2014年12月31日水曜日
独裁は腐敗する
世界の腐敗度の、ある国別ランキングによると中国は174カ国中の100位だ(2014年。日本は15位)。中国は前13年に80位だったので、大きく順位を落としたのだが、これは腐敗が深刻になったというより、腐敗の凄まじい実態が徐々に暴かれ、国外からも見えるようになったことの影響かもしれない。
中国では習近平主席が主導する汚職撲滅キャンペーンが全国で展開され、広範で深刻な腐敗の実態が衆目に曝されるようになった。2013年だけで18万人以上の共産党員が調査を受け、5万人以上の公務員が立件されたが、閣僚級が数人、局長級が200人以上含まれていたというから、さすが13億人以上を抱える大国だ。腐敗が蔓延している大国だから、いつまででも腐敗摘発を続けることができそうだ。
腐敗の規模も大きい。中央官庁の国家発展改革委員会の副局長の自宅から2億元(約36億円)の現金が押収されたことが話題となったが、腐敗で得た現金をそのまま溜め込むのは、腐敗の“素人”がやること。金製品などを買ったり、不動産を買ったりするのが一般的(?)。例えば、武志忠という内モンゴル自治区政府の高官は中国に33軒、カナダに1軒の住宅を所有していたという。
もちろん地位が上がれば上がるほど、集まる金が増えるので腐敗の規模も大きくなる。かつて中国共産党の中央政治局常務委員9人の1人で公安トップだった周永康氏は、党籍を剥奪され逮捕されたが、伝えられるところでは、一族の29軒の住宅から押収された金・銀・金貨類が43キロほど、現金類がスイスフランなどで670億円以上、銀行預金などが5680億円、証券が8640億円などで、ほかに多数の車両や絵画があり、総額1千億元(約1兆7千億円)に達するというから、さすが大国のトップ級官僚だ。
中国の腐敗の全体像は想像に絶する規模だろう。例えば、▽中国の官僚の国外銀行での不正による預貯金総額は4兆8000億ドル以上▽党や政府の幹部、国有企業の管理職らで海外に逃亡した総数は1万6000人以上、持ち逃げ総額は8000億元(15兆円超)▽軍隊内ではポスト売買、戦闘機や戦車など兵器や軍需物資の密売などが蔓延、など漏れ伝わる情報からも腐敗の深刻さが分かる。
中国は共産党の1党独裁体制で、中央でも地方でも党員の政府幹部が大きな裁量権を握る。法も共産党に従属するのが実態で、腐敗を牽制する仕組みが弱い社会だ。革命のための軍事組織としては独裁体制が必要だったろうが、平時における独裁体制は、個人独裁でも1党独裁でも腐敗がはびこるのは世界の歴史が示すところだ。
中国には、中央や地方の権力者と、それにつながる人々が富を占有したという長い歴史もある。自力で社会の近代化ができなかった中国は20世紀に戦乱や革命の混乱が長く続き、人々は生き延びるのに必死だったのだろうから、その影響で法治などの規範意識が希薄なのかもしれない。しかし、中国が豊かになるにつれて、「先に豊かになれる者から豊かに」なると官僚が富を略奪している現実は、中国の人々にとっては救いがない悲劇だ。
2014年12月27日土曜日
急発達する低気圧
2014年12月中旬に、日本海を低気圧が急速に発展しながら東進し、太平洋側を北上した低気圧と北海道付近で合体、台風並みの猛烈な低気圧になった。24時間で50ヘクトパスカル(hPa)くらい中心気圧が下がって、948hPaにも達した。ちなみに10月に大雨と暴風で死者5人などの被害を出した台風18号は浜松市付近に上陸したころ965hPaだった。
この猛烈に発達した低気圧によって道東を中心に猛吹雪となり、大雪や強風(根室市で瞬間最大風速39.9メートル。台風18号では石廊崎で32.2メートルだった)に加えて、太平洋側やオホーツク側で高潮が発生し、市街地が冠水、床上浸水などの被害も発生した。
高潮が発生したのは、低気圧が急速に発達して気圧が下がったことで吸い上げ効果が生じ、海水面が上昇したことと、低気圧による強風が陸に向かう風向きになって波が吹き寄せられたためという。気圧が1hPa下がれば海面は1センチ上昇するといい、そこに強風が加われば、うねりが一層大きくなるという。厳寒の冬季に浸水被害は過酷だ。
この低気圧に対して札幌管区気象台は「まったく見通しのきかない猛吹雪や吹きだまりなどにより、車の運転が困難になるなど交通機関に大きな影響が出る恐れがある」と厳重な警戒を呼び掛け、網走地方気象台は「数年に1度の猛吹雪」が起こる恐れがあるとして、外出を控えるよう呼び掛けた。気象庁は「これだけ急に発達するのは数年に一度。見通しが全くきかない猛吹雪になる恐れがある」とし、外出を控えるよう呼びかけた。
数年に一度というのは、珍しい気象現象ではない。たまに遭遇するといった気象現象だから、子供の頃から何度も経験するだろうし、大人になっても何回もの経験があるだろう。だが、この低気圧と温暖化を結びつけて解釈する動きが散見された。といっても詳しいメカニズムの説明はなく、何でも温暖化のせいにして「異常気象」と断じて深刻ぶってみせるスタイルだったりする。
研究者によると、日本を含む極東域における冬季は、シベリア高気圧とアリューシャン低気圧という西高東低の気圧配置になり、シベリア上の冷たい空気を東アジアへ吹き出す。その冷たく乾いた空気が、日本海で大量の水蒸気を供給されると、本州や北海道の日本海側に雪を降らせる。シベリア高気圧が強まると、寒気の吹き出しも強まる。
おそらく、偏西風が日本付近で大きく南に蛇行しているときに、日本付近を通過した低気圧が北海道付近で動きが鈍くなって停滞し、そこでシベリア高気圧や太平洋高気圧からの空気を引き込むことによって、急速に発達するのだろう。北米大陸に大寒波をもたらしたのも、偏西風の南側への蛇行であったことを考えずあわせると、「異常気象だ」「温暖化のせいだ」などと言い立てるより、偏西風と気象現象の関係を考慮した方がいい。
2014年12月24日水曜日
拷問はローテクのまま
世界に冠たるハイテクIT企業が多く存在する米国で、国際的な通信傍受システム「エシュロン」や、エドワード・スノーデン氏が暴露した様々な個人情報収集など、情報機関は高度な手法で情報収集を行っている。だが、容疑者を痛めつけて口を割らせるという、ローテクな情報集めにも熱心だったようだ。
米上院情報特別委員会が公表した、ブッシュ政権下でCIAがテロ容疑者に対して行った過酷な尋問に関する調査報告書によると、平手打ちや腹にパンチを入れる、壁にぶつけるなどを始め、水責め、眠らせない、無理な姿勢を長時間とらせる、裸にして放置する、窮屈な箱に閉じ込める等、古典的ともいえる“テクニック”を用いていた。
水責めというと時代劇では、逆さ吊りにした人の頭部を水桶の中に入れて苦しませるシーンが思い浮かぶが、CIA方式は、傾斜した板に足を上にして容疑者を固定し、鼻と口に水を注ぎ続けて苦しませたり、水を含ませた布を鼻と口にかぶせて呼吸をできなくして苦しめる。
眠らせないためには、横にさせないこと。CIA方式は、立たせたままか無理な姿勢のままでいることを強要する。最高180時間も眠らせなかったというから、1週間か。時には、天井からの鎖に両手を頭上で繋いだまま立たせたというが、この光景はハリウッド映画などでもよく見るシーンだ。でも、映画ではたいてい、主人公側の誰かが敵方に捕まって責められる時に用いられるのに。
無理な姿勢で苦痛を与えるために、棺桶サイズの箱に11日間閉じ込めたり、しゃがんでやっと入れる箱に1日以上閉じ込めたりしたというが、軍用品の空き箱を利用したのかもしれない。真っ暗な地下室に鎖で繋いで裸で放置したり、17日間立ったまま壁に鎖で縛り付けたりしたともいうから、拷問マニュアルがないので、現場で思いつくことは何でもやってみたのかもしれない。
食事と水分を拒否して抵抗する容疑者には無理やり、直腸から水分と栄養補給を行ったという。口から強制的に入れれば、水分と栄養補給になるかもしれないが、直腸から、例えば「ボトル2本分の栄養ドリンクを注入」したところで、どれだけ栄養が吸収されるのか定かではない。座薬ではないんだから。
精神的な揺さぶりも併用した。子どもを含む家族に危害を加えるとか、母親に性的暴行を加えるとか、母親の喉がかき切られるとかと脅した。これらの手法は幾つもが組み合わされ、同時並行して多くの容疑者に対して行われていたのだろう。拷問で死亡した人が1人確認され、自殺を図る人も続出したというが、その責任追及がなされる気配はない。
ハリウッド映画なら、効果抜群の自白剤を射ったり、特製ヘッドギアから電波で脳を刺激してペラペラしゃべらせたりと、ハイテクを活用したスマートな自白強要策がありそうだが、CIAが米国外で米国人ではないテロ容疑者に対して行うのだから、費用も手間もかけるはずがない。人権に配慮しないのだから、古典的な拷問手法で済ます。
米上院情報特別委員会が公表した、ブッシュ政権下でCIAがテロ容疑者に対して行った過酷な尋問に関する調査報告書によると、平手打ちや腹にパンチを入れる、壁にぶつけるなどを始め、水責め、眠らせない、無理な姿勢を長時間とらせる、裸にして放置する、窮屈な箱に閉じ込める等、古典的ともいえる“テクニック”を用いていた。
水責めというと時代劇では、逆さ吊りにした人の頭部を水桶の中に入れて苦しませるシーンが思い浮かぶが、CIA方式は、傾斜した板に足を上にして容疑者を固定し、鼻と口に水を注ぎ続けて苦しませたり、水を含ませた布を鼻と口にかぶせて呼吸をできなくして苦しめる。
眠らせないためには、横にさせないこと。CIA方式は、立たせたままか無理な姿勢のままでいることを強要する。最高180時間も眠らせなかったというから、1週間か。時には、天井からの鎖に両手を頭上で繋いだまま立たせたというが、この光景はハリウッド映画などでもよく見るシーンだ。でも、映画ではたいてい、主人公側の誰かが敵方に捕まって責められる時に用いられるのに。
無理な姿勢で苦痛を与えるために、棺桶サイズの箱に11日間閉じ込めたり、しゃがんでやっと入れる箱に1日以上閉じ込めたりしたというが、軍用品の空き箱を利用したのかもしれない。真っ暗な地下室に鎖で繋いで裸で放置したり、17日間立ったまま壁に鎖で縛り付けたりしたともいうから、拷問マニュアルがないので、現場で思いつくことは何でもやってみたのかもしれない。
食事と水分を拒否して抵抗する容疑者には無理やり、直腸から水分と栄養補給を行ったという。口から強制的に入れれば、水分と栄養補給になるかもしれないが、直腸から、例えば「ボトル2本分の栄養ドリンクを注入」したところで、どれだけ栄養が吸収されるのか定かではない。座薬ではないんだから。
精神的な揺さぶりも併用した。子どもを含む家族に危害を加えるとか、母親に性的暴行を加えるとか、母親の喉がかき切られるとかと脅した。これらの手法は幾つもが組み合わされ、同時並行して多くの容疑者に対して行われていたのだろう。拷問で死亡した人が1人確認され、自殺を図る人も続出したというが、その責任追及がなされる気配はない。
ハリウッド映画なら、効果抜群の自白剤を射ったり、特製ヘッドギアから電波で脳を刺激してペラペラしゃべらせたりと、ハイテクを活用したスマートな自白強要策がありそうだが、CIAが米国外で米国人ではないテロ容疑者に対して行うのだから、費用も手間もかけるはずがない。人権に配慮しないのだから、古典的な拷問手法で済ます。
2014年12月20日土曜日
「改革」の真の狙い
国際オリンピック委員会(IOC)は臨時総会で「五輪アジェンダ2020」40項目全てを承認した。報道によると、▽開催都市以外の都市との「分散開催」▽夏季、冬季を問わず例外的に他国との「共催」▽開催都市に複数の種目の提案権▽28の夏季五輪の実施競技枠の撤廃▽五輪のアピールを狙った五輪テレビチャンネルの創設、などを認めた。
開催都市以外の都市との「分散開催」が認められたことで、競技場の建設遅延などが懸念されている2018年の平昌(韓国)冬季五輪の、そり競技を長野の既設施設で開催する案が出てきて、ついで韓国サイドから“見返り”に2020年の東京五輪の一部競技を韓国内で開催する声が出るなど一騒ぎになった。
オリンピックは都市が開催するものというのが建前だが、派手にショーアップされた盛大な開会式が“お約束”になり、増殖する種目に伴い多くの競技場も新設しなければならず、各国からの参加選手の宿舎や競技場周辺のインフラ整備なども必要で、もはや1都市だけでは対応できず、国の支援が不可欠となった。
オリンピックは各国から高額の放映権料を集め、世界の大企業から高額のスポンサー料を徴収するなど大金が動くビッグビジネスとなったので、もう簡略化した質素なスポーツ大会に戻ることはできまい。IOC関係などオリンピックで“食っている”連中が欧州など各国にいるのだから、転がり込む大金を手放すはずがない。
だから、大金がIOCなどに集まる構造はそのままに「改革」する。真の狙いは、開催都市が世界で絶え間なく現れることで、オリンピック開催が続くこと。オリンピックが開催され続けるなら、大金が転がり込むのだから。それで、都市が開催するという建前を取り下げ、他都市との分散開催や他国との共催を認め、オリンピックを開催するハードルを下げたのだ。
開催都市が複数種目の実施を提案できるようにしたことも、立候補する都市を増やす狙い。自国からメダリストが出る可能性の高い種目を実施できるなら、国からの開催都市への支援増加をアテにでき、都市が立候補に名乗りを上げやすかろう。
世界のスポーツ祭典とか平和の祭典とかいわれるオリンピックは、大金が動く国際的な大興行イベントに変質している。今回の「改革」は、オリンピックが肥大化しすぎて開催都市が減ることへの対応であるとともに、ビッグビジネスとしてのオリンピックの延命策だ。テレビや新聞などにとっても大イベントは歓迎だから、批判はしない。
2014年12月17日水曜日
えらく“儲けた”
今回の第47回総選挙の投票率は小選挙区で52.66%となり、戦後最低となった。前回12年の59.32%が戦後最低だったが、今回はさらに6.66ポイント落ち込んだ。有権者数は1億396万人だったので、6.66%というと692万人ほどになる。福岡県が人口509万人、岡山県192万人なので、両県民がそろって棄権した規模に相当する。
今回の得票数の総計は比例区では約5333万票。比例区の定数は180だが、自民は1766万票、得票率33.1%で68議席を得た。民主は978万票、18.3%で35議席、維新は838万票、15.7%で30議席、公明は731万票、13.7%で26議席、共産は606万票、11.4%で20議席をそれぞれ得た。ついでに次世代は141万票、2.7%を得たが議席は獲得できず、社民は131万票、2.5%で1議席を得た。
比例の180議席を得票率そのままに分配すると、自民は33.1%なので59議席になり、実際に獲得した68議席を得るには37.8%が必要な計算になる。民主は18.3%なので33議席、維新は15.7%なので28議席、公明は13.7%なので25議席、共産は11.4%なので21議席になる。自民は現行の小選挙区の選挙をうまく活用している。
比例区の得票率を政党支持率と見なして、全475議席を振り分けると、自民は157議席(実際の獲得議席は290議席)、民主は87議席(73議席)、維新は75議席(41議席)、公明は65議席(35議席)、共産は54議席(21議席)。自民がえらく“儲けた”ように見える。
09年の総選挙(投票率69.28%で最高)では、民主が比例42.4%の得票率で大勝した。現行の選挙制度は、投票率が高いと「風」の動きを増幅して議席数に反映させ、投票率が低いと、組織票の多寡や選挙戦術の巧拙が如実に反映するのかもしれない。二大政党による政権交代を目論んで作られた現行制度で選挙を繰り返した結果、1強政党が突出し、野党が弱小政党に乱立しているのは皮肉だ。
なお今回の総選挙の小選挙区での当選者で、最多得票は神奈川11区の小泉進次郎氏で16万8953票。最少得票は大阪19区の丸山穂高氏で5万6119票。10万票以上を獲得した当選者が102人いたが、10万票以上を獲得して落選した人も9人いる。5万票台の得票で当選した人は7人。
2014年12月13日土曜日
誕生日ではなかった
観光スポットや駅前などに大きなツリーが電飾されて輝き、商店などでも小さなツリーやサンタが飾られるなど、12月に入るとクリスマスムードが街中に広がる。年末にだけ日本人の多くが、にわかキリスト教徒になったかのような様相だが、もちろん、このクリスマスムードは宗教とは無縁だ。
日本でのクリスマスは宗教行事ではないが、子供にプレゼントを贈り、家族でケーキを食べる日、カップルが一緒に過ごす日などとして定着した。4月8日の釈迦の誕生日を今ではほとんどの人がスルーしているのとは大違いだ。といっても釈迦の誕生日には諸説あり、また、キリストの誕生日にも諸説ある。クリスマスの12月25日にキリストが産まれたとは確認されていない。
大辞林によるとクリスマスは「キリストの降誕を祝う祭り。太陽の新生を祝う冬至祭と融合したものといわれる」ということなので、この世にキリストが現れたことを祝う日だ。キリストの誕生日がいつなのか、聖書に記されていないので、分からない。だから、誕生日を祝うことはできないので、降誕を祝う。
誕生日と同様にキリストの誕生年にも諸説あって、キリストの生誕年を起源とする西暦の根拠は怪しいが、すでに世界的に定着している。西暦は宗教歴なのだが、クリスマス同様に世界では非キリスト教圏でも普及した。世界に勢力を広げた欧州各国の帝国主義の遺産であり、現在にも引き継がれる西欧の影響力の大きさを示すものでもある。
ところで、誕生日を祝うことは、特定の日付に意味を持たせ、それを確認する行為である。家族には結婚記念日を始め、各人の誕生日など多くの特別な日があり、それを共有することで家族意識を形成・維持する。キリストの降誕を祝うクリスマスはキリスト教徒にとって宗教意識を確認する特別な日だろうが、それを世界の多くの非キリスト教徒が家族意識を確認する日にしたりする。宗教意識と家族意識は、ある集団が帰属意識を共有するという点では似ている。
2014年12月10日水曜日
日本人になった
米でライト兄弟が、エンジンを備えた飛行機の初飛行に成功したのは1903年12月17日だから、ほぼ111年前のことになる。100年前の1914年に始まった第1次世界大戦では戦闘機や爆撃機が使用され、大戦終了後に欧州で、爆撃機などを改造して乗客や荷物を運ぶ民間機による空路輸送の歴史が始まった。
民間の旅客機が誕生する以前の遠距離の移動は、時間がかかるものだった。自動車も蒸気機関も誕生しない以前なら、馬に乗るか徒歩か、船を使うしかなかった。遠距離の移動は大変な労力を要し、移動先が異国ともなると、帰る目処さえ定かではなかったろう。産まれた土地を離れて異国に行くことは、移住することと同義であったかもしれない。
その当時は遠距離通信網もなかったから、知識や情報、技術などの伝播は、人の移動を伴っていた。知識や情報、技術を持った人が、移動先で教え、伝えてから、故郷に戻ることもあっただろう。だが、はるばる異国に行って、知識や技術などを伝えた人が、故郷に戻るのは簡単ではなかったろう。むしろ、異国に定住して、その地の人々と同化したと考えた方が自然だ。
日本の手すき和紙技術がユネスコの無形文化遺産に登録されたが、さっそく韓国では「紙を作る技術は韓国が伝えた文化だ」とする声が出たそうな。日本では和紙と韓紙は異なるものと認識されているそうだが、報道によると、日本の文化や技術が世界で称賛されると韓国では「われわれの祖先が日本に伝えた」との類の反応が出るそうだ。
他国の文化などを自国オリジナルのものだとする韓国の主張を「ウリジナル」と呼ぶそうで、日本絡みでも剣道、柔道、侍、日本刀、忍者、茶道、華道、盆栽、歌舞伎、折り紙、すし、みそ、しょうゆ、豆腐、そば、ソメイヨシノ、秋田犬などを、実は韓国が伝えたものだと主張するそうだ。客観的な文献、資料がどれほど伴っているのかは定かではない。
何でもかんでも自分らに都合のいい主張ばかりする国民性だなと笑うしかないが、はるか昔には文化・技術の伝播に人の移動が伴っていたことを考え合わせると、別のことが見えてくる。
仮に彼らの主張通りに、それらの文化・技術が中国などから朝鮮半島経由で日本に伝わったとしても、伝えた人々は日本から朝鮮半島に戻ったのだろうか。朝鮮半島より日本は温暖なので、昔の人にとっては日本の方が住みやすかっただろう。おそらく、日本に文化・技術を伝えた人の多くが日本に定住して、日本人と同化していった。
つまり、仮に朝鮮半島経由で文化・技術を伝えた人々がいたとしても、日本に定住した彼らは現在の朝鮮半島に住む人々とは切れている。大昔に文化・技術を伝えた人々は、現在の朝鮮半島に住む人々よりも、現在の日本人との血のつながりの方が濃いのだ。彼らは日本人になった。なお、情報網や交通が発達した現在では経済関係などで、日本から韓国に多くの文化・技術が伝えられ、影響を与えている。
2014年12月6日土曜日
バター不足が示すもの
全国的にバター不足だという。スーパーなどの陳列棚からバターは姿を消し、入荷してもすぐに売り切れてしまうそうだ。その理由を農水省は「昨年の猛暑の影響で乳牛に乳房炎等が多く発生したことや、酪農家の離農等で乳牛頭数が減少していることなどから、生乳の生産量が減少して、バターの生産が減少、在庫量も大きく減少。乳業メーカー等は出荷量を抑制していること等から、店頭のバターが品薄になっている」とする。
さらに「生乳は腐敗しやすいため、まず生鮮性が求められる牛乳や生クリームなどに加工され、最後に保存性の高いバターや脱脂粉乳に加工される。バターや脱脂粉乳は、生乳が多く生産される時は在庫として積み上げておき、生乳生産が不足する時は、バターや脱脂粉乳の生産を減らす替わりに在庫を放出するといった需給調整弁の機能を持つ。このような生産構造であるため、生乳生産量が減少してくると、バターの生産量が大きく減少する」とする。
生乳の生産量は2013年度が745万トンで前年比2.1%減、今年4〜10月は2.4%減と減少が続いている。用途別で見ると(2013年度)牛乳向けは396万トンで1.1%減、乳製品向けは343万トンで3.2%減。乳製品向けの内訳は、脱脂粉乳・バター等向け160万トンで8.1%減、チーズ向け48万トンで4.0%増、クリーム等向け130万トンで1.7%増。今年4〜10月でも脱脂粉乳・バター等向けは8.3%の減少だ。
バターの在庫量は2012年度に前年比23.0%増の2万3000トンに増えたが、13年は26.2%減の1万7000トン、14年10月末には28.2%減の1万5000トンへと確かに減っている。国は、品質保持期限の長い業務用の冷凍バターを緊急輸入するとともに乳業団体に増産を要請、大手乳業各社は生産量を約3割増やすことを決め、クリスマスケーキの最需要期には品薄が解消される見通しだという。
でも、乳価は上がらず、エサ代などコストは上がるばかりで酪農家の離農は止まらず乳牛頭数が減っているのだから、生乳生産量が減少し続けるという構造は変わっていない。品不足になるたびに追加輸入や一時的な増産で対処したところで、根本的な対策にはなっておらず、バター不足が今後も繰り返される可能性は大きい。
酪農家の経営を安定させ、乳牛頭数を増やすことが必要だが、これまで動かなかった農水省には期待できそうにない。さらに、TPP参加で乳製品市場が自由化されることになれば、バターの国内市場の85%程が輸入品に置き換わるとの試算があり、国内生産品のシェアは大幅に減る。農水省がバター不足にも一時的な対応で済ますのは、そこらを見ているからだろう。
酪農家は1963年には約41.8万戸あったが、後継者不足などで集約・大型化が進み、1985年に約8.2万戸、さらに2013年には2万戸を割った。自由化されて、臨機応変に輸入できるようになればバター不足は起こらないかもしれないが、今度は国際市況の影響を受けるとともに、品不足になれば各国で奪い合いになり、高値で買う国に流れよう。日本の第1次産業をどうするのか、政策の迷走がスーパーの陳列棚から見える。
2014年12月3日水曜日
人気がない緑色
最近、赤色の車を見かけることが増えてきた。赤といっても派手さは控えめで、落ち着いた深みのある色合い。ワインレッドをもっと濃くして、少し輝きも持たせている。マツダのCMで新型車がまとっている色だ。最近のマツダはヒット続きで、あの赤の新車も増えているのだろうが、同様の深みのある赤い色合いの車は実は他社にも珍しくはない。
街で見かける車の色は白や黒、シルバーが圧倒的に多いので、赤色の車が増えると街の表情も多彩になりそうだ。さらにパステルカラーの車が増えれば街の表情も華やいできそうだが、軽や小型車にある程度。車のボディカラーは所有者が選択するものだが、白や黒、シルバーばかりでは街の表情も単調になる。
街でほとんど見かけることが少ないのが緑系統の車。地域によっては、自衛隊の車両で見かける程度だったりする。日本の新車の人気カラーは(2012年。デュポン調査)1位が白系統で27%、2位が黒系統で22%、3位がシルバー系統で17%、4位が青系統で8%、5位がグレー系統で7%、6位が赤系統で6%、7位が茶系・ベージュで5%、8位が緑系統で2%、9位が黄色・金系統で1%以下、10位がその他で6%。
世界でも緑色は人気がない。世界の人気カラー(同)は1位が白系統で23%、2位が黒系統で21%、3位がシルバーで18%、4位がグレーで14%、5位が赤系統で8%、6位が青系統で6%、7位が茶系・ベージュで6%、8位が緑系統で1%、9位が黄色・金系統で1%、10位がその他で2%。
日本でも世界でも、緑系統のボディカラーは希少種だ。以前なら濃い緑色のボディカラーといえばイギリス車をイメージしたが、最近はイギリスからの輸入車が高級ブランドばかりになったせいか緑色にこだわらないようだ。濃い緑色の車は見かけなくなったが、薄緑色なら軽がたまに走っていたりする。といっても、黄色味がかっていたり青味がかっていたりするが。
白や黒、シルバーなどのボディカラーは下取り査定額が他の色より高いといい、車の色など何でもいいという層も無難だからと買うから多いのだろうし、黄色や赤なら、視認性が高いから事故率が低いという選択理由もあろう。緑色の車の視認性はそれほど高くもなさそうだし、自然豊かな地域では周辺の樹木などと紛らわしいこともあるかもしれない。
緑色のボディカラーを選ぶ理由は、しいて挙げると、大きな駐車場でも白や黒などにくらべ数少ないから、色ですぐに見つけやすいことぐらいか。でも、そんな理由で積極的に選ぶ人は多そうにもない。やはり、緑色が好みだからと選ぶのだろう。とすると、緑色を好む人が少ないのか? そういえば、緑色の衣服を着ている人も少ない印象だ。
2014年11月29日土曜日
楽しみな総選挙
選挙が楽しみだ。今度の総選挙には、どんな有能な人物が立候補するのかな? 自分の利益などは顧みず、人々のために尽くすことを考え、国会の会期中も閉会中も懸命に働く人がどれだけ立候補するのかな? 豊かな見識を持ち、特定の層の利益に偏らずに、多くの人々が平穏に暮らすことができるように目配りできる人がどれだけ立候補するのかな?
選挙が楽しみだ。誠実で、よく人々の声を聴くことができる人が立候補し、当選したならば、素晴しい社会を実現、維持するために懸命になって仕事をしてくれるに違いない。晴れて議員になっても、ポストや利権をあさらず、人々の幸福よりも党利党略を優先させて動き回るような政治家にはならず、人々に奉仕するという使命を全うするに違いない。
選挙が楽しみだ。当選して議員になっても、人々のことは後回しで、政党助成金目当てに新党ごっこにうつつを抜かしたり、政党を渡り歩くような人物は、今回は立候補していないに違いない。当選して議員になっても、政策の研究に励み、法律に精通するために研鑽に励み、テレビのバラエティー番組に出たり、タレント活動をするような人物は、今回は立候補していないに違いない。
選挙が楽しみだ。有能で誠実で理性的な人物が立候補していて、当選して議員になっても、情緒に動かされて判断を誤ったりせず、大局的に判断できる政治家になるに違いない。立派な政治家に成長し、日本を立派な国にするのみならず、国際的な緊張を緩和して、平和で安定した誰もが平穏に暮らすことができるアジア、世界を構築することに励むに違いない。
選挙が楽しみだ。大義がないと今回の総選挙を批判する声もあるようだが、「主権者の声を聞く」ということは常に最大かつ最優先の大義である。住民投票の制度が整備されず、争点ごとに主権者の声を聞くことができない日本では、政治家や政党が主権者の声を知る機会は選挙しかない。政治家や政党が本当に、主権者の声を聞くことを欲するなら遠慮は無用。いつでも選挙を行うべきだ。
選挙が楽しみだ。政党や政治家は勝手な争点を設定するが、何を判断の基準とするかは主権者が決めるもの。当選した政治家や勝利した政党は次の選挙までの期間、好き勝手に振る舞うのだろうから、これからの日本がどうなるのがいいのか、そこに重点に置いて投票したいもの。立派な政治家が活躍するためには、主権者が立派な候補者を当選させなければならない。問題は、そんな人物が自分の選挙区で立候補しているかどうかだが。
2014年11月26日水曜日
雪が行動範囲を広げる
北国から雪の便りが届き始めた。東京などでは冬に雪が降ることは数度しかなく、10センチも降ったなら、それは“大雪”だ。JRなど鉄道各線は運行を取りやめ、路上ではスリップしたり立ち往生する車が続出し、歩道でも転倒する人が増えて大混乱になってしまう。
そうした雪に弱い都市の感覚で見ると、毎日のように雪が降り、積もった雪に覆われる北国の冬は、出歩くにも交通が不便そうで、閉じこもって寒さに身を縮めているしかないようなイメージかもしれない。都会人にとって雪は、旅行先で見るなら趣があるだろうが、都市の日常にとっては不便さの代名詞のような印象だろう。
確かに雪は車道を埋めるので、自動車の交通を確保するにはこまめな除雪が必要になる。鉄道各社も冬は雪が降るたびに除雪に追われ、歩道は人々が協力して雪かきする。各地から人が集まって住み、産業が集積する都市で人・モノの移動は不可欠だが、雪はその脆弱性を突く。近代的な都市にとって雪は邪魔者でしかない。
しかし、自動車が出現する以前の北国で雪は、人間の行動範囲を制約するものではなく、逆に、行動範囲を広げるものだった。クマザサや雑草などが丈高く茂る夏には、人は限られた道しか歩くことができないが、雪が積もったならカンジキなどを使って、クマザサなどの上に積もった雪の上を移動することができる。雪が土地を覆うことによって、“どこでも”道になるのだ。
雪だけではない。川が冬に凍ると、そこが道になる。宮本常一氏は、大黒屋光太夫がカムチャッカからペテルスブルグへ行ったことについて、「冬になって土が凍るのを待って行っております。当時は馬ですね。それに引かせて行くと非常に短い時間でペテルスブルグへ着いてます。あれは夏だったらたいへんだ。凍るということは、寒いということで行動が束縛されると考えがちですが、移動する者、旅をする者にとっては良い条件になるのです。あの広いシベリアを突っ走れるのは、低湿地帯も河もみな凍ってしまうからでしょ」(『日本文化の形成』ちくま学芸文庫)。
北方圏というと、雪や氷に閉ざされ人々は孤立がちに暮らしているとイメージしがちだが、実は、その雪や氷が人間の行動範囲を広げる役目を果たしていた。宮本氏は前掲書で、交易は「夏になって樹木が繁っている中を往復するというのは難しいことだけど、冬凍りつくと橇でいくらでも行ける」とし、1500年以前の北海道のアイヌ文化が、シベリアの北方文化と通じていた可能性を指摘している。
近代になって鉄道網が広がり、さらに自動車が増えるとともに道路網も整備されて交通の機能は格段に強化され、人の移動や物流が質量ともに増大した。そんな近代化された交通システム・物流網が、雪によって阻害されることになったのは皮肉である。機能を上げるほどに、自然に対する脆弱性が増すのは近代文明の宿命かもしれないが。
2014年11月22日土曜日
やっつけで公約づくり
突然の解散・総選挙に各政党は公約づくりを急いでいるという。選挙のたびに「さあ、どうだ」とばかり振りかざされる公約だが、すぐに忘却される。というか、そもそも読む人がどれだけいるのか。民主党が政権を取った総選挙では、マニフェストがウケたようだが、政権を取った民主党は迷走。あれで、マニフェストなるものはすっかり色褪せた。
前回の総選挙で各政党が何を公約としていたのか覚えていない(選挙公報を暫くは保存しておいたのだが、探しても見つからない。捨ててしまったようだ)。こういうときこそマスコミの出番で、前回の総選挙時の各党の公約と、その後の議会での行動を照合して検証した記事を期待したい。が、マスコミは総選挙取材に備えて慌てているだろうから、無理かな。
政党には公約がつきものだが、公約なしで誕生した政党も珍しくない。どこかの政党に属して当選し、議員になった政治家らが所属政党を離脱して作った新党は、理念で離合集散したわけでもないだろうが、総選挙では公約を掲げなければ格好がつかない。そんな新党は公約をでっち上げ、いや、作成しなければならないから忙しそうだ。
公約が、政党と主権者の契約書のような役割になり、選挙で掲げた公約に政党・政治家がきつく縛られるようになると、日本の政治は変わるかもしれない。ただ、そうなると保険の約款のように政党の公約は、可能性のある政策はすべて網羅して記載し、書き漏らすことがないようになるだろう。ますます、読まれなくなりそう。
常在戦場と政治家は口にしたりするが、突然の選挙となると、政党は慌てて公約をつくり出そうとする。常在戦場の戦場とは政治家にとっては選挙のはずだが、そんな政治家が集まった政党なのに、常在戦場という対応ではなく、選挙のたびに泥縄式に公約を用意するというのなら、常在戦場は言葉だけ。公約も言葉だけなら、釣り合いは取れている?
政治家も政党も基本理念をしっかり堅持しているが、具体的な政策は、世の中の変化に合わせて打ち出さざるを得ないのだから、選挙のたびに公約は新しく作る必要があるとの見方もあるが、本当にそうなら、次々と弱小新党が誕生したり、政党を移り変わる議員はいないはずだ。政治家に主権者と共有する理念がないのだとしたら、泥縄式のウケ狙いの公約が似合っているのかもしれない。
2014年11月19日水曜日
サンゴ密漁と法治
小笠原諸島や伊豆諸島などの周辺に多数の中国漁船がはるばるやって来て、サンゴを密漁しているという。対応する海上保安庁は多勢に無勢で、領海に入らないように呼びかける等の対応で精一杯のようだ。片っ端から追い散らすことができればスッキリするのだが、密漁の現場や密漁の証拠を押さえなければ法による強制力は行使できない。
これは法治国家の弱点だろう。法を無視する外国人にも、法治国家では法に則って対応せざるを得ない。堂々と日本の法を無視する外国人を“野放し”にしておくことに、ある種の無力感さえ感じるが、外国人だけを日本の法の適用外にすることは、法治の体制にヒビを入れることになる。
ところで、中国といえば、法治国家ではないことで名高い。立派ともいわれる憲法や各種の法を整備しているのだが、その運用は人(官僚など)次第。正確にいえば、最高権力である中国共産党は法に超越する存在であるが、それ以外は法の縛りを受ける。権力にとって都合のいい場合にだけ法を適用する体制であり、社会だ。そのため司法は、法の番人ではなく、権力の番人に成り下がる。
そうした中国で生きる人々が、法を尊重する意識を持つはずがない。中国の憲法は財産の所有権を保障しているが、各地で土地の強制接収などは珍しくなく、それに抗議する人々のデモや暴動が毎年多く起きているという。憲法が権力を縛るものではなく、人々を縛るものである社会で生きる人々が、国外に出た時に、他国の法律や国際法などを尊重しようとするだろうか。犯罪者ではなくフツーの人々であっても、遵法意識などは希薄だろう。
自分らの権利や利益などが法により保護されず、司法に公正な裁きを期待できず、権利や利益を主張するためには力づくで行動するしかないという社会に生きる人々。中国が法治を実現できないのは、中国共産党の長い独裁体制が主因だろうが、人々に法治意識が欠如し、法に何も期待していないことも大きいかもしれない。
北京で開催された中国共産党第18期中央委員会第4回全体会議(四中全会)で党は「法の支配」の方針を打ち出し、憲法の順守を強調して、「中国的な特色を持つ社会主義的な法による支配」という新たなスローガンを打ち出したという。「中国的な特色を持つ」とあるから中国共産党が法に超越するという実態は何ら変わらないだろうが、国内外で中国共産党以外の全てに対して、彼らの都合に合わせて法の支配を要求するのだろう。
自分らは法に縛られないが、相手に対しては法の遵守を要求するというのは便利な手法だ。中国共産党にとって法は、国内では支配の手段であり、国際法も外交の手段でしかない。中国で法治が欠如していることは、実は国際社会の大迷惑でもあることを、日本周辺でのサンゴ密漁事件は示している。
2014年11月15日土曜日
最近の崩壊論
何年も前から繰り返し現れるのが中国経済崩壊論。少しでも経済成長の変調を示すデータなどが見つかるたびに現れ、「ほら、おかしくなってきたでしょう」と中国経済の崩壊を“予言”する。しかし、なかなか大方の「期待」や「願望」通りにはいかず、多くの混乱を抱え込みつつ中国経済はペースを落としながらも成長を続けてきた。
最近の崩壊論の根拠は、バブルといわれて久しい中国の不動産市場の変調を示すデータが相次いで公表されたこと。例えば、▽北京、上海などを含む70都市のうち69都市で9月の新築住宅価格が下落(値下がりした都市数は毎月増加し、不動産市況の低迷が全土に広がっている)、▽1〜9月の不動産投資は前年比12.5%増だが、1〜8月の13.2%増より鈍化(販売と新規建設が落ち込む)。
さらに▽1〜9月の不動産販売は8.9%減、新規不動産建設は9.3%減、住宅ローンは4.9%減などのデータのほかに、中国の中小都市で各開発業者による不動産価格引き下げの不毛な競争が既に始まった(新華社)ことや、河北省邯鄲市最大の不動産開発業者の経営者が夜逃げしたことが伝えられ、同様の経営者夜逃げや倒産宣言などは珍しくなくなったという。
経営者が夜逃げするのは、不動産開発のために30%にもなるという高利の金を借りていたから。開発した不動産が売れている間は金を回すことができるが、順調に売れなくなったり、価格を下げて売らざるを得なくなると、途端に資金繰りに窮することになる。運転資金を確保するだけなら、値引きして叩き売ればいいが、それでは高利の借金は膨らむばかり。
最近の中国経済崩壊論は、不動産市場のバブル崩壊により大量の融資資金が焦げ付き、金融不安が広まり、社会不安にも結びつき、開発投資主体の中国経済の成長が終わりを迎えるというもの。製造業の過剰生産能力や国有企業の寡占体制、地方政府の巨額負債、偏る所得分配など様々な問題に対する改革も進まず、中国経済は長期停滞に陥ると“予言”するものもある。
一方で、中国の不動産市場は確かにバブルで価格が高騰していたが、売れなくなって価格がどんどん下がっていけば、それまで手が届かなかった中間層などが買い始め、実需が出てくるという見方もある。適正価格なら住宅を買うという人々が多く存在すれば、不動産バブル崩壊の影響を和らげるという見方だ。その場合にも、高利の金を借りていた不動産開発業者は資金繰りに苦しむが。
崩壊論の根拠にされる中国の発表データには別種の問題がある。それは、どれほど「正確」に実態を反映しているのかという疑問。中国の地方政府が発表するGDPの合計が、国全体のGDPを大きく上回ると指摘されるなど、地方でも中央でも統治者に都合がいい数字が発表されるという見方だ。そうなると、不動産の変調を示すデータを公表せざるを得なくなったのは、とっくに始まっている不動産バブル崩壊を糊塗しきれなくなったということなのかもしれない。
2014年11月12日水曜日
ソースはかけない
トンカツにはソースをかけて食べるのが一般的だが、そのソースは店によっては独自に調合していることも珍しくなく様々な味わいがある。自宅などで食べる時には、醤油をかけて食べる人もいれば、ポン酢やデミグラスソース、塩などで食べる人もいる。好きなように食べていいのだから、味噌でもマヨネーズでもケチャップでも何でもあり……かもしれない。
でも、少数派だろうが、何もつけないで食べる人もいる。病気で塩分摂取を禁じられているわけではなく、願掛けして塩断ちしているわけでもないのに、トンカツには何もつけずに食べる。ソースや醤油が嫌いというわけではなく、絶対にソースをかけないということもないが、普段はソースをかけない。
そんな友人がいて、言うことには「カツの味を楽しみたいンだ。ソースや醤油をかければ、カツの味よりも、ソースや醤油の味が強くなりすぎてしまう」。さらに「どこの店のトンカツがうまいだなどと皆それぞれに言うが、たいていはソースをタップリかけて食べているから、カツではなくソースを味わっているだけだ。カツは食感の違いしか判断できず、柔らかいとかサクサクしてる、固いぐらいしか言えない」。
友人はテンプラを食べる時にも、ツユや塩などにはほとんどつけない。そういう食べ方に馴れてから、素材の味の微妙な違いや、揚げ方の具合などを楽しむことができるようになったという。ただし、必ずというわけではなく、ツユにタップリつけて食べることもある。そうやって食べるしかない味のテンプラを出す店もあるから。
飲食店では濃い味付けが多い。濃い味付けに馴れてしまった人は、ソースなどを使わない食べ方では物足りなく感じよう。薄味の料理がたまに出されたりすると、じゃぶじゃぶとソースや醤油をかけたりする。だから、友人のようなソース類に“頼らない”食べ方は、薄味に馴れた人にしかできないだろう。ただし、薄味に馴れると飲食店の濃い味付けの料理は塩辛すぎると感じるようになるそうだ。
塩辛いといえば、本格派の蕎麦屋のつゆがそうだ。蕎麦っ喰いなら、つゆにタップリつけるのは野暮だともいい、少しだけつけるために、つゆは塩辛くしているそうだ。友人は、最初は蕎麦をつゆにつけずに、そのまま口に入れるという。蕎麦の香りや風味を感じてから、つゆを少し飲んで、塩辛さ具合を確かめてから、つゆをどのくらいつけるかを判断するのだという。蕎麦に風味が乏しく、つゆが甘ったるければ、えいやと蕎麦をつゆに構わずつけて、手早く食べて店を出てくるそうだ。
2014年11月8日土曜日
危機感に温度差
「国連の気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が最新の統合報告書を発表、地球温暖化の深刻な悪影響を避けるために、温室効果ガスの排出量を2050年までに10年比で40〜70%削減し、今世紀末に排出量をほぼゼロにする必要があるとした。
今世紀末までの気温上昇を2度未満に抑えるためには、産業革命以降の世界全体のCO2累積排出量を約2兆9000億トンに抑える必要があるが、すでに約1兆9000億トンを排出しており、人類に許されるCO2排出量は残り1兆トンとする。現在のペースで排出が続けば、あと30年で限界を超えるという厳しい見通しを示した。
さあ大変だということで新聞各紙は社説で危機感を煽ってみせた。曰く「温暖化が進めば、食料や水資源の不足など、人々の生活に深刻な影響が及ぶ」「足踏みする日本を横目に、世界は動き始めている」「すでに豪雨や干ばつなど気象災害が世界で頻発」「対策の道筋は困難だが、遅らせるほどコストもかさむ」「ハリケーンの巨大化など異常気象が世界中で深刻」などと大変さをアピール。真面目に受け止める読者は、つい浮き足立ちそうだな。
さらに統合報告書は「高いハードルを課し、各国に積極的な取り組みを促した」とし、EUは「新枠組みの議論でも主導権を握るため、他国に先駆けて高い目標を打ち出した」一方、「温暖化は経済にも甚大な被害をもたらすが、裏を返せば、巨大なビジネスチャンスになる。時代は変わり始めている」として、前向きな対応を促す。
各紙の社説は日本について「東日本大震災以降、日本では温暖化対策が停滞してきた。環境先進国にふさわしい目標と戦略を再構築すべき時にきている」「正念場を迎える国際交渉で、日本は出遅れている」「六月の検証会合で批判が集中し、大きな流れに取り残される」と憂慮する。「非現実的な目標を設定するのは避けるべきだ」「日本の排出量は世界全体の4%に満たない」と冷静な社説は一紙だけ。
これらの社説は、IPCCの報告という「権威」を前面に出し、温暖化による気候変動の脅威を列挙し、読者に危機感を抱かせ、EUは率先して動き出したのだから、日本も“世界”に遅れることがないように対策をしろと提言する。世界の大気は一体のものであるから、世界のCO2排出量の4割を占める中国と米国が実際に大幅削減を行わなければ、日本がいくら削減しても無意味であることにはあまり触れない。
奇妙なのは、危機感に“温度差”があること。産業革命以来の累積で1兆9000億トン排出されたというCO2による温暖化作用により「気象災害が世界で頻発」しているのが現実なら、悠長に「残り1兆トンの排出を抑制」することを議論している場合じゃないだろう。IPCCは各国政府に即座のCO2大幅削減を求め、温暖化による気象災害への具体的対策を国際的に直ちに検討するよう警告すべきだ。
だがIPCCは、今世紀末までにCO2排出量をゼロにしましょうと提言するだけ。これは、1)現在の気象災害はまだ許容範囲と見ている、2)具体的な対策は学者の責任範囲外と考えている、3)実効的なCO2削減は望めないが、提言だけは行った……いずれにしても、温暖化による気象災害なるものに現実的な危機感はあまり持っていないようだ。
2014年11月5日水曜日
自由な言論・自由な表現
ウェブサイトに日本語で書いた記事が朴槿恵大統領に対する名誉毀損にあたるとして、韓国の検察当局が産経新聞前ソウル支局長を起訴した。日本では、言論の自由に対する侵害であると“立場”を超えて批判が広まったが、中には、大統領の「7時間の空白疑惑」に関する噂を扱った当該記事には感心しないが……というような但し書きを加えているものもあった。
新聞記事は、真偽のはっきりしない噂などには触れず、ウラが取れた確かな事実だけを取り上げるべきだというのは正しい見解だろう。噂話なら週刊誌に任せておけばいい。でも、誤報を長年放置していたことを、やっと最近認めた新聞社もあるのだから、新聞記事が確かな事実だけを報じているともいえまい。
ところで、新聞はこれまで、週刊誌などが名誉毀損等で訴えられ、捜査当局が動いても、沈黙したり、時には社説で「他人のプライバシーを売物にするのはもってのほか」などと週刊誌をたたいた。ジャーナリズムとして新聞は週刊誌などより「格が上」との意識があったようだが、今回の産経の前ソウル支局長の記事は、噂があるという事実を伝えたつもりが、噂を広めることになった。もう新聞は週刊誌などを見下すことは難しい。
ウラが取れた確かな事実だけを記事にしているという新聞の虚構が露になったのだから、一歩前進だ。さらに前進するには、“高尚”な新聞にだけ言論の自由・表現の自由があるのではなく、全ての媒体にも言論の自由・表現の自由があることを認識することが必要だ。それは、乱暴な言い方になるが、ゴミ記事・クソ記事にも言論の自由はあり、表現の自由はあるということ。
これまで、ゴミ記事をゴミだからとして批判してきたのが新聞など“高尚”なジャーナリズムだった。だから噂を扱った産経の記事を無条件で擁護できず、但し書きを付け加えるような擁護の仕方になる。ゴミ記事であっても新聞記事だし、新聞記者が名誉毀損で起訴されたのだから擁護しなければならないとの義務感だけでは、言論の自由・表現の自由を闘い守ることはできまい。
自由な言論・自由な表現を続けて圧力と闘う中からしか、言論の自由・表現の自由は維持できない。それは、新聞などの“高尚”なジャーナリズムだけに託されたものではなく、週刊誌など全ての媒体に託されたものであり、どんなゴミ記事・クソ記事にも自由な言論・自由な表現は託されている。圧力と闘う覚悟を持っていれば、余計な但し書きを付け加えずに、言論の自由・表現の自由を主張できるだろう。
「いかなる態様であっても国家権力による言論の統制を許してはならない。これが大原則である」が、「“自由な言論”を行使する以上、憎まれ抑圧され疎まれるのは、ものを破壊し人を傷つければブタ箱にほうりこまれるのと等しく、当然のことではないか」。だから、「人間が制度を支配するかぎり、どこに“言論の自由”など存在しよう。しかし、いかなる時代・社会・国家においても、断乎として“自由な言論”はある。とうぜんそれを行使する者の勇気と、犠牲の上にである」。
「名誉とは何か、姿なく形なく境もなく、つまるところは『感情』である。個的なものであってしかも、多くは虚名にすぎない。もし、明らかに侵害行為が立証されて、実害をこうむったことが確認された場合においても、金銭で購われる筋あいのものであり民事訴訟で充分、刑事制裁をくわえるまでの犯罪ではないのである」……これらは、活字においても活字外においても闘い続けた竹中労さんの言葉である(『ルポライター事始』から=ちくま文庫)。
2014年11月1日土曜日
季節を告げる虫
季節を告げる虫……(11/1)
日本各地での桜の開花日を気象庁が“決めている”ことは、余計なお世話にみえる。自然の移り変わりは人間に関係なく進むものであり、気象庁が「桜が開花した」「梅雨入りした」「鶯が初鳴きした」などと宣言するのは、おこがましい。でも、近場の観光地での開花宣言を知ると、「そうか。観に出掛けるか」などと外出する切っ掛けになっていたりするから、無意味ではなさそうだ。
気象庁は桜のほかにも、いろいろな生物で季節の移り変わりを調べている。植物では桜、梅、紫陽花の開花日や楓、銀杏の紅(黄)葉日、鶯やアブラゼミの初鳴き日、燕や蛍、モンシロチョウの初見日などを全国で観測、記録し、そのデータは、「鶯の初鳴日の等期日線図」「楓の紅葉日の等期日線図」「蛍の初見日の等期日線図」などとして公開されており、そうしたデータの蓄積は気候変化を示していたりもする。
桜なら、どこかで開花宣言が始まるとマスコミは連日のように「今日は、○×でも開花しました」などと熱心に報じるのだが、ほかの“指標”についてはほとんど報じない。最近なら、紅葉前線が日本列島を南下しているのだが、北海道の大雪山の紅葉を、紅葉の始まりとして最初に伝える程度だ。やはり桜が特別なのか、春の訪れを待ち望む人が多いからか。
四季がある日本では、季節の移り変わりを告げる生物も多い。春を告げるものでは椿や山吹、ツツジ、フキノトウ、福寿草、タンポポ、菜の花、蛙、ヒバリ、アゲハなど。夏を告げるものではニイニイゼミ、ヒグラシ、シオカラトンボ、ホトトギスなど。秋を告げるものでススキ、ヤマハギ、バッタ、コオロギ、キリギリス、モズ、メジロなど。生物にとって厳しい季節である冬の訪れを告げる代表は、北からやってくる渡り鳥たちだ。
冬の訪れや降雪が近いことを知らせる虫もいる。白い小さな虫で、ふわふわと風に流されているだけのような動きをし、ちらちらと雪が降り始めたかのような印象を与える虫だ。北国では初雪の2、3週間前ぐらいに現れるのだから、季節を伝える虫だ。全国ニュースの天気予報でも「札幌で雪虫が飛び始めました」などとキャスターが言ったりするので、名前だけは知られているかもしれない。
この雪虫の正体は、綿状の白い物質を身にまとったアブラムシの仲間。雪虫という名前はロマンチックな響きがあるが、実は奇妙な虫だ。ヤチダモで5月にメスが単為生殖で多くのメスを産む。7月にトドマツに移動して単為生殖を重ね、世代交代を繰り返しながら夏を過ごす。10月に羽根をつけてヤチダモに移る様子が、雪虫。ヤチダモに着いたメスは幹にオスとメスの幼虫を産みつけ、それらが交尾して1個の卵を産み、その卵が越冬する。春に孵化した子は全てメスになる。
ふわふわと空中を漂う雪虫が、単為生殖で世代交代しながら夏を過ごし、有性生殖で卵を産んで越冬するという生存方法を身につけたのは、北国の冬が昆虫にとって厳しいからか。他にも同様の生き方をする虫がいるのかどうか知らないが、季節の移り変わりが生き物にとって、時には酷なものであることを想像させる。
2014年10月29日水曜日
言葉を換えると
中国共産党の中央理論機関誌の最新版は、「西側は常に自らの民主主義が『普遍的価値』だと誇示し、民主主義に別の形があること否定している。西側の民主主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」とした。内部からの民主主義を求める声を封じ込めるため、西側という外部が強制するという解釈にして民主主義を否定してみせたのだろう。
民主主義は中国共産党の1党独裁体制とは共存できないから、中国政府は民主主義を否定せざるを得ないだろうが、近代化するために中国は西側から様々な制度を拝借している。共産党にとっては都合が悪いものだけを声高に否定してみせて、都合のいいものは黙って受け入れる……のは悪いことではないが、そのことが国内でバレないためには、いっそうの情報統制が必要になるだろう。
ところで、先の文中の民主主義を、例えばマルクス主義に置き換えると、こうなる。「西側は常に自らのマルクス主義が『普遍的価値』だと誇示し、マルクス主義に別の形があること否定している。西側のマルクス主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」。共産主義や共産党というものは西側の発想なのだから、西側の民主主義を否定するなら、そのうちにマルクス主義も否定してみせるかもしれない。
さらには資本主義に置き換えると、こうなる。「西側は常に自らの資本主義が『普遍的価値』だと誇示し、資本主義に別の形があること否定している。西側の資本主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」。だから中国は「政治的には社会主義、経済的には市場経済」という社会主義市場経済を導入したんだと胸をはる……のか。
官僚主義に置き換えると、「西側は常に自らの官僚主義が『普遍的価値』だと誇示し、官僚主義に別の形があること否定している。西側の官僚主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」。確かに西側の官僚とは比較にならないほど、中国の官僚の腐敗や横暴はひどいらしいから、中国独自の官僚主義があるようだ。
帝国主義に置き換えると、「西側は常に自らの帝国主義が『普遍的価値』だと誇示し、帝国主義に別の形があること否定している。西側の帝国主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」。西側の帝国主義が時代遅れになった現代の世界で、世界的な影響力を発揮するには普遍的価値観で理論武装することが必要だが、その流れに乗れないのが中国流帝国主義の弱点か。
立憲主義に置き換えると、「西側は常に自らの立憲主義が『普遍的価値』だと誇示し、立憲主義に別の形があること否定している。西側の立憲主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」。中国の憲法に書いてあることは立派だが、運用は政府や官僚のサジ加減次第だとか。人治だからか。
こうなると先の文では修正主義、全体主義、軍国主義、愛国主義、歴史修正主義、連邦主義、民族主義、秘密主義、精神主義、形式主義、合理主義、拝金主義、血縁主義、菜食主義、原理主義、御都合主義、日和見主義、禁欲主義など、どんな主義でも置き換えできそうだ。中国流の理屈は万能だな。西側とは異なる「中国の独自の」という言葉を付け加えて自己正当化すると、どんな主義でも、たちまちに中国の独自性の主張に転化できるのだから。
2014年10月25日土曜日
仮説と検証
今年の連休中の5月5日の早朝、伊豆大島近海を震源とするM6.0の地震があり、東京都心で震度5弱を観測した。東日本大震災以来、東京でも震度4までの地震は珍しくなかったが、震度5クラスは久々。首都直下地震との関連が案じられたが、この地震は深さ162キロの太平洋プレート内部で起きたものなので、首都直下地震とは異なるタイプの地震だと気象庁。
この地震のメカニズムをマスコミは、プレートの動きで説明した。曰く、関東の地下は、陸が乗る北米プレートの下に東から太平洋プレートが、南から相模トラフ沿いにフィリピン海プレートが沈み込む複雑な構造をしている。首都直下地震の想定震源は北米プレートと太平洋プレートの境界面などと考えられ、今回の地震は、沈み込んだ太平洋プレート内の162キロという深い場所で起きたので、首都直下地震とは別物だとした。
地球の地殻は十数枚のプレートで構成され、それぞれが動いているというのがプレートテクトニクス理論。この理論が認められたのは20世紀半ばだ。大陸移動説はもっと前から唱えられていたが、立証が困難だった。世界各地での様々な観測結果が蓄積してから、やっと定説となった。
プレートの動きは地面を見ても分かるものではなく、地震が起きた時のプレートの滑りを見た人もいない。だが、理論は構築された。ある程度の知見から仮説を立て、多くの研究者が様々な観測データを蓄積して、その仮説が、現実に起きていることを説明する有効性があると認められる。こうして科学は進歩してきた。
仮説を立てて、検証することが大事なのは、科学に限らない。例えば通販では、カタログやサイトに載せる商品が過去の売れ筋だけだったら、販売は先細りする。少し先の売れ筋の仮説を立てて商品を提案し、その販売実績で検証し、好売れ行きの商品ならプッシュし、売れない商品は外して、別の商品を提案する。売れ筋は様々な要因で変化し続けるので、仮説と検証を繰り返していく。
個人の意見というものも、直感に基づいた仮説が多いのかもしれない。他の人からの批判や共感が検証にあたり、批判により軌道修正したり、共感を得て確信を持ったりする。他人からの検証をいやがるのでは、いくら声高に激しい言葉で言い募ろうと、仮説は仮説のままでしかない。批判される勇気、反論される勇気を持つことが、仮説と検証には必要だ。
2014年10月22日水曜日
現実味を増すエボラ感染
今年2月頃から西アフリカで始まったエボラ出血熱の大流行により、10月中旬現在で、疑い例を含む感染者数が9千人を超え、死者数は4500人を超えた。西アフリカ3カ国での感染者数の増加ペースは加速しており、WHOは過去3〜4週間は週ベースで約1000人、12月までに週5000〜1万人に達する可能性があるとの見方を示している。
西アフリカに感染者が限られていた頃は「対岸の火事」視していた欧米も、自国に入国した感染者から、医療従事者への二次感染、さらには三次感染の懸念が現実となって慌て始めた。空港でのチェック体制を強化しているが、「アフリカの感染地域からの渡航者は全員、入国拒否すべきだ」との意見も出るなど、エボラ出血熱への警戒感が広まっているようだ。
アメリカでは、二次感染が疑われる医療従事者が民間航空機などで“自由”に移動していたことで、「封じ込め」ができていないじゃないかと拡散に対する警戒心が強まった。帰国後に発症した感染者が最初に受診した病院で「ありふれたウイルス感染症」と診断されて自宅に帰されたことや、感染者の治療に関わった医療従事者の感染防止対策が甘かったことなどが、社会の警戒心を焚き付けた。
欧米での警戒体制強化を受けて、日本でも警戒態勢への関心が強まっている。厚労省は、アフリカの発生国への渡航者や帰国者に注意喚起し、流行地域からの帰国・入国者には健康監視を行う。発生国からの帰国者でエボラウイルスへの感染が疑われる人が見つかれば、感染症指定医療機関に搬送するなどの体制が整えられているという。
流行地域からの帰国者で、感染した疑いのある人を見つけた医療機関等から連絡があると国立感染症研究所が検査を行い、感染の有無を確認する。感染している場合、患者は感染症指定医療機関に移送され、感染防御対策の施された病室に隔離されるという。感染症指定医療機関は国立国際医療研究センター病院、成田赤十字病院など全国に47機関ある。
アジアでの新型の鳥インフルエンザの流行などもあって、入国者の監視を強めるなど日本の感染対策は万全を期したものだろう。だが、欧米で感染者が増えれば、アフリカには行っていないが欧米で感染者と接触し、発症していない感染者が入国時の監視を通り抜ける可能性はある。発症していない人からは感染しないそうだが、自覚症状もないので入国時に自己申告もしないだろう。
エボラ出血熱は潜伏期の後、発熱、頭痛、倦怠感、筋肉痛、咽頭痛などの症状がまず現れるそうだ。入国してから十数日後に発症した人が、風邪などと思い込んで近場の病院を受診する可能性はある。そこが感染症指定医療機関なら検査体制が整っているだろうが、一般の病院なら多くを求めるのは無理かもしれない。薬を処方されて自宅に帰されたとしても不思議はなさそうだ。
2014年10月18日土曜日
観ることができない李香蘭の映画
「カサブランカ」とか「望郷」「自転車泥棒」「市民ケーン」「天井桟敷の人々」「風とともに去りぬ」「第三の男」などの名作洋画DVDが10作品入って二千円前後というボックスセットが書店で売られている。ほかにも西部劇、ミュージカル映画、ジョン・ウエインやフレッド・アステアら人気俳優の主演作を集めたボックスなど種類は多彩だ。
安価だからと購入して観てみると、画質もまあまあで、十分に楽しむことができる。誰かの名言に「音楽好きは音質にこだわらず、映画好きは画質にこだわらない」とあったが、内容に引き込まれて、画質はさほど気にならないのが映画好き。そうして購入した名作洋画を、繰り返して観るかといえば、そうでもない。いい映画であっても、一度観ただけで終わり……ということも珍しくない。
購入した映画DVDを繰り返して観ることが少ないのは、いつでも観ることができるから、そのうちに観ればいいと安心して、そのままになるから。よほどの思い入れがある作品なら、折に触れて繰り返し観ることもあるだろうから、購入して手元に置いておく意味もあろうが、名作ではあっても一度観ればいいという作品なら、わざわざ購入することはない?
映画ファンなら、未見の作品は、とにかく一度観ておきたいと思うだろう。自宅の近くにレンタル店があって、古今東西の映画が、古典的名画から新作まで豊富に揃っていれば理想的だが、映画ファンが皆、そんな場所に住んでいるわけではない。でも、動画配信サービスが充実してきたので、一度だけ観たいという映画を観ることは、現在では簡単になった。
ただし、過去の作品を含めて全ての映画が動画配信サービスで提供されているわけではない。例えば、李香蘭が、映画スターとして輝いていた満州時代の作品を見たいと思っても、DVD化されていない。「白蘭の歌」「支那の夜」「熱砂の誓ひ」「萬世流芳」などの李香蘭の出演作品は見ることは困難だ。軍国主義のプロパガンダ映画であることや著作権の問題など複雑そうだ。
李香蘭の名は知られていても、その代表作を観ることができないのは映画ファンにとっては残念な状況だ。李香蘭の映画を観るには、京橋のフィルムセンターで上映される機会を待つしかない。まあ、李香蘭の映画を観たいと思う人は、よほどの映画ファンか、映画や歴史の研究者だけかもしれず、ごく少ないかもしれないが、確実に存在するだろう。
ネット販売の利点の一つにロングテール効果がある。年に1個しか売れないものでもネット販売なら品揃えでき、顧客に提供することができる。DVD化するのは採算面で無理な映画でも、ネット配信ならラインアップに加えることができ、熱心なファンや研究者の要望に応えることができよう。
古典的な名作映画や埋もれた映画を見る機会を与えてくれる場所としてネットでの配信サービスは、以前に多かった名画座の役割を果すことができる。とはいえ軍国主義のプロパガンダ映画の配信には政治的な支障もありそうで、簡単には李香蘭の映画は観ることはできないかも。フィルムセンターがアーカイブのネット配信を行ってくれれば理想的なのだが。
2014年10月15日水曜日
日の出・日の入り
最近は夕方6時にはすっかり暗くなる。夏には夕方7時でも明るかったことを思うと、ずいぶん日の入りが早くなった。朝も、夏には4時頃には明るかったのだが、最近では5時過ぎになって、ようやく明るくなるなど、日の出も遅くなった。外が明るい時間が短くなると、何だか損をしているような気にもなり、冬へと急かされているようでもある。
東京で見てみると、今年の日の出と日の入り(各月1日の時間。国立天文台)は、1月=6時51分と16時38分、2月=6時41分と17時08分、3月=6時12分と17時36分、4月=5時28分と18時02分、5月=4時50分と18時27分、6月=4時27分と18時51分。
7月=4時29分と19時01分、8月=4時49分と18時46分、9月=5時13分と18時09分、10月=5時35分と17時26分、11月=6時02分と16時46分、12月=6時32分と16時28分。日の出から日の入りまでの時間は6、7月は14時間以上あるが、8月は13時間台、9月は12時間台、10月は11時間台。夏の感覚でいたなら10月は、ずいぶん日が短くなったと感じるはずだ。
日の出は、5月から8月まで4時台だが、9、10月は5時台になり、11月から翌3月までは6時台になる。日の入りは、7月は19時台に延び、8、9月はまだ18時台だが、10月は17時台、11月から翌1月までは16時台となる。日の出から日の入りまでの時間は、1月から7月までは毎月増えるが、8月以降は翌1月まで毎月減る。
植物は日照時間の蓄積で季節の推移を感知していると聞いたことがあるが、人間も日照時間に影響を受ける。北欧で育ったゴッホが南欧の明るい日差しに憧れたことは知られているが、日照時間が長いことは心理的にある種の解放感をもたらす。夏には夏を楽しみ、冬には冬を楽しむ……というような人生観に凡人はなかなか至らず、日照時間に左右されるのも自然なことか。
現代人は、時間で行動せざるを得ないので、日照時間などに構ってはいられず、明るかろうが暗かろうが、決まった時間に出掛け、早く暗くなっても勝手に帰ることはできない。空調が整ったので気温変化による影響も限定されるものになった。そんな中で、日の出や日の入り、外が明るい時間の長短は、季節感を最も感じさせる自然現象かな。
なお日照時間は気象条件に左右されるため、日の出から日の入りまでの時間よりも短くなる。30年平均の各月の日照時間(気象庁)は、7月は140時間台、8月は170時間台だが、9月は120時間を割り、10月は130時間台、11月は140時間台とけっこう変動がある。雨が多かったり、台風が相次いでやって来たりするなら、あまり解放感にはつながらなさそうだ。
2014年10月11日土曜日
責任を負う不条理
朝日新聞の第三者委員会が初会合を開いた。今後、約2カ月をめどに提言をまとめるという。第三者委員会では、1)慰安婦に関する過去の記事の作成、今回の記事取り消しに至る経緯、2)今年8月5、6日付朝刊に掲載した特集紙面「慰安婦問題を考える」の評価など、3)国際社会に対する慰安婦報道の影響、を検証する予定。
第三者委員会の審議は非公開だが、事実関係の検証を進めるため、委員会で関係者の聞き取りを実施するという。その対象は「記事を書いた記者」のほか、社内外、外国も視野に入れて検討するそうだ。これで朝日バッシングは暫く下火になり、提言が出される年末に再燃するのかな。
それにしても、現在の朝日新聞社で働く記者たちは、先輩の不始末と、それを長年“放置”してきた先輩諸氏の怠慢に腹が立つだろうな。批判の矛先は現在の朝日に向かっているが、32年前に現役記者だったり、紙面編集に関わった先輩連中は大半がリタイアしているだろう。現役は「誤報は俺たちが紙面化したのじゃないのに」と思うだろうが、朝日という看板で商売しているのだから「連帯責任」だな。
大所帯の朝日だから、慰安婦関連の報道に関係した記者よりも、関係がない記者のほうが過去も現在も遥かに多いだろう。そんな彼らに、どういう責任があるのだろうか。それは、1)事実に基づいている、2)公平な視点を保っている、3)特定の方向づけをした報道は行っていない等を、日々の紙面で示すこと。それ以外に、現在、朝日に向けられている疑念を現役の記者らがはらす方法はない。
自分らが直接関わっていないことの責任を問われるというのは、珍しいことではない。例えば、戦前の日本人の行為について、戦後生まれの日本人が責任を問われるという構図がある。戦後の日本人は「悪うございました」と頭を下げてきたが、冷静に考えると、生まれてもいない過去のことについて、責任を負うということは不条理である。
戦前の日本人の行為を、戦後生まれの日本人が正そうとしても、生まれてもいないし、タイムマシンも存在しないのだから、不可能だ。自分が影響を及ぼすことができない決定・行為について、その人には責任がない。米政府の決定について、日本人には責任がないことと同じだ。だから、戦後生まれの日本人は、戦前の日本人の行為について、直接の責任はない。
直接の責任はないが、全くの無関係ではない。持続している国家や企業は、人は入れ替わりながら、同じ「看板」を掲げる。その看板で過去に行ったこと、その経緯、責任の所在などを認識し、同じ失敗を繰り返さないようにする責任はある。
2014年10月8日水曜日
お得意様の批判は控える
香港で、次期の行政長官を決める選挙を北京政府がコントロールしようとしたことに抗議し、普通選挙を求める民主派が街頭行動を続けていることに関して、米オバマ大統領は、訪米した中国外相に「米国は香港情勢を注視している」と述べ、暴力的な対応をとらないように中国政府を牽制した。
中国外相は米国務長官との会談で「香港でのデモは内政問題」と述べたそうだ。内政問題だから余計な口出しは無用と中国は言いたいらしいが、香港は特殊な土地だ。チベットやウイグルなら外国人を閉め出し、中国外での報道を制限することもできようが、長らく英国の植民地だった香港は外国人にもオープンな土地で、いまさら外国人を皆追い出すわけにも行かない。
中国が経済大国になり、経済での相互結びつきが強まるにつれて欧米諸国からの、人権や民主主義を振りかざしての中国批判は徐々にトーンダウンしていたので、今回の“懸念表明”には懐かしささえ漂う。が、北京政府が暴力を行使しない限り、欧米諸国は口先だけの批判に終始するだろうな。金儲けさせてくれる中国市場を失っても、人権や民主主義などで中国批判する余裕は欧米諸国にはない。
独裁を続ける中国共産党政府は政治を何よりも優先させるので、例えば、政治的緊張が高まると、反日デモを組織して日本との経済関係を冷え込ませることを辞さなかった。中国経済にとって、日本の代わりを担う先進国は他にもあるからだ。欧米にも代替可能ではない国はないのだから、経済関係での主導権は中国が握っている。
これまで欧米諸国は多くの国に対して、人権侵害や民主主義などに関わる問題が起きると批判してきた。その国の内政問題ではあっても、人権や民主主義を尊重するのは普遍的価値観(欧米中心で形成された価値観でもあるが)であり、1国の主権を超えたものとして位置づけ、批判を正当化した。ただ、今回のように、相手によっては言い方を変える。
国家主権により、人権が踏みにじられ、民主主義が破壊されるのは悲劇だ。人権や民主主義が国家主権を超える普遍的価値観であることは、世界人類のためには結構なことだろうが、利害関係に左右されて欧米などの国家は、他国を批判したり批判しなかったりするのが現実。経済関係とは無関係に、普遍的価値観に基づく外交を貫き通す国はない。自国の利益を最大限にするのが外交だから。
ところで北京政府は、長らく植民地だった香港に関して欧米がちょっかいを出してきていると、欧米からの批判を「歴史問題」にすり替えることもできた。過去の欧米の植民地主義を持ち出して批判すれば、欧米諸国に後ろめたさを感じさせつつ、国内の愛国心を煽ることもできたかもしれない。
「歴史問題」化させなかったのは、1)欧米を反発させて“団結”させれば、経済関係での主導権を失う、2)欧米主導の世界で政治的にいっそう孤立する、3)租借期間が終わるまで、植民地・香港を中国共産党が自力で回復できなかったことが国内でもバレる恐れ、4)欧米に対する反発で中国国内での愛国心が高まると、暴走してコントロールできなくなる可能性がある等、北京政府にも弱みがあるからだ。
2014年10月4日土曜日
上から目線
いつ頃から使われるようになったのか知らないが、すっかり定着した言葉に「上から目線」がある。誉め言葉ではなく、相手のエラソーな言い方や、他人を見下したような態度を批判したりする時に使う。相手の言ったことに対する反論というより、自分と対等なはずの相手の態度を批判し、時には相手の人格批判の言葉にもなる。
マスコミでも使われている。例えば、地方創生について「首相は各閣僚に『従来とは異次元の施策を』とハッパをかけたが、新しい政策を進めるにあたっては政府が上から目線でレールを敷くのではなく、自治体側とともに知恵を出し合う共同作業が欠かせない」(朝日)とか、スコットランド人が「僕はナショナリストじゃない。でも、ロンドンの『上から目線』には我慢ならない」(産経)。
さらに、原発事故を受けた中間貯蔵施設の建設をめぐり「最後は金目でしょ」と発言した石原伸晃環境相に対して「事故から3年以上たった今も故郷を追われたまま避難生活を続ける福島県大熊、双葉2町の町民からは『上から目線』『避難者の気持ちが分かるか』と強い批判の声」(共同)なんて記事もある。
また、福島第一原発事故による健康不安を解消するために、福島県の全県民約200万人を対象に実施している県民健康管理調査の名称について「県は新年度から『管理』という言葉を外し、『県民健康調査』に改める。現名称に『上からの目線だ』との批判が県議会で出たため」(読売)と、行政に携わる側の姿勢・意識を批判する時にも使われる。
上司が部下に上から目線で言うことは容認されているが、権力に関係する側が人々に上から目線で発言すると反発される。政治家や官僚が人々の上位に位置する人間だとは、政治家や官僚以外は誰も思っていないからだろう。してみると「上から目線」という相手への批判は、人々の間に平等意識がすっかり定着した証しかな。
相手の言うことが納得できなければ反論すればいいのだが、相手の言った内容とともに、見下すような言い方にカチンと来た時に「上から目線」だと相手を批判する。自分より上位であるかのような相手の言動に我慢できないのだ。人間社会には上下関係がつきもので、対等か下位のはずが、勝手に上位になったような相手の言動が許せない。そういえば、「あいつは何様のつもりなんだ」なんて言い方は以前からあったな。
でも、上から目線だと批判された相手が「悪うございました」と思うかどうかは分からない。逆に、悔しがっている様子を見て、優越感を感じるかもしれない。そんな態度をされると、いっそう腹が立ちそうだな。上から目線の言い方をする相手には、上から目線で言い返すしかない。感情的にならず、クールに相手に反論することで相互に対等な関係だと相手に認識させる。ただ、意識的に上から目線を使うことで、相手を感情的にさせるという討論術もあるが。
2014年10月1日水曜日
事実と客観
ある問題について考える場合、直感的に善悪の色づけをし、その直感に添うような論を組み立てることは珍しくない。まず冷静に、その問題に関する客観的事実を知ることから始め、どのような事実で構成されているのかを理解することを基本として、それから、自分の考えを組み立てていく……のが望ましいのだろうが、それは誰にでもできることではなさそうだ。
直感的に善悪の色づけをするということは、先入観を持つということである。先入観を持たずに臨むことは理想的だろうが、先入観を持たない人間は幼い子供くらいだろう。それまでの人生で蓄積した経験、知識などによって人間は先入観(予断)を持つ。一方で、その先入観に対して意識的な検証を行うことはほとんどない。自分の中で確立されたものが先入観であるからだ。
先入観は強いものである。ある問題について、客観的事実に基づいた新たな論が示されたとしても、それが自分の先入観と異なる場合に、すんなり許容する人は少ないだろう。熱心な人ならば、示された客観的事実を自ら検証し、事実を確かめてから、自分の考えを修正することもあり得るかもしれないが、そんな人は多くはない。自分の先入観とは異なる論に背を向ける人のほうが多いだろう。
客観的な事実の尊重が論の基本であることは多くの人が知っている。だから、マスコミやネットに溢れる多くの主張は、その主張の“正しさ”を支える事実を散りばめて論を展開し、主観に偏らないものであることを装う。が、そこで示されている事実が、その主張に都合のいいものばかりを集めていることは珍しくない。その主張に不都合な客観的事実がどれほどあるのかを知るのは、専門家ででもなければ容易ではないだろう。
こうした、自説に都合のいい“事実”ばかりを集めた主張は、事実に主観(感情)が交じっている。事実は客観的なデータや根拠を示して述べ、主張する時にも主観に偏りすぎず、客観性を忘れないことが、理性的・知性的な論の装いとなろう。事実を例示するときにも主観を交え、さらには感情も交じるようだと、相手を説得することは困難だろうし、自分とは異なる相手の先入観を固めさせることにもなろう。
いろいろな問題について常に客観的事実を検証することは、誰もが行うことではないだろうし、客観的な事実を知ることに意識的である人も少ないだろう。つまり、多くの人は自分の先入観に添う情報や主張を受け入れやすく、自分の先入観に反する情報や主張は排除する。これは自分の先入観を強化する作業でもある。
客観的な事実を尊重し、知ろうとすることは、先入観などにとらわれない認識を持つためには基本となる姿勢だ。客観的な事実を知ることは、主観を抑えて事実に謙虚になることでもある。それが、知の誠実さを支える。ただ、人間社会は主観のぶつかり合いで、感情で動くものであることも確かで、先入観に突き動かされる人も多く、そうした人々には客観的事実などはたいして“意味がない”のかもしれないが。
2014年9月27日土曜日
1時間に100ミリ
最近は、月に何回かは日本のどこかが豪雨に襲われているという印象だ。昨年から気象庁が運用を始めた特別警報が出ることもある。特別警報は、「大雨、地震、津波、高潮などにより重大な災害の起こるおそれ」があり、警報の発表基準を「はるかに超える豪雨や大津波等が予想され、重大な災害の危険性が著しく高まっている」場合に出される。
気象庁は「特別警報が出た場合、お住まいの地域は数十年に一度しかないような非常に危険な状況にあります。周囲の状況や市町村から発表される避難指示・避難勧告などの情報に留意し、ただちに命を守るための行動をとってください 」としているので、特別警報が発せられるとテレビのニュースなどでは「直ちに命を守る行動をとってください」と繰り返す。聞くとギョッとする言葉だ。
広島での豪雨による土砂災害の記憶もあってか、大雨についての特別警報が多い印象だが、数十年に一度という大雨が、どの程度増えているのだろうか。気象庁によると、「最近30年間(1977〜2006年)と20世紀初頭の30年間(1901〜1930年)を比較すると100mm以上日数は約1.2倍、200mm以上日数は約1.4倍の出現頻度」というから大雨日数は増えているのだろう。
また、1時間降水量50mmおよび80mm以上の短時間強雨の発生回数は「ここ30 年余りの長期的な変化傾向をみてみると、連続する10 年程度の平均は少しずつ増加」しているともいうから、夕立のような強い雨も増えているのだろう。発生数と地域分布、時間、気象条件などが分かれば傾向が見え、原因の推定もできよう。
特別警報が出ていなくてもテレビのニュースでは、日本のどこかで「1時間に100ミリという雨が降りました」などのリポートが増えた。少し多めに雨が降ると“ニュース”にできるようになったのだから、テレビ局はニュース編成が楽になったかな。でも、1時間に100ミリ程度の雨は本当に珍しいのか?という疑問もある。
1時間に100ミリの雨が続けば、都市の配水能力を超え、被害をもたらすのだろうが、そんな強い雨でも2、30分もすれば弱まることも多い。日常では珍しくない夕立などの強い雨が、ゲリラ豪雨などと呼び名を与えられて異常気象の仲間入りをすることがあるとすれば、印象操作だな。
各地で豪雨などによる悼ましい被害が出たこともあり、気象庁は強く警戒を呼びかけるようになり、メディアは人々に危機感を促すようになったのだろう。それは必要なことだろうが、危機感を煽って異常気象の周知に務めているようにも見えたりする。人々に異常気象だと思わせれば、予報が外れるのも仕方がないと受け止めてもらえる……なんて思っているわけではあるまいが。
2014年9月24日水曜日
寝台列車ホテル
2016年3月に開業予定の北海道新幹線は、新青森−新函館北斗(約148キロ)を約1時間で結ぶ。新函館北斗駅まで東京からは約4時間9分、大宮からは約3時間44分、仙台からは約2時間37分となるので、函館も東京からの日帰り圏内に入る。さらに北海道新幹線は札幌までの延伸が決定したが、開通予定は2035年度までとずいぶん先の話だ。
東京からの日帰り圏内に函館が入ったといっても、函館に滞在できる時間は3、4時間程度だろうから、商談などのビジネスには使えようが、観光には慌ただしすぎる。仙台辺りからなら、観る目的地を絞れば日帰り観光でも楽しむことができそうだ。でも、あちこち観て回って、食事や温泉も楽しむとなると、新幹線を使った日帰り観光を重ねるしかない。
北海道新幹線の開業効果に期待が高まる一方で、青函トンネルを通る寝台列車が廃止される見通しとなっている。大阪と札幌を結ぶ「トワイライトエクスプレス」は2015年春に廃止されることが発表され、札幌と青森を結ぶ急行「はまなす」の廃止も報じられ、東京と札幌を結ぶ「カシオペア」「北斗星」も存続が危ぶまれている。新幹線開業で青函トンネルの架線電圧が2万5千ボルトに上がるため、現在使用されている電気機関車が使えなくなるためだ。
2万5千ボルトに対応できる電気機関車を製造すれば対応できるのだが、JR北海道は資金が乏しく、優先順位からすれば寝台列車存続は低いだろうから、いったんは廃止されそう。「カシオペア」「北斗星」が廃止されるとなれば、鉄道ファンが大騒ぎしそうで、チケットの争奪戦は過熱し、華やかなフィナーレになりそうだ。
さて、廃止されるとすれば「カシオペア」「北斗星」の車両の争奪戦も過熱するかもしれない。寝台列車は車両内で完結する宿泊設備を有するのであるから、そのまま「動かない寝台列車」ホテルになる。駅の構内の一郭でもいいし、駅の周辺でもいいし、観光地でもいいから、寝台列車を設置するだけで豪華な寝台列車ホテルが誕生する。
「トワイライトエクスプレス」を含めても豪華寝台列車の車両数は限られているので、日本のどこかに豪華寝台列車がホテルになっていれば、“動いていた”寝台列車に乗った経験がある人なら懐かしがるだろうし、チケットが取れずに乗ることができなかった人なら、寝台列車での宿泊を体験しようと集まりそうだ。
「カシオペア」「北斗星」といえば2時間ドラマの舞台でもある。走っている寝台列車は密室ともなるが、そこで殺人事件が発生するとの設定が多い。東京発の寝台列車が北海道で初めて停車するのは函館で、ここも2時間ドラマの舞台によくなる土地だから、函館に豪華寝台列車ホテルが誕生するのは違和感がなさそう。ただし、動かない寝台列車は密室にはならないから、2時間ドラマの舞台には不向きか。
2014年9月20日土曜日
名を売るチャンス
ほんまに、名を売る絶好のチャンスを逃したで、あいつ。産経の加藤達也ソウル支局長のことや。ソウル地検から呼び出し食らって、のこのこ出掛けやがったんや。「こっちは天下の産経だ。事情聴取したい言うんやったら、そっちから出向いて来んかい」とタンカ切って、居座っていていい場面だったけど、弁護士連れて出頭してしまいおった。
容疑は、情報通信網法違反だというから、韓国政府が隠したがっている情報をすっぱ抜いたのやろか。でも産経によると、大統領の朴氏の動静が確認できなかった7時間について韓国内で話題になっていることを取り上げ、韓国紙、朝鮮日報のコラム、韓国国会での議論などを紹介したコラムが原因だというのやから、スクープなんかとは全く関係なしや。
この記事は電子版に載っただけやそうやが、韓国の市民団体が記事を執筆した加藤ソウル支局長を告発し、地検がすぐに動いた。そういうシナリオだったんやないか。韓国の市民団体は日本のネットもようけ見張ってることが分かったが、日本語で書いたものも韓国に関係があるからとソウル地検が乗り出すというのは、奇妙な話や。日本の新聞社の日本国内での報道もソウル地検が見張ることが許されるなら、韓国の司法が日本国内にも及ぶことになるで。
話を戻して加藤支局長やが、韓国の異常な司法の“犠牲”になることができるチャンスやったんや。ソウル地検の呼び出しに応じず、「逃亡の恐れあり」とでも理由を付けられてソウル地検に身柄拘束されていたならば、報道の自由のために闘うジャーナリストとして名を挙げることができたンや。体を張らなきゃ、あかん。
それに、加藤支局長が身柄拘束されていたなら、韓国流の民主主義に対する国際的な疑念を一気に広めることができたかもしれん。ソウル地検が加藤支局長を事情聴取に呼び出し、行動を制限しただけでも国際的に「刑事上の名誉毀損に関する法律が言論の抑圧に使われる実例」などと、言論の自由に対する侵害が懸念されているんやから、身柄拘束されていたら国際的に大きなニュースになったはずや。
おまけに、ここぞと産経は大々的に得意の韓国批判を繰り広げることができたのになあ。加藤支局長が身柄拘束されたなら、立派な「被害者」ダ。韓国得意の、被害者感情を強調して自己を正当化するという手法を、今度は産経側が使うことができたンや。でもまあ、そんな被害者ぶって自己正当化するのは、冷静に見れば、みっともない振る舞いやが。
出頭したのは、加藤支局長の判断か、会社からの指示か、どっちや。検察に呼びつけられて、ビビって加藤支局長が出掛けて行きよったんなら、根性なしや。でも、国家権力を賞賛して支えるという会社の体質に見えるから、権力の命令には黙って従うよう会社が指示したのかもしれん。どっちにしても、自由な報道のために、少しは抵抗する姿勢を見せんかい……まあ、産経にジャーナリズム感覚を求めても無理だとは分かってるんやが。
2014年9月18日木曜日
クジラと食文化
日本が南極海で行っている調査捕鯨について国際司法裁判所は、科学的研究のためとは認められないと中止を命令する判決を下し、日本では「食文化を失う」「日本の食文化を守りたい」などの反応が出た。日本でクジラ料理は既に日常的には食べない特別なメニューになっているから、食文化として保存すべき対象となっているのだろう。
沿岸で捕ったクジラを食べることは欧州を含め世界で古くから行われていたが、沿岸でクジラが捕れなくなるにつれて多くの地域でクジラ肉を食べる機会が減り、やがて食べなくなった。酸化しやすいクジラ肉は保存が難しいから、遠くの海で捕ったクジラ肉を持ち帰っても、食えたものではなかったのだろう。一方、日本など沿岸でクジラが捕れるところでは鯨食が残り、日本では敗戦後の食糧難の時代にクジラ肉が大量に消費された。
人間は手に入るものを食べて命をつないできた。大昔の狩猟採集の時代には居住地周辺のものを食べていたのだろうが、農耕が始まり、やがて商品として食糧が流通するようになって、食材の種類が増えた。流通が国際化するにつれて、「手に入る」範囲が世界に広がり、新しい野菜、果物、魚介類、加工食品なども食卓に加わった。流通や家庭における冷蔵保存技術の発展も食材の増加を促した。
手に入る食材の種類が増えると、食文化は変化する。日本の食文化の基本にあるのは米食だろうが、敗戦後に米国から小麦が大量に輸入されるにつれ、パンや麺など小麦粉食が一大勢力になった。肉料理ではハンバーグが一般的になり、家庭でクジラ肉が食べられることはほとんどないであろう。米国からは各種のファストフードも日本に上陸、食文化を大きく変えた。
一昔前には「薬臭い」といわれたコーラは今ではフツーの飲料品となるなど、新しい食品は味覚を変える。一方で魚は、都会ではパックされて切り身で売られるようになり、野菜には、土はつかずに、生産者の名前がついていたりするなど、食品の流通スタイルは変化し、それにつれて家庭での調理法も変化する。もちろん、こうした変化は日本だけではなく、世界中で起きている。
世界中で新しい食品、料理が広まり、それにつれて味の好みが変わっていく中で、各国の食文化はなお「守らなければならない」ものなのだろうか。食べるものに困らない状況になっても「守る」べき食文化とは、食生活の必要から要請されたものではなく、選択の自由という象徴的な意味合いが強そうだ。それに、伝統的な食文化といったって、その伝統を検証すれば、様々な変化を繰り返していることが見えてきたりする。
クジラ肉を食いたいという人が、欧米から「食うな」と強制されても従う必要はなく、食いたいものを食えばいい。法規制などがなければ、食いたいものを食うのは個人の権利であり、尊重されるべきだ。味覚は人様々で、標準化できるものではない。ただし、「伝統の食文化だ」などと格好をつけると、味覚も食文化も変化し続けていることが見えなくなりそうだ。
2014年9月13日土曜日
ネットが先か、新聞が先か
新聞紙面に載っている記事を、どこまでインターネットで公開するかは各社によりまちまちだ。積極的に無料公開している新聞社もあれば、限定的に無料公開している新聞社、有料公開をメーンにしようとする新聞社など、ネット戦略はバラバラ。ネットは新聞社にとって、紙の新聞の単なる電子版か、情報提供の新たな可能性を秘めた場か。
ネットを収益源にしようと各社とも考えているのだろうが、ネットでの閲覧に課金して収益を上げるのは簡単ではない。収益を重視して有料記事を増やすとページビューは減り、無料記事を増やすとページビューは増えるかもしれないが、コスト割れになる。そもそも新聞紙面に載っている情報しかネットに上がっていないのだから、新聞を購読している人が、金を払ってまでネットで記事を見る意味が乏しい。
だから、新聞社がネットで有料記事の閲覧者を増やして収益を上げるには、新聞紙面には載っていない記事や分析、コラムなどを大幅に増やし、それらを有料とすることが手っ取り早い。紙の新聞を補完し、さらには、より多くの情報を入手できる場となれば閲覧者にとってもメリットがある。ただ、ネットを見ない紙の新聞の読者からは不満が出よう。
例えば、日経には本紙のほかに複数の新聞媒体があるように、紙の新聞とネットを別の媒体だととらえ、配信する記事やコラムなどを振り分けることも選択肢だ。だが、新聞社はネットを紙の新聞の二次的媒体としか位置づけていないから、限定された情報しか載らない見栄えのしない場になってしまっている。
どうすれば新聞社サイトは、魅力ある新たな情報発信の場になることができるか。紙の新聞には公器としての社会的信頼がまだあるのだから、収益にとらわれすぎずに、ネット空間を活用した「新たな新聞」について試行錯誤して欲しいものだ。紙がネットに脅かされているという危機感よりは、新たな情報提供、表現、言論の場をネット上に構築するという意気込みこそが必要だろう。
古い世代にとっては、紙の新聞を読む体験が先にあり、ネットに接したのは人生の途中からだが、若い世代は子供の頃からネットがあった。おそらく、ネットを使う体験が先にあり、新聞を読むのは後からの体験だろう。だから新聞社サイトを、古い世代は「新聞に載った記事がネットにも出る」という感覚で見ているが、若い世代は「ネットに載ったニュースが新聞にも出ている」感覚かもしれない。
世代は交代し、ネットに先にニュースが載ることを当然視する世代が主役になると、紙の新聞の位置づけは低下しよう。やがて、「新聞が先」という世代は少なくなり、「ネットが先」世代が多数を占める世の中になる。そうなると、ネットにおける情報発信の豊かさが当然視されるようになり、有料記事で読者を囲い込む戦略の新聞社サイトは見向きもされなくなるかもしれない。
2014年9月10日水曜日
事実を事実として報じる
「今日は晴れている」「今日は雨だ」などと天気のことを言う時には、「晴れていて良かった」「晴れていて気持ちがいい」「嫌だな。雨だ」などの気持ちを含めていることがある。感情というフィルターを通して、天気という自然現象を見ているわけだ。気象関係者なら、感情を交えずに客観的な事実認識として「今日は雨だ」などと言うのだろうが。
ある政治家(X氏とする)のスピーチを報じた記事が、新聞により“色合い”が異なることは珍しくない。X氏と政治的立場が近い新聞は好意的に伝え、X氏に批判的な新聞はスピーチの問題になりそうな個所を強調して伝えたりする。どちらが“正しく”伝えているのか。スピーチ全文を読めば読者自身が判断できるのだろうが、「全文を読め」と読者に求めるのなら、記者が書く記事は不必要だ。
事実認識に善悪などの価値判断を紛れ込ませずに、ありのままの事実のみを伝える報道機関があったなら信頼できるのだが、現実には存在しない。世界はニュースに溢れるが、その取捨選択の段階から報道する側の価値判断が入る。そうした価値判断を排除しようとすると、例えば、全てが1段見出しのベタ記事で埋まった新聞にならざるを得まい。読むのは大変そうだ。
事実認識に価値判断や感情を交えるナといっても現実に不可能なのは、報じる側も読む側も人間なので、感情の動きを封じることができないから。だから、経済記事なら数字の羅列だけでも済むだろうが、災害や戦争などで傷ついたり死んだりした人を報じる記事から、被災者への同情や励まし、戦争への怒りなどが伝わってこないなら、読者はついて来ないだろう。
感情に動かされるのが人間だからこそ、事実は事実として報じることに意識的になる必要がある。事実認識を間違えて報じていたことに気付いたならば、早急に「訂正」する責任が報じる側にはある。また、過去に報じた「事実」に、その報道機関の価値判断などによって“演出”が施されていたならば、それは報道ではなく、小説などと同類の創造的な表現である。その場合には、読者に明確に、報じる側の価値判断が入っていたと伝える責任がある。
事実を事実としてだけ伝える報道機関は現実には存在せず、それぞれに“カラー”があり、それぞれのフィルターを通して見たニュースを伝える。報道機関とカラーを共有する読者なら、そうして提供されたニュースに共感するだろうし、演出が加味されていることを意識しないだろう。「類は友を呼ぶ」構造で各報道機関は支えられている。
過去の報道に事実関係の誤りがあり、さらに、その誤りを正すことが報じる側の「正義(社論)」に関わって来るならば報道機関は窮地に陥る。事実関係の誤りは訂正しなければならないが「正義(社論)」を変えることはできない……だから、事実関係の誤りに気付かないふりを続けていたというならば、そんな報道機関は信用されなくなる。事実を事実として報じることにもっと意識的であり、もっと責任を持っていたならば、こんなことは起こらなかったのに。
2014年9月6日土曜日
黒人と人権
米ミズーリ州セントルイス郊外ファーガソンで8月9日、白人警官が黒人青年を射殺した。警察発表では、警官と黒人青年が言い合いになり、もみ合いで警官が暴行を受け、黒人青年が警官の拳銃を奪おうとし、警官が発砲に至ったという。射殺された青年と一緒にいた友人は、発砲された時、青年は両手を上げ「撃たないで」と叫んだという。検視では、少なくとも6発が命中し、うち2発は頭に当たっていたことが分かった。
翌日から、黒人青年射殺に対する人々の抗議活動が始まった。警官隊は群衆を追い払うため、催涙ガスやゴム弾を発射して対応。数日後に暴動へとエスカレートすると、警官隊は発煙弾や催涙ガスで応戦し、警察が装甲車を出動させ、群衆にM16ライフルを向けた。
9月に入って米政府の司法長官は、住民と地元警察の間に「根深い不信感」があったと指摘、ファーガソン市警の日常的な活動に違法性がなかったか捜査を始めたと発表した。新聞によると、白人が9割以上を占めるファーガソン市警察による逮捕や捜索、銃の使用、被疑者の扱いなど警察の通常業務で、人種差別的な行為がなかったかどうかを過去を含めて包括的に調べるという。
ファーガソン市の人口は2万人超で7割近くが黒人だが、市長や市議会議員の大半は白人。米では職務質問や逮捕は黒人に集中しているとの声があり、現在でも警官による黒人射殺事件は多い(2012年に警察、保安官、自警団に殺害された黒人は313人との調査もある)。黒人の所得は白人の6割にとどまるが失業率はほぼ2倍になるなど、白人と黒人の間の経済格差は歴然だ。
米では50年以上前に黒人が、公民権の適用と人種差別の解消を求めて運動を行い、南部諸州の人種隔離各法を禁止する法案を成立させ、さらに1964年に、人種や宗教、性、出身国による差別を禁止する公民権法が制定され、法の上での人種差別は終わった。とはいえ、人種差別感情を持つ白人が皆“改心”したわけではなく、黒人などに対する暴力事件や人種差別は起き続けている。
さて、黒人たちが、警官らによる人権侵害を告発するため、殺された青年の像を建てようとしたなら、議員の大半が白人という市議会は賛成するだろうか。現在であれ過去であれ、人権侵害は絶対的な「悪」であるとの立場に立つなら賛成しなければならないが、議員らは「正確な事実関係を調べろ」とか「対立をいつまでも煽るようなことはすべきではなく、和解への努力こそ大切だ」などと反対するかもしれない。
それで、黒人たちが米国外のどこかの国で黒人の像を建て、米国内における黒人に対する人権侵害を告発し、それが外国では同情とある程度の共感を持って受け止められたとしたなら、米国内の白人たちはどのような反応をするのだろうか……自分らの身に“関係”のない「正義」に、ええ格好をすることは容易だ。
2014年9月3日水曜日
ランクル70
「ランドクルーザー70」が期間限定(生産は2015年6月30日まで)で発売された。4.0LのV6エンジンを搭載し、価格はバンが360万円、ピックアップトラックが350万円。このモデルは1984〜2004年に国内販売されていたので10年ぶりの再発売だ。海外向けには生産が続けられていたので、“生誕”30周年を記念しての国内再登場となった。
トヨタには他にもランクルを名乗る車種がある。例えば、「オンロードシーンにおけるラグジュアリーな世界に磨きをかけ」たという「ランドクルーザー 200系」は4.6LのV8エンジンで価格は452万〜653万円。一回り小型の「ランドクルーザー プラド」は4.0LのV6、2.7Lの直4エンジンで価格は327万〜504万円。
ランクル70の後継者ともいえるプラドが発売されているのに、なぜランクル70が再発売されたのだろうか。トヨタは「『このクルマでなければならない。』という圧倒的な声を受けて、再びその姿をここに現しました」とするが、圧倒的な声なるものの中身が気になる。ベンツのGなど無骨なデザインの四駆を都会でオシャレに乗り回すことを好む人たちの趣味に反応したものではないと思うが。
四駆の位置づけは大きく変化した。レジャーに使われるようになって四駆にもフャッション性が求められるようになり、外観デザインは多彩になった。一方で、ヘビューデューティのイメージは必須だがタフネスさはさほど重視されず、乗用車ベースの四駆(SUV)が世界中で増えた。
更にSUVは街乗りの車となり、2WDも加えられ、車高が高くて運転しやすく、ぶつけられても乗用車よりは安全(?)な車としても選ばれるようになった。ベンツやBMWがラインアップを拡充したことからSUVは、ラグジュアリーな高級シティカーとの位置づけを確立し、荷室を減らしたクーペタイプのSUVさえ売られている。
ランクル70は無骨な外観だが、頑丈さと耐久性で過酷な環境下での酷使にも耐え、高い悪路走破性を有することから世界的に高く評価されているという。東京などに住んでいると実感しにくいだろうが、日本各地にも、厳しい環境の中で暮らしている人々がいる。ランクル70が、限定品なのに価格を抑えて再登場したのは、豪雪地などで生活の足として頑丈な車を必要とする人々の声に応えたものかもしれない。
2014年8月30日土曜日
人生50年
第二次大戦後の第1次ベビーブームの1947〜1949年に生まれた人々は「団塊の世代」と呼ばれる。消費動向など社会的に大きな影響を与えてきた団塊の世代だが、2012年以降に65歳に達し始め、今年は1949年生まれの人も65歳になる。会社勤めの多くの人は定年退職を迎え、高齢化社会をいっそう促進することにもなる。
団塊の世代を対象に内閣府が行った調査(2012年)によると、25.1%が「働けるうちはいつまでも」働きたいとし、「70歳 まで」が21.3%、「75歳まで」3.7%で半数が働き続けたいと望んでいる。生活に対する満足度は、「非常に満足」12.5%、「ある程度満足」67.0%で計79.5%と高い。行政に要望する注力すべき高齢者対策は、「介護や福祉サービス」68.4%、「医療サービス」60.3%、「公的な年金制度」58.3%、「働く場の確保」15.6%の順。
高齢社会白書(2013年)によると、世帯の主な収入源は「年金」が最も多く53.4%。世帯年収は「240万〜300万円」が17.3%、「300万〜360万円」14.0%、「360万〜480万円」14.0%、「480万円以上」18.8%、「120万円未満(収入なしを含む)」8.3%。世帯の貯蓄額は「1000万〜2000万円」が15.0%、「100万円未満」9.8%、「2000万〜3000万円」9.7%、「700万〜1000万円」9.5%。
こうした調査から大まかな傾向はうかがえるが、団塊の世代の実態は曖昧だ。当たり前だが、65年の間に個人差が相当に生じており、例えば、世帯収入が少ない場合は、蓄えが十分にあって積極的には働こうとしないケースもあれば、生活を維持するために低収入の仕事でもつかざるを得ないケースもある。
65年生きてきた団塊の世代で、優雅な隠居生活に移行する人々がどれくらいいるのか分からないが、現在では65歳は老け込む年齢ではない。日本人の平均寿命(2012年)は女性86.41歳、男性79.94歳なので、15〜20年ほどの余生がある。無為に過ごすには長過ぎようが、かといって年齢的な衰えも始まり、20代の若者と同じように人生を新たに切り開くことは難しかろう。
テレビドラマなどで織田信長が描かれると、必ずといっていいほど登場するのが、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」の謡曲で舞うシーンだ。織田信長は48歳の時に本能寺で死んだ。まさしく「人生50年」と、天下を取って、日本の歴史に名を刻んで輝いて生きたわけだが、当時と比べて寿命が長くなった現在、団塊の世代の人々は、人生65年のあとを長く生きる。
寿命が長くなって、第2、第3の人生を楽しむことができるならば、それもまた一興。しかし、人生50年が夢幻の如くであるとしたならば、人生80年も同様だろう。天下を取っても取らなくても、長くても短くても人生は「下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」か。
2014年8月27日水曜日
読者からの信頼への裏切り
朝日新聞は、(1)吉田清治氏の関連記事について「虚偽の証言だと判断」して記事を取り消し、(2)女子挺身隊と慰安婦を誤用していたことを認めた。いわば32年も経って誤報を認めたわけだが、事実関係を間違えている記事を32年も“放置”していたことへの説明はなかった。
慰安婦絡みなので他マスコミからの執拗な批判がいつまでも続き、そのため朝日は今になって検証を余儀なくされ、「訂正」に至ったという印象だ。だから、政治的な問題とはならない他の記事なら、事実関係を誤って報じていても執拗な批判は少ないだろうから、放置したままなのではないかとの疑念も生じる。「そんなことはない」のだろうが、32年経っての訂正に関する朝日の説明が不足しているので、記事全般に対する信頼性を損ねたことは確かだ。
朝日は日本を代表する新聞だと欧米のマスコミからは見られているといい、日本国内でも朝日をリーディングペーパーと見なす人は珍しくない。宅配で長年読んでいた個人的経験からも、内容が充実した読み応えがある新聞であるといえる。加藤周一氏の連載コラムが載らなくなってからは購読をやめたのだが、朝日が他の新聞よりはマシだとの印象は持っている。
だからこそ、朝日が今回、説明責任を十分に果たしていないことを危惧する。世の中に事件、事故は満ちあふれ、多くの腐敗も潜んでいるだろう。新聞が報じるべきことは多く、締切りまでの時間は短い。そんな中で紙面をつくるのだから、記者が間違うこともあろうし、編集スタッフが見逃すこともあろう。だから、「誤報」の速やかな訂正が不可欠で、それが新聞への信頼を支える。
誤報が新聞社により訂正されないと読者は、どれが誤報の記事で、どれが誤報でないのか区別がつかなくなる。新聞社は「全ての記事は正しく、誤報ではない」との建前なのだろうが、そんな建前を信じる人はいないよ。32年経ってからの「記事取り消し」は、事実確認をおろそかにしていたという新聞社にとって重大な瑕疵であり、読者からの信頼に対する裏切りでもある。
今回の朝日「誤報」騒ぎでは、日本国内で慰安婦問題を提起し続けていた人達からの反応が鈍い。政治的な運動は、事実関係の客観的な正しさ云々より、政治的な効果を重視するものであるから、事実関係がどうであろうと大した問題ではないのかもしれないが、大騒ぎして、後は知らんぷりする連中だとの印象にもなる。
「批判する時は元気だけど、説明責任を求められると黙りがち」というのは、当事者能力の欠如を示すものかもしれない。都合が悪いと黙るという行動は、みじめで弱体化したと傍からは見え、そうした人間に対して新聞記者が容赦なく鋭い質問を浴びせたりして「真相」を追及することはよくある……朝日が黙ったままでは、新聞不信につながりかねず、権力にとっては好都合だろう。
2014年8月23日土曜日
夢か情熱か志か
「夢を持て」と若者に言う人がいる。夢を持つことは大事だと、うっかり同意したくなるが、待てよ、若者が何を夢とするかは、まちまちだ。「平和な世界にしたい」やら「プロ野球選手になりたい」「人気歌手になりたい」などというものから、「正社員になりたい」「公務員になりたい」などまで、人によって夢が意味するものは幅広い。夢と願望の区別はつけにくい。
何を夢とするかは、客観的に決められるものではなく、あくまで主観でしかないから、その人の直面する状況によって、夢の内容は変化する。例えば、「プロ野球選手になりたい」という夢を持っていた人が、プロ入りした後は、1軍でプレーすることを夢にし、更には、タイトルをとることを夢にするかもしれない。もちろん、夢を“発展”させることができるのは少数だろうが。
「夢を持て」と推奨されるのは、その夢の実現に向かって当人が努力することが期待され、時には、当人に自覚や努力を促すためである。だから、実現可能性はさておいて、どんな夢でもいいからと、まず「夢を持つ」ことが促される。自分の将来について、何も考えないよりは、届かぬ夢であってもマシだということかもしれない。
子供にとって夢を持つことは大切なことかもしれないが、大人にとっては、どういう意味があるのだろうか。思いどうりにならない現実を受け入れ、現実に対応して生きることを覚えるのが大方の大人だろう。そうした大人が持つ夢は、「ジャンボ宝くじに当たりたい」だったりするのかな。
米の大学の卒業式で、来賓スピーチの決まり文句の一つは「情熱を傾けるものを持て」だという。似たような言葉ではあるが、「夢を持て」よりは、実際的で現実的な言葉だ。実現すべき対象が夢だとすれば、「情熱を傾ける」はポジティブな取り組み姿勢を意味する。夢は主観でしかないが、ポジティブな取り組み姿勢は客観的にも評価可能なものであり、そういう姿勢は、例えばビジネスなどでも役立つだろう。
ポジティブな取り組み姿勢を身につけることは、人生を切り開くには役立つ。「プロ野球選手になりたい」「人気歌手になりたい」などの実現のために情熱を傾ける人もいようが、ポジティブに取り組むという生き方を身につけたなら、情熱を傾ける対象が変わったとしても、積極的に生きていくことができそうで、大人になりかかっている人へ向ける言葉としては適していそうだ。
「目標を明確にしろ」という言葉も若者に向けて語られることが多い。長期的な目標を決めて、それを実現するためには何が必要かを考え、「今日やること」「今月やること」「今年やること」などと短期的な目標を設定して、それらを着実にこなしていくことで、長期的な目標の実現に近づいていく。夢よりも目標は現実的な設定になるだろう。
最近はあまり聞かれなくなったが、昔は「志を持て」という言葉が若者に贈られた。夢や目標よりも志は個人の理念に関わってくる言葉だ。理想的な世の中にするために努力することであったり、規範に則って恥ずかしくない生き方を貫くことであったりする。「志を高く持て」などと、個人の利害、願望にとらわれることを戒める言葉もあった。
夢を持つことも、情熱を傾けることも、目標を持つことも、志を持つことも、若者に期待する言葉だ。まだ社会的には“微力”な若者にとって世の中は見通しがあまり利かず、理不尽なことが多く混沌としたものかもしれないが、切り開いていくしかない。そのために役立つのは、夢か情熱か目標か志か。
2014年8月20日水曜日
共感する力
8月に入ると新聞紙面に戦争に関する企画記事が増え、テレビでも戦争に関するドラマや検証特番が増える。戦争といっても、世界各地で現在行われている戦争がテーマではない。取り上げられるのは、日本が直接関わった先の戦争である。中東やアフリカなどで現在も行われている戦争についてはニュースとして報じられることがあるだけだ。
でも8月15日が過ぎると、そうした企画記事や特番などは次第に消え、次に現れるのは12月だが、その量は8月より遥かに少ない。8月には2度の原爆投下、終戦と大きな出来事が続いたため、先の戦争の“記憶”が呼び起こされるのかもしれない。一方で、新聞社やテレビ局でも社員が夏休みを取るため、事前に作り置きがしやすい戦争関連の企画記事や特番が増えるともいわれる。
送り手側の事情はさておき、日本のマスコミが、日本が戦争に直接関わった記憶、つまり、日本人の「戦争体験」を掘り起こし、伝えることを重視していることは間違いない。自国が関わり、自国民が体験した戦争をマスコミが重視することは当然だが、受け継ぐべき「戦争の記憶」は、日本が直接関わったものだけではあるまい。
戦争に巻き込まれた人々は、平時には想像もつかない多くの悲惨な体験をする。それを後世に伝えていくことには意義がある。だが、日本人の体験だけが戦争体験の全てではない。戦争には様々な態様があり、また、技術や経済力の発展とともに変化するのだから現代の戦争は、日本人が過去に体験した戦争には見られなかった別種の悲惨さを持つ。日々のニュースで、それらを伝えきれているのだろうか。
日本が直接関わった戦争は(今のところ)数十年以前のものだけであり、それだけを特別扱いしすぎると、「昔の戦争で日本人は大変だったけれど、今の日本は平和で良かったね」と現状を肯定するだけで終わるかもしれない。日本が平和であることは慶賀すべきだが、世界が平和になったわけではなく、各地で戦争は起き、世界は戦争の「記憶」に溢れている。
日本や日本人が関わった戦争と、他国や他国人が関わった戦争に、悲惨さや愚かさにおいては本質的な違いはあるまい。だが、戦争の「記憶」は、他国や他国人が関わった戦争からも受け継ぐことはできようし、現在行われている戦争からも「記憶」を受け継ぐことはできるはずだ。
それには、共感する力が不可欠となる。数十年前の日本人の体験、記憶に共感するのと同じように、世界各地で戦争に巻き込まれる人々の悲惨な体験、記憶に共感できるなら、それらを受け継ぐこともできよう。共感する力が乏しければ、日本人の「戦争体験」だけにしか興味、関心が向かないかもしれない。
2014年8月16日土曜日
批判される「正解」
昨年夏に、シリアのアサド政権が反政府側に対して化学兵器を使用していたとの疑惑が浮上し、「邪悪」なアサド政権を倒すために米など西側の軍事介入を求める声が上がった。しかし、オバマ米政権はシリアに対する軍事介入を行わず、交渉によってシリアが保有する化学兵器を国際管理下に置くことにした。
化学兵器はシリア国外に搬出されたもののシリア国内では内戦が続いている。それまでの反アサド派勢力に加え、様々な勢力がシリアに入り込んで戦闘に加わったが、政府軍を倒すほどの勢力にはならずにいる。一方、政府軍にも反政府武装勢力を圧倒して、国内から追い出すほどの力はなく、内戦が続いている。
そのシリア内戦で「成長」したと見られるのがスンニ派の武装組織「イラクとシリアのイスラム国」(ISIS)だ。今年になってイラクにまで勢力を拡大し、イラク第2の都市モスルのほか、イラク西部やシリア東部の広い範囲を制圧し、「イスラム国家(IS)」の樹立を宣言、指導者を「カリフ」とした。
米などがイラクに軍事介入してフセイン政権を倒したのは2003年。イラクの人々は圧政から「解放」されたはずなのに、イラクの人々は平和も民主主義も手にすることができずにいる。反対に、ISISが勢力を拡大して、イラクを分割統治するようになって混乱は拡大……米などの軍事介入の「成果」は失われた。
西側メディアには例えば「シリア内戦への干渉を、化学兵器を使ったかどうかで片付け、軍事介入を控えた。それは事なかれ主義であり、内戦を放置してきたツケが今、ISISの伸長、イラク内戦、イランの台頭という形で現れてきた」などとの批判がある。オバマ政権など西側諸国に先見性が欠如していたとする批判だが、結果論でしかない。
昨年、米など西側がシリア内戦に軍事介入していたならば、支援を受けた反政府武装勢力がアサド政権を倒していたかもしれないが、アサド後のシリアが、平和で民主的な国に変わる可能性がどれほどあったのか定かではない。むしろ、様々な武装勢力が入り込んでいたのだから、アサド後のシリアは、現在のリビアと同じような状況になっていた可能性が高いだろう。
リビアも内戦状態になり、米などの軍事介入の支援を得た反政府武装勢力がカダフィ政権を倒したが、その後は武装した諸勢力が対立し、実質的に内戦状態は続いている。暫定政府は首都の治安さえ保つことができず、各国の大使館などが襲撃され、外交官が国外に退去した。
シリア内戦の死者は15万人以上になるともいわれ、悲惨な状況であることは確かだが、米など西側が軍事介入しなかったのは「正解」だったかもしれない。軍事介入してアサド政権を倒しても、破綻国家を一つ増やし、諸勢力が争う暴力が支配する地域を広げる結果に終わった可能性が高い。人々の苦しみは終わらない。
しかし、「正解」が、いつでも誰にでも歓迎されるとは限らない。特に、ISISの勢力拡張など新しい状況に対する解決策が見つからない場合には、過去の、行われなかった選択が「誤り」とされ、批判される。そういう批判は容易だからだが、架空の根拠に基づく批判でしかない。
2014年8月13日水曜日
客観性が欠如
成分表示の表記には記載されていない怪しげな何かを含む食品を、数十年も販売していた食品会社があった。以前から疑惑が指摘されていたのだが、その食品会社は否定し続けていた。食品の偽装表示などで成分表示に対する世間の目が厳しくなったので、その食品会社はやっと、成分表示が誤っていたことを認めた。
その食品会社は、社員で構成した調査チームをつくり、問題があったのに、どうして数十年も正されなかったのかを検証し、報告書を発表した。報告書では、怪しげな何かが数十年前から食品に入っていたことを認めたが、当時の知見では明確に判別できなかったとし、「当時は他社でも同じような混入があった」と書くことを忘れなかった。
さらに報告書では、表示の担当者が、成分表示には含まれていない怪しげな何かが含まれていることを最近になって気付いたとし、怪しげな何かが含まれていることを知っていた人間は他にいなかったとした。疑惑が以前から指摘されていたが、会社として対応しなかったことに関する説明は報告書にはなく、成分表示の法規制が緩やかであることが混乱を生じさせていると問題提起した。
この報告書を、新聞社など報道各社は批判した。怪しげな何かが含まれていたことを認めたことは当然だと評したが、疑惑が指摘されながら数十年も黙り続けてきたことや、気付いた社員がいなかったということなどに疑問を投げかけ、さらに、法規制に論点をすり替えようとしていると指摘した。
以上は架空の話だが、不祥事を起こした会社、組織が、問題点や関係した社員を、社員など内部の人間だけで調査した調査報告を公表した場合、その調査・検証に客観性があると受け止められることはまずないだろう。反対に、会社に都合が悪いことは隠しているのじゃないか、社内の関係者には手心を加えた質問をして体裁を繕っただけじゃないか、最初に結論を決めて、それに沿った調査をしただけじゃないか等の疑念を持たれるだろう。
企業が不祥事で失った信用を回復するには、問題点を厳しく調査・検証して、同様の不祥事が二度と起こらないように対策を講じるとともに、それを社会から見えるカタチにする必要がある。会社から独立した調査委員会による検証は、企業が社会的信用を回復する第一ステップであり、ウミを出し切らなければ問題が再発することもあり得よう。
不祥事を起こした企業が、独立した調査委員会を設置せず、実態解明に消極的だったりすると、報道各社はその企業は「自浄能力が乏しい」「隠蔽体質だ」「仲間内でかばい合っている」などと批判する。その批判は正しい。不祥事が長年隠蔽されていた企業や、問題を知りながら解決に長年動かなかった企業には組織的な欠陥があるはずだ。
新聞記事は大きな社会的影響力を持っている。怪しげな何かが含まれていた新聞記事を流していた新聞社が為すべきことは、独立した調査・検証委員会を設置すること。そして、客観性を有する報告書を公表すること。だが、今回の朝日の32年経っての「記事取り消し」で他の新聞社は、独立した調査委員会の設置について触れない。
記事の客観性を第三者が検証することは他の新聞社にも現実的な課題だから、各社は朝日批判に止めたいのだろうが、新聞社から独立した常設の記事検証機関を設置するぐらいをしなければ、今後、新聞自体の信用度が低下して行くことを防ぐことはできないだろう。
2014年8月9日土曜日
無責任になる時
以前に聞いた話だが、人が金を使う時に、最も慎重になるのは「自分の金を他人のために使う時だ」という。何らかの見返り(相手からの好意、感謝など無形のものも含む)を期待し、それが、自分の使う金に相応するものかを推し量るが、実際の見返りが予想通りになるかどうかは分からないからだ。
最も無責任になるのは「他人の金を他人のために使う時」だという。どんなに浪費しようと、自分の懐には影響しない。むしろ、他人の金を大盤振る舞いすると、その恩恵を受けた人から自分が感謝されたりするのだから、「他人の金」を気前よく使うことは心持ちが良さそうだ。政治家や官僚が国の金を、莫大な借金を積み上げながら、大盤振る舞いするのは、「他人の金」だと思っているからかな。
ここで「金」を「ニュース」に置き換えると、新聞社やテレビ局などが、最も慎重に報じるのは「自分に関するニュースを他人に伝える時」だとなる。確かに、報道各社は自社の不祥事などについて、どこかに暴かれるまで伝えなかったり、伝える時も目立たない小さな扱いで済ますことは珍しくない。
さらには、他社からの取材にもろくに応じず、会見を開くことにも積極的ではなかったりする。他人や他社の不祥事なら、取材陣が追いかけ回し、「説明責任があるだろう」などと強く迫ったり、関係者に取材して回るのにね。中にはNHKのように、女子トイレの中にまで取材対象者を追いかけて行く……ところもある。
自分らに関することなら、慎重に取材し、報じるとしても慎重に報じるのに、他人や他社の不祥事なら容赦なく暴き立て、時には「社会的責任を明らかにしろ」などと糾弾する調子になる。これは、「他人に関するニュースを他人に伝える時」に最も無責任になる……ことか。
でも「他人に関するニュースを他人に伝える」のは日常的な報道であり、大量に流される。それらのニュースを報道各社がいつも無責任に伝えているのではないと信じたいが、むやみに「大騒ぎ」することはよくあり、対象となった人や会社などに、自社が対象となった時と同じように十分に配慮していると見えないことも確かだ。
民主的で「開かれた」社会を維持するために、世にある不祥事を報道各社が暴き、追及することは欠かせないが、「他人に関するニュースを他人に伝える時」に、新聞社などは無責任になっていることがあると疑問を感じることは結構ある。最近では、32年も経ってからの「記事取り消し」があったが、これなど無責任の極みかもしれない。
2014年8月6日水曜日
独裁政治と腐敗
中国は1党独裁政治であるため、国家権力は共産党に集中する。最高指導部は中国共産党の中央政治局(委員25人)で、そこから選出された7人で中央政治局常務委員会を形成する。常務委員はまさしく“雲の上”の人物だ。ちなみに、中国共産党中央軍事委員会が、党の軍隊である人民解放軍を指揮し、中国共産党中央規律検査委員会が党の規律維持を担当する。
2年前の2011年まで中央政治局常務委員(当時は9人)だった周永康について、「重大な規律違反」で中央規律検査委員会が調査を開始したと中国国営通信が伝えた。「重大な規律違反」とは汚職事件を意味するという。中央政治局常務委員は現職、経験者を問わず、刑事責任を追及されないとの不文律があったそうで、今回の“摘発”は驚きをもって迎えられた。
立法も行政も司法も軍事も「道徳」も党がコントロールする1党独裁体制の弱点は、権力をチェックする機能が弱いことだ。だから、1党独裁体制は最高指導部の独裁体制になり、さらには、最高指導部を押さえた人間による個人独裁になりやすい。このため最高指導部内での権力争いは激化し、「政敵」を殺してでも排除しようとしたりする。
中国では25年前の天安門事件後に趙紫陽元総書記が更迭されたが、それが権力者の失脚の最後だった。共産党内での権力闘争激化を避けるために、中央政治局常務委員クラスの指導者の責任は問わないとの暗黙のルールをトウ小平がつくったというが、それが裏目に出た。「権力は腐敗する」といわれるが、司法の監視を受けない独裁権力に腐敗が蔓延することは珍しくない。
中国は、革命のために権力を前衛党に集中するという発想から、権力を維持するために共産党が独裁を維持するという発想に変質した。社会基盤が整い、経済的に豊かになったのだから、1党独裁を放棄して多党制に移行する頃合いだろうが、1党独裁を維持するために強権を振るって様々な「無理」を重ねている。独裁党が権力を失うことに怯えて、強権を振るうしかなくなったようでもある。
「重大な規律違反」で中国共産党中央規律検査委員会が調査を開始したということは、独裁する共産党内の組織が間違った決定を下すことはない建前だから、結果は「クロ」と既に決まっている。裁判で「有罪」から「無罪」に覆ることもない。
その先については諸説が入り乱れる。腐敗して莫大な資産を形成した中央政治局常務委員経験者は他にもいると取沙汰され、周永康以外にも腐敗摘発の矛先が向かうのか、習近平政権の「政敵」だった周永康一派を倒して終息するのか。腐敗が一掃されることは理想的だが、腐敗した1党独裁体制が自浄能力を発揮しすぎると、独裁までもが揺らぎかねない。独裁党内での権力闘争と見たほうがいい。
2014年8月2日土曜日
弾まない会話
弾まない会話というものがある。あまり親しくない相手と同席せざるを得なくなり、互いに気を使って話題を探すが、二言三言で話が続かなくなることを繰り返したり、相手が“受け身”の姿勢で話題を探そうともしない時などには、心の中で「この人は、話したくないのかな?」などと疑いを持ちつつ、弾まない会話に徒労感が増すばかりとなったりする。
親しい関係でも、会話が弾まないことはある。誰かの体調が思わしくなかったり、気にかかっていることがあったりと原因は様々だが、そういう時には気まずい沈黙がふいに訪れたりし、いつもなら会話に没入しているはずが、ふと我に返ったりする。会話が弾まないことに気がつくと内心であせったり、耐え難かったり、寂しい思いをしたりする。
会話が弾む時には、互いの言葉のやり取りが会話をいっそう促す。誰かの言葉が次の誰かの言葉を引き出し、さらに次の誰かの言葉を引き出す。内容を変えながら言葉がキャッチボールされているかのようでもある。もし言葉に反発係数があるのなら、弾む会話の時に交わされる言葉の反発係数は、きっと高いだろうな。
弾まない会話で交わされる言葉は、当たり障りのないものであったり、どうでもいいと聞き手に感じさせるものであったりする。心が乾いていたり、何かが気にかかっていたり、相手や周囲に対する関心が低かったりすると、反発係数の低い言葉が発せられるのかもしれない。そんなときの言葉には本来の言葉の意味に加えて“水分”が多すぎて弾みにくくなっているのかも。
ただし、反発係数が高い言葉は会話を弾ませるだけではない。会話が弾むにつれて親密さも増すが、逆の場合も珍しくない。何かの言葉で誰かがカチンときて、黙ってしまうならともかく、我慢できないと言い返したり、嫌みを言おうものなら、そこで交わされる言葉の反発係数は一気に高くなったりする。心が熱くなると、言葉も熱せられて“水分”が一気に飛んでしまうのだろう。
そうした険悪な雰囲気の時にこそ、反発係数の低い言葉のやりとりで場を落ち着かせるのがいい。心が熱くなって、情緒に動かされやすい状態のときこそ、意識的に理性的な物言いをするのが望ましい。だが、相手の言うことが気に食わないからと反発係数の高い言葉を相互にぶつけ合っているような時には、冷静になれといっても無理だろうな。
個人の間で、反発係数の高い言葉をぶつけ合って険悪な関係になろうと、それは当事者間の問題だが、外交で使う言葉が反発係数の高い言葉であっては、多くの人々が迷惑する。日本に向けて、一方的な主張を、時には礼を失したまま、意図的にぶつけてくる国が増えたように見える。厄介なのは、こちらも反発係数の高い言葉を投げ返さなければ不利になると早合点する手合いがいることか。
2014年7月30日水曜日
それぞれの脅威
ウクライナ東部で起きたマレーシア航空MH17便の撃墜事件により、欧州はロシアに対する批判を強めている。ウクライナ東部で行動する親ロシア派の武装勢力がミサイルを撃った“犯人”だと見られているが、民間機と知って狙ったのか、ウクライナ軍機と誤認して狙ったのかなど、墜落に至る事実関係はまだ不明だ。
この親ロシア派の武装勢力の正体にも諸説あって、ウクライナのロシア系に加えて、ロシアの諜報関係者が加わっているとの見方や、チェチェン紛争などに参戦していた連中が流れてきているとの見方など様々だが、ロシアが何らかの関与をしているとの認識は共通だ。一方のウクライナの「民主化」活動家にもネオナチ勢力のほかに、欧米の支援があるともいうので、ウクライナを舞台にした、欧米とロシアの代理戦争なのかもしれない。
ロシアのクリミア併合以来、欧州メディアはロシア批判のボルテージを上げていたが、それがマレーシア機撃墜でいっそう高まった。例えば、英Economist誌は「この事件は、プーチン氏がもたらしてきた害悪の大きさを示すものでもある」「プーチン氏の支配下でロシアは昔に逆戻りし、もはや真実と嘘の見分けがつかず、事実が政権の都合で利用される場所になってしまった。プーチン氏は愛国者を気どっているが、実際のところは危険人物だ」「欧米は、プーチン氏のロシアが根本的に敵意を抱いているという不愉快な真実を直視すべきだ」などと攻撃する。
欧米ではロシア批判の高まりで、プーチン憎しという感情を隠さない記事も受け入れられるようになったと見えるが、こうしたロシア批判が許容されるのは、ロシアに対する潜在的な恐怖心が欧州にあるからだろう。それは冷戦期の旧ソ連に対して培われたもので、クリミア併合という現実でロシアに対する欧州の恐怖心が“正当化”されたようでもある。
ロシアに対する欧州の恐怖心は日本では実感できないものだろう。ちょうど、中国に対する日本の警戒心が欧州では実感できないことと対応する。ロシアの領土拡張の動きに対して欧州は敏感に反応するが、中国が領土拡張に動いても、欧州にとってはヨソ事で、反対に中国との経済関係の強化を怠らない。経済関係が強まるにつれ、欧州は中国に対する政治的批判をしなくなった。
現実的な脅威とは、欧州にとってはロシアであり、日本にとっては中国である。世界的に大きな影響力を持っている欧州メディアが、ロシアの脅威を書き立てると世界もロシアに対する警戒感を高め、欧州メディアが日中の緊張について「中国も悪いが、日本も緊張緩和への努力不足だ」などと書くと、世界は日本にも中国にも距離を置いて見るようになったりする。
今回のロシアの一連の行動は批判されるべき部分が大きいものの、欧州のロシア観には恐怖心がベースにあるから欧州メディアは、“邪悪な”ロシアなどという方向に向かってしまう。欧州メディアが中国の領土拡張に伴うアジアの緊張の高まりについて、いわば“高みの見物”で御高説をたれるように、日本は欧州に対して「もっとロシアと話し合う努力をすべきだ」などとお説教をしてみるのもいいかもしれない。
2014年7月26日土曜日
悩ましい選択(2)
国を評価する時に、政治、経済の二つの要素で見ると、どうなるか。「政治は最低だけど経済は最高だ」という国もあろうし、「経済は最低だけど政治は最高だ」という国もあろう。「政治も経済も最低だ」という国は珍しくなさそうだが、「政治も経済も最高だ」という国はごく少なそうだ。
ここに、サッカーの強弱という要素を組み合わせると、複雑に枝分かれしそうだが、サッカーの強豪国は限られているので、現実的に大半の国は「政治は〜〜で経済は〜〜だけどサッカーは弱い」となる。例えば、中国は「政治は共産党独裁で最低だけど、経済は先進国市場との結びつきによって最高。だが、サッカーは弱い」となる。
サッカーの強豪国は欧州と中南米に偏在しているが、「政治が最高で経済も最高、さらにサッカーも強い」という国はない。ドイツは、ユーロ安の恩恵で「経済は最高」だが、政治は無難なものの最高とのイメージはない。でも、サッカーは強い。オランダは家計債務が多く、政治も国際的に存在感はないが、サッカーは強い。
サッカー強豪国とされるが今回、グループリーグで敗退したスペインは不動産バブルがはじけて失業率が25%を超すなど経済は最低で、政治的にも目立たない。イタリアも経済は債務危機の影響もあって脆弱で、政治面で国際的存在感は希薄だ。イングランドは経済は堅調だが、関係が不安定なEUを動かす政治力はない。フランスは経済が低調で、政治は存在感だけはあるものの、うまく行っているとも見えない。
準決勝まで勝ち進んだのに“惨敗”イメージが先行するブラジルは、経済は最高とはいえないが、ひどいという状況でもない。政治も同様で、国内で政権批判が高まっているが、W杯招致が失政だったとはいえまい。アルゼンチンは「政治は最低で、経済は破綻しているけど、サッカーは強い」というべきか。
政治や経済が最低なことに国民は憤懣やるかたないだろうが、サッカーが強いということを、誇りの拠り所としているように見える。アルゼンチンがサッカーの強豪国であり続けることは、傍から見る以上にアルゼンチンの人々の国家意識維持のために重要な意味を持っているのかもしれない。
さて、三つが同時に「最高」になることが難しいなら、人々にとって最も「幸せ感」が高いのは、どの組み合わせなのだろうか。「政治が最高でサッカーが強い」か、「経済が最高でサッカーが強い」か。選択は難しい。「政治が最高で経済も最高だが、サッカーは弱い」という選択もあるが、これでは4年に1度の熱狂は味わえそうにない。常に冷静でいて、W杯の世界的な熱狂に冷ややかに背を向けている人々……たまにはハメを外すのも悪いことではあるまいに。
2014年7月23日水曜日
悩ましい選択
これは、『夜と女と毛沢東』(吉本隆明と辺見庸の対談。文春文庫)の一節。
(辺見) 女から「あなた、文章は最低だけど性格は最高だ」と言われるのと、「性格は最低だけど文章はいい」と言われるのと、もう一つ、「あなたは書くものもくだらないし性格も最低だけど、あっちのほうだけは凄い」と言われるのと、何が一番いいと思うか? 吉本さんなら何を選びます?
(吉本) うーん。
(辺見) 僕は絶対三番目だな(笑)。セックスが最高だと言われるのが、僕の夢ですね、というより人間的にそうあるべきじゃないかとどこかで思っている。現実にはまったくそうではないから、ものを書いたり理屈をこねたりしているわけですが、三番目が理想でしょう。
(吉本) やっぱりそれが理想ではありますよね。
(辺見) ええ。これ、僕、大真面目に言っているんです。抽象的にではなく、具体的に見れば、人間なんてたかだかそんなものでしょう。
何が一番いいと思うか?と問われても、返事に困りそうだ。「文章がいい」とも思われたいし、「性格がいい」とも思われたいし、「あっちのほうは凄い」とも思われたいしなあ。「文章がいい」を一般化して「仕事ができる」に置き換えると、この問いは誰にでも身近なものとなる。
二者択一ならぬ三者択一を迫る問いだが、実は「仕事ができる」「性格がいい」「あっちのほうは凄い」は、1人の人間が兼ね備えることができるものでもある。この三つは、どれかを選んだなら即座に、他のものが排除されるという関係にはないからだ。仕事ができて、性格が良くて、あっちのほうは凄いという、人生を謳歌しているだろう人物は実在する(多分ね)。
とはいえ、この三つを兼ね備えることは簡単ではない。自分は三つを兼ね備えているよと自信を持つ人もいるだろうが、それは主観でしかない。この三つとも、他の人からの評価によって決まるもので、いくら仕事や性格、あっちのほうに自信があったからとて、客観的な評価が伴うとは限らない。自己満足が客観的な評価と一致しないことは、よくあることだ。
そもそも、仕事や性格、あっちのほうのどれか一つだけでも、他の人から“最高”の評価を得ることさえ難しい。どれか一つだけでも“最高”の評価を得たなら、実りある人生といえるのではないか。でも、不断の努力で“最高”の評価を得たとしても、それが長続きする保証はない。人の心は変わりやすく、誰かの“最高”にもすぐ馴れてしまう。日常化した“最高”は日常でしかない。
2014年7月19日土曜日
混乱が続くリビア
シリアやイラクでISISが制圧地を拡大し、実質的に国家の分裂が進行していることは連日大きく報じられていたが、さらにイスラエル軍が空陸からガザに対する攻撃をエスカレートさせるなど、中東の情勢は揺れ動いている。強権的な政権に対する民衆からの異議申し立てが各国で相次いだ「アラブの春」は、すっかり今では霞んでしまった印象だ。
独裁を続けていたカダフィ政権を倒してリビアにも「春」が来ると期待されたが、「春」の代わりに混乱が続いている。7月に入って首都トリポリの国際空港周辺で、空港を管理していた民兵勢力に対してイスラム系武装勢力が攻撃を加え、戦闘になった。イスラム系武装勢力と民兵勢力の衝突は以前から各地で続いており、日本の外務省は退避勧告を発している。
リビアでは2011年2月に反政府デモが始まり、治安部隊との衝突が続き、多数の死傷者が出る中で、暫定政権「リビア国民評議会」に次第に反政府勢力が結集した。軍事的にはカダフィ政府軍が圧倒的に優勢だったが、米英仏を中心としたNATO軍がカダフィ政府軍への空爆を開始したことなどで反政府側は持ち直し、やがて首都トリポリを反政府側が制圧、逃亡したカダフィは殺された。
カダフィという「重し」が外れてみると、リビアに国としての求心力よりも、遠心力のほうが強く作用した。もともと多くの部族が割拠して対立する構造があり、さらには石油の利益配分をめぐっても不満が内在していた。この地域は歴史的に様々な帝国に入れ替わり支配され、20世紀になってからはイタリアに植民地支配された。独立したのは1951年で、カダフィらがクーデターを起こしたのは1969年。
リビア内戦では多くの反体制勢力が武器を持って戦ったが、内戦が終わった後に大型兵器以外の武器は回収されていない。内戦終結後には議会選挙が実施され、憲法制定に向けて歩み始めているが、多くの部族が一つの国としてまとまらなければならないという“必然性”が乏しいリビアなので、治安状況は悪いままだ。内戦時にはイスラム過激派勢力も入り込んだ。
「アラブの春」は「アラブ世界の流動化」開始の号令であったのかもしれない。エジプトは軍政に逆戻りして強権で国としてのまとまりを維持しているが、シリア、イラクの内戦は国家分裂を予感させる。リビアでも内戦が始まると、やがて分裂に向かう公算が大きい。どこかの1国でも実際に分裂すれば、植民地の境界を国境としている他の国でも、内部分裂を促進させる懸念がある。
「独裁」の反対語は「民主」とつい考えやすいが、アラブ世界では「民主」ではなく「混乱」だった。これには、植民地支配された諸民族混住の地域が、そのまま独立したという歴史が大きく関連している。多くの民族が混在している旧植民地には、新たな民族自決が必要なのかもしれない。ただ、その先にあるものが「安定」であるのか、さらなる「混乱」であるのかは誰にも分からない。
2014年7月16日水曜日
書道で書く言葉
多くの人が書道を初めて体験するのは小学生の時だろう。初めの頃はひらがなで「ゆめ」「はる」「ゆき」「げんき」「あさひ」「さくら」などと書くことから始め、学年が進んで漢字を覚えるにつれて「星空」「朝日」「新春」「春の光」「青い空」「真夏の海」「美しい心」などと書き、さらに学年が進むと「希望の朝」「自然の美」「青雲の志」「謹賀新年」「南十字星」「心機一転」などと書く。
四字熟語を書いたあたりで大方の人は書道から離れるが、書道を続ける人は古典を学んで様々な書体を学習していく。美しい字を書くことができるようになったことで満足する人が大半だろうが、中には、さらに自分の個性を発揮して書くことを目指す人や、中には、書くことをパフォーマンスとして演じたりする人もいる。
書とは「文字を素材とする芸術」「文字を美的に表現した芸術」であり、「符号にしかすぎない文字に芸術的意志を働かせ生命を与えたものが書」なのだそうだが(毎日書道会HP)、「書作品には、その作家の人間性がそのまま素直に表現され、生き方、思想、人格が反映されている」(同)と言われると、かなり創造力を逞しくさせないと書は鑑賞できそうにない。書かれた文字から、書いた人の人格を見るなんて、誰にでもできることではない。
書く人の生き方、思想、人格が書には反映されているということになると、題材は前向きな言葉や無難な言葉に限定される。書いた人の生き方や思想、人格が疑われるような言葉を書で書くことはできまい。見事な字が書かれていれば、どんな言葉を書こうと構わないじゃないかとも“部外者”は思うが、「芸術」としての書道としては制約があるのだろう。
だから、書道ではマイナスイメージを漂わせる言葉は排除される。例えば、悪、邪、恥、罪、嫌悪、邪悪、野心、嫉妬、汚点、隠蔽、阿呆、裏切り、汚い奴、戯け者、怠ける、甲斐性なし、ぼけ、ずるい、のろま、ふしだら、暗い未来、前科者、確信犯、貧乏人、金権腐敗、責任転嫁、自業自得などの言葉を、墨黒々と書き上げた作品にはまず、お目にかからない。
こうした言葉が並ぶ展示会があったなら、見た人達が「いい『汚点』ですなあ」「この、『ふしだら』は書き手の生き方を反映してますな」「この『野心』は、まさに人格を表している」「『ずるい』と『裏切り』ですか。なるほど彼の思想を物語る」などと感想を言いそうだな。こうした言葉のほうが、書き手の生き方や思想、人格が反映されそうな気にもなる。
こうした言葉が題材としては排除されるのが書道の世界だとしたなら、書かれている言葉の意味と、表現としての書には何らかの縛り(建前)があるのだろう。美しく表現されていれば、題材は何でもいいはずだが、例えば「嫉妬」という字が美しく書かれていても忌避されるなんてところが、自由な表現が不可欠な芸術に書道がなりきれないところか。
作品としての書から何を読み取るかは、個人に任されている。気張って芸術ぶるのもよし、美しい字を美しいと思うだけでもよし。無名の人が書いた見事な書よりも、著名人が書いた書のほうに高値がつくのも書道の世界。人格を誇る聖人君子ばかりが書を書いているわけでもあるまいし、書に必ず生き方や人格がにじみ出ているわけでもあるまい。見るほうは自由に芸術ぶらずに振る舞うのが気楽でいい。
2014年7月12日土曜日
悪魔は存在する?
この世に悪魔が存在すると信じるなんて、時代遅れの迷信だという印象だ。だが、バチカン法王庁が国際エクソシスト協会をカトリック団体として公認したというニュースを知って、神の存在を信じる人なら、悪魔の存在をも信じるはずだと思い至った。どちらも新約聖書に出てくる存在だからだ。
神が存在するかどうかについては、昔から議論が続けられてきた。科学が発達して人間が有する知識が増え、この世は神が造ったものではないことも明らかになった。分子、原子の微小な世界から地球上で起こる様々な出来事のメカニズム、さらには宇宙で起きていることも人間はかなり知ることができるようになったが、それでも神を信じる人は大勢いる。
悪魔とは何か。先々代の教皇ヨハネ・パウロ2世は「悪魔は擬人化した悪霊」と規定したそうで、人間に取り憑く悪霊が悪魔の正体ということらしい。日本の伝承で言うなら、狐憑きの類のイメージになるが、悪魔と狐では悪魔のほうが段違いに邪悪かつ強そうで、悪の次元が異なる印象だ。
物語に登場する悪魔は、黒装束で人間そっくりだが、目は赤く、耳が尖り、大きな口には牙が見え、角があったり、翼があったり、尻尾があったりと姿は様々だ。神に敵対するように人間を誘惑するというが、そんな姿で現れては警戒されるだけだろうにね。魔法陣などで呼び出されたりもするというので、見かけは怖そうだが、意外に腰が軽いのかもしれない。
だが、悪霊には姿はない。人間に取り憑き、その人間がいかにも禍々しい悪魔のように振る舞うことがあったりして悪魔イメージが確立されたのかもしれないが、悪霊といっても霊は霊、誰にも見えない(霊の存在は実証されていない。おそらく、存在を信じる人には霊は感じることができ、信じない人には霊は存在しない。悪霊も英霊も、その実在は不確定)。
神と悪魔の存在を信じるバチカンが認めたエクソシズムの儀式では、霊に憑かれた人間が病気ではないかをチェックすることが求められるようになった。霊の憑依現象が精神病に関係する可能性があるからだ。悪霊が取り憑いていると判断してからエクソシストが、聖水で祈祷し、神と聖霊の救いを願う連祷をする等の一連の正式な儀式を執り行う。
国際エクソシスト協会には、30カ国の約250人のエクソシストが所属しているという。エクソシストになる資格は、カトリック神父で、所属する教区の司教に任命されること。霊感が強いからといって民間人が勝手にエクソシストになることはできない。公認エクソシストになるにも、先輩エクソシストについて修業したり、養成講座で神学・典礼法のほか、医学・犯罪学などを学んだりしなければならないそうだ。
一方で、悪魔に取り憑かれていることを自覚しない人間もこの世には珍しくないような気がする。悪魔の所行とも見える行為、行動が世界中で行われていたりする。だが、人間の心に潜む悪魔は難敵だ。そうした悪魔には、公認エクソシストも手を焼くにちがいない。
2014年7月9日水曜日
逆かもしれない
立法府が関与しないまま政策の重大な変更が、与党内の協議を経て、内閣による閣議決定だけで行われた場合、その変更に反対する側から、民主制の否定であるとか、憲法を軽んじるものだなどの批判が沸き起きる。そうした批判の中には「日本の民主制と憲法の本質的脆弱性」の問題提起もあったりするが、この「憲法の本質的脆弱性」については異論も出そうだ。
紙に精緻な印刷を施したものが紙幣として、例えば1万円札なら1万円分の交換価値を持つのは、その紙切れを皆が紙幣だと認めるからだ。そうした交換価値を支えるのは紙幣を発行する政府への信任であり、皆が互いに紙切れを交換価値を持つ紙幣と信じて使うからだ。だから、政府が信用されない国では人々は自国紙幣よりも、例えばドル札のほうを重宝したりする。
憲法も同じようなもので、ある法律が憲法だとして通用するのは、国家と政府への信任があり、皆が憲法を最高法規として尊重するからだろう。だから、軍が頻繁にクーデターを起こして、そのたびに憲法を変えたり、国内に深刻な対立構造があって、政権が変わるたびに憲法をいじることが常態化しているような国では、人々は憲法を絶対的な存在とは見ないだろう。
憲法の本質的脆弱性の最たるものは、皆が憲法を最高法規と見なさず、それどころか憲法を含めた法体系を軽んじるようになることだ。今回の議論で出てきた脆弱性の指摘は、人々が憲法を軽んじるようになったということではなく、憲法解釈に関わる重要な政策変更を内閣の判断で行ったということらしいので、憲法の脆弱性といっても様々な態様があるようだ。
一方で、内閣が閣議決定だけで重要な政策変更をせざるを得なかったのは、憲法が脆弱だからではなく、逆に、憲法が強固すぎたからだともいえる。憲法の条文を変更して政策変更を行おうとしても、一字一句も変えることができない状況が現実。国際情勢などの“圧力”を受けて新たな対応策をとらざるを得なくなった内閣は、解釈の変更を言い立てて政策変更したとの見立てだ。
憲法が強固すぎて一字一句も変えることができないというのは、現憲法の「特異な脆弱性」かもしれない。憲法改正を主張する側は現憲法全体に否定的だが、出てくるのは“復古調”の憲法案だけ。いわゆる護憲派は9条に限らず改正そのものを拒否する。どちらも硬直度では似たようなもので、現憲法を大事にしながら、時代の変化に合わせていく努力が皆無だ。
日本で憲法に関する議論が硬直しているのは、日本という国のあり方に関して、人々に共有する価値観がないからだろう。日本はどういう国であるべきかという理念が共有されていないから、国家権力のあり方についても共有する見解がない。つまり、日本という国がどうあるべきかという具体的な理念についての広範な議論を重ね、共有できる部分を抽出していくことによって、現憲法の特異な脆弱性は解消されよう。道のりは遠いが。
2014年7月5日土曜日
焼そばにも歴史あり
カリッと焼いた麺に、具だくさんのアンが乗っている焼そばを名物にしている中華料理店は珍しくない。暑い夏に熱いスープに入っている麺類を食べると汗だくになるが、焼いた麺に熱がこもっている焼そばを食べても結構汗をかいたりする。だから、冬は熱いスープに入った麺類の出番だが、焼そばを食べても体が結構温まる。
焼そばは、麺の上に乗せる具次第で様々な個性を演出する。まちおこしを目的とする「B-1グランプリ」でも、全国各地から様々な焼そばが出展された。例えば、福島の浪江焼麺、岡山のひるぜん焼そば、宮城の石巻茶色い焼きそば、青森の黒石つゆやきそば、北海道の北見塩やきそば、秋田の横手やきそば、静岡の富士宮やきそばなど。
これら以外にも全国には、その土地、その店でしか食べることができないような焼そばメニューが“埋もれて”いるだろうから、「全国焼そばマップ」なんてものをつくることができそうだ。麺の種類、ソースの種類、麺と具材の炒め方、具に使う食材、トッピングなどで全国の焼そばは分類され、系統図めいたものが浮かび上がるかもしれない。
焼そばは日本で独自に発展した料理だが、ルーツは中国の、麺を炒めて作る料理「炒麺」という。炒麺の種類は多く、醤油味や塩味が基本。焼そばと異なるのは、麺に油がじっとりと絡んでいること。麺を炒める時に使う油の量が多そうで、本格中華料理店で出される炒麺は、食べ終わると皿に油が一面に残っていたりする。
焼そばは日本では戦後に広まった料理とされ、当初は駄菓子屋で子供のおやつとして売られ、60年前くらいから家庭でも食べられるようになったともいう。一方で、戦前の浅草で既にソース焼そばが食べられていたともいい、当時の浅草は大繁華街だったのだから、多くの人に馴染みの料理だったかもしれない。
ソース味のお好み焼きの店は浅草では昭和初期に誕生しているというから、焼いた麺にソースを絡ませた焼そばが当時の浅草で食べられていた可能性はありそうだ。焼そばという日常的な料理で、食べられるようになってから百年にも満たないのに、いつから食べられていたかがはっきりしないというのは不思議な気がする。
ラーメンもルーツは中国だが、日本で独自に発展した。焼そばも同じだが、“誕生”が早いラーメンの中華麺を使って、ソースで炒める焼そばが考案されたのか……など歴史の謎は広がる。焼そばといえば、お祭りの屋台の定番でもある。広い鉄板で麺と少しのキャベツ、もやしを手早く炒めてパックに入れただけ。それでも美味しく感じたりするのだから、焼そばの世界は奥深い。
2014年7月2日水曜日
パシフィック・カップだ
W杯ブラジル大会でアジア勢が1勝もできず、そろって1次リーグで敗退したことで、アジアからの出場枠が減らされるのではないかと懸念する声が出ている。アジアからの出場国を減らし、その分を欧州や南米に振り分けたほうが「レベル」が上がると、つい連想しそうになるが、そんなに単純なものではない。
各国の代表チームの選手は入れ替わるので、4年間で、強いチームに変貌することも弱いチームになることもある。スペインやイングランド、イタリア、ポルトガルも1次リーグで敗退したように、欧州の強豪国の代表チームだからといって常に強いわけではない。アジア勢の中からも4年後に強い代表チームが出てくることは、あり得るのだ。アジア勢が自陣営に籠って守るだけの退屈な試合をしていたわけではないし、惜しいシュートは幾つもあったのだから、アジアは卑屈になる必要はない。
それに、W杯を頂点に位置づけ、アジアでのサッカー人気が高まったことでFIFAをはじめ世界のサッカーマーケットを牛耳っている連中は大儲けしているはず。W杯へのアジアからの“関門”を狭めて、アジアのサッカー熱を冷すような決定は、FIFAなどが自分らの“儲け”をみすみす削るようなものだ。
とはいえ、日本代表チームが1次リーグで1勝もできずに敗退したことは現実で残念だ。敗因は、戦術か戦略かチーム構成か、選手の体力か技術か気力か経験か……いくつもの敗因が絡み合っているのだろうから、専門家が冷静に分析することが必要だが、素人から見ても、欧州で活躍する選手は増えているのに、代表チームは欧州や南米勢など強豪国との対戦数が少ないことは確かだ。
欧州や南米の選手は地域選手権を争う代表選に加え、クラブリーグでも強い相手と常に試合をしていることで、経験を積み、鍛え上げられるし、それが次世代に伝わっても行く。強い相手との定期的な試合を増やすことが日本代表チームに必要だが、日本周辺のアジアに欧州や南米勢に匹敵する強豪国はない。しかし、太平洋に接する国には豪、米、コスタリカ、メキシコ、ホンジュラス、コロンビア、チリなどと今W杯出場国がある。
こうした太平洋に接する国による年1回のパシフィック・カップを創設し、日本も参加するなら、強豪相手に日本代表チームは経験を積むことができる。大西洋カップがないからFIFA公認のカップ戦にすることは難しいかもしれないが、それなら日本主導で発足させればいい。太平洋に接する全ての国を招くことは費用の面などから難しいだろうから、当面は日本、米、豪、メキシコの4カ国を正式メンバーとし、コロンビア、チリなど太平洋に接する国の中から数カ国をゲストに招いてもいい。
パシフィック・カップが始まったとしても日本代表チームは最下位が続くかもしれないが、“格上”の相手と闘う経験を積むことで鍛え上げられ、また、学ぶことも多いはずだ。さらに、中南米の選手の“スカウトの場”ともなればJリーグの活性化策にもなり、Jリーグでプレーする代表候補の選手たちにも刺激になろう。
2014年6月28日土曜日
売れる「ハスラー」
軽自動車の「ハスラー」が売れているという。当初の販売目標は月5000台だったが、受注が大幅に増え、増産体制をとったとか。そういえば、街中で見かけることも多くなった気がする。軽のクロスオーバーSUVとしては唯一の存在ともいえ、まさにニッチを狙って、当てた商品だ。
テレビCMではアウトドアレジャーのツールを並べ、海へ山へ、夏も冬も出掛けて遊ぶことを強調し、そのための移動の道具として、ハスラーがいい、ハスラーを使うと、アウトドアでの遊びの世界が広がるということをアピールしている。スノボもキャンプも釣りもやらなくても、ハスラーがあると楽しそうだなということはテレビCMから伝わる。
室内の広さとか最低地上高とか悪路での走破性といったハスラーという車そのものについての情報は、このCMからは伝わってこないが、ハスラーがアウトドアの遊びに便利な“道具”らしいということは、きちんと伝わる。その車を所有し、使うことで、生活がどう楽しくなるかを視聴者にイメージさせるのだから、優れたCMといえよう。
同じ車のCMでも、何を伝えようとしているのか迷走しているのが最近のトヨタだ。車離れの風潮に悩みすぎたのか、「クリエイター」連中がトヨタの車を題材に趣向を凝らし、一風変わったポイントでアピールしようとしていることは分かるものの、見せられた側は「で、何が言いたいの?」。何も残らない印象だ。
性能や装備などの情報がないことはハスラーのCMと同じだが、大きな違いは、トヨタのCMには、その新車を買うと、どんな生活が開けてくるのかという提案、アピールがないことだ。ただ、「クリエイター」連中の「どう? おもしろいでしょう? センスがしゃれてるでしょう?」といった気取りだけは見えてくる印象。
そんなCMを大金を費やしてテレビで流して、トヨタは何を狙っているのか。車離れした若者がそんなCMを見て、車って楽しそうだな、車があれば便利だから買おうと思う……はずもないだろう。“しゃれた”CMが話題になれば車にも興味を持ってもらえると期待しているのか。でも、数百円の商品なら、CMを気に入った消費者が試し買いすることもあろうが、車で試し買いは無理だろう。
トヨタのCMは、トヨタの車造りが行き詰まっていることの反映なのかもしれない。壊れないけど、突出した性能も個性もないから、車としてのアピールポイントがないので、CMでは“しゃれた”イメージを垂れ流す。が、消費者はそんなCMを見ても、トヨタ車を買う「必然性」は何も感じない。CMがあってもなくても、販売力で売れるのが実態だとすると、トヨタのCMはメディアに対する“批判封じ”の意味しか残らない。トヨタのCMはいつ、消費者に向き合うのだろうか。
2014年6月25日水曜日
伯剌西爾で世界杯
蹴球の世界杯争奪の大会が伯剌西爾で開催されている……「蹴球」は今でも高校などの部活動では健在だから判別できる人が多いだろうし、「世界杯」も字面から類推できるだろう。だが「伯剌西爾」となると、ほとんどの人は理解不能だろう。伯剌西爾はブラジルの漢字表記。「伯」と簡略表記されることもある。
国名をわざわざ漢字表記したのは、明治時代のころまで、西洋などの固有名詞さえ漢字で表記するという中国の表記法にならったため。その昔、日本には主に中国経由で情報が入ってきた。中国は表音文字を持たなかったため、すべて漢字に置き換えて表記せざるを得なかったのだが、そうした中国語の制約に日本人は気付かず、漢字に置き換えることが、情報の受け止め方であると理解していた。
これは明治時代になって、西洋から直接、多くの情報が入ってくるようになってからも続いた。民間はもとより、「歴史書を含めて、直接役に立つわけではない本を、太政官・元老院・左院等の権力体がみずからのイニシアティブによって翻訳している」(『翻訳と日本の近代』丸山昌男・加藤周一)ように、西洋の書物を大量に日本語に移し替えた。
その時に外国の人名、地名、国名なども当初は漢字表記していた。米(亜米利加)、英(英吉利)、仏(仏蘭西)、伊(伊太利)、独(独逸)、露(露西亜)など現在でも使われている。ただし、こうした日本の漢字表記は現在の中国語の表記とは異なるものが多い。日本語の発音と中国語の発音が異なるので、西洋語の音に漢字を当てはめるときに使う漢字が違ってくる。
明治の翻訳者たちは、抽象語の訳しかたで苦心・工夫したという(前掲書)。法律や政治、歴史、哲学、経済、技術など各分野で、日本語にはない新しい概念を中国語の漢字を引っ張り出して当てはめたり、日本語にも中国語にもない新しい概念は翻訳者が造語したりした。中国語の漢字を使った場合でも、中国語の本来の意味とは全く異なる新しい概念を表すようにしたケースもある。
そうした翻訳書を、当時の日本に留学していた中国人たちが読み、西洋の新しい概念を表す漢字表記を中国に持ち帰った。漢字というと、中国から日本が一方的に受け入れたという印象があるが、明治時代以降は中国が近代化(西洋化)のため、日本で西洋語から翻訳され、造語された漢字を受け入れた。社会主義、共産主義関係の用語の多くがそうだという。
さて世界杯だが、決勝トーナメント進出国が次々に決まっている。伯剌西爾、智利、哥倫比亜、宇柳具、和蘭、希臘、墨西哥、哥斯達利加など。亜細亜勢は不振で、まだ1勝もあげられず、全滅の気配。一方で、前回大会優勝の西班牙や英吉利の1次リーグ敗退が決まるなど波乱も起きた。出場する選手は入れ替わっているのだから、強豪国の国名だけでは通用しないところが面白い。
2014年6月21日土曜日
紫外線が強い
例えば、戦後の小津安二郎監督の映画などで会社勤め人を演じる笠智衆らは、背広姿で外出する際に帽子をかぶっていた。だが今では、背広姿のサラリーマンが帽子をかぶっている姿は珍しい。都市化が進み、地表はアスファルトで覆われ、クーラーを使用する車や建物から熱が吐き出されているので、帽子をかぶると余計に暑苦しくなったからでもあるだろうが、帽子には紫外線の直射から頭部を守る効果がある。
太陽光に含まれる紫外線が、年間で最も降り注ぐのは6〜8月だという。紫外線の強さは時刻や季節、天候などにより変化するが、一般に、太陽が高くなるほど強い紫外線が地表に届き、正午ごろが最も強くなる。薄曇りでも紫外線の80%以上が通過するというから、夏場の外出時には、肌の露出を抑え、帽子をかぶるなどの紫外線対策が欠かせない。
気象庁の観測によると、紫外線は、北から南へ行くにしたがって多くなり、年間の紫外線量は、沖縄では北海道の2倍になる。紫外線は波長の長さにより、UV−A、UV−B、UV−Cに分けられ、UV−Cはオゾン層などで吸収されるが、UV−AとUV−Bは地表に届く。紫外線の9割以上を占めるUV−Aも肌に影響を与えるが、 日焼けを起こしたり、皮膚がんの原因になったりするのがUV−B。
日傘を差していても油断は禁物。UV−Bは大気中での散乱が大きく、屋外では、太陽から直接届く紫外線量とほぼ同じ量になるといい、地面や水面、コンクリートなどで反射もするので、紫外線に曝されることを防ぐことはできない。また、標高が高くなるにつれて紫外線量は増えるので、高原リゾートでは紫外線対策は不可欠。
紫外線によって日焼けするのは誰でも経験することだが、紫外線を浴びた量が多すぎると肌がダメージを負い、シミの原因になったり、皮膚がんにつながるリスクがあり、眼に対しては角膜炎や白内障などの原因になったりする。ただし、紫外線を浴びることによってビタミンDが生成されるので、暗い部屋に閉じこもっているよりも、適度に日光にあたったほうがいい(おそらく、精神的にも)。
暑くてたまらない時期にも背広を着用せざるを得ない人に、帽子をかぶることを求めるのは酷だろうが、風通しがいい服装で外出する時には帽子をかぶったほうがいいようだ。帽子には様々なタイプがあるが、紫外線対策に有効なのはツバの広いタイプ(ベレー帽などは夏には向かない)。キャップなら真昼でも眩しくはないし、ソフトやサファリタイプなどにもツバが広いものがある。
ツバが広い帽子といえば、麦わら帽子だ。夏休みの子供たちの必需品でもあり、屋外作業にも欠かせない帽子だった。今でも数百円で販売されているが、町中で麦わら帽子をかぶっている子供を見かけることは少なくなった。かわりに、ストローハットという呼び名で、多彩なデザインの帽子が売られている。軽くて涼しそうで紫外線対策にもなるのだから、背広姿にも似合いそうだ。
2014年6月18日水曜日
分裂も選択肢
イラクで急速に勢力を拡大するイスラム過激派組織の略称は、日本のメディアでは「ISIS」と「ISIL」の二通りに分かれる。ISISは「イラク・シリア・イスラム国(Islamic State of Iraq and Syria)」のことで、ISILは「イラク・レバントのイスラム国(Islamic State of Iraq and the Levant)」。
レバントとは「東部地中海沿岸地方の歴史的な名称。厳密な定義はないが、広義にはギリシャ、トルコ、シリア、キプロス、レバノン、イスラエル、エジプトを含む地域。現代ではやや狭く、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル(およびパレスチナ自治区)を含む地域を指すことが多い」(ウィキペディアから)。
イラクとシリアにカリフ(イスラム社会の最高指導者に率いられた)国家を建設することを目指すというISISは、イラクで2006年にISIとして結成、自爆テロ事件などを繰り返し、シリア内戦に参戦して戦闘経験を重ね、最近はイラクのスンニ派地域で活動を活発化させ、制圧地域を広げている。独自の資金源を持ち、国外からの戦士や制圧地の刑務所から解放された囚人らも加わっているという。一方で、ISISが“強く”なりすぎると、過激組織間の離反が想定され、戦闘が複雑化するともいう。
このISISの勢力拡大で最も懸念されているのが、イラクが実質的に分裂することだ。人口の6割を占めるシーア派主導の現在の政府に対して、2割のスンニ派が多く住む地域がISISに制圧され、激しい宗派対立へとエスカレートするようなことになれば、統一国家としてのイラクの国づくりは破綻する。さらに2割のクルドは、油田があるキルクークを確保して、独立色を強める可能性がある。
こんなイラクが分裂することは悪いことなのだろうか。分裂させずに無理に一つの国家にまとめ続けようとすることにこそ、無理があるのではないか。多民族や、宗教・利害を異にする人々が穏やかに共存・共生するのが望ましいのだろうが、現実に殺し合いが続くなら、国家が分裂することも選択肢の一つである。だが、欧米は旧植民地での国家分裂は認めない。
そもそも今のイラクの国境線は、イラクに住む人々が自分で引いたものではない。この地域は歴史的に様々な帝国が入れ替わり支配し、現在はイラク王国として独立した時の国境線を引き継いでいるが、それも当時の英仏の意向を反映したものでしかない。住んでいた人々の意向を尊重したものとは言い難く、現在の形で1国として形成されなければならない必然性は希薄だった。
だが、国境線の引き直しは、旧植民地の境界を引き継いで独立した世界中の国に大きな影響を与える。民族や宗教の分布に関係なく引かれた境界線が多いからだ。イラクでみると、クルドが独立すると、トルコやシリア、イランなどに住むクルドにも影響を与えようし、イラク内のシーア派が独立するとイランとの宗教的一体感が高まろう。ISISの支配地が独立するなら、シリアは解体することになる。
旧植民地の境界が維持されることは、イラクのように石油利権に関与し続けることができるので欧米には好都合だろう。しかし、旧植民地の境界を引き継いだ独立国は、1国としてまとまるべき建国の理念も必然性も示すことはできず、権力を握った人々は、他の民族、他の宗教・宗派などを抑圧することで権力を維持する例が珍しくない。国内で殺し合いが繰り返され続けるのなら、分裂して、それぞれが国づくりを試みるのは現実的な選択肢だ。
2014年6月14日土曜日
革命第1世代
1枚の写真に、もっとも多い人数が写っているのは、何かの記念日に中国・北京の天安門広場に集まった人々を写したものだという。南北880m×東西500mの天安門広場は最大50万人を収容でき、接する長安街を含めると100万人にもなるという。その広い天安門広場に、民主化を求めて中国各地から学生や市民ら10万人が集まったのが1989年6月。
集まった人々は6月4日に人民解放軍により、広場から強制的に“排除”された。その武力鎮圧の時に多数が死傷したことは確かだが、死者数だけをみても、実態はいまなお定かではない。中国共産党の発表では「事件による死者は319人」ということだが、客観的な検証を経た数字ではないし、もっと多いはずという疑いが国際的には定着している。
ただ、どれだけの人々が死んだのかとなると、もう分からないというのが現実だ。数百人から、2000〜3000人、数万人までと推定される死者数は様々。天安門広場では死者は出なかったという見方もあれば、広場から人々を追い出した後に人民解放軍が死体を集めて焼却したとの見方もある。天安門広場の周辺、さらに北京市内で人民解放軍がどんな行動をしていたのかも明らかになっておらず、6月4日の死者数は歴史の闇の中に消えたままだ。
当時の中国共産党で、趙紫陽総書記ら改革派は「愛国的だ」と学生らを評するなど理解を示す態度だったが、李鵬首相ら保守強硬派との対立に敗れ、北京に戒厳令が布告された。だが、大規模な抗議デモが行われるなど中国共産党の“脅し”に屈しない姿勢を学生・市民らは続け、人民解放軍の武力鎮圧へと至った。
同じ中国人(習近平流にいうと、中華民族か)を人民解放軍が虐殺した。たとえ公式発表の319人という数字でさえ、そんな多数の人間が死んではならないことは明らかだ。ただの1人であっても、不当に無法に殺されてはならないのだから。なぜ、中国共産党の保守強硬派は、同じ中国人を殺すことに踏み切ったのか。
よく聞く解説が「革命体制を守るため」というものだ。革命体制とは、中国共産党の1党独裁体制のことである。革命体制は、国共内戦に共産党軍が勝利したことで成立した。しかし、内戦では共産党軍でも多数の人間が死んだ。内戦を経験したいわゆる革命第1、第2世代が、戦争で倒れた同志の死によって革命体制が成立したと思うのも無理からぬ面がある。それらの死は中国版の「英霊」なのかもしれず、英霊の死により革命体制は築かれたと、英霊は現代政治にも影を落とす。
民主化と、中国共産党の1党独裁体制は相容れない。内戦を経験し、同志の死を見てきた革命第1、第2世代の長老の影響力が大きく作用し、1989年に「革命体制を守るためには流血も辞さず」との決定に導かれたとすると、中国における民主化の困難さが推察できる。
革命体制を守るためには同じ中国人であっても殺すというのは、“正しい”革命思想かもしれないが、内戦の経験者は少なくなり、やがて、いなくなる。内戦を経験していない革命第5世代の習近平らは、「英霊との約束」に実感は乏しかろう。そこで、革命体制による既得権益を守るためには同じ中華民族の流血も辞さないと変化してきたように見える。これはこれで、厄介そうだ。
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