2021年12月29日水曜日

その場しのぎ

 パンデミックが始まり、西欧などマスク着用の習慣がなかった諸国では、新型コロナウイルスの拡散防止対策としてのマスク着用の強制に人々から反発の声が上がった。日本ではマスク着用に厳しい拒否反応は起きなかったが、市中からマスクが消え、人々はマスクを探し回り、争奪戦が始まった。

 当時の政府はマスクの品不足解消が最優先課題と判断したのだろう、政府が布マスクを調達して人々に配布した。これがいわゆるアベノマスク(2020年4月。政府による不織布マスクの推奨がなされたのは2021年4月)。「適切な対応」に政府は人々からの賞賛や喝采を得ることができると期待したのだろうが、2枚の布マスク配布に人々の反応は冷淡だった。

 人々が欲しているものを政府が調達して配布した日本。布マスクは洗って再利用できるからマスク不足対策の妙案と政府は自画自賛した。「非常時」の対応なのかもしれないが、市場経済の原則に則るならば、政府が市場のプレイヤーになるのではなく、企業にマスクを市場に供給することを政府は促し、環境整備すべきだった。

 市場経済の国においても政府が行う経済活動は様々な公共事業などとして存在する。それらは次第に民営化され、企業に委ねられる傾向が20世紀後半以降に顕著となり、「民でできることは民で」との主張が叫ばれる。今回のパンデミックでは、民間主導の経済活動の収縮が続き、各種給付金の支給など国家による経済活動が「非常時」を支えた。

 マスクを政府が調達しなければならない状況とは、①マスクが必需品である、②マスクの生産や流通に関わる民間企業が不在または希少、③マスクの供給が不足ーの場合だ。市中からマスクが消えたのは、一気に需要が増えたためだが、生産や流通に関わる民間企業は存在していた(政府は民間企業から布マスクを調達した)。

 当時の政府がアベノマスクの配布を始めるまでには時間がかかり、配布を始めた頃には市中に各種のマスクが出回り始めていた。政府がマスクの在庫を大量に持っていたならば、市中からマスクが消えた時にすぐアベノマスクを配布できたであろうが、当時の政府にはマスクの大量在庫はなかった。

 そのアベノマスクが現在、8000万枚以上が在庫として保管され、保管費用に6億円以上かかっていることが明らかになり、批判を浴びた政府は希望する自治体や個人に無償で配布することを決め、残りは廃棄処分にするという。もったいないな。当分使用されない五輪施設にでも保管すれば費用は少なくて済むだろうから、「次に」マスク不足になったときのために政府は備蓄しておけばいい。

 それに、政府がマスクを調達して全国の家庭に配布するという愚策の記念物としてもアベノマスクを保存する意味がある。政治家が目先の出来事に振り回され、政府も官僚も基本的な対策を後回しにし、その場しのぎの対策に懸命になる日本の政治の記念物でもあるな。

2021年12月25日土曜日

人生の意味

  「人生には意味はない。だが、生きることには価値がある」とは友人の言葉。人生には台本はなく、その場しのぎの連続で誰もが行き当たりばったりに生きるしかないと友人は言い、無数の選択の結果として個人の人生は形成されるのだから、人生に意味を感じたり見いだしたりする人もあろうが、その意味とは当人らの解釈でしかないとする。

 だが、「生きることには価値がある」とするのは、人は誰でも地球上でただ1人の存在だからだ。30数億年前に誕生した単細胞生物の一つから始まった生命のリレーが続いて誕生した1人の人間。無数の偶然の結果として誕生した1人の人間が生きることは貴重なチャンスであり、生命のリレーに加わって、生きているだけで価値があると友人。

 人生に意味があるとする考えは、人生を肯定するために欠かせない。だが、自分の人生を肯定するために自分の人生の意味を求めることもある。何らかの意味を付与することで自分の人生を肯定する心境に至るのは個人の自由だから、人生の意味は主観で判断するしかない。傍目には否定的に見られようと、本人が満足しているなら、その人生には意味があったことになる。

 例えば、特筆することがない平穏な一生であっても満ち足りた人生だと評価することもできるし、何らかの業績を残したことを人生の意味とすることもでき、子や孫に生命のリレーを繋いだことに満足することもできる。自分以外の誰かを幸せにしたと思えるなら満足できる人生かもしれない。

 人生の意味を主観で判断するのだから、意味がある人生と意味がない人生に分かれよう。意味がある人生だとする人は何らかの達成感や満足感を自分の人生に感じるだろうし、意味がない人生とする人は後悔や慚愧の念に覆われているのかもしれない。大量殺人などの犯罪者らは責任を問われて罰を受けようが、その人の人生まで否定されるものではないから、意味がない人生だと他人の人生を決めつけることはできまい。

 人生の意味とは人生の評価であるが、評価基準は確固としたものではなく、人によって時によって揺れ動く。おそらく自分の人生を受け入れている人は自分の人生に意味があると感じるだろうし、自分の人生に不満を感じている人は意味があるとは感じにくいだろう。人生の意味とは人生の装飾品の一つに過ぎないと見れば、意味の有無にこだわることもない。

 「意味がある人生も意味がない人生も、生きるに値する」と友人は言い、人生の意味と人生の価値は別物で、意味と価値を混同するから、人生の意味に過度に重きを置いたりするのだと主張する。楽もあり苦もある人生は「楽しんだ者の勝ちだ」と続けて友人は、人生は全てが特注品で一人一人が個別に形成するものだから、全ての人の人生が特別なのだとする。

2021年12月22日水曜日

マスクと強制

 最近、建物内や公共交通機関内でマスクを着用していない人を見ることはほぼないが、行き交う人がまばらな路上ではマスクをつけていない人を見かけることは珍しくない。密になっていない環境なのだから、マスクの着用は個人が自由に選択することだ。だが、マスクをつけていない人を、とがめるような目で見るマスク着用者がいたりする。

 ただ、面と向かって「マスクをつけろよ」等と言う人はほとんどいない。「密ではない状況だから、マスクをつけるかどうかは個人の自由だ」等と反論されると、引っ込みがつかなくなってトラブルになる可能性があるから、とがめるような目でマスク非着用者を見るだけで済ます。マスク着用が義務だと誤解しているからマスクの非着用に敏感に反応するのだろう。

 マスク着用の目的は、咳やくしゃみによる飛沫の拡散をマスクで防ぐことだ。新型コロナウイルスでは無症状の感染者が多いので、誰をも感染者だとみなして、飛沫に含まれるウイルスの拡散を抑えるため全員のマスク着用が呼びかけられた(ウイルスの侵入をマスクが防ぐ効果は限定的で、マスクだけではウイルス侵入を防ぐことは難しい)。

 飛沫の拡散を防ぎ、感染を拡大させないことがマスク着用の狙いだとすると、行き交う人がまばらな路上ではマスク着用の必要性は低下する。飛沫にウイルスが含まれていたとしても周囲に人がいなければ感染拡大は起きない。3密の環境ではマスク着用が求められるが、3密ではない状況でのマスク着用は個人の判断による。

 他人にマスク着用を強制したがる人々はマスク着用が義務だと誤解しているが、自分は正しいと思い込む。厚労省や各自治体などはマスク着用を呼びかけているが、法に基づく強制ではない。国などの指針に過剰に適応しようとしつつ、国などと一体化して国の後ろ盾を得たと勘違いした人たちが「マスク警察」を演じるのだろう。国の方針などに過剰に適応しようとする人々はいつの時代にも存在する。

 マスク着用には煩わしさがつきまとう。先日、混んでいる商業施設内でフェイスガードだけをつけて買い物している人がいた。フェイスガードだけでは飛沫が拡散していると明らかなため、その人の周囲には人が寄り付かない。マスクよりフェイスガードだけのほうが煩わしさはないだろうが、感染予防には役立たない。

 冬を迎え、メガネが曇るという煩わしさが加わる。マスク着用で寒い外に出るとメガネが曇り、暖房されている建物内などに入るとメガネが曇りと繰り返す。雪国で暮らす友人は、冬には路面が凍り、メガネが曇ると足元がよく見えず、危ないと感じ、冬は鼻だしマスクにしているという。鼻だしマスクにするとメガネは曇りにくく、路面状況をしっかり見ることができるのだが、「鼻からの飛沫拡散は勘弁してもらう」と友人。

2021年12月18日土曜日

強制と自由

  経済活動をパンデミック前の状況に戻そうと、ワクチンの接種済みの人々に限定して飲食店や商業施設への出入りを自由にしたり、ライブイベントなどの参加を上限なしに認める「ワクチンパスポート」導入の動きが広まっている。だが、欧州諸国などでは、ワクチンパスポート携帯の義務化は個人の自由を国家が制約するものだとして反対の動きが顕在化している。

 フランスでは抗議デモが夏から毎週続き、ワクチンパスポートの携行強制は「移動の自由」の侵害だと反対している。参加者の政党色は薄く、デモでは三色旗が振られ、個人の自由をアピールしていると報じられた。イタリアではワクチン接種のデジタル証明書「グリーンパス」に反対するデモがあり、ベルギーのブリュッセルではEU域内での「グリーンパス」の強制導入に反対する人々の一部が暴徒化した。

 ワクチンパスポートの強制導入に反対する人々は、ワクチンパスポートが人々の移動の自由を侵害するとともに、ワクチン未接種者に対する差別的扱いを正当化し、さらにワクチン接種の義務化を強制するなどとして抗う。ワクチン接種を拒否している人々は各国に存在するので、ワクチン接種の義務化はワクチンの未接種者をあぶり出す。

 欧米などで新型コロナウイルスの感染拡大の勢いは衰えていないが、重傷者や死者は減少し、それはワクチンの接種拡大による効果だと説明される。ワクチン接種率が70%以上と高い国が多いのでワクチン接種を多くの人々が受け入れた。だが、国の指示に従った人々もいるだろうが、パンデミックに対応しようとの社会的な要請ととらえた人々も多かったような気もする。

 抗議行動には、ワクチン接種そのものに反対する人々に加え、国家による束縛を嫌い個人の自由の尊重を求めたり、未接種者の差別的な扱いに怒り、ワクチン接種の強制に抗議する人々が加わっているようだ。国家の要請よりも個人の自由を重視するのは健全な民主主義的な感覚であろうが、パンデミック対策を国家権力の問題に限定しているとの疑問も生じる。

 さらに、個人の自由を重視し、国家による強制を嫌う人々がワクチンパスポートには反対するが、例えば、内燃機関の自動車を禁止してEVに強制的に移行させるとの欧州各国の政策に、選択は個人の自由だと抗議し、反対する動きはないようだ。ワクチンパスポートに反対する人々の大半は地球温暖化論に従順に従っているのかな。

 ワクチンパスポートは経済対策であり、大半の人々はワクチン接種済みであるので素直に受け入れた。だが、ワクチンパスポートが人々の管理の道具になることは確かで、電子的なワクチンパスポートなら人々の動きを常時把握できよう。国家による束縛や強制を嫌う人々が敏感に反応するのは当然か。

2021年12月15日水曜日

中国の民主主義

  中国政府が「中国の民主」と題する白書を発表、報道によると「西側の民主モデルをただまねるのではなく、中国式の民主を創り上げた」と主張し、共産党主導の中国式民主主義の特色と成果を強調する内容だったという。中国にも民主主義があるとの主張だ。

 中国式の民主主義という主張は、民主主義に様々なバリエーションが存在することで成り立つ。民主主義は欧米発祥のものだが中国は「民主主義は全人類共通の価値観」とするものの、それぞれの国の歴史・文化に根差した多くの形態が民主主義にはあるとし、中国では共産党の指導による民主主義追求の歴史があるとする。

 共産党が独裁し、議会は形式だけのもので、法の支配は限定的、個人の自由は厳しく制約され、少数民族に対する過酷な支配が行われている現在の中国を民主主義国と認めるなら、現在の世界に民主主義ではない国はほとんど存在しないだろう。

 中国が誤魔化しているのは、国家の主権を有するのは誰かということだ。王や貴族など特権階級が国家権力を専有する体制を打倒し、人々が国家主権を共有することが民主主義の基本となる大原則だ。中国では国家主権を共産党が独占し、人々は共産党に支配される存在でしかない。そうした中国が民主主義を標榜するのは、「中国独自の」と限定したとしても間違っている。

 国家主権を人々(人民)が有するが、その人民が共産党の統治を支持しているというのが中国式の民主主義の解説なのだろうが、本当に人民(人々)が共産党の独裁を強制されずに支持しているかどうか不明だ。人々(人民)の支持を客観的に明確化する仕組みが自由選挙なのだが、中国では立候補にも投票にも制約がない自由選挙は実施されていない。

 中国が中国式の民主を主張したのは、民主主義を否定することができなかったからだ。市場経済を取り入れ、搾取を容認し、資本家階級も特権階級も形成されたとあっては、もう中国は共産主義の労働者階級独裁=共産党独裁との図式に頼ることはできなくなった。だから、民主主義を否定できず、中国式の民主主義があるとうそぶくしかなかった。

 民主主義が国により様々な形になるというのは正しい。土着の文化や歴史などに政治システムは影響を受けるので、国によって民主主義による政治のありようは異なるのだが、①人民主権、②主権者による自由選挙、③主権者の代表による議会、④法の支配ーなどは原則である。それらが欠如している中国が独自の民主主義を主張するのは、民主主義をつまらないものと人々に思わせることが狙いか。

2021年12月11日土曜日

自然に任せろ

 フランス南西部で、野生のイノシシを追っていた70歳の猟師(男性)がヒグマに遭遇、襲われて足に重傷を負ったという。ヒグマは欧州最大級の肉食動物で、報道によるとフランスではほぼ絶滅したが、政府が1996年に再繁殖を目指す取り組みを開始し、スロベニアからヒグマを輸入してピレネー山脈南西部に放していた。

 この猟師は政府の再導入策により生息していたヒグマによって負傷した。なぜフランスでヒグマが絶滅したのか詳らかではないが、国策としてヒグマの再導入が行われなければ、この男性が負傷することなかった。人が襲われるなどのヒグマ関連被害は329件(2020年)と多く、ヒグマの再繁殖には家畜を脅かされると農家は反対しているという。

 日本では一度絶滅したトキが政府の保護増殖事業により、中国からトキの提供を受けて飼育、人工繁殖したトキを放鳥し、野生下でも雛が誕生するなどトキの復活が軌道に乗っている。環境省は2019年、人工繁殖で野生復帰が進んだとしてトキを、絶滅の危険性が1ランク低い「絶滅危惧1A類」に指定を変更した。

 日本でトキが復活して増えたとしても、トキは人間に危害を加える存在ではないが、ヒグマは人間にも家畜にも危険な生物だ。スペインがフランスとの国境地帯の山間地に再導入したヒグマが馬や羊を殺したことが2019年に確認された。絶滅したヒグマを復活させることは、生態系の復活だとの解釈なのだろうが、人為的な生態系の改変とも解釈できる。

 地球の歴史において多くの生物種が絶滅して消えた。恐竜が絶滅して次に哺乳類が栄えたように、何かの生物種の絶滅は他の生物種の生息域を広げたりする。生態系を固定したものと見るなら、絶滅したヒグマを復活させることは生態系の維持と解釈されるだろう。だが、生態系は常に変化しているのだから、絶滅したヒグマを復活させることは人間が生態系を変えることだ。

 生態系の維持という思想には根本的な欠陥がある。それは、一つの固定した生態系しか許すことができないとの考えにつながり、自然における生態系の変化を許容できなくなることだ。さらに、絶滅の危惧が強調されて「白クマさんがかわいそう」などの情緒的な賛同者が加わることにより、生態系の維持という思想は批判に対して不寛容になる。

 おそらくフランスでヒグマは人間により絶滅させられたから人為的に復活させようとしたのだろうが、人間も生態系の一部であることを思い出すなら、人為的な生態系の破壊も生態系の変化と理解するべきだろう。人為的な生態系の破壊は愚かな行為であろうが、絶滅したヒグマを再繁殖させて人間が考える「理想」の固定された生態系を再構築しようとの発想は、「人工的な楽園」を作るという愚かな試みだ。

2021年12月8日水曜日

戦争責任の定義

 日常の会話では、言葉の定義(言葉が意味するもの)をいちいち意識することなく、おおよその理解や解釈で使っている人が多いだろう。人により言葉の定義に違いがあっても、誤解を生んだり意思疎通を阻むほどの障害になることは日常では少ないだろうし、違った意味で使っていることが判明しても笑いで済まされたりする。

 だが言葉の定義を明確にすることが必要不可欠となる場合がある。学問は言葉の定義を共有する前提で成り立つし、政治に関連した議論などでも、同一の言葉を各人がそれぞれの定義で使うならば議論は噛み合わないだろう。言葉の定義を共有することにより、認識を共有する部分と相違する部分が明らかになる。

 だが、言葉の定義を曖昧なままに放置して、各人が一方的な主張を行う場合もある。政治などが絡んで、相手の主張に理解を示すことが自己の主張の劣勢や敗北と見られることを避けるために、言葉の定義を共有する努力は放棄され、言葉の定義は自己の主張に好都合なものに設定され、一方的な主張を言い合う。

 例えば、戦争責任という言葉。この言葉は日本やドイツの責任を厳しく問う場合に使われることが多いが、例えば中国やロシア(ソ連)、米国、英国などの戦争責任を問う論説は見当たらない。参戦して戦争を遂行した責任を戦争責任とすれば第二次大戦に参戦した全ての国に戦争責任があるわけだが、そうした議論はなく、日本やドイツに対してだけ戦争責任が問われる。

 すると、戦争責任とは敗戦責任のことになるが、敗戦国の人民が自国政府の敗戦の責任を追及するのなら責任の意味は明白だが、戦勝国側が敗戦国の敗戦責任をいつまでも問うのは奇妙だ。第二次大戦では戦勝国側が日本でもドイツでも裁判を行って敗戦国の指導者を処罰したのだから、戦勝国側の敗戦国に対する責任追及は決着がついている。

 参戦して戦争を遂行した責任ではなく敗戦した責任でもないとすると戦争責任は、開戦した責任ということになる。第二次大戦では日本もドイツも先制攻撃を行ったのだから、開戦した責任は存在する(その責任も大戦終了後の戦勝国による裁判で厳しく問われた)。現在、国連が容認する戦争は自衛のための戦争と国連決議で参戦を容認した戦争だけだから、自国の判断で開戦したならば、その責任は戦争責任として厳しく問われるだろう。

 しかし、例えば、米国によるイラク攻撃やNATOによるコソボ攻撃は自衛のための戦争ではなく国連決議を得ていない戦争だったが、米国やNATOの戦争責任が厳しく問われることはなかった。日本やドイツにあって米国やNATOにないとすると、戦争責任とは開戦責任プラス敗戦責任ということになる。だが、日本もドイツも開戦責任は戦勝国側による裁判で決着済みだ。

 どうやら、終戦から何十年経っても問われ続ける戦争責任とは第二次大戦の敗戦国にだけ課せられたものらしい。第二次大戦後に形成された国際秩序は現在も続いているので日本やドイツの敗戦国という立場は続く。戦争責任という言葉は日本やドイツを牽制し、押さえつけておくためには便利だろう。言葉の定義が曖昧なまま使われるのは、相互の認識の共有が目的ではなく、第二次大戦後の国際秩序の維持のために、言葉の定義が曖昧で、どうにでも使うことができるほうが戦勝国側には都合がいい。

2021年12月4日土曜日

外交道具としての移民

 英仏海峡で2018年以降、フランスの海岸からゴムボートや小型船などで英国上陸を目指す移民が急増を続け、今年はすでに2万5千人以上になるという(英国の統計)。英仏海峡トンネルを通るトラックに潜む英国への密入国はパンデミックによる入国規制で難しくなり、犯罪組織がボートによる密航請け負いを活発化させたとみられている。

 英国を目指す移民の多くはイラクなど中東出身者という。EUに入っても独仏ではなく英国を目指す移民は、▽英国内に親族や知人のつてがある▽英国では不法滞在でも職を得やすい▽言語の壁が低い(英語を話すことができる移民は珍しくないか)などで英国を選ぶ。

 英仏海峡で最も狭いのは仏カレーと英ドーバー間で約34km。ゴムボートや小型船などには多数が詰め込まれる。11月24日には英国を目指した1隻の小型ゴムボートの空気が抜け、乗っていた約50人の移民のうち子供を含む27人が死亡した。事故の後に英国はフランス側の取り締まりが緩いと批判し、フランスは密航を助ける犯罪組織の撲滅に向けてEU各国と連携するとした。

 報道によると英国はフランスに警備の資金拠出を申し出て、仏海岸を合同パトロールすることを提案していたそうだが、仏側が受け入れなかった。仏海岸での取り締まりを強化すると、英国を目指す移民をフランス国内にとどめることになり、フランス側の負担が大きくなるためか。移民を英仏が押し付け合うことが続き、27人が死ぬ惨事となった。

 11月には、EU入りを陸路で目指す移民が政治問題化した。ポーランド国境のベラルーシ側にイラクやシリアなどからの多数の移民が集まり、ポーランドは鉄条網でフェンスを作ったり、催涙ガスや放水などで移民の流入を阻止したが、移民は国境付近にとどまった。EUに「入れろ」「入れない」の攻防は10日間ほど続き、ベラルーシは移民を国境から退去させた。

 退去させた移民は約7千人。EUが2千人を受け入れ、5千人はベラルーシが母国に送り返すとの提案をドイツは拒否し、ベラルーシは移民をイランなどに航空機で送り返し始めた。この多数の移民は、ベラルーシがEUに意図的に移民を流入させて圧力をかけるために集めたとの報道もあり、ベラルーシは移民を政治的な道具として使った疑いがある。なお、続報がないので一件落着したとみえる。

 英仏は移民を押し付け合い、ベラルーシは移民をEUに圧力をかける外交道具として使った。戦乱で中東各地から多数の移民が欧州を目指したが、各国はその扱いに困惑した。国境を押し破ろうとする人々に対して民主主義国といえども、その扱いは冷淡になる。戦乱の地にとどまって困窮する人々には同情するが、移民として押しかけて来られると拒否するというのが先進民主主義国の実態だ。

2021年12月1日水曜日

批判できる立場

 誰かを批判するのは簡単だ。誰かが右を向けば「右を向いた」と批判し、左を向けば「左を向いた」と批判し、動かずにいれば「何もしない」と批判する。批判することが目的とあれば、対象が何をしても何もしなくても批判は可能だ。そうした批判の判断基準は、好悪の感情だったりするが、批判することで「評価する者」として優位な立場になろうとする動機に支えられていたりする。

 批判の判断基準は好悪の感情のほかに、倫理観や道徳観、政治観、経済的な利害、個人や組織などの体面や優劣争いなど様々だ。一方、判断基準が曖昧でも批判することはできる。例えば、政治的な中立を標榜し、権力批判が使命だと自認しているマスメディアなら、選挙で勝って政権を担う全ての政党を批判するだろう。保守政党でも革新政党でも、国家権力を握った政党を批判できる。

 もちろんマスメディアにはそれぞれ政策や倫理観などに関して判断基準があり、権力だからと無節操に批判するわけではないだろうが、確固とした判断基準と徹底した権力批判は時には矛盾する。権力に追随すると見られるよりも、権力を果敢に批判すると見られることを好むマスメディアなら権力批判を重視するだろう。

 個人なら、感情や倫理観、道徳観、政治観など批判の判断基準は個人の自由であり、客観性や公平性などが希薄であっても許容されるので、側から見て歪んでいるような判断基準を固守する人は珍しくない。他人が共有できない独自の判断基準を押し通す人もいて、それが個性ともなるが、関わると厄介な人として周囲からは鬱陶しがられたりする。

 権力批判を好む人がいて、マスメディアに影響されたのか、深刻ぶったりしながら権力を批判する。だが、独自の判断基準が希薄な人の批判はマスメディアの受け売りだと見透かされる。世の中は全てくだらないと見ている人なら全てが批判の対象になろうが、独自の判断基準が曖昧だと見えれば、何でも批判する「お前は、何様だ?」などと反批判されるかもしれない。

 批判は①間違いを指摘する、②間違いを責める=責任を問う、に大別される。事実関係の間違いなら批判された側は修正せざるを得まいが、事実認識の相違や判断基準の違いなどについての批判なら、見解の相違として批判を突っぱねることができる。責任問題がちらつくと批判された側が、批判を認めないことに懸命になったりもする。

 批判には、対象を否定する狙いのものや、自分を目立たせるための批判=他者攻撃がある。対象を否定する批判なら何の根拠でも持ち出して批判するだろうし、自分をアピールするための他者の批判もある。選挙などでは、相手にダメージを与える目的の批判が活発になり、批判合戦に終始する。批判することが目的なのだから、批判することで目的は達している。