日水曜日
寄生虫
「あいつは寄生虫みたいな奴だ」と言われるより、「あいつはヒトカイチュウみたいな奴だ」と言われた方が具体的なイメージが惹起されるので、言われた側は嫌な気分が増すかもしれない。ただ、ヒトカイチュウが何かを知っている人は少ないだろうから、言われた側は「はあ?」と怪訝そうに聞き返すかな。
ヒトカイチュウには世界で10億人以上が感染しているといわれ、人間と最も「付き合い」が多い寄生虫だ。野菜などと一緒に回虫の卵を人間が食べることで感染する。体内に入った卵は小腸で孵化し、幼虫は小腸から血液やリンパ液の流れに乗って肝臓、肺、気管を経て小腸に戻り、成虫となって卵を産み始める。
かつて日本でもヒトカイチュウの感染率が高かったのは、農作物の肥料として下肥が使われていたからだ。都会でも感染率は高かったが農村では更に高かった。だが、化学肥料の普及と便所の衛生状況の改善、衛生知識の普及などにより、現在では感染率1%未満といわれ、学校での検便も廃止された。
日本ではほぼ「解決済み」のヒトカイチュウ感染だが、韓国への亡命を図って銃撃され、負傷した北朝鮮兵士の体内から、最大27cmの寄生虫が50匹以上も摘出されたというニュースが話題となった。北朝鮮では野菜などの肥料として人糞を用いているためとみられている。
負傷した北朝鮮兵士は栄養不良の状態にあり、ヒトカイチュウに栄養を吸い取られ過ぎたとも、兵士の腹中にはトウモロコシが少しだけあったことから、兵士でも厳しい食糧事情の中に置かれているともみられている。兵士はB型肝炎にかかっていて、犬に寄生する種類の寄生虫も見つかったとも報じられ、衛生環境が悪いことを示している。
東北や北海道の日本海沿岸に北朝鮮からとみられる木造船や遺体の漂着が続いている。生存していた乗員が1カ月も漂流していたと言い、白骨化して漂着した遺体もあり、古い木造船で出漁したものの冬の荒れる日本海で過酷な状況にさらされていたことがうかがわれる。背景には食糧確保が急務という国家事情があるとみられ、衛生環境などには手が回らない状況だろう。
さて、日本でヒトカイチュウ感染は根絶されたわけではなく、有機栽培野菜や輸入野菜の生食の増加で増えることが懸念されている。また、ガーデニングや家庭菜園などの作業で、土の中にいる回虫が手を介して口に入る可能性もあるといい、手洗いを徹底することが必要だという。
ヒトカイチュウには世界で10億人以上が感染しているといわれ、人間と最も「付き合い」が多い寄生虫だ。野菜などと一緒に回虫の卵を人間が食べることで感染する。体内に入った卵は小腸で孵化し、幼虫は小腸から血液やリンパ液の流れに乗って肝臓、肺、気管を経て小腸に戻り、成虫となって卵を産み始める。
かつて日本でもヒトカイチュウの感染率が高かったのは、農作物の肥料として下肥が使われていたからだ。都会でも感染率は高かったが農村では更に高かった。だが、化学肥料の普及と便所の衛生状況の改善、衛生知識の普及などにより、現在では感染率1%未満といわれ、学校での検便も廃止された。
日本ではほぼ「解決済み」のヒトカイチュウ感染だが、韓国への亡命を図って銃撃され、負傷した北朝鮮兵士の体内から、最大27cmの寄生虫が50匹以上も摘出されたというニュースが話題となった。北朝鮮では野菜などの肥料として人糞を用いているためとみられている。
負傷した北朝鮮兵士は栄養不良の状態にあり、ヒトカイチュウに栄養を吸い取られ過ぎたとも、兵士の腹中にはトウモロコシが少しだけあったことから、兵士でも厳しい食糧事情の中に置かれているともみられている。兵士はB型肝炎にかかっていて、犬に寄生する種類の寄生虫も見つかったとも報じられ、衛生環境が悪いことを示している。
東北や北海道の日本海沿岸に北朝鮮からとみられる木造船や遺体の漂着が続いている。生存していた乗員が1カ月も漂流していたと言い、白骨化して漂着した遺体もあり、古い木造船で出漁したものの冬の荒れる日本海で過酷な状況にさらされていたことがうかがわれる。背景には食糧確保が急務という国家事情があるとみられ、衛生環境などには手が回らない状況だろう。
さて、日本でヒトカイチュウ感染は根絶されたわけではなく、有機栽培野菜や輸入野菜の生食の増加で増えることが懸念されている。また、ガーデニングや家庭菜園などの作業で、土の中にいる回虫が手を介して口に入る可能性もあるといい、手洗いを徹底することが必要だという。
2017年12月2日土曜日
最期になって回心
回心という言葉を「えしん」と読むと仏教用語になり、「改心し、仏道に帰依すること」になるが、「かいしん」と読むとキリスト教の用語になり、「従来の不信の態度を改めて、信仰者としての生活に入ること」を意味する。どちらも、単なる入信ではなく、それまでの罪深く誤った生き方を改めて信仰の道に入るという意味で使われる。
宗教にはそれぞれ教えがあり、そうした教えに反して生きている人を「罪深く誤った生き方」などと決めつけたりする。それぞれの宗教が説く信仰者の人生モラルが、普遍的な価値観と一致する場合もあれば一致しない場合もあるから、理性的な判断を重視する人や束縛を嫌ったりする人は、宗教とは距離を置くしかない。
回心という言葉は、宗教の側からすると人が正しい生き方に入ったということであろうが、宗教的な正しさが客観的にも正しいといえるかどうかは、まあ時と場合による。ある宗教が正しいとする考え方や行為が、他の宗教では誤りであると禁止されることも珍しくはなく、宗教的な正しさとは不安定な存在だ。だから、信じるしかない。
人が回心する事情は様々だろうが、死の間際になってからの回心もあるという。病などで死が近くなってから、慌てて救いや心の平安を求めて宗教にすがりついたようにも見えるが、死を前にして真剣に考えた結果なのだろうから軽々に扱うことはできまい。
ただ、キリスト教など一神教において人が死の間際に回心することは、ある種の合理的な判断でもある。その場合の回心とは、全能なる唯一の神の存在を信じ、その神による審判を受け入れることである。つまり、神が存在するのなら、背教者などのまま死ぬよりも、神の側についていたほうが有利だろう。
一方で、神が存在せず、人は死ぬとやがて炭酸カルシウムになるだけなら、神を信じようと信じまいと死後の“行く末”に違いはない。死の間際に回心したところで、その人が失うものはなく、せいぜい「あんな理性的な人だったのに、最後に宗教へ行ってしまった」などの言葉を浴びるくらいだ。でも、もう何を言われても当人の知るところではない。
死を目前にして、死への恐れとも相まって回心する人がいることは、宗教の側が勝利したということではない。死後の“行く末”を知っている人は現世の宗教に関係する人にも誰もいないのであるから、判定のしようがない。
宗教にはそれぞれ教えがあり、そうした教えに反して生きている人を「罪深く誤った生き方」などと決めつけたりする。それぞれの宗教が説く信仰者の人生モラルが、普遍的な価値観と一致する場合もあれば一致しない場合もあるから、理性的な判断を重視する人や束縛を嫌ったりする人は、宗教とは距離を置くしかない。
回心という言葉は、宗教の側からすると人が正しい生き方に入ったということであろうが、宗教的な正しさが客観的にも正しいといえるかどうかは、まあ時と場合による。ある宗教が正しいとする考え方や行為が、他の宗教では誤りであると禁止されることも珍しくはなく、宗教的な正しさとは不安定な存在だ。だから、信じるしかない。
人が回心する事情は様々だろうが、死の間際になってからの回心もあるという。病などで死が近くなってから、慌てて救いや心の平安を求めて宗教にすがりついたようにも見えるが、死を前にして真剣に考えた結果なのだろうから軽々に扱うことはできまい。
ただ、キリスト教など一神教において人が死の間際に回心することは、ある種の合理的な判断でもある。その場合の回心とは、全能なる唯一の神の存在を信じ、その神による審判を受け入れることである。つまり、神が存在するのなら、背教者などのまま死ぬよりも、神の側についていたほうが有利だろう。
一方で、神が存在せず、人は死ぬとやがて炭酸カルシウムになるだけなら、神を信じようと信じまいと死後の“行く末”に違いはない。死の間際に回心したところで、その人が失うものはなく、せいぜい「あんな理性的な人だったのに、最後に宗教へ行ってしまった」などの言葉を浴びるくらいだ。でも、もう何を言われても当人の知るところではない。
死を目前にして、死への恐れとも相まって回心する人がいることは、宗教の側が勝利したということではない。死後の“行く末”を知っている人は現世の宗教に関係する人にも誰もいないのであるから、判定のしようがない。
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