2015年10月31日土曜日
「領土」を獲得した中国
南シナ海の南沙(スプラトリー)諸島にあるミスチーフ礁とスービ礁から12海里内の海域を、米イージス駆逐艦が航行した。ミスチーフ礁、スービ礁ともに満潮時に水没する暗礁だが、中国が埋め立てて人工島を造成し、領土だと主張、さらに周囲を中国の領海だと主張していた。
満潮時に水没する暗礁に人工島を造成しても、領海を設定できないと国連海洋法条約では定められている。同条約を中国も批准しているが、法の支配などが国内では無視されている中国だから、国際法や国際条約も中国に都合のいい部分のみ利用し、都合が悪ければ中国独自の主張を行う。国際法や国際条約よりも、既成事実をつくりあげてしまえばいいと人工島の造成を急いだ。
演説は立派だが直接対決では腰が引けると批判されるオバマ氏の大統領任期も残り少ない。オバマ氏が大統領のうちに南シナ海を「中国の海」にしようと中国は人口島の造成を急ぎ、飛行場や港湾施設も構築した。米海軍は以前から米艦艇の中国人工島周辺の“領海”航行を主張していたそうだが、オバマ氏に止められていたともいう。オバマ氏が大統領になって米国が失ったものは多く、中国が得たものは多い。
中国の人工島周辺の“領海”内での米艦艇の航行は今後も続くそうだが、それは、暗礁の周辺は公海であり、航行の自由があるとの主張をアピールすることでしかない。米艦艇が人工島周囲の海を頻繁に航行するようになったからといって中国が人工島の造成を中止することも、人工島を取り壊すこともないだろう。つまり、中国がつくりあげた既成事実は存在し続ける。
中国が造成した人工島を、中国の領土とは認めないと米海兵隊が上陸して占領することはないだろうから、中国が造成した人工島により中国の「領土」は拡大した。人工島の周囲を米艦艇が自由に航行したとしても、中国軍の行動に制約は生じるかもしれないが、中国軍は新たに南シナ海で拠点を複数確保できたのであり、中国が失ったものはなく、得たものはある。
イスラエルが占領地を国土化していることや、クリミアをロシアが併合したことなど、強国の力による領土拡大に世界は無力であるというのが現実だ。国際法による支配は国際社会では必ずしも完全ではなく、国際条約を必ずしも全ての国が尊重するわけでもない。だから中国の独自な主張が正当性を多少でも持つ……ということではない。
中国は、既存の国際秩序の中に参加したからこそ経済発展を成し遂げることができた。だが、ある時には大国扱いを要求し、ある時には途上国扱いを要求するなど中国は露骨に立場を使い分け、国際社会で特別扱いを要求する。欧米による世界支配を打破するという意味では価値があるようにも見えるが、実は中国の利益だけしか尊重していないことが露骨に見えて、共感を得ることは難しい。
2015年10月28日水曜日
暴力の応酬を正当化
エルサレムの旧市街にある神殿の丘は、古代ユダヤ王国の神殿があった場で、古代神殿の壁の一部が残っており、それは「嘆きの壁」と呼ばれ、ユダヤ教徒の聖地とされる。キリスト教徒にとっても聖墳墓教会などがある聖地であり、さらに、ムハンマドが昇天したという「岩のドーム」「アルアクサーモスク」などがあって、イスラム教徒の聖地でもあり、現在はイスラム教徒が神殿の丘を管理している。
共通の神を信奉するが、信じる預言者が異なる3宗教はしばしば鋭く対立、神殿の丘をめぐっても緊張は続いてきた。神殿の丘でユダヤ教徒とキリスト教徒が宗教的な儀式を行うことは禁止されているが、2000年にイスラエルのシャロンが神殿の丘を訪問したことがインティファーダにつながり、平和共存を目指すキャンプ・デービット合意は事実上破棄された。
エルサレムはイスラエルの支配下にあるので、ユダヤ教徒による礼拝を認めるよう求める訴えがあり、さらには神殿を再建しようとの動きもくすぶるが、いかなる現状変更にもイスラム教徒側は反対する。神殿再建などが現実的な動きとなれば、イスラム教徒側の反発は大きく広がり、戦争につながることも懸念される。一方でユダヤ教徒の過激派などが神殿の丘を訪れたりする挑発行為も続く。
今年に入って、ユダヤ人入植者によるパレスチナ人殺害事件があって緊張が高まり、暴力事件が各地で頻発するようになり、9月にはイスラエル政府がアルアクサーモスクの周辺を封鎖したことで、抗議するパレスチナ人と治安部隊が衝突し、多数の死者を出した。パレスチナのデモ隊に対する銃器の使用基準を緩和し、イスラエル治安部隊が過剰に武器を使用しているとの批判もある。
躊躇なく武器を使用する治安部隊に対して、武器を持たないデモ隊は無力だ。デモ隊側が武装すれば、それは内戦になる。パレスチナ人がユダヤ系市民や警官らを刃物などで無差別に襲撃するケースが相次いでいるというが、個別の「報復」を行わざるを得ないほど、精神的に追いつめられている状況なのか。そうした「怒り」が組織化されればインティファーダの再燃も懸念される。
イスラエルの内外では「建国」以来、緊張が絶えることがない。平和共存を目指す政策は、常に内外で勃発する衝突事件などによって脇に追いやられてきた。現実に衝突事件が勃発するから強硬な施策が人々に支持されるのであろうが、社会的な緊張を常に高めてきた結果として衝突事件が勃発している面もある。
共通の神を有するのに、傷つけ殺し合う人々。熱心な信仰が、精神を豊かにするのではなく、暴力の応酬を正当化するための支えとなる。むき出しの暴力が容認される社会だから、宗教の存在意義が高まっているのだとすれば皮肉だ。そんな社会で、神に熱心に祈ってみたところで、精神の平安を得ることはできるのだろうか。
2015年10月24日土曜日
表現するものがない
「表現の自由」というと、専制的な権力と闘って人々が勝ち取った権利であり、民主的な社会の構成要件でもあるので、無条件に尊重され維持されるべきものとされる。ただ、「表現の自由」は文化財のように保護されるべき遺産ではなく、人々が様々な自由な表現を果断に行うことの積み重ねで“生き続ける”。
「表現の自由」とは、理性的で知的で客観的な表現だけが自由だということではない。くだらない内容であっても、下劣なものでも、攻撃的なものでも、党派的なものでも何でも自由に表現していいい。くだらないことを考え、下劣な振る舞いをし、攻撃的になったり、党派のために動いたりするのが人間だから、人間が行う表現はそうしたものになる。
ところで、表現するものが特にないという人にとって、表現の自由とは何だろうか。自分の考えを持たない人はいないだろうが、創作意欲のようなものを持たない人はいるだろうし、社会動向に無関心な人は社会に向けて表現する気はないだろう。自由に表現したいという動機も意欲もなく、表現する内容も持たない人にとって、表現の自由の“ありがたみ”は少ないかもしれない。
ただし、表現するものが特にないけれど、表現したいという意欲が強い人は珍しくない。オリジナルの発想や独自の考察などにより築かれた表現は持ち合わせていないけれど、表現したいという意欲が強い人は、何を表現するか。それは、どこかから出来合いの発想や表現を拝借して、自分のものとして装う表現になる。それも表現の自由の一つではある。
表現とは、創作者の個性的で独自の表現のことだとつい思いがちだが、世に溢れている表現の大半は、どこかで見聞きした、ありきたりの表現だろう。それらは、その社会の常識や通念など「一般」や「普遍」とされるものに基づいていることも多い。そのことが表現に「正当性」を与えていると見なされたりもする。
既成の権力や既成の権威に疑いを持たない人々が多い社会や、支配的な価値観に沿って生きる人々が多い社会で、既成の価値観に反しても個性を強いて表現しようとの意欲を持った人は、社会との摩擦を避けることができないだろう。そうした表現は、個人の表現などより優先されるものがある社会で「正当性」に反するものとされ、批判され、排除の対象になったりもする。
「正当性」は社会により異なり、「表現の自由」も社会により異なる。歴史を経て形成されたそれぞれの「正当性」を持つ様々の社会が共有できる「表現の自由」は何か、どの部分か。高々と「表現の自由」を振りかざす欧米社会の価値観が「普遍的」であるとは限らないが、表現意欲を持つ個人に対する抑圧が比較的少ないとはいえる。
2015年10月21日水曜日
真似できない髪型
日露戦争の後に、女性の間で二百三高地髷という髪型が流行った。当時の写真を見ると、前髪が大きく張り出し、頭頂部に束ねた髪が高くそびえるスタイルだ。髪でつくった大きな鏡餅を頭に乗せているように見えるものもあり、正面から見ると、女性の顔よりも髪の量が圧倒的に多く見えたりする。
前髪だけを少し高く結い上げ、頭頂部は盛り上げないパターンもあり、これは現在でも和服姿の女性で見かける。当時、洋装にも合うとして二百三高地髷は流行ったというが、大正・昭和を経て、和服に合う髪型として残ったものの、洋装に合う髪型としては残らなかった。洋装で着るものも当時とは大きく変化しているので、現代において大きな二百三高地の髪型にしたりすると、被り物をしていると見られたりして。
男性の髪型で前髪を大きく盛り上げるのはリーゼントスタイルだ。こちらにも、庇のように髪が前方に張り出しているものから、オールバックに近いものまでバリエーションは多い。ロックンローラーの代名詞として現在でも残っているが、街中で見かけることはほとんどない。髪型を維持するためには手間がかかるので敬遠されたか。
今年、前髪を盛り上げた髪型で目立っているのが北朝鮮の金正恩さんだ。最近も朝鮮労働党創建70周年を記念する軍事パレードを閲兵し、演説では「人民より大切な存在はない」「人民に感謝」などと「人民への愛」を強調したと報じられた。ニュース映像で見る金正恩さんの髪型は、前髪を盛り上げ、側頭部は刈り上げるというスタイル。
もちろん、独裁者の金正恩さんが既成の髪型をまねたはずはない。そんなことをすれば、独裁者の威厳が傷つくだろうから、あの髪型は独自の主体思想によるヘアスタイルなのだろう。美醜は主観によるので判断は差し控えるが、一度見たら忘れられない強い印象を与える独自性がある。あの髪型が似合う人物はなかなかいないだろう。
北朝鮮の独裁者の髪型だから今後、北朝鮮の若者が真似するかといえば、それは難しい。粛清が珍しくなく、人々に対する監視も厳しい国では、独裁者はただ仰ぎ見る存在でしかない。うっかり独裁者の真似をすると、独裁者の唯一性を損ねる行為とも受け取られかねない。パロディ行為と見なされたなら処罰が待っている。北朝鮮のような国では、独裁者の髪型をまねるのは恐れ多い行為だろう。
独裁者は特別な存在であることが重要だ。独裁者が人々に恐れられなくなったら、終わりが近い。北朝鮮で金正恩さんの髪型をまねる若者が多くなれば、それはそれで面白い光景だが、独裁国家としてのタガが緩み始めた徴候だろう。あの髪型はオンリーワンである独裁者だからこそ、できるものだ。ただ、金正恩さんがウケ狙いであんな髪型にしたのに、髪型について誰も言わないとしたなら寂しいだろうな。独裁者は孤独でもある。
2015年10月14日水曜日
移民が変えるもの
欧州への移民・難民の流入が止まらない。独メルケル首相が移民・難民の受け入れを表明してから、ドイツやEUを目指す流入圧力が一気に高まった。周辺国は悲鳴を上げ、ドイツも大量の移民・難民への対応に窮して受け入れを制限し始めたから、EU内外で、押し寄せる移民・難民とそれを制限しようとする各国当局がもめたりしている。
ドイツやEUへの「入口」が開いたと一度アナウンスされたのだから、移民・難民が殺到するのは当然だ。これからも数の増減はあるだろうが、ドイツやEUへの定住を目指す移民・難民は存在し続ける。紛争や独裁、貧困、成長停滞は中東やアフリカなど欧州各国の旧植民地でこれからも続くだろうから、ドイツやEUに行けるチャンスを逃すはずがない。
ドイツには今年、80万人とも100万人以上ともいわれる移民・難民が押し寄せるといわれている。全員が定住を認められるわけではなく、紛れ込んだ東欧諸国などからの経済移民は国に返される。シリア以外からの移民は大半が帰国させられるかもしれないが、それでも相当の人数をドイツは受け入れる。
受け入れ側の経済的な負担はかなりのものだろう。移民・難民には仕事がなく、自活できないので、衣食住の世話が必要だし、言葉や生活習慣など、受け入れ国にとけ込むことができるように支援も必要だ。子供がいれば教育面の配慮も必要だし、国内には移民・難民の受け入れに強硬に反対する勢力もいるので、警備もしなければならない。
受け入れ側も大きな負担を余儀なくされる移民・難民について人道主義や経済的観点から論じられることが多いが、移民・難民は受け入れ国に食文化などを持ち込み変化ももたらす。また、数十年後には、ドイツやEUで生まれた移民・難民の子供たちが大人になる。彼らはドイツやEUにとけ込んで暮らしながら、シリアなど親の出身国への関心も持ち続けるなら、世界市民的な感覚を持つかもしれない。
ドイツやEUに定住した移民・難民は選挙権を持つだろうし、そうした人々の中から政治家が誕生するかもしれない。かつて欧州から米国に移民した人々の子孫から多くの政治家が出て米国の政治に影響を与えたと同様に、中東などから移住した子孫の政治家が欧州の政治に影響を与えるようになる可能性はある。
先祖からずっと同じ国で生きてきた政治家と、生きる国を選んで移住した親などを持つ政治家とでは、世界観がおそらく異なるだろう。世界のどこに住むかは個人が決めることで、国家が関与すべきではないと考えるなら、移民・難民の受け入れを後者は当然視し、受け入れを制限する国に対しては批判的になるだろうし、移民・難民の受け入れに関する国際的な規範制定にも前向きになるだろう。
ただ、数十年後にも移民・難民の出身国が現在と同様であるとは限らない。中東やアフリカの欧州各国の旧植民地が新たな民族自決により解体・分裂する可能性はあり、自分たちで新たな国づくりを始めたなら移民・難民は減り、他方で、様々な矛盾・歪みに耐えきれずに大国が分裂、新たな移民・難民の排出源になるかもしれない。受け入れたくなくても日本に移民・難民が押し寄せる可能性はある。
2015年10月10日土曜日
世界を評価する
英教育専門誌が行う「世界の大学ランキング」で東大が昨年の23位から43位へと大きく順位を落とし、アジア首位をシンガポール国立大に譲り、昨年48位から42位に順位を上げた北京大にも抜かれたと報じられた。京大も昨年59位から88位へ大きく下げ、世界の上位200校に入った日本の大学は2校だけ(昨年は5校)と、日本の大学の“国際競争力”の低下を示すものと受け取られた。
このランキングは、論文の引用頻度や教員スタッフ1人当たりの学生数、留学生の数、産業界からの収入など13の指標で評価しているという。こうしたランキングでは、低評価された側から不満が出るだろうし、評価の適正さについて厳しい目が向けられるだろうから、公平公正さを保つべく客観性には留意されているのだろう。恣意性や主観が含まれていることを感じさせてはランキングの信憑性が損なわれる。
でも、例えば、論文の引用頻度は大学に在籍する研究者の独創性など質の高さを示す指標にはなるだろうが、論文の引用頻度が高いから、一般の学生の学習環境も良いとはいえない。留学生の数が多ければグローバル化が進んでいるようだが、必ずしも学習意欲の高い優秀な人間だけが留学するわけでもない。産学協同が進んでいるからといって、豊富な研究費で自由な研究が行われているわけでもない。
個別の大学には特色があるから、多くの指標を積み重ねて評価するのだろうが、多くの指標を集めれば正しいランキングが誕生するわけではない。例えば、自動車にはセダン、ワゴン、SUV、スポーツカーに加え商用車もある。快適性や乗り心地、走破性、耐久性、積載量などの指標を積み重ねて総合して全自動車のランキングを作成しても、意味がないだろう。プリウスかポルシェかハイエースか、用途や好みによって選ぶだけだ。
だが世界ランキングは、世界を理解する参考にはなる。こうした世界ランキングは欧米から発表されることが多い。都市や観光地、ブランド、民間企業、エアライン、空港、ホテルなど何にでも世界ランキングがある。各国の行政機関の腐敗度ランクなんてものもある。一方で日本発の世界ランキングといって、すぐに思いつくようなものはない。
欧米から様々な世界ランキングが出るのに、日本から出てこないのは、世界を理解しようとする発想が欧米と日本では異なるからかもしれない。多様で複雑な世界を理解するために欧米は、情報を収集して分類して整理する。だから、世界ランキングを作成することが可能になる。日本でも同じように情報を収集していれば、欧米発の世界ランキングを検証することが可能になるのだが。
世界から情報を収集して分類して整理することで欧米から見える世界と、日本から見える世界とは異なっているのかもしれない。データに基づくなら、より客観的に見えるだろうが、データに乏しければ主観の影響を受けやすい。
2015年10月7日水曜日
歌詞から見えるもの
♪「未来に向かって〜」とか、♪「明日に向かって〜」、♪「夢をかなえる〜」、♪「希望の花が〜」、♪「夢の未来〜」、♪「君が見る明日の〜」、♪「夢を重ねて〜」、♪「夢と現実を〜」、♪「果てしなく続く〜」、♪「永遠の希望〜」などといった言葉は歌謡曲(含Jポップ)に珍しくない。
明日だの未来だのを持ち出すが、明日のことや未来のことを真剣に考えているわけではなく、前向きな気分を示す言葉として用いているだけで、実質的な意味はない。夢や希望という言葉もよく歌われるが、具体的な何かの夢や希望を示すことは少なく、前向きな気分を示すとともに、聞き手を励ます意図だったりする。
一方では、♪「愛する心に〜」とか、♪「抜け殻を集める〜」、♪「迷い込んだ夜〜」、♪「さすらいの酒を〜」、♪「風になって遊ぶ〜」、♪「本当の姿〜」、♪「人生を変える〜」、♪「女の幸せ〜」、♪「時を駆ける〜」、♪「いつでも変えられる〜」、♪「誓い合った〜」、♪「諦めないで〜」などの言葉も歌われる。
これらは具体的なことを語っているようだが、例えば「女の幸せ」といっても、その実態は人それぞれであるように、実は、個別の具体的なことではなく、一般的な感情などを歌詞にして歌っているだけだ。一般的な感情などであるから、聞き手はそれを自分の感情に落としこんで共感できるという仕掛けだ。
歌謡曲(含Jポップ)の歌詞に対して、「内容がない言葉の羅列だ」とか「意味がおかしな文句がある」などの批判は以前からある。奇妙な歌詞を取り上げて笑いのネタにしていた漫才師がいたように、おかしな歌詞があることは周知のことだった。Jポップになってからは、英語の奇妙なフレーズが増え、グローバル化した?
自作自演の歌い手が無内容の歌詞を歌っていたりすると、「この人には、もう歌いたいことがないのか」と感じたりする。とはいえ、あまり具体的すぎる歌詞で感情移入タップリで歌われると、聞き手は時にはうんざりするほどの“満腹感”を抱かせられるから、歌詞は具体的であればいいとは単純にいえない。
ロックバンドならボーカルの歌う歌詞はほとんど聞き取れないから、歌詞は何でもいいという考え方もあろう。歌謡曲(含Jポップ)でも歌詞は、気分を伝えたり、気分を共有したり、聞き手を楽しくさせるものなら何でもいいのかもしれない。聞き手は歌謡曲(含Jポップ)の歌詞に、壮大な物語世界も、情念のほとばしりも、文学的な達成なども求めていないのだろうから。
2015年10月3日土曜日
新たな革命思想は
世界では各国で格差が拡大しているという。富む者はますます富み、中間層は薄く、貧しい者は貧しいままで捨て置かれる。個人の努力や能力に差があるのだから、得られる富にも差が出て来るのは当然だとする考えも有力だが、日々の糧を満足に得ることができない人々がいることを個人の責任にだけ帰してしまうと、見捨てておくことを正当化することにもなる。
社会は富者によってのみ構成されているわけではない。人間の権利は富者でも貧者でも平等なのだから、誰にもその社会で“人間らしく”生きる権利がある。個人の努力や能力によって収入に差があったとしても、貧者だからと社会から見捨てられていいはずはない。だが現実には、見捨てられる。社会保障などの“コスト”は、ある人々にとっては過大で過剰に見え、「削減すべき」と攻撃の対象にされたりする。
見捨てられることを甘受する貧者は、忘れられるだけ。貧者がその社会で“人間らしく”扱われることを欲するのならば、立ち上がって主張するしかない。そうした問題提起を社会が受け止めるなら、その社会で容認される格差はどこまでか、正当化されない格差はどこからか等の合意形成が次の課題になる。ただし、その“線引き”は富者と貧者の力関係で常に変わる。
資産課税の強化などで財産が“削られる”ことを甘受する富者はいないだろうが、格差が拡大するにつれて貧者が増える。民意が正確に政治に反映するなら、格差の是正へと動かざるを得ないのだろうが、往々にして政治では富者の意向が尊重される。格差の拡大を容認してきた政治に、格差の是正を期待することは望み薄かもしれない。
大雑把にいえば共産主義では富者を資本家、貧者を労働者として、貧者が富者に搾取されているとして、貧者(労働者)の暴力による経済体制の変革を正当化した。だが、そうして実現した20世紀の共産主義国家が「失敗」に終わり、共産主義の思想は影響力を失ったので、現在の拡大する格差を是正する思想にはなり得ない。
現在の格差の拡大に対して、暴力はともかく、社会的な強制力を持って是正しようとする時に、それに正当性を与える思想はあるのか。“人間らしく”暮らしたいという生存権の主張は有力で、情緒に訴える力も強いだろうが、富者の「強欲」を突き崩すほどの力はないだろう。貧者に経済要因以外の共通する属性は乏しいだろうから、貧者を労働者階級と一括りにすることもできまい。
ますます富む富者を見て、怒りをおぼえる貧者もいるだろう。その怒りを広く社会で共有し、強制力で格差を是正することを正当化する思想が現れれば、世界に大きな影響を与えそうだ。それは、21世紀の新たな革命思想になるのだろうが、まだ世界のどこにも現れてはいないようだ。
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