街中で奇妙なデザインの車を見かけることが多くなった。最新のものは「C-HR」で、過剰な甲羅をつけて走っているようにも見える造形は、これは何だと注目を集める存在感があることは確かだが、何らかの機能性を感じさせるデザインではないし、空力などからの必然性も感じさせない。
すでに街中に大量に“増殖”している「プリウス」も奇妙なデザインといえる。ライト類の造形は目立たせることのみを目的にデザインされているようで、LED採用によりデザインの自由度が拡大してデザイナーの創造意欲が掻き立てられたことは伝わってくるが、あのデザインに到達しなければならなかったとの必然性は希薄だ。
美醜の判断は主観により異なるし、大量に売れているのだから、あれらのデザインを好む人も多いのだろう。だが、絵画などの美術品なら、どんな奇妙なものでも気に入った人が自宅に飾っておけばいいが、車は道路という公共空間を走るので、万人の目にさらされる。見るたびに違和感を感じさせられる車が増え、見慣れた都市空間に微かな緊張をもたらしているようでもある。
車のデザインは機能性を重視すれば、どれも似たようなものになる。例えば、エンジンの搭載位置や定員、車高などの外寸、トランクの有無などを決め、燃費を重視するなら空力に配慮しなければならず、結果としてフォルムは同じになろう。そうした制約の中で美しさと個性を表現するのがデザイナーの腕の見せ所だったはずが、デザイナーの暴走とも見える格好の車が増え始めた。
生産工程にロボットが導入され、部品は世界規模で調達し合うようになってメーカーによる車の品質に大差がなくなった現在、デザインで明確に個性を主張することの重要度が増しているのだろう。デザインにも流行があり、ラインや面で美しさを表現する手法は時代遅れで、意味のない無駄なラインや面の組み合わせで造形することが世界的にも流行っている。
そういえば「ジューク」も奇妙なデザインだったから、トヨタのデザイナーだけが「新しい」造形に積極的とはいえない。BMWがヘッドライトなどを自由な形にデザインし始めたあたりから世界の車のデザインは、セダンはセダンらしく、クーペはクーペらしく、ワゴンはワゴンらしくなどという既成概念から「解放」されたのかもしれない。
車が普及し、単なる移動の道具になったことも影響している。どれを買っても大同小異だとすれば、購買意欲を刺激する見た目が重要になる。そういえば消しゴムは機能性だけなら四角でいいだろうが、おもしろ消しゴムは自由で造形で売る。車のデザインも機能性や必然性よりもキャラクターを立てて、目立ってナンボと訴求する商品に移行したのだろう。おもしろ車の時代か。
2017年4月29日土曜日
2017年4月26日水曜日
公共交通のあり方が不鮮明
過疎化が進む地方でJRの赤字路線が次々に廃線になっていくが、赤字路線を維持する解決策は実は簡単だ。沿線の人口を増やし、鉄道に乗る人数を増やせばいい。そうすれば鉄道事業は採算がとれるようになり、廃線せずに運行を続けることができよう。問題は、鉄道ではなく、地方にある。
線路を維持管理するには多額の固定コストを要する。過疎化が進んで乗客が少なくなり、料金収入だけでは固定コストさえ賄うことができなくなると、営利事業として成立しないから撤退するのが適切な判断となる。しかし、JRに対して年配者などには公共交通との意識が残っていたりするので、廃線を地元は簡単には受け入ない。
人々の生活基盤を支える公共事業であれば、採算だけで事業継続を判断することはできず、事業単独では赤字であっても人々の生活を支えるために税金を投入して続けなければならない場合がある。私鉄なら営利事業であると明確だが、国鉄時代の公共サービスとのイメージを引きずるJRだから、例えば、赤字路線の維持に税金投入を求める意識が生じやすい。
過疎地の自治体は、鉄道の廃線で過疎化が促進されるなどと反対するが、路線が維持されれば過疎化が止まるものでもあるまい。過疎地の自治体が真摯に取り組むべきは、人口を増やすことだ。過疎化により様々な問題が起きているのであり、その象徴が赤字路線の廃線だ。過疎地の自治体が廃線に感情的に反発するのは、過疎化に対する無力さの裏返しのように見える。
自分ができることを自分で行うには、自分が決断すればいいだけだ。しかし、自分ができないことを他人に行わせるためには、他人に決断させるという困難が伴う。過疎化を止めることができない自治体が赤字路線を維持させるためには、線路維持のための固定コストを負担するしかないが、財政基盤が脆弱な自治体には、出す金はなかろうから、鉄道会社に陳情するしかなくなる。
赤字路線の廃止問題から見えてくるのは、過疎地における公共交通のあり方が不鮮明なことだ。国や自治体は高速道を含めて道路の整備を進める一方で、鉄道はJRを含め民間事業と位置付けるが、赤字路線の廃線となると途端に慌て始める。車を持たない「交通弱者」に対する配慮がなされていないことが明らかになるからだ。
専用軌道を必要とする鉄道事業が成り立つには、相応の需要(乗客)を必要とする。過疎地には、維持管理に自治体が責任を持つ一般道を利用するバスの方がコスト面から適しているのは明らかで、小型バスを使う適時の運行システムが構築されたなら、全国の過疎地に住み着く人も少しは増えるかもしれない。
線路を維持管理するには多額の固定コストを要する。過疎化が進んで乗客が少なくなり、料金収入だけでは固定コストさえ賄うことができなくなると、営利事業として成立しないから撤退するのが適切な判断となる。しかし、JRに対して年配者などには公共交通との意識が残っていたりするので、廃線を地元は簡単には受け入ない。
人々の生活基盤を支える公共事業であれば、採算だけで事業継続を判断することはできず、事業単独では赤字であっても人々の生活を支えるために税金を投入して続けなければならない場合がある。私鉄なら営利事業であると明確だが、国鉄時代の公共サービスとのイメージを引きずるJRだから、例えば、赤字路線の維持に税金投入を求める意識が生じやすい。
過疎地の自治体は、鉄道の廃線で過疎化が促進されるなどと反対するが、路線が維持されれば過疎化が止まるものでもあるまい。過疎地の自治体が真摯に取り組むべきは、人口を増やすことだ。過疎化により様々な問題が起きているのであり、その象徴が赤字路線の廃線だ。過疎地の自治体が廃線に感情的に反発するのは、過疎化に対する無力さの裏返しのように見える。
自分ができることを自分で行うには、自分が決断すればいいだけだ。しかし、自分ができないことを他人に行わせるためには、他人に決断させるという困難が伴う。過疎化を止めることができない自治体が赤字路線を維持させるためには、線路維持のための固定コストを負担するしかないが、財政基盤が脆弱な自治体には、出す金はなかろうから、鉄道会社に陳情するしかなくなる。
赤字路線の廃止問題から見えてくるのは、過疎地における公共交通のあり方が不鮮明なことだ。国や自治体は高速道を含めて道路の整備を進める一方で、鉄道はJRを含め民間事業と位置付けるが、赤字路線の廃線となると途端に慌て始める。車を持たない「交通弱者」に対する配慮がなされていないことが明らかになるからだ。
専用軌道を必要とする鉄道事業が成り立つには、相応の需要(乗客)を必要とする。過疎地には、維持管理に自治体が責任を持つ一般道を利用するバスの方がコスト面から適しているのは明らかで、小型バスを使う適時の運行システムが構築されたなら、全国の過疎地に住み着く人も少しは増えるかもしれない。
2017年4月22日土曜日
動物農場
馬や牛、豚、羊、鶏、犬など農場の動物たちが、懸命に働いているのに収穫は人間のものとなる一方で、鞭打たれたり、産んだ子供を売られたり、卵を産んだり乳を出すことを強制されることが不満だと意識し始め、怠惰な農場経営をする農場主らを追い出し、動物たちで自主管理を始めたというのが『動物牧場』(英ジョージ・オーウェル著)。
動物たちは同志と呼び合い、各自は能力に応じて働き、怠けるものはおらず、自分たちの食べ物は自分たちの力でつくりだし、人間に奪われずに収穫は皆で分かち合うので、食べられる量が増えた。余暇時間が増え、日曜日には仕事はなく、全体集会で動物共和国の連帯を確かめ合った。動物の楽園が誕生した……はずだった。
搾取され虐げられているものたちが反乱に立ち上がり、寄生している連中を追い出して、働くものたちで自主管理して、能力に応じて働き・必要に応じて受け取る共同体を構築するというのは一種のユートピアだろう。現実には存在しないものがユートピアとされるが、反乱が成功して高揚感に満ちたのなら、常に変化する世界で一瞬だけ現れるのがユートピアなのかもしれない。
この小説は第2次大戦中に書かれたが、複数の大手出版社からは出版を断られて難航、やっと1945年8月に出版された。難航したのは、モデルが当時のソ連だったから。第二次大戦中の英国にとってソ連は共にドイツと戦う同盟国であり、また英国の知識人にソ連へのシンパシーを持つ人が珍しくなかったこともあって、ソ連が持つ負の側面に目を向けることが忌避されたのだろう。
ところが、出版されるとベストセラーになった。活字に飢えていた時代背景もあるが、終戦とともに、ドイツなど共通の敵がなくなったことにより米ソによる世界覇権を巡る対立が高まり、冷戦体制が始まった。大量粛清など過酷なソ連の実態が西側でも広く知られるようになり、労働者の理想の国家とのイメージは覆され、この小説に描かれる社会が現実感を持って読者に受け止められたのだろう。
ソ連が崩壊し、共産主義社会が現実には実現不可能なユートピアであることが明らかになった現在でも、この小説は読み継がれている。それは、全体主義のスローガンであれ民主主義のスローガンであれ、大多数の人々が社会の潮流に合わせて唱和し追従するような、動物農場と似た社会に人が生きているからだろう。
異論を唱えるものは、全体主義社会では粛清され、民主主義社会では批判されたり無視されるが殺されはしないところが異なる程度で、社会の方向性に人が制約されることに基本的な違いはない。権力からの強制があれば、大多数は従うと歴史が明らかにしている。抑圧構造は人間社会につきものだから、この小説が読まれ続けるのだろう。
ソ連が崩壊した後にも、この小説に現実感があるのは、北朝鮮や中国などの全体主義国家が健在だからだ。北朝鮮や中国をイメージしながら読むと、この小説は一層強烈な皮肉となり、かの国の体制擁護の「愛国者」の姿が、動物農場の登場動物とダブって見えてくる。
動物たちは同志と呼び合い、各自は能力に応じて働き、怠けるものはおらず、自分たちの食べ物は自分たちの力でつくりだし、人間に奪われずに収穫は皆で分かち合うので、食べられる量が増えた。余暇時間が増え、日曜日には仕事はなく、全体集会で動物共和国の連帯を確かめ合った。動物の楽園が誕生した……はずだった。
搾取され虐げられているものたちが反乱に立ち上がり、寄生している連中を追い出して、働くものたちで自主管理して、能力に応じて働き・必要に応じて受け取る共同体を構築するというのは一種のユートピアだろう。現実には存在しないものがユートピアとされるが、反乱が成功して高揚感に満ちたのなら、常に変化する世界で一瞬だけ現れるのがユートピアなのかもしれない。
この小説は第2次大戦中に書かれたが、複数の大手出版社からは出版を断られて難航、やっと1945年8月に出版された。難航したのは、モデルが当時のソ連だったから。第二次大戦中の英国にとってソ連は共にドイツと戦う同盟国であり、また英国の知識人にソ連へのシンパシーを持つ人が珍しくなかったこともあって、ソ連が持つ負の側面に目を向けることが忌避されたのだろう。
ところが、出版されるとベストセラーになった。活字に飢えていた時代背景もあるが、終戦とともに、ドイツなど共通の敵がなくなったことにより米ソによる世界覇権を巡る対立が高まり、冷戦体制が始まった。大量粛清など過酷なソ連の実態が西側でも広く知られるようになり、労働者の理想の国家とのイメージは覆され、この小説に描かれる社会が現実感を持って読者に受け止められたのだろう。
ソ連が崩壊し、共産主義社会が現実には実現不可能なユートピアであることが明らかになった現在でも、この小説は読み継がれている。それは、全体主義のスローガンであれ民主主義のスローガンであれ、大多数の人々が社会の潮流に合わせて唱和し追従するような、動物農場と似た社会に人が生きているからだろう。
異論を唱えるものは、全体主義社会では粛清され、民主主義社会では批判されたり無視されるが殺されはしないところが異なる程度で、社会の方向性に人が制約されることに基本的な違いはない。権力からの強制があれば、大多数は従うと歴史が明らかにしている。抑圧構造は人間社会につきものだから、この小説が読まれ続けるのだろう。
ソ連が崩壊した後にも、この小説に現実感があるのは、北朝鮮や中国などの全体主義国家が健在だからだ。北朝鮮や中国をイメージしながら読むと、この小説は一層強烈な皮肉となり、かの国の体制擁護の「愛国者」の姿が、動物農場の登場動物とダブって見えてくる。
2017年4月19日水曜日
国境の壁と万里の長城
人間が作った最大の建造物は、中国の「万里の長城」だとされる。2000年以上前から諸王朝が、北方からの外敵の侵入に備えて各地で構築を続けた壁で、全長は2700キロとか6000キロとか8800キロとか様々な数字が出されていたが、最新の発表では2万1000キロ以上とされる。
新設されなくなって久しいのに全長が伸びるのは不思議だが、これは万里の長城が、ばらばらに築かれてきたものの寄せ集めだからだ。始まりは、諸国が築いていた国境の城壁を秦の始皇帝が増改築させて繋いで延ばしたもの。時代を経るごとに、各地で新たに作られたり、位置を移して重複して築かれたりと新増設が続いた。
城壁の遺構や痕跡が広大な中国各地には数多く残っているだろうから、それらを探して見つけ、それが歴代の諸王朝が築いた城壁の一部で、万里の長城の一部であると認定して加算していけば、万里の長城の全長はいくらでも延びるだろう。つまり、探せば全長は伸びる仕組み。
現存の主要なものは、明代にモンゴルに備えて堅固に整備されたものが多いというが、万里の長城は、陸続きの北方からの侵略に対する警戒感がいかに強かったかを示してもいる。構築するための莫大な手間と経費、時間を想像すると、北方からの侵略圧力に対する人々の歴史的な怯えの大きさが見えてくる。
現代にも長大な壁の話がある。こちらは軍事的な役割よりも、密入国する移民を防ぐためのもの。米トランプ大統領は大統領令でメキシコ国境に壁を建設することを命じた。建設対象区間は約2000キロとされ、壁の高さは約9メートル。材質は鉄筋コンクリートで、ハンマーや電動工具を使っても簡単には穴が開かないような頑丈さと、地下にはトンネルを防ぐ対策が求められるという。
中国の王朝なら壁の構築のために人々に使役を課すことができただろうが、民主主義のアメリカではそうはいかない。建設費用は150億ドルとも200億ドルを超えるともされ、トランプ大統領は「全額をメキシコに負担させる」と主張するが、メキシコは拒否。なお工期は3年以上と見込まれ、すでにヒスパニック系米国人所有企業を含め600社以上が受注に向け動いているとか。
国境に壁を作るとは明確な遮断の意思の表れであり、壁には、こちら側と、あちら側を明確にする機能がある。あちら側とは政治的に、敵に仕立て上げることができる存在でもある。壁の向こうに敵がいて、常に脅かされているという設定は、権力にとって統治のために有効だろう。壁を可視化することは、権力者にとって好都合な事業だ。
新設されなくなって久しいのに全長が伸びるのは不思議だが、これは万里の長城が、ばらばらに築かれてきたものの寄せ集めだからだ。始まりは、諸国が築いていた国境の城壁を秦の始皇帝が増改築させて繋いで延ばしたもの。時代を経るごとに、各地で新たに作られたり、位置を移して重複して築かれたりと新増設が続いた。
城壁の遺構や痕跡が広大な中国各地には数多く残っているだろうから、それらを探して見つけ、それが歴代の諸王朝が築いた城壁の一部で、万里の長城の一部であると認定して加算していけば、万里の長城の全長はいくらでも延びるだろう。つまり、探せば全長は伸びる仕組み。
現存の主要なものは、明代にモンゴルに備えて堅固に整備されたものが多いというが、万里の長城は、陸続きの北方からの侵略に対する警戒感がいかに強かったかを示してもいる。構築するための莫大な手間と経費、時間を想像すると、北方からの侵略圧力に対する人々の歴史的な怯えの大きさが見えてくる。
現代にも長大な壁の話がある。こちらは軍事的な役割よりも、密入国する移民を防ぐためのもの。米トランプ大統領は大統領令でメキシコ国境に壁を建設することを命じた。建設対象区間は約2000キロとされ、壁の高さは約9メートル。材質は鉄筋コンクリートで、ハンマーや電動工具を使っても簡単には穴が開かないような頑丈さと、地下にはトンネルを防ぐ対策が求められるという。
中国の王朝なら壁の構築のために人々に使役を課すことができただろうが、民主主義のアメリカではそうはいかない。建設費用は150億ドルとも200億ドルを超えるともされ、トランプ大統領は「全額をメキシコに負担させる」と主張するが、メキシコは拒否。なお工期は3年以上と見込まれ、すでにヒスパニック系米国人所有企業を含め600社以上が受注に向け動いているとか。
国境に壁を作るとは明確な遮断の意思の表れであり、壁には、こちら側と、あちら側を明確にする機能がある。あちら側とは政治的に、敵に仕立て上げることができる存在でもある。壁の向こうに敵がいて、常に脅かされているという設定は、権力にとって統治のために有効だろう。壁を可視化することは、権力者にとって好都合な事業だ。
2017年4月15日土曜日
「愛国者」という道化者
かつて軍国主義教育が全国で強制されていた時代に教えられていたものの中にある、例えば、「父母に孝」「夫婦相和し」「朋友相信じ」などというのは、時代を超えて受け継がれるべき徳目であり、民主主義が定着しただろう現在においても教えることに問題はないとする考えがある。
不思議なのは、そうした主張をする人が、軍国主義の時代の文書に拘泥することだ。時代を超えて受け継がれるべき徳目だというのが本当なら、それらを軍国主義教育と切り離して教えることは可能だろう。さらに、普遍的な徳目は軍国主義教育から切り離さなければ、普遍的な徳目への賛同に紛れさせて軍国主義の肯定につなげる狙いかと疑われるだけだ。
軍国主義の結果として日本は戦争を始めたものの無条件降伏に追い込まれ、独立を失い、外国の支配下に置かれた歴史がある。日本の軍国主義は失敗に終わったというのが歴史的な事実であり、失敗した軍国主義を肯定するというのは珍妙な思考だ。さらに、失敗した軍国主義を肯定するのが愛国的とみなす向きもあり、珍妙さは一層増す。
軍国主義の結果として無条件降伏した日本で、生き残った人々は苦しい生活を余儀なくされた。もう戦争は嫌だと多くの人は軍国主義的なものを拒否し、強権的な国家権力に対する嫌悪感や軍事に対する忌避感なども生まれた。それらは戦後民主主義を支えたが、戦後民主主義的なものに反発する人が、失敗した軍国主義を持ち出したところで、大向こうから喝采を得られるはずもない。
かつて日本で愛国者とは軍国主義者かつ国家主義者のことであり、無条件降伏に追い込まれ、独立を失い、外国の支配下に置かれる日本に導いた人々のことであった。もちろん一般の日本人の多くも愛国心を鼓舞された愛国者であったが、彼らは無条件降伏した時に、戦争に敗けたことに怒り、指導者らを糾弾する自発性は持たず、敗戦を受け入れた。
民主主義を尊重しつつ自国を愛するという愛国者像が日本では未だ確立されておらず、かつての愛国者イメージがなお強く残っているため、価値観の混乱が続いている。一方で、テレビに溢れる日本礼賛番組に見られるように、人々は日本が好きなのだろうから、軍国主義とも国家主義とも無縁な日本ラブという愛国者像も形成されつつあるように見える。
時代を超えて受け継がれるべき徳目と称するものを、かつての国家主義・軍国主義に紛れ込ませる愛国者が現れても、その珍妙さが「道化者が現れた」と大笑いされなかった今回の騒動。過去のイメージの愛国者像を時代錯誤と笑い飛ばすことができる社会に、まだ日本はなっていないということを示した。
不思議なのは、そうした主張をする人が、軍国主義の時代の文書に拘泥することだ。時代を超えて受け継がれるべき徳目だというのが本当なら、それらを軍国主義教育と切り離して教えることは可能だろう。さらに、普遍的な徳目は軍国主義教育から切り離さなければ、普遍的な徳目への賛同に紛れさせて軍国主義の肯定につなげる狙いかと疑われるだけだ。
軍国主義の結果として日本は戦争を始めたものの無条件降伏に追い込まれ、独立を失い、外国の支配下に置かれた歴史がある。日本の軍国主義は失敗に終わったというのが歴史的な事実であり、失敗した軍国主義を肯定するというのは珍妙な思考だ。さらに、失敗した軍国主義を肯定するのが愛国的とみなす向きもあり、珍妙さは一層増す。
軍国主義の結果として無条件降伏した日本で、生き残った人々は苦しい生活を余儀なくされた。もう戦争は嫌だと多くの人は軍国主義的なものを拒否し、強権的な国家権力に対する嫌悪感や軍事に対する忌避感なども生まれた。それらは戦後民主主義を支えたが、戦後民主主義的なものに反発する人が、失敗した軍国主義を持ち出したところで、大向こうから喝采を得られるはずもない。
かつて日本で愛国者とは軍国主義者かつ国家主義者のことであり、無条件降伏に追い込まれ、独立を失い、外国の支配下に置かれる日本に導いた人々のことであった。もちろん一般の日本人の多くも愛国心を鼓舞された愛国者であったが、彼らは無条件降伏した時に、戦争に敗けたことに怒り、指導者らを糾弾する自発性は持たず、敗戦を受け入れた。
民主主義を尊重しつつ自国を愛するという愛国者像が日本では未だ確立されておらず、かつての愛国者イメージがなお強く残っているため、価値観の混乱が続いている。一方で、テレビに溢れる日本礼賛番組に見られるように、人々は日本が好きなのだろうから、軍国主義とも国家主義とも無縁な日本ラブという愛国者像も形成されつつあるように見える。
時代を超えて受け継がれるべき徳目と称するものを、かつての国家主義・軍国主義に紛れ込ませる愛国者が現れても、その珍妙さが「道化者が現れた」と大笑いされなかった今回の騒動。過去のイメージの愛国者像を時代錯誤と笑い飛ばすことができる社会に、まだ日本はなっていないということを示した。
2017年4月12日水曜日
価値観の共有
普遍的な価値観とは、国家や民族、宗教などを超えて人類が共有する価値観のこととされる。とはいえ、普遍的な価値観を決定する明確な基準はなく、共有する国家が多い価値観が普遍的とされる。現在では、近代になって世界的に大きな影響力を持った欧米的価値観が普遍的とされることが多く、それは欧米が国際的な影響力を保持することに役立っている。
欧米的価値観は例えば、個人の自由や権利の尊重、主権在民の民主主義、人道主義などだが、それらより体制の維持を優先させる強権国家は世界に珍しくはない。普遍的な価値観には殺人や窃盗などの禁止もあるが、社会によって禁止の実態は様々だ(名誉とか報復のための殺人が根絶されない社会もある)。
つまり、普遍的価値感といっても絶対的な規範ではない(欧米は絶対的なものと主張するが、その欧米は相手によって、それらの主張を使い分けるのが現実)。だが、普遍的な価値観が存在しない世界は、帝国主義的な力の論理で争う時代に逆戻りする。そんな世界よりも、対話を重視する世界を望むなら、対話の基盤となる共通する理念があったほうが便利だろうから、普遍的な価値観を設定する意味はあるだろう。
さて、普遍的な価値観とは横(地理的)に広がって共有されるものとすると、縦(時間的・歴史的)に広がって共有される価値観もある。それは民族や地域社会の伝統などに代表され、地理的な広がりには乏しい。こちらにも明確な基準はなく、従う人が従うだけ。伝統だからと広く強制を仕組んだりすると、途端に異議が出てくることになる。
伝統なんて蹴飛ばす対象だとするのは若さの特権かもしれないが、成熟というか老齢化が進む社会では伝統はそれなりに尊重される。といっても、ひと昔前の価値観に基づいて構築された伝統は歴史の検証にさらされ、時代の変化に合致する部分だけが受け入れられるか、さもなければ、歴史の遺物として祭り上げられるだけだ。
伝統のほかにも時代を超えた価値があるとする人もいる。例えば、「夫婦相和し朋友相信じ」などは100年前にも現在にも通用する価値観だとし、ついでに100年以上前の古びた書き物を引っ張り出してきて、うやうやしく奉る姿を演じたりする。ところが、金が絡むと途端に「朋友」が仲間割れを始め、相信じていない姿が露見して笑われる。
「夫婦相和し朋友相信じ」などというのは、あるべき望ましい姿のことであり、理念ではなく、歴史の検証にもさらされていない。これぞ受け継ぐべき価値観だと、100年以上前の書き物を引っ張り出して主張する人たちから見えてくるのは、知的な衰退である。歴史の検証に耐え、国境を越えて共有されるような論理の構築ができないでいる姿を晒すことになった。
欧米的価値観は例えば、個人の自由や権利の尊重、主権在民の民主主義、人道主義などだが、それらより体制の維持を優先させる強権国家は世界に珍しくはない。普遍的な価値観には殺人や窃盗などの禁止もあるが、社会によって禁止の実態は様々だ(名誉とか報復のための殺人が根絶されない社会もある)。
つまり、普遍的価値感といっても絶対的な規範ではない(欧米は絶対的なものと主張するが、その欧米は相手によって、それらの主張を使い分けるのが現実)。だが、普遍的な価値観が存在しない世界は、帝国主義的な力の論理で争う時代に逆戻りする。そんな世界よりも、対話を重視する世界を望むなら、対話の基盤となる共通する理念があったほうが便利だろうから、普遍的な価値観を設定する意味はあるだろう。
さて、普遍的な価値観とは横(地理的)に広がって共有されるものとすると、縦(時間的・歴史的)に広がって共有される価値観もある。それは民族や地域社会の伝統などに代表され、地理的な広がりには乏しい。こちらにも明確な基準はなく、従う人が従うだけ。伝統だからと広く強制を仕組んだりすると、途端に異議が出てくることになる。
伝統なんて蹴飛ばす対象だとするのは若さの特権かもしれないが、成熟というか老齢化が進む社会では伝統はそれなりに尊重される。といっても、ひと昔前の価値観に基づいて構築された伝統は歴史の検証にさらされ、時代の変化に合致する部分だけが受け入れられるか、さもなければ、歴史の遺物として祭り上げられるだけだ。
伝統のほかにも時代を超えた価値があるとする人もいる。例えば、「夫婦相和し朋友相信じ」などは100年前にも現在にも通用する価値観だとし、ついでに100年以上前の古びた書き物を引っ張り出してきて、うやうやしく奉る姿を演じたりする。ところが、金が絡むと途端に「朋友」が仲間割れを始め、相信じていない姿が露見して笑われる。
「夫婦相和し朋友相信じ」などというのは、あるべき望ましい姿のことであり、理念ではなく、歴史の検証にもさらされていない。これぞ受け継ぐべき価値観だと、100年以上前の書き物を引っ張り出して主張する人たちから見えてくるのは、知的な衰退である。歴史の検証に耐え、国境を越えて共有されるような論理の構築ができないでいる姿を晒すことになった。
2017年4月8日土曜日
百貨店の凋落
地方で百貨店の閉店が相次いでいる。百貨店は大都市の象徴的な商業施設で、それが地方の「わが街」にも来ると大歓迎された時代があり、売り上げも順調だったが、次第に売り上げは減っていった。駅前などに立地する百貨店には鉄道を利用して周辺の人々も訪れたが、幹線道路沿いなどに巨大なショッピングモールができたりすると、わざわざ百貨店に行かなければならない理由は減る。
地方では各家庭が複数の軽自動車を持つようになり、大規模な商業施設には広大な駐車場が不可欠だが、駅前などに出店すると駐車場スペースを広げるためには相応のコストがかかる。百貨店より先に、都市部の駐車スペースが少ない商店街が影響を受け、いわゆるシャッター商店街になったりするのは、購買客の行動スタイルの変化に対応できなかったからだ。
更にコンビニも増え、ネット通販が一般化し、どこでも何でも買うことができる時代になった。そうなると、百貨店ファンや、百貨店で買うことが目的という人しか行かなくなるのは当然。一昔前なら、百貨店の商品なら品質が確かだとされ、百貨店に買い物に行く理由になったが、ファストファッション商品に見られるように商品全般の品質が向上した。
百貨店はシャワー効果(上層階に来店した客が下層階を周遊)を期待し、集客のために、一昔前には屋上にミニ遊園地を設けたり、上層階に大きな食堂を置いた。集客効果が薄れるとイベントスペースに変えて各種の展示会を開催したり、大型書店を入れた。そうした大型書店にけっこう人がいたりするので集客の効果はあるのだろうが、売り上げ減は止まらなかった。
日本の百貨店の売り上げはピーク時には12兆円あったが、2015年には6兆1742億円と縮小を続けている。訪日中国人の爆買いなどで一時は盛り返したが、長くは続かず、5兆円程度まで減るともいわれている。特別な買い物をする特別な場所でなくなった百貨店は、自前の土地・建物ならば人気テナントへの場所貸しで生き延びられようが、賃貸が多いという地方百貨店では閉店するしかないか。
中国でも百貨店の閉店が相次いでいるという。アウトレットモールが急増し、ネット通販の台頭もあって消費者の買い物形態が多様化、百貨店の魅力が薄れたこともあって業績低迷に陥ったというのは日本と同様で、急速な自動車の普及が買い物行動の変化を後押ししたというのも日本と似ている。中国ではスーパーマーケット閉店も相次ぐというが、儲かりそうだからとの大量出店のツケでもあるかもしれない。
百貨店だけが提供できる何かがあると皆が思っていたのは、消費に対するあこがれが残っていた時代だろう。豊かになるにつれて消費は日常的行為に過ぎなくなり、どこでも何でも買うことができるようになると、百貨店の存在感が希薄になるのは自然なことだ。百貨店の活路は、百貨店でしか得ることができない何かを提供して集客することか。それはリアルのライブ体験が鍵になるだろう。
地方では各家庭が複数の軽自動車を持つようになり、大規模な商業施設には広大な駐車場が不可欠だが、駅前などに出店すると駐車場スペースを広げるためには相応のコストがかかる。百貨店より先に、都市部の駐車スペースが少ない商店街が影響を受け、いわゆるシャッター商店街になったりするのは、購買客の行動スタイルの変化に対応できなかったからだ。
更にコンビニも増え、ネット通販が一般化し、どこでも何でも買うことができる時代になった。そうなると、百貨店ファンや、百貨店で買うことが目的という人しか行かなくなるのは当然。一昔前なら、百貨店の商品なら品質が確かだとされ、百貨店に買い物に行く理由になったが、ファストファッション商品に見られるように商品全般の品質が向上した。
百貨店はシャワー効果(上層階に来店した客が下層階を周遊)を期待し、集客のために、一昔前には屋上にミニ遊園地を設けたり、上層階に大きな食堂を置いた。集客効果が薄れるとイベントスペースに変えて各種の展示会を開催したり、大型書店を入れた。そうした大型書店にけっこう人がいたりするので集客の効果はあるのだろうが、売り上げ減は止まらなかった。
日本の百貨店の売り上げはピーク時には12兆円あったが、2015年には6兆1742億円と縮小を続けている。訪日中国人の爆買いなどで一時は盛り返したが、長くは続かず、5兆円程度まで減るともいわれている。特別な買い物をする特別な場所でなくなった百貨店は、自前の土地・建物ならば人気テナントへの場所貸しで生き延びられようが、賃貸が多いという地方百貨店では閉店するしかないか。
中国でも百貨店の閉店が相次いでいるという。アウトレットモールが急増し、ネット通販の台頭もあって消費者の買い物形態が多様化、百貨店の魅力が薄れたこともあって業績低迷に陥ったというのは日本と同様で、急速な自動車の普及が買い物行動の変化を後押ししたというのも日本と似ている。中国ではスーパーマーケット閉店も相次ぐというが、儲かりそうだからとの大量出店のツケでもあるかもしれない。
百貨店だけが提供できる何かがあると皆が思っていたのは、消費に対するあこがれが残っていた時代だろう。豊かになるにつれて消費は日常的行為に過ぎなくなり、どこでも何でも買うことができるようになると、百貨店の存在感が希薄になるのは自然なことだ。百貨店の活路は、百貨店でしか得ることができない何かを提供して集客することか。それはリアルのライブ体験が鍵になるだろう。
2017年4月5日水曜日
語り継ぐもの
今年の3月11日は東日本大震災から6年目だった。テレビ各局は特番を並べ、新聞各紙は数ページの特集を組むなど大々的に取り上げていた。それらでは、肉親を失った人々にスポットを当て、亡くなった人を悼み、例えば、「忘れない」などのメッセージを大きく掲げていた。
しかし、3月11日が過ぎると東日本大震災関連の番組や特集記事は激減する。「忘れない」とのメッセージとはマスメディアにとって、毎年3月11日に必ず追悼企画を組むという意味であるのかもしれない。大震災や大事故、大事件など非日常の出来事は毎年どこかで起きるのだから、マスメディアは何らかの追悼企画を毎月でも組むことができそうだ。
非業の死を遂げた人々を忘れないというのは、生き残った人々の責務であろう。人の死は実感を伴った歴史の記憶であり、例えば、日本で暮らすとは、いつかどこかで大震災に遭遇する可能性が高いことでもあるのだから、避けることができなかった死を悼み、避けることができただろう死を検証することは必要なことだ。
多くの死者の記憶が存在する中でマスメディアが情緒的に死者を悼むのは不思議ではないが、いつかどこかで次の大震災が起きる日本だからこそ、「忘れてはいけない」ことを伝えることが重要になる。それは、次の大震災での死者を1人でも少なくすることに寄与するような番組、記事をつくることだ。
語り継ぐべきものは、感情であり記憶であり事実である。死者への思いは大切だが、それに偏重しすぎると、見失われるものがある。大震災の発生後から、何が起こり、人々はどう行動したのか。地域別に詳しく検証し、記録を残すことが、次の大震災における対応のヒントになる。さらに復興・復旧がどう進展したか、あるいは進展しなかったかを検証することで、実際に有効な施策が見えてこよう。
東日本大震災では、津波により多くの人命が失われ、さらに福島第一原発事故による大量の避難など大規模な混乱が続き、阪神大震災では火災により多くの人命が失われた。住む場所や時間、地形、地域の人間関係などにより異なる様々な具体的な死があり、あるいは助かった命があっただろうから、それらを記録し、共有することが次の大震災の最善の備えとなる。
例えば、避難する車で道路が渋滞して津波に襲われたり、渋滞で消防車が火災現場に到着できずに延焼が拡大したりと、現在の交通事情が地震に脆弱であることは明らかなので、大地震を想定した都市の再開発は急務だ。マスメディアが「忘れない」で伝え、問題提起すべきことは多い。
しかし、3月11日が過ぎると東日本大震災関連の番組や特集記事は激減する。「忘れない」とのメッセージとはマスメディアにとって、毎年3月11日に必ず追悼企画を組むという意味であるのかもしれない。大震災や大事故、大事件など非日常の出来事は毎年どこかで起きるのだから、マスメディアは何らかの追悼企画を毎月でも組むことができそうだ。
非業の死を遂げた人々を忘れないというのは、生き残った人々の責務であろう。人の死は実感を伴った歴史の記憶であり、例えば、日本で暮らすとは、いつかどこかで大震災に遭遇する可能性が高いことでもあるのだから、避けることができなかった死を悼み、避けることができただろう死を検証することは必要なことだ。
多くの死者の記憶が存在する中でマスメディアが情緒的に死者を悼むのは不思議ではないが、いつかどこかで次の大震災が起きる日本だからこそ、「忘れてはいけない」ことを伝えることが重要になる。それは、次の大震災での死者を1人でも少なくすることに寄与するような番組、記事をつくることだ。
語り継ぐべきものは、感情であり記憶であり事実である。死者への思いは大切だが、それに偏重しすぎると、見失われるものがある。大震災の発生後から、何が起こり、人々はどう行動したのか。地域別に詳しく検証し、記録を残すことが、次の大震災における対応のヒントになる。さらに復興・復旧がどう進展したか、あるいは進展しなかったかを検証することで、実際に有効な施策が見えてこよう。
東日本大震災では、津波により多くの人命が失われ、さらに福島第一原発事故による大量の避難など大規模な混乱が続き、阪神大震災では火災により多くの人命が失われた。住む場所や時間、地形、地域の人間関係などにより異なる様々な具体的な死があり、あるいは助かった命があっただろうから、それらを記録し、共有することが次の大震災の最善の備えとなる。
例えば、避難する車で道路が渋滞して津波に襲われたり、渋滞で消防車が火災現場に到着できずに延焼が拡大したりと、現在の交通事情が地震に脆弱であることは明らかなので、大地震を想定した都市の再開発は急務だ。マスメディアが「忘れない」で伝え、問題提起すべきことは多い。
2017年4月1日土曜日
叩かれるロッテ
ロッテが中国でバッシングの標的になっている。米軍の高高度防衛ミサイル(THAAD)の韓国での配備が始まったが、その敷地は、韓国ロッテが所有していたゴルフ場を他の国有地との交換で提供したものだった。中国はTHAAD配備に強く反対しており、THAAD配備に協力したロッテを締め上げることに躊躇はなかったようだ。
ロッテは中国に20年以上前から進出し、菓子・飲料の製造販売のほか、デパート、スーパーを各地で展開するなど手広く事業を行い、根付いていたといえる企業だった。ところが、100店舗以上あるスーパーに中国当局は消防安全検査を実施し、不合格だとして店舗に次々と営業停止を命じるなど、政府主導でロッテバッシングを始めた。
中国の国営マスコミも公然とロッテの製品や店舗ボイコットを呼びかけたというから、まさに官製バッシングだ。「許可」が出たからと人々も元気づいて、ロッテの店舗、関連施設などに押し掛けて破壊し、大規模デモでロッテを糾弾するかというと……冷静だ。秋に共産党大会を控え、最高指導部の人事を巡り権力闘争が進行中という政治的に微妙な中国で、大規模デモなど許されるわけがない。
中国が特定国を対象に官製バッシングを行うのは初めてではない。2012年に中国政府は日本バッシングを主導し、各地で反日デモが繰り返され、日本企業の関連施設や店舗が破壊され略奪され、日本料理店も襲われ、日本車も標的になった。今回、中国人観光客を減らしたりと慎重に中国は韓国への経済的圧力を強めているが、ロッテに対するバッシングだけは目に見える形で行っている。
ところでロッテは敗戦後の日本で誕生した会社だが、創業者が在日韓国人とあって、日本で稼いだ資金をもとに韓国で大規模で多様な事業を展開しており、有数の巨大財閥となっている。韓国での売上げは日本の10倍弱ともいうが、グループ全体の支配会社は日本にある。
ロッテは韓国企業か、日本企業か。数年来のロッテの経営権を巡る創業家の御家騒動は、財閥批判が根強い韓国で大きな関心を集め、韓国メディアから「踏み絵」を迫られた現在の経営陣はロッテは韓国企業だと表明せざるを得なかったとか。今回の中国によるロッテバッシングは、ロッテが韓国企業であることを強調する効果もあったようだ。
そういえば、中国で日本企業が襲撃された2012年と比べて日本の報道は冷静だ。中国でのロッテバッシングは小さな扱いでしかない。してみると、中国と同様に日本でもロッテは韓国企業と見なされているのだろう。日本では日本企業として振る舞い、韓国では韓国企業として振る舞うことに何らかの経済合理性はあったのだろうが、政治が関わってくると企業にも二重国籍は許されないようだ。
ロッテは中国に20年以上前から進出し、菓子・飲料の製造販売のほか、デパート、スーパーを各地で展開するなど手広く事業を行い、根付いていたといえる企業だった。ところが、100店舗以上あるスーパーに中国当局は消防安全検査を実施し、不合格だとして店舗に次々と営業停止を命じるなど、政府主導でロッテバッシングを始めた。
中国の国営マスコミも公然とロッテの製品や店舗ボイコットを呼びかけたというから、まさに官製バッシングだ。「許可」が出たからと人々も元気づいて、ロッテの店舗、関連施設などに押し掛けて破壊し、大規模デモでロッテを糾弾するかというと……冷静だ。秋に共産党大会を控え、最高指導部の人事を巡り権力闘争が進行中という政治的に微妙な中国で、大規模デモなど許されるわけがない。
中国が特定国を対象に官製バッシングを行うのは初めてではない。2012年に中国政府は日本バッシングを主導し、各地で反日デモが繰り返され、日本企業の関連施設や店舗が破壊され略奪され、日本料理店も襲われ、日本車も標的になった。今回、中国人観光客を減らしたりと慎重に中国は韓国への経済的圧力を強めているが、ロッテに対するバッシングだけは目に見える形で行っている。
ところでロッテは敗戦後の日本で誕生した会社だが、創業者が在日韓国人とあって、日本で稼いだ資金をもとに韓国で大規模で多様な事業を展開しており、有数の巨大財閥となっている。韓国での売上げは日本の10倍弱ともいうが、グループ全体の支配会社は日本にある。
ロッテは韓国企業か、日本企業か。数年来のロッテの経営権を巡る創業家の御家騒動は、財閥批判が根強い韓国で大きな関心を集め、韓国メディアから「踏み絵」を迫られた現在の経営陣はロッテは韓国企業だと表明せざるを得なかったとか。今回の中国によるロッテバッシングは、ロッテが韓国企業であることを強調する効果もあったようだ。
そういえば、中国で日本企業が襲撃された2012年と比べて日本の報道は冷静だ。中国でのロッテバッシングは小さな扱いでしかない。してみると、中国と同様に日本でもロッテは韓国企業と見なされているのだろう。日本では日本企業として振る舞い、韓国では韓国企業として振る舞うことに何らかの経済合理性はあったのだろうが、政治が関わってくると企業にも二重国籍は許されないようだ。
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