2026年3月28日土曜日

権力への意思

 大統領になって思うままに権力を振り回しているのが米トランプ大統領だ。米国内にとどまらず国際的にも数々の波紋を広げるなど影響力は大きく、連日のSNSでのコメントが国内外で大きく報じられるようになった。思いつきの発言が大きく報じられる様子をトランプ氏はおそらく楽しんでみている。権力者は自分が重要人物であるとの自覚を持つだろうし、注目されていることが自尊心を満たすだろう。

 トランプ氏を見て、自分も権力者になって思うように自国や世界を変えたいと夢想する人がいるかもしれない。自由・平等・博愛・民主主義など普遍的とされる価値観を無視することは容易だとトランプ氏は示し、権力を握ることの魅力を発信している。普遍的とされる価値観を実現・定着させるためにも権力が必要であり、「世界を変える」には権力を握るしかないと人々は考える。

 そうした「権力への意思」が歴史をつくってきたと説くのが佐伯啓思氏だ(「神なき時代の『終末論』」。適時省略あり)。

 「自由、平等、博愛といったフランス革命の精神こそが隠された『権力への意思』だと見たのはニーチェであった。近代社会の平等思想こそ奴隷革命の産物であり、支配者から支配権を奪い取るという『権力への意思』がそこにある。それこそは弱者のルサンチマンの産物だとニーチェは述べた」。

 「抑圧され、支配されてきたと感じる者たちの、強者や支配者や時には金持ちに向けたどうにもならない反感、しかも、ある劣等感と嫉妬と屈辱感がないまぜになった反感が鬱積してゆく。この負の感情がルサンチマンとなり、自らが支配者になりたいという欲望をたきつけ、近代革命を起こした。批判主義もこの近代革命の延長線上にある。それゆえ、リベラルな価値も『権力への意思』にほかならない」

 「近代のリベラルな価値とはキリスト教道徳の変形である。その背後にはキリスト教が隠されているとニーチェはいう。キリスト教道徳こそは、神という絶対の『主人』に服従する『奴隷』としての人間が自己満足的に生みだした奴隷道徳だという」「もしニーチェやフーコーが言うように、自由や平等が、奴隷として支配されてきた弱者のルサンチマンを言い換えただけであれば、歴史に意味はなくなる」

 「強者による弱者の支配も、リベラルな価値の正当性を掲げた弱者による強者の支配も、どちらも単なる権力作用にすぎない。ひとつの権力が別の権力に置き換わっただけである。自由な民主主義の勝利とは、主人も奴隷もなくなり万民が対等となった社会などではなく、ただ、奴隷の無条件の勝利を意味しているというのがニーチェの言い分であった」

 「我々が歴史に見るのは『権力への意思』の様々な発現の姿であり、それに終わりはない。あるのは、延々と続く『権力への意思』の多様な表れなのである。終末などやってこない。同じことが永遠に繰り返されるだけなのである」

 国王も貴族も富裕層も平民も権力をめぐって争ってきたのであり、社会的な強者と弱者による権力交代が繰り返されてきたし、今後も繰り返されよう。強者による支配に迎合する弱者があり、弱者による支配を簒奪して強者になる指導者もあるなど、権力を巡る争いは強者・弱者が入り乱れる。「権力への意思」だけは変わらず人々が持ち続け、歴史が動いていく。

2026年3月25日水曜日

迷走するEU

 EUのフォンデアライエン欧州委員長はは3月10日、欧州が原子力発電を縮小してきたのは「戦略的に誤りだった」と明言した。原発由来の電力は「1990年には3分の1だったが、現在では15%程度に過ぎない」「信頼性が高く、低炭素の電源を欧州が放棄したのは戦略的な誤りだった」とし、今後は再生可能エネルギーとともに次世代原発の小型モジュール炉(SMR)導入を推進すると表明した。

 脱炭素や脱原発など「崇高」な理念先行の政策をEUは掲げ、産業界や人々に強制してきた。だが、ウクライナ侵攻したロシアに天然ガスや原油の供給を頼っていた欧州は、脱ロシアに動いて中東からの天然ガス供給を増やしたものの、イスラエル・米国のイラン攻撃による緊張で中東に依存する脆弱性が明らかになり、自前のエネルギーを確保することが必要だとEUは、やっと現実に根差した政策へと転換した。

 EUは自動車政策でも方向転換した。2035年にガソリン車の販売を禁止し、EV以外は認めないとしていた。だが、EVの普及は遅く、売れるのは中国製EVが多いとあって、やっと消費者の意向を尊重する姿勢に転じ、35年以降も条件付きとしたもののガソリン車販売を容認した。脱炭素という「崇高」な理念先行の政策は、期待通りに動かない現実に阻まれ、修正・方向転換を余儀なくされている。

 ガソリンエンジン車は終わりで、EV一択の時代になると理解した世界の自動車メーカーはEVの新車開発に懸命になり、次々と新車を市場投入したが、好調に売れたのは米テスラ車と中国車。巨額の開発費用の回収は期待できず、世界の自動車メーカーは巨額の赤字を相次いで計上せざるを得なくなった。EVへの転換を自動車メーカーに強制するというEUの「崇高」だが現実離れし、結果として間違った政策のツケを世界の自動車メーカーが払うことになった。

 かつて欧州諸国は世界各地で植民地支配し、産物や資源を持ち去る一方、自国産品の市場にする自国有利の自由貿易で富を蓄え、近年では改革開放後の中国を市場として利益を上げたが、競争力を高めた中国産品の輸出攻勢にEU市場が席巻されるようになった。そこで、中国などアジア勢に産業競争力で劣るという現実をようやく直視したEUは新たに産業促進法を準備している。

 これはEU域内での鉄鋼やアルミニウム、セメントなどに加えて太陽光パネル、風力タービン、電解装置、EVなどの製造を支援するものだが、補助金の支給や政府調達などの対象にEU域内での生産品を優遇するなど保護主義に動く。安価で競争力が高い中国製品にEU市場でも太刀打ちできないので、EU域内市場を囲い込むとの意思表示だ。中国企業のEU域内への工場進出の増加も期待しているようだ。

 EUはEUが有利になる規制を打ち出し、それを「崇高」な理念で飾り、普遍的だと正当化し、世界標準へと格上げして各国にも強制する。新たな規制や自由貿易などがEUに有利な時は「崇高」な理念を主張し、EUに不利な状況になると一転して現実的なEU の利益追求に転じる。変わり身の速さは状況の変化に応じてEU各国の利益を第一とする当然の行動だろうが、「崇高」な理念の軽さが可視化される。米トランプ政権は「崇高」な理念など無視し、自国の利益を憚りなく追求するが、正直さではEUより上かもしれない。

2026年3月21日土曜日

ジーンズ復活

 かつては若者文化の象徴ともされたことがあったジーンズは、今では衣料量販店などで大量販売され、高級ブランドでも品揃えするなど、すっかり多くの人々の普段着となった。社会の束縛を嫌ったり、自由に生きることを主張する若者がはくといったイメージは過去のものとなり、そうしたイメージはジーンズ着用から抜け落ちた。

 若い頃からジーンズをはいていただろう人たちが、すっかり高齢者となってもジーンズをはいている姿を見ることは日常の光景だ。老いも若きも男も女も着用するようになり、ジーンズは特別なものではなくなった。それとともに、スタイリッシュにはくものというイメージは希薄になり、ダボダボだったりヨレヨレだったりとジーンズ姿は様々だ。

 若い頃は颯爽と細身のジーンズをはいていた友人は、結婚して食生活が安定したためか太り始め、若い頃にはいていたジーンズがきつくなり、30代半ばでジーンズをはかなくなったという。でも、捨てたりすることはなく大事にジーンズを持ち続け、退職して東京を離れ、関東北部の自然豊かな町に移住した時にも、「はかないんだから、もう捨てたら?」という奥さんの言葉を無視してジーンズを手放さず持ってきた。

 街歩きが趣味だったという友人は、移住先の自然豊かな環境をすっかり気に入り、移住して3年ぐらいは、毎日のようにあちこち歩き回っていたそうだ。「同じ道を歩いていても、日によって、季節によって何か発見があるんだ」「花など植物はもちろん、鳥や小動物、昆虫などとの出合いがあったり、光線の加減で家並みや通りの見え方も違ってくる」と友人は気ままな散策を楽しんでいる。

 「歩き回ることには意外な副産物があったんだ」と友人は嬉しそうに話すので、新しい飲み友達ができたのかと聞くと、「それもあったが、体重が減った」。友人は東京にいた頃は腹が丸く出っ張っていたが、見ると、腹の出っ張りが目立たなくなっている。よっぽど一生懸命歩いたんだなと言うと、「ダイエットなど意識したことはない。ただ、歩き回るのが楽しくて、天気が良ければ、ほとんど毎日歩いていた。気に入った蕎麦屋まで片道2時間、車を使わず歩いて行ったことも結構あったよ」と友人。

 移住して3年で体重が10キロ以上減ったという友人は、年末の大掃除の時に衣装ケースにしまったままのジーンズに目が留まった。もしかすると、また、はくことができるかもしれないと友人はジーンズを衣装ケースから取り出し、はいてみた。足は支障なくジーンズに入り、ウエストのフロントボタンも無理なく止めることができた。何十年ぶりかのジーンズ姿を奥さんに見せに行くと、若返ったみたいと褒められたそうだ。

 ジーンズは6本あったので「毎日、ジーンズをはいて暮らすようになった」友人は、他の衣装ケースにしまったままの上着類やシャツなども引っ張り出して着るようになった。「いつの間にか地味な色の服ばかりを着るようになっていたが、若い頃に着ていた明るい色のものを着ると、なんだか気持ちも軽くなる」と友人は、若かった過去からの贈り物を楽しんでいる。

2026年3月18日水曜日

宗教国家

 1945年の敗戦前の日本では、天皇は現人神とされ、その神性を批判・否定する言動は不敬罪などで厳しく弾圧され、当時の国家体制に対する反逆とみなされた。神という概念は、宗教の範疇に属する。神性の存在や神の存在を客観的に証明することはできないから、神性の存在や神の存在を知ることはできず、信じるしかない。

 知ることは理性や知性の働きであり、信じることは感情の働きだ。見えないものの存在は感じるしかなく、また、存在すると教え込まれることでも、見えないものの存在を受け入れるようになる。当時の日本は宗教国家だった。特定の宗教が国政に大きな影響力を持つ宗教国家は現在も世界に多い。そうした国では、国家が「帰依」する宗教に対する批判は厳しく取り締まられる。

 現在でも国教を定めている国は多く、宗教の影響力は大きい。イスラム教では政教一致が基本で、イスラム教の教理に反する言動が許されない国は珍しくなく、トルコでは雑誌がムハンマドの風刺画を掲載したとしてイスタンブールの主任検察官が編集者らの逮捕を命じ、群衆と警察との激しい衝突に発展したことがあり、フランスでは2015年に風刺新聞「シャルリー・エブド」編集部をイスラム過激派が襲い、12人を殺害した。

 宗教が絡むと妥協の余地が狭まったり、なくなったりする。現代ではイスラム過激派による暴力が目立つが、宗教が関わる殺し合いは世界の歴史に数多く記録されている。キリスト教でも内部の「異端」に対する暴力を伴う迫害や、十字軍や宗教戦争など大規模な暴力を行使してきた過去がある。人口の約73%がユダヤ人でユダヤ教徒が約74%というイスラエルは宗教国家色が濃く、異教徒への過剰な暴力が正当化されている。

 宗教国家に対して政教分離の国家がある。政教分離が国家の制度として定着したのは近代だが、欧州ではカトリック教会の専制に対する人々の不満は古くから根強く存在した。それがフランスでは革命へとつながり、揺り戻しはあったものの、やがて20世紀に政教分離法が制定された。政教分離は宗教勢力が政治に関与することを禁止するが、宗教によって権力に権威を与えることは政教分離を定めた諸国でも続いている。

 政治権力と特定の宗教が結びついた国家の恐ろしさは、批判者や異端など体制に従わない人々に対する容赦ない弾圧が堂々と行われることだ。キリスト教の影響力が圧倒的だった西洋で人々は、政治権力のあり方を問い、教会の意向ではなく民意を反映した政治が行われることを実現させた。だが、現在のイスラム教国などに同様の政教分離を求めることは簡単ではない。

 欧米では宗教の形骸化が指摘され、政教分離の諸国では宗教離れが進行しているという。権力から切り離された宗教の影響力が徐々に低下するのは、宗教自体の人々を魅了する力が弱まっているからだ。だから宗教は権力と結びつく。政治権力と結びつくことが宗教の存続を保障するのだから、宗教の側から政治権力と分離するはずがない。

2026年3月14日土曜日

戦争は儲かる

  日本は日清戦争・日露戦争・第一次大戦と戦勝を続け、やがて軍部が独裁する軍国日本となって、中国大陸や東南アジア、太平洋へと占領・支配地の拡大を目指して進軍したものの、日本各地が空襲されるようになり、最後には日本軍はボロ負けして解体され、日本国は独立を失い、占領統治された。軍部は、なぜ戦争を欲したのか。

 戦争を始めるためには戦争を正当化する必要があり、開戦や参戦がやむを得なかったとする様々なストーリーを国家は宣伝し、人々の戦意を高揚・維持させる。そうしたストーリーを手がかりにしても、当時の軍部が戦争を欲した真意は分からないだろう。当時の軍部・軍人は賠償金目当てで戦争を行っていたと保阪正康氏は説く(「令和の今、何を昭和史に学ぶか」-『昭和史の核心』所収。適時省略あり)。

 「日本の近代史において、戦争は正しいものだった。日清戦争に勝って、日本は清国から台湾などの領土と3.6億円の賠償金を得た。戦費は2.3億円ぐらいだから、それを全部カバーした上で、その後の軍備増強資金も得ることができた」

 「そうして強化した軍隊で次の日露戦争を戦った。これも勝ちはしたけれども不本意なことに賠償金は取れなかった。国民がそれを知って暴動を起こしている。賠償金が取れなくて国民が暴動を起こすというところに、この戦争に対する真の期待が何にあったのかが透けて見える」

 「第一次世界大戦も含めて、近代日本の10年おきの戦争には、実利主義という背景がある。つまり戦争が政治・外交の延長ではなく、国家の営業品目になっていったのだ。戦争とは軍国日本にとって、賠償金をとって大儲けするためのおいしいビジネスと化したのである」

 「日清戦争の結果、国家予算の1.5倍もの賠償金をとった時から、日本の戦争観は変わった。戦争は儲かると、日本はおよそ10年おきに大戦争をし、日露戦争は儲からなかったが南樺太や南満州鉄道を手に入れ、第一次世界大戦ではわずかな参戦でドイツが権益を持っていた山東省などを手に入れ、ベルサイユ条約で賠償金の分配に預かっている」

 「ポツダム宣言受諾をめぐる会議で、梅津美治郎参謀総長ら軍部代表が外務大臣の東郷茂徳などと次のような要旨の会話をしている。『ポツダム宣言を受諾したら、賠償金はいくら取られるのか』『確かなことは、内地外地の軍事産業は没収もしくは解体と書いてある』『我々が知りたいのは、賠償金の額である』」

 「戦争は国家の政策だから予算がある。開戦から終戦までが一つのプロジェクトであり、終われば収支決算がある。賠償金を取らなければ利益は出ない。賠償金を取るためには勝たなければならない。軍人は、勝つまでやるしかない。軍人は、聖戦継続・一億玉砕を主張したが、その弁解が戦後にも続いていた。国を滅ぼすような大赤字を出したことが、彼らにとっての最大の不名誉だったのである」。

 利益を求める経済活動としての戦争は、勝つことが絶対条件だ。だが、軍事大国ロシアがウクライナ侵攻で4年経っても勝利できないように、戦争で勝ち切ることは簡単ではない。さらに第一次大戦後の巨額の賠償金がドイツを疲弊させ、ナチス台頭を招いたことから、終戦後の敗戦国に対する賠償金請求の過大さに注意が払われるようになった。必ず儲かるビジネスではなくなったが、世界で戦争が絶えることはない。

2026年3月11日水曜日

時間と空間

 映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」では主人公がタイムマシに乗って過去の1955年の世界にタイムスリップし、元の世界(映画では1985年)に戻ろうと四苦八苦する。戻った過去の世界は、歴史に記録された1955年の世界(空間)であった。30年前という時間と30年前の世界(空間)は結びついており、時間と世界(空間)は分離できない一体のものとして描かれる。

 タイムマシンで過去に行ったとすると、そこには過去の世界(空間)があるとして様々な物語が作られた。特定の過去の時間と特定の過去の世界(空間)が一体のものであるという理解や前提で、そうした物語は成立する。もし、時間と世界(空間)の結びつきがないとすると、タイムトラベルしたなら、行った過去に、どんな世界が広がっているのか不明で、例えば30年前の過去に戻ったとしても、1200年前の世界が広がっているかもしれない。

 タイムトラベルの物語で主人公が過去に戻る例が多いのは、過去の世界は記録や記憶により再現できるからだ。未来にタイムスリップするという物語では、主人公が行った先の未来の世界を表現しなければならず、作者や製作陣の想像力に頼るしかない。映画「猿の惑星」はタイムスリップ同様に時間をスキップして主人公らが未来の地球に移動するとの物語だが、未来においても、時間と世界(空間)が結びついていると描かれた。

 タイムトラベルによる時間の移動は、過去や未来の世界(空間)への移動として描かれる。過去には過去の時間と結びついた過去の世界(空間)があり、未来には未来の時間と結びついた未来の世界(空間)があるとするからSF物語は成り立つ。時間と出来事が結びつき、出来事は空間内で生じるので、時間と空間も結びついているとすることで、タイムトラベル物語は成立する。

 時間も世界(空間)も同時に誕生したというのが科学的な見方だ。138億年前のビッグバンで、極小の⾼温⾼密度の状態から出発した宇宙が膨張を続けて現在に至るとする宇宙論が妥当だとされている。138億年前に現在の宇宙は始まったのであり、その時に時間が始まり、空間も形成され始めた。時間にも空間にも始まりがあり、宇宙の膨張とともに時間は時を刻み続け、空間は拡大し続けている。

 時間には空間が必要だ。人間が意識した時間の最初は、日の出と日の入りで1日とする時間だろう。古代の人類が夏至や冬至などを正確に計測していた例もあるなど、天体の動きで1年という時間を意識していた可能性が高い。太陽などの動きで時間を意識したのだが、太陽などが動くためには空間が必要だ。時間と空間が結びついているのは、何かの動きを可能にするには空間が必要だからだ。

 天体の運動や時計の秒針、電子の振動など時間は何らかの規則的な動きによって計測されるものであり、そうした動きには空間が必要なので、時間と空間は切り離すことができない。空間が存在しなければ時間も存在しない。タイムトラベル物語が時間と空間を結びつけて展開するのは、特定の時間には特定の世界(空間)が結びついているとの記憶や理解があるからだ。 

2026年3月7日土曜日

裏切られる革命

 革命という言葉はロマンを込めて使われることがある。働く人々や抑圧されている人々が政治権力を握り、富裕層や特権階層や大企業を優遇する政治をやめ、真面目に働く大多数の人々を優先する社会に変えるとか、強権で人々を抑圧する独裁などの支配体制を打倒し、自由で民主的な体制に変えるなどと、政治体制や社会体制を強制的に変化させることを夢見る。

 見果てぬ夢が革命であるというのが現実かもしれない。見果てぬ夢だから革命は魅力的なのかな。世界では各国で格差が拡大する一方、富裕層や特権階層や大企業を優遇する政治が続き、強権で人々を抑圧する独裁などの権威主義体制の国は体制を脅かされることもなく、人々の抑圧を続けている。革命の必要性が増大していると見えるが、人々は分断されて統治されたり、強権で黙らされたりしている。

 様々な革命が世界各地で起きていた歴史がある。20世紀にはロシアやメキシコ、トルコ、ドイツ、中国、キューバ、イランなど各国で革命が起き、ほかにもクーデターなどが各地で頻発し、強制的な政権交代が実現した。だが、そうした革命によって、真面目に働く人々が尊重され、人々が安寧に暮らすユートピアのような社会の実現に近づいたかというと、疑わしい。

 労働者階級の独裁を目指した革命が共産党独裁となり、さらには共産党に君臨する個人の独裁へと変貌したり、困窮する人々が立ち上がって政権を打倒したのに既得権益層の中から後継政権ができて、少し変化があったものの既存の政治・社会体制がほぼ維持されたりと、革命により政権を打倒した後に革命の「精神」を裏切る政権が誕生することはよくある。

 イランでは1979年、イスラム教のシーア派の信仰を重視すべきという人々が、西欧化と対米従属を進める腐敗したパーレビ王朝を打倒し、宗教指導者のホメイニ氏をトップとする革命政権を樹立した。パーレビ王朝の政治では人々の生活は向上せず、より良い生活を求めてパーレビ王朝の打倒に加わった人々も多いのだが、ホメイニ体制ではイスラム原理主義が日常生活に持ち込まれ、人々は新たな抑圧体制の中で暮らすことになった。

 こんな毎日は嫌だと人々が立ち上がり、政権を打倒した革命の成果が、新たに権力を握った連中に乗っ取られ、革命政府を守ることを口実に、人々の批判を抑圧する体制に転じる例は歴史に珍しくない。成功した革命が簒奪されるのは、政権交代における正当性が揺らいでいるからだ。民意の反映が革命なのだが、民意の解釈を革命政府が独占することで革命政府の支配が正当化される。

 共産革命でもイスラム革命でも、成立した革命政府は強権化し、人々を抑圧する体制に落ち着いた。社会における善悪や正邪の判断を革命政府が独占し、それを人々に強制して、従わない人々を罰する日常に人々は不満を持ち、抗議するが、革命政府に対する批判は反革命だとして弾圧される。しかし、人々は諦めない。自分が住む国を、もっと良くするために立ち上がる人々がいる限り、世界で革命は起きるだろう(革命が後継権力に簒奪されることも続くだろう)。

2026年3月4日水曜日

パールハーバー

 1941年12月の日本軍の真珠湾攻撃は米国では、宣戦通告が行われる前に行われた奇襲攻撃であり、不意打ちであるとともに、卑怯なだまし討ちであるとされている。「リメンバー・パールハーバー」の言葉とともに日本に対する敵愾心が煽られ、米国民の怒りを高め、終戦後も日本に対する「卑劣だ」とのマイナスイメージを長く定着させた。

 真珠湾攻撃を開始する30分前に国交断絶を米国に通告するはずだったが、在米日本大使館の不手際で宣戦布告が米国側に届いたのは攻撃開始の1時間後だった。結果として当時の日本は通告なき開戦を行い、終戦後も米国では日本を卑劣視し、フェアではない行動をする国だと蔑みの対象とした。「リメンバー・パールハーバー」の言葉は現在も忘れられてはいないという。

 今回のイランに対する攻撃で米国は宣戦布告を行わず、奇襲攻撃でハメネイ氏を殺害した「成果」などを吹聴している。イランという独立国に対する戦争を開始することについて議会の承認も得ておらず、トランプ政権の独断で奇襲攻撃を行った。フェアプレーでないことは明らかだが、そのことを恥じる雰囲気は米国社会にはうかがえないようだ。

 トランプ氏にフェアを求めても無駄だろうが、米国がフェアに振る舞うことを一顧だにしない国になったのか、もともとフェアプレーを尊重しない国だったのかは知らないが、だまし討ちを行う西部劇に出てくる悪漢の振る舞いを国として米国は堂々と行っている。イラクを「悪」とするが、悪者相手でも主人公は堂々と戦うから西部劇は成立した。無法者しか出てこないのでは西部劇の世界観は成立しない。

 2月28日の午前にハメネイ氏らイラン高官が会合するという情報を得たので、夜間に予定されていた攻撃を早めたと報じられている。用心深く行動していたというハメネイ氏の所在をつかんだので即座に攻撃を開始したことは、吉良上野介の所在をつかんで討ち入りを決行した忠臣蔵を想起させるが、宣戦布告なき戦争は国家によるテロ行為だ。

 米国はベネズエラでも宣戦布告がない戦争を行った。独立国であるベネズエラに奇襲攻撃を行い、マドゥロ大統領を拘束して米国に連れ去った。マドゥロ氏もハメネイ氏も国内で独裁し、多数の人々を迫害した責任者であり、その罪は重い。だが、その罪を裁くのはそれぞれの国の人々であり、米国ではない。

 宣戦布告なき戦争を米国は繰り返してきた。米国が宣戦布告を行ったのは5回だけだという(米英戦争、米墨戦争、米西戦争、第一次大戦、第二次大戦)。今回のイラン攻撃で宣戦布告を行わなかったのは米国にとってはフツーのことであり、宣戦布告を行う必要性も意識していなかったのだろう。つまり、卑怯な奇襲攻撃を世界各地で繰り返してきたアメリカに真珠湾攻撃を卑劣だと批判する資格は、ない。