2014年11月29日土曜日

楽しみな総選挙


 選挙が楽しみだ。今度の総選挙には、どんな有能な人物が立候補するのかな? 自分の利益などは顧みず、人々のために尽くすことを考え、国会の会期中も閉会中も懸命に働く人がどれだけ立候補するのかな? 豊かな見識を持ち、特定の層の利益に偏らずに、多くの人々が平穏に暮らすことができるように目配りできる人がどれだけ立候補するのかな?

 選挙が楽しみだ。誠実で、よく人々の声を聴くことができる人が立候補し、当選したならば、素晴しい社会を実現、維持するために懸命になって仕事をしてくれるに違いない。晴れて議員になっても、ポストや利権をあさらず、人々の幸福よりも党利党略を優先させて動き回るような政治家にはならず、人々に奉仕するという使命を全うするに違いない。

 選挙が楽しみだ。当選して議員になっても、人々のことは後回しで、政党助成金目当てに新党ごっこにうつつを抜かしたり、政党を渡り歩くような人物は、今回は立候補していないに違いない。当選して議員になっても、政策の研究に励み、法律に精通するために研鑽に励み、テレビのバラエティー番組に出たり、タレント活動をするような人物は、今回は立候補していないに違いない。

 選挙が楽しみだ。有能で誠実で理性的な人物が立候補していて、当選して議員になっても、情緒に動かされて判断を誤ったりせず、大局的に判断できる政治家になるに違いない。立派な政治家に成長し、日本を立派な国にするのみならず、国際的な緊張を緩和して、平和で安定した誰もが平穏に暮らすことができるアジア、世界を構築することに励むに違いない。

 選挙が楽しみだ。大義がないと今回の総選挙を批判する声もあるようだが、「主権者の声を聞く」ということは常に最大かつ最優先の大義である。住民投票の制度が整備されず、争点ごとに主権者の声を聞くことができない日本では、政治家や政党が主権者の声を知る機会は選挙しかない。政治家や政党が本当に、主権者の声を聞くことを欲するなら遠慮は無用。いつでも選挙を行うべきだ。

 選挙が楽しみだ。政党や政治家は勝手な争点を設定するが、何を判断の基準とするかは主権者が決めるもの。当選した政治家や勝利した政党は次の選挙までの期間、好き勝手に振る舞うのだろうから、これからの日本がどうなるのがいいのか、そこに重点に置いて投票したいもの。立派な政治家が活躍するためには、主権者が立派な候補者を当選させなければならない。問題は、そんな人物が自分の選挙区で立候補しているかどうかだが。

2014年11月26日水曜日

雪が行動範囲を広げる


 北国から雪の便りが届き始めた。東京などでは冬に雪が降ることは数度しかなく、10センチも降ったなら、それは“大雪”だ。JRなど鉄道各線は運行を取りやめ、路上ではスリップしたり立ち往生する車が続出し、歩道でも転倒する人が増えて大混乱になってしまう。

 そうした雪に弱い都市の感覚で見ると、毎日のように雪が降り、積もった雪に覆われる北国の冬は、出歩くにも交通が不便そうで、閉じこもって寒さに身を縮めているしかないようなイメージかもしれない。都会人にとって雪は、旅行先で見るなら趣があるだろうが、都市の日常にとっては不便さの代名詞のような印象だろう。

 確かに雪は車道を埋めるので、自動車の交通を確保するにはこまめな除雪が必要になる。鉄道各社も冬は雪が降るたびに除雪に追われ、歩道は人々が協力して雪かきする。各地から人が集まって住み、産業が集積する都市で人・モノの移動は不可欠だが、雪はその脆弱性を突く。近代的な都市にとって雪は邪魔者でしかない。

 しかし、自動車が出現する以前の北国で雪は、人間の行動範囲を制約するものではなく、逆に、行動範囲を広げるものだった。クマザサや雑草などが丈高く茂る夏には、人は限られた道しか歩くことができないが、雪が積もったならカンジキなどを使って、クマザサなどの上に積もった雪の上を移動することができる。雪が土地を覆うことによって、“どこでも”道になるのだ。

 雪だけではない。川が冬に凍ると、そこが道になる。宮本常一氏は、大黒屋光太夫がカムチャッカからペテルスブルグへ行ったことについて、「冬になって土が凍るのを待って行っております。当時は馬ですね。それに引かせて行くと非常に短い時間でペテルスブルグへ着いてます。あれは夏だったらたいへんだ。凍るということは、寒いということで行動が束縛されると考えがちですが、移動する者、旅をする者にとっては良い条件になるのです。あの広いシベリアを突っ走れるのは、低湿地帯も河もみな凍ってしまうからでしょ」(『日本文化の形成』ちくま学芸文庫)。

 北方圏というと、雪や氷に閉ざされ人々は孤立がちに暮らしているとイメージしがちだが、実は、その雪や氷が人間の行動範囲を広げる役目を果たしていた。宮本氏は前掲書で、交易は「夏になって樹木が繁っている中を往復するというのは難しいことだけど、冬凍りつくと橇でいくらでも行ける」とし、1500年以前の北海道のアイヌ文化が、シベリアの北方文化と通じていた可能性を指摘している。

 近代になって鉄道網が広がり、さらに自動車が増えるとともに道路網も整備されて交通の機能は格段に強化され、人の移動や物流が質量ともに増大した。そんな近代化された交通システム・物流網が、雪によって阻害されることになったのは皮肉である。機能を上げるほどに、自然に対する脆弱性が増すのは近代文明の宿命かもしれないが。

2014年11月22日土曜日

やっつけで公約づくり


 突然の解散・総選挙に各政党は公約づくりを急いでいるという。選挙のたびに「さあ、どうだ」とばかり振りかざされる公約だが、すぐに忘却される。というか、そもそも読む人がどれだけいるのか。民主党が政権を取った総選挙では、マニフェストがウケたようだが、政権を取った民主党は迷走。あれで、マニフェストなるものはすっかり色褪せた。

 前回の総選挙で各政党が何を公約としていたのか覚えていない(選挙公報を暫くは保存しておいたのだが、探しても見つからない。捨ててしまったようだ)。こういうときこそマスコミの出番で、前回の総選挙時の各党の公約と、その後の議会での行動を照合して検証した記事を期待したい。が、マスコミは総選挙取材に備えて慌てているだろうから、無理かな。

 政党には公約がつきものだが、公約なしで誕生した政党も珍しくない。どこかの政党に属して当選し、議員になった政治家らが所属政党を離脱して作った新党は、理念で離合集散したわけでもないだろうが、総選挙では公約を掲げなければ格好がつかない。そんな新党は公約をでっち上げ、いや、作成しなければならないから忙しそうだ。

 公約が、政党と主権者の契約書のような役割になり、選挙で掲げた公約に政党・政治家がきつく縛られるようになると、日本の政治は変わるかもしれない。ただ、そうなると保険の約款のように政党の公約は、可能性のある政策はすべて網羅して記載し、書き漏らすことがないようになるだろう。ますます、読まれなくなりそう。

 常在戦場と政治家は口にしたりするが、突然の選挙となると、政党は慌てて公約をつくり出そうとする。常在戦場の戦場とは政治家にとっては選挙のはずだが、そんな政治家が集まった政党なのに、常在戦場という対応ではなく、選挙のたびに泥縄式に公約を用意するというのなら、常在戦場は言葉だけ。公約も言葉だけなら、釣り合いは取れている?

 政治家も政党も基本理念をしっかり堅持しているが、具体的な政策は、世の中の変化に合わせて打ち出さざるを得ないのだから、選挙のたびに公約は新しく作る必要があるとの見方もあるが、本当にそうなら、次々と弱小新党が誕生したり、政党を移り変わる議員はいないはずだ。政治家に主権者と共有する理念がないのだとしたら、泥縄式のウケ狙いの公約が似合っているのかもしれない。

2014年11月19日水曜日

サンゴ密漁と法治


 小笠原諸島や伊豆諸島などの周辺に多数の中国漁船がはるばるやって来て、サンゴを密漁しているという。対応する海上保安庁は多勢に無勢で、領海に入らないように呼びかける等の対応で精一杯のようだ。片っ端から追い散らすことができればスッキリするのだが、密漁の現場や密漁の証拠を押さえなければ法による強制力は行使できない。

 これは法治国家の弱点だろう。法を無視する外国人にも、法治国家では法に則って対応せざるを得ない。堂々と日本の法を無視する外国人を“野放し”にしておくことに、ある種の無力感さえ感じるが、外国人だけを日本の法の適用外にすることは、法治の体制にヒビを入れることになる。

 ところで、中国といえば、法治国家ではないことで名高い。立派ともいわれる憲法や各種の法を整備しているのだが、その運用は人(官僚など)次第。正確にいえば、最高権力である中国共産党は法に超越する存在であるが、それ以外は法の縛りを受ける。権力にとって都合のいい場合にだけ法を適用する体制であり、社会だ。そのため司法は、法の番人ではなく、権力の番人に成り下がる。

 そうした中国で生きる人々が、法を尊重する意識を持つはずがない。中国の憲法は財産の所有権を保障しているが、各地で土地の強制接収などは珍しくなく、それに抗議する人々のデモや暴動が毎年多く起きているという。憲法が権力を縛るものではなく、人々を縛るものである社会で生きる人々が、国外に出た時に、他国の法律や国際法などを尊重しようとするだろうか。犯罪者ではなくフツーの人々であっても、遵法意識などは希薄だろう。

 自分らの権利や利益などが法により保護されず、司法に公正な裁きを期待できず、権利や利益を主張するためには力づくで行動するしかないという社会に生きる人々。中国が法治を実現できないのは、中国共産党の長い独裁体制が主因だろうが、人々に法治意識が欠如し、法に何も期待していないことも大きいかもしれない。

 北京で開催された中国共産党第18期中央委員会第4回全体会議(四中全会)で党は「法の支配」の方針を打ち出し、憲法の順守を強調して、「中国的な特色を持つ社会主義的な法による支配」という新たなスローガンを打ち出したという。「中国的な特色を持つ」とあるから中国共産党が法に超越するという実態は何ら変わらないだろうが、国内外で中国共産党以外の全てに対して、彼らの都合に合わせて法の支配を要求するのだろう。

 自分らは法に縛られないが、相手に対しては法の遵守を要求するというのは便利な手法だ。中国共産党にとって法は、国内では支配の手段であり、国際法も外交の手段でしかない。中国で法治が欠如していることは、実は国際社会の大迷惑でもあることを、日本周辺でのサンゴ密漁事件は示している。

2014年11月15日土曜日

最近の崩壊論


 何年も前から繰り返し現れるのが中国経済崩壊論。少しでも経済成長の変調を示すデータなどが見つかるたびに現れ、「ほら、おかしくなってきたでしょう」と中国経済の崩壊を“予言”する。しかし、なかなか大方の「期待」や「願望」通りにはいかず、多くの混乱を抱え込みつつ中国経済はペースを落としながらも成長を続けてきた。

 最近の崩壊論の根拠は、バブルといわれて久しい中国の不動産市場の変調を示すデータが相次いで公表されたこと。例えば、▽北京、上海などを含む70都市のうち69都市で9月の新築住宅価格が下落(値下がりした都市数は毎月増加し、不動産市況の低迷が全土に広がっている)、▽1〜9月の不動産投資は前年比12.5%増だが、1〜8月の13.2%増より鈍化(販売と新規建設が落ち込む)。

 さらに▽1〜9月の不動産販売は8.9%減、新規不動産建設は9.3%減、住宅ローンは4.9%減などのデータのほかに、中国の中小都市で各開発業者による不動産価格引き下げの不毛な競争が既に始まった(新華社)ことや、河北省邯鄲市最大の不動産開発業者の経営者が夜逃げしたことが伝えられ、同様の経営者夜逃げや倒産宣言などは珍しくなくなったという。

 経営者が夜逃げするのは、不動産開発のために30%にもなるという高利の金を借りていたから。開発した不動産が売れている間は金を回すことができるが、順調に売れなくなったり、価格を下げて売らざるを得なくなると、途端に資金繰りに窮することになる。運転資金を確保するだけなら、値引きして叩き売ればいいが、それでは高利の借金は膨らむばかり。

 最近の中国経済崩壊論は、不動産市場のバブル崩壊により大量の融資資金が焦げ付き、金融不安が広まり、社会不安にも結びつき、開発投資主体の中国経済の成長が終わりを迎えるというもの。製造業の過剰生産能力や国有企業の寡占体制、地方政府の巨額負債、偏る所得分配など様々な問題に対する改革も進まず、中国経済は長期停滞に陥ると“予言”するものもある。

 一方で、中国の不動産市場は確かにバブルで価格が高騰していたが、売れなくなって価格がどんどん下がっていけば、それまで手が届かなかった中間層などが買い始め、実需が出てくるという見方もある。適正価格なら住宅を買うという人々が多く存在すれば、不動産バブル崩壊の影響を和らげるという見方だ。その場合にも、高利の金を借りていた不動産開発業者は資金繰りに苦しむが。

 崩壊論の根拠にされる中国の発表データには別種の問題がある。それは、どれほど「正確」に実態を反映しているのかという疑問。中国の地方政府が発表するGDPの合計が、国全体のGDPを大きく上回ると指摘されるなど、地方でも中央でも統治者に都合がいい数字が発表されるという見方だ。そうなると、不動産の変調を示すデータを公表せざるを得なくなったのは、とっくに始まっている不動産バブル崩壊を糊塗しきれなくなったということなのかもしれない。

2014年11月12日水曜日

ソースはかけない


 トンカツにはソースをかけて食べるのが一般的だが、そのソースは店によっては独自に調合していることも珍しくなく様々な味わいがある。自宅などで食べる時には、醤油をかけて食べる人もいれば、ポン酢やデミグラスソース、塩などで食べる人もいる。好きなように食べていいのだから、味噌でもマヨネーズでもケチャップでも何でもあり……かもしれない。

 でも、少数派だろうが、何もつけないで食べる人もいる。病気で塩分摂取を禁じられているわけではなく、願掛けして塩断ちしているわけでもないのに、トンカツには何もつけずに食べる。ソースや醤油が嫌いというわけではなく、絶対にソースをかけないということもないが、普段はソースをかけない。

 そんな友人がいて、言うことには「カツの味を楽しみたいンだ。ソースや醤油をかければ、カツの味よりも、ソースや醤油の味が強くなりすぎてしまう」。さらに「どこの店のトンカツがうまいだなどと皆それぞれに言うが、たいていはソースをタップリかけて食べているから、カツではなくソースを味わっているだけだ。カツは食感の違いしか判断できず、柔らかいとかサクサクしてる、固いぐらいしか言えない」。

 友人はテンプラを食べる時にも、ツユや塩などにはほとんどつけない。そういう食べ方に馴れてから、素材の味の微妙な違いや、揚げ方の具合などを楽しむことができるようになったという。ただし、必ずというわけではなく、ツユにタップリつけて食べることもある。そうやって食べるしかない味のテンプラを出す店もあるから。

 飲食店では濃い味付けが多い。濃い味付けに馴れてしまった人は、ソースなどを使わない食べ方では物足りなく感じよう。薄味の料理がたまに出されたりすると、じゃぶじゃぶとソースや醤油をかけたりする。だから、友人のようなソース類に“頼らない”食べ方は、薄味に馴れた人にしかできないだろう。ただし、薄味に馴れると飲食店の濃い味付けの料理は塩辛すぎると感じるようになるそうだ。

 塩辛いといえば、本格派の蕎麦屋のつゆがそうだ。蕎麦っ喰いなら、つゆにタップリつけるのは野暮だともいい、少しだけつけるために、つゆは塩辛くしているそうだ。友人は、最初は蕎麦をつゆにつけずに、そのまま口に入れるという。蕎麦の香りや風味を感じてから、つゆを少し飲んで、塩辛さ具合を確かめてから、つゆをどのくらいつけるかを判断するのだという。蕎麦に風味が乏しく、つゆが甘ったるければ、えいやと蕎麦をつゆに構わずつけて、手早く食べて店を出てくるそうだ。

2014年11月8日土曜日

危機感に温度差


 「国連の気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が最新の統合報告書を発表、地球温暖化の深刻な悪影響を避けるために、温室効果ガスの排出量を2050年までに10年比で40〜70%削減し、今世紀末に排出量をほぼゼロにする必要があるとした。

 今世紀末までの気温上昇を2度未満に抑えるためには、産業革命以降の世界全体のCO2累積排出量を約2兆9000億トンに抑える必要があるが、すでに約1兆9000億トンを排出しており、人類に許されるCO2排出量は残り1兆トンとする。現在のペースで排出が続けば、あと30年で限界を超えるという厳しい見通しを示した。

 さあ大変だということで新聞各紙は社説で危機感を煽ってみせた。曰く「温暖化が進めば、食料や水資源の不足など、人々の生活に深刻な影響が及ぶ」「足踏みする日本を横目に、世界は動き始めている」「すでに豪雨や干ばつなど気象災害が世界で頻発」「対策の道筋は困難だが、遅らせるほどコストもかさむ」「ハリケーンの巨大化など異常気象が世界中で深刻」などと大変さをアピール。真面目に受け止める読者は、つい浮き足立ちそうだな。

 さらに統合報告書は「高いハードルを課し、各国に積極的な取り組みを促した」とし、EUは「新枠組みの議論でも主導権を握るため、他国に先駆けて高い目標を打ち出した」一方、「温暖化は経済にも甚大な被害をもたらすが、裏を返せば、巨大なビジネスチャンスになる。時代は変わり始めている」として、前向きな対応を促す。

 各紙の社説は日本について「東日本大震災以降、日本では温暖化対策が停滞してきた。環境先進国にふさわしい目標と戦略を再構築すべき時にきている」「正念場を迎える国際交渉で、日本は出遅れている」「六月の検証会合で批判が集中し、大きな流れに取り残される」と憂慮する。「非現実的な目標を設定するのは避けるべきだ」「日本の排出量は世界全体の4%に満たない」と冷静な社説は一紙だけ。

 これらの社説は、IPCCの報告という「権威」を前面に出し、温暖化による気候変動の脅威を列挙し、読者に危機感を抱かせ、EUは率先して動き出したのだから、日本も“世界”に遅れることがないように対策をしろと提言する。世界の大気は一体のものであるから、世界のCO2排出量の4割を占める中国と米国が実際に大幅削減を行わなければ、日本がいくら削減しても無意味であることにはあまり触れない。

 奇妙なのは、危機感に“温度差”があること。産業革命以来の累積で1兆9000億トン排出されたというCO2による温暖化作用により「気象災害が世界で頻発」しているのが現実なら、悠長に「残り1兆トンの排出を抑制」することを議論している場合じゃないだろう。IPCCは各国政府に即座のCO2大幅削減を求め、温暖化による気象災害への具体的対策を国際的に直ちに検討するよう警告すべきだ。

 だがIPCCは、今世紀末までにCO2排出量をゼロにしましょうと提言するだけ。これは、1)現在の気象災害はまだ許容範囲と見ている、2)具体的な対策は学者の責任範囲外と考えている、3)実効的なCO2削減は望めないが、提言だけは行った……いずれにしても、温暖化による気象災害なるものに現実的な危機感はあまり持っていないようだ。

2014年11月5日水曜日

自由な言論・自由な表現


 ウェブサイトに日本語で書いた記事が朴槿恵大統領に対する名誉毀損にあたるとして、韓国の検察当局が産経新聞前ソウル支局長を起訴した。日本では、言論の自由に対する侵害であると“立場”を超えて批判が広まったが、中には、大統領の「7時間の空白疑惑」に関する噂を扱った当該記事には感心しないが……というような但し書きを加えているものもあった。

 新聞記事は、真偽のはっきりしない噂などには触れず、ウラが取れた確かな事実だけを取り上げるべきだというのは正しい見解だろう。噂話なら週刊誌に任せておけばいい。でも、誤報を長年放置していたことを、やっと最近認めた新聞社もあるのだから、新聞記事が確かな事実だけを報じているともいえまい。

 ところで、新聞はこれまで、週刊誌などが名誉毀損等で訴えられ、捜査当局が動いても、沈黙したり、時には社説で「他人のプライバシーを売物にするのはもってのほか」などと週刊誌をたたいた。ジャーナリズムとして新聞は週刊誌などより「格が上」との意識があったようだが、今回の産経の前ソウル支局長の記事は、噂があるという事実を伝えたつもりが、噂を広めることになった。もう新聞は週刊誌などを見下すことは難しい。

 ウラが取れた確かな事実だけを記事にしているという新聞の虚構が露になったのだから、一歩前進だ。さらに前進するには、“高尚”な新聞にだけ言論の自由・表現の自由があるのではなく、全ての媒体にも言論の自由・表現の自由があることを認識することが必要だ。それは、乱暴な言い方になるが、ゴミ記事・クソ記事にも言論の自由はあり、表現の自由はあるということ。

 これまで、ゴミ記事をゴミだからとして批判してきたのが新聞など“高尚”なジャーナリズムだった。だから噂を扱った産経の記事を無条件で擁護できず、但し書きを付け加えるような擁護の仕方になる。ゴミ記事であっても新聞記事だし、新聞記者が名誉毀損で起訴されたのだから擁護しなければならないとの義務感だけでは、言論の自由・表現の自由を闘い守ることはできまい。

 自由な言論・自由な表現を続けて圧力と闘う中からしか、言論の自由・表現の自由は維持できない。それは、新聞などの“高尚”なジャーナリズムだけに託されたものではなく、週刊誌など全ての媒体に託されたものであり、どんなゴミ記事・クソ記事にも自由な言論・自由な表現は託されている。圧力と闘う覚悟を持っていれば、余計な但し書きを付け加えずに、言論の自由・表現の自由を主張できるだろう。

「いかなる態様であっても国家権力による言論の統制を許してはならない。これが大原則である」が、「“自由な言論”を行使する以上、憎まれ抑圧され疎まれるのは、ものを破壊し人を傷つければブタ箱にほうりこまれるのと等しく、当然のことではないか」。だから、「人間が制度を支配するかぎり、どこに“言論の自由”など存在しよう。しかし、いかなる時代・社会・国家においても、断乎として“自由な言論”はある。とうぜんそれを行使する者の勇気と、犠牲の上にである」。

「名誉とは何か、姿なく形なく境もなく、つまるところは『感情』である。個的なものであってしかも、多くは虚名にすぎない。もし、明らかに侵害行為が立証されて、実害をこうむったことが確認された場合においても、金銭で購われる筋あいのものであり民事訴訟で充分、刑事制裁をくわえるまでの犯罪ではないのである」……これらは、活字においても活字外においても闘い続けた竹中労さんの言葉である(『ルポライター事始』から=ちくま文庫)。

2014年11月1日土曜日

季節を告げる虫


季節を告げる虫……(11/1)
 日本各地での桜の開花日を気象庁が“決めている”ことは、余計なお世話にみえる。自然の移り変わりは人間に関係なく進むものであり、気象庁が「桜が開花した」「梅雨入りした」「鶯が初鳴きした」などと宣言するのは、おこがましい。でも、近場の観光地での開花宣言を知ると、「そうか。観に出掛けるか」などと外出する切っ掛けになっていたりするから、無意味ではなさそうだ。

 気象庁は桜のほかにも、いろいろな生物で季節の移り変わりを調べている。植物では桜、梅、紫陽花の開花日や楓、銀杏の紅(黄)葉日、鶯やアブラゼミの初鳴き日、燕や蛍、モンシロチョウの初見日などを全国で観測、記録し、そのデータは、「鶯の初鳴日の等期日線図」「楓の紅葉日の等期日線図」「蛍の初見日の等期日線図」などとして公開されており、そうしたデータの蓄積は気候変化を示していたりもする。

 桜なら、どこかで開花宣言が始まるとマスコミは連日のように「今日は、○×でも開花しました」などと熱心に報じるのだが、ほかの“指標”についてはほとんど報じない。最近なら、紅葉前線が日本列島を南下しているのだが、北海道の大雪山の紅葉を、紅葉の始まりとして最初に伝える程度だ。やはり桜が特別なのか、春の訪れを待ち望む人が多いからか。

 四季がある日本では、季節の移り変わりを告げる生物も多い。春を告げるものでは椿や山吹、ツツジ、フキノトウ、福寿草、タンポポ、菜の花、蛙、ヒバリ、アゲハなど。夏を告げるものではニイニイゼミ、ヒグラシ、シオカラトンボ、ホトトギスなど。秋を告げるものでススキ、ヤマハギ、バッタ、コオロギ、キリギリス、モズ、メジロなど。生物にとって厳しい季節である冬の訪れを告げる代表は、北からやってくる渡り鳥たちだ。

 冬の訪れや降雪が近いことを知らせる虫もいる。白い小さな虫で、ふわふわと風に流されているだけのような動きをし、ちらちらと雪が降り始めたかのような印象を与える虫だ。北国では初雪の2、3週間前ぐらいに現れるのだから、季節を伝える虫だ。全国ニュースの天気予報でも「札幌で雪虫が飛び始めました」などとキャスターが言ったりするので、名前だけは知られているかもしれない。

 この雪虫の正体は、綿状の白い物質を身にまとったアブラムシの仲間。雪虫という名前はロマンチックな響きがあるが、実は奇妙な虫だ。ヤチダモで5月にメスが単為生殖で多くのメスを産む。7月にトドマツに移動して単為生殖を重ね、世代交代を繰り返しながら夏を過ごす。10月に羽根をつけてヤチダモに移る様子が、雪虫。ヤチダモに着いたメスは幹にオスとメスの幼虫を産みつけ、それらが交尾して1個の卵を産み、その卵が越冬する。春に孵化した子は全てメスになる。

 ふわふわと空中を漂う雪虫が、単為生殖で世代交代しながら夏を過ごし、有性生殖で卵を産んで越冬するという生存方法を身につけたのは、北国の冬が昆虫にとって厳しいからか。他にも同様の生き方をする虫がいるのかどうか知らないが、季節の移り変わりが生き物にとって、時には酷なものであることを想像させる。