2025年12月27日土曜日

美しいと見る

  美しいものを好むのは人間の自然な感情だろう。だが、美しさに万人共通の基準はなく、美醜は個人の主観による。美しいは「①視覚的・聴覚的にきれいで心をうつ、②精神的に価値があって人の心をうつ。心に深い感動をよびおこす。清らかだ、③いつくしみ・いたわりの気持ち、愛情を感ずるありさま、④小さくて愛らしい。かわいらしい、⑤不足なく整っている。申し分がない、⑥心や行動がさっぱりしているありさま」(大辞林)。

 美しいという言葉の適用範囲は広く、対象に対して何らかの肯定的な感情を持った時に使う。人の外見や振る舞いや動作や精神、自然の景色や街並み、動物の外見や仕草、音楽や絵画など芸術作品ほか…人が美しいと感じる対象は幅広い。均整が取れている対象を美しいとすることが多いのだろうが、不調和の美もあり、乱雑な街並みなどに面白さを感じ、「これはこれで美しい」などと言う人もあろう。

 美しさの反対語は醜さだ。対象に対して何らかの否定的な感情を持ったり、嫌悪感を持ったりした時に醜さを意識する。例えば、日本の街並みには電柱が林立していることが多いが、電線地中化を主張する人々の中には、電柱が林立する日本の街並みを「醜い」と断じる人もいる。電線地中化を感情論で肯定し、正当化しようとする試みだが、感情論が先行すると客観的な判断が鈍る(感情論を煽ることで、地中化に伴う経済活動は容易になる?)。

 美醜の判断が感情論に左右されると、美醜をめぐって意見の相違が顕著になる。美しいとする主張にも醜いとする主張にも、それぞれの感情が支えとなり、妥協することは簡単ではない。だが、美しさも醜さも対象に属しているのではなく、見る人の意識の反映である。見る人の評価が美醜を決めるのだが、評価はその人の価値観に基づいて行われる。

 西洋崇拝または西洋コンプレックスを持つ人は、西洋人の容姿に憧れて西洋人の容姿に似ている日本人を美しいと感じ、西洋の文化を高尚なものと持ち上げて、その美しさを強調したりする。西洋崇拝または西洋コンプレックスを笑う人も、自分の価値観に基づいて美醜を判断する。人々の価値観の幅広さは、美しいとする対象の幅広さとなって現れ、美しいとされる対象は膨大だ。

 人によって特定の対象を美しいとするのだが、この世に存在する全てが美しいと見る人もいる。人間は皆美しく、朽ちた花も電柱が林立する街並みも野良猫も嵐の光景も、見るもの全てに美しさを見いだす。全てを美しいとするのは、この世の全てを肯定する価値観に基づく評価だ。全てを肯定することは美醜の評価をしていないことになるが、特定の対象を美しいとするより、見るもの全てを美しいと感じるほうが幸福感は高いだろう。

 臨死体験をした人も、見るもの全てが美しいと感じるかもしれない。そこには自分の生が伸びたことに対する喜びがある。一方、この世に存在する全てが美しいと見る人は、対象に対して肯定的に見るから「美しい」と感じるのだろうが、醜さを感じず、美しさだけを感じることは人生を豊かにするだろう。美醜は人の評価によるが、美しさに対して醜さがいつも対立概念として存在しているわけではない。

2025年12月24日水曜日

使えない兵器

 ロシアのプーチン大統領は2022年、ウクライナ侵攻に関連して核兵器の使用を示唆して西側を威嚇した。24年にプーチン大統領は、首都モスクワへの通常兵器攻撃が行われた場合、核兵器の使用を検討するとし、ミサイルやドローンなどによる大規模なロシア領内への攻撃を察知した場合にも核兵器を使う可能性を検討すると述べた。

 ウクライナはドローンなどによるロシア国内の燃料施設、軍事施設などや船舶に対する攻撃を繰り返し行っており、遠隔地の爆撃機基地に対する攻撃では計41機を破壊するなど大きなダメージを与えている。だが、ロシアは現在まで核兵器をウクライナに対して使っておらず、ドローンやミサイルを含む通常兵器に限定した反撃を行いつつ占領地の拡大を続けている。

 ウクライナのロシア国内に対する攻撃に対してプーチン大統領が、核兵器使用を検討したのか、検討したが使用しないと決めたのか、検討しなかったのか-明らかではない。ロシアがウクライナに対して核兵器を使用しても、米国もNATOも核兵器による反撃は行わないだろう。核兵器による反撃が行われれば第3次世界大戦の始まりになる可能性が高い。

 ロシアが核兵器を使用するとすれば、占領を目指す地域ではなく首都キーフなどだろうが、プーチン大統領は核兵器使用をためらう。その理由を推察すると、①ウクライナの被曝地の悲惨な状況はSNSなどで世界に拡散され、ロシアとプーチン大統領に対する批判が一気に高まる、②核兵器使用でロシアやプーチン大統領は道義的責任を問われる、③核兵器使用によりウクライナが降伏しても、ウクライナを統治する余力がロシアにはない、④ロシアに融和的だったトランプ政権の離反を懸念した-などか。

 1945年に日本は連合国にとって「絶対悪」だったので核兵器使用による大量虐殺は不問にされたが、現在のウクライナは欧米諸国が支援する西側陣営の一部とされ、ウクライナに対する核兵器使用を欧米をはじめとする世界(ロシアとその従属国を除く)は重大視し、ロシアとプーチン大統領の責任を問うだろう。1945年以来、核兵器を保有する国は増えたが、1回も核兵器は使用されていない。現実に、核兵器は使用できない兵器となっていた。

 政権で安全保障政策を担当する官邸筋が「核を持つべきだ」と記者団に述べたと報じられた。日本の核兵器保有は現実的ではないとも言っていたそうで、自己の見解を披露しただけのようだ。非核3原則があるので日本の核武装への道のりは遠いが、政権内から核武装に触れた発言が出てきたことで大きなニュースになった。

 米国に頼らない日本の防衛を考えると、核武装論が出てくる。しかし、核兵器は使えない兵器だ。核兵器の惨禍を知っている日本で、核兵器を持ったとしても日本の指導者が他国に対して核兵器使用を決断できるのかは不明だ。強権統治を行っているプーチン大統領でさえ、核兵器使用をためらう。スターリンや毛沢東など自国内で数百万〜数千万人の死を容認したような独裁者でなければ、使用を命じることができないのが核兵器だ。

2025年12月20日土曜日

ライブ活動は終わりか

 ザ・ローリング・ストーンズが、計画していた2026年の欧州ツアーを取りやめたとの情報がSNSに流れている。キース・リチャーズが長いツアーに出ることを渋っているとか、キース・リチャーズの腱鞘炎or関節炎が悪化して2時間ものライブステージに耐えられないとかの情報が流れ、もうザ・ローリング・ストーンズのライブを見ることはできないとの悲観論が現れている。

 キース・リチャーズもミック・ジャガーも80歳代となり、年齢的にも、これでもうザ・ローリング・ストーンズのライブを見ることができなくなったとのコメントも多い。彼らは2024年に北米ツアーを行い、翌2025年に欧州ツアーを予定していたというが、2025年のツアーは中止になっていた。日本公演は2014年が最後で、来日を望む声も多かったのだが、もう実現しそうにない。

 米国のブルーズやジャズのミュージシャンなら80歳代になってもステージに立つ人はいるのだが、それはクラブなどのステージで、ザ・ローリング・ストーンズのようにスタジアム規模の広いステージで動き回るライブを行うことはない。小さなクラブで、メンバーは椅子に腰掛けていてもいいから、ザ・ローリング・ストーンズのライブをもう一度見たいと多くの人は願うだろうが、ビッグ・ビジネスとなった彼らにはそうした選択肢はないだろう。

 1950年代に米国でR&B・ソウルやロックンロールが大衆音楽の主流になり、60年代になって米国や英国で多くのロックバンドが現れた。そうしたバンドは、聴いている人々を揺り動かす音楽や演奏を提供し、動き回るライブパフォーマンスを始め、バンドメンバーはステージ外でのロックスターとしての野放図な振る舞いなど、新しいスター像を築いた。ロックの大半の歴史に関わってきたザ・ローリング・ストーンズの影響は大きかった。

 日本を含む世界中にザ・ローリング・ストーンズやメンバーの追随者や模倣者があふれた。ビートルズと対照的に彼らは反抗的イメージで当初売られたが、それは当時の堅苦しい社会規範や品行方正であるべきというスター像を揺るがし、自由に音楽を作ってもいいし、自由にライブを行ってもいいし、自由に生きてもいいという見本ともなり、世界の人々の意識に影響を与えた。

 ザ・ローリング・ストーンズの功績の一つに、商業資本に支配されていた音楽業界のビジネスに風穴を開けたことがある。レコード会社の言いなりに動くのではなく、会社をつくって自分たちで音源を企画・制作し、版権なども管理し、プロモやツアーなども自分たちで管理した。日本の芸能界では芸能プロの支配力がいまだに大きいことを考えると、音楽業界や芸能界の「搾取」に抗ってビッグになったザ・ローリング・ストーンズの凄さが見えてくる。

 「 Satisfaction」「Jumpin' Jack Flash」「Brown Sugar」「Start Me Up」「Honky Tonk Women」「Get Off of My Cloud」「Tumbling Dice」「It's Only Rock'N'Roll」「Star Star」「All Down The Line」など、キース・リチャーズのギターリフなどで始まる名曲は多く、おそらくザ・ローリング・ストーンズが活動を停止しても世界の多くのバンドにカバーされていくだろう。

2025年12月17日水曜日

威嚇の作法

  矢継ぎ早とは「次から次と続けて素早く行う様子」だ。記者が矢継ぎ早に質問した-などと使う。中国が日本に対する批判や交流制限・威嚇・嫌がらせを続けていて、中国政府が矢継ぎ早に対日批判・威嚇などを繰り出しているように見えるが、中国に詳しい人によると、習近平氏の意向を慮って政府内の各部局が競い合って各々の対日批判・威嚇などを繰り出しているのだという。

 政府内の各部局が手柄を競っているのか、何もしないことで批判されることを恐れて慌てて対日批判・威嚇などを行っているのか不明だ。だが、矢継ぎ早に見える中国の対日批判・威嚇などは統制のとれた行動ではなく、てんでに習近平に対する忠誠を競った行為なのかもしれない。矢継ぎ早の対日批判・威嚇などは、「射て」の命令があったと判断して各部局が勝手に「矢を放っている」気配だ。

 沖縄南方の太平洋上で中国機が航空自衛隊機に対してレーダー照射を行った。中国機が照射したレーダーはミサイルの照準を合わせるための火器管制用モードだった可能性があり、交戦のきっかけとなる恐れが高かった。火器管制用モードのレーザー照射に対して、米軍なら即座に反撃していただろうとの見方もある。

 このレーザー照射を行った判断は、中国軍のどのレベルで行われたのかは不明だ。中国軍のトップなのか、海軍のトップなのか、艦隊のトップなのか、飛行隊のトップなのか、当該機のパイロットなのか。中国軍の判断であるとすれば、一触即発の交戦の可能性を織り込んだ日本に対する明らかな挑発だ。だが、中国軍が日本に対して交戦を仕掛けるのなら、東シナ海においても大規模な部隊展開を伴わなければ、太平洋に出ていた空母打撃群を孤立させてしまう。

 当該機のパイロットなど中国軍の末端の判断で勝手にやったことなら、中国軍の統率に欠陥があることを示す。鉄砲玉が送り込まれて対立する組の出入りが始まるのはヤクザ映画でよくある設定だが、歴史を振り返ると末端の兵士の「暴走」が戦火を拡大させた例がある。当該機のパイロットが、日本に対して何をしても許されると判断したのか忠誠心からかは不明だが、勝手に火器管制用モードのレーザー照射を行ったのなら、統率の取れていない中国軍の危うさを示す。

 民生部門が勝手な判断で対日攻撃に動くことと、軍事部門が勝手な判断で対日攻撃に動くことの深刻度は異なる。かつての日本の関東軍のように、軍の一部が独自の判断で行動することの代償は大きい。中国軍(人民解放軍)は共産党の軍隊であり、党の指導という文民統制がなされているはずだが、1党独裁→個人独裁となった現在の中国で、軍内部が手柄を競い始めると、末端が暴走する可能性が出てくる。

 1発の銃弾が戦争につながった例は珍しくないのだから、次にミサイル発射を連想させるレーザー照射は許される行為ではない。相手を脅したり怯ませたりするために行う威嚇で、かかってこいと挑発するのは威嚇の作法に反している。殴るぞと威嚇して、殴り合いになってしまっては威嚇の意味はない。統率に緩みがあって実戦経験が乏しい軍隊は危険だ。

2025年12月13日土曜日

実用車へシフト

 欧州で販売されているEVの多くは、走行可能距離の長さを競って大量の電池を搭載し、それが重量増と高価格につながり、結果として中型車〜大型車での展開となっている。高性能の電池を自給できない欧州メーカーより、電池を自給できるコスト面で圧倒的に有利な中国メーカー製EVが市場シェアを徐々に拡大した。

 欧州連合(EU)は安価な中国製EVに対する反補助金調査を実施し、中国政府の国家補助による低価格で市場を歪めているとして相殺関税措置を発動した。だが中国製EVは新たな関税を課されて勢いは弱まったものの競争力を失ってはおらず、プラグインハイブリッド車(PHV)の販売増などもあって中国車の存在感は増している。

 気候変動対策が最優先だとしてEUはEVへのシフトを政治的にメーカーに強制したが、肝心の高性能な電池を自力で大量生産できるメーカーが欧州にはなかった。開発では日本が先行し、現在では日中韓メーカーが世界的な生産主体となっている高性能な電池の供給について慎重に検討せず、EVシフトを強制したEUの理念先行政策の杜撰さの結果が、中国製EVの欧州進出増加だ。

 そのEUが「小型EV」枠を新設すると報じられた。名称は「E Car」で、日本の軽自動車規格を参考にして小型の電気自動車の規格を決めるという。車体の外形寸法やモーター出力などに上限を設定することで過度な競争を抑制し、開発コストを下げて、低価格の欧州製EVを普及させる狙いだ。ただし、中国から輸入されるEVを排除するため、EU内で生産されたEVのみが「E Car」規格に適合する仕組みだという。

 これは突然出てきた話ではなく、昨年7月にステランティス会長とルノー・グループCEOは、安全規制を緩和した小型車カテゴリーの創設を提案し、同9月に欧州委員会の委員長は新たな小型低価格車カテゴリーの開発に取り組む方針を示し、「E-car」との名称も示唆していた。今年6月にはステランティス会長が、欧州では規制による高価格が消費者需要を圧迫しているとし、日本の軽自動車のような小型で安価な車両を開発する必要があると述べ、ルノーCEOは、車体のサイズに応じて異なる規制を導入して小型車に対する負担を軽減することを提案した。

 テスラや中国メーカーに対抗して欧州メーカーがEVで主導権を取るための「E Car」規格だが、中国メーカーはすでに欧州での生産に動き始めており、新規格に合わせて軽自動車EVでも欧州で生産された中国車が増殖する可能性がある。政治的に動くEUだから、その時には中国車を排除するため新たな規制を考案するかもしれない。

 大きく重いEVは「環境に優しい」とはいえない存在だ。大きく重いEVは通勤や買い物など日常使いに向いていないことは明らかで、軽自動車並みの「E Car」が誕生するなら、EUでも社会全体で見ると環境負荷を減らすことができるだろう。欧州メーカーの車はモデルチェンジのたびに大型化し、かつての米国車のフルサイズ並みに肥大した。日本の軽自動車を参考に、実用車のあり方を再考する機会に「E Car」規格はなろう。

2025年12月10日水曜日

推しとミーハー

 複数の男性が歌い踊るアイドルグループが増殖していて、大半が女性だろうファンには、それぞれに「推し」がいるのだという。「推し」とは自分が好む特定のメンバーのことだが、「推し」を応援するために、グッズを大量に買ったり、各地でのコンサートに出向いたりする。「推し」が属するグループを応援することも「推す」活動になるという。

 複数の男性にグループを組ませることで確実にファンの数は増える。1人のタレントを売り込むより、複数の男性によるグループのほうがメンバー各自にファンがついて売り込みやすいだろう。旧ジャニーズ事務所の男性アイドルグループのように、グループとしての人気が確立し、メンバーにそれぞれファンがついてから、メンバーのソロ活動を増やせば、タレント事務所の商売の幅は広がる。

 メンバーが自発的に集まって組んだグループではなく、芸能プロが組ませたグループだから、メンバーのソロ活動(切り売り)が活発化すれば、グループは活動休止になる。芸能プロがつくり上げたグループだから、メンバーにも音楽活動を続ける意欲は薄く、そもそも自分たちで曲を作ったりもしない(できない)のだから、グループとしての音楽活動は休止する。

 熱心なファンがアイドル歌手のポスターや写真などを集めたり、各地のコンサートに集まるなどの行為は以前から行われていた。「推し」は珍しくない行為だといえるが、昨今はアイドルグループのコンサート会場にはグッズ販売場が併設され、グッズ販売が大規模ビジネス化している。熱心なファンによる「推し」活動は芸能プロなどにとっては直接の収益源となった。

 「推し」という言葉が広まったのは、AKB48のファンからだという。大勢いるメンバーの誰かを好きになったファンが「自分の推しは@@だ」などと言い、それが広まったとされる。複数の女性によるグループや複数の男性によるグループが増殖して、グループのそれぞれのメンバーにファンがついて「推し」が広がったようだ。

 とはいえ、ファンは移り気だ。次から次とアイドルグループが増殖し、大好きだったメンバーよりも新たな「推し」を見いだし、そっちに夢中になったりする。「推し」はファンによる自発的な行為なので、誰を推そうとファンの勝手だ。かつてミーハーと呼ばれた人は「流行に左右されて話題のモノや人にすぐに飛びつく」などと軽薄だと見られたが、「推し」もミーハーも流行に乗ることでは同類だ。

 ミーハーより「推し」活動を行うファンのほうが対象に対する忠誠心が強いようにも見受けられるが、好きだという感情が強く働いている時には、好きだという対象に対する忠誠心が強くなるものだ。だから、もっと好きな対象が現れると忠誠心は移っていく。「推し」もミーハーもアイドルやタレントに対する疑似恋愛なんだから、次から次と好きになる対象を増やすこともできよう。直接会ったこともなく話したことがない対象でも、好きな人が多いことは人生を豊かにするだろうから、「推し」にもミーハーにも効用はある。

2025年12月6日土曜日

救済はない

 ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、セム族にはユダヤ人以外にアラブ人やシリア人、エチオピア人なども含む。パレスチナを追い出され、世界に散らばった2000年以上のディアスポラ(離散)の間に混血も進み、現在もユダヤ人は世界各地に居住しているので、ユダヤ人の定義は「ユダヤ教を信仰する人々」とされ、人種や民族だとは見なされていない。

 ホロコーストは1942〜1945年にナチス・ドイツが行った組織的かつ計画的なユダヤ人大量殺戮のことで、各地の強制収容所での毒ガスによる大量殺戮や各地での大量射殺などで約600万人のユダヤ人が犠牲となった。ユダヤ人だけが殺されたのではなく、ほかにロマ(ジプシー)が約50万人、精神障害者(ドイツ人も含む)が約7万人殺されたという。

 ユダヤ人を人種と定義したのがナチス・ドイツだ。ナチス・ドイツはドイツ人を支配人種であるアーリア人であるとして賛美し、ユダヤ人などを非アーリア人として劣等人種であるとした。アーリア人種の純粋さを保つことを重要視する一方、アーリア人であるドイツ人が世界を支配するためには、ユダヤ人を排除・絶滅させる必要があると組織的かつ計画的にユダヤ人の大量殺戮を行った。

 ナチス・ドイツにとらわれたユダヤ人の中にはキリスト教に改宗した人も多かったと言われるが、ユダヤ人を人種と見るナチス・ドイツは改宗したユダヤ人も含めて大量殺戮した。ユダヤ教の唯一神であるヤハウェは、律法を厳格に守るユダヤ人を救済するとされる。ナチス・ドイツによる死に直面したユダヤ人は彼らの神に救いを求めて祈っただろうが、死を免れることはできなかった。約600万人の中に死後に救済される人がどれだけいるのかは、まさに神のみぞ知る。

 イスラム教の唯一神はアッラーだ。世界を創造した神であり、人々に信仰に伴う様々な規範を守って暮らすことを要求し、最後の審判の日には人々を裁く神だ。イスラエル軍によって徹底的に破壊されたガザでは約7万人が殺害され、救援物資の搬入が制限されて餓死に面した人々がいて、ジェノサイドが進行していると諸国が批判した。ガザの人々の多くはイスラム教徒だろう。死に直面した多くの人は神に祈ったかもしれないが、ガザにおける大量殺戮を止めることはできなかった。

 ヤハウェもアッラーも裁く神である。裁く対象は信者で、神が示した生き方を忠実に実践するよう人々に求めるので、各自の信仰のありようが判断基準となる(神を信じる信者を裁く神であるから、信者ではない人々に対しては冷酷だ)。仏教には人々を救う諸仏がいるが、唯一の絶対神は人々を救済する神ではない。おそらく現世における人間の生死に神は関心がないから、現世で救いを求める信者に神は何もしない。

 ホロコーストを経験・記憶したユダヤ人はやがてイスラエルを建国し、現世において神に救いを求めても無駄だと悟り、自らを守るのは自らしかないと決意した。ユダヤ教を信仰する人々が建国した国が、周辺に住む人々を無慈悲に殺戮することを続けているのは、現世においてヤハウェもアッラーも姿を現さず、死に直面した人々が唯一神に救済を求めても無駄だと示している。

2025年12月3日水曜日

批判主義

 批判主義は哲学では「①批判的精神によって物事に対応する思想傾向、②人間の認識能力の吟味によって認識を可能にさせる条件・限界などを明らかにし、理性の徹底的な自己認識を媒介にして、さらに諸対象の吟味を貫徹しようとする」とされるが、一般には「自分の意に沿わない物事や意見を否定したり、人を含む対象の短所・欠点などを言い立てる行為」だ。

 批判には根拠がいるが、根拠が主観だけなら、「言わせておけ」と周囲は聞き流す。批判の根拠が抽象的な理念だったりすると、現実は理念とかけ離れていたりするので、いくらでも批判することができるようになる。理想や理念を根拠にすることで、現実のあれこれ(人間を含む)は欠点だらけとなり、好きなように批判できる。

 対象に対して好きなように批判していた人や組織が逆に批判されると、黙ったりすることがある。異論に対する寛容を主張する人が批判に対して不寛容になったり、包摂を説く人が自分に対する批判を包摂することができなかったりする。相互批判は重要なのに、批判するだけで自分は批判されないという歪んだ心情はどのように生じたのか。佐伯啓思氏の著作から引用する(『神なき時代の「終末論」』。適時省略あり)。

 「承認や尊厳を求める闘争、つまり自由を求める闘争というリベラルの思想は、やがては、自由に対する一切の障害を排除し、あらゆる抑圧や不合理からの解放を主張し、いかなる差別的取り扱いにも苦情を申し立てるという一種の狂気じみた自動運動に行き着くであろう。抑圧からの解放は永遠に続く。しかし、この解放の自動運動は多大なエネルギーを必要とする」

 1970年代前後から「家族・学校・共同体・企業等の集団・社会慣習・生活上の規律など、個人の自由に対する制約に対して絶えず批判し続けるという徹底した批判主義が出てきた。それは、社会秩序を構成する既存の制度的枠組みを自由への抑圧として批判した。かくて批判主義はリベラルの鬼子である」

 「確かに批判が有効な局面もあり、そういう時代もあったし、むしろ批判こそが建設的である状況もある。批判そのものが間違っているわけではない。しかし、批判主義は決定的な欺瞞を内包している。批判主義は、その批判を決して自らには向けない。自由や平等や権利といったリベラルの価値そのものへ批判を向けることはない。懐疑の目を向けることもない」

 「批判主義は常に敵を外部に求め、自らのあり方を問おうとしない。自らの批判のみを正義とみなし、批判に対する批判を受け付けなくなる。その結果、批判主義こそがリベラルを裏切る。その理由は、もともとリベラリズムが胚胎した自家撞着にあった。内に潜む矛盾の故に、リべラルな価値がその内部から崩壊していくのである」

 権力は常に批判されることが必要で、権力に関わる人や組織には、批判される勇気が求められる。だが米トランプ政権のように、批判されることを受容できない人や組織はリベラル勢力の批判に対して、おそらく何らかの被害者意識を有し、攻撃的な批判を続ける。批判主義に批判主義で応酬しているだけなので、荒涼とした不毛の議論が続く。