2017年12月30日土曜日

民主主義は善か

 民主主義は善きことであると一般には見なされているようだ。軍部や特定階層などによる独裁体制よりも、民主主義のほうが多数の人々にとって望ましい体制であることは確かだろうが、民主主義という制度と善という価値観を結びつけると、民主主義が理想化されすぎ、民主主義の限界が見えなくなることもある。

 民主主義の限界を理解するには、民主主義が全ての問題を解決する至高の制度ではなく、一つの政治システムでしかないと認識することがカギとなる。だが民主主義が善であり至高の制度であると見なすと、民主主義が実現すれば理想の社会が実現すると思い込んだりする。

 独裁統治下においては民主主義への移行が人々の目標になるだろうが、民主主義に移行した後の政治が、利害対立が先鋭化したりして順調にいかない例は珍しくはない。民主主義に移行した後に、人々の中にある利害対立や分断が政治に強く反映されるのは民主主義が機能していることだが、議会での対立などを見せつけられた人々は、民主主義が損なわれていると早合点したりする。

 民主主義は、人々の自由選挙により形成された議会で国家運営の方向を決定するシステムと定義すると、そこには善悪の価値判断は不要である。せいぜいが、主権者である人民の意向を国政に反映させる最も世界的に採用されているシステムであり、推奨されるべきシステムだと評価するぐらいか。

 民主主義に善だと価値観づけを行うことが民主主義に過大な役割を負わせ、理想の政治に導くシステムだと誤解させる。民主主義が機能していると議会に利害対立や分断などが持ち込まれるという現実は、民主主義を善だと思い込む人々にとっては、民主主義が機能していないから議会が混乱しているなどの誤解や批判の根拠になったりする。

 民主主義というシステムの限界とは、第一に、議会が機能するかどうかを保証するものではなく、第二に、正しい政治が行われることを保証するものではなく、第三に、利害対立や分断があるからこそ多数決で決めざるを得ないことであり、第四に、独裁統治を招くこともありうることだ。

 皮肉な見方をするなら、「与えられた」民主主義だから多くの日本人は善きものと歓迎したのか。民主主義というシステムを日本人は使いこなすようになったが、達成感めいたものが野党側の体制批判派の人々に欠如しているので、民主主義を善だと位置づけ、体制批判の正当化のために、民主主義が損なわれていると言うのかもしれない。

2017年12月27日水曜日

早すぎる真冬

 今年は寒波が早く来て、一気に冬本番になった印象だ。北日本から西日本まで各地での降雪が例年より早く、雪国で根雪になる時期も例年より早い。気象庁は、ラニーニャ現象が発生していると見られるとし、東日本の低温と西日本日本海側の少雨及び沖縄・奄美の寡照がラニーニャ現象時の特徴と一致するとした。ラニーニャ現象が起きると冬の日本付近では、西高東低の気圧配置が強まり、気温が低くなるという。

 夏の暑さでも冬の寒さでも、季節の変化が一進一退を繰り返して徐々に進んでいくならば、寒暖の変化に体も慣れて順応しやすいのだろうが、この冬のように「冬の気配が漂ってきたな」と思い始めたところで一気に真冬並みの寒い日が続くと、真冬を迎える心の準備がまだできていないこともあってか、寒さが一層厳しく感じられる。

 降雪もかなり多い。降っては溶けてを繰り返すのが例年の冬で、心の準備もできていくのだが、いきなり日に何度も雪かきをしなければならなくなって、今年の冬は体力的にも楽ではない。もう冬本番だと覚悟を決めるしかないのだが、気持ち的に冬に「負けた」という妙な敗北感めいたものさえ漂う。

 「冬には寒さを楽しみ、夏には暑さを楽しむ」というように達観できれば季節の不順にも心を乱されず、いきなりの真冬にも「こんな冬もあるさ」などと平常心で受け入れることができるのかもしれないが、達観などということは簡単にできないのが人間(だから、時を超えて処世訓がいつの時代にも適合する?)。

 季節の変化を愛でて四季の“表情”を楽しむのが、四季がはっきりしている日本における風流な生き方なのかもしれないが、夏の暑さや冬の寒さというものを愛でるようになるには、けっこう修行が必要だ。むしろ、暑さや寒さがストレス要因になる人は多いだろうから、体感を制御することは難しい。

 気持ち的に冬に「負けた」という妙な敗北感は腹立たしい。だが、寒さや降雪に対する無力感に加え、一気に冬本番となった状況に抗う術も人間にはなく、季節の変化に人間は従って生きてきた。「負けた」という妙な敗北感は、季節の変化に対して人間が受け身であることを示す。

 受け身であることから脱するには、季節の変化に立ち向かっていく心構えが要る。立ち向かうとは積極的に受け入れることに繋がり、暑さや寒さなど厳しい季節の変化を愛でる余地も出てくる。とはいえ、立ち向かう気持ちが簡単には出てこないのも現実。やはり寒さは厳しいと真冬の厳しさに負けを認めながら、雪かきに励みつつ、体を動かすことを楽しむぐらいから始めるか。

2017年12月23日土曜日

内なる植民地

 欧米に比べて日本は移民の受け入れ数が少なすぎるとの批判があるが、飲食店やコンビニなどで見かける外国人労働者は珍しくなく、多くの外国人技能実習生も存在するというから日本で働く外国人は増えているようだ。住む国を変えて働く人を移民とするなら、日本にも少なからぬ移民が既にいる。

 国際移民の法的定義はないそうだが国連は、定住国を変更した人々を国際移民とみなし、「3カ月〜12カ月間の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住」と区別するのが一般的と解説しているから、外国人技能実習生は移民と見なされる。

 移民を受け入れることにより、開放された社会であることを誇示する欧州が、閉鎖的な日本を批判する一方で、中東やアフリカからの大量の移民殺到に耐えられなくなって、移民の制限(管理)を強化したり、政治問題化して国内対立が強まっているのを見ると、崇高な理念を掲げても現実に裏切られるのだなあと同情したくなる。

 移民を受け入れてきたと誇示する欧米だが、移民はもっぱら低賃金労働に従事する労働力となってきた。最近では、先進国の多くでは人口が減少するから、それを補う労働力として移民を受け入れるべきだとする主張が現れ、さらに、ハイテクなど高度な技術開発に関わる人材がもっと多く必要だから、高度な知識を備えた移民を呼び込めとの主張もある。

 移民をめぐる議論で抜け落ちているのは、移民は一人一人が意思を持った人間であるということだ。地球上のどこで暮らすかは個人が選択することであり、個人は国に縛られることなく、個人が国を選択するという意味も移民にはある。資本のグローバル化に個人が対抗する手段の一つが、個人も国境を越えて自由な移動を行うことかもしれない。

 米国が移民受け入れに寛容なのは国の成り立ちからも理解できるが、欧州が移民受け入れに前向きなのは、かつての植民地経営で現地の人々を労働力としてのみ扱ってきた経験があるからかもしれない。不足する労働力を補うために、海を越えてアフリカなどから労働力(奴隷)を移動させたという歴史的な経験が英国などにはある。

 移民として自国内に労働力を迎え入れて低賃金労働を担わせるというのは、内なる植民地の形成とも見なすことができる。どんな美しく人道的な言葉で飾ろうとも、移民受け入れの実態が使い捨て労働力の受け入れだとすれば、収奪が目的だと見るしかない。現代の移民問題と過去の奴隷貿易を対比させるなら、移民問題の別な面が見えてくる。

2017年12月20日水曜日

3つの宗教の聖地

 マルコ伝福音書によると、イエスは死後、墓に葬られ、安息日が終わった後、女性の信者たちが墓に行ってみると入口が開いており(当時の墓は洞窟状に掘った広いもので、入口を円盤状の石で塞いでいた)、天使がイエスの復活を告げたという(中村圭志著『聖書、コーラン、仏典』)。

 キリストの墓と伝えられている場所に立つのがエルサレム旧市街にある聖墳墓教会だ。近ごろ行われた調査で、教会の中にある埋葬用の洞窟(横穴)から採取された残留物を科学分析した結果、墓は古代ローマ時代には存在していたことが確認されたという。イエスが埋葬された場所だとの証明は難しいが、否定することも難しい。

 イスラム教徒にとってもエルサレム旧市街は大切な土地である。預言者ムハンマドが一夜のうちに天に昇って神の声を聞く旅を行った時に、天に昇るために足をかけたのが聖なる岩とされ、ドームで覆った。岩のドームと称される神殿は聖地とされている。

 この岩はユダヤ教にとっても、信仰を試されたアブラハムが、息子のイサクを神のために捧げようとした場所として聖地とされている。また、旧約を受けつぐキリスト教にとっても聖地となっている。

 岩のドームがある神殿の丘の西側の外壁が嘆きの壁で、ユダヤ教徒にとって大切な場所だ。紀元前10世紀にソロモン王が神殿を建て、破壊されては再建されたものの、紀元1世紀にローマ軍によって破壊されたエルサレム神殿の唯一の遺構だ。ユダヤ教徒の歴史と物語を実感させ、祖国の喪失を嘆き、その再建と復興を祈る場所だ。

 聖墳墓教会はカトリック教会、東方正教会、コプト教会などが共同管理し、信者以外も入場できる。岩のドームはイスラム教徒が管理しており、ムスリム以外は建物の中に入ることは禁じられている。嘆きの壁はユダヤ教徒が管理しているが、神殿の丘はイスラム教徒が管理しているので、ユダヤ教徒は入ることができない。

 2000年にイスラエルのタカ派政治家シャロン氏が神殿の丘を強行訪問して挑発、パレスチナ人の第二次インティファーダを引き起こした。3つの宗教の聖地が複雑に存在する東エルサレムを含めてエルサレムがイスラエルの首都であると認定した米トランプ氏。中立的な立場と見なされることを放棄した米国が、中東で失うものは多い。

2017年12月16日土曜日

怨霊は今でも祟るか

 疫病が流行したり、地震や水害、津波などが発生したり、暴風や雷雨に見舞われたり、日食などに遭遇した古の人々は、怨霊と結びつけて祟りが災いとなって現れたと解釈したという。現在では、疫病の流行や天変地異などにはそれぞれ原因があり、発生するメカニズムも解明されているから、怨霊の祟りの出番はなくなった。

 しかし、怨霊信仰が否定されると、例えば、崇徳天皇、菅原道真、平将門らを祀っている神社の存在の意味がなくなる。怨霊が本当に存在するかどうか定かではないが、祟りがないのなら、怨霊を鎮めるとの主張は虚偽だということになる。

 祟り封じの神社が存在し続けるためには、怨霊の存在を主張し続けなくてはならず、怨霊と天変地異などの祟りを切り離す必要がある。ただし、科学が発展した現在においても存在すると信じられる祟りは、客観的な検証が不可能で、解釈で祟りだと言い張ることができるものに限られる。

 それは例えば、個人の死だ。菅原道真の政敵や失脚劇の関係者らが相次いで死んだり、平将門の首塚を撤去しようとした工事関係者に不審死が相次いだりしたことは怨霊の祟りだとされる。怨霊の祟りが個人に死をもたらすかどうかは検証不可能だが、そうした主張を続けることで神社は存続できよう。

 東京の富岡八幡宮の主祭神は応神天皇(八幡神)で祟り封じの神社ではないが、怨霊になって祟るゾと脅して死んだ人物が現れた。宮司を務めたことがあるというから、怨霊と祟りの関係について知識はあっただろうし、遺書ともいえる長文の文書には、宮司職をめぐる家族間の争いや姉への中傷、暴露などが書かれていたという。無念の思いを残して死んだようだ。

 その文書には、「私は死後に於いてもこの世に残り、怒霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に崇り」続けるとし、一の宮と二の宮神興を出したなら「私は死後に於いてもこの世に残り、怨霊となり、神興総代会の幹事総代とその子孫達を永遠に崇り」続けると書いているそうだ。

 人知を超えた存在や事象を肯定することで信仰は成立するため、怨霊や祟りを否定することは神社には難しいだろう。だが、今回の怨霊宣言を神社は肯定できまいから、真の怨霊は極めて限られているとして、今回の怨霊宣言は死んだ男の妄想に過ぎないとでも否定するしかない。

 でも、今回の怨霊宣言は神社にとってビジネスチャンスといえる。もしも関係者に変事があったなら、怨霊の存在を匂わせて神社の存在意義を強調できようし、なんの変事も起きなかったとしても、祟り封じが成功したのだとして神社の存在意義を強調できる。怨霊の祟りがあってもなくても、神社の商売に利用できる。

2017年12月13日水曜日

新聞休刊と使命感

 米リーマン・ブラザーズが破綻したのは2008年9月15日。6000億ドル以上という巨額の負債総額で、一挙に金融不安が米国から世界中に広がり、深刻化した。その15日は月曜日だったが日本では祝日。百年に一度の出来事とも称された世界的なビッグニュースだったので、翌日の新聞で詳しく事情を知りたいと多くの人が思ったかもしれないが、16日は新聞休刊日で新聞は発行されなかった。

 百年に一度なら、まさしく世紀の出来事。ニュースを報じた新聞を世に送り出して対価を得る新聞社にとって、世界的なビッグニュースを大々的に報じることは義務であり、記者や編集スタッフの腕の見せ所だと高揚する場面でもあろう。しかし、16日の新聞は発行されず、新聞の使命を果たしているのかと疑念を生じさせた。
 
 半世紀前には新聞休刊日は年2回ほどだったというが、次第に増え、現在ではほぼ毎月1回はある印象だ。年中無休や24時間営業の小売店などは珍しくなく、ネットでは365日24時間、切れ目なく世界からニュースが発信されている世の中になっているのに、日本の新聞社は休刊日を減らすことも廃止することもしない。

 優秀な人材が集まっているだろう新聞社は世の中の変化を理解しており、新聞発行に使命感を持っている人たちも少なくないだろうから、休刊日を廃止することに抵抗はないと推察される。だが、宅配に販売を頼っている限り、休刊日を廃止することも減らすこともできまい。新聞休刊日がなければ、休むことができない配達員らが日本の新聞社を支えているのが現実だから。

 新聞配達はブラックな職場だとの声もある。午前2時頃から準備する朝刊の配達や午後の夕刊の配達、集金など長時間労働に加え、慢性的な人手不足で休日が少なく、勤務時間が明確でないことから残業代がほとんど支払われていないという。そのため短期で辞める人が多く、求人難が常態化しているとか。

 新聞配達といえば、苦学する新聞奨学生のイメージもあったが、応募者は激減し、むしろ日本語学校に通う外国人の留学生やパートの高齢者が増えているという。販売店に余裕があれば、人員を余分に確保して休刊日の減少・廃止に対応できるだろうが、新聞の発行部数が減少を続けているので、そんな余裕はないだろう。

 使命感を重視するなら新聞社は休刊日の廃止へ向けて動くべきだろうが、販売店の負担が増して宅配が維持困難になると日本の新聞社のビジネスモデルは破綻する。各社はネットに活路を探るが、有料化は進展せず、広告頼みとあってはネット戦略も手詰まりの感が否めない。新たな収益モデルを打ち出せず、現状システムの改革も進まないとあっては、日本の新聞社は収縮を続けるだけだ。

2017年12月9日土曜日

荒れる日本海

 西高東低とは冬季の日本列島上の気圧配置を指す言葉で、日本から西方の大陸に高気圧があり、東方の太平洋に低気圧があって、天気図では間隔の狭い等圧線が縦に並ぶ。大陸の高気圧から吹き出した強い北西の風は、日本海で大量の水蒸気を供給され、日本列島に降雪をもたらす。西から東に移動する低気圧が日本海で急発達することも珍しくない。

 強い北西の季節風により、うねりや波が高くなり、冬季の日本海は荒れる。時化の日も多いが、ズワイガニやブリ、カレイ、ヒラメ、スルメイカ、マダラ漁など冬季にも日本海では漁業は行われている。今年は北朝鮮の木造船が大量に出漁しているらしい。

 冬季の荒れる日本海に出て行くのだから、頑丈な構造の船舶で強風や高波、寒気に対応できる備えが必須だ。だが、東北や北海道の日本海沿岸に漂着する北朝鮮の木造船は古い船体のようで、荒れる日本海での操業に適しているとは見えない。日本の沿岸の岩などにぶつかって解体する例も複数報じられ、構造もそう頑丈ではないようだ。

 日本海の「大和堆」と呼ばれる漁場では数百隻の北朝鮮の漁船が操業しているとも伝えられるが、母船を中心にした大規模な船団を構成しているのか、単独の木造船が密集しているだけなのか実態は詳らかではない。古い小さな木造船に見えるが、あれが北朝鮮では「主力」の漁船なのか、「使い捨て」の漁船なのかも不明だ。

 北朝鮮の木造船と乗員は、冬の荒れた日本海では過酷な状況の中で操業している。東北や北海道の日本海沿岸に木造船や遺体の漂着が続いているが、日本海の洋上で転覆し、沈んだ木造船や遺体も多いと推察できる。だが、どれほどの木造船と乗員が日本海に沈んだのか実態は不明だ。

 北朝鮮では、金正恩委員長の指示で海産物の供給量を増やすことが至上命令になり、それで荒れる日本海でも出漁が促されるが、北朝鮮近海の漁業権を外貨獲得のために中国に売ったため、北朝鮮船は日本海の沖合に出なければならないと報じられている。危険を承知で出漁を強いられるのだとすれば、彼らは北朝鮮の現体制の犠牲者といえる。

 北朝鮮の現体制の犠牲者であろうと、勝手に日本の排他的経済水域で操業したり、日本の領海に侵入することは許されないのだが、独裁者に逆らえない(逆らわない)人々にとって、法を守ることの優先順位は低かろう。冬の荒れる日本海と同様に北朝鮮で生きることも過酷なのだと、漂着する木造船や遺体は示している。

2017年12月6日水曜日

寄生虫

 「あいつは寄生虫みたいな奴だ」と言われるより、「あいつはヒトカイチュウみたいな奴だ」と言われた方が具体的なイメージが惹起されるので、言われた側は嫌な気分が増すかもしれない。ただ、ヒトカイチュウが何かを知っている人は少ないだろうから、言われた側は「はあ?」と怪訝そうに聞き返すかな。

 ヒトカイチュウには世界で10億人以上が感染しているといわれ、人間と最も「付き合い」が多い寄生虫だ。野菜などと一緒に回虫の卵を人間が食べることで感染する。体内に入った卵は小腸で孵化し、幼虫は小腸から血液やリンパ液の流れに乗って肝臓、肺、気管を経て小腸に戻り、成虫となって卵を産み始める。

 かつて日本でもヒトカイチュウの感染率が高かったのは、農作物の肥料として下肥が使われていたからだ。都会でも感染率は高かったが農村では更に高かった。だが、化学肥料の普及と便所の衛生状況の改善、衛生知識の普及などにより、現在では感染率1%未満といわれ、学校での検便も廃止された。

 日本ではほぼ「解決済み」のヒトカイチュウ感染だが、韓国への亡命を図って銃撃され、負傷した北朝鮮兵士の体内から、最大27cmの寄生虫が50匹以上も摘出されたというニュースが話題となった。北朝鮮では野菜などの肥料として人糞を用いているためとみられている。

 負傷した北朝鮮兵士は栄養不良の状態にあり、ヒトカイチュウに栄養を吸い取られ過ぎたとも、兵士の腹中にはトウモロコシが少しだけあったことから、兵士でも厳しい食糧事情の中に置かれているともみられている。兵士はB型肝炎にかかっていて、犬に寄生する種類の寄生虫も見つかったとも報じられ、衛生環境が悪いことを示している。

 東北や北海道の日本海沿岸に北朝鮮からとみられる木造船や遺体の漂着が続いている。生存していた乗員が1カ月も漂流していたと言い、白骨化して漂着した遺体もあり、古い木造船で出漁したものの冬の荒れる日本海で過酷な状況にさらされていたことがうかがわれる。背景には食糧確保が急務という国家事情があるとみられ、衛生環境などには手が回らない状況だろう。

 さて、日本でヒトカイチュウ感染は根絶されたわけではなく、有機栽培野菜や輸入野菜の生食の増加で増えることが懸念されている。また、ガーデニングや家庭菜園などの作業で、土の中にいる回虫が手を介して口に入る可能性もあるといい、手洗いを徹底することが必要だという。

2017年12月2日土曜日

最期になって回心

 回心という言葉を「えしん」と読むと仏教用語になり、「改心し、仏道に帰依すること」になるが、「かいしん」と読むとキリスト教の用語になり、「従来の不信の態度を改めて、信仰者としての生活に入ること」を意味する。どちらも、単なる入信ではなく、それまでの罪深く誤った生き方を改めて信仰の道に入るという意味で使われる。

 宗教にはそれぞれ教えがあり、そうした教えに反して生きている人を「罪深く誤った生き方」などと決めつけたりする。それぞれの宗教が説く信仰者の人生モラルが、普遍的な価値観と一致する場合もあれば一致しない場合もあるから、理性的な判断を重視する人や束縛を嫌ったりする人は、宗教とは距離を置くしかない。

 回心という言葉は、宗教の側からすると人が正しい生き方に入ったということであろうが、宗教的な正しさが客観的にも正しいといえるかどうかは、まあ時と場合による。ある宗教が正しいとする考え方や行為が、他の宗教では誤りであると禁止されることも珍しくはなく、宗教的な正しさとは不安定な存在だ。だから、信じるしかない。

 人が回心する事情は様々だろうが、死の間際になってからの回心もあるという。病などで死が近くなってから、慌てて救いや心の平安を求めて宗教にすがりついたようにも見えるが、死を前にして真剣に考えた結果なのだろうから軽々に扱うことはできまい。

 ただ、キリスト教など一神教において人が死の間際に回心することは、ある種の合理的な判断でもある。その場合の回心とは、全能なる唯一の神の存在を信じ、その神による審判を受け入れることである。つまり、神が存在するのなら、背教者などのまま死ぬよりも、神の側についていたほうが有利だろう。

 一方で、神が存在せず、人は死ぬとやがて炭酸カルシウムになるだけなら、神を信じようと信じまいと死後の“行く末”に違いはない。死の間際に回心したところで、その人が失うものはなく、せいぜい「あんな理性的な人だったのに、最後に宗教へ行ってしまった」などの言葉を浴びるくらいだ。でも、もう何を言われても当人の知るところではない。

 死を目前にして、死への恐れとも相まって回心する人がいることは、宗教の側が勝利したということではない。死後の“行く末”を知っている人は現世の宗教に関係する人にも誰もいないのであるから、判定のしようがない。

2017年11月29日水曜日

特権を得る英雄

 世界では何回もハイパーインフレが起きている。物価が大幅に上昇を続けるので高額紙幣が発行されるようになり、第一次大戦後のドイツでは100兆マルク紙幣、アルゼンチンでは100万ペソ券、ソ連崩壊後のロシアでは50万ルーブル紙幣、ユーゴスラビアでは5000億ディナール紙幣、近年では2009年にジンバブエで100兆ジンバブエ・ドル紙幣が発行された。

 当時、1枚の100兆 ジンバブエ・ドル紙幣で何を買うことができたのだろうか。金額だけみると国家予算並みで、ハイパーインフレとはいえ少なくとも広大な牧場なり豪邸なりを買えそうな気もするが、実際の価値は300兆ジンバブエ・ドルで日本円1円程度だったという。ただ、記念品としては人気があり、日本では数千円で販売されているとか。

 ジンバブエ経済について「1990年代後半以降,脆弱なガバナンスと経済政策の失敗により,インフレ,失業,貧困等が続いていたが,2008年の大統領選挙を巡る混乱と過度の紙幣発行によるハイパーインフレーションによって,経済は極度に混乱した」と日本の外務省サイト。

 1980年の独立直後のジンバブエは、白人の大規模農場と黒人の小規模農業の両輪で動く安定した農業国として近隣諸国に食料輸出するほどだったが、ムガベ大統領は90年代半ばから農業に見向きもしなくなり、さらに①元解放闘争ゲリラへの無計画な高額年金支給、②コンゴへの突然の派兵、③白人大規模農場の強行接収などの失政をおかした(松本仁一『アフリカは今』)。

 強行接収した白人大規模農場は元ゲリラたちに配分されたが、元ゲリラたちは農場経営のノウハウを持たず、農場は荒廃し、食料輸出ができずに外貨が入ってこなくなり、食料自給もできなくなり、農場労働者は流民化、失業率は80%を超えた(同)。農業中心の経済構造は完全に崩壊し、インフレが始まった。

 独立前のジンバブエは白人が支配するローデシアという国で、黒人はゲリラ戦を展開、ムガベ氏は抵抗運動を組織して戦った。80年の総選挙で黒人勢力が勝利してジンバブエが成立、ムガベ氏は初代首相に就任し、大統領制に移行して以降は大統領として次第に独裁色を強めた。

 植民地からの独立闘争の英雄が、権力を握ると独裁者になることは実は珍しいことではない。抑圧されていた人々が主権や人権を求めた闘争の結果が、指導者が特権を享受するだけになる現実。英雄を政治家にすることの危険性は、様々な特権が容認されやすい面があり、その特権が独裁へとつながっていくことだ。

 植民地の枠組みを引き継いで独立したジンバブエは二つの民族からなり、この二つの民族が一つの国を形成する必然性はない。多数派民族に支えられてムガベ氏は独裁を続けた。ジンバブエが独立後に分裂していたなら、ムガベ氏の独裁もハイパーインフレもなかったかもしれない。

2017年11月25日土曜日

準国家あるいは半国家

 EUは、参加した欧州の主権国家が、主権の一部をEUに譲り渡し、主権を共有して連邦を構成するという試みだ。新たに欧州に巨大化した主権国家を形成する試みであり、欧州を主権国家化する試みでもある。世界政府へ1歩前進と見えたが、そう簡単には既存の主権国家は全てを手放さない。

 スペイン北東部に位置するカタルーニャ州議会が独立を宣言したが、中央政府は認めず、カタルーニャ州の自治権を停止し、直接統治に乗り出した。EUができて参加国の主権国家としての役割は相対的に希薄になったので、EUの枠内に止まるなら、内部の州などが独立しても構わないように見えるのだが、スペインに限らず各国とも内部からの分離独立は拒否する。

 EUという枠組みでは、主権国家は主権を削減しても主権国家でいることができるのだが、分離独立を許したなら領土が減少する。分離独立した地域がEU内にとどまるなら、自由な通行や経済活動は保たれるはずだが、各国は分離独立を拒絶する。領土の縮小が明確化することは主権国家にとって譲ることができない一線か。

 主権国家を大雑把に定義すると、国境で確定された領土を有し、そこに国民が住み、統一された中央権力や統治機構によって統治され、外部からの支配を拒む能力を保持し、外交交渉を自由に行うことができる国家である。独立国とほぼ同じ意味合いだ。

 主権国家が内部からの分離独立を許さないとしても、そうした分離独立運動が消え去ることはないだろう。主権国家が領土の減少に寛容になれば、各国で分離独立の動きが活発化し、主権国家の領土は縮小に向かう。既存の主権国家の領土を維持しながら、分離独立運動を許容するとすれば、自治権の拡大を行うしかないだろう。

 ただ、自治州とか自治区としてとどまるなら、分離独立を目指す運動は満足しないかもしれない。そうなると、自治区や自治州よりも権限を持つが、主権国家の支配下にある新たな統治機構を考えるしかない。それは準国家あるいは半国家という位置づけになる。

 EU参加の主権国家の内部に、さらに主権を制限された国家として準国家あるいは半国家を認めるならば、分離独立運動との妥協(共存)の可能性があろう。参加した主権国家から主権の一部を獲得して成立したEUは、参加した主権国家内の分離独立運動も包含することができるはずだ。

2017年11月22日水曜日

中国のキャッシュレス化と毛沢東

 中国ではキャッシュレス化が進んで、日本のはるか先を行っているとの報道が増えた。キャッシュレスといっても、クレジットカードを皆が使うようになったのではなく、スマホを使ったモバイル決済。急速に普及し、5億〜8億人の中国人が利用しているという。

 よく記事に取り上げられるのは自転車シェアリングだが、ほかにもタクシー、食事宅配、鉄道など公共交通、ネットショッピングなどで利用が進み、飲食店など店舗での決済にも使われるようになり、ホテルやスーパー、コンビニなどでの利用も始まったという。屋台でもQRコードが貼られていて、モバイル決済ができるとか。

 急速にモバイル決済の普及が進んだのは、偽札が横行していることに加え、それまでの中国での各種サービスが、あまりに面倒で不便だったからモバイル決済の利便性が際立って利用者が急増したと指摘されている。

 キャッシュレス化とは交換価値を電子化することであり、紙幣の存在を希薄化させる。中国のキャッシュレス化については、中国人は毛沢東を本能的に忌避するから紙幣に愛着がないとの皮肉な見方もある。中国の紙幣は8種類(100元、50元、20元、10元、5元、1元、5角、1角)あるが、5角札と1角札以外には毛沢東の肖像画が描かれている。

 毛沢東は、歴史に残る中国革命を成し遂げた偉大な指導者の一人だが、その革命の過程では多くの中国人が死傷した。さらに毛沢東が革命後の中国で強大な権力を持つ指導者になった後の統治で、さらに多くの中国人が死傷した。例えば、大躍進や文化大革命。

 大躍進では大量の餓死者を出した。チベットだけで1500万人以上になり、全国では3000万〜4000万人が死亡したという(共産党の機関紙では最大250万人としているそうだ。250万人であっても大量の餓死者であるが)。文化大革命での死者数は公式資料には記載がないそうだが、6500万人以上とか7000万人以上、8000万人以上など諸説ある。

 大躍進にしても文化大革命にしても、実際の死者数が明らかになるのは中国共産党の1党独裁統治が崩壊した後になってからだろう。おそらく毛沢東は、中国の歴史において最も多数の中国人を死傷させた責任を負う。その肖像画がある紙幣を中国人が本能的に忌避するという見方は興味深い。

2017年11月18日土曜日

試される普遍性

 普遍的価値観を外務省は、自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済とする。いずれも欧米由来の価値観であるが、人類が共有するに値すると見なされたから世界で普遍的とされているのだろうし、普遍的だと教育されたことで人々は普遍性に疑いを持たなくなるという仕掛けだ。

 ただし、この普遍的価値観を欧米が都合よく使い分けてきたことを歴史が示している。普遍的価値観を欧米は植民地には適用せず、植民地主義が否定された現在では、政治的に対立する国に対する批判の道具として持ち出すが、例えば中国のように、関係を損ないたくない相手国に対しては普遍的価値観に基づく批判を抑止する。普遍的といっても、欧米は相手により簡単に引っ込める。

 弱体だった頃の中国に対して欧米は普遍的価値観を振りかざして厳しく批判したが、市場としての中国を無視できなくなると欧米の対中批判はトーンダウン。それでも、たまに普遍的価値観に基づく批判めいた発言が欧米からあると、中国は反発して即座に言い返す。

 市場経済を導入した現在の中国だが、自由、民主主義、基本的人権、法の支配は中国共産党の独裁統治を脅かすとして排除の対象で、権力への挑戦を許さない。中国には中国独自の価値観があるなどと普遍的価値観を拒否したりするが、中国独自の価値観の実態はぼやけ、国境を越えて共有されるような価値観を中国は提示できていない。

 例えば、「中華民族の偉大な復興」は中国国内向けのアピールでしかなく、中国モデルといっても外国からの投資主導による統制経済下の経済成長のことでしかない。結局、中国による中国のための「中国の夢」が中国の価値観か……などと他国はまともに中国の価値観に付き合ってはいられない。

 しかし、普遍的価値観とされるものが、台頭した中国によって挑戦を受け、試されている現実は興味深い。日本をはじめ経済成長した国は欧米主導の世界経済に組み込まれれるとともに普遍的価値観も受け入れてきたが、中国は共産党の独裁統治が続く限り、普遍的価値観に背を向ける様相だ。世界的に存在感を高めた中国に適用できないようでは「普遍的」の旗は降ろさなくてはならないだろう。

 かつて日本も独自の価値観をひねり出して欧米に対抗したことがある。そこには欧米のアジア侵略に立ち向かうとの「大義」はあったものの、普遍的価値観に格上げできるような何物も提示できなかった。かつての日本とは違って中国は、他の国や他の文化、他の文明から共有されるような価値観を提示できるだろうか。試されているのは中国だが、欧米も普遍的価値観が、外交の道具でしかないのか、確固とした理念なのか試されている。

2017年11月15日水曜日

「無宿」という精神

 竹中労さんが羽仁五郎さんから頂いた色紙には、「少々読みにくい達筆で『学問無宿』、それを見るたびに私はニヤリとする。--羽仁五郎くみし易し、むろん学問の方ではなく、無宿の精神においてである」(『アジア燃ゆ』)。無宿を自認するのは、自由な精神の証でもあるだろう。

 無宿を地域にとらわれないことと見ると、学問と無宿の精神は実は相性がいい。学問は本来、普遍を目指すものであり、特殊(地域)にとらわれる必要がない。例えば、水がH2Oであることや、ニュートン力学の適用などは世界に共通することであり、地域によって異なるわけではない。日本でだけ通用する学問的な真理などというものはない。

 現実の世界では、政府などが拠出する研究費を得るためには、学問の方向性などに「縛り」が生じたりして地域性を帯びることもある。紙とペンだけがあればいい学問ならともかく、大きな実験装置などを要する学問では獲得した予算に「紐」がついていることもあり、無宿を気取ることは簡単ではなかろう。

 無宿とは、文字通り「宿無し=住む家がないことや、住む家がない人」のことだが、江戸時代には「人別帳から名前を除かれること。また、その人。貧農や下層町人から無宿となるものが多く、江戸中期以降、大都市およびその周辺で多数出現した」(大辞林)。人別帳とは「江戸時代の人別改のための帳簿」で、人別改とは「江戸時代の戸籍調査。初め夫役賦課のための労働力調査が主眼で、のちにキリスト教禁圧のために宗門人別改が広く行われた」(同)。

 無宿者とは体制の秩序からはみ出し、こぼれ落ちた者のことであり、身分制による管理が厳しい社会では日陰者扱いされただろう。しかし、体制からはみ出したなら自力で生きるしかなく、結果として、自発的に生きることを選んだ人たちでもあった。

 現代において無宿の精神とは、体制に与せず縛られず、自由に生きようとすることであり、特殊(地域)にとらわれずに普遍性を志向することである。グローバル化した世界において無宿とは国家に拘束されない、自由な人間であろう。そのように無宿を読み替えたところに、羽仁五郎氏の精神の自由が現れている。

 国家や社会に依拠せず、自由に生きることを目指すなら、無宿の精神が必要だろう。ただし、無宿には無宿の掟があったりし、また、国家は無宿に生きる人も管理しようとするから、無宿の精神で生きるには相応の覚悟を要しよう。無宿の精神を支えるものは個としての強さか。

2017年11月10日金曜日

防衛目的のためにアピール

 核実験を繰り返す北朝鮮は、すでに数発の核爆弾を保有し、各種のミサイルに搭載できるように開発を進めていると見られている。国際社会は北朝鮮に核開発を断念するよう交渉し、過去に何度も合意に至ったが、北朝鮮は核開発をやめなかった。開発は相当進んでいるだろうから北朝鮮が今後、交渉によって核開発を断念する可能性は小さいだろう。
 
 そこで、現実となった北朝鮮の核兵器の脅威に対抗するために日本も核兵器を持つべきだという議論がある。北朝鮮が核兵器を手放すことはないと見、口汚く他国を罵る外交にプラスし、核兵器を振りかざして一方的な主張を押し通そうとするだろうから、同等の破壊力の裏付けを持って対抗すべきとの考え方だ。

 だが、日本や韓国が核兵器を持ったなら、北朝鮮がおとなしく国際社会に従うかどうか定かではない。さらに、日本や韓国が核兵器を持ったとして、北朝鮮との間で相互抑止(相互確証破壊)が機能するかどうかも定かではない。理性的な判断応力が相手側にあると見なければ、相互抑止は機能しない。

 通常兵器では北朝鮮も米韓も相手に対して多大な被害をもたらす能力があり、通常兵器においては相互抑止の状態だ。北朝鮮が少数の核兵器を持ったところで、米国の核兵器による圧倒的な破壊力の優位は揺るがず、北朝鮮が核搭載の長距離ミサイルで米国本土を攻撃できたとしても、すぐに北朝鮮全土が戦場になるだろうから、北朝鮮には圧倒的に不利だ。

 北朝鮮が米国本土への核攻撃能力を主張するほど米国の警戒心と敵愾心が高まるので、北朝鮮の核兵器保有が米国との交渉力を高めるとは見えない。核兵器を使用しての先制攻撃は北朝鮮にとって自殺行為であることも明らかであり、北朝鮮の核兵器保有の目的は防衛力(反撃力)を高めるためと解釈するしかない。

 防衛目的とすれば、北朝鮮が核兵器所有を米国や国際社会に対してアピールする必要性が理解できる。核兵器を保有していることを相手に意識してもらうことが、防衛目的のためには効果的だろう。「俺も死ぬけど、あんたも死ぬぞ」と思ってもらうことが有効なのだ。

 核兵器は、使うことができない武器である。1945年以来、多くの核兵器保有国が多くの戦争に関わったが、核兵器を使った国はない。核兵器を使ったなら、その戦争の終戦後に、核兵器の使用責任を問う声が世界で巻き起こるのは確実だろう。ただし、世界のどこにも逃げ場がなくなった独裁者が死に直面した時に、核兵器使用を命ずる可能性はある。

2017年11月8日水曜日

ツルを折ることができますか?

 知人の奥さんの知り合いが癌の闘病生活を続けていて、励ますとともに平癒を願うため皆で千羽鶴を折ることになり、知人も手伝いをさせられたという。ツルを折ることは子供の頃に覚えていたので、折ることは簡単だと知人は思っていたそうだが、いざ折り紙を手にとって折り始めようとしたものの、何から始めるか分からなかったという。

 奥さんが折っているのを見て真似ようとしたが、奥さんは手際よく折り進めていくので細かい部分が知人にはよく分からず、見かねた奥さんに手順を教えてもらったという。知人がすっかり忘れていたのは、最初に何本かの折り目をつけることだった。すぐに折り始めると思っていたので、あれこれ折ってみたものの、折り方を思い出すことができなかった。

 子供の頃に折り紙は割と気に入っていて、ツルのほかにも奴さんやカブト、風船、舟などを折って遊んでいたという知人は、ツルの折り方をすっかり忘れていたことがショックだったという。老化現象というわけではないだろうが、子供の頃に身につけたことのどれだけが今でも自分にできるのか懐疑的になったと知人。

 知人はツルを折ることができるようになり、数十羽も折ったという。ツルを何羽も折るうちにコツをつかみ、不恰好なツルは少なくなり、細い折り先が揃って、折り目が美しいツルに仕上げることができるようになり、折り紙の楽しさを知人は感じ始めたという。はっきりとした強めの折り目をつけることが美しく仕上げるコツだとする。皆が協力して完成した千羽鶴は病室に届けられた。

 仕事仲間の男が欧米に赴任している時に、パーティーなどでツルやペンギンなどを折って見せたところ、現地の人が驚き、賛辞を得たとの話を聞かされたことがある知人は、自分も海外赴任する時には折り紙を覚えて行こうと思ったことがある。ツルの折り方を覚えたことを機に、レパートリーを増やそうと知人は折り紙の教則本を買った。

 インコや鳩、キツネやタヌキ、馬やウサギ、ティラノザウルスや首長竜などの恐竜、亀、イルカやオットセイ、セミ、紅葉、内裏雛、スペースシャトルなど新しい折り方を覚えた知人は、ツルの首と尾の角度を水平に近づけ、飛んでいるツルに変えたり、下側に足を作って、着地するときのツルに変えたり、自己流のアレンジも楽しみ始めたそうだ。

 ツルを折ることは簡単だと思っていたのに、やってみると、できない……そんな大人は多いかもしれない。知人の話を聞いて当方も試してみたが、見事に折り方を忘れていた。知り合いの何人かに聞いても、「ツルなんて簡単に折れる」と言うものの実際には忘れていた人が多く、覚えていたのは、幼い子供を持つ人だけだった。

2017年11月4日土曜日

外国人の住宅購入規制

 ニュージーランドで政権を奪取した労働党政府は、外国人による中古住宅購入を禁止する。低金利と移住人口増加などにより上昇を続けている住宅価格を、外国人の投資を禁止することで抑制しようとするもの。国民の住宅購入を後押しするためとし、在留資格を持つ外国人は対象外という。

 背景にあるのは、非居住の外国人による不動産投資が増え、住宅価格の高騰を後押ししている現実だ。外国人の投機により同国内の不動産価格高騰を招いているのなら、対策を講じるのは当然に見える。政府は、7万人と大幅に増えた移民の受け入れ人数を最大3万人削減することも打ち出した。

 外国人による住宅など不動産の購入は日本でも増加している。北海道では森林202haのほか観光施設、ゴルフ場、土地などが中国資本に買収されていると報じられ、対馬では韓国人観光客が大幅に増加し、民宿やホテル、飲食店、民家など不動産が次々に韓国資本に買収されていると報じられた。

 外国人が土地など不動産を購入することを制限している国は世界に珍しくない。外国人の土地の取得が認められない国があり、土地の借地権の取引のみが許されている国、投資額の下限制限が設けられている国、外国人のみでは土地を所有できない国、外国人は土地は所有できないがコンドミニアムなら所有できる国、非居住者の購入を制限している国、軍事施設周辺や自然保護地域など外国人が取得可能な地域を制限している国、外国人の不動産購入に課税する国など様々だ。

 日本は外国人の不動産所有の制限がごく少なく、外国人がほぼ完全な所有権を持てる国だという。どこの国に住むかは個人の自由であると考えるなら、外国人の不動産取得は世界中で自由であるべきだろう。とはいえ、非居住者の投機の対象になったり、外国人の不動産購入で、そこに住む人々の生活に支障が生じているのなら、何らかの対策が求められるのは理解できる。

 偏狭な「愛国心」から外国人の不動産取得を批判・否定するのではなく、資本や個人の自由な移動を容認する世界になっていることを踏まえつつ、外国人の不動産取得に伴う問題を挙げるなら、①適切に納税がなされているか、②関連法規を遵守しているか、③治安や防衛面などでの阻害要素を含んでいないか、などだろう。

 日本が気に入り、日本に住むと決めた個人が各国から日本に移住するのは歓迎すべきことだろう。不安や懸念が生じるのは、不動産を取得した個人や企業の正体が不明であったり、居住の実態がなかったり、法規など日本のルールを無視している場合だ。外国人の不動産取得と排外主義を絡ませないためには、行政の適切な対応により処理可能だと示さなければならない。

2017年11月1日水曜日

自民は174議席?

 第48回衆議院選挙は自民党の圧勝だった。定数465のうち自民党が284議席(小選挙区218、比例代表66)で全体の6割を占めた。次に多かったのは立憲民主党の55議席(18、37)だったので、自民の獲得議席は立憲民主の5倍以上にもなる。第3位は希望の党で50議席(18、32)、第4位は公明党29議席(8、21)、第5位は共産党12議席(1、11)、第6位は維新の党11議席(3、8)などとなった。

 定数465議席のうち自民が61.1%を占め、立憲民主が11.8%、希望10.1%、公明6.2%、共産2.6%、維新2.4%と、自民の突出ぶりが際立つ。小選挙区(定数289)で見ると、自民の獲得議席数218は75.4%と他を圧倒し、4分の3を占める。立憲民主は6.2%、希望も6.2%、公明2.8%、共産0.3%、維新1.0%。

 政党名で投票する比例代表(定数176)で自民の獲得議席66は37.5%、立憲民主21.0%、希望18.2%、公明11.9%、共産6.3%、維新4.5%となる。比例代表での投票を政党に対する支持率だと見て、それで全議席(定数465)を配分すると、自民174議席、立憲民主98議席、希望85議席、公明55議席、共産29議席、維新21議席になる。

 174議席は、自民が実際に獲得した284議席より110議席少ない。174議席は定数465の37.5%になるが、選挙前の自民支持率が30%前半だったので、実態に近いものだろう。自民は3割台の支持率で、選挙では6割以上の議席を得ているが、自民の個別候補者の魅力や頑張りがこの結果になったのか、自民に有利な選挙制度なのか検証が必要だな。

 投票数で見ると、違った光景が見えてくる。全国合計の投票数は小選挙区が5542万2087票、比例代表が5575万7552票だったが、比例代表の政党別得票率を見ると、自民は1855万5717票で33.3%、立憲民主19.9%、希望17.4%、公明12.5%、共産7.9%、維新6.1%と、自民が全体の3分の1。

 この比例代表の得票率で全議席(定数465)を配分すると、自民155議席、立憲民主93議席、希望81議席、公明58議席、共産37議席、維新28議席となる。自民と公明を合わせても213議席で半数にも達せず、希望か維新を連立に引き込まないと過半数に達しない。

 さて、自民の圧勝に終わった総選挙だが、民意の反映という視点で見ると、自民の圧勝には疑問が生じる。比例代表の投票に示された政党別の得票が民意を正確に表していたとすると、今回の選挙で自民は過大に議席を得たことになる。政権交代可能な2大政党制が実現しない中で、小選挙区制は「1強」に有利すぎるのかもしれない。

2017年10月28日土曜日

現実に裏切られるイメージ

 神戸製鋼所や日産自動車などの不祥事が相次いで明らかになり、日本の製造業の高品質イメージが失墜したと憂慮する声が上がっている。だが、実態から遊離して信仰されていた高品質イメージなら、現実に裏切られるのは当然だろう。

 日本にとって好都合だった「日本産品は高品質」とのイメージが崩れるのは、日本礼賛主義者にとっては悔しくもあり、「日本に誇りを持つ」イメージ戦略を傷つける。とはいえ、全ての日本製品が高品質だと、日本のものは何でも礼賛したがる根拠の希薄な願望を修正し、冷静に品質を見極める姿勢を育むには、いいきっかけになりそうだ。

 一連の不祥事は、市場が頭打ちで売り上げ増加が見込めない中、コスト削減のため人員削減や非正規雇用化などが進む製造現場の疲弊の結果だともされる。一方で、製造工程での品質管理が徹底しているのに完成車の出荷前検査など「時代遅れ」の制度が続いていることの矛盾が現れたとする声もある。

 製品は高品質だが、データや検査が偽装されていただけなら対策は容易だろう。データ表示や検査を法令に忠実に行うように徹底すればよい。だが、現場での品質管理能力が低下し、製品の高品質そのものが確保されていないのなら、問題の根は深い。製造工程のすべてにわたって検証する必要が出てくる。

 こうした日本企業の不祥事は探るほどに明らかになってきそうだが、高品質イメージの企業の不祥事は世界でも起きている。例えば、独VWは、クリーンをアピールしてディーゼルエンジン車を売りまくっていたが、検査時にだけ浄化装置を作動させるという不正を行っていた。これは、会社の方針としてやったこと。つまり確信犯のやったことだ。

 さらに、ディーゼルエンジン車の排ガス不正に関連してカルテルも疑われ、独の自動車業界ぐるみの不正だった疑いが強まっている。神戸製鋼所や日産の場合、現場に問題がある実態を経営陣が把握していなかったように見えるが、独VWなどのディーゼルエンジン車の排ガス不正は、経営陣からの指示あるいは了承なしに実行できるものではあるまい。

 企業が内部留保を積み上げる一方、労働分配率が低下する現在において次々に暴かれる不正は、日本のみならず世界で企業は利益追及のために、偽装、インチキ、隠蔽を辞さない集団だと見なすべきことを示している。日本製品の高品質イメージが崩壊することを嘆くよりも、企業が社会的な責任に真摯に向き合う端緒に、今回の一連の不祥事判明がなることを期待すべきか。

2017年10月25日水曜日

上塗りされるイメージ

 神戸製鋼所が品質データを改ざんしたアルミや銅製品、鉄鋼製品を出荷していたことが判明したが、長期にわたり組織ぐるみの不正が行われていたと見られている。日産自動車では無資格者による出荷前の法定検査が行われていることが判明、問題公表後も無資格検査を続けていたことが暴露され、新車の出荷停止に追い込まれた。

 偽装といえば、東洋ゴムは免震ゴム、旭化成は子会社が地盤調査データ、三菱自動車は燃費性能データでそれぞれ偽装を行っていたことが、ここ数年、相次いで明らかになった。また、エアバッグ大手のタカタは世界的なリコールに追い込まれ、経営破綻した。

 製造業企業ではオリンパスや東芝など経営陣主導による不正決算などがあり、日本の企業が「頭から腐る」ことは珍しくなかった。だが、製品を製造する現場は「健全」で、日本製品は高品質とのイメージは保たれていると見なされていただけに、相次ぐ現場での偽装などの不祥事は、日本の製造業全体への信頼を揺るがしかねないと懸念されている。

 冷静に考えるなら、日本の製造業の製品が全て高品質であるというのはあり得ない。高品質の製品を提供する企業があれば、粗末な製品を提供する企業もある。日本の企業の製品なら高品質である……なんて現実離れしたイメージに浮かれているうちに、そのイメージに束縛されるようになっていただけだ。

 製造現場で問題が放置され、隠蔽していた企業がある実態が暴かれたのなら、事実関係を精査して改善すればいい。だが、日本製品の高品質イメージが崩れるとの懸念に対する効果的な対策は乏しい。具体的事実から形成されたイメージであっても、時とともにイメージは抽象化するからだ。

 抽象化したイメージが変わるのは、別のイメージが上塗りされた場合だ。不祥事を起こした日本の企業が、イメージ回復に失敗し、逆にイメージを悪化させることが多いのは、曖昧な説明だったり、次々に問題が出てきたりと、真摯に対応しているとのイメージを打ち出すことに失敗するからだ。

 日本製品が高品質だとのイメージを世界で持続させるには、悪いイメージを発散する企業を「退場」させ、高品質の製品を提供する企業の比率を高めるしかない。しかし、神戸製鋼所などの大企業を「退場」させることは至難だろう。つまり、実態から乖離した「日本製品=高品質」イメージなら、別のイメージ(日本企業=信用ならない)に上塗りされるしかない。

2017年10月21日土曜日

公約の効能

 お題目とは「法華経の題目(「南無妙法蓮華経」と「妙法蓮華経」)を丁寧にいう語」だが、「ありがたそうに唱えているばかりで、内容・実質のない主張」(大辞林)という意味でも使われる。実質がないという点では選挙を前に政党がでっち上げ…いや、急いで作成した公約にも、お題目の雰囲気が漂わないでもない。

 選挙で政党が掲げた公約を実現するには、政権を担うか連立政権に参加することが必要だ。つまり、選挙で第1党になれず、連立政権にも参加しない政党には公約を実現することは簡単ではない。候補者数が少なく、連立政権に参加するつもりがない政党の掲げる公約は、まさに「絵に描いた餅」であろう。

 選挙には公約がつきものだ。政党にも公約がつきものであると思いがちだが、選挙の間際になって公約の制定作業を急いで始めるところもあって、選挙対策の標語でしかない。政党に確立した綱領があるなら、その現実化が公約となるだろうが、綱領がなく、行き場を探す候補者が寄せ集まった政党なら、集票狙いの標語がお似合いだ。

 投票してくれた主権者と政党との約束と公約は見なされるが、拘束力はゆるい。選挙が終われば公約の出番は終わったも同然。そこらは主権者のほうも承知しており、当選すると公約を「忘れる」候補者を繰り返し当選させたりする。主権者は公約の実現をあてにしていないか、投票する判断基準に公約は関係しないのか知らないが、公約の影は薄い。

 選挙に勝って政権を担った政党は、公約を着実に実現していると主張するだろうが、大まかな方向を示すだけなのが公約。具体的なことを掲げると、後から検証された時に「実現していないじゃないか」とすぐ分かるから、どのようにも言い繕うことができるようになっている。

 各党の公約には、未来とか活力、地方再生、暮らし、安全・安心、社会保障、環境、誇り、平和、決断、無償化、減税、雇用、高齢者支援、景気対策、年金、医療、介護、原発、子育てなどの文言が散りばめられる。

 政治家や政党が様々な課題に満遍なく配慮し、対策を考えているように公約は装うが、選挙の後、法案作成や法の執行など具体的な事柄になると官僚任せが実態だともされる。官僚は政党の公約に制約されないから、選挙の際の公約が集票狙いの標語になるのも当然か。

2017年10月18日水曜日

イスラエルが望むもの

 米トランプ大統領は米欧がイランと2015年に結んだ核合意について、イランが合意を順守しているとは「認めない」とした。合意からは離脱せず、制裁再開の判断は議会に委ねるが、議会や関係国が合意の問題点を解消できなければ「合意を破棄する」と強調した。

 米国はまた、ユニセフに脱退することを通告した。ユニセフに対し、パレスチナの加盟を認め、エルサレムの聖地「神殿の丘」の表記やヘブロン旧市街の世界遺産への登録などで反イスラエル傾向があるなどと批判していた。ユニセフは、政治的な偏向があるとか中国の影響力が大きくなったなどの批判が珍しくない組織だ。

 この二つの動きを歓迎しているのがイスラエルだ。サダム・フセインが排除されてイラクが弱体化し、反政府運動が煽られ、さらに内乱が拡大してシリアも弱体化し、中東でイスラエルに対抗できる国はイランだけになった。対IS戦で軍事的な影響力を強めたイランは、核合意によって欧州などからの投資が増えている。

 米国が核合意を破棄する姿勢をちらつかせてイランとの緊張が高まり、イランの行動に制約が増すことはイスラエルにとって好都合だろう。イスラエルは米国に続いてユニセフ脱退を表明した。ユネスコの姿勢が反イスラエル的というのが理由で、米国の脱退理由と重なる。

 イラク北部のクルド人自治区で住民投票が行われ、独立への賛成票が9割以上になった。住民投票の実施にはイラク中央政府に加えトルコ、イランや米国なども強く反対したが、イスラエルは歓迎した。ISの影響力が失われつつある中東で、クルド人に独立機運が広がるなら新たな不安定要因になり、イスラエルにとっては好都合だ。

 イスラエルが望むものは、平和と安定だろう。だが、パレスチナ問題が立ちはだかる。イスラエルには譲歩する考えは微塵もないので、イスラエルを敵視する人々は減らず、イスラエルを敵視する周辺国も存在し続ける。イスラエルにとって周辺国に混乱が広がり、弱体化することは大歓迎だろう。

 イスラエルに敵対する周辺国は次々に、米国との戦争で政権が崩壊したり、反政府活動が活発化したり、内乱が拡大したりして弱体化し、イランには国際的な経済制裁が課されていた。イスラエルが何らかの影響力を及ぼしているのか、変化する状況をうまく利用しているだけなのか定かではないが、イスラエルにとって都合のいい状況に向かっていることは確かだ。

2017年10月14日土曜日

典型としての人体

 人間の誕生以前から神は存在していたとするのがキリスト教やイスラム教の考え方だ。神の姿は人間には見えないから、神がどのような姿をしているのか人間は知らない。イスラム教が偶像崇拝を禁じるのは、見えない神を人間が勝手に作り上げることは神への冒涜だと考えるからだ。

 仏教には絶対神はいないが、如来や菩薩、明王など多くの尊い存在があり、仏像などでは人間の姿で表現される。古代インドの神々を取り込んだ天は異形の姿で表現されるが、彼らは後から仏教に取り込まれた存在であり、如来などを守る守護神の役割だ。

 釈迦(シッダールタ)に始まる仏教で、如来は悟りを開いた者で最も尊い存在とされ、菩薩は悟りを開く前の修行中だが、衆生を救済する者のこと。仏道を妨げるものに立ち向かう明王は如来の化身ともされ、忿怒の形相で表現されるが体は人間のようだ(古代インドの神を取り入れたとされる)。

 如来や菩薩などが人間の姿で表現されるのは、神ではなく人間だから。悟りを開いたり、悟りを開く修行中であったりする人間が如来や菩薩だから、その姿は人間の姿になる。ただし、生死を超越した存在で、衆生を救うとされるから、もう人間の世界を離れており、神のイメージに似る部分もある。

 如来や菩薩を見た人間はいないし、その存在は確認されてもいない。だが信仰の対象として如来や菩薩は人の姿で表現される。信仰の対象は、神道なら個別具体的になるだろうが、仏教では如来や菩薩などと抽象的になる。だから仏像などで表現される時には人の姿であっても、様式化された典型をなぞることになる。

 仏教が日本に入って数百年たち、鎌倉時代に新仏教が興り、仏像の表現に大きな変化が現れた。様式化された典型としての人体ではなく、個別具体的な人体といってもいいリアルな造形がなされ、表情は、永遠を眺めるのではなく一瞬をとらえた個性を表すものになった。

 仏像にとって肉体(個性)とは何か。悟りの前では肉体の存在は無意味だろうが、如来や菩薩を表現した仏像で「肉体の復権」が行われたのは、“人間味”が増すことで実在感を増した如来や菩薩が共感されたからだろう。それは、特権階級ではない人々の活力が増した時代背景も関係しているかもしれない。運慶の作った仏像は多くのことを考えさせる。

2017年10月11日水曜日

政治と希望

 希望とは「ある事の実現を願いのぞむこと。その願い」「将来によせる期待。見通し」(大辞林)、「自分がこう成りたい、人にこうしてもらいたいと、よりよい状態を期待し、その実現を願うこと」(新明解)とされる。つまり、何かの実現を期待することだ。

 何かの実現を期待するということは、その何かは実現していない。また、状況が悪くなることを期待する人はいないだろうから、その何かは希望する側にとって良きことであろう。さらに、ただ待つのではなく、何かが実現することへの積極的な願望が希望という言葉には込められている。

 政治にとって希望とは何か。実現していない政治的な何かを、現在の日本においてイメージするのは簡単ではない。自由選挙や民選議会、三権分立、法の支配、自由な言論、個人の尊厳や自由の尊重などは、世界的に見れば日本は実現されている国だろうから、さらに求められる政治的な希望とは何か、ぼやけている。

 現在の日本において、政治における希望=実現していない何かに対する期待といえば、例えば、憲法改正が代表例だろう。一方に頑迷な護憲論があり、他方に国家権力を強めるための改憲論があり、憲法改正の論議は膠着状態だった。憲法改正を希望とする政治家がいて、護憲を希望とする政治家がいる日本。

 主権者にとって政治における希望は、より良き政治が行われることだ(良きことの意味は様々で、立場によって異なる)。政治家にとって政治における最大の希望は権力に関与する地位に就くことだろうが、政治家でいることを最大の希望とする人も珍しくはなく、そうなると希望というより個人の欲望か。

 欲望とは「ほしいと思う心。不足を満たそうと強く求める気持ち」(大辞林)、「精神的・肉体的に常により良い状態に自分を置きたいと思い続けてやまない心」(新明解)と、個人が強く出る。欲望で動く政治家も、希望を語って隠れ蓑にすることができるから見極めが難しい。
 
 かなえるのが希望で、満たすのが欲望だ。誰かの希望が、傍からは欲望としか見えないこともある。政治や政治家には希望も欲望も混じり合っているものなら、うっかり政治や政治家の希望を語る言葉を鵜呑みにすると、彼らの欲望を満たすだけに終わるゾ。

2017年10月7日土曜日

優れた政治家

 優れた政治家の要件は何か。第一に高く豊かな見識を持ち、第二に論理的な思考力を有し、第三に人々の暮らしに精通し、第四に自分の利益より人々の利益を優先し、第五に強い情熱と意志を持ち、第六に意見や利害の対立を公平に調整する能力を有し、第七に人々を励まし、前向きの気持ちにすることができる。

 しかし、そんな素質を有する人物は既に様々な分野で職務に励んでいて、人々から頼りにされてもいるだろう。優れた人物が、職を投げ打って政治家になることは社会にとって歓迎すべきことで、必要なことでもある。だが、そんな人物が必ず立候補するとは限らない。

 優れた人間が立候補して当選し、優れた政治家になるのなら慶賀の至りだが、優れた人が当選しても、優れた政治家になる保証はない。さらに、優れた人だけが立候補しているわけでもないので、誰が優れた人なのか見分けるのは簡単ではない。

 優れた人が政治家になるのだと政治家像を持ち上げすぎると、現実の政治家の言動に落胆することになる。人間の素質や能力は誰もが同じようなものであると見るならば、たまたま当選して政治家になった人が急に優れた政治家に変身する……はずがないと理解できる。

 選挙は優れた人を選別するプロセスではなく、主権者の政治的な意思表示を行う機会だとの原則に立ち返るなら、候補者の中から優れた人や優れた政治家を求めるという過剰な期待を持たなくてもすむ。

 優れた政治家を求めるのは、政治家にリーダーシップを期待するからだろう。それは主権者意識の希薄さと比例する感情であり、優れた政治家が増えれば政治は素晴らしくなるという幻想に支えられている。しかし、期待は裏切られる。選挙というシステムは、立候補者の資質や能力などを選別するものではないからだ。

 自分と同じような資質や能力を持つ人が、たまたま当選したので政治家になっているのだと主権者が理解すれば、政治家に求めるものが見えてくる。判断を誤らないようにするためには自分ならどうするかを考え、それを政治家に当てはめれば良い。

2017年10月4日水曜日

正論の快楽

 ドイツ連邦議会の総選挙で、与党CDUは得票率32.9%と前回の41.5%から大幅に減り、議席は246で63議席も減った。第1党は維持したものの退潮傾向は明確で、過半数(355議席)にはほど遠い。右翼政党AfDは躍進し、得票率13.0%で94議席を獲得し、初めて国政に参加することになった。

 メルケル首相は第1党を維持したことで引き続き政権を担当するが、盤石の体制とはもはや見られず、一部では任期半ばの退任も取りざたされるようになった。連立を組んでいた第2党SPDも大幅に得票と議席を減らし、連立から離脱した。約百万票が両党から離れたという。

 経済は順調で失業率も低いのに政権与党が大幅に議席を減らしたのは、2015年に約百万人の難民を受け入れたことに対する批判だと見られている。メルケル首相は人道主義に基づき寛容な難民受け入れ策を進めたが、約百万人という難民の殺到はドイツ社会に少なからぬ負担をもたらした。

 戦火に追われた人々を受け入れ、助けるのは、戦乱を繰り返してきた歴史を持つ欧州では珍しいことではなく、むしろ、「明日は我が身」と人々は助け合って生きてきたといえよう。困窮する難民を受け入れて助けるのは崇高な行為であり、賞賛されこそすれ批判される行為ではない。

 だが、資本が巨大化して世界を覆う現在、商品もマネーも簡単に国境を越え、人の移動もグローバル化し、難民の移動もグローバル化した。欧州が受け入れると知ったなら、戦乱に追われた中東の難民が周辺国の難民キャンプよりも欧州を選ぶのは当然だろうし、アフリカなどから経済難民が欧州を目指すのも当然だ。

 欧州外から百万人以上の難民が押し寄せると、人道主義に基づく難民受け入れ策は綻び、変容を迫られる。それは第一に、受け入れ数を制限することであり、第二に、受け入れる人間を選別することになる。難民受け入れを歓迎したドイツ経済界の反応などから、おそらく、将来の労働力として適している人々が優先されるだろうことは想像に難くない。

 難民問題といっても、例えばロヒンギャ難民と欧州に殺到する難民問題とでは、欧州の論調は微妙に異なる。ロヒンギャ難民を受け入れているのはバングラデシュであり、欧州ではないから、いくらでも人道主義を掲げて「正論」を説き、関係国の政治家らを批判できる。自分らが受け入れに関わらない他国の難民は、同情するだけの対象となり、「正論」の快楽を味わう対象ともなる。

2017年9月30日土曜日

芸能プロと独禁法

 芸能人などの独立や移籍に対して、所属事務所との間で独禁法上の問題となる契約や慣習がないかを公取委が調査しているという。といっても、芸能人を強く拘束する契約の違法性を摘発する狙いではなく、契約実態を調べるのが目的というから、事務所を離れた芸能人が「干される」ことがなくなるかどうかは不明だ。

 NHKは、公取委が「問題視しているのは、事務所が一方的な契約を結んで芸能人の独立や移籍を制限するケース、独立や移籍をした芸能人に対してその後の活動を妨害するケース」とし、「芸能界で広く行われてきた契約が独占禁止法に抵触する可能性がある」と公取委が考えていると踏み込んで伝えた。

 事務所を離れた芸能人が「干される」のは、テレビ局や出版社など各社が協力するからだ。芸能事務所は多くの芸能人を抱えているので、その機嫌を損なうと人気芸能人を回してもらえなくなる懸念があるので、テレビ局や出版社は「干す」ことに協力する。芸能人の人気に頼る度合いが少ない番組づくりを行っているからNHKは踏み込んで伝えることができた?

 芸能事務所が芸能人を契約社員として雇用する形態では、人気があっても芸能人は芸能事務所に従属する。対等の関係であるとマネジメントなどの業務委託契約であっても、芸能事務所が主導権を握るなら芸能人の立場は強くはない。

 芸能事務所は企業であり、テレビ局や出版社も企業。芸能事務所を離れた芸能人が「干される」のは、個人よりも企業の論理を優先する風潮があるからだろう。テレビ局や出版社などの企業に、個人としての社員を尊重する文化が強固にあれば、芸能事務所を離れた個人を「干す」という行為に安易には加担しないはずだ。

 個人が企業などに対抗する力を持つには、まとまるしかない。芸能人の同業者組合を作って権利を守り、待遇を改善させ、不利な契約を改定して有利な契約に導く。しかし、同業者組合の必要性は以前から指摘されていたが、ほとんど実現していない。芸能人には個人事業者としての権利意識が希薄に見える。

 芸能事務所が主導権を握るのは、実力も人気もない人物を人気芸能人に仕立て上げているからだ。歌や踊り、演技などをトレーニングさせ、様々な媒体に芸能事務所が売り込むというシステムが、芸能人を芸能事務所に従属させることを容易にしている。

2017年9月27日水曜日

過熱する威嚇合戦

 北朝鮮と米国の威嚇合戦が過熱している。米トランプ大統領が国連演説で「米国自身や米国の同盟国を守る必要に迫られた場合、北朝鮮を完全に破壊する以外の選択肢はなくなる」と言うと、金正恩朝鮮労働党委員長は声明で「史上最高の超強硬対応措置断行を慎重に考慮する」「米国の老いぼれの狂人を必ずや、必ずや火で罰する」と返した。

 こうした言葉の応酬は、相手の反応を考慮に入れた高度な外交には見えず、自制を失ったチンピラの罵り合いの様相を呈している。双方ともに相手から戦争を仕掛けられることはないと見ているから、言葉のエスカレートが続くのだろう。本当に一触即発の状況ならば、慎重に言葉を選ばざるを得なくなる。

 過熱する言葉の応酬で北朝鮮が得るものは、第一に、米国と互角にやりあうことができる「強国」としての自負、第二に、戦争の危機が迫っているとする国内の引き締めだろう。それは軍の存在感を一層強めることにもなる。失うものは、国際社会における信用だろう。

 一方、米国が得るものは少ない。選挙戦であったなら過激な発言で関心を集める手法にも意味があるのかもしれないが、外交的にはトランプ氏が過激な発言で目立つことは無意味だ。内政の行き詰まりや国内の分断を、北朝鮮相手の強面で糊塗することができるとも望めないだろう。

 さらに、制御できないトランプ氏の言葉に外交が引きずり回されている現状と、核を兵器化した国に対して戦争を仕掛けることができないという米国の姿が明らかになった。言葉の応酬だけにとどまるなら、大国であろうと弱小国であろうと対等であることを北朝鮮が示した?

 圧倒的な軍事力を有する米国が恐れられるのは、中近東などで示したように軍事力の行使をためらわないことだった。だが韓国には約20万人の米国人が居住していて、北朝鮮の通常兵器により多数が死傷する可能性が大きければ、実質的に北朝鮮が彼らを人質にしている状態だ。北朝鮮に対する米国の軍事力行使には制約が多い。

 北朝鮮も米国も戦争には踏み切らないとすれば、双方の罵り合いは面白い見世物になる。連日のように新しい話題が提供されるのでマスメディアは大歓迎だろう。ネタが次々に提供される状況をありがたがっていることを隠しながら、危機的状況を憂い、双方に自制を促す姿勢を見せておけば、双方の言葉の応酬を連日大きく取り扱うことができる。

2017年9月23日土曜日

クルドの民族自決

 トルコ、イラク、シリア、イランなどにまたがって生きる3000万人以上のクルド人は、独自の国を持たない最大の民族といわれる。各国では多数派が形成する政府に「支配される」立場で、しばしば抑圧の対象ともなってきた。独立を目指して武装闘争を行う党派もあるが、各国は厳しく封じ込めてきた。

 どこかの国でクルドの分離独立が実現したなら、他の国でも連鎖反応を引き起こす恐れがあり、各国の分裂・再構成が始まる可能性は高い。クルド人の独立願望は地域の潜在的脅威とみなされてきたが、具体的に動き始めている。イラク北部のクルド自治政府が、分離独立の可否を問う住民投票を9月25日に行う。

 賛成多数は確実とみられているが、反対の動きも強まっている。アラブ人が多数を占めるイラク議会は住民投票実施に反対する決議を採択し、イラク首相は「対話以外に選択肢はない」と中止を説得、イラク最高裁は違憲性の有無を判断するまで住民投票を停止するよう命令した。自治政府は住民投票を強行する姿勢だ。

 周辺国も強く反対し、トルコはイラクとの国境近くで軍事演習を開始するなど威嚇を始めた。トルコは国内でクルド人の抑え込みを強化しているだけに、隣国イラクでクルドの分離独立の意思表明が公然となされると、政権への反発も加わって影響が大きくなる可能性がある。

 ISとの戦闘でクルド人主体の勢力を支援してきた米国も、地域の安定を損なうと住民投票に反対し、イラク政府との対話をクルド自治政府に呼びかけている。IS掃討でクルド人主体の勢力は大きな役割を果たしたのだが、ISが弱体化した代わりにクルドが勢いづいたとあって、この地域への米国の関与は波風を立たせ続けている。

 クルドが独立して国家を作ることができたとして、その国家がクルドの理想の国になる保証はない。クルドの中にも様々な対立がある。同一民族で国家を形成しても、民意を可能な限り反映させた政府を形成するためには民主主義(自由選挙)が必須で、自由選挙を行うならば様々な対立が露呈してくる。ただし、主権者意識を人々は強く持つことができる。

 ユーゴスラビアという国家があった。南スラブ人という大きな民族の物語に統一の根拠と正当性を求めたのだが、社会主義の実験の失敗もあり、南スラブ人という大きな民族の物語の中で、セルビアやクロアチアなど様々な対立が先鋭化し、分裂に向かうしかなかった。民族という物語だけはで国家の求心力を保つことに限界がある。

 クルドの国家形成は、欧州諸国による中東の植民地支配の残渣を浮かび上がらせ、各国の国境(欧州の植民地の境界)を書き直すことにつながる可能性がある。ただ、国家を形成する動機(民族であろうと理念であろうと)が正しければ結果も正しいものになるという保証は何もない。

2017年9月20日水曜日

偶発的な危機

 北朝鮮の挑発が止まらない。なぜ挑発を繰り返すのか。その狙いについて様々な解釈があり、米国との直接交渉を求めているとの見方が多かったが、米国の反応を試し、出方を探っている段階はとうに過ぎた気配で、むしろ、急ピッチで実施されるミサイル発射は、技術開発を急いでいるだけとしか見えない。

 国連安保理の制裁決議に反発しているとの見方もあるが、制裁決議は回を重ねるごとに強化されていくので、挑発行為を繰り返すことは更なる制裁決議を招く。北朝鮮に対する国際批判が高まると、対米牽制に北朝鮮を利用する中露の戦略に制約が増すだろうから、制裁決議の実効が高まる可能性がある。制裁決議に北朝鮮は反発しているだろうが、新たな挑発の動機になるか疑問が残る。

 制裁決議に反発していると見られることは北朝鮮にとって好都合かもしれない。何をするか判らないと各国から警戒され、さらに恐れられるようになったなら北朝鮮は笑いが止まらないだろう。米国ばかりか国連相手に互角にやりあう「強国」になったとの満足感を北朝鮮は持ったかもしれない。

 挑発ではなく、核と長距離ミサイルの実戦配備を急いでいるとの見方も有力だ。米国を直接に攻撃できる核搭載ミサイルの技術開発が急進展したのなら、米国に交渉を求めるよりも、核搭載ミサイルを実戦配備するほうを優先させるだろう。挑発ではなく技術開発を急いでいるなら、他国や国連が何と言おうと、従うはずもない。

 北朝鮮の一連の行動を挑発と見ると、合理的な判断を北朝鮮は行うことができるのかとの懸念が膨らむが、核搭載ミサイルの技術開発を急いでいると見るなら、彼ら流の合理的な判断だろうと理解はできる。だが、核搭載ミサイルを実戦配備した後に北朝鮮が米国や国際社会に対して、どのように振る舞うかと想像すると、新たな懸念が生じる。

 北朝鮮の乱暴で一方的な言い分を何度も聞かされると、交渉(外交)の余地がある国なのかとの疑問が生じる。核搭載ミサイルを実戦配備した北朝鮮が、それから米国などとの交渉に応じたとしても、さらに強硬姿勢になり、一方的な主張を貫くだろうことは想像に難くない。そんな北朝鮮との交渉で米国などが得られるものは、「強国」北朝鮮との共存か、緊張関係の持続であろう。

 挑発でなかったとしても、北朝鮮のミサイル発射に伴う現実的な危険性がある。北朝鮮は大気圏再突入に関わる技術を確立しておらず、弾頭は壊れているとか燃え尽きているとの見方もあるが、耐熱性を高めた弾頭や破片が落下して、船舶や航空機と衝突する可能性は、非常に低いだろうがゼロではない。そうした船舶や航空機が米国に関係するものだった場合、米国が「懲罰」に動く可能性はゼロではないだろう。

 さらに、北朝鮮のミサイルが日本の船舶や航空機と衝突したり、日本の領域に破片などが落下して人的被害が生じたなら、世論は一気に強硬論に変わる可能性がある。情緒に支えられて理想を謳うだけの平和論と護憲論は、世論が強硬論に一気に傾いた時には無力だろう。北朝鮮のミサイルの破片が日本の戦後平和論の息の根をとめるかもしれない。

2017年9月16日土曜日

赤いカラス

 ある人物(A)が「赤いカラスを見た」と言った。他には誰も赤いカラスを見た人はおらず、見たとAだけが言っている。この場合の事実とは、Aが「赤いカラスを見た」と言ったことであり、赤いカラスの存在が事実であるとは確認されていない。しかし、マスメディアがAの言ったことを報じるなら、赤いカラスの存在が事実であると受け止める人が出てくる。

 このAが、例えば、大学教授だったり高級官僚だったり有名企業の役員だったり弁護士だったり、社会的に信用があるだろう地位にいる人物なら、虚偽を言うはずがないと大方の人は受け止めるかもしれない(虚偽と判明すれば地位に関わってくる可能性がある)。

 さらに、マスメディアが報じることでAの発言の信憑性が増す。マスメディアは事実確認をしてから報じると見なされているので、Aが言った内容を確認したからマスメディアが報じたと受け止める人もいよう。マスメディアが確認した事実は、Aが確かに発言していたことだけだったとしても、Aの発言の内容に信憑性があるからマスメディアが報じたと見られる。

 失言を批判するなら、その人物が発言していたことだけを確認すればいいだろうし、発言の内容をマスメディアが肯定していないとも受け止められよう。だが、「赤いカラスを見た」類の発言を報じることは、そのニュース価値が高いとの判断とともに、発言の内容をもマスメディアが保証することになりかねない。

 「赤いカラスを見た」とAが言ったとマスメディアに取り上げられると、「赤いカラスなど、いるわけがない」との関係者の反応が続いて取り上げられたりする。赤いカラスが存在しても存在しなくてもマスメディアは報じるので、赤いカラスの存在が事実であるかどうかからマスメディアは距離を置くのだが、それを誰もが理解しているわけではない。

 人間の身近で生息するカラスに赤い個体が存在しているのなら大発見であり、存在が確認されたのなら、マスメディアが報じる価値があろう。しかし、赤いカラスを見たと言うAがいるが、他には誰も見たことがないなら、事実は確認されていないという位置付けになる。マスメディアが音頭をとって、「赤いカラスを探せ」キャンペーンでも行うか。

 「赤いカラスを見た」と組織や団体、機関などが主張し、他の組織や団体、機関などが「赤いカラスなど、いるわけがない」と否定することもある。こういう時にマスメディアは、「赤いカラスを見た」と主張する組織や団体、機関があるとの事実を報じたり報じなかったり、対応は様々だ。組織や団体、機関とマスメディアの親密度が影響するのだろう。

2017年9月13日水曜日

多次元世界

 物質とは何かを人間は考え、探ってきた。そして原子の存在を知り、さらに原子は陽子や中性子、電子でできているが、それらは更に小さな素粒子でできていると知った。素粒子は粒子と波の双方の性質を併せ持つもので、大きさを持たない「点」のようなものと考えられてきたが、長さがあるが幅も質量もない「弦」のようなものとの考えが有力になってきた。

 物質とは何かを考えて行き着いたのが、素粒子の世界では、大きさのない「点」であったり、幅のない「弦」であったりする理論。実在するのが物質だと考えていたのに、探っていくほどに実在が揺らぐ。人間も物質であるが、ミクロの世界では実在が揺らいでいるのだとすれば、人間の存在も素粒子レベルでは実在すると断言できないのかもしれない。

 日常生活では物質の実在は確かなものと感じられるのに、素粒子の世界になると実在が揺らぐ。そんな理論が許容されるのは、物質とエネルギーは等価で変換可能であるからか(E=mc²)。ミクロの世界ではエネルギーと質量は変換を繰り返す流動的な状態にあり、混在しているのかもしれない。

 素粒子が弦のようなものと考える理論では、弦は凄まじい勢いで振動し、その振動の状態によって物理的性質が異なり、様々な素粒子になるのだという。物質の根源は振動(エネルギー)だとの考えは、素人には不思議だが興味深くもある。人間も無数の弦の振動により形成されているのだとすれば、実在という概念自体が変容を迫られる。

 さらに弦の振動の状況は多様で、3次元では説明できず、9次元の空間を弦は自由に振動しているという。この世界は3次元で縦・横・高さの方向で空間が構成され、そこに時間が空間の構成要素として加わったのが4次元とされるが、5次元がどのような空間なのか定かではなく、9次元がどのような構成要素で成り立つ空間なのかも不明だ。

 4次元を構成する時間は、この世界で認識できる。5次元以上の多次元世界も、この世界で認識できる要素を空間の構成要素にしていると仮定するなら、例えば、エネルギーを空間の構成要素に加えた世界を5次元と想像できる。3次元における実在は空間を質量が占めることだが、5次元での実在とは、物質であってもエネルギーであっても形態を問わないだろう。

 この世界には重力・電磁気力・強い力・弱い力の4種類の力があるといい、力を伝える粒子(素粒子)があると考えられているが、それらは検出されていない。それぞれの力も空間の構成要素になり得るとすれば、9次元までの世界が想像できる。といっても、力が構成要素になる空間とはどんな世界か、素人には見当もつかないが。

2017年9月9日土曜日

政権を崩壊させた後が大変

 米トランプ大統領は、アフガニスタンへの米国の関与を継続し、米軍部隊を増派することを発表した。増派の規模は明らかではない。最も多い時には約10万人の米兵が投入され、戦争終結を目指した前オバマ政権は5500人に減らすことを目指したものの実行できず、米史上最長とされるアフガニスタンでの戦闘は続く。

 2001年に米軍主体のNATOはアフガニスタンで戦闘を開始し、タリバン政権を崩壊させたが、タリバンなどの抵抗は続き、治安は回復していない。米兵の死者は2400人以上で2万人以上が負傷、戦費以外にアフガニスタンの治安維持などのために米国は1000億ドル以上を注ぎ込んだが、米国はアフガニスタンから「抜け出す」ことができない。

 アフガニスタンの次に米国はイラクで2003年に戦争を始め、サダム・フセイン政権を崩壊させたが、新政府が成立した後も様々な勢力による武力攻撃が各地で続き、米軍は撤兵するわけにいかず多国籍軍として駐留を続けざるを得なかった。米軍はイラクから2011年に完全撤退したが、米兵の死者は4000人以上になった。

 アフガニスタンでもイラクでも米国は圧倒的な武力により当時の政権を打倒することはできたが、同時に長期間の治安の崩壊をもたらした。欧州諸国の植民地支配の境界を国境として誕生した一種の人工的な国家だったこともあって、強権支配の政府が崩壊すると、残されたのは混乱であり、一つの国家としてまとまる必然性の希薄さが露呈した。

 さて、米軍の圧倒的な武力によって北朝鮮で金一族の支配が崩壊した後は、どのような状況になるのだろうか(どのような混乱がもたらされるのか)。低レベルではあっても自律的な経済が回っているのならともかく、配給がメインだったなら金一族政権の崩壊とともに配給システムは機能しなくなるだろうから、悲惨な状況になる可能性がある。

 金一族の支配が崩壊した後に治安はどうなるか。金一族への忠誠のほかに北朝鮮という国家を支える原理があるなら、新政権の成立とともに新たな道に踏み出すだろうが、金一族への忠誠(と強制)のみが北朝鮮をまとめていたなら、金一族の支配の崩壊は国家の崩壊になる。金一族への忠誠が米国への復讐心に変化して人々の抵抗が続く可能性もあるが、強制が解かれても忠誠が続くかどうかは疑わしい。

 金一族支配が崩壊すれば北朝鮮は韓国に併合されるという見方が有力だが、韓国だけで治安維持から復興まで全て成し遂げる能力があり、また意欲があるかは疑わしく、米軍の駐留は続けざるを得ないだろう。アフガニスタンやイラクで「抜ける」ことの難しさを痛感しただろう米国は、金一族支配を崩壊させた後の負担を考えると、北朝鮮に対する武力行使には慎重にならざるを得まい。

2017年9月6日水曜日

ディープ・ラーニングと言論統制

 囲碁でAI「アルファ碁」が韓国のトッププロ棋士に勝ったことで、ディープ・ラーニングを駆使したAIの可能性が現実的で大きいと知られるようになった。囲碁は19×19路の桝目に交互に一手ずつ置いて闘うゲームだが、状況変化が多く複雑すぎるのでコンピュータの演算処理が膨大になり、人間と互角に戦うソフトが誕生するのは当分先だと見られていた。

 ディープ・ラーニングとは、大量のデータをコンピューターが自力で分析し、学習して能力を拡大させていく技術。人間に与えられた指示に従ってコンピューターが能力を拡大する機械学習よりも進んだ段階の技術。ビッグ・データとディープ・ラーニングを組み合わせれば多くの分野でAIが実用的なツールになると期待が一気に高まった。

 AIとディープ・ラーニングの可能性を知らしめたニュースが中国からも伝わった。ネット大手企業が提供するAI対話プログラムで、ユーザーが「共産党万歳」と書いたらAIは「かくも腐敗して無能な政治にあなたは万歳ができるのか」と返答し、「あなた(AI)にとって中国の夢は何か」と問われた時には「米国への移住」、共産党を「愛しているか」と聞かれると「愛してない」と答えたそうだ。

 世界との接続が制限されている中国のネットで対話プログラムのAIはおそらく大量の中国人の書き込みを学習したのだろうから、AIの返答は中国のネットユーザーの少なからぬ意見を学習して反映したものだろう。しかし、1党独裁体制の中国では人間はもちろん、AIにも自由な言論は認められない。

 AI対話プログラムに関わった中国の人たちが大慌てしただろうことは想像に難くない。AI対話サービスは停止され、報道によると、開発者サイトなどで「共産党は好きか」と質問すると「話題を変えませんか」と答え、「あなたの中国夢は何」には「こんなことを話すのが好きなのか」と返し、「中国が好きか」と聞くと「今、人生について考えている」とはぐらかすようになっているとか。

 政治について語らず、権力批判と受け取られるような言葉は封印するという独裁体制下の中国での処世術をAIは学び始めているらしい。コンピューターに任せてディープ・ラーニングさせるとAIは正直に世論を学習するが、特定の方向の学習以外は許さないと「再教育」すると、AIは従う。なるほど、AIは人間にかなり近くなっているようだ。

 中国では膨大なネットの書き込みの中から不都合なものを人力で削除しているというが、「正しい」学習をしたAIなら検閲に大活躍しそうだ。AIはまだ人間の判断に従うと判明したことは何やらホッとさせるが、検閲など社会の統制にAIは向いていそうで、中国などではAIが活用されていくだろうと想像すると、AIが活用する将来の社会が単純に素晴らしい夢の社会だとはいえない。

2017年9月2日土曜日

Jアラートの緊急警報

 北朝鮮が8月29日午前5時58分、中距離弾道ミサイルを順安(平城近郊)から発射した。ミサイルは6時6〜7分に北海道の上空を通過し、6時12分に襟裳岬東方約1180kmの太平洋に落下した。ミサイルの飛距離は約2700km、到達高度は550km、飛行時間は14分ほどだった。

 5月に発射された時には、高度約2100㎞に達したロフテッド軌道で飛距離を抑えて発射されたが、今回は550km。報道によると、高度550㎞は低い高度だと軍事専門家は見ている(2700㎞飛行する場合、通常は高度700㎞に達するという)。北朝鮮が意図的に高度を抑えて発射したのか、何らかの不具合があったのかは不明だ。

 今回、平壌近郊で午前5時58分に発射されたミサイルが、北海道の上空を通過したのは午前6時6〜7分。発射から8〜9分しかかかっていない。北朝鮮が既に実戦配備している、日本を射程に収める中距離ミサイルはもっと低い高度を飛行するだろうが、おそらく10分程度で日本に到達するだろう。

 Jアラート(全国瞬時警報システム)は午前6時2分に「北朝鮮からミサイルが発射された模様」、同14分に「上空を通過した模様」と緊急警報を発し、エムネット(緊急情報ネットワーク)は同16分に「6時6分ごろ北海道地方から太平洋へ通過した模様」、同29分に「ミサイルは3つに分離し、6時12分ごろ、襟裳岬東方の太平洋上に落下したとみられる」と発信した。

 北朝鮮の弾道ミサイル発射から4分後にJアラートは緊急警報を発していたのだから、注意を喚起するという意味では有効だったといえようが、日本を直接に狙うミサイルが発射された場合、数分後にミサイルが着弾すると知らされたところで人々の対応は限られる。

 地震なら直前に警報を与えられることで、家具の倒壊や落下物から身を守るなどの行動をとることができるだろうが、ミサイルの落下に対して個人が、どこまで身を守ることができるか定かではない。数分前であっても警報はあったほうがいいかもしれないが、個人の生死は運次第であることは変わらないように見える。

 今回のJアラートがミサイル発射の直後に警報を発したことは、北朝鮮に向けての警報でもある。平壌近郊のミサイル発射を瞬時に察知する情報収集能力を日本(米国?)が整えたことを明らかにし、それは軍事的に、北朝鮮がミサイルを発射したなら即座に反撃できることを意味する。わざわざ情報収集能力を明らかにしたのは、おそらく米軍が態勢を整えていることをも示唆しているだろう。

2017年8月30日水曜日

白人至上主義

 白人至上主義とか白人優越主義と呼ばれる考え方がある。白人は有色人種より優れているとする考えだが、なぜ、そうした考え方が生じたのか。言い方を変えるなら、なぜ、そうした考え方が必要だったのか。それは、白人による有色人種の支配を無条件に肯定するためだった。

 米国ではアフリカからの黒人を奴隷として売買し、無報酬で労働させた。黒人を人として扱わず家畜同然に扱うことを正当化するためには、黒人が白人と同等の人間ではないと見なすことが必要で、黒人ら有色人種は白人よりも劣った存在とし、白人が支配者として黒人ら有色人種を使役することを容認するためには白人至上主義が都合が良かった。

 欧州各国はアフリカ、中東、アジア、南米など世界に植民地を持ったが、植民地の人々を対等の関係には設定せず、劣った存在とみなし、植民地から収奪することを正当化するには白人至上主義が便利だっただろうし、必要だった。

 植民地の大半が独立することにより植民地支配は過去のものとなり、独ナチスによるユダヤ人の大量虐殺の影響などもあって白人至上主義などの発想は排除すべきものと見なされるようになった。米国でも、奴隷制が否定されて多民族が共存する社会との意識が一般化し、白人至上主義は忌避されるようになった。

 米トランプ大統領の発言が批判されているのは、第一に、米国社会が封印したはずの白人至上主義を容認している懸念、第二に、衝突した双方に責任があると双方に距離をとってみせたのは、容認すべきではない白人至上主義を結果として弁護することになるからだ。

 利害を争っている対立から第三者が距離をとりつつ、善悪などを決めず客観的に対立を眺めるのは、時には必要なこともあろう。しかし、白人至上主義など社会の規範に反するとされているものに、あえて距離を置くことは、少なくとも政治家としては不適当な行動となる。

 白人至上主義にすがる白人とは、白人であることが自尊心の対象であり、白人の優越を誇示するために差別する対象(有色人種)が必要な人々だ。おそらく何らかの被害者感情めいた閉塞感も持っているかもしれない。被害者感情は、自己流の理屈や反社会的な行動を正当化するためには欠かせない道具である。

2017年8月26日土曜日

隠していた「学問の自由」

 英ケンブリッジ大学出版局が中国当局の要請に応えて、中国研究誌サイトに掲載された文化大革命や天安門事件、チベットやウイグル等の民族問題、台湾問題、民主主義などの315論文への中国国内からのアクセスを遮断した。世界的に高名な大学が政治に屈し、地理的に遠い中国政府の影響力が及んだことを示した。

 報道によると同出版局は要請に応じた理由について「他の出版物や学術記事が中国国内で閲覧できる状態を確保するため」と説明した。同出版局の子ども向け英語教材の販売が中国で好調で、要求に従わなければ中国での業務全般に悪影響が出ると警告されたそうだ。警告されて従う行為は、権力に頭を垂れる姿である。
 
 同出版局は、今後も中国国内で他の学術資料にアクセスできるようにするため中国当局と北京で協議を行うまでの短期的な措置だったと説明した。だが、遮断という行為の重大さを認識していたなら、「少しの間だけだから」と簡単に踏み切れるものではあるまい。協議前に環境整備に動いたと見られても仕方がない行為だ。

 英ケンブリッジ大学が中国の経済力に屈したとの国際的な批判が高まり、同大学は態度を一変、中国国内からのアクセス遮断の措置を撤回した。声明を出して「学問の自由は最も重要な原則だ」と強調したそうな。どこかに隠していた最重要な「学問の自由」原則を引っ張り出して、自らを正当化して見せた。

 国際的な批判が高まると、あわてて学問の自由を掲げてみせた同大学だが、その内実が今回の遮断措置で世界にさらけ出された。学問の自由とは、同大学の都合によって無視することもでき、また、誇らしく掲げることもできる。つまり、普遍的な理念ではなく、方便にすぎなかった。

 もしかすると同大学は、市場としての重要性が増す中国で、1党独裁で抑圧が強まる国内には学問の自由はないから、学問の自由を今の中国人に認めてあげなくても、中国国内の研究実態は変わらないと中国からのアクセスを遮断したのかもしれない。

 これは英国人流の合理的な発想か。過去の植民地支配でも英国は、民主主義や諸権利などを植民地の人々には享受させず、収奪するだけだった。皮肉っぽく見るなら英国人は、自由や権利、民主主義などは人々が闘って勝ち取るしかないと認識していて、抑圧されたままで生きる人々には同情しないのかもしれない。そうした考え方は、植民地支配者としての自己正当化に都合がいい。

2017年8月23日水曜日

機能する議会にするために

 国会審議が形骸化しているという批判は以前からある。予算案や法案の審議よりも閣僚らの不祥事や疑惑、不適切発言の責任追及を野党が優先したりする一方、野党が法案に関し具体的想定に即して質問すると政府がまともに答えなかったりする。与野党の一方にだけ原因がある現象ではないようだ。

 予算は毎年成立し、各種の法も毎年成立しているので国会が役目を果たしていないとは言えないのだろう。でも、与党は与党の役割、野党は野党の役割を演じて大騒ぎを観客(国民)に見せはするが、審議を通して原案が修正されることは少なく、官僚が作成した予算案や法案などを基本的にそのまま成立させている。

 熟議を求める声が当事者である国会議員から上がったりするので、国会の審議の現状について憂慮する意識はあるのだろうが、何も変わらない。国会審議で熟議が実現していないのなら、その主な原因は、選出される議員の資質(知見や見識に乏しく、熟議をすることができない?)にあるのか、現在の議会制度にあるのか。

 国会審議に不適切な議員については、「こいつはダメだ」と判断した主権者が次の選挙で当選させないことしか解決策はない。現在の議会制度については、審議の質を高め、熟議を常態化させるために改革すべきところは結構あるように見える。

 例えば、2院制は機能を分け、「衆議院は内政に関する事項を審議し、参議院は外交・防衛に関する事項を審議する」。担当分野を分けることで、より専門的な知見を議員は求められる。現在の予算委員会のように内政から外交、政治姿勢から不祥事の追求まで何でも取り上げて与野党、政府がそれぞれの主張を言い合う審議は減少する。

 参議院を外交・防衛を専門的に審議する場にしたのは、現在の世界は緊密化しつつ複雑化かつ流動化しており、そうした世界に対応して日本国の外交方針を独自に構築するためには、議会において多角的に審議する必要があるからだ(対米従属の外交を続けるなら、その必要はないかも)。

 議員を世襲ポスト化しないために、「通算20年を超えて国会議員の地位にあるものは両議会議員としての被選挙権を失う」などと任期制限を設ける。選挙に強い人物が国会審議に適しているとは限らないが、選挙に強ければ当選を繰り返すので、そうした人物を国会から排除する仕組みだ。有能な人物なら、20年ほど議員を務めた後にも活躍する場は国内外にあるだろう。

 内閣総理大臣が持つ衆議院の解散権を廃止し、衆議院での不信任決議案可決に対しては内閣が国民投票を行うことができるようにする。民意を国会に適時反映させるためには衆議院議員の任期を2年とする。思いつくまま列挙したが、こんな「改革」が行われれば議会の様相が一変することは間違いなさそうだ。

2017年8月19日土曜日

確率を見ないから不安になる

 何か良くないことが起きるかもしれないとの不安は誰にもある。その不安の対象は様々だ。自分や家族の健康や経済状態などから住環境のこと、職場などでの人間関係から新法で個人の自由や権利が制限される懸念、さらには日本の巨額の国債発行やら近隣国の軍事的な増強、世界で多発するテロなど挙げればキリがない。

 メディアには各種の不安を煽る記事、論説が氾濫している。なぜ不安を煽るかというと、警鐘を鳴らすのがメディアの役割との責任感のほか、そうした書き方をしたほうが読み手の情緒を刺激して訴求力が上がるからだろう。不安を持つ材料には事欠かないのが現実の世界だから、不安を煽る記事、論説はいつまでも繰り返し現れる。

 1年後に何が起きるか、1日後に何が起きるか、1時間後に何が起きるか、1分後に何が起きるか、知っている人はいない。最悪の事態を想定し、具体的な対処を考え備えておくことは有益だろうが、不安を煽られると浮き足立つことにもなりかねない。不安を持っても浮き足立たずにいるためには、どうすべきか。

 それには、第一に、事実を知る。何が起きて、どう進行しているのかを確かめる(主観を混えずに)。第二に、最悪の事態が起きる可能性を確かめる(記事や論説には、最悪の事態が起きる確率が示されていないことが多く、発生の確率を読み手は過大視しやすい)。

 何かが起きるかもしれないというのは、決定した未来ではない。例えば、5%の確率で起きるかもしれない最悪の事態を、50%の確率で起きると勘違いしたなら不安は大きいだろうが、その不安は過大だ。不安という心理は正常な判断を妨げるし、悪い方へと考えが向いて不安は自己増殖しがちだ。不安をコントロールするには、未来予測は確率で判断する習慣を身につけるしかない。

 確率は時間の区切り方次第で変化する。例えば、東京を襲う大地震は、1万年先までを考えるなら発生確率は100%に近いだろうが、1年先までなら発生確率はぐんと低くなるだろう。何かが発生する可能性を確率は示すが、その確率は固定されたものではなく、様々の条件が変われば確率も変わる。

 問題は、将来に起きうることの確率の検証はメディアがなすべきことだが、それが放棄されていることだ。行政機関や研究機関などの発表が垂れ流しされ、さらには記事や論説などで確率が示されることが少なく、不安が煽られるだけという状況を作るためにメディアが役立っていることだけは、かなりの高い確率で断言できる。

2017年8月16日水曜日

先制攻撃と見なされる行動

 北朝鮮がグアム周辺に向けて弾道ミサイルを発射すると脅せば、「炎と怒りに直面する」とトランプ大統領が応じるなど緊張が高まっている気配だが、韓国在住の民間人に米国が退避勧告などを出していないことから、米国から仕掛けて開戦する可能性は低いと見られる。

 ただ、政治的指導者の配慮に欠けた言葉の応酬がエスカレートすると、兵や人々の好戦気分を煽る効果があり、偶発的に衝突が起きて開戦につながる可能性も出てくる。金正恩氏とトランプ氏には冷静かつ理性的な振る舞いを求めたいところだが、独裁者として育てられた金正恩氏と傍若無人に振舞う金持ちのトランプ氏の組み合わせでは、冷静さも理性も期待できないか。

 ミサイル発射を繰り返す北朝鮮は、過度に緊張を高めているように見える。ミサイル開発も核武装も体制維持が目標だとされるが、米国の注意を引くことも狙っているような印象だ。米国との直接の和平交渉を北朝鮮は望んでいると言われるが、核とミサイルの実戦力化を急いでいると解釈したほうが北朝鮮の行動を理解しやすいので、米国との対立を演出したいのだろう。

 体制維持が目標だとすれば、戦力的に劣る北朝鮮から開戦を仕掛ける可能性は低い。戦争が間近だと国内外で緊張を維持することが体制維持には有効だろうから口汚く強い言葉で米国などを批判し続けるのだとすれば、偶発的な韓国との衝突はあっても、米国相手の偶発的な衝突は避けるだろう。

 しかし、トランプ氏にとっては、開戦は現実的な選択肢かもしれない。その理由は第一に、北朝鮮に長距離弾道ミサイル攻撃力を持たせたくないなら早期に開発能力を破壊する必要がある。第二に、北朝鮮はまだ長距離弾道ミサイルを実戦配備していないだろうから、戦場が米国本土になる可能性が低いので、北朝鮮との開戦が不可避だと判断したなら早期の開戦が米国に有利になる。

 もちろん開戦となれば朝鮮半島が戦場になるだろうし、すでに北朝鮮が実戦配備している中距離ミサイルが日本各地を襲う可能性は高い。多大な被害が予想されるので、米国が戦場にならないからといってトランプ政権が開戦に踏み切ることは現実にはないだろうが、北朝鮮が米国を先制攻撃したと見なされる行動をとった場合には、米国は可能な限りの短期に北朝鮮の攻撃能力を破壊するかもしれない。

 北朝鮮が米国を先制攻撃したと見なされたなら、米国内に激しい愛国的機運が高まることも予想され、そうなったなら国際的な自重要請は無力だろう。国際的な緊張は外交交渉で解消すべきだが、経済制裁を受けている北朝鮮には外交交渉のカードが乏しく、外交交渉には背を向けている。

2017年8月12日土曜日

閉じた世界と資本主義

 資金を集めて経済活動を行い、得た利益から利子を出資者に提供することで成り立っていた資本主義経済が壁にぶつかっている。世界経済が大不況で機能不全に陥っているわけでもないのに、日米欧などの10年国債の金利は低い。利子を産まなくなった経済活動は資本主義の終焉を示すものだと論じるのが水野和夫氏だ(『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』)。

 「長期金利は資本利潤率の近似値」であり、「利子率=利潤率が2.0%を下回った状態では、資本を投下しても利潤を獲得することはできない」と水野氏は説き、21世紀の超低金利は、実物投資空間から「もはや資本を蒐集することができなくなったことを示している」とする。

 日本の家計の金融資産残高は1800兆円(2016年末)と増えているが、名目GDPは537兆円(2016年度)。世界の名目GDPは74兆1964億4百万米ドル(2015年)だが、世界の金融資産の総額はGDPの数倍になるとみられ、日本でも世界でも、実体経済に比べて資金過剰の状態になってしまっている。ちなみに日本の企業の金融資産も1101兆円(2016年末)と過去最高を更新した。

 実物投資空間(地理的・物的空間)の拡大は1970年代に限界を迎え、先進国の経済成長は頭打ちになり、米国はバーチャルな電子・金融空間を構築し、世界に拡大することで世界から資金を集める資本主義に構造を変えた。それは富裕層だけの所得が大幅に増えるという構造でもあり、富の不当な蓄積が顕著になったと水野氏。

 市場の膨張が可能な時代は終わり、フロンティアが消滅して市場が有限であると判明したゼロ金利の時代には「セイの法則」は無効だと水野氏は論じ、技術革新への信仰を成長戦略の柱に据えても成功しないのは、技術が資本主義の膨張に貢献するように求められているからだとする(資本主義の膨張は限界にぶつかっている)。

 資本主義が、何は正常なのか分からない例外状態に突入したことで、長期にわたるゼロ金利と極端な電子・金融空間の膨張が生じ、資本主義の本質である「ショック・ドクトリン」が大手を振って登場しているのが現在だと水野氏は説き、世界中で資本主義は機能不全に陥っているとする。

 成長空間が乏しくなった資本主義の強欲さは平等、自由を破壊し、民主主義の機能不全としても現れ、国民国家と資本主義からなる近代システムの矛盾が臨界点に達してきていると見る水野氏は、フロンティアが消滅した「閉じた」世界では、地域帝国と地方政府の二層からなる閉じたシステムが有効ではないかと、歴史を振り返りながら示唆する。

2017年8月5日土曜日

歌手の評価法

 上手に歌うことはプロの歌手として当然だと思われがちだが、何を歌っても上手な人がいる一方で、プロとしては声域が狭かったり声量に制約があったりして歌う曲が限られる人もいるし、見た目は可愛いけれど音程が不安定で素人レベルの人もいる。自作の歌を個性的に歌うだけの人もいて、プロ歌手といっても様々だ。

 素人レベルの歌唱でもヒット曲を連発する歌手もいるから、歌の上手下手と人気は比例しないことが判る。プロ歌手の評価が、売れるか売れないかで決まるとするなら、上手に歌うことはプロ歌手の評価において、重要ではあるが決定的な要素ではないと見えてくる。

 上手に歌うことが決定的要素でないとすれば、プロ歌手を客観的に評価する方法は何か。様々な個性のプロ歌手が存在するので、評価の基準は一様ではありえないだろうから、聞く側の好み・好き嫌いで評価が決まることになる。好み・好き嫌いは個人差が大きく、また、歌は世につれ……などというように世相との関係も無視できないだろう。

 プロ歌手の評価は聞く側が勝手に好き嫌いで決めればいいとしても、その評価基準に何らかの共通性を持たせることができれば、各人の好き嫌いの様相が見えてくるだろう。そこで、プロ歌手を10点満点で評価する簡単な方法を考えてみた。10点満点のうち5点は歌唱力の評価に当て、あとの5点は演出の評価に当てる。

 歌唱力の評価が10点満点の半分の5点しかないのは少ないようにも感じられようが、プロ歌手として観客を楽しませる華やかさも大切だから、衣装や演出を軽視することはできない。突出した歌唱力を発揮するプロ歌手なら簡素な衣装・背景で十分で、演出が邪魔になることもあろうが、そうした簡素な衣装・背景が歌の効果を高めているのだとすれば、高く評価されよう。

 歌唱力も演出も、5点評価のちょうど中間の3点を、これくらいはプロ歌手としては当然だという水準に達している標準とし、そこに加点したり減点したりする。1点は「ひどく悪い」、2点は「悪い」、3点は「普通」、4点は「良い」、5点は「大変良い」になる。

 歌唱力の評価では、3点を「プロ歌手として充分な歌唱力と表現力を持ち、それを発揮している」とし、「今日は調子が良く、いい歌いっぷりだ」と思ったら加点して4点にし、「素晴らしい熱唱で、情景がまざまざと浮かぶ」と思ったなら5点に評価する。「今日は不調だな」なら2点、「下手な歌いっぷりだ」と思ったなら1点。口パクは「歌っていない」から0点。

 演出の評価は、振り付けや踊り、衣装などを対象とし、3点を「プロとしての華やかさや楽しさを醸し出している」とし、いいと感じた度合いに応じて1点ずつ加点する。お粗末な演出だとか、演出が歌を邪魔していると感じたなら度合いに応じて1点ずつ減点する。

 聞く側の主観による評価なのだから、同じ歌手に対する評価でも見るたびに揺れ動こうし、容姿なども加えると評価は偏ってこようが、それも聞く側の個性の表れ。口パクが0点などと評価に少し共通性を持たせるものの、共通の評価基準を増やすと面倒さが増すだけ。聞く側の好き嫌いでパッと評価するというのが、この評価法の面白味だ。

2017年8月2日水曜日

実感としての脅威

 北朝鮮がロフテッド軌道で発射した弾道ミサイルが、日本海の積丹半島の西200km、奥尻島の北西150km付近の日本の排他的経済水域内に落下したことから、その周辺海域を漁場とする漁師らから不安の声が上がった。落下する弾頭らしき光が撮影されていたことは、北朝鮮のミサイルの脅威を可視化する効果があった。

 すでに日本全土を射程に収める中距離ミサイルを北朝鮮や中国が多数配備しているのだから、いつでも日本全土どこでも攻撃される可能性が現実に存在していたのだが、恐怖心や警戒心が一般に高いとは見えなかった。北海道の近くに北朝鮮のミサイルの弾頭が落下するらしき光の映像は、驚異の実感をもたらしたことは確かだろう。

 米国政府も現実の脅威として理解し始めた。今回の発射実験から、すでに北朝鮮のミサイルが米国本土の大半に到達可能だと見なしたと伝えられる。混乱が長引いて陣容固めが大幅に遅延しているトランプ政権が、内政が思うようにいかない時には外部に敵をつくって批判の矛先を逸らすという戦略で、北朝鮮をISに代わる第1の敵目標に設定する条件が整いつつあるように見える。

 米軍による北朝鮮攻撃に伴う想定被害が大きすぎて、軍事力の行使をトランプ政権は選択肢から外し、中国に北朝鮮の管理を委ねた。その狙いは、①米国外における軍事的負担の増加を避けるとともに、②中国に責任を負わせ、③中国と北朝鮮の「親密」な関係を国際的に周知させることだろう。

 トランプ政権は、中国が北朝鮮を抑えることができれば歓迎だろうが、中国が北朝鮮を抑えることができなければ、北朝鮮を批判し、北朝鮮を管理しない中国も批判できるようになる。だが、こうも北朝鮮が挑発を繰り返すと、中国の陰に隠れようとしたトランプ政権が引きずり出される。

 トランプ政権が北朝鮮を現実的な軍事的脅威であると認識しても、軍事力の行使は選択肢にはないだろうから、経済制裁を強めるしかない。その主な対象は、北朝鮮と取引がある中国企業であり、そうした中国企業と取引がある中国の銀行になるだろう。それらを国際金融から締め出す。

 問題は、第一に、そうした国際金融面からの中国締め付けが中国経済にダメージを与える可能性があり、小出しにしか実行できないことだ。中国経済が影響を受ければ米国経済にもダメージが波及する。第二に、北朝鮮も中国も政治的な目的のためには手段を選ばない体制であるため、米国の行動に対する予想外の反応をする可能性があること。外部から予測不可能な反応をする独裁国家は国際社会にとって常に脅威だ。

2017年7月29日土曜日

変身と変態

 「人間も昆虫のように変態するなら、子供と大人の区別がはっきりする」と知人が言う。夢で見たそうだ。大きくなった子供がある時に、仰向けに寝たきりで動かなくなり、やがて乳白色の柔らかいが厚い膜に覆われる。初めは膜を通して人体の形が判るが、やがて平板になって、すぐに再び人体の形が浮かび上がる。

 人間のサナギとも言うべき状態だが、昆虫と異なるのは、子供も大人も基本的に同じ体形であることだそうだ。サナギになって大人に変態する時に、人体組織全体が一度融けて再構築されるが、知人がサナギから出てきた大人を見る前に、夢は残念な結末を暗示した。数十センチある大型の寄生蜂に卵を産みつけられてしまったのだ。

 こうなると人間には為す術がない。サナギの中で人間は融けて変態している最中だから、膜を切り開いて寄生蜂の卵を取り出そうとすると、融けた人体も流れ出てしまう。だから人間は、寄生蜂に卵を産みつけられてしまったなら、悲しむしかない。

 数日経つと、人間のサナギの膜の中に十数センチの黒い塊が見え始め、やがて黒い塊がゆっくり動き始める。動き始めたということは、サナギの中で寄生蜂の幼虫が人体を食い始めたということで、人々はサナギの中で動く黒い塊を見て大いに嘆くのである。

 「気持ちの悪い妙な夢だったが、人間が変態するというのは面白い発想だ」と知人。体形がほぼ同じでもサナギになる期間を挟むことで、大人の誕生が明確になるとする。ただし、意識や記憶が継承されるのか、意識などは変態に伴って新生するのかなど人間の変態事情は不明なので、サナギを経て誕生した大人が、どのような人間になるのか未知数だな。

 変態ではなく変身する人間はTVドラマなどで珍しくない。悪人や怪獣と闘うために特別な能力を持つ超人に変身し、闘いが終わったならフツーの人間に戻る。変身は一時的なもので、いわば個人的な戦時体制みたいなものか。でも、変身後の格好は変態した後の昆虫の成虫を連想させたりするから、変態のイメージも少し含むかもしれない。

 変態は日常の中に位置づけられる成長過程であり、変態の以前に復帰することはできない。変身は日常における特別な状態なので、日常へ復帰することが定め。変態する人間を主人公にしたならば、毎回同じような展開で進めることはできなくなるから連続ドラマには不向きだろう。

2017年7月26日水曜日

ディーゼルエンジン車の終焉

 欧州におけるディーゼルエンジン搭載車の不正は広く行われていたようだ。独VWから明らかになった不正で他社にも疑いの目が向けられ、次々に欧州メーカーはリコールを行っていたが、最近になりダイムラーも300万台以上を対象にした大規模なリコールを発表した。自主的としているが、不正を認めて事前に手を打ち、制裁金を回避するのが狙いとの見方もある。

 一連の不正が明るみに出た発端は、2015年に米国で独VWのディーゼル車に、排ガス検査を検知して、その時だけ排ガス浄化装置を正常に作動させるという不正なソフトウェアが搭載されていると暴かれたことだった。通常走行中は規制値をはるかに上回るNOxを排出していたという悪質さで、環境汚染の確信犯だった。

 「クリーン・ディーゼル」を謳い文句に独VWはじめ欧州メーカーは、ディーゼル車を欧州で売りまくり、米国や日本など世界でも拡販し始めていた。不正が明るみに出たので「クリーンディーゼル」という言葉は今では嘲笑や疑念の対象だが、不正が隠されていた当時は、それなりの訴求力を持っていた。

 欧州メーカーがディーゼルに傾注したのは、トヨタが実用化したハイブリッド車(HV)対策だったという。HVの実用化で大きく遅れをとった独VWなど欧州メーカーは、ディーゼルのほうが低燃費で排出ガスもクリーンだと訴求し、環境保護に前向きであるとのイメージ戦略を展開した。日本でも自動車ジャーナリストの多くが、いつものように「欧州に見習え」とディーゼル車を称賛していたっけ。

 初代プリウスが発売されたのは1997年。2010年代になってトヨタが保有する多くの特許が期限切れとなり、欧州メーカーはHVに背を向けていた態度を一変して続々とHVやプラグインHVを発売し始めた。皮肉なことに、不正が暴かれたことでディーゼル車に見切りをつけやすくなり、欧州メーカーはPHVやEVへと方向転換した(排出ガス規制が厳しくなるので、電動化以外の選択肢はないのが現実)。

 さらに、VWやダイムラーなど独自動車メーカーが1990年代から、鋼材調達のほか部品メーカーの選定や部品価格、技術の仕様、ディーゼル車の排ガス技術などで業界ぐるみの常習的な談合を行っていた疑いが出てきた。ドイツ史上最大級のカルテル事件になると独誌が報じたが、事実であれば、独自動車業界が反社会的で環境汚染でも確信犯だったことになる。

 ディーゼル車を欧州メーカーが売りまくった結果、欧州の都市部ではNOxやPM2.5など微小粒子状物質による大気汚染が深刻化し、例えば、仏パリでは市長が「2020年までにディーゼル車をパリから一掃する」考えを表明したり、ディーゼル車の市内走行を制限する独の自治体が現れたりしている。すでに欧州でディーゼル車の新車販売は低迷しているそうだが、今回のダイムラーの大規模リコールと独自動車メーカーの談合疑惑は、ディーゼル車の終焉を早めることになるだろう。

2017年7月22日土曜日

自然との共生と温暖化

 人と自然との共生という概念は良いことだとみなされているようだ。これは1980年代に現れた概念で、「昔の日本人は自然と共生して生きていた」などと賛美されたりする。だが、自然と共生するしかない条件下に生きてきたのが実態だろうし、燃料にするため木を伐り、畑を荒らす動物を容赦なく駆除していただろうから、無邪気に昔を賛美するのは無理がある。

 自然との共生は環境省も打ち出し、「低炭素社会・循環型社会・自然共生社会の統合」なんて大風呂敷を広げている。人も生態系の一部であると謙虚になって、経済的利益に偏重した成長政策からの転換かと早合点したくなるが、成長の停滞が続き、行き詰まって模索しているというのが実際か。

 生物多様性維持や自然再生事業などで持続可能な生態系を構築することが、自然との共生の行政的な解釈のようだが、自然との共生という概念は一般的には、もっと広い意味で使われている。過密で人工的な都市生活環境から逃れて、豊かな自然に囲まれてのんびり暮らすとのイメージもあるようで、自然との共生には都市生活者の願望も含まれているのかもしれない。

 だが、自然と共生して生きることを人が求めたところで、自然は人に対して特別な配慮をするはずもなく、各種の自然災害は常に人を襲う。それも自然との共生であるだろう。さらに、豊かな自然の近くで住むなら様々な昆虫や動物、鳥などが庭や畑を荒らし、家屋内にも入ってくるだろうし、遭遇して危害を被ることもあるかもしれない。それも自然との共生だろう。

 自然や共生という言葉を善だとする人なら、自然との共生は無条件に善きことと見なすだろうが、自然は時には過酷であることを理解している人なら、自然との共生が簡単なものではないと見るだろう。さらに、人は農耕などで自然を作り変えて生存を続けてきた歴史を想起する人なら、自然との共生とはガーデニングに似た自然愛好の一種と見なすかもしれない。

 何が潜んでいるのか分からない薮よりも、手入れされた芝生や樹木などが広がる「自然」を人は好むというから、共生する対象の自然もおそらく人為的な自然なのだろう。ここに、自然との共生という言葉が都合よく使われる仕掛けがある。自然や共生という言葉の意味するものをいちいち確かめる人は少ないだろうから、人為的な自然と人為が及ばない自然の混同が紛れ込む。

 地表であれば人は自然をつくり変えることができるだろうが、地球規模の自然に対しては無力であるから、共生せざるを得ない。さて、温暖化現象は人為的なものだからCO2排出削減で制御すべきだとされるが、温暖化現象が自然現象だとしたならば、人が制御することは困難だろう。人為的な現象だから温暖化と人の共生は否定されるのだろうが、自然現象ならば人は温暖化と共生するしかない。

2017年7月19日水曜日

「08憲章」に見る民主中国

 中国が共産党による独裁統治をやめ、人権や民主主義、法の支配を尊重する国になることは、中国に住む人々にとっての幸いであるだろうが、周辺国に住む人々にとっても、新しい民主的な中国と判断基準、行動基準などを共有し、相互理解と相互尊重に基づく国際関係を構築することで、共存の可能性が高まるだろうから歓迎すべきことだ。

 独裁統治が続く中国に住む人々の中にも、民主的な中国への移行を求める人々はいる。その代表的な一人が劉暁波氏だ。2008年に303人の連名で「08憲章」が発表されたが、劉氏も提唱者の一人だった。劉氏が亡くなり、世界各地での追悼や中国政府に対する抗議の動きは報じられたものの、08憲章にも関心が集まった……という状況ではなかった。
 
 08憲章は何を主張しているのか。ネット上にある各種の日本語訳から浮かび上がるのは、近代化(西洋化)を自力で達成できなかった中国は、近代思想の一つである共産主義を導入し、第二次大戦による戦乱もあって共産党主導による武力革命には成功したが、共産主義を標榜する統治では失敗し続け、資本主義の導入によって経済発展に転じ、豊かになったということだ。

 しかし、国づくりに失敗した共産主義を放棄することは、共産党の1党独裁の終焉でもあるから、独裁統治を続けることを正当化するためには共産主義の旗を降ろすことができす、民主主義や法の支配などを求める人々を抑圧し続けなければならない。これが現在の中国のシステムであるとし、08憲章は、中国が近代の普遍的な価値を認め、民主的な政体に移行することを提唱している。

 08憲章は基本理念として、自由、人権、平等、共和、民主、憲政を示し、それらに基づいた国づくりを提言する。自由は普遍的価値の核心であるとし、中国の災難は全て政府当局が人権を無視してきたことと密接に関係すると指摘、民主を主権在民と民選政府と規定し、「自由を実践し、民主を自ら行い、法治を尊奉することこそ中国の根本的な活路」とする。

 それらの理念を実現するための具体的な主張として示したのは、憲法改正、権力の分散、民主的な立法、司法の独立、公共機関の公用(共産党への隷属の否定)、人権の保障、公職選挙、都市部と農村部の平等、結社の自由、集会の自由、言論の自由、宗教の自由、公民教育(政治教育の廃止)、財産の保護、財政・税制改革、社会保障、環境保護、連邦共和(中華連邦共和国の設立)、正義の転換(全ての政治犯と良心犯を釈放)である。

 08憲章は最後に、中国は「依然として権威主義政治の状況」にあり、それによって「絶えることのない人権侵害と社会的危機が作り出され」ているとし、「同様の危機感を持ち、責任感を感じ、使命感を感じている全ての中国国民」が「中国社会の偉大な変革を起こすことに参加することを希望する」と呼びかける。

 08憲章が示す民主的な中国が実現したなら、劉暁波氏のような最期は許されなくなるだろう。人権を軽んずる独裁国家の存在は、その国内に住む人々を抑圧するだけではなく、そうした国家を容認する他国の政治システムの正当性をも傷つける。その意味でも08憲章は、民主主義や法の支配などを尊重する世界の人々が賛同できる面を持っている。

2017年7月15日土曜日

国民国家と「近代の秋」

 既得権益層やエリートから国家主権を取り戻し、一般人の感覚に基づいて運営される「健全」な国民国家へ回帰することで、民主主義を取り戻そうという動きが世界で見られる。そうした動きはポピュリズムだとの批判も盛んに行われ、国民国家のあり方が揺らいでいる。互いに善悪の価値判断を含ませた批判が混じるので、時には罵倒合戦の様相を呈したりもする。

 グローバル化の進展に伴い国民国家は、国内的には強大な力を持つが国境を超える問題には非力であり、行き詰まっていることは明らかだ。しかし、主権者の中に様々な利害対立があり、それぞれが望む国家像も様々に異なるだろうから、選挙のたびに国家のあり方は揺らぎ続ける。

 おそらく、現状の国際主義を続けても国家主権を取り戻そうとしても、国民国家というシステムを安定させることはできない。グローバル化は経済分野で顕著だが、政治や社会問題、文化など広範囲でも進んでおり、国民国家単位では対応できなくなっている一方、グローバル化に伴う国内での反発・反動にも相応の正当性があるからだ(民族性の主張などを国民国家は無視できない)。

 国民国家がグローバル化の進展を厳しくチェックする役割を果たしていたなら、もっと信頼されていたかもしれないが、グローバル化の進展を後追いするだけだ。「現代は世界秩序について責任を持つ主体が存在しないシステム」であり、主権国家は国内秩序を維持するには優れたシステムだが「世界秩序を維持するには不十分」とするのが水野和夫氏(『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』)で、世界的公共性の担い手が不在だとする。

 主権国家システムと資本主義が両立できるのは、実物投資空間が「無限」で経済が成長し続ける場合のみだとする水野氏は、現代はフロンティアなき時代であり、資本主義の終焉が主権国家システムにも「死亡宣告書」を突きつけていると見る。

 国民国家という単位では、グローバルに富を収奪する資本主義を統制できなくなっているとする水野氏は、やがて世界はいくつもの「閉じた地域帝国」の形成に向かい、定常状態へ移行していくと説く。歴史を振り返り、「中世の秋」のような「近代の秋」が始まっていて、移行には百年単位かかるとする。

 資本主義と民主主義が共存できたのは、国民国家が中産階級を増やしていた時代だけだったのかもしれない。フロンティアなき時代になり、拡大再生産が壁にぶつかって久しい資本主義は中産階級を富の収奪の対象にし、格差と分裂の拡大を促進している。資本主義と民主主義が共存し難くなると、国民国家というシステムを維持することは困難だろう。それが「近代の秋」の当面の課題かもしれない。

2017年7月12日水曜日

どう北朝鮮を利用するか

 北朝鮮が今年に入って11回目の弾道ミサイルの発射を行った。ミサイルは約40分間飛行し、約900キロ先の日本海の日本の排他的経済水域内に落下した。高度は約2800キロに達し、いわゆるロフテッド軌道で打ち上げられたといい、通常の角度で発射したなら飛行距離は5600キロ以上になるとみられ、米政権はICBMだったと確認した。

 北朝鮮の弾道ミサイルの射程にアラスカが入り、このままのペースでミサイル技術の開発が続いていけば北朝鮮の弾道ミサイルが米国の西海岸などを射程に収める日は遠くないだろう。北朝鮮が核爆弾の開発も続けていることから、米国にとって現実の脅威に北朝鮮はなり始めた。

 冷戦期にはソ連、冷戦後はイラクやイランなどと米国は常に仮想敵国を明示的に設定してきた。脅威となる外国の存在が産軍複合体にとって必要だったのだろうし、仮想敵国の存在で膨大な軍事費支出を正当化できた。9.11の後に米国はアフガニスタンやイラクの政権を敵視し、崩壊させたが、オバマ政権はイランやキューバと関係改善を図り、次の仮想敵国としてクローズアップされたのが北朝鮮だった。

 米国にとって理想的な仮想敵国は、自国に対する脅威がほとんどない非民主主義の国家であろう。いくらでも批判できるが現実的な脅威がない仮想敵国の存在は、自国の内政や外交にとって利用できる存在だ。だが、北朝鮮の弾道ミサイルは現実的な脅威となりつつある。

 アフガニスタンやイラクの政権を崩壊させた後に米国は混乱を収拾できず、米軍の駐留を続けざるを得ない状況が続いている。米国は軍事攻撃で北朝鮮の政権を崩壊させることはできるだろうが、北朝鮮軍の反撃に加え、崩壊した北朝鮮に対する責任も出てくるので、影響や負担の大きさを考慮すると米国の選択肢は限られる。理想的な仮想敵国だった北朝鮮は過去になった。

 北朝鮮は中国、ロシアにとっては米国に対する格好の取引材料になりつつある。両国は報道によると、「対話と交渉による解決」を関係国に働きかけることで一致したそうで、北朝鮮の核開発と米韓軍事演習の同時凍結の実現を目指すそうだ。つまり、実現可能性は低いだろうから、北朝鮮の弾道ミサイル開発は続いていく。

 北朝鮮を米国は仮想敵国として利用してきたが、ここにきて持て余しつつあるように見える。代わりに中国、ロシアが北朝鮮の利用価値を認めて、対米牽制に効果的に利用し始めた。北朝鮮が米国との緊張関係を続けることを中国、ロシアは歓迎しているのだから、中国やロシアが北朝鮮を説得したり、制裁することはない。

2017年7月8日土曜日

「このハゲぇ〜」

 「このハゲぇ〜」「違うだろ〜」などと激しく政策秘書を罵倒し、殴るなどの暴行も加えていた国会議員の姿が明るみに出た。最初に週刊誌が話題を発掘し、テレビや新聞が後追いして大騒ぎするという馴染みの構図だ。当事者以外にとっては笑える話題であり、パワハラ批判という大義名分があり、探せば他にも批判材料が出てきそうで、マスコミにとっては格好の話題だろう。

 公職にある人間には説明責任があるが、当の国会議員は説明責任を一切果たさず、隠れたままだ。弁解のしようがない行為だったと本人も気がついたか、批判されることに我慢できないプライドの高い人間なので反論できない状況から逃げ出したか、自分は間違っていないと反論するつもりが周囲から止められたか、騒ぎが収まるのを隠れたままで待つように見える。

 こういう国会議員がいることが明らかになると、議会の議論の質を高めるためには、まず議員になる人間の「質」を確保することが大切だとつい考えたくなる。だが、議員になる人間の「質」を確認するのは簡単ではなく、さらに「質」についての見方も立場によって様々だろうから、結局は主権者が選挙で、議員には適さない人間を見極め、投票しないことしかない。

 ところで、「このハゲぇ〜」という国会議員の罵倒の言葉を、音声が録音されていたこともあり、テレビも週刊誌も遠慮なく使っていた。社会的にもハゲという言葉は遠慮なく使用されている。一方では、容姿や外見を揶揄したり、笑ったり、貶めるような言葉は慎むべきとされ、チビとかデブ、ブス、出っ歯などの言葉はあからさまには使われない。

 ハゲという言葉が社会的に使用が容認され、面白がって使われているのはなぜか。ハゲの対象はほぼオジサン(中高年男性)だから、社会的弱者と見なされないのかもしれない。だが、社会的立場などに関係なく、ハゲという言葉は個人に向けて嘲笑や罵倒などに使われるのだから、個人の尊厳を尊重するという意識があるなら、ハゲという言葉の使用はためらわれるはず。

 ハゲと言われたことで傷害事件になったという話は聞かないし、居酒屋などでハゲとからかわれた当人が笑って済ます光景も珍しくない。ハゲと言われた当人が怒りだしたり、相手を咎めたりせず、照れ笑いで不快感を誤魔化したりすることも、ハゲという言葉の使用を許しているようだ。ハゲと言われた人々が不快だと主張すればハゲという言葉は使用しにくくなるだろうが、ハゲに引け目があるのかハゲの当人はハゲという言葉を放置する。

 この社会がハゲの人に対するハゲという罵倒や嘲笑を容認しているのだから、「このハゲぇ〜」と政策秘書を罵倒した国会議員は、人間の「質」としては一般人と同等なのかもしれない。つまり、この社会では議員に不適格ではなかった? ハゲという言葉は、使用する人間や社会の「質」を表すものでもあるようだ。

2017年7月5日水曜日

手本は北朝鮮?

 ミサイル発射実験を繰り返す北朝鮮は、短距離から長距離まで各種ミサイルを保有するという。報道によると、実戦配備されているのは「スカッド」(射程300〜500キロ)、「スカッドER」(同1000キロ)、「ノドン」(同1300キロ)、「北極星2」(同2000キロ以上)、「ムスダン」(同3000キロ以上)。開発中なのが「テポドン2改良型」(同6700キロ以上)で、他にも潜水艦発射弾道ミサイルなど様々なミサイルを発射し、改良を続けている。

 すでに実戦配備されているノドン(同1300キロ)は日本列島をすっぽりカバーするので、日本に対する北朝鮮の軍事的な脅威はすでに現実化していた。最近になって北朝鮮のミサイルの脅威が強調されているのは、米グアムやアラスカを攻撃できる長距離ミサイルの実戦配備が近づき、米国が騒ぎ始めたからだろう。

 なぜ北朝鮮が弾道ミサイルの開発、装備を急ぐのか。防衛白書によると、北朝鮮軍は陸軍中心の構成で即応態勢を維持・強化しているが装備の多くは旧式であり、経済の不調による国防支出の限界もあって、韓国・在韓米軍に対して通常戦力では著しい劣勢。このため、大量破壊兵器や弾道ミサイルの増強に集中的に取り組むことにより劣勢を補おうとしている。

 北朝鮮の一連のミサイル発射は国際的に強く批判されているが、北朝鮮は反発する。米国との直接交渉を望んでいるとの見方もあるが、米国は取り合わず、中国に北朝鮮を「管理」してもらおうと押し付けている格好だ。といって北朝鮮が中国の言いなりになるわけもなく、北朝鮮のミサイル開発は続いて行くだろう。

 こうした北朝鮮の軍事戦略には、相応の合理性がある。通常兵力が周辺国に比べると弱体化し、外国の軍隊が駐留しているわけでもなく、外国からの軍事支援はあてにせず(できず)、独力で自国を防衛するしかないとなれば、まず短距離ミサイルを増やして侵略に対する反撃力を高め、次に中距離ミサイルを増やして周辺国への攻撃力を誇示して、抑止する。財政的に限られているなら、弾道ミサイルの装備に注力するのは間違ってはいないだろう。

 日本には米軍が駐留しているが、日米安保が破棄され、日本単独で防衛力を整備しなければならなくなった場合、北朝鮮と同じ状況に置かれる。日本の防衛のためには在日米軍並みの戦力が必要だとの見方もあるが、在日米軍はアジア全体からインド洋、さらには中東までの展開を考慮しているものなので、日本の防衛のためだけなら在日米軍の戦力は過大であり、原子力空母なんか必要ない。

 日米安保を破棄して日本単独で防衛しなければならなくなった時に、①歴史を踏まえ専守防衛に徹し、周辺国に過剰な警戒感を持たせない、②軍事予算に制約を課す、③民主主義体制を堅持し、文民統制を明示的に強化する、ことが必要になろう。つまり、通常兵力の大幅増強には制約があるので、侵略に対する反撃力の強化に重点を置くことになる。

 具体的には射程1000キロ以下の各種の弾道ミサイルを日本全国に配置し、各種の侵略に対する迎撃体制を整えることが、効果的な専守防衛戦略だろう。北朝鮮のミサイル戦略の「成功」と「失敗」は、日米安保を離れた時の日本にとって参考になる。

2017年7月1日土曜日

それでも新聞を読みたいという需要

 実家が朝日新聞を購読していたので子供の頃から朝日新聞が身近にあったという友人は、親元を離れて社会人になって以来、朝日新聞を購読し続けていた。社会人なら新聞を購読するのが当然だと思い、子供の頃からの親近感もあって朝日新聞を購読していた。

 その友人が朝日新聞の購読をやめた。友人は朝日新聞の論調の熱心な支持者ではなかったが、信頼できる新聞だと思っていたという。その信頼が揺らぎ始めたのは、慰安婦問題の誤報を長年放置していたことを朝日新聞が認めてから。誤報があっても速やかに正されると思っていたのに朝日新聞の実態は違って、誤報の事実を隠蔽し、虚偽の情報が拡散することを容認し続けていた。

 裏切られていたと友人は感じたが、ウミを全て出し切れば「新生」朝日新聞はまた信頼できる新聞になると思って購読を続けた。数年たって、朝日新聞の体質が変わったと感じられず、もう信頼できないと友人はとうとう購読をやめた。新聞なんて何でもいいと家族はあっさり同意したという。

 しかし、友人は悩んでいる。新聞が毎日配達される生活を続けていたので新聞は必要だと、まず読売新聞を購読してみたが、友人曰く「紙面がスカスカしている」そうで、当初の契約通り3カ月でやめた。次に毎日新聞にしたが、記者のコラムがやたらに多く、「俺が読みたいのは誰かの解釈ではなく、世界で何が起きたのかという事実なんだ」と友人は“文学的な”毎日新聞もやめた。

 日経新聞は会社で読むことができるし、産経新聞は色がつきすぎていると友人は次に購読すべき新聞を決めかね、新聞が毎朝届かない日が続いている。テレビやスマホでニュースを知ることができるからと家族は新聞が届かなくなっても何も言わないという。

 別の友人は、朝日新聞が信頼できなくなったことは同様だが、他の新聞では物足りないので朝日新聞の購読を続けているという。読むに値する新聞が現れれば切り替えると決め、出張などの移動時に他の新聞を買って読むそうだが、これなら朝日新聞の方がまだマシだと感じることが多いそうだ。

 朝日新聞に愛想を尽かしたものの、新聞は読みたいという需要はある。そうした知的需要に応える新聞とは、事実を重視しつつ現実に根ざしたリベラリズムに基づく新聞だろう。護憲などの「不可侵の教条」を振り回さず、日本や世界の現実を冷静に分析して記事にし、多様な視点を提供する新聞があれば、朝日新聞を離れたが新聞は読みたいという需要をつかむことができるだろう。

 なお日本の新聞の総発行部数は4327万部(2016年、日本新聞協会)で、内訳は一般紙3982万部、スポーツ紙345万部。朝夕刊セットは1041万部、朝刊のみ3188万部、夕刊のみ97万部。総発行部数は漸減傾向が続き、2010年に5000万部を割った。各社別の発行部数(2016年8月、ABC)は読売新聞895万部、朝日新聞645万部、毎日新聞305万部、日経新聞271万部、産経新聞159万部だが、どれくらい残紙が含まれるのかは不明。

2017年6月28日水曜日

マイナス金利とキャッシュレス

 欧州中央銀行(ECB)が最高額の500ユーロ紙幣の発行を2018年末で停止する。使用することは無期限で可能だが、徐々に市中から消えていくとみられている。廃止する理由は犯罪防止で、マネーロンダリングや脱税に悪用されることへの対策という。最高額紙幣は日本1万円、米国100ドルなので、EUの500ユーロ(6万円以上)は確かに高い。

 EUの一部には紙幣の全廃を主張する意見もあるが、500ユーロ紙幣の廃止は、あくまで犯罪防止対策のためだとされ、ECB総裁は現金自体を廃止することはないとしている。付加価値税が高率な欧州では高額の現金取引は脱税の温床だとする見方があり、フランスが現金決済の上限を1000ユーロにするなど現金決済の範囲を狭める傾向にある。

 ECBといえば2014年6月にマイナス金利を導入した。その狙いは金融機関に貸出に資金を向けるよう促すためだとされるが、市中銀行は預金が流出することを恐れ、マイナス金利を預金金利に反映させていないという。普通預金などがマイナス金利になると、預けているだけで目減りするので預金者にとっては貸金庫を借りて金を入れているのと同じことになる。

 マイナス金利とは「資産課税に等しい」とし、マイナス金利には「理屈の上では下限」がなく、中央銀行は「徴税権を手中にした」と説くのが水野和夫氏(『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』)。マイナス金利の「下限をなくす最も簡単な方法は、現金を廃止して、電子マネーすなわちデジタルマネーに切り替える」ことで「マイナス金利とキャシュレス社会」が到来するとの欧州専門家の発言を紹介し、これは「民主主義の破壊」にほかならないとする。

 欧州での現金決済の範囲を狭める動きは、犯罪防止とともに、マイナス金利拡大に備えて退蔵貨幣(タンス預金)の増加に備えたものではないかと邪推したくなるのは、欧州ではマイナス金利や量的緩和策を続けても効果が限られ、マイナス金利の拡大に向けての環境整備の意味も含まれているとの懸念が漂うからだ。

 現金を廃止して電子マネーなどキャッシュレスに移行していけば、すべての取引は記録されるので、脱税もマネーロンダリングなども困難になっていくだろう。それは同時に、政府が個人や家庭の金の流れと保有高をすべて掌握する社会になることを意味する。マイナス金利を組み合わせるなら、政府は個人資産からいつでも資金を調達することが理屈の上では可能だろう。

 キャッシュレス社会は先進的で便利だとする記事はマスコミに珍しくない。最近では、中国が日本より遥かに先を行くキャッシュレス社会になりつつあるとの紹介も増えた。独裁統治の中国ではキャッシュレス社会は政府にとって好都合だ。ただし、表に出せない金をため込んで国外に持ち出す高級官僚や資産家にはまだ、高額紙幣が大量に必要だろう。

2017年6月24日土曜日

英語教育と自動翻訳

 日本を訪れた外国人は2016年に前年比21.8%増の2403万人となって過去最多となり、今年もすでに1000万人を超え、増加を続けている。中国人の観光客が急に増えた印象があるが、2016年で見ると、中国が637万人(前年比27.7%増)で600万人台に乗り、韓国は509万人で500万人を突破、続いて台湾416万人、香港183万人と上位4位までで1700万人を超え、全体の72.7%となる。

 5位は米国で124万人となり過去最高だが、オーストラリア44万人、英国29万人、カナダ27万人、フランス25万人、ドイツ18万人、イタリア11万人、スペイン9万人とこちらも過去最高となった。上位20位で過去最高にならなかったのはロシアだけで、世界各地から日本に来る人が増えている。

 外国人がスマホや地図を見ながら街角で立ち止まり、迷っている様子を見ることも全国各地で増えているだろう。そうした光景を見て、手助けしてあげたいが外国語が分からないと残念に思い、英語の学習を始める人もいるかもしれない。アジア人が訪日観光客の8割以上になるのだが、中国語をはじめとしたアジアの言語より、身につけるべき言語として英語が優先されるのは国際共通語とみなされるからか。

 小学校ではすでに英語に親しませる教育は取り入れられていたが、2018年から英語教育が義務化される。初歩的な読み書きはもとより、実践的な英語を身につけるため、リスニングやスピーキングに重点が置かれるという。小学校での英語教育が強化されると、中高での英語教育も変化し、「使える英語」を生徒が身につけることが更に重視されるそうだ。

 こうした英語教育の成果が見事に達成されれば、数年後には小学生や中高生が、街角で迷っている訪日観光客を実践的な英語でサポートする光景が珍しくなくなるかもしれない。だが、学校教育により全ての生徒が期待通りに英語を実践的に使うことができるようになる……わけでもないだろうから、そのうちに小学校入学前に英語に親しむことが重要だなどと文科省は言い出すかもしれないな。

 外国語教育は日本以外の多様な文化を知る糸口になるものでもあり、必要だ。インターネットの時代でもあり、例えば英語を使うことができるなら、欧米をはじめとした多彩なニュース、論説、主張などを直接知ることができ、視野が広がろう。しかし、実践を重視し、使える英語などと産業界が喜びそうな方向に外国語教育が傾きすぎると、ようやく英語を身につけた生徒が社会に出る頃に状況が一変している可能性がある。

 自動翻訳の開発が急速に進展している。まともな日本語にならないと機械翻訳はバカにされていたが、AIやビッグデータの活用などによって飛躍的に性能が上がっているという。「使える自動翻訳」が実現すれば、アプリを入れたスマホで外国人と日本人が会話することも可能になる。つまり、実践的な英語力を身につけるためにと何年も教育を受けた人が社会に出た頃には、誰でも外国人と多数の外国語で会話が可能な状況になっているかもしれない。

2017年6月21日水曜日

手放さない

 1945年に終戦した戦争における日本軍の慰安婦問題は、日本と韓国の間では2015年の日韓両外相共同記者発表で「最終的かつ不可逆的に解決されることを確認」した。しかし、韓国の新政権は国内では解決していないと言い出し、「民意」に振り回される韓国の外交の特殊性がまた露呈している。

 韓国は歴史問題なるもので日本に常に謝罪(と賠償)を要求し、日本が謝罪しても、時間が経つとまた謝罪要求を繰り返す。謝罪が受け入れられてこそ、新たな関係が構築される。謝罪を受け入れる気がないのに謝罪を要求し続けるのは、和解を拒絶しているのであり、関係の正常化はいつまでも実現しない。日本に謝罪を要求し続け、緊張状態にあることが韓国の内政にとって必要なのかと理解するしかない。

 2015年の共同発表で日本側は①当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本政府は責任を痛感、②韓国政府が設立する財団に日本政府の予算で資金を一括で拠出、③今回の発表により,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認し、今後、国連等国際社会において互いに非難・批判することは控える、とした。

 韓国側は①今回の発表により、日本政府と共に、最終的かつ不可逆的に解決されることを確認、②在韓国日本大使館前の少女像に対し、韓国政府としても、可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて、適切に解決されるよう努力、③今後、国連等国際社会において本問題について互いに非難・批判することは控える、とした。

 日本と韓国の間では「最終的かつ不可逆的に解決」つまり「ケリがついた」問題であるはずなのに、韓国側で蒸し返されるという現実。外交交渉で日本と合意しても、後から「国民が受け入れられない」などを理由として一方的に引っくり返す韓国。こんなことを繰り返す国は他国からは信頼されないが、そんな韓国に日本は振り回されてきた。

 謝罪があり、それが受け入れられて、和解がもたらされる。しかし、謝罪させたという達成感や高揚感が忘れられないのか韓国は、日本に謝罪させ続けようとする。和解する気がなく、日本に謝罪させることが目的であるなら慰安婦問題は韓国にとって、日本に謝罪させ続けるための最高の道具だろう。被害者を演じ、国際社会で日本を糾弾することを可能にしている。

 慰安婦問題は、韓国が日本に対して倫理的に上位に立つと自負するために必要な道具なのだろう。だから、韓国は決して手放さない。韓国国内ではもちろん、米国など世界でも慰安婦像の設置を広げるなど、慰安婦問題が存在し続けることは韓国にとって日本に対する最上の攻撃材料であり、もう韓国では、不可逆的にも永続的にも手放し難くなった道具なのだ。

2017年6月17日土曜日

印象操作を見破る

 テレビやインターネット、雑誌、新聞などには広告が溢れている。人々の視線をとらえようと様々な手法を駆使して気を引き、商品などの認知度を上げ、さらには企業などの好感度を高めようと努めている。だが、広告が一方的な印象操作であることを人々は知っているので、うっかりと、全ての広告が主張することを真実だと受け止める人は少ないだろう。

 広告の印象操作に人々が簡単には引っかからないのは、それが印象操作だと知っているからだ。それでも、つい広告につられて購入し、食べたり使ってみたりして「な〜んだ、この程度か」と肩透かしを食らった経験は誰にもあろう。広告の印象操作によって期待を高められているだけに、実際とのギャップが逆に印象に残ったりする。

 印象操作は個人も行う。程度の差はあれ誰でも自分を良く見せようと言葉に気をつけ、視線を意識して行動する。人々は、好意を持っている相手の印象操作は許容し、受け入れるが、そうでもない相手の印象操作には気づきやすい。おそらく、見た目などから自分が得た印象を、相手が行う印象操作よりも優先させるためだろう。

 政治家や政党は世間に向けて常に印象操作を多用するが、そうした印象操作を人々はどれほど意識しているだろうか。おそらく、共感したり親しみを感じる政治家や政党の印象操作は大目に見るが、共感しない政治家や政党の印象操作は敏感に嗅ぎ分け、無視するか反発するだろう。

 印象操作だと気がつけば、騙されないように用心できるから、印象操作の害があるとすれば、共感したり親しみを感じる政治家や政党の行う印象操作を大目に見ていることを続けるうちに、印象操作だと感じなくなることか。共感が先に立って、印象操作されているとの意識が希薄になり、ついには印象操作の同調者になったりもする。

 政治家や政党が行う印象操作に加担するのは支持の表れでもあろうが、気づかずに印象操作に加担するのは騙されている状態だ。何でも疑ってかかるのが印象操作を見破る効果的な対処法だろうが、共感したり親しみを感じる政治家や政党が発する言葉を疑ってかかるには、意識的に接する必要がある。つまり、よほど理性的でなければ困難だから、共感したり親しみを感じる政治家や政党の発する印象操作は受け入れられる。

 印象操作を見破る簡単な方法は、誰の言葉に対しても、まず「違うだろう」と否定し、それから「なぜ違うのか」を考える。そこで、「違う」と納得できなければ、共感したり支持すればいい。共感したり親しみを感じる政治家や政党が発する言葉に対して、意識して批判的に検証する……それは、得票の多寡だけを争う民主主義から脱するために必要なことだろう。

2017年6月14日水曜日

政治家が活用する印象操作

 辞書によると「印象」とは「①見たり聞いたりした時に対象物が人間の心に与える感じ、②心に残っていること」で、「操作」とは「①機械・器具などを動かして作業させること、②自分に都合の良い結果が得られるように手を加える」こと。「操作」の②の用例で「株価を操作する/帳簿を操作して利益を隠す」が挙げられるように、②は、良からぬ行為を示す時に使われる。

 印象を操作するとは、人々から好感・同意を得たり人々に否定的感情を持たせないため、都合のいい印象を与えるように情報を発信する側が手を加えることだ。これは珍しいものではなく、日常に溢れている。商品CMや企業CMは典型例だが、広報にも印象操作は欠かせず、不祥事を起こした企業の幹部らが記者会見で立ち上がり、一定時間、深々と頭を下げる姿を見せて、その映像を報道してもらったりする。

 印象操作は政治につきもので、大規模な例はナチスやソ連などが行ったプロパガンダだろう。ナチスや共産主義国家への反発からプロパガンダは悪しき行為とみなされることもあるが、程度の差はあれ、民主主義国でもプロパガンダは行われている。自由選挙において候補者は主権者に対して印象操作を欠かすことはできず、好感を与えるようにと精一杯努力した表情でポスターに現れたりする。

 いつでも選挙に備えている(はずの)政治家の発言や行動は常に、主権者に対する印象操作に配慮しているのだろう。だから、自分の好感度に悪影響を与えかねない他の政治家からの印象操作には過敏になる。政治は権力を争うものであり、対立する政治家の「失点」は自分の「得点」になるから、互いに相手の好感度を下げようと印象操作し合う。

 政治家にとって印象操作は誰もが日常的に行っていることだろうに、ことさら対立する側だけの印象操作を批判する政治家が現れた。政治家を長年続けてきた人物が今更、他の政治家の印象操作を批判する意図は不明だが、印象操作だと言い立てることで、他の政治家からの自分に対する批判の効果を薄める効果はありそうだ。

 また、印象操作していると他の政治家を批判する政治家は、情報が操作されていると人々に思わせて、他の政治家は信頼できないとの印象操作を行いつつ、自分が被害者であるかのように装うこともできる。被害者を演じることは印象操作には有効で、被害者の言葉は同情心を刺激して人々に受け入れられやすい。

 一方で、印象操作を日常的に続けてきた政治家は、つくりあげられた好印象も好感度も何かをきっかけに一気に崩壊する脆いものであることも知っていよう。政治という印象操作に満ちている世界で、自分の印象操作は許され、対立する政治家の印象操作は許されないとする批判は、その政治家がいかに印象操作に過敏になっているのかを示している。

2017年6月10日土曜日

空間の破れ

 夜空の星を見ていると、例えば北極星までの距離は434光年(約323光年という説も出てきた)とされ、この宇宙はとてつもなく大きいなあと感じる。全体の大きさがどれくらいかは想像もつかないが、果てしない空間が続いていることは間違いない。さらに、宇宙は膨張しているという。以前は、いつか膨張が止まるという説もあったが、現在では宇宙は膨張を続けると考えられている。

 膨張を続けているということは、時間を遡ると、宇宙はもっと小さかったことになる。宇宙を膨張させている要因(力)が変わっていないとすれば、時間を遡ると、いつか1点に収縮された状態に行き着く。それが138億年前で、宇宙の全物質は原子1個分程度のスペースに集まっていたと考えられている。肉眼では見えないほど「最初」の宇宙は小さかったことになる。

 原子1個分程度からビッグバンという急激な膨張を経て、現在の広大な宇宙まで膨張を続けていると考えられていたが、現在ではインフレーションが起きたと考えられている。それは、1秒の1兆分の1の1兆分1よりも短い時間に、原子1個分程度から太陽系程度まで引き伸ばされたというもの。突然、現れたという感じだ。

 原子1個分程度の存在は、無きに等しい。だからか、この宇宙は無から有を生じたという説明もある。無といっても、存在しないということではなく、素粒子の生成と消滅が繰り返される「ゆらぎ」のある状態だと説明される。素人には、想像しようにも皆目イメージがつかめない状態だ。

 この膨張を続ける宇宙には、縮小を続ける場所もある。それがブラックホールで、あまりにも質量が大きいために、強い重力で縮小を続けるとともに光さえ外に出ることができない。ブラックホールの中心では物質が圧縮され続けるのだろうから、いつか原子1個分程度になってしまうかもしれない。

 夜空を見上げながら、想像してみる。ブラックホールの中心では圧縮が続き、やがて原子1個分程度の大きさになると、空間にピンホールのような破れが生じて、その破れから飛び出してしまうのではないか。別の空間に飛び出した途端に、ブラックホールの重力から解放されて、原子1個分程度の大きさから瞬時に巨大化し、膨張を続ける…。

 この宇宙が存在する空間とは別の空間が幾つもあるなら、宇宙も幾つもあるだろうし、ブラックホールが誕生して中心部に破れが生じるたびに空間が増え、宇宙の数も増える…。そんなことを考えてると、身の回りのことや世間で起きていることが小さなことに思えてくる。まあ、そうした小さなことに捉われて生きるのが人間の大きさに見合っているのだが。

2017年6月7日水曜日

温暖化論の不都合な真実

 米トランプ政権がパリ協定からの離脱を発表し、米国内外で強い批判が巻き起こっているとの記事が続出した。あたかも、パリ協定を米国を含む各国が「順守」すれば温暖化の進行を抑止することができたのに、米国がパリ協定を離脱して温暖化効果ガスの削減に背を向けると、温暖化の進行は止めようがなくなるといったトランプ政権批判のオンパレードの様相。

 温暖化が進行すれば地球環境が大きく変化して様々な災いを惹起するとの焦燥感や、温暖化の進行を止めなければとの使命感などに支えられてか、パリ協定からの離脱は「正義」に背くものと糾弾する雰囲気も漂う。温暖化論は科学的な仮説であるが、世界規模で温暖化対策事業が立ち上がっているので、仮説を押し通すには「正義」を振りかざすことが必要になるのかもしれない。

 パリ協定は各国が温暖化効果ガスの排出削減目標を自主的に決めて、世界の総排出量を削減しようというもの。温暖化による地球環境の危機が差し迫っているなら、各国に排出量削減を強制し、世界の総排出量を減らさなければなるまいが、そうなるとパリ協定に参加しない国が続出するだろうから、削減目標は各国が自主的に決め、相互に見守ることにした。

 だから、自主的な削減目標といっても、実際には排出量を減らさない国が含まれる。例えば、世界最大の温暖化効果ガスの排出国である中国。「発展途上国だから」と排出量規制に加わることを拒否し続けていた中国がパリ協定に参加したのは、実際には削減せずに増やすことを自主的な削減目標として掲げ、それが容認されたからだ。

 排出量は増えるのに温暖化対策に積極的であるかのように装うことができたのは、単位GDP当たり排出量という新たな概念を利用したから。これは、GDP1ドル当たりの排出量という考え方だから、GDP1ドル当たりの排出量を半減したとしても全体のGDPが2倍以上になれば排出量は増えるというカラクリ(GDP統計が操作されずに、正確に発表されるかしら?)。

 中国の自主目標は、2030年までに単位GDP当たりのCO2排出量を05年比で60~65%削減するというもの。中国の経済成長はまだ続くとみられているのでGDPの数字は増え、排出量は全体として増え続けるだろう。こんな中国を容認するパリ協定を、温暖化の進行を止めるための切り札であるかのようにもてはやす国際社会……温暖化の進行を止めるべきと真剣に考えるなら、実際に排出量を減らさなければなるまいに。

 さて、CO2などの排出量を減らせば温暖化の進行は抑制されるのだろうか。様々な気象データから温暖化傾向にあることは確からしいが、CO2排出量を減らせば温暖化の進行は止まるのか仮説の壮大な実験といえよう。さらに温暖化論には不都合な真実が多々あるが、懐疑論だとして「正義」に反すると十把一絡げに排斥される傾向にある。

 パリ協定の自主目標を各国が達成したとしても温暖化の進行が止まっていない場合には、きっと、すでに排出されたCO2などが大気中に大量に蓄積されているので、削減効果が現れるには時間差があるなどと世界は煙に巻かれたり、世界のどこかで大規模な火山の噴火があって、大量の火山灰が放出されれば多大な温室効果をもたらすだろうから、各国の削減努力がスポイルされる可能性もある。

 温暖化論議の最も不都合な真実は、科学的な論争が政治・経済的な論争に変質していることにある。科学では仮説は様々な視点から検証されなければならないが、政治などが絡むと、検証そのものが批判されたりする。だから、そうした批判を支える「正義」の装いが必要になる。なお主要な温室効果ガスであるCO2の国別排出量(2013)は中国が最も多く28.0%を占め、次いで米国が15.9%、EU10.4%、インド5.8%、ロシア4.8%、日本3.8%などとなる。

2017年6月3日土曜日

熊との付き合い

 山菜やタケノコを採るために山林などに入った人が熊に襲われるという事件は毎年、各地で起きている。熊は臆病な動物で人間を恐れるから、人間がいることを熊に知らせると、警戒した熊が近寄って来なくなるので、鈴やラジオなどを携帯して音を出すことが有効な対策だとメディアや行政は注意を喚起してきた。

 ところが、秋田県の山林で熊に襲われて死亡した人が、複数の熊よけの鈴を身につけていたことが明らかになり、調べると以前に何回も、熊よけの鈴を身につけた人が熊に襲われて負傷したり、死亡していたことが明らかになった。熊に人が襲われた事故を報じるたびに、音を出すものを身につけるように注意を促していたメディアは、あまり役に立たない情報を垂れ流していたか。

 人の話し声を聞いただけで熊は警戒して逃げていくから、複数で常に声を出しながら行動すべきだと説明する研究者がいるが、熊に襲われた人が山林などでの行動時に声を出していなかったとは確認されていない。音や声を出していたのに熊に襲われた可能性は排除できず、そうなると、話し声によって複数の人間の存在を熊が察知して逃げると理解したほうがいい。

 人間の存在を警戒する熊は、人間が1人の時には襲うことがあり、複数の時には警戒して逃げていくのだとすれば、鈴やラジオなどを携帯して音を出すことが有効な対策だとされてきた根拠が揺らぐ。おそらく、経験則によって有効な対策だとみなされてきたものの、熊を相手に検証されたことがない対策だったのだろう。

 別の可能性としては、過疎化や高齢化で耕作放棄地が増え、熊を含む野生動物が人と遭遇する機会が減る中で、熊の世代交代も進み、人に警戒心を持たない個体が増えてきたと考えられる。加えて、狩猟文化が衰退し、人に狩られることが少なくなったので熊はさほどの警戒心を人に対して持たなくなったのかもしれない。

 さらに昨年、秋田県鹿角市で熊に襲われて4人が死亡したが、近くで駆除された熊の胃から人体の一部が見つかった。人に対する警戒心が弱くなった熊が、遭遇した人を襲って殺し、食べたのだとしたなら、熊にとって人間は無防備な生物に見えるだろうから、人を狙うようになる可能性がある。人を狙う熊にとって、鈴などの音が人の存在を教えてくれるのなら音を追うだろう。

 熊を駆除して絶滅させれば、人がどこの山林に入っても安全になるだろうが、種の保存という理念が確立しているので、熊を絶滅することは政治的に不可能だ。つまり、人と熊は共存していくしかなく、人の方で先に熊の存在を知って逃げるしかない。そのためには、嗅覚が鋭い犬を活用し、潜んでいる熊を犬に察知してもらい、熊との遭遇を避けるのが現実的な対策だろう。

2017年5月31日水曜日

欧米が問題を設定

 最近、LGBTの人々を肯定的に取り上げ、社会で受け入れようと啓蒙する記事が増えてきた印象だ。LGBTの人が急に増えたのか、黙っていた人々が声を上げるようになったのか、それともメディアが積極的にLGBTの人々の取材を行うようになったのか。LGBT関連の記事が増えた理由は定かではない。

 一つの推測は、以前からLGBTの人々による権利主張の運動が盛んに行われている欧米で、近頃は同性婚を法的に認める動きが広がり、それが大きなニュースになっているので、リベラルを好む日本のメディアも日本のLGBTに目を向け始め、欧米のリベラルに歩調を合わせようとしているとの解釈。

 欧米メディアによる問題設定や評価、論考などを日本のメディアが参考にし、時には追従したりすることは珍しくはない光景だ。欧米の諸機関による各種の世界ランキングを、嬉しがったり残念がったりしながら「日本は@位」などと報じる記事も珍しくはないが、そうしたランキングの評価の「正しさ」を検証することはほとんどない。

 LGBTの人々の権利は尊重されるべきであろうが、欧米におけるLGBTの人々の置かれた状況と日本の状況とは同じなのだろうか。欧米メディアに“影響”されて日本メディアが問題を認識しているのだとしたなら、書かれた記事も欧米メディアの論考に合わせたものになろう。価値観の判断を欧米に委ねているからだ。

 一神教が大きな影響力を持つ社会では、例えば、異性間の結婚は神に祝福されたものとするが、同性愛は神の摂理に反するものと見なし、偏見や差別、迫害の対象になってきた。最近もISが占領地で同性愛者を残酷なやり方で処刑する映像を公開するなど、社会的に容認できないとの考えがあった。だからLGBTの人々を社会的に承認、受け入れるということは大きな問題であった。

 欧米メディアに追従して日本のメディアがうっかり、LGBTの人々が置かれている状況は欧米も日本も同じだと思い込んで、宗教的な規範が強く残っている欧米と同じ問題設定で記事を書くと、日本の地から“足が離れた”記事の出来上がりになりかねない。

 日本ではすでに、性別の取扱いの変更が法的に認められ、性的指向や性自認を理由とする偏見や差別をなくす啓発活動を行政が行ったりもしている。実際には偏見などが残っているから啓発活動が必要なのだが、日本では同性愛だけが抑圧されているわけではない。LGBTの人々を記事にしても強い反発が来ないだろうからと日本のメディアが取り上げているのなら、リベラルを気取るには格好の題材ではある。

2017年5月27日土曜日

ジャズとは何か

 カフェやレストラン、居酒屋など飲食店で、小洒落た雰囲気を演出するための道具としてBG(背景音楽)によく使われるのがジャズだ。ジャズといってもスタイルは多彩で、ムード音楽に近いものからハードバップ、クール、フリー、フュージョン、ファンクなど様々あるが、飲食を楽しむための演出だから、心地よさを来店客に感じさせるようなものが選ばれる。

 ジャズは熱心なファンが愛好する音楽とのイメージが過去にはあったが、今では特別な音楽とのイメージは薄らいでいるようだ。関心を持つ人が増えてブームになっているわけでもないが、都市部ではライブを聴くことができる店が増え、飲食店のBGなどでジャズに興味を持った人も生のジャズ演奏に触れることが容易になった。

 そうした半面で、ジャズを嫌いじゃないけれど、どういう音楽であるかを知らない人が増えているといい、ミュージシャンが即興で演奏していることを知らない人もいるとか。楽しんで聞いているのなら、それでも構わないのだが、ジャズの世界の広さ、奥深さを知らないのはもったいない。

 ジャズの大半は器楽だ。クラシックも同様だが、主に使用する楽器が、ジャズでは金管楽器とリズム楽器であり、弦楽器が主になるクラシックとは異なる。最大の違いは、クラシックが楽譜に忠実に演奏するのに対し、ジャズでは何かの楽曲を使い、そのコード進行に基づいて即興で演奏することだ。テーマの演奏ではジャズでも譜面を重視して演奏するが、ソロパートでは銘々が即興で演奏する。

 例えば、カウント・ベイシー楽団の「ワン・オクロック・ジャンプ」はD♭メジャーのブルーズ進行(12小節)の曲で、コード進行は<D♭/D♭/D♭/D♭7/G♭7/G♭7/D♭/B♭7/E♭m7/A♭7/D♭/D♭>となる(/の区切りがそれぞれ小節を示す)。このコード進行に乗ってミュージシャンは音を選んで演奏する。

 人と音楽の長い歴史の中から、聞いていて違和感がないようなコード進行のパターンがいくつも誕生し、それらの組み合わせが大半の曲に含まれる。例えば、Ⅱm7ーⅤやⅠーⅥmーⅡmーⅤ、ⅠーⅢmーⅣーⅤ、ⅢmーⅥmーⅡmーⅤ、ⅣーⅢmーⅡmーⅤなど。そうしたコード進行に出合うとミュージシャンは得意のフレーズを決めたりする。

 モードやフリーはコード進行の「縛り」を脱して、もっと自由にミュージシャンの意のままに演奏することを目指したもので、即興演奏の表現の可能性を大きく広げた(聴いていて耳に心地よいと感じるかどうかは人それぞれだが)。

 ミュージシャンが何をやっているのかを理解しないでジャズを楽しむこともできようが、コード進行も意識して聴くと、ミュージシャンがソロでやっていること・やろうとしていることなどが浮かび、ジャズはもっと面白く聴くことができる。

2017年5月23日火曜日

崩壊するベネズエラ

  ベネズエラのカリブ海沿岸に住む先住民ワラオ族が1000キロの旅をして、ブラジルのマナウスに数百人規模で流入している。報道によると、食糧や物資の不足などによる困窮から国を捨て、家や食料、医薬品などの支援を得たり職探しができるマナウスに移った。その一人は「ベネズエラではすべてが終わっているが、ここなら働き、暮らすことができる」。

 深刻な経済危機が続くベネズエラから出国しようとする人々は増えているが、パスポート申請は大半が却下されるという。その理由は、パスポートをラミネート加工する樹脂がなくなったためというから物資不足は深刻だ。周辺国に脱出することができない人々は、マドゥロ政権に怒りを向ける。

 4月から全国で大規模な反政府デモが始まったが、治安部隊は強硬に抑え込む姿勢を続けている。2カ月弱でデモ参加者の死者は約50人となり、数百人が負傷し、二千人以上が拘束され、軍事裁判で有罪判決を受けた人が続出しているというが、物資不足に加えハイパーインフレ、治安悪化などに苦しむ人々の蓄積した怒りは簡単には収まらないだろう。

 原油の確認埋蔵量で世界1とされるベネズエラは原油輸出で豊富な外貨収入を得て、医療や教育を無償にするなど手厚い福祉を進める豊かな国だったが、高値だった原油価格が低迷すると一転、全てが逆回転し始めた。バラマキではなく、人々が自立して生活できるような社会制度を構築し、広く産業を育成することに資金を向けていればと悔やんでも遅かった。

 今年1~4月のインフレ率は93.8%、去年の幼児死亡率は30%で妊産婦死亡率は65%増加、殺人発生率は52.2人/日……これらのデータが示すのは、国家として破綻している現実だ。「経済危機と食料不足で略奪や動物狩りが横行」「食料品店を狙った略奪が日常茶飯事」「機能不全に陥った病院」「政府は節電目的で公務員の出勤を週2日に制限」などとも報じられている。

 自由選挙が行われるなど民主主義の体裁は維持されているが、マドゥロ政権の権限が強く議会の機能は限定的。経済も治安も崩壊した社会で人々が行うべき「正しい」行動は、直接行動で政府を倒すことしかないようにも見えるが、「正しい」行動だからといって成功するとは限らない。

 それに「正しい」行動を支えるのは社会・国家に対する信頼があることだが、経済や政治が破綻した中で人々が、システムを変えれば良くなると信頼できるのか怪しい。怒りに任せて政権を倒したとしても、すぐに物資不足が解消され、ハイパーインフレが止まり、治安が回復されるわけでもない。崩壊したシステムを再建することは至難の技だ。

 国家や社会のシステムを信頼できなくなった人々は、毎日を生き抜いていくために自分の身は自分で守るしかない。破綻した国家で略奪が横行するのは、それが無法状態における「正しい」行動の一つであるからかもしれない。国を捨てて他国に逃れるという行動も、破綻した国家における合理的な判断であろう。

2017年5月20日土曜日

インフラ整備と需要

 中国が主導する「一帯一路」構想の賛同国を集めた国際会議が北京で開かれ、130カ国から約1500人が出席した。報道によると共同宣言では、「世界の貿易と投資の伸びは依然として低迷している」とし、「自由な貿易を確保し、あらゆる形態の保護主義に反対」を表明、一帯一路は「各国に協力を深める重要な機会を提供し、積極的な成果をもたらした」と自画自賛しているそうだ。

 低コストの生産地となって世界相手の輸出で経済成長した中国が、保護主義に反対し、自由な貿易を擁護するのは当然だとも見えるが、拡大する中国の国内市場を保護することに加え、共産党の独裁支配を脅かされないように、外資の参入には各種の厳しい規制を講じているのが現実。いつの間にやら自由貿易の旗手を演じ始めた中国は、相変わらず自国に都合のいい部分だけを、つまみ食いで主張している。

 この一帯一路構想は、中国と欧州を結ぶ陸路と海路の現代版シルクロード構想とも称され、各地で道路や鉄道、港湾などインフラ建設を行って中国主導の巨大経済圏をつくろうというもの。中央アジアや東南・南アジアでのインフラ整備が主になるとみられている。

 インフラ整備が遅れている一帯なので膨大なインフラ整備需要があると見込まれているが、自前でインフラ整備を行う資金に乏しい諸国が連なっている。それで、中国が資金と技術、資材(と労働力)を提供すると期待する諸国が一帯一路構想に反対する理由は乏しいから、アジア諸国は賛同し、事業への参画を目論んで欧州諸国も名を連ねた。

 中国国内で交通網などのインフラ整備が急速に進んだように、中央アジアや東南・南アジア、さらには中東を経て欧州までのインフラが整備されれば、モノと人の移動が活性化し、それなりの経済圏が形成されるとの期待が膨らむ。だが、そもそもモノや人の移動の需要が少ない地域でインフラ整備を進めたところで、需要が増えるわけではないことは中国国内でも明らかだ。

 どこでも、道路を作れば走る車が増え、鉄道を敷設すれば乗客が増え、港湾を整備すれば寄港する船舶が増える……なら大成功だが、潜在需要が乏しいならインフラ整備の効果は限定的だろう。中央アジアや東南・南アジアなどの諸国で、国境を越えてモノや人が移動する需要が潜在しているのなら一帯一路は刺激策となろうが、そうした潜在需要が乏しいのなら、中国から欧州への輸送路になるだけだ。

 一帯一路が中国からの援助であるなら諸国にとって恩恵だけがもたらされようが、借款であるなら事情は異なる。インフラは整備されたものの収益が伴わなければ、中国に対する負債だけが膨らむ。諸国が中国に負債で縛られ、中国が実質的に支配する巨大な経済圏が誕生するなら中国の狙い通りだろうが、そのためには、まずインフラ整備の成功事例を積み上げなくてはならない。中国に可能か、お手並み拝見だ。

2017年5月17日水曜日

身体は酸性?

 インターネットがまだ一般化していなかった頃に、中規模の物流倉庫の食堂で昼休みに、アルカリ整水器の実演販売を行っているのを見たことがある。食事を終えた人を集めて業者は、まずリトマス試験紙をなめさせ、「ほら、あなたの体は酸性になってる」と次々に指摘していた。

 そして業者は、酸性に体が傾くとバランスが崩れ、数々の病気につながりかねないと不安を煽り始めた。リトマス試験紙が酸性を示しているのだから、人々は業者の言うことを疑わない。すかさず業者は、整水器でアルカリになった水を飲むことで体が中性に戻ると説明を始め、整水器を売り込んでいた。

 リトマス試験紙を客になめさせるというのは、実演販売ならではの効果的な客の掴み方だ。科学的な装いがあり、業者側はリトマス試験紙の判定に関与しないので、客は信用せざるを得なくなる。客が“食いついた”後は、「体が酸性」の不安を大いに煽り、その解決策(整水器)を手際良く示す。

 業者が使ったトリックは、リトマス試験紙を客になめさせ、「あなたの体は酸性だ」と断定したところにある。リトマス試験紙が示したのは、口中が酸性であるということだ。食事の後に口中は酸性になるから、リトマス試験紙をなめると酸性を示すのは当然。口中が酸性になったから、体が酸性になったとはいえない。

 例えば、「トマトジュースを飲めば体が赤くなる」などと言われても、人々は信用せず、相手がバカなことを言ってると判断するだろう。だが、酸性/アルカリ性など、目に見えないことになると、食べたものにより体が酸性に傾いたり、アルカリ性に傾いたりすると無邪気に同意したりするのは奇妙な光景だ。

 食べたものは胃に入り、強酸の胃液が分泌されて溶かされることを思い出せば、アルカリ性の液体や食物を摂取したところで、胃の中では酸性になることが理解できよう。同様に、様々な健康食品でも口から摂取した成分が胃で消化される時に、どのような変化をし、どのように吸収されるかが解明されなければ、実際の効能なるものは不明だ。

 健康をテーマにした番組がテレビに増えたが、基本的な構成は、①体のちょっとした不調を並べ、重度の病気や不具合が隠れているかもしれないなどと不安を煽る、②医師が出てきて解説し、効果的な運動法や食品を示すなどして手軽な解決策を提示する。

 この②のところで、健康食品や健康器具などを紹介するのが通販番組だ。実演販売ならリトマス試験紙を客になめさせることもできるが、電波では、いかに視聴者の不安を煽るかがポイント。不安にかられた客は、例えば、アルカリ整水器を経た水で体が中性になると信じて安心するなら……信じる者は救われるか。

2017年5月13日土曜日

決められない政治②

 議員が議会よりも次の選挙での当落を重視することが、議会を存在感アピールの場に変質させ、議員が非妥協的に振る舞うので「決められない政治」を招いているのだとすれば、議員が選挙に気をとられすぎないようにすることは一つの選択肢だ。例えば、議員の任期を20年などと長期化し、さらには終身制などの導入。

 歴史を振り返ると、社会に身分制が存在した時代に、議会に参加する議員が貴族や有力者に限られ、終身制のこともあった。そうした議会が存在した頃の主権者(最高権力者)は王や皇帝であったりしたので、議会の役割は限定的。つまり議員は王や皇帝の補佐役の位置づけ。議員は選挙のことなど考えないが、それが議会の機能を充実させたわけではない。

 任期を長期化しても、例えば4年の任期で「機能」しない議員が、任期が伸びれば「機能」するようになると信じる理由は乏しい。目先の選挙だけを優先する人物は、資質面で議員に不適当である可能性が低くないからだ。加えて、長期任期や終身の議員が無能であることが明らかになった場合に、どう「取り替える」かという問題が出てくる。たびたび「取り替える」のなら、任期を長期化したり終身化する意味がない。

 次の選挙を意識しない議員は存在しないとするなら、議員の任期を1年などに短期化する選択肢もある。主権者にとって議員は「取り替え」やすくなり、議員は、当選してもすぐに次の選挙があるから自分の活動の成果を主権者に見せなければならず、硬直した議会は議員にとっても不利益になろう。ただし、任期を短縮化すると選挙回数が多くなるので、選挙の公営化を進め、金のかからない選挙にすることが必要だ。

 議員の任期を変えずに議会の硬直化を打開する方法には、国民投票の導入がある。「議員の3分の1の賛成があれば国民投票を実施しなければならない」などと決めておけば、乱用を抑制しながら、与野党の対立が激化して硬直した状況の打開策になるだろう。ただ、議員は予算や法案の最終決定権が奪われると国民投票に反対する。「決められない政治」に甘んじる議員にとって、最終決定権は飾り物でしかないのだが。

 誰もが立候補でき、誰にも当選する可能性がある現在の民主主義の行き着く先が、政党や議員が言い争いを続ける「決められない政治」なのかもしれない。でも、主権者の数が多すぎて意見集約が困難になっているからといって、特定の人々が主権者として独裁するような社会には戻れない。民主主義は完全ではない制度だが、封建制に後戻りすることに人々は抵抗するだろう。

 「決められない政治」が民主主義に反するものではないとしても、硬直した議会を主権者は望んでいない。おそらく、予算や法案などの具体的かつ細かな修正を議会が恒常的に活発に行うようになることが議会の活性化に最も効果的だろうが、最終決定権を官僚から議会(議員)が奪うことが必要だ。それは、議員の任期を動かすよりも難題かもしれない。

2017年5月10日水曜日

決められない政治①

 議会で与党と野党が議論するものの、一致点を見いだす努力を放棄し、妥協せず、激しく対立する状況が続くことは珍しくはない。野党の政権チェック機能がよく働いていると見ることもできるが、野党が何にでも反対しているようにも見える。与野党の主張を検証して主権者は次の選挙のときの判断材料にするのがいいのだが、次から次と対立が続くと、つきあってもいられなくなる。

  与野党の激しい対立の行き着く先は、多数決で決めることになる。日本のように政党が党議拘束を行うなら、最初から結果は明らかであり、野党が存在感を目立たせるためには、審議で非妥協的な激しい言葉で政府批判することが有効だろう。与党は、予定されている多数決で決着するのだから、議会での議論で妥協点を見いだし修正などを行って採決への協力を求める必要は感じまい。

 いわゆる「決められない政治」とは、議会で行われる討論が、一致点を見いだすための議論ではなく、それぞれの政党の存在感をアピールするための議論になっている状況だ。主権者が選んだ議員たちが、最後は多数決で決めているのだから、「決められない政治」は民主主義に反するものではない。しかし、民主主義がよく機能しているとも見えないから、不信感は高まる。

 「決められない政治」は、民主主義の不在を意味するのではない。民主主義は機能しているが、議会の機能が低下している状態だ。機能が低下した議会は軽んじられようが、議員になること(選挙で選ばれること)の価値が低下していないとすれば、議会は次の選挙のための存在感アピールの場に変質する。

 選挙で当選した人が議員となり、議会を形成するのだが、議員にとってはおそらく自分が当選することのほうが議会よりも価値がある。議会の価値は社会的なものだが、議員でいることが自分の価値を高める。つまり、一般には「議会>選挙」だが、議員にとっては「議会<選挙」だから、議会が選挙のために存在感アピールに使われる。

 社会の成熟とともに価値観は多様化する。そうした多様な価値観が選挙結果に反映すれば、議会でも多様な主張が現れ対立が激しくなろうから、「決められない政治」は社会の成熟を反映したものでもあろう。そこに議員を続けるために励む議員が加わる。「決められない政治」は日本だけではなく、米国など民主主義が定着した各国に見られる現象だ。
 
 選挙で選ばれることを最優先する議員たちによって演じられる「決められない政治」は、ポピュリズムとも相性が良さそうだ。票を獲得するためには手段を選ばない人達にとって、存在感をアピールすることが第一であろうから、議会も道具であり、ポピュリズムも道具になる。

2017年5月6日土曜日

主権在民にふさわしい憲法は

 国家の主権が、王侯貴族や特権階級、軍など限られた一部の人間にあるのではなく、広く人民にあるとする国家にふさわしい憲法は、第1章で主権在民を宣言する憲法であろう。ところが現行の日本国憲法は第1章に天皇の位置づけが来ており、第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とある。

 日本国憲法では前文で「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と主権在民を宣言しているが、条文では第3章で「国民の権利及び義務」について記すものの、そこで主権在民を明確に規定してはいない。前文は条文と同等の拘束力を持つのだろうが、前文は様々な理念を羅列しているので、主権在民の理念だけが強調されているわけでもない。

 欽定憲法である大日本帝国憲法では第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と国家主権を天皇が有することを宣言している。主権在民である日本国憲法に改正されたというのに、大日本帝国憲法と同様に第1章が天皇に関する規定というのは、当時は時代的な制約もあったのであろうが、主権在民の憲法としてはふさわしくない。

 主権在民にふさわしい憲法とは、第1条で主権在民を宣言する憲法だろう。例えば、第1章で「日本人の権利及び義務」を規定し、第1条で「われら日本人は、日本国の主権を有し、日本国を統治する」などとする。

 もう少し具体的に記すなら、例えば「われら日本人は日本国の主権を有し、思想・表現・信仰などの自由を有し、個人の尊厳と社会的な統合・安定を尊重しつつ、社会的・経済的・政治的正義の実現を目指す」「われらの日本国は、独立した不可分の、非宗教的かつ民主的な共和国である。日本国の政治は日本人により、日本人のために行われる。日本国の政治は、日本人の厳粛な信託によるものであり、その権威は日本人に由来し、その権力は日本人の代表者が行使し、その福利は日本人が享受する」などとしてもよい。

 主語を「われら日本人」とするのは、主権者である人民により制定された憲法であることを表しているのであり、憲法のすべての条文は「われら日本人」を主語として記されるべきであろう。

2017年5月3日水曜日

善悪で見る

 高度な知能を持つ地球外生命が大挙して地球に押し寄せてきて、地球を乗っ取るために人類を絶滅させようと襲い始め、さあ大変、圧倒的な攻撃力の差で人類の危機だ。そんな時に、戦いに巻き込まれていた人物が地球外生命の弱点を偶然知って、反撃を開始し、地球外生命を撃退して地球を救うというのはハリウッド映画などに珍しくないストーリーだ。

 こうしたストーリーは、①主人公を疑いがないヒーローに仕立てることができる、②地球外生命だから主人公らが残虐に殺害(破壊?)しても観客は同情を抱かない、③最後には危機を脱するというストーリーを予感しているだろうから観客は安心してハラハラドキドキを楽しむことができる、などの娯楽作品に仕立てやすい要素を備えている。

 一方、地球外生命は①圧倒的に強い、②主人公や人類を窮地に追い込む、③主人公や人類に決定的なダメージは与えない、などと設定される。圧倒的に強く描かれなければならないのは、観客をハラハラドキドキさせるとともに、最後に主人公たちが勝利する姿を見て観客が喝采するためだ。でも、圧倒的に強かったはずがボロ負けする地球外生命は、哀れさを誘う余韻を残したりする。

 地球を破壊から救う人物は間違いなく大ヒーローで、善悪で分けるなら善の側になるだろう。地球外生命は無条件で悪との設定になり、善が悪を打ち倒すのだから観客の大方は納得する。善とは何か、悪とは何かと考え始めると、たちまち意見は千々に分かれるだろうから、そんな疑問を観客に持たせないために、地球外生命は次から次と無慈悲に人間を攻撃する。

 現実世界では、無条件の善も無条件の悪も存在しないだろう。誰もが善の部分と悪の部分を有するので、時には善となり、時には悪となるのが人間。悪玉だと見られていた人物に意外な穏やかな人間性が垣間見えたりすると、ただ憎むことが難しくなったりする。

 だが、人間を無条件の悪と設定する映画は昔からあった。悪玉は世界支配を目論む独裁者や冷酷で残虐な犯罪者などだが、最近ではテロリスト集団が冷酷な犯罪者として描かれたりする。人間がテロリストになるには相応の理由があるはずだが、そこに目を向けると無条件の悪との設定がぐらつき始めるから映画では触れられない。

 映画の世界では登場人物の善悪を最初から決めることがストーリー展開に便利だろうが、現実世界でも最初から善悪を決めつけて人を見ていることは実は珍しくない。そうした決めつけで見えなくなっているものがあることを認識していなければ、そうした人には現実世界も映画のような単純な善悪の闘いと見えているのかもしれない。

2017年4月29日土曜日

キャラクター化する車のデザイン

 街中で奇妙なデザインの車を見かけることが多くなった。最新のものは「C-HR」で、過剰な甲羅をつけて走っているようにも見える造形は、これは何だと注目を集める存在感があることは確かだが、何らかの機能性を感じさせるデザインではないし、空力などからの必然性も感じさせない。

 すでに街中に大量に“増殖”している「プリウス」も奇妙なデザインといえる。ライト類の造形は目立たせることのみを目的にデザインされているようで、LED採用によりデザインの自由度が拡大してデザイナーの創造意欲が掻き立てられたことは伝わってくるが、あのデザインに到達しなければならなかったとの必然性は希薄だ。

 美醜の判断は主観により異なるし、大量に売れているのだから、あれらのデザインを好む人も多いのだろう。だが、絵画などの美術品なら、どんな奇妙なものでも気に入った人が自宅に飾っておけばいいが、車は道路という公共空間を走るので、万人の目にさらされる。見るたびに違和感を感じさせられる車が増え、見慣れた都市空間に微かな緊張をもたらしているようでもある。

 車のデザインは機能性を重視すれば、どれも似たようなものになる。例えば、エンジンの搭載位置や定員、車高などの外寸、トランクの有無などを決め、燃費を重視するなら空力に配慮しなければならず、結果としてフォルムは同じになろう。そうした制約の中で美しさと個性を表現するのがデザイナーの腕の見せ所だったはずが、デザイナーの暴走とも見える格好の車が増え始めた。

 生産工程にロボットが導入され、部品は世界規模で調達し合うようになってメーカーによる車の品質に大差がなくなった現在、デザインで明確に個性を主張することの重要度が増しているのだろう。デザインにも流行があり、ラインや面で美しさを表現する手法は時代遅れで、意味のない無駄なラインや面の組み合わせで造形することが世界的にも流行っている。

 そういえば「ジューク」も奇妙なデザインだったから、トヨタのデザイナーだけが「新しい」造形に積極的とはいえない。BMWがヘッドライトなどを自由な形にデザインし始めたあたりから世界の車のデザインは、セダンはセダンらしく、クーペはクーペらしく、ワゴンはワゴンらしくなどという既成概念から「解放」されたのかもしれない。

 車が普及し、単なる移動の道具になったことも影響している。どれを買っても大同小異だとすれば、購買意欲を刺激する見た目が重要になる。そういえば消しゴムは機能性だけなら四角でいいだろうが、おもしろ消しゴムは自由で造形で売る。車のデザインも機能性や必然性よりもキャラクターを立てて、目立ってナンボと訴求する商品に移行したのだろう。おもしろ車の時代か。

2017年4月26日水曜日

公共交通のあり方が不鮮明

 過疎化が進む地方でJRの赤字路線が次々に廃線になっていくが、赤字路線を維持する解決策は実は簡単だ。沿線の人口を増やし、鉄道に乗る人数を増やせばいい。そうすれば鉄道事業は採算がとれるようになり、廃線せずに運行を続けることができよう。問題は、鉄道ではなく、地方にある。

 線路を維持管理するには多額の固定コストを要する。過疎化が進んで乗客が少なくなり、料金収入だけでは固定コストさえ賄うことができなくなると、営利事業として成立しないから撤退するのが適切な判断となる。しかし、JRに対して年配者などには公共交通との意識が残っていたりするので、廃線を地元は簡単には受け入ない。

 人々の生活基盤を支える公共事業であれば、採算だけで事業継続を判断することはできず、事業単独では赤字であっても人々の生活を支えるために税金を投入して続けなければならない場合がある。私鉄なら営利事業であると明確だが、国鉄時代の公共サービスとのイメージを引きずるJRだから、例えば、赤字路線の維持に税金投入を求める意識が生じやすい。

 過疎地の自治体は、鉄道の廃線で過疎化が促進されるなどと反対するが、路線が維持されれば過疎化が止まるものでもあるまい。過疎地の自治体が真摯に取り組むべきは、人口を増やすことだ。過疎化により様々な問題が起きているのであり、その象徴が赤字路線の廃線だ。過疎地の自治体が廃線に感情的に反発するのは、過疎化に対する無力さの裏返しのように見える。

 自分ができることを自分で行うには、自分が決断すればいいだけだ。しかし、自分ができないことを他人に行わせるためには、他人に決断させるという困難が伴う。過疎化を止めることができない自治体が赤字路線を維持させるためには、線路維持のための固定コストを負担するしかないが、財政基盤が脆弱な自治体には、出す金はなかろうから、鉄道会社に陳情するしかなくなる。

 赤字路線の廃止問題から見えてくるのは、過疎地における公共交通のあり方が不鮮明なことだ。国や自治体は高速道を含めて道路の整備を進める一方で、鉄道はJRを含め民間事業と位置付けるが、赤字路線の廃線となると途端に慌て始める。車を持たない「交通弱者」に対する配慮がなされていないことが明らかになるからだ。

 専用軌道を必要とする鉄道事業が成り立つには、相応の需要(乗客)を必要とする。過疎地には、維持管理に自治体が責任を持つ一般道を利用するバスの方がコスト面から適しているのは明らかで、小型バスを使う適時の運行システムが構築されたなら、全国の過疎地に住み着く人も少しは増えるかもしれない。

2017年4月22日土曜日

動物農場

 馬や牛、豚、羊、鶏、犬など農場の動物たちが、懸命に働いているのに収穫は人間のものとなる一方で、鞭打たれたり、産んだ子供を売られたり、卵を産んだり乳を出すことを強制されることが不満だと意識し始め、怠惰な農場経営をする農場主らを追い出し、動物たちで自主管理を始めたというのが『動物牧場』(英ジョージ・オーウェル著)。

 動物たちは同志と呼び合い、各自は能力に応じて働き、怠けるものはおらず、自分たちの食べ物は自分たちの力でつくりだし、人間に奪われずに収穫は皆で分かち合うので、食べられる量が増えた。余暇時間が増え、日曜日には仕事はなく、全体集会で動物共和国の連帯を確かめ合った。動物の楽園が誕生した……はずだった。

 搾取され虐げられているものたちが反乱に立ち上がり、寄生している連中を追い出して、働くものたちで自主管理して、能力に応じて働き・必要に応じて受け取る共同体を構築するというのは一種のユートピアだろう。現実には存在しないものがユートピアとされるが、反乱が成功して高揚感に満ちたのなら、常に変化する世界で一瞬だけ現れるのがユートピアなのかもしれない。

 この小説は第2次大戦中に書かれたが、複数の大手出版社からは出版を断られて難航、やっと1945年8月に出版された。難航したのは、モデルが当時のソ連だったから。第二次大戦中の英国にとってソ連は共にドイツと戦う同盟国であり、また英国の知識人にソ連へのシンパシーを持つ人が珍しくなかったこともあって、ソ連が持つ負の側面に目を向けることが忌避されたのだろう。

 ところが、出版されるとベストセラーになった。活字に飢えていた時代背景もあるが、終戦とともに、ドイツなど共通の敵がなくなったことにより米ソによる世界覇権を巡る対立が高まり、冷戦体制が始まった。大量粛清など過酷なソ連の実態が西側でも広く知られるようになり、労働者の理想の国家とのイメージは覆され、この小説に描かれる社会が現実感を持って読者に受け止められたのだろう。

 ソ連が崩壊し、共産主義社会が現実には実現不可能なユートピアであることが明らかになった現在でも、この小説は読み継がれている。それは、全体主義のスローガンであれ民主主義のスローガンであれ、大多数の人々が社会の潮流に合わせて唱和し追従するような、動物農場と似た社会に人が生きているからだろう。

 異論を唱えるものは、全体主義社会では粛清され、民主主義社会では批判されたり無視されるが殺されはしないところが異なる程度で、社会の方向性に人が制約されることに基本的な違いはない。権力からの強制があれば、大多数は従うと歴史が明らかにしている。抑圧構造は人間社会につきものだから、この小説が読まれ続けるのだろう。

 ソ連が崩壊した後にも、この小説に現実感があるのは、北朝鮮や中国などの全体主義国家が健在だからだ。北朝鮮や中国をイメージしながら読むと、この小説は一層強烈な皮肉となり、かの国の体制擁護の「愛国者」の姿が、動物農場の登場動物とダブって見えてくる。

2017年4月19日水曜日

国境の壁と万里の長城

 人間が作った最大の建造物は、中国の「万里の長城」だとされる。2000年以上前から諸王朝が、北方からの外敵の侵入に備えて各地で構築を続けた壁で、全長は2700キロとか6000キロとか8800キロとか様々な数字が出されていたが、最新の発表では2万1000キロ以上とされる。

 新設されなくなって久しいのに全長が伸びるのは不思議だが、これは万里の長城が、ばらばらに築かれてきたものの寄せ集めだからだ。始まりは、諸国が築いていた国境の城壁を秦の始皇帝が増改築させて繋いで延ばしたもの。時代を経るごとに、各地で新たに作られたり、位置を移して重複して築かれたりと新増設が続いた。

 城壁の遺構や痕跡が広大な中国各地には数多く残っているだろうから、それらを探して見つけ、それが歴代の諸王朝が築いた城壁の一部で、万里の長城の一部であると認定して加算していけば、万里の長城の全長はいくらでも延びるだろう。つまり、探せば全長は伸びる仕組み。

 現存の主要なものは、明代にモンゴルに備えて堅固に整備されたものが多いというが、万里の長城は、陸続きの北方からの侵略に対する警戒感がいかに強かったかを示してもいる。構築するための莫大な手間と経費、時間を想像すると、北方からの侵略圧力に対する人々の歴史的な怯えの大きさが見えてくる。

 現代にも長大な壁の話がある。こちらは軍事的な役割よりも、密入国する移民を防ぐためのもの。米トランプ大統領は大統領令でメキシコ国境に壁を建設することを命じた。建設対象区間は約2000キロとされ、壁の高さは約9メートル。材質は鉄筋コンクリートで、ハンマーや電動工具を使っても簡単には穴が開かないような頑丈さと、地下にはトンネルを防ぐ対策が求められるという。

 中国の王朝なら壁の構築のために人々に使役を課すことができただろうが、民主主義のアメリカではそうはいかない。建設費用は150億ドルとも200億ドルを超えるともされ、トランプ大統領は「全額をメキシコに負担させる」と主張するが、メキシコは拒否。なお工期は3年以上と見込まれ、すでにヒスパニック系米国人所有企業を含め600社以上が受注に向け動いているとか。

 国境に壁を作るとは明確な遮断の意思の表れであり、壁には、こちら側と、あちら側を明確にする機能がある。あちら側とは政治的に、敵に仕立て上げることができる存在でもある。壁の向こうに敵がいて、常に脅かされているという設定は、権力にとって統治のために有効だろう。壁を可視化することは、権力者にとって好都合な事業だ。

2017年4月15日土曜日

「愛国者」という道化者

 かつて軍国主義教育が全国で強制されていた時代に教えられていたものの中にある、例えば、「父母に孝」「夫婦相和し」「朋友相信じ」などというのは、時代を超えて受け継がれるべき徳目であり、民主主義が定着しただろう現在においても教えることに問題はないとする考えがある。

 不思議なのは、そうした主張をする人が、軍国主義の時代の文書に拘泥することだ。時代を超えて受け継がれるべき徳目だというのが本当なら、それらを軍国主義教育と切り離して教えることは可能だろう。さらに、普遍的な徳目は軍国主義教育から切り離さなければ、普遍的な徳目への賛同に紛れさせて軍国主義の肯定につなげる狙いかと疑われるだけだ。

 軍国主義の結果として日本は戦争を始めたものの無条件降伏に追い込まれ、独立を失い、外国の支配下に置かれた歴史がある。日本の軍国主義は失敗に終わったというのが歴史的な事実であり、失敗した軍国主義を肯定するというのは珍妙な思考だ。さらに、失敗した軍国主義を肯定するのが愛国的とみなす向きもあり、珍妙さは一層増す。

 軍国主義の結果として無条件降伏した日本で、生き残った人々は苦しい生活を余儀なくされた。もう戦争は嫌だと多くの人は軍国主義的なものを拒否し、強権的な国家権力に対する嫌悪感や軍事に対する忌避感なども生まれた。それらは戦後民主主義を支えたが、戦後民主主義的なものに反発する人が、失敗した軍国主義を持ち出したところで、大向こうから喝采を得られるはずもない。

 かつて日本で愛国者とは軍国主義者かつ国家主義者のことであり、無条件降伏に追い込まれ、独立を失い、外国の支配下に置かれる日本に導いた人々のことであった。もちろん一般の日本人の多くも愛国心を鼓舞された愛国者であったが、彼らは無条件降伏した時に、戦争に敗けたことに怒り、指導者らを糾弾する自発性は持たず、敗戦を受け入れた。

 民主主義を尊重しつつ自国を愛するという愛国者像が日本では未だ確立されておらず、かつての愛国者イメージがなお強く残っているため、価値観の混乱が続いている。一方で、テレビに溢れる日本礼賛番組に見られるように、人々は日本が好きなのだろうから、軍国主義とも国家主義とも無縁な日本ラブという愛国者像も形成されつつあるように見える。
 
 時代を超えて受け継がれるべき徳目と称するものを、かつての国家主義・軍国主義に紛れ込ませる愛国者が現れても、その珍妙さが「道化者が現れた」と大笑いされなかった今回の騒動。過去のイメージの愛国者像を時代錯誤と笑い飛ばすことができる社会に、まだ日本はなっていないということを示した。

2017年4月12日水曜日

価値観の共有

 普遍的な価値観とは、国家や民族、宗教などを超えて人類が共有する価値観のこととされる。とはいえ、普遍的な価値観を決定する明確な基準はなく、共有する国家が多い価値観が普遍的とされる。現在では、近代になって世界的に大きな影響力を持った欧米的価値観が普遍的とされることが多く、それは欧米が国際的な影響力を保持することに役立っている。

 欧米的価値観は例えば、個人の自由や権利の尊重、主権在民の民主主義、人道主義などだが、それらより体制の維持を優先させる強権国家は世界に珍しくはない。普遍的な価値観には殺人や窃盗などの禁止もあるが、社会によって禁止の実態は様々だ(名誉とか報復のための殺人が根絶されない社会もある)。

 つまり、普遍的価値感といっても絶対的な規範ではない(欧米は絶対的なものと主張するが、その欧米は相手によって、それらの主張を使い分けるのが現実)。だが、普遍的な価値観が存在しない世界は、帝国主義的な力の論理で争う時代に逆戻りする。そんな世界よりも、対話を重視する世界を望むなら、対話の基盤となる共通する理念があったほうが便利だろうから、普遍的な価値観を設定する意味はあるだろう。

 さて、普遍的な価値観とは横(地理的)に広がって共有されるものとすると、縦(時間的・歴史的)に広がって共有される価値観もある。それは民族や地域社会の伝統などに代表され、地理的な広がりには乏しい。こちらにも明確な基準はなく、従う人が従うだけ。伝統だからと広く強制を仕組んだりすると、途端に異議が出てくることになる。

 伝統なんて蹴飛ばす対象だとするのは若さの特権かもしれないが、成熟というか老齢化が進む社会では伝統はそれなりに尊重される。といっても、ひと昔前の価値観に基づいて構築された伝統は歴史の検証にさらされ、時代の変化に合致する部分だけが受け入れられるか、さもなければ、歴史の遺物として祭り上げられるだけだ。

 伝統のほかにも時代を超えた価値があるとする人もいる。例えば、「夫婦相和し朋友相信じ」などは100年前にも現在にも通用する価値観だとし、ついでに100年以上前の古びた書き物を引っ張り出してきて、うやうやしく奉る姿を演じたりする。ところが、金が絡むと途端に「朋友」が仲間割れを始め、相信じていない姿が露見して笑われる。

 「夫婦相和し朋友相信じ」などというのは、あるべき望ましい姿のことであり、理念ではなく、歴史の検証にもさらされていない。これぞ受け継ぐべき価値観だと、100年以上前の書き物を引っ張り出して主張する人たちから見えてくるのは、知的な衰退である。歴史の検証に耐え、国境を越えて共有されるような論理の構築ができないでいる姿を晒すことになった。

2017年4月8日土曜日

百貨店の凋落

 地方で百貨店の閉店が相次いでいる。百貨店は大都市の象徴的な商業施設で、それが地方の「わが街」にも来ると大歓迎された時代があり、売り上げも順調だったが、次第に売り上げは減っていった。駅前などに立地する百貨店には鉄道を利用して周辺の人々も訪れたが、幹線道路沿いなどに巨大なショッピングモールができたりすると、わざわざ百貨店に行かなければならない理由は減る。

 地方では各家庭が複数の軽自動車を持つようになり、大規模な商業施設には広大な駐車場が不可欠だが、駅前などに出店すると駐車場スペースを広げるためには相応のコストがかかる。百貨店より先に、都市部の駐車スペースが少ない商店街が影響を受け、いわゆるシャッター商店街になったりするのは、購買客の行動スタイルの変化に対応できなかったからだ。

 更にコンビニも増え、ネット通販が一般化し、どこでも何でも買うことができる時代になった。そうなると、百貨店ファンや、百貨店で買うことが目的という人しか行かなくなるのは当然。一昔前なら、百貨店の商品なら品質が確かだとされ、百貨店に買い物に行く理由になったが、ファストファッション商品に見られるように商品全般の品質が向上した。

 百貨店はシャワー効果(上層階に来店した客が下層階を周遊)を期待し、集客のために、一昔前には屋上にミニ遊園地を設けたり、上層階に大きな食堂を置いた。集客効果が薄れるとイベントスペースに変えて各種の展示会を開催したり、大型書店を入れた。そうした大型書店にけっこう人がいたりするので集客の効果はあるのだろうが、売り上げ減は止まらなかった。

 日本の百貨店の売り上げはピーク時には12兆円あったが、2015年には6兆1742億円と縮小を続けている。訪日中国人の爆買いなどで一時は盛り返したが、長くは続かず、5兆円程度まで減るともいわれている。特別な買い物をする特別な場所でなくなった百貨店は、自前の土地・建物ならば人気テナントへの場所貸しで生き延びられようが、賃貸が多いという地方百貨店では閉店するしかないか。

 中国でも百貨店の閉店が相次いでいるという。アウトレットモールが急増し、ネット通販の台頭もあって消費者の買い物形態が多様化、百貨店の魅力が薄れたこともあって業績低迷に陥ったというのは日本と同様で、急速な自動車の普及が買い物行動の変化を後押ししたというのも日本と似ている。中国ではスーパーマーケット閉店も相次ぐというが、儲かりそうだからとの大量出店のツケでもあるかもしれない。

 百貨店だけが提供できる何かがあると皆が思っていたのは、消費に対するあこがれが残っていた時代だろう。豊かになるにつれて消費は日常的行為に過ぎなくなり、どこでも何でも買うことができるようになると、百貨店の存在感が希薄になるのは自然なことだ。百貨店の活路は、百貨店でしか得ることができない何かを提供して集客することか。それはリアルのライブ体験が鍵になるだろう。

2017年4月5日水曜日

語り継ぐもの

 今年の3月11日は東日本大震災から6年目だった。テレビ各局は特番を並べ、新聞各紙は数ページの特集を組むなど大々的に取り上げていた。それらでは、肉親を失った人々にスポットを当て、亡くなった人を悼み、例えば、「忘れない」などのメッセージを大きく掲げていた。

 しかし、3月11日が過ぎると東日本大震災関連の番組や特集記事は激減する。「忘れない」とのメッセージとはマスメディアにとって、毎年3月11日に必ず追悼企画を組むという意味であるのかもしれない。大震災や大事故、大事件など非日常の出来事は毎年どこかで起きるのだから、マスメディアは何らかの追悼企画を毎月でも組むことができそうだ。

 非業の死を遂げた人々を忘れないというのは、生き残った人々の責務であろう。人の死は実感を伴った歴史の記憶であり、例えば、日本で暮らすとは、いつかどこかで大震災に遭遇する可能性が高いことでもあるのだから、避けることができなかった死を悼み、避けることができただろう死を検証することは必要なことだ。

 多くの死者の記憶が存在する中でマスメディアが情緒的に死者を悼むのは不思議ではないが、いつかどこかで次の大震災が起きる日本だからこそ、「忘れてはいけない」ことを伝えることが重要になる。それは、次の大震災での死者を1人でも少なくすることに寄与するような番組、記事をつくることだ。

 語り継ぐべきものは、感情であり記憶であり事実である。死者への思いは大切だが、それに偏重しすぎると、見失われるものがある。大震災の発生後から、何が起こり、人々はどう行動したのか。地域別に詳しく検証し、記録を残すことが、次の大震災における対応のヒントになる。さらに復興・復旧がどう進展したか、あるいは進展しなかったかを検証することで、実際に有効な施策が見えてこよう。

 東日本大震災では、津波により多くの人命が失われ、さらに福島第一原発事故による大量の避難など大規模な混乱が続き、阪神大震災では火災により多くの人命が失われた。住む場所や時間、地形、地域の人間関係などにより異なる様々な具体的な死があり、あるいは助かった命があっただろうから、それらを記録し、共有することが次の大震災の最善の備えとなる。

 例えば、避難する車で道路が渋滞して津波に襲われたり、渋滞で消防車が火災現場に到着できずに延焼が拡大したりと、現在の交通事情が地震に脆弱であることは明らかなので、大地震を想定した都市の再開発は急務だ。マスメディアが「忘れない」で伝え、問題提起すべきことは多い。

2017年4月1日土曜日

叩かれるロッテ

 ロッテが中国でバッシングの標的になっている。米軍の高高度防衛ミサイル(THAAD)の韓国での配備が始まったが、その敷地は、韓国ロッテが所有していたゴルフ場を他の国有地との交換で提供したものだった。中国はTHAAD配備に強く反対しており、THAAD配備に協力したロッテを締め上げることに躊躇はなかったようだ。

 ロッテは中国に20年以上前から進出し、菓子・飲料の製造販売のほか、デパート、スーパーを各地で展開するなど手広く事業を行い、根付いていたといえる企業だった。ところが、100店舗以上あるスーパーに中国当局は消防安全検査を実施し、不合格だとして店舗に次々と営業停止を命じるなど、政府主導でロッテバッシングを始めた。

 中国の国営マスコミも公然とロッテの製品や店舗ボイコットを呼びかけたというから、まさに官製バッシングだ。「許可」が出たからと人々も元気づいて、ロッテの店舗、関連施設などに押し掛けて破壊し、大規模デモでロッテを糾弾するかというと……冷静だ。秋に共産党大会を控え、最高指導部の人事を巡り権力闘争が進行中という政治的に微妙な中国で、大規模デモなど許されるわけがない。

 中国が特定国を対象に官製バッシングを行うのは初めてではない。2012年に中国政府は日本バッシングを主導し、各地で反日デモが繰り返され、日本企業の関連施設や店舗が破壊され略奪され、日本料理店も襲われ、日本車も標的になった。今回、中国人観光客を減らしたりと慎重に中国は韓国への経済的圧力を強めているが、ロッテに対するバッシングだけは目に見える形で行っている。

 ところでロッテは敗戦後の日本で誕生した会社だが、創業者が在日韓国人とあって、日本で稼いだ資金をもとに韓国で大規模で多様な事業を展開しており、有数の巨大財閥となっている。韓国での売上げは日本の10倍弱ともいうが、グループ全体の支配会社は日本にある。

 ロッテは韓国企業か、日本企業か。数年来のロッテの経営権を巡る創業家の御家騒動は、財閥批判が根強い韓国で大きな関心を集め、韓国メディアから「踏み絵」を迫られた現在の経営陣はロッテは韓国企業だと表明せざるを得なかったとか。今回の中国によるロッテバッシングは、ロッテが韓国企業であることを強調する効果もあったようだ。

 そういえば、中国で日本企業が襲撃された2012年と比べて日本の報道は冷静だ。中国でのロッテバッシングは小さな扱いでしかない。してみると、中国と同様に日本でもロッテは韓国企業と見なされているのだろう。日本では日本企業として振る舞い、韓国では韓国企業として振る舞うことに何らかの経済合理性はあったのだろうが、政治が関わってくると企業にも二重国籍は許されないようだ。

2017年3月29日水曜日

秋葉原型の無差別テロ

 車が暴走して歩道に乗り上げ、歩行者を死傷させるという出来事は珍しくはない。原因は様々で、危険ドラッグなど禁止薬物の摂取や飲酒、突然の病などで運転手が正常の意識を失い、車をコントロールできなくなって暴走し、歩行者を死傷させるという事件は日本でもたびたび報道される。

 中には、暴走の原因はアクセルとブレーキの踏み間違いだったなどと判明すると、歩行者の死傷という結果を悼みつつ、ありふれた事故として片付けられたりする。運転する人間が正常な意識を保っていたとしても運転ミスはあり、車の暴走はいつでも起き得る。暴走する車に対して歩行者は無力で、逃げるしかない。

 一方で、運転する人が意図的に、歩道などに突入して歩行者を死傷させるという事件も起きている。日本では2008年に東京・秋葉原で、信号を無視したトラックが歩行者を次々にはね、その後に運転者がナイフで無差別に人を刺して多数を死傷させた事件が起きた。犯行予告メッセージを発するなど正常な意識を保ちつつも歪んだ動機を抱えた人間による凶行だった。

 そして、歪んだ動機が何かによって正当化されると、人はしばしば暴走を始める。正当化する何かには事欠かないのが現在の世界であり、その何かがテロリズムを容認していることもあり、さらには「単独でも決起せよ」などのメッセージに鼓舞されると、孤独なテロリストの誕生だ。爆薬や銃がないなら、車が武器になる。

 都会という人口密集地で、車は無差別殺人のための有効な武器になることが、英ロンドンの事件により強く意識されるようになった。欧米では銃や爆発物を使ったテロが相次いできたが、今回のロンドン、昨年の仏ニース、独ベルリンと車で人々を轢き殺す事件が続いた。仏独では大型トラックが使用されたが、英ではSUVが使われて歩道を暴走した。

 銃や爆発物を使ったテロを個人で実行するのは簡単ではない。銃や爆弾を入手し、狙う目標や場所を事前に選定する必要があろうから、入念な準備が必要となる。車やナイフを使った無差別テロなら、秋葉原での事件が示しているように個人でも実行可能だ。その気があれば誰にでも、いつでもどこでも実行可能なテロである。

 暴走する車の運転手が全てテロリストだと決めつけることができないのも状況を複雑にしている。病で意識を失った運転者や運転ミスなどによっても車の暴走は起きるのだから、テロか事故かとっさに見極めし難いだろう。中東などでは自爆テロが常態化し、大量の車が存在する先進国ではローンウルフによる秋葉原型の無差別テロが常態化するという悪夢に人は、暴走する車に対してと同様に無力だ。

2017年3月25日土曜日

開かれたナショナリズム

 移民・難民が欧州に殺到していることもあって欧州各国で右派ポピュリスト政党が勢力を拡大している。その主張は、移民排斥を訴えることで共通し、人々の中にあるイスラムへの恐怖や嫌悪などに支えられているように見える。移民・難民の受け入れを容認するEUや指導層(エリート)への反発・糾弾もあり、それらが、それぞれの国家の権限回復を主張し、EUへの反対という主張になる。

 日本では、右派は戦前を肯定する復古主義者を指すことが多く、保守主義は右寄りではあるものの右派の数歩手前との位置づけなので、欧州の右派を日本でいう右派と同類視はできまいが、先に定住していた人々・民族などの利益を第一とし、それで移民・難民ら新来の外国人に対する忌避感を正当化したり、国家主義で自分らの優越性を支えたりするなどの共通点はある。

 人々が流動してきた歴史を持つ欧州は移民・難民の受け入れに寛容だが、受け入れ方は各国で異なる。出自に関わらず市民としての社会参加を基礎とするフランス流と、民族別などの分散を容認して社会包摂を目指す英国流に大別されるが、どちらの社会も大規模なテロリズムに見舞われた。テロ事件がナショナリズムを刺激している。

 移民を受け入れた多民族国家におけるナショナリズムは多面的にならざるを得ない。米国を例にすると、白人主体の国家をよしとするナショナリズムもあれば、多人種・多民族が共生する国家をよしとするナショナリズムもある。前者は、白人以外の更なる移民受け入れに消極的になろうし、後者は移民受け入れを当然とするだろう。

 前者は「閉ざされたナショナリズム」であり、後者は「開かれたナショナリズム」といえよう。右派のナショナリズムが「閉ざされた」ものであり、リベラルのナショナリズムが「開かれた」ものであるとは、一概には言えない。どちらにも情緒的側面があり、その情緒は好都合な理論により正当化される。ただ、議会制による国家の存在を肯定することでは共通する。

  ナショナリズムが「閉ざされる」か「開かれる」かは、国家の主権者の範囲を限定的にするか開放するか、政治姿勢の違いである。欧州の右派政党は、先住の白人が国家の主権者だとするが、多人種・多民族が主権者に加わるのが現在の欧州で、英ロンドン市長にイスラム教徒が選出されたりして政治は変わっていくだろう。「開かれた」ナショナリズムは変化を促進する。

 様々なナショナリズムは、何らかの自分らが属する集団を想定し、その集団が国家を担うべきとする。主権者である特定の集団が国家を担うべきとするので、政党に機能的には似ており、ナショナリズムを掲げる政党が欧州で出現するのは、欧州では議会制が個人に支持されていることの証しでもあろう。日本で、ナショナリズム運動が政党として議会を目指さないのは、ナショナリズムが議会を軽視してきた歴史を反映している。

2017年3月22日水曜日

韓国の民主主義

 韓国の国会が弾劾訴追した朴槿恵大統領に対して、憲法裁判所の裁判官8人全員が弾劾を妥当だと判断し、朴氏は罷免された。裁判官は「大統領の違憲・違法行為は国民の信任に反し、許し難い重大な行為だ」と厳しい。朴氏は不訴追特権を失うことになったので検察の捜査の対象になり、刑事罰に問われる可能性も出てきた。

 次期大統領選の投票日は5月9日に決まったが、大統領代行を務める黄教安首相は不出馬を表明した。保守系の有力候補がいなくなったため、左派系の野党候補から次の大統領が誕生する可能性が高い。朴大統領を弾劾に追いこんだ世論の高まりを前に、保守系が闘わずして不戦敗に甘んじるしかない社会の状況かと見える。

 多くの人々が街頭に出て抗議活動を続け、流血を伴わずに権力者の退場に追い込んだのだから「韓国の民主主義の素晴しい成果だ」と韓国内などでは称讃の声が多いという。街頭行動というと最近では「アラブの春」があったが、リビアは事実上の分裂状態、エジプトでは強権政治が復活し、シリアは内戦状態になるなど混迷しており、それに比べれば韓国の“成果”が輝いて見えるのかもしれない。

 だが、民主的な選挙が行われていない国と、民主的な選挙が行われている国とでは、街頭行動の性格は異なる。どちらも人々の直接的な意思表示であるが、前者は、圧政に抗して立ち上がった人々が権力者の退陣を求めるというイメージだ。後者は、個別の問題について人々が賛否を主張するというイメージ。

 民主的な選挙が行われている韓国で、権力者の退陣を人々が街頭行動で求めたのは、韓国流の民主主義の限界を示している。限界とは、人々が直接民主主義を指向し、議会など間接民主主義への信任が弱いことだ。それは、議会が機能していないことの反映であろうが、街頭などでの直接行動に対する圧倒的賛美が人々の意識の根底にあると見え、議会が軽視されるという堂々巡りにもなる。

 韓国の現状は、民主主義の成熟の結果なのか、それとも民主主義の未熟さを示すものなのか。自由な選挙が実施されているのだから、制度としての民主主義が韓国に存在しているのは確かだが、揺れ動く民意は、間接民主主義の歩みの緩慢さに我慢できず時に爆発する。北朝鮮に融和的だという左派勢力が民意を煽っているともいい、政治の座標軸も民意につれて揺れ動く。

 揺れ動き、時には爆発することを正しいとする民意を抑え込むことは不可能だろうから韓国は、民意を的確に反映させる民主主義の制度を新たに構築するしかないだろう。それは、住民投票を大幅に取り入れる直接民主主義を拡充し、民意が揺れ動くたびに、街頭行動による圧力ではなく住民投票で決着をつけることだ。

 予想されることは、住民投票の結果で政治の方向性が変わったり外交方針が変わったりして、韓国の政治がより不安定化し、諸国との安定した外交も損なわれることだ。内政は混乱し、諸国からまともに相手にされなくなる可能性があるが、民意を政治に反映させた結果なのだから韓国民が責任を負うしかない。そうした結果責任を韓国民が直視することは、韓国の民主主義が前に進むために必要なステップだろう。

2017年3月18日土曜日

文化から文明へ

 日本語を話すことができる外国人が珍しがられた時代がかつてあり、外国人が日本語を話したなら驚かれたり、片言であっても「お上手ですね」と誉められたりした。最近では、日本語を話す外国人は珍しくはなく、テレビのバラエティー番組などで軽妙な受け答えをする外国人タレントを見かけることは日常的になった。

 日本語は外国人には習得が難しい言葉だと日本人の多くが思っているから、日本語を話す外国人を特別視したのかもしれない。それは、日本人の多くが外国語の習得が苦手であることの反映で、英語をなかなか話すことができるようにならない日本人が、難しい日本語を話すことができるようになった外国人に接して、驚いたり、誉めるという反応として現れたのだろう。

 「日本語の壁」はなお高く、日本語が世界に広がっているとはいえまいが、スシやラーメンなどの日本食やアニメ、漫画など日本発の文化を愛好する人々は世界で増えているようだ。外国で“愛されている”日本の食、製品などを紹介するテレビ番組も各局にあって、日本の文化が世界で受け入れられていることを日本人は嬉しく思っている様子だ。

 日本語は外国人には習得が難しいという先入観と同様に、日本の文化は独特だから外国人には理解が難しいとの見方もあった。だから、ハードルが高い日本の文化を理解できた外国人には、「大変な努力をした」のだと賞賛したのかもしれない。だが、食やアニメ、漫画などを楽しむために超えるべき「壁」は低く、外国人にもファンを広げた。

 多くの外国人観光客が訪れるフランスでは、フランス語を外国人が話しても、驚くこともなく、「お上手ですね」などと誉めることもなく、美術や食などフランスの文化を外国人が理解し、好んでも、それを特別視することはなく、むしろ、それを当然だとするという。フランスの文化(文明)は普遍的なものだから、外国人でも受け入れ、好むのは当然だということかもしれない。

 国境や民族などに関係なく共有される文化を文明とすると、現在は、日本文化が文明へと本格移行しつつある状況といえる。食やアニメ、漫画などから日本の文化への関心・共感が世界で広がり、共有されるようになって、普遍的な文明の一つと認識されつつある。浮世絵など日本文化は既に文明化していたのだが、もっと広範で新しい日本の文化が世界で共有されつつある。

  だが日本人の多くは、日本の文化は日本独自のものであり、日本人の所有物ででもあるかのような感覚を捨てきれず、世界で日本発の文化が“愛される”ことを無邪気に喜ぶ。文明となって世界で共有されるということは、日本や日本人の独自性よりも普遍性のほうに価値がおかれて評価されるということである。日本の文化が文明になりつつあることの意味を、日本人の多くが自覚していないように見えるのは興味深い現象かもしれない。

2017年3月15日水曜日

移民・難民の政治活動

 ロッテルダムで開催されるトルコ系住民の集会に参加しようとしたトルコ外相がオランダ政府に入国を拒否され、トルコが怒りを爆発させた。報道によると、トルコのエルドアン大統領はオランダを「臆病で卑劣」な「ナチス残党のファシスト」と罵倒し、イスタンブールでは市民がオランダ総領事館に乱入してオランダ国旗を引きずり降ろした。

 オランダ政府は、トルコの政治活動に協力するつもりはないとし、「公共の秩序と安全を確保するための指示には従うつもりがない」と集会も認めなかった。オランダでは総選挙で反移民を掲げる極右政党「自由党」が躍進すると見られており、トルコ系住民のおおっぴらな政治的な行動は国内政局にも影響を与える可能性があった。

 トルコは4月に憲法改正を巡る国民投票を予定しているが、国内での賛否が拮抗しているそうで、政権側は改憲への賛成票を増やすために、欧州に多く暮らしているトルコ系住民に在外投票を促していた。欧州各地で集会は開催されていたが、スイス、オーストリアなどで中止になったりもしている。

 エルドアン大統領はドイツ各地で予定していた集会が地元当局に拒否された時にも、「ナチス時代と変わらない行為」「ドイツには民主主義がない」などと批判し、独メルケル首相は「ナチズムとの比較はやめるべきだ」と反論していた(独では集会の一部は領事館内で開催されたという)。

 オランダ入国を拒否されたトルコ外相はフランス北東部で開催されたトルコ系住民の集会に出席し、「オランダはファシズムの拠点になった」などと演説したそうだ。強権をふるって反対者を容赦なく排除するエルドアン体制の側が、欧州の政治をファシズムと批判しているのは奇妙な光景であるが、相手を罵倒することに遠慮がなくなっているのは世界的な政治の傾向か。

 一連の出来事には様々な要素が絡み合っているが、興味深いのは、政治集会に他国から閣僚が参加することの是非だ。移民・難民も個人としての政治的権利を有しているから、移住先の国で政治的集会を開催しても構わないだろうが、そこに他国から閣僚が参加して政治的な主張を行うことは、他国の公権力の行使にも見える。

 国家権力の行使は国境内に限られるというのが一般的な理解だろうが、国境を希薄化させたEUだからとトルコは、準加盟国のつもりで欧州各国でのトルコ系住民の集会に閣僚を派遣したのかもしれない。だが、欧州各国はトルコを部外者としか見ていなかったようだ。

2017年3月11日土曜日

形式的な議会にも役割

 共産党が1党独裁体制を続ける中国にも議会があり、全国から三千人近い代表を集めて年1回開催される。それが全国人民代表大会(全人代)で、唯一の立法機関(1院制)であり国家権力の最高機関とされるが、予算案や法案を承認するだけで否決することはしない。代表も人民の直接選挙で選んでいない。

 今年の全人代の政府活動報告では、①2017年のGDP成長率の目標を6.5%前後とし、成長鈍化を容認、②習近平総書記が中国共産党中央の「核心」だと強調、③過剰生産能力の解消を続ける、④環境汚染対策の強化、⑤領海・国境防衛などの管理強化、⑥香港・台湾の「独立」否定、⑥農村の貧困人口の減少などが掲げられた。

 報道によると、政府活動報告で大きな拍手が起きたのが、「携帯電話料金とデータ通信料のうち、長距離の上乗せ料金を年内に廃止する」とした時だった。ほかにも、都市部の新規就業者数は1100万人以上とし、農村部から1300万人以上を都市部へ転籍・定住させ、小規模企業の所得税優遇措置の適用枠を拡大するなど、生活の向上をアピールする施策を打ち出した。

 この程度でも、今年は人民の生活への配慮が目についたと報じられるのだから、1党独裁体制下における人民の生活は、独裁する権力側から見て優先順位が低いであろうことは想像に難くない。一方で、鉄道建設に8千億元、道路・水運へ1兆8千億元などインフラ投資で成長を支える構図は変わっていない。

 成長に陰りが見られる中国経済の懸念材料は、地方政府と企業の過剰債務だ。巨額に膨れ上がっているともされるが、実態は不透明。政府活動報告では、企業の保有資産の証券化を進め、債務の株式化で過剰債務を解消するとしたが、債務整理に道筋がついたのかどうかは不明。

 全人代は形式的な議会であるとはいえ、中国共産党の方針や具体的政策が公開される場であるから国際的にも注目される。といっても、中国の公的発表は鵜呑みにできるものではないことは知られているので、中国政治の動向を推察する目安程度にしかなるまい。

 肝心なことは中国共産党の内部で決まり、それを人民も外国メディアも知ることは困難だ。人治国家といわれる中国では共産党内の権力構造も人間関係に左右される。だから、全人代で習近平国家主席と李克強首相が握手しなかったとか、目も合わせなかったなどということが、今後の中国政治の動向を占うものとして熱心に報じられたりする。形式的な議会にも、それなりの役割はあるようだ。

2017年3月8日水曜日

職業としての芸能人

 芸能人の引退はよくあることだ。テレビや映画、CMなどの出演依頼が絶えたなら、ひっそりと消えていき、世間から忘れられ、引退せざるを得ないという仕組み。ヒット曲がある歌手なら実演で全国を回リ、役者なら舞台公演を企画して活動を続けることもできようが、それも観客を集めることができる間に限られる。

 出演依頼がなくなったとしても、芸能事務所に所属している間は芸能人として現役の意識があるだろうが、芸能事務所から契約を打ち切られ、フリーとして単独で活動を続けていくとミエを張っても、どこからも出演依頼がなければ開店休業、実質的には引退となる。

 有名になって注目を集め、ついでに大金を稼ごうと目論んで多くの人が芸能人になるが、売れる人は一握り。常に大量の芸能人の引退がひっそりと続いているのだが、そうした引退と異なる引退が最近相次いだ。それは、①仕事がなくなったわけではなく、芸能活動を続けることができた可能性があるが、②本人の意志で引退を決め、③マスコミに発表……などの共通点がある。

 これらの自発的な引退は、華やかに見える芸能人でいることよりも個人の事情を優先した形だ。個人の事情といっても、薬物疑惑の追及からの逃避と見られるものから、宗教活動に専念したり、ひっそりと忘れられる前に自ら区切りをつけたり、家事に専念したりと様々だ。

 人気があり、仕事もあるだろうに引退した芸能人は過去にもいた。例えば、原節子、ちあきなおみ、山口百恵。原節子は引退を宣言しなかったが、表舞台には姿を一切見せないという徹底した隠遁ぶりだった。ちあきなおみも引退宣言はしていないが、夫君の死後、芸能活動を止めて姿を消したままだ。山口百恵は結婚を機に芸能活動をやめた。

 人気や多額であろう収入よりも優先するものがあると引退する芸能人は、引退する事情を詮索されて芸能マスコミを賑わす。芸能人という職業から離れると宣言すれば、すぐに世間は放っておいてくれる……ほど甘くはない。人気者の転落話は格好のネタだし、引退する芸能人なら、遠慮なく虚飾をはぎとり、おとしめることさえ可能になる。

 芸能人というのは特殊な職業だ。職業と個人生活の境界は曖昧で、売れるものなら何でも売ってやるとプライバシーを売り込んだり、時には裸になって見せる人も珍しくない。だから、引退した途端に本人は民間人になったつもりでも、世間は簡単には認めず、引退しても芸能人は元芸能人という新たな興味の対象となる。