「人間も昆虫のように変態するなら、子供と大人の区別がはっきりする」と知人が言う。夢で見たそうだ。大きくなった子供がある時に、仰向けに寝たきりで動かなくなり、やがて乳白色の柔らかいが厚い膜に覆われる。初めは膜を通して人体の形が判るが、やがて平板になって、すぐに再び人体の形が浮かび上がる。
人間のサナギとも言うべき状態だが、昆虫と異なるのは、子供も大人も基本的に同じ体形であることだそうだ。サナギになって大人に変態する時に、人体組織全体が一度融けて再構築されるが、知人がサナギから出てきた大人を見る前に、夢は残念な結末を暗示した。数十センチある大型の寄生蜂に卵を産みつけられてしまったのだ。
こうなると人間には為す術がない。サナギの中で人間は融けて変態している最中だから、膜を切り開いて寄生蜂の卵を取り出そうとすると、融けた人体も流れ出てしまう。だから人間は、寄生蜂に卵を産みつけられてしまったなら、悲しむしかない。
数日経つと、人間のサナギの膜の中に十数センチの黒い塊が見え始め、やがて黒い塊がゆっくり動き始める。動き始めたということは、サナギの中で寄生蜂の幼虫が人体を食い始めたということで、人々はサナギの中で動く黒い塊を見て大いに嘆くのである。
「気持ちの悪い妙な夢だったが、人間が変態するというのは面白い発想だ」と知人。体形がほぼ同じでもサナギになる期間を挟むことで、大人の誕生が明確になるとする。ただし、意識や記憶が継承されるのか、意識などは変態に伴って新生するのかなど人間の変態事情は不明なので、サナギを経て誕生した大人が、どのような人間になるのか未知数だな。
変態ではなく変身する人間はTVドラマなどで珍しくない。悪人や怪獣と闘うために特別な能力を持つ超人に変身し、闘いが終わったならフツーの人間に戻る。変身は一時的なもので、いわば個人的な戦時体制みたいなものか。でも、変身後の格好は変態した後の昆虫の成虫を連想させたりするから、変態のイメージも少し含むかもしれない。
変態は日常の中に位置づけられる成長過程であり、変態の以前に復帰することはできない。変身は日常における特別な状態なので、日常へ復帰することが定め。変態する人間を主人公にしたならば、毎回同じような展開で進めることはできなくなるから連続ドラマには不向きだろう。
2017年7月29日土曜日
2017年7月26日水曜日
ディーゼルエンジン車の終焉
欧州におけるディーゼルエンジン搭載車の不正は広く行われていたようだ。独VWから明らかになった不正で他社にも疑いの目が向けられ、次々に欧州メーカーはリコールを行っていたが、最近になりダイムラーも300万台以上を対象にした大規模なリコールを発表した。自主的としているが、不正を認めて事前に手を打ち、制裁金を回避するのが狙いとの見方もある。
一連の不正が明るみに出た発端は、2015年に米国で独VWのディーゼル車に、排ガス検査を検知して、その時だけ排ガス浄化装置を正常に作動させるという不正なソフトウェアが搭載されていると暴かれたことだった。通常走行中は規制値をはるかに上回るNOxを排出していたという悪質さで、環境汚染の確信犯だった。
「クリーン・ディーゼル」を謳い文句に独VWはじめ欧州メーカーは、ディーゼル車を欧州で売りまくり、米国や日本など世界でも拡販し始めていた。不正が明るみに出たので「クリーンディーゼル」という言葉は今では嘲笑や疑念の対象だが、不正が隠されていた当時は、それなりの訴求力を持っていた。
欧州メーカーがディーゼルに傾注したのは、トヨタが実用化したハイブリッド車(HV)対策だったという。HVの実用化で大きく遅れをとった独VWなど欧州メーカーは、ディーゼルのほうが低燃費で排出ガスもクリーンだと訴求し、環境保護に前向きであるとのイメージ戦略を展開した。日本でも自動車ジャーナリストの多くが、いつものように「欧州に見習え」とディーゼル車を称賛していたっけ。
初代プリウスが発売されたのは1997年。2010年代になってトヨタが保有する多くの特許が期限切れとなり、欧州メーカーはHVに背を向けていた態度を一変して続々とHVやプラグインHVを発売し始めた。皮肉なことに、不正が暴かれたことでディーゼル車に見切りをつけやすくなり、欧州メーカーはPHVやEVへと方向転換した(排出ガス規制が厳しくなるので、電動化以外の選択肢はないのが現実)。
さらに、VWやダイムラーなど独自動車メーカーが1990年代から、鋼材調達のほか部品メーカーの選定や部品価格、技術の仕様、ディーゼル車の排ガス技術などで業界ぐるみの常習的な談合を行っていた疑いが出てきた。ドイツ史上最大級のカルテル事件になると独誌が報じたが、事実であれば、独自動車業界が反社会的で環境汚染でも確信犯だったことになる。
ディーゼル車を欧州メーカーが売りまくった結果、欧州の都市部ではNOxやPM2.5など微小粒子状物質による大気汚染が深刻化し、例えば、仏パリでは市長が「2020年までにディーゼル車をパリから一掃する」考えを表明したり、ディーゼル車の市内走行を制限する独の自治体が現れたりしている。すでに欧州でディーゼル車の新車販売は低迷しているそうだが、今回のダイムラーの大規模リコールと独自動車メーカーの談合疑惑は、ディーゼル車の終焉を早めることになるだろう。
一連の不正が明るみに出た発端は、2015年に米国で独VWのディーゼル車に、排ガス検査を検知して、その時だけ排ガス浄化装置を正常に作動させるという不正なソフトウェアが搭載されていると暴かれたことだった。通常走行中は規制値をはるかに上回るNOxを排出していたという悪質さで、環境汚染の確信犯だった。
「クリーン・ディーゼル」を謳い文句に独VWはじめ欧州メーカーは、ディーゼル車を欧州で売りまくり、米国や日本など世界でも拡販し始めていた。不正が明るみに出たので「クリーンディーゼル」という言葉は今では嘲笑や疑念の対象だが、不正が隠されていた当時は、それなりの訴求力を持っていた。
欧州メーカーがディーゼルに傾注したのは、トヨタが実用化したハイブリッド車(HV)対策だったという。HVの実用化で大きく遅れをとった独VWなど欧州メーカーは、ディーゼルのほうが低燃費で排出ガスもクリーンだと訴求し、環境保護に前向きであるとのイメージ戦略を展開した。日本でも自動車ジャーナリストの多くが、いつものように「欧州に見習え」とディーゼル車を称賛していたっけ。
初代プリウスが発売されたのは1997年。2010年代になってトヨタが保有する多くの特許が期限切れとなり、欧州メーカーはHVに背を向けていた態度を一変して続々とHVやプラグインHVを発売し始めた。皮肉なことに、不正が暴かれたことでディーゼル車に見切りをつけやすくなり、欧州メーカーはPHVやEVへと方向転換した(排出ガス規制が厳しくなるので、電動化以外の選択肢はないのが現実)。
さらに、VWやダイムラーなど独自動車メーカーが1990年代から、鋼材調達のほか部品メーカーの選定や部品価格、技術の仕様、ディーゼル車の排ガス技術などで業界ぐるみの常習的な談合を行っていた疑いが出てきた。ドイツ史上最大級のカルテル事件になると独誌が報じたが、事実であれば、独自動車業界が反社会的で環境汚染でも確信犯だったことになる。
ディーゼル車を欧州メーカーが売りまくった結果、欧州の都市部ではNOxやPM2.5など微小粒子状物質による大気汚染が深刻化し、例えば、仏パリでは市長が「2020年までにディーゼル車をパリから一掃する」考えを表明したり、ディーゼル車の市内走行を制限する独の自治体が現れたりしている。すでに欧州でディーゼル車の新車販売は低迷しているそうだが、今回のダイムラーの大規模リコールと独自動車メーカーの談合疑惑は、ディーゼル車の終焉を早めることになるだろう。
2017年7月22日土曜日
自然との共生と温暖化
人と自然との共生という概念は良いことだとみなされているようだ。これは1980年代に現れた概念で、「昔の日本人は自然と共生して生きていた」などと賛美されたりする。だが、自然と共生するしかない条件下に生きてきたのが実態だろうし、燃料にするため木を伐り、畑を荒らす動物を容赦なく駆除していただろうから、無邪気に昔を賛美するのは無理がある。
自然との共生は環境省も打ち出し、「低炭素社会・循環型社会・自然共生社会の統合」なんて大風呂敷を広げている。人も生態系の一部であると謙虚になって、経済的利益に偏重した成長政策からの転換かと早合点したくなるが、成長の停滞が続き、行き詰まって模索しているというのが実際か。
生物多様性維持や自然再生事業などで持続可能な生態系を構築することが、自然との共生の行政的な解釈のようだが、自然との共生という概念は一般的には、もっと広い意味で使われている。過密で人工的な都市生活環境から逃れて、豊かな自然に囲まれてのんびり暮らすとのイメージもあるようで、自然との共生には都市生活者の願望も含まれているのかもしれない。
だが、自然と共生して生きることを人が求めたところで、自然は人に対して特別な配慮をするはずもなく、各種の自然災害は常に人を襲う。それも自然との共生であるだろう。さらに、豊かな自然の近くで住むなら様々な昆虫や動物、鳥などが庭や畑を荒らし、家屋内にも入ってくるだろうし、遭遇して危害を被ることもあるかもしれない。それも自然との共生だろう。
自然や共生という言葉を善だとする人なら、自然との共生は無条件に善きことと見なすだろうが、自然は時には過酷であることを理解している人なら、自然との共生が簡単なものではないと見るだろう。さらに、人は農耕などで自然を作り変えて生存を続けてきた歴史を想起する人なら、自然との共生とはガーデニングに似た自然愛好の一種と見なすかもしれない。
何が潜んでいるのか分からない薮よりも、手入れされた芝生や樹木などが広がる「自然」を人は好むというから、共生する対象の自然もおそらく人為的な自然なのだろう。ここに、自然との共生という言葉が都合よく使われる仕掛けがある。自然や共生という言葉の意味するものをいちいち確かめる人は少ないだろうから、人為的な自然と人為が及ばない自然の混同が紛れ込む。
地表であれば人は自然をつくり変えることができるだろうが、地球規模の自然に対しては無力であるから、共生せざるを得ない。さて、温暖化現象は人為的なものだからCO2排出削減で制御すべきだとされるが、温暖化現象が自然現象だとしたならば、人が制御することは困難だろう。人為的な現象だから温暖化と人の共生は否定されるのだろうが、自然現象ならば人は温暖化と共生するしかない。
自然との共生は環境省も打ち出し、「低炭素社会・循環型社会・自然共生社会の統合」なんて大風呂敷を広げている。人も生態系の一部であると謙虚になって、経済的利益に偏重した成長政策からの転換かと早合点したくなるが、成長の停滞が続き、行き詰まって模索しているというのが実際か。
生物多様性維持や自然再生事業などで持続可能な生態系を構築することが、自然との共生の行政的な解釈のようだが、自然との共生という概念は一般的には、もっと広い意味で使われている。過密で人工的な都市生活環境から逃れて、豊かな自然に囲まれてのんびり暮らすとのイメージもあるようで、自然との共生には都市生活者の願望も含まれているのかもしれない。
だが、自然と共生して生きることを人が求めたところで、自然は人に対して特別な配慮をするはずもなく、各種の自然災害は常に人を襲う。それも自然との共生であるだろう。さらに、豊かな自然の近くで住むなら様々な昆虫や動物、鳥などが庭や畑を荒らし、家屋内にも入ってくるだろうし、遭遇して危害を被ることもあるかもしれない。それも自然との共生だろう。
自然や共生という言葉を善だとする人なら、自然との共生は無条件に善きことと見なすだろうが、自然は時には過酷であることを理解している人なら、自然との共生が簡単なものではないと見るだろう。さらに、人は農耕などで自然を作り変えて生存を続けてきた歴史を想起する人なら、自然との共生とはガーデニングに似た自然愛好の一種と見なすかもしれない。
何が潜んでいるのか分からない薮よりも、手入れされた芝生や樹木などが広がる「自然」を人は好むというから、共生する対象の自然もおそらく人為的な自然なのだろう。ここに、自然との共生という言葉が都合よく使われる仕掛けがある。自然や共生という言葉の意味するものをいちいち確かめる人は少ないだろうから、人為的な自然と人為が及ばない自然の混同が紛れ込む。
地表であれば人は自然をつくり変えることができるだろうが、地球規模の自然に対しては無力であるから、共生せざるを得ない。さて、温暖化現象は人為的なものだからCO2排出削減で制御すべきだとされるが、温暖化現象が自然現象だとしたならば、人が制御することは困難だろう。人為的な現象だから温暖化と人の共生は否定されるのだろうが、自然現象ならば人は温暖化と共生するしかない。
2017年7月19日水曜日
「08憲章」に見る民主中国
中国が共産党による独裁統治をやめ、人権や民主主義、法の支配を尊重する国になることは、中国に住む人々にとっての幸いであるだろうが、周辺国に住む人々にとっても、新しい民主的な中国と判断基準、行動基準などを共有し、相互理解と相互尊重に基づく国際関係を構築することで、共存の可能性が高まるだろうから歓迎すべきことだ。
独裁統治が続く中国に住む人々の中にも、民主的な中国への移行を求める人々はいる。その代表的な一人が劉暁波氏だ。2008年に303人の連名で「08憲章」が発表されたが、劉氏も提唱者の一人だった。劉氏が亡くなり、世界各地での追悼や中国政府に対する抗議の動きは報じられたものの、08憲章にも関心が集まった……という状況ではなかった。
08憲章は何を主張しているのか。ネット上にある各種の日本語訳から浮かび上がるのは、近代化(西洋化)を自力で達成できなかった中国は、近代思想の一つである共産主義を導入し、第二次大戦による戦乱もあって共産党主導による武力革命には成功したが、共産主義を標榜する統治では失敗し続け、資本主義の導入によって経済発展に転じ、豊かになったということだ。
しかし、国づくりに失敗した共産主義を放棄することは、共産党の1党独裁の終焉でもあるから、独裁統治を続けることを正当化するためには共産主義の旗を降ろすことができす、民主主義や法の支配などを求める人々を抑圧し続けなければならない。これが現在の中国のシステムであるとし、08憲章は、中国が近代の普遍的な価値を認め、民主的な政体に移行することを提唱している。
08憲章は基本理念として、自由、人権、平等、共和、民主、憲政を示し、それらに基づいた国づくりを提言する。自由は普遍的価値の核心であるとし、中国の災難は全て政府当局が人権を無視してきたことと密接に関係すると指摘、民主を主権在民と民選政府と規定し、「自由を実践し、民主を自ら行い、法治を尊奉することこそ中国の根本的な活路」とする。
それらの理念を実現するための具体的な主張として示したのは、憲法改正、権力の分散、民主的な立法、司法の独立、公共機関の公用(共産党への隷属の否定)、人権の保障、公職選挙、都市部と農村部の平等、結社の自由、集会の自由、言論の自由、宗教の自由、公民教育(政治教育の廃止)、財産の保護、財政・税制改革、社会保障、環境保護、連邦共和(中華連邦共和国の設立)、正義の転換(全ての政治犯と良心犯を釈放)である。
08憲章は最後に、中国は「依然として権威主義政治の状況」にあり、それによって「絶えることのない人権侵害と社会的危機が作り出され」ているとし、「同様の危機感を持ち、責任感を感じ、使命感を感じている全ての中国国民」が「中国社会の偉大な変革を起こすことに参加することを希望する」と呼びかける。
08憲章が示す民主的な中国が実現したなら、劉暁波氏のような最期は許されなくなるだろう。人権を軽んずる独裁国家の存在は、その国内に住む人々を抑圧するだけではなく、そうした国家を容認する他国の政治システムの正当性をも傷つける。その意味でも08憲章は、民主主義や法の支配などを尊重する世界の人々が賛同できる面を持っている。
独裁統治が続く中国に住む人々の中にも、民主的な中国への移行を求める人々はいる。その代表的な一人が劉暁波氏だ。2008年に303人の連名で「08憲章」が発表されたが、劉氏も提唱者の一人だった。劉氏が亡くなり、世界各地での追悼や中国政府に対する抗議の動きは報じられたものの、08憲章にも関心が集まった……という状況ではなかった。
08憲章は何を主張しているのか。ネット上にある各種の日本語訳から浮かび上がるのは、近代化(西洋化)を自力で達成できなかった中国は、近代思想の一つである共産主義を導入し、第二次大戦による戦乱もあって共産党主導による武力革命には成功したが、共産主義を標榜する統治では失敗し続け、資本主義の導入によって経済発展に転じ、豊かになったということだ。
しかし、国づくりに失敗した共産主義を放棄することは、共産党の1党独裁の終焉でもあるから、独裁統治を続けることを正当化するためには共産主義の旗を降ろすことができす、民主主義や法の支配などを求める人々を抑圧し続けなければならない。これが現在の中国のシステムであるとし、08憲章は、中国が近代の普遍的な価値を認め、民主的な政体に移行することを提唱している。
08憲章は基本理念として、自由、人権、平等、共和、民主、憲政を示し、それらに基づいた国づくりを提言する。自由は普遍的価値の核心であるとし、中国の災難は全て政府当局が人権を無視してきたことと密接に関係すると指摘、民主を主権在民と民選政府と規定し、「自由を実践し、民主を自ら行い、法治を尊奉することこそ中国の根本的な活路」とする。
それらの理念を実現するための具体的な主張として示したのは、憲法改正、権力の分散、民主的な立法、司法の独立、公共機関の公用(共産党への隷属の否定)、人権の保障、公職選挙、都市部と農村部の平等、結社の自由、集会の自由、言論の自由、宗教の自由、公民教育(政治教育の廃止)、財産の保護、財政・税制改革、社会保障、環境保護、連邦共和(中華連邦共和国の設立)、正義の転換(全ての政治犯と良心犯を釈放)である。
08憲章は最後に、中国は「依然として権威主義政治の状況」にあり、それによって「絶えることのない人権侵害と社会的危機が作り出され」ているとし、「同様の危機感を持ち、責任感を感じ、使命感を感じている全ての中国国民」が「中国社会の偉大な変革を起こすことに参加することを希望する」と呼びかける。
08憲章が示す民主的な中国が実現したなら、劉暁波氏のような最期は許されなくなるだろう。人権を軽んずる独裁国家の存在は、その国内に住む人々を抑圧するだけではなく、そうした国家を容認する他国の政治システムの正当性をも傷つける。その意味でも08憲章は、民主主義や法の支配などを尊重する世界の人々が賛同できる面を持っている。
2017年7月15日土曜日
国民国家と「近代の秋」
既得権益層やエリートから国家主権を取り戻し、一般人の感覚に基づいて運営される「健全」な国民国家へ回帰することで、民主主義を取り戻そうという動きが世界で見られる。そうした動きはポピュリズムだとの批判も盛んに行われ、国民国家のあり方が揺らいでいる。互いに善悪の価値判断を含ませた批判が混じるので、時には罵倒合戦の様相を呈したりもする。
グローバル化の進展に伴い国民国家は、国内的には強大な力を持つが国境を超える問題には非力であり、行き詰まっていることは明らかだ。しかし、主権者の中に様々な利害対立があり、それぞれが望む国家像も様々に異なるだろうから、選挙のたびに国家のあり方は揺らぎ続ける。
おそらく、現状の国際主義を続けても国家主権を取り戻そうとしても、国民国家というシステムを安定させることはできない。グローバル化は経済分野で顕著だが、政治や社会問題、文化など広範囲でも進んでおり、国民国家単位では対応できなくなっている一方、グローバル化に伴う国内での反発・反動にも相応の正当性があるからだ(民族性の主張などを国民国家は無視できない)。
国民国家がグローバル化の進展を厳しくチェックする役割を果たしていたなら、もっと信頼されていたかもしれないが、グローバル化の進展を後追いするだけだ。「現代は世界秩序について責任を持つ主体が存在しないシステム」であり、主権国家は国内秩序を維持するには優れたシステムだが「世界秩序を維持するには不十分」とするのが水野和夫氏(『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』)で、世界的公共性の担い手が不在だとする。
主権国家システムと資本主義が両立できるのは、実物投資空間が「無限」で経済が成長し続ける場合のみだとする水野氏は、現代はフロンティアなき時代であり、資本主義の終焉が主権国家システムにも「死亡宣告書」を突きつけていると見る。
国民国家という単位では、グローバルに富を収奪する資本主義を統制できなくなっているとする水野氏は、やがて世界はいくつもの「閉じた地域帝国」の形成に向かい、定常状態へ移行していくと説く。歴史を振り返り、「中世の秋」のような「近代の秋」が始まっていて、移行には百年単位かかるとする。
資本主義と民主主義が共存できたのは、国民国家が中産階級を増やしていた時代だけだったのかもしれない。フロンティアなき時代になり、拡大再生産が壁にぶつかって久しい資本主義は中産階級を富の収奪の対象にし、格差と分裂の拡大を促進している。資本主義と民主主義が共存し難くなると、国民国家というシステムを維持することは困難だろう。それが「近代の秋」の当面の課題かもしれない。
グローバル化の進展に伴い国民国家は、国内的には強大な力を持つが国境を超える問題には非力であり、行き詰まっていることは明らかだ。しかし、主権者の中に様々な利害対立があり、それぞれが望む国家像も様々に異なるだろうから、選挙のたびに国家のあり方は揺らぎ続ける。
おそらく、現状の国際主義を続けても国家主権を取り戻そうとしても、国民国家というシステムを安定させることはできない。グローバル化は経済分野で顕著だが、政治や社会問題、文化など広範囲でも進んでおり、国民国家単位では対応できなくなっている一方、グローバル化に伴う国内での反発・反動にも相応の正当性があるからだ(民族性の主張などを国民国家は無視できない)。
国民国家がグローバル化の進展を厳しくチェックする役割を果たしていたなら、もっと信頼されていたかもしれないが、グローバル化の進展を後追いするだけだ。「現代は世界秩序について責任を持つ主体が存在しないシステム」であり、主権国家は国内秩序を維持するには優れたシステムだが「世界秩序を維持するには不十分」とするのが水野和夫氏(『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』)で、世界的公共性の担い手が不在だとする。
主権国家システムと資本主義が両立できるのは、実物投資空間が「無限」で経済が成長し続ける場合のみだとする水野氏は、現代はフロンティアなき時代であり、資本主義の終焉が主権国家システムにも「死亡宣告書」を突きつけていると見る。
国民国家という単位では、グローバルに富を収奪する資本主義を統制できなくなっているとする水野氏は、やがて世界はいくつもの「閉じた地域帝国」の形成に向かい、定常状態へ移行していくと説く。歴史を振り返り、「中世の秋」のような「近代の秋」が始まっていて、移行には百年単位かかるとする。
資本主義と民主主義が共存できたのは、国民国家が中産階級を増やしていた時代だけだったのかもしれない。フロンティアなき時代になり、拡大再生産が壁にぶつかって久しい資本主義は中産階級を富の収奪の対象にし、格差と分裂の拡大を促進している。資本主義と民主主義が共存し難くなると、国民国家というシステムを維持することは困難だろう。それが「近代の秋」の当面の課題かもしれない。
2017年7月12日水曜日
どう北朝鮮を利用するか
北朝鮮が今年に入って11回目の弾道ミサイルの発射を行った。ミサイルは約40分間飛行し、約900キロ先の日本海の日本の排他的経済水域内に落下した。高度は約2800キロに達し、いわゆるロフテッド軌道で打ち上げられたといい、通常の角度で発射したなら飛行距離は5600キロ以上になるとみられ、米政権はICBMだったと確認した。
北朝鮮の弾道ミサイルの射程にアラスカが入り、このままのペースでミサイル技術の開発が続いていけば北朝鮮の弾道ミサイルが米国の西海岸などを射程に収める日は遠くないだろう。北朝鮮が核爆弾の開発も続けていることから、米国にとって現実の脅威に北朝鮮はなり始めた。
冷戦期にはソ連、冷戦後はイラクやイランなどと米国は常に仮想敵国を明示的に設定してきた。脅威となる外国の存在が産軍複合体にとって必要だったのだろうし、仮想敵国の存在で膨大な軍事費支出を正当化できた。9.11の後に米国はアフガニスタンやイラクの政権を敵視し、崩壊させたが、オバマ政権はイランやキューバと関係改善を図り、次の仮想敵国としてクローズアップされたのが北朝鮮だった。
米国にとって理想的な仮想敵国は、自国に対する脅威がほとんどない非民主主義の国家であろう。いくらでも批判できるが現実的な脅威がない仮想敵国の存在は、自国の内政や外交にとって利用できる存在だ。だが、北朝鮮の弾道ミサイルは現実的な脅威となりつつある。
アフガニスタンやイラクの政権を崩壊させた後に米国は混乱を収拾できず、米軍の駐留を続けざるを得ない状況が続いている。米国は軍事攻撃で北朝鮮の政権を崩壊させることはできるだろうが、北朝鮮軍の反撃に加え、崩壊した北朝鮮に対する責任も出てくるので、影響や負担の大きさを考慮すると米国の選択肢は限られる。理想的な仮想敵国だった北朝鮮は過去になった。
北朝鮮は中国、ロシアにとっては米国に対する格好の取引材料になりつつある。両国は報道によると、「対話と交渉による解決」を関係国に働きかけることで一致したそうで、北朝鮮の核開発と米韓軍事演習の同時凍結の実現を目指すそうだ。つまり、実現可能性は低いだろうから、北朝鮮の弾道ミサイル開発は続いていく。
北朝鮮を米国は仮想敵国として利用してきたが、ここにきて持て余しつつあるように見える。代わりに中国、ロシアが北朝鮮の利用価値を認めて、対米牽制に効果的に利用し始めた。北朝鮮が米国との緊張関係を続けることを中国、ロシアは歓迎しているのだから、中国やロシアが北朝鮮を説得したり、制裁することはない。
北朝鮮の弾道ミサイルの射程にアラスカが入り、このままのペースでミサイル技術の開発が続いていけば北朝鮮の弾道ミサイルが米国の西海岸などを射程に収める日は遠くないだろう。北朝鮮が核爆弾の開発も続けていることから、米国にとって現実の脅威に北朝鮮はなり始めた。
冷戦期にはソ連、冷戦後はイラクやイランなどと米国は常に仮想敵国を明示的に設定してきた。脅威となる外国の存在が産軍複合体にとって必要だったのだろうし、仮想敵国の存在で膨大な軍事費支出を正当化できた。9.11の後に米国はアフガニスタンやイラクの政権を敵視し、崩壊させたが、オバマ政権はイランやキューバと関係改善を図り、次の仮想敵国としてクローズアップされたのが北朝鮮だった。
米国にとって理想的な仮想敵国は、自国に対する脅威がほとんどない非民主主義の国家であろう。いくらでも批判できるが現実的な脅威がない仮想敵国の存在は、自国の内政や外交にとって利用できる存在だ。だが、北朝鮮の弾道ミサイルは現実的な脅威となりつつある。
アフガニスタンやイラクの政権を崩壊させた後に米国は混乱を収拾できず、米軍の駐留を続けざるを得ない状況が続いている。米国は軍事攻撃で北朝鮮の政権を崩壊させることはできるだろうが、北朝鮮軍の反撃に加え、崩壊した北朝鮮に対する責任も出てくるので、影響や負担の大きさを考慮すると米国の選択肢は限られる。理想的な仮想敵国だった北朝鮮は過去になった。
北朝鮮は中国、ロシアにとっては米国に対する格好の取引材料になりつつある。両国は報道によると、「対話と交渉による解決」を関係国に働きかけることで一致したそうで、北朝鮮の核開発と米韓軍事演習の同時凍結の実現を目指すそうだ。つまり、実現可能性は低いだろうから、北朝鮮の弾道ミサイル開発は続いていく。
北朝鮮を米国は仮想敵国として利用してきたが、ここにきて持て余しつつあるように見える。代わりに中国、ロシアが北朝鮮の利用価値を認めて、対米牽制に効果的に利用し始めた。北朝鮮が米国との緊張関係を続けることを中国、ロシアは歓迎しているのだから、中国やロシアが北朝鮮を説得したり、制裁することはない。
2017年7月8日土曜日
「このハゲぇ〜」
「このハゲぇ〜」「違うだろ〜」などと激しく政策秘書を罵倒し、殴るなどの暴行も加えていた国会議員の姿が明るみに出た。最初に週刊誌が話題を発掘し、テレビや新聞が後追いして大騒ぎするという馴染みの構図だ。当事者以外にとっては笑える話題であり、パワハラ批判という大義名分があり、探せば他にも批判材料が出てきそうで、マスコミにとっては格好の話題だろう。
公職にある人間には説明責任があるが、当の国会議員は説明責任を一切果たさず、隠れたままだ。弁解のしようがない行為だったと本人も気がついたか、批判されることに我慢できないプライドの高い人間なので反論できない状況から逃げ出したか、自分は間違っていないと反論するつもりが周囲から止められたか、騒ぎが収まるのを隠れたままで待つように見える。
こういう国会議員がいることが明らかになると、議会の議論の質を高めるためには、まず議員になる人間の「質」を確保することが大切だとつい考えたくなる。だが、議員になる人間の「質」を確認するのは簡単ではなく、さらに「質」についての見方も立場によって様々だろうから、結局は主権者が選挙で、議員には適さない人間を見極め、投票しないことしかない。
ところで、「このハゲぇ〜」という国会議員の罵倒の言葉を、音声が録音されていたこともあり、テレビも週刊誌も遠慮なく使っていた。社会的にもハゲという言葉は遠慮なく使用されている。一方では、容姿や外見を揶揄したり、笑ったり、貶めるような言葉は慎むべきとされ、チビとかデブ、ブス、出っ歯などの言葉はあからさまには使われない。
ハゲという言葉が社会的に使用が容認され、面白がって使われているのはなぜか。ハゲの対象はほぼオジサン(中高年男性)だから、社会的弱者と見なされないのかもしれない。だが、社会的立場などに関係なく、ハゲという言葉は個人に向けて嘲笑や罵倒などに使われるのだから、個人の尊厳を尊重するという意識があるなら、ハゲという言葉の使用はためらわれるはず。
ハゲと言われたことで傷害事件になったという話は聞かないし、居酒屋などでハゲとからかわれた当人が笑って済ます光景も珍しくない。ハゲと言われた当人が怒りだしたり、相手を咎めたりせず、照れ笑いで不快感を誤魔化したりすることも、ハゲという言葉の使用を許しているようだ。ハゲと言われた人々が不快だと主張すればハゲという言葉は使用しにくくなるだろうが、ハゲに引け目があるのかハゲの当人はハゲという言葉を放置する。
この社会がハゲの人に対するハゲという罵倒や嘲笑を容認しているのだから、「このハゲぇ〜」と政策秘書を罵倒した国会議員は、人間の「質」としては一般人と同等なのかもしれない。つまり、この社会では議員に不適格ではなかった? ハゲという言葉は、使用する人間や社会の「質」を表すものでもあるようだ。
公職にある人間には説明責任があるが、当の国会議員は説明責任を一切果たさず、隠れたままだ。弁解のしようがない行為だったと本人も気がついたか、批判されることに我慢できないプライドの高い人間なので反論できない状況から逃げ出したか、自分は間違っていないと反論するつもりが周囲から止められたか、騒ぎが収まるのを隠れたままで待つように見える。
こういう国会議員がいることが明らかになると、議会の議論の質を高めるためには、まず議員になる人間の「質」を確保することが大切だとつい考えたくなる。だが、議員になる人間の「質」を確認するのは簡単ではなく、さらに「質」についての見方も立場によって様々だろうから、結局は主権者が選挙で、議員には適さない人間を見極め、投票しないことしかない。
ところで、「このハゲぇ〜」という国会議員の罵倒の言葉を、音声が録音されていたこともあり、テレビも週刊誌も遠慮なく使っていた。社会的にもハゲという言葉は遠慮なく使用されている。一方では、容姿や外見を揶揄したり、笑ったり、貶めるような言葉は慎むべきとされ、チビとかデブ、ブス、出っ歯などの言葉はあからさまには使われない。
ハゲという言葉が社会的に使用が容認され、面白がって使われているのはなぜか。ハゲの対象はほぼオジサン(中高年男性)だから、社会的弱者と見なされないのかもしれない。だが、社会的立場などに関係なく、ハゲという言葉は個人に向けて嘲笑や罵倒などに使われるのだから、個人の尊厳を尊重するという意識があるなら、ハゲという言葉の使用はためらわれるはず。
ハゲと言われたことで傷害事件になったという話は聞かないし、居酒屋などでハゲとからかわれた当人が笑って済ます光景も珍しくない。ハゲと言われた当人が怒りだしたり、相手を咎めたりせず、照れ笑いで不快感を誤魔化したりすることも、ハゲという言葉の使用を許しているようだ。ハゲと言われた人々が不快だと主張すればハゲという言葉は使用しにくくなるだろうが、ハゲに引け目があるのかハゲの当人はハゲという言葉を放置する。
この社会がハゲの人に対するハゲという罵倒や嘲笑を容認しているのだから、「このハゲぇ〜」と政策秘書を罵倒した国会議員は、人間の「質」としては一般人と同等なのかもしれない。つまり、この社会では議員に不適格ではなかった? ハゲという言葉は、使用する人間や社会の「質」を表すものでもあるようだ。
2017年7月5日水曜日
手本は北朝鮮?
ミサイル発射実験を繰り返す北朝鮮は、短距離から長距離まで各種ミサイルを保有するという。報道によると、実戦配備されているのは「スカッド」(射程300〜500キロ)、「スカッドER」(同1000キロ)、「ノドン」(同1300キロ)、「北極星2」(同2000キロ以上)、「ムスダン」(同3000キロ以上)。開発中なのが「テポドン2改良型」(同6700キロ以上)で、他にも潜水艦発射弾道ミサイルなど様々なミサイルを発射し、改良を続けている。
すでに実戦配備されているノドン(同1300キロ)は日本列島をすっぽりカバーするので、日本に対する北朝鮮の軍事的な脅威はすでに現実化していた。最近になって北朝鮮のミサイルの脅威が強調されているのは、米グアムやアラスカを攻撃できる長距離ミサイルの実戦配備が近づき、米国が騒ぎ始めたからだろう。
なぜ北朝鮮が弾道ミサイルの開発、装備を急ぐのか。防衛白書によると、北朝鮮軍は陸軍中心の構成で即応態勢を維持・強化しているが装備の多くは旧式であり、経済の不調による国防支出の限界もあって、韓国・在韓米軍に対して通常戦力では著しい劣勢。このため、大量破壊兵器や弾道ミサイルの増強に集中的に取り組むことにより劣勢を補おうとしている。
北朝鮮の一連のミサイル発射は国際的に強く批判されているが、北朝鮮は反発する。米国との直接交渉を望んでいるとの見方もあるが、米国は取り合わず、中国に北朝鮮を「管理」してもらおうと押し付けている格好だ。といって北朝鮮が中国の言いなりになるわけもなく、北朝鮮のミサイル開発は続いて行くだろう。
こうした北朝鮮の軍事戦略には、相応の合理性がある。通常兵力が周辺国に比べると弱体化し、外国の軍隊が駐留しているわけでもなく、外国からの軍事支援はあてにせず(できず)、独力で自国を防衛するしかないとなれば、まず短距離ミサイルを増やして侵略に対する反撃力を高め、次に中距離ミサイルを増やして周辺国への攻撃力を誇示して、抑止する。財政的に限られているなら、弾道ミサイルの装備に注力するのは間違ってはいないだろう。
日本には米軍が駐留しているが、日米安保が破棄され、日本単独で防衛力を整備しなければならなくなった場合、北朝鮮と同じ状況に置かれる。日本の防衛のためには在日米軍並みの戦力が必要だとの見方もあるが、在日米軍はアジア全体からインド洋、さらには中東までの展開を考慮しているものなので、日本の防衛のためだけなら在日米軍の戦力は過大であり、原子力空母なんか必要ない。
日米安保を破棄して日本単独で防衛しなければならなくなった時に、①歴史を踏まえ専守防衛に徹し、周辺国に過剰な警戒感を持たせない、②軍事予算に制約を課す、③民主主義体制を堅持し、文民統制を明示的に強化する、ことが必要になろう。つまり、通常兵力の大幅増強には制約があるので、侵略に対する反撃力の強化に重点を置くことになる。
具体的には射程1000キロ以下の各種の弾道ミサイルを日本全国に配置し、各種の侵略に対する迎撃体制を整えることが、効果的な専守防衛戦略だろう。北朝鮮のミサイル戦略の「成功」と「失敗」は、日米安保を離れた時の日本にとって参考になる。
すでに実戦配備されているノドン(同1300キロ)は日本列島をすっぽりカバーするので、日本に対する北朝鮮の軍事的な脅威はすでに現実化していた。最近になって北朝鮮のミサイルの脅威が強調されているのは、米グアムやアラスカを攻撃できる長距離ミサイルの実戦配備が近づき、米国が騒ぎ始めたからだろう。
なぜ北朝鮮が弾道ミサイルの開発、装備を急ぐのか。防衛白書によると、北朝鮮軍は陸軍中心の構成で即応態勢を維持・強化しているが装備の多くは旧式であり、経済の不調による国防支出の限界もあって、韓国・在韓米軍に対して通常戦力では著しい劣勢。このため、大量破壊兵器や弾道ミサイルの増強に集中的に取り組むことにより劣勢を補おうとしている。
北朝鮮の一連のミサイル発射は国際的に強く批判されているが、北朝鮮は反発する。米国との直接交渉を望んでいるとの見方もあるが、米国は取り合わず、中国に北朝鮮を「管理」してもらおうと押し付けている格好だ。といって北朝鮮が中国の言いなりになるわけもなく、北朝鮮のミサイル開発は続いて行くだろう。
こうした北朝鮮の軍事戦略には、相応の合理性がある。通常兵力が周辺国に比べると弱体化し、外国の軍隊が駐留しているわけでもなく、外国からの軍事支援はあてにせず(できず)、独力で自国を防衛するしかないとなれば、まず短距離ミサイルを増やして侵略に対する反撃力を高め、次に中距離ミサイルを増やして周辺国への攻撃力を誇示して、抑止する。財政的に限られているなら、弾道ミサイルの装備に注力するのは間違ってはいないだろう。
日本には米軍が駐留しているが、日米安保が破棄され、日本単独で防衛力を整備しなければならなくなった場合、北朝鮮と同じ状況に置かれる。日本の防衛のためには在日米軍並みの戦力が必要だとの見方もあるが、在日米軍はアジア全体からインド洋、さらには中東までの展開を考慮しているものなので、日本の防衛のためだけなら在日米軍の戦力は過大であり、原子力空母なんか必要ない。
日米安保を破棄して日本単独で防衛しなければならなくなった時に、①歴史を踏まえ専守防衛に徹し、周辺国に過剰な警戒感を持たせない、②軍事予算に制約を課す、③民主主義体制を堅持し、文民統制を明示的に強化する、ことが必要になろう。つまり、通常兵力の大幅増強には制約があるので、侵略に対する反撃力の強化に重点を置くことになる。
具体的には射程1000キロ以下の各種の弾道ミサイルを日本全国に配置し、各種の侵略に対する迎撃体制を整えることが、効果的な専守防衛戦略だろう。北朝鮮のミサイル戦略の「成功」と「失敗」は、日米安保を離れた時の日本にとって参考になる。
2017年7月1日土曜日
それでも新聞を読みたいという需要
実家が朝日新聞を購読していたので子供の頃から朝日新聞が身近にあったという友人は、親元を離れて社会人になって以来、朝日新聞を購読し続けていた。社会人なら新聞を購読するのが当然だと思い、子供の頃からの親近感もあって朝日新聞を購読していた。
その友人が朝日新聞の購読をやめた。友人は朝日新聞の論調の熱心な支持者ではなかったが、信頼できる新聞だと思っていたという。その信頼が揺らぎ始めたのは、慰安婦問題の誤報を長年放置していたことを朝日新聞が認めてから。誤報があっても速やかに正されると思っていたのに朝日新聞の実態は違って、誤報の事実を隠蔽し、虚偽の情報が拡散することを容認し続けていた。
裏切られていたと友人は感じたが、ウミを全て出し切れば「新生」朝日新聞はまた信頼できる新聞になると思って購読を続けた。数年たって、朝日新聞の体質が変わったと感じられず、もう信頼できないと友人はとうとう購読をやめた。新聞なんて何でもいいと家族はあっさり同意したという。
しかし、友人は悩んでいる。新聞が毎日配達される生活を続けていたので新聞は必要だと、まず読売新聞を購読してみたが、友人曰く「紙面がスカスカしている」そうで、当初の契約通り3カ月でやめた。次に毎日新聞にしたが、記者のコラムがやたらに多く、「俺が読みたいのは誰かの解釈ではなく、世界で何が起きたのかという事実なんだ」と友人は“文学的な”毎日新聞もやめた。
日経新聞は会社で読むことができるし、産経新聞は色がつきすぎていると友人は次に購読すべき新聞を決めかね、新聞が毎朝届かない日が続いている。テレビやスマホでニュースを知ることができるからと家族は新聞が届かなくなっても何も言わないという。
別の友人は、朝日新聞が信頼できなくなったことは同様だが、他の新聞では物足りないので朝日新聞の購読を続けているという。読むに値する新聞が現れれば切り替えると決め、出張などの移動時に他の新聞を買って読むそうだが、これなら朝日新聞の方がまだマシだと感じることが多いそうだ。
朝日新聞に愛想を尽かしたものの、新聞は読みたいという需要はある。そうした知的需要に応える新聞とは、事実を重視しつつ現実に根ざしたリベラリズムに基づく新聞だろう。護憲などの「不可侵の教条」を振り回さず、日本や世界の現実を冷静に分析して記事にし、多様な視点を提供する新聞があれば、朝日新聞を離れたが新聞は読みたいという需要をつかむことができるだろう。
なお日本の新聞の総発行部数は4327万部(2016年、日本新聞協会)で、内訳は一般紙3982万部、スポーツ紙345万部。朝夕刊セットは1041万部、朝刊のみ3188万部、夕刊のみ97万部。総発行部数は漸減傾向が続き、2010年に5000万部を割った。各社別の発行部数(2016年8月、ABC)は読売新聞895万部、朝日新聞645万部、毎日新聞305万部、日経新聞271万部、産経新聞159万部だが、どれくらい残紙が含まれるのかは不明。
その友人が朝日新聞の購読をやめた。友人は朝日新聞の論調の熱心な支持者ではなかったが、信頼できる新聞だと思っていたという。その信頼が揺らぎ始めたのは、慰安婦問題の誤報を長年放置していたことを朝日新聞が認めてから。誤報があっても速やかに正されると思っていたのに朝日新聞の実態は違って、誤報の事実を隠蔽し、虚偽の情報が拡散することを容認し続けていた。
裏切られていたと友人は感じたが、ウミを全て出し切れば「新生」朝日新聞はまた信頼できる新聞になると思って購読を続けた。数年たって、朝日新聞の体質が変わったと感じられず、もう信頼できないと友人はとうとう購読をやめた。新聞なんて何でもいいと家族はあっさり同意したという。
しかし、友人は悩んでいる。新聞が毎日配達される生活を続けていたので新聞は必要だと、まず読売新聞を購読してみたが、友人曰く「紙面がスカスカしている」そうで、当初の契約通り3カ月でやめた。次に毎日新聞にしたが、記者のコラムがやたらに多く、「俺が読みたいのは誰かの解釈ではなく、世界で何が起きたのかという事実なんだ」と友人は“文学的な”毎日新聞もやめた。
日経新聞は会社で読むことができるし、産経新聞は色がつきすぎていると友人は次に購読すべき新聞を決めかね、新聞が毎朝届かない日が続いている。テレビやスマホでニュースを知ることができるからと家族は新聞が届かなくなっても何も言わないという。
別の友人は、朝日新聞が信頼できなくなったことは同様だが、他の新聞では物足りないので朝日新聞の購読を続けているという。読むに値する新聞が現れれば切り替えると決め、出張などの移動時に他の新聞を買って読むそうだが、これなら朝日新聞の方がまだマシだと感じることが多いそうだ。
朝日新聞に愛想を尽かしたものの、新聞は読みたいという需要はある。そうした知的需要に応える新聞とは、事実を重視しつつ現実に根ざしたリベラリズムに基づく新聞だろう。護憲などの「不可侵の教条」を振り回さず、日本や世界の現実を冷静に分析して記事にし、多様な視点を提供する新聞があれば、朝日新聞を離れたが新聞は読みたいという需要をつかむことができるだろう。
なお日本の新聞の総発行部数は4327万部(2016年、日本新聞協会)で、内訳は一般紙3982万部、スポーツ紙345万部。朝夕刊セットは1041万部、朝刊のみ3188万部、夕刊のみ97万部。総発行部数は漸減傾向が続き、2010年に5000万部を割った。各社別の発行部数(2016年8月、ABC)は読売新聞895万部、朝日新聞645万部、毎日新聞305万部、日経新聞271万部、産経新聞159万部だが、どれくらい残紙が含まれるのかは不明。
登録:
コメント (Atom)