2015年9月30日水曜日
剥がれた化けの皮
独フォルクスワーゲン(VW)自慢の「クリーン」ディーゼルの化けの皮が剥がされて大騒ぎになっている。実際の走行時にはNOXなどを環境基準の40倍も排出しており、「クリーン」どころか、大気を汚染しながら走る車であることが明らかになった。当初は、技術部門の担当者の“暴走”ともされていたが、続報が増えるにつれて、会社ぐるみの行為であり、監督すべきEUが黙認していた可能性も浮上している。
明らかになったことを列記すると次のようになる(9月30日現在)。
▽▽VW本社が、2005年から06年頃に不正ソフトウェアをディーゼル車に搭載することを決めたと独通信社が報じた。米国の厳しい排ガス基準を満たすディーゼル車の開発を目指したが、厳しい排ガス規制に対して採算がとれる対策の必要性に迫られ、コストのかさむ排ガス浄化装置でなく、不正ソフトの使用を決めた。
▽▽VWで2011年頃に社内のエンジン部門の技術者らが、一部のディーゼル車について、排ガス基準を満たしておらず、違法の可能性があると指摘していたが上司が取り合わなかったと独紙が報じた。VWは社内で不正が見つかったのに放置し、世界各地で販売を続けていた可能性がある。
▽▽07年には、ソフトを試験目的で納入したボッシュが、規制逃れに使えば違法になると警告していたという。
▽▽欧州連合(EU)が2013年時点で、ディーゼルエンジン車に搭載された違法ソフトウエアの存在を把握していたと英紙が報じた。
EU欧州委員会の研究機関は13年にまとめた報告書で、一部ディーゼル車について調査の結果、路上走行時の窒素酸化物(NOX)の排出量がEUの基準値を大きく上回ったことを指摘。報告書は、車両に搭載された装置には試験を感知して排ガス量を減らす機能があると指摘。ディーゼル車については屋内試験に加え、路上走行による試験も導入すべきだとしていた。
EUは07年以降、不正なソフトウエアの使用を禁じ、走行試験の導入も図ったが実現していない。EUが独自調査などに取り組まず、「問題を追及しなかった」と英紙は指摘。
どうやらVWは10年も前から不正ソフトで排出ガス基準をクリアして、環境に優しい「クリーン」な車として売っていたようだ。担当の少数の技術者が“暴走”したのではなく、本社が容認していた。「クリーン」で燃費が良く、きびきび走る車を自社で開発できたなら不正をしなかっただろうから、「クリーン」でしかも燃費が良い車を開発できなかった焦りが、排ガス基準の不正クリアにつながったのだろう。
新たに出てきた問題は、EUがなぜ、「クリーン」ディーゼル車の実際の走行時におけるインチキさを放置していたのかだ。EUはCO2排出削減で厳しい基準を自動車メーカーに強制するので、ハイブリッド車の開発などが遅れた欧州メーカーは、ガソリン車よりCO2排出量が少ないディーゼル車の開発を優先した。が、ディーゼル車は排気ガス中のNOXとPMが難問で、本当に「クリーン」にしようとするとコストがかかる。
それでEUは、CO2排出削減を優先すべきだとして、「クリーン」ディーゼル車の実際の排出ガスが「クリーン」ではないという問題には目を瞑ることにしたのか。さらに「クリーン」ディーゼル車で欧州メーカーの技術的優位を築き、さらには販売面での支援にもなる……だが、こうした戦略は、砂上の楼閣であったことが明らかになりつつある。
2015年9月26日土曜日
なぜ解散・総選挙を要求しないのか
委員長席に詰め寄り、実力で委員会の進行をストップさせようとする野党と、スクラムを組んで委員長をガードして採決を強行しようとする与党……同じ光景は、実は過去に何度も繰り返されてきた。世代は変わり、議員も入れ替わっているはずなのに、同じ光景が繰り返されるのは、これが、与野党対立法案の決着のつけ方の1つだと定着しているからだろう。
殴り合いなどが起きないのは、まだ与野党ともに自制が働いているからだとも見ることもできようが、乱闘もどきは馴れ合いの一種で「お約束」のパフォーマンスだから、それなりの作法が決まっているのかもしれない。みっともない光景には違いないが、これが日本の議会制民主主義の蓄積した成果の1つだとするなら、議員だけを笑ってすますわけにもいかない。
本会議になると、さすがに乱闘もどきのパフォーマンスは行われないが、与野党対立法案の採決を妨害するため、与党側の議会関係者らの責任を問う決議案などが次々に提出されたり、長時間の演説をするフィリバスターなどが行われ(演じられ?)、採決になると牛歩戦術なども行われたりもする。
これらは過去に何度も日本の国会で繰り返されてきた光景で、特に野党は、最後の抵抗手段として“技”を伝承してきた。しかし、そうした抵抗手段によって与野党対立法案の成立を阻止できたことはない。結果として、それらの野党の抵抗手段は空振りだった。いや、マスコミが大きく取り上げ、野党の奮戦ぶりを伝えてくれるので、野党の存在をアピールするためには効果があった。
日本では政権交代は滅多に起こらず、自民党が中心となる政権が長く続いてきた。そうした状況では野党が、選挙に勝利して政権を担うことを目指すよりも、議会内での抵抗に存在意義を見いだし、議会内での抵抗に一生懸命になることも不思議ではない。だが、それは数人から十数人程度しか当選させられない弱小野党の役割だ。
野党第1党ならば、選挙で勝利して政権を担うことを常に目指さなければならない。かつての社会党のように、野党第1党でありながら十分な数の候補者を立てず、過半数をとる気があるのかと疑念を持たれたなら、イデオロギーにとらわれた観念論で政権攻撃を激しく繰り返しても、実際に政権を担当する気がないンだなと主権者に見透かされる。
選挙で勝利して政権交代を実現した経験が野党第1党の民主党にはある。法案反対が過半の民意だとするなら、民主党は「民意を問え」と主張し、解散・総選挙を要求すべきだ。そして選挙に勝って、政権交代を実現し、政権を担って問題法案の修正に取り組む……でも、選挙に勝つ自信がなければ、そんな主張はできないか。
民主党政権の迷走ぶりはまだ記憶に新しい。いざ総選挙になっても、民主党は20〜30議席増やすのがせいぜいだろうし、自民党の第1党も維持されるとすれば、総選挙の結果として問題法案に対する主権者の支持が示されることにもなりかねない。だが、それでも「民意を問え」と主張するのが野党第1党の責務だ。国会内でのパフォーマンスよりも、常に政権交代を目指す行動を優先することが、野党第1党を鍛える。
2015年9月23日水曜日
ディーゼル賛美に不都合な現実
ガソリン車よりCO2排出量が少なく、燃費が良いというディーゼル車だが、騒音が大きく、排気ガス対策に難ありと日本では市場は商用車などが主体だった。最近、排気ガス対策が進んだことで、ディーゼルエンジン搭載の乗用車が各社から発売されるようになってきた。欧州ではディーゼルエンジン搭載の乗用車は普及しているので、欧州メーカーも日本市場に投入するディーゼル乗用車を増やしている。
自動車ジャーナリストらは早速、ディーゼル乗用車の礼賛に励んでいる。もともと欧州車崇拝の傾向がある日本の自動車ジャーナリストだから、欧州でディーゼル乗用車が普及しているとあっては、日本も見習うべきと手放しでディーゼル乗用車を薦める。欧州に対する批判は弱く、欧州は基準にすべきものと思い込んでいるようなので、ディーゼル乗用車に対する冷静な検証は希薄だ。
そうしたディーゼル乗用車賛美の流れに不都合な疑惑が浮上した。米国でフォルクスワーゲンが排出ガス基準をズルしてクリアしていたという。その方法は、違法なソフトウエアを活用し、排出ガステストの時は排出ガス浄化機能をフル稼働させて排出ガスを「クリーン」にするが、通常の走行時は排出ガス浄化機能を低下させるというもの。これで、排気ガスが「クリーン」で、通常走行ではきびきび走るという自動車ジャーナリスト絶賛の車が出来上がる。
ただし、通常の走行時には排出ガス中の有害物質のNOX(窒素酸化物)は、排出ガス基準の40倍に達するケースがあるというから、極めて悪質な行為であり、健康への害などを考慮すると犯罪行為と見なすべきだろう。フォルクスワーゲンは「信頼を裏切り、深くおわびする」と謝罪し、事実を認めた。
この疑惑は、「クリーン」ディーゼルなるものへの信頼性と信憑性を揺るがす。フォルクスワーゲンが使った違法ソフトの同類を各社も使用しているのではないか。排気ガスが「クリーン」なディーゼル乗用車は、走行性能が損なわれていないことが評価されているが、通常走行でも排出ガスを浄化しているのか。こうした疑惑を晴らすためには、全てのディーゼル乗用車の通常走行時の排出ガスを再検査しなければならない(つまり、実行はされない)。
ディーゼルエンジンの不都合な情報といえば、発がん性との関連もある。2012年にWHOが、ディーゼル排ガスには「発がん性が十分認められ、肺がんの危険性を高める」との調査結果を発表している。発がん性の評価でディーゼル排ガスは、最も危険性が高い段階に位置づけられたと報じられたが、自動車ジャーナリストが書くディーゼル関連の記事では、そうした情報は見かけない。
さらに、ディーゼルエンジンとの因果関係は不明ながら、ディーゼル乗用車の普及率が高いフランスなどで大気汚染が深刻化している。PM2.5といえば中国の大気汚染をまず連想するが、パリなどでもPM2.5が環境基準を大きく超え、問題になった。粒子状物質(PM)が健康に有害であることは知られている。
欧州でディーゼル乗用車が普及したのは、ガソリン車よりも規制が緩かったからだという説もあり、欧州の現状を日本が見習うべきとする根拠はない(欧州にコンプレックスを持つ人や欧州崇拝者は別だが)。フォルクスワーゲンのようなズルをして各社が規制をクリアしているわけではないだろうが、ディーゼル乗用車にも課題は多く、流行のディーゼル礼賛に踊らされないよう注意が必要だな。
2015年9月19日土曜日
会議は開かれたのか
中国の首都・北京から東に300キロ弱の、海岸に面した避暑地が北戴河だ。ここで夏に共産党の高官、長老らが集まって、主要政策と主要人事の骨格を決める秘密会議が開かれる。北戴河会議と呼ばれ、長老が影響力を維持するためには重要な舞台だが、開催されなかった年もあり、必ず開かれるものでもないらしい。
今年の北戴河会議についてメディアやチャイナウオッチャーらの多くは、開催されたと見て、誰が出席し誰が欠席したか、何が主要な議題となったか、次の人事はどう決まったか、どういう対立があったのか……などについて推測する記事や論評を公表した。公式の発表はないのだから、それぞれのニュースソースの広さ、深さ、信頼性比べともなる。
現在の習近平主席を中心とする指導部は、政府や党、軍の高官をも対象に遠慮なく腐敗摘発を進める。それが長老らの人脈や既得権益を脅かし、水面下での対立が激しくなっているとも伝えられ、今年の北戴河会議では対立が先鋭化し、表面化するのではないかとする向きもあった。
非公式の秘密会議だから、開催されたかどうかは発表されず、何が話し合われ、何が決まったか、全てが闇の中だ。国家機構の上に共産党が位置し、法治が軽んじられる人治の中国。その最高方針を実質的に決めるという会議で、何が話し合われ、何が決まったかが明らかにされない……独裁政治なのだから、世論を納得させて支持を得ることは不要だろうが、北戴河会議の存在そのものが「閉ざされた中国」の象徴となる。
だから、今年の北戴河会議は開催されなかったとの説が出て来る。いつまでも影響力を振るい続ける長老の江沢民元主席らの「干渉」を嫌って習近平主席は今年の北戴河会議を開催せず、北京から南南東に100キロほどの天津で現役の常務委員だけを集めて会議を開いたという。その会議の期間中に大爆発事故が起きた。
会議と爆発事故が偶然に重なったのか、それとも、習近平主席らを狙った爆発なのかは定かではない。が、異常な規模の爆発が天津で起こり、その詳細が明らかにされず情報は統制され、跡地は公園にする事が決まるなど素早い幕引きが進んでいることは事実だ。情報が制限されていることが様々な憶測を招来する。
北戴河会議は開かれたのか。天津の大爆発の時に習近平主席はどこにいたのか。改革開放以降の中国は、以前に比べて情報量は大きく増えたが、重要な情報は隠されるという体質は変わらない。それが、国際社会における中国の不安定さを強調する。
2015年9月16日水曜日
供給過剰のツケ
農作物や漁獲物なら、あらかじめ収穫量を決めることができないので、豊作や豊漁で供給過剰になれば市場で価格は暴落し、逆に不作や不漁で供給不足になれば価格は上がる。供給量の変動により市場で価格が上下することで、供給に応じて需要が調整される仕組みだ。価格の変動を抑えて安定させようとするなら、収穫量や漁獲量の調整が必要になるが、生産者の同意形成が難しかったりもする。
工場で生産されるものなら、損を出してまでも生産する企業はないはずだから、需要に応じた供給がなされる……はずだが、実際には供給過剰が繰り返される。売れる商品を各社が群がって製造し、販売するので、やがて需要を上回る商品が市場に溢れ、供給過剰に陥り、価格競争を繰り広げることになる。
価格競争を続けることができなくなった企業は市場から退出、退出した企業の分だけ生産力が削減されることを繰り返し、需要に見合った供給へと調整されるというのが市場経済の調整メカニズム……のはずだが、現実にはそう簡単には進まない。次の売れ筋商品が簡単に見つかるはずもなく、工場や従業員を抱えてを遊ばせておくわけにもいかず、生産を続けたりする。
供給過剰が続くことで不景気となり、企業が淘汰されることで景気が持ち直し、やがてまた供給過剰となって不景気になるという景気循環を繰り返すのが市場主義経済の欠点だとして、需要に対応した生産を主張する計画経済という考え方がある。そのためには、個別の企業の生産をも国家が管理することが必要になる。
必要なものを必要な分だけ生産するというのは、賢い方法にも思うが、個別企業レベルならともかく、国家単位で計画経済が成功した例はない。必要な分だけの生産ということは、生産したものは、売れることが決まっているということでもある。品質を良くして、他社のものより売れるようにしようなどという努力をする必要がない。
高成長が続いて過大な生産力を構築したため、供給力過剰に直面しているのが今の中国だ。インフラ投資で成長を牽引してきたが、過剰なインフラ投資のツケで債務が拡大した。鉄鋼や石炭、セメント業界の巨大な生産力は需要水準を3割上回っているとされ、昨14年に2300万台以上が売れた自動車業界の生産能力は合計すると5000万台にも達するとされる。
甚だしい供給過剰の状態にある中国で、企業の多くは中央や地方の政府と何らかのつながりがあるので、淘汰は進まない。供給過剰という市場主義経済の弱点と、需要軽視という計画経済の弱点が同時に現れた今の中国。一路一帯構想などで中国周辺の需要を取り込み、中国の過大な供給力のはけ口にしようと目論むが、中国より資金力が乏しい国でインフラ整備を行ったとしても、収益は限られていよう。
過剰な供給力に見合った需要がないなら、供給力を削減するしかない。過剰な生産力は、過剰な在庫につながる。余分な生産設備を破壊し、生産力を減少させることで、実際の需要とバランスをとるしかない。そうした決断を下すのは、市場主義経済では個別企業の経営者だが、中国では曖昧だ。中国の企業は市場主義的に行動するが、計画経済的に政府の指示を待つ。計画経済と市場主義経済をミックスしたことによる中国経済の弱点が続々現れてきた。
2015年9月12日土曜日
次に、やるべきこと
例えば、「戦争につながる」「民主主義を害する」「国民の権利が制限される」などとして広く社会にデモなどの反対運動が巻き起こる法案がある。先に反対運動があって、そうした反対運動に押されて野党が議会で反対するようになることはなく、議会での野党の反対を援護するように反対運動が盛んになったりする。
だが、議会で多数を占める与党に押し切られて法案が成立すると、「暴挙を許さないぞ」などと野党もデモなどの反対運動も“抵抗”を続けていく姿勢をアピールするが、やがて、そんな声は聞こえなくなる。そして次の国会になると、次の与野党対立法案が控えていて、野党は新たな反対運動を煽り始める。そんなことを日本の政治は繰り返してきた。
常に政権批判を続けるのは、議会における野党の重大な役割だ。権力の暴走を監視し、特定層の限られた利益を優先する政策の実施にはストップをかけ、与党が見向きもしない人々のことも考えるのは野党の役割だ。だが、野党の役割と、政党の役割とがいつも一致するわけではない。野党として妥当な行動が、政党としても妥当な行動であるとは限らない。
大きな問題があると野党が見なす法案が成立したなら、野党は次の与野党対立法案に重点を移して、政権批判を続ける。だが、「戦争につながる」「民主主義を害する」「国民の権利が制限される」などと激しく批判した法案が成立した後、その批判にウソがないなら、政党としては、それらの問題法案の廃止や改正を目指すのが当然だろう。だが、成立した後に野党は、激しい批判の言葉がなかったかのように、問題法案を“放置”する。
そうした行動が明らかにするのは、(万年)野党が政党としてイビツであるということだ。選挙で多数を獲得して政権を担い、より良い方向へ社会を具体的に変えていこうとするのが政党の本来の姿だろう。だから、問題がある法案が成立したならば、そこで諦めるのではなく、問題がある法案の廃止や改正に向けて動くのが政党としての正しい在り方だ。そのためには、次の選挙で勝って政権を担うための具体的な行動が必要になる。
声高に政権批判を続けることは、野党の役割ではあっても、具体的な政策の実現で社会を変えようとする政党の優先すべき役割ではない。おそらく(万年)野党は、(万年)野党であることの無力感をごまかし、メディアに取り上げられて存在意義を示すために、大げさに危機感を煽る文句で政権批判する。しかし、それは野党が政党として奇形であることをも示す。
議会制民主主義が機能するためには、自由選挙だけでは不充分だということを(万年)野党の存在が教えてくれる。政党として(政治家としても)、政権批判を続けた以外に具体的な成果を残すことができない存在に忸怩たる思いは当然持っているのだろうが、それは、言動からは伝わってこない。
2015年9月9日水曜日
日米安保なしの防衛コスト
あるブログに「日米安保なしで防衛しようとすれば、今の防衛予算は4倍以上の20兆円以上になるという試算もある」とあった。その試算が正しいなら、日米安保は安上がりだとつい思いたくなるが、どうにでも積み上げて膨らますことができるのが軍事費。その試算が、どれほど客観性があるものなのかと確認しようと検索、探したが、見つからなかった。
代わりに見つかったのが、同様の趣旨だが、「防衛費の増額分は最大で単年度あたり約1兆5500億円で、現行の約4兆6800億円(平成22年度予算)の1.3倍程度になることが、元航空幕僚長の田母神俊雄氏と自衛隊OBらがまとめた試算で分かった」というものと、「今と同等の防衛力を維持するには10年間は今の5倍の隊員と年間約30兆円の予算が必要となる」との軍事アナリストの小川和久さんによる見積もり。
軍事に関することこそ、抽象論や感情論を排し、仮定の極端な状況設定に振り回されずに、客観性を保ちながら、理性的に具体的に検討しなければならない。それは、日本人が先の戦争から学んだことだ。軍事に関する情報は公開が制限されがちなこともあり、また、主観がまぎれやすく過度の不安が煽られたりするので、常に冷静な検証が不可欠となる。
日米安保なしで防衛力を維持するために必要な金額は、どの程度の能力を備えるかによって大きく異なる。例えば、現在の在日米軍はアジア全体、さらには中東などもカバーする展開能力を備えているが、日本だけの防衛を考えると、そんな能力は必要ない。強力な海兵隊は必要なく、大量の兵員・武器を輸送する能力も必要ない。つまり、日米安保をやめた時の日本独自の防衛力とは、今の在日米軍の能力より低下するが、それは当然のこと。
現在の在日米軍と同じ能力を維持しようとすれば莫大な金額が必要となろうが、日本が軍事力でアジア・太平洋に睨みを効かし、さらには中東まで出掛けていく……なんてことを考えず、日本への侵略に対応することだけを考えるなら、20兆円とか30兆円という防衛費が必要になるはずがない。
先の自衛隊OBらの試算では、核武装して「日本近海に配備する原子力空母、原子力潜水艦、戦略爆撃機、トマホーク巡航ミサイルを20年かけて新たに開発・配備する」そうだが、日本近海で活動するだけなら原子力空母や原潜、戦略爆撃機は必要ない。ミサイルが高度化している現在、空母を持つより、各種の迎撃ミサイルを搭載した中小型艦艇を多く配備した方が、専守防衛には効果的だろう。
日本の防衛で初めに考えるべきことは、1)日本への侵略能力を有する国はどこか、2)その侵略能力はどれほどか、3)侵略する意図を有している国はどこかだ。どこかの国から核ミサイルを撃ち込まれたなら、それは日本の防衛力を超える(報復能力のために核武装する選択肢もあるが、核ミサイルの撃ち合いはセカイの終わりだろう)。
日米安保をやめて米軍が日本から去ると、在日米軍が有していた抑止力はなくなる。当座は日本の防衛力は低下するが、すぐに日本を侵略しようとする国があるだろうか。「弱体化」した日本を通常兵器で攻撃することを試みる国が出てくる不安はあるが、政治的に見ると、米国“支配”を脱した日本と手を結ぶほうが、日本を攻撃するよりもメリットが大きいだろう。でも、そうなると日本の“奪い合い”でアジアは不安定化するかも。
2015年9月5日土曜日
似たもの探し
自分と瓜二つの人物が世界に3人いるという説を聞いたことがある。といっても、大々的な調査によって実証された説ではなく、「そっくりな人間が、世界を探せば3人くらいは、いるんじゃないの?」といった気楽な想像によるものらしい。でも、自分そっくりな人が世界に3人いると言われれば、そんな気になり、その3人がどんな人生を送っているのだろうか興味がわいたりする。
70億を超えたという世界の人口を考えると、そっくりな人間が数人、世界のあちこちに存在したとしても不思議はない。でも、瓜二つだから、歩んでいる人生も瓜二つ……のはずはない。見た目はそっくりでも、社会環境や生活環境などは異なり、考え方や発想は違うだろう。自分と同じ姿形の人間が全く別の人生を送っているのを見るのは、自分が選択しなかった別の人生を見せられているような印象になるかも。
人間ならば、そっくりの他人が存在しても、それをマネだと批判することはできない。どちらも「オリジナル」だからだ。だが、デザインとなると、似ている(と見なされる)ものは批判される。独自に発想したものでも、似ていれば、パクったと言われる。似ているものを探すのも簡単になった。高価で大部なデザイン集を買わなくたって、今ではネットで検索すれば、世界中から探し出すことができる。
デザインで「オリジナル」となるためには、登録されることが必要だ。本当に独自の発想で造形したものでも、世界のどこかに既に登録された「オリジナル」が存在すれば、それはパクリとされる。ソックリさんは世界に人間なら3人程度かもしれないが、デザインとなれば世界に数多あるだろう。でも、「オリジナル」は一つに限られるらしい。
しかし、「オリジナル」となるには、制度が存在する国で手続きをしなければならない。費用もかかるだろう。現在のイラクやシリア、リビアにいる天才デザイナーが独自に何かのデザインを生み出したとしても、国家に支えられた制度によって登録されなければ「オリジナル」とはされない。破綻状態の国では、デザイン登録の制度は機能していないだろう。その天才デザイナーは、他国の誰かの「オリジナル」をパクったと批判されるかもしれない。
登録という制度の存在を容認するから、「オリジナル」が誰かに占有される。例えば、アフリカやアジアなどの伝統的な布地デザインをパクって西洋の誰かが先に登録すれば、「オリジナル」となり、自分の発想だと主張する立派なデザイナー先生の作品になる。似ていると指摘されても、そうしたパクリは制度に守られる。
一方で、既存のデザインをパクる行為は世界で横行している。一般に後発国において先進国の製品を模倣し、先進国のデザイナーでも既存のアイデアを拝借する行為は珍しくないだろう。だから制度が必要だということにもなろうが、人間の発想は似たり寄ったりだから、「オリジナル」を過度に尊重すると、素早く広く登録に動いた連中だけが利益を得続ける。そうした登録制度が欧米主導の文化帝国主義を支えている……なんてまでは言わないが。
2015年9月2日水曜日
レジスタンスなき平和主義
戦国時代の山間の農村を舞台とした黒澤明監督の名作「七人の侍」。刈り入れが終わった後に農村はいつも野武士の集団に襲われるので農民は、浪人を雇って村を守ってもらおうとする。で、7人の浪人を雇ったが、野武士との戦いが始まると農民の男たちも竹槍を持って戦う。農民は村から出ないが、村に入った野武士を農民は許さず追いつめる。
もし農民が、戦うために雇ったのだからと7人の浪人だけで戦わせたとしたなら、多勢に無勢、40人ほどという野武士の集団に負けて村を燃やされていただろう。浪人の指示により頑丈な柵などで村の守りを固め、方面ごとに農民が分かれて竹槍を持って浪人とともに戦ったからこそ村を守ることができた。
そうした小さな単位の自衛と国単位の防衛問題とを同一レベルで考えることには無理があるだろうし、兵器がハイテク化し、殺傷能力が高度化しているので、民間人が「加勢」しても実際の効果は限られるだろう。だが、いざという時に民間人であっても戦う気持ちがあるかどうかは、防衛問題や平和問題を考える時に影響する。
民間人も戦えと言っているのではない。防衛問題や平和問題を、戦闘に自分は巻き込まれることがないとして抽象的に考えるのと、自分が巻き込まれる具体的な問題だと考えるのでは、見えてくるものが違うだろうということだ。例えて言えば、いざというと時に、レジスタンスに立ち上がる人と立ち上がらない人とでは、平和論は違ってくるだろう。
銃を持って戦うだけがレジスタンスではない。戦闘員などを支援し、様々な協力をすることもレジスタンスだし、非戦を貫いて戦争には一切関わらないと侵略者に協力しないのもレジスタンスだ。抵抗の形態は多様だが、抵抗するという意思がなければ、自分が何をするべきか見えないだろう。抵抗する意思があってこそ、自分にできることが見えてくる。
ただし、抵抗するということは個人が決めることであり、政府などから指示・命令されることではない。政府などの判断が妥当だと考えるなら協力すればいいし、政府などの判断が誤っていると考えるなら、自分の判断で行動し、抵抗すればいい。
平和がいいに決まっている。穏やかな日常の中、小さな揉め事などで思い悩みながら生活するのが、爆弾が落ちてきたり、ミサイルが撃ち込まれたりする中で暮らすより、はるかにいい。どこかの戦争に巻き込まれることは誰も望まないだろう。そうした生活感覚は大切だが、そうした生活感覚だけで防衛問題や平和問題を扱うと、絶対平和主義に固執し、見たくないものから目をそらす弊害も生じかねない。
いざという時にもレジスタンスに立ち上がらない人の平和主義と、その時には立ち上がる気概がある人の平和主義とは、表面的には似ていても根本は異なる。自分も当事者の1人として問題を考えるか、あくまで傍観者(被害者)として考えるか……その違いは大きい。これは、防衛問題や平和問題だけに当てはまることではなく、他の様々な問題にも当てはまろう。
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