2015年6月27日土曜日
門は開いた
1990年代に日本では、中国から漁船などを使った集団密航が増加し、上陸地点は全国に広がった。その多くは、中国の「蛇頭」と呼ばれる密航業者が日本の暴力団や韓国の密航組織と手を組み、沖合で中国船から日本船や韓国漁船に中国人密航者を乗り換えさせたりして、日本に上陸させた。だが中国の経済成長で、偽造旅券を使用した航空機による入国などへと密航方法は、より「安全」なものへと変化した。
最近、船を使った密航が急増しているのは地中海。アフリカ側のリビアから、びっしり詰め込まれた密航者を乗せた漁船や貨物船が、イタリアなどに向う。2014年には約22万人(前年の4倍)がEUに到達したが、3500人以上が溺死したという。15年は既に2000人以上が溺死しているが、密航者は増えるばかり。
アフリカ側で密航業者が船を仕立てて密航者を送り出しているのだが、イタリアなどに組織的な受け手はいないようで、船上から密航者が電話でイタリア沿岸警備隊に救助を要請したりするという。人道的な配慮からEUが移民や亡命希望者を受け入れざるを得ないことを密航業者は利用して、「押し付け」れば何とかなると密航させているのだが、これは歴史の皮肉だとも見える。
密航希望者は報道によると、シリアなど内戦が激しい国や、ソマリアやナイジェリアなど貧困、腐敗に加え武装過激派が勢力を伸ばす国からリビアにたどり着いて、EUを目指す。リビアの治安が保たれていれば、リビアは密航業者の拠点にならなかっただろうが、カダフィの強権支配を武力で倒すことを大いに助けたのは欧州だ。国家を形成する自発的動機が希薄な社会では、強権支配のタガがはずれれば、混沌だけが残る。
これは欧州がツケを払わされているともいえるが、さらに、シリアなど中東諸国やナイジェリアなどアフリカ各国は欧州の植民地だった。現在の国境線は、かつて欧州各国が勝手に定めたものでしかない。植民地支配で大いに儲けたのだから欧州は、かつての植民地の人々が苦しんでいることに責任がある。
だから「欧州人は彼らの大陸に救いを求めてきた人々に寛容に対応できなければ、自らを文明的と呼ぶことはできない」などと欧州メディアは、難民の人権尊重に基づき移民流入に対応すべきだなどと主張する。しかし、急増する移民をEUが欧州各国に割り当てて引き受けさせようとしても、反対したり消極的な国が多い。それどころか、軍事作戦でリビアなどで船を破壊することを打ち出した。
EUが中東やアフリカからの移民を歓迎していないのは確かだ。他国に対しては人道主義を振りかざして批判するEUは、移民急増を「安全保障上の危機でもある」と言い出し、その収益の一部がテロ活動にも充てられているなどと主張し始めた。アフリカなど非欧州からの移民流入制限を正当化する口実かもしれない。
危険は伴うが、船で地中海を渡れば、自由で人権が尊重される(はずの)世界がある。その世界に既に大勢が受け入れられた。門は開いた。後は、船に乗るだけだ。かつて欧州の植民地だった国々で、内戦や貧困、腐敗、圧迫に苦しむ人々が欧州を目指すのは、歴史的に見ると、何らかの正当性がある行動かもしれない。
2015年6月24日水曜日
号外の精神
突発的に大きな出来事や事件などが生じると、電波メディアに加えインターネットでも速報が流れる。事故や災害などでは遭遇した個人がメディア企業よりも先にSNSなどで情報を発信したりするようにもなった。そうした個人発の速報の信用度は定かではないので、個人発の速報を知った人は、後からメディア企業の速報で確認することになる。
新聞社が号外を出すのは速報が目的だったが、時代は変わった。電波やネットで流れる速報を知らない人向けには、街頭で配られる号外は速報の役割をまだ保っているが、号外が刷り上がって街頭で配布されるまでの時間に、さらに多くの人が電波やネットで速報を知る。速報性を重視するなら、印刷媒体は不利な時代になった。
しかし、速報を知っている人達も号外を喜んで受け取る。中には、電波やネットで速報を知ってから、出されるであろう号外を入手するために出掛けてくる人もいたりするとか。号外は、歴史の一場面に立ち会っていたことの記念物と見なされているのかもしれない。さらには、新聞社が宣伝目的をかねて発行するとの指摘もあり、TVニュースでは、題字がしっかりと見える号外を受け取る人々が映る。
速報という目的が希薄になった号外だが、新聞社は発行することをやめない。速報を知らない街行く人が、受け取った号外を見て驚く姿が、新聞社としての使命感を呼び起こし、充実感を与えるのか。世の中で起きていることを一刻も早く知らせるという使命感を新聞社の基本として考えるなら、新聞社の今後の活路が見えてくる。
ネット時代になって紙の新聞の存在意義が問われるようになった。速報性では圧倒的に劣勢なのだから、分析や評論などに重点を移すべきとされたり、細部よりも出来事や事件などの全体像を読者が把握できるようにすべきとか、資料として活用できるように記録性を重視すべきとか、様々な“活路”が示された。
一方で、ネットに新聞社は積極的に対応すべきだと誰もが考えるのだろうが、立ちはだかるのが「収益性の壁」だ。すでにネットでは、無料でニュースを見ることが定着しているだけに、今さらニュース閲覧を有料化しても、囲い込むことができるのはごく少数になるだろう。無料では収益は得られず、有料化すると売上げがガクンと減る……ネットと新聞は相性が悪いのか。
新聞社の重荷になっているのは、新聞の製作・販売に大勢の人員を抱えていることだ。全国の新聞販売店を各新聞社で共有するなら、各社の販売経費は大幅に減る。さらに、印刷工程を外注化して印刷所を各社で共有するなら、さらにコストは大幅に減る。ファブレスで身軽になった新聞社が取材・紙面作成に特化するなら、ネットに期待される収益性は、もっと低いものになるだろう。
号外が有料だったなら、どれだけの人が買うのか。つまり、ニュースは買うものなのか、無料で提供されるものなのか。無料で提供されるべきとするなら、ニュースは公共財だともいえる。号外を発行するのが新聞社の使命感から来ているとすれば、速報に最適な場でもあるネットでの戦略は、有料化して囲い込むことだけが選択肢とはいえないだろう。号外を発行する精神で臨むなら、新しいネット戦略が見えて来るかもしれない。
2015年6月20日土曜日
聖なる存在
寒山拾得(かんざんじっとく)とは寒山と拾得のことで、「2人とも詩禅一如の生活を送り、その挙動すこぶる奇矯であったという。後世、禅画の好題材となったほか、文芸・芸能の材ともなった」(大辞林)。寒山は「中国、唐代の伝説的な詩僧。拾得とともに天台山国清寺に住し、その詩と称されるものが伝えられる」、拾得は「中国、唐代の伝説的な僧。天台山国清寺の豊干に師事したという。脱俗の風格をもって知られた」とある。
名が伝わっているのだから、この2人は高名な僧だったように見えるが、僧としては位は低かったらしい。拾得は豊干禅師に拾われて国清寺の厨房で働き、寒山は拾得から残飯を得ていたという。そんな2人がなぜ後世にまで伝えられたかというと、ボロをまとい、風変わりな振る舞いだったことが豊干禅師の伝記に記されたから。
寒山や拾得は世間の慣習などにとらわれず、好きなように振る舞ったのだろうが、それができたのは、食を乞うて生きていただけだったからか。家も持たず、家庭も持たず、何の欲も持たなかったのなら、思いのままに超俗的に生きることもできただろう。我が身一つと思いなしたなら、脱俗に生きてみせるのも割に容易だったかもしれない。
そんな人物なら、多くはないものの珍しくもなさそうだが、2人の名が残ったのは、聖なる存在との見立てがあったから。豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身とした。森鴎外の『寒山拾得』では豊干に「国清寺に拾得と申すものがおります。実は普賢でございます。それから寺の西の方に、寒厳という石窟があって、そこに寒山と申すものがおります。実は文殊でございます」と言わせている。
みすぼらしく貧しく生きていると傍からは見える人物が超俗的な存在に見立てられるのは、その生き方から、俗世間とは別の価値があると思わせるものが漂う時だろう。財産も名誉も人の縁も、この世限りのもので、永遠に続く価値だとは誰も思っていないから、超俗的に好きなように振る舞う人物は特別な存在とも映る。
一方で、超俗的に振る舞ったりはしないが、貧しく懸命に生きている人を聖なる存在とする見方がある。水上勉の『はなれ瞽女おりん』では、1人で生きていかざるを得なくなった離れ瞽女のおりんに向かって、自身も盲目の寒村の婆さまが「人間は千差万様の顔かたち、心かたちをして生きておりまするけれど、み仏は、みなその躯に同じ一つの仏性をあたえられ、うちなる仏に心気づかずして、極道する者は極道をなし、働くものは働きして生きておりまするが、人間世界はみな平等。他人に陽があたる時は、わが身に陰がき、他人に陰くれば、我が身に陽があたるは家の表と裏をみてもわかる道理。けれども、六十六部、瞽女さまだけは、陽があたれば、その陽を他人にあずけられ、年ぢゅう陰の地を暗い苦を背負うてひたすら旅なさる。これみな、おららの罪業、諸悪にみちた黒い躯の、悪の血をひき吸うて下さるみ仏でなくて何でござりましょう」と言う。
婆さまは「おまんを仏と思うて手をあわせますぞ」と瞽女を拝んだ。貧しく苦しく生きる人にとって、地を這いながら懸命に生きる存在が尊く見えることもあるのだろう。他人を思いやる心があり、他人を見つめることができるなら、この世に聖なる存在は珍しくはなく、あちらこちらにも存在するのかもしれない。そうした存在に誰もが、気づくことができる……ものではあるまいが。
2015年6月17日水曜日
天動説的な仮想世界
地動説を支持したことでローマ教皇庁から異端審問を受け、有罪を言い渡されたガリレオ・ガリレイは、「それでも地球は動く」とつぶやいたとされる。この言葉は後世の創作だともいうが、時の権力がどんなに圧力を加えようとも科学的真理が揺らぐことはないとの、目覚めた理性による言葉として伝えられてきた。
当時の宇宙観の定説は、地球が宇宙の中心にあって、太陽などは地球の周りを回っているという天動説だった。天動説の歴史は長い。古代から人間は、太陽や月、夜空の星々を見上げて様々な宇宙観を作り上げたのだろうが、紀元前の古代ギリシャの天文学者プトレマイオスが集大成し、天動説の基礎を築き、それが学問として発展した。
天動説は誤りだと教えられる現代人は、東から太陽が昇り、空を渡って、夕方に西に沈んでも、太陽が地球の周りを回っているとは考えないだろう。だが、天動説の方が実感に近いかもしれない。地球の自転を感じることはできないが、地表に住む自分らの上空を太陽が動いているようには見える。地球を中心に周回する月の動きと、太陽の動きが、同様のものに見えたとしても不思議はない。
理論が実感を裏切るのか、実感が理論を裏切るのか定かではないが、天動説は誤りだと教えられているから現代人は、太陽は動かず地球が自転しているということに疑問を持たない。でも、地球の自転を実感することは困難だ。フーコーの振り子を見て、それが地球の自転の証しだとされるから、なるほどと思うのだろうが、理解できる人はどれほどいるのかな。
地球の自転は大規模な運動だ。地球の円周は約4万キロメートルで、24時間(1日)で1回転するから、24で割ると時速1666キロほどになる。分速にすると約28キロメートル、秒速にすると約470メートル。地表にいる人は凄まじい速度で移動しているのだが、大気を含めて地表の全ても同じ速度で動いているので、周囲は動いていないように見える。
自然科学だから、実感と理論が違っていても、客観的なデータにより検証された理論の方が正しいと人は理解することが可能だ。だが日常生活では、自然現象や社会現象など見聞きする事柄をいちいち理論的に検証する人はごく少数で、実感が優先されるほうが多いだろう。さらに人文科学では「客観的なデータ」は乏しく、多くの学者が認めたからといって、真理とは限らない。日常の世界は、天動説的な仮想の世界なのかもしれない。
2015年6月13日土曜日
神の怒り
マレーシア・ボルネオ島で5日に発生したマグニチュード6.0の地震で、キナバル山(4095m)では地滑りや落石により登山客18人が死亡した。マレーシアは火山も地震もなく、台風の襲来もなく、天災リスクが世界的に低いとされていたので、今回の地震に現地の人々は大層驚いたそうだ。
そのキナバル山の山頂付近に地震発生当時、187人の登山客らが取り残され、大半が自力で下山したというが、犠牲者が出た。世界遺産のキナバル山は東南アジア最高峰で、麓はジャングル、登るにつれて植生が変化し、山頂に近づくにつれて植物は見られなくなるという。登山道や宿泊設備は整備されているといい、日本から全5、6日間の登山ツアーが発売されている。
地震の1週間前にキナバル山の山頂付近で、裸になって写真撮影したり、放尿したりした10人の外国人登山客がいた。彼らが山頂で裸になった理由は伝えられていないが、ガイドの忠告を無視して、裸になったり、放尿したという。さらに、その写真をネット上に投稿していたというから、「思い出」づくりのために旅先でバカを演じただけかもしれない。
10人のうち4人(カナダ人、英国人、オランダ人)をマレーシア警察が9日に逮捕、裁判所は公然わいせつ罪で有罪とし、禁固3日と罰金、国外追放の判決を下した。キナバル山は先住民族の聖地であり、5日の地震は「山の怒り」がもたらしたとの説が地元で広まっていたというから、警察は外国人登山客の行為を無視できなくなったのだろう。ネットの写真で人物を特定したそうだ。
外国人登山客が自国の山でも気軽に裸になっているのかどうかは知らず、登山して山頂で裸になることが流行っているのかも知らないが、趣味が悪い行為だ。山岳信仰は世界各地にあり、人々に大切にされる山は世界各地にある。キナバル山での行為は現地の文化に対する冒とくであったことは確かであり、止めようとしたガイドに罵声を浴びせたともいうから、思慮の浅い人達であったのかもしれない。
ある山が精霊が宿っている聖地である……ということは客観的には証明できない(キリスト教などの神の存在だって客観的に証明できない)。ある信仰を迷信だと軽んずることは、現地の文化への気配りに欠け、他者の宗教を尊重していない行為だ。信者にとって信仰は主観的には絶対のものであるだろうから、互いに他者の信仰を尊重しなければ、摩擦が起きるだけだ。
裸になったり、放尿した外国人登山客の行為と地震に関係はないだろう。だが、自然に対する敬意に欠けた行為であることは明らかだ。彼らは単なる解放感(旅行先の外国でもあるし)からハメを外しただけかもしれないが、愚かさを世界に発信した。登山という行為を神聖視するつもりはないが、商業化されたツアー登山は、行かなくてもいい人まで山頂に行くことができるようにしている。
2015年6月10日水曜日
情報を隠して危機管理?
韓国で中東呼吸器症候群(MERS)コロナウイルスの感染拡大が続いている。感染の確認が遅れ、感染者が隔離されず、病院内で2次感染が起き、さらに3次感染が広がるなど、韓国では危機管理体制に問題があることをまたしても露呈した。北朝鮮と対峙している分断国家であるから、危機管理には敏感になりそうなものだが、実態は違うらしい。
報道によると、バーレーンから帰国した最初の感染者が風邪の症状で病院を受診したのが5月12日。症状が悪化したので別の病院に入院したのが15日。さらに17日には別の病院で受診し、翌18日に別の病院に入院し、ここで初めて医師がMERSの感染を疑い、国の疾病管理本部が検査して20日にMERSに感染していたことが確認された。
15日に入院した病院で、同じ病室にいた患者と付き添いの家族、見舞客36人が感染したそうだが、MERSであることの確認が遅れたため、2次感染者から感染が拡大した。最初に感染した患者は、MERS感染が確認されるまでに4つの病院を次々に訪れていたのも、感染を拡大させただろう。さらに隔離対象人が国内外を勝手に動き回るなど、人々の防疫意識の面での問題も露呈した。
MERS感染が確認された後に韓国政府は、不安を煽るとして情報公開に消極的だった。中国政府が長江フェリー沈没事故で取材や報道を規制し、指導者らの「的確な指示」や救助担当者らの懸命さだけを美談として伝えさせて、政権批判を封じ込めようとしていることに影響を受けたのか?と皮肉りたくなる光景だった。
だが、情報統制が常態化している中国と異なり、成熟してはいないが民主主義国である韓国では、情報は隠しおおせるものではない。自分らは安全なのか、どういう経路で感染が広がったのか、感染者はどう動いたのか、感染者と誰が接触したのか等……情報を隠すことが逆に人々の不安を煽ることとなり、情報公開を求める圧力が韓国政府にかかった。
危機の存在が明らかな中で、的確な情報が発信されないことが、人々の不安を煽るとともに苛立ちをも強めることは、日本人の多くが福島第一原発の水素爆発後に経験したことだ。あの場合は、情報を隠したというより、政府が混乱していたのであろうが、今回の韓国政府の対応は、情報を統制しようとして、不安を煽ってしまったという、感染症対応の失敗例の典型だろう。
そこには、ネット社会である韓国ではデマが広がりやすいということが影響しているのかもしれない。だが、韓国政府に人々に対する信頼があれば、隠すことより、的確な情報を適時発信するということを選択したはず。一方で、デマに動かされる社会とは、人々の情報リテラシーが低い社会でもある。デマに動かされる人々が政府を信頼せず、政府も人々を信頼しないなら荒んだ社会だ。
2015年6月6日土曜日
生きているだけで丸儲け
幼い子供を失って親などが憔悴している様子を、「かける言葉が見つからない」と表現することがある。そんな状態で心が悲しみで溢れている人にとっては、どんな慰めの言葉だろうと心にとめる余裕がないだろうし、亡くした子供のことしか考えていないことが傍からもうかがえ、一層の同情を誘う。
肉親を亡くしたほどではないが、ひどく落胆している人などを慰め、当人に立ち直りの気配が出てきた頃に、元気を出せよと励ます言葉に「そのうちに、いいこともあるさ」がある。人生は悪いことばかりじゃない、いいことだってあるだろうから、頑張って生きろよと励ます。生きる意欲をかき立てて、前向きに踏み出すことを後押しする。
似た言葉に「生きているだけで丸儲けなんだから」があるが、少しニュアンスが異なる。この言い方は、いい加減な言葉にも聞こえる。生きているだけでいい……なんて無責任だという批判もできそうだ。確かに、人間は生きる中で様々な社会的貢献をすべきだろうし、より素晴しい世界になるように務めるべきだろう。でも、落胆から立ち直る時に、個人の存在そのものを肯定することは励みになる。社会的なことについて考えるのは後からでいい。
「生きているだけで丸儲け」というのは精神論のようだが、実は科学的にも正しい言葉だ。人間は誰もが、この世界にただ1人の存在だ。複数の人間が全く同じ人生を送ることはない。1人の人間が存在することは特別のことであり、それだけで価値がある。人類が誕生してから百億人以上の人間が地球上で存在しただろうが、誰もがただ一つだけの特別な人生を生きたし、生きている。
38億年も昔に地球のどこかで誕生した原始生物が生命をリレーし続け、その延長に一人ひとりの人間は位置する。そうして生まれた人間は、一人ひとりが独自の人生を送る。同じ人生はない。人生には規格品はなく、全てが特別な人生なのだ。この世に誕生して生きることができれば、それだけで特別な体験であり、生命体としては丸儲けなのだ。
その特別な人生も、人によって様々な軌跡をたどる。喜びもあれば悲しみもあり、いいこともあれば悪いこともある人生がフツーかもしれないが、不運続きの人生を送る人もいようし、幸運続きの人生を送る人もいよう。たとえ不幸続きであろうと不運続きであろうと、それも、その人にしか経験できない1回だけの特別な人生。どんな人も、どんな人生も、生きているだけで価値がある。
2015年6月3日水曜日
発想を変えて空き家対策
空き家は全国に820万戸と5年で63万戸増え、総住宅数6063万戸の13.5%を占める(2013年)。総住宅数は5年で305万戸増え、共同住宅2209万戸も5年で141万戸増えたが、世帯数は5459万と総住宅数より少ない。住宅は余っているのだから、人が住まない空き家が増えるのは当然だが、放置された空き家が目につくようになり問題視されている。
空き家は、別荘などの二次的住宅、空いている賃貸用の住宅、売却用の住宅(新築含む)、その他の住宅に分類されるが、数では賃貸用住宅とその他住宅の空き家が多く、それぞれ空き家全体の4割以上になる。問題になっている放置空き家は、その他住宅に含まれる。
放置された空き家は地方でも都市部でも増えているという。家を建てた親が死んだが、子供らは離れた地域で生計を建てていて住み手がなく、相続した親の家が放置されたままになったり、売ろうにも買い手がおらず、貸そうにも借り手がおらず、そのままにして置かれたりする。
手入れがなされず放置された空き家は傷みが進み、外壁や屋根などが崩れたり、台風や降雪などで倒壊する恐れが出てきたり、放火や不審者が侵入する可能性があったり、子供らが入り込んだり、不法投棄の場になったりして周囲の景観を害すことにもなり、放置空き家は地域社会の問題にもなる。
放置空き家を減らすために、危険な状態になった放置空き家は、条例で強制的に空き家を撤去できるようにしたり、撤去に補助金を出したりする動きがある。一方で、使える住宅なら「空き家バンク」などで借り手を広く捜して利用を促したりする。ただ、空き家バンクで地方でも都市部でも借り手が増えたかどうかは定かではない。
借り手や買い手が簡単に見つかるなら、放置空き家が問題になるはずがない。相変わらず“使い捨て”住宅が新設され続ける一方で、高齢化が進みつつ人口は減り始めて世帯数も減るだろうから、空き家は今後も増え、放置されるものも増えよう。つまり、空き家を活用するには発想を変えて対処するしかない。
ポイントは、所有権のシバリを緩めること。例えば、3年以上放置されている空き家に住み着いた人に対して、所有者から3カ月以内に退去要請が出されなければ、借家権が発生し、継続して住むことができるようにしたり、10年以上放置されている住宅なら、住み着いた人に所有権が移るようにしたり、倒壊の危険が高い住宅は地方自治体が廉価で没収できるようにする。
放置された空き家に不審者が住み着いて薬物の製造販売などに利用されたりすることは避けなければなるまいが、例えば、ホームレスの人が放置された空き家を住居にでき、仕事を探して再出発の基盤になるのなら、社会としては一石二鳥だろう。
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