2025年12月27日土曜日

美しいと見る

  美しいものを好むのは人間の自然な感情だろう。だが、美しさに万人共通の基準はなく、美醜は個人の主観による。美しいは「①視覚的・聴覚的にきれいで心をうつ、②精神的に価値があって人の心をうつ。心に深い感動をよびおこす。清らかだ、③いつくしみ・いたわりの気持ち、愛情を感ずるありさま、④小さくて愛らしい。かわいらしい、⑤不足なく整っている。申し分がない、⑥心や行動がさっぱりしているありさま」(大辞林)。

 美しいという言葉の適用範囲は広く、対象に対して何らかの肯定的な感情を持った時に使う。人の外見や振る舞いや動作や精神、自然の景色や街並み、動物の外見や仕草、音楽や絵画など芸術作品ほか…人が美しいと感じる対象は幅広い。均整が取れている対象を美しいとすることが多いのだろうが、不調和の美もあり、乱雑な街並みなどに面白さを感じ、「これはこれで美しい」などと言う人もあろう。

 美しさの反対語は醜さだ。対象に対して何らかの否定的な感情を持ったり、嫌悪感を持ったりした時に醜さを意識する。例えば、日本の街並みには電柱が林立していることが多いが、電線地中化を主張する人々の中には、電柱が林立する日本の街並みを「醜い」と断じる人もいる。電線地中化を感情論で肯定し、正当化しようとする試みだが、感情論が先行すると客観的な判断が鈍る(感情論を煽ることで、地中化に伴う経済活動は容易になる?)。

 美醜の判断が感情論に左右されると、美醜をめぐって意見の相違が顕著になる。美しいとする主張にも醜いとする主張にも、それぞれの感情が支えとなり、妥協することは簡単ではない。だが、美しさも醜さも対象に属しているのではなく、見る人の意識の反映である。見る人の評価が美醜を決めるのだが、評価はその人の価値観に基づいて行われる。

 西洋崇拝または西洋コンプレックスを持つ人は、西洋人の容姿に憧れて西洋人の容姿に似ている日本人を美しいと感じ、西洋の文化を高尚なものと持ち上げて、その美しさを強調したりする。西洋崇拝または西洋コンプレックスを笑う人も、自分の価値観に基づいて美醜を判断する。人々の価値観の幅広さは、美しいとする対象の幅広さとなって現れ、美しいとされる対象は膨大だ。

 人によって特定の対象を美しいとするのだが、この世に存在する全てが美しいと見る人もいる。人間は皆美しく、朽ちた花も電柱が林立する街並みも野良猫も嵐の光景も、見るもの全てに美しさを見いだす。全てを美しいとするのは、この世の全てを肯定する価値観に基づく評価だ。全てを肯定することは美醜の評価をしていないことになるが、特定の対象を美しいとするより、見るもの全てを美しいと感じるほうが幸福感は高いだろう。

 臨死体験をした人も、見るもの全てが美しいと感じるかもしれない。そこには自分の生が伸びたことに対する喜びがある。一方、この世に存在する全てが美しいと見る人は、対象に対して肯定的に見るから「美しい」と感じるのだろうが、醜さを感じず、美しさだけを感じることは人生を豊かにするだろう。美醜は人の評価によるが、美しさに対して醜さがいつも対立概念として存在しているわけではない。

2025年12月24日水曜日

使えない兵器

 ロシアのプーチン大統領は2022年、ウクライナ侵攻に関連して核兵器の使用を示唆して西側を威嚇した。24年にプーチン大統領は、首都モスクワへの通常兵器攻撃が行われた場合、核兵器の使用を検討するとし、ミサイルやドローンなどによる大規模なロシア領内への攻撃を察知した場合にも核兵器を使う可能性を検討すると述べた。

 ウクライナはドローンなどによるロシア国内の燃料施設、軍事施設などや船舶に対する攻撃を繰り返し行っており、遠隔地の爆撃機基地に対する攻撃では計41機を破壊するなど大きなダメージを与えている。だが、ロシアは現在まで核兵器をウクライナに対して使っておらず、ドローンやミサイルを含む通常兵器に限定した反撃を行いつつ占領地の拡大を続けている。

 ウクライナのロシア国内に対する攻撃に対してプーチン大統領が、核兵器使用を検討したのか、検討したが使用しないと決めたのか、検討しなかったのか-明らかではない。ロシアがウクライナに対して核兵器を使用しても、米国もNATOも核兵器による反撃は行わないだろう。核兵器による反撃が行われれば第3次世界大戦の始まりになる可能性が高い。

 ロシアが核兵器を使用するとすれば、占領を目指す地域ではなく首都キーフなどだろうが、プーチン大統領は核兵器使用をためらう。その理由を推察すると、①ウクライナの被曝地の悲惨な状況はSNSなどで世界に拡散され、ロシアとプーチン大統領に対する批判が一気に高まる、②核兵器使用でロシアやプーチン大統領は道義的責任を問われる、③核兵器使用によりウクライナが降伏しても、ウクライナを統治する余力がロシアにはない、④ロシアに融和的だったトランプ政権の離反を懸念した-などか。

 1945年に日本は連合国にとって「絶対悪」だったので核兵器使用による大量虐殺は不問にされたが、現在のウクライナは欧米諸国が支援する西側陣営の一部とされ、ウクライナに対する核兵器使用を欧米をはじめとする世界(ロシアとその従属国を除く)は重大視し、ロシアとプーチン大統領の責任を問うだろう。1945年以来、核兵器を保有する国は増えたが、1回も核兵器は使用されていない。現実に、核兵器は使用できない兵器となっていた。

 政権で安全保障政策を担当する官邸筋が「核を持つべきだ」と記者団に述べたと報じられた。日本の核兵器保有は現実的ではないとも言っていたそうで、自己の見解を披露しただけのようだ。非核3原則があるので日本の核武装への道のりは遠いが、政権内から核武装に触れた発言が出てきたことで大きなニュースになった。

 米国に頼らない日本の防衛を考えると、核武装論が出てくる。しかし、核兵器は使えない兵器だ。核兵器の惨禍を知っている日本で、核兵器を持ったとしても日本の指導者が他国に対して核兵器使用を決断できるのかは不明だ。強権統治を行っているプーチン大統領でさえ、核兵器使用をためらう。スターリンや毛沢東など自国内で数百万〜数千万人の死を容認したような独裁者でなければ、使用を命じることができないのが核兵器だ。

2025年12月20日土曜日

ライブ活動は終わりか

 ザ・ローリング・ストーンズが、計画していた2026年の欧州ツアーを取りやめたとの情報がSNSに流れている。キース・リチャーズが長いツアーに出ることを渋っているとか、キース・リチャーズの腱鞘炎or関節炎が悪化して2時間ものライブステージに耐えられないとかの情報が流れ、もうザ・ローリング・ストーンズのライブを見ることはできないとの悲観論が現れている。

 キース・リチャーズもミック・ジャガーも80歳代となり、年齢的にも、これでもうザ・ローリング・ストーンズのライブを見ることができなくなったとのコメントも多い。彼らは2024年に北米ツアーを行い、翌2025年に欧州ツアーを予定していたというが、2025年のツアーは中止になっていた。日本公演は2014年が最後で、来日を望む声も多かったのだが、もう実現しそうにない。

 米国のブルーズやジャズのミュージシャンなら80歳代になってもステージに立つ人はいるのだが、それはクラブなどのステージで、ザ・ローリング・ストーンズのようにスタジアム規模の広いステージで動き回るライブを行うことはない。小さなクラブで、メンバーは椅子に腰掛けていてもいいから、ザ・ローリング・ストーンズのライブをもう一度見たいと多くの人は願うだろうが、ビッグ・ビジネスとなった彼らにはそうした選択肢はないだろう。

 1950年代に米国でR&B・ソウルやロックンロールが大衆音楽の主流になり、60年代になって米国や英国で多くのロックバンドが現れた。そうしたバンドは、聴いている人々を揺り動かす音楽や演奏を提供し、動き回るライブパフォーマンスを始め、バンドメンバーはステージ外でのロックスターとしての野放図な振る舞いなど、新しいスター像を築いた。ロックの大半の歴史に関わってきたザ・ローリング・ストーンズの影響は大きかった。

 日本を含む世界中にザ・ローリング・ストーンズやメンバーの追随者や模倣者があふれた。ビートルズと対照的に彼らは反抗的イメージで当初売られたが、それは当時の堅苦しい社会規範や品行方正であるべきというスター像を揺るがし、自由に音楽を作ってもいいし、自由にライブを行ってもいいし、自由に生きてもいいという見本ともなり、世界の人々の意識に影響を与えた。

 ザ・ローリング・ストーンズの功績の一つに、商業資本に支配されていた音楽業界のビジネスに風穴を開けたことがある。レコード会社の言いなりに動くのではなく、会社をつくって自分たちで音源を企画・制作し、版権なども管理し、プロモやツアーなども自分たちで管理した。日本の芸能界では芸能プロの支配力がいまだに大きいことを考えると、音楽業界や芸能界の「搾取」に抗ってビッグになったザ・ローリング・ストーンズの凄さが見えてくる。

 「 Satisfaction」「Jumpin' Jack Flash」「Brown Sugar」「Start Me Up」「Honky Tonk Women」「Get Off of My Cloud」「Tumbling Dice」「It's Only Rock'N'Roll」「Star Star」「All Down The Line」など、キース・リチャーズのギターリフなどで始まる名曲は多く、おそらくザ・ローリング・ストーンズが活動を停止しても世界の多くのバンドにカバーされていくだろう。

2025年12月17日水曜日

威嚇の作法

  矢継ぎ早とは「次から次と続けて素早く行う様子」だ。記者が矢継ぎ早に質問した-などと使う。中国が日本に対する批判や交流制限・威嚇・嫌がらせを続けていて、中国政府が矢継ぎ早に対日批判・威嚇などを繰り出しているように見えるが、中国に詳しい人によると、習近平氏の意向を慮って政府内の各部局が競い合って各々の対日批判・威嚇などを繰り出しているのだという。

 政府内の各部局が手柄を競っているのか、何もしないことで批判されることを恐れて慌てて対日批判・威嚇などを行っているのか不明だ。だが、矢継ぎ早に見える中国の対日批判・威嚇などは統制のとれた行動ではなく、てんでに習近平に対する忠誠を競った行為なのかもしれない。矢継ぎ早の対日批判・威嚇などは、「射て」の命令があったと判断して各部局が勝手に「矢を放っている」気配だ。

 沖縄南方の太平洋上で中国機が航空自衛隊機に対してレーダー照射を行った。中国機が照射したレーダーはミサイルの照準を合わせるための火器管制用モードだった可能性があり、交戦のきっかけとなる恐れが高かった。火器管制用モードのレーザー照射に対して、米軍なら即座に反撃していただろうとの見方もある。

 このレーザー照射を行った判断は、中国軍のどのレベルで行われたのかは不明だ。中国軍のトップなのか、海軍のトップなのか、艦隊のトップなのか、飛行隊のトップなのか、当該機のパイロットなのか。中国軍の判断であるとすれば、一触即発の交戦の可能性を織り込んだ日本に対する明らかな挑発だ。だが、中国軍が日本に対して交戦を仕掛けるのなら、東シナ海においても大規模な部隊展開を伴わなければ、太平洋に出ていた空母打撃群を孤立させてしまう。

 当該機のパイロットなど中国軍の末端の判断で勝手にやったことなら、中国軍の統率に欠陥があることを示す。鉄砲玉が送り込まれて対立する組の出入りが始まるのはヤクザ映画でよくある設定だが、歴史を振り返ると末端の兵士の「暴走」が戦火を拡大させた例がある。当該機のパイロットが、日本に対して何をしても許されると判断したのか忠誠心からかは不明だが、勝手に火器管制用モードのレーザー照射を行ったのなら、統率の取れていない中国軍の危うさを示す。

 民生部門が勝手な判断で対日攻撃に動くことと、軍事部門が勝手な判断で対日攻撃に動くことの深刻度は異なる。かつての日本の関東軍のように、軍の一部が独自の判断で行動することの代償は大きい。中国軍(人民解放軍)は共産党の軍隊であり、党の指導という文民統制がなされているはずだが、1党独裁→個人独裁となった現在の中国で、軍内部が手柄を競い始めると、末端が暴走する可能性が出てくる。

 1発の銃弾が戦争につながった例は珍しくないのだから、次にミサイル発射を連想させるレーザー照射は許される行為ではない。相手を脅したり怯ませたりするために行う威嚇で、かかってこいと挑発するのは威嚇の作法に反している。殴るぞと威嚇して、殴り合いになってしまっては威嚇の意味はない。統率に緩みがあって実戦経験が乏しい軍隊は危険だ。

2025年12月13日土曜日

実用車へシフト

 欧州で販売されているEVの多くは、走行可能距離の長さを競って大量の電池を搭載し、それが重量増と高価格につながり、結果として中型車〜大型車での展開となっている。高性能の電池を自給できない欧州メーカーより、電池を自給できるコスト面で圧倒的に有利な中国メーカー製EVが市場シェアを徐々に拡大した。

 欧州連合(EU)は安価な中国製EVに対する反補助金調査を実施し、中国政府の国家補助による低価格で市場を歪めているとして相殺関税措置を発動した。だが中国製EVは新たな関税を課されて勢いは弱まったものの競争力を失ってはおらず、プラグインハイブリッド車(PHV)の販売増などもあって中国車の存在感は増している。

 気候変動対策が最優先だとしてEUはEVへのシフトを政治的にメーカーに強制したが、肝心の高性能な電池を自力で大量生産できるメーカーが欧州にはなかった。開発では日本が先行し、現在では日中韓メーカーが世界的な生産主体となっている高性能な電池の供給について慎重に検討せず、EVシフトを強制したEUの理念先行政策の杜撰さの結果が、中国製EVの欧州進出増加だ。

 そのEUが「小型EV」枠を新設すると報じられた。名称は「E Car」で、日本の軽自動車規格を参考にして小型の電気自動車の規格を決めるという。車体の外形寸法やモーター出力などに上限を設定することで過度な競争を抑制し、開発コストを下げて、低価格の欧州製EVを普及させる狙いだ。ただし、中国から輸入されるEVを排除するため、EU内で生産されたEVのみが「E Car」規格に適合する仕組みだという。

 これは突然出てきた話ではなく、昨年7月にステランティス会長とルノー・グループCEOは、安全規制を緩和した小型車カテゴリーの創設を提案し、同9月に欧州委員会の委員長は新たな小型低価格車カテゴリーの開発に取り組む方針を示し、「E-car」との名称も示唆していた。今年6月にはステランティス会長が、欧州では規制による高価格が消費者需要を圧迫しているとし、日本の軽自動車のような小型で安価な車両を開発する必要があると述べ、ルノーCEOは、車体のサイズに応じて異なる規制を導入して小型車に対する負担を軽減することを提案した。

 テスラや中国メーカーに対抗して欧州メーカーがEVで主導権を取るための「E Car」規格だが、中国メーカーはすでに欧州での生産に動き始めており、新規格に合わせて軽自動車EVでも欧州で生産された中国車が増殖する可能性がある。政治的に動くEUだから、その時には中国車を排除するため新たな規制を考案するかもしれない。

 大きく重いEVは「環境に優しい」とはいえない存在だ。大きく重いEVは通勤や買い物など日常使いに向いていないことは明らかで、軽自動車並みの「E Car」が誕生するなら、EUでも社会全体で見ると環境負荷を減らすことができるだろう。欧州メーカーの車はモデルチェンジのたびに大型化し、かつての米国車のフルサイズ並みに肥大した。日本の軽自動車を参考に、実用車のあり方を再考する機会に「E Car」規格はなろう。

2025年12月10日水曜日

推しとミーハー

 複数の男性が歌い踊るアイドルグループが増殖していて、大半が女性だろうファンには、それぞれに「推し」がいるのだという。「推し」とは自分が好む特定のメンバーのことだが、「推し」を応援するために、グッズを大量に買ったり、各地でのコンサートに出向いたりする。「推し」が属するグループを応援することも「推す」活動になるという。

 複数の男性にグループを組ませることで確実にファンの数は増える。1人のタレントを売り込むより、複数の男性によるグループのほうがメンバー各自にファンがついて売り込みやすいだろう。旧ジャニーズ事務所の男性アイドルグループのように、グループとしての人気が確立し、メンバーにそれぞれファンがついてから、メンバーのソロ活動を増やせば、タレント事務所の商売の幅は広がる。

 メンバーが自発的に集まって組んだグループではなく、芸能プロが組ませたグループだから、メンバーのソロ活動(切り売り)が活発化すれば、グループは活動休止になる。芸能プロがつくり上げたグループだから、メンバーにも音楽活動を続ける意欲は薄く、そもそも自分たちで曲を作ったりもしない(できない)のだから、グループとしての音楽活動は休止する。

 熱心なファンがアイドル歌手のポスターや写真などを集めたり、各地のコンサートに集まるなどの行為は以前から行われていた。「推し」は珍しくない行為だといえるが、昨今はアイドルグループのコンサート会場にはグッズ販売場が併設され、グッズ販売が大規模ビジネス化している。熱心なファンによる「推し」活動は芸能プロなどにとっては直接の収益源となった。

 「推し」という言葉が広まったのは、AKB48のファンからだという。大勢いるメンバーの誰かを好きになったファンが「自分の推しは@@だ」などと言い、それが広まったとされる。複数の女性によるグループや複数の男性によるグループが増殖して、グループのそれぞれのメンバーにファンがついて「推し」が広がったようだ。

 とはいえ、ファンは移り気だ。次から次とアイドルグループが増殖し、大好きだったメンバーよりも新たな「推し」を見いだし、そっちに夢中になったりする。「推し」はファンによる自発的な行為なので、誰を推そうとファンの勝手だ。かつてミーハーと呼ばれた人は「流行に左右されて話題のモノや人にすぐに飛びつく」などと軽薄だと見られたが、「推し」もミーハーも流行に乗ることでは同類だ。

 ミーハーより「推し」活動を行うファンのほうが対象に対する忠誠心が強いようにも見受けられるが、好きだという感情が強く働いている時には、好きだという対象に対する忠誠心が強くなるものだ。だから、もっと好きな対象が現れると忠誠心は移っていく。「推し」もミーハーもアイドルやタレントに対する疑似恋愛なんだから、次から次と好きになる対象を増やすこともできよう。直接会ったこともなく話したことがない対象でも、好きな人が多いことは人生を豊かにするだろうから、「推し」にもミーハーにも効用はある。

2025年12月6日土曜日

救済はない

 ユダヤ人は人種的にはセム族とされるが、セム族にはユダヤ人以外にアラブ人やシリア人、エチオピア人なども含む。パレスチナを追い出され、世界に散らばった2000年以上のディアスポラ(離散)の間に混血も進み、現在もユダヤ人は世界各地に居住しているので、ユダヤ人の定義は「ユダヤ教を信仰する人々」とされ、人種や民族だとは見なされていない。

 ホロコーストは1942〜1945年にナチス・ドイツが行った組織的かつ計画的なユダヤ人大量殺戮のことで、各地の強制収容所での毒ガスによる大量殺戮や各地での大量射殺などで約600万人のユダヤ人が犠牲となった。ユダヤ人だけが殺されたのではなく、ほかにロマ(ジプシー)が約50万人、精神障害者(ドイツ人も含む)が約7万人殺されたという。

 ユダヤ人を人種と定義したのがナチス・ドイツだ。ナチス・ドイツはドイツ人を支配人種であるアーリア人であるとして賛美し、ユダヤ人などを非アーリア人として劣等人種であるとした。アーリア人種の純粋さを保つことを重要視する一方、アーリア人であるドイツ人が世界を支配するためには、ユダヤ人を排除・絶滅させる必要があると組織的かつ計画的にユダヤ人の大量殺戮を行った。

 ナチス・ドイツにとらわれたユダヤ人の中にはキリスト教に改宗した人も多かったと言われるが、ユダヤ人を人種と見るナチス・ドイツは改宗したユダヤ人も含めて大量殺戮した。ユダヤ教の唯一神であるヤハウェは、律法を厳格に守るユダヤ人を救済するとされる。ナチス・ドイツによる死に直面したユダヤ人は彼らの神に救いを求めて祈っただろうが、死を免れることはできなかった。約600万人の中に死後に救済される人がどれだけいるのかは、まさに神のみぞ知る。

 イスラム教の唯一神はアッラーだ。世界を創造した神であり、人々に信仰に伴う様々な規範を守って暮らすことを要求し、最後の審判の日には人々を裁く神だ。イスラエル軍によって徹底的に破壊されたガザでは約7万人が殺害され、救援物資の搬入が制限されて餓死に面した人々がいて、ジェノサイドが進行していると諸国が批判した。ガザの人々の多くはイスラム教徒だろう。死に直面した多くの人は神に祈ったかもしれないが、ガザにおける大量殺戮を止めることはできなかった。

 ヤハウェもアッラーも裁く神である。裁く対象は信者で、神が示した生き方を忠実に実践するよう人々に求めるので、各自の信仰のありようが判断基準となる(神を信じる信者を裁く神であるから、信者ではない人々に対しては冷酷だ)。仏教には人々を救う諸仏がいるが、唯一の絶対神は人々を救済する神ではない。おそらく現世における人間の生死に神は関心がないから、現世で救いを求める信者に神は何もしない。

 ホロコーストを経験・記憶したユダヤ人はやがてイスラエルを建国し、現世において神に救いを求めても無駄だと悟り、自らを守るのは自らしかないと決意した。ユダヤ教を信仰する人々が建国した国が、周辺に住む人々を無慈悲に殺戮することを続けているのは、現世においてヤハウェもアッラーも姿を現さず、死に直面した人々が唯一神に救済を求めても無駄だと示している。

2025年12月3日水曜日

批判主義

 批判主義は哲学では「①批判的精神によって物事に対応する思想傾向、②人間の認識能力の吟味によって認識を可能にさせる条件・限界などを明らかにし、理性の徹底的な自己認識を媒介にして、さらに諸対象の吟味を貫徹しようとする」とされるが、一般には「自分の意に沿わない物事や意見を否定したり、人を含む対象の短所・欠点などを言い立てる行為」だ。

 批判には根拠がいるが、根拠が主観だけなら、「言わせておけ」と周囲は聞き流す。批判の根拠が抽象的な理念だったりすると、現実は理念とかけ離れていたりするので、いくらでも批判することができるようになる。理想や理念を根拠にすることで、現実のあれこれ(人間を含む)は欠点だらけとなり、好きなように批判できる。

 対象に対して好きなように批判していた人や組織が逆に批判されると、黙ったりすることがある。異論に対する寛容を主張する人が批判に対して不寛容になったり、包摂を説く人が自分に対する批判を包摂することができなかったりする。相互批判は重要なのに、批判するだけで自分は批判されないという歪んだ心情はどのように生じたのか。佐伯啓思氏の著作から引用する(『神なき時代の「終末論」』。適時省略あり)。

 「承認や尊厳を求める闘争、つまり自由を求める闘争というリベラルの思想は、やがては、自由に対する一切の障害を排除し、あらゆる抑圧や不合理からの解放を主張し、いかなる差別的取り扱いにも苦情を申し立てるという一種の狂気じみた自動運動に行き着くであろう。抑圧からの解放は永遠に続く。しかし、この解放の自動運動は多大なエネルギーを必要とする」

 1970年代前後から「家族・学校・共同体・企業等の集団・社会慣習・生活上の規律など、個人の自由に対する制約に対して絶えず批判し続けるという徹底した批判主義が出てきた。それは、社会秩序を構成する既存の制度的枠組みを自由への抑圧として批判した。かくて批判主義はリベラルの鬼子である」

 「確かに批判が有効な局面もあり、そういう時代もあったし、むしろ批判こそが建設的である状況もある。批判そのものが間違っているわけではない。しかし、批判主義は決定的な欺瞞を内包している。批判主義は、その批判を決して自らには向けない。自由や平等や権利といったリベラルの価値そのものへ批判を向けることはない。懐疑の目を向けることもない」

 「批判主義は常に敵を外部に求め、自らのあり方を問おうとしない。自らの批判のみを正義とみなし、批判に対する批判を受け付けなくなる。その結果、批判主義こそがリベラルを裏切る。その理由は、もともとリベラリズムが胚胎した自家撞着にあった。内に潜む矛盾の故に、リべラルな価値がその内部から崩壊していくのである」

 権力は常に批判されることが必要で、権力に関わる人や組織には、批判される勇気が求められる。だが米トランプ政権のように、批判されることを受容できない人や組織はリベラル勢力の批判に対して、おそらく何らかの被害者意識を有し、攻撃的な批判を続ける。批判主義に批判主義で応酬しているだけなので、荒涼とした不毛の議論が続く。

2025年11月29日土曜日

国連憲章

 国際連合憲章は「国連の基本文書で、加盟国の権利や義務を規定するとともに、国連の主要機関や手続きを定めている。また、国際条約としての国連憲章は加盟国の主権平等から国際関係における武力行使の禁止にいたるまで、国際関係の主要原則を成文化している」(国連広報センターHP)。

 国連憲章は1945年6月、連合国50カ国が集まったサンフランシスコ会議で採択され、米・英・仏・ソ連・中国(中華民国)の5大国と署名国の過半数の批准を経て、同年10月に国際連合が発足した。国連憲章の原案は1944年8月〜10月に米・英・ソ連・中国(中華民国)による会議で輪郭が形成されたもので、第二次大戦における連合国の思惑が強く反映している(この5大国は国連で拒否権を有する)。

 国連憲章の敵国条項では、第二次大戦で連合国に敵対していた枢軸国が、侵略行為を行うか、侵略政策を再現した場合、国連安保理の許可がなくとも当該国に軍事制裁を課すことができるとする。敵国は「第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国」とされる。枢軸国の復活に当時の連合国が強い警戒心を持っていたので、こうした条項が組み込まれた。

 敵国条項は、第53条(いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いて、この機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする)と第107条(この憲章のいかなる規定も、第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動で、その行動について責任を有する政府が、この戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない)などだ。

 中華人民共和国の在日本大使館は国連憲章の敵国条項を持ち出し、日本に対して「安保理の許可を要することなく、直接軍事行動を取る権利を有すると規定している」と脅したが、日本外務省は「死文化した規定がいまだ有効であるかのような発信は、国連において既に行われた判断と相いれない」と反論した。

 1995年の国連総会で敵国条項の改正削除が賛成155・反対0で採択され(中華人民共和国も賛成した)、「死文化したとの認識が示された」(外務省HP)。2005年の国連首脳会議の成果文書において「国連憲章上の敵国への言及を削除することへの加盟国の決意が表明されている」(同)。死文化したとはいえ敵国条項が削除されずに残っているので、今回のように中華人民共和国やロシアが外交の道具に使用する。

 国連において中華人民共和国は中華民国の、ロシアはソ連の席をそれぞれ引き継いだ。中華人民共和国の建国は1949年、ソ連崩壊後に現ロシアが誕生したのは1991年なので、両国は国連憲章にも国連形成にも関与していない。第二次大戦後の世界秩序の構築に関与せず、何らの責任も持たない両国が国連憲章を都合よく利用するのは、欧米主導の世界秩序に戦勝国ではない両国がタダ乗りしている様相だ。ロシアのウクライナ侵攻や中華人民共和国の南シナ海における領海拡大が示すように、両国は国連憲章が示す秩序を自国の都合で無視する。

2025年11月26日水曜日

思い込みとクマ

  何かについての思い込みは誰にでもあることだが、その思い込みは正しいこともあれば間違っていることもある。「それ、違うよ」などと他の人から指摘されても、思い込みが強かったり激しかったりすると、ムキになって反論したりする。こうなると、その思い込みは修正されず、逆に強化されたりもする。自説に固執することが自分の尊厳を保つと勘違いすると、「話が通じない人」とみなされよう。

 他の人から指摘されて、思い込みを修正できる人もいる。思い込みの程度が軽かったり、自説に固執しない人は、思い込みを修正でき、場合によっては捨てたりもできる。修正したり捨てたりするには、自分の思い込みを絶対視せず、客観視する姿勢が必要だ。思い込みに過度にとらわれない姿勢があるから、他の人からの指摘に素直に反応することができる。

 東北など日本各地でクマの市街地や集落での出没が相次いでいるが、クマを駆除した自治体に対する「クマを殺すな」「捕獲して山へ戻せ」と抗議する電話などは減っているという。クマの出没事例が連日報じられ、襲われた人が死傷した事例も少なくないことから、抗議電話などをかけていた人々が、クマの凶暴さや恐ろしさをやっと実感し、理解して抗議行動をやめたのだろうと見られている。

 ぬいぐるみなどでクマは人気があるという。ぬいぐるみのクマは親しみやすく愛らしかったりするが、現実のクマには親しみやすさも愛らしさもない。都会の中だけで暮らし、自然の中の野生動物など見たこともない人々が、イメージで野生動物をとらえ、環境保護や野生動物保護は崇高な理念だなどと思い込んだりしていると、現実認識が歪むだろう。

 抗議をやめた人は、以前の抗議が誤りだったと判断したのか、クマ駆除に賛成一辺倒な世間の雰囲気に黙っただけなのか、クマによって死傷する人々のことを知りクマの恐ろしさを実感したのか。野生のクマをむやみに殺すことと、人里に現れて人間に危害を加える可能性が大きいクマを駆除することは別の問題だ。そのことに気づいたから抗議をやめたと思いたいが、「クマちゃん、かわいそう」との思い込みを維持したまま黙っただけの可能性もある。

 「野生のクマは絶対に保護すべきだ」との思い込みは、人間が襲われる事例が相次ぎ、野生のクマと人間は共生できず、棲み分けるしかないという現実によって否定された。「クマは危険生物だ」という事実を認識していれば、「クマを殺すな」などという思い込みは生まれなかっただろう。情報不足や思慮の浅さなどが思い込みを生じさせるとともに、思い込みの自力での修正を困難にしている。

 思い込みは自分の判断が正しいと過信するところから生まれる。自分の思い込みが間違っていたと気がつく経験を重ねることで、自分の思い込みを絶対視せず、客観視できるようになる人もいるだろう。客観視するには、正誤や善悪の基準が複数あると心得て、新たな情報や見解を吟味することを軽視しないオープンな心構えが必要だ。

2025年11月22日土曜日

厄払い

 歌舞伎の「三人吉三巴白浪」で、お嬢吉三の「月も朧に白魚の〜」で始まる名セリフの途中、「〜思いがけなく手に入る百両」の後に、舞台裏から「御(おん)厄 払いましょう 厄払い」との門付けの声が聞こえ、ちと思い入れあって、お嬢吉三は「ほんに今夜は節分か〜」と続ける。

 厄払いの門付けは節分のほか、年の暮れに厄を払うために訪れると研究者。草葉達也氏によると「大阪では昭和の初めごろまでは厄払いという商売があった。年末の年越しの時に門付けが戸口に立って、なにがしかの物を受け取る形式の祝い芸」で、「あぁ~ら、めでたや、めでたやな。鶴は千年、亀は万年、浦島太郎は三千歳、東方朔は九千歳、三浦の大介百六つ。かかる、めでたき折からに、いかなる悪魔が来よぉとも、この厄払いが引っつかみ、西の海へさらり、厄払いまひょ」などと、めでたい言葉を並べた唄を唄った。来られた家のほうは嫌がらず、歓迎して心づけを渡したという。

 厄とは「災い・災難、苦しみ」だ(厄は厄年の意でも使われる)。「災い・災難、苦しみ」はそれぞれ一過性のこともあれば、長引いたり度重なることもある。一過性の「災い・災難、苦しみ」は、それをもたらした原因が消え去るにつれて解消されよう。だが、長引いたり度重なる「災い・災難、苦しみ」があり、塞いだ気分が続くような時に、けがれや悪運に取り憑かれていると考え、その状態を厄と説明した。

 めでたい言葉を並べた唄を聞くと厄払いできると人々が思ったのは、厄が当人の気持ちに左右される事柄だと感じていたからだろう。長引いたり度重なる「災い・災難、苦しみ」に直面した人は精神的に圧迫され、不安が増したり悲観的になったりし、そうした不安や悲観的な心情が尾を引くことは珍しくない。そうした気持ちを切り替えるキッカケの一つが厄払い・厄落としだった。

 「災い・災難、苦しみ」は当人の気持ちとは無関係に起きる。昔の人々は「災い・災難、苦しみ」が属人的な事象ととらえ、厄を考えだした。厄が存在するから厄払い・厄落としも存在できる。厄がないと考えるなら厄払い・厄落としは迷信の一つでしかないが、厄があるとして厄払い・厄落としで気持ちを切り替えることができたなら、憂鬱な毎日に区切りをつける便利な方便だ。

 厄に遭うとされるのが厄年だ。陰陽道に基づく迷信だが、現在も広く信仰(?)されている。厄年は人生の段階の一つとして受容される一方、厄除けを「客寄せ」に掲げる社寺は多く、厄年の周知に励み、お祓いをすることで厄を操作できるとし、厄年を過剰に意識する人々を呼び寄せる。厄は「あると思えば、ある。ないと思えば、ない」ものなのだろうが、気が弱くなっていると厄の存在を意識するのかな。

 ※厄落とし・厄払いは「①厄年にあたる人が厄難を逃れるための、まじない。社寺に参詣したり、神仏に祈ったりして災いを取り除いてもらう。招宴を張ったり、金や餅を巻くなどの風習がある、②門付け。節分や大晦日の夜、市中を回り、戸毎に厄払いの祝言などを唱えて銭をもらうもの。③つらねの一種。世話狂言で用いられる美文調で掛詞の多い、節よく言い回す台詞」(大辞林)。

2025年11月19日水曜日

事実と編集

 英BBCは24年10月に放送したドキュメンタリー番組「パノラマ」で編集上のミスがあったと認め、11月13日、米トランプ大統領への謝罪を表明した。トランプ氏側は14日までにBBCが番組内容を撤回し、謝罪しない限り、10億ドルの損害賠償を要求すると警告していた。ただBBCは、名誉毀損に該当するとのトランプ氏側の主張は否定し、賠償要求は拒否する姿勢だ。

 番組は21年1月6日の米連邦議会襲撃事件を扱ったものだ。トランプ氏が演説で「我々は議事堂まで歩いて行く。私も共に行く。そして我々は戦う。死ぬ気で戦う」と発言したように編集されていたが、実際には「我々は議事堂まで歩いて行き、勇敢な上下両院の議員たちを応援する」との発言から54分後に、「死ぬ気で戦う」と発言していた。

 「我々は戦う」に続けて「死ぬ気で戦う」と述べたのではなかったのだから、何らかの意図をもって2つの発言をBBCはつないだ。編集上のミスではなく、トランプ氏の意図は米連邦議会の襲撃だと解釈して視聴者にわかりやすく編集したのだろう。この編集が不正確だとトランプ氏側が主張するのは、米連邦議会襲撃にトランプ氏は一切責任がないとするからだ。

 トランプ氏の演説が支持者らを煽ったことは確かだろう。トランプ氏の演説が終わった後、支持者らは米連邦議会に向けて動き始めて襲撃に至ったのだから、状況証拠的にはトランプ氏が煽動したことは明らかだ。だが、トランプ氏の演説により支持者らが暴徒化して米連邦議会を襲撃したと断定するのは簡単ではなく、トランプ氏が法的責任を免れている状況では、トランプ氏の責任追及には限界がある。

 BBCは、「パノラマ(Panorama)」は長い歴史を誇る看板ドキュメンタリーシリーズで、世界各地の知られざる事象に鋭く切り込むスタイルで制作される-とする。ドキュメンタリーとは「実際にあった事件や実在する人物などの記録を中心として、虚構を加えずに構成された作品」だから、事実を歪める編集は許されない。とはいえ、ドキュメンタリーの製作者は何かのテーマに対する問題意識を持って、事実を組み合わせて作品を構成するのであるから、作品には製作者の主観がにじむ。

 ドキュメンタリー番組で、当事者の発言を編集して再構築することは珍しくない手法だ。番組のテーマに合わせて編集して再構築するのは製作者であり、そこではテーマを浮かび上がらせることが優先される。事実を歪めたり隠蔽することは論外だが、どういう事実を使い、どういう事実を使わないかは製作者の判断次第だ。トランプ氏の長い演説なら、切り取り方次第でトランプ氏の人間像を様々に描き出すことができよう。

 SNSのコメントには事実を伝えるものと解釈・意見を伝えるものがあり、おそらく解釈・意見を伝えるコメントが圧倒的に多い。事実を伝える情報と解釈・意見を伝える情報を混同すると、歪んだ現状認識にとらわれる。これはテレビや新聞などマスメディアの伝える情報でも同様で、事実を伝えるというニュースや記事にも編集サイドの解釈が紛れ込んでいることがある。BBCのドキュメンタリー番組で描かれた人物像は、事実か製作者の解釈か。

2025年11月15日土曜日

人民を冠する

  CNNによると、中国のコーヒーチェーン「人民珈琲館」は大半の店舗を、中国共産党を想起させる赤で装飾し、店頭に星を配置したりして、人民のためのコーヒーチェンであるとのイメージで訴求していた。だが、中国共産党の機関紙「人民日報」に、人民という言葉を使うのは不適切だと批判されて、コーヒーチェーンは謝罪し、名称変更すると発表した。

 人民日報は「マーケティングは創造的であってよいが、一線を越えてはならない」とし、人民という言葉は「公的性格と深い政治的含意を持つ。特定の社会的情緒と公共の利益を体現するものだ」と指摘、人民という言葉を「冒涜してはならず、誤用も許されない」とした。つまり、民間が人民という言葉を使うのはダメだと批判した。

 人民珈琲館の客層についての情報はCNNにはなく、党員の利用が多かったのか、非党員も多く利用していたのか、どのような人たちが利用していたのかは不明だ。人民という店名から、共産主義を信奉する同志が集う場と連想したくなるが、時代は大きく変わった。愛国意識を持つ人々が増えているから、国家色を演出し、熾烈なコーヒーチェーン間の競争を勝ち抜こうとしたのだろう。

 人民という言葉に目をつけたのは、資本主義的な発想だ。商標登録がなされていなかっただろう人民という言葉を「これ、ウケるんじゃないか」と採用した。商売に利用できるものは何でも利用するのは当然で、話題になって客が集まりそうな店舗にしつらえて客を呼ぶ。おそらく、このコーヒーチェーンは中国共産党の高官とつながりを持たなかったから人民日報に批判された(ただし、中国共産党の高官とつながりを持つと権力争いに巻き込まれる危険性がある)。

 人民という言葉は公的な言葉だと人民日報は主張したが、人民は和製漢語だとも言われる。明治時代に日本人が英語のpeopleを「人民」と訳し、それが中国に持ち込まれたという。中国で人民という言葉は古くから使われていたが、それは一般的な人々を指すもので政治的な見方は含まれていなかった。専制君主や貴族など特権階級に属さない人々を意味するpeople=人民という言葉の使用は日本由来だろう。

 人民という言葉は共産党や国家だけが使うことができ、民間は勝手に使うことはできない中国で、人民は支配する対象であり、自由に議論し、自由に行動し、時には特権階級を批判するような人々を人民とみなすことは許されない。共産党の独裁体制に従順に従う人々のみが人民であって、珈琲店で政治体制を議論するような人々が出現することは許されない。

 人民珈琲店が存続して、革命を含む社会変革を担うのは「我々人民だ」などという意識を持つ人々が集まるようになることは、絶対に防がなくてはならないのが現在の中国の体制だ。中国共産党だけが君臨し、人民は従順な羊の群れであればよいのであるから、政治的な意識を人々が持つことも制限しなければならないだろう。かくて人民珈琲店や人民酒場、人民映画館、人民飯店、人民コンビニなど人民を勝手に冠することは許されない。

2025年11月12日水曜日

号外は宣材

 米大リーグのドジャースがワールドシリーズを連覇したあと、日本では一般紙やスポーツ紙が号外を発行した。所属する大谷翔平選手と山本由伸投手、佐々木朗希投手の活躍もあって日本でも関心が高く、ドジャースを応援していた人も多かっただろうから、号外を発行して人々に一刻も早く知らせるべきだと新聞社は判断したようだ。

 一般紙の多くは朝刊と夕刊を発行し、スポーツ紙の多くは朝刊のみだ。特別に一刻も早く人々に知らせるべき大きな出来事が起きた場合に号外が発行される。だが、米大リーグのワールドシリーズの結果は一般紙にとって、特別に一刻も早く日本の人々に知らせるべき出来事なのだろうか。人々の関心が高かったとはいえ、多くの人にとっては、帰宅して夜のニュースで結果を知ればいい程度のニュースだろう。

 米大リーグのワールドシリーズに強い関心を持つ人はスマホで試合経過をチェックしていただろうから、号外を見ずとも試合結果を知っていた。今回の一般紙の号外発行は、大リーグにさほどの関心を持たないが、ニュースで伝えられる大谷選手らの活躍を喜ぶ程度のファンの人々に向けて、新聞社の存在を周知する活動だったのかも知れない。

 大リーグでの日本人選手の活躍は細かくニュースとして伝えられ、イチローが現役のころは、1本のヒットを打ったことがテレビなどで熱心に報じられた。おそらく米国で活躍する日本人を喜び、誇りに感じて歓迎する雰囲気が日本社会に充満しているから、大リーグでプレーする日本人選手の活躍をテレビや新聞は細かく伝える。そこには、米国で認められることを特別視する感覚がある。

 号外発行が示すのは、新聞社のニュースバリュー(価値)判断の現在地だ。ワールドシリーズの結果速報が本当に号外発行に値すると判断したのではないだろう。今回の号外発行は、社会的に重大な出来事を人々に知らせるためというよりも、「皆さんが関心を持つニュースを新聞は逃さず、報道していますよ」とのアピールだった。号外を手に取らせ、新聞という存在を人々に意識させるための行動だ。

 内外のニュースが大量に常時流れ続け、それを人々がキャッチしているネット時代に、号外の役目は終わった。新聞社は自社サイトでニュースを常時配信しているのだから、印刷物としての号外を発行する意味は薄れた。それでも号外を発行するのは、号外の性質が変化し、ニュース速報のためではなく、新聞という媒体を宣伝するための宣材として効果があると判断したからだ。

 マスメディアは読者・視聴者に媚びるものだと喝破した人がいた。新聞離れが指摘されて久しく、新聞を読む体験が乏しい人が増えているともいわれる。ニュースを知るにはスマホがあればいいという人々に、号外は新聞の存在感を示す。号外を人々が争って受け取るには、人々が関心を持つニュースで号外を作ればいいと新聞社は、ドジャースの連覇を利用して号外を発行した。ニュースバリューが商業主義によって歪められるのは珍しいことではない。 

2025年11月7日金曜日

唯一神信仰と日本

 9月の訪⽇外客数は326万6800人、1〜9月累計では3165万500人となり、過去最速で3000 万人を突破したと日本政府観光局(JNTO)は推計する。9月の300万人超えは初めてとされ、その要因は「継続的な訪⽇旅⾏の人気の高まり等もあり、東アジアでは中国、台湾、東南アジアではインドネシア、インド、欧米豪では米国、ドイツを中心に訪⽇外客数が増加した」とJNTO。

 円安もあって日本が格安の旅行先になり、初めて日本を訪れた各国の人々は、母国とは異なる社会・文化・風景・風土などを見たり感じたり発見しただろう。それらが母国とは異なるからと批判的にならず、受け入れたから旅行先としての日本が評価されている。世界には自国と異なる社会・文化・歴史などを有する国があり、自国とは異なる社会・文化・歴史などに新たな魅力があることを理解するには外国旅行が役にたつ。

 欧米はキリスト教の強い影響下に社会・文化を形成し、アラブ地域や中東などはイスラム教の強い影響下に社会・文化を形成した。どちらも唯一の絶対神を信仰する。アジアにもイスラム教の強い影響下に社会・文化を形成した諸国があり、インドはヒンズー教の強い影響下に社会・文化を形成したが、東アジア諸国には仏教の強い影響下に社会・文化を形成した国が多い。

 仏教圏から日本を訪れた人々は、寺が多い日本には親近感を感じ、日本の社会・文化などに違和感を感じることは少ないだろう。だが、唯一の絶対神を信仰するキリスト教やイスラム教の社会的影響が強い諸国から日本を訪れた人は、近代化された日本で垣間見える唯一神信仰とは異なる文化を経験する。そこで感じるのは、違和感か解放感か。

 どちらを感じるかは個人によって異なる。唯一神信仰を絶対とする人なら違和感を感じるだろうし、社会的な影響力が強い宗教を抑圧と感じていた人なら、宗教色が薄い日本で開放感を感じるだろう。また、唯一神信仰がなくても、人は生きることができるし、機能する社会や国家を構築することができることを日本で実際に見て、世界を創造したという唯一神に対する信仰について考え始める人もいるかもしれない。

 アニメなどの日本発の文化を好む人が世界で増えていると言われ、日本に来なくても日本文化を見て、体験する人が世界に増えている。唯一神信仰が基調の社会で日本文化が広がりを見せているのは、それぞれの社会における宗教の影響力の減退(宗教離れ)と関係するとすれば、宗教の社会的影響力が弱い日本社会は、唯一神信仰に基づいて形成された諸国の社会の将来像かもしれない。

 宗教には様々な禁忌(タブー)がつきものだ。宗教の影響が強い社会では宗教による禁忌が制度化され、それに従うことを人々は強制される。そうした禁忌の存在は信仰に距離を置く人には負担となる。唯一神信仰の束縛から自由に生きることができる日本社会は、宗教由来の規範ではなく、人々が歴史的に培ってきた規範で動く社会であり、脱宗教へと向かうかもしれない世界のモデルケースとなる。

2025年11月5日水曜日

米国流の帝国

 「支配を続けてやるから、カネを出せ」と米国に言われて、EUは6000億ドル、日本は5500億ドル、韓国は3500億ドルの対米投資をそれぞれ約束した。一方的な関税引き上げなど米国の強硬姿勢に抵抗できず、米国市場からの撤退は選択肢になかったので、各国の米国懐柔策は大盤振る舞いを約束することだった。

 EUと日本、韓国に共通するのは①安全保障を米国に頼っている、②経済規模が大きい、③対米黒字を計上している-ことだ。米国は世界各国に基地を置いて米兵を駐留させているが、EU諸国と日本、韓国には米軍基地が多く、日本やドイツ、韓国、イタリア、イギリスは米軍基地数のトップ5となる。

 米軍に安全保障を頼るということは、各国の独自の戦力が少なくて済むということだが、それは、各国の独自の戦力強化を米国が制約していることも意味する。そうした米軍の世界展開は米国にとって負担であろうが、同時に米国の各国に対する影響力を確保し、米国の世界的な影響力を維持するために必要なことだった。

 かつて米国は民主主義や自由、人権などを重視する外交姿勢で、そうした理念を掲げる国として世界に影響力を保っていると見られていたが、実態は世界各国に展開する米軍によって各国の「自立」を制約し、従わせていた。ロシアや中国など権威主義国家の台頭を「帝国の復活」と解釈する論があるが、米国こそ世界的な米軍の配置と圧力により帝国として第二次大戦後、君臨していた。

 帝国とは「多数の民族と異なる文明を内包する広大な土地を支配する国家」「広大な領土に複数の民族や文化を内包し、それらを超越する中央政府を持つ統治体制」などとされる。帝国の支配を支えるのは軍事力だ。かつての諸帝国は強力な軍事力で領土を広げたが、現在のアメリカは領土を広げず、世界各国に基地を置く。米国は帝国内に各国を取り込んで支配するのではなく、各国の「独立」を容認し、各国の文化などの独自性も容認するが、各国に米軍を駐留させ、安全保障については米国に頼る仕組みにさせている。

 安全保障を米国に頼らせ、米国市場を開放することで経済的にも米国に依存させることで米国流の帝国は存在する。民族自決などにより独立国に世界が分割された状況で米国流の帝国はうまく機能した(現在は帝国内に異民族を抱え込む時代ではない。中国がウイグルやチベットなどを強権で押さえ込むのは、過去の帝国の概念にとらわれているからだ)。米国流の帝国支配によって米国は世界的な影響力を保つことができているのだが、米国への富の還元システムが米国が推進したグローバリズムで機能しなくなってきて、国内の人々の不満が高まった。

 なりふり構わず米国はその帝国内の諸国からカネをむしり始めた。もちろん、米国から諸国が離反することは許さず、諸国の安全保障を米国は「保障」する=支配は続けるとの枠組みは崩さない。米国流の帝国の世界支配が終わるのは、ドイツがロシアと手を組み、日本が中国と手を組んだ時だろう。その時、米国の優位は一気に崩れるが、同時に世界は一気に不安定化する。

2025年11月1日土曜日

感情を刺激する

 地位や階級や年齢などが自分より上の人物の判断・主張・指示に、いつも黙って従っているだけの部下は召使いである。上位にいる人物が常に的確な判断・主張・指示を行うなら、その会社や集団などが誤った方向に進む可能性は低いだろう。だが、人間は神ではないので、見当違いの判断をしたり、偏った主張や誤った指示を行うことがある。

 そんな時に部下が、自分より上の人物の判断・主張・指示の誤りを指摘するには、慎重に言葉を選びながら説得しなければならないだろうし、相手のプライドや機嫌を損ねる可能性があるので勇気がいる。使命感が乏しい部下ならば、自分より上の人物の判断・主張・指示が誤っていたとしても、「仕方がない」と黙って従うだけかもしれない。

 例えば、プーチン氏や習近平氏や金正恩氏に諫言できる部下が存在するのかは不明だ。包容力の大きい人物だとのイメージは3人とも乏しく、利益や思想・信条を共有する側近以外の部下が直言することは簡単ではないだろう(そうした部下が現れたなら、直言が受け入れられれば自分らの立場を脅かされかねないと側近が、真っ先に排除に動くか)。

 判断・主張・指示の明白な誤りなら、言葉を選んで丁寧に説得できる可能性はあるかもしれないが、自分より上の人物の判断・主張・指示に異論を唱えたり、批判することは、相手と対等に議論する構図となり、自分より上の人物の感情を刺激する。感情を刺激された人が、冷静に相手の主張を判断することは簡単ではない。感情を刺激されたプーチン氏や習近平氏や金正恩氏ら独裁者は危険な存在と化す。

 加藤周一氏によると、「戦場では武士団が武士団に対抗する。その武士団内部に緊張が生じるのは、主従の意見が異なる時である。意見の相違は、戦略についても(家康と本田忠勝)、主家の内紛についても(家康と榊原康政)、政治的判断についても(秀吉と浅野長政、家光と柳生宗矩)現れるだろう。

 その典型的な解決法は『従』の側からの『主』の説得の試みであり、これを『諌』という。『諌』する側には、思慮の深さと同時に勇気がなければならない。誤りを指摘された『主』は従者を死をもって罰するかもしれないからである。

 かくして『諌』の場面は、『主従』の状況判断、価値観、決定の内容における対立であるばかりでなく、しばしば命がけでの全人格的な対決を意味する」(「新井白石の世界」、1978年=『加藤周一セレクション②』平凡社ライブラリー所収。適時省略あり)。

 集団指導体制ならば議論ができるので、諫言は必要ない。会社や集団などで権力を掌握した個人が君臨するから、時には諫言する人が出てくる。諫言が現れるのは、その会社や集団の組織が硬直していることの反映だ。一方で、権力を持ちたいと励むのは人間の自然な感情だろうから、各自が出世を争うことが会社や集団などに活力を与える。権力を掌握した個人に対する批判が許される組織体制を構築することは、簡単ではない。

2025年10月29日水曜日

中国の過剰生産

 資本主義経済で急激かつ深刻な不況が続く経済状態が恐慌だ。企業の倒産・工場閉鎖・操業短縮などが相次いで起きて産業活動が停滞・マヒし、経営者や投資家らの破産、失業者や滞貨の大幅な増大、株価などの暴落、預金者による銀行の取り付け、銀行の閉鎖などで社会的な大混乱が起こる。 

 代表例は、1929年に米国から始まり、全世界に波及した大恐慌だ。ドイツ経済が破綻し、イギリス・フランスの経済も破綻、保護主義が広がり、やがてファシズムの台頭などもあって第二次世界大戦へと至った。2008年の米リーマン・ブラザーズの破綻から始まって世界を同時不況に巻き込んだ金融危機と景気後退は恐慌になるかと不安視されたが、数年後には世界経済は緩やかな回復基調に転じた。

 恐慌になる道筋は--自由競争の結果、企業群の生産が過剰となり、供給が需要をはるかに上回るので在庫が増えるが売れず、操業短縮や工場閉鎖などで失業者が大幅に増えて需要がますます衰え、景気低迷が続くとともに企業の倒産や銀行など金融機関の経営危機が相次いで、深刻な不況が続く。過剰生産は資本主義につきもので、不況は珍しくなく、好不況の景気循環は常にある。

 恐慌が滅多に起こらなくなったのは、国際貿易が活発化し、市場が世界に広がったからだ。例えば、ある国でテレビが生産過剰になって売れなくなったとしても、テレビの需要に対して供給が足りていない他の国に輸出すれば、生産過剰となっていたテレビの新たな市場が確保できる。市場が1国内に限られているより、世界市場を相手にするほうが需給バランスは調整しやすい。

 現在、世界市場があるからと国内における過剰生産を放置しているのが中国だ。共産党は5カ年計画などを制定し、計画経済を維持している格好だが、実際には国営企業や民間企業などの生産は自由に拡大させ、鉄鋼をはじめとして多くの品目で過剰生産となり、国内では様々な分野で過当競争が続き、値下げが繰り返される。最近は太陽光パネル、EVなど自動車、リチウムイオン電池などが中国から世界市場にあふれ出ている。

 中国から世界にあふれ出た生産物は、安さを武器に各国市場を席巻する。中国の過剰な供給力が世界各国の市場の需要を満たすだけなら需給のバランスは保たれようが、競合製品を中国製品が駆逐することも起きる。リチウムイオン電池のように自国で生産できない国なら中国製品は歓迎されようが、EVなど自動車では中国製が売れると自国企業のシェアは縮小する。

 独裁する共産党が経済を管理する中国で過剰生産が続くのは、生産(供給)を最優先する官僚支配が行われているからだ。過剰な投資と過剰生産は経済成長の要因だったので、過剰な投資と生産を適切に管理することができず、中国の過剰生産は今後も続き、世界に中国製品はあふれ出る。中国の過剰生産が世界で恐慌を招く懸念は小さいが、レアアースの輸出規制に見られるように、中国は過剰な供給力で各国市場を占有すると、中国からの供給を政治的な道具とする。グローバル化の恩恵を受けた中国の過剰生産だが、あふれ出る中国製品の激増は世界の問題となった。

2025年10月25日土曜日

貴重な経験

 「いやあ、ひどい目に遭ったよ」と友人。どうしたのか聞くと、「平日に休みが取れて、妻や子供は予定があるというから、一人で海辺をドライブ旅して、見かけた店で昼には海鮮丼を食い、夕方は居酒屋に入って井之頭五郎を気取って、酒抜きで、あれこれ頼んで食ったんだ。ところが1時間もしたら、急に腹の調子がおかしくなって、トイレに2回行ったが、どうもおかしい」。

 続けて「店を出て車に戻ったが、今度は吐き気がしてきた。近くの公園に公衆トイレがあったことを思い出して、車を走らせ、トイレに駆け込んだんだが、そのあとは嘔吐して、しばらくして下痢をしてと、嘔吐と下痢を何回も繰り返して1時間以上もトイレにこもりっきりになった。足に力が入らず、ドアノブにかけた手の力で、やっと立ち上がることができる状態だった」とし、初めてのひどい体験だったと友人。

 医者に行ったのかと聞くと、友人は「嘔吐と下痢を繰り返して、出すものがなくなってからは落ち着いたし、帰宅した頃には異常は感じなくなったから、医者には行かなかった」と言い、「何かの食中毒だろうと思うが、旅先のことだったし、症状がなくなってから行っても医者には判断がつかないだろう。食べたものも吐瀉物や便も持ち帰ってはいないのだから、検査しようがない」。

 食中毒だったとしても、友人の奥さんや子供には何の症状もなかったというので、その日に友人が食べたものに菌やウイルスが潜んでいたのか、数日前に食べたものに菌やウイルスが潜んでいたのかは不明だ。ちなみに潜伏期間は、セレウス菌は30分〜16時間、黄色ブドウ球菌は1〜3時間、サルモネラ属菌は6〜72時間、腸炎ビブリオは8〜24時間、ボツリヌス菌は8〜36時間、ノロウイルスは1〜3日、カンピロバクター属菌は1〜7日、O-157(腸管出血性大腸菌)は数日とされる(秋本病院HP、以下同)。

 いずれの中毒でも嘔吐と下痢を伴う(ボツリヌス菌の中毒では便秘を伴うという)。友人の場合、腹痛は軽微だったというので、主な症状が嘔吐と下痢になるセレウス菌の中毒が考えられるが、セレウス菌は毒素の違いにより嘔吐型と下痢型に分けられるそうだから、嘔吐と下痢を繰り返した友人には当てはまらないか。

 細菌性の食中毒は食中毒の多くを占め、飲食により摂取した細菌が腸管内で増殖することで発症する感染型の原因菌はサルモネラ、カンピロバクター、腸炎ビブリオ、病原性大腸菌などで、細菌が腸管内で増殖して産生された毒素が原因物質となる毒素型はO-157、セレウス菌(下痢型)などや黄色ブドウ球菌、ボツリヌス菌、セレウス菌(嘔吐型)などとなる。また、食品の飲食などでウイルスが口に入ることで引き起こされるウイルス性食中毒では大部分がノロウイルスが原因。

 何か思い当たる食品や食事はないのかと聞くと、友人は「匂いや色が変なものは普段から食べないし、あの日に食べたものにも気になったものはなかった。まあ症状が長引く食中毒ではなかったから、貴重な体験だった」と笑った。下痢や嘔吐を繰り返すことで菌などが体外に排出されたのだろうが、下痢止め薬を服用すると細菌やウイルスが排出されず症状が長期化する可能性があるという。

 ※農水省によると、直近5年間の食中毒発生件数は700~1100件で推移し、2024年の食中毒は1037件(患者数1万4229人)。5年間の食中毒の原因別では、カンピロバクターなど細菌が30.1%、ノロウイルスなどウイルスが14.6%、アニサキスなど寄生虫が46.1%、キノコなど自然毒が6.3%、ヒスタミンなど化学物質が1.0%となる。

2025年10月22日水曜日

被害者意識で正当化

 アクション映画では、クライマックスシーンでの主人公の暴力を正当化することがストーリー展開の主軸となる。敵がいかに邪悪であるかや、人々が苦しむ様子や敵の暴力を予期して怯える様子が描かれ、時には主人公が襲われて危うく逃れたりもする。観客は主人公の側に共感するように誘導され、主人公が秘めていた力を解放して暴れ回り、敵をなぎ倒すクライマックスシーンに喝采を送り、満足する。

 かつてのヤクザ映画では、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ」主人公の怒りが爆発して、仁義を踏みにじる性根が腐ったヤクザを次から次と切り捨てるのがクライマックスだった。また、異星人の襲来や地球征服を目論む悪人どもの動きに気づいた主人公が、「地球を救う」「人類を救う」などの大きな使命感を持ち、異星人や悪人どもに立ち向かい、何度もの危機をくぐり抜けて異星人や悪人どもを倒すというSF映画でも、クライマックスでの主人公の暴力を正当化するのがストーリーだ。

 スクリーン上で主人公が敵をばったばったと殺そうと、映画が終わって外に出れば、そこは治安が保たれた空間で人々は平穏な日常に戻る。誰かの暴力が正当化されて、その誰かが敵と見る人々を殺すことは許されず、殺人などの暴力は社会的に禁止され、そうした暴力を行使した人は犯罪者として扱われる。殺人などの暴力を行使した人には暴力を「やむなし」とする感情や論理があるのだろうが、どんな理由があろうと殺人などの暴力は許されないことで社会の秩序は保たれている。

 現実の世界では、多くの人々を食い物にしたり法の網をくぐり抜けたりして自分たちの利益だけを追求し、時には隠れて無慈悲な暴力を振るう極悪人がのさばっていたりする。映画の主人公のような、邪悪な連中をなぎ倒すヒーローが現れないのは、相手が極悪人であっても私的な暴力の行使は犯罪を構成するからだ。どんなに正当化しようと、極悪人という人間に対する暴力は許されない。

 だが、ウクライナやイスラエルなどに見られるように、戦争という国家による暴力には自国を正当化する言説がつきものだ。自国を被害者と位置付け、戦争を始めたことを「やむを得なかった」判断だったとして正当化したり、敵が先に攻撃してきたので防衛行動を余儀なくされたとか、敵側の武力侵攻が差し迫っていて「攻撃を受けてからでは遅い」として戦争を始めたことを正当化する。

 国際社会に対して国家は、正当な反撃であるとか自国防衛のための行動であると戦争を正当化するとともに、国内に向けては政権を支持するように世論誘導する。つまり政権によるプロパガンダが盛んに行われ、愛国心を鼓舞された人々は「国を守るために今、戦うことが必要だ」と誘導されて主張し始める。かくて戦争は愛国心の発露の対象となる。

 映画のヒーローは被害者意識を振り回したりしないが、現実世界の国家は被害者意識を自国の正当化に活用する。各国の主張を客観的に評価する国際機関が不在である現在、戦争を始めるためにも、外交で優位な立場に立つためにも各国は被害者意識を活用して自国の主張を正当化する。ヤクザ映画の主人公は暴力を振るった後、素直に刑に服したりするが、米国製アクション映画などの主人公が暴力の責任を問われることはない。何やら現実世界で暴力を正当化している諸国家に似ている。

2025年10月17日金曜日

国民の生命

 野良猫に迷惑しているからと勝手に駆除することは動物愛護法(動物の愛護及び管理に関する法律)に抵触する。野良犬の個人による駆除も同様だ。カラスやハトを個人で勝手に駆除することは鳥獣保護管理法(鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律)で禁止され、キツネやタヌキやアライグマなどの野生動物を勝手に捕獲することも同法で禁止されている。

 ヒグマやツキノワグマを個人が勝手に捕獲したり、狩猟することも鳥獣保護管理法で禁止されている。猛獣であるヒグマやツキノワグマを個人で勝手に捕獲・狩猟するには相応の道具や武器が必要だろうから、個人でヒグマやツキノワグマに立ち向かうのは簡単ではない。米国などのように個人の銃所持が日本で許されていたとしても、素早く動く攻撃的なクマに、ハンターでもない個人が立ち向かうのは無謀だ。

 つまり集落や市街地に出没するようになったヒグマやツキノワグマに個人で対応して捕獲や駆除をすることはできず、行政頼みとなる。鳥獣保護管理法で認められる鳥獣の殺傷は「狩猟による捕獲」または「許可による捕獲」のみで、クマが現れて被害が出たか被害の恐れがあるときに許可を申請し、捕獲や駆除が許可される。野生のクマは原則的に保護すべきという法律なので、捕獲や殺傷は制約される。

 クマの個体数を適切に管理する体制が構築されていたなら、増えすぎたクマが集落や市街地に出没することを防ぐことができただろう。山におけるドンドリなどが不作なのでクマが人里にまで現れるというニュースが増え、クマが増えすぎているとの論が後退した気配だが、そもそもクマの実際の生息数がぼやけているのだからクマ出没増加の理由は推定でしかない。どんぐりの不作とクマの個体数増加が同時に生じた可能性もある。

 「国民の生命と財産を守る」ことを掲げる政党は多い。日本各地で集落や市街地に出没したヒグマやツキノワグマによる日本国民の殺傷事件が毎日のように報じられるが、政党や政治家から緊迫感を伴うメッセージは出てこない。「国民の生命を守る」ことをどこまで本気で考えているのか疑わしく、政党や政治家が掲げる単なるキャッチフレーズの一つなのかもしれない。

 永田町では権力争いが過熱し、政党や政治家が永田町の外には目を向けていない現在、緊急性のある有効な対策は皆無のまま、クマによる殺傷事件は今後も続く可能性がある。起きてほしくはないが、もし子供がクマの被害にあったなら世論は沸騰し、「なぜ悲劇を防ぐことができなかったのか」と行政に対する批判が一気に高まるだろう。政党や政治家は地方自治体を責めて、それから政党や政治家が何らかの主張を始めるとの対応が見られるかもしれない。

 国民は自力ではヒグマやツキノワグマに対応できず、地方自治体には独自でヒグマやツキノワグマを捕獲したり駆除する能力はなく、クマが集落や市街地に出没して危険性が可視化されてから猟友会頼みとなる。政党や政治家が国民一人ひとりの生命を守ることを真剣に考えていない現状と、クマの集落や市街地への出没が続く可能性が高いことを考え合わせると、クマによる日本国民の殺傷事件は続く。

2025年10月15日水曜日

喧嘩する金持ち

  「金持ち喧嘩せず」とのことわざがある。その解釈は「①金持ちは利にさとく、喧嘩をしても得することがなく、時には損をするので、他人と争うことはしない、②金持は利をもたらさない無駄な争いはしない、③金持ちは心に余裕があり、他人と争う気持ちになりにくい」とされる。

 貧富の格差が拡大した各国で、資産が日本円で数千億円という大金持ちが増えているようだ。そうした大金持ちが「金持ち喧嘩せず」と穏やかに鷹揚に振る舞ってくれれば世間は、大金持ちを羨みつつ憧れたりし、中には、うっかり尊敬したりする人もいるかもしれない。だが、トランプ氏のように大金持ちになっても、攻撃的で喧嘩を好む人もいるので、全ての金持ちが「喧嘩せず」ではない。

 大金を持つことで人の性格は変わるのだろうか。穏やかな性格の人が金持ちになれば「金持ち喧嘩せず」となる可能性が高いが、他人に対する許容度が低い人は金持ちになっても他人に対して厳しく接するかもしれない。金持ちになって生活の不安がなくなり、金で解決できることは金で解決すればいいさと鷹揚な境地になったなら「金持ち喧嘩せず」だろうが、金持ちになった人が全て鷹揚な境地に達するかどうかは不明だ。

 艱難辛苦を乗り越えて一代で金持ちになった人なら、日々の暮らしに追われる人々を理解・共感しやすいだろうが、金持ちだった親の資産を受け継いだ人は、贅沢な暮らししか経験していないだろうから社会経験が限られ、日々の暮らしに追われる人々を見下げたり、努力が足りないなどと酷評するかもしれない。そういう人は自己責任論を自己の肯定のためにも他者批判のためにも活用する。

 金持ちだから階層の上位にいると過信し、わがままに振る舞うことが当然と思い込み、自己の感覚・主張に反する他者を許容することができず、厳しく批判し、時には喧嘩する金持ちもいる。そんな金持ちが権力や権威を求め、権力や権威を得ることができると、その権力や権威を用いて「金持ち喧嘩する」が実現する。権力や権威を持った金持ちは時には絶対君主であるかのように振る舞う(国によっては権力を占有した人が私腹を肥やし、大金持ちになる)。

 資本が権力に接近し、権力が資本に接近する構造は世界各国で古くからあるが、各国で増えた金持ちが権力に接近し、権力は金持ちに近づくようになった。格差社会が拡大しているのは、格差を問題としない金持ちの政治権力に対する影響力が増大し、格差を是正しようとする動きが制約されているからだ。金持ちが喧嘩するのはトランプ氏のように目に見える場合もあれば、権力に影響力を行使するだけという見えにくい場合もある。

 新しく金持ちになった中国も、強気で各国との喧嘩を辞さない。膨大な人口を抱え、共産党による統治が迷走して貧しい国とかつては見られていたが、外資を積極的に呼び込んで経済成長を続け、世界2位の経済大国になり、国内に多くの金持ちを生み出した。喧嘩を売ったり買ったりする金持ち国に対して各国は戸惑い、対応に苦慮している様相だ。トランプ氏や米国、中国などへの対応に悩んでいる人々や国は、「金持ち喧嘩せず」なんて信じることはできない。

2025年10月11日土曜日

復讐心の暴走

  2年前の2023年10月にハマスがイスラエルに奇襲攻撃を行い、約1200人のイスラエル人を殺害し、約250人を人質として連れ去った。ハマスには大規模な戦闘を仕掛けることはできまいと慢心していたイスラエルは、ハマス側からの集中的なロケット弾攻撃の中、分離壁のあちこちを破壊され、多数の戦闘員のイスラエル側への突入を許した。

 惨事の後、イスラエルはガザ侵攻を開始し、ガザを徹底的に破壊するとともに、これまでに6万7000人以上のパレスチナ人を殺害した(犠牲者には子供も多く含まれる。実数はもっと多いと見られる)。イスラエルがガザで行っていることは「ジェノサイドだ」と各国や国際機関などから指摘されるが、イスラエルは猛反発し、ハマスの行ったテロに対する正当な反撃だと主張する。

 イスラエルのガザ攻撃を支えるのは、人々の間に広がったハマスに対する復讐心が大きいだろうが、武装した敵対勢力の存在を許していたから惨事が起きたので徹底的に無力化すべきだとか、ガザを占領してユダヤ人の入植地にするなどの主張もあるようだ。ネタニヤフ政権を支える極右政党からは、ガザからのパレスチナ人追放を求める主張などがある。

 徹底的に破壊したガザでイスラエルは国際的な支援活動を制約し、飢えに直面している人々がいると伝えられ、「ジェノサイド」が進行中であることは明白だが、イスラエルの行動を国際社会は座視するしかない状況だ。イスラエルに対して影響力を有する米国だが、トランプ大統領がパレスチナ人をガザ以外に移住させることを主張したりする状況では、米国はイスラエルの行動を支持していると見るしかない。

 イスラエルの行動を米国は理解でき、共感できるのかもしれない。かつて米国は奇襲攻撃を受け、反撃して徹底的に相手側を破壊した歴史がある。1941年の真珠湾攻撃では米国側の戦死・行方不明者は2400人以上になり、世論は沸騰、米国は参戦し、やがて日本への大規模な都市空爆を続け、大量の民間人を殺害し、さらに広島・長崎への原爆投下により20万人以上を殺害した(これはジェノサイドだが、米国が責任を問われることはなかった)。

 2001年に米NYの世界貿易センタービルなどに乗っ取られた旅客機が突入し、乗客やビル内にいた人など2977人が死亡した。世論は沸騰、約1カ月後に米国はアフガニスタン空爆を開始して、タリバン政権を崩壊させ、2003年にイラク戦争を開始してフセイン政権を倒した。米国の対テロ戦争で死者は、アフガニスタンやイラクで兵士は30万人ほど、民間人は36万〜38万人と推定されている(対テロ戦争による直接・間接的な死者は少なくとも450万人との推計もある)。

 奇襲攻撃を受けて世論は沸騰し、高まりすぎた復讐心が、その後の政府の軍事的な反撃を容認・後押しする一方、政府の行動を監視する世論の機能が低下する。社会に高まった復讐心が、政府の過剰な軍事的な報復(大量殺害=ジェノサイド)を容認する構図は、今のイスラエルと米国の過去に共通する。社会における復讐心の暴走は「やられたら、もっと、やり返せ」と過剰な大量殺害を招く。

2025年10月8日水曜日

国境の内と外

 グローバリズムは「人、モノ(商品など)、マネー、情報が国境にとらわれず、自由に動くことができるようになった状況」を示す言葉だ。以前は、「国家を超えて、地球全体を一つの共同体とみる考え方。汎地球主義」がグローバリズムと理解されていたが、現在は、世界が単一の市場になったとの経済的現象として理解されることが多くなった。

 世界が単一市場になったとのグローバリズムにより、人やモノの国境を越えた移動が活発になり、国境の役割が減少するとともに国家の存在感も希薄化しつつある気配だった。民主主義や自由や人権など欧米由来の価値観は各国で共有すべき規範だとの主張があり、経済も政治も社会もいずれ世界は共通の制度・価値観になると早合点しそうになるが、国家の存在は簡単には揺るがない。

 グローバリズムの恩恵を最も受けたのが中国だ。欧米などから資本と技術を供与されて世界最大の製造拠点となった中国は、欧米など各国への輸出で急成長した。だが中国は、モノの輸出ではグローバリズムを支持・活用するが、人・マネー・情報の国境を超えた移動は厳しく監視・制約する。国境で国を「閉じる」が、世界に対しては自由貿易を主張し、中国の国境外におけるグローバリズムを肯定する。

 現在のグローバリズムの推進者は米国だった。経営陣は米国内で生産するよりも中国で生産して輸入したほうが安上がりだと国内の工場を閉鎖し、大量の従業員を解雇した。グローバリズムのおかげで消費者は旺盛な消費を続けることができたが、解雇された人々の不満は鬱積し、現在のトランプ政権の誕生につながったのだから、トランプ政権は反グローバリズムに動かざるを得ない。

 トランプ政権は高関税により国を「閉じる」方向へ向かうが、モノの輸入を減らすと人々の消費の制約となり、社会が持たない(高関税は国家収入を増やすための策で輸入は大幅減にはならないだろう)。各国からの巨額の投資を歓迎し、米国内に製造拠点を建設させることで、やがて輸入に頼らずとも国内需要を満たすことができる体制にすることを狙う。だが、それにはかなりの時間を要する。

 トランプ政権はモノの輸入を制限し、留学生や高度人材の入国制限など人の移動も制限し始めた。だが、マネーの流入は歓迎し、情報の流通を制限しようとするEUなど国外での動きを牽制する。米国は国内では反グローバリズムの政策を進めるが、米国以外の世界においてグローバリズムを維持・推進する。自国の利益を最優先に国内は「閉じる」が、国外においてグローバリズムを維持しようとする米国は、中国と似てきた。

 反グローバリズムは国家主権を回復させる動きとも考えられ、EU各国などでの極右勢力の伸長も、グローバリズムに同調した既成権力批判とも解釈できる。国際的批判を浴びても軍事行動を続けるロシアやイスラエルは自国の国家主権を国際秩序の上位に位置付ける。グローバリズムの潮流にただ従うのではなく、グローバリズムをいかに利用するかが国家の課題となった。

2025年10月4日土曜日

悟りと自意識

 夏の猛暑や冬の寒波などに愚痴を言わず、その時々の季節の変化を楽しむ人や、小さな利害にこだわらない人、欲得に支配されていないような人などは俗に「悟った人」と冷やかし半分に呼ばれたりする。おおらかで達観した雰囲気が自然に滲み出しているような人が「悟った人」と見なされたりする。

 悟りや悟るは日常でも使われる言葉だ。本来は仏教用語で、生きることの意味や世界の構造など「真理」を理解・会得することを意味するが、そこから、「様子を悟る」「相手に悟られないように」「死期を悟る」「逃げられないと悟る」「悟りの悪い人だ」「悟り澄ます「ことの重大性を悟る」などと、状況を正確に認識することを悟る・悟りという言葉で表現するようになった。

 仏教の修行者にとって悟りは最高段階の精神状態なのだろうが、悟った人が出現したとしても、その悟りは主観的な確信かもしれない。悟りは精神世界の出来事なので客観性を担保することは簡単ではない。修行者の師にあたる人が悟りを認定するそうだが、認定する根拠にも客観性は乏しいだろうから、悟ったかどうかの確証はない。つまり悟りの実態はぼやけている。

 加藤周一氏は禅家の悟りに共通点があるという前提から、悟りについて語る(「一休という現象」、1978年=『加藤周一セレクション②』平凡社ライブラリー所収。適時省略あり)。

 「悟りは、認識論的には主客合一であり、存在論的には、非固体化された自己と一体化した世界を究極の現実とする。その唯一の現実とは、存在と無、および時間の過去・現在・未来を超越する。

 それは、この世界の外にあるのではなく、この世界のあるがままの多様性に現象として現れる。その意味で『一は多であり、多は一である』。仏教的用語で表現すれば『性相不二』であり、本質(究極)と現象(相)とは別ち難い。

 また、存在と無が超越されるから『不生不滅』であり、『色即是空、空即是色』である。時間も超越されるから『刹那即久遠、久遠即刹那』であり、比喩的にいえば『因果脱却』である。

 しかし、本質における『因果脱却』は、現象における『因果輪廻』と表裏相伴わなければならない。前者を知って後者を知らなければ、それは『因果撥無』の禅で、悟りの落し穴である。前者を知って、同時に後者を知ることの比喩的な強調が『花紅柳緑』である--この辺りのところが禅の悟りにも共通の枠組みだ」

 世界をあるがままに受け入れることが悟りには欠かせない認識のようだが、世界をあるがままに受け入れることは受動的な生き方ともなる。自意識を放棄するなら世界をあるがままに受け入れることは容易になるだろうが、自意識を放棄して得られる悟りとは何か。おそらく個を消滅させたところに「真理」があるとの主張だろう。

 ※悟るとは「①迷いからさめ、真理を会得した境地に到達する、②隠されていた事情に気がつく」(新明解)、「①表面には表れていない物事の道理や状況を理解する、②自分にかかわる事柄に気づいて、それを運命として受け入れる、③(仏教で)欲望・執着・迷いなどを去って真理を会得する」(大辞林)。

2025年10月1日水曜日

有効な対策は

 山菜採りに山に入った人がクマに襲われた-などのニュースは以前から毎年、各地から伝えられたが、今年はクマが人里に現れたとか、民家に押し入ったとか、道路を横切ったなどの目撃談がほぼ毎日、全国各地から報じられる。クマの生息数が増えていると研究者は解説し、増えすぎたクマが食糧を求めて、山や森から人里に溢れ出ているような印象だ。

 目撃情報が細かく報じられるようになり、人々のクマに対する警戒心を刺激するとともに関心を高めたので、クマの目撃情報のニュース価値が上がり、以前ならボツになった目撃情報も報じられるようになって、報道量がますます増える。集落や都市郊外に現れたクマに襲われて死傷する人があると大きく報じられ、クマに対する恐怖心を高め、クマの出没情報や目撃情報に対する人々の関心の高さは増幅される。

 クマはどれほど増えているのか。その実態を示すデータは乏しく、生息数についても推定による数値があるだけだ。人里に現れるようになったクマに対応するのは自治体だが、その地域にどれだけのクマが生息しているのか-などのデータが乏しい状況なので、パトロールを強化し、箱ワナを設置して様子を見るだけとなる。国主導で全国的なクマの生息数調査を行うべきだが、そうした動きは見えない。

 クマの繁殖期は6〜7月で「ツキノワグマはオスで2~3歳、メスで4歳程度、ヒグマはオスで2~4歳、メスで3~4歳で繁殖が可能」となり、「繁殖したメスは冬眠中(1月下旬~2月上旬)に出産する」「ツキノワグマは1年半、ヒグマは1~2年半の子育てを行う。それ以外は単独で行動する」(環境省HP、以下同)。

 ヒグマもツキノワグマも1回の出産で2頭前後の子を産むとされる。寿命は「ツキノワグマで15~20歳、ヒグマで20歳程度」とされる(飼育下ではツキノワグマで30歳を超え、ヒグマで38歳の記録がある)。野生のクマの繁殖率を仮に10%とし、ある地域に1000頭のクマが生息していた場合、3年後には1331頭に増え、7年後に1948頭とほぼ2倍になる。山や森にあるクマの食糧は限られているので、飢えたクマが人里に出てくる。

 生息数と同様に野生におけるクマの繁殖率も不明だ。日本でクマは自然界で食物連鎖のトップに位置するだろうから他の捕食動物に襲われて生息数が減ることは考えにくく、クマの個体数が減ることはないだろう。危険を伴うので調査には限度があるだろうが、野生におけるクマのデータが乏しく、生息数など現実を正確に把握できていない状況では、何が有効な対策なのかがぼやける。

 人口増と活発な開発が続いて人間は生活圏を拡大してきたが、それはクマなど野生動物の生息圏を侵食し、縮小させてきた。現在は人口減少と開発の頭打ち、都市への人口集中などによって人間の生活圏が縮小し、クマなど野生動物が増えて生息圏が拡大している状況だ。もしトランプ氏が日本の首相だったら、「国民の命が脅かされている」として強硬なクマ対策を実行させるかもしれない。

2025年9月27日土曜日

解党的出直し

 自民党は今年の参院選で39議席を獲得したが、連立を組む公明党の8議席と合わせても計47議席で、非改選の75議席と合わせて122議席となり過半数(125)割れとなった。自民党は総括文書で主な敗因を▽内閣支持率の低迷▽縮んだ自民党支持層を固めきれなかった▽無党派層への訴求力不足▽若年層・現役世代と一部保守層の流出などとし、「解党的出直しに取り組む」とした。

 自民党は2024年の衆院選でも56議席減の191議席で、公明党の24議席と合わせて215議席となり、過半数(233)を割っていた。派閥の裏金問題で毅然とした対応を示すことができなかった自民党に対する強い不信感の現れとの見方が多く、ほかに▽組織力の低下▽保守色の強い人たちの離脱▽石破総理に対する不支持-なども指摘された。

 自民党が退潮傾向にあることが最近の国政選挙で示されたのだが、具体的な「解党的出直し」の動きはまだ見えない。従来の支持者の高齢化と若者の参加が少ないことで地方組織が弱体化しているのは既成各党に共通するだろうが、自民党の場合、各地で自民党候補の選挙を熱心に手伝っていた旧統一教会の信者が離れ、その影響が無視できないとの真偽定かならぬ説もある。

 自民党の総裁選が行われている。どのような「解党的出直し」を行うのかを候補者たちが語る機会だが、候補者たちは政策を闘わせている。自民党の新しい総裁が次の首相に選ばれる可能性は高く、各自が政策を語って独自性を示すのは当然のように見えるが、場違いな主張だ。総裁選で候補者が真っ先に語るべきは、党をどう改革するかだ。党を改革しなければならないと本気で考えているなら総裁選は絶好の機会だったが、候補者たちは自民党の「解党的出直し」に関心が乏しく、政策を語る。

 報道によると、公開討論会で候補者たちは物価高対策をはじめとする経済政策や成長戦略、社会保障制度改革、外交・安全保障政策などを巡り幅広く論戦を交わしたという。具体的には、「頑張れば報われるという実感を持ってもらう」とか「国民の求める結果を出す」「暗い状況を一致団結して乗り越えていく」「将来の財源を生む投資を重視する」「日韓関係を深化させていく」「戦略的な危機管理投資で経済成長」「物価高対策としてガソリンの暫定税率を廃止」などだ。

 自民党は参院選の公約として、強い経済・豊かな暮らし・揺るぎない日本の3ビジョンを掲げ、5アクションを①強い経済・伸びる賃金、②安全が安心を生む暮らし・「ひと」が中心の社会、③地方を元気に・日本を元気に、④国を守り・世界で輝く、⑤憲法改正と不断の改革で・国のかたちを国民の手で-とした。どれも抽象的かつキャッチコピーの類だ。党としての具体的な政策を明確にせず、政策の優先順位も示していないので、総裁選の候補者はそれぞれ独自の政策を主張できるのだ。

 候補者が「解党的出直し」の道筋を示さないのは、次の首相を争っているとの意識しか持たないからだろう。また、「解党的出直し」などは本気で考えておらず、今は自民党に対する向かい風が強いが、そのうち風向きが変われば自民党はまた選挙で勝つなどと考えているのかもしれない。そうなるかもしれないし、そうはならず、自民党の退潮傾向は構造的なもので、長期政権の「終わりの始まり」かもしれない。いずれにしても、危機感が薄いトップが率いる組織が変化に弱かった例は珍しくない。

2025年9月24日水曜日

表現者と匿名

 英ロンドンの王立裁判所の建物の壁にバンクシーによる新しい壁画が描かれていた。壁画には、判事が、地面に横たわる抗議者を小槌で殴打し、抗議者が持つプラカードに血が飛び散る様子が描かれていたとBBC。数日前にロンドンで、親パレスチナ団体に対する活動禁止命令への抗議デモが行われ、約900人が逮捕されていたことと関係があるようだ。

 バンクシーの作品は高値で取引されたことがあり、今回の壁画も高額になると見られたが、裁判所の建物が歴史的建造物に指定されていることを理由に当局は壁画を消した(作業員が約2日かけてこすり落としたという)。この作品を壁ごと切り取って売却すれば高額の臨時収入になり、壁の修復代金など余裕でまかなえたであろうが、当局は壁画を抹殺することを選んだ。

 バンクシーが匿名であり続けるのは、街中の建造物に無断で壁画を描くストリートアートを主な表現の場にしているからだ。ゲリラ的に描いた壁画が高く評価されたとしても、匿名では本人が売却代金を得ることは困難だろうが、以前には代理人がいて、現在はネットで版画作品などを販売しているというから活動資金には困ってはいないようだ。

 バンクシーの正体を知っている人は結構いるそうだが、社会批判や風刺が多い壁画で話題になったこともあり、個人名を知られるとバンクシーの主張に対する批判が個人攻撃として現れることは間違いなく、匿名のままで活動することが無難か。覆面アーティストとして世界的な知名度を得ている現在、匿名でいることを止めるメリットも乏しそうだ。

 表現者は創作意欲に駆り立てられて次々と作品を仕上げていくと一般に思われているようだが、作品は評価されず売れないのでは生活の維持に支障をきたす。貧しい暮らしの中で創作を続けても、例えば、死後に高く評価されるようになることはまず起こらない。匿名のバンクシーは名声を得ているのだから、創作意欲に衰えは見られないか。

 バンクシーは個人だと見られているが、匿名なのだから複数人がバンクシーの名のもとに活動することも可能だ。匿名は正体を隠す目的だろうが、運動体であることを隠すには匿名で個人であるように装うことが有効だ。運動体であるなら、外国人や難民・移民の表現者をメンバーとして活動することが可能になる。バンクシーの壁画は型紙を作って、建物にスプレーなどで吹き付けて描くのだろうから、個性は共有できよう。

 街中の建造物に無断で壁画や文字などを描くストリートアートは建物の所有者にとっては迷惑だろう。大半の「作品」には何の価値もなく、消す手間がかかるだけだ。だが、画壇にも画商にも認められない表現者には、バンクシーのようにストリートアートを表現の場にすることも選択肢だ。もちろん、バンクシーのように評価されて名声を得ることは困難だろうが。

2025年9月20日土曜日

挑発されても

  ポーランド軍は9月10日、ロシアの19機のドローンが領空を侵犯し、3機を撃墜したと発表した。大半はベラルーシ側から侵入し、国境から約400km離れた地点にも到達していたという。NATOの領空内でロシアのドローンが撃墜されるのは初めてで、ポーランドの首相は「大規模な挑発行為だ」とロシアを非難した。13日にはルーマニアの領空をロシアのドローンが侵犯した。

 ポーランドの要請を受けてNATO加盟国は緊急協議を開催したほか、仏マクロン大統領は「ロシアを最も強い言葉で非難する」とし、「無謀なエスカレーション」をやめるよう求め、米NATO大使は「NATOの領土を1インチたりとも譲らず守り抜く」、

国連のグテーレス事務総長は「拡大する現実的なリスクを浮き彫りにした」と強い懸念を示した。

 ロシア国防省は「ポーランド領内を目標とする計画はなかった」とし、ウクライナへの大規模攻撃を実施した際に起きた可能性があると主張したそうだ。ロシアはウクライナに大規模なドローン攻撃を続けているが、その一部が誤ってポーランド領空に入ってしまったという説明だが、コントロールのミスか、機体に問題があったのかなど詳細な説明はない。

 NATOの反応を見るためのポーランド領空侵犯だったとしてもロシアが認めるはずがなく、単純なミスによるものだとの主張を続けるだろう。しかし、ポーランドをはじめNATO側はロシアの「真意」を疑う。ロシアに対する不信感が積み上がった現在、ロシアの主張を疑ってかかるのは当然で、軍事が絡むと最悪の事態を想定して対応策を考えるのは当然だ。

 ドローンのポーランド領空侵犯は、NATOの対応を見るためだったのか、ミスだったのか、挑発だったのか。いずれにしても、NATOの緊張をロシアは注視し、ドローンの侵入に対してNATO諸国がどのように反応・対応したのかを見定めていただろう。意図的な領空侵犯ではなかったとしても、ロシアは今回、NATO側の防空体制に関する貴重なデータを収集することができた。

 ポーランドは襲来するロシアのドローンの半分も撃ち落とすことができなかった。もしドローンが爆弾を抱えていたならばポーランドは相応の被害をこうむっていたに違いない。ロシアにはウクライナ以外に戦線を広げる余裕はないと見られるが、ポーランドの領空侵犯に対する反応でNATOは、防空体制が「甘い」とロシアに隙を見せてしまったことは確かだ。

 米国抜きでウクライナを支えることができないNATOには、挑発されたとしても、ロシアと交戦する余力はない。ロシアの侵攻をウクライナ国内にとどめ、ロシアの勝利を妨げることが現在のNATOにできることだ。ロシアはNATOの足元の危うさを見越し、今後もNATOの揺さぶりを続けるだろう。

2025年9月17日水曜日

停戦交渉の価値

 イスラエル軍は9月9日、カタールの首都ドーハを空爆した。滞在していたハマス指導部を狙ったもので、「カタールはテロリストに安全な隠れ家をあたえ、資金を提供してきた」とネタニヤフ首相は主張し、交戦国ではないカタールに対する空爆を正当化した。カタールの首相は「国家テロとしか解釈できない」と強く批判した。

 カタールにはハマスの政治部門が拠点を置いており、カタールはイスラエルとハマスの停戦交渉を仲介してきたのだが、交渉団のトップも狙われた空爆でハマスは態度を硬化させるだろうし、カタールも停戦交渉の仲介を停止するだろう。そうなることを承知でイスラエルが空爆を行ったのは、停戦交渉を見限ったからだ。

 イスラエルはガザを徹底的に破壊し、人々への食糧支援を妨害して大規模な飢餓状況を生じさせたと国際的に批判されているが、意に介さない。軍事組織としてのハマスをほぼ壊滅させたので、停戦交渉に応じて相手の要求を考慮する必要性は乏しく、停戦交渉を軽視していただろう。圧倒的に有利な状況なのだからハマスに対して微塵も譲歩するつもりがないとすれば、停戦交渉が進展しないのは想定通りだったか。

 戦況が膠着状態になって交戦国の継戦能力に影響が出始めたなら、停戦交渉の出番となる。だが、一方が圧倒的に有利な戦況での停戦交渉は五分五分の交渉ではなく、立場に差が出る。ハマスは停戦交渉を長引かせて時間稼ぎをしたかったのだろうが、イスラエルはハマスを軍事力で壊滅させるのは「今しかない」と見て、軍事力で決着をつけると決めた気配だ。圧倒的に「勝っている戦争」なら、停戦交渉の価値は低い。

 イスラエルのカタール空爆は国際法違反であり、主権国家に対する攻撃に反撃する権利がカタールにある。だが、中東において圧倒的な軍事力と情報網を有するイスラエルと交戦する選択肢はカタールにはない。米国もイスラエルの行動を抑制することができず、国連もイスラエルに対して無力な現在、イスラエルは軍事力で一気に支配地を拡大するとともに、周辺諸国の制空権も確保したので、いつでもどこでも空爆できよう。

 イスラエルは周辺諸国で敵対勢力の幹部を狙った暗殺も繰り返している。ハマス幹部を狙ったカタールでの攻撃は許されるとイスラエルは主張するが、それを認めると、どこの国でもハマス幹部が滞在しているならイスラエルは攻撃できることになる。例えば、日本に滞在しているハマス幹部も標的にできるという主張になり、空爆は困難だろうが、暗殺なら許されるとするだろう。

 サウジアラビアもエジプトもイスラエルの軍事行動を黙認し、イランもイスラエルの空爆に抗することができない状況で、イスラエルは中東において軍事的な覇者となった。ハマスもヒズボラも弱体化したが、イスラエルに殺された人々を記憶する各地の人々の恨みは残る。イスラエルの軍事力による中東支配が始まったが、次の世代の人々によるイスラエルに対する新たな抵抗活動のタネがまかれたのかもしれない。

2025年9月13日土曜日

ケサランパサラン

 ふわふわと風に乗って空中を漂う白い綿毛のようなものがケサランパサランだ。これは「つる性植物の種子。直径3~5cmほどの種髪(綿毛)をもつ植物は、園地内ではシタキソウ、テイカカズラ、サカキカズラ」「果実に付く綿毛を冠毛(かんもう)、種子に付く綿毛を種髪(しゅはつ)と言う。タンポポの果実(痩果)に付く綿毛は冠毛、サカキカズラの種子に付く綿毛は種髪」(吉野熊野国立公園・宇久井ビジターセンターHP)。

 ガガイモの種子だという説もある。風に乗せて種子を遠くに運ばせるために綿毛をつけた種子を放出する植物はいろいろありそうだ。他にも動物の毛玉だという説もあるそうで、過去には、正体不明の生物だとか、さらには妖怪だと取り沙汰されていたこともあったという。確かに、空中を漂う風情は雪虫にも似て、何かの生物かと早合点する人がいたとしても不思議ではない。

 正体不明だった頃には「捕まえると幸せになる」とか「持っていると病気にかからない」などとされて家宝として大切に扱われたという。また、「桐の箱で飼うと、おしろいを食べて増える」などと信じられ、「年に一度だけしか見てはならない」など禁忌が付随していたことも幸運をもたらすとの言い伝えを信じさせることに効果があっただろう。

 都内に住む友人は昨年、旅行先で初めてケサランパサランを見た。捕まえようと腕を伸ばすと、その勢いが風となってケサランパサランはふわっと逃げる。何度か繰り返してケサランパサランをやっと捕まえたそうだ。「大事に持ち帰って、大切にしているか?」と聞くと、「娘が気味悪がっていたので、捨ててきた」と友人。

 ケサランパサランにまつわる言い伝えを話し、「残念だったな。持ち帰って家宝として祀っていれば、幸運をもたらしてくれたかもしれないのに」と言うと、友人は「幸運グッズだったのか。娘はパワースポット巡りが好きで、俺もたまに付き合わされる。ケサランパサランが幸運グッズだと知れば、欲しがるかも知れないな」と笑った。

 空中を漂うケサランパサランを思い出して友人は「人生を感じた」。どういう意味かと問うと、「右に流され左に流され、上がったり下がったり、風まかせだ。これまで自分の意思で方向を決めて生きてきたように思っているが、その時々の社会のいろいろな風というか力を受けて漂っていただけかも知れない」。「初めて聞く人生哲学だ」と言うと、「大きな流れの中で生きることしか人間にはできないのかもな」と友人。

 「自由意思の否定か?」と聞くと、友人は「違う。誰もが自分の意思で人生を切り開いているんだ」、続けて「だが、個人はミクロな人生を生きるだけで、世の中というか世界の状況の影響を受ける。自分を取り巻く状況を無視して生きることはできまいから、マクロで見ればケサランパサランのように漂っているだけかも知れない」。ケサランパサランから人生論を引き出した友人は、今度捕まえたなら「大事に持ち帰る」と言い、娘が幸運グッズと知れば「横取りされるだろうな」と付け加えた。

2025年9月10日水曜日

縮む公共事業

 国や地方自治体などが税金を投入して行う公共事業は、収益を上げることが目的ではなく国民生活の向上が目的だ。収益が見込めず民間に任せていたなら供給されないだろう財やサービスを供給することが公共事業の責務だ。全国各地の道路や橋梁、港湾、空港、上下水道、ダム、防災施設、公園、学校、病院、図書館などの整備・維持や、ごみ収集、環境保護などの事業が公共事業として行われる。

 かつて鉄道輸送も、全国の人々の移動の利便性を確保するため公共事業として行われていたが、累積債務が膨れ上がったことから民営化され、公共事業ではなくなった。公共事業ではなくなったので採算性に乏しい路線は次々と廃止された。同様に民間事業者が運行する路線バスも採算性や運転手の確保難などで各地で次々と廃止され、地方自治体がコミュニティーバスで路線を引き継いだりする。

 学校や病院など民間事業者が参入している分野があるが、収益性重視の経営が行われ、収益が見込めなくなると料金を値上げしたり、撤退する。赤字でも財やサービスを供給しなければならないのが公共事業で、赤字でも社会として「やらなければならない」ことが公共事業として行われる。一方、公共事業は政治の強い影響を受けるため、車がほとんど通らない道路が整備されるなど無駄な事業も行われる。

 公共事業は営利事業ではない。だが、市場経済の論理が持ち込まれ、税金に支えられた運営が赤字垂れ流しだと批判されることがある。公共事業は収益を求めるものではなく、社会に必要だから国や地方自治体が行うものであり、例えば、ごみ収集を有料化して経費を賄っても利益が出たとすれば、料金の引き下げ要求が住民から出るだろう。

 公共事業は国や地方自治体が行う経済活動で、民間が行う経済活動とは異なる原理で動いている。だから、民間の感覚で収益性を持ち出すと、大半の公共事業は批判の対象になる。そして、民間企業に経営を委託すると、例えば、図書館では「客」集めが重視され、様々な図書や新聞・雑誌にアクセスする場であることが次第に軽視されていく一方、経費削減が進められ、収益をもたらさない利用者は軽視されたりする。

 人口減少が続く時代を迎えて公共事業は見直しを迫られている。補修や再建が必要な構造物が増え、利用者が減った公共施設の維持などが負担となり、必要な経費は増えるが税収は逆に減る。人口減少は早くから指摘されていたが政治の動きは鈍く、経済停滞を長引かせた政府の経済政策もあって、「縮む日本」が現実化した。

 公共事業を支えていた税収が減るのだから、公共事業も規模を縮小させるしかない。公共事業として供給されるサービスには民間事業者に委託しても継続できるものがあり、民間に委託する事例が増える可能性がある。民間事業者は収益を重視するだろうから、有料化や利用料金の引き上げ、サービス範囲の縮小などが繰り返される可能性があるが、公共事業によるサービスは独占的な事業であることが多く、住民は従うしかない状況になるだろう。

2025年9月6日土曜日

陰謀論と宗教

  陰謀論は、解釈が先にあり、その解釈を補強して正当化する事実だけを散りばめ、推論を発展させて特異な世界観を構築する。その世界観に惹かれた人々が集まってきて、やがてカルト集団を形成したりする。特定の解釈に支えられた世界観から抜け出すには、自分の考えていることは100%正しいわけではないという自覚が必要だ。だが、そうした自覚を持つ人はそもそも陰謀論にはまらないだろう。

 アニメやハリウッド映画などでは、様々の「見えない」敵が登場する。人類を破滅させようとする宇宙人や地球人に化けた宇宙人などのほか、世界支配を企む組織や人々、大金を得るために手段を選ばない組織や人々なども「見えにくい」敵として登場する。この「見えない」「見えにくい」敵が現実世界にも存在すると主張することは陰謀論でもよく行われている。

 自然現象を何らかの意味に解釈したり、ひらめいたことを事実に違いないと思い込むことは誰にでもある。そうした解釈や思い込みが、客観的な事実を認識することや他者からの異論などによって補正されずに蓄積され続け、独自の世界観を構築するようになったら、陰謀論への道が開かれる。独自の世界観にはまると、その世界観に合致する情報に強く反応するようになる。

 陰謀論による世界観を共有する人々は、何らかの妄想を共有している状態だ。妄想にとらわれた人々は、自分が妄想にとらわれていることを認めず、妄想だと指摘されると時には激しく反発する。現実世界を客観的に認識することよりも、側からは妄想と言われる独自の世界観に固執し、そうした世界観が正しいと主張する。

 新興宗教も独自の世界観を主張し、同調する人々を信者とする。新興宗教の多くは社会的に容認された既存の宗教の教義や聖典の部分的ツギハギに教祖の主観をまぶしたものであったりするのだが、信者は気が付かず、新しい何かが与えられたかのように新興宗教にのめり込んだりする。そこには、信じることが自己実現につながるという確信や思い込みが支えとなる。

 世界の三大宗教とされる宗教も独自の世界観を主張する。唯一の神が存在するとか、悟りを開くことで輪廻から脱することができるなどの主張は、その世界観に同調する人々に受け入れられるだけだ。「見えない」神や仏が存在するという主張は、同調する人々によって受け入れられ、勢力を拡大した。だが、信者数が巨大なことと、その教義が真実であるかどうかは関連しない。

 陰謀論も宗教も、独自の世界観を構築する。共通するのは人々の「信じる」という行為に支えられていることだ(三大宗教にはそれぞれ膨大な人々の思索の蓄積があるが)。最初に何らかの教義や解釈を信じ、それから「考える」ことで、それぞれの世界観を自己のものとしていく。与えられた特定の世界観に人々が同化することで陰謀論も宗教も支えられる。

2025年9月3日水曜日

貢物は新幹線

  植民地支配していたインドで英国は1853年に鉄道を開業、これはアジアで初めてだった(日本の鉄道開業は1872年)。広大な国土面積と世界1の人口を有するインドは全土に鉄道網を張り巡らせ、その総延長は6万2000km以上で、日本の倍以上の規模だ。大量の列車を走らせ、大量の人々の移動を支えているが、列車からの転落など事故も多いという。

 インドには主要都市を専用軌道で結ぶ高速鉄道計画があり、2017年にムンバイとアーメダバードを結ぶ約500kmの高速鉄道の起工式が開催された。日本の新幹線方式で建設され、2023年中に全線開業することになっていたが、用地買収の遅れや細々とした設計変更(インド側からの要望が相次ぐ)などで開業は遅れている。

 ムンバイとアーメダバード間の高速鉄道建設に日本政府は大盤振る舞いした。総事業費は約9800億ルピー(約1.8兆円)とされ、そのうち8割は円借款で賄われる(金利は年0.1%、償還期間は50年・15年の据置期間を含む、調達条件はタイド)。だが、総事業費は計画を上回ることが確実視され、インドは将来的に車両を日本からの輸入から国内生産に切り替えることを想定していると見られている。

 新幹線の輸出が日本で政治的な課題とされたため、新幹線の建設費用を日本側で用意し、技術協力も運転手養成なども官民あげて協力する態勢が取られた。経済案件ならばインドの高速鉄道建設に協力することで日本が得ることのできる利益はどれほどか厳しく検討されただろうが、政治案件となったので、日本が建設費用の大半を用意して、新幹線輸出の実績を実現することが目的となった。

 償還期間は50年だが、数十年後にはインドがGDP規模で日本を抜いている可能性があり、この高速建設に関わる円借款はインドにとって非常に軽い負担だろう。何やら、日本からインドへの貢物のようにも見えるが、交渉上手のインドだから、日本に感謝することよりインド側の勝利であると自負するだろう。また、50年後には技術力などでもインドに逆転され、日本がインドから最新の高速鉄道の車両を輸入する状況になっている可能性もある(先進国から入手した最新技術を我が物にし、自力開発を発展させた中国にインドも続くだろう)。

 来日したインドのモディ首相に日本側は、JR東日本が開発中の次世代新幹線車両「E10系」導入を提案した。当初は「E5系」の採用が想定されていたが、開業の遅れでE10系が候補に浮上した。E10系は最高営業運転速度320km/hを目指して開発されている車両だ。E10系のノーズは長いが、これはトンネル突入時の圧力波を抑え、騒音を軽減するためだ。人口が多いインドで使うなら、ノーズを短くして乗車定員を少しでも増やすほうが適切だろうが、ムンバイ近くの河口にインド初の海底トンネルが設定されている。長さ21kmというからE10系が適している。

 世界1の人口だけでなく経済力や国際的影響力をさらに高めるだろうインドとの関係を良好に保つことは重要だが、政治案件としての側面が目立つ新幹線の輸出に過大な期待をかけるべきではないだろう。交渉上手で独自の外交を展開するインドと、「貢物」抜きで交渉し、信頼し合う外交関係の構築ができているのか試されている。

2025年8月30日土曜日

大雨と治水

 今年は日本列島の北から南まで、あちこちで大雨に見舞われているようだ。気象庁は「大雨の年間発生回数は有意に増加しており、強度の強い雨ほど増加率が大きく」「1時間降水量80mm以上、3時間降水量150mm以上、日降水量300mm以上など強度の強い雨は、1980年頃と比較して2倍程度に頻度が増加」しているとする。

 さらに「全国の1時間降水量50mm以上の大雨の年間発生回数は、統計期間1976~2024年で10年あたり28.2回の増加」で、「全国の1時間降水量80mm以上の年間発生回数は、統計期間1976~2024年で10年あたり2.4回の増加」、「全国の1時間降水量100mm以上の年間発生回数は、統計期間1976~2024年で10年あたり0.5回の増加」とする。

 気象庁は豪雨を「著しい災害が発生した顕著な大雨現象」とし、大雨は「災害が発生するおそれのある雨」とする。集中豪雨は「同じような場所で数時間にわたり強く降り、100mmから数百mmの雨量をもたらす雨」とし、局地的大雨は「急に強く降り、数十分の短時間に狭い範囲に数十mm程度の雨量をもたらす雨」、強い雨は「1時間に20mm以上30mm未満の雨」、激しい雨は「1時間に30mm以上50mm未満の雨」、非常に激しい雨は「1時間に50mm以上80mm未満の雨」、猛烈な雨は「1時間に80mm以上の雨」とする。

 大雨は災害をもたらすことがある。増水した河川から水が溢れ、都市部で水没した道路を車が盛大に水飛沫を上げて走行する光景はニュース映像でお馴染みだ。また、土砂崩れにより家屋が損傷したり倒壊したり、道路が通行できなくなったり、河川の氾濫で住宅や農地が水没したりする。床下・床上の浸水も多く、人間には大雨に抗する術がない。

 大雨で大量の降水があった場合、地上に滞留する大量の水を可及的速やかに排水することが最優先だ。都市部なら、側溝などを大きくしたり、貯水地を増やしたり、河川を改修して深く広くしたり、排水用の人工河川の新設などが必要だ。地方なら、人が住んでいる住宅を浸水被害から守ることが最優先となり、川沿いの低地における居住を制限することも必要になる。

 都市部の下水道は「雨水流出率50%、降水量1時間当たり50mmに対応する計画が一般的だが、近年多発する集中豪雨の影響も加わって下水道への負荷は、その限界を超えることが多くなっている」(国交省)。降水量が50mm/時が珍しくなくなり、100mm/時も頻繁に発生している現状を考えると、都市部の排水能力の大幅な向上を急ぐべきだろう。

 大雨が増え、都市部では冠水した道路を走ることを車は余儀なくされ、地方では河川が氾濫する。国も自治体も降雨による水を治めることができていない。温暖化に伴い蒸発する蒸気量が増えるが、大気中に止めることができなくなった水蒸気は降雨となる。つまり大雨は今後も増え続ける。大雨対策を治水事業に組み入れ、まず都市部の排水能力を高めることが急がれる。

2025年8月27日水曜日

憎しみより愛

 相手に初めて会った時から互いに惹かれ、恋に落ちるというのは恋愛物語によくある設定だ。親しくなるまでの段階を簡略化し、惹かれ合う二人がじゃれ合ったり、些細なことで口論になって共に沈んだ心で過ごしながら相手を思ったり-を繰り返しながらハッピーエンドで終わるという物語はよくある。

 相手を愛することは相手を理解することだ。愛する対象として相手を理解するのであるから、好意的な判断が優先する。だから、時には相手を誤解することで相手を愛することもある。愛するという感情は幅広く、特定の人に対する愛のほかに人類愛など不特定の対象に対しても発揮され、また、人以外の対象に対しても喚起される(例えば、趣味の対象や好物など対象は幅広い)。

 愛することと憎むことは表裏一体だとも言われるが、憎む時には相手を理解することは放棄される。相手を理解せずに愛することは難しいが、相手を理解せずに憎むことは珍しいことではない。むしろ、憎い相手を理解することを拒否し、相手の嫌なところばかりを見るようになり、嫌なところを記憶して憎むことを正当化したりする。

 特定の個人に対する愛や憎しみではなく、不特定の他人に対する愛や憎しみがあり、そうした感情が社会を動かし、国際関係にも影響する。世界の多くの人々が人類愛や寛容を共有するなら世界は平和に少しずつ近づくだろうが、他国や他民族などに対する敵愾心や憎しみを持つ人々が多くなり、不寛容が広がると排外主義が各国に現れ、国際関係の緊張は徐々に高まっていく。

 愛することで得るものは、対象の存在に対する肯定感だ。一方、憎むことでは、対象の存在を否定的に見るようになる。否定的な対象に対しては、その排除を許容する感情が生まれやすく、憎まれた相手も憎み返して対抗するだろうから、相互に排除の感情が高まり、対立となって現れ、時には対立が激化する。愛することは対象とともに生きていこうとする機運を高めるが、憎むことで、ともに生きることの価値が低下する。

 政治が絡むと主張の違いが激しい対立となって現れる。異論を許容できない人々は、自分の主張に反する主張をする人々に反発し、さらに相手に対する憎しみとなったりする。最近では、米国でのトランプ支持者と反トランプ派の罵り合いや、欧州などでのパレスチナ支持者とイスラエル支持者の罵り合いなどは、政治的な見解の違いにとどまらず、自分と異なる主張をする人間への憎悪に発展しているような様相だ。

 憎みあうより愛し合うほうが、この世界は平穏で人々は幸せだろう。排除や対立よりも、共生し、共存することのほうが価値ある生き方だろうが、現在の世界は、愛することよりも憎むことが目立ってきている。愛する人々に対しては軍事力の行使は控えられようが、軍事力は行使され、その正当化に軍事力の対象の人々を憎む理由が並べられる。説得する言葉が無力な時代には、愛することよりも憎み合うことがふさわしいのか。

2025年8月23日土曜日

先入観から脱する

 水泳競技では選手はプール内の自分のレーンを往復するだけだ。陸上競技の短距離走では選手は決められたレーンを走り、中距離走では選手はトラックで周回を重ねる。展開が複雑な球技などと違って、単調とも言える運動(泳ぐ、走る)を選手が続けるだけの競技なのだが、どちらもオリンピックでは花形競技だ。

 技の良し悪しなどを審判員が決める採点競技とは違って、観客が出場選手の優劣や勝敗をすぐ理解できるのが水泳や陸上競技だ。泳いだり走ったりする選手の誰かがリードを広げたり、複数の選手が抜きつ抜かれつする様子に観客は声援を送ったり、歓声を上げたりする。分かりやすさが花形競技であり続けることを支えている。

 自転車競技も、展開や勝敗が観客に分かりやすい競技だ。プロが参加するツール・ド・フランスは五輪やW杯とともに世界3大スポーツイベントとされるそうで、欧州では自転車の長距離レースは人気があるという。日本でも長距離レースが行われているが、人気があるのは短距離のレースだ。それは競輪。

 競輪は地方自治体が主催する公営ギャンブルなので、競輪場にはギャンブル常習者が集まっているなどと色眼鏡で見られたりし、競馬が「健全」な娯楽とみなされていることとは対照的だ。JRAの圧倒的な集客力と資金力(マスメディアに大量の広告を流す)の効果でイメージアップが行われた。競輪場にも家族連れがいて、賭けずに見るだけのファンもいるのだが、「健全」な娯楽との社会的な認知には至っていない。

 自転車の短距離競技としての競輪の迫力は、スピードだ。先導員がいて周回する間は時速40キロ前後で走るが、先導員が退避して選手の自由な競争が始まると徐々にスピードが上がる(空気抵抗が大きい先頭を取りたくないと牽制しあって緩むこともある)。そしてゴール前の200mでは各選手が全力でペダルを踏み、時速60キロ以上にも達する。

 バンク(競輪が開催されるオーバルコース。1周が333m・335m・400m・500mの4種類あるが、最も多いのが400m)を周回する選手はラインを組み、他のラインと競うので団体競技の趣きだが、ゴール前の200mでは個人戦となり、各選手は一つでも上位でゴールするべく競う(ラインを組んでいた選手が前にいて邪魔になると、どかして自分が前に出る選手を見ることも多い)。

 「公営ギャンブル=悪」といった先入観から脱して、自由に見ることで競輪のスポーツ競技としての面白さが浮かび上がる。水泳や陸上競技と同じような、選手の優劣や勝敗が分かりやすく、スピードに加え、ラインの駆け引きや選手の位置取りなどで展開は複雑となり、見る楽しさに満ちている競技だ(1レースは3分ほどで終わる)。五輪にも出た選手たちの圧倒的なスピードの迫力は競輪場で実際に見なければ体感できないだろう。

2025年8月20日水曜日

リベラルの衰弱

 リベラル(liberal)を辞書では形容詞として①自由主義の、進歩的な、②自由な、融通性のある、③(教育で)一般教養の、④偏見のない、寛大な、度量の広い、⑤気前のいい、惜しまず使う、⑥豊富な、たくさんの、名詞として①進歩的な人、自由主義者、②(英国などの)自由党員-とする。形容詞としては広い意味で使用される。

 伝統的な文化や支配構造の継続を重視する保守に対し、リベラルは自由を重視し、国や社会に存在する諸問題を解決・解消するために改革を進める立場だ。国や社会には常に諸問題が存在し、それらに対処する必要があるとの認識では差がなかったとしても、保守は急激な変更を嫌うが、リベラルは「思い切った」改革を辞さなかったりする。

 伝統的な文化や支配構造に対する評価は人により様々で、国や社会に存在する諸問題に対する見方も様々だから、保守もリベラルも一枚岩ではない。穏健派から急進派まで保守・リベラルともに幅広く分かれ、ある問題に対しては保守的で、ある問題に対してはリベラルだ-などと個人の考えは複雑だから、保守もリベラルも固定したものではなく揺れ動く。ただし、政治が絡むと立場としての保守やリベラルにとらわれる人が多くなる。

 米国ではリベラルは、黒人の権利拡大を目指すなどの公民権運動を支持し、社会福祉や人々の平等を重視し、経済における規制を行い、環境問題に危機感を持ち、同性愛や人工中絶の容認などを主張する。一方、米国の保守はキリスト教の価値観を大事にし、小さな政府を目指し、経済における規制を嫌い、多様性の尊重より白人優先意識を持ち、同性愛や人工中絶に反対する。

 欧州からの移民により建国された米国では、リベラルも保守も個人の自由を尊重するが、改革を進めるために国家権力の行使に積極的なのがリベラルで、国家権力の関与を嫌うのだ保守だ。しかし、トランプ大統領は権力を積極的に使って、既存のリベラル寄りの政策を変更している。脱リベラルを国家権力の行使により実現し、保守の世界観を実現しようとする。

 共に個人の自由を重視する米国のリベラルと保守だが、鋭く対立し、社会が分断しているとされる。リベラルが国家権力を使って積極的に「改革」を進め、企業行動に制約を課し、気候変動に対する危機感を煽り、環境保護を強め、多様性の確保を強制し、LGBTQの認知を進めるなど社会を変えようとしたことは、保守の人々に対する価値観の強制だった。

 欧米の影響力で、リベラル寄りの価値観に沿った施策が国際的に進められてきた。主張する価値観を政策化したリベラルは、正しさ(polical correctness)を標榜したが、正しさを主張すると妥協がしづらくなり、対立は先鋭化する。トランプ大統領の一方的な政策変更に米国及び世界のリベラルが抵抗できていない現在は、リベラルの理念先行で「地に足がついていない」政策が問われているともいえる。

2025年8月16日土曜日

精神論にすがる

 気持ちの持ちようで状況がそれまでとは違った様相に見えることはある。だが、それは状況が変わったのではない。「成せば成る」とか「やる気があれば何でもできる」「願えば必ず叶う」「努力すれば夢はかなう」などの精神論は根強く残り、「やる気や根性を見せろ」などと組織で管理者が部下などを鼓舞することは廃れていないともいう。

 精神論がはびこるのは状況の分析がおざなりで、有効な対策を見いだすことができていないからだ。対人営業なら強い精神で臨めば相手を圧倒し、優位に交渉を進めることが可能になる場合があるかもしれないが、そういう交渉スタイルは組織相手では効果がないだろう。状況を変えることができず、精神論にしか頼ることができなくなって「負けられません 勝つまでは」などと国中で精神論にすがった過去が日本にはある。

 状況を変えることができないから、「すべては気持ちの持ち方次第」だと精神主義に傾く。合理的な思考や論理の客観性を軽視する風潮が社会に根強く存在すると感情論が優勢になり、精神論や精神主義がはびこる。日本における精神主義について加藤周一氏が論じた(「日本文化の雑種性」1979年=『加藤周一セレクション⑤』平凡社ライブラリー所収。適時省略あり)。

 「日本精神を説く人が純日本風の電車や選挙を説くことはない。そんなことは不可能だからであり、日本風といわれるものは常に精神的なものばかりである。日本の伝統文化を讃える当人が、自分の文章を毛筆で書かず、和綴じではなく西洋風の本にこしらえる」

 「政治、教育、その他の制度や組織の大部分が西洋の型をとってつくられたものだ。精神だけが純日本風に発展する可能性があると考えるのは、よほどの精神主義者でなければ難しいだろう。日本主義者は必ず精神主義者となり、日常生活や下部構造がどうあろうと、精神はそういうものから独立に文化を生み出すと考える。ところが、立論に欠くことのできない概念の多くが西洋伝来の、和風からは遠いものである。自由や人間性、分析、綜合などの概念を使わずに人を説得する議論を組み立てることは、議論の題目によっては不可能であろう」

 「日本の文化の雑種性を整理して日本的伝統にかえろうとする日本主義者の精神がすでに翻訳の概念によっって養われた雑種であって、翻訳の概念を抜き取れば忽ち活動を停止するにちがいない」

 「日本の文化は根本から雑種であるという事実を直視することを避け、観念的に日本文化を純粋化しようとする運動は、近代主義にせよ国家主義にせよ、枝葉の刈り込み作業以上のものではない。その動機は劣等感であり、劣等感から出発して本当の問題を捉えることはできない。本当の問題は、文化の雑種性そのものに積極的な意味を認め、それを、そのまま活かして行くときにどういう可能性があるかということであろう」

 日本主義は外国を意識したところから生じ、外国に対抗する何かを構築しようとする。だが、その構築の方法論が外国の影響下にあるので、外国を否定して日本の優位性を訴えても「借りもの」の議論でしかないことを加藤氏は指摘する。外国の影響を受けていない日本人が珍しい状況では、精神主義や精神論は感情や情緒に引きずられる。

2025年8月13日水曜日

部分の受け入れ

 日本は歴史的に外来の文化を取り入れてきた一方、独自の文化を育んできた。頑なに独自の文化に固執することが少なく、日本独自の文化と外来文化との対立・衝突は限定的で、うまく外来文化と共存してきた。外来の文化の流入が大量の人の移動を伴わず、日本人の主導によって「欲しい」部分だけを取り入れてきたからだろう。そのあたりのことを加藤周一氏は次のように語る(「中国の屋根の反り」1979年=『加藤周一セレクション④』平凡社ライブラリー所収。適時省略あり)。

 「日本の文化的伝統は枠組みと領域において、中国・西洋の文明の伝統とは根本的に違う。日本精神は体系化に向かわず、抽象的合理性を好まない。自然に対して自己を主張することにではなく、自然に従って生きることに文化の眼目を認める」

 「このような日本文化が中国文明の体系と対決したことはない。両者の接触は、補足的な関係の日本側での敏捷な利用ということに尽きる。補足的な関係において、相手の長を採るのに当方の長を捨てる必要がない。一方を捨て他方を採る思想的決断の問題ではなく、便宜に従う戦略上の問題に過ぎない。大都市の計画や大寺院の建物の配置は、日本側にないから唐の例に従う。住み慣れた住宅は日本で発達した日本流」

 「同じことは西洋文明に対してもいえる。19世紀後半の西洋と日本の文化は、対決したのではない。根本的に違い、互いに補足的な二つの文化が出合ったのであり、西洋側はそのことを理解しなかったが、日本側はその相互補足性を見抜いた。日本において近代化が、西洋文化の圧倒的な影響のもとに中国の場合よりも早く成功したのは、そのためである」

 「日本の対外関係の歴史は、補足的な使い分けと折衷主義の歴史であった。中国の対外関係の歴史は、対決と拒否または回心の歴史だ。西洋思想への回心は容易におこらず、民族的水準では文化大革命において徹底した。毛思想は折衷主義ではない。マルクス・レーニン主義の原則・枠組みを全面的に受け入れ(比喩的にいえば回心)、内容を中国に固有の条件との関連において、あらためて定義した。中国共産党はマルクス主義の長を採り、短を捨てたのではない」

 「補足的関係において相手をみることは、相手を部分において見ることである。相手の体系の全体と対決する機会がなければ、相手の全体と理解する機会もない(補足的関係が成立したのは、日本側に体系的思考の習慣がないからだ)。

 部分的現象は体系から必然的に導き出されるものであるから、体系の理解を前提としないときに相手側の部分は偶発的にみえる。その部分を、相手側の全体との関連においてではなく、こちらの全体との関連において意味づけるほかはなくなるだろう。何が我々の役に立つのか。そういう考え方は、相手方の体系の理解を遠ざける」

 「対決がないということは、大きな長所を意味すると同時に大きな弱点をも意味する。対決がなければ、真の接近もない。中国も西洋諸国も日本からみれば、原理的に不可解な仕組みで動いている。中国と西洋諸国には、対立があれば接近もある。ものの考え方の枠組みは似ているのであり、文化の基本的な原理は異質ではない」

 歴史的に世界で人々は行動範囲を広げ、異なる文化の摩擦を各地で生じさせ、優位な文化による制圧は珍しくはなかった(例えば、植民地采配)。外来文化を取り入れつつ日本が独自文化を保つことができたのは、外来文化の部分を日本人が主体的に取り入れてきたからだと加藤周一氏は指摘する。主体性を維持することで外来文化に圧倒されることはなかった。

2025年8月9日土曜日

高騰するウニ

 資源量の減少などで国内産のウニの価格が高騰を続けている。もともと漁獲量が限られているウニは価格が下がりにくかったが、海水温の上昇や磯焼けなど海の環境変化が顕著となって収穫量が減るとともに、収穫後の人手による選別や加工が必要なウニだから人件費の上昇などにも影響される。一方で、寿司や海鮮丼に欠かせなくなり需要は減らない。

 以前からウニは高級食材だったが、値上がりしても人気は落ちない。「高くても食べたい」と旺盛に消費される。小樽や函館などウニが名産とされる観光地では、7千円台のウニ丼は珍しくなく、高級なウニを使ったものは1万円を超すという(安いものは3千円台もあるとか)。ウニ丼は、高くなったと言われるウナギ以上の高級(高額)料理となった。

 ウニの漁獲量は全国で6518トンで、1位の北海道が3656トン、次いで岩手県999トン、宮城県568トン、青森県372トンと続き、上位4で全国の8割以上を占めた(2022年)。全国計の漁獲量は2019年は7880トンだったが、2020年は6650トン、2021年に6687トンと減った。1970年には2万トン以上あったが、2010年に1万トン割れとなった。

 漁獲量が減っているので、旺盛な需要を支えているのは輸入物だ。世界でもウニは以前から食べられているので各国で漁獲されており、日本に輸出されている。国内消費の8割は輸入ウニでまかなわれていて、主要輸入相手国はチリ、ロシア、アメリカ、カナダ、中国などだ。年中、ウニを食べることができ、回転寿司で安価に提供されているのも輸入ウニがあるからだ。

 世界でウニの漁獲量は6万トン以上あるとされ、第1位のチリは3万トン以上にもなる。チリをはじめ各国で収穫・加工されたウニの多くは日本に輸出され、日本が世界のウニ消費量の7割以上を占めているという。高級なウニは日本産で安価なウニは輸入もののイメージがあるが、日本の業者がチリなど海外産地で技術指導やノウハウ伝授を続けてきて、輸入ものにも日本産に劣らない品質のものがあるそうだ。

 縄文時代の遺跡からウニとみられる殻が発見され、8世紀の「風土記」にウニ食の記録があるなど日本人は古くからウニを食べていた。明治時代に塩漬けウニや粒ウニなどが誕生して広く流通するようになり、ウニは日本で一般的な食材となった。ウニの種類によって味わいは様々だが、高級感を手軽に味わうことができるウニは日本人に愛されてきた。

 周囲を海に囲まれた日本で人々は様々な海産物を食べてきた。刺身など海産物を美味しく食べる調理法を編みだし、多彩な日本食の世界を築き上げた。その日本食人気が世界に広がり、ウニの味を好む人も世界に増えただろう。中国など各国でウニの消費が増えれば世界でウニが取り合いになり、価格はさらに高騰し、ウニは「超」高級料理になりそうだ。その頃にはウニは国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定されているかもしれないが。

2025年8月6日水曜日

記憶の伝承

 1945年の敗戦以来、日本が直接に関わった戦争はないが、明治以降、日本の軍隊が関与した戦争が続いていた。日清戦争や日露戦争、第1次大戦などほぼ10年おきに日本は参戦し、負けなかった。だが「勝ち戦」であっても、死傷する将兵は少なからず存在し、肉親を失った人々は悲嘆にくれただろう。それらの戦争の記憶の伝承の重要さを説く声は現在ではほぼない。

 国内が戦場になった戊辰戦争でも多くの将兵が死傷し、戦禍に巻き込まれた人々も多かっただろうが、現在では戊辰戦争は歴史の1場面の扱いとなった。人々の記憶は様々に語り伝えられたのだろうが、それらを今なお語り伝えるべきだと主張する声は皆無だ。戊辰戦争に関わった生存者はほぼいなくなり、語り継がれた記憶は歴史の中に埋もれ、記憶の伝承は終わった。

 戦禍に巻き込まれた日常や戦場での悲惨さや苦しみなどを具体的な体験として伝えることは、戦争の愚かさを直感的に人々に理解させ、平和の尊さを再認識させるために効果があるだろう。しかし、個別の具体的な体験は戦争の細部を伝えるものであり、戦争の全体像ではない。

 体験者の記憶に偏重して戦争が語られると、「戦争は嫌だ」との感情に偏った戦争観が育まれる。戦争は愚かなことであり、廃絶されるべきものだ。だが、第二次大戦後も世界各地で戦争は繰り返されてきたし、ロシアやイスラエルの武力による領土拡大が続き、国際社会が座視するだけの現在、世界平和への歩みが後退していることは明らかだ。利害が衝突した諸国や、領土拡張を狙う諸国が軍事力を行使することはこれからも続く可能性が高い。

 戦争がなくならないという現実に対して、戦争は嫌だとの感情論だけでは無力だ。戦争は嫌だとの感情が優先すると、現実に世界で起きている戦争を「嫌だ、嫌だ」と否定することで済ませ、現実の戦争について知ること・見ることを軽視する。外国で起きている戦争などに関心を向けない人々は各国に珍しくないだろうが、それも世界平和の気運を弱めている。

 世界で「戦争はなくならない」という現実を多くの人々は知っており、戦争の廃絶は不可能だと思っているのかもしれない。だから、1945年以来、戦争に巻き込まれたことがない日本で、日本人が体験した「負け戦」の記憶の伝承が重視される一方、世界で起きている戦争に対する抗議活動は弱い(ベトナム戦争に対する反戦活動は例外か)。日本だけが戦争に巻き込まれなければいいと考えるなら、日本人が体験した戦争だけの記憶の伝承が戦争嫌悪のために役立つだろう。

 自国民が体験した戦争体験を特別のものとして扱うのは日本に限ったことではない。これは国民・民族としての記憶の形成過程だろうが、連合国諸国のように勝者としての戦争の記憶であるなら、戦争を肯定的に捉えるだろう。日本のように敗者としての記憶であるなら、「戦争は嫌だ」との思いを掻き立てるだけにとどまる。

2025年8月2日土曜日

リスナーの声

 局から一方的に電波を発信するのはテレビ放送もラジオ放送も同じだが、視聴者や聴取者ら電波の受け手の声を積極的に番組づくりに取り入れてきたのはラジオ放送だ。電波を送る側と受け手の活発なやり取りや巧妙な掛け合いなどでラジオ番組は聴取者を楽しませる。

 テレビ番組は事前に収録することが多く、生放送のニュース番組では内容が事前に決められているだろうし、お昼のワイド番組では並んでいるコメンテーターに喋らせるので、視聴者の声を取り上げる必要もない。ラジオ番組は生放送が多く、おそらく低予算でスタッフの人数も限られる中で、番組を盛り上げていくには聴取者の反応を取り込んで、話題を展開させる。

 現在はツイッターなどがあるのでリスナーの声を番組に反映させることは容易になった。SNSがなかったころは聴取者は番組にハガキを送ったり、生放送中にスタジオから聴取者に電話をかけたりして、受け手の声を番組に取り入れていた。一方的に送られてくるラジオ番組だが、コミュニケーションの場になっていた。

 一方、ラジオ番組のパーソナリティが各地に出向いて、様々な人々に会って、その声をスタジオに持ち帰ることに努めていたというのが永六輔氏(宮本常一氏の助言だという)。聴取者の大半はハガキを出さず、ただ番組を聴いているだけだが、その人々にも番組で取り上げるべき主張や指摘があるはずだから、それをパーソナリティが汲み上げて、スタジオに持ち帰って番組に反映させるとする。

 そうした行動はおそらく永六輔氏のほかには誰も行っていない。電波の受け手の声を聞きに行くことよりも、ハガキや電話やSNSなどで寄せられる電波の受け手の声を適当に紹介しておくだけでラジオ番組が成り立つのだから。それに、永六輔氏のように全国各地を訪れることを年中行っている人もいないだろう。

 人々に身近でアクセスしやすい存在であっても、ラジオの聴取者で「ほぼ毎日」聴く人はAM放送で17.7%,、FM放送で14.3%だ(総務省調査)。調査では聴取者は男性は40代〜70代、女性が70代と比較的高く、ラジオ聴取者の半数を占める。インターネットラジオでは学生の比率が高く、聴取機器はカーオーディオ、スマートフォン、据え置き型ラジオの順で、自動車乗車中の聴取が多い。

 情報源としてテレビとインターネットが圧倒的に利用され、ラジオの存在感は小さく、新聞閲読時間とラジオ聴取時間はほぼ同じだ(総務省調査)。10代・20代のモバイル機器(スマホなど)によるインターネットの平均利用時間は長く、平日の10代・20代はともに250分を超過し、休日の10代・20代では300分を超過する。

 情報源として重視されなくなったラジオだが、SNSで誰もが情報発信できる時代になったとはいえ、放送で自分の投稿が読まれて電波に乗ることに誇りや満足感などを感じる人もいるだろう。そうした人々の投稿によってラジオ番組は支えられているが、投稿する人々が限られているとしたなら、特定の人々のコミュニケーションの場と化したラジオ番組は聴取者の幅を広げることが簡単ではない。開かれたコミュニケーションの場を維持することがラジオ番組にとっては需要だ。

2025年7月30日水曜日

平和賞と関税

 ノーベル賞の各賞はスウェーデンが受賞者を決めるが、平和賞だけはノルウェーのノーベル委員会が選考し、受賞者を決め、オスロの市庁舎で授賞式が行われる。2010年に平和賞を受賞した中国の劉暁波氏は民主運動家で、当時服役中だった。劉暁波氏への平和賞授与に中国政府は猛反発し、ノルウェー産サーモンの輸入規制や政治交流の停止などを行い、両国関係が正常化したのは2016年だった。

 ノルウェーは日本とほぼ同じ面積だが人口は525万人(2022年)。EU加盟を1994年の国民投票で否決しており、「EU加盟により得られる利益に懐疑的な国民世論、EU加盟による自国農業及び漁業への影響に対する懸念等が理由。最近の世論調査でも依然として加盟反対派が過半数」だが「EUとの協力関係は緊密で広範囲に及び、大部分のEU指令を国内に適用」(外務省)。NATOの原加盟国。

 EEAには加盟しているノルウェーはEU単一市場にアクセスする権利を持ち、石油や天然ガスなど輸出の3分の2がEU向けとされる。ノルウェーの名目GDPは4837億ドルで世界32位だが1人当たりGDPは8万6611ドルで世界6位だ(7位が米国で8万5812ドル。2024年、IMF)。主な輸出品は原油・天然ガス、水産物、非鉄金属で輸出先はEU諸国が上位を占め、輸入先はスウェーデン、中国、ドイツ、米国などとなる。

 ノーベル賞の科学3賞は評価が定まった業績を挙げた人に対して授与されるが、平和賞は国際紛争など進行中の事象に関係する人や団体が受賞者になることがあり、疑問や反発が生じたことは度々あり、立場が異なる側から批判が出やすい。平和とは「戦いや紛争が発生していない状態」だから平和は政治によって維持されたり破壊されたりし、また、戦いや紛争が発生していなくても鋭い緊張状態にある地域も多いので、平和賞の受賞者の選定は政治的に解釈される。

 平和賞は「国家間の友愛、常備軍の廃止あるいは削減、和平会議の開催と促進に最大あるいは最善の貢献を行った」人々に授与すべきとのアルフレッド・ノーベルの遺言に基づく。各国が推薦した候補の中からノルウェーのノーベル委員会が選考して受賞者を決める。

 米トランプ大統領はノーベル平和賞を欲しがっていると見られていたが、報道によると6月にトランプ大統領は、米国の仲介によるDRCとルワンダの和平協定など世界各地の紛争を仲介してきたとし、「4、5回はノーベル平和賞をもらうべきだった」と述べ、「私は受賞できない。なぜなら、彼らはリベラルにしか授与しないからだ」と主張した。

 パキスタンやイスラエルはトランプ大統領をノーベル平和賞に推薦すると表明した。トランプ氏に「恩を売る」絶好の機会だ。だが、各地の紛争を仲介する一方でイラン爆撃なども行うトランプ大統領に平和賞が授与されるか不明だ。今年のノーベル平和賞が授与されなかった時、トランプ大統領は「選考が公平ではなかった」としてノルウェーに高い関税を課すかもしれないな。ノルウェーの水産物の大消費国は米国だから。

2025年7月26日土曜日

猛暑にも負けて

 夏の猛暑は本州以西では毎年のことだが、今年は北海道でも連日、最高気温が30度台後半という猛暑日が続いた。この猛暑は、偏西風が北へ蛇行し、北海道を含め日本列島が太平洋高気圧に覆われ続けたことと、太平洋高気圧の上層には大陸のチベット高気圧が張り出し、二重の高気圧がそれぞれ暖かい空気を吹き下ろしたため、晴天が続き、猛暑が続いたとされる。

 欧州でも猛暑となり、スペイン南部では最高気温が46度となり、フランスやポルトガルでは最高気温が40度を超えた地域があり、欧州の12都市で約2300人が6月23日〜7月2日の10日間に熱波が原因で死亡したとの推計が出ている。ジェット気流が弱まり、強い高気圧に覆われ続けたことに加え、平均水温が最大9度上昇した地中海から供給される熱があり、猛暑が続いたとされる。

 温まりやすく冷めやすい陸地より海のほうが熱を蓄える。「1971年〜2018年の48年間で気温の上昇や氷の融解などを含む地球上のエネルギー増加量の約56%が海洋の表層(海面から深さ700mまで)に、約35%は海洋の700mより深いところに蓄えられた」「海洋貯熱量の増加は海水温の上昇を意味」する(気象庁)。

 日本近海でも海水温が上昇し、漁獲量の減少や魚種の変化をもたらしているとされる。日本近海の「2024年までの海域平均海面水温(年平均)上昇率は100年あたり+1.33℃の割合。 この上昇率は、世界全体で平均した海面水温の上昇率(100年あたり+0.62℃)よりも大きく」、海域別では「オホーツク海南部、日本海、北海道南東方で引き続き海面水温が平年よりかなり高く」「本州東方、東シナ海北部、四国・東海沖で海面水温が平年よりかなり高い海域が縮小したが、引き続き広い範囲で平年より高い」(2025年、同)。

 かつて「日本は周囲を海に囲まれている。海は陸地より温まりにくいから、温暖化を過剰に恐れる必要はない」旨の主張があった。実際に日本近海で海水温の顕著な上昇が観測されている現在、周辺の海洋から供給される熱により、日本において夏の猛暑などが今後も続く可能性がある。さらに、猛暑の熱が広大な海洋に毎年蓄熱されることにより猛暑の程度が増すだろう。

 関東の内陸県に住む友人は、「猛暑にはクーラーだけが頼りだ。クーラー使用の増加による排熱量の増加が猛暑に拍車をかけている気がするが、猛暑には勝てない」と猛暑に抗することを諦め、増加する電気代のことは考えないことにし、「生き延びる」ことを最優先にせざるを得ないと言う。そんな友人が、宮沢賢治の詩をアレンジしたという次のような自作を披露した(一部省略)。

 雨にも負けて/風にも負けて/雪にも夏の猛暑にも負けて/自然には抗えない脆弱な体を持ち/欲はなくならず/いつもSNSの話題に振り回される/あらゆる事で自分の利害を勘定し/関心を持つ情報だけを見聞きし/批判されたら忘れない/東に投資話があれば一口加わり/西にスキャンダルで消えたタレントがあれば面白がり/北に戦争があれば勝てそうな側につく/日照りの時は天を恨み/猛暑の夏はオロオロ歩き/皆にデクノボーと呼ばれ/誉められもせず苦にもされず/そういう者に私はなりたい、か?

2025年7月23日水曜日

クマとクレーマー

  北海道南部の福島町で新聞配達員の男性を殺害したヒグマが駆除された。駆除されたヒグマは体重218kg、体長2m8cmで、年齢は推定8~9歳。このヒグマは男性を約100m離れた草むらの中まで引きずっていたが、4年前に同町内で女性を殺害したクマのDNAとも一致した。人間を襲うことを学習したクマは、麻酔銃で眠らせて山奥に放したとしても人里に戻ってくる可能性が高いだろう。

 クマが駆除される前、町民は怯えて外出を控え、子供の徒歩での通学は止め、店舗の営業終了時間が繰り上げられ、昆布干しなど屋外での作業にも影響が出て、民宿にはキャンセルが相次いだと報じられた。人を殺害するクマが町内に出没するという現実に町民は無力だった一方、同町役場に「クマを殺すな」などの抗議電話が相次ぎ、その大半が町外からのものと見られるという。

 クマの出没情報は全国で相次ぎ、負傷する人が増えている。2023年には秋田県美郷町の店舗にクマが侵入し、捕獲されて駆除されたが、「駆除するな」などの抗議電話が町役場に増え、電話に出た担当者に「クマを殺すならお前も死んでしまえ」などの感情的な言葉があったという。秋田県知事は「これは業務妨害だ」とした。その多くが県外からの電話だったという。

 北海道ではヒグマ、本州ではツキノワグマの出没が珍しくなくなったが、おそらく都会に住む人にはクマに対する恐怖は現実的なものではなく、「クマちゃん、可哀想だよ」程度の気持ちと、動物愛護が無条件で最優先するとの思い込みなどから義憤を感じて電話したのかもしれない。中には「もともとクマが生息する土地だろう」などの言葉があったというが、そうした言葉は地方に対する歪んだ優越感を示す。

 都会のある地区に、無差別に人を殺傷した容疑者が凶器を持ったまま逃げ込んだとなると、そこの住民は怯えるだろう。「クマちゃん、可哀想だよ」などと抗議電話をかけた人は凶悪犯がどこに潜んでいるのか分からないという状況に直面して、やっと日常に潜む恐怖を現実に感じることができるだろう。都会に住む人も想像力を働かせれば、クマ出没に怯える地方の人々のことを理解できるはずだが、抗議電話をかける人にはそんな想像力もなくなっているようだ。

 こうした電話をかける人はクレーマーの一種だ。総務省は4月に、「行政相談においても、業務の範囲を超える要求や、社会通念上明らかに程度を越える手段・態様による要求への応対が看過できない問題となって」いるとした。電話による「業務の範囲や程度を明らかに超える苦情相談」が継続した場合、「不当な要求や著しい迷惑行為を伴う要求には対応できないことを伝えた上で、応対を打ち切る(電話を切る)」と明確化した。また、電話及び来訪による相談については「相談内容の正確な把握・記録のため、原則として録音をする」ことを明記した。

 行政機関は商業施設とは異なり、住民サービスは責務であり、「客」を選別することはできず、丁寧な応対が求められる。だが、限度を超えた要求・主張に限ってカスハラとしての対応が許容されるようになったのだから、「クマちゃん、可哀想だよ」などの抗議電話はクレーマー扱いしておけばいい。ただし、相手の姓名、電話番号などは記録して今後の対策の資料にすることは必要だ。

2025年7月19日土曜日

タレントにタメ口

  名を知られて有名人になると、自分は特別な人間だとの意識を持つ人がいる。名を知られたのが不祥事に関わることだったりすると、世間から隠れようとして、外出時には自分の存在を周囲に知られないようにする。一方、顕著な功績によって名を知られた人は、有名人になったことを意識しながら、それまでと同じ生活を続ける。

 タレントが名を知られるのはテレビ出演などによるが、テレビに出演することが顕著な功績だとは一般には見なされないだろう。だが、タレントの中にはテレビ出演が多くなると、テレビ出演が多いのは自分の才能によると自負し、さらには自分が選ばれた人間であるとの自意識を育み、一般人とは違う人間だと思い始める人々もいるようだ。

 歌手や俳優らの芸能人はスターと呼ばれることもある。スターとは「人気がある花形」で、スターだとメディアなどから扱われ、ファンに囲まれたりするうちに本人もスター意識を持ったりする。歌唱や演技が人々から称賛される歌手や俳優がスターとなるが、スターになれない歌手や俳優は多い。一握りの歌手や俳優がスターになり、本人もスターだとの自覚を持つだろう。

 テレビのバラエティー番組だけで露出の多いタレントも、人々に注目されたりし、名が知られていると満足してスター意識を持つ人もいるだろう。その場合のスター意識を支えるのは、自分の存在で人々が騒ぐことやテレビ出演を続けていることだったりする。そうしたタレントの「芸」が何かは不明だが、人々はテレビ出演しているタレントを有名人扱いする。

 テレビ出演で名を知られているタレントは人気はあるが、スターとは違う雰囲気だ。仰ぎ見る存在というより、面白いことを言ったり、はしゃいで見せたり、親しみやすさなどをテレビで披露して人々を楽しませる道化師のような存在だ。人々を楽しませることでは寄席芸人と同類なのだが、テレビの影響力は大きいのでタレントというテレビ芸人は有名人扱いされる。

 そうしたタレントがスター意識を持つと、自分は特別だと思ったりし、自分は一般の人々の上位に位置すると勘違いする人も出てきて、スター扱いされることを当然とする。そうしたタレントがテレビの街歩き番組などで、出会った一般の人の中にタメ口で話しかける人がいたりすると、苦笑したり、戸惑った表情を見せる。自分は特別だと勘違いしているタレントを見分けるには、タレントを人々が特別扱いせずに接することが有効だな。

 名を知られて有名人になっても「自分は市井の一人の人間です」と振る舞うことができる人は、自分を律することができている。だが、テレビに出ることで人気も金も得ることができると過大な期待にとらわれた人が、うっかりテレビ芸人として名が売れたりすると、スター意識やセレブ意識が膨れ上がり、その意識に見合った扱いを周囲や人々に要求したりする。タレントが特権意識を持っているのかを試すには、街頭ロケなどで出会った人々がタメ口で話してやることだ。

2025年7月16日水曜日

4文字の略語

 大統領選でトランプ陣営が使ったスローガンのMAGA(Make America Great Again=アメリカを再び偉大にしよう)は支持者を中心に共有されて広まり、世界でも知られるようになった。一方、いろいろな4文字の略語が作られるようになり、面白がられたのはTACO(Trump Always Chickens Out=トランプはいつも腰砕け)だった。

 外報によると他にも、MEGA(Make Europe Great Again=欧州を再び偉大にしよう)やMAGA(Make America Go Away=米国は出ていけ)、FAFO(Fuck Around and Find Out=好き勝手にやれば痛い目を見る)、YOLO(You Only Live Once=人生は一度きり)などの4文字略語が現れたという。

 英語の4文字略語は多く、AIDS(Acquired Immune Deficiency Syndrome)、ASAP(as soon as possible)、HTML(Hypertext Markup Language)、http(hypertext transfer protocol)、ICBM(Intercontinental Ballistic Missile)、JPEG(Joint Photographic Experts Group)、LGBT(lesbian, gay, bisexual, transgender)、Wi-Fi (wireless fidelity)、PTSD(post-traumatic stress disorder)、SOHO(small office 、home office)など日本でも使われているものも多く、NASAやSWAT、GAFAなど固有名詞扱いとなった略語も多い。

 誰にでも4文字略語を作ることはできるから様々な4文字略語が今後も現れるだろう。思いつくまま作ってみると、MAFA(Make America Funky Again=アメリカをまたファンキーにしようぜ)。Greatは政治家が言うと解釈の範囲が狭まるが、ファンキーは「個性的で魅力がある」で、個性や魅力の解釈は個人に委ねられ、多様な人々が自由に生きることを認め合う社会にふさわしい。

 最近のジャズにうんざりした往年のジャズを好む人なら、MABA(Make America Bebop Again=アメリカでビバップをまた演ろうぜ)か。少ないコードの曲で細かい音を連ねて演奏しまくるモード奏法が増殖して、どれもこれも似たように聞こえ、「どうしてジャズはこんなふうになってしまったんだろう」と違和感ばかりが募るファンは、CDなどでビバップを聴いて楽しみ、「これでいいいんだよ」と思う。

 自国第一主義を掲げるのは米国だけではなく、中国はMCGA(Make China Great Again=中国の偉大な復興)だ。中国の自国第一主義が危ういのは、軍事力で領土を拡張することを想定しているらしいことで、周辺諸国は迷惑している。「Great Again」政策を掲げる国家は、国内的には愛国的な求心力を高めるが、国際的には他国との摩擦を繰り返す。MCFA(Make China Friendly Again=親しみやすい中国に戻る)には時間が相当かかりそうだ。

 日本でMJGA(Make Japan Great Again=日本を再び偉大にしよう)を掲げた場合、いつの時代を偉大とするかで議論が出そうだ。バブル華やかな頃か、高度成長期か、日本軍が外国で戦勝を続けていた時代か。どの時代にも負の側面があり、庶民か富裕層か権力者かーなど視点次第で評価は変わるだろう。MNGA(Make Nissan Great Again=日産をまた偉大にしよう)なら、社内派閥には興味がなく、有能で実行力があり、報酬に執着がない経営陣が必要だな。

2025年7月12日土曜日

被害者とカモ

 SNSの投資話につられて、高齢者が数百万円から1千万円以上などの大金を奪われたとのニュースを見聞きすることが多い。警察などが注意を呼びかけているが、同様のニュースは一向に減らない。投資詐欺に関する相談件数は2023年に8398件(うち7157件が被害後の相談)で、相談者は60代以上が約39%、40代以下が約36%と高齢者が多い。10年前は2060件だったので4倍以上に増加した(金融庁)。

 高齢者は投資詐欺に狙われているとの自覚を持って警戒するべきだが、相手は「プロ」の詐欺集団だ。手口は巧妙で日々変化しているが、最初の投資で儲けさせ、徐々に投資金額を上げさせる手法が多いようだ。投資詐欺の手口は、「未公開株・新規公開株」関連、「外国通貨や暗号通貨」関連、「権利」関連(風力発電や太陽光発電、新技術などに関係する権利や知的財産権などへの投資)などがあり、複数の会社を装った複数の人間が1人の消費者を騙しにかかる「劇場型」の手口や「プロ向けファンド」を装う手口もある(金融庁)。

 投資詐欺を見破るポイントは、▽聞いたことのない(金融庁への登録も確認できない)業者からの勧誘▽「上場確実」「必ず儲かります」「元本は保証」「後から買い取ります」などの言葉▽未公開株や私募債の取引の勧誘▽同じ株式・社債などを複数の業者が勧誘▽公的機関の委託などを装う勧誘▽公的機関を連想させる名称を使っている勧誘-などだ(金融庁)。SNSで親しくなってから投資話に引き込む例も多いとされ、詐欺業者は警戒心を弱めるテクニックを磨いている。

 こうしたニュースでは、騙されて大金を奪われた人々は詐欺の被害者とされる。大金を奪われた人々は、おそらく生活費ではなく、溜め込んだ資金を増やすことができると欲に駆られて投資話に乗ったのだろう。投資は自己責任であるが、儲け話の詐欺に騙されて大金を奪われるのも自己責任だ。何度も送金している事例が多いのは、すっかり騙されていたことを示すとともに、いかに欲に駆られていたかをも示している。

 欲につられて、まんまと大金を騙し取られた人々は、同情すべき対象か、冷ややかにカモだと見ておけばいい対象か。生活費を巻き上げられた人なら同情の対象になるだろうが、生活に余裕のない人が数百万円も投資できるものだろうか。詐欺の被害者であっても、欲に駆られて溜め込んだ資金を投じた人に対しては自己責任をもっと問うべきではないか。

 投資詐欺に引っかかって溜め込んだ資金を奪われた人々に対して、間抜けなカモだと笑ってす済ます社会なら、「騙されるほうにも責任がある」ことが常識となる。そうした社会では、人々の警戒心は高まるだろう。警察などがしきりに投資詐欺に対する注意を呼びかけても、騙される人が次々と現れる日本社会は人々の警戒心がゆるく、詐欺師集団にとって魅力的な「市場」だろう。

 詐欺話に乗って大金を取られた人々を批判的に扱うことは大衆相手の商売である報道機関にはできず、被害者として扱う。報道機関は同情心を煽ることを好むから、騙された人々の責任を問うことはしない。そうして、いつまで経っても騙される人々が減らず、警察などが注意を呼びかけることが続く。金を溜め込んだ人々は欲深で、おいしい儲け話に弱いとすると、投資詐欺はなくならない。

2025年7月9日水曜日

軍事力の時代

 イスラエル軍がイエメンのフーシ派が支配するホデイダ港など3カ所の港と発電所を空爆した。フーシ派によるイスラエルへの度重なる攻撃に対する反撃とされ、イスラエルの国防相は、フーシ派は「自分らの行動に対して重い代償を払い続ける」とし、「イエメンの運命はテヘランと同じだ。イスラエルに危害を加えようとする者は誰でも危害を受ける。イスラエルに対して手を上げる者は、その手を切り落とされる」と表明したそうだ。

 2015年の内戦勃発以来、3勢力を中心に諸勢力が争うイエメンで、シーア派系のフーシ派は親イラン武装組織とされ、イランの支援を受けているとされる。「イエメン全土で、イエメン政府と反政府勢力との衝突やイスラム過激派組織などによるテロ・誘拐事件が発生している。在イエメン大使館は治安悪化のため2015年2月をもって一時閉館中」(外務省)。

 ガザのハマスやレバノンのヒズボラというイランが支援するシーア派武装組織は、イスラエルによる軍事行動や幹部らの暗殺で弱体化し、残っているのはイエメンのフーシ派とイラクの親イラン民兵組織だ。中距離弾道ミサイルを保持するフーシ派はイスラエルに対するミサイル攻撃を繰り返していた。イスラエルは、ホデイダ港がイラン製の武器や軍事装備品などの輸送に使われ、フーシ派が拿捕した自動車輸送船のレーダーシステムが、紅海などでの活動に使用されている-などと今回の攻撃を正当化した。

 今回のイスラエル軍の攻撃でフーシ派がどのような打撃を受けたのかは詳らかではないが、中東各国に張り巡らしたイスラエルの情報網により狙いを定めた攻撃であったとすると、相応の効果はあったものと推察される。イスラエルはガザを制圧し、ヒズボラを弱体化させてレバノンも制圧、防空能力を低下させて空爆をいつでも可能にしてイランも軍事的に事実上、制圧した。

 エジプトとヨルダンに加え、UAE、バーレーン、スーダン、モロッコと国交正常化して関係改善したイスラエルは、軍事力で周辺諸国の「無力化」を進める。ヨーロッパなどから移住したユダヤ人がパレスチナの土地にイスラエルを建国したのは1948年5月。それから77年、周辺諸国との4度の戦争を戦い抜き、各地の武装勢力との戦闘も戦い抜いたイスラエルは、人工的に建国された国ではあるものの、確固とした存在となった。

 それを支えるのは圧倒的な軍事力と、中東を追い出されたなら再び、放浪の民となるので、戦い抜く強い決意を共有する人々の存在だ(さらに中東各国に張り巡らした情報網の効果も大きい)。イスラエルは国家の存続を圧倒的な軍事力で確保した。ウクライナ侵攻を続けて停戦に応じないロシアも、軍事力で周辺諸国への介入を繰り返し、既成秩序の変更を進めている。

 米国は空爆でイランに譲歩させ、中国は太平洋での海軍や空軍の行動能力を誇示するなど、軍事力で国際関係が変化する「軍事力の時代」になった様相だ。軍事力に対抗できるのは軍事力だけだから、世界は軍拡競争に向かうだろう。イスラエルやロシア、米国が示したのは、軍事力で既成秩序を変更し、世界を動かすことができるという現実だった。平和や共存などを求める言葉が無力であるのは「軍事力の時代」の特徴だ。

2025年7月5日土曜日

記憶か記録か

  WHOによると世界の新型コロナウイルスの累計感染者数は7億6366万5202人、累計死者数は691万2080人だ(2023年4月16日時点)。地域別に見ると(累計感染者数・累計死者数の順)、欧州は2億7554万人・222万人、南北アメリカは1億9199万人・294万人、西太平洋は2億233万人・40万人、南東アジアは6092万人・80万人、東地中海は2333万人・35万人、アフリカは952万人・17万人。

 日本の累計感染者数は3380万3572人、累計死者数は7万4694人だ(2023年5月9日時点。全数把握による感染者数の発表は2023年5月8日が最後。米ジョンズ・ホプキンス大は2023年3月10日にデータの更新を終了)。日本を含め世界で大惨事をもたらした新型コロナウイルスだが、発生源は不明だ。中国武漢市の卸売市場から広がったとか武漢ウイルス研究所から流出したとか推測されている。

 25年6月に公表した報告書でWHOは、必要な情報・データの不足で「結論は出ていない」とした。その上でコウモリなどの動物から人への感染が「最も裏付けのある仮説」とし、武漢市の研究所からのウイルス流出説について信憑性を「評価できない」と判断を保留した。米下院特別小委員会は24年12月に公表した報告書で、武漢の研究所での事故がパンデミックを引き起こしたウイルスの起源だとした。

 都合が悪いデータは隠す中国が、WHOが必要とする情報・データを提供する可能性は低く、新型コロナウイルスの起源は不明のままに終わりそうだ。7.6億人以上が感染し、約700万人が死亡したパンデミックの記憶を世界の人々は語り継ぐだろうが、起源や発生源が隠されたままでは正確な記録を作成することはできない。次のパンデミックに備えるためには記憶よりも正確な記録が必要だ

 新型コロナウイルスは感染拡大を繰り返した。日本では2020年4月頃に感染拡大の第1波があり、23年2月頃に第8波があって同年5月に5類移行となったが、その後も感染拡大はあり、2024年8月頃の感染拡大は第11波だと厚労省。これまでの感染拡大は冬と夏に繰り返していたが、変異株の出現・人流の増加・接触機会の増加など様々な仮説はあるものの、感染拡大を促した要因は特定されていない。

 同様に感染拡大が収束した要因もはっきりしていない。ワクチン接種と自然感染による免疫獲得・警戒心が高まり接触機会が減少(自粛の効果?)・長期休暇や連休の終了などが指摘されるが、それぞれの要因は「定性的には検討できるが、どの程度、収束に寄与したかという定量的な解を得ることは困難」(厚労省)。

 感染が拡大し、収束しては感染が拡大することを繰り返した新型コロナウイルス。何回も感染拡大の波があったとの記憶よりも、何が感染拡大を促し、何が収束させたのかを突き止めて記録に残すことが必要で、ワクチンや自粛要請などにどれだけの効果があったのかを明らかにすることが「次のパンデミック」対策に役立つ。感染拡大と収束の要因を曖昧なまま放置することは、今後の対策も情緒に流される可能性を残す。

2025年7月2日水曜日

勝者としての戦争

 中国は9月に北京で抗日戦争勝利80年記念式典を開催し、軍事パレードを実施する。習国家主席が重要演説を行うと報じられ、9月3日を抗日戦争勝利記念日と定めている中国は終戦80年を勝利から80年として大々的に内外にアピールする予定だ。ロシアは5月にモスクワで対独戦勝記念日を祝う式典を開催、軍事パレードを行った。ウクライナ侵攻中なので厳戒態勢が敷かれたそうだ。

 中国やロシアが開催する式典は、勝者として戦争の記憶を伝承する行為・試みである。同時に、現在の政権の正統性を強調するために戦争の勝者であることを利用し、強調するとともに、勝利した戦争を賛美している。そこでは死者は敵味方に峻別され、自国の戦死者が愛国者として称賛される。敵味方にかかわらず、戦争における死者を追悼するといった姿勢は希薄だ。

 一方、日本で毎年行われている第二次大戦に関する式典は、敗者として戦争の記憶を伝承する行為・試みである。報道では悲惨さが強調され、肉親らを失ったり、焼け出されたり、厳しい統制に従わざるを得なかったことなど人々がどれだけ苦しんだかが中心となる。死者が愛国者として称賛される雰囲気は社会の一部にとどまり、戦争を否定することに重点が置かれる。

 勝者が記憶する戦争は肯定的に扱われ、敗者が記憶する戦争は否定的に扱われる。戦争を遂行した政権が敗戦後に人々により糾弾されて倒されることがあるように、敗者になると国家は揺らぐ。イスラエルとイランがともに「歴史的な勝利」を宣言し、戦果を強調して人心の離反を防ごうとするのは、そうしなければ政権維持がおぼつかないからだ。

 日本では戦争を語り継ぐことは、苦しみや悲しみを語り継ぐことに限られる。南京陥落を祝う提灯行列など当時の人々の高揚感を語り継ぐことはなく、敗者としての戦争の記憶を毎年、新たにしようとする。敗者としての記憶を伝承する作業は、戦争に対する否定的な感情を伝承することでもある。敗者としての戦争の記憶を伝承することは、戦争放棄の「平和憲法」を支持することにつながるだろう。

 敗者としての戦争を語り継ぐことだけを続けてきた日本の戦争観には歪みが生じている。日本が参加する戦争はこの80年間になかったが、世界各地で戦争は何回も起きている。それらの戦争に対し、「戦争は嫌だ」との感情的反応に終始し、戦争弱者に対する同情が現れても、休戦交渉などに日本が積極的に関与して、戦争のない世界の実現に日本が貢献するべきだ-などの世論は現れない。

 語り継ぐべきものが敗者としての戦争の記憶である限り、日本では戦争に対する忌避感が蔓延するだけだ。だが忌避感は情緒によるものであるから、日本が戦争に巻き込まれた途端に世論は一変し、戦う理由がある時には戦わなくてはならないと好戦的になる可能性がある。敗者としての戦争の記憶が、次の戦争を抑止することに日本は成功してきたが、世論は一変するものであり、情緒に頼りすぎる脆さを抱えている。

2025年6月28日土曜日

大盛りが嫌い

  ラーメンの食べ歩きに熱中していた友人は気が向けば、平日は仕事帰りにどこかのラーメン店に寄り、休日には午前中に1杯、昼過ぎに1杯、夕方に1杯、夜に1杯と食べ歩きを続けていたという。訪れた店を途中から記録するようになり、600店以上のラーメン店(町中華を含む)の評価・感想記を持っているそうだ。

 そんな友人は65歳を過ぎ、会社勤めも辞めてラーメン店の食べ歩きを毎日できるようになったが、「食えなくなった」と残念そうに言う。たまに昼に出かけても1軒のラーメン店で食べると、お腹いっぱいになり、夕食を食べる気が起きないことが珍しくなくなったそうだ。加えて、濃厚な味には美味しさを感じることが少なくなったという。

 「歳をとったということだな」と言ってやると友人は、「量を食べられなくなったのは年齢が関係しているだろうが、食べ歩き経験の蓄積で俺の味覚が洗練されて、本当にうまい店しか認めなくなったのだ」と強がる。食べ歩いたラーメン店を思い出して友人は「うまい店も凡庸な店も、時には俺の味覚に合わず、まずいとしか感じられない店もあった」が「ラーメンのまずさにも段階がある。まずいラーメンを食べることも食べ歩きの面白さだ」とする。

 そんな友人はテレビの食べ歩き番組にしばしば出てくる大盛りやメガ盛りメニューを批判する。「腹がいっぱいになればいいというのは、邪道だ。俺の食べ歩き美学に反する。同じ味を食べ続ける大盛りは、仕事メシには適してるが、おいしさを求める食べ歩きでは対象外だ。たったの一口でも、これはうまいと感じさせる味に出合うのが食べ歩きの醍醐味だ」と力説する。

 海鮮丼を出す飲食店が増え、テレビでは刺身を山盛りにした海鮮丼が紹介されたりするが、友人は「あれは刺身を乗っけているんじゃなくて、切り身を積み重ねているだけだ」と手厳しく、「本当においしい刺身を食べた経験のない連中が、山盛りの切り身を乗っけた海鮮丼をありがたがっている。刺身はガツガツ食うものじゃない」と冷ややかだ。

 体を使って働く人々やスポーツ選手ら量を食べることが当然視される人々がいるし、成長期の若者も量を食う。「若い頃、お前は大食いだった。腹いっぱい食べる喜びを忘れたんじゃないか」と聞くと、友人は「食べ歩きを始めたのは30代後半からで、目的は量ではなく質、つまり味だ。量が目的なら、わざわざあちこちに出向く必要はない。でも、腹いっぱい食いたいという人を否定しないよ。満腹感を得ることも食事の楽しみの一つだ」。

 続けて友人は「おバカな舌を持っている連中が群がるから、飲食店は堕落する。大盛りやメガ盛りメニューは量を増やすだけだから、手間隙かけて新しいメニューを増やすより簡単だ」と批判し、「食べ歩きの楽しみは味との出合いだ。大盛りメニューよりも半盛りメニューを増やしてほしいな。そうすれば、いろいろな味を楽しむことができる。けど店にとっては手間がかかる割に売り上げが上がらないので、半盛りメニューは広がらないだろうな」と話を閉じた。

2025年6月25日水曜日

理想と現実

  エンジン車の新車販売を段階的に規制し、2035年にはエンジン車販売を事実上禁止するEUの計画は、各国メーカーにEVへの転換を強制するものだった。CO2排出量削減という大義名分には反対できないことと、自動車市場に新たに大きな市場(EV)が生まれることが約束されたとして各社は相次いで野心的なEV投入の計画を華々しくアピールした。だがEVの普及は遅々として進まない。

 CO2排出量削減へ向かってEUの人々が高い意識で行動し、EVへの乗り換えが順調に進むとの目論見ははずれ、各社は「EV一本足」の経営では危ういと判断し、EUの計画に対する修正圧力が高まった。ドイツの要求によりEUは、合成燃料を使うエンジン車の販売は継続的に認めると方向転換した(合成燃料は再生可能エネルギー由来の水素とCO2からつくられるものに限られる)。

 さらにEUは、乗用車などのCO2排出量規制を緩和した。各年ごとに排出量を基準値以下に抑えなければ罰金を科すとのルールを修正し、27年までの3年間平均で基準を達成すれば罰金を科さず、猶予期間を与えるとした。生産なら政治力により強制的に変化させることができるが、自由な市場に変化を強制することは困難だということをEUは証明してみせた。

 CO2排出量削減が地球環境のために早急に絶対必要ならば、こうした規制緩和は行われなかっただろう。だが、EVへの移行が遅く、各国の自動車メーカーの経営にも影響が出始めたという現実を前にしてEUは、規制緩和を求める自動車メーカーへの配慮を優先せざるを得なくなった。理想を掲げて政策を策定・推進するが現実に合わせて柔軟に修正するのは当然の判断とはいえ、理想が現実的ではなかったともいえる。

 CO2排出量削減が地球環境のために急務だとするならEUは、域内で生産されている大排気量車に対する規制を強めるべきだった。大排気量エンジンはC02排出量が多いのだから、EVが増えるのを待つよりも大排気量車を減らすほうが実際にCO2排出量を減らすことができた。だがEUは域内で生産される大排気量車を野放しにしている。

 世界の新車販売に占めるEVは22%(PHEV含む。2024年)と着実に増えているが、エンジン車と完全に置き換わるには相当の年月を要するだろう。EV普及が進まない要因として▽充電スタンドの不足▽航続距離の制約▽価格が高い-などが指摘されるが、どれも早急な解決は無理だ。米テスラは高級車として高価でも売れ行きを伸ばしたが、EVが高級車に偏るならば普及には限度がある。

 EVがもっと広く普及するには、高級車ではなく大衆車が中心とならなければならないだろう。通勤や買い物など日常的な使用に支障がない近距離移動に狙いを絞ったEVが、ガソリン車と同程度の価格で販売されるようになれば普及に弾みがつこう。欧州市場で中国BYDのEVが低価格で販売を伸ばし、テスラを抜いたという。CO2排出量削減という理想の実現に貢献するのが中国製の低価格EVだという現実に、EUはとまどっているようだ。

2025年6月21日土曜日

失ったもの

 2022年2月から始まったウクライナ侵攻におけるロシアの死傷者数が約100万人になったと英国防省が発表した。うち死者と行方不明者は約25万人で、ロシアにとって第二次世界大戦以降で最大の人的損失だとする。ソ連が行ったアフガニスタン侵攻の死者1万5000人、負傷4万人より圧倒的に多い(アフガン侵攻はソ連崩壊の一因になったとされる。ゲリラ側の死者は推定60万人)。

 多大な死傷者を出し続けているウクライナ侵攻だが、ロシアは停戦に動く気配を見せていない。ウクライナに対するドローンやミサイルによる攻撃が続いていると報じられるが、ロシア兵などによる攻撃も続いているだろうから、ロシアの死傷者数は増え続けるだろう。英国防省は「ロシア指導部は、国民やエリート層の戦争への支持に悪影響を及ぼさず、兵力の損失を補うことができる限り、多大な損失を容認する」としている。

 死傷者数が100万人に達するとはロシアは開戦前に想定していなかっただろう。もし死傷者が100万人にも達すると試算したなら、軍事力を行使することに慎重になったかもしれない。だが、ロシアはもう引くに引けない。ロシア国内の雰囲気が報じられることは少なく、厭戦・反戦の気配が漂っているのか定かではないが、国内が戦争支持でまとまる間は戦争を続けることができるだろう。

 ロシアがウクライナ侵攻で国際的に得たものは、侵略国との烙印だ。ロシアは軍事的に領土拡大を続けるのではないかとの疑念が欧州各国に広がり、信頼できない国だとの認識が定着したように見える。さらに数々の制裁を欧米などから課され、欧米経済と大幅に切り離され、頼るのは中国やインド、イラン、北朝鮮に偏るなど多くのものを失った。

 失うものがない時に人は、しばしば無責任な言動・振る舞いに及び、相手に反撃能力がないと見ると、いくらでも攻撃的になることがある。だが、失うものがあり、失うものが大きいと判断すると、慎重に振る舞う。失うものは、経済的な利益、名誉・名声、信用・信頼、影響力、人望、健康・生命など様々あり、どれを失うのかは状況によって異なるが、失ったものを取り戻すのは簡単ではないだろう。

 国家も同じだ、無責任な言動・振る舞いにより過度に攻撃的になると、失うものがある。ロシアやイスラエルは過剰とも見える攻撃を続け、人命や人権、他国の主権、国際秩序などを軽視する国家だとのイメージを定着・拡散させた。世界の人々からどう見られるかを軽視・無視する国家は民間人の殺害を続け、残虐行為を辞さない。残虐な国家だと世界の人々から見られることを気にしないロシアやイスラエルは多くのものを失っている。

 欧米諸国は、ロシアの残虐行為を非難するが、イスラエルの残虐行為に対しては黙るか支持する。欧米諸国がダブルスタンダードだとの批判は以前から多く、欧米諸国はイスラエルの行動を容認することで、人命や人権を尊重する公平な諸国だというイメージを完全に失った。ロシアが得たものは侵略国との烙印であり、イスラエルが得たものは強硬な軍事優先国家だとのイメージであり、欧米諸国が失ったものは世界平和に貢献する諸国だとのイメージだ。

2025年6月18日水曜日

対話と攻撃

 社会の分断が激しくなった時、最も大きい弊害は対話が成り立たなくなることだろう。分断が激しくなると、互いに自説に固執し、相手を否定することが自説の正しさを示すことであるかのような誤解が生まれ、相手を攻撃することに熱心になる。相手を否定したところで自説の正しさが客観的に証明されるわけではない。

 相手の主張を理解することで対話は成立する。相手の主張を理解することは相手の主張に同意することではない。相互の主張の違いを認識することから、相違点を浮かび上がらせることができ、どこは同調できるか、どこが食い違うのかをはっきりさせることで対話が機能し、相互の理解が深まる。

 分断が深刻化し、対立が激しくなると、相手の主張を理解することは「負け」であるかのような雰囲気が生まれ、相手の主張を理解することは放棄される。対話に勝ち負けはないが、対立が激しくなると感情が優先し、勝ち負けの意識が出てくる。スポーツならば、勝ち負けはあっても試合終了後に選手は友好的になることもできようが、社会の分断で対立している人々の間に「スポーツマンシップ」は希薄だ。

 対話ならば相手を説得することが可能になるが、相互に攻撃し合うならば、説得は不可能だろう。相手に対する説得と相手に対する攻撃は共存できない。説得が放棄され、対話の場が自説を展開するだけの場になると、相互に攻撃し合い、時には相互に憎み合う。聞く耳を持たない相手に対しては、どんな言葉も届かないだろう。攻撃し合うことで互いに感情的になり、余計に相手の言葉を理解することが難しくなる。

 分断に対して寛容の必要性を説く論調がメディアに現れる。だが、寛容さを失った人々が激しく対立し、分断が生じているとすれば、寛容が必要だとの論は正しいのだろうが、現実には無力だ。寛容さが存在すれば、承服しがたい相手の主張を冷静に聞き、反論することで議論が成立するが、相互に言い合う状況では、声の大きさや時には相手を罵倒することが優先される。

 分断が先鋭化すると、対話を求めることは弱さの現れであるとされたりする。だが、相手の主張を全否定することで自分の主張を正当化する行為は、対話における主張の検証を拒否しているとの弱さを内包している。言葉の応酬で相手を屈服させれば勝ちだとの「力の論理」が持ち込まれ、相手の主張を否定することでしか成立しない主張が盛んになる。

 主張は検証されることで「磨かれ」る。異論がぶつかり合う場である対話は主張が「磨かれ」る場であるが、互いに言い合うだけでは主張が「磨かれ」ることはない。分断が深刻になればなるほど対話の重要性は増すのだが、同時に対話が軽んじられ、声高に自説を主張することが重視される。行き着く先は、分断が亀裂へと広がり、憎み合い、殴り合い、傷つけ合い、共存が放棄されるしかないだろう。

2025年6月14日土曜日

希薄になった存在感

 かつて日本企業は、造船、鉄鋼、家電製品、半導体(メモリー)、自動車など世界市場で大きな存在感を示していた。だが、次々と韓国企業にシェアを奪われ、ついで中国企業も独自ブランドで世界への輸出を始め、自動車を除いて日本企業の存在感は希薄になった。自動車でもBYDなど中国企業の世界市場における存在感が高まっている。

 金融でも、かつて日本の銀行は時価総額で世界のトップ10に名を連ねていたが、今ではGAFAをはじめとする米国企業が上位に名を連ね、中国企業の名も散見されるようになった(じゃぶじゃぶと積み上がったマネーが米国などの株式市場に流れ込んでいることは勘案しなければならないが、日本が積み上がった世界のマネーの取り込みに遅れていることの反映でもある)。

 とはいえ、iPhoneに大量の日本企業の部品が使われ、半導体の製造過程で日本企業の素材や製造装置が不可欠であることなど日本企業の国際競争力が保たれている分野もあり、世界市場を相手に商売できる日本企業は数多いのだろうが、消費者の手に渡る商品という、直接見ることができる製品で日本企業の存在感が希薄になっているのは否めない。

 海外にもファンが多いというスタジオジブリが大幅な増益を達成するなど好調で、日本のアニメや漫画が世界を席巻しているかのように報じられ、日本に対する興味を高め、親近感をも高めているかもしれない。だが、それらが潤沢な利益を世界から日本にもたらしていると報じられることはない。音楽や映画などでは単発の「成功」があるだけだ。

 太陽光パネルやリチウム電池など日本企業が先駆けて製品化に成功した分野でも韓国企業や中国企業の後塵を拝するようになり、かつてソニーやホンダなど日本企業が技術開発の成果を次々とアピールしていた人型ロボットは現在、米中の企業の開発競争が激しくなっているとされ、日本企業の存在は見えなくなった。

 後発国が先進国の技術などを取り入れ、低い人件費など低コストによって低価格の類似製品を製造し、先進国など世界市場でシェアを伸ばすのは日本企業もたどってきた道だ。韓国企業や中国企業などが成長し、日本企業のシェアを奪うのは歴史的には自然な現象だろう。問題は、日本企業が経済構造の変化に対応できず、情報化経済の波に乗り遅れたことだ。

 SNSで日本企業の存在感はなきに等しく、ネットを介した各種サービスも外国企業の成功事例を追って国内で展開しているだけだ。世界で売れる商品・サービスを作ることができなくなった日本企業だが、人口減少で日本国内市場は先細りであるのだから、世界市場を相手にするしか成長の道筋は見えない。内部留保を積み上げて安心・満足している各企業の経営陣が総退陣した後に、日本企業の世界市場での活躍が再び始まる(と期待したい)。

2025年6月11日水曜日

TACO理論

 英語の「chicken」には「臆病者」「腰抜け」「臆病な」の意味もあり、chicken out は「おじけづいて、やめにする」だ。最近、この言葉で語られているのがトランプ大統領だという。TACOは「Trump Always Chickens Out(トランプはいつもビビってやめる)」の略語で、ウォール街のトレーダーや世界の投資家に広まっていると報じられた。

 この略語は英フィナンシャル・タイムズ紙のコラムニストが作ったものだ。トランプ政権が他国に「高関税を課す」などと高らかに一方的に宣言しても、株価や米国債の価格が下がるとすぐに撤回したり、引き下げるなど、二転三転する関税政策を皮肉り、すぐに方針変更するかもしれないからと「TACO理論」を紹介し、トランプ政権の方針変更を見越した取引「TACOトレード」を推奨した。

 記者からTACOについて質問され、トランプ大統領は「その言葉は絶対に口にするな」「最も気に食わない質問だ」などと不快感を露わにしたという。また、多くの事態が正常化に向かい、FRBは利下げを行い、景気後退は訪れず、関税にもかかわらずインフレ率は跳ね上がらないことなどが起きるかもしれず、TACOを前提としたTACOトレードが今後も続くことに賭ける投資家の存在が伝えられた。

 ディールが得意だというトランプ氏は各国に対して、最初に大きくふっかけて、びびった相手から譲歩を引き出し、実利を獲得する戦略なのかもしれない。そうした交渉スタイルは自国(というより自政権)の利益確保を最優先した外交なのだろうが、国際強調という建前を無視し、既存のアメリカ主導による国際秩序を蝕んでいく(米国は各国から信頼されなくなって行く)。

 トランプ政権にとって、譲歩に動く各国の反応や株式・債券など市場の反応に応じて、高関税などの要求を緩和したり、引っ込めたりすることはディールの内なのかもしれないが、側からはトランプ政権がビビっているようにも見える。だからTACO理論が生まれた。ふっかけた条件を緩和したり、引っ込めたりするのもディールの内だとトランプ政権が認識していたとしても、客観的にはトランプ政権がビビったと見られる。

 トランプ氏は、攻撃されると怒りが爆発して強く反撃し、口汚く罵ったりするが、笑われたり皮肉られたりすると戸惑い、質問を一蹴したりして、対応法が決まっていないように見られる。感情的に動く人物なので、ジョークのネタにされたりすると、巧妙にジョークで咄嗟に対応するなどということができず、怒りを爆発させるか、困惑して黙る。このタイプの政治家は日本にも多そうだ。

 ニワトリなど小型の鳥類は自然界では捕食者に狙われる存在だ。常に警戒心が強くなければ生き延びることができず、食われるだけだが、その様子から臆病者と連想したのかもしれない。トランプ政権の米国に対抗できる中国やEUは真っ向から反撃するが、大半の国は米国に対して、言い返すこともできず、条件交渉に持ち込むのが精一杯だ。臆病者のように振る舞うしかない各国と、強者を装うTACOのトランプ政権は似た存在だ。

2025年6月7日土曜日

並ぶ人たち

 日本各地で備蓄米を買うために行列する人々の様子がニュースで報じられている。開店の1時間以上前から行列に並ぶ人たちもいて、コメの争奪戦は日常化した。数量が限られる店舗では備蓄米を入手できない人もいたそうで、手に入らないとなると願望がますます刺激されたりし、「次こそは」と頑張って早くから行列に並ぶようになるのかな。

 商品棚からコメが消えた様子ばかりが報じられ、「早く買っておかないと、なくなってしまう」と浮き足だった人々が殺到して行列し、順に備蓄米を手にする。その様子は“絵になる”ので各社のカメラクルーが群がり、テレビや新聞などで報じられ、それを見た人々が、手に入るなら「買っておこうか」と新たに行列に加わるとなるなら、行列は絶えそうにない。

 52年前の1973年にも店舗の前に人々は行列をつくった。当時、大阪の千里ニュータウンで「オイルショックでトイレットペーパーがなくなるらしい」との噂が広がり、スーパーに人々が殺到してトイレットペーパーが売り切れ、それが全国に伝わった。生活必需品が手に入らないかもしれないとの不安に突き動かされた人々が行列をつくる光景は何度も繰り返されている。

 コメは日本人の主食であり、供給不足は政治問題となる。敗戦後の1946年には、東京各地で人々が「配給の組織を正して早く公平に食わせろ」「元気で働けるだけ食わせろ」などと要求した(NHK)。皇居前広場で行われた飯米獲得人民大会(食糧メーデー)には25万人が参加し、「国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」のプラカードが掲げられた。

 主食の欠乏に対する人々の怒りが暴動につながった例は世界では珍しくない。18世紀のフランス革命は、秋の収穫が激減して凶作に見舞われて食糧不足が深刻となったことが引き金になったとされ、2008年には穀物の価格が世界的に高騰し、エジプトなどアフリカ諸国や東南アジア諸国、南アジア諸国、南米諸国など主要穀物を輸入に頼る途上国で政府への抗議デモや暴動が頻発した。

 政府が減反政策を事実上続けてコメ不足を招いた日本で、主食の供給不足が問題化したのだが、人々は怒りを表さず、おとなしく行列に並び、やっと手に入れたコメを手にして、嬉しそうに報道のインタビューに応じている光景がテレビなどに現れる。コメが入手できなくなっても怒りが爆発する気配は希薄で、切迫感がないのは、コメがなくても代わりに食べる食料品が豊富にあるからだろう。

 おとなしく行列に並ぶ人々が示すのは、「食い物をよこせ」などの暴動は現代の飽食の日本では起こらないだろうということだ。腹を空かせた人々の怒りが政府打倒に発展することもなく、コメを奪い合うこともなく、おとなしく行列に並ぶ。人々が怒りを表してこそ政府も政治家も官僚も本気で構造改革をせざるを得なくなるのだが、既成の秩序におとなしく人々が従うことは、既成の秩序の延命を助けるだけだ。

2025年6月4日水曜日

権力者の自由

 米国の国際貿易裁判所は5月28日、国際緊急経済権限法を根拠にしたトランプ政権の相互関税や10%の一律関税などが、同法により大統領に与えられた権限を越えているとして差し止めを命じた。ホワイトハウスは「国家の緊急事態を適切に解決する方法を決めるのは、選挙で選ばれていない裁判官の役割ではない」とし、政権は上訴した。

 翌29日、米連邦控訴裁判所は、差し止めを命じた下級審の判決を覆し、トランプ政権が発動した幅広い関税措置は維持できるとした。決着は最高裁まで持ち越されると見られるが、最高裁の9人の判事のうち6人が保守派(うち3人は1期目のトランプ大統領が指名していた)なので、トランプ政権に有利な判決がでる公算が大きい。司法が行政に迎合するのは権威主義国では珍しくないが、米国でも同様の社会に近づきつつある。

 関税だけではない。トランプ政権は、不法移民の強制送還を始め、DEIを追究する政策を撤回し、政府職員の大幅な削減を実行し、ハーバード大などへの締め付けを強め、留学生の削減を始めるなど相次いで従来の路線・枠組みの変更を強行している。それらが法的な正当性を有しているのか定かではないが、いずれ最高裁が容認するとするならトランプ政権は独裁的な統治を民主主義国である米国で実現した。

 中国やロシアなど権威主義国では民主主義や法の支配・人権など西欧由来の普遍的とされる価値観は軽んじられる。個人独裁の典型の北朝鮮では西欧由来の価値観は見向きもされない。民主主義国であっても、議会や司法に縛られることなく、政権が自由に権力を行使できると何が起きるかを米国のトランプ政権は世界に見せている。

 ただし、米国では選挙により権力のあり方を決めるという原則は共有され、トランプ氏の3選出馬は不可能とされる。中国やロシアでは憲法を改正して習近平氏やプーチン氏の多選を可能にしたが、米国では現行憲法に規定された民主主義体制を覆そうとする動きは現れてはいない。自由選挙や法の支配などにより国家形成を行ってきた長い歴史があるから米国では、国の形の根本的な変更は容易ではないのだろう。

 自由選挙だけが機能して、議会も司法も行政権力に従属するトランプ政権の米国では、異論は攻撃の対象になり、客観性や情報の真贋は無視され、選挙により権力を掌握した政権を制御することが困難になっている様相だ。分断と対立が先鋭化した結果が、選挙の勝者が権力を振り回すことになるのなら、自由選挙は権力を掌握した人々の独裁を許すこともありうる。

 ヒトラーは自由選挙で権力を掌握し、やがて独裁体制を構築したように自由選挙は民主主義などの否定にも道を開く。このまま米国が「脱」民主主義に向かうとは思われないが、トランプ政権がやりたい放題に振る舞っている現状は、何ものにも縛られない自由を権力者に与えると、何が起きるのかを示している。分断と対立が、選挙の勝者による異論の排除に向かうとすれば民主主義は形骸化する。

2025年5月31日土曜日

不平等と分裂

  現在の世界では権威主義的な強権国家と自由・民主主義国家の対立が激しくなっている。冷戦期に東側陣営とされた共産主義国や社会主義国の多くは冷戦終了後に体制転換を迫られ、経済は資本主義で政治は自由・民主主義になったと見られたが、その政治における自由・民主主義は限定的で、国家管理が目立つ資本主義となった国が珍しくない。

 おそらく冷戦期の共産主義国や社会主義国の多くで1党独裁の残滓が権威主義体制を許容させやすくしているのだろう。人々が民主主義を経験した歴史が短い国では権威主義に対する抵抗は弱かったかもしれない(大正デモクラシーなど日本には人々が民主主義を求めた歴史があり、敗戦により日本は自由・民主主義体制の国に変わる以外に国際社会に復帰することが許されなかったから、日本国と人々は自由・民主主義体制を受け入れた)。

 自由・民主主義は西欧発の思想であり、独裁する権力による統治が歴史的に長かった国々では、それぞれの歴史観や伝統・文化などの影響を受けて自由・民主主義を「移植」しても、それぞれに変形したものになる。冷戦終了後の世界がどう変わるか当時、さまざまな論が現れた。権威主義的な強権国家がやがて増えるとの見通しがなかったのは、時代の変化を予測することの困難さを示している。

 加藤周一氏は、世界が資本主義に覆われると不平等が拡大することと、遠心的運動が世界の分断を進める可能性を示唆していた。「世界史の転換と歴史の読み直し」(網野善彦氏との対談=1994年)から引用する(『加藤周一対話集⑤ー歴史の分岐点に立って』所収)。

 「社会主義は一種の社会的平等を目指していたと思う。教育とか生活の必需品とか衛生とか、そういう領域での平等原理の強調だ。資本主義は、競争の規則はみんなが守るんだから、その意味では平等だが、競争の結果の不平等を前提にしている。勝ち負けが予想されないと競争してもしょうがない。自由競争の結果は不平等です。そういう意味では、自由と平等は対立概念だ」

 「各方面に、分散する遠心的運動と、求心的運動とが目立っている。ある種の国際的な機関の活動が、少なくとも第二次世界大戦の前に比べれば強くなった。しかし、国が分解し、旧ソ連をはじめとして分散的傾向も強い。それが同時に出ている。遠心と求心という両方の傾向が強く出ている」 

 「現在の転換期は、対立する二つの傾向が強くなって、どこかで折り合いをつけなければならない、その折り合いのつけ方が従来の折り合いのつけ方だと間に合わなくなってきた。従来はそれほど劇的な対立にならなかったものが、いまや劇的対立になって出てきて、手がつけられず、二つの傾向の調和をとることができない。そういう対立に何らかの新しいソリューション、調和、折り合いを見つけない限り、絶えず混乱か争いとなる」

 「思想的に言えば自由対平等、社会的にいえば求心的傾向と遠心的傾向、そういう対立関係を今までとは別の形に変えていかない限り、混乱や争いが深まっていく」

 現在は世界で分断や対立が目立つようになってきたが、権威主義国諸国も民主主義諸国も一枚岩にはなれず、入り乱れて勢力争いを続けている構図だ。冷戦期のような対立構造がわかりやすい時代が例外で、渾沌とした各国の勢力争いが続くのがフツーだとすれば、状況が常に流動する現代は特別に珍しい時代ではない。

2025年5月28日水曜日

観光経済の脆さ

 日本の2024年の名目GDP(国内総生産)は前年比2.9%増の609兆円で、初めて600兆円台に乗ったと内閣府(実質GDPは557兆円。速報値)。名目GDPは1973年に112兆円と初めて100兆円台に乗り、その後は約5年ごとに100兆円ずつ増え、92年に500兆円台に乗った。だが、その後は伸び悩み、さらに100兆円を上乗せするために30年以上かかった。

 GDPが伸び悩み続けているのは、過半を占める個人消費が長らく停滞しているためだ。社会負担比率が増え続ける一方、賃金は増えず、最低賃金も抑え続けられ、非正規雇用が増えるなど、人々の懐事情は楽ではない。ようやく賃上げ奨励や最低賃金引き上げに政府も動いたが、今度は物価上昇が始まり、人々の懐事情は相変わらず楽ではない。

 企業の利益から税金や配当を差し引いた内部留保(利益剰余金)は2023年度末に600兆9857億円となり、初めて600兆円を超えた。名目GDPに匹敵する額だ。賃金など従業員らに対する支払いを抑制してきた「成果」だ。だが、内部留保を積み上げず、従業員らに対する報酬に回していれば、個人消費はもっと活発になり、日本経済の低迷は長引かず、 GDPの伸びははるかに大きかったに違いない。

 2025年4月の訪日外国人数は前年同月比28.5%増の390万8900人で、単月としての過去最高を更新したと日本政府観光局は推計する。300万人超えは7カ月連続。中国76万5100人、韓国72万1600人、台湾53万7600人、米国32万7500人などに加え、英独伊など欧州からの訪日客が増えた。

 訪日外国人数は2013年頃から増勢が強まって初めて1000万人を超え、2019年に3188万人と伸び続けていたが、コロナ禍による世界的な行動制限で2020年に412万人、2021年に25万人にまで急落した。行動制限が緩和されて2023年に2507万人、2024年に3687万人と急回復し、その勢いは2025年に入っても続いている。

 ホテル・旅館業や飲食業、観光バスや観光タクシー、土産販売店、ツアーなどを企画・販売する観光業など訪日外国人を相手にするビジネスは活況を呈しているようで、訪日客による2024年の消費額は8兆1395億円になり過去最高になったと報じられた。円安もあって日本は「安い」国となり、増える訪日外国人の金払いの良さに期待がかけられている。

 こうした訪日外国人相手のビジネスが脆さを抱えていることは、先ごろのコロナ禍で実証された。国外からもたらされる消費は大切にしなければならないが、日本経済を着実に成長させるには、日本に住み、日本で生きる人々の消費を活発にすることが最優先だ。訪日外国人の消費に期待をかけなければならない日本の状況は、日本に住み、日本で生きる人々を「貧しく」してきた経済政策の結果である。

2025年5月24日土曜日

生ものが苦手

 友人は「最近、味覚が変わった」と言う。好き嫌いは若い頃から少なく、家庭でも居酒屋でも会食の場でも、出されたものは何でも食べていたという友人だが、還暦を迎えたあたりから、刺身や生卵、半熟卵、生肉などを食べても美味しいと感じることが次第に少なくなり、年月とともに苦手意識を持つようになったという。

 刺身や生肉などには生臭さを感じることがあり、レストランで半熟卵のオムライスを食べた時には、かすかに生臭さが漂っていることを感じて、「半分以上、残した」と友人。苦手意識を持つようになると刺身や生肉を咀嚼しても、ぐにゃぐにゃ、ぐにゅぐにゅとした食感に違和感を感じ、食べていても美味しさなどはあまり感じなくなったという。

 刺身など生ものが苦手という人は珍しくはない。日本食レストランが世界各国に増え、日本食が目当ての訪日外国人も増え、刺身や寿司などを好む外国人が増えているというが、生ものを日常的に食べる食習慣がある国は少ないそうだ。そうした食習慣の中で育った外国人が生ものに拒否反応を示すのは自然なことだろう。

 その昔、日本人が魚を生で食べると知って「日本人は未開人だ」と言った欧州の人がいたそうだが、食文化は身体に染み込んだものであるだけに、異なる食文化を理解するのは簡単ではない。とはいえ、和食人気の世界的な広がりとともに刺身や寿司などを食べる体験をした人々が増え、生の魚の味わいを体験して好むようになるのは特異な行動ではない。未知の味は食べてみなければ、美味しいか不味いかは分からず、チャレンジするしかない。

 TVの旅番組や街歩き番組などで出演者が美味しそうに刺身などを食べている場面を見て友人は、味覚を「戻そう」と刺身や寿司などを量販店で買って試してみたそうだが、「魚種の味の違いはわかるが、たいして美味いとは感じなかった」と、途中から醤油を増やして食べたそうだ。「美味いと感じなかったら無駄だ」と海鮮居酒屋や寿司店に行って試してみる気にはならず、卵かけご飯やレアステーキなどにはそもそも食べる気が起きず、試していないと友人。

 生ものに苦手意識を持つようになった友人だが、食中毒や細菌・ウイルスなどの感染を警戒するからではないと言う。以前は食べていた生もので食中毒や感染症にかかったことはなく、日本で提供される生ものは安全だと今でも疑っていないそうだ。一方で、何でも生で食べることを囃す雰囲気には批判的で、鶏肉や牛豚などの内臓類を生で食べるのは危険だと知っている。

 生ものに苦手意識を持つようになった友人だが、外食を好み、食べ歩きは続けている。「日本流の洋食や中華のメニューには煮たり焼いたり揚げたりしたものが多く、美味しい料理がいろいろある。和食にも煮もの焼きもの揚げものに美味しいメニューがある」と友人。洋食や中華を含め日本食の幅広さや奥行きの深さを実感しているそうで、刺身や生肉など生ものは避けても「美味しい料理の多さに感嘆している」友人は、食べることの楽しさを失っていない。

2025年5月21日水曜日

領土拡大を実現

 ロシアは、▽ロシア系住民の保護▽NATOの東方拡大を防ぐ▽ウクライナの「非ナチ化」-などを主張してウクライナ侵攻を正当化する。23年10月のハマスによる奇襲に対する反撃として始まったイスラエルのガザ侵攻はガザを破壊つくした様相だが、現在も続いており、住民を追い出してガザをユダヤ人の入植地にすることを狙っているとも見られている。

 この二つの侵攻に共通するのは、支配地の拡大を実現したことだ。ロシアはウクライナ東部を占領し、クリミア半島まで続く一帯を勢力圏に収めた。イスラエルはヨルダン川西岸でユダヤ人の入植地を拡大させていたが、ハマスを弱体化させてガザを管理下に置き、さらに防衛地帯を設けると主張してシリア南部を占領するなど勢力圏を拡大した。

 米国のトランプ大統領は、グリーンランドの獲得に意欲を示し、パナマ運河の返還を要求し、カナダを吸収して51番目の州にすることを提案した。これらの主張の本気度は定かではなく、ディールの材料として「ふっかけた」可能性が高いが、素直に受け止めると、領土拡大の願望の現れと解釈できる(軍事力を行使せずにディールだけで領土拡大を実現することは困難だろうが)。

 領土や勢力圏の拡大を目指す膨張政策は帝国主義とされ、実際に広大な領土・勢力圏を構築した帝国は数多い。1世紀のローマ帝国、4世紀の西ローマ帝国やビザンツ帝国、6世紀の隋、7世紀の唐、10世紀の神聖ローマ帝国、13世紀のモンゴル帝国、14世紀の大元、17世紀のオスマン帝国、18世紀のスペイン帝国や大清帝国、19世紀のロシア帝国、20世紀の大英帝国やオーストリア=ハンガリー帝国やドイツ帝国や大日本帝国やイタリア王国など、歴史を振り返ると世界各地に帝国が誕生して勢力を広げた。

 領土拡大を実行する国が21世紀にも存在することを示したロシアとイスラエルだが、領土拡大の願望は埋火のように世界各地に潜んでいる。例えば、中国の国恥地図ではカザフスタンやアフガニスタンからモンゴルを含めサハリンまで、南はシンガポールやマレーシアまでを領土としている。インドには、英国の植民地であったインド帝国の復活を主張する大インド主義があるという。それはパキスタン・バングラデシュ・ミャンマー・ネパールなども領土とする。

 周辺の領域(他国)に対して領有権を主張して次々と自国の領土とした歴史があるロシアは、力づくで周辺の領域(他国)に住む人々を従属させることを当然視する傾向があるという。バルト3国や中央アジア諸国など旧ソ連に属する諸国や東欧諸国がロシアに警戒感を持ち続けるのは、周辺への膨張衝動がロシアに根付いていることを知っているからだ。

 国境線の書き換えを伴わない各国の勢力圏の拡大は常に行われているが、領土の拡大を実現した国境線の変更は、ロシアのクリミア半島の編入が第2次大戦後の初めての例だ。中国は南シナ海のほぼ全域に対して管轄権を主張し、実効支配を進めている。ロシアやイスラエルの行動が容認された世界は新たな帝国主義の時代となる。

2025年5月17日土曜日

水産業とグローバリズム

 日本の漁業は「第2次世界大戦後、沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へと漁場を拡大することによって発展」した(水産庁HP。以下同)。「200海里時代が到来し、遠洋漁業の撤退が相次ぐ中、マイワシの漁獲量が急激に増大した結果、漁業・養殖業の生産量は昭和59(1984)年にピークの1282万トン」になったが、「主に沖合漁業によるマイワシの漁獲量の減少の影響により、漁業・養殖業の生産量は平成7(1995)年頃にかけて急速に減少し、その後は緩やかな減少傾向」が続いた。

 各国が「200海里水域の設定に踏み切り、我が国の多くの遠洋漁船が米国200海里水域等の既存の漁場から撤退を余儀なくされ、公海域においてもマグロ類を中心に多くの外国漁船が操業を始めたこと等から、国際的な漁業管理が強化され、我が国と条約非加盟国等との競合も激化したため、更に多くの我が国の遠洋漁船が撤退」した。沖合漁業でも生産量は減少し、沿岸漁業も「平成期には総じて漸減傾向」だ。

 2023年の漁獲量(養殖含む)は372万4300トンで前年比4.9%減となり、1956年以降での最低を更新した(海の漁獲量は282万3400トン、海の養殖業は84万9000ト)。世界全体の漁獲量は2億2790万トンで、日本は第11位だ(1位は中国で9170万トン、2位はインドネシアで2318万トン、3位はインドで1750万トン)。

 各国で水産業は厳格な資源管理や養殖の拡大などにより成長産業となっているが、かつては水産大国とも称された日本では衰退を続けている。「日本の排他的経済水域(EEZ)と領海を合わせた面積は約447万km2で世界第6位、海岸線の長さも約3万5600kmで世界第6位」(内閣府HP)と、日本には水産業に適した環境があるのに水産業は衰退を続けている。

 各国が200海里水域の設定を行う以前、日本は世界の海で自由に魚を獲っていた。持続可能性など考慮せず、獲れるだけ獲り、獲れなくなったら漁場を変えて獲り続けた。だが、200海里時代に移行し、日本の漁船は各国のEEZ内で自由に魚を獲ることができなくなり、世界各地で「大量に獲ってきて安く売る」従来のやり方は行き詰まった。

 200海里時代の前は、各国の領海以外の世界のほとんどは自由に操業できる「グローバルに開かれた」海域だった。日本の漁船はグローバルに活動し、漁獲量を増大させた。それが200海里時代となり、各国のEEZ内での操業が規制されて日本の遠洋漁業は「カツオ・マグロ類を対象とした海外まき網漁業、遠洋まぐろはえ縄漁業、遠洋かつお一本釣り」が主になったが、縮小を続けている。

 水産業において世界は、どこでも各国の漁船が自由に漁業ができるグローバル時代から、各国がEEZを囲い込む体制に移行した。各国が「境界」を拡大して自国が管轄する領域を拡大する行動は、関税を高めて自国市場を囲い込む最近の貿易をめぐる状況を連想させる。国家主権の拡大を求める動きは、グローバリズムを制約する最大の要件だ。

2025年5月14日水曜日

価値の順位

 経済成長を促したり、社会保障の充実を進めたり、人々の生活レベルを上げたり、国防や治安維持に万全を期したり、裁判制度を機能させたり、教育環境を充実させたり、交通網などのインフラ整備を進めたり、主食などの供給体制を維持したり、諸外国と交渉したり、国際社会で自国の価値を高めたり、景勝地の環境を保護したり、選挙の公正な実施を支援したり-などと国家は多くの責務を担っている。

 それらを常に同時に行うのが国家だが、状況によって優先順位は変化する。武装したギャング団が跋扈している国では治安維持が最優先されるだろうし、国内の農地が機能せず、輸入に食料を頼る国では食料供給の維持が最優先され、大地震や大規模な噴火などに見舞われた国では被災者の救護が最優先され、隣国などからの軍事的挑発が続く国では国防の優先順位が高まろう。

 国家にとっての優先順位とは価値の優先順位でもある。平時が続き、現実的な防衛上の脅威が過少ならば国防の優先順位は下がり、経済政策などが重視されたりするが、近隣で戦争が始まったり、他国との相互防衛条約が機能しなくなる不安が高まったりすると国防の優先順位が上がる(国防の価値が上がる)。それがEU諸国の現在だ。

 国家によって最優先する価値は異なるし、状況によっても最優先する価値は変化するものだが、変化しない場合もある。例えば、中国。今の中国にとって、常に最優先される価値とは、中国共産党の独裁体制を維持することだ。経済成長は中国共産党の独裁統治を正当化するために重要で、政治的・軍事的に国際社会で存在感を高めることは人々に誇りを持たせ、現在の体制の維持に役立つ。

 中国では主権は中国共産党にあり、自由や民主主義、法の支配など西洋由来の価値が低く位置付けられているのは、個人が主権を共有することを防ぐためだ。自由も民主主義も法の支配も中国共産党の独裁体制に都合がいい範囲で容認される。共産党の独裁体制の維持が常に最優先の価値であるという中国は、外から見て分かりやすい国である。

 国家にとっての価値の優先順位は国政選挙で政権党が変わったり、大統領が交代した場合に変わったりもする。その顕著な例が米国だ。トランプ氏は大統領令を連発して急激な政策転換を推し進めている。熟議やコンセンサスなどは影も見えず、国内の反対勢力は無力なように見え、諸外国は振り回されている。トランプ氏の行動は、米国において常に変わらない価値など存在しなかったと示している。

 自由や民主主義、法の支配は普遍的な価値だと西欧・米国は主張し続けてきた。だが、権威主義国の勢力拡大とトランプ大統領の政治は、普遍的な価値だとの説得力を損なっている。日本は普遍的な価値を尊重する国だと自認するが、それらの価値が常に最優先されているわけではない。日本には独自の最優先する価値があるとの合意形成はなされず、状況に応じて最優先される価値は変化し続ける。日本は何かの価値観で形成された国家ではなく、自ずから「まとまった」要素が大きいからだろう。

2025年5月10日土曜日

バカだと言うこと

 「おまえはバカだ」と言われて、怒らない人は①気が弱い、②そうだと認めている、③争いを避けることを優先する、④意見の相違を包容する人格者-のどれかだろう。面と向かってバカと言われては、怒る人が多いだろうが、バカだと言われたという現実を理解することに戸惑って呆然とし、返す言葉を失う人もいるかもしれない。

 何か失敗をした後で、「バカなことをしてしまった」と思う人は珍しくないだろうが、だから自分はバカだと考える人はほとんどいない。自分はバカだと思っていないから、失敗をとがめられて「おまえはバカだ」などと言われると、多くの人は怒り、相手が上司などで言い返すことができない時には、怒りを腹の中に溜め込んだりする。

 バカという言葉は強い罵倒語であり、言われた人は感情的に反発するので、他人に向かって言うのは控えるべき言葉だが、失敗や間違いの責任を負う人に周囲が怒りにまかせて、つい口にしたり、あきれ果てて、つぶやいてしまったりする。言われた側が反発して、「おまえこそバカだ」などと罵倒語に罵倒語で返したりすると人間関係はこじれていくばかりとなる。

 罵倒語のバカは、知能の低さではなく、失敗や間違いを責めているのだが、バカと言われた人が感情的に反発するのは、バカという言葉で自分の人格が否定されたと感じるからだ。自分はバカではないと思っているから、バカと言われて怒る。自分の能力に何かの劣等感を持っている人は珍しくないだろうが、それも個性だなどと受容して折り合いをつけているに違いなく、自分はバカだとは思っていないだろう。

 愚かな判断をしたり、愚かな言動を繰り返す人も周囲からバカだと見られる。適切な判断や適切な言動をしなかったり、できなかったりする人が存在するのは事実であろうが、そんな人も「自分はバカだ」とは思っていないだろう。「自分はバカだ」と思い、ある種の引け目を抱いたまま生きている人もいるかもしれないが、そんな人も「おまえはバカだ」と言われることは歓迎しないだろう。

 他人を見下し、自分は優秀で利口だと過剰に自負している人なら「世の中はバカばかりだ」と考えるかもしれない。そういう人にとってのバカとは、自分を高みに置くための比較対象の人々のことであり、自分と同格の優秀で利口だと認める人々以外の全ての人をバカとして見下す。だが、他人を見下す人は適切な判断ができなくなっているので、バカの一種である。

 世の中には様々なバカがいるのだが、自分がバカだということを自覚しないバカに「おまえはバカだ」と言うと、怒るだろう。バカという評価は不当だと怒る。誰に対しても「バカだ」と言うのは不当なのだが、失敗や間違いなどを厳しく批判しなければならない状況はある。様々なバカにバカという言葉を使わないで批判するには、説得することを意識して話すしかないだろう。

2025年5月7日水曜日

ルート66

 「ルート66」は、ナット・キング・コール(1946年)からチャック・ベリー(1961年)らジャズやロックなどジャンルを問わず多くの歌手やグループによってカバーされたヒット曲だ。米国内の国道66号線を旅する楽しさを歌う曲だが、日本を含む各国の歌手・グループもカバーしている。

 ルート66は、中東部のシカゴ(イリノイ州)と西海岸のサンタモニカ(カリフォルニア州)を結ぶ全長3755km(2347マイル)の国道で、8つの州を経由する(高速道路網の整備により1985年に廃線となったが、大半は現在も走行可能)。米国を横断するルート66は東西間の交通の利便性を高め、人気が高いルートとなり、沿道にはレストランやモーテルなどが増え、賑わったという。

 「ルート66」の歌詞は、西へ向かって車で行くならルート66がいいぜ-と始まり、セントルイスやジョプリン、素晴らしいオクラホマ・シティ、アマリロ、ギャロップ、フラッグスタッフが現れる-と沿道の主な都市名を次々と挙げ、ウィノナも忘れるな-と続け、キングマン、バーストウ、サン・バナディノもある-とする。音楽版のロードムービーの趣が漂う。

 この曲が作られたのは1946年で、第二次大戦中には軍需生産を優先していたGMやフォードなどビッグ3は乗用車などの生産を再開し、V8エンジンを搭載した大型車が売れていた時代だった。パワフルな車で米国内を旅行する欲求を刺激することに「ルート66」もいくらか貢献したかもしれない。行ったことがない都市名を耳にして、興味を持つことは珍しくない。

 ローリング・ストーンズは1964年のデビューアルバムで「ルート66」をカバーしているが、2024年にリリースされた「ウェルカム・トゥ・シェパーズ・ブッシュ」(1999年に英ロンドンのシェパーズ・ブッシュで行われたギグを収録したライブ盤)でも、この曲を演奏している。「不朽のロード・ソングは、ストーンズの初期のギグや最初のLPにつながるもので」「スリリングで緻密なハーモニーを奏でた」と解説文。

 この曲をローリング・ストーンズはデビュー前からレパートリーにしていたであろうから、おそらく数千回は演奏しているだろう。「ウェルカム・トゥ・シェパーズ・ブッシュ」での演奏はパワフルながらリラックスした雰囲気で、楽しみながら演奏している様子が伝わる。繰り返し演奏しても、洗練されすぎて上品にならないのが彼らの強みであり、ロックの魅力だ。

 日本に国道は459路線あり、1号から507号まで存在しているが「このうち48路線が欠番」で「欠番となっているのは59号から100号」(国交省HP)だから日本には国道66号線は存在しない。最長の国道は東京と青森市を結ぶ4号線で742.5㎞、2番目は東京と大阪市を結ぶ1号線で649.3km、3番目は京都と下関市を結ぶ9号線で614.6kmだ。「ルート66」にならって、日本でも国道を舞台にしたロードムービーやロードソングを作ることは可能だろう。

2025年5月3日土曜日

国家の承認欲求

 「我らは日本という国家に属する日本人である」との意識がいつごろから一般化したのか定かではない。隋や唐など現在の中国の存在は古くから知られていたが、欧米の存在が広く認識されるようになったのは江戸時代からだろう。藩が廃止された明治維新以降に日本という近代国家の形成が始まり、中央集権の国家の形成が進むにつれて、日本人との意識が徐々に形成されたと見るのが妥当か。

 日本という国家意識は、世界は広いことと、その世界で欧米諸国とともに存在するという意識とともにある。他国の存在を意識することは国家意識の形成の重要な要素であろう。同時に、他国を意識することは他国と比較することを促し、優劣を意識するようになり、序列の感覚も芽ばえ始めよう。

 歴史的に日本が比較する他国は隋や唐、元、明など中国大陸にあったが、それが欧米に変わった。欧米に対して日本は「遅れ」を意識し、近代化(西洋化)を急いだ。そこには欧米に対して日本の劣勢を意識し、国の序列が日本は欧米より下位にあるとの意識があっただろう。

 当時はまだ、欧米に対して日本の独自性を主張する状況ではなく、欧米に「追いつく」ことが最優先され、欧米と「対等」になることを目指していた。「対等」になるとは、日本が欧米から「対等」と見られ、そのように遇されることで実現する。20世紀に入ってから日本は国力を高め、軍事力を増大させ、「対等」と欧米から遇されるようになった。

 欧米と「対等」になった日本では優劣の意識は変化し、欧米から認められたいという承認欲求が、欧米に優越したいという意識に変化し始め、植民地の獲得で成長した欧州諸国に倣って日本も植民地獲得により経済的に潤うとの皮算用が現実的な目標に転じ、日本は占領して統治する地域を拡大する国策を推進し、歯止めが効かなくなって欧米の権益と衝突し、第二次大戦へと突き進んだ。

 日本人が日本という国家意識を持ったのは欧米を意識したからだが、「対等」になりたいとの承認欲求が、やがて欧米に優越したいとの意識に転じ、欧米など他国に対する優越をめぐる争いに発展した。欧米に対する承認欲求が優越願望に発展し、優越をめぐる国際競争が緊張の度合いを高め、第二次大戦に突入した。

 敗戦後の日本は経済発展で欧州諸国を凌駕する経済大国になり、承認欲求は満たされた。だが、欧米コンプレックスは敗戦国という現実とともに残っており、欧米が日本をどう見ているかということを過剰に気にする国となった。その反動で過剰に日本を強調したりもする。欧米に認められたいとの意識は敗戦後の日本に色濃く残っており、現在も欧米メディアの日本報道や評価には敏感に反応したりする。

2025年4月24日木曜日

日本語という非関税障壁

 20XX年、米国は日本の最大の非関税障壁は「日本語の壁だ」と批判し始めた。英語を準公用語に制定し、米国から輸出された製品の仕様書や使用説明書などは英語表記のままでも認めるように要求した。日本政府は当惑したが、その外交は米国の真意を探ることに終始し、どこまで譲歩するかの条件闘争だった。

 高率の関税を各国に次々と課して、ディールに引き込み、高飛車な交渉姿勢で次々と各国に要求を飲ませた2025年の第二次トランプ政権の成功体験により、トランプ政権後の米国政府の外交姿勢は、一方的に各国に要求を突きつけ、従わない国には制裁を課したり、さらには関税を引き上げたりするようになった。米国による安全保障の維持も交渉材料にするようになった米国は、各国に強気で臨んだ。

 米国製自動車の販売数が少なく、コメの700%関税など米国が障壁だと指摘した事項について日本政府は、米国には事実誤認や誤解があると国内向けには説明し、外交交渉で丁寧に説明して理解を求めるとの姿勢だったが、客観的な事実よりも主張を通すことに重きを置く米国は取り合わず、日本は譲歩に次ぐ譲歩を余儀なくされた過去があった。

 英語を準公用語にしろとの米国の要求に、日本国内では反発の声が湧き起こった。民族意識が刺激されたようで、日本語の維持は日本民族を意識するためには欠かせない重要な問題だとの主張が方々から現れ、日本語という「日本民族の精神形成に重要な役割を果たした言語を守れ」という機運が盛り上がった。

 一方で、表立って強くは言わないが、米国の要求を歓迎する経済人や評論家などもいた。英語が実質的に世界の共通言語になっているのだから、米国の要求を機会に日本国内での英語使用をもっと増やし、テレビ番組には必ず英語の字幕をつけ、英語に堪能な日本人を増やすことが日本の国際競争力の強化につながっていくとの考えだった。

 米国の要求を機会に、「われわれ日本人は日本語を本当に大切にしてきたのか」という視点からの批判も出てきた。テレビや雑誌、各種広告など日常空間ではすでに英語を主としたカタカナ語やアルファベットの横文字が氾濫していて、中央官庁の行政文書にもカタカナ語が増殖し、小洒落た飲食店や商店の店名は横文字ばかりという状況になっているのだから、日本人自身が日本語を粗末に扱いすぎていたという批判だ。

 英語を日本の準公用語にしろという米国には、中央省庁から地方自治体まで日本の全ての公的文書に英語版も制作させ、米国側で翻訳する手間を省き、政府間交渉も企業間交渉も全て英語で行うことを半ば義務化する狙いがあった。第二次トランプ政権の強硬な外交姿勢を引き継ぐ米国政府に振り回されっ放しの日本政府に妙案は浮かばず、国内の反対論をどう鎮めるかということに閣議の論点は移っていった。

2025年4月23日水曜日

終焉か再構築か

 グローバリズムは、人・モノ・カネ・情報が国境に関係なく世界を自由に動き回る現象だとされる。グローバリズムが進むと、やがて世界が1つの市場に統合されるとの期待もかつて現れ、歓迎された。だが現在、グローバリズムの進展によって惹起された様々な問題が各国で顕在化している。

 第二次大戦後、モノやカネの移動を自由にする方向へ各種の国際機構や条約が整備され、グローバリズムは着々と進んできた。インターネットの誕生は情報における国境の壁を無意味にし、各国間のビザ免除拡大などで人の移動の自由も拡大してきた。グローバリズムは冷戦後に始まった動きではなく、世界は1つの市場、さらには1つの共同体を構築する方向へと動いてきた。

 グローバリズムの進展に対して、現在顕著になっているのは国家主権の回復の動きだ。その代表が米トランプ政権で、グローバリズムの象徴ともいえる自由貿易体制に背を向け、高関税などで自国市場を囲い込み、米国1国の利益を優先する体制を構築しようとしている。欧州諸国で勢力を拡大する反移民・反EUの政党も国家主権の回復を目指す動きの現れだ。

 人の自由な移動はグローバリズムにより拡大したが、各地での紛争の多発などにより難民が増加し、豊かな国を目指す合法・非合法の移民も増加した。旅行者やビジネスパーソンなら、その移動先の国にとって負担にはならないが、難民や移民の殺到は負担増となったり、社会不安を招いたりする。米トランプ政権は大規模な移民の送り返しを始めたが、欧州も強制送還を容易にするように難民審査を簡略化する。

 グローバリズムにより自由に国境を越えて移動する「人」には、難民・移民は想定されていなかったのだろう。モノやカネは意思を持たないが、人は自分の意思で動くことができるので、紛争地や貧しい国の人々は動き始めた。歴史的に人類は移動を繰り返してきたのだが、国民国家の形成・広がりにより国境で管理されるようになっていた。難民・移民の増大を迷惑がるのも国家主権の回復を目指す動きだ。

 人やモノの自由な移動の制限を目指す国家が増え、グローバリズムの動きに揺り戻し(あるいは終焉)が見られる現在だが、カネや情報の自由な動きに対する反発・批判は現れない。カネや情報の自由な動きでは米国企業が世界市場で圧倒的な存在感を持っていて、カネや情報の自由な動きを制約することは米国の利益にならない。カネや情報においてはグローバリズムは健在だ。

 グローバリズムの動きを支えていたのは多国籍企業だ。サプライチェーンを各国に分散させて構築し、製品を世界で販売したり、マニュアル化されたサービスでフードチェーンなどを世界で展開した。制裁によりロシアがグローバル市場から排除されることにより、多国籍企業のグローバル戦略は後退を余儀なくされ、ロシアは国家主権を強化したようにも見える。

 グローバリズムは終焉するのか、再構築されるのか。再構築されるとしても、従来の延長上には戻らず、アメリカファーストのグローバリズムになるかもしれない。それが米国が世界から収奪する構造になるなら、米国の従属国以外は背を向けるだろう。変質したグローバリズムは世界の調和を目指すものではなく、新たな混乱をもたらすものになる。

2025年4月19日土曜日

市場原理と市場外的原理

 かつての冷戦は米国とソ連による世界の分割支配体制であった。米国とソ連の対立は資本主義と社会主義の対立であるともされたが、資本主義側には繁栄した国が多かったのに比べ社会主義の側ではソ連をはじめとして経済的に停滞した国ばかりだった。だが、社会主義の影響は資本主義国にも及び、富裕層への課税を強化したり、労働法制の整備や労働者の権利確保などに努めなければならなかった(それが厚い中間層の形成につながった)。

 やがて1991年のソ連の崩壊など社会主義の側で体制転換する国が相次ぎ、現実として社会主義による国家運営には限界があり、社会主義との優劣競争に資本主義が勝利したとの解釈が一般化した。社会主義側の「敗北」について加藤周一氏は次のように論じた(「20世紀と放送」内川芳美氏との対談、1997年=『加藤周一対話集⑤ー歴史の分岐点に立って』所収。適時修正あり)。

 「市場原理ではない市場外の原理を社会主義的だとすれば、資本主義は社会主義的原理を導入しなければうまく行かない。社会主義的な計画経済は市場原理、競争原理を導入するものだ。純粋社会主義というものは成り立たないし、未来がない。また、純粋資本主義というものもない」

 「実際に起こったことは、ソ連は資本主義的な原理をほとんど導入しなかった。資本主義側はヨーロッパでもアメリカやカナダでも社会主義的な要素を導入した。つまり市場原理に基づかない原理を導入した。資本主義が勝ったのではなく、資本主義と社会主義を合わせたものが勝った。資本主義側で合わせ、社会主義側で合わせなかったから、ソ連側が失敗して、アメリカ側というか資本主義側が成功した」

 「社会主義が競争原理を導入しなければダメなのは、能率が下がるからだ。資本主義の側で社会主義的=市場外的原理を導入しないとうまくいかないのは、市場の勝敗は短期的だという性質があり、長期的なものは市場原理に任せると成り立たないからだ」

 「長期的なもので典型的なものは、たとえば教育だ。学校にいる学生が本当に労働力になるのはだいぶ先の話になる。だから、短期的に今年の決算はと言われても、教育の効果は今年の決算ではゼロで、投資だけがあって利益はない。市場原理だけでは教育は成り立たない。教育というものは非常に長期的で、市場の短期的な計算と合わない」

 「米国には多くの大学があるが、私的財団と政府が大学に膨大なカネを投資している。儲かるからではなく市場外の活動だ。純粋の市場原理でいけば、米国の大学の大部分はなくなってしまう。大学がなければ米国の工業力は落ちるから、経済的にも米国は持たない」「メトロポリタン・オペラは各種の財団によって支えられている。入場券だけで運営できる=市場原理だけで運営できるオペラは全世界にただの一つもない。政府がやるか財団がやるかしかない」。

 ソ連の崩壊から中国は多くを学び、資本主義(市場主義)を散り入れて大幅な経済成長を達成した。同時に国内では富裕層が形成され、格差が大きく広がっているという。現在の米中の対立は、資本に従属する国家と、国家に従属する資本がせめぎ合っているように見える。

2025年4月16日水曜日

相対的な価値観

 1917年にロシアで革命により皇帝が退位し、1922年にロシアを中心としたソビエト社会主義共和国連邦が誕生した。ソ連は多民族からなる連邦で、共産党の1党独裁体制の社会主義国家だった。労働者階級が統治する国家だとされ、資本主義諸国の労働者や労働運動の活動家らの中には「労働者の祖国」とソ連を称する人もいた。

 20世紀においてソ連は、資本主義に代わる具体的かつ現実の階級闘争の成功モデルとして世界的な影響力は大きかった。だが、1990年にバルト3国が連邦から分離独立し、1991年にソ連共産党は解党され、やがてソビエト連邦は解体した。階級闘争を正当化する共産主義が影響力を持ったのはソ連などが存在していたからで、ソ連の崩壊後には共産主義の影響力は急速に衰えた。

 ソ連が健在だったころ、日本にも世界革命を主張する人々がいた。世界各国で革命を成功させることを夢想し、革命の根拠地を世界に確保しなければならない-などと飛躍して行動したグループもあった。世界を社会主義という1色に塗り替えようとした試みだったが、「万国の労働者よ 団結せよ」も「万国の革命運動よ 団結せよ」もうまくいかず、世界革命論も永久革命論もほぼ消えた。

 当時の世界は資本主義諸国と社会主義諸国が対立し、世界で影響力の拡大を競っていた。世界各国で労働者は人口の多数を占めるので、「最大多数の最大幸福」を求めるなら、労働者の利益を優先した政策が行われるべきだろう。だが、社会主義国では党や個人の独裁統治が行われ、資本主義諸国のほうが経済成長し、人々が豊かな暮らしを享受していたのが現実だった。

 社会主義国は現在も中国などが存在しているが、社会主義色は希薄となり、その国家体制が「労働者の祖国」などと憧れをもって見られることはない。最近では権威主義体制の国家と見られ、民主主義との対立が強調される。経済成長した中国や、強大な軍事力で領土を広げるロシアが権威主義体制の「成功例」であると見なす諸国もあるようで、影響力を持っている。

 民主主義は「人民が主権を持ち、人民の意思をもとにして政治を行う主義」であり、政党や個人が実質的に独裁するなど権力が一部に集中する権威主義とは国家主権のあり方が異なる。皇帝や王侯貴族の専制支配を打倒して民主主義が欧州で広がり、やがて世界にも広がったが、世界は民主主義1色に染められることはなく、かつての皇帝や王侯貴族の専制支配を想起させる権威主義が存在感を増している。

 欧米の論調に強く影響される日本では、民主主義は普遍的な価値観とされるが、中国の台頭やロシア、イスラエルの領土拡張を目指す軍事行動に歯止めをかけることができない世界で、民主主義は相対的な価値観になり、「そういう考えもあるんだね」程度の扱いになっていくのかもしれない。それは、権威主義が諸国の現実的な選択肢になっている世界の現実を反映している。

2025年4月12日土曜日

文明開化と和食

 ヘルシー(健康的)だとのイメージもあってか和食レストランが各国で増え、約18.7万店(2023年)と2021年の約15.9万店から約2割増加した(農水省)。地域別ではアジアが約12.2万店、北米が約2.8万店、欧州が約1.6万店、中南米が約1.3万店などとなる。アジアや欧州、中南米で店舗数は増えたが、北米では減少した。

 世界の和食レストラン数は2006年には約2.4万店だったので、17年間で約8倍になった。アジアや欧州では、日本食人気の高まりに加えチェーン展開する企業の進出等があり、北米ではコロナ禍の影響等があったと農水省。一方、訪日外国人数が増加しているが、様々な日本食を「本場」で食べることを目的にする人もいて、街中を食べ歩きする様子がTV番組などで伝えられる。

 外国人にも人気がある和食は寿司や天ぷら、すき焼き、ラーメン、ステーキ・焼肉、うなぎなどが中心だったが、味噌汁や枝豆、焼き餃子、焼き鳥、うどん、カツ丼、牛丼、カレーライスなど多くのメニューにも人気が広がってきた。世界の和食レストランで多くの和食メニューを提供するようになり、訪日経験がなくても様々な和食体験が可能になったことが影響しているようだ。

 和食に多彩なメニューが増えたのは明治時代以降のことだ。江戸時代には、武士は一汁三菜(飯と味噌汁に、おかずは漬物、煮物、豆腐、魚など3品)で、庶民は一汁一菜(飯と味噌汁に、おかずは漬物など)だったとされる。一方、外食文化が始まったのも江戸時代とされ、蕎麦、寿司、天ぷらなどが屋台で売られ、料理屋や高級料亭も誕生したという。

 外国人に人気の和食メニューの多くは明治時代以降に日本で定着したものが多い。例えば、すき焼きは牛鍋から発展したもので、西洋料理の普及拡大の先駆者的存在だ。和食の代表格のイメージがあるが、明治時代に定着したメニューだ。天ぷらは安土・桃山時代にポルトガル人が長崎に伝えたとされるが、江戸時代に普及し、明治時代に専門店などが登場したとされる。

 ラーメンは明治時代に横浜中華街で提供されたのが最初とされ、1945年の敗戦後に中国からの引き揚げ者が屋台で提供したのが広まった(中国にも麺料理があるが、

ラーメンに相当する麺料理はない)。焼き餃子も敗戦後に中国からの引き揚げ者が広めたとされる日本流の料理だ(中国では焼き餃子ではなく水餃子)。

 トンカツは欧州のカツレツ(コートレット、シュニッツェル)をもとに日本で天ぷらの調理法を活用して誕生した料理で、カレーライスは旧日本海軍が英国海軍を手本に、英国領だったインドのスパイスをシチューに加えた英国式カレーをメニューに加え、それが広まった。やがてカレーうどんなどカレー味のメニューが増殖している。

 カキフライやエビフライも明治時代に誕生したとされ、明治時代に入ってきたオムレツで飯を包んだオムライスが誕生したのは大正時代。コロッケのルーツはフランス料理のクロケットとされる。敗戦後には米国の余剰小麦の消費地に日本が仕立てられ、パン食やパスタや菓子類、ハンバーガーなど小麦粉を使った料理が広まり、パン食普及などで和食の世界は大きく変貌した。

 和食は明治時代以降、様々な外国料理の影響を受けたり、外国料理を取り入れて日本化させてきた。和食人気が世界で広がっているのは、和食が中華や西洋料理を取り入れた多国籍料理でもあり、無国籍料理でもあるので食のグローバル化の先頭に立つ料理だからだろう。

2025年4月9日水曜日

軽視された調査報告

 2019年に北海道立の江差高等看護学院の男子学生が自殺し、遺族は、学校側が教員のパワハラを放置していたとして北海道を訴えた。北海道が設置した第三者委員会は調査結果で、学生に対して複数の教員が行った4件のパワハラを認定し、北海道は遺族に謝罪した。だが、裁判で北海道は、第三者委が認定した事例はパワハラにはあたらないなどと争っているという。

 第三者委の調査報告を受けて道保健福祉部の幹部が遺族に直接謝罪し、知事も記者会見で謝罪の言葉を述べたのだが、裁判になると一転、パワハラが自殺に直接結びついたとは言い切れないとか、第三者委の調査は客観的なものではないなどとして、自殺の賠償には応じない姿勢となった。謝罪はパワハラを対象にしたもので、自殺に対するものではないとする。第三者委による調査は北海道では有識者から意見を聞く懇談会という位置づけだという。

 兵庫県では第三者委が調査報告で、▽知事の11件の言動はパワハラにあたる▽告発文書は公益通報にあたる▽通報者捜しを行ったことや、文書を作成した元局長の公用パソコンを回収したことは公益通報者保護法に違反する▽告発文書の作成と配布を理由にした元局長の懲戒処分は違法で無効-などとし、「組織の幹部は、感情をコントロールし、公式の場では人を傷つける発言や事態を混乱させるような発言は慎むべきだ」と提言した。

 第三者委の調査報告を受けて斉藤知事は記者会見で、「県の対応は適切だった」「誹謗中傷性の高い文書との認識に変わりはない」「当時としてはやむを得ない適切な対応だった」などと公益通報者保護法違反を否定したという。第三者委の調査報告が出る前と変わらない主張で、選挙で勝ったこともあり、知事は非をいっさい認めない姿勢を貫いている。

 フジテレビが設置した第三者委は調査報告で、▽中居氏のトラブルは業務の延長線上における性暴力であった▽フジ幹部が中居氏の利益のために動いた▽社長ら3人は性暴力への理解を欠き、被害者救済の視点が乏しかった▽社内のセクハラに非常に寛容な企業体質があった▽取引先との会食にアナウンサーや社員が「利用されていた」▽取締役会が機能不全で内部統制の構築・運用面でも様々な問題がある-などとした。

 第三者委の調査報告を受けてフジテレビ社長は記者会見で被害女性に謝罪し、「会社の対応や企業風土、ガバナンスなどの問題について大変厳しい指摘を受けた。一連の問題について第三者委員会からの指摘を真摯に受け止め、会社としての責任を痛感している」と述べ、第三者委の調査報告を尊重する姿勢を明確にした。

 第三者委の調査報告をフジが全面的に受け入れたのは、社会的批判が強かったからだろう。反省し、改革を進めるポーズを取る以外にフジに活路はなかった。地方自治体は民間企業とは異なり、スポンサーからの圧力はなく、権力を行使する主体でもあるので第三者委の調査報告を軽視することができた。それは社会的な責任をうやむやにすることもできると示している。

2025年4月5日土曜日

民族と宗教

 2018年にイスラエルで成立したユダヤ人国家法は、▽イスラエルはユダヤ人にとって歴史的な母国である▽民族自決権はユダヤ人の独占的権利である▽エルサレムはイスラエル国家の首都である▽ヘブライ語のみが公用語である▽亡命ユダヤ人を集め、ユダヤ人入植地の拡大を政府が奨励して促進する▽ディアスポラにおけるイスラエルとユダヤ人との関係強化に取り組む-などを明記した。

 この法律について中東調査会は、今回の法案では「イスラエル国内に居住するユダヤ人と離散したユダヤ人の表記が共に『the Jewish People』」とあり、「離散したユダヤ人は世代交代を繰り返しながら世界各地に住んでおり国籍、言語、身体的特徴の点で異なる」、イスラエルに住むユダヤ人と今もディアスポラにあるユダヤ人が法案中で同義に扱われているのは「政府がユダヤ人=ユダヤ教徒との認識を持っていることを意味する」と解説した。

 続けて、民族が宗教的な面から強調されていくことで「イスラエル社会においてユダヤ教徒でありながら、慣習や教義から外れる者はユダヤ人なのか」「パレスチナ人でありながらユダヤ教徒に改宗した者はユダヤ人なのかという問題が政治の場で大きな議論へと発展していく可能性も生まれる」とした。

 民族意識を刺激して国内の統制を進めるのは強権政治国の常套手段だ。漢民族の他に50以上の民族が暮らす中国は、人工的に中華民族を形成させ、中華民族との意識の定着を進める。国内が特定の民族意識で固められると、「我々」と「その他」の峻別が行われ、排外主義がはびこり、敵対したり対立する他民族(=他国)を敵視・蔑視する風潮が珍しくなくなる。

 民族の定義は「言語・文化を共有する人間の集団」「言語・人種・文化・生活慣習・歴史的運命を共有し、同族意識を持つ人々の集団」とか、「人種的・地域的起源が同一(または同一であると信じ)で、言語・宗教などの文化的伝統と、歴史的な運命を共有する人間の集団」「言語・宗教・風土・歴史・生活習慣などが共通する社会集団。同族意識を持つ」など宗教を加える解釈もある。

 神道やヒンズー教など特定の民族だけが信仰する宗教があるので、宗教を民族の要素に含める定義も成立しそうだが、神道を信仰する外国人は日本民族になるのか-という疑問が出てくる。ユダヤ教を信仰する人はユダヤ民族であるとイスラエルは宣言したが、これは欧米など世界各地のユダヤ人に向けて「我々」意識を高めてもらおうとの政治的なメッセージだ。

 民族意識は限定された人々に共有されるが、何らかの宗教の信者であるとの意識は民族を超えて共有される(例えば、仏教・キリスト教・イスラム教)。ユダヤ教を信じる人々をユダヤ民族とするなら、仏教民族とかキリスト民族とかイスラム民族も誕生しそうだが、仏教・キリスト教・イスラム教は特定の国家に属してはいない。イスラエルがユダヤ民族を強調するのは、中華民族と同様に人工的に民族意識を高め、統治に利用するためだろう。