2023年6月28日水曜日

「他人」の価値観

 2023年の世界各国の男女平等度をランキングした「ジェンダーギャップ指数」が発表され、日本は146カ国中で125位と評価が低く、先進国で最下位だった。報道によると、政治分野は138位(議員や閣僚級ポストに占める女性の比率が依然として低い)、経済分野は123位(賃金の男女格差などを反映)などと日本は男性優位の社会であり続けていることが示された。

 このランキングで日本の順位を上げるためには女性議員や女性閣僚、女性管理職などを大幅に増やし、男女の賃金格差を大幅に少なくし、女性の高等教育就学率や就業率を大幅に高め、女性の社会参加を積極化するしかない。男性が既得権益を手放さない政界や経済界などでの女性登用は難航するだろうから、ジェンダーギャップに問題意識を持っている(だろう)マスコミ各社が率先して女性登用を進めることを期待するか。

 このランキングは世界経済フォーラムが経済、教育、健康、政治の4分野で各国の評価を数値化して作成した。数値は「0」が完全不平等、「1」が完全平等となり、評価は分野ごとに小数点以下3位までの数値で示される。ただし、数値で示されると客観的な評価であるとうっかり受け止めやすいが、数値を決めるのは人間だ。何に加点し、何に減点するか。それを決めるのも人間だ。

 世界ランキングの種類は多く、人口やGDPなど各国が発表するデータを順に並べたものから、軍事力などのように各国の複数の発表データを組み合わせて順位をつけたものなど様々だ。公表データを基礎にするのはランキングの客観性を装うためと、下位にランクされた国からの批判・不満を予想するからだろう。

 だが、公表データの数値をそのまま使うのではなく、公表データの数値を評価して新たな数値に変えてランキングを作成する方式がある。評価する基準が定められているだろうが、人間がやることだから、判断には評者の価値観が反映するだろう。さらに、評価する基準には、ランキングを作成する組織の世界に対する価値観が込められている。

 ランキングを作成することは世界を評価することだが、発表されたランキングを見て人々は世界を理解する。人々は「他人」の価値観で世界を理解しているのだが、それに気づく人は少なく、自分の考えで世界を理解しているつもりが実は他人の考えをなぞっているに過ぎない。とはいえ世界各国の男女平等度を個人が調べるのは簡単ではないから、世界ランキングの有用さは存在する。

 世界ランキングの対象が、例えば、ヒット曲や映画、食品などだったら、西欧の組織が世界のヒット曲や映画、食品などに順位をつけたとしても、各国の人々は鵜呑みにはせず、異論が噴出するだろう(日本でも異論や批判が噴出するだろう)。ヒット曲や映画、食品などの評価は個人の嗜好や好悪に左右されるので、世界ランキング1位の食品でも世界各国で好まれるとは限らない。

2023年6月24日土曜日

俺の自叙伝

  大泉黒石は1893年(明治26年)、長崎で生まれた。父親はロシア人外交官のアレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチ、母親は本山ケイだが黒石を出産後に死亡した。黒石は祖母に小学3年まで長崎で育てられた後、父親が勤務する中国の漢口に行ったが、父親が死んだので父方の叔母とモスクワに行った。

 黒石はモスクワの小学校に入れられ、数年後に叔母に連れられてパリに移り、リセ・サンジェルマンに入った。「巴里に三年いたが勉強は何もしなかった」黒石は、酒を飲むことを覚え、仲間と大騒ぎしている酒場に踏み込んだ巡査に捕まったことが学校に知れ、退学させられた。黒石は印刷関係の手伝いをしながら雑誌に投稿したりして過ごした。

 日本に帰国した黒石は長崎の中学の3年に編入され、卒業した時には21歳だった。祖母に「露西亜で偉い人間になってくる」と言って黒石はペトログラードに行って暮らしたが、1917年のロシア革命の騒ぎで「硬化した男や女の屍が、他愛もなく重なり合って雪漬けにされていた」市中で銃撃戦に巻き込まれ、同棲相手が「顳顬の少し上の頭骨を通貫かれて」殺され、黒石は日本に帰国した。

 「日本へ帰った俺は、直ぐ京都の高等学校へ入った。間も無く日本人を妻に貰って東京へ来た」黒石は生活に困窮し、原稿を買ってもらおうと雑誌社回りをするがていよく断られ、「豚の皮を草履の裏に仕立てる」手伝いをしたり、屠牛場で牛を殺す仕事をしたりしながら、「原稿を拵えて売る気に」なって夜明かしで書き上げた『豚の皮の新考案』が採用され原稿料を得た。

 こうした半生を奔放な語り口でつづったのが『俺の自叙伝』だ(岩波文庫)。1919年に雑誌に掲載されたのが初出。文学を高尚なものと崇めていた時代に、思いつくままに饒舌に語る黒石は人々に歓迎されて人気となったが、当時の文壇に並ぶ作家たちには警戒され、誹謗されたという。黒石の饒舌な文体が当時の作家たちの文学概念を揺さぶったのだろう。

 例えば、「俺は苦しまぎれに酔っ払って女郎買いに行くんだ」という文章は、小説にしようとするなら「私は自分の心を酔わせ、神経を麻痺させる事によってのみ、一刻の猶予もなく私を追求する不安や焦燥から逃れようと試みた。または、激しい酩酊が必然に導く一切の思慮分別を無視した精神状態の中に、私の出口を持たぬ猛烈な野生を爆発させようと試みた」とするんだねと編集者が言うような時代だった。

 自叙伝とあるが、作家の創作力も随所に発揮されているだろうと感じさせる作品であると同時に、当時の時代が記録されている作品である。現代に比べて人々が貧しく、国々も貧しかった当時、人々は毎日を食いつなぎながら、仲良くしたり助け合ったり摩擦を起こしたり喧嘩したりしながら暮らしていた。5月に発売された『俺の自叙伝』は好評らしく、重版が決まったという。

2023年6月21日水曜日

闇バイトを活用

 高額の報酬を提示して「簡単な仕事です」などとインターネット上で求人する闇バイトの募集は、特殊詐欺の受け子を集める目的が多いとされるが、強盗・窃盗の実行犯や覚醒剤などの運び屋を集めるためにも使われているという。応募時に写真付きの身分証明書のコピーを送り、家族構成などを伝えているため、仕事を断ろうとする応募者は脅されて逃げ出すことが難しいシステムだ。

 そうした闇バイトに応募するのは、お金に困っている人たちや報酬目当てで軽率に動く人たち、順法意識が希薄だったり欠如している人たちだろう。闇バイトで集められた人々の多くは、使い捨てにされるだけだ。変な例えだが、犯罪組織の正社員ではなく、正社員になる見込みもなく、非正規雇用者として一定期間だけ使われる。

 闇バイトを駆使する犯罪グループが東南アジア各国に潜んで、日本に指示を出していることが次々と明らかになっている。フィリピンに潜んでいたルフィグループが関与したとされる広域強盗事件は14都府県で50件以上に及ぶとされるなど、外国から指示を出して、日本で闇バイトで集めた人々に犯罪を実行させるシステムが出来上がっている。

 闇バイトで集められた人々による残虐な強盗事件が多く起きていたことが報じられ、社会に不安を広げた。日本は治安が良いと自慢していたのに、いつどこで誰が襲われるか分からないという現実を見せつけられたのだから、不安は増すばかりか。国外に潜む犯罪グループは「テレグラム」などを使って指示を出しているとされ、日本の警察の捜査は迅速にとはいかない。

 こういう状況を見て「これは使える」と認識した諸外国の情報機関があるだろう。日本人を装ったり、日本人を使ってSNSなどで過激なコメントを発信させ、社会の分断を煽る活動はすでに行われているだろうが、高額の報酬に釣られて犯罪行為も行う日本人が多く存在していて、強盗事件も命じられた通りに実行するという日本人が多く存在することを知って「利用できる」と小躍りしたかもしれない。

 東南アジアから指示して日本国内で闇バイトで集めた人々に犯罪行為を実行させるというシステムがすでに機能しているのだから、そのシステムを諸外国の情報機関が見逃すはずがない。日本国内にデータ収集などを行う支援者を確保しているなら、すぐにでも同様のシステムを構築して強盗などを日本国内で増やす(特殊詐欺には相応のノウハウが必要だが、強盗なら障壁は低い)。

 狙いは、犯罪行為などを増やして社会不安を煽ることだ。社会不安が高まると、政府に対する信頼が低下し、ひいては国力にも影響を及ぼすかもしれない。日本を弱体化させることを狙い、手段を選ばない諸外国の情報機関なら、日本国内における闇バイトを駆使して犯罪をどんどん行わせることも辞さないだろう。

2023年6月17日土曜日

パワースポット

 パワースポットとされる場所が増殖している。この言葉の定義は曖昧で、ある場所を誰かがパワースポットだと主張し、それが広まれば新たなパワースポットの誕生となるらしい。とはいえ、どこでも誰でもパワースポットを誕生させられるものでもなく、何らかのストーリーが必要で、それが他の人々に受容されることが欠かせない。

 パワースポットとされる場所は神社が多いようだが、敬われる山や森や滝や奇岩など八百万の神が宿るとされるような場所もパワースポットとされる。古代からの自然信仰が現代人にも受け継がれているとも見えるが、本気でそれらの神を敬ったり畏れたりする現代人がどれほどいるのか不明だ。その場所に行ってパワーを浴びた気になって満足するだけの人々も多いように見える。

 パワーの定義も曖昧だ。大地のエネルギーとか超自然的なエネルギーなどと説明されたり、何かの霊力とされたりする。それらが満ちている場所がパワースポットで、訪れた人が何かを感じる(あるいは、何かを感じた気になる)ということなので、パワーもスポットも全ては曖昧なまま増殖している。

 歴史のある神社ならパワースポットなどと称さなくても良さそうなものだが、パワースポットとされることに異議を唱えている様子はない。パワースポットだと浮かれた訪問者であっても、訪れてくれれば御神籤など何かを買うだろうから歓迎しているのかな。パワースポットなどと現代風の装いに抵抗がないとすれば、本来の信仰が形骸化して、神社といえども商売大事になったか。

 おそらくパワースポットを訪れる人々の大半は本気で信じてはいないだろう。パワースポットだからと出かける口実にしたり、神聖とされる場所でパワーや癒しや御利益などを得た気分になったりとパワースポット体験を楽しむことが目的だ。観光気分で、おまけに何かのパワーを注入されたような気になることもできるのだから、手頃な気分転換には向いていそうだ。

 見ただけでパワーを注入された気分になることができる代表は太陽で、太陽信仰は世界各地に古くからあり、現代でも初日の出などを喜ぶ人は多い。ただ、太陽はどこからでも見ることができ、特定の場所と紐づけることは困難だ。いわば地表の大半が太陽のパワースポットだから、特定の場所を太陽のパワースポットとして来訪者を呼ぶことは簡単ではない。

 世界の宗教にはそれぞれ聖地とされる場所があり、信者が巡礼に訪れたりする。それらの聖地とパワースポットを同列に扱うことはできないだろうが、現代のパワースポットを喜ぶ人々にとっては同じようなものかもしれない。神も仏も霊力もパワーも、存在すると信じたり感じる人にとっては存在するのだろうから。

2023年6月14日水曜日

水で割ったブドウ酒

  近代化を目指した日本で近代化の進捗具合を見る尺度は西欧だった。西欧の政治や経済、軍事、法体系などの制度が日本の手本になり、さらには文化や生活習慣なども西欧を手本にする意識も生じた。だが、文化や生活習慣などは西欧に匹敵する水準が既に江戸時代には構築されていたので、日本と西欧の文化や生活習慣などは相対主義で見るべきだとするのが加藤周一氏。

 日本は「内部に文化的同一性があり、文化の各領域への分化が非常に進んでいた一方で、そういう文化が国民の全体に広がっていた。ですから外からのショックが自己同一性の危機を引き起こすということにはならない。緩和されてしまう。あれだけ強い文化を中国から長い間入れ続けても、明治以降に西洋をモデルに広範に改革をやっても、まだ自己同一性の危機は起こっていない」(「日本文化の特殊と普遍」=渡辺守章氏との対談、1980年。『加藤周一対話集①』所収)と加藤氏は、日本人の自己同一性の強固さを指摘する。

 西欧から日本を見るときに陥りやすい視線の偏りを分析して加藤氏は、明治以前に日本の文化が独自に高度な発展をしていたことを論じた。加藤周一氏の発言を以下引用する(同。一部修正あり)。


「日本と中国は非常に早くから、文化が世俗化された。そして、それ自体として高度に発達したということでしょう。

 世俗化の過程はかなり複雑です。それは、仏教のように高度に発達した宗教がアニミズム的な宗教としての神道的な世界を圧倒しえなかったということと関連している。キリスト教がゲルマン的な世界に入ってきたときと同じように、もし仏教が神道を圧倒していたら、おそらく文化の世俗化はなかなか起こりにくかっただろうと思います。神道的世界と仏教的体系がつり合いながら高度の文化が世俗化された形で発達したというのが日本の特徴です。

 ところがヨーロッパでは根本的な世俗化はようやく近代に起こったわけだから、いまなお文化の面では基本的に宗教的、キリスト教的だ。だから、ほかの文化をみるときにも、聖なるものと俗なるものとか、宗教的文化と世俗化された文化といった座標軸でみようとする。

 日本文化に対してもそうで、その結果、あるときは能を極度に宗教的なものとしてみたり、それに対する反動で世俗性を強調するということになる。しかし実際は水で割ったブドウ酒みたいなものなんだね。フランス人の考え方はブドウ酒か水かとなる。だから、能は水だ(完全に宗教性がない)、ブドウ酒だ(徹底的な宗教劇だ)と、どっちかになってしまう。

 しかし、日本人の歴史的・国民的体験は「水割り」なんだよね。薄くなるけど少しはアルコールもある。水でもないけどブドウ酒でもないというものなんです。極端にいえば天皇制から能までみんな同じなんですよ」

 「日本は立派だ」という日本礼賛の記事や番組があるが、その根拠は西欧などに日本文化が受容されたことだったりし、西欧を尺度にする発想が抜けきれていない。そうした日本礼賛とは異なる視点で加藤氏は、日本文化などが独自に高度な発展を遂げていたことを主張した。欧米での暮らしが長かった加藤氏だから説得力がある主張になっている。

2023年6月10日土曜日

タレントで商売

 多くの人気タレントを抱えている芸能事務所が、テレビ局やそのバックにいる新聞社、出版社に大きな影響力を有しているという構図は最近始まったものではない。多くの人気タレントを好む人々が膨大に存在しているので、テレビ局や新聞社、出版社はタレントの人気にあやかって商売する。

 マスメディアに大きな影響力を持つ芸能事務所に対して批判や怨嗟の声がないわけではない。そうした声が封じ込められるか無視されるだけで表面化しにくいのは、マスメディアが取り上げないからだ。マスメディアが自社の利害に関わることでは、批判精神を簡単に放棄するのは珍しいことではない。

 そうした中で芸能事務所に対する厳しい批判を行ったのは竹中労氏だ。『タレント残酷物語』(エール出版社、1979年)には、例えば、次のような文章がある(適時省略あり)。

「芸能プロがいかに法網をくぐり、税金をごまかし、いわゆるユニット(下請け契約)、音楽著作出版、実演興行のプロモートのからくりで不当な利益を挙げているか。1968年に出版した『タレント帝国』以降、その欺罔を暴く作業を私は一貫して、芸能界からゲット(閉め出し)された。この社会における収奪のありようは、つまりタレントを管理して、ギャラを搾取することに尽きる」

「『タレント帝国』から十年、芸能プロダクションの人間管理、略奪のシステムは、本質的には少しも変わっていない。『街角で振り返られる』スター、タレントへの憧れ、芸能人志願の少年少女が巷にあふれ、昼も夜もそれを煽り立てるTV文化のある限り、“虚像を売る”稼業は繁栄を続けていくのである」

 竹中労氏はナベ・プロに焦点を当てて収奪システムを暴いた。例えば、人気タレントが「億の単位を稼ぎながら三十万円、五十万円そこそこの月給で酷使されている」「アグネス・チャンの場合、収入の80%を芸能プロが取る」「小柳ルミ子の場合、月保証三十万円の時代に年間売上げは五千万円」「キャンディーズは推定15億円を稼いだ。月保証は“引退宣言”の時点で五十万円といわれる」など。

 ジャニーズ事務所の創業者であるジャニー喜多川氏による所属タレントに対する性加害を最近になって日本のマスメディアも報じ始めたが、そうした犯罪行為を長年放置してきた芸能事務所に対する責任追及には及び腰だ。明確な犯罪行為に対しても相手が人気タレントを多く抱える芸能事務所となれば批判精神が萎えてしまうマスメディアの体質は、竹中労氏がナベ・プロの収奪システムを暴いた当時と変わらない。

2023年6月7日水曜日

レバニラ丼

  日本の飲食店には多くの丼ものメニューがある。天ぷら屋には天丼やかき揚げ丼、寿司屋には鉄火丼やマグロ漬け丼やマグロ山かけ丼、ウナギ屋にはうな丼やうなたま丼、焼肉屋には焼肉丼やカルビ丼、中華屋には中華丼やマーボー丼や天津丼があり、食堂にはカツ丼、親子丼が欠かせないが、さらに各種の丼ものメニューを増やしている店は珍しくない。

 牛丼のチェーン店は全国に広がり、多くの飲食店がメニューに取り入れた。海辺の街では海鮮丼やシラス丼、うにイクラ丼などが名物という飲食店などが観光客を集め、豚丼など地方の名物丼が人気となって全国に広まった丼飯もある。鶏肉の代わりに豚肉を使った他人丼も一般化し、ルーローやビビンバなど台湾や韓国の人気メニューも日本で丼飯になっている。

 白米に何かの具材を載せれば丼飯が出来上がるので、新たな丼飯は増え続ける。カレーを乗せればカレー丼の出来上がりで、チャーシューを乗せればチャーシュー丼、すき焼きを乗せればすき焼き丼、豚キムチを乗せれば豚キムチ丼、牛ステーキを乗せれば牛ステーキ丼、生姜焼きを乗せれば生姜焼き丼、ジンギスカンを乗せればジンギスカン丼、焼き鳥を乗せれば焼き鳥丼、唐揚げを乗せれば唐揚げ丼などと新メニューの開発の苦労はないように見える。

 家庭でも、スクランブルエッグを乗せればスクランブルエッグ丼、缶詰の焼き鳥と卵を炒めて乗せて親子丼、また、豚肉やひき肉と卵を炒めて乗せたり、缶詰のツナとキムチを混ぜ合わせて乗せたり、納豆にネギやマグロの中落ちを混ぜ合わせて乗せたり、肉じゃがの残りを卵でとじて乗せたり、唐揚げやコロッケなど残り物を卵でとじて乗せれば丼飯の誕生だ。卵があれば、玉ねぎやネギ、ニラなどと炒めるだけでも具材となる。

 何かの具材を載せれば丼飯が出来上がるので、新作は次々と創作できそうで、丼飯は無限に増えそうだ。卵かけご飯も丼飯に似ているが、茶碗の白米に生卵を割って乗せるのが一般的で、丼ものとはちょっと違うか。丼ものの定義は①器は丼を使う、②白米の上に具材を乗せて覆うーだろう。ぶっかけ飯がイコール丼飯ではない。

 また、焼きそばを乗せれば焼きそば丼、お好み焼きを乗せればお好み焼き丼、ざる蕎麦を乗せればざる蕎麦丼、チャーハンを乗せればチャーハン丼、肉まんを乗せれば肉まん丼の誕生ーなどとはならないだろう。丼の白米に乗せるのは、おかずとみなされるものに限られる。西洋料理のおかずでも丼ものが創作できそうだが、白米を食べる習慣が乏しい歴史もあってか、西洋料理と丼ものの相性はあまり良くないようだ。

 全国には独自の丼ものを提供している飲食店がありそうだ。おかずになるものなら何でも白米に乗せることができるのだから丼ものの世界は広い。中華料理にはまだ丼の白米に載っていないおかずが多く、そのうちにレバニラ丼とかエビチリ丼、酢豚丼、キクラゲ卵豚肉炒め丼など出てきそうだ。和食店なら焼き魚や煮魚の身をほぐして乗せた焼き魚丼とか煮魚丼、様々な自家製の漬物を刻んで乗せた漬物丼か。

2023年6月3日土曜日

交換価値のデジタル情報化

  インターネットで個人ができることは、▽通信(文字や音声、画像、書類などを送受信)、▽検索(インターネット上に公開されている情報を調べる)、▽映画やドラマなど動画の視聴、▽通販でモノなどを買う、▽オンラインショップを開設してモノなどを販売、▽オークションなどでモノを売買、▽個人が作成した文章や写真などの公開、▽他人の文章や写真などを見る、▽商品や店舗の広告、▽納税など行政手続きーなどがある。

 デジタル情報に変換できるものは、次々とインターネット上に移った。書籍や雑誌や論文などの文字情報から始まり、写真や図表など静止画像が続き、やがて映画やテレビ番組などの動画の配信が可能になり、双方向性を活用して商取引、各種の行政手続きなどとともにSNSなど人々の交流の場となり、通信速度の高速化もあってインターネットは日常生活のインフラとして不可欠のものとなった。

 そして現在は紙幣や貨幣をインターネット上に移す過程が進行中だ。正確には紙幣や貨幣が有する交換価値をデジタル情報化して、インターネット上で決済できるようになった。パンデミックで、不特定多数が触った紙幣や貨幣の受け取りを忌避する傾向が表面化して日本でもインターネットによるキャッシュレス決済が一気に広まった。

 交換価値は抽象的な存在であり、見ることも触ることもできない。本当に存在しているのか不確かだが、人々は交換価値が存在すると疑わない。紙幣や貨幣の交換価値は、それらを受け取る側が交換価値の存在を疑わないことで成り立っている。1万円札は精巧な印刷がほどこされた紙切れにすぎないが、その交換価値を保証するのは国家であり、国家に対する人々の信頼が紙幣や貨幣の交換価値を支えている。

 仮想通貨もインターネット上に現れたが、民間が作成した仮想通貨の交換価値は不安定で、その交換価値は大きく揺れ動く。国家による裏付けがない交換価値は取引市場まかせだから、買いが増えれば上がり、売りが増えれば下がる。仮想通貨は実物経済における取引には限定的にしか使用されず、ほとんど投機の対象となっている景色だ。

 仮想とは実在しない何かを存在すると見なすことで、紙幣や貨幣の交換価値そのものも仮想といえば仮想である。国家の裏付けがある交換価値のデジタル情報化が可能なのは、デジタル情報化しても交換価値が実在すると人々が信じるからだ。さらにインターネット上には仮想空間も誕生して新たなビジネスの場になると期待する向きもあるが、民間が作成した空間なので、そこにどれだけの価値があるのか人々はまだ慎重だ。

 自国の紙幣や貨幣の交換価値が不安定になって減少すると、人々は他国の紙幣の交換価値に目を向け、例えば、自国通貨よりも米ドルを求めるようになったりする。現在の世界では、実物経済の規模をはるかに上回るマネー(交換価値)が動き回っているとされ、そうしたマネーが更なるマネーを得るためには、実物経済からの収益だけでは限りがあるので投機に向かい、バブルを世界各地で生じさせたりする。交換価値が過剰に存在する世界に我々は生きている。