2021年7月31日土曜日

不安を煽る商売

  五輪が開幕する前は感染拡大の危機をさんざん煽っていた新聞やテレビだが、開幕すると一転し、日本人の活躍やメダリストのひたむきな努力ストーリなどを連日大きく扱う。東京はじめ全国で感染が拡大しているが、そうした報道は事実を伝えることが主で不安を煽ることは控えめな印象だ。中止も再延期もなく五輪が始まったという現実に合わせて素早く方向転換したと見える。

 マスメディアの方向転換は、よくある現象だ。新聞やテレビは各社のそれぞれの確固とした価値観に従って報道しているとのイメージを持つ人もいるが、実際は、読者や視聴者が関心を持つだろうことを優先する(=読者や視聴者に迎合する)。感染拡大の不安を煽るのも、五輪での日本人の活躍を報じるのも、その時々で変わる読者・視聴者目線のニュースバリューに従った振る舞いだ。

 「君子は豹変す」るそうだが、マスメディアも豹変する(マスメディア=君子だと言うのではない)。豹変はさておくとしても、「騒ぎすぎだ」「情緒的すぎる」「批判するか賛美するだけで、分析が欠如」など報道に対する批判はある。だが、理性的な報道に徹する新聞やテレビが存在したとしても、読者や視聴者の支持をどれだけ獲得できるか不明で、成功は見込み薄だろうことを考えると、人々に迎合するのが商業マスメディアだと理解するしかない。

 そうしたマスメディアは、例えば、感染拡大の危機を煽り立てて読者や視聴者の不安をかき立てるが、それは読者や視聴者が不安を感じてるから、それに迎合して危機を煽る。どちらが先かは定かならず、マスメディアは人々の興味や関心の動向を反映する鏡だとすれば、啓蒙的な役割をマスメディアに求めることは無理だろう。

 不安を煽ることでマスメディアは人々の注目を惹く。「日本の政治はうまくいっています」と報じるより、野党や評論家や外国メディアの日本政府批判を伝え、問題点を指摘してみせたほうがメディアの役割を果たしている風情になる。他者の批判を仲介して報じるから、当事者責任を回避しつつ、客観性を装って何でも批判できる。

 正確な情報を得て、脅威となる事象が起きる確率を知ることで危機を過大視せずに不安を抑えることができる。だが、マスメディアは確率を交えた情報提供をほとんど行わず、不安の存在だけを強調する。それは人々が浮き足立っていることの反映なのだろうが、不安を人々とマスメディアが交換しあって大きく育てているようでもある。

 「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」とは石川五右衛門の辞世だそうだが、「世に不安の種は尽きまじ」と人々が常に何かの不安を感じ、「世に不安を煽るネタは尽きまじ」とマスメディアは、その時々の不安を煽る。不安を煽ることも、勝った勝ったと大騒ぎすることもマスメディアの商法だ。

2021年7月28日水曜日

最速15分は長いか

  2016年3月に北海道新幹線が開業し、北海道内では木古内駅と新函館北斗駅に新幹線が停車するようになった。本州から新幹線に乗って来た人が人気の観光地である函館に行くためには新函館北斗駅でアクセス列車(はこだてライナー)に乗り換える必要があり、所要時間は快速で最速15分(函館駅は新函館北斗駅から約18キロ離れている)。

 この最速15分が「残念だ」と開業当時にメディアに現れた記事は指摘した。せっかくの新幹線の駅が函館市から離れた場所にあり、観光客が函館市に行くために、新幹線を降りて乗り換えて、さらに最速15分もかかるのはマイナスだとした。多くの記事で同じような主張が繰り返されたので、最速15分が残念なことだとのイメージは定着してしまった気配だ。

 しかし、最速15分はそんなに残念なのだろうか。函館駅に新幹線が直接乗り入れたなら最も利便性が高かっただろうが、そうすると札幌までの北海道新幹線の延伸に支障が出てくる(函館駅は青函連絡船との連絡に便利な海際の位置に設置されたので、鉄路は行き止まりになる)。

 北海道新幹線は札幌までの延伸を前提に構想されたのだろうから、函館を新幹線の終着駅とすることはできず、また、函館駅で新幹線の進行方向を前後を逆に転換するのは高速鉄道では余計な時間がかかり過ぎだと判断されよう。新函館駅の設置箇所は札幌延伸に好都合な場所に限られるからアクセス列車が必要となった。

 どこかの観光地に新幹線に乗って行き、新幹線を降りてから、さらに移動に時間がかかることは珍しくない。例えば、大阪府内の唯一の新幹線駅である新大阪駅から大阪市内の各地に行くには在来線に乗り換えなければならない(新大阪駅から難波駅に行くには15分かかり、天王寺駅には20分以上かかる)。

 東京も同様で、新幹線を東京駅で降りてから、例えば吉祥寺駅に行くには在来線に乗り換えて30分近くかかるし、スカイツリーに行くにも約30分かかり、新宿に行くには13分、渋谷には30分弱、池袋には約25分、浅草には約20分、六本木には14分、下北沢には約30分などと、新幹線を降りてからの移動には時間がかかる。

 最速15分が残念だという指摘の根拠は曖昧だ。そこには東京のメディアが地方を見る視線の歪みが露呈している。歪みとは、地方には地方の物差しを当てて評価するが、東京などには別の物差しを用意すること。だから、世田谷区の住民が東京駅で新幹線を降りてから自宅まで移動する時間は問題にしないが、新函館北斗駅から函館駅に移動する最速15分は残念だと評価する。

2021年7月24日土曜日

表現と主張

  子供から大人まで、絵を描く人は多い。何かを表現したいと描き始めて作品を仕上げた当人は精神の充実感を得るだろう。作品を仕上げて満足する人が多いだろうが、中には自分の作品を他の人にも見てもらいたいと公募展に参加したりする人もいる。作品が高評価を得て売買の対象になったりすると、絵を描くことを職業とする画家の誕生だ。

 画家には誰でもなることができる。売買される作品を描く人は他の人からも画家と認められるが、売れない絵を描き続けても画家だとの自負があれば画家だ。前者の描いた絵は芸術作品とみなされようし、後者の描いた絵は表現活動の成果とされる。売買の対象になる作品の芸術的な価値が、売買の対象にならない作品より常に高いかどうかは不明だ。

 売買の対象になる作品は芸術的な価値が高いとされるが、同時に商品としての価値も高い(芸術とされる作品は資産としての価値が高く、転売すると利益が出る可能性がある)。ただし、芸術的な価値と商品としての価値は常に比例するとは限らない。誰も買おうとしない画家の作品の中にも芸術的な価値が高いものはあるだろう。

 芸術としての価値にも、多くの人が認める場合と本人だけが認める場合がある。多くの人が認めない作品は芸術ではないとはいえず、人々による評価と芸術的な価値は必ず一致するとはいえまい。だが、それはしばしば生じることではなく、多くは人々が芸術とみなす作品が芸術とみなされる。

 極めて優れた表現や斬新な表現などによる完成度の高い作品が芸術作品とみなされるが、その表現に主張が含まれることがある。ただし、主張は表現の「解説」であり、主張を省いても優れた表現として自立できない作品は、芸術の名に値しない表現である。それは主張を広めるための宣伝物でしかない。

 だが、主張の宣伝物である作品は、その主張を支持する人々から高く評価される。それは主張を広める媒介物としての評価であり、表現に対する評価ではない。主張を広めるための表現は、極めて優れている必要はなく、斬新な表現である必要もない。主張を引き立たせるためには凡庸な表現でよく、表現として自立することは求められない。

 プロパガンダのための表現も芸術作品になることはあるが、そうした表現は主張と切り離しても自立する。とはいえ、年月とともに主張が陳腐化しても、表現として評価される作品は最初から主張を上回る優れた表現を見せているものだ。主張が評価されただけの作品を描いて満足している画家は、自分の表現が主張に隷属していることを恥じるべきだろう。

2021年7月21日水曜日

何でも異常気象

 ドイツ西部やベルギーなどで7月14〜15日に24時間の総雨量が100~150ミリという集中豪雨があり、河川が氾濫して洪水が発生した。確認されている死者はドイツで160人、ベルギーで31人だが、多数の行方不明者がいると見られている。欧州で大規模な洪水の被害が発生するのは2000年以降で4度目という。

 停滞する低気圧が今回の集中豪雨をもたらしたと報じられ、現地メディアは、春に降った大雨で土壌が大量の水分を含み、今回の集中豪雨の水分を十分に吸収できず、河川に大量に流れ込んだと伝えたそうだ。春に降った大雨の水分を夏になっても含み続ける土壌とは、よっぽど珍しい土壌だな。

 ドイツの被災州の首相は「100年ぶりの気象災害だ」と述べ、独政府のメルケル首相は「衝撃を受けている」と気候変動対策を急ぐ考えを示し、内相は「この惨事が気候変動に関係していることを疑うことはできない」と語り、欧州委員長は「気候変動の明らかな兆候だ。早急に行動すべきだ」と温暖化対策の重要性を訴えた。今回の集中豪雨でドイツにおける気候変動に対する危機意識が一層強まることは間違いないだろう。

 気候変動の危機なるものをドイツなど欧州は、経済構造を変えて世界における主導権を確保するために戦略的に活用する。EUが発表した温暖化ガスの大幅削減に向けた包括案では①内燃機関車の新車販売について2035年に事実上禁止、②環境規制の緩い国からの輸入品に関税をかける国境炭素調整措置(=炭素税)を23年に導入ーなどを打ち出した。

 今回の洪水被害は、まさしく気候変動による危機の現れであるとドイツも欧州もアピールする。住民への危険周知が遅れたとか洪水被害に対する事前の備えが足りなかったなどの批判を気候変動を言い立てることでドイツ政府などはうやむやにできるだろうし、気候変動に対応する新たな経済構造への移行を強制することでEUは主導権を確保できる。

 だが、今回の集中豪雨が気候変動によるものなのか科学的な検証は簡単ではない。24時間の総雨量が100~150ミリという集中豪雨は昔から世界のどこかで毎年、発生する(日本では梅雨末期や台風襲来時などに毎年起きる)。そうした集中豪雨の、どれが気候変動によるもので、どれが通常の気象現象に含まれるものか、判別することは研究者にも簡単ではないだろう。

 原因は気候変動による異常気象だとしておけという判断停止は、気候変動の危機を感じる人々と気候変動を利用しようとする人々に共通する。大雨も猛暑も旱魃も台風なども何でも異常気象だとして、気候変動が原因だとする判断停止が欧州をはじめ世界に広がる。例えば、今回の欧州西部の集中豪雨がどんなメカニズムで発生したのか具体的な説明を求めるなら、気候変動論に飛びつかなくても冷静に解釈できるだろう。

2021年7月17日土曜日

ある死刑論

  ある友人は若い頃に大逆事件を知ってから、死刑制度に反対する考えを持つようになったという。政府が社会主義運動を弾圧するために24人に死刑判決を下し、12人を恩赦により減刑する一方、幸徳秋水ら12人の死刑を執行して社会から完全に排除した大逆事件。国家(政府)が政治的な目的で死刑制度を都合よく利用することは、日本を含む世界各国で行われてきた。

 現在の日本では、大逆事件と同じような「でっち上げ」による死刑が行われることはないと友人は考える。だが戦後も自白の強要や証拠品の捏造・隠蔽などが珍しくない中で死刑判決が出され、後日、冤罪だと判明した事例も少なくないのだから、死刑という制度は放棄すべきだと友人は主張し、冤罪や誤審で死刑になる人が存在する確率は残っているのだから、死刑制度には問題が多いとする。

 その友人が、限定的な死刑制度の容認に考えを変えたのは宅間守の存在だった。2001年6月、大阪の教育大付属池田小学校に宅間守が侵入し、包丁で8人の児童を殺害、13人の児童と教諭2人に重軽傷を負わせた。裁判で宅間守は、殺害された児童の保護者に罵声を浴びせたり、最終意見陳述で「幼稚園ならもっと殺せた」などと話し、反省の態度は示さず、謝罪の言葉はなかったという。

 宅間守に同情すべきところはある。家族に君臨して暴力を振るう父親と育児放棄の母親との家庭で育ったという宅間守は小学生の頃から粗暴で問題行動を繰り返し、十数回の逮捕歴があり、少年刑務所で服役したり措置入院させられた。「虐げられて」育った宅間守が攻撃性を強めたのは自己防御の反応とも解釈でき、粗暴な父親を無意識に真似て育ったのかもしれないし、裁判での言動は一種の自殺願望の現れとも解釈できる。

 だが、無差別殺傷という犯行を正当化する理由はこの世に存在しないとする友人がおののいたのは、当時38歳の宅間守が小学校に侵入して児童8人を殺害、13人を負傷させたことだ。宅間守に比べ圧倒的な弱者の児童を次々と包丁で襲った行為には、弁解の余地は全くないと友人は判断し、極刑はやむを得ないと考えを変えた。

 死刑がなければ宅間守は無期懲役になっていただろう。懲役が続くうちに宅間守が反省し、謝罪するようになる可能性はあるが、その反省や謝罪にどんな価値があるのかと友人は疑問を持つ。本当に宅間守が反省し、謝罪したところで、宅間守が犯した児童の無差別殺傷を、なかったことにはできない。死んだ子供は甦らないし、負傷した子供の精神的な傷が癒されるわけではない。

 死刑制度には問題が多いとの考えを変えていない友人は、①無差別な複数人の殺人、②計画的な殺人ーに限って実行犯に対して死刑判決も容認するとした。そうした殺人には実行を考え直す時間は十分あり、あえて行った殺人行為は当人の強い意思によるものであるから、その判断には相応の重い責任が生じると友人は考える。

2021年7月14日水曜日

ただのカゼ

 日本でも接種が進むCOVID-19ワクチンの効果について厚労省サイトでは、①ファイザー社のワクチンでは約95%、武田/モデルナ社のワクチンでは約94%の発症予防効果が確認されている、②実際に接種された人の情報を集めた研究等から重症化予防効果を示唆する結果が報告されている、③感染を予防する効果については承認前の臨床試験では確認されていない。

 ①は、「100%の発症予防効果が得られるわけではない」ので「ワクチン接種後でも感染する可能性はある」が、約94〜95%の発症予防効果があるので感染は相当程度抑止できることを示す。外国ではワクチン接種者は接種していない人よりも感染者の発生が少ないとの報告もあるが、臨床試験ではないのでデータの扱いに注意を要すると厚労省。

 重症化予防については、ワクチン接種が進む各国で重症化する人や死亡者が減少していると報じられているので、効果はあると見てもよさそうだ。早期のワクチン認証による世界規模での「人体実験」という挑戦が、現在のところ成功した形だ。英国での調査では、接種者の91%に抗体が確認され、感染数や感染後の重症化リスクが下がったと報告されている。

 だが、ワクチンの効果はウイルスとの関係で変動するとの報告もある。イスラエル保健省は、ファイザー社ワクチンの感染予防効果が6月以降、従来の95%から64%に低下し、デルタ株の影響の可能性があるとした。重症化を防ぐ効果は従来同様の93%という。各国に先んじてワクチン接種を進めたイスラエルで新規感染者は減少、国内で規制を緩和したが、感染者が増加に転じた。

 イスラエルの発表したデータが各国にもそのまま当てはまるのか不明で精査が必要だろうが、ワクチンが万能ではないことは特に中国製ワクチンの大規模接種を進めた国に顕著だ。ただ、ワクチン接種の拡大とともに規制を緩和するのだから人々の接触機会が増え、感染者が増加するのは当然だろう。規制緩和で感染者が増えたとしても、重症化する人や死者を減らすことができるとすればワクチン接種の効果はある。

 ワクチン接種によって、新規感染を抑止することはできなくても、重症化や死亡する人を減らすことができるなら、ワクチンはCOVID-19を「死に至る病」から「ただのカゼ」へと変える。世界各地で感染者数は増減を繰り返しているので、いつかCOVID-19が雲散霧消するとの期待は薄らいだが、「ただのカゼ」になるなら病としての深刻さは低下しよう。

 ワクチン接種で重症化を抑制でき、死者も減っていると英国は法的規制をほぼ解除する。イベント等の人数制限も撤廃し、パンデミック前の日常に近づける計画だ。ワクチン接種により集団免疫を獲得し、COVID-19と共存する日常を実現する狙いだが、再び新規感染者数が増加傾向の状況で、英国の試みの結果がどうなるか。世界が注視する中で英国は新たな「人体実験」に踏み切る。

2021年7月10日土曜日

米軍の侵攻から20年

 米国は7月6日、アフガニスタンからの米軍撤収が9割以上完了したと発表した。米軍がアフガニスタンに侵攻したのは20年前の2001年10月。同年9月11日に米NY市における同時多発テロが発生した後、米国はアフガニスタンのタリバン政権にアルカイダのビン・ラーディンらの引き渡しを要求したが、タリバンは応じなかった。

 この20年間に米国はアフガニスタンでタリバン勢力を劣勢に追い込み、民政政府を誕生させたが、タリバンを壊滅させることはできず、米軍の活動範囲における治安は維持できたものの全土における治安は確保できなかった。米軍の撤収に呼応するようにタリバンは活動を活発化させ、米軍が去った後に全土を制圧するとも見られている。

 米軍はタリバンに敗れた構図だ。米軍はアフガニスタンに侵入し、圧倒的な武力で制圧することもできたが、民生政府はもろく、政府軍は弱体のままだ。厳格な宗教規範による統治を行ったタリバンが民心を得ているわけではないが、米軍もアフガニスタン民政政府も民心を得ているとは見えず、20年もあったのに米軍も米国もアフガニスタンをタリバンから解放された国にすることはできなかった。

 おそらく米国は同時多発テロに対する報復感情が当時のアフガニスタンに対する懲罰感情につながり、アルカイダを匿うタリバン政府を倒すことを急いだが、倒した後のことは考えなかった。圧倒的な武力でタリバン政府を倒すことは簡単だったが、米軍が引き上げたならタリバンはすぐに勢力を回復するので、タリバンの回復を抑えるために米軍は駐留を続けざるを得なかった。

 米軍の駐留は続いたが米国にアフガニスタンの国づくりのプランがあったわけではなく、民政政府という体裁を構築しながら20年が経過した。アルカイダを駆逐し、ビン・ラーディンを殺害したことが米国の成果だった。だが、米軍の撤収の後にはタリバン政府の復活が待っているとすると、米国は同時多発テロに対する報復を成し遂げたが、アフガニスタンで成し遂げたのは、それだけだった。

 米バイデン大統領は7月8日、アフガニスタン駐留米軍を8月31日までに撤収させるとし、米軍に協力したアフガン人の通訳らを米国に受け入れる作業を急ぐとも述べ、攻勢を強めるタリバンに対しては、兵30万人を擁するアフガニスタン政府軍に対応する能力があるとした。そのアフガニスタン軍の兵士は、タリバンの攻勢に押されタジキスタンなど隣国に逃げ込んでいると報じられる。

 米軍のアフガニスタン侵攻から20年。米国が望むような「民主国家」は誕生せず、同時多発テロに対する米国内の報復感情は収まり、長期の米軍派兵に対する負担感が勝るようになったとあっては、米軍撤収が米国の最優先課題となった。米軍侵攻から米軍撤収までの20年に欠けているものは、アフガニスタンで生きる人々に対する配慮と共感だ。

2021年7月7日水曜日

人民服の意味

 中国共産党の結党100周年の祝賀式典で中国共産党の中央委員会の総書記である習近平氏が演説し、報道によると「共産党がなければ新中国もなく、中華民族の偉大な復興もない。党の指導は中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴で、最大の優位性だ」などと述べて中国共産党を讃えた。

 共産党が独裁する中国で習近平氏は中国共産党の中央委員会総書記という最高位にあり、また、党中央軍事委員会主席を兼務する。習近平氏は中国という国家においては国家主席であり、国家軍事委員会主席でもある。共産党が独裁している中国で、党の総書記という地位は国家主席より遥かに上位のポジションである。

 祝賀式典で演説した習近平総書記が人民服を着ていたことについて、日本では「毛沢東を模倣した」「自分は毛沢東の後継者である」と内外に宣布する目的だとか、「一人だけ権威付けを行っている」「中国としては最もフォーマルな服をまとった」「現役の最高指導者だけが人民服を着て、他の人は背広を着る」のが中国のルールだなどと様々に中国ウオッチャーたちが述べた。

 演説する習近平総書記の背後に並んだ現役幹部や長老たちが全員、背広にネクタイ姿なのに習近平総書記だけ灰色の人民服姿だったのだから、この人民服姿には意味があると考えるのは当然だろうが、「毛沢東を模倣した」などは評者の思い込みでしかなく、「現役の最高指導者だけが人民服を着て、他の人は背広を着る」は習近平氏が背広姿で現れることが多いことを説明できない。

 中国の最高指導者が共産党中央委員会総書記として現れるときには人民服を着用し、国家主席として現れるときには背広姿だと理解すれば、今回の習近平氏だけが人民服姿だったことの意味がわかる。これは中国共産党が中国という国家を従えていることを示す演出なのだ。

 演説する習近平氏の人民服姿は中国共産党を示し、背後に並ぶ最高幹部らの背広姿は中国という国家を示す。現役幹部らも中国共産党の高官なのだから人民服姿でもよく、むしろ党の祝賀式典なのだから全員が人民服姿でもおかしくはないのに、わざわざ演説する習近平氏だけが人民服で、背後に並ぶ現役幹部らは背広姿。習近平氏が個人の意思で人民服を着用したのではなく、独裁統治を続けるという中国共産党の意思表示である。

 中国を支配する中国共産党が、内部では透明性がある民主的な仕組みで幹部や最高指導者が選出され、政策の立案や施行などにも歪みがないなど「賢人政治」が行われるなら慶賀の至りだが、伝えられるのは中華民族なるものに同化しようとしない人々に対する過酷な処置だ。中国共産党はこの100年間に、どれだけの人間を殺し、傷つけたのか。中国共産党から中国という国家が解放されることを願う人々には、祝うことは何もない。

2021年7月3日土曜日

AMからFMへ

 日本初の民放ラジオ局である中部日本放送と新日本放送が開局したのは70年前の1951年。次々と全国でラジオ局の開局が続き、相撲中継や野球中継、連続放送劇、リクエストによる歌番組、クイズ番組など多くの人気番組が誕生、ラジオは全盛期を迎えたが、やがてテレビの普及とともに聴取者は減少した。広告費減少などでラジオ局の経営は厳しく、2019年度の全国のラジオ局の売上高合計は3年連続で減った(帝国データバンク調べ)。

 FM局も全国各地に誕生したが、ラジオの主力はAM局だった。人気パーソナリティによるワイド番組や深夜放送など人気番組はAM各局に存在し、インターネットによる番組配信などで新たな聴取者の開拓も進めているが、全盛期のような多くの聴取者を獲得することはできていない。広告の出稿はインターネットに向い、ラジオ局の前途は先細りとの見方があった。

 こうした中、全国の民間AMラジオ47局のうち東京のTBSラジオ・文化放送・ニッポン放送を含む44局が2028年秋までにFM放送への転換をめざすと表明した。全局がFMに完全移行するのではなく、AMを併用する局もある。また、北海道と秋田の民放3局は放送エリアが広大であることなどからAM放送を続けるという。

 FM波の到達範囲は100km程度とされるが、AM波の到達範囲はもっと遥かに広く、山かげなどにも電波が回り込むので山かげに住む人にも届く(FM波は回り込みにくい)。音質はFM波がAM波よりいいとされるが、安価なラジオで聞く限りでは音質の差は目立たないだろう。ラジオ局がわざわざAM放送からFM放送に移行するのは、放送設備などのコストがFMよりAMのほうがかかるから。

 AMの波長は約200〜600m。送信アンテナの設置には広い場所が必要で波長約500mの大型のアンテナとなる(FMは波長3〜4m。送信アンテナの設置場所は山頂や鉄塔など高い場所。波長約4mのアンテナだから、AMに比べかなり小型ですむ)。広告収入も聴取者も減り、経営が厳しいAM局にとって設備の老朽化などもあって、ラジオ局を続けるならAMを維持するよりFMに転換したほうがコストがかからない。

 AM局はすでにワイドFMでも放送も行っている(従来のFM放送は周波数76MHz~90MHzだが、90.1MHz~95MHzを用いてAM番組を放送するのがワイドFM)。災害対策や難聴対策のためということだが、AM局のFM移行の試行のようでもある。AM局のFM移行は総務省でも検討され、22年以降にFM移行を認める制度改正とAM停波の実証実験を始めるという。

 AM局がFMへ移行すると、聴取者はワイドFMを聞くことができるラジオを用意しなければ聞くことができない(従来のFMの周波数しか受信できないラジオでは聞くことができない)。FMよりもインターネット専門ラジオ局に移行したほうが簡単なようにもみえるが、ネット専門ラジオ局になれば更なる聴取者減少は免れまい。FM移行に聴取者がどれだけついてきてくれるかーこれは現在のAMにどれだけ魅力があるのかを示す。