2025年3月29日土曜日

倫理意識の弱さ

 倫理とは「行動の規範としての道徳観や善悪の基準」で、道徳は「社会生活の秩序を保つために、一人一人が守るべき行為の基準」(新明解国語辞典)。倫理には「社会生活で人の守るべき道理。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。人が行動する際、規範となるもの。社会で人が生きていく上での守りごと」などの解釈もある。倫理は主に個人が持つ判断基準のようだ。

 道徳には「人が善悪をわきまえて正しい行動をするために守らなければならないもの。個人または家族などの小さなグループに用いられる日常生活の行動基準」などの解釈もある。道徳は主に集団が共有すべき判断基準のようだ。そこから道徳については、従わない個人に対して集団に属する人々から「圧力」がかけられたり、集団への帰属意識が希薄な個人なら「圧力」を感じたりする。

 個人が持つ倫理観は、経験や教育などで属する集団の文化や伝統などを受け入れることにより形成される。キリスト教やイスラム教などの影響が強い集団で育った個人の倫理観は宗教の規範の強い影響を受けるだろう。倫理観は集団における個人の振る舞い方の基準となり、その集団において倫理的に正しくない振る舞いを行った個人に対しては時には罰が与えられたりもする。

 日本には豊かな文化や伝統があるが、キリスト教やイスラム教のような強く社会を律する宗教はなく、宗教の影響は弱かった。仏教の影響はあり、死生観や葬送儀礼などに影響を与えているが、人々の日常の行動を左右するほどの影響力はなかった(江戸時代に仏教が政治の統制下に置かれ、キリスト教が禁じられ、宗教は社会において形骸化するとともに人々の精神に対する影響力を喪失した)。

 日本人の倫理観はどう形成されるのか。加藤周一氏は「いまの日本には、倫理的な行動に影響を与えるものは何もないのではないか。仏教の力は江戸時代に弱くなり、明治以後に弱くなって、戦後にはもっと弱くなる。キリスト教は日本の人口の割合から見ると、あまりにも少数で、日本人全体の倫理的な価値の基準にはなりえない。儒教の力も弱くなっている。(儒教は)家父長的な家族構造を前提としているからです。家族の構造が変わってくれば当然、影響力は衰える」とし、「日本は、倫理的な背景がないまま、21世紀もそのままズルズルというわけにも行かないのではないか」(「漢字文化圏の歴史と未来」一海知義氏との対談、2000年=『加藤周一対話集④ーことばと芸術』所収)。

 日本人が持つ倫理意識が弱いとの見方は以前からあり、近代的な自我意識の弱さと倫理意識の弱さが関係しているとの指摘もある。確固とした倫理観を日本人が持たなかったのは、属する集団に同調することを優先し、情緒を優先する性向があり、現実追認という現実主義傾向が強い一方で、宗教などによる現世を離れた超越的な価値の存在が希薄だったためかもしれない。

 日本人が持つ倫理意識が弱いことが事実なら、それは日本が特定の倫理観を持たずとも生きていくことができる社会であるということだ。キリスト教やイスラム教などの「しばり」が強い社会ではないから、日本は欧米やイスラム圏などとは全く異なる文化を生み出したと解釈すると、いまさら何かの倫理観を持たなければならないと慌てることもない。

2025年3月26日水曜日

陰謀論と妄想

 「世界はディープ・ステート(闇の政府)が操っている」「トランプ氏はディープ・ステートから世界を救おうとしている」とか「9.11テロには米連邦政府が関与している」「東日本大震災は人工地震だ」「ワクチンにはマイクロチップが埋め込まれている」「ユダヤ人は世界支配の陰謀を企てている」などの陰謀論は、SNSの世界的普及もあって、何かの大きな出来事があると現れる。

 陰謀論は、①特定の方向へ人々の意識を誘導するために仕掛けられたもの、②大きな出来事に対する人々の独自の解釈が広まったものーに大別できる。フェイクニュースは事実を歪めて改変して伝えるものだが、陰謀論は事実よりも解釈に重点を置いて伝えるもので、「新聞やテレビが報じることを鵜呑みにするな」などとマスメディアへの不信感を煽り、これが「隠されていた真実」だと主張する。

 マスメディアが報じる情報を信頼する人々は陰謀論を無視するか笑うだけだろうが、陰謀論にとらえられる人もいる。研究者によると、陰謀論は▽自己閉塞感や苦しく辛い状況に対する不平不満の吐け口になる▽多くの人が気づいていないことを自分は知っているとして自己肯定感や自尊心が満たされる▽同調者の存在で社会的な認知や肯定感が与えられたように感じるーため、のめり込んでしまうのだという。

 陰謀論は自分の解釈を最優先して世界を見ている状態だ。マスメディアに踊らされずに「自分の頭で考えることが大事」などとして独自の解釈を生み出したり、SNSなどに現れた突飛な主張に同調してしまう。陰謀論にとらわれている状態は主観だけで世界を見ている状態でもある。その主観に都合のいい情報だけを積み上げていくので陰謀論は強化される。

 主観だけで世界を見ている状態とは、事実や客観性や合理性は軽視し、主観に合致する事柄だけを集めた組み立てられたストーリー(物語)で世界を見ている状態だ。そうしたストーリーは歴史意識や宗教と親和性がある場合があって、偏狭な民族意識などと融合すると排他性が高まったりし、「敵」を容赦なく攻撃・排除するための正当化に持ち出されたりする。

 主観だけで世界を見ている人は妄想にとらわれている人と似ている。妄想は「根拠がなく不合理なことを事実と確信すること。事実や論理では訂正できない主観的な信念」だ。対人関係では関係妄想、被害妄想、注察妄想、嫉妬妄想、影響妄想などがあり、気分に伴うものには誇大妄想、被愛妄想、卑小妄想、貧困妄想、罪責妄想などと多くの妄想がある。

 陰謀論と妄想の違いは、陰謀論は現実に起きたことを解釈するが、妄想は現実には起きていないことを起きていると主張する。主観だけで世界を見ていることと事実や論理を受け入れないことでは共通するが、陰謀論を唱える人=妄想にとらわれている人とはいえない。妄想に強くとらわれている人は精神病理学の治療対象となるが、陰謀論にハマっている人は治療対象にはなりにくく、周囲が根気強く説得するしかない。

2025年3月22日土曜日

地方出身者が集まる

 新型コロナ禍でリモートワークが広まったこともあり、人々が過密な状況で暮らしている東京から郊外や地方への移住の動きが増えた。現在でも子育て世帯などの都民の移住願望は根強いとされるが、2024年に東京都への転入は46万1454人(23年より7321人増)、転出は38万2169人(同3679人減)で、7万9285人の転入超過だった。

 東京一極集中の勢いは衰えず、逆に加速していた。東京一極集中の是正が必要だとの指摘は珍しくなくなったが、東京一極集中は止まらない。東京だけではなく神奈川県、埼玉県、千葉県でも転入超過となっており、1都3県で13万5843人の転入超過だ(23年比で超過幅は9328人増)。転入の世代別では10代後半から20代前半が多く、進学・就職に伴う動きとされる。

 ここから東京一極集中を緩和するには、大学や企業の地方移転を促すことが必要だと見えてくる。だが、大学も企業も東京から離れない。都心立地をアピールして地方から学生を集める大学があり、経済活動が活発な東京から離れることにメリットを見いだすことができない企業も多いのだろう。IT企業なら営業部門以外は地方立地が可能だろうが、東京を離れない。

 東京圏への転入超過は新型コロナ禍前と同水準に近づきつつあり、東京圏の転入超過は29年連続だ。男女別では男性6万3784人、女性7万2059人で、女性のほうが8275人多い。地方には大卒女性に魅力ある職場が少ないことに加え、「東京への憧れ」「地元・親元を離れたい」「新しい生活を始めたい」などの動機があるとの調査結果がある。生活を変化させる場として東京が選ばれているようだ。

 新幹線網が全国に拡大し、地方空港も増えたので東京が日帰り圏内になった地方は多い。地方に住む人も簡単に東京を訪れることができるようになったので、東京に対する憧れは以前とは変化し、「まだ見ぬ東京」から、具体的に知っていて「住みたい東京」に変化したのだろう。現実感を伴う移住先としての東京が地方に住む人の有力な選択肢となった。

 「憧れの東京」が現代でも存在するのは、新しい生活が東京で可能であるとの期待が持続しているからだ。その期待を保証するものはないが、地元や親元から離れて生活することが東京では可能であるとの期待(願望)が支えとなっている。それは、地方で暮らす(生きる)ことの魅力のなさと一体だ。つまり、東京一極集中を支えているのは地方の衰退と、住む人にとって地方の魅力が乏しいことだ。

 地方出身者が東京に集まることは、東京が地方出身者の集合であることを示す。憧れの東京は実は多くの地方出身者に支えられている。生粋の江戸っ子は少数派で、東京に住む人の多くが地方出身者であるとすれば、東京は地方の延長線上にある。地方から東京へという人々の流れが続くのは、新しい生活が待っているとの期待と幻想が根強く、また、地方という現実からの逃避の場になっているからだ。

2025年3月19日水曜日

続投はない

 米国では憲法を修正するには高いハードルがある。手順は、①連邦議会の両院の3分の2の賛成による修正の発議、②全ての州の議会の4分の3の承認-だ。「1945年以降の修正回数は6回だが、修正案の提出は合衆国憲法の制定以降11500件以上ある。 それらの多くは連邦議会における委員会段階で廃案とされ、連邦議会の発議要件を満たすものは非常に少ない。さらに、連邦議会によって発議されたものの、州議会による承認がなされていない修正案が6件ある」(国会図書館)。

 社会の分断が顕著になり、連邦議会で対立を続ける共和党も民主党も圧倒的多数を確保できていない現在の米国で、憲法の修正はほぼ不可能だ。憲法で大統領の任期は1期が4年と規定され、1951年に憲法修正22条で3選の禁止が明確化され、2期8年が定着している。2期目のトランプ氏に3期目はなく、2029年に権力の座から去らなけばならない。

 一方、プーチン氏も習近平氏氏も、それぞれ憲法を改正して最高権力者としての続投を可能にした。過酷な弾圧によって反対者や批判者を排除したり、黙らせたりして国内を「まとめた」ことで権力者として君臨して、憲法改正を支持することが忠誠の証しとすることで憲法改正を可能にした。同時に、両国における憲法の「軽さ」を世界に見せつけた。

 プーチン氏も習近平氏も政敵を排除してきた。汚職や政治的な誤りなど排除する理由には事欠かず、排除は正当化された。政敵の政治的な生命から実際の生命までプーチン氏も習近平氏も容赦なく奪ってきた。当然、政敵とされ社会的に抹殺された人々や、汚職などを名目に粛清された人々の親族はプーチン氏や習近平氏に恨みを抱くが、プーチン氏や習近平氏が君臨する社会においては沈黙せざるを得ない。

 憲法を改正してプーチン氏や習近平氏が続投したのは、最高権力者にとどまり続けなければ自身の身の安全を保つことができないからだ。プーチン氏や習近平氏の後継者が忠実な部下であればプーチン氏や習近平氏が築いた体制は維持されようが、プーチン氏や習近平氏に批判的だった人物・陣営が後継権力を握れば、プーチン氏や習近平氏の統治が検証され、プーチン氏や習近平氏にも責任追及が及びかねない。プーチン氏も習近平氏も身の安全を保つには権力にしがみつくしかない。

 トランプ氏は司法省で演説し、自身を捜査した検察官や政敵への報復を宣言し、「政府から悪党や腐敗勢力を追放し、彼らの悪質な犯罪や深刻な不正行為を暴露する」と述べたと報じられた。だが、トランプ氏に3期目はなく、いずれ民主党候補が大統領に就任すればトランプ氏の「報復」は覆され、トランプ氏に対する捜査が活発化する可能性がある。トランプ氏が今度は報復される立場になる。

 トランプ氏が多発した大統領令に米国も世界も仰天して振り回されているが、おそらく民主党候補が大統領になれば、その多くは撤回・修正されるだろう。だがトランプ氏は気にしない。憲法を改正して続投することができないと分かっているから、高齢のトランプ氏は2期目の4年間にやりたいことを全部やるしかないと決意し、議会にも頼ることができないからと大統領令や外交などで独自の施策を乱発している。

2025年3月15日土曜日

イエス像と個性

 多くのイエス・キリストの肖像画を欧州の画家は描いてきた。実在したイエスの顔を知っている人は誰もいなかったから、各自の想像力を発揮して描いたイエスは白人ばかりになった。実際には、現在の中東のアラブ人のように褐色の肌の人物だった可能性が大きいと見られているそうだが、イエス・キリスト=白人とのイメージは根強く定着している。

 肖像画に描かれたイエス・キリストは、成人男性の容貌で描かれるが、共通するのは、長髪で髭を蓄えていることぐらいだ。険しかったり穏やかだったりと目つきは様々で、正面を向いていたり横を向いていたり天を見上げていたりと顔の向きも様々、強い意志を感じさせる表情もあれば苦痛の中で祈っているような表情から平穏な表情まで画家の表現の幅は広い。

 こうした幅広さは、イエス・キリストの何を表現しようとしたかで分かれたのだろう。イエス・キリストは人間であり神の子であり救世主であるとされる。実在の人間を描く肖像画を欧州の画家たちは描いてきたので、イエスという人間を想像力で描くことに困難は小さかっただろう。だが、神の子や救世主となると、神聖さをたたえた人物を描かなければならない。

 人物を描くことは具体的に描くことであり、見たことがないイエスでも人間であるので画家は具体的に描くことができたが、神聖さを具体的に描くには神の子や救世主であることを示す何かの表現が必要となる。神聖とは抽象的な概念であり、イエスという人間の形態を借りた神の子や救世主の本当の姿もおそらく具体的なものではなく、抽象的なものだろう。

 様々な容貌や表情で描かれてきたイエス・キリストの肖像画は、画家の想像力の産物ではあるが、多彩なイエス・キリストの個性を表現した。神の子や救世主は普遍的な存在であるのだから、その表現は普遍性に向かい、抽象的にならざるを得ない。神の子や救世主には個性は必要でなく、イエス・キリストの肖像画に描かれている個性は人間としての個性である。

 神の姿は誰も知らないから、イエス・キリストの肖像画は信仰の対象となりうる絵画だった。人々は人間として描かれた救世主を崇めてきたが、イエス・キリストの肖像画に描かれた人物の個性を救世主としての個性だと混同した可能性もある。険しい目つきのキリスト像には人々を裁く神を連想し、穏やかな表情のキリスト像には親しみを感じたのかもしれない。

 イエス・キリストの肖像画が欧州で描き続けられてきたことは、キリスト教の信仰を広めつつ強固にすることに役立っただろう。普遍的存在の神は抽象的な存在でもあり、個性はなく、描くことは難しかっただろうが、イエス・キリストの肖像画の様々な個性は信仰に具体性を与えた。

2025年3月12日水曜日

大切なもの

 人生にとって最も大切なものは何か。愛することか、カネを得ることか、家庭を築くことか、何かの共同体に所属することか、出世することか、社会的に高い地位につくことか、何かの規範に則って生きることかーどれも人生にとって大切な要素だし、個人によっても様々に分かれるだろうし、人生の段階によっても変化するだろう。生き延びることが最も大切だという状況にある人もいるだろう。

 日々の生活は生きるために必要なものだが、生活そのものが生きる目的になるものではない。仕事は生活の糧を得るためのもので、仕事を自己実現の場にする人もいるが、誰もが天職だと信じる仕事に巡り合うことができるわけではない。それに、衣食住を確保し、家族と平穏に暮らす手立てが別にあるなら、仕事にこだわる人は少ないだろう。

 趣味や社会活動など何か打ち込めるものがあっても、それが人生の最も大切なものであるとは限らない。熱中するのは面白く、楽しかったり、誰かの役に立つなどの使命感は大切だが、その対象は人によってまちまちだし、そうした対象を持たない人もいる。熱中している人にとって熱中は人生に大切なものだろうが、一般化して、何かに熱中することが人生にとって最も大切だとはいえない。

 誰の人生にもカネは必要なもので、ほとんどの人はカネを欲しがっているので、カネは人生に欠かせないものだ。だが、必要なものが最も大切であるとは限らない。安楽に一生暮らすことができるカネを持っていれば、あくせくカネを稼ぐことにこだわる人は少ないだろう(10億を11億にーなどとカネを増やすことに取り憑かれる人はいそうだが)。

 愛することも人生には欠かせないもので、愛の対象は人であったり、郷土であったり、人類であったりと多彩だ。誰かを愛し愛されることで人は人生に安定などを感じたりするが、愛することと愛されることが常に同時に存在するとは限らない。無償の愛であっても、誰かや何かを愛することは人生を豊かにしてくれるだろうから、愛することは人生において大切なことだが、誰もが無償の愛を実践するわけではない。

 誰かを愛することが家庭を築き、家族を築くことにつながる。だが、家庭を築かずに生涯を終える人も増えた現在、家庭や家族が人生で最も大切だとすることは難しい。家庭や家族が大切なものであることは確かだが、家庭や家族の価値を強調しすぎると、そこから疎外される人が多すぎるとともに、価値観の押し付けは反発を誘引する。

 人生にとって最も大切なものは人それぞれで、特定の何かを普遍性を持つ最も大切なものとすることは難しい。また、人は人生で最も大切なものを必ず持つとも限らず、大切なものを見失ったり、何が大切かを考えることもしない人もいよう。愛だ、金だ、仕事だなどと多くのものが人生には大切だとする人もいる一方、日々を生き延びることで精一杯の人なら人生のことなど考える余地はないかもしれない。

2025年3月8日土曜日

神風と米軍

  トランプ大統領の米国は、従来の理念や同盟関係に縛られない新しい国際関係に移行することを始めた。米国の現実的な利害を最優先して各国との関係を判断し、再構築することにしたようだ。本音の外交とも正直な外交とも見えるが、米国が超大国からフツーの大国に転落したことの反映であろう(国内市場を各国に開放して稼がせたり、世界各地に米軍を展開させたりする余裕がなくなった)。

 米国と各国の経済関係の摩擦や緊張は珍しいことではなく、強引な解決策を米国は各国に強いてきたが、そこでは各国との交渉があった。トランプ政権の外交は実利優先のディール(取引)重視とされ、過大な要求をふっかけて圧力を加え、受け身になった相手国には譲歩に次ぐ譲歩を求め、狙った実利を米国が得るスタイルだ(米国の要求に従わない中国などには圧力を増大させる)。

 米国の自国優先への転換は、米軍の軍事力に頼る相互防衛体制の脆弱さを曝け出した。NATO諸国は米国を防衛していないとトランプ氏はNATOに対する支出を疑問視し、NATO加盟国に国防費の割合をGDPの5%に引き上げるよう要求した。EU内からは「トランプ政権はもはや同盟相手ではない」(オランド前フランス大統領)などの声が聞こえるようになった。

 自国防衛を米国に頼ることに不信を持った欧州各国は、当面は米国をNATOに引き留めることに励みつつ、中長期的に米国依存から脱却するべきだとの意見が強まったこともあり、米国に頼らない自国やEUの防衛戦略の再構築に動き始め、欧州独自の軍隊の創設も現実味を帯び始めた。NATO加盟国が侵略を受けたり、戦火が迫ったりした時に、米軍が動くかどうか確信できないなら、同盟の意味がない。

 トランプ政権の米国が中国を最大の競合国と見なす間は、在日米軍が収集する各種情報や在日米軍の軍事的抑止力などの価値は高く、日米安保条約は米国にとって重要だろう。だが、トランプ政権の米国がプーチン氏のロシアに宥和的になり、それがNATO軽視につながっているとすれば、いつか中国と関係改善した米国が、日米安保条約による日本防衛義務を負担と見なすようになるだろう。

 日米安保条約が形骸化し、日本が侵略を受けた時に米軍が頼りにならない可能性が無視できなくなれば、日本は自力主体の防衛政策に転換しなければならないだろう。その場合、軍事大国化を否定する姿勢を示すことが歴史的経緯からも必要になるので、基本方針は①専守防衛に徹する、②他国の領土・領海・領空で作戦行動を行わない、③核兵器を保有しない-だ。

 いつか神風が吹いて敵軍を壊滅させる-との期待の現代版が「きっと米軍が助けに来てくれる」か。神風も米軍も現実としてアテにならないと覚悟すれば、自力主体の防衛政策を構築する必要性が見えてくる。永遠の同盟はなく、国際関係の変化に応じて各国は手を組む相手を必要に応じて変えてきた歴史を振り返ると、20世紀に始まった同盟だけが永遠に続くはずがない。

2025年3月5日水曜日

高い投票率

 2024年の衆議院選挙の投票率は53.85%だった(戦後3番目の低さ。最も投票率が高かったのは山形県の60.82%、最も低かったのは広島県の48.4%)。1958年には76.99%と過去最高の投票率で、1946年以降は70%を挟んで上下する投票率だったが、1990年の73.31%を最後に投票率は下落傾向となり、2014年には52.66%と過去最低を記録した。

 先ごろ行われたドイツ連邦議会選挙では投票率は82.5%となり、1990年の東西ドイツ統一以降で最高となった(2021年の前回比6.1ポイント上昇。西ドイツ時代の1987年の連邦議会選挙の投票率が84.3%で最高)。ドイツ経済は低迷が続き、移民・難民による殺傷事件が続き、社会不安が高まったことで、政治状況を変える必要があると考える人々(主権者)が投票し、政権交代を実現させた。

 昨年の米国の大統領選の投票率は64.5%、英国の下院の総選挙の投票率は59.9%で前回選の67.3%から大きく低下し、過去2番目に低かった(保守党が政権を失い、労働党が圧勝することが確実視されていた)。フランスの国民議会(下院)の選挙の投票率は66.6%で前回比20ポイント以上増えた。極右とされる国民連合(RN)の政権獲得が現実味を帯び、左派連合への投票が増えた。

 日本の53.8%とドイツの82.5%、その差は28.7ポイントあり、英仏の議会選の投票率よりも日本は低い。投票率の高低は各国の人々(主権者)の政治参加の意思・意欲を反映している。つまり日本の主権者の政治参加意欲は欧米に比べて低い。政治状況は投票によって変えることができると確信できないから日本では、投票しても政治状況は変わらないと多くの主権者が選挙にソッポを向いている様相だ。

 「政治状況を変えるのは我々だ」との意識が主権者に希薄で、自民党政権があまりにも長く続いたことで政権交代に現実味を持てず、政治を自分らが動かすことができるとの「成功体験」がなかったことが影響しているだろう。ドイツでは基幹の自動車産業が揺らぎ、移民・難民の大幅増加で社会が不安定化するなどの社会状況に対する危機感が、政治を変えようとの主権者の意識を高め、投票に向かわせた。

 投票率が低ければ組織票が多い政党の優位が続く。長く政権を担ってきた自民党にとっては投票率が低いほうが組織票の影響が大きくなるので、投票率を高めることは軽視され続けた。そうした中で、自民党を支持しないが野党は頼りないということで「支持政党なし」が増えたが、投票先がないからと棄権が増え、日本で投票率は50%台で推移している。

 「支持政党なし」の人々が選挙に参加し、投票すれば日本の投票率は高くなる。だが、どのような状況になれば彼らが投票に参加するのか不明だ。ドイツのように基幹産業が揺らいで経済低迷が深刻化した時か、フランスのように極右政党の政権獲得が現実化した時か、米国のように扇動政治家に希望を託すしかなくなった時か、それとも彼らは動かないままなのか-状況を変えようという意思に目覚めたなら彼らは投票に向かうだろうが、状況を変えることはできないと思い込んでいるなら彼らは動かない。

2025年3月1日土曜日

大量の移民

 マイケル・チミノ監督の「天国の門」に、列をなして進む移民に向かって、馬に乗った先住の男らが「戻れ」「引き返せ」「ここにお前らの土地はない」などと呼びかけるが、疲れ切った様子の移民はそのまま歩みを進めるシーンがあった。この映画は、牧場主らが移民などの入植者を排除しようとしたジョンソン郡戦争にヒントを得て構想されたという。

 先に移住した人々が後から移住してくる人々を迷惑がり、規制するが、国境を抜けて移住してくる人々は一向に減らず、排除しようという動きが現在でも米国では顕著になっている。欧州諸国でも、政治的な混乱が長引く中東諸国やアフリカ諸国から難民・移民が陸路や地中海経由などで殺到する動きが続き、難民・移民の流入規制を掲げる政党への支持が各国で増えている。

 米国ではメキシコ国境からの不法入国者は年間200万人を超えるようになり、バイデン政権の4年間では700万人とも800万人ともされる。南部諸州から移民をバスで送り込まれたニューヨーク市ではシェルターに収容しきれず、路上生活を余儀なくされた移民の状況が報じられた。移民が建国した米国で、不法移民の急増に人々が不満を持って、受け入れか規制かで社会の分断を招いているのは皮肉な光景だ。

 欧州では、ドイツが2015年に100万人以上を受け入れ、その後も難民審査の申請者は年間20万人以上といわれ、現政権は不法移民の流入制限や送還などを強化せざるを得なくなった。送還対象の約30万人がドイツに在留しているとされ、かなりの不法残留者もいると推測されている。旧植民地からの移民を受け入れてきたフランスでは、60歳以下の人口の約3割が移民を起源としているという。

 イタリアには地中海を渡って10万〜20万人の難民・移民が押し寄せ続けており、海上で死亡したり行方不明になる人も多いという。イギリスではドーバー海峡を渡って難民申請をしようとする人が年間3万人以上に達し、難民認定を待っている人は10万人を超えるとされる。2023年にEU域内で難民申請者は100万人を突破した。

 貧しく政治的混乱が続く国々から、豊かで人権が保障される先進国に人々が移動するのは理解できる行動だ。スマホの普及などで先進国の状況が、貧しく政治的混乱が続く国々の人々に知られるようになり、難民・移民の送り出しがビジネス化したこともあって、国境に関係なく人々が移動する。一方、受け入れ国で難民・移民は文化摩擦や社会的混乱、経済的負担などをもたらし、時には犯罪の当事者が移民・難民だったりして、受け入れ国の人々に不安感や忌避感が高まり社会に緊張をもたらす。

 欧米における難民・移民の大量流入は、日本では現実感を持って受け止められてはいない気配だ。1千人/年を超えるボートピープルの到着に大騒ぎした日本で、年間に数十万人、あるいは百万人を超す難民・移民が押し寄せる状況になったなら、大混乱となり、難民・移民の流入規制を掲げる政党が現れ、支持を拡大するだろう。難民・移民を受け入れるべきだと強く主張するメディアも政党もないのだから、一気に「反難民・移民」に傾く。