2015年12月26日土曜日

温暖化のピンチはチャンス?


 気象庁によると、今年の世界の年平均気温は2010年までの30年間の平均値より0.4度高く、1891年の統計開始以来の最高になるという。日本の年平均気温も平年より0.63度高く、統計開始の1898年以降で4番目の高さで、過去100年間で1.16度の割合で上昇しているという。世界の年平均気温は過去100年間で0.71度の割合で上昇しているそうだ。

 平均気温が上がった原因は、温室効果ガスの増加による地球温暖化と、南米ペルー沖で続く大規模なエルニーニョ現象の影響と気象庁は分析しているそうだ。知りたいのは、平均気温上昇に与えた影響は、エルニーニョがどれくらいで、地球温暖化ではどれくらいになるのかだが、それは明らかではない。だから一般的な受け止めかたは、温暖化のせいで気温が上がっているとなりそうだ。

 日本では今年、3、5、11月は各地で月平均気温が観測史上最高を更新し、12月も寒波の襲来が少なく、全国で暖かい日が続き、北国では雪不足でスキー場が悲鳴を上げているとも報じられた。この冬は寒くないなと暖かさを実感しているところへ、「平均気温が高い」「温暖化だ」と報じられるのだから、地球温暖化説は盤石だな。

 その地球温暖化の抑制へ世界各国が前向きに取り組んだとされるCOP21が先ごろ開催され、中国や米国など世界の主要排出国も温室効果ガスの削減へ、義務は負わないが自発的に動くことになった。これで地球温暖化の進行がストップする……わけではない。大気中には既に排出された温室効果ガスが大量に存在するからだ。

 さらに、最大の排出国である中国の削減目標が「独自」で、実際の排出量削減の効果は疑わしい。GDP当たりの排出量を削減して、2030年頃には全体の排出量を減少へ転じさせると中国は前向きの姿勢を示しているように見えるが、GDPが増えれば排出量は増える仕組み。つまり2030年に多少減少させたとしても、排出量そのものは現在より増えている可能性がある。

 地球温暖化の危機を煽る割にマスコミは、COP21の「成果」を好意的に報じた印象だが、実効性がどれほどあるのかは疑問符がつく。各国がそれぞれの削減目標を達成したとしても、それだけでは温暖化の進行を阻止できないとされるが、各国は削減の上積みには消極的だ。それに、義務ではない削減目標を各国が本当に達成するのかも不透明だ。

 人類が排出した温室効果ガスにより地球が温暖化しているとするなら、温室効果ガスの排出量を実際に減らすべきだし、既に大気中に存在する温室効果ガスの回収技術の開発に世界が取り組むべきだろう。ところが、今回のCOP21を受けて排出権取引市場の再活性化が見込まれているとやら。実際の排出量の削減に排出権取引は何の効果もない。科学的な装いの温暖化論が、うさん臭さを払拭できないのは、温暖化論によって儲けようとする連中が群がっているからだろう。

2015年12月23日水曜日

軽減税率と加重税率


 議会で自民党は単独で過半数の議席を有するのだから、もう公明党と連立を続けなくてもよさそうなものだが、連立を維持し続ける。安倍政権と公明党では、目指す政治の方向性が異なる印象だが、連立を解消しようとはしない。連立することでしか得ることができないメリットが双方ともにあるから、離れようとしないのだろう。

 自民党にとっては、選挙で公明党の協力が得られなくなると当選者数はガタ減りするとも言われる。公明党支持者の基礎票をもらうことで自民党の単独過半数が実現できているとすれば、公明党を手放すことはできないな。公明党にすると、連立を解消して1野党になると現在の民主党などと同様、政策に影響を与えることができなくなる。

 最近では、軽減税率の導入は公明党の要求だったという。軽減税率の効果は限定的で、複雑な制度構築による負担増など弊害が多いとも批判されるが、公約に掲げた公明党が自民党に導入をのませた。消費税率の10%への引き上げと同時に、食品などは8%のまま据え置くという軽減税率。8%のままで据え置くだけなのに、軽減という言葉を冠すると、何やら負担が軽くなる印象を与える。

 消費税率の引き上げは、そもそも財政健全化を目指すものであったはず。だが、軽減税率の導入により税収が減るので、新たな増税も検討されているというから、その場しのぎのドタバタ手当ての様相だ。こうして税制は複雑化して行き、官僚の裁量権限は広がる。

 「名は体を表す」とは「名は、その中身や性質を的確に表すことが多い」とか「名はその実体を表している」などの意味で用いられる言葉だが、政治の世界では、名と実体は異なることが多く、名と実体が正反対のことも珍しくない。政治用語では名は「建前を表す」ものであり、各方面への妥協や配慮の痕跡を示すものでもあり、世論に対する印象操作に好都合な名が選ばれるものでもある。

 軽減という名には重税感を薄める効果のほかに、消費税率引き上げから軽減税率をめぐる論議に人々の関心を誘導する効果や駆け込み消費を緩和する効果もあるかもしれない。

 政治的に便利に使われる軽減という言葉の反対語は過重だ。軽減税率を導入するのなら、同時に過重税率を導入して、消費税の体系の中で税収を確保するのも一案だ。

 消費税率が10%に引き上げられると同時に特定の消費品目に、例えば20%、30%などと加重税率を適用する。資産家が増えているそうだから、高額の贅沢品の消費に過重税率を適用したり、巨大な宗教団体の経済活動に過重税率を適用したりと、ちまちまと軽減税率の線引きを検討するより増収効果は高そうだ。企業の莫大な内部留保に課税するのも一案だが、内部留保は消費ではないから加重税率の適用外か。

2015年12月19日土曜日

トランプの暴言


 米大統領選へ共和党候補としての指名を争うドナルド・トランプ氏は暴言を繰り返すことで知られている。最近でも、米加州での銃乱射事件を受け、イスラム教徒が米国に入国することを全面的に禁止すべきだと主張して、米国内のみならず世界的な批判を浴びているが、トランプ氏は「人々は私の発言を好んでいる」と“反省”するポーズも示そうとしない。

 泡沫候補なら、注意を引くために過激な発言をしたり、当選より自己主張を重視して好き勝手な発言をすることはあるだろうが、トランプ氏はもう泡沫候補とはいえない。支持率でトップを独走しているので、共和党の大統領候補に指名される可能性も現実味を帯びてきた。共和党主流派は困惑し、トランプ排除を探っているとも伝えられ、ドタバタ劇が繰り広げられ始めたなら、本選の大統領選より面白いかもしれないな。

 一つの失言で評判を傷つけ、地位を失ったりする政治家は珍しくない。選挙ともなると、敵の失点は見方の得点だとばかり対立陣営が容赦なく追及して騒ぎをかき立て、失言した側は弁解したり釈明したり、さらには謝罪して発言を取り消したりして沈静化に懸命になるものだが、トランプ氏は暴言の波紋を楽しんでいるようにさえ見える。

 トランプ氏の一連の発言をメディアは、失言ではなく暴言と表現する。社会常識に反していたり、政治的に言ってはならないとされている見解などを言ってしまうことでは、トランプ氏の暴言は失言の範疇なのだが、つい本音が現れた失言としてではなく、政治的な主張として打ち出される。それでメディアは、非難を込めて暴言扱いするのだろう。

 しかし、トランプ氏の暴言は広い批判を招くが、支持率は上がるので人々に受け入れられているように見える。現段階の支持率は「いいね」ボタンを気軽に押すようなもので、投票時の真剣な政治的選択をどこまで現しているか不明だが、米でトランプ氏の暴言がマイナスに働いていないことは伝わって来る。

 経験が豊かな政治家ならトランプ氏のような暴言は発しない。政治的に正しいことしか言わないだろう。だが、政治的に正しいことが、現実問題に対する正解であるとは限らない。そこに暴言が入り込む余地がある。素人政治家であることがトランプ氏の最大の強みだと解釈するなら、その暴言を含めて、既成の政治手法や政治言語に反し、抗い続けて、暴言が入り込む余地を広げ続けることがトランプ氏にとって必要になる。

 候補者の言葉といえば8年ほど前には、オバマ氏の言葉に世界が酔った。理想を素晴しい演説で語り、9.11に続くアフガニスタンやイラクでの戦争に終止符を打って、米国のみならず世界を平和に導くのではないかと期待されたが……期待は裏切られた。オバマ氏は理想を謳ったが、トランプ氏は遠慮のない暴言を恥じない。米で既成の政治家への失望がいかに深いかということを、トランプ氏への高い支持率は示しているのかもしれない。

2015年12月16日水曜日

悲観的になることと加齢


 永六輔さんのラジオ番組ではいつも野坂昭如さんからの手紙を紹介していた。その手紙は、世相を斬るといった内容が多かったが、柔軟で個性的な独自の視点からの評というより、子供の頃に戦争に巻き込まれた体験をベースに、世の中は悪くなっているゾと警鐘を鳴らす類のものが多かった印象だ。

 野坂さんは病気のため自由に外出できなくなっていたそうだから、世間の動きを知るにはテレビや新聞、雑誌などからの情報に頼り、病気になるまでに構築した思想・見方で判断するのはやむを得ず、新たな発想を求めるのは酷かもしれない。自由に出歩いて、多くのものを見、多くの人に会っていれば、見えて来る世界は広がり続けたかもしれないが。

 野坂さんが永さんのラジオ番組に最後に送った手紙では「日本がひとつの瀬戸際にさしかかっているような気がしてならない」「戦後の日本は平和国家だというが、たった1日で平和国家に生まれ変わったのだから、同じく、たった1日で、その平和とやらを守るという名目で、軍事国家、つまり、戦争をする事にだってなりかねない。気付いた時、二者択一など言ってられない。明日にでも、たったひとつの選択しか許されない世の中になってしまうのではないか」などと危機感を漂わせていた。

 気になったのは、そのような危機感を野坂さんがなぜ持ったのかということだ。日本が悪くなっているとの批判は年配者からいつの時代でもあったし、日本が戦争に巻き込まれかねないなどと反対派が批判する法案は過去にもあった。そうした諸々を野坂さんは見て来たはずだし、その後の日本を見て、有効な批判だったかどうかの判断もできたはず。

 明日にでも戦時体制になりかねないと危機感を煽るアジテーションは、政権批判にしか存在意義を見いだすことができない少数野党の常套手段だ。そんな危機感を煽る政治屋と同列にできないのが作家・文化人としてのポジションのはずで、独自の視点からの批判が無くなれば野党の随伴者に成り下がり、作家・文化人を特別扱いする理由は失せる。

 世の中は悪くなっていると野坂さんは感じていたのだろうから、危機感を露にして書いたのだろう。そこには、自由に出歩くことができなくなっていたり、加齢による影響があったとするのは意地悪すぎる見方だろうか。社会批評として書いているつもりが、悲観的な気分の影響を受けて否定的な側面に強く反応するようになっていた……若い頃の野坂さんなら、危機感をも面白い対象ととらえて書いたのではないか。

 人は加齢につれて体力の衰えや様々な病気などの不安が増し、さらには、死を身近なものとして実感するようになったりして、悲観的になる材料が次々に見えるようになる。生老病死に悩むのは自然なことだが、加齢につれて気重になり悲観的になりがちなことを意識していないと、世の中を悲観的に見すぎていることに気づきにくくなる。

 危機感を煽ることで自説を正当化する手法は珍しくはないし、深刻そうな顔をして世を憂うるポーズをしたがる文化人も珍しくない。斜に構えて、あれも悪い、これも悪いと言い立てるだけなら理性的な批判ではないが、メディアにとっては必要な時に都合よく使える存在となる。もちろん、それは野坂さんのことではない。

2015年12月12日土曜日

科学と未来予測


 世の中に溢れる多くの言説の中には、「科学的に妥当だ」との装いを強調するものがあり、信用度を高めることに効果があったりする。科学という言葉には、客観的に証明された正しい知見とのイメージが投影されているので、それらの言説も客観的に正しいと見なされることを狙っているのだろう。

 といっても、学術論文とは違って、それらの言説が、本当に科学的に妥当かどうか人々から厳密に検証されることは少ない。誰もが専門知識を持っているわけでもなく、誰もが最新の知見に通暁しているわけでもない。科学的というから間違ってはいないだろう……ぐらいの受け止めかたかもしれない。

 自説に都合がいいように、科学的な装いを利用しているだけじゃないかなどと批判すると、論文やデータなどをまくしたてて反論されたりする。自説に都合のいい論文やデータだけを取り上げているのだろうとは感じながら、相手の理論武装に対して、いちいち検証して反論する労力を考えると面倒くさくなり、「まあ、いいか」なんて再反論をやめることは珍しくない。

 科学的な判断に基づいて行われる事業があったりすると、現実には様々な利害が絡む。関係者はそれぞれが有利になるようにと、それぞれの科学的な主張を行うので、幾つもの「科学的に妥当」な論が出てきたりする。各自の利害が科学的な装いにくるまれているので、まとめることは簡単ではなくなる。

 さらに、まとめるのが難しいのは、未来に関することだ。過去に起きたことや検証可能な事象の解釈であれば「科学的に妥当」という指摘は理解しやすいのだろうが、未来に起きるかもしれない事象における「科学的に妥当」との評価は絶対に正しい……というには限度がある。まだ何も生じていない未来なのだから。

 未来を予測することは科学の得意分野ではない。その予測の正しさを支えるものは、蓄積されたデータと論文だが、過去に起きた事象だけが未来に起こるとは限定できず、人類が経験したことのない想定外のことが起こりうる可能性もある。科学が未来について予測するなら、ある事象が起きる可能性がどれくらいあるかを確率で示すことが「科学的に妥当な」態度だろう。

 科学が未来を予測し、それに基づいて各国が事業を行って大金が動くとなると、全ての利害関係者が、同じように得するか同じように損するかといったラインで妥協するしかあるまい。そうした妥協を政治的に正当化するには、科学が未来を予測する不確かさをごまかしつつ、未来に起こりうる最悪の状況を強調して人々の不安感を高めることが欠かせない。

2015年12月9日水曜日

旧型になってから批判


 自動車雑誌などに掲載されている新型車の試乗リポートは、その新型車の良いところしか取り上げないという印象がある。うっかり厳しい批判を書いてしまうと、広告を出してもらえなくなったり、広報に様々な便宜を図ってもらいにくくなったりするから“自主規制”せざるを得ないのだろうなあ……などと想像してしまう。

 これは試乗リポートに印象批評が多いこととも関係しているのかもしれない。主観的なリポートならば、いくらでも恣意的に誉めることができるし、欠点などに触れずに済ますこともできる。数値などを主体にした分析的批評では、さじ加減が難しくなって、誉めるに苦労するだろう。

 誉めるにもテクニックが要る。何でも次々に誉めてばかりでは、こいつは太鼓持ち評論家だなと見られるようになるので、試乗リポートなのに長々とスペックの解説をしてスペックを評価したり、内外装のデザインを細かく誉めたり、メーカーの戦略を詳しく解説したりとリポーターは工夫する。そんなリポートに接すると、実際に乗った感じでは誉めることがあまりないのだなと推察できたりする。

 誉めるテクニックで、よくある手法は、さりげなく旧型の欠点を指摘して新型車を誉めるやり方。旧型にはこれこれの気になるところがあったが、それが新型車では「解消されている。素晴しい」とやる。旧型が販売されている時に、気になる点を指摘するのが自動車“ジャーナリスト”だろうと思うのだが、それは封印されるようだ。

 この、旧型車の気になるところを強調して、それらが改善されたとして新型車の評判を上げるという戦略を新型プリウスでメーカー自ら行ったのがトヨタ。旧型車は良く売れ、まだ愛用者は大勢いるだろうに、メーカーが旧型の評価を落とすのだから、思い切ったPR戦術だな。プロトタイプの試乗会場に旧型車も用意して、比較試乗させたというから徹底している。

 4代目プリウスの試乗リポートから旧型車に対する部分を抜き出すと、例えば「コーナー入り口では操舵レスポンスが鈍く、頑固なアンダーステア」「ブレーキもクセがあり、速いペースで走るとコントロールするのに苦労」「制動時にクルマが暴れ、腰砕けになる」「なんともゆる〜い作りなのだ」などとリポーター諸子は遠慮がない。試乗会での資料に旧型は、走りの楽しさ/乗り心地とスタイリングが弱みだったとはっきり書いてあったそうだから、気兼ねなく正直に書くことができた?

 ハイブリッドで燃費が良いというだけでは、もうアピールする力が弱くなったので、自動車としての魅力を高めたことをメーカーは強調したいのだろうが、このPR戦略は過去のメーカー自身の開発姿勢や開発力を自己批判することでもある。正直になったのか、時代の変化に適応しただけなのか判別は難しいが、燃費だけではなく走行性能も優れた車を開発したのなら、ユーザーにとっては歓迎すべきことか。

 さて、旧型の欠点を指摘して新型を誉めるという手法をメーカーに借用された評論家やリポーター諸氏は、この手法がメーカーに公認されたと安心してはいられない。新たな誉め方を工夫して編み出さなければ、評論家・リポーターとしてのプライドが霞む。相対批評に止まっているなら、新型車を誉めるための新たな比較の対象を探し出して来る必要がある。

2015年12月5日土曜日

誰かが買っている


 ロシア政府は、トルコが「イスラム国(IS)」から石油を購入していると批判している。報道によるとロシア国防相は記者会見で、大量の石油が、シリアとイラクのISの拠点からトルコの地中海の港と、南東部のバトマンの製油所、シズレの積み替え基地に向かう3本のルートで運ばれていると指摘し、エルドアン大統領と親族が関わっていると厳しく非難した。

 トルコの首相は「根拠のない誹謗中傷だ」と反発した。ソ連はウソをねつ造し、そのウソをプロパガンダで広めていたのでロシアも同じことをしかねないとまで言ったそうだから、言葉では負けていない。さらに、米の大統領報道官はISの石油の「最大の購入者がアサド(大統領)と彼の政権である十分な証拠がある」として、トルコの関与をぼかそうとしている。

 でも、ISから大量の石油がトルコに密輸されているとの見方は以前から欧米情報当局などでもあり、米軍特殊部隊がISの石油事業責任者を殺害した時に押収した文書から、「トルコ当局者と『イスラム国』上層部の直接取引が明確になった」と英紙が報じた。その先の買い手が誰かはともかく、ISの石油がトルコ経由で世界に流れている疑いは濃い。

 ただし、ISの原油はイラクのクルド人自治区に移送し、トルコやイランの業者に転売、トルコやイランの業者は自国に密輸して販売したり、シリア政府に売りつけたりしているという話もあったりし、戦闘を続けるISは周辺国に複数の販売ルートを持っていると見た方がいい。ルートは多いほうが空爆などで破壊されても経済的ダメージは少ない。

 ISは豊富な資金源を有している。サウジアラビアなどスンニ派諸国からの支援があると言われるが、自力で調達する資金も多く、資金面では自立しているともいう。拉致誘拐で身代金を巻き上げたり、支配地で商人や農民に寄付を強要したり、少数派異教徒から安全保証料を徴収したり、古代遺物を売りさばいたりと様々な手法で資金を獲得するが、最大の資金源は占領した油田からの石油の販売のようだ。

 石油密輸でISは年間で約20億ドルの収入があるとも、日産3万〜4万バレルの石油生産があり、100万〜150万ドル/日の収入があるともいうから、史上で最も財政的に豊かなテロ集団だろう。ISの打倒を本気で行うなら、資金源を断つことが必須のはずで、地上を走る多数のタンクローリーは、1年以上前から始まった空爆の格好の目標になるはず。

 だが、タンクローリーへの空爆が行われたのは最近になってから。空爆はアサド政権を弱体化させることが優先されていたが、パリ連続テロでISが欧米の現実的な脅威になったことから、ようやくISつぶしに本気になったような印象だ。ロシアの空爆がシリアの反政府勢力やISの石油施設なども破壊し始めたので、遅れて欧米も続いたとの見方もある。

 これらの空爆で数百台規模のタンクローリーが破壊されたというから、ISの盗掘石油の“輸出”に影響が出るのは確かだろう。ロシアがトルコへの報復として、トルコに向うISの石油密輸ルートを重点的に破壊するなら、トルコに実際にどのような影響が出るのか。さらには、トルコから先の買い手にどんな影響が出るのか。見えなかった糸が少し見えて来るかもしれない。

2015年12月2日水曜日

漂う木造船


 遺体を乗せた木造船が海を漂っていても、海賊映画なら珍しくはないシーンだろうが、そんな船が日本海では現実に現れている。今年10月、11月の2カ月だけで漂流木造船は、北海道から福井県にかけての日本海側の沿岸や沖合で11隻が見つかり、計25人の遺体が確認されたという。

 一昨年から今年にかけて合わせて170隻以上にもなるというから、日本に木造船が漂着することは特記する事件ではなくなり、「またか」と受け止められるだけか。しかし、沈没したものを含め、どれだけの木造船が日本海に漂っていたのか、どれだけの人が亡くなっていたのかと想像すると、大きな悲劇が起きているかもしれない。

 船体や衣服などにはハングルが表記されていて、船内から釣り針や網などが見つかっていることから、朝鮮半島周辺の漁船が漂流してきたと海上保安部は見ているという。木造船はレーダーやGPSなどを搭載せず、船の構造や、「朝鮮人民軍」と表記された木造船も見つかっていることから、北朝鮮の漁船が遭難して漂流してきたとの見方が有力だ。

 こうした漂流漁船が増えたのは、食糧の自給自足のために北朝鮮政府が水産事業に力を入れているからだと専門家は言う。日本海には暖流の対馬海流が流れ込み、北からは寒流のリマン海流が南下し、豊かな海の幸をもたらす。対馬海流は日本海の南側を西から東に流れるので、木造船は対馬海流に乗って漂流してきたのだろう。

 日本海は栄養豊かで水産資源が豊富なので、北朝鮮が日本海側の沿岸や沖合などで水産事業を振興しようとするのは理解できるが、漁船の近代化が遅れている。以前は、亡命を阻止するために漁船の機能を低く抑え、航海能力を削いでいたともいうから、日本海で亡くなる人々は北朝鮮政府の政策の犠牲者であるともいえよう。

 今年は地中海で、リビアから欧州を目指す難民・移民を満載した船が沈没したり、船から転落したりして数千人が亡くなったという。密航船には乗客名簿などないので、どれだけの人が亡くなったのか実数は不明だ。北朝鮮で政権崩壊などの混乱が生じると大量の難民が日本海経由で日本に押し寄せるともいわれるが、漂流木造船と同じような漁船に乗って来るとなると、かなりの遭難死もあり得る。

 難民受け入れについて日本では現実感ある議論は希薄だが、国境も海も難民の移動を阻止することはできないことが、EUを見ると明らかだ。といって、北朝鮮からの難民流出を阻止するために、北朝鮮の現体制の維持を手助けすることはできまい。日本海を漂って日本に到着する木造船は、様々なことを示唆している。

2015年11月28日土曜日

何と戦うか


 米映画のキャラクターの一つである「プレデター」は地球外生物で、光学迷彩で自らを透明化して地球で人間を襲う。透明化している上にプレデターは腕力が強く肉体的能力にすぐれ、地球人は劣勢だが、映画では最後に地球人が勝つ。見えない強力な敵が近くにいるとすれば、それは恐怖を増大させる。映画はヒットして続編が何作も製作された。

 現実世界でも、武器を隠し持って強力な殺傷能力を有し、大量殺人を辞さずと決意しながら、傍からは、それと見えず、どこに潜んでいるのか分からない戦闘者がいる。襲われてから初めて、存在していたことが判明するのだから厄介だ。要人を狙うテロリストよりも、民衆の無差別殺人を行うテロリストのほうに人々は、自分も標的になると不安や恐怖を感じるだろう。

 「テロとの戦い」という言葉では、テロにより高められる社会的な動揺に対抗して人々が、それまでと変らない日常生活を送るという意味が強調されることがある。テロによって社会が変えられることに抗い、テロに負けないなどと言ったりする。しかし、見えない強力な戦闘者がまだ、どこに潜んでいるのか分からないという不安が続くなら、日常は変質せざるを得なくなる。

 テロが起きた後に公権力が非常事態宣言を行えば、それまでとは一変した日常になるのだから、人々が「テロとの戦い」で、それまでと変らない日常を送ろうとしても、制約を受ける。フランスでは非常事態宣言で警察権限が強化され、令状なしに家宅捜査を行い、必要によって人や車の交通を禁止し、多くの人が集まる場所を閉鎖するなどが行われているという。

 テロによって、それまでと同じ日常を送ることができなくなったフランス。日常が変えられたという意味では「テロとの戦い」にフランスは敗れたといえるが、見えない強力な戦闘者がどこに潜んでいるのか、どこから入って来るのか分からない状況では、テロの可能性を排除することはできない。警戒を強めることをもって、テロに負けたとすることには無理がある。

 テロがあっても、それまでと変らぬ日常を送ろうとするのは、テロに反発する意識的な行動だ。だが、人々が変らぬ日常を送ったところで、見えない強力な戦闘者が次の攻撃を思いとどまるわけではない。さらにいえば、中東やアフリカなどの国々では大規模中規模小規模のテロが頻発し、社会の有り様は変えられている。先進国だけが、テロによっても日常が変えられないなどということが有り得るはずもない。

 すでに起きたテロと戦っても無駄だ。戦うのは、次に起きるテロを実行する組織とであり、見えない強力な戦闘者とであろう。ただ、テロを戦いの手段として容認する組織や人々がいる現実世界の不均衡を見据えるなら、テロを生み出す構造にも目を向ける必要があるが、そうなるとフランスなど欧州諸国は中東やアフリカの現状に歴史的責任があることも見えて来る。

2015年11月25日水曜日

流行語か頻出語か


 話題になった人物の発した言葉が評判になったり、お笑い芸人のギャグなどが広まって、多くの人々が真似て使うようになるのが流行語だろう。だが、何がその年の流行語なのかを正確に決めるのは簡単ではない。全国の人々の会話の中に現れた流行語を集計できれば、人々の実感に近い言葉が拾い上げられるのだろうが、それは不可能だ。

 年代や階層などが異なれば流行語も異なろうし、地方による違いもあるかもしれない。家族内や学校内など特定の集団だけの流行語もあるから、これが今年の流行語だと万人が納得する言葉を選ぶのは簡単ではない。だから、「今年の流行語」を選定しなければならないとすると、なにやら“公的”な装いが必要となり、選考委員なんて人達も準備される。

 「今年の流行語」を選ぶためには、とにかく目についた言葉を集めなければならない。街中や居酒屋などでの周囲の会話に耳をそばだて、テレビ番組などで視聴者にウケている言葉をチェックし、新聞・雑誌など印刷物における頻出する言葉をピックアップし、ネットに現れる流行言葉もキャッチしなければならず、大変そうだ。

 といっても、流行語の収集は出版社が「現代用語」を刊行するために行っていることの副産物でもあるので、特別な手間がかかっているわけではない。そうやって集まった流行語の中から候補が発表され、「今年の流行語」が決められるのだが、今年の候補の選定に批判が出ている。

 批判は、政治色が見られるという点に集まっている。候補には「I am not ABE/切れ目のない対応/存立危機事態/駆けつけ警護/国民の理解が深まっていない/レッテル貼り/テロに屈しない/早く質問しろよ/アベ政治を許さない/戦争法案/自民党、感じ悪いよね/シールズ(SEALDs)/とりま、廃案」といった言葉が含まれ、安全保障関連法案に反対する側の雰囲気が濃厚だ。

 安全保障関連法案の審議に関して新聞が連日、各面で大きく扱っていたので、頻出回数の多い言葉がピックアップされたのだろうと推察するが、さて、こんな言葉を日常で人々が口にしていたかと怪訝な気もする。選考する人達が毎日、安全保障法案反対で熱心に議論していたから、これらの言葉に強く反応して選んだのではないかと想像させるような候補選定でもある。

 民間で勝手に決めているのだから、どういう選び方をしようと自由ではあるが、世相を本当に反映しているのかと疑問を持たれたなら、この種の選定はもてはやされなくなる。新聞などで頻出回数が多い言葉が流行語なのか、人々が日常で面白がって使って広まる言葉が流行語なのか、流行語の再定義が必要だな。頻出語ではあっても、そのまま投げ出された言葉は、流行語というには無理がある。

2015年11月22日日曜日

シリア化


 「シリア化」という言葉を考えついた。これは、シリアのようになるという意味だ。といっても、4000年以上も前から文明が栄え、多くの人が行き交い、この地を多くの国が代わる代わる支配したという長い歴史を持つことを意味するのではない。強権的な政権に対して国内で反政府運動が始まり、やがて武力対立へと発展、反政府勢力には欧米など外国から支援があり、政府側にも外国から支援があり、内戦状態となって治安が崩壊した状態になることをいう。

 シリア化のほかに「アフガニスタン化」「イラク化」「リビア化」がある。アフガニスタン化とは、外国から強力な軍隊が入ってきて政権を倒し、新たな政権を形成させたが弱体で、旧政府勢力が台頭していること。イラク化は、外国から強力な軍隊が入ってきて政権を倒し、新たな政権を形成させたところまではアフガニスタンと同じだが、国内では分裂が進む一方、新たな武装勢力が台頭すること。

 リビア化は、強権的な政権に対して国内で反政府運動が始まり、内戦状態になって、外国軍の助けで反政府側が政権を打倒するが、後継の政権が弱体で機能せず、実質的に無政府状態になること。この4つの言葉に共通するのは、国外から暴力(軍事力)が持ち込まれたということだ。

 アフガニスタン、イラクでは外国が強力な軍隊を派兵して時の政権を直接打倒し、後継の政権構築にも関与したが、新たな国づくりは停滞したままだ。リビアでは外国は反政府勢力に対する軍事的な支援は行ったが、後継の政権構築には直接は関わらない。ただ外国が関わったとしても、後継政権が機能したかどうかは分からない。

 仏パリで大惨事が起きた。ISISによる組織的なテロと見なされているようだが、誰がどこで計画し、誰が資金を出し、どんなメンバーが加わり、どんなサポートが行われたかなど、その実態はまだ明らかではない。この暴力が仏に外部から持ち込まれたものかは解明が進行中だが、仏のみならずEUでは外部から持ち込まれた暴力だと受け止めているようだ。

 欧州各国はアラブ諸国に暴力を持ち込み、時の政権を倒して治安を崩壊させ、人々の生活をも破壊することに関与した。外国から暴力を持ち込まれることが、どんなに悲惨で歓迎されざることかを仏やEUの人々は実感しただろうと考えたいが、「これは戦争だ」とフランス政府はシリアでの軍事介入を強化し、人々からの批判の声は伝えられない。被害者意識が刺激され、「報復」が容認されているように見える。

 テロによってフランス政府が倒されることはなく、フランスがシリア化することはないだろうが、外部から持ち込まれた暴力に怯え、嘆き、苦しむことでは、フランスやEUの人々はシリアなどの人々と似たような境遇に置かれた。シリアの人々は難民となるなど、外部から持ち込まれた暴力から離れようとするが、フランスやEUの人々はテロという暴力からどう逃げればいいのか分からず不安を募らせる。

2015年11月18日水曜日

天気に勝てるか


 11月も半ばになると、午後5時前には暗くなり、朝は6時を過ぎても薄暗い。1日が24時間であることには変わりがないのだが、日照時間が短くなると1日が短くなったような気にもなる。夕方に暗くなると夜を意識し、1日が終わったという感覚を持つからか。ちなみに2015年の冬至は12月22日(東京の日の出は午前6時47分、日の入りは午後4時32分)。

 電気がない大昔とは違って現代では、暗くなったって人間の活動が制約されるわけではない。夜型の人間も珍しくはないし、夜型でなくたって、翌日の朝一番に、納品なり報告書を提出しなければならなかったりして夜の作業を強いられることも珍しくはない。夜になったからと人間活動の1日が終わるものでもなくなっている。だが、人類の歴史から身につけたのだろう自然の感覚は受け継がれている。

 日が短くなるにつれて、寒さも増して来る。晴れて風もない日中なら、そう寒くもないのだが、日が落ちると急に寒さを感じるようにもなる。風が吹き始めたりすると、寒さをいっそう感じ、冬が近いと実感する。北国からは雪が降り始めたと伝えられているのだから、冬が近いのではなく、冬に入りかけているというべきだろうが、秋と冬の境目はぼやけている。

 春ならば桜が咲き、「ここからが春」という気分になり、雪国なら初雪で冬の始まりを意識するだろうが、降雪がまれな土地での冬の訪れを伝える明確な指標は乏しい。白鳥などの渡り鳥の到来は、冬の訪れを先触れする風物詩だろうが、どこの土地にも渡り鳥が飛来するものでもない。

 冬の訪れの指標は衣服かもしれない。寒さが増すに応じて、長袖のシャツを着るようになり、厚手の上着に切換え、さらにコート類なども着て、マフラーを首に巻いたりする。それでも寒くなると、長袖などの下着も重ね着したり、セーターを着るようになり、コート類も厚手のものをまとうようになる。

 コートを着るようになったら冬なのか、長袖の下着を重ねて着るようになったら冬なのか、個人によりまちまちだろうが、実感する寒さが冬の指標にもなる。寒さが嫌いだからと、寒さに負けまいと抵抗して、着るものを増やさず痩せ我慢などすると、常に寒さを感じざるを得なくなるから、余計に寒さを意識するハメになる。

 寒さを好む人は少ないだろうが、寒さに抗って薄着を続けても、寒さには勝てまい。寒暖などはストレスの要因になるともいう。寒くなれば寒さに負け、暑くなれば暑さに負け、雨が降れば雨に負け、風が吹けば風に負ける……でも、負けても平気だと天候に気分を左右されなくなったなら、人生の見方が変わって来るかもしれない。天気とケンカしたって、勝てる人間はいないから。

2015年11月14日土曜日

住む場所を選ぶ


 現在のトルコ共和国に住むトルコ人は、テュルク系民族とされる。テュルク系民族は中央アジア一帯からモンゴル高原、現在の中国北部などにかけてユーラシア大陸の内陸部に広く住み、各地で様々な国をつくったり滅ぼしあったりしてきた。現在のトルコ人の祖先は、中央アジアから西へと混血を重ねながら移動を続けてきた人々だという。

 バルカン半島にかつて存在したユーゴスラビアという国は、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人などから構成されていた。南スラブ人という共有する意識から形成された連合国家だったが、経済成長の地域格差などから分離独立の動きが始まり、解体した。南スラブ人は現在のウクライナ西部から移動を始め、6世紀頃にバルカン半島に住み着いたとされる。

 日本人が大昔、どこかから民族ごと移住してきたという話は伝えられていない。古くから日本列島に住み続けてきた人々だけで日本人が形成されたと考える人もいたが、日本人のミトコンドリアDNAの解析により、アジア各地などからやって来た多様な人々が日本列島に住んでいた人々と混血して、形成されたのが日本人であることが明らかになった。

 現世人類の祖先はアフリカで誕生し、20万年ほど昔に移動を始め、世界に広がったとされている。なぜ移動を始めたのかは分かっていないが、現世人類そのものが現在の概念でいう移民・難民と似たようなものであったのかもしれない。最近、海路や陸路で欧州に渡り、ドイツなどを目指して列をなして移動する移民・難民の写真を見ると、大昔にも同じような光景があった気になる。

 近代国家ができ上がり、国境によって人類が明確に隔てられて生きるようになったのは、人類史的に見ると「つい最近」のことだ。そう考えると、欧州に殺到する移民・難民の姿は、現世人類が地球上で生き延びるための本来の行為の延長にあり、特異な現象ではないようにも思えて来る。

 ただ、近代国家が数十万単位の大規模な移民・難民に直面するのは、大戦時以外では初めてだ。中東やアフリカなど欧州諸国が植民地にして収奪してきた土地から、人々が「豊かな」欧州に移住し始めた姿は、欧州諸国が植民地支配のツケを払わされているようにも見えるし、破綻国家から「マシ」な国家へ人々が大規模に移動し始めたとも見える。

 国境の内部に国民を「閉じ込めて」管理するという近代国家の存在が、移民・難民の本質を見えなくしているのかもしれない。住む国家を選んで移動することは既に世界の金持ち達には珍しい行為ではなくなっているが、金持ちではない人々も身一つで、住む国家を選んで移動し始めた。欧州に殺到する移民・難民は、近代国家の枠組みを揺さぶるかもしれない。

2015年11月11日水曜日

戻る日は来るか


 今は台湾の1政党になった中国国民党は、中国大陸で結党された百年ほどの歴史を持つ“老舗”政党だ。台湾に移ってきたのは66年前の1949年。中国共産党との内戦に敗れ、台湾に逃げ延びた。当時の中国共産党軍は陸軍が主体で、台湾に侵攻するほどの海軍力を有していなかったから、国民党は中国共産党に台湾から追い出されずに済んだ。

 国民党は台湾で強権支配を続け、大陸反攻を掲げていたが、大陸を支配する中国共産党が次第に強大になるにつれ軍事力では拮抗できなくなり、大陸反攻の旗を降ろした。強権支配も続けることはできず、台湾では選挙による政権交代が定着した。台湾に根付いたように見える国民党だが、今でも中国大陸の政党であることを標榜しているという。

 国民党には中国共産党と2回協力した過去がある。どちらも国民党が中国大陸で活動していた頃だ。第1次国共合作(1924〜1927年)は軍閥政権に対する共同戦線で、第2次国共合作(1937〜1945年)は日本軍に対する共同戦線。敵目標の一致を重視して連携し、単独では抗し難い敵に立ち向かったという構図だが、共通の敵がいなくなると、たちまち内戦に戻った。

 中国の習近平国家主席と台湾の馬英九総統が会談した。大陸と台湾に中国が分裂してから、両岸の政権トップが会談するのは初めてで、歴史的と評価する向きもある。だが、国民党の連戦主席は05年に訪中して当時の胡錦濤中国共産党総書記と初会談していたから、国民党と中国共産党の関係修復は既に実現していたことになる。

 今回の会談では、「一つの中国」を認め合う「一九九二年合意」の堅持を確認し、関係の強化に向けて協議したと報じられるが、会うことに意味があった会談であり、具体的な成果は二の次だ。台湾での次期総統選で優位が伝えられる民進党へのけん制を狙ったものともいうが、国民党が大陸中国に接近しすぎる姿を見せることが、次期総統選で国民党を有利にするかどうかは分からない。

 もともとは大陸で結成され、その党員の大半が大陸の人々であった国民党が台湾に居続けるのは、中国共産党に大陸を追われたからだ。中国共産党との関係が修復したなら、国民党は大陸に戻っても良さそうなものだが、立ちはだかるのが、形式的な野党の存在しか許さないという中国共産党の独裁だ。

 国民党は台湾で自由な選挙を経験しているので、中国共産党の独裁が続く限り、大陸に戻ることはないだろうし、党員の大半も戻りたがらないかもしれない。国民党が大陸に戻るのは、中国共産党の独裁が終わった時だが、そんな日はいつ来るのか分からない。国民党は「一つの中国」を主張することで中国共産党と“共闘”できるが、それは中国共産党への支援にもなり、国民党が大陸へ戻る日を遠ざけることにもなる。

2015年11月7日土曜日

社会の外から来る大量の難民


 東日本大震災で被災し、避難所生活を強いられた人の数は全国で最高時には約47万人にも達した。阪神大震災では約32万人。被災者は学校や公共施設などで集団生活し、仮設住宅が整備されたなら順次移転したり、借り上げの災害公営住宅などに入居するなどして、とりあえずの住居を確保して生活の再建を目指す。

 被災者の支援を直接担当するのは地方自治体だ。地震などでは被災地の自治体担当者も被災者であることが多いが、多くの人は献身的に他の被災者の支援にあたる。同じ境遇にあるからこそ、同じ被災者を助けなければとの使命感が強くなるのかもしれない。地震など自然災害が多い日本では、いつでも、どこでも、誰でも被災者になる可能性がある。

 大規模な自然災害による被災なら、国境を越えても同情が生じ、援助しようと募金などにつながったりする。一方、内戦などを逃れて国境を越える難民は、生活基盤を失い、やっと生き延びたということでは自然災害による被災者と同様だが、彼らは往々にして過酷な環境で生きることを強いられる。内戦や紛争は常に世界の各地で起きているから、難民はいつでも、そして大量に存在するのが現実だ。

 そうした難民が国境を越えて自分らの所へ押し寄せて来るとなれば、それは概念の難民ではなく具体的な人間となる。自然災害による被災者と同様に、衣食住の支援を要する人々なのだから、即座の対応を要する。支援を行うのは、押し寄せられた側だ。10人分の衣食住を支援することでも容易ではないだろうが、それが百人、千人、さらには万人単位となると、支援のシステムを構築することが必要になる。

 押し寄せる難民に対する支援をどうするか、それを現実問題として突きつけられているのが現在の欧州だ。中東などから地中海を渡って欧州に到着した難民らの数が10月だけで21万8000人を超え、昨年の年間総数を上回り、年初からの合計は74万4000人以上になるという。陸路を含めると、総数はさらに増えよう。ドイツは今年の亡命申請者を80万人と予測したが、もっと多くなるとの見方が多い。

 シリア内戦が泥沼化したことに欧州は責任があるので、シリアからの難民に背を向けることはできないし、中東やアフリカの多くの難民・移民の排出国は、かつての欧州諸国の植民地だが、植民地支配による収奪の清算をしていないのだから、欧州諸国には後ろめたさがある。ただし、植民地支配の責任についてはウヤムヤにしたままなので、旧植民地からの難民に対しても、あくまで人道的な配慮を装う。

 地震などによる被災者は社会の内側にいた人々だから、助け合うという気持ちが自然に生じるだろうが、難民は、社会の外側からやって来る。そうした難民を、例えばドイツが助けるためには、「過去に難民を排出したから、今度は助ける」など様々な理由が必要になる。外から来る難民を助けるためには、それを政治的に正当化することがまず必要になる。

2015年11月4日水曜日

突出した先見性


 坂口安吾の歴史小説『信長』の中に次の言葉がある。

「人が最後の崖に立ったとき、他に助けを求め、奇蹟を求める時は、必ず滅びる時である。自分の全てをつくすことだけが奇蹟をも生みうるのだ。もしもそれを奇蹟とよびうるならば」
「ギリギリの時には奇策もずるさも有り得ない。奇蹟やずるさは平時の用意であって、いざ決戦の場に於ては平時の訓練を全的に投入する以外に奇策も奇蹟も待望し得ないのである。もしも待望する人は、それを待望するという至らなさによって敗れるだけのことである」
「溺れてワラをつかむ人は助からない。息の絶ゆるまで、手足の動く限り、陸に向って泳ぐことに投入することだけが助かる道だ。陸に人の姿を認めて救援をもとめる努力をするだけでも身を亡す原因になるだけだ。ギリギリの場は、いつもそういうものである」

 信長というと、若き日には、茶筌マゲに半裸の上半身、刀に縄を巻いた異様ないでたちで出歩き、父親の葬儀では抹香をつかんで、仏前に投げつけたなど奇矯な振る舞いで知られ、身内のはずの家臣団の中からも、タワケと見られていたことは広く知られている。

 後に天下を取ったから信長の振る舞いを現代では、世に入れられぬ“天才”の自由さとか、突出した先見性の表れとか解釈できようが、コトを為す以前に“天才”を見いだすのは容易ではない。その人物がなし遂げたことを知ってから、異才ぶりを納得するのは簡単だが、コトを成し遂げる以前には、異様さはただの異様さとしか多くの人の目には映らないかもしれない。

 突出した先見性とは、既存の通念、秩序、常識などにとらわれず、数年先や数十年先の時代にふさわしい合理性を想像したり直感できる能力である。例えば信長は、弓矢や刀より遥かに殺傷能力が高い鉄砲の導入により、戦場での戦闘スタイルや戦法が激変することにいち早く対応した。

 信長が生きたのは、親兄弟であっても時には殺し合い、家臣の裏切りも珍しくないという時代。武士の忠義が美化されたのは、現実には忠義が希薄だったからだ。そんな中で信長は父親の死後、親族、家臣をまとめることができず、気を緩めれば倒されるという状況が続き、尾張を平定することさえ簡単ではなかった様子が小説「信長」では描かれる。

 信長における合理主義とは、生き残ることを最優先させることだった。生き残るには、他よりも強くあるしかない。その強さとは、誰かが助けてくれると期待せず、自力で敵を倒すしかないと腹を決めること。強くあるためには、精神力や神仏の加護などよりも、さらに協力な武器を備え、新たな戦術、戦法で戦うことが現実的。何かに頼る気持ちが芽生えたなら、もう弱っていることの兆しなのだ……と信長なら考えただろう。

2015年10月31日土曜日

「領土」を獲得した中国


 南シナ海の南沙(スプラトリー)諸島にあるミスチーフ礁とスービ礁から12海里内の海域を、米イージス駆逐艦が航行した。ミスチーフ礁、スービ礁ともに満潮時に水没する暗礁だが、中国が埋め立てて人工島を造成し、領土だと主張、さらに周囲を中国の領海だと主張していた。

 満潮時に水没する暗礁に人工島を造成しても、領海を設定できないと国連海洋法条約では定められている。同条約を中国も批准しているが、法の支配などが国内では無視されている中国だから、国際法や国際条約も中国に都合のいい部分のみ利用し、都合が悪ければ中国独自の主張を行う。国際法や国際条約よりも、既成事実をつくりあげてしまえばいいと人工島の造成を急いだ。

 演説は立派だが直接対決では腰が引けると批判されるオバマ氏の大統領任期も残り少ない。オバマ氏が大統領のうちに南シナ海を「中国の海」にしようと中国は人口島の造成を急ぎ、飛行場や港湾施設も構築した。米海軍は以前から米艦艇の中国人工島周辺の“領海”航行を主張していたそうだが、オバマ氏に止められていたともいう。オバマ氏が大統領になって米国が失ったものは多く、中国が得たものは多い。

 中国の人工島周辺の“領海”内での米艦艇の航行は今後も続くそうだが、それは、暗礁の周辺は公海であり、航行の自由があるとの主張をアピールすることでしかない。米艦艇が人工島周囲の海を頻繁に航行するようになったからといって中国が人工島の造成を中止することも、人工島を取り壊すこともないだろう。つまり、中国がつくりあげた既成事実は存在し続ける。

 中国が造成した人工島を、中国の領土とは認めないと米海兵隊が上陸して占領することはないだろうから、中国が造成した人工島により中国の「領土」は拡大した。人工島の周囲を米艦艇が自由に航行したとしても、中国軍の行動に制約は生じるかもしれないが、中国軍は新たに南シナ海で拠点を複数確保できたのであり、中国が失ったものはなく、得たものはある。

 イスラエルが占領地を国土化していることや、クリミアをロシアが併合したことなど、強国の力による領土拡大に世界は無力であるというのが現実だ。国際法による支配は国際社会では必ずしも完全ではなく、国際条約を必ずしも全ての国が尊重するわけでもない。だから中国の独自な主張が正当性を多少でも持つ……ということではない。

 中国は、既存の国際秩序の中に参加したからこそ経済発展を成し遂げることができた。だが、ある時には大国扱いを要求し、ある時には途上国扱いを要求するなど中国は露骨に立場を使い分け、国際社会で特別扱いを要求する。欧米による世界支配を打破するという意味では価値があるようにも見えるが、実は中国の利益だけしか尊重していないことが露骨に見えて、共感を得ることは難しい。

2015年10月28日水曜日

暴力の応酬を正当化


 エルサレムの旧市街にある神殿の丘は、古代ユダヤ王国の神殿があった場で、古代神殿の壁の一部が残っており、それは「嘆きの壁」と呼ばれ、ユダヤ教徒の聖地とされる。キリスト教徒にとっても聖墳墓教会などがある聖地であり、さらに、ムハンマドが昇天したという「岩のドーム」「アルアクサーモスク」などがあって、イスラム教徒の聖地でもあり、現在はイスラム教徒が神殿の丘を管理している。

 共通の神を信奉するが、信じる預言者が異なる3宗教はしばしば鋭く対立、神殿の丘をめぐっても緊張は続いてきた。神殿の丘でユダヤ教徒とキリスト教徒が宗教的な儀式を行うことは禁止されているが、2000年にイスラエルのシャロンが神殿の丘を訪問したことがインティファーダにつながり、平和共存を目指すキャンプ・デービット合意は事実上破棄された。

 エルサレムはイスラエルの支配下にあるので、ユダヤ教徒による礼拝を認めるよう求める訴えがあり、さらには神殿を再建しようとの動きもくすぶるが、いかなる現状変更にもイスラム教徒側は反対する。神殿再建などが現実的な動きとなれば、イスラム教徒側の反発は大きく広がり、戦争につながることも懸念される。一方でユダヤ教徒の過激派などが神殿の丘を訪れたりする挑発行為も続く。

 今年に入って、ユダヤ人入植者によるパレスチナ人殺害事件があって緊張が高まり、暴力事件が各地で頻発するようになり、9月にはイスラエル政府がアルアクサーモスクの周辺を封鎖したことで、抗議するパレスチナ人と治安部隊が衝突し、多数の死者を出した。パレスチナのデモ隊に対する銃器の使用基準を緩和し、イスラエル治安部隊が過剰に武器を使用しているとの批判もある。

 躊躇なく武器を使用する治安部隊に対して、武器を持たないデモ隊は無力だ。デモ隊側が武装すれば、それは内戦になる。パレスチナ人がユダヤ系市民や警官らを刃物などで無差別に襲撃するケースが相次いでいるというが、個別の「報復」を行わざるを得ないほど、精神的に追いつめられている状況なのか。そうした「怒り」が組織化されればインティファーダの再燃も懸念される。

 イスラエルの内外では「建国」以来、緊張が絶えることがない。平和共存を目指す政策は、常に内外で勃発する衝突事件などによって脇に追いやられてきた。現実に衝突事件が勃発するから強硬な施策が人々に支持されるのであろうが、社会的な緊張を常に高めてきた結果として衝突事件が勃発している面もある。

 共通の神を有するのに、傷つけ殺し合う人々。熱心な信仰が、精神を豊かにするのではなく、暴力の応酬を正当化するための支えとなる。むき出しの暴力が容認される社会だから、宗教の存在意義が高まっているのだとすれば皮肉だ。そんな社会で、神に熱心に祈ってみたところで、精神の平安を得ることはできるのだろうか。

2015年10月24日土曜日

表現するものがない


 「表現の自由」というと、専制的な権力と闘って人々が勝ち取った権利であり、民主的な社会の構成要件でもあるので、無条件に尊重され維持されるべきものとされる。ただ、「表現の自由」は文化財のように保護されるべき遺産ではなく、人々が様々な自由な表現を果断に行うことの積み重ねで“生き続ける”。

 「表現の自由」とは、理性的で知的で客観的な表現だけが自由だということではない。くだらない内容であっても、下劣なものでも、攻撃的なものでも、党派的なものでも何でも自由に表現していいい。くだらないことを考え、下劣な振る舞いをし、攻撃的になったり、党派のために動いたりするのが人間だから、人間が行う表現はそうしたものになる。

 ところで、表現するものが特にないという人にとって、表現の自由とは何だろうか。自分の考えを持たない人はいないだろうが、創作意欲のようなものを持たない人はいるだろうし、社会動向に無関心な人は社会に向けて表現する気はないだろう。自由に表現したいという動機も意欲もなく、表現する内容も持たない人にとって、表現の自由の“ありがたみ”は少ないかもしれない。

 ただし、表現するものが特にないけれど、表現したいという意欲が強い人は珍しくない。オリジナルの発想や独自の考察などにより築かれた表現は持ち合わせていないけれど、表現したいという意欲が強い人は、何を表現するか。それは、どこかから出来合いの発想や表現を拝借して、自分のものとして装う表現になる。それも表現の自由の一つではある。

 表現とは、創作者の個性的で独自の表現のことだとつい思いがちだが、世に溢れている表現の大半は、どこかで見聞きした、ありきたりの表現だろう。それらは、その社会の常識や通念など「一般」や「普遍」とされるものに基づいていることも多い。そのことが表現に「正当性」を与えていると見なされたりもする。

 既成の権力や既成の権威に疑いを持たない人々が多い社会や、支配的な価値観に沿って生きる人々が多い社会で、既成の価値観に反しても個性を強いて表現しようとの意欲を持った人は、社会との摩擦を避けることができないだろう。そうした表現は、個人の表現などより優先されるものがある社会で「正当性」に反するものとされ、批判され、排除の対象になったりもする。

 「正当性」は社会により異なり、「表現の自由」も社会により異なる。歴史を経て形成されたそれぞれの「正当性」を持つ様々の社会が共有できる「表現の自由」は何か、どの部分か。高々と「表現の自由」を振りかざす欧米社会の価値観が「普遍的」であるとは限らないが、表現意欲を持つ個人に対する抑圧が比較的少ないとはいえる。

2015年10月21日水曜日

真似できない髪型


 日露戦争の後に、女性の間で二百三高地髷という髪型が流行った。当時の写真を見ると、前髪が大きく張り出し、頭頂部に束ねた髪が高くそびえるスタイルだ。髪でつくった大きな鏡餅を頭に乗せているように見えるものもあり、正面から見ると、女性の顔よりも髪の量が圧倒的に多く見えたりする。

 前髪だけを少し高く結い上げ、頭頂部は盛り上げないパターンもあり、これは現在でも和服姿の女性で見かける。当時、洋装にも合うとして二百三高地髷は流行ったというが、大正・昭和を経て、和服に合う髪型として残ったものの、洋装に合う髪型としては残らなかった。洋装で着るものも当時とは大きく変化しているので、現代において大きな二百三高地の髪型にしたりすると、被り物をしていると見られたりして。

 男性の髪型で前髪を大きく盛り上げるのはリーゼントスタイルだ。こちらにも、庇のように髪が前方に張り出しているものから、オールバックに近いものまでバリエーションは多い。ロックンローラーの代名詞として現在でも残っているが、街中で見かけることはほとんどない。髪型を維持するためには手間がかかるので敬遠されたか。

 今年、前髪を盛り上げた髪型で目立っているのが北朝鮮の金正恩さんだ。最近も朝鮮労働党創建70周年を記念する軍事パレードを閲兵し、演説では「人民より大切な存在はない」「人民に感謝」などと「人民への愛」を強調したと報じられた。ニュース映像で見る金正恩さんの髪型は、前髪を盛り上げ、側頭部は刈り上げるというスタイル。

 もちろん、独裁者の金正恩さんが既成の髪型をまねたはずはない。そんなことをすれば、独裁者の威厳が傷つくだろうから、あの髪型は独自の主体思想によるヘアスタイルなのだろう。美醜は主観によるので判断は差し控えるが、一度見たら忘れられない強い印象を与える独自性がある。あの髪型が似合う人物はなかなかいないだろう。

 北朝鮮の独裁者の髪型だから今後、北朝鮮の若者が真似するかといえば、それは難しい。粛清が珍しくなく、人々に対する監視も厳しい国では、独裁者はただ仰ぎ見る存在でしかない。うっかり独裁者の真似をすると、独裁者の唯一性を損ねる行為とも受け取られかねない。パロディ行為と見なされたなら処罰が待っている。北朝鮮のような国では、独裁者の髪型をまねるのは恐れ多い行為だろう。

 独裁者は特別な存在であることが重要だ。独裁者が人々に恐れられなくなったら、終わりが近い。北朝鮮で金正恩さんの髪型をまねる若者が多くなれば、それはそれで面白い光景だが、独裁国家としてのタガが緩み始めた徴候だろう。あの髪型はオンリーワンである独裁者だからこそ、できるものだ。ただ、金正恩さんがウケ狙いであんな髪型にしたのに、髪型について誰も言わないとしたなら寂しいだろうな。独裁者は孤独でもある。

2015年10月14日水曜日

移民が変えるもの


 欧州への移民・難民の流入が止まらない。独メルケル首相が移民・難民の受け入れを表明してから、ドイツやEUを目指す流入圧力が一気に高まった。周辺国は悲鳴を上げ、ドイツも大量の移民・難民への対応に窮して受け入れを制限し始めたから、EU内外で、押し寄せる移民・難民とそれを制限しようとする各国当局がもめたりしている。

 ドイツやEUへの「入口」が開いたと一度アナウンスされたのだから、移民・難民が殺到するのは当然だ。これからも数の増減はあるだろうが、ドイツやEUへの定住を目指す移民・難民は存在し続ける。紛争や独裁、貧困、成長停滞は中東やアフリカなど欧州各国の旧植民地でこれからも続くだろうから、ドイツやEUに行けるチャンスを逃すはずがない。

 ドイツには今年、80万人とも100万人以上ともいわれる移民・難民が押し寄せるといわれている。全員が定住を認められるわけではなく、紛れ込んだ東欧諸国などからの経済移民は国に返される。シリア以外からの移民は大半が帰国させられるかもしれないが、それでも相当の人数をドイツは受け入れる。

 受け入れ側の経済的な負担はかなりのものだろう。移民・難民には仕事がなく、自活できないので、衣食住の世話が必要だし、言葉や生活習慣など、受け入れ国にとけ込むことができるように支援も必要だ。子供がいれば教育面の配慮も必要だし、国内には移民・難民の受け入れに強硬に反対する勢力もいるので、警備もしなければならない。

 受け入れ側も大きな負担を余儀なくされる移民・難民について人道主義や経済的観点から論じられることが多いが、移民・難民は受け入れ国に食文化などを持ち込み変化ももたらす。また、数十年後には、ドイツやEUで生まれた移民・難民の子供たちが大人になる。彼らはドイツやEUにとけ込んで暮らしながら、シリアなど親の出身国への関心も持ち続けるなら、世界市民的な感覚を持つかもしれない。

 ドイツやEUに定住した移民・難民は選挙権を持つだろうし、そうした人々の中から政治家が誕生するかもしれない。かつて欧州から米国に移民した人々の子孫から多くの政治家が出て米国の政治に影響を与えたと同様に、中東などから移住した子孫の政治家が欧州の政治に影響を与えるようになる可能性はある。

 先祖からずっと同じ国で生きてきた政治家と、生きる国を選んで移住した親などを持つ政治家とでは、世界観がおそらく異なるだろう。世界のどこに住むかは個人が決めることで、国家が関与すべきではないと考えるなら、移民・難民の受け入れを後者は当然視し、受け入れを制限する国に対しては批判的になるだろうし、移民・難民の受け入れに関する国際的な規範制定にも前向きになるだろう。

 ただ、数十年後にも移民・難民の出身国が現在と同様であるとは限らない。中東やアフリカの欧州各国の旧植民地が新たな民族自決により解体・分裂する可能性はあり、自分たちで新たな国づくりを始めたなら移民・難民は減り、他方で、様々な矛盾・歪みに耐えきれずに大国が分裂、新たな移民・難民の排出源になるかもしれない。受け入れたくなくても日本に移民・難民が押し寄せる可能性はある。

2015年10月10日土曜日

世界を評価する


 英教育専門誌が行う「世界の大学ランキング」で東大が昨年の23位から43位へと大きく順位を落とし、アジア首位をシンガポール国立大に譲り、昨年48位から42位に順位を上げた北京大にも抜かれたと報じられた。京大も昨年59位から88位へ大きく下げ、世界の上位200校に入った日本の大学は2校だけ(昨年は5校)と、日本の大学の“国際競争力”の低下を示すものと受け取られた。

 このランキングは、論文の引用頻度や教員スタッフ1人当たりの学生数、留学生の数、産業界からの収入など13の指標で評価しているという。こうしたランキングでは、低評価された側から不満が出るだろうし、評価の適正さについて厳しい目が向けられるだろうから、公平公正さを保つべく客観性には留意されているのだろう。恣意性や主観が含まれていることを感じさせてはランキングの信憑性が損なわれる。

 でも、例えば、論文の引用頻度は大学に在籍する研究者の独創性など質の高さを示す指標にはなるだろうが、論文の引用頻度が高いから、一般の学生の学習環境も良いとはいえない。留学生の数が多ければグローバル化が進んでいるようだが、必ずしも学習意欲の高い優秀な人間だけが留学するわけでもない。産学協同が進んでいるからといって、豊富な研究費で自由な研究が行われているわけでもない。

 個別の大学には特色があるから、多くの指標を積み重ねて評価するのだろうが、多くの指標を集めれば正しいランキングが誕生するわけではない。例えば、自動車にはセダン、ワゴン、SUV、スポーツカーに加え商用車もある。快適性や乗り心地、走破性、耐久性、積載量などの指標を積み重ねて総合して全自動車のランキングを作成しても、意味がないだろう。プリウスかポルシェかハイエースか、用途や好みによって選ぶだけだ。

 だが世界ランキングは、世界を理解する参考にはなる。こうした世界ランキングは欧米から発表されることが多い。都市や観光地、ブランド、民間企業、エアライン、空港、ホテルなど何にでも世界ランキングがある。各国の行政機関の腐敗度ランクなんてものもある。一方で日本発の世界ランキングといって、すぐに思いつくようなものはない。

 欧米から様々な世界ランキングが出るのに、日本から出てこないのは、世界を理解しようとする発想が欧米と日本では異なるからかもしれない。多様で複雑な世界を理解するために欧米は、情報を収集して分類して整理する。だから、世界ランキングを作成することが可能になる。日本でも同じように情報を収集していれば、欧米発の世界ランキングを検証することが可能になるのだが。

 世界から情報を収集して分類して整理することで欧米から見える世界と、日本から見える世界とは異なっているのかもしれない。データに基づくなら、より客観的に見えるだろうが、データに乏しければ主観の影響を受けやすい。

2015年10月7日水曜日

歌詞から見えるもの


 ♪「未来に向かって〜」とか、♪「明日に向かって〜」、♪「夢をかなえる〜」、♪「希望の花が〜」、♪「夢の未来〜」、♪「君が見る明日の〜」、♪「夢を重ねて〜」、♪「夢と現実を〜」、♪「果てしなく続く〜」、♪「永遠の希望〜」などといった言葉は歌謡曲(含Jポップ)に珍しくない。

 明日だの未来だのを持ち出すが、明日のことや未来のことを真剣に考えているわけではなく、前向きな気分を示す言葉として用いているだけで、実質的な意味はない。夢や希望という言葉もよく歌われるが、具体的な何かの夢や希望を示すことは少なく、前向きな気分を示すとともに、聞き手を励ます意図だったりする。

 一方では、♪「愛する心に〜」とか、♪「抜け殻を集める〜」、♪「迷い込んだ夜〜」、♪「さすらいの酒を〜」、♪「風になって遊ぶ〜」、♪「本当の姿〜」、♪「人生を変える〜」、♪「女の幸せ〜」、♪「時を駆ける〜」、♪「いつでも変えられる〜」、♪「誓い合った〜」、♪「諦めないで〜」などの言葉も歌われる。

 これらは具体的なことを語っているようだが、例えば「女の幸せ」といっても、その実態は人それぞれであるように、実は、個別の具体的なことではなく、一般的な感情などを歌詞にして歌っているだけだ。一般的な感情などであるから、聞き手はそれを自分の感情に落としこんで共感できるという仕掛けだ。

 歌謡曲(含Jポップ)の歌詞に対して、「内容がない言葉の羅列だ」とか「意味がおかしな文句がある」などの批判は以前からある。奇妙な歌詞を取り上げて笑いのネタにしていた漫才師がいたように、おかしな歌詞があることは周知のことだった。Jポップになってからは、英語の奇妙なフレーズが増え、グローバル化した?

 自作自演の歌い手が無内容の歌詞を歌っていたりすると、「この人には、もう歌いたいことがないのか」と感じたりする。とはいえ、あまり具体的すぎる歌詞で感情移入タップリで歌われると、聞き手は時にはうんざりするほどの“満腹感”を抱かせられるから、歌詞は具体的であればいいとは単純にいえない。

 ロックバンドならボーカルの歌う歌詞はほとんど聞き取れないから、歌詞は何でもいいという考え方もあろう。歌謡曲(含Jポップ)でも歌詞は、気分を伝えたり、気分を共有したり、聞き手を楽しくさせるものなら何でもいいのかもしれない。聞き手は歌謡曲(含Jポップ)の歌詞に、壮大な物語世界も、情念のほとばしりも、文学的な達成なども求めていないのだろうから。

2015年10月3日土曜日

新たな革命思想は


 世界では各国で格差が拡大しているという。富む者はますます富み、中間層は薄く、貧しい者は貧しいままで捨て置かれる。個人の努力や能力に差があるのだから、得られる富にも差が出て来るのは当然だとする考えも有力だが、日々の糧を満足に得ることができない人々がいることを個人の責任にだけ帰してしまうと、見捨てておくことを正当化することにもなる。

 社会は富者によってのみ構成されているわけではない。人間の権利は富者でも貧者でも平等なのだから、誰にもその社会で“人間らしく”生きる権利がある。個人の努力や能力によって収入に差があったとしても、貧者だからと社会から見捨てられていいはずはない。だが現実には、見捨てられる。社会保障などの“コスト”は、ある人々にとっては過大で過剰に見え、「削減すべき」と攻撃の対象にされたりする。

 見捨てられることを甘受する貧者は、忘れられるだけ。貧者がその社会で“人間らしく”扱われることを欲するのならば、立ち上がって主張するしかない。そうした問題提起を社会が受け止めるなら、その社会で容認される格差はどこまでか、正当化されない格差はどこからか等の合意形成が次の課題になる。ただし、その“線引き”は富者と貧者の力関係で常に変わる。

 資産課税の強化などで財産が“削られる”ことを甘受する富者はいないだろうが、格差が拡大するにつれて貧者が増える。民意が正確に政治に反映するなら、格差の是正へと動かざるを得ないのだろうが、往々にして政治では富者の意向が尊重される。格差の拡大を容認してきた政治に、格差の是正を期待することは望み薄かもしれない。

 大雑把にいえば共産主義では富者を資本家、貧者を労働者として、貧者が富者に搾取されているとして、貧者(労働者)の暴力による経済体制の変革を正当化した。だが、そうして実現した20世紀の共産主義国家が「失敗」に終わり、共産主義の思想は影響力を失ったので、現在の拡大する格差を是正する思想にはなり得ない。

 現在の格差の拡大に対して、暴力はともかく、社会的な強制力を持って是正しようとする時に、それに正当性を与える思想はあるのか。“人間らしく”暮らしたいという生存権の主張は有力で、情緒に訴える力も強いだろうが、富者の「強欲」を突き崩すほどの力はないだろう。貧者に経済要因以外の共通する属性は乏しいだろうから、貧者を労働者階級と一括りにすることもできまい。

 ますます富む富者を見て、怒りをおぼえる貧者もいるだろう。その怒りを広く社会で共有し、強制力で格差を是正することを正当化する思想が現れれば、世界に大きな影響を与えそうだ。それは、21世紀の新たな革命思想になるのだろうが、まだ世界のどこにも現れてはいないようだ。

2015年9月30日水曜日

剥がれた化けの皮


 独フォルクスワーゲン(VW)自慢の「クリーン」ディーゼルの化けの皮が剥がされて大騒ぎになっている。実際の走行時にはNOXなどを環境基準の40倍も排出しており、「クリーン」どころか、大気を汚染しながら走る車であることが明らかになった。当初は、技術部門の担当者の“暴走”ともされていたが、続報が増えるにつれて、会社ぐるみの行為であり、監督すべきEUが黙認していた可能性も浮上している。

 明らかになったことを列記すると次のようになる(9月30日現在)。

▽▽VW本社が、2005年から06年頃に不正ソフトウェアをディーゼル車に搭載することを決めたと独通信社が報じた。米国の厳しい排ガス基準を満たすディーゼル車の開発を目指したが、厳しい排ガス規制に対して採算がとれる対策の必要性に迫られ、コストのかさむ排ガス浄化装置でなく、不正ソフトの使用を決めた。
▽▽VWで2011年頃に社内のエンジン部門の技術者らが、一部のディーゼル車について、排ガス基準を満たしておらず、違法の可能性があると指摘していたが上司が取り合わなかったと独紙が報じた。VWは社内で不正が見つかったのに放置し、世界各地で販売を続けていた可能性がある。
▽▽07年には、ソフトを試験目的で納入したボッシュが、規制逃れに使えば違法になると警告していたという。
▽▽欧州連合(EU)が2013年時点で、ディーゼルエンジン車に搭載された違法ソフトウエアの存在を把握していたと英紙が報じた。
 EU欧州委員会の研究機関は13年にまとめた報告書で、一部ディーゼル車について調査の結果、路上走行時の窒素酸化物(NOX)の排出量がEUの基準値を大きく上回ったことを指摘。報告書は、車両に搭載された装置には試験を感知して排ガス量を減らす機能があると指摘。ディーゼル車については屋内試験に加え、路上走行による試験も導入すべきだとしていた。
 EUは07年以降、不正なソフトウエアの使用を禁じ、走行試験の導入も図ったが実現していない。EUが独自調査などに取り組まず、「問題を追及しなかった」と英紙は指摘。

 どうやらVWは10年も前から不正ソフトで排出ガス基準をクリアして、環境に優しい「クリーン」な車として売っていたようだ。担当の少数の技術者が“暴走”したのではなく、本社が容認していた。「クリーン」で燃費が良く、きびきび走る車を自社で開発できたなら不正をしなかっただろうから、「クリーン」でしかも燃費が良い車を開発できなかった焦りが、排ガス基準の不正クリアにつながったのだろう。

 新たに出てきた問題は、EUがなぜ、「クリーン」ディーゼル車の実際の走行時におけるインチキさを放置していたのかだ。EUはCO2排出削減で厳しい基準を自動車メーカーに強制するので、ハイブリッド車の開発などが遅れた欧州メーカーは、ガソリン車よりCO2排出量が少ないディーゼル車の開発を優先した。が、ディーゼル車は排気ガス中のNOXとPMが難問で、本当に「クリーン」にしようとするとコストがかかる。

 それでEUは、CO2排出削減を優先すべきだとして、「クリーン」ディーゼル車の実際の排出ガスが「クリーン」ではないという問題には目を瞑ることにしたのか。さらに「クリーン」ディーゼル車で欧州メーカーの技術的優位を築き、さらには販売面での支援にもなる……だが、こうした戦略は、砂上の楼閣であったことが明らかになりつつある。

2015年9月26日土曜日

なぜ解散・総選挙を要求しないのか


 委員長席に詰め寄り、実力で委員会の進行をストップさせようとする野党と、スクラムを組んで委員長をガードして採決を強行しようとする与党……同じ光景は、実は過去に何度も繰り返されてきた。世代は変わり、議員も入れ替わっているはずなのに、同じ光景が繰り返されるのは、これが、与野党対立法案の決着のつけ方の1つだと定着しているからだろう。

 殴り合いなどが起きないのは、まだ与野党ともに自制が働いているからだとも見ることもできようが、乱闘もどきは馴れ合いの一種で「お約束」のパフォーマンスだから、それなりの作法が決まっているのかもしれない。みっともない光景には違いないが、これが日本の議会制民主主義の蓄積した成果の1つだとするなら、議員だけを笑ってすますわけにもいかない。

 本会議になると、さすがに乱闘もどきのパフォーマンスは行われないが、与野党対立法案の採決を妨害するため、与党側の議会関係者らの責任を問う決議案などが次々に提出されたり、長時間の演説をするフィリバスターなどが行われ(演じられ?)、採決になると牛歩戦術なども行われたりもする。

 これらは過去に何度も日本の国会で繰り返されてきた光景で、特に野党は、最後の抵抗手段として“技”を伝承してきた。しかし、そうした抵抗手段によって与野党対立法案の成立を阻止できたことはない。結果として、それらの野党の抵抗手段は空振りだった。いや、マスコミが大きく取り上げ、野党の奮戦ぶりを伝えてくれるので、野党の存在をアピールするためには効果があった。

 日本では政権交代は滅多に起こらず、自民党が中心となる政権が長く続いてきた。そうした状況では野党が、選挙に勝利して政権を担うことを目指すよりも、議会内での抵抗に存在意義を見いだし、議会内での抵抗に一生懸命になることも不思議ではない。だが、それは数人から十数人程度しか当選させられない弱小野党の役割だ。

 野党第1党ならば、選挙で勝利して政権を担うことを常に目指さなければならない。かつての社会党のように、野党第1党でありながら十分な数の候補者を立てず、過半数をとる気があるのかと疑念を持たれたなら、イデオロギーにとらわれた観念論で政権攻撃を激しく繰り返しても、実際に政権を担当する気がないンだなと主権者に見透かされる。

 選挙で勝利して政権交代を実現した経験が野党第1党の民主党にはある。法案反対が過半の民意だとするなら、民主党は「民意を問え」と主張し、解散・総選挙を要求すべきだ。そして選挙に勝って、政権交代を実現し、政権を担って問題法案の修正に取り組む……でも、選挙に勝つ自信がなければ、そんな主張はできないか。

 民主党政権の迷走ぶりはまだ記憶に新しい。いざ総選挙になっても、民主党は20〜30議席増やすのがせいぜいだろうし、自民党の第1党も維持されるとすれば、総選挙の結果として問題法案に対する主権者の支持が示されることにもなりかねない。だが、それでも「民意を問え」と主張するのが野党第1党の責務だ。国会内でのパフォーマンスよりも、常に政権交代を目指す行動を優先することが、野党第1党を鍛える。

2015年9月23日水曜日

ディーゼル賛美に不都合な現実


 ガソリン車よりCO2排出量が少なく、燃費が良いというディーゼル車だが、騒音が大きく、排気ガス対策に難ありと日本では市場は商用車などが主体だった。最近、排気ガス対策が進んだことで、ディーゼルエンジン搭載の乗用車が各社から発売されるようになってきた。欧州ではディーゼルエンジン搭載の乗用車は普及しているので、欧州メーカーも日本市場に投入するディーゼル乗用車を増やしている。

 自動車ジャーナリストらは早速、ディーゼル乗用車の礼賛に励んでいる。もともと欧州車崇拝の傾向がある日本の自動車ジャーナリストだから、欧州でディーゼル乗用車が普及しているとあっては、日本も見習うべきと手放しでディーゼル乗用車を薦める。欧州に対する批判は弱く、欧州は基準にすべきものと思い込んでいるようなので、ディーゼル乗用車に対する冷静な検証は希薄だ。

 そうしたディーゼル乗用車賛美の流れに不都合な疑惑が浮上した。米国でフォルクスワーゲンが排出ガス基準をズルしてクリアしていたという。その方法は、違法なソフトウエアを活用し、排出ガステストの時は排出ガス浄化機能をフル稼働させて排出ガスを「クリーン」にするが、通常の走行時は排出ガス浄化機能を低下させるというもの。これで、排気ガスが「クリーン」で、通常走行ではきびきび走るという自動車ジャーナリスト絶賛の車が出来上がる。

 ただし、通常の走行時には排出ガス中の有害物質のNOX(窒素酸化物)は、排出ガス基準の40倍に達するケースがあるというから、極めて悪質な行為であり、健康への害などを考慮すると犯罪行為と見なすべきだろう。フォルクスワーゲンは「信頼を裏切り、深くおわびする」と謝罪し、事実を認めた。

 この疑惑は、「クリーン」ディーゼルなるものへの信頼性と信憑性を揺るがす。フォルクスワーゲンが使った違法ソフトの同類を各社も使用しているのではないか。排気ガスが「クリーン」なディーゼル乗用車は、走行性能が損なわれていないことが評価されているが、通常走行でも排出ガスを浄化しているのか。こうした疑惑を晴らすためには、全てのディーゼル乗用車の通常走行時の排出ガスを再検査しなければならない(つまり、実行はされない)。

 ディーゼルエンジンの不都合な情報といえば、発がん性との関連もある。2012年にWHOが、ディーゼル排ガスには「発がん性が十分認められ、肺がんの危険性を高める」との調査結果を発表している。発がん性の評価でディーゼル排ガスは、最も危険性が高い段階に位置づけられたと報じられたが、自動車ジャーナリストが書くディーゼル関連の記事では、そうした情報は見かけない。

 さらに、ディーゼルエンジンとの因果関係は不明ながら、ディーゼル乗用車の普及率が高いフランスなどで大気汚染が深刻化している。PM2.5といえば中国の大気汚染をまず連想するが、パリなどでもPM2.5が環境基準を大きく超え、問題になった。粒子状物質(PM)が健康に有害であることは知られている。

 欧州でディーゼル乗用車が普及したのは、ガソリン車よりも規制が緩かったからだという説もあり、欧州の現状を日本が見習うべきとする根拠はない(欧州にコンプレックスを持つ人や欧州崇拝者は別だが)。フォルクスワーゲンのようなズルをして各社が規制をクリアしているわけではないだろうが、ディーゼル乗用車にも課題は多く、流行のディーゼル礼賛に踊らされないよう注意が必要だな。

2015年9月19日土曜日

会議は開かれたのか


 中国の首都・北京から東に300キロ弱の、海岸に面した避暑地が北戴河だ。ここで夏に共産党の高官、長老らが集まって、主要政策と主要人事の骨格を決める秘密会議が開かれる。北戴河会議と呼ばれ、長老が影響力を維持するためには重要な舞台だが、開催されなかった年もあり、必ず開かれるものでもないらしい。

 今年の北戴河会議についてメディアやチャイナウオッチャーらの多くは、開催されたと見て、誰が出席し誰が欠席したか、何が主要な議題となったか、次の人事はどう決まったか、どういう対立があったのか……などについて推測する記事や論評を公表した。公式の発表はないのだから、それぞれのニュースソースの広さ、深さ、信頼性比べともなる。

 現在の習近平主席を中心とする指導部は、政府や党、軍の高官をも対象に遠慮なく腐敗摘発を進める。それが長老らの人脈や既得権益を脅かし、水面下での対立が激しくなっているとも伝えられ、今年の北戴河会議では対立が先鋭化し、表面化するのではないかとする向きもあった。

 非公式の秘密会議だから、開催されたかどうかは発表されず、何が話し合われ、何が決まったか、全てが闇の中だ。国家機構の上に共産党が位置し、法治が軽んじられる人治の中国。その最高方針を実質的に決めるという会議で、何が話し合われ、何が決まったかが明らかにされない……独裁政治なのだから、世論を納得させて支持を得ることは不要だろうが、北戴河会議の存在そのものが「閉ざされた中国」の象徴となる。

 だから、今年の北戴河会議は開催されなかったとの説が出て来る。いつまでも影響力を振るい続ける長老の江沢民元主席らの「干渉」を嫌って習近平主席は今年の北戴河会議を開催せず、北京から南南東に100キロほどの天津で現役の常務委員だけを集めて会議を開いたという。その会議の期間中に大爆発事故が起きた。

 会議と爆発事故が偶然に重なったのか、それとも、習近平主席らを狙った爆発なのかは定かではない。が、異常な規模の爆発が天津で起こり、その詳細が明らかにされず情報は統制され、跡地は公園にする事が決まるなど素早い幕引きが進んでいることは事実だ。情報が制限されていることが様々な憶測を招来する。

 北戴河会議は開かれたのか。天津の大爆発の時に習近平主席はどこにいたのか。改革開放以降の中国は、以前に比べて情報量は大きく増えたが、重要な情報は隠されるという体質は変わらない。それが、国際社会における中国の不安定さを強調する。

2015年9月16日水曜日

供給過剰のツケ


 農作物や漁獲物なら、あらかじめ収穫量を決めることができないので、豊作や豊漁で供給過剰になれば市場で価格は暴落し、逆に不作や不漁で供給不足になれば価格は上がる。供給量の変動により市場で価格が上下することで、供給に応じて需要が調整される仕組みだ。価格の変動を抑えて安定させようとするなら、収穫量や漁獲量の調整が必要になるが、生産者の同意形成が難しかったりもする。

 工場で生産されるものなら、損を出してまでも生産する企業はないはずだから、需要に応じた供給がなされる……はずだが、実際には供給過剰が繰り返される。売れる商品を各社が群がって製造し、販売するので、やがて需要を上回る商品が市場に溢れ、供給過剰に陥り、価格競争を繰り広げることになる。

 価格競争を続けることができなくなった企業は市場から退出、退出した企業の分だけ生産力が削減されることを繰り返し、需要に見合った供給へと調整されるというのが市場経済の調整メカニズム……のはずだが、現実にはそう簡単には進まない。次の売れ筋商品が簡単に見つかるはずもなく、工場や従業員を抱えてを遊ばせておくわけにもいかず、生産を続けたりする。

 供給過剰が続くことで不景気となり、企業が淘汰されることで景気が持ち直し、やがてまた供給過剰となって不景気になるという景気循環を繰り返すのが市場主義経済の欠点だとして、需要に対応した生産を主張する計画経済という考え方がある。そのためには、個別の企業の生産をも国家が管理することが必要になる。

 必要なものを必要な分だけ生産するというのは、賢い方法にも思うが、個別企業レベルならともかく、国家単位で計画経済が成功した例はない。必要な分だけの生産ということは、生産したものは、売れることが決まっているということでもある。品質を良くして、他社のものより売れるようにしようなどという努力をする必要がない。

 高成長が続いて過大な生産力を構築したため、供給力過剰に直面しているのが今の中国だ。インフラ投資で成長を牽引してきたが、過剰なインフラ投資のツケで債務が拡大した。鉄鋼や石炭、セメント業界の巨大な生産力は需要水準を3割上回っているとされ、昨14年に2300万台以上が売れた自動車業界の生産能力は合計すると5000万台にも達するとされる。

 甚だしい供給過剰の状態にある中国で、企業の多くは中央や地方の政府と何らかのつながりがあるので、淘汰は進まない。供給過剰という市場主義経済の弱点と、需要軽視という計画経済の弱点が同時に現れた今の中国。一路一帯構想などで中国周辺の需要を取り込み、中国の過大な供給力のはけ口にしようと目論むが、中国より資金力が乏しい国でインフラ整備を行ったとしても、収益は限られていよう。

 過剰な供給力に見合った需要がないなら、供給力を削減するしかない。過剰な生産力は、過剰な在庫につながる。余分な生産設備を破壊し、生産力を減少させることで、実際の需要とバランスをとるしかない。そうした決断を下すのは、市場主義経済では個別企業の経営者だが、中国では曖昧だ。中国の企業は市場主義的に行動するが、計画経済的に政府の指示を待つ。計画経済と市場主義経済をミックスしたことによる中国経済の弱点が続々現れてきた。

2015年9月12日土曜日

次に、やるべきこと


 例えば、「戦争につながる」「民主主義を害する」「国民の権利が制限される」などとして広く社会にデモなどの反対運動が巻き起こる法案がある。先に反対運動があって、そうした反対運動に押されて野党が議会で反対するようになることはなく、議会での野党の反対を援護するように反対運動が盛んになったりする。

 だが、議会で多数を占める与党に押し切られて法案が成立すると、「暴挙を許さないぞ」などと野党もデモなどの反対運動も“抵抗”を続けていく姿勢をアピールするが、やがて、そんな声は聞こえなくなる。そして次の国会になると、次の与野党対立法案が控えていて、野党は新たな反対運動を煽り始める。そんなことを日本の政治は繰り返してきた。

 常に政権批判を続けるのは、議会における野党の重大な役割だ。権力の暴走を監視し、特定層の限られた利益を優先する政策の実施にはストップをかけ、与党が見向きもしない人々のことも考えるのは野党の役割だ。だが、野党の役割と、政党の役割とがいつも一致するわけではない。野党として妥当な行動が、政党としても妥当な行動であるとは限らない。

 大きな問題があると野党が見なす法案が成立したなら、野党は次の与野党対立法案に重点を移して、政権批判を続ける。だが、「戦争につながる」「民主主義を害する」「国民の権利が制限される」などと激しく批判した法案が成立した後、その批判にウソがないなら、政党としては、それらの問題法案の廃止や改正を目指すのが当然だろう。だが、成立した後に野党は、激しい批判の言葉がなかったかのように、問題法案を“放置”する。

 そうした行動が明らかにするのは、(万年)野党が政党としてイビツであるということだ。選挙で多数を獲得して政権を担い、より良い方向へ社会を具体的に変えていこうとするのが政党の本来の姿だろう。だから、問題がある法案が成立したならば、そこで諦めるのではなく、問題がある法案の廃止や改正に向けて動くのが政党としての正しい在り方だ。そのためには、次の選挙で勝って政権を担うための具体的な行動が必要になる。

 声高に政権批判を続けることは、野党の役割ではあっても、具体的な政策の実現で社会を変えようとする政党の優先すべき役割ではない。おそらく(万年)野党は、(万年)野党であることの無力感をごまかし、メディアに取り上げられて存在意義を示すために、大げさに危機感を煽る文句で政権批判する。しかし、それは野党が政党として奇形であることをも示す。

 議会制民主主義が機能するためには、自由選挙だけでは不充分だということを(万年)野党の存在が教えてくれる。政党として(政治家としても)、政権批判を続けた以外に具体的な成果を残すことができない存在に忸怩たる思いは当然持っているのだろうが、それは、言動からは伝わってこない。

2015年9月9日水曜日

日米安保なしの防衛コスト


 あるブログに「日米安保なしで防衛しようとすれば、今の防衛予算は4倍以上の20兆円以上になるという試算もある」とあった。その試算が正しいなら、日米安保は安上がりだとつい思いたくなるが、どうにでも積み上げて膨らますことができるのが軍事費。その試算が、どれほど客観性があるものなのかと確認しようと検索、探したが、見つからなかった。

 代わりに見つかったのが、同様の趣旨だが、「防衛費の増額分は最大で単年度あたり約1兆5500億円で、現行の約4兆6800億円(平成22年度予算)の1.3倍程度になることが、元航空幕僚長の田母神俊雄氏と自衛隊OBらがまとめた試算で分かった」というものと、「今と同等の防衛力を維持するには10年間は今の5倍の隊員と年間約30兆円の予算が必要となる」との軍事アナリストの小川和久さんによる見積もり。

 軍事に関することこそ、抽象論や感情論を排し、仮定の極端な状況設定に振り回されずに、客観性を保ちながら、理性的に具体的に検討しなければならない。それは、日本人が先の戦争から学んだことだ。軍事に関する情報は公開が制限されがちなこともあり、また、主観がまぎれやすく過度の不安が煽られたりするので、常に冷静な検証が不可欠となる。

 日米安保なしで防衛力を維持するために必要な金額は、どの程度の能力を備えるかによって大きく異なる。例えば、現在の在日米軍はアジア全体、さらには中東などもカバーする展開能力を備えているが、日本だけの防衛を考えると、そんな能力は必要ない。強力な海兵隊は必要なく、大量の兵員・武器を輸送する能力も必要ない。つまり、日米安保をやめた時の日本独自の防衛力とは、今の在日米軍の能力より低下するが、それは当然のこと。

 現在の在日米軍と同じ能力を維持しようとすれば莫大な金額が必要となろうが、日本が軍事力でアジア・太平洋に睨みを効かし、さらには中東まで出掛けていく……なんてことを考えず、日本への侵略に対応することだけを考えるなら、20兆円とか30兆円という防衛費が必要になるはずがない。

 先の自衛隊OBらの試算では、核武装して「日本近海に配備する原子力空母、原子力潜水艦、戦略爆撃機、トマホーク巡航ミサイルを20年かけて新たに開発・配備する」そうだが、日本近海で活動するだけなら原子力空母や原潜、戦略爆撃機は必要ない。ミサイルが高度化している現在、空母を持つより、各種の迎撃ミサイルを搭載した中小型艦艇を多く配備した方が、専守防衛には効果的だろう。

 日本の防衛で初めに考えるべきことは、1)日本への侵略能力を有する国はどこか、2)その侵略能力はどれほどか、3)侵略する意図を有している国はどこかだ。どこかの国から核ミサイルを撃ち込まれたなら、それは日本の防衛力を超える(報復能力のために核武装する選択肢もあるが、核ミサイルの撃ち合いはセカイの終わりだろう)。

 日米安保をやめて米軍が日本から去ると、在日米軍が有していた抑止力はなくなる。当座は日本の防衛力は低下するが、すぐに日本を侵略しようとする国があるだろうか。「弱体化」した日本を通常兵器で攻撃することを試みる国が出てくる不安はあるが、政治的に見ると、米国“支配”を脱した日本と手を結ぶほうが、日本を攻撃するよりもメリットが大きいだろう。でも、そうなると日本の“奪い合い”でアジアは不安定化するかも。

2015年9月5日土曜日

似たもの探し


 自分と瓜二つの人物が世界に3人いるという説を聞いたことがある。といっても、大々的な調査によって実証された説ではなく、「そっくりな人間が、世界を探せば3人くらいは、いるんじゃないの?」といった気楽な想像によるものらしい。でも、自分そっくりな人が世界に3人いると言われれば、そんな気になり、その3人がどんな人生を送っているのだろうか興味がわいたりする。

 70億を超えたという世界の人口を考えると、そっくりな人間が数人、世界のあちこちに存在したとしても不思議はない。でも、瓜二つだから、歩んでいる人生も瓜二つ……のはずはない。見た目はそっくりでも、社会環境や生活環境などは異なり、考え方や発想は違うだろう。自分と同じ姿形の人間が全く別の人生を送っているのを見るのは、自分が選択しなかった別の人生を見せられているような印象になるかも。

 人間ならば、そっくりの他人が存在しても、それをマネだと批判することはできない。どちらも「オリジナル」だからだ。だが、デザインとなると、似ている(と見なされる)ものは批判される。独自に発想したものでも、似ていれば、パクったと言われる。似ているものを探すのも簡単になった。高価で大部なデザイン集を買わなくたって、今ではネットで検索すれば、世界中から探し出すことができる。

 デザインで「オリジナル」となるためには、登録されることが必要だ。本当に独自の発想で造形したものでも、世界のどこかに既に登録された「オリジナル」が存在すれば、それはパクリとされる。ソックリさんは世界に人間なら3人程度かもしれないが、デザインとなれば世界に数多あるだろう。でも、「オリジナル」は一つに限られるらしい。

 しかし、「オリジナル」となるには、制度が存在する国で手続きをしなければならない。費用もかかるだろう。現在のイラクやシリア、リビアにいる天才デザイナーが独自に何かのデザインを生み出したとしても、国家に支えられた制度によって登録されなければ「オリジナル」とはされない。破綻状態の国では、デザイン登録の制度は機能していないだろう。その天才デザイナーは、他国の誰かの「オリジナル」をパクったと批判されるかもしれない。

 登録という制度の存在を容認するから、「オリジナル」が誰かに占有される。例えば、アフリカやアジアなどの伝統的な布地デザインをパクって西洋の誰かが先に登録すれば、「オリジナル」となり、自分の発想だと主張する立派なデザイナー先生の作品になる。似ていると指摘されても、そうしたパクリは制度に守られる。

 一方で、既存のデザインをパクる行為は世界で横行している。一般に後発国において先進国の製品を模倣し、先進国のデザイナーでも既存のアイデアを拝借する行為は珍しくないだろう。だから制度が必要だということにもなろうが、人間の発想は似たり寄ったりだから、「オリジナル」を過度に尊重すると、素早く広く登録に動いた連中だけが利益を得続ける。そうした登録制度が欧米主導の文化帝国主義を支えている……なんてまでは言わないが。

2015年9月2日水曜日

レジスタンスなき平和主義


 戦国時代の山間の農村を舞台とした黒澤明監督の名作「七人の侍」。刈り入れが終わった後に農村はいつも野武士の集団に襲われるので農民は、浪人を雇って村を守ってもらおうとする。で、7人の浪人を雇ったが、野武士との戦いが始まると農民の男たちも竹槍を持って戦う。農民は村から出ないが、村に入った野武士を農民は許さず追いつめる。

 もし農民が、戦うために雇ったのだからと7人の浪人だけで戦わせたとしたなら、多勢に無勢、40人ほどという野武士の集団に負けて村を燃やされていただろう。浪人の指示により頑丈な柵などで村の守りを固め、方面ごとに農民が分かれて竹槍を持って浪人とともに戦ったからこそ村を守ることができた。

 そうした小さな単位の自衛と国単位の防衛問題とを同一レベルで考えることには無理があるだろうし、兵器がハイテク化し、殺傷能力が高度化しているので、民間人が「加勢」しても実際の効果は限られるだろう。だが、いざという時に民間人であっても戦う気持ちがあるかどうかは、防衛問題や平和問題を考える時に影響する。

 民間人も戦えと言っているのではない。防衛問題や平和問題を、戦闘に自分は巻き込まれることがないとして抽象的に考えるのと、自分が巻き込まれる具体的な問題だと考えるのでは、見えてくるものが違うだろうということだ。例えて言えば、いざというと時に、レジスタンスに立ち上がる人と立ち上がらない人とでは、平和論は違ってくるだろう。

 銃を持って戦うだけがレジスタンスではない。戦闘員などを支援し、様々な協力をすることもレジスタンスだし、非戦を貫いて戦争には一切関わらないと侵略者に協力しないのもレジスタンスだ。抵抗の形態は多様だが、抵抗するという意思がなければ、自分が何をするべきか見えないだろう。抵抗する意思があってこそ、自分にできることが見えてくる。

 ただし、抵抗するということは個人が決めることであり、政府などから指示・命令されることではない。政府などの判断が妥当だと考えるなら協力すればいいし、政府などの判断が誤っていると考えるなら、自分の判断で行動し、抵抗すればいい。

 平和がいいに決まっている。穏やかな日常の中、小さな揉め事などで思い悩みながら生活するのが、爆弾が落ちてきたり、ミサイルが撃ち込まれたりする中で暮らすより、はるかにいい。どこかの戦争に巻き込まれることは誰も望まないだろう。そうした生活感覚は大切だが、そうした生活感覚だけで防衛問題や平和問題を扱うと、絶対平和主義に固執し、見たくないものから目をそらす弊害も生じかねない。

 いざという時にもレジスタンスに立ち上がらない人の平和主義と、その時には立ち上がる気概がある人の平和主義とは、表面的には似ていても根本は異なる。自分も当事者の1人として問題を考えるか、あくまで傍観者(被害者)として考えるか……その違いは大きい。これは、防衛問題や平和問題だけに当てはまることではなく、他の様々な問題にも当てはまろう。

2015年8月30日日曜日

難民というより移住か


 アフリカ大陸の北岸にあるリビアから、EU入りを狙う移民や難民を“満載”した密航船がイタリアに殺到している。出航地のリビアにEUが乗り込んで、海岸線を直接管理できれば、密航船の出航を阻止することもできようが、リビアはEU外の国であるため、EU側の対策は洋上が主体にならざるを得ない。

 対策といっても、密航船の数は多く、劣悪な密航船に詰め込まれた人々は洋上では生命の危険もあるため、EU側が救助を余儀なくされたりする。最近も約400人が乗っていた密航船が沈没し、100人以上の遺体を収容したという。沈没した密航船の船倉に取り残された人も多いとされ、どれほどの人が亡くなったのかは分からない。

 国連の推定では8月末で、欧州に到着した今年の移民・難民は30万人を超え、海上での事故などで死亡した人は2500人という。8月で2500人だから、平均すると月300人以上が地中海で亡くなっている。もちろん、この人数は欧州側が把握した人数だろうから、亡くなった人の実数はもっと多いだろう。詰め込まれた密航船から転落したりして、行方不明になったままの人がどれだけいるのか。

 EU側が多少の対策を講じたところで、欧州を目指す移民・難民の数は減らない。内戦などによる治安崩壊で様々な暴力に直面して暮らすなら、危険を覚悟で地中海を渡り、警戒網をかいくぐって欧州に「移住」したほうがいいだろうと、地中海のリビア寄りにあるイタリア領の島を目指したり、実質的な財政破綻状態で海岸線の警戒に予算が回らないギリシャを目指す。今年はすでに、ギリシャに20万人、イタリアに11万人が到着したという。

 もちろんイタリアやギリシャはEUへの入口で、そこから難民・移民は北上してドイツやイギリス、北欧諸国を目指す。各国も警戒態勢を強化しているので、EU内の移動は密やかに行わなければならず、危険を伴うこともある。最近、オーストリアの高速道路で、停車していた保冷車から移民とみられる71人の遺体が見つかった。窒息死した模様だ。

 人数が増えすぎると、そう秘かにもしていられなくなる。英仏海峡トンネルのフランス側の入り口付近には英国入りを目指す移民が多数集まり、英国に向かうトラックに飛び乗ろうとしたり、英国へ渡ろうとトンネルへの侵入を図ったりしている。一晩に2000人がトンネルに入ろうとして阻止されたケースも報告されている。

 現世人類の祖先は数万年前にアフリカから出て世界に散らばった。やがて国境ができ、ある国境の内側では安全で豊かな生活ができ、ある国境の内側では貧困、暴力、腐敗などが蔓延する社会ができた。欧州諸国は国境を自分たちで決めたが、中東やアフリカでは国境は欧州諸国が決めたものだ。そんな旧植民地で暮らす人々が、国境を無視するように移動し始めたのは、はるかな歴史の蘇りでもあるかのような気にもさせる。

2015年8月26日水曜日

加害者の側にもいた


 福島第一原発の事故以来、反原発を声高に主張する人が増えた。1、3、4号機原子炉建屋で水素爆発が起きて放射性物質がまき散らされ、4年経っても広い範囲で人々の居住が制限されており、1〜3号機はメルトダウンに至って人が近づけず、原子炉解体のメドが立たない状況なのだから、原発が現実的な危険物であると見なされるのは当然だろう。

 事故が万一起きた時の影響の大きさに加え、使用済み核燃料の処理など難問を無視できなくなり、原発に拒否感を持つ人が増えたのも当然だろう。だから、即時の原発全面廃止の主張が高まったのは至極まっとうなものであるとも見えるが、引っかかるものがある。

 そうした主張を行う人は急増したが、その多くは福島原発事故の以前は反原発活動に積極的に参加もせず、黙って原発の“恩恵”を享受していたのに、事故後は、原発による被害者として自己を正当化し、反原発を言い立てているように見えることだ。40基を超す原発が建設され、稼働していたのは電気事業者や政府などだけの責任ではなく、皆が許容していたからでもある。

 乱暴にいうと、事故前は黙っていた人も福島事故の「共犯者」なのだ。もちろん、責任には濃淡があり、非常用電源など安全面の備えに抜かりがあった東電の責任は非常に大きく、重大事故が起きるものとしての安全対策を徹底させなかった政府の責任も大きいが、東電や政府を責めることで、原発を容認してきたという責任を消すことはできない。

 そうした責任を痛感するから、即時の原発全面廃止を主張するという人もいるだろう。黙って原発を容認してきたからこそ、福島原発の事故を防ぐことができなかったとの意識があるから、責任を持って自分らの時代に原発を廃止して、次代に原発(と事故)を持ち越したくないと考える人もいよう。

 「共犯者」としての責任をごまかしていないのだから正しい認識だろうが、反原発を声高に主張することが免罪符になる可能性もある。厳しく東電などの責任を問い、原発を稼働させないことが、原発を容認してきたことの罪滅ぼしとなるのか。原発の再稼働を阻止できたとしても、福島原発の広い周辺で居住を制限されている人の助けにはならない。

 「共犯者」であるということは加害者の側にいるということだ。謝れと言っているのではないし、補償をしろと言っているのでもない。被害者ぶるのではなく、加害者の側にもいたという意識を明確に持って考えることにより、見えてくる光景が異なってくるだろうし、当事者意識も出てくるかもしれない。

2015年8月22日土曜日

新聞社と謝罪


 70年以前の行為について、人はどこまで責任を負わなければならないのだろうか。例えば、70年以前に殺人の罪を犯した人が、裁判にかけられて有罪判決を下され、刑期を終えるとともに、個人の資産から損害賠償も行っていたならば、社会的には責任を取ったと見なされよう。もちろん、道義的な責任は生涯、消えることはないが。

 70年以前に殺人を犯した人が亡くなるとともに、その殺人に関する罪は消える。被害者の遺族が、殺人を犯した人の子や孫に対して、70年以前の殺人の責任を問うことはできない。現場におらず、殺人を止めることが不可能だった人達には責任はない。道義的な責任もない。

 しかし、人ではなく会社であるならば、70年以前のことであれ、社会に大きな不利益を与えた邪悪な行為の責任はついて回る。責任を認めて社会に謝罪し、邪悪な行為の当事者や、それを容認した経営陣を会社から追い出したとしても、同じ社名で営業している限り、負のイメージはついて回る。70年以前を知っている人達や道義的責任を問う人たちが少なくなれば、次第に忘れられていくかもしれない。が、それで道義的責任が消えたわけではない。

 70年以前に日本は国策を誤り、日本人のみならず近隣諸国の人々にも多大の損害を与えた。日本人は300万人以上が死に、アジア・太平洋諸国では2000万人以上が死んだとされる。そうした戦争に突き進んだ国家体制を支える一翼を担ったのが日本の新聞社だ。華々しく戦果を書き立て、人々の戦意を煽り、国策への協力を読者に促した。

 今の日本の新聞社は、民主主義や自由、人権など普遍的とされる価値観を尊重し、それらを擁護するためにも権力の監視を怠らず、自由な報道・自由な言論を駆使して、二度と日本が国策を誤ることがないように励んでいる(のだろうネ)。ただ、70年以前に同じ題字の新聞が何をどのように報じ、どのような論を掲げていたかを、新聞社自体が忘れがちであるようにも見える。

 毎年のことながら8月は、先の戦争に関する記事が大量に紙面を埋める。しかし、その中に新聞社自体が戦争に、どのように関わったかという具体的な検証の記事を見ることは、あまりない。どのように戦時体制を支え、戦意を煽ったのか。国際連盟からの脱退をどう伝えたのか。中国やアジア各地への日本軍の侵略をどう伝えたのか。

 日本の新聞社には、先の戦争に対して道義的な責任がついて回る。当時の記事や社説を引っ張り出して具体的に検証することは、自社のマイナスイメージを喚起することにもなるので消極的なのかもしれないが、日本政府などの戦争責任を熱心に追及する記事や、反省やお詫びの明確化を求める論などを見るにつけ、日本の新聞社は自らの責任には蓋をしているンじゃないかと映る。新聞社こそ、毎年8月には自らの責任を検証し、読者やアジアの人々に謝罪すべきかもしれない。

2015年8月19日水曜日

「個性」がにじみ出た批判


 何かの文書を批判することは簡単だ。読みながら、気に食わない個所をチェックしていき、それらを次々と指摘していけば一丁上がりだ。批判の根拠には、出来合いの価値観から都合のいいものを引っ張り出しておけば、体面を繕うことはできる。ただし、批判に熱心になるあまり、感情的な言葉が混じると、批判の底の浅さが露呈するかもしれない。

 価値観の異なる人が書いた文書を批判するのは、もっと簡単だ。批判する側の価値観に反する個所は片っ端から否定し、けなしていけばいい。イデオロギー対立が盛んだった頃は、そうした批判が珍しくなく、勢い余って、客観的な事柄を記しているような、批判しなくてもいい個所にまで批判を浴びせたりし、イチャモンをつけているだけだと見えることもあった。

 批判することを目的とする批判は、対象の文書に書かれていない事柄を指摘し、「○○について触れていない」「××を無視している」などと、それらを故意に書かなかったと批判したりもする。こうなると、批判は無敵だ。対象の文章に書かれていない事柄なら何でも批判できるのだから、批判する材料に事欠かない。

 さらには、対象の文章から「誠意が感じられない」「人間性が伝わってこない」などと、読み手側の感情を批判の根拠にしたりもする。誠意を感じるかどうかは人それぞれだから、こうした批判は必ずしも多数の人が共有するものとはならないが、「嫌いだ」という感情をベースにした批判であることは明らかにしてくれる。

 客観性のある批判であるためには、まず分析することが必要になる。ただし、批判的な分析も客観的な分析もあるので、分析結果がいつでも誰でも同じになることはない。文章や文言を解釈する時には、その人の善悪や正邪の価値観、さらにはイデオロギーの残滓の影響を受けるので、「個性」がにじみ出る。それは個人の文筆家なら許容されようが、新聞の社説においては異様な有り様に見えてくる。

 安倍談話についての朝日新聞の社説は、安倍嫌いという「肉声」が伝わって来るような感情がにじみ出ているものだった。「極めて不十分な内容だった」とまず否定し、次いで「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」と断じる。それが結論で、残りの長い文章は付けたし。ついでに、談話発表に至る過程の迷走も批判しているが、談話を発表しなかったなら、朝日新聞は何と書いたのかと知りたくなる。

 客観性のある分析の跡は希薄だが、奇妙で面白く、本音が出た正直な社説かもしれない。この談話について新聞社は以前から、さんざんネタにして大騒ぎをしてきたのに、発表された談話は穏便な調子で、もうネタにはなりそうにないと不満なのかもしれない。いつもなら朝日の報道を受けて騒ぎを大きくしてくれる中国、韓国が今回は自制的な反応だったのも、朝日には計算違いだったか。

2015年8月15日土曜日

共感する力


 8月に入ると新聞紙面に戦争に関する企画記事が増え、テレビでも戦争に関するドラマや検証特番が増える。戦争といっても、世界各地で現在行われている戦争がテーマではない。取り上げられるのは、日本が直接関わった先の戦争である。中東やアフリカなどで現在も行われている戦争についてはニュースとして報じられることがあるだけだ。

 でも8月15日が過ぎると、そうした企画記事や特番などは次第に消え、次に現れるのは12月だが、その量は8月より遥かに少ない。8月には2度の原爆投下、終戦と大きな出来事が続いたため、先の戦争の“記憶”が呼び起こされるのかもしれない。一方で、新聞社やテレビ局でも社員が夏休みを取るため、事前に作り置きがしやすい戦争関連の企画記事や特番が増えるともいわれる。

 送り手側の事情はさておき、日本のマスコミが、日本が戦争に直接関わった記憶、つまり、日本人だけの戦争体験を掘り起こし、伝えることを重視していることは間違いない。自国が関わり、自国民が体験した戦争をマスコミが重視することは当然だが、受け継ぐべき「戦争の記憶」は、日本が直接関わったものだけではあるまい。

 戦争に巻き込まれた人々は、平時には想像もつかない多くの悲惨な体験をする。それを後世に伝えていくことには意義がある。だが、日本人の体験だけが戦争体験の全てではない。戦争には様々な態様があり、また、技術や経済力の発展とともに変化するのだから現代の戦争は、日本人が過去に体験した戦争には見られなかった別種の悲惨さを持つ。日々のニュースで、それらを伝えきれているのだろうか。

 日本が直接関わった戦争は(今のところ)数十年以前のものだけであり、それだけを特別扱いしすぎると、「昔の戦争で日本人は大変だったけれど、今の日本は平和で良かったね」と現状を肯定するだけで終わるかもしれない。日本が平和であることは慶賀すべきだが、世界が平和になったわけではなく、各地で戦争は起き、世界は戦争の「記憶」に溢れている。

 日本や日本人が関わった戦争と、他国や他国人が関わった戦争に、悲惨さや愚かさにおいては本質的な違いはあるまい。戦争の「記憶」は、他国や他国人が関わった戦争からも受け継ぐことはできようし、現在行われている戦争からも「記憶」を受け継ぐことはできるはずだ。

 それには、共感する力が不可欠となる。数十年前の日本人の体験、記憶に共感するのと同じように、世界各地で戦争に巻き込まれる人々の悲惨な体験、記憶に共感できるなら、それらを受け継ぐこともできよう。だが、共感する力が乏しければ、日本人の「戦争体験」だけにしか興味、関心が向かないだろう。

2015年8月12日水曜日

落合の蹉跌


 今シーズンの出足は好調だったドラゴンズは開幕1カ月過ぎて失速し、負け越し数が15(8月11日現在)と最下位に沈んだままで、開幕前の評論家らの予想通りに最下位に落ち着いた印象だ。落合が監督を退いて以降のドラゴンズはBクラスの常連となってしまった。その落合がGMに就任し、チームを蘇らせるかと期待したが、成果は何も見えてこない。

 どのようなチームにしようと落合は構想したのか。最近のドラゴンズは、好調時の岩瀬のような絶対的な抑えの不在が多くの負けにつながっている。落合が監督だった頃の、1点差を守り切るというゲーム運びができず、かといって、相手チームのエースに対して打ち勝つほどの強力打線もない。12球団1といわれた投手陣も、今はそうではない。

 選手の世代交代が課題だと指摘され続けてきたが、ドラゴンズは失敗した。そう簡単に若手が育つなら、どこのチームも苦労しないだろうし、黄金時代を築いたチームの多くは低迷期を経験する。中堅選手の奮起や若手の台頭が希薄なポジションはトレードで補い、チーム力の低下を食い止めるのがフロント陣の役割だが、年棒が高くない外国人選手をかき集めるだけのように見える。

 どうせ低迷がしばらく続くのだろうから、勝敗は二の次にして若手を起用し、実戦で経験を積ませて1流に育て上げろと言いたくなるが、起用し続けた若手が必ず1流に育つとは限らず、プロ野球が興行でもあることを考えると、実績を示すことができない選手の起用には限度がある。

 起用された若手がすぐに活躍することは珍しくないのだが、活躍は続かない。他チームはデータを分析して弱点を洗い出し、次からは弱点を責められる。そうした新たな闘いに対応できた者がやがてレギュラーとなるのだが、実戦で対応力を誰でもが発揮できるわけではない。そして、対応力はコーチらが教えて身につくものでもなく、試合に出続ける間は常に対応力が求められる。

 どんなチームにすることを落合は構想したのだろうか。黄金期を築いた監督として誰よりもチームを知っていたはずだから、より明確にチームの強化策が見えていそうなものだが、成果となっては現れない。新戦力は伸び悩み、チームから放出した選手が他チームで1軍に定着するなど、選手の見極めが迷走気味にも映る。黄金期を知りすぎている故に、柔軟な発想に制約が生じているのかもしれない。

2015年8月8日土曜日

危機感を煽る


 危機感を煽るという手法は、演説や論説、ブログ、エッセイなどで広く蔓延している。危機感を煽ることには、聞き手を浮き足立たせ、演説や論説、ブログ、エッセイへの冷静な検証を抑制する効果もある。危機感を煽る当人は、切実な警告を発しようと“使命感”が先走るのかもしれない。でも、うっかり危機感に「感染」すると、踊らされることになったりもする。

 危機感を煽ることは、その言説に説得力があるように見せる手っ取り早い手法だ。専門家相手の論文なら、聞き手からの細かい検証を想定して緻密な論理構成が求められようし、根拠が不確かなことは書けまいが、一般相手には、分かりやすさがポイント。危機感を煽ることで、聞き手の情緒に訴えたほうがウケは良かったりする。

 危機感を煽るにも様々な手法があり、氷河が崩壊する様子や海上の氷に乗るシロクマの様子など温暖化の危機感をイメージ操作で煽るといったパターンはよく見かける。その一つ一つを冷静に考えれば温暖化とは無関係なのだが、温暖化の危機を示すイメージとして定着しているので、世論操作には便利。情緒に左右されやすいのが危機感なので、この種のイメージ操作は定番。

 各種のデータを散りばめて危機感を煽るのも、経済関係などではお馴染みのパターンだ。読み手に相応の知識があることを前提に、危機感を煽るのに好都合なデータを並べる。説得力がありそうなパターンだが、自説に不都合なデータがあってもスルーしている場合も珍しくない。

 危機感といえば、陰謀論には付きものだ。大方の陰謀論は、邪悪な考えに取り憑かれた「敵」が陰険な策謀を巡らし、あれやこれやと仕掛けてきて、じわじわと守勢に立たされ、その結果として「我々」が不利益をこうむっていると説く。都合のいい解釈を組み立てているだけだと見破られないためには、受け手に危機感を持たせることが欠かせない。

 陰謀論では危機感を煽るために邪悪な「敵」を強大に見せる必要があるが、時には「敵」を強大化しすぎることもあって、冷静な受け手には「それほどのものじゃ、ないだろう」と見破られたりする。邪悪な「敵」を強大に見せることは、ヒーローもののドラマや映画などでは基本で、最後には“正義”のヒーローが「敵」を倒してハッピーエンドになるのだが、現実世界では“正義”のヒーローも「敵」も相対的な存在。ドラマのようには現実はいかないので、陰謀論はいつまでも続く……のかな。

2015年8月5日水曜日

9年6カ月の宇宙旅行


 太陽系の端にある冥王星に、NASAの無人探査機「ニューホライズンズ」が1万2000キロまで近づき、鮮明な写真を送ってきた。地球から遠く離れた冥王星の姿はハッブルでも、ぼやけた画像でしか見ることができなかったので、人類は初めて冥王星の詳しい姿を見ることができた。全ての観測データが地球に届くにはまだ数カ月かかるというので、今後も新発見が続くだろう。

 冥王星の鮮明な写真で話題になったのが、巨大なハート形。冥王星の表面は窒素とメタンで覆われているというが、ハート形の一部を拡大すると、高さ3千メートルを超す氷の山があり、数十キロにわたり山脈のような地形が続いていたり、巨大な亀の甲のような模様が連なった地形があったりと複雑で、地質活動が続いている可能性があると報じられた。

 地球から冥王星までの距離は48億〜54億キロくらいという(冥王星の軌道が傾いていて、楕円がかって歪んでいるため)。この距離を移動するために「ニューホライズンズ」は、2006年1月19日の打ち上げから、2015年7月14日の冥王星への1万2000キロの最接近まで約9年6カ月かかった。光や電波では4.5時間かかる。

 「ニュー・ホライズンズ」は史上最高速で地球を旅立った探査機で、宇宙空間では秒速15キロ以上、時速にすると56000km/時くらいで移動しているという。せっかく冥王星まで行ったのだから、周回軌道に入って観測するチャンスだと思うが、減速するための燃料は軽量化のため積んでいないので、冥王星の近くを通過するしかなかった。

 9年半もの長い年月を要して冥王星に近づいた「ニューホライズンズ」。もし、この探査機に人が乗っていたなら、9歳半の年齢を重ねることになる。発射時に40歳の宇宙飛行士が乗っていたなら、49歳過ぎてやっと冥王星を近くで見て、そこからUターンして真っすぐ地球に戻ったとしても、地球帰還時には59歳だ。19年は長い。子供がいたなら、結婚して孫が産まれていても不思議はない年月だ。

 ところで、9年半の宇宙生活を支えるには、どれだけの物資が必要になるのだろうか。食糧で考えると、9年半は約3500日になるから、1日3食とすると1万食以上になる。全てを宇宙食として発射時に積み込んで持って行くとすると、重量がかさみ、冥王星まで9年半で行くためには強力な動力源を備えなければならないので、燃料が余計に必要になる。

 2人を搭乗させるなら2倍、3人なら3倍となるので、重くなった分だけ強力な動力源が要り燃料も多く積まなければならない。宇宙船内で食糧を生産できれば、打ち上げ時の重量を軽減できるだろうが、閉鎖空間で継続的に食糧を生産できるシステムはまだ開発されていない。

 9年半もの宇宙旅行中に飛行士は「冬眠」しないとすれば、様々な観測を毎日行うことになる。360度に見える天体を観測するだけで、それなりに忙しいだろうが、宇宙空間は広大で暗く、どこを見ても、おそらく同じような光景が広がっているだけだろうから、刺激は乏しいかもしれない。そんな中で9年6カ月……退屈が宇宙でも大敵か。

2015年8月1日土曜日

未来のことは確率で考える


 8月になると日本のマスメディアでは戦争をテーマにした番組や記事が増える。戦争といっても、現在進行中のシリアやイラクの内戦のことではなく、1945年に日本が敗戦を迎えた戦争のことに限られる。日本人が体験した戦争でどんなに苦しんだかという被害者感情に訴えながら、日本も悪かったんだと加害者責任をまぶして、番組や記事を仕立て上げる。

 そんなに戦争に関心があるなら、日本の敗戦後も間断なく世界のどこかで戦争は起こり続けていたのだから、戦争の番組や記事が年中あふれていてもいいはずだが……日本ではほぼ8月と12月に限られる。つまり、日本人が直接関わった戦争だけが対象であり、日本人の戦争体験だけが「伝えるべき」ものと見なされているかのようだ。

 自国民・自民族が関わった戦争の記憶を伝えようとするのは当然の行為だともいえようが、被害者感情と加害者責任だけで戦争を見ると、歪みが生じることもある。どんなに戦争の悲惨さを言い立て、加害者としての贖罪を示したとしても、戦争はなくならないという現実。悲惨で無意味な行為である戦争が人類の歴史からなくならないという現実が見えなくなる、

 世界全ての国の人々や民族が、自分たちだけは戦争に巻き込まれたくないと決意し、努力するなら、結果として世界から戦争は根絶される……のであれば理想的だが、いつも世界のどこかで戦争は起きている。

 日本だけが、日本人だけが巻き込まれなければいいと考えるなら、日本人が経験した戦争だけを回顧し、反省して、日本人が戦争に関わることへの嫌悪感を高め続けることは効果があるかもしれない。そうした嫌悪感に支えられて、軍事絡みの法案で世論が割れたりすると、例えば「戦争に巻き込まれる」「徴兵制で引っ張られる」などの拒否感を強調する人も現れる。

 だが、そうした感情が先立つと、“正しく”怖がることができにくくなったりする。浮き足立ってしまうと、冷静に判断をしているつもりでも、情緒に流され、理性的な判断が阻害されることもある。人々の感情の爆発が大規模な行動となって現れたりすると、政治に影響を及ぼすこともできようが、感情の爆発が必ずしも良好な結果をもたらすものでもない。

 「戦争に巻き込まれる」「徴兵される」などの、仮定の未来から感じる不安の感情は現実にある嫌悪感や拒否感を増大させる。不安を煽って誘導することは、プロパガンダの基本的手法だ。だが、対処法はある。仮定の未来に不安を感じた時には、それが起きる確率を考えるのだ。航空機で事故に遭う確率は、交通事故に遭う確率より遥かに低いなどというのが代表例だ。

 日本が戦争に巻き込まれる確率は何%か。徴兵される確率は何%か。もちろん、未来に起こるかもしれないことの実現可能性を正確な数字で示すことは困難だ。だが、徴兵される確率は10%か、30%か、50%か、70%か……などと具体的に考えてみることが、いたずらに不安が増大することを防ぐ。

 具体的な確率の根拠を提示することは学者らには不可欠だが、限られた知識しか持たない一般人なら主観で判断するしかない。それでも、日本が戦争に巻き込まれる確率は10%か、30%か、50%か、70%か……などと具体的に考えることで、冷静さを取り戻し、不安感などの情緒に流されることを抑止できる。ただし、冷静に見るようになると、感情の爆発による行動などには気軽に参加できなくなるかもしれないが。

2015年7月29日水曜日

バレない粉飾


 歴代の経営トップの指示によって不正な会計処理を組織的に続けていた東芝。2008年4月から2014年12月末で、計1518億円の利益を過大に計上していた(第三者委員会の調査報告)。利益水増しの内訳は、インフラ事業で477億円、映像・パソコン事業で680億円、半導体事業で360億円。

 不正な会計処理の方法は▽原価の過少計上や売上高の過大計上、▽損失の計上を次年度決算以降に先延ばし、▽損益目標を達成するため損益調整で当期利益をかさ上げ、▽製造委託先に通常より高い価格で無理に部品を買わせる「押し込み」販売で当期利益をかさ上げ、▽取引先などに請求書の発行を遅らせてもらい、経費の計上時期をずらす、など。

 歴代3社長がそろって辞任したが、東芝の信用は失墜した。黒字を「予定」していたのに決算発表ができなくなり、無配に転落、6月の株主総会では業績を報告できず、もう一度、9月に総会開催を予定せざるを得ないという異常事態になった。売上高6.5兆円超(13年度)という大企業が決算を発表できないというのは、かなり珍しい光景でもある。

 この問題は今年2月に証券取引等監視委員会への内部通報で発覚した。つまり、経団連会長を出す“名門企業”として認知されていた東芝だが、その不正な決算は何年もまかり通っていた。調査報告では▽上司の意向に逆らえない企業風土、▽社員は不適切会計を継続的に実行、▽内部統制部門が機能せず、▽内部通報制度が活用されず、など東芝社内の問題を指摘する。社内に問題があったのは確かだが、監査法人が不正を見抜かなければならなかった。

 社内の監査体制が機能せず、社外の監査法人も不正を見抜くことができないとなれば、経営トップは業績を良く見せるために“無理”を言い、その“無理”が通って、立派な業績を誇示する粉飾決算ができあがる。こっそり“細工”をほどこして、売上げは伸び、利益も伸びたとなれば経営トップの評価は高まり、社内での影響力は増大、東芝などの企業トップなら、財界総理の座も視野に入ってくるだろう。

 こうなると、不正な会計処理は蔓延しているのじゃないかという疑いが出てくる。そうした疑いを払拭するには、今回の東芝の不正が特異な例であり、歴代3トップ以前の東芝の会計処理には問題がなく、ほかの大企業の会計処理にも問題がないこと明らかにされなければならないが、そんな調査はおそらく行われないだろう。何も出てこないことが期待される調査なんて、積極的に行うところはない。

2015年7月25日土曜日

美か醜悪か


 1961年の断交から54年ぶりに米国との国交を回復したキューバは、米国が経済制裁を続けていたため、断交以前に輸入された1950年代製の米国車が現役で走っていることで知られている。現役といっても“満身創痍”で、エンジンを始めパーツ類は交換され、外見だけが当時のオリジナルを保っている車が多いという。綺麗に塗装されているのはタクシーだそうで、今後は米国から押し寄せる観光客の人気になりそうだ。

 1950年代の米国車は、長く塊感のあるボンネットを持つ4ドアセダンが多く、テールフィンをつけることが流行ったので、トランクが長くなった車もある。丸形のヘッドライトを持つフロントマスク下部にある頑丈そうなバンパーはシルバーに輝き、ラジエターグリルにも金属が多用されている。

 人間の表情に例えると、歯を剥き出して笑ったようなフロントマスクもけっこう多く、全体の伸びやかさもあって1950年代の米国車のデザインは、当時の米国の豊かさとパワーを表現しているようにも見える。ただ、セミクラッシックカーとして見るから、そうしたデザインも抵抗なく受け入れるが、発表された新車のデザインが同様のものだったなら、受け止め方は違ってくるかもしれない。

 これらの1950年代の米国車のデザインが、美しいかというと、意見が分かれるだろう。燃費など考慮しない時代だから、空力などはデザイナーの意識にはなかっただろうし、ジェット戦闘機からヒントを得たというテールフィンには実用的な機能はないだろうし、歯を剥き出して笑っているようなフロントマスクは過剰な装飾そのものだ。

 もちろん、美醜の判断は主観による。さらに、美醜の判断と、好き嫌いは別物だ。美しいデザインだと多くの人が認めた車よりも、力強さを感じさせるデザインの車のほうが売れたりするし、高級そうに見えることも大切かもしれない(美醜や力強さ、高級のイメージも時代とともに変化する)。

 最近発表された新型ミニバン「シエンタ」。メーカーは「魅力は、なんと言ってもその新鮮な見た目」「アクティブ感と使いやすさを両立したエクステリア」などと宣伝につとめるが、パッと見た印象は「ひでぇデザインだな」。フロントもサイドもリアも、意味のない線や面で構成されている。機能性を重視するだけではミニバンは皆同じような形になってしまうから、個性を演出したのだろうが、個性があればいいってものではないゾと忠告したくなる。

 車のデザインには世界的な流行があり、意味のない線を多用する車種は各国に増えた。シエンタのデザインに刺激を受けて各国のメーカーも今後、意味のない面や色分けを新型車で試みるなら、「ひでぇデザイン」の車が珍しくなくなるかもしれない。50年以上も後の人は「あの時代には、奇妙なデザインが流行ったんだね」などと言うのかな。

2015年7月22日水曜日

隠しておきたかったこと


 1933〜34年頃に撮影された20秒ほどの動画に映っていた、幼少期の英エリザベス女王が母親(後のエリザベス皇太后)とともに右手を上げてナチス式敬礼をする様子を英大衆紙がすっぱ抜いた。ナチス支持者を疑われた伯父のエドワード王子(後の国王エドワード8世)が、幼少期の女王に敬礼の仕方を教えたと英大衆紙。

 親ナチスを疑われかねない英王室のこの映像は過去に公開されたことがなく、初めて明らかになった。バッキンガム宮殿の報道官は「80年も前に撮影された、王室が保有する個人的な動画が、このような方法で利用されたのは遺憾だ」と声明。王室筋はBBCに「大半の人はこの映像を当時の状況を踏まえて見るだろう。当時は事態がどのように進展するか予想できた人はおらず、それ(家庭内でのたわいない遊び)以外の意味を持たせるのは誤解を招く、誠意のない行為だ」とコメントしたという。

 この王室筋のコメントは興味深い。「当時は事態がどのように進展するか予想できた人はおらず」というのは正直な言い分だな。1933年にはヒトラーが国家元首に就任、1934年には大統領職と首相職を統合してヒトラーが兼任するなどナチス独裁体制を固めた。1934年には6月に英ロンドンでファシスト連合が集会する一方、9月にはロンドンで10万人の反ファシズムデモが行われるなど、対立が先鋭化していた。

 ナチスが絶対悪とは「まだ」見なされてはいなかった当時、英紙『ザ・タイムス』は「ヒトラー氏の誠実さを疑う者は1人もいない。約1200万人のドイツ人が彼に従ったのは、彼の人間的磁力によるものである」と書く(児玉襄著『誤算の論理』)など、英にも親ナチスの人々はいただろうし、右手を上げるポーズも、現代のようにタブーではなかっただろうから、英王室の面々が「戯れて」ナチス式敬礼のマネをした可能性はある。

 だが、エドワード王子の存在が大きく影を落とす。母親の王妃がドイツ人という王子は親独姿勢で知られ、1936年1月にエドワード8世として即位してからも、英独友好の必要を強調したが、12月に退位する。“不倫の恋”を貫くためとされているが、実際には、親独言動が問題視されたためという(前掲書。退位勧告を決めた閣議記録は2037年まで非公開)。

 エドワード8世だけでなく英王室自体が親独だったとしても不思議ではないから、今回の映像には意外性はさほどない。英がドイツに宣戦布告したのは1939年9月で、1933、34年頃ならナチスに対する評価は割れていただろうが、現在では違う。ナチスは絶対悪であるというのが歴史的に正しい認識とされる現代では、ナチス式敬礼は反社会的な行為とも映る。

 「当時は事態がどのように進展するか予想できた人はおらず」というのは、いつの時代でも、どんな人にもあてはまる。正しいと考えることを言い、正しいと考える行動を人は行うのだろうが、それが、歴史的な評価と一致するとは限らない。むしろ、人々の行動が時代を変えることで、新たな価値観が生まれ、その新しい価値観によって検証し直される。

 第2次大戦前の欧州で、独を含め各国の指導層は反共、反ユダヤ、反民主主義で一致する傾向があったともいうから、英王室に限らず親独姿勢は、探せば欧州各国の当時の指導層からも見つかるかもしれない。人は歴史の中で生きているが、後になって定まる歴史的評価を知るはずもないから、時とともに、都合が悪い事実を隠蔽、偽装するのは珍しくない。

2015年7月18日土曜日

盗まれても減らない


 3万円入れた財布ごと鞄をどこかに置き忘れ、あわてて探して鞄はあったが、財布には1万円しか入っていなかったら、2万円が盗まれたことはすぐ分かる。が、財布に3万円入っていれば「大丈夫だった」と安心し、誰にも鞄や財布の中は見られてはいないと思うだろう。でも、財布に金がそっくり残っていたから、誰にも鞄や財布の中を見られてはいないと言い切ることはできない。

 財布の中から、物質としての金が盗まれていなかったとしても、誰かがその紙幣をコピーしたり、鞄の中を調べた可能性はある。紙幣をコピーすることは意味のない行為だろうが、金銭のデジタルデータなら、それをこっそりコピーすることは盗むことと同じだ。まして鞄の中に入っていた物質としての書類をコピーするのは窃盗になるかもしれない。

 アメリカ政府の職員の情報を管理する連邦人事管理局のコンピューターシステムが外部から侵入され、約2150万人の連邦政府の職員や元職員らの、社会保障番号や経歴、家族の情報など個人情報が盗まれていたという。このコンピューターシステムは4月にも侵入され、約420万人の個人情報が盗まれていた。

 合わせて2500万人を上回る大量の情報流出だが、実はアメリカではコンピュータシステムへの不正侵入による個人情報の大量流出はたびたび起きている。例えば、第2位の大手保険会社が、顧客・従業員8000万人の情報が漏洩したことを公表したり、小売大手ターゲットからは顧客のクレジットカード情報4000万件が盗まれた。

 日本でも年金機構のコンピューターシステムが狙われ、125万件の個人情報が流出したとされている。うち101万人分は都内の海運会社のサーバーから見つかったというが、米国のサーバーとも大量のデータを通信した形跡があるので、さらに流出件数が増える可能性があると報じられている。

 紙幣や宝飾品、車など物質なら、盗まれると持ち主の視界から消えてしまうが、デジタルデータは、データを消去する手間をハッカーは惜しむだろうから、盗まれてもデータはコンピューターに残る。盗まれたことに気づくのが遅れ、異常な通信量などの異変を管理者が察知したり、個人情報を悪用されたとの外部からの指摘などが端緒になって、不正アクセスされた形跡を発見したりする。

 盗まれても減らないものを、盗まれないように守るのは簡単ではない。盗むという行為が見えにくい一方、守るという行為は具体的な対応を迫られる。守っている効果も簡単には見えにくく、しばしば被害が現れてから、盗まれていたことに気がついたりする。デジタル版のカラーボールを開発して、正規を含め全てのアクセス者を“色づけ”しておき、何かあった時には追跡できるようにすることが、迂遠だが地道な対応策かもしれない。

2015年7月15日水曜日

緊縮の苦しさを知っているはずのドイツ


 第1次大戦後に敗戦国ドイツは、船舶や物資等の現物賠償のほかに国民総所得の2倍以上にもなる多額の賠償金を戦勝国から課され、外貨で支払うことを強要された。国内ではハイパーインフレとなり、人々の生活に大きなダメージを与え、通貨マルクが暴落したことで、賠償金の支払いは困難を極めた。

 さらに世界恐慌もあって経済はさらに落ち込み、企業の倒産が続き、失業者が溢れ、ドイツは賠償金を払うことができなくなった。生活に苦しむ人々は、共産党なども支持したが、一方で大衆政党のナチスの台頭を助けた。やがて政権を掌握したナチスは賠償金の支払い停止を宣言、ナチスはヒトラー独裁体制を構築して、軍事的な膨張を始め、第2次大戦が始まる。

 第1次大戦後のドイツと現在のギリシャには、経済が大打撃を受け、失業者が溢れ、人々の生活が厳しい中で、外国への多額の支払いを行わなければならない等の共通点がある。外国への支払いといっても、ドイツは敗戦国に課された賠償金であり、ギリシャは自分でつくった借金という違いはあるが、現実に支払いが不可能であることでは似ている。

 冷ややかに見れば、第1次大戦後のドイツも現在のギリシャも、外国への多額の金の支払いで窮しているのは自ら招いた結果だ。どんなに人々の生活が苦しかろうと、自分たちが選んだ政府による政治の結果なのだから、主権者としての責任がある。とはいえ、主権者の責任として、自分らの生活が破壊されることまで人々は甘受しなければならないのかという疑問は残る。

 生活に苦しむ人々は政治を変えようとする。第1次大戦後のドイツの人々はナチス政権を選び、ギリシャの人々は反緊縮財政を掲げる急進左派連合を選び、新たな政府に期待した。状況が似ていれば、どこの国の人々も似たような行動をとるらしい。外国への多額の支払いに国内経済が押しつぶされ、窮乏する人々のことを過去の経験から、よく理解できるのはドイツ人のはずだ。

 第2次大戦で敗戦国ドイツが多額の賠償金を課されなかったのは、困窮した人々がまた、ナチスのような政権を選ぶようになることを避けるためだった。第2次大戦後にドイツが多額の賠償金を課されていたならば、今日の経済大国ドイツはなかっただろう(EUやユーロもなかったかもしれず、ギリシャ危機もなかったかもしれない)。

 現代のドイツの人々はギリシャに批判的だという。自分たちが稼いだ金が、「働かない」ギリシャ人のために使われることに反発するのだと伝えられている。韓国などはドイツを「歴史認識問題」の模範として日本批判の時に持ち出すが、その模範のドイツがギリシャに対しては、自らの過去の歴史を封印しているように見える。ドイツが模範になるのは、対ナチスに関わる歴史認識に限定されるのかもしれない。

2015年7月11日土曜日

議論の成果


 幕末の頃、攘夷派と開国派、倒幕派と佐幕派などに対して誰かが「殺し合いは止めて、話し合いで日本の方向性を決めましょう」と呼びかけ、公開討論会のようなものが実現したとしても、冷静な議論が成立したかは疑問だ。自分らの主張が絶対に正しいとし、相手側の主張が容認できないからと殺し合いを始めた連中なのだから、相手の主張を黙って聞いているはずがなく、怒鳴り合いで済めばマシなところか。

 冷静な議論が成立するためには、考えが異なる相手側の主張を聞き、理解した上で反論するという姿勢が相互に必要。だが、自分が正義の側にいると思い込んでいる人は“異論”を聞く耳を待たず、討論会を開催しても、声を大きくして自説を述べ、相手の主張を抑え込もうとしたりする。幕末に活発に活動した人達なら、相手を説得することより、斬り捨てて反対者を減らした方が簡単で、妥当だとさえ思うかもしれない。

 社会を、自分らの主張するように変えるために武力や暴力を容認する人達との議論は、そもそも成立しがたい。自分らが絶対に正しいとする人達には、その正しい自説を検証する必要性はなく、その正しい自説を実現することの方が大事になる。そして、自分らの武力の行使を正当化するためにも、自分らが絶対に正しいことが必要になる。

 自分らの「正しさ」は自明だから、議論より行動だとする人は、幕末だけに存在したわけではなく、現在も世界中にいる。その「正しさ」をどう獲得したかは人により様々だが、「正しさ」が宗教に支えられている場合には、議論すること自体が否定されるだろう。宗教に基づく価値観とは、議論の対象ではなく、受け入れる対象でしかない。

 そこには、宗教などによる絶対的な「正しさ」に依存するという奇妙な存在も含まれる。そうした人は、その宗教の価値観を理解し、納得して受け入れたのだろうが、宗教を自発的に選んだときから関係は逆転し、その宗教の「正しさ」に同化していかざるを得なくなる。そうした人の持つ「正しさ」はもはや議論の対象ではなく、依存の対象になる。

 宗教以外に既存の思想や価値観に依存する人もいる。そういう人にとって議論は苦痛かもしれない。自説や自分の価値観の自由な転換を行うことができない人には、議論の場は、自説を誇示したり異論を攻撃するための場でしかないだろう。既存の思想や価値観に強制されることを望んで依存した人にとって、議論で依存する対象が変わるはずもない。

2015年7月8日水曜日

懲罰としての緊縮策


 2009年の政権交代後に、それまで公表していたよりも財政赤字が実際には大幅に多いことが明らかにされ、ギリシャの危機は始まった。国債が暴落し、ギリシャは窮した。IMFやEUなどからの多額の資金支援でギリシャは経済再生へと歩み出したのだが、増税や年金・公務員削減などの厳しい緊縮策を受け入れざるを得ず、人々の生活に影響は及んだ。

 厳しい緊縮策が数年も続き、人々は職を失ったり、住宅ローンや学費を払えなくなったりして生活水準は大幅にダウン、多くの人が税金の申告をやめ、企業は従業員の賃金のほかに取引代金も支払わなくなったともいう。国の実力以上の過剰な消費生活のツケが回ってきたともいえるのだが、過酷な緊縮策は人々の生活を破壊した。

 一方、ギリシャの基礎的財政収支(プライマリーバランス)は黒字となり、対外経常赤字も解消するなど国家経済としては縮小均衡を達成した。といってもGDPが2008年比25%縮小しており、財政が健全になったなどと喜ぶことができる経済情勢ではない。

 さらに国の借金は残っており、公的債務はGDP比180%近くになる。理想的なシナリオは、ギリシャで経済活動が活発になって景気が上向き、税収が増えて、ギリシャが自力で稼いだ金で返済することだ。だが、生活防衛のため人々は銀行から預金を引き出して溜め込み、消費は回復せず、失業率が25%にもなる中で、簡単には景気は上向きそうにない。

 経済が疲弊したままでは税収は増えず、ギリシャ政府には金は集まらない。借金を返すためには新たに借金するしかない状況だ。そんなギリシャに資金支援の条件として、新たな緊縮策を押しつけようとするEU。金持ちに対してなら「生活を切り詰めろ」と要求すれば、浮いた金が出て来るかもしれないが、生活を切り詰めてきた人に更なる緊縮策を押しつけることは、懲罰的な意味合いしかない。

 傾いた企業が人員削減や“乾いた雑巾を絞る”ようなコスト・経費削減で決算を乗り切ったとしても、本格的に立て直すには事業を活性化させ、売上げを増やしていくのが基本。毎年、人員やコストの削減に頼っていては、いずれ立ち行かなくなる(金貸し側は回収を最優先させるものだから人員削減などに熱心になるが)。

 緊縮策を続けてプライマリーバランスを黒字化したギリシャだが、景気は落ち込み、税収は減り、政府は年金などを支払うために国中から現金を集めるしかない状況だ。ギリシャの人々の意思は示された。今後のギリシャをどうするのかを決める立場にあるのはEUだ。

 ギリシャの経済を活性化させるプランがEUにあれば、とっくに実行させているだろうから、EU側にも妙案はなさそうだ。独自通貨に戻ったならギリシャは、ユーロ側から見て激安の観光地になる。年間2千万人以上の外国人観光客(その1割がドイツ人)が来るギリシャは、ユーロ圏を追い出されたなら、外国人観光客が増えたりして……。

2015年7月4日土曜日

ギリシャの新しい悲劇


 近松門左衛門作の人形浄瑠璃の演目「冥途の飛脚」は、歌舞伎では「恋飛脚大和往来」として上演される。上方の和事の代表作の一つだ。その「封印切」の場面では、大阪の飛脚屋の養子・忠兵衛が、遊女・梅川の身請けを他の男と張り合って、金があることを示すために、飛脚屋として預かっていた為替の小判の封を切ってしまう。当時は、封を切っただけで死罪だった。

 この忠兵衛は以前にも梅川の身請け問題を巡って、友人へ届けられた金を無断で使ってしまったことがあり、他人の金を預かるには問題がある人物だ。当時の飛脚屋は手紙や現金を輸送する業者で、預かりものの金に手をつければ死罪だった。それを承知で、小判の封をきったのだから、よほどの衝動に突き動かされたのだろう。

 これを行うとマズいと理解しながら、つい行ってしまうことがある。自制しているはずなのに飲み過ぎたり食べ過ぎたり、言わずもがなのことを言ってしまったり。だが、身の破滅につながりかねないことなら誰しもが慎重になる。身の破滅と分かっていながら、小判の封を切ったりすると、芝居では役者が内心の葛藤を演じる名場面になるだろうが、現実世界では重い責任を負うことになる。

 最近、あえて重い責任を負うことを選択したのがギリシャだ。こちらも金に窮していたのだが、遊女に入れあげるようなことで他人の金に手をつけたのではなく、経済の実態を粉飾して外国から金を集めていたことがばれ、簡単には金を貸してもらえなくなった。

 厳しい緊縮策を“強要”されてギリシャの経済はすっかり疲弊し、銀行はECBからの資金が頼りで、政府も手持ちの金がなくなり、IMFなどから融資を受けなければ債務を返すことができない状況。そうした中で、緊縮策に対する嫌悪に支えられて登場したチプラス政権は、さらなる緊縮策を回避しながら金を借りようと交渉していたが、失敗した。

 それなら国民投票で、緊縮策を受け入れるかどうか決めるとチプラス政権は一方的に宣言。国民向けに大見得をきってみせた格好だが、金を貸すEU諸国側が「では国民投票の結果を待とう」と素直に支払い期限の延長に応じてくれるはずもなく、とうとう6月30日が支払期限だった債務16億ユーロ(約2200億円)をギリシャ政府は返済できない事態になった。

 忠兵衛と梅川は心中を決意し、死出の旅に赴いて芝居は幕となる。だが、国家に幕引きはなく、ひどい経済状況であろうと存立し続け、ユーロ圏にとどまろうと離脱しようとギリシャの人々はこの先、さらに疲弊した経済状況の中で生きて行かなければならない。粉飾して外国から金を引っ張っていたギリシャ。手をつけてはいけない金に手をつけてしまった悲劇は、芝居ならず現実世界でも起こっている。

2015年7月1日水曜日

公人としての覚悟


 例えば、米国では黒人に対する差別は法的にはなくなったが、差別意識を持っている白人はまだ存在し、ヘイトクライムが疑われる殺人も絶えない。黒人に対する差別感情を秘めている白人が、どれほどいるのかは定かではないが、それを公言することは現在の社会規範に反し、はばかられることだろうし、ましてや政治家など公職にある人が、私的な場であっても、差別を容認する発言をしたならばアウトだろう。

 誰にも「本音」と「建て前」があり、それらを場面によって使い分けて生きているのかもしれないが、公職にある人には、私的な場であっても、相応の責任が生じる。公職にあることの責任とは、その社会における価値観を尊重することだ。価値観を共有する人物であると認識されるからこそ、公職につくことが容認される。

 民主主義や自由など、社会の価値観を共有しない人が公職にあると、失言や問題発言を繰り返す。公職にあることの責任に対する自覚が不足している人は、失言や問題発言を批判されると、私的な場でつい本音が出たなどと甘えて言い訳したり、マスコミに嗅ぎつかれて批判のやり玉にあげられたなどと不平を言ったりし、公職にある者なのに「公」の意識が希薄であることを自ら暴露する。

  政治家の中には、ポロリと本音を言うことが主権者にウケるとし、本音を言うことが許されていると勘違いする人もいる。確かに、その人の人間性をさらけ出す笑える本音ならウケるだろうが、民主主義や自由などの価値観を否定したり、差別を容認するような「本音」は、その人が公職にあることの不適切さを示すだけだ。

  公職にある人は、私的な場であろうと、全ての発言には公的な責任を負う。そうした厳しさを担う覚悟がないまま公職につく人は、失言騒ぎを起こすとマスコミに責任転化する。マスコミは騒ぎを好むものだから、失言や問題発言は格好のネタだ。わざわざネタを提供して、マスコミに騒ぐなと要求しても無駄だ。

 公職にある人は何らかの権力に関わるから、厳しい自覚と覚悟が求められるのだ。だが、責任や覚悟が希薄なまま、何らかの権力に関わる人は、勘違いした特権意識を持つことがある。自分が特別な人間だから権力に関わると誤解する。公職にあるから権力に関わるだけであるのに、ポストではなく個人に権力が与えられたように勘違いする。

 何らかの権力に関わるから、公職にある人は批判される対象になる。公職につく覚悟とは、常に注目され、批判されることを受け入れる覚悟だ。公職にある人には批判される勇気が必要で、批判される勇気を持つならば、言論の自由を恐れることはなくなる。自分の意に染まない批判でも、見当違いの批判でも、間違った批判でも、聞く勇気を持つ。批判される勇気がないから、言論を封じようと発想するのだ。

2015年6月27日土曜日

門は開いた


 1990年代に日本では、中国から漁船などを使った集団密航が増加し、上陸地点は全国に広がった。その多くは、中国の「蛇頭」と呼ばれる密航業者が日本の暴力団や韓国の密航組織と手を組み、沖合で中国船から日本船や韓国漁船に中国人密航者を乗り換えさせたりして、日本に上陸させた。だが中国の経済成長で、偽造旅券を使用した航空機による入国などへと密航方法は、より「安全」なものへと変化した。

 最近、船を使った密航が急増しているのは地中海。アフリカ側のリビアから、びっしり詰め込まれた密航者を乗せた漁船や貨物船が、イタリアなどに向う。2014年には約22万人(前年の4倍)がEUに到達したが、3500人以上が溺死したという。15年は既に2000人以上が溺死しているが、密航者は増えるばかり。

 アフリカ側で密航業者が船を仕立てて密航者を送り出しているのだが、イタリアなどに組織的な受け手はいないようで、船上から密航者が電話でイタリア沿岸警備隊に救助を要請したりするという。人道的な配慮からEUが移民や亡命希望者を受け入れざるを得ないことを密航業者は利用して、「押し付け」れば何とかなると密航させているのだが、これは歴史の皮肉だとも見える。

 密航希望者は報道によると、シリアなど内戦が激しい国や、ソマリアやナイジェリアなど貧困、腐敗に加え武装過激派が勢力を伸ばす国からリビアにたどり着いて、EUを目指す。リビアの治安が保たれていれば、リビアは密航業者の拠点にならなかっただろうが、カダフィの強権支配を武力で倒すことを大いに助けたのは欧州だ。国家を形成する自発的動機が希薄な社会では、強権支配のタガがはずれれば、混沌だけが残る。

 これは欧州がツケを払わされているともいえるが、さらに、シリアなど中東諸国やナイジェリアなどアフリカ各国は欧州の植民地だった。現在の国境線は、かつて欧州各国が勝手に定めたものでしかない。植民地支配で大いに儲けたのだから欧州は、かつての植民地の人々が苦しんでいることに責任がある。

 だから「欧州人は彼らの大陸に救いを求めてきた人々に寛容に対応できなければ、自らを文明的と呼ぶことはできない」などと欧州メディアは、難民の人権尊重に基づき移民流入に対応すべきだなどと主張する。しかし、急増する移民をEUが欧州各国に割り当てて引き受けさせようとしても、反対したり消極的な国が多い。それどころか、軍事作戦でリビアなどで船を破壊することを打ち出した。

 EUが中東やアフリカからの移民を歓迎していないのは確かだ。他国に対しては人道主義を振りかざして批判するEUは、移民急増を「安全保障上の危機でもある」と言い出し、その収益の一部がテロ活動にも充てられているなどと主張し始めた。アフリカなど非欧州からの移民流入制限を正当化する口実かもしれない。

 危険は伴うが、船で地中海を渡れば、自由で人権が尊重される(はずの)世界がある。その世界に既に大勢が受け入れられた。門は開いた。後は、船に乗るだけだ。かつて欧州の植民地だった国々で、内戦や貧困、腐敗、圧迫に苦しむ人々が欧州を目指すのは、歴史的に見ると、何らかの正当性がある行動かもしれない。

2015年6月24日水曜日

号外の精神


 突発的に大きな出来事や事件などが生じると、電波メディアに加えインターネットでも速報が流れる。事故や災害などでは遭遇した個人がメディア企業よりも先にSNSなどで情報を発信したりするようにもなった。そうした個人発の速報の信用度は定かではないので、個人発の速報を知った人は、後からメディア企業の速報で確認することになる。

 新聞社が号外を出すのは速報が目的だったが、時代は変わった。電波やネットで流れる速報を知らない人向けには、街頭で配られる号外は速報の役割をまだ保っているが、号外が刷り上がって街頭で配布されるまでの時間に、さらに多くの人が電波やネットで速報を知る。速報性を重視するなら、印刷媒体は不利な時代になった。

 しかし、速報を知っている人達も号外を喜んで受け取る。中には、電波やネットで速報を知ってから、出されるであろう号外を入手するために出掛けてくる人もいたりするとか。号外は、歴史の一場面に立ち会っていたことの記念物と見なされているのかもしれない。さらには、新聞社が宣伝目的をかねて発行するとの指摘もあり、TVニュースでは、題字がしっかりと見える号外を受け取る人々が映る。

 速報という目的が希薄になった号外だが、新聞社は発行することをやめない。速報を知らない街行く人が、受け取った号外を見て驚く姿が、新聞社としての使命感を呼び起こし、充実感を与えるのか。世の中で起きていることを一刻も早く知らせるという使命感を新聞社の基本として考えるなら、新聞社の今後の活路が見えてくる。

 ネット時代になって紙の新聞の存在意義が問われるようになった。速報性では圧倒的に劣勢なのだから、分析や評論などに重点を移すべきとされたり、細部よりも出来事や事件などの全体像を読者が把握できるようにすべきとか、資料として活用できるように記録性を重視すべきとか、様々な“活路”が示された。

 一方で、ネットに新聞社は積極的に対応すべきだと誰もが考えるのだろうが、立ちはだかるのが「収益性の壁」だ。すでにネットでは、無料でニュースを見ることが定着しているだけに、今さらニュース閲覧を有料化しても、囲い込むことができるのはごく少数になるだろう。無料では収益は得られず、有料化すると売上げがガクンと減る……ネットと新聞は相性が悪いのか。

 新聞社の重荷になっているのは、新聞の製作・販売に大勢の人員を抱えていることだ。全国の新聞販売店を各新聞社で共有するなら、各社の販売経費は大幅に減る。さらに、印刷工程を外注化して印刷所を各社で共有するなら、さらにコストは大幅に減る。ファブレスで身軽になった新聞社が取材・紙面作成に特化するなら、ネットに期待される収益性は、もっと低いものになるだろう。

 号外が有料だったなら、どれだけの人が買うのか。つまり、ニュースは買うものなのか、無料で提供されるものなのか。無料で提供されるべきとするなら、ニュースは公共財だともいえる。号外を発行するのが新聞社の使命感から来ているとすれば、速報に最適な場でもあるネットでの戦略は、有料化して囲い込むことだけが選択肢とはいえないだろう。号外を発行する精神で臨むなら、新しいネット戦略が見えて来るかもしれない。

2015年6月20日土曜日

聖なる存在


 寒山拾得(かんざんじっとく)とは寒山と拾得のことで、「2人とも詩禅一如の生活を送り、その挙動すこぶる奇矯であったという。後世、禅画の好題材となったほか、文芸・芸能の材ともなった」(大辞林)。寒山は「中国、唐代の伝説的な詩僧。拾得とともに天台山国清寺に住し、その詩と称されるものが伝えられる」、拾得は「中国、唐代の伝説的な僧。天台山国清寺の豊干に師事したという。脱俗の風格をもって知られた」とある。

 名が伝わっているのだから、この2人は高名な僧だったように見えるが、僧としては位は低かったらしい。拾得は豊干禅師に拾われて国清寺の厨房で働き、寒山は拾得から残飯を得ていたという。そんな2人がなぜ後世にまで伝えられたかというと、ボロをまとい、風変わりな振る舞いだったことが豊干禅師の伝記に記されたから。

 寒山や拾得は世間の慣習などにとらわれず、好きなように振る舞ったのだろうが、それができたのは、食を乞うて生きていただけだったからか。家も持たず、家庭も持たず、何の欲も持たなかったのなら、思いのままに超俗的に生きることもできただろう。我が身一つと思いなしたなら、脱俗に生きてみせるのも割に容易だったかもしれない。

 そんな人物なら、多くはないものの珍しくもなさそうだが、2人の名が残ったのは、聖なる存在との見立てがあったから。豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身とした。森鴎外の『寒山拾得』では豊干に「国清寺に拾得と申すものがおります。実は普賢でございます。それから寺の西の方に、寒厳という石窟があって、そこに寒山と申すものがおります。実は文殊でございます」と言わせている。

 みすぼらしく貧しく生きていると傍からは見える人物が超俗的な存在に見立てられるのは、その生き方から、俗世間とは別の価値があると思わせるものが漂う時だろう。財産も名誉も人の縁も、この世限りのもので、永遠に続く価値だとは誰も思っていないから、超俗的に好きなように振る舞う人物は特別な存在とも映る。

 一方で、超俗的に振る舞ったりはしないが、貧しく懸命に生きている人を聖なる存在とする見方がある。水上勉の『はなれ瞽女おりん』では、1人で生きていかざるを得なくなった離れ瞽女のおりんに向かって、自身も盲目の寒村の婆さまが「人間は千差万様の顔かたち、心かたちをして生きておりまするけれど、み仏は、みなその躯に同じ一つの仏性をあたえられ、うちなる仏に心気づかずして、極道する者は極道をなし、働くものは働きして生きておりまするが、人間世界はみな平等。他人に陽があたる時は、わが身に陰がき、他人に陰くれば、我が身に陽があたるは家の表と裏をみてもわかる道理。けれども、六十六部、瞽女さまだけは、陽があたれば、その陽を他人にあずけられ、年ぢゅう陰の地を暗い苦を背負うてひたすら旅なさる。これみな、おららの罪業、諸悪にみちた黒い躯の、悪の血をひき吸うて下さるみ仏でなくて何でござりましょう」と言う。

 婆さまは「おまんを仏と思うて手をあわせますぞ」と瞽女を拝んだ。貧しく苦しく生きる人にとって、地を這いながら懸命に生きる存在が尊く見えることもあるのだろう。他人を思いやる心があり、他人を見つめることができるなら、この世に聖なる存在は珍しくはなく、あちらこちらにも存在するのかもしれない。そうした存在に誰もが、気づくことができる……ものではあるまいが。

2015年6月17日水曜日

天動説的な仮想世界


 地動説を支持したことでローマ教皇庁から異端審問を受け、有罪を言い渡されたガリレオ・ガリレイは、「それでも地球は動く」とつぶやいたとされる。この言葉は後世の創作だともいうが、時の権力がどんなに圧力を加えようとも科学的真理が揺らぐことはないとの、目覚めた理性による言葉として伝えられてきた。

 当時の宇宙観の定説は、地球が宇宙の中心にあって、太陽などは地球の周りを回っているという天動説だった。天動説の歴史は長い。古代から人間は、太陽や月、夜空の星々を見上げて様々な宇宙観を作り上げたのだろうが、紀元前の古代ギリシャの天文学者プトレマイオスが集大成し、天動説の基礎を築き、それが学問として発展した。

 天動説は誤りだと教えられる現代人は、東から太陽が昇り、空を渡って、夕方に西に沈んでも、太陽が地球の周りを回っているとは考えないだろう。だが、天動説の方が実感に近いかもしれない。地球の自転を感じることはできないが、地表に住む自分らの上空を太陽が動いているようには見える。地球を中心に周回する月の動きと、太陽の動きが、同様のものに見えたとしても不思議はない。

 理論が実感を裏切るのか、実感が理論を裏切るのか定かではないが、天動説は誤りだと教えられているから現代人は、太陽は動かず地球が自転しているということに疑問を持たない。でも、地球の自転を実感することは困難だ。フーコーの振り子を見て、それが地球の自転の証しだとされるから、なるほどと思うのだろうが、理解できる人はどれほどいるのかな。

 地球の自転は大規模な運動だ。地球の円周は約4万キロメートルで、24時間(1日)で1回転するから、24で割ると時速1666キロほどになる。分速にすると約28キロメートル、秒速にすると約470メートル。地表にいる人は凄まじい速度で移動しているのだが、大気を含めて地表の全ても同じ速度で動いているので、周囲は動いていないように見える。

 自然科学だから、実感と理論が違っていても、客観的なデータにより検証された理論の方が正しいと人は理解することが可能だ。だが日常生活では、自然現象や社会現象など見聞きする事柄をいちいち理論的に検証する人はごく少数で、実感が優先されるほうが多いだろう。さらに人文科学では「客観的なデータ」は乏しく、多くの学者が認めたからといって、真理とは限らない。日常の世界は、天動説的な仮想の世界なのかもしれない。

2015年6月13日土曜日

神の怒り


 マレーシア・ボルネオ島で5日に発生したマグニチュード6.0の地震で、キナバル山(4095m)では地滑りや落石により登山客18人が死亡した。マレーシアは火山も地震もなく、台風の襲来もなく、天災リスクが世界的に低いとされていたので、今回の地震に現地の人々は大層驚いたそうだ。

 そのキナバル山の山頂付近に地震発生当時、187人の登山客らが取り残され、大半が自力で下山したというが、犠牲者が出た。世界遺産のキナバル山は東南アジア最高峰で、麓はジャングル、登るにつれて植生が変化し、山頂に近づくにつれて植物は見られなくなるという。登山道や宿泊設備は整備されているといい、日本から全5、6日間の登山ツアーが発売されている。

 地震の1週間前にキナバル山の山頂付近で、裸になって写真撮影したり、放尿したりした10人の外国人登山客がいた。彼らが山頂で裸になった理由は伝えられていないが、ガイドの忠告を無視して、裸になったり、放尿したという。さらに、その写真をネット上に投稿していたというから、「思い出」づくりのために旅先でバカを演じただけかもしれない。

 10人のうち4人(カナダ人、英国人、オランダ人)をマレーシア警察が9日に逮捕、裁判所は公然わいせつ罪で有罪とし、禁固3日と罰金、国外追放の判決を下した。キナバル山は先住民族の聖地であり、5日の地震は「山の怒り」がもたらしたとの説が地元で広まっていたというから、警察は外国人登山客の行為を無視できなくなったのだろう。ネットの写真で人物を特定したそうだ。

 外国人登山客が自国の山でも気軽に裸になっているのかどうかは知らず、登山して山頂で裸になることが流行っているのかも知らないが、趣味が悪い行為だ。山岳信仰は世界各地にあり、人々に大切にされる山は世界各地にある。キナバル山での行為は現地の文化に対する冒とくであったことは確かであり、止めようとしたガイドに罵声を浴びせたともいうから、思慮の浅い人達であったのかもしれない。

 ある山が精霊が宿っている聖地である……ということは客観的には証明できない(キリスト教などの神の存在だって客観的に証明できない)。ある信仰を迷信だと軽んずることは、現地の文化への気配りに欠け、他者の宗教を尊重していない行為だ。信者にとって信仰は主観的には絶対のものであるだろうから、互いに他者の信仰を尊重しなければ、摩擦が起きるだけだ。

 裸になったり、放尿した外国人登山客の行為と地震に関係はないだろう。だが、自然に対する敬意に欠けた行為であることは明らかだ。彼らは単なる解放感(旅行先の外国でもあるし)からハメを外しただけかもしれないが、愚かさを世界に発信した。登山という行為を神聖視するつもりはないが、商業化されたツアー登山は、行かなくてもいい人まで山頂に行くことができるようにしている。

2015年6月10日水曜日

情報を隠して危機管理?


 韓国で中東呼吸器症候群(MERS)コロナウイルスの感染拡大が続いている。感染の確認が遅れ、感染者が隔離されず、病院内で2次感染が起き、さらに3次感染が広がるなど、韓国では危機管理体制に問題があることをまたしても露呈した。北朝鮮と対峙している分断国家であるから、危機管理には敏感になりそうなものだが、実態は違うらしい。

 報道によると、バーレーンから帰国した最初の感染者が風邪の症状で病院を受診したのが5月12日。症状が悪化したので別の病院に入院したのが15日。さらに17日には別の病院で受診し、翌18日に別の病院に入院し、ここで初めて医師がMERSの感染を疑い、国の疾病管理本部が検査して20日にMERSに感染していたことが確認された。

 15日に入院した病院で、同じ病室にいた患者と付き添いの家族、見舞客36人が感染したそうだが、MERSであることの確認が遅れたため、2次感染者から感染が拡大した。最初に感染した患者は、MERS感染が確認されるまでに4つの病院を次々に訪れていたのも、感染を拡大させただろう。さらに隔離対象人が国内外を勝手に動き回るなど、人々の防疫意識の面での問題も露呈した。

 MERS感染が確認された後に韓国政府は、不安を煽るとして情報公開に消極的だった。中国政府が長江フェリー沈没事故で取材や報道を規制し、指導者らの「的確な指示」や救助担当者らの懸命さだけを美談として伝えさせて、政権批判を封じ込めようとしていることに影響を受けたのか?と皮肉りたくなる光景だった。

 だが、情報統制が常態化している中国と異なり、成熟してはいないが民主主義国である韓国では、情報は隠しおおせるものではない。自分らは安全なのか、どういう経路で感染が広がったのか、感染者はどう動いたのか、感染者と誰が接触したのか等……情報を隠すことが逆に人々の不安を煽ることとなり、情報公開を求める圧力が韓国政府にかかった。

 危機の存在が明らかな中で、的確な情報が発信されないことが、人々の不安を煽るとともに苛立ちをも強めることは、日本人の多くが福島第一原発の水素爆発後に経験したことだ。あの場合は、情報を隠したというより、政府が混乱していたのであろうが、今回の韓国政府の対応は、情報を統制しようとして、不安を煽ってしまったという、感染症対応の失敗例の典型だろう。

 そこには、ネット社会である韓国ではデマが広がりやすいということが影響しているのかもしれない。だが、韓国政府に人々に対する信頼があれば、隠すことより、的確な情報を適時発信するということを選択したはず。一方で、デマに動かされる社会とは、人々の情報リテラシーが低い社会でもある。デマに動かされる人々が政府を信頼せず、政府も人々を信頼しないなら荒んだ社会だ。

2015年6月6日土曜日

生きているだけで丸儲け


 幼い子供を失って親などが憔悴している様子を、「かける言葉が見つからない」と表現することがある。そんな状態で心が悲しみで溢れている人にとっては、どんな慰めの言葉だろうと心にとめる余裕がないだろうし、亡くした子供のことしか考えていないことが傍からもうかがえ、一層の同情を誘う。

 肉親を亡くしたほどではないが、ひどく落胆している人などを慰め、当人に立ち直りの気配が出てきた頃に、元気を出せよと励ます言葉に「そのうちに、いいこともあるさ」がある。人生は悪いことばかりじゃない、いいことだってあるだろうから、頑張って生きろよと励ます。生きる意欲をかき立てて、前向きに踏み出すことを後押しする。

 似た言葉に「生きているだけで丸儲けなんだから」があるが、少しニュアンスが異なる。この言い方は、いい加減な言葉にも聞こえる。生きているだけでいい……なんて無責任だという批判もできそうだ。確かに、人間は生きる中で様々な社会的貢献をすべきだろうし、より素晴しい世界になるように務めるべきだろう。でも、落胆から立ち直る時に、個人の存在そのものを肯定することは励みになる。社会的なことについて考えるのは後からでいい。

 「生きているだけで丸儲け」というのは精神論のようだが、実は科学的にも正しい言葉だ。人間は誰もが、この世界にただ1人の存在だ。複数の人間が全く同じ人生を送ることはない。1人の人間が存在することは特別のことであり、それだけで価値がある。人類が誕生してから百億人以上の人間が地球上で存在しただろうが、誰もがただ一つだけの特別な人生を生きたし、生きている。

 38億年も昔に地球のどこかで誕生した原始生物が生命をリレーし続け、その延長に一人ひとりの人間は位置する。そうして生まれた人間は、一人ひとりが独自の人生を送る。同じ人生はない。人生には規格品はなく、全てが特別な人生なのだ。この世に誕生して生きることができれば、それだけで特別な体験であり、生命体としては丸儲けなのだ。

 その特別な人生も、人によって様々な軌跡をたどる。喜びもあれば悲しみもあり、いいこともあれば悪いこともある人生がフツーかもしれないが、不運続きの人生を送る人もいようし、幸運続きの人生を送る人もいよう。たとえ不幸続きであろうと不運続きであろうと、それも、その人にしか経験できない1回だけの特別な人生。どんな人も、どんな人生も、生きているだけで価値がある。

2015年6月3日水曜日

発想を変えて空き家対策


 空き家は全国に820万戸と5年で63万戸増え、総住宅数6063万戸の13.5%を占める(2013年)。総住宅数は5年で305万戸増え、共同住宅2209万戸も5年で141万戸増えたが、世帯数は5459万と総住宅数より少ない。住宅は余っているのだから、人が住まない空き家が増えるのは当然だが、放置された空き家が目につくようになり問題視されている。

 空き家は、別荘などの二次的住宅、空いている賃貸用の住宅、売却用の住宅(新築含む)、その他の住宅に分類されるが、数では賃貸用住宅とその他住宅の空き家が多く、それぞれ空き家全体の4割以上になる。問題になっている放置空き家は、その他住宅に含まれる。

 放置された空き家は地方でも都市部でも増えているという。家を建てた親が死んだが、子供らは離れた地域で生計を建てていて住み手がなく、相続した親の家が放置されたままになったり、売ろうにも買い手がおらず、貸そうにも借り手がおらず、そのままにして置かれたりする。

 手入れがなされず放置された空き家は傷みが進み、外壁や屋根などが崩れたり、台風や降雪などで倒壊する恐れが出てきたり、放火や不審者が侵入する可能性があったり、子供らが入り込んだり、不法投棄の場になったりして周囲の景観を害すことにもなり、放置空き家は地域社会の問題にもなる。

 放置空き家を減らすために、危険な状態になった放置空き家は、条例で強制的に空き家を撤去できるようにしたり、撤去に補助金を出したりする動きがある。一方で、使える住宅なら「空き家バンク」などで借り手を広く捜して利用を促したりする。ただ、空き家バンクで地方でも都市部でも借り手が増えたかどうかは定かではない。

 借り手や買い手が簡単に見つかるなら、放置空き家が問題になるはずがない。相変わらず“使い捨て”住宅が新設され続ける一方で、高齢化が進みつつ人口は減り始めて世帯数も減るだろうから、空き家は今後も増え、放置されるものも増えよう。つまり、空き家を活用するには発想を変えて対処するしかない。

 ポイントは、所有権のシバリを緩めること。例えば、3年以上放置されている空き家に住み着いた人に対して、所有者から3カ月以内に退去要請が出されなければ、借家権が発生し、継続して住むことができるようにしたり、10年以上放置されている住宅なら、住み着いた人に所有権が移るようにしたり、倒壊の危険が高い住宅は地方自治体が廉価で没収できるようにする。

 放置された空き家に不審者が住み着いて薬物の製造販売などに利用されたりすることは避けなければなるまいが、例えば、ホームレスの人が放置された空き家を住居にでき、仕事を探して再出発の基盤になるのなら、社会としては一石二鳥だろう。

2015年5月30日土曜日

迷走する憲法観


 5月3日の憲法記念日に合わせて毎年、新聞などは憲法についての記事を掲載し、各地で憲法を巡る集会が開かれ、その様子はTVなどでも大きく扱われる。だが1、2日後には憲法に関する記事はほとんど姿を消し、TVではUターンラッシュが大きく扱われるようになる。憲法は、数ある季節ネタの一つになってしまったようだ。

 憲法は国の基本的在り方を決める最高法規であるとされるが、日本人自身が主体的につくりあげたという実感が乏しいのも事実だ。日本国憲法だけではなく、大日本帝国憲法も同様で、どちらも国家観を巡って日本人による広範な議論から誕生した憲法である……とは言いがたい。

 つまり、日本という国の基本的在り方について、日本人による真剣な議論が足りなかったンじゃないかという疑問が、憲法論議の陰に潜んでいる。日本という国家意識が日本人に定着したのは維新以降の、中央集権による明治政府が誕生してからであろう。日本という国の在り方を巡り自由民権運動などはあったが、それらが憲法の内容に反映していたとは見えない。

 大日本帝国憲法のもとに運営された日本という国家は隆盛をとげたものの、1945年に敗戦し、占領されて、再び主権を回復して独立国となるまでに7年を要した。ボロ負けの敗戦により国家主権を失ったことで、大日本帝国憲法による国づくりには重大な欠陥があることを日本人は痛感し、認識せざるを得なかった。

 敗戦から2カ月ほどでマッカーサーから急かされて日本政府は憲法改正に動き始めたが、大日本帝国憲法の影響下から抜け出すことができない案しかつくることができず、「マッカーサー草案」を受け入れて日本政府案を作成し、それが議会で承認された。ここでも、日本人による広範な議論を経て、1945年以降の日本という国の在り方を決めた……とはいえない。

 とはいえ、日本国憲法を日本人は受け入れた。それは、敗戦から1年足らずの当時は戦争に対する拒否感・嫌悪感が高まっていたからだろう。二度と戦争はごめんだという気持ちが強く、個人を縛る統制国家ではない、個人の自由を尊重する国家に期待したからかもしれない。そして、米軍の駐留が続く中、日本は経済的に発展した。

 憲法を巡る今年の報道では、自民党が憲法改正に具体的に動き出したことが大きく取り上げられていた。といっても、環境権などを掲げて“お試し”改憲を狙う方針というので、改憲のハードルを下げることが狙いのようだ。解釈改憲で、憲法を棚上げにしたまま、その時々の内閣により「国の形」が変えられることよりも、お試しではあっても憲法改正を試みるほうが、政治姿勢としては真っ当だろう。

 日本における憲法論議で今、日本人自身による日本という国の在り方を巡る広範な議論が沸き起こっているのだろうか。王制に対する市民革命を経ていないが、日本人は近代憲法を手にすることができた。その憲法を政党や政治家任せにせず、日本人自身がどうするのかが問われている。だから、護憲も選択肢として、今後どのような憲法を日本人が持つかということは、日本人の政治的な成熟の度合いを示す。

2015年5月27日水曜日

学問の領域と政治の領域


 米国などの日本研究者187人(当初)が発表した「日本の歴史家を支持する声明」の文中に、「多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、いまだに難しいことです」とあり、“歴史認識”の問題が日本にだけあるわけではないことを認めている。が、日本だけが槍玉に挙げられることについては何も語らない。

 声明は不正義の例として「第2次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに40年以上」かかったことや、「アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに1世紀」かかったが、「人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くって」いるとする。

 さらに「米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、19・20世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません」とする。確かに米国、ヨーロッパ諸国は、世界の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分には取り組んではいない。

 そういう認識なら、日本だけが歴史認識の問題で槍玉に挙げられることに興味を持つのが日本研究者だろう。各国が「クリア」している歴史認識の問題を、日本が「クリア」できていないとすれば、戦後処理に問題があるのか、政治体制に問題があるのか、社会的な問題があるのか、比較研究の格好の材料だ。それは日本研究をより深めるために有効だろう。

 声明は「今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です」と促す。日本に歴史認識で問題があることを前提とした“助言”だ。韓国、中国が外交問題化していることが大きく影響して、日本における歴史認識がクローズアップされていることを日本研究者は承知の上で声明を出したのだろう。

 その韓国、中国にも、例えば、朝鮮戦争の開戦責任など歴史認識の相違はあるし、自国が関わる「慰安婦」絡みでは隠していることがあり、中国が共産党支配に都合の悪い歴史を封じ込めていることも知られている。国が異なれば歴史認識の「正しさ」が異なるのは当然だが、自国の「正しさ」を主張するために他国を貶めることも珍しくはない。

 だからこそ歴史研究は様々な政治から距離をとり、政治などに左右されない事実だけを歴史から抽出することが研究者の重要な役割となる。そうした確かな事実だけを積み重ねて研究者が再構築した過去を論じる時に、初めて研究者の主観が示されるべきで、事実認定に研究者の主観を付着させるべきではない。政治などに左右されない事実を抽出することは、社会に冷静な判断材料を提供することにもなる。

 なお、日本では15年戦争を肯定したり、旧日本軍を含め戦時体制を懐かしがるような動きは根強く存在したし、「戦争を知らない」世代が多数になるにつれて、そうした見解の表明への抵抗が薄れているようにも見受けられる。そうした風潮への批判はあって当然だが、それは学問の領域ではなく、政治の領域だ。

2015年5月23日土曜日

全能の神の存在


 この世界をつくった全能の神がいて、その神が人間をもつくったとする。人間にとって全能の神は、自分たちを生んでくれた親みたいな存在なのであるから、あがめる対象となるのが当然のはずだが、そうはならなかった。この世界には全能の神の存在を信じない人々が多数いる。それで、神は御言葉を人間に下しおかれ、「神を信じよ」と人間に布教活動を始めさせた。

 ここで疑問が出てくる。全能の神が人間をつくった時に、全能の神が存在することを人間の記憶に埋め込んでおけば、後になって「神を信じよ」などと布教活動を人間に行わせる必要もなかった。唯一の全能の神が存在することを人間が知っていれば、数多の宗教が誕生する余地は少ないだろうから、宗教を背景とした紛争、戦争なども起こらなかったかもしれない。

 全能の神は、人間をつくる時に、神の記憶を埋め込むことをなぜ行わなかったのか。考えられるのは、1)神がつくった、初めての人間には神の存在が見えたので、後の人間も同様だと神は思い込んだ、2)人間が神の存在を疑うようになるとは神は予想しなかった、3)神の記憶を人間に埋め込むことを神は失念した。

 いずれも全能の神がミスったということであり、これらは神の全能性に疑問符をつける。つまり、「神を信じよ」と人間に布教活動をさせなければならない神は、全能の存在ではなく、間違うこともあるという人間臭い存在。そんな神がつくったという世界に、不備やトラブルが多いのは当然か。

 他に考えられるのは、4)世界に人間が増えてから、神を敬ってほしいと全能の神が思うようになった、5)人間の信仰心を試すために、神の記憶を人間に埋め込まなかった。4)は全能の神が気まぐれでもあることを示すもので、これも全能性を傷つけよう。5)は、全能の神がつくった人間を「なぜ、わざわざ神が試すのか」という根本的な疑問を消すことができない。人間世界を全能の神は、ゲームを見るように面白がって見ているのか。

 さらに、6)全能の神は人間には関心がないから、神の記憶を埋め込まなかった……とも考えられる。多くの人間にとって、足元で動くアリたちの存在に関心がないように、神にとって人間は、死のうと生きようと、苦しもうと楽しもうと、どうでもいい存在でしかないから、無関心だとの解釈だ。すると、人間が行う布教活動にも全能の神の関与はなく、人間が思いついたものでしかないことになる。

 神が全能であり、神の存在を人間に認識させようと神が考えるなら、生きている全ての人間の記憶を操作して、全能の神の存在を新たに埋め込むこともできるはずだ。「神を信じよ」などと人間に布教活動させるよりも遥かに効率的だ。だが、そんなことを全能の神は行わない。全能の神が存在するという徴候さえ示さない。

 ここから導き出されるのは、1)全能の神は存在しない、2)全能の神は存在するが、人間には無関心、3)神は全能ではない……のいずれかだ。神が全能ではないとするならば、全能の神を想定する宗教は人間の創造したものとなろうし、全能の神が人間に無関心なら、神に救いなどを求めても無駄だ。神は全能ではなく、人間臭い存在だとするならば、八百万の神々やギリシャ神話の神々のイメージになる。

2015年5月20日水曜日

事実に対する誠実さ


 米国などの日本研究者187人が発表した「日本の歴史家を支持する声明」の目的は何だったのか。声明は、第二次大戦後の日本の歩みを肯定的に評価しながら、世界から祝福を受けるにあたっては障害となるものが歴史解釈の問題で、最も深刻な問題の一つが「慰安婦」制度の問題だとし、慎重な言い回しながら日本政府に「言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる」ことを促す。

 声明作成のまとめ役となったジョージタウン大のジョルダン・サンド教授はインタビューで、日本の「憂慮すべき風潮に対する意見」だとし、「ジャーナリストに対する脅迫が起きている」ことや「日本にいる研究仲間は政府の財政援助を受けるために、ある種の問題を扱えない」ことなどを見て、「仲間として意見を述べるときが来た」と判断したそうだ。

 それで声明の中ほどで「私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます」としたのだろう。歴史研究の自由を守るとか、それを政府が尊重するように求めるのは当然だ。だが、「慰安婦」問題においては、歴史研究の自由が失われ始めたのか、事実関係の見直しが始まったのか、どちらなのだろうか。

 タイムマシンがないため研究者は事実関係を直接検証できず、歴史研究は文献や関係者の証言などに頼るしかない。定説や歴史的事実だとされているものは、新たな史料や証言などにより新事実が判明すれば書き換えられる。そうした誠実さが歴史研究を支え、また、社会から信頼される条件ともなる。

 声明の重点は「慰安婦」制度の問題だ。「規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべき」とする一方、軍関係資料のかなりの部分は破棄されたとし、被害者の証言の信憑性について留保しつつも「証言は全体として心に訴える」とする。歴史研究において“心”はどう客観化できるのか。

 さらに「永久に正確な数字が確定されることはないでしょう」と政治的対立に巻き込まれないよう研究者としての逃げ道を確保してから、「日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません」と断ずる。正確な数字に少しでも近づくように努力することが研究者としての誠実さの一つだろうに。

 日本軍の直接関与について異論があることは認めつつ、「大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている」と論をすり替え、「限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません」とする。互いに立場によって資料を使い分ける?

 朝日新聞が大誤報を認めて以来、「慰安婦」制度問題で歴史的に事実と見なされるのは何なのかが揺らいでいる。学問的に検証された事実を提示することが、政治的な立場にとらわれない(はずの)歴史学者の役割だろう。米などの歴史学者が為すべきことは、日本に向って歴史研究の自由を訴えることではなく、「慰安婦」制度について、学問的に信じるに値する事実だけを抽出することだ。朝日や吉田証言など信憑性が疑われるもの、根拠が怪しいものを全て除いて、新たに検証し直すことが誠実さの証しともなる。

2015年5月16日土曜日

動いている地表


 ネパールで4月25日にM7.8の地震があり、周辺のインドや中国、バングラデシュを含めて死者は8100人を超え、全半壊の建物は57万棟、政府施設の全壊も1万以上と甚大な被害になっている。震源に近い首都カトマンズでは世界遺産の歴史的建造物が崩壊し、観光客のキャンセルが相次いで主要産業の観光業に対する打撃は大きい。

 ネパールの面積は北海道の1.8倍で、人口2600万人余。GDPは約221億ドル、1人当たりGDP約703ドルの後発開発途上国で、GDPの約34%及び就労人口の約66%を農業に依存。各国政府・国際機関から多額の開発援助を受けている(外務省サイトから)。大地震後の経済再建に必要なコストは50億ドル以上で、ネパールのGDPの2割に相当するとも推定されている。

 ヒマラヤ山脈を国土に含むネパールは、ユーラシアプレートと、南側から北上するインド・オーストラリアプレートの衝突帯の上にあり、そこで地震が起きた。震源の断層は東西150キロ、南北120キロに及び、場所によっては4m以上ずれたという。

 地球の地殻が十数枚のプレートに分かれていて、それらが移動して押し合っているため地震などが起きるというのは「地震多発国」日本ではお馴染みの説明だろう。インド・オーストラリアプレートは北上を続け、インドがユーラシア大陸に衝突してヒマラヤ山脈やチベット高原が形成されたのだが、その動きは続いていてヒマラヤは今でも年々高くなっているというから、自然界のエネルギーは巨大だ。

 日本でも、北上するフィリピン海プレート上にある島が本州にぶつかって伊豆半島となり、丹沢山地が形成されたというから、「国の形」は常に変化の中にある。さらにプレートに乗るオーストラリアも北上を続けていて、0.5億年後には日本列島に衝突し、ボルネオやフィリピン、日本列島などが巨大山脈を形成するというから、今のネパールと似た環境になっているかもしれない。

 陸地の形が一変する0.5億年後の地球は、どんな世界なのだろうか。約500万年前に猿人が現れ、約170万年前に原人が出現し、約20万年前に、現世人類の直接の祖先となる新人(ホモ・サピエンス)が現れて生命をつないできたのだが、0.5億年の人類はどんな形態で存在し、どんな文明をつくっているのか(想像もつかないが、見てみたいなあ)。

 地球上で1.6億年以上も繁栄した恐竜は滅びたが、代わりに哺乳類が栄え、人類が栄える。そんな様々な生命を乗せて、地表は動き続ける。地球も社会も常に変化しているのなら、固定した世界観にとらわれていては見えないものが結構ありそうだ。

2015年5月13日水曜日

度が過ぎる横やり


 福岡、長崎、鹿児島など8県の製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業等の23施設が「明治日本の産業革命遺産」として、ユネスコの世界遺産に登録される見通しになった。7月にドイツで開かれる世界遺産委員会で正式に決定されるというが、韓国が異論を唱え、投票に持ち込んで阻止しようとしているので、日本で19件目の世界遺産が誕生するかどうかは定かではない。

 この産業革命遺産は、1850年代から1910年、西洋技術が日本の伝統文化と融合し、造船、製鉄・鉄鋼、石炭の重工業分野で産業国家となった道筋を時系列で伝えているとされる。官営八幡製鉄所(福岡)や「軍艦島」(長崎県の端島炭坑)、松下村塾など九州、山口県の施設が中心だが、橋野鉄鉱山・高炉跡(岩手)、韮山反射炉(静岡)なども構成遺産になっている。

 産業革命は英で始まり、欧州各国が続いた。近代化に関する産業遺産は欧州では世界遺産登録されているそうだが、欧州以外で重工業分野の近代化を達成したのは日本が初。韓国で重工業分野が発展したのは朝鮮戦争が終わってからだし、中国では20世紀後半になってからだ。「明治日本の産業革命遺産」の登録は、欧米以外で最も早く産業化し、近代化した日本にふさわしいものであろう。

 発表のあと、連休ということもあって、構成遺産となる各地の産業施設などでは観光客が増えたという。正式に決定したなら各地で観光ブームが沸き起こりそうだ。ただ、一過性のブームで終わらせないためにも、8県23施設は単なる観光地としてではなく、日本における産業近代化の歴史を伝える役割を果たして欲しいものだ。

 韓国政府は、戦時中に長崎市などの7施設に、強制徴用された朝鮮人約5万7900人が動員されたと主張し、世界遺産登録に反対する。「軍艦島」など構成遺産の一部について申請撤回を求め、国会の外交統一委員会も非難決議を採択するなど、反対のボルテージを上げている。以前から反対運動を続けていたのに、登録を阻止できなくなりそうで、悔しさは一層増すのだろう。

 韓国は、大統領が訪問先国で日本批判を行うなど異常な外交を続けてきたが、そのことで何を得たのだろうか。日本の国際的地位が下がったわけでもないし、韓国の国際的地位が上がったわけでもない。「歴史問題」を持ち出すことで韓国を“被害者”と位置づけることはできたかもしれないが、国際外交において“被害者”だからといって何でも言うことが通るわけでもない。

 韓国政府が望んでいるのは何か。強制徴用された朝鮮人には給与が支払われていたともいい、未払い分については1965年の日韓基本条約(韓国は対日請求権を放棄)で決着がついている。韓国がどうしても見直したいというのであれば日韓基本条約を破棄すべきだろうが、そうなると日本が放棄した「朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産」の対韓請求権も復活する。対日請求額と対韓請求額のどちらが大きいのか。

 確かなことが一つある。「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産への登録が韓国の“努力”により見送りになった場合、日本国内における韓国イメージは大きな打撃を受けよう。今回の構成遺産は全国に点在し、登録確実ということで喜ぶ人々は多い。韓国政府が日本国内で嫌韓感情をもっと広く蔓延させたいと狙っているなら、登録阻止は有効に機能するだろう。

2015年5月9日土曜日

客人


 高倉健が主演し、大人気だった任侠映画で、欠かせない登場人物だったのが「客人」だ。主人公の高倉健をつけ狙う悪辣な組織に雇われた、凄腕の一匹狼という設定。といっても単純に主人公を襲い続けるのではなく、要所要所で現れては主人公と対立しながら会話をし、ストーリーを進めて行くという重宝な狂言回しの存在。

 この客人には大別して2タイプある。悪辣な組織と一体となって主人公を襲い、返り討ちにあうタイプと、秘かに主人公を応援して助けるタイプ。後者は更に、1)悪辣な組織から裏切り者とされて殺されるタイプ、2)最後に主人公と共に悪辣な組織との闘いに立ち上がるタイプに分けられる。

 悪辣な組織から殺される客人の場合は、その死を見て主人公の怒りが一気に高まり、大団円の殴り込みへとつながったりする。こうした客人は、どこか善人風な設定で、あまり強そうに見えないことも多い。一方、主人公と共に最後に悪辣な組織と闘う客人は、強いけれど、世間を冷めた目で見ているニヒルな人物に描かれる。敵に回すと手強いけれど、味方になると頼もしいといったイメージだ。

 映画などでは主人公の強さを強調するために、敵対する相手側も強そうに描かなくてはならない。強い相手を倒してこそ、主人公の強さが際立つ。だから、強そうだった客人が、あっけなく悪辣な組織に殺されたりすると拍子抜けだ。組織の悪辣さと、主人公の善良さを浮かび上がらせる役割の客人が、実は弱かったと見えてきて、主人公の強さが浮かび上がらない。

 相次ぐ暴力団に対する法規制で現実の客人の渡世は厳しくなったかもしれない。そんな中、一人暮らしの堅気の友人の家を訪れる客人がいる。そいつは虎縞の猫。ふらっと庭に現れるようになり、友人が放るエサを奪うようにくわえて走り去っていたが、やがて友人の見ている前でエサを食べるようになり、いつしか家にも上がるようになった。

 そいつを友人は「客人」と呼んでいる。どこかに本宅がある気配だが、ふらっと姿を現し、時にはエサを催促したりするようになったという。最近は、エサを食べる客人に友人は「いいか。客人。一宿一飯の義理というものがあるんだぞ」と話しかける。猫はニャアと応えることが、あるそうだ。

 こちらの客人が強いかどうかは、友人は周辺の猫の勢力関係に疎いので詳らかではない。見た目には、大して強そうには見えないとのことだが、エサを食べた後、お気に入りのイスに上がって一眠りして行くそうだから、一人暮らしの友人のいい気散じの相手にはなっていそうだ。

2015年5月6日水曜日

殺される黒人


 米でまた、警察と関わった黒人男性が死亡し、人々が抗議している。ボルティモアの検事によると、黒人男性フレディ・グレイ氏は4月12日、警官と目が合い、飛び出しナイフを所持していたとして拘束され(ナイフは合法の種類だった)、警察車両で移送中に頸椎を損傷、グレイ氏が痛みを訴え、治療を求めたにもかかわらず、意識不明になるまで警察官は無視し、すぐに病院に搬送しなかった結果、19日に死亡したという。

 死亡が明らかになった後、抗議デモが始まり、27日には黒人住民らの一部が暴徒化し、州知事は非常事態を宣言、州兵を派遣した。抗議デモは全米に拡大、報道によると抗議の対象は、「警察の不正義」に加え、「黒人と白人の不平等」にも広がっているという。

 ボルティモア警察は調査書を作成し、4月30日に検察当局に提出したが、調査書の内容は公開されず、5月1日になって検事が、警察が男性を違法に拘束し、移送までの過程で負傷させたにもかかわらず、病院に搬送しなかった結果、死亡したとして、警官6人を第2級殺人や過失致死などの罪で起訴したことで、経緯が明らかになった。

 昨年8月にはファーガソンで黒人青年が白人警官に射殺され、今年4月にもサウスカロライナ州で、黒人男性が白人警官に射殺された。この時の、逃げようとする黒人男性の背後から白人警官が何発も発砲する様子を撮影した映像が公開され、警察の対応に批判が高まっていた。

 フレディ・グレイ氏が頸椎損傷という致命傷を負ったのは警察車両の中だったことが明らかになり、警察は言い逃れができなくなって、検事も起訴せざるを得なかった……と皮肉りたくなるほど、黒人一般人を殺した疑いがあっても白人警官は逃れてきた。だから、今回の起訴を黒人住民らは歓迎し、「今まで似たような事件はいっぱいあったが、当局に握りつぶされてきた。歴史的な第一歩だ」なんて声も伝えられた。

 ただ、問題は黒人と白人の対立にだけあるのではない。抗議デモには白人も参加していたし、警官には黒人もいる。起訴された6人の警官のうち3人は黒人だ。ファーガソンの事件で指摘されたのは、米の地方自治体の多くで交通違反切符などの罰金が収入に占める割合が高く、警察には罰金をより多く集めるよう圧力がかかるため、黒人を標的にしやすいという警察の在り方だ。

 さらに、犯罪に関わる資産を州政府や連邦政府が没収する資産没収制度の影響を指摘する報道もある。多くの罰金の徴収が期待できる麻薬犯罪の取り締まりに司法省が力を注ぎ、地方の警察署は交通違反の取り締まりなどを強化するようになるという。捕まえやすい人を捕まえて、罰金を積み上げるという警察は、怖い存在だな。

 もちろん問題の根本にあるのは、黒人男性が狙われやすいという差別構造だ。そこに経済問題も複雑に絡む。ボルティモアでは黒人は失業率が高く、低所得で貧困率も高く、多くは劣悪な住環境の一帯に住み、組織暴力との関係も取沙汰されたりする。だから黒人が警察に目をつけられやすいのかもしれないが、黒人も一人ひとりが独立した人格だ。黒人だからと、個人を無視した一般化は差別意識そのものだ。

2015年5月2日土曜日

誤報を恐れるな


 スキャンダルというと日本では、芸能人らの恋愛沙汰や金銭トラブルなど“醜聞”をさすイメージだが、もともとは汚職事件、疑獄などを意味するし、英和辞典によると「スラム街は我々の町の恥である」(The slum is a scandal to our town)などとも使われ、不名誉なこと、恥ずかしいこと、けしからぬこと等を広くさす言葉だ。中傷や悪口、陰口の意味もある。

 だから、スキャンダルを暴くのは週刊誌やスポーツ紙などの専権事項ではなく、汚職や疑獄を始め、社会に存在する不名誉なこと、けしからぬことなどを報じる一般紙もスキャンダルを暴いているといえよう。その新聞社が、社会的に大きな影響を与えた誤報を放置し、32年も経ってから誤報だと認め、訂正したというのは、報道機関として大きなスキャンダルだ。

 スキャンダルをさんざん報じてきた報道機関が、誤報を放置していたという自身のスキャンダルで騒がれているのは皮肉な光景だが、誤報は実は報道機関につきものでもある。記者の取材不足や事実誤認、編集スタッフの見逃しや事実誤認、怠慢などによって誤報が世に流れていく。どんなに綿密に取材したつもりでも、一つの事実を見落としただけで全体像が歪むことはある。

 誤報といっても様々あるが、やっかいなのが事実と主観の混同。扇谷正造氏の『夜郎自大』によると、戦前の新聞はしばしば紙面で当事者を断罪したといい、戦後の占領下でGHQは、▽事実と意見を区別して掲載せよ、▽客観的な事実に対し、記者の意見あるいは解釈を述べる場合には、記事の末尾に署名せよ、▽署名記事と報道とは、紙面をかえて掲載せよなどと指示したそうだ。

 昔から誤報は批判され、事実と主観が混同した記事も批判された……が、なくならない。誤報を減らすために記事チェック体制を見直す一方、誤報はあるものとして、報道後に厳しく客観的に検証し、誤報が疑われる記事を洗い出し、誤報と判明すれば速やかに訂正することが不可欠だ。だが、誤報を防ぐ体制が過剰な事前チェックを要することになって管理が強化され、記者の活力を削ぐことになるなら、当たり障りのない記事しか出てこなくなりそう。

 誤報はないけれど退屈で刺激もない新聞と、誤報はあるけれど活気があって刺激がある新聞のどちらかを選ぶなら、どうするか。「誤報は速やかに訂正する」という条件付きで、刺激があって活気もある新聞のほうが楽しそうだ。誤報を恐れず、誤報は記者の向こう傷……なんて実際にやられては困るが、それくらいの心意気が、常に変化を続けている世界と切り結ぶスタッフには必要だ。ただし、事実と主観の区別は誤報以前の問題。

2015年4月29日水曜日

水戸黄門の正義


 1969年から2011年まで42年間も放映されていた「水戸黄門」というテレビドラマがあった。「世の為、人の為になる時代劇」というコンセンサスのもとに誕生した(TBSの「水戸黄門」公式サイト)との位置づけだ。黄門様一行が全国を旅し、不正や悪を暴いて悪人を懲らしめ、ついでに、お家騒動も解決したりした。

 主役の水戸黄門の判断が絶対に公平で公正で、言うことが間違っていないという暗黙の前提があるから、勧善懲悪のドラマは成り立っていた。その上に、隠居した縮緬問屋を装っていた黄門様が実は「さきの副将軍」であると最後に明かされ、幕藩体制の下で黄門さまと権力との密接な関係が明示されるのであるから、悪人とされた連中は抗議することも抵抗することもできない。

 悪事を働いていた代官や城勤めの役人(武士)らは、うるさく嗅ぎ回る連中を、旅の町人だと見下して始末しようとするが、その相手が実は自分らより身分が上で、さらに検事であり裁判官でもあるというのだから、抵抗しても無駄だ。悪人らにも自分たちなりの正義があったとしても、絶対的正義の側の相手から悪と断定されたら、言い分など通るはずもない。

 もし、勧善懲悪のドラマの主人公が、公正な判断を標榜しながら実は偏った信念を隠し持っていて、ことの善悪の判断に、個人的な善悪の基準を持ち込んだ正義を振り回して、相手を悪と決めつけて断罪するというなら、そんな勧善懲悪ドラマに視聴者は違和感を感じるだろう。

 例えば、水戸黄門個人が考える正義に相手が反しているとし、相手が悪人だとするのに都合がいい証拠ばかりを集めて、「おまえは、こんなにひどい悪人だ」と断定し、印籠をかざして「控えおろう」などと反論を許さず、一方的な正義で相手を断罪するドラマ……こんなのは興ざめだな。

 ただし、勧善懲悪ドラマのストーリーは、主役を絶対的な正義の側と設定し、悪役には極悪非道な振る舞いをさせ、視聴者から悪役への反感を募らせたところで、主役が悪役に勝つのが常法。中国などで多く放送されているという、日本軍や日本人を悪役に仕立てた反日愛国のプロパガンダドラマはこのテのものだろう。主役が最後に勝つことで、主役の正義を視聴者にも共感させることが目的だ。

 公平で公正な正義なるものは、完璧を装うほどに、少しでも疑念をもたれたなら、すぐに信用されなくなる。疑念を持たれた正義が信用を回復するためには、印籠を振り回して「控えおろう」と疑念を抑えつけるのは逆効果で、その正義を第三者に検証させ、間違っていた点を明確にし、その上で正義を再構築するしかない。ただし、再構築した正義で、信用を回復できるかどうかは不明だが。

 42年も続いた勧善懲悪のテレビドラマが終わったのは、水戸黄門の正義に疑念を持たれるようになったからではなく、黄門様の正義が予定調和すぎて、視聴者にとっては、つまらなくなったからだろう。飽きられる正義というものもある。

2015年4月25日土曜日

残虐性の意味


 後藤健二氏を拘束した「イスラム国」が、殺害して首を切断した映像を公開したことで、その残虐性は日本でも大きく印象づけられた。日本人人質はいなくなったが、「イスラム国」の残虐性を示す捕虜殺害の映像の発信は続いている。手を縛ったままビルの屋上から突き落としたり、群衆に石を投げさせたり、銃殺や刺殺を少年兵にさせたりする映像が毎週のように公開されている。

 人間を殺害してはいけないと考えるなら、どんな方法であろうと人間を殺害することは全て残虐だ。だから、国家が行う死刑で、銃殺や絞首刑、電気イスなどよりも、麻酔をした後に薬物注射により殺すことが残虐ではない……とはいえまい。麻酔をしてからの薬物注射による殺害のほうが「苦しまずに死ねる」かもしれず、死刑を容認する側の良心の負担が少ないだけだ。

 世界では、人々は殺害され続けている。内戦が続く国もあり、外国軍が介入する地域もあり、戦争はなくても自爆テロが起きる国もある。そうして人々は様々な状態で殺される。「イスラム国」による断首などの殺害方法が残虐で、「正規」の国家による様々な殺害が残虐ではないとはいえまい。違いは、「イスラム国」は残虐性をアピールするが、「正規」の国家は残虐性を隠す。

 残虐性の受け止め方は、地域や文化によって変化する。人間の首をナイフでかき切るという殺害方法に日本人は驚くが、遊牧の文化が色濃い地区の住人なら、あれは家畜を苦しませずに殺すやり方から来ていると受け止めるだろう。石打ちによる処刑は現代でも行う国がイスラム圏にあるというから、驚かない人々もいるに違いない。

 残虐性の受け止め方には、時代による変化もある。殺害した遺体から首を切断するということは、中世の日本では合戦の時などに「御首頂戴」などと言いながら行われていたそうだし、切断した首を出すのは現代でも歌舞伎ではお馴染みの演出だ。処刑した罪人の首を曝すことも行われていて、近藤勇は板橋で処刑され、その首は京都に運ばれて梟首された。

 人道主義などの影響を受けた現代世界では、残虐な殺害方法や、遺体を損傷することは狂気の為せることと受け止めたくなる。「イスラム国」のメンバーが皆狂っているなら、彼らの所業も少しは“納得”しやすくなる。だが、正気な人間でも残虐になることができることを日々の犯罪により知らされるし、理性的に大量殺害と遺体損傷を行ったナチスドイツを狂気と片付けることはできない。

 何を残虐とするかは、主観の影響が大きく、個人による違いや文化による違い、地域による違いが大きい。人間の尊厳についての見方がそれぞれ異なるところから来ているのだろうが、報復感情などを尊重しすぎると、相手への処罰として残虐性が増すことになる。内に潜む残虐性を人間はまだ、制御できるようになっていない。

2015年4月22日水曜日

当たらない予想


 プロ野球のペナントレースが始まったが、セパともに昨年の優勝チームは勝率5割台とスタートダッシュに失敗した(4月中旬現在)。昨年のAクラスのチームで、好調なのはパの日本ハムだけ。ブームを巻き起こした広島は負け越して最下位、オリックスも負け越しが10以上となり最下位だ。一方、開幕前の順位予想で低評価だった中日、ヤクルト、西武が好調だ。

 順位予想で、セでは中日が最下位か5位とされ、優勝は阪神か巨人とする人が多かった。パでは優勝予想はソフトバンクとオリックスに分かれた。ところが開幕してみると、セは昨年のAクラスの阪神、広島が調子に乗れず、パではオリックスが勝率2割にも達しないほどの惨状。

 まだシーズンは始まったばかりで、順位予想が最終的に当たるか外れるかは不明だ。だが、シーズン序盤に負け越し数が増え過ぎたチームは、調子が上がってきて連勝しても、やっと勝率5割に戻った辺りで息切れして行きつ戻りつし、シーズンを5割前後で終えることも珍しくない。今年のオリックスは、いつ5割に達するかな。

 オリックスは昨年2位と健闘し、シーズンオフの補強で打線を強化したので、多くの予想で優勝候補に挙げられていた。選手層が厚いチームが、シーズンを通しては強いのだろうが、故障者続出とあっては、補強の効果は薄れる。誰が故障するかまで予想する人はいないだろうから、予想は外れる。

 順位予想が外れがちなのは、キャンプなどを見ても、主力選手の状態、新戦力の台頭具合、チームの実際の戦力バランスなどを評論家や担当記者が充分に把握していないからだろう。評論家が各チームのキャンプを1、2日ずつ訪れたとしても断片的な印象しか得ることはできまいし、担当記者は他チームの仕上がり具合を直接見ることができない。

 具体的な細かな情報を得ることができないため、順位予想が断片的な印象に基づく主観的なものになると、前年のチーム、選手の活躍度が影響しよう。つまり、前年シーズンの延長線上に今年のチーム、選手を位置づけるので、そこに前年の調子を持続しているとの“期待”も混じり込む。だが、毎年が新しいスタートとなるので、前年の延長線上にあるとは限らない。

 評価が主観的に偏ることを避けるためには、要素を点数化するのが確実な方法だ。細かな要素についての評価を事前にポイント化しておいて、キャンプなどでチェックする。できるがけ多くの人の評価を積み上げることで、人による評価の偏りを抑制できる。これは評価を共有することにもつながる。つまり、キャンプやオープン戦を断片的に見た人の評価を集めることで、総合的な状況が浮かび上がる。

 予想が外れることなどが繰り返されるのは、プロ野球がまだ科学的な分析の対象になり切れておらず、客観的な分析を行うことができる人材が、プロ野球とその周辺に欠けていることの現れでもあろう。ただ、優勝争いを含めて「筋書きのないドラマ」がプロ野球の魅力だとするなら、予想が外れることは当然視されるか。

2015年4月18日土曜日

「のたれ死に」は難しい


 若くて健康で、独り身で気ままに暮らしている時なら、自分の最期について「俺は、のたれ死にするから」と言ってみることは簡単だ。その「のたれ死に」の言葉には、孤高を貫いて孤独に死んでいくというようなロマンチックなニュアンスさえ漂ったりする。自分の死を現実的なものと受け止めず、若さの気取りがつきまとっている。

 そこに反体制の気分が加わると、「俺は、のたれ死にする」から健康保険や年金制度など国家の“助け”は要らないと言い出したりし、さらには、抑圧的で保守的で、個人に強権を振るったりする国家なんて不要だとエスカレートし、無頼を気取る。自分一人で生き抜いてみせる……なんて気負いが加わったなら、ますます国家が不要なものに見えてくる。

 若くて健康な時には、本当にそう感じて言ってみたりしているのだが、時間は容赦なく進んでいき、若さは永遠には続かない。家庭を持ったり、子供が生まれたり、ケガをしたり大病をしたり、向き合わざるを得ない現実が次々に現れ、いつまでも無頼を気取ることはできず、「のたれ死にする」なんてことも言わなくなる。

 独り身で気ままな暮らしを貫くことができるほどの資産があれば、国家は不要だと背を向けて反体制を貫き、孤高に生きて、孤独に死ぬこともできようが、それでも、のたれ死にとはいかない。大昔なら、のたれ死にした人は無縁仏として葬られてケリがついただろうが、現代では、のたれ死にした死体の火葬や法的処理は誰かがせざるを得ず、死んでも国家の管理から逃れることは難しい。

 「俺は、のたれ死にするから」というのは、現実逃避の一種なのかもしれない。のたれ死にを夢想するのは、若い人など社会とのつながりが希薄であるからで、仕事や様々な活動などで社会との結びつきが広がると、のたれ死ぬことなんかよりも、自分の能力を発揮して社会や人生を動かすなど、自分を生かす大事なものがあることを知る。

 社会における自分の立ち位置が変わると、言うことが変わるのはフツーのことだ。それを宗旨替えだなどと批判しても、あまり意味がない。見聞も狭く、人生経験が乏しい若い時に言ったことにとらわれていては、人生をうまく渡っていくことは難しい。のたれ死ぬことよりも、しぶとく生き抜く……それも、人生にしがみついて、他からどう見られようと気にせず、生き抜くという気持ちが育つのも、人生が与えてくれる“果実”かもしれない。

2015年4月15日水曜日

需要に見合ったインフラ整備


 経済成長とともに中国ではインフラ整備が進んだ。道路が整備され、都市化が進み、高速鉄道や高速道路が全国に張り巡らされ、空港も各地に整備され、原子力発電所などの建設も急ピッチで進んでいる。アジアでも経済成長が続き、インフラ整備の需要が急増している。

 アジア開発銀行(ADB)の試算によると、2010〜20年の11年間にアジアで必要なインフラ投資額は約8兆ドルという。1ドル120円で計算すると、8兆ドルは960兆円。ちなみに日本の15年度予算の一般会計総額は96兆3420億円で過去最大だったが、その約10年分に相当する。8兆ドルのうち半分の4.1兆ドルが発電所など電力部門、ついで2.5兆ドルが道路や鉄道など運輸部門。国別では中国とインドで8割を占めるという。

 インフラが整備されることで、生活環境が改善され、便利になり、快適にもなり、人々は歓迎するだろうが、アジアでのインフラ整備は遅れていた。欧州なら、整備された道路や鉄道が各国を結び、航空路線網も密なのに、人口が多いアジアでは遅れていた。それは、アジア各国に資金がなかったからだ……ともいえる。

 だから、資金を集めてアジア各国のインフラ整備に投資すれば、アジアの流通や交通の近代化を促進し、人々に喜ばれることは確かそうだ。だが、インフラ整備には需要を過大評価するというワナがある。つくってみたものの、通行量が少ない高速道路、乗客が少ない高速鉄道、利用者が少ない空港や商業施設などは日本にも存在する。

 中国でも同じような例があり、年7万8000人の利用客を見込んだ大連長海空港は実際には年4000人にも満たず定期便が運行停止となったり、高速道路(利用者数に関する公式な情報はほとんどない)が通行料不足で多額の損失が出たとか、高速鉄道が3.4兆元の債務を抱えていることなどが報じられている。住む人がいない高層の集合住宅が建ち並ぶ鬼城(ゴーストタウン)も各地に点在しているという。

 売れる見込みがなくても製品を生産することができるのと同様に、インフラも、需要がなくても整備することはできる。インフラが整備されれば需要が出て来るはずだと期待して高速道路をつくっても、1日に十数人しか通らない地域なら、新しい道路だからと通る人が大幅に増えるはずもなくペイするはずがない。

 インフラ整備は人々の生活を改善するための手段であるが、巨額の資金が動くために、インフラ整備をすることが目的とされやすい。そのためには、需要を過大視することが欠かせない。廃れたシルクロードに沿って、交通インフラを整備すれば交通や流通が活発になるのだろうか。需要が本当に存在するインフラ整備とは何か、アジアを舞台に試されることになりそうだ。

2015年4月11日土曜日

仕掛けは成功


 中国が主導して設立するアジアインフラ投資銀行(AIIB)の評価が分かれている。肯定派は、1)アジアの今後の莫大なインフラ整備需要に対応、2)官僚的で硬直した世界銀行、アジア開発銀行(ADB)に代わってスピーディーに融資、3)経済大国化した中国との関与を深める、4)融資されたインフラ事業への参加ーーなどで有望だとする。

 否定派は、1)運営や融資などの意思決定プロセスが不透明、2)運営も中国主導の可能性、3)融資を中国が影響力拡大に利用、4)無秩序な貸し出しが不良債権化、5)AIIBの格付けが低いと資金調達コストが割高、6)米国主導の国際金融秩序への悪影響ーーなどを指摘する。

 中には、中国の秘めた狙いは中国の通貨である元の基軸通貨化を目指し、国際的に流通させることだと見る人もいる。だが、AIIBの資本金は1000億ドルになる予定だ。各国の外貨準備に占める元の割合は微小なので、元で拠出しろとなったなら、元の手持ちが少ない各国は困るだろう。ドルなら各国は保有している。資金調達も融資もドルで行われるだろう。

 AIIB設立では中国に好都合な展開になったことは間違いない。米国の牽制にも関わらず欧州諸国や豪、韓国などが参加を表明し、米国の影響力の低下を世界に印象づけた。ただし、注目が集まりすぎたので、中国の意のままの運営や融資はしにくくなっただろうし、「国際金融機関」としての体裁をつくらなければならず、中国が越えるべきハードルは上がった。

 とはいえ、AIIBが順調に動き出せば、国際金融における中国の存在感は増すだろうし、影響力も大きくなろうから、中国にとっては重要な一歩だ。さらに、AIIBがどんな組織になるのかも不透明なのに、IMFや世界銀行、ADBが「連携しよう」とAIIBと協力することを言い出しているので、中国にとっては願ったりかなったりの展開になりつつある。

 そもそも既存の国際金融機関における中国の影響力を増大させたかった中国にとって、AIIBを通じて中国の意向をIMFや世銀、ADBに反映させることができるなら、実質的に発言力を増したことになる。まあIMFや世銀、ADBが中国(AIIB)に振り回されるようなことにはなるまいが、中国の言い分をきちんと聞いてあげなくてはならなくなりそう。

 AIIB設立という問題を国際的に提起して、注目を集め、結果として参加国を広く集め、さらに欧米の金融連携を崩すことができたのだから、今回のAIIB設立の仕掛けで中国は成功した。AIIBが動き出す前から中国は影響力を高めることができ、AIIBが動き出したなら、アジア各地でのインフラ事業に関与できるのだから、中国は完勝した。

 今回のAIIB設立問題で各国は、中国の影響力拡大にどう対応するかを試された。明らかなのは、各国との貿易量が多い経済大国の封じ込めは不可能だということだ。関与する部分を増やして“中国独自”の政策、やり方などを是正させるのが最善策か、中国が失敗して反省してから関与してあげるのが最善策か。いずれにしても大国化する独裁強権国家をどう受け入れていくのか、今後も国際社会は試され続ける。

2015年4月8日水曜日

科学的な装い


 それほど親しくない人や初対面の人と一緒に時間をつぶさなければならなくなった時に、持ち出す無難な話題のトップは天候に関することだろう。暑いとか寒いとか、いい天気だとか雨が続くとか、台風が来るそうだとかゲリラ豪雨があったとか、見たまま感じたまま聞いたままを話していれば、座持ちがするのだから便利だ。

 「暑い日が続きますな」などと言われて、「いや、この地域の平均気温からみると、今年は少し低いほうですよ」などとマトモに反応する人は稀で、大方の人は、天候の話には適当に相づちを打って聞き流す。天候の話は互いに適度な距離感を保ちつつ、共感を保つためには最適な話題だ。

 最近、天候に関する話題のシメの言葉で「これも温暖化の影響ですかね」「異常気象なんでしょうか」「この先、どうなるんでしょうねえ」などと嘆くような調子になったり、不安がったりしてみせるのが流行のようだ。温暖化や異常気象などの言葉を持ち出して、無難な天候に関する話に“知的装い”をまぶしてみせる。

 天候については誰もが実感を持って話すことができるが、実感がいつも「正しい」とは限らない。昨年の今頃はどんな気候だったかを正確に覚えている人は少ないし、平年と変わらない暑い夏でも人は「今年の夏は特に暑い」なんて思ってしまう。そこに、「地球は温暖化している」などという言説を聞かされると、「そうか、温暖化してるのか。だから、今年の夏は特に暑いんだ」などと思ったりする。

 天候を話題にする時に、データを検証する人はまずいない。だから、温暖化や異常気象について「専門家が言うンだから、本当なんだろう」と大半の人は受け止め、「今年の夏は暑い。温暖化だ」とか「今度来る台風は、温暖化だから、大型だ」とか「集中豪雨が増えたのは異常気象だからだ」などと、それらの言葉を都合よく使う。

 温暖化や異常気象とは科学的な見解の一つだが、素人が厳密に定義を考えるはずもなく、それらは、実感を支えるための好都合で感覚的・情緒的な言葉に変質している。しかし多くの人は、情緒的な物言いをしていることに無自覚で、温暖化や異常気象という言葉を持ち出すことで、科学的な装いをまとったかのように錯覚する。実感と科学的装いに支えられるのだから、素人は温暖化談義を好むのかもしれない。

 夏になれば暑さを楽しみ、冬になれば寒さを楽しむ……こういうふうに達観できる人は少ない。だから、天候はいつまでも無難な話題として人々に愛されるのかもしれない。が、天気相手にどうこう言ってみたって、人間に都合がいいようにならないのは大昔から変わらない。猛暑や集中豪雨、台風などを納得するためにも、温暖化や異常気象という言葉は便利だろう。

2015年4月4日土曜日

70年前は1945年


 今年は第2次世界大戦の終戦から70年ということで、世界各地で様々な行事が予定されている。テレビや新聞などでも今年は、折に触れて70年前を回顧する特集が相次ぎそうなので、戦争に絡む情報は大量に報じられそうだ。戦争と終戦という大きな出来事に翻弄された1945年はどういう世相だったのか振り返ってみる。

 日本国内では、1月にM6.8の三河地震が発生、死者・行方不明は2千人以上。2月に、京浜行き乗車券は軍・公務以外は発売停止となった。3月には全学徒総動員のため国民学校初等科を除く学校授業が停止となり、3月と5月に東京が大空襲を受けた。4月には名古屋城のシャチホコを疎開のため取り外し、京都の美術品を疎開させる一方、本土決戦に向け日本刀づくりに励んだ。

 5月には朝刊の駅売り等が全国的に禁止され、6月には墓地以外の仮埋葬が許可され、土葬禁止が解除された。7月には米機攻撃により9隻が沈没して青函航路が壊滅した。8月の敗戦後には、国民動員令による各種制限・禁止が撤廃され、ラジオの天気予報が復活した。9月にはNHKで「実用英語会話の時間」が始まった。

 10月にはGHQが東京5紙の事前検閲を開始し、東京の待合・バー等の営業が許可され、第1回宝くじが発売された(1等は10万円と副賞に純綿キャラコ2反)。11月には人口調査で総人口は7199万人だったが、女性が男性より420万人多かった。12月には「狩り込み」が始まり、上野地下道で浮浪者2500人を一斉収容し、GHQが修身・日本歴史・地理の授業禁止と教科書回収を指令した。

 終戦前は戦況悪化で食糧事情が逼迫し、横浜でジャガイモ盗人を撲殺した自警団員は正当防衛に準ずると不起訴になったが、東京でジャガイモ2個を盗んだ人には懲役3年の判決。終戦後も食糧事情は厳しく、餓死者が続出する一方、都会では多くの人が買い出しに出た。

 終戦後には映画「愛染かつら」が人気を呼び、戦後映画の第1作「そよかぜ」から「リンゴの唄」が流行った。一方でGHQが236本の映画を上映禁止とし焼却命令。出版では「日米会話手帳」が360万部の大ヒットとなった。大相撲秋場所で復員力士は坊主頭で土俵に上がり、プロ野球は11月に東西対抗戦で復活した。

 70年前の1945年は今とずいぶん違った時代であったのは確かだが、例えば1945年生まれの人を見ると、エリック・クラプトンが3月生まれ、吉永小百合も3月生まれ、タモリが8月生まれ、ニール・ヤングが11月生まれであり、同時代感は充分にある。1945年と現代の連続性を今年は強く意識しそうだ。

2015年4月1日水曜日

主役になれない記者


 最近のサスペンスドラマで主人公になるのは警察関係者が多い。自殺に見せかけた殺人や身元不明の遺体、手がかりが乏しい殺人、過去の事件との関連など、事件の真相を僅かな手がかりをたぐって突き止めるには、主役が警察関連のほうがストーリーを組み立てやすいからだろう。事件を追う新聞記者が主人公になることはなくなった。

 もう50年以上前だが、新聞記者たちが主役のテレビドラマが大人気だった。NHKが放映していた「事件記者」は、警視庁詰めの各社の記者が、事件をめぐって激しい取材合戦を繰り広げるというドラマで、視聴率が40%を超えることもあったという。ただ生放送だったため、現在ではほとんど見ることはできない。

 このドラマの作者・島田一男はミステリーで名高い作家だが、新聞記者ものの作品も多数残している。満州日報の記者時代の体験、見聞を織りまぜた作品には独特の現場の“臭い”があり、ネタをかぎ回る個性的な記者たちにはプロ意識や仲間意識が横溢している。それらの小説の世界がドラマで再現されていたとするなら、人気になることも不思議ではないと思わせる。

 新聞記者に代わって、最近のサスペンスドラマではフリーライターがよく登場する。ただし、謎解きにフリーライターが活躍するという設定は少なく、事件関係者のあとをこっそり嗅ぎ回り、そのうちに真犯人に殺されるというケースが多い。さらには、フリーライター氏が実は、つかんだネタで関係者を脅して金をせびっていたという設定も珍しくはなく、もはやフリーライターは「正義の味方」のポジションから遠い役回りだ。

 新聞記者がドラマの主役から外されたのも、新聞記者が必ずしも「正義の味方」ではないと見られるようになったからか。サツ回りの新聞記者が実は警察発表に頼って記事を書いていることを皆が知ってしまい、記者が独自の取材を重ねて真犯人特定につながるネタをつかみ、事件を解決する……なんてストーリーにリアリティーがない時代になったのかもしれない。

 さらに、捜査方法も一変し、鑑識捜査が徹底されるようになった。立入り禁止の犯行現場から、鑑識捜査が終わった後で記者が何かの証拠を発見できるはずもない。記者に対する管理も強化され、毎日ある程度の出稿はしなければならないので、一つの事件を追って取材するなんて立場はベテラン記者の遊軍だけ。でもベテランは、早期退職後の職探しに忙しかったりもする(?)。

 最近のサスペンスドラマでは警察関係者が主役になるとはいえ、良心的で打たれ強い主人公が事件を解決するとともに、警察内部の不正を暴くというストーリも増えた。腐った上層部やキャリア幹部が、ドラマの最後で主人公から“引導”を渡されるのだが、この設定は、新聞社を舞台にしても流用できそうだ。主人公の正義感が強い新聞記者が、事件を追ううちに、腐った警察上層部と新聞社幹部の癒着を突き止める……「裏金」に目を瞑った新聞社にはリアルだったりして。

2015年3月28日土曜日

過剰な生産力の“はけ口”


 中国が主導して設立するというアジアインフラ投資銀行(AIIB)にアジア諸国などが参加を決めていたが、米はAIIBの組織の統治や融資基準などが不透明だとして懸念を表明、参加を見合わせるよう日豪韓などに促していた。ところがG7メンバーの英が参加を決め、独仏伊も続いたので、流れは「参加して内から影響力を行使した方がいい」に一気に傾き、韓国も参加を表明した。

 このAIIBは、アジア諸国の旺盛なインフラ整備を支援するための投資や融資を行う国際金融機関。500億ドルの資本金でスタートし、最終的には1000億ドルまで増資するというが、中国が最大出資国になる見込みで、50%まで出資できるという。本部は北京に置かれ、初代総裁は中国政府出身者になるというので、中国の影響力が強くなりそう。

 アジア諸国の経済成長は今後も続くと見込まれ、鉄道や高速道路、都市基盤整備などインフラ整備の資金需要は巨額になるが、そうした資金需要に既存の国際金融期間だけでは応じきれないとも見られている。だから、アジア諸国のインフラ整備を助けるというAIIBの構想自体には、ある程度の妥当性はある。

 問題は、中国の影響力が強くなりすぎそうなこと。世界銀行やアジア開発銀行では中国は影響力を行使できない立場に置かれているが、国際金融で存在感と影響力を高めることを中国は目指す。AIIBの他にも中国はインドやロシア、ブラジルなどとBRICS銀行と通称される新開発銀行(NDB)をつくった。本部は上海に置かれる。

 中国の影響力が強くなっても、中国が透明性ある公正な運営に努めるなら問題は少ないかもしれないが、組織運営や意思決定、融資基準などの詳細が明らかになっておらず、中国が国内政治で行っている独裁政治流の統治が持ち込まれる懸念がある。腐敗がはびこることはないだろうが、中国に有利な案件に優先的に融資される恐れはある。

 中国は過剰な生産能力を持て余している。国内の膨大なインフラ投資に合わせて、鉄鋼やセメントなど国有企業は生産力を拡大してきたが、投資主体の経済成長が鈍化する中で、過剰な生産力の仕向け先が必要になった。生産能力を削減して国内需要に見合う供給能力に調整することは、国有企業には利権が複雑に絡む中国では困難だろうから、新たな市場を創出するしかない。

 アジアのインフラ整備事業の中からAIIBが投資や融資を決めた案件には、中国の国有企業が諸資材を提供し、建設にも中国人を派遣して携わるならば、中国にとっては最高だ。国内の過剰な生産能力の“はけ口”を確保でき、金融面での影響力をアジアで確保でき、インフラ整備により当該地の経済が発展するなら、中国製品の市場ともなる。

 さて、AIIBでの透明性や公正さの実現に英など欧州諸国などが「内側」からどれだけ影響力を振るうことができるか。AIIBが活動し始めたなら巨額の資金需要が生まれ、それに関与することが欧州諸国の狙いだとしたなら、上辺だけの透明性や公正性で欧州諸国は妥協するかもしれない。欧州諸国は中国に対し、商売に関わるようになると、人権とか理念の主張を簡単に引っ込めてきた過去がある。