2015年2月28日土曜日
ヤジについての考察
ヤジるとは「他人の動作や発言などに、からかいや批判の言葉を浴びせる」ことと辞書にある。似たような言葉にチャチャ(茶々)があるが、こちらは「じゃま。妨害。他人の話の途中で、横から入れるひやかし気味の冗談」のこと。ヤジは「とばす」ものだが、チャチャは「入れる」ものとされる。
どちらの言葉も話者の話を遮ることが目的ではなく、聞き手側からの批判やからかいの表明なのだが、あまりにも絶妙すぎるヤジは話者を絶句させたりすることもある。ヤジをとばすタイミングは、話者が息を吸う時が狙い目だそうで、話者に一瞬「何だ?」と考えさせるような内容の言葉が効果的だという。ただ、批判したり罵倒すればいいというものではないのだな。
「とばす」と「入れる」の違いは、話者と聞き手の距離感の違いを表している。互いの距離が近い会話の中で入れるのがチャチャであり、離れている話者に向って放たれるのがヤジである。とはいえ、離れすぎて話者に届かない言葉はヤジではない。だから、テレビ画面に映る政治家にお茶の間で、どんなにヤジをとばそうが、それは独り言でしかない。
からかいや批判の他にヤジに悪意が込められることもある。例えば球場で、打席に向う選手に「チャンスだ。打てよ〜」「頼むぞ〜」などの声援がとぶが、見逃し三振だったりすると手荒な言葉が投げつけられたりする。期待が裏切られた反動だが、話者に期待していない聞き手が乱暴なヤジを飛ばすことも政治の場などでは珍しくない。聞き手が内に秘めた悪意がにじみ出ていることもある。
ヤジに悪意が込められていると話者が感じた場合、ヤジは演説妨害や議事妨害、誹謗中傷であると見なされたりする。与党も野党も互いに相手に対して同様のヤジをとばしあっているのだから、ヤジの“悪質さ”においては同類だろうが、自分がヤジに悪意を込めたことを知っているから、相手のヤジを聞き流すことができなくなる。
一方で、ヤジは社会のある程度の健全さを示すものでもある。言いたいことを言いたい時に言うことができるという健全さであり、言わなくてもいいことを言わなくてもいい時に言ってしまう勘違いを許容する健全さでもある。つまり個人の人格、見識、識見などがヤジにも表れるから、ヤジは自己責任でとばすしかない。
独裁者がいる社会では、演説している独裁者にヤジをとばす人はいない。生命に関わることにもなるから。人々は独裁者の演説を黙って聞き、拍手を送るしかない。それに比べると、お粗末なヤジではあっても、ヤジがないよりはマシか。とはいえ、話者が絶句するような気が利いたヤジをタマには聞いてみたいものだ。話者を含めて皆が笑い飛ばせるようなヤジなら、なお結構だ。
2015年2月25日水曜日
絡めとられる
地中海というと、スペインやイタリア、フランス南部などに多くのリゾート地があり「欧州の海」というイメージが強いが、それは地中海に関して欧州発の情報量が多いためだろう。地中海の東側にはアラブ世界があり、地中海の南側にはアフリカがあり、西側では大西洋につながり、東側では黒海につながる。地中海は重要な交易路である。
この地中海が今、アフリカ大陸やアラブ世界から欧州へ向かう移民・難民の移動ルートになっている。リビアなど破綻した国家が増え、シリアなど内戦状態の国も増えたため、逃げて来た多くの人々が海を渡る。ボートに乗ったり、老朽化した貨物船にすし詰めになったりして欧州へたどり着こうとするが、途中で行方不明になる人も多いという。
政治的に安定した国に住み、経済的にも困窮していないなら、外国に移り住もうとする人は少ないだろう。だが、治安を維持できないほど政府が弱体化する一方、武装勢力が活発に活動し、経済活動が停止したような国ならば、逃げ出す人が続出するのは自然だ。とはいえ、国家の枠から勝手に抜け出る人間は歓迎されない。
周辺国の難民キャンプなどに止まっているかぎり、国際社会の支援や同情の対象となるが、ひとたび“自由意思”で欧州などを目指して動き出した人は、受入国側からの管理や規制の対象となる。国家の枠から抜け出した人間も、別の国家に絡めとられるのであり、破綻した国家から逃げ出した人が目にするのは、国家の“壁”が立ちはだかる世界だ。
人は国家に縛られつつ、国家から保護も受けているが、一方的な隷属関係ではない。ある国家が衰弱したり、破綻して人々を保護することができなくなった時に、人々がその国家を見限ることは当然だ。だが、人々が新たな国家を形成することができず、内戦状態になって、ただ逃げ出すしかないのなら、国家の破綻のツケを、そこに住む人々が払わされていることになる。
人々が主権者であるなら、逃げ出さざるを得ないような破綻国家にしない責任がある。が、アラブやアフリカで噴出しているのは、主権者意識などを形成する歴史的な経緯が欠けたまま形成された国家に、人々が持つ帰属意識は弱いということだ。
言い換えれば、欧米諸国が勝手に引いた植民地の線引きを、そのまま国境として独立した国家が崩壊した時に、そうした国家を人々は簡単に見捨てる。そもそもの国家形成に必然性も正当性もなく、独立後に強圧的な統治の国家が多かったことも、簡単に見捨てられる要因なのかもしれない。
アフリカやアラブの破綻した国家を脱出して人々が欧州に向かうのが、欧州が過去の植民地支配のツケを払わされていると見えるのは、歴史の皮肉か。欧州は過去に植民地支配した地域で影響力を保ち続けているのだから、そうした地域での破綻国家に応分の責任があろう。欧州はアフリカやアラブの旧植民地からの難民を受け入れざるを得まい。
2015年2月21日土曜日
老人という呼び方
多くの人はいつか、老人(高齢者)としか呼ばれなくなる。仕事をしていた頃は個人名以外に、社長とか部長、店長、オーナー、助役などとポジション絡みや、医者、警官、花屋、作家、漁師など職業絡みの呼び名があったが、“現役”を退いて自宅で暮らすことが主になり、交際範囲も縮小すると、仕事絡みの呼び方で呼ばれることは少なくなる。
そうなっても近所などの顔見知りならば個人名で呼んでくれるだろうが、見ず知らずの他人からは老人としか見られなくなる。他人に「俺は社長だった」などと言っても、まともに取り合ってもらえるかどうかは分からない。社会的にいつまでも個人名で呼ばれるのは、現役時代に名を残した限られた人だけだろう。
現役の頃でも、見ず知らずの人からは仕事絡みの呼び方はされないが、何かの仕事をしているものと見られるのが一般的だろうから、老人と一括りにした呼ばれ方は、その人が社会的にはもう老人としてしか存在していないことの反映なのかもしれない。それは、子供が子供としか呼ばれないことと同様か。
しかし、子供が子供として社会的に愛されるのと同様に、老人が老人として愛されるかといえば、微妙なニュアンスが漂う。愛されないということではないが、社会的に老人と一括りされるときには、生産力としての期待は含まれていないだろう。生産力ではなく個人は個人として尊重されるべきだが、仕事絡みの呼び方をされなくなってから、急に個人を主張し始めても、社会が認めるかどうかは不明だ。だから老人と一括りにされるのかもしれない。
こんなことを考えたのは、マスコミ報道に溢れる高齢者(老人)などという言葉を見るたびに、個人ではなく高齢者として一括りに扱われている印象を受けるからだ。問題を一般化して捉える時には、対象も一般化する必要があるので、高齢者と一括りにするのはやむを得ない面もあるが、一人ひとりの人生がこぼれ落ちていくようで残念な気がする。
認知症などによる徘徊で行方不明になった人が全国で9607人(2012年。警察へ届け出た人数)、うち約200人が行方不明のままだという。認知症の高齢者は462万人(2012年)で高齢者の15%だったが、高齢化が進むにつれて認知症の高齢者は増えると予測されている。認知症の高齢者には一人ひとりに名前があり、人生がある。現役の頃には、どんな呼ばれ方をしていた人なのかと気になってしまう。
2015年2月18日水曜日
操作できる平均気温
東京での気象観測地点が昨年12月2日に、大手町の気象庁庁舎から北の丸公園に移された。この移転に伴い気温などの平年値も変更され、年間の最低気温は従来より1.4度低くなり、年間の平均気温は16.3度から15.4度に下がる。夏より秋や冬の方が差が大きく、夏は熱帯夜が減り、冬は冬日が増えるという。
温暖化により数十年後には、平均気温が1度上がるとか2度上がるとか大騒ぎするマスコミが、この平均気温の低下には冷静だった。過去30年の気象データにより気象庁は平年値を定めているが、今回の気象観測地点の移転に伴って、北の丸公園での2年間の観測データをもとに平均気温を変更した。
大手町の気象庁庁舎はアスファルトの道路やビル群に囲まれていたが、森林公園として整備された北の丸公園には芝生や池があり、樹木が茂る。車も人出も多く、多数のエアコンからの排熱が多いビル街から、周囲の自然が豊かな公園に入って日陰で休むと、多くの人は涼しく感じよう。観測データとしての気温が低くなるのは当然かもしれない。
気温は測定場所の環境に影響されるが、世界各地で測定されている気温観測の環境に、一定の基準のようなものがあるのだろうか。都市化によるヒートアイランド現象は世界でも進んでおり、世界の気象観測地点の多くが都市部に偏在していて、ヒートアイランド現象の影響を受けているとすれば、温暖化を示す観測データが多く出るだろう。
米の海洋大気局(NOAA)などが、2014年の世界の平均気温は、記録が残る1880年以来最も高かったと発表した。多くの人は、公共機関の発表なので温暖化は観測データにより裏付けられていると信じるだろう。しかし、これらの発表には仕掛けがあると英国のテレグラフ紙が報じた。
NOAAの気温データベースの観測地点は、以前は1万2千地点ほどあったが、1990年ごろを境に6千地点以下に半減し、残った観測地点の多くは都市だという。さらに、観測地点の変更に伴うデータの調整において、都市部のデータの比重が増したことを受けて気温を高めに調整したともいうので、気温上昇を示す「データ」ばかりが発表されることになる。
地球の平均気温は上がっているとされるが、その気温データの観測が世界各地で、どんな場所で、どんな環境の中で行われているのか、検証が必要だな。数字は現象を客観的に示すデータと受け止めがちだが、数字が、実はどうにでも操作可能であったり、様々な解釈ができたりすることは珍しいことではない。
2015年2月14日土曜日
街歩き番組
住んでいる街でも、通ったことがない道はあり、そんなところに紛れ込んだりすると、初めて見る風景が新鮮だったりする。いつも歩いている道でも、こんな店があったのかと路地に看板を発見して少し驚いたりする。何があるか見てやろうと歩くと、知っていたはずの街にも新しい発見は尽きないかもしれない。街歩きの魅力の一つは、そういう発見だろう。
街歩きや散歩といっても、タレントが歩くと番組になる……ということでタレントが都内はもとより、全国各地の観光地や街を歩く番組はすっかりテレビの定番となっている。そうした番組では地元の人々との出会いが番組に膨らみを与えるので、地元の人々の個性をうまく引き出せるかがタレントの腕の見せ所だったりする。
街歩き番組には、東京の下町の商店街を数人のタレントが食べ歩きするだけという、テレビ局は本当に予算が厳しくなったから経費をかけずに短時間で仕上げたんだろうなあと感じさせるものもあれば、海外に行って街歩きする番組もある。もっとも海外に行くのはスタッフだけで、タレントはナレーターを務めるだけというものも珍しくないが。
旅番組なら、旅先の紹介に重点が置かれ、名所や名店などを取り上げることが欠かせないから、事前の下調べを綿密に行う必要があるだろう。街歩き番組でも下調べは行っているだろうが、ゆるい雰囲気の街歩き番組は多く、人々との出会いやハプニングを想定して、下調べはほどほどで止めている気配があったりする。だから、手際のいい展開になったりすると、ここは台本どおりかと見えてくる。
街歩き番組の魅力は、人々の日常にテレビカメラやタレントが入ってくるところにある。見知っていたはずの街の風景や商店街、飲食店などや人々がテレビカメラを通すことで印象が違って見えたりし、その街を離れた人ならば懐かしさが募るかもしれない。街歩き番組は情報番組でもある。そこで提供されるのは、こんな人がいた、こんな店があった、こんなものを売っていたなどという人々の日常を構成する情報だ。
スタジオでタレントがはしゃぐだけのトーク番組よりも街歩き番組は作りもの感が希薄で、ヤラセといえば、飲食店で食べたタレントが「美味しい」「旨い」「柔らかい」としか言わないことぐらいか。ほどほどのドキュメンタリー性を持った街歩き番組は、ある種の健全性を維持している。
テレビカメラがスタジオから街に出て行くのはいいことだ。タレントと街を散歩するだけではなく、カメラが街ネタを追ったり、地方版のニュースを掘り下げたりしても興味深い番組ができそうだ。ただし、報道のスタンスではなく、軽く面白がる精神でつくること。でも下調べが必要になるので、街歩き番組のように「手軽」には制作できないかもしれないな。
2015年2月11日水曜日
怒りの表出
フランスではテロリズムで17人が殺されたことに対して、多くの人がデモに参加したり、風刺雑誌の最新号を買うことなどで、テロリズムに対する怒りを表現した。人命を奪ったテロリズムが、フランス社会が尊重する理念をも脅かしたと解釈し、特に「表現の自由」を擁護する姿勢を示して、テロリズムに対する抵抗を示してみせた。
ヨルダンでは、空爆に参加したパイロットが捕えられて処刑されたことに対し、抗議する集会が催され、人々は怒りと悲しみを露にしたと報じられた。死刑囚との交換でパイロット解放の可能性が取沙汰されていたからか抗議デモも発生、政府批判の声も出たといい、政府はすぐに死刑囚の刑を執行し、空爆も行うなど報復に動いた。
日本人人質の殺害は日本に大きなショックを与え、残虐な行為に対する怒りを人々は共有したのだろうが、抗議する集会やデモが開かれたとの報道はない。ネット上では犠牲者を悼むメッセージが溢れたが、デモなどの行動で意思表示することはなかった。一方、永田町周辺では責任の追及合戦が始まり、国際的な事件が見事に“内輪”の言い合いに転じた。
日本人人質の殺害に対する怒りがデモや集会などで表現されれば、分かりやすい映像で国際的にもアピールできたかもしれない。だが、同情は高まり、残忍な殺害に対する嫌悪が広がったようだが、怒りの表現には抑制的であった。一方では、殺された人を自己責任論を持ち出して批判する連中も出るほどの冷酷さも見せた。
日本でテロリズムに対する怒りが他の国に比べて「穏やか」な印象なのは、今回の人質の死が個別の事案と受け止められているからだろう。日本人を“代表”して人質が殺害されたのでもなく、日本社会の基本的な価値観が脅かされたのでもなく、はるばる出掛けた先で“悪い連中”に捕まった個人の不運だと見なされているかのようだ。
人質の家族などの抑制的な対応がマスコミで大きく伝えられたことも影響し、怒りなど感情的な反応を鎮める作用を及ぼしたのかもしれない。だが、怒りを示すべき時はある。怒りを示すべき時に怒りを示さなければ、弱さの現れと受け止められることもある。さらには、わざと怒ってみせるのも相手を牽制したり、時には存在感を高める有効手段となったりする。
「日本人よ、怒れ」と煽っているのではない。日本人が冷静でいることは、情緒的になりすぎたり、感情的に反応しすぎるよりはマシだろう。だが、冷静でいたから怒りを示さなかったのか、人質の死を他人のことと冷淡だったから怒りを示さなかったのか……その違いは大きい。
2015年2月7日土曜日
鼻血と健康
だいぶ以前のことだが、職場で鼻血が出て、洗面所に行き濡らしたタオルで鼻を冷やしていたことがある。そこで、通りかかった人から「大人の鼻血は何かあるかもしれないから、病院へ行ったほうがいい」とアドバイスされた。不安に思ったが、体調に変わったところもなく、どこかが痛むこともなかったので、そのままにした。幸いにもその後、体調に異常はなく、多めの鼻血が出ることもなかった。
鼻血にも、強く鼻をかんだ時にティッシュに血がにじむようなケースから、一滴が垂れて来たり、さらには鼻からの大量出血までと様々な状態がある。大量出血の場合は、すぐに病院へ行ったほうがよさそうだが、強く鼻をかんだり、冬場の乾燥している時などに鼻をかんだティッシュに血がにじむケースなら、そう珍しくもない。つい鼻をほじくって粘膜を傷つけることもあったりする。
「大人の鼻血は何かある」というのは、何かの病気によって鼻血が出やすくなることがあるから注意すべきということ。例えば、白血病や血友病、高血圧、脳梗塞や脳出血、鼻の中の悪性腫瘍などが関わっている場合があり、何もしないのに鼻血が出て来たり、鼻血を繰り返すようなら、病院へ行って診察を受け、早期発見に務めることが大切だ。
腎臓病や肝臓病の人も鼻血を出しやすく、鼻血が腎炎や肝硬変などのサインとして現れるとか。鼻の奥の動脈から大量出血した場合は、すぐに病院に行って専門医の処置を受けるしかない。さらに、頭部を強打した時に頭蓋骨の底部が骨折して鼻血が出ることがあり、これは生命に関わるので、すぐに脳神経外科に運ぶこと。
糖尿病でも血管がモロくなり、鼻血が出やすいという。また、アレルギー性鼻炎や副鼻腔炎(蓄膿症)、花粉症などでも、鼻の中の粘膜が炎症を起こし、傷つきやすくなるとか。スギ花粉症の患者は増え、3000万人以上ともされるので、鼻づまりに悩んで鼻をかみすぎて粘膜を傷つけている人もけっこう、いそうだ。
鼻の中の粘膜にある血管は細く切れやすいので、鼻血は珍しいものではないが、たらりと鼻から血が垂れて来た時などにはギョッとするものだ。一説には鼻血の9割が粘膜の毛細血管からの出血というので、いちいち大騒ぎすることはなさそうだが、中には体の異変の徴候を示す場合もある。突然の鼻血に不安が募ったり、鼻血が繰り返して不安な時は、病院に行って診察を受けたほうがいい。
2015年2月4日水曜日
テロリズムの定義
ある暴力行為が、犯罪行為なのか、政治的または宗教的な目的を達成するための行為なのか、圧政などに対する抵抗運動なのか、紛らわしいことがある。非正規軍による軍事行動の一環だと主張されることもある。判断するためには、その暴力行為を行った意図を分析する必要があるが、暴力行為を憎むあまり、情緒的な解釈が先行することは珍しくない。
暴力を向けられる対象が、国家であったり政府関係者らであったりする場合は、時にはテロリズムとされ、時には抵抗運動とされる。対象が市民である暴力行為は、多くが犯罪行為だろうが、時にはテロリズムとされる。テロリズムは、もともと権力による暴力であり、それへの対抗手段でもあったのだが、いつしか市民を対象に恐怖を煽るものとなった。
暴力団員や反グレなどの暴力行為は、市民に向けられたとしてもテロリズムとは見なされず、犯罪行為とされる。外国での大規模な麻薬組織による市民への暴力もテロとは見なされない。経済的利益を目的とする暴力行為は一般に犯罪行為とされ、テロリズムとは見なされない。ただし、テロリズムが経済的利益をも目的とする場合もある。
暴力団やイデオロギー集団なら「堅気の衆には迷惑はかけない」とか「人民には迷惑をかけない」など市民を暴力の対象にしない建前があったかもしれないが、現在のテロリズムは市民を狙う。暴力によって社会に恐怖を掻き立て、国家に何かを強要しようとしたりすることが目的だからだ。
だから、国家は「テロリズムには屈しない」と言って強硬になる。米国政府は「テロリズムとは、民間人を脅迫・威圧して政府の行動等へ影響を与えること」と定義するので、ある暴力行為をテロリズムと決めつけたなら、同時にそれは国家権力の障害物と見なされ、交渉における妥協の道は閉ざされる。テロに屈しないと言った時点で、その先は暴力の応酬になる。
テロリズムという暴力行為には目的がある。その目的は、手段である暴力行為を正当化するために、飾り立てられ、時には絶対化されたりする。目的があって手段が導き出されたのではなく、手段を正当化するために崇高な目的を掲げることもある。目的が手段を正当化するという考え方は、自己正当化にしばしば利用される。
テロリズムによる暴力行為は、犯罪行為や軍事行為と重複することもあるので、ある暴力行為をテロリズムとすることも、犯罪行為とすることもできる。立場により判断が分かれることは珍しくない。ある国では愛国者とされる人物が、他国ではテロリストと見なされることは珍しくない。国家の利害が絡んだりもするので、国際的なテロリズムの定義は難しい。
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