ジャンボ宝くじの発売日に東京・銀座の販売所に大行列ができ、マスコミがこぞって報じるというのは定番のニュースだ。どこで買っても当たる確率は同じはずだが、全国各地に人々が押し掛ける売り場が存在する。その売り場で買ったということで、当たる確率が上がったと信じたいのだろう。
当たる確率を上げるため神仏などに祈願し、買った後も宝くじを神棚に祀ったり、日光に当てたり、招き猫など開運グッズと一緒にしたりと様々な「努力」をする人もいるそうだ。そうした行為が当たる確率に影響を及ぼすことはないが、当たるかもしれないという期待を上向かせる効果はある。
宝くじの当たる確率を、買う側が高めることはできないと誰もが理解しているはずなのに、当たるという期待を少しでも高めようとする人々。無駄な行為だと知りながら、いや無駄な行為だと知っているから、自分が何かの「努力」をすれば報われ、当たる確率が上がると信じたいのかもしれない。
こうした心理は目新しいものではない。例えば、キリスト教の神は最後の審判で、救済される人間と救済されない人間に分け、その判別は既に決定しているが、人間は知ることができないという考えがある。神は超越した絶対的な存在であり、人間は神の決定には関与できないので、救済を願っても人間には何の手がかりもないということになる。
それでも絶対的な神を信じる人は、自分が救済されるとの期待を持ち続け、その確信を少しでも強めるために、現世で神に与えられたはずの務めに励むしかない。そう生きても救済されるかどうかは判らないのだが、期待を持ち続けるためには、救済されるに値する生き方を自分に課すしかない。
「どうせ当たるはずがない」と宝くじなら買わないという選択があるが、当たる確率はゼロになる。これは、どうせ救済されないと好き勝手に生きることと同じに見えるが、神の決定を人は知ることができないので、救済される可能性はないとはいえず、確率はゼロではない。
当たる確率が極端に低いのに宝くじを買い、救済されないかもしれないのに絶対的な神を信じる人々。自分が決定に関与できないからこそ、何らかの「努力」を為すことにより期待を高め、また、救済されるにふさわしいとの確信を維持するしかない。そうした行為が人生に彩りを与えたり、前向きの気持ちにさせる面もあることは確かだから、当たらない宝くじを人は買い続けるのだろう。
2016年12月31日土曜日
2016年12月28日水曜日
現実と過去に突き崩される理念
独ベルリンで、人々で賑わうクリスマス市に大型の40トントラックが突っ込み、12人が死亡する惨劇となった。トラックはポーランドの運送会社のものだったが、運転手は殺されてトラックが乗っ取られ、無差別テロに用いられた。仏でも7月にニースで花火の見物をしていた人々にトラックが突っ込み、84人が死亡した。
一度は23歳のパキスタン難民が容疑者として拘束されたが、アリバイがあったというので釈放になり、次に24歳のチュニジア人のアニス・アムリ容疑者が指名手配された。トラックの車内で指紋や身分証明書が見つかったという。物証があったのに、先に23歳のパキスタン難民を容疑者としたため、手配が遅れた。
このアムリ容疑者は複数の名前を持ち、独国内を自由に動いていたという。強盗を計画している疑いがある過激派関与者として治安当局の監視対象になったが、証拠が得られず監視を外されたそうで、惨事を防ぐチャンスがあったのに治安当局は逃した格好だ。難民の大量入国で独では監視対象者が大幅に増え、その全員を常に監視できなくなっているという。
アムリ容疑者はチュニジアで強盗で有罪、難民として入国したイタリアで放火などで有罪となり服役した後に、15年にドイツに入国して難民申請した。申請は却下されたが、強制送還は見送られて独に滞在していた。独でも一度逮捕されたことがあるが、チュニジアから書類が届かず釈放されたそうで、難民にまぎれて身元を隠す犯罪常習者が放置されている現実を示している。
事件から4日後にアムリ容疑者はイタリア北部ミラノで、職務質問した警官に発砲して銃撃戦になり、射殺された。事件後にフランスを経由してイタリアに来ていたと見られ、EU内に存在するという過激派のネットワークの支援を得ていたのか、単独逃避だったのかは不明だ。
パスポートなどを所持する難民は多くはないだろうから、受け入れ側が身元確認をするのは簡単ではなかろう。犯罪常習者などが紛れ込むのは容易だろうし、難民申請してEUに滞在を認められれば、国境を越えて自由に動いて行方をくらませることもできる。難民保護政策もシェンゲン協定も悪意ある者に対して脆弱だ。
戦乱の国から逃れ困窮する難民に、安全と新しい生活を提供して社会の一員として受け入れるというのは素晴しい理念だ。だが、欧州諸国が植民地支配した地域で国家の破綻が相次ぎ、大量の難民が欧州を目指している現実は、過去の清算を欧州が求められているかのように見えなくもない。欧州の掲げる理念が、欧州の現実と過去に突き崩されたとすれば皮肉だ。
一度は23歳のパキスタン難民が容疑者として拘束されたが、アリバイがあったというので釈放になり、次に24歳のチュニジア人のアニス・アムリ容疑者が指名手配された。トラックの車内で指紋や身分証明書が見つかったという。物証があったのに、先に23歳のパキスタン難民を容疑者としたため、手配が遅れた。
このアムリ容疑者は複数の名前を持ち、独国内を自由に動いていたという。強盗を計画している疑いがある過激派関与者として治安当局の監視対象になったが、証拠が得られず監視を外されたそうで、惨事を防ぐチャンスがあったのに治安当局は逃した格好だ。難民の大量入国で独では監視対象者が大幅に増え、その全員を常に監視できなくなっているという。
アムリ容疑者はチュニジアで強盗で有罪、難民として入国したイタリアで放火などで有罪となり服役した後に、15年にドイツに入国して難民申請した。申請は却下されたが、強制送還は見送られて独に滞在していた。独でも一度逮捕されたことがあるが、チュニジアから書類が届かず釈放されたそうで、難民にまぎれて身元を隠す犯罪常習者が放置されている現実を示している。
事件から4日後にアムリ容疑者はイタリア北部ミラノで、職務質問した警官に発砲して銃撃戦になり、射殺された。事件後にフランスを経由してイタリアに来ていたと見られ、EU内に存在するという過激派のネットワークの支援を得ていたのか、単独逃避だったのかは不明だ。
パスポートなどを所持する難民は多くはないだろうから、受け入れ側が身元確認をするのは簡単ではなかろう。犯罪常習者などが紛れ込むのは容易だろうし、難民申請してEUに滞在を認められれば、国境を越えて自由に動いて行方をくらませることもできる。難民保護政策もシェンゲン協定も悪意ある者に対して脆弱だ。
戦乱の国から逃れ困窮する難民に、安全と新しい生活を提供して社会の一員として受け入れるというのは素晴しい理念だ。だが、欧州諸国が植民地支配した地域で国家の破綻が相次ぎ、大量の難民が欧州を目指している現実は、過去の清算を欧州が求められているかのように見えなくもない。欧州の掲げる理念が、欧州の現実と過去に突き崩されたとすれば皮肉だ。
2016年12月24日土曜日
独裁の中国と民主主義の中国
米トランプ次期大統領が「どうして『一つの中国』政策に縛られなきゃならないのか」などと述べたことが波紋を広げている。中国は、台湾における中国の核心的利益に関わると懸念を示したが、トランプ政権の正式発足前とあってか抑制した反応にとどめている。
中国は核心的利益と決めた対象について、対外的には強硬で非妥協的な姿勢になる。台湾は中国が最優先する核心的利益であろうから、台湾を独立国家と見なす動きがあれば国際的にも封じ込めようとするが、外交的な恫喝が通じない米国に対して中国には有効な抑止策はない。
だから米国は、中国のいう核心的利益を中国相手の交渉材料に使うことができる。軍事的にも経済的にも中国を上回る米国に対して、中国は米国の反応を試しつつ、小出しに緊張感を高めても関係を絶つことはできないので、言葉で激しく批判するぐらいが限度か。激しく批判されても米国なら激しく批判し返すだろう。
「一つの中国」の主張は、二つの中国が存在することから生じた。どちらが中国を代表するのかを中華人民共和国と中華民国が争い、東西ドイツのように分裂国家として国際社会で共存することを双方とも是としなかった。
分断国家には2種類あり、既存国家の内部に複数の政府ができて分裂するケースと、国家形成を目指して複数の政治主体が争う中で分割支配となるケース。ドイツは前者、中国は後者で、国共内戦の延長として、どちらが中国を代表するかを争っている。
「一つの中国」とはまず台湾だった。国際的にも中華民国が大陸を含めて中国を代表すると認められていたが、大陸は中国共産党が支配し、その国家形成が進むにつれて国際的にも形勢は逆転、中華人民共和国の国連加盟とともに中華民国は国連を脱退し、「一つの中国」は大陸中国側を意味するものに変化した。
現在、「一つの中国」を支持するとは中華人民共和国を支持することであり、中国共産党の独裁統治を支持することにもなる。民主主義に基づく国家を中国人も構築できることを中華民国は示しており、大陸の中国共産党は独裁を正当化するために中華民国を否定しなければならない。そのため「一つの中国」とは大陸中国だと国際的に認められることが必要なのだが、民主主義が機能する“もう一つ”の中国を排除することで国際社会が失うものは大きい。
中国は核心的利益と決めた対象について、対外的には強硬で非妥協的な姿勢になる。台湾は中国が最優先する核心的利益であろうから、台湾を独立国家と見なす動きがあれば国際的にも封じ込めようとするが、外交的な恫喝が通じない米国に対して中国には有効な抑止策はない。
だから米国は、中国のいう核心的利益を中国相手の交渉材料に使うことができる。軍事的にも経済的にも中国を上回る米国に対して、中国は米国の反応を試しつつ、小出しに緊張感を高めても関係を絶つことはできないので、言葉で激しく批判するぐらいが限度か。激しく批判されても米国なら激しく批判し返すだろう。
「一つの中国」の主張は、二つの中国が存在することから生じた。どちらが中国を代表するのかを中華人民共和国と中華民国が争い、東西ドイツのように分裂国家として国際社会で共存することを双方とも是としなかった。
分断国家には2種類あり、既存国家の内部に複数の政府ができて分裂するケースと、国家形成を目指して複数の政治主体が争う中で分割支配となるケース。ドイツは前者、中国は後者で、国共内戦の延長として、どちらが中国を代表するかを争っている。
「一つの中国」とはまず台湾だった。国際的にも中華民国が大陸を含めて中国を代表すると認められていたが、大陸は中国共産党が支配し、その国家形成が進むにつれて国際的にも形勢は逆転、中華人民共和国の国連加盟とともに中華民国は国連を脱退し、「一つの中国」は大陸中国側を意味するものに変化した。
現在、「一つの中国」を支持するとは中華人民共和国を支持することであり、中国共産党の独裁統治を支持することにもなる。民主主義に基づく国家を中国人も構築できることを中華民国は示しており、大陸の中国共産党は独裁を正当化するために中華民国を否定しなければならない。そのため「一つの中国」とは大陸中国だと国際的に認められることが必要なのだが、民主主義が機能する“もう一つ”の中国を排除することで国際社会が失うものは大きい。
2016年12月21日水曜日
共同経済活動
北方4島や竹島、尖閣諸島で日本の領有権が脅かされているが、状況は異なる。尖閣諸島は日本が実効支配していて、中国が定期的に艦船を「パトロール」させるようになったものの、中国人が上陸して経済活動を行うことは防いでいる。北方4島はロシアが、竹島は韓国がそれぞれ実効支配し、日本人が上陸して経済活動をすることを阻んでいる。
仮に、中国の要求に応じて日本が、中国政府と尖閣諸島における共同経済活動について協議を開始すると決めたなら、それは日本にとっては大幅な譲歩となる。それまで中国人や中国企業が上陸できなかった尖閣諸島で経済活動ができるようになれば、中国側にとっては大きな前進だろう。中国なら、多額の経済協力プランと引き換えでも尖閣諸島へのアクセスを実現できれば大喜びするかもしれない。
仮に、日本の要求に応じて韓国が、日本政府と竹島における共同経済活動について協議を開始すると決めたなら、それは韓国にとっては大幅な譲歩となる。それまで日本人や日本企業が上陸できなかった竹島で経済活動できるようになれば、日本側にとっては大きな前進だろう。
尖閣諸島や竹島に設定を変えてみると、日露で今回合意した内容は日本側にとって一歩前進であることが見えて来る。法的基盤など枠組みを巡って難題が残っているため、実際に共同経済活動が動き始めるのか不透明だが、ロシアが協議に応じ、平和条約締結に向けての交渉にも前向きであるのだから、機会を逃す必要はなかろう。
北方4島を実効支配し、日本との協議に応じる義務はなかったロシアを、協議に引っ張り出したのだから日本にとっては得点であり、失点はない。日本が実効支配している尖閣諸島に中国を呼び込んだのなら、それは日本の実効支配を揺さぶる行為となり、竹島に日本を呼び込むことは韓国の実効支配を揺さぶることになる。北方4島に日本を呼びこむことに同意したことで、ロシアの実効支配は万全ではなくなった。
今回の日露首脳会談で、歯舞、色丹の返還さえ明確にできなかったことで日本国内では失望の気配が漂い、経済協力などを先行させることでロシアに「食い逃げ」されると危惧する声も出ている。今回の日露首脳会談を「ゴール」と見るなら日本が得たものはないだろうが、「スタート」と見るなら、日本が失ったものはなく、これから得るものがあるかもしれないと見えて来る。
外交に関してはタフなロシア相手に日本はこれから、主張を曲げず、かつ柔軟に交渉していく手腕の見せ所となる(あまり期待しないほうがいい?)。冷戦終了後は米に従うだけだった日本外交が、ロシア相手に局面を動かすことができたなら、独自外交の大きな一歩であり、日本外交において冷戦構造からやっと抜け出す一歩となるかもしれない。
仮に、中国の要求に応じて日本が、中国政府と尖閣諸島における共同経済活動について協議を開始すると決めたなら、それは日本にとっては大幅な譲歩となる。それまで中国人や中国企業が上陸できなかった尖閣諸島で経済活動ができるようになれば、中国側にとっては大きな前進だろう。中国なら、多額の経済協力プランと引き換えでも尖閣諸島へのアクセスを実現できれば大喜びするかもしれない。
仮に、日本の要求に応じて韓国が、日本政府と竹島における共同経済活動について協議を開始すると決めたなら、それは韓国にとっては大幅な譲歩となる。それまで日本人や日本企業が上陸できなかった竹島で経済活動できるようになれば、日本側にとっては大きな前進だろう。
尖閣諸島や竹島に設定を変えてみると、日露で今回合意した内容は日本側にとって一歩前進であることが見えて来る。法的基盤など枠組みを巡って難題が残っているため、実際に共同経済活動が動き始めるのか不透明だが、ロシアが協議に応じ、平和条約締結に向けての交渉にも前向きであるのだから、機会を逃す必要はなかろう。
北方4島を実効支配し、日本との協議に応じる義務はなかったロシアを、協議に引っ張り出したのだから日本にとっては得点であり、失点はない。日本が実効支配している尖閣諸島に中国を呼び込んだのなら、それは日本の実効支配を揺さぶる行為となり、竹島に日本を呼び込むことは韓国の実効支配を揺さぶることになる。北方4島に日本を呼びこむことに同意したことで、ロシアの実効支配は万全ではなくなった。
今回の日露首脳会談で、歯舞、色丹の返還さえ明確にできなかったことで日本国内では失望の気配が漂い、経済協力などを先行させることでロシアに「食い逃げ」されると危惧する声も出ている。今回の日露首脳会談を「ゴール」と見るなら日本が得たものはないだろうが、「スタート」と見るなら、日本が失ったものはなく、これから得るものがあるかもしれないと見えて来る。
外交に関してはタフなロシア相手に日本はこれから、主張を曲げず、かつ柔軟に交渉していく手腕の見せ所となる(あまり期待しないほうがいい?)。冷戦終了後は米に従うだけだった日本外交が、ロシア相手に局面を動かすことができたなら、独自外交の大きな一歩であり、日本外交において冷戦構造からやっと抜け出す一歩となるかもしれない。
2016年12月17日土曜日
ブルーズが好き
ブルーズという音楽はシンプルな構成だ。最も多いのは12小節のもので、最低3つのコードを覚えたなら、演奏することができる(構成がシンプルなので、演奏者の創意工夫次第で複雑化でき、ジャズでは多くのコードを細かく使って表現に変化をつける)。4小節単位でAメロ・A’メロ・Bメロと展開するのでメリハリもつけやすい。
ミュージシャンなら誰でも演奏することができる(であろう)から、ブルーズはセッションには欠かせない演目だ。シンプルな構成なので、互いのプレーを楽しみつつ、初めて演奏する相手でもその演奏技量やセンス、相性などを推し量ることができる。
ブルーズはアメリカの黒人が生み出した音楽だが、白人にも広く受け入れられるようになり、さらに国境を越えて世界に広がった。ロックンロールやロックという音楽はブルーズなしには誕生しなかっただろうから、現代ポップ音楽のルーツの一つといえるブルーズだが、ヒット曲が出るわけでもないのでブルーズ自体の人気は限定的だ。
シンプルな構成に乗せてブルーズでは、日常の様々な喜び、悲しさ、楽しさ、怒りなどが歌われてきた。何をどう歌うかが曲の個性には重要なのだが、歌詞を聞き流してサウンドだけを聴く人ならば、多くの曲が同じように聞こえたりして、単調で変化に乏しいと感じたりするかもしれない。だから、ブルーズに関心を持って聞き始めても、やがて疎遠になるという人は珍しくない。
だが、ブルーズに関する情報が現在より遥かに乏しかった20世紀半ばの欧米で、ブルーズに惹かれ、ブルーズを演奏し始め、やがてロック音楽をつくり出した人々は、知識としてブルーズを聴いたのではない。新しい音楽表現としてのブルーズを好きになり、ブルーズをコピーし、発展させて自分らの音楽をつくり出した。
ローリング・ストーンズの新作「ブルー&ロンサム」は全12曲がリトル・ウォルターやハウリン・ウルフらのカバーだ。新作のレコーディングでスタジオに入ったが、途中で気分転換のために「ブルーズを演ろうぜ」となり、その出来が良く、皆の気持ちも高揚して3日間でブルーズばかり12曲を録音したという。一気に録音できたのは、長いブルーズとのつき合いがあったからだろう。
50年以上も前にブルーズを好きになり、ブルーズを演奏し始めたストーンズ。長い活動の末に、エモーショナルで活気溢れるブルーズ・アルバムをつくった。演奏がいいだけではなく、ブルーズが好きで、ブルーズを演るのが楽しいということを伝える新作は、彼らの代表作の一つとなった。ブルーズはシンプルな音楽だから、演奏しているときの精神の高揚が大事だと新作は示している。
ミュージシャンなら誰でも演奏することができる(であろう)から、ブルーズはセッションには欠かせない演目だ。シンプルな構成なので、互いのプレーを楽しみつつ、初めて演奏する相手でもその演奏技量やセンス、相性などを推し量ることができる。
ブルーズはアメリカの黒人が生み出した音楽だが、白人にも広く受け入れられるようになり、さらに国境を越えて世界に広がった。ロックンロールやロックという音楽はブルーズなしには誕生しなかっただろうから、現代ポップ音楽のルーツの一つといえるブルーズだが、ヒット曲が出るわけでもないのでブルーズ自体の人気は限定的だ。
シンプルな構成に乗せてブルーズでは、日常の様々な喜び、悲しさ、楽しさ、怒りなどが歌われてきた。何をどう歌うかが曲の個性には重要なのだが、歌詞を聞き流してサウンドだけを聴く人ならば、多くの曲が同じように聞こえたりして、単調で変化に乏しいと感じたりするかもしれない。だから、ブルーズに関心を持って聞き始めても、やがて疎遠になるという人は珍しくない。
だが、ブルーズに関する情報が現在より遥かに乏しかった20世紀半ばの欧米で、ブルーズに惹かれ、ブルーズを演奏し始め、やがてロック音楽をつくり出した人々は、知識としてブルーズを聴いたのではない。新しい音楽表現としてのブルーズを好きになり、ブルーズをコピーし、発展させて自分らの音楽をつくり出した。
ローリング・ストーンズの新作「ブルー&ロンサム」は全12曲がリトル・ウォルターやハウリン・ウルフらのカバーだ。新作のレコーディングでスタジオに入ったが、途中で気分転換のために「ブルーズを演ろうぜ」となり、その出来が良く、皆の気持ちも高揚して3日間でブルーズばかり12曲を録音したという。一気に録音できたのは、長いブルーズとのつき合いがあったからだろう。
50年以上も前にブルーズを好きになり、ブルーズを演奏し始めたストーンズ。長い活動の末に、エモーショナルで活気溢れるブルーズ・アルバムをつくった。演奏がいいだけではなく、ブルーズが好きで、ブルーズを演るのが楽しいということを伝える新作は、彼らの代表作の一つとなった。ブルーズはシンプルな音楽だから、演奏しているときの精神の高揚が大事だと新作は示している。
2016年12月14日水曜日
高揚する韓国市民
主催者発表では参加者100万人以上という大規模なデモが毎週続き、朴槿恵大統領の辞任を人々は求めた。朴大統領は来年4月の退陣を受け入れる意向を示したが、即時辞任を求める圧力は収まらず、与党からも多数が賛成に回って国会で大統領の弾劾訴追案が可決され、大統領権限は停止された。
最高権力者の退陣を要求する人々がデモをし、治安部隊が暴力的に抑え込もうとして流血を見ることは世界では珍しくない。だが、民主主義国家であれば、最高権力者の任期途中での不信任について法的に整備されているのが当然で、辞任を求める世論が高まれば議会が最高権力者の交代へと動くことは珍しいことではない。
韓国では、暴力や流血を伴わずに朴大統領を弾劾できたことに達成感があるようだ。韓国主要紙は弾劾訴追案が可決されたことを「国民による名誉革命」と讃えているという。激情しやすい民族性と称されたりもするのに今回のデモでは、集会で過激な発言や暴力が出そうになるたびに市民たちが制止したといい、憲法の手続きに沿って弾劾に至ったのは市民の成熟を示すものとされた。
韓国の市民が成熟したというが本当ならば喜ばしいことだ。既に合意したことを後になって一方的に引っくり返したり、自国流の歴史観を押しつけたり、被害者感情を強硬に主張して事実を軽視したり、民族性の維持のために欧米などで日本批判をすることなどは、市民(個人)が成熟したなら控えられるようになると期待できよう。
ただ、流血を見ずに大統領弾劾をなし遂げたことが韓国市民の成熟の現れとしても、その成熟が①一過性のものか、受け継がれていくのか、②韓国内でだけ発揮されるのか、国際社会でも発揮されるのかーー不明だ。市民が成熟すれば国家も成熟して政策も成熟するなら、東アジアの安定のためには韓国の成熟は寄与する。
集会では過激な発言や暴力が出そうになるたびに市民たちが制止したというが、例えば、日本を批判するデモや集会でも韓国の人々は成熟した行動を示すことができるのか。激情を発揮することが公の場ではふさわしくない行動だと自覚して冷静に振る舞うようになったのなら、韓国の市民の成熟は本当かもしれない。
人々に支持されなくなった最高権力者を流血を見ずに排除できたのだから、韓国の人々が達成感に浸り、誇らしく感じるのは当然だろう。韓国紙が名誉革命と並べて讃えるのは、持ち上げすぎの感もあるが、メディアも達成感を共有しているのだろう。韓国の市民もメディアも高揚している。
最高権力者の退陣を要求する人々がデモをし、治安部隊が暴力的に抑え込もうとして流血を見ることは世界では珍しくない。だが、民主主義国家であれば、最高権力者の任期途中での不信任について法的に整備されているのが当然で、辞任を求める世論が高まれば議会が最高権力者の交代へと動くことは珍しいことではない。
韓国では、暴力や流血を伴わずに朴大統領を弾劾できたことに達成感があるようだ。韓国主要紙は弾劾訴追案が可決されたことを「国民による名誉革命」と讃えているという。激情しやすい民族性と称されたりもするのに今回のデモでは、集会で過激な発言や暴力が出そうになるたびに市民たちが制止したといい、憲法の手続きに沿って弾劾に至ったのは市民の成熟を示すものとされた。
韓国の市民が成熟したというが本当ならば喜ばしいことだ。既に合意したことを後になって一方的に引っくり返したり、自国流の歴史観を押しつけたり、被害者感情を強硬に主張して事実を軽視したり、民族性の維持のために欧米などで日本批判をすることなどは、市民(個人)が成熟したなら控えられるようになると期待できよう。
ただ、流血を見ずに大統領弾劾をなし遂げたことが韓国市民の成熟の現れとしても、その成熟が①一過性のものか、受け継がれていくのか、②韓国内でだけ発揮されるのか、国際社会でも発揮されるのかーー不明だ。市民が成熟すれば国家も成熟して政策も成熟するなら、東アジアの安定のためには韓国の成熟は寄与する。
集会では過激な発言や暴力が出そうになるたびに市民たちが制止したというが、例えば、日本を批判するデモや集会でも韓国の人々は成熟した行動を示すことができるのか。激情を発揮することが公の場ではふさわしくない行動だと自覚して冷静に振る舞うようになったのなら、韓国の市民の成熟は本当かもしれない。
人々に支持されなくなった最高権力者を流血を見ずに排除できたのだから、韓国の人々が達成感に浸り、誇らしく感じるのは当然だろう。韓国紙が名誉革命と並べて讃えるのは、持ち上げすぎの感もあるが、メディアも達成感を共有しているのだろう。韓国の市民もメディアも高揚している。
2016年12月10日土曜日
逃げ出さない
トランプ氏が次期大統領に決まった直後から、カナダ移民省のサイトへのアクセスが急増して一時は接続が困難になったと報じられた。米国民ならカナダへの移住は容易だとされるが、ニュージーランドや豪の入国管理局サイトへのアクセスも急増、米国民からの移住ビザの申請が増えたり、IT関連企業に米国から求人の問い合わせが増えたともいう。
トランプ大統領の誕生に怯えた人々が脱出を始めたとも見えるし、トランプ氏を嫌う人々が米国に見切りをつけて逃げ出し始めたとも見える。移民が形成した米国では、国籍は個人が選択するものとの考えが根付いているのだろうから、他国に移住することは人生の現実的な選択肢なのかもしれない。
「苛政は虎よりも猛なり」という中国の故事がある。過酷な悪政の下にある土地で暮らすよりも、人食い虎が出る土地で暮らすことを人はあえて選ぶという例えで、米国に見切りをつけた人々は、トランプ大統領の治世下では悪政が行われると見通したらしい。
他国に移住しようとする人々は米国民だけではない。急増しているのが、中東やアフリカから欧州に向かう人々だ。シリアやイラクなど戦乱で疲弊した国やアフリカの破綻国家などから豊かな欧州を目指す人々には、移住することに相応の正当性があるとも見えるが、数万、数十万と増える一方とあって欧州はネを上げている。
トランプ大統領の誕生でアメリカに見切りをつけ、カナダやニュージーランドなどへの移住を検討する人は政治的な亡命者と似ているように見える。各国の移住のシステムを利用し、秩序だって国境を越えることができるのだから、欧州に殺到する移民・難民とは大違いだ。先進国型の移民か。
トランプ大統領のアメリカは、保守色が濃く反対勢力との対立を辞さない強硬な政策に転換する可能性は高いが、民主主義を否定する独裁政治にはなるまい。複数政党で形成する議会があり、司法は行政から独立し、マスコミの報道は自由であり続けるだろう。そんなアメリカからカナダなどへ政治的な理由で移住するのは、贅沢すぎる選択だと中東やアフリカの難民は思うだろうな。
気に入らない人物が選挙で選ばれたからと外国に人々が移住するのは、民主主義を弱体化させる。民主主義は人々の不断の働きかけによって鍛えられ、時代の変化に対応していく。アメリカのような国では次の選挙があるのだから、そこでの勝利を期して、逃げ出さないで闘うことが民主主義を健全に保つ。トランプ大統領の誕生に絶望するのは、世界的に見れば、贅沢すぎる絶望なのだ。
トランプ大統領の誕生に怯えた人々が脱出を始めたとも見えるし、トランプ氏を嫌う人々が米国に見切りをつけて逃げ出し始めたとも見える。移民が形成した米国では、国籍は個人が選択するものとの考えが根付いているのだろうから、他国に移住することは人生の現実的な選択肢なのかもしれない。
「苛政は虎よりも猛なり」という中国の故事がある。過酷な悪政の下にある土地で暮らすよりも、人食い虎が出る土地で暮らすことを人はあえて選ぶという例えで、米国に見切りをつけた人々は、トランプ大統領の治世下では悪政が行われると見通したらしい。
他国に移住しようとする人々は米国民だけではない。急増しているのが、中東やアフリカから欧州に向かう人々だ。シリアやイラクなど戦乱で疲弊した国やアフリカの破綻国家などから豊かな欧州を目指す人々には、移住することに相応の正当性があるとも見えるが、数万、数十万と増える一方とあって欧州はネを上げている。
トランプ大統領の誕生でアメリカに見切りをつけ、カナダやニュージーランドなどへの移住を検討する人は政治的な亡命者と似ているように見える。各国の移住のシステムを利用し、秩序だって国境を越えることができるのだから、欧州に殺到する移民・難民とは大違いだ。先進国型の移民か。
トランプ大統領のアメリカは、保守色が濃く反対勢力との対立を辞さない強硬な政策に転換する可能性は高いが、民主主義を否定する独裁政治にはなるまい。複数政党で形成する議会があり、司法は行政から独立し、マスコミの報道は自由であり続けるだろう。そんなアメリカからカナダなどへ政治的な理由で移住するのは、贅沢すぎる選択だと中東やアフリカの難民は思うだろうな。
気に入らない人物が選挙で選ばれたからと外国に人々が移住するのは、民主主義を弱体化させる。民主主義は人々の不断の働きかけによって鍛えられ、時代の変化に対応していく。アメリカのような国では次の選挙があるのだから、そこでの勝利を期して、逃げ出さないで闘うことが民主主義を健全に保つ。トランプ大統領の誕生に絶望するのは、世界的に見れば、贅沢すぎる絶望なのだ。
2016年12月7日水曜日
パリ協定の不都合な真実
中国や米国など主要排出国も参加して全ての国に、自主的な温室効果ガスの削減目標の制定と目標達成への努力を義務づけたパリ協定は発効したが、米トランプ次期大領領は地球温暖化説に懐疑的だといわれ、早期の脱退が取沙汰されている。TPPと同じようにパリ協定もトランプ次期大統領に息の根を止められるのだろうか。
パリ協定は各国がそれぞれ削減目標を決め、その達成を相互に監視する仕組み。先進国だけに削減義務を負わせた京都議定書とは異なり、途上国を含めて多くの国を参加させるために、削減目標の達成を義務とはせずに削減に向けた努力を促すことにした。
各国が独自に削減目標を設定でき、その達成は義務ではないので、現実離れした高い目標を掲げることも、実際に達成が確実な低い目標を掲げることもできよう。世界の温室効果ガス全体の2割以上を排出する中国は、現実的な目標を掲げた。それは①2030年までにCO2排出量を頭打ちさせる、②GDP当たりCO2排出量を05年比で60~65%削減などというもの。
つまり中国は経済成長が続くことを見込み、2030年頃まではCO2排出量は減少しないでしょうと言い、GDP当たりで削減するけど経済成長すれば総排出量が増えるのは仕方がないと言っている。主要排出国である中国を参加させるためにパリ協定は、実際に温室効果ガス排出を減らすことには背を向けた。
温室効果ガスの排出に関して中国には別の問題がある。それは、中国が発表するデータの信頼性だ。中央政府の計画に合致するようなデータが地方から報告されているといい、環境関係でも統計で国内での石炭消費量が大幅に少なく記載されていたことが明らかになった。別の言い方をすると、パリ協定で中国が表明した削減目標は、中国発表のデータでは完全に達成されるであろう。
世界の平均気温の上昇を1.5度以内に抑えるよう努力するというパリ協定だが、平均気温が上昇すると海面上昇、熱波、干ばつ、高潮、熱帯の感染症の拡大、異常気象の増加、森林火災の増加などをもたらし、人間の生活に多大の影響を与えるとされる。これらは未来予測であり、実現可能性を確率で表すのが科学的態度だろうが、「決まった」未来であるかのように喧伝されている。
温暖化により南極大陸を覆う膨大な氷が融け始めるので海面上昇がもたらされるとされたが、南極大陸を取り巻く海氷の大きさは約100年前と現在でほとんど変わっていないことが明らかになった。20世紀には増加した時期と減少した時期があり、一方的に減少を続けているのではないという。パリ協定で温暖化効果ガスの排出量を実際に削減できなかったとしても、海面上昇は起きないなら皮肉でもあり安心でもある……か。
パリ協定は各国がそれぞれ削減目標を決め、その達成を相互に監視する仕組み。先進国だけに削減義務を負わせた京都議定書とは異なり、途上国を含めて多くの国を参加させるために、削減目標の達成を義務とはせずに削減に向けた努力を促すことにした。
各国が独自に削減目標を設定でき、その達成は義務ではないので、現実離れした高い目標を掲げることも、実際に達成が確実な低い目標を掲げることもできよう。世界の温室効果ガス全体の2割以上を排出する中国は、現実的な目標を掲げた。それは①2030年までにCO2排出量を頭打ちさせる、②GDP当たりCO2排出量を05年比で60~65%削減などというもの。
つまり中国は経済成長が続くことを見込み、2030年頃まではCO2排出量は減少しないでしょうと言い、GDP当たりで削減するけど経済成長すれば総排出量が増えるのは仕方がないと言っている。主要排出国である中国を参加させるためにパリ協定は、実際に温室効果ガス排出を減らすことには背を向けた。
温室効果ガスの排出に関して中国には別の問題がある。それは、中国が発表するデータの信頼性だ。中央政府の計画に合致するようなデータが地方から報告されているといい、環境関係でも統計で国内での石炭消費量が大幅に少なく記載されていたことが明らかになった。別の言い方をすると、パリ協定で中国が表明した削減目標は、中国発表のデータでは完全に達成されるであろう。
世界の平均気温の上昇を1.5度以内に抑えるよう努力するというパリ協定だが、平均気温が上昇すると海面上昇、熱波、干ばつ、高潮、熱帯の感染症の拡大、異常気象の増加、森林火災の増加などをもたらし、人間の生活に多大の影響を与えるとされる。これらは未来予測であり、実現可能性を確率で表すのが科学的態度だろうが、「決まった」未来であるかのように喧伝されている。
温暖化により南極大陸を覆う膨大な氷が融け始めるので海面上昇がもたらされるとされたが、南極大陸を取り巻く海氷の大きさは約100年前と現在でほとんど変わっていないことが明らかになった。20世紀には増加した時期と減少した時期があり、一方的に減少を続けているのではないという。パリ協定で温暖化効果ガスの排出量を実際に削減できなかったとしても、海面上昇は起きないなら皮肉でもあり安心でもある……か。
2016年12月3日土曜日
自由な社会と分断
宗教的な摩擦や文化的な摩擦などが暴力やイジメとして現れたり、政治的な対立がデモの応酬になったりすることは珍しいことではない。政治的な対立が鋭くなるほど、選挙結果を敗北した側は素直に受け入れられず、といって選挙を否定することもできず、選挙結果に現れた社会の分断を嘆いてみせたりする。
そうした摩擦や対立が社会の分断を示していることは確かだが、分断に気を取られすぎると、分断を解消することが諸問題の解決策であるかのように勘違いする。和を尊重することを善しとする思い込みがあったりしたなら、分断があることを憂慮し、相互の不寛容さを諸悪の根源としたりする。だが、相互の違いや対立を認めた上での寛容さを求めるのではなく、融合することによる寛容さを求めたりすると、現実的な処方とはなりにくい。
分断を、あってはならないものとして考えると、現実離れした理想論を積み重ねるしかなくなる。多様な人間で構成される社会に分断が存在するのは自然であり当然だと考えるのなら、摩擦や対立が激しくなっても、それが社会を分断させると過剰に悲観視する必要はなくなろう。
分断がない社会(=分断が表面化しない社会)とは、例えば北朝鮮や中国のような、権力による強権支配が徹底し、公安などにより人々の監視が日常的に行われ、体制に批判的な人々は拘束されたり隔離されたりし、「反逆者」とされたなら容赦なく処刑されるような社会だろう。
分断がない社会(=分断が表面化しない社会)では、個人が自由に発言することは許されず、その社会で政治的に正しいとされることを言わなければならないだろう。個人の発言を統制するために個人の思考を統制することを権力は目指すだろうが、思考は外部から見えないので、日常の全ての言動により個人の思考を推測することになろう。権力による人々の監視が強化されると、分断が見えにくい社会になる。
個人の自由と権利を尊重する社会では、政治的主張を含めて個人は自由に発言する。それで、極端な主張を含めて多様な言説がなされ、様々な利害対立が表面化し、それぞれの「正しさ」を振りかざして争うことにもなり、分断が深刻に見えたりする。自由に活発に個人が意思を表明できる社会であるほど、分裂傾向が強くなろう。社会の分断現象は、個人の自由さをはかる指標にもなる。
ただし、分断は政治(家)に利用され、より激しい対立へと促されることもある。相互の違いや対立を認めた上での対話を求めることよりも、相互に不寛容になって相手を打ち負かすことに励むなら、分断はやがて亀裂となることもあろう。異なる意見を持つ人々、利害が反する人々に対して、どれだけ「冷静さ」を人々が保つことができるのかが、分裂しない社会の尺度になる。
そうした摩擦や対立が社会の分断を示していることは確かだが、分断に気を取られすぎると、分断を解消することが諸問題の解決策であるかのように勘違いする。和を尊重することを善しとする思い込みがあったりしたなら、分断があることを憂慮し、相互の不寛容さを諸悪の根源としたりする。だが、相互の違いや対立を認めた上での寛容さを求めるのではなく、融合することによる寛容さを求めたりすると、現実的な処方とはなりにくい。
分断を、あってはならないものとして考えると、現実離れした理想論を積み重ねるしかなくなる。多様な人間で構成される社会に分断が存在するのは自然であり当然だと考えるのなら、摩擦や対立が激しくなっても、それが社会を分断させると過剰に悲観視する必要はなくなろう。
分断がない社会(=分断が表面化しない社会)とは、例えば北朝鮮や中国のような、権力による強権支配が徹底し、公安などにより人々の監視が日常的に行われ、体制に批判的な人々は拘束されたり隔離されたりし、「反逆者」とされたなら容赦なく処刑されるような社会だろう。
分断がない社会(=分断が表面化しない社会)では、個人が自由に発言することは許されず、その社会で政治的に正しいとされることを言わなければならないだろう。個人の発言を統制するために個人の思考を統制することを権力は目指すだろうが、思考は外部から見えないので、日常の全ての言動により個人の思考を推測することになろう。権力による人々の監視が強化されると、分断が見えにくい社会になる。
個人の自由と権利を尊重する社会では、政治的主張を含めて個人は自由に発言する。それで、極端な主張を含めて多様な言説がなされ、様々な利害対立が表面化し、それぞれの「正しさ」を振りかざして争うことにもなり、分断が深刻に見えたりする。自由に活発に個人が意思を表明できる社会であるほど、分裂傾向が強くなろう。社会の分断現象は、個人の自由さをはかる指標にもなる。
ただし、分断は政治(家)に利用され、より激しい対立へと促されることもある。相互の違いや対立を認めた上での対話を求めることよりも、相互に不寛容になって相手を打ち負かすことに励むなら、分断はやがて亀裂となることもあろう。異なる意見を持つ人々、利害が反する人々に対して、どれだけ「冷静さ」を人々が保つことができるのかが、分裂しない社会の尺度になる。
2016年11月30日水曜日
希望ではなく怒りを動員
2期8年の任期を全うして2017年1月に退任する米オバマ大統領は大統領選で、「Yes, we can change」という前向きのメッセージを繰り返し、「世の中は変えることができる」「世の中が変わるんだ」という期待を一身に集めて当選した。そして新しい政策や方向転換が行われて幾つもの変化が生じたが、当初の期待が大きすぎたためか、米社会や世界が大きく「善い」方向に変化したとの印象は薄い。
新しく大統領に就任するトランプ氏は、まず暴言で名を上げ、注目を集めるようになった。その暴言は移民やイスラム教徒、女性などに対する否定的なメッセージでもあり、政治家にとっては致命的ダメージになるような発言も多かったのに、暴言も積み重なるとマイナス評価が薄められて変質するのか、どれも致命傷とはならず選挙で勝利した。
トランプ氏にも前向きなメッセージがあった。それは国内に向けた「Make American Great Again」「America first」というもので、「Change」に対するような国際的な期待は広がらなかった。衰退するアメリカに苛立ちを感じる米国人には支持されたが、アメリカの経済的利益を最優先し、軍事的にも世界展開を見直すというメッセージは、各国からは懸念をもって受け止められた。
米国内の大統領選なので候補者が、国内向けにウケのいいことを言うのは当然だ。だが、衰退したとはいえ世界1の大国であるのだから、大統領になろうという候補者の発するメッセージは国境を越える。だから候補者は世界の指導者にふさわしい理性的な人間であることを示そうとするが、トランプ氏は国内向けに徹したのか粗野に振るまい続けた。
オバマ氏のメッセージもトランプ氏のメッセージも「世の中を変えよう」との主張だが、方向は反対だ。オバマ氏は普遍的な価値観に基づいて、米国と世界を「善い」方向へ変えようと訴え、トランプ氏は米国から阻害要因を排除し、世界経済の枠組みを再構築して「良きアメリカ」を再現しようと訴えた。
オバマ氏の発していたのは、世界との関わりを肯定的にとらえるメッセージだったが、トランプ氏が発したの、米国を蝕む「敵」を攻撃し、普遍的価値観を軽視する否定的なメッセージだった。オバマ氏は人々の希望を動員することで選挙に勝利し、トランプ氏は人々の怒りを動員することで選挙に勝利したともいえよう。
世界の指導者を演じるなら普遍的な価値観を尊重することが必要になるが、アメリカ1国の指導者に徹するなら、アメリカの利益の最優先を強調するのは自然だろう。それは、各国の指導者が演じてきた姿勢であり、トランプ大統領の誕生はアメリカが他国と同格の位置に座り直そうとしていることの現れである。
ただ、「アメリカ第一」に対置されるのは「日本第一」「ドイツ第一」「イギリス第一」「ロシア第一」「中国第一」などであり、普遍的価値観の軽視がもたらすのは、各国がそれぞれの国益をむき出しにする緊張した世界であろう。とはいえ、そうした世界の中から、より現実に即した新たな普遍的価値観の形成が進むであろうし、そうした価値観に影響されて世界が変化し続けると見るなら、トランプ氏は歴史の歯車を動かすことに貢献したのかもしれない。
新しく大統領に就任するトランプ氏は、まず暴言で名を上げ、注目を集めるようになった。その暴言は移民やイスラム教徒、女性などに対する否定的なメッセージでもあり、政治家にとっては致命的ダメージになるような発言も多かったのに、暴言も積み重なるとマイナス評価が薄められて変質するのか、どれも致命傷とはならず選挙で勝利した。
トランプ氏にも前向きなメッセージがあった。それは国内に向けた「Make American Great Again」「America first」というもので、「Change」に対するような国際的な期待は広がらなかった。衰退するアメリカに苛立ちを感じる米国人には支持されたが、アメリカの経済的利益を最優先し、軍事的にも世界展開を見直すというメッセージは、各国からは懸念をもって受け止められた。
米国内の大統領選なので候補者が、国内向けにウケのいいことを言うのは当然だ。だが、衰退したとはいえ世界1の大国であるのだから、大統領になろうという候補者の発するメッセージは国境を越える。だから候補者は世界の指導者にふさわしい理性的な人間であることを示そうとするが、トランプ氏は国内向けに徹したのか粗野に振るまい続けた。
オバマ氏のメッセージもトランプ氏のメッセージも「世の中を変えよう」との主張だが、方向は反対だ。オバマ氏は普遍的な価値観に基づいて、米国と世界を「善い」方向へ変えようと訴え、トランプ氏は米国から阻害要因を排除し、世界経済の枠組みを再構築して「良きアメリカ」を再現しようと訴えた。
オバマ氏の発していたのは、世界との関わりを肯定的にとらえるメッセージだったが、トランプ氏が発したの、米国を蝕む「敵」を攻撃し、普遍的価値観を軽視する否定的なメッセージだった。オバマ氏は人々の希望を動員することで選挙に勝利し、トランプ氏は人々の怒りを動員することで選挙に勝利したともいえよう。
世界の指導者を演じるなら普遍的な価値観を尊重することが必要になるが、アメリカ1国の指導者に徹するなら、アメリカの利益の最優先を強調するのは自然だろう。それは、各国の指導者が演じてきた姿勢であり、トランプ大統領の誕生はアメリカが他国と同格の位置に座り直そうとしていることの現れである。
ただ、「アメリカ第一」に対置されるのは「日本第一」「ドイツ第一」「イギリス第一」「ロシア第一」「中国第一」などであり、普遍的価値観の軽視がもたらすのは、各国がそれぞれの国益をむき出しにする緊張した世界であろう。とはいえ、そうした世界の中から、より現実に即した新たな普遍的価値観の形成が進むであろうし、そうした価値観に影響されて世界が変化し続けると見るなら、トランプ氏は歴史の歯車を動かすことに貢献したのかもしれない。
2016年11月26日土曜日
人口減少地域における鉄道事業
各地を結ぶ長い距離のレールを敷き、駅を設置し、安全を確保しながら列車を走行させるという鉄道事業は固定コストが大きい。乗客が減ったからと1両編成にしたところで、一定の費用は常に必要となるため、運行コスト削減には限度がある。乗客数が減り続け、1両の列車を走らせてもコスト割れが続くようになったなら、そうした土地で鉄道事業を続けていくことは商業ベースでは不可能になる。
乗客数の回復が見込めない中で乗客輸送事業を続けていくには、固定コストを削減するしかない。鉄路を廃して保線コストをなくし、公道をバスで走るようにすることが現実的な唯一の選択肢だろうが、鉄路の廃止には地域が反発する。公共サービスとして発展してきた歴史が鉄道にはあることと、鉄路の廃止が過疎化に拍車をかけるとの懸念があるのだろう。
根本にあるのは、鉄路を維持していくだけの乗客数が見込めないほど人口が減少していることだ。収益を上回るコストがかかっても、公共サービスならば続けなくてはならない場合もあろうが、民営化されて私企業の形態になったなら赤字の垂れ流しを続けることはできなくなる。つまり鉄道事業を続けるためには、行政からの財政支援が必要になる。
JR北海道が単独では維持が困難な10路線13線区を発表したが、それは全路線のほぼ半分にもなる。北海道内の路線はほぼ全線が赤字だといい、発表された10路線13線区は特に乗客が少なく単独では維持困難で、バスへの転換や、自治体が鉄道施設を保有してJR北海道は運行に専念する方式に移行することを求めた。
自治体に財政支援する余裕があれば、住民の生活を支援し、農産物の大量輸送を確保するためにも鉄道を維持することに動くだろうが、過疎が進む地域の自治体は財政的にも厳しいところが多い。現実的に考えると、国と北海道による支援がなければ鉄路は維持できず、バスへの転換は避けられまい。
冬の寒さが厳しい広大な北海道では鉄路を維持するだけでも多額の固定費がかかるが、人口の減少傾向が続く一方で、高速道路網は拡大している。北海道の交通の在り方について国と北海道にビジョンがあるとすれば、それは鉄道には重きを置いていないだろう。人口減少地域における鉄道事業は、観光目的などに重点を移す以外に生き残りは厳しい。
人口減少が続き、需要の総量が減る地域で、続けることができる事業は公的支援を得ているものか、地域外の需要を相手にするものだけだろう。駅まで来た人々に乗ってもらわなければ成り立たない鉄道事業は地域の人口減少には脆弱すぎて、私企業として放り出された時から、赤字による経営破綻は必然だったのかもしれない。
乗客数の回復が見込めない中で乗客輸送事業を続けていくには、固定コストを削減するしかない。鉄路を廃して保線コストをなくし、公道をバスで走るようにすることが現実的な唯一の選択肢だろうが、鉄路の廃止には地域が反発する。公共サービスとして発展してきた歴史が鉄道にはあることと、鉄路の廃止が過疎化に拍車をかけるとの懸念があるのだろう。
根本にあるのは、鉄路を維持していくだけの乗客数が見込めないほど人口が減少していることだ。収益を上回るコストがかかっても、公共サービスならば続けなくてはならない場合もあろうが、民営化されて私企業の形態になったなら赤字の垂れ流しを続けることはできなくなる。つまり鉄道事業を続けるためには、行政からの財政支援が必要になる。
JR北海道が単独では維持が困難な10路線13線区を発表したが、それは全路線のほぼ半分にもなる。北海道内の路線はほぼ全線が赤字だといい、発表された10路線13線区は特に乗客が少なく単独では維持困難で、バスへの転換や、自治体が鉄道施設を保有してJR北海道は運行に専念する方式に移行することを求めた。
自治体に財政支援する余裕があれば、住民の生活を支援し、農産物の大量輸送を確保するためにも鉄道を維持することに動くだろうが、過疎が進む地域の自治体は財政的にも厳しいところが多い。現実的に考えると、国と北海道による支援がなければ鉄路は維持できず、バスへの転換は避けられまい。
冬の寒さが厳しい広大な北海道では鉄路を維持するだけでも多額の固定費がかかるが、人口の減少傾向が続く一方で、高速道路網は拡大している。北海道の交通の在り方について国と北海道にビジョンがあるとすれば、それは鉄道には重きを置いていないだろう。人口減少地域における鉄道事業は、観光目的などに重点を移す以外に生き残りは厳しい。
人口減少が続き、需要の総量が減る地域で、続けることができる事業は公的支援を得ているものか、地域外の需要を相手にするものだけだろう。駅まで来た人々に乗ってもらわなければ成り立たない鉄道事業は地域の人口減少には脆弱すぎて、私企業として放り出された時から、赤字による経営破綻は必然だったのかもしれない。
2016年11月23日水曜日
外れた予測
米メディアの圧倒的な多数が支持を表明し、世論調査や直前の分析でも有利だと報じられたクリントン候補が、本選挙では敗北した。総得票数ではクリントン候補がトランプ候補を上回った(開票率99.7%でトランプ氏6083万票、クリントン氏6178万票)が、選挙人の数を争うのが米大統領選。最後まで接戦を演じたのでもなく敗れた。
総得票数ではクリントン候補がトランプ候補を上回ったのだから、陣営や民主党の選挙戦術に問題があったとはいえ惜敗というべきだろうが、事前予想ではクリントン候補の圧勝とするメディアが多かったため惨敗とのイメージが強い。同時に、人々の思考や感情に大きな影響を及ぼすメディアが、正確な情報を伝えているのかという疑問が出てきた。
クリントン候補の敗因の分析は様々になされている。例えば、▽若者やマイノリティの投票率が低かった(前回勝利したオバマ大統領の約6600万票より今回のクリントン候補は大幅に減らしており、オバマに投票した人がクリントン候補にはそっぽを向いた)、▽世論調査ではクリントン候補を支持したが実際に投票に行かなかった人が多い(トランプ候補の支持者は投票に行った)。
出口調査によると、▽10代20代30代の過半数はクリントン候補に投票したが、40代以上では過半数がトランプ候補に投票、▽白人の約6割がトランプ候補に投票、▽マイノリティーの約2割がトランプ候補に投票(ヒスパニックやアジア系では約3割)、▽年収5万ドル未満の低中所得層の5割強がクリントン候補に投票したが、5万ドル以上では逆転してトランプ候補に投票した人が増え5割弱。
メディアの報道で、トランプ候補の支持者は、製造業が衰え衰退する地方に住む白人の低所得者層だとされていたが、出口調査で見る限りでは富裕層の多くがトランプ候補へ投票していた。共和党の政治家は反トランプの動きを見せたが、共和党の支持層は共和党候補としてのトランプ氏に投票したのだろう。
予備選からの長い選挙戦を通して米メディアはトランプ候補を批判し続け、時には嘲りの対象にもした。トランプ候補の言動が尊敬に値するような代物でなかったことは確かだし、先にトランプ候補から攻撃などを始めたりしていたのだから、相応の反撃を食らうのも当然ではあるが、メディアはトランプ候補を批判することに熱中するあまり(批判材料には事欠かない)、「冷静」にトランプ候補を扱うことができなかった。
皮肉にも、エスタブリッシュメントの一翼を担うメディアが熱心にトランプ候補批判を続けたことで、人々の反エスタブリッシュメント感情を強めた可能性がある。メディアの言うことに流されないためには、メディアもエスタブリッシュだと見なすことは一種のメディアリテラシーかもしれない。
総得票数ではクリントン候補がトランプ候補を上回ったのだから、陣営や民主党の選挙戦術に問題があったとはいえ惜敗というべきだろうが、事前予想ではクリントン候補の圧勝とするメディアが多かったため惨敗とのイメージが強い。同時に、人々の思考や感情に大きな影響を及ぼすメディアが、正確な情報を伝えているのかという疑問が出てきた。
クリントン候補の敗因の分析は様々になされている。例えば、▽若者やマイノリティの投票率が低かった(前回勝利したオバマ大統領の約6600万票より今回のクリントン候補は大幅に減らしており、オバマに投票した人がクリントン候補にはそっぽを向いた)、▽世論調査ではクリントン候補を支持したが実際に投票に行かなかった人が多い(トランプ候補の支持者は投票に行った)。
出口調査によると、▽10代20代30代の過半数はクリントン候補に投票したが、40代以上では過半数がトランプ候補に投票、▽白人の約6割がトランプ候補に投票、▽マイノリティーの約2割がトランプ候補に投票(ヒスパニックやアジア系では約3割)、▽年収5万ドル未満の低中所得層の5割強がクリントン候補に投票したが、5万ドル以上では逆転してトランプ候補に投票した人が増え5割弱。
メディアの報道で、トランプ候補の支持者は、製造業が衰え衰退する地方に住む白人の低所得者層だとされていたが、出口調査で見る限りでは富裕層の多くがトランプ候補へ投票していた。共和党の政治家は反トランプの動きを見せたが、共和党の支持層は共和党候補としてのトランプ氏に投票したのだろう。
予備選からの長い選挙戦を通して米メディアはトランプ候補を批判し続け、時には嘲りの対象にもした。トランプ候補の言動が尊敬に値するような代物でなかったことは確かだし、先にトランプ候補から攻撃などを始めたりしていたのだから、相応の反撃を食らうのも当然ではあるが、メディアはトランプ候補を批判することに熱中するあまり(批判材料には事欠かない)、「冷静」にトランプ候補を扱うことができなかった。
皮肉にも、エスタブリッシュメントの一翼を担うメディアが熱心にトランプ候補批判を続けたことで、人々の反エスタブリッシュメント感情を強めた可能性がある。メディアの言うことに流されないためには、メディアもエスタブリッシュだと見なすことは一種のメディアリテラシーかもしれない。
2016年11月19日土曜日
法は神聖視すべきか
日本では自動車は道路の左側を走る。この左側通行を採用している国は世界でほぼ3分の1で、残りの3分の2は右側通行を採用している。左側通行と右側通行の違いにより、交通事故の発生率などに差が出て来ることは考えにくく、どちらの通行方法が優れているかを議論しても、説得力がある主張は出てきそうにない。
ただし、路上で左側通行と右側通行が混在しているとしたなら、正面衝突の可能性が飛躍的に高まり、交通事故が続出するであろうことは想像に難くない。路上における通行のルールを明確に定め、そのルールにドライバーが従って運転することで、路上の安全性は保たれる。日本では道路交通法により左側通行と定められている。
左側通行が優れているから日本が採用しているわけではないだろうが、もし左側通行の信奉者がいて、「左側通行は倫理的だ」とか「左側通行は崇高な理念を現している」などと主張して絶対視し、左側通行を定めている道路交通法をも「絶対に変えてはならない」などと言い始めたなら、なんか変だなと多くの人は気づくだろう。
左側通行を信奉することも絶対視することも個人の自由だが、それは一つの考え方に過ぎないということが、自分の考えを理想視するほどに見えにくくなる。さらに、個人が絶対視する理想を定めているからといって、社会のルールを定めているにすぎない法律をも絶対視する奇妙さは、当人にはなおさら見えにくくなるのかもしれない。
憲法を始めとする法は、その社会のルールを定めているものでしかない。法は、人々の意識を反映するものではあるが、法は聖典ではなく道徳規範でも哲学書でもない。社会の変化に対応して書き換える部分もあり、私的殺人の禁止など書き換えられない部分もある。法は存在自体に価値があるのではなく、ルールを明確にして、社会の安定や安全などを維持することに役立つことに価値がある。
だから全ての法は、変化する社会に対応して書き換え、常にルールを明確にしておかなければならない。逆走するドライバーが増えれば対応した規制を追加し、自転車事故が増えれば自転車の走行ルールを明確にする。そうした法の変更は、法の尊厳を貶めることではなく、有効に法が機能することによって、法の信頼性を高める。
左側通行とは異なり、戦争放棄や軍事力の保有禁止は崇高な理想であり、素晴しい理念で普遍的な価値がある。永遠に滅びることはない理想でもあるだろう。だが、そうした理想を記しているからといって、法が絶対不可侵の存在になり、神棚に祭り上げられ、人々の日常から遊離した存在になり、社会に作用するルールを決めることができなくなったら、法としての機能を喪失する。
ただし、路上で左側通行と右側通行が混在しているとしたなら、正面衝突の可能性が飛躍的に高まり、交通事故が続出するであろうことは想像に難くない。路上における通行のルールを明確に定め、そのルールにドライバーが従って運転することで、路上の安全性は保たれる。日本では道路交通法により左側通行と定められている。
左側通行が優れているから日本が採用しているわけではないだろうが、もし左側通行の信奉者がいて、「左側通行は倫理的だ」とか「左側通行は崇高な理念を現している」などと主張して絶対視し、左側通行を定めている道路交通法をも「絶対に変えてはならない」などと言い始めたなら、なんか変だなと多くの人は気づくだろう。
左側通行を信奉することも絶対視することも個人の自由だが、それは一つの考え方に過ぎないということが、自分の考えを理想視するほどに見えにくくなる。さらに、個人が絶対視する理想を定めているからといって、社会のルールを定めているにすぎない法律をも絶対視する奇妙さは、当人にはなおさら見えにくくなるのかもしれない。
憲法を始めとする法は、その社会のルールを定めているものでしかない。法は、人々の意識を反映するものではあるが、法は聖典ではなく道徳規範でも哲学書でもない。社会の変化に対応して書き換える部分もあり、私的殺人の禁止など書き換えられない部分もある。法は存在自体に価値があるのではなく、ルールを明確にして、社会の安定や安全などを維持することに役立つことに価値がある。
だから全ての法は、変化する社会に対応して書き換え、常にルールを明確にしておかなければならない。逆走するドライバーが増えれば対応した規制を追加し、自転車事故が増えれば自転車の走行ルールを明確にする。そうした法の変更は、法の尊厳を貶めることではなく、有効に法が機能することによって、法の信頼性を高める。
左側通行とは異なり、戦争放棄や軍事力の保有禁止は崇高な理想であり、素晴しい理念で普遍的な価値がある。永遠に滅びることはない理想でもあるだろう。だが、そうした理想を記しているからといって、法が絶対不可侵の存在になり、神棚に祭り上げられ、人々の日常から遊離した存在になり、社会に作用するルールを決めることができなくなったら、法としての機能を喪失する。
2016年11月16日水曜日
現金が突然使えなくなった
インド政府が突然、使用されている通貨のうち最も高額の1000ルピー紙幣と次に高額の500ルピー紙幣を即日廃止すると発表した。この2種類で流通現金の85%を占めているというから、現金取引の禁止に近い措置だ。新しい2000ルピー紙幣と500ルピー紙幣を発行、交換するとされ、人々は銀行に押し掛けている。世界第2位の人口を有し、現金取引が大半の国で、大量の交換がスムーズに行われるのか。
日本で例えるなら1万円紙幣と5000円紙幣の使用を政府が突然停止したようなもので、大混乱は必至という印象だ。クレジットカードが普及し、電子決済が一般化している社会なら、紙幣の使用を政府が突然停止したとしても、日常生活への影響は限定的かもしれない。だがインドはクレジットカードが普及しておらず、現金での取引が主流。経済活動へのダメージは大きいかもしれない。
なぜ、こんなことをインド政府は行ったのか。首相は腐敗防止と偽造紙幣や資金洗浄対策のためだと説明した。脱税や汚職、犯罪などにより現金で溜め込まれているブラックマネーの規模がインドでは国内総生産の最大3割に達するともされ、報道によると、政治家や資産家が課税逃れのために現金をため込む不正蓄財が横行しているという。
新紙幣への交換を強制することで、そうしたブラックマネーを使えなくしたり、あぶり出すことが狙いのようだ。そのためには一般の人々にも紙幣の交換を強制し、多少の混乱が起きても仕方がないということなら、インド政府は思い切った決断を行ったことになる。ブラックマネーを金や宝石などに逃避させないためには突然実施することが不可欠だろう。
印刷物である紙幣が、例えば1万円などという交換価値を有するのは、第一に発行主体の政府への信任があること、第二に、人々が互いに紙幣に交換価値があると信じることが必要だ。さらに、紙幣が有する交換価値が将来も維持されると人々が感じることも大切で、インフレが激しくなると人々は紙幣を早く手放そうとしたりする。
政府が発行すれば紙幣は必ず信任を得ることができるわけではない。自国通貨よりドル紙幣を人々が信用している国があるというし、冷戦崩壊後の東欧諸国では独マルク紙幣が自国紙幣より信用された。交換価値を溜め込むのが紙幣だと考えれば、溜め込んでいる間の目減りが少ない紙幣を人々が選ぶのは当然だ。
どこの国にも規模の大小はあれ闇経済は存在するから、各国政府は課税を強化して税収を増やしたいと考えるだろう。しかし、紙幣の流通を突然停止するという方法は行わない。ブラックマネーをあぶり出して税収を増やす効果より、経済を混乱させる弊害のほうが大きいと考えるからだろう。インド政府の大胆な試みが、闇経済に打撃を与えて経済構造を「クリーン」にするのか、混乱を拡大させて経済にダメージを与えるのか、興味深い社会実験が進行中だ。
日本で例えるなら1万円紙幣と5000円紙幣の使用を政府が突然停止したようなもので、大混乱は必至という印象だ。クレジットカードが普及し、電子決済が一般化している社会なら、紙幣の使用を政府が突然停止したとしても、日常生活への影響は限定的かもしれない。だがインドはクレジットカードが普及しておらず、現金での取引が主流。経済活動へのダメージは大きいかもしれない。
なぜ、こんなことをインド政府は行ったのか。首相は腐敗防止と偽造紙幣や資金洗浄対策のためだと説明した。脱税や汚職、犯罪などにより現金で溜め込まれているブラックマネーの規模がインドでは国内総生産の最大3割に達するともされ、報道によると、政治家や資産家が課税逃れのために現金をため込む不正蓄財が横行しているという。
新紙幣への交換を強制することで、そうしたブラックマネーを使えなくしたり、あぶり出すことが狙いのようだ。そのためには一般の人々にも紙幣の交換を強制し、多少の混乱が起きても仕方がないということなら、インド政府は思い切った決断を行ったことになる。ブラックマネーを金や宝石などに逃避させないためには突然実施することが不可欠だろう。
印刷物である紙幣が、例えば1万円などという交換価値を有するのは、第一に発行主体の政府への信任があること、第二に、人々が互いに紙幣に交換価値があると信じることが必要だ。さらに、紙幣が有する交換価値が将来も維持されると人々が感じることも大切で、インフレが激しくなると人々は紙幣を早く手放そうとしたりする。
政府が発行すれば紙幣は必ず信任を得ることができるわけではない。自国通貨よりドル紙幣を人々が信用している国があるというし、冷戦崩壊後の東欧諸国では独マルク紙幣が自国紙幣より信用された。交換価値を溜め込むのが紙幣だと考えれば、溜め込んでいる間の目減りが少ない紙幣を人々が選ぶのは当然だ。
どこの国にも規模の大小はあれ闇経済は存在するから、各国政府は課税を強化して税収を増やしたいと考えるだろう。しかし、紙幣の流通を突然停止するという方法は行わない。ブラックマネーをあぶり出して税収を増やす効果より、経済を混乱させる弊害のほうが大きいと考えるからだろう。インド政府の大胆な試みが、闇経済に打撃を与えて経済構造を「クリーン」にするのか、混乱を拡大させて経済にダメージを与えるのか、興味深い社会実験が進行中だ。
2016年11月12日土曜日
私の自由よ
首都圏などの電車内で化粧をする女性がいつ頃から存在したのか定かではないが、いわゆる迷惑行為の一つとして認識されるようになったのは、そう古いことではない。電車内での迷惑とされる行為には他に、きちんと座らない(足を広げたり投げ出したり、詰めなかったり)、混んでも頑張ってドア付近など場所を動かない、優先席を譲らない、大声での会話、リュックなどを背負う、飲食など様々ある。
いずれも混雑している車両内だから迷惑行為とされるので、地方路線の乗客が少ない車両内で同様の行為をしても迷惑行為とはされないだろう。人口密集地における混雑時の電車内という特殊な状況ならではの迷惑行為であり、電車内で化粧すること自体が問題だというわけではない(自宅外の衆人環視の中で化粧する女性を好ましいとは思わないが)。
混雑時の電車内での化粧など迷惑行為を鉄道会社は禁止できないので、マナー向上の啓発活動をする。だが、鉄道会社が妥当だとするマナーを乗客に強制することはできず、また、乗客は常に流動しているので乗客全員がマナーの知識を持っているわけではない。さらに、鉄道会社が考えるマナーが必ずしも乗客から共感を得られるとは限らず、鉄道会社の押し付けだと感じて反発する人もいよう。
根本問題は電車内の混雑を解消できないことだが、大都市圏への人口集中を鉄道会社が変えることはできまいから、マナー向上を啓発するぐらいしか手はない。混雑を不快と感じる乗客にも電車内の混雑を解消する手はない(自分が乗車しなければいいのだが)から、周囲の他人の行為を不快と感じたと投書したりする(だが、その場で相手に直接注意する人はごく少なく、見て見ぬ振りを周囲はする)。
マナーが問題になるのは、共感や同意を得ることができない相手には、訴えが無力であるからだ。マナーは絶対の規範ではなく、推奨行為でしかない。だから、電車内での化粧を批判された人が「どこで化粧しようと、私の自由よ」と言い返すと、マナーを訴える側は、思い通りに行かない悔しさを抱きつつ引き下がるしかない。
マナーを強制するには、①犯罪行為として法で禁止する、②マナーを守るように社会的な同調圧力を高めるーーのいずれかしかないだろう。周囲の人に実害がない行為を犯罪として禁止するのは現実には難しいだろうから、社会的な同調圧力を高める方向に動くことになる。マナーが徹底されないことによる不快感を共有する人々による同調圧力は、手強そうだ。
同調圧力とは価値観の押し付けであり、「皆」で押し付けて個人は隠される(押し付けの責任は誰も取らない)。日本の社会は同調圧力が高いと批判され、個人の尊重が主張されたりするが、一方で人々は都合よく同調圧力を利用する。つまり、同調圧力に抗って「私の自由よ」と言い返す人は、自立した近代人なのかもしれない(あるいは、すごく自分勝手な人物か)。
いずれも混雑している車両内だから迷惑行為とされるので、地方路線の乗客が少ない車両内で同様の行為をしても迷惑行為とはされないだろう。人口密集地における混雑時の電車内という特殊な状況ならではの迷惑行為であり、電車内で化粧すること自体が問題だというわけではない(自宅外の衆人環視の中で化粧する女性を好ましいとは思わないが)。
混雑時の電車内での化粧など迷惑行為を鉄道会社は禁止できないので、マナー向上の啓発活動をする。だが、鉄道会社が妥当だとするマナーを乗客に強制することはできず、また、乗客は常に流動しているので乗客全員がマナーの知識を持っているわけではない。さらに、鉄道会社が考えるマナーが必ずしも乗客から共感を得られるとは限らず、鉄道会社の押し付けだと感じて反発する人もいよう。
根本問題は電車内の混雑を解消できないことだが、大都市圏への人口集中を鉄道会社が変えることはできまいから、マナー向上を啓発するぐらいしか手はない。混雑を不快と感じる乗客にも電車内の混雑を解消する手はない(自分が乗車しなければいいのだが)から、周囲の他人の行為を不快と感じたと投書したりする(だが、その場で相手に直接注意する人はごく少なく、見て見ぬ振りを周囲はする)。
マナーが問題になるのは、共感や同意を得ることができない相手には、訴えが無力であるからだ。マナーは絶対の規範ではなく、推奨行為でしかない。だから、電車内での化粧を批判された人が「どこで化粧しようと、私の自由よ」と言い返すと、マナーを訴える側は、思い通りに行かない悔しさを抱きつつ引き下がるしかない。
マナーを強制するには、①犯罪行為として法で禁止する、②マナーを守るように社会的な同調圧力を高めるーーのいずれかしかないだろう。周囲の人に実害がない行為を犯罪として禁止するのは現実には難しいだろうから、社会的な同調圧力を高める方向に動くことになる。マナーが徹底されないことによる不快感を共有する人々による同調圧力は、手強そうだ。
同調圧力とは価値観の押し付けであり、「皆」で押し付けて個人は隠される(押し付けの責任は誰も取らない)。日本の社会は同調圧力が高いと批判され、個人の尊重が主張されたりするが、一方で人々は都合よく同調圧力を利用する。つまり、同調圧力に抗って「私の自由よ」と言い返す人は、自立した近代人なのかもしれない(あるいは、すごく自分勝手な人物か)。
2016年11月9日水曜日
5%の支持率
自由な選挙により選ばれた議員が国政を担うという民主主義社会では、選挙戦の最中が最も政治家が高揚し、輝いている期間かもしれない。落選すればタダの民間人に戻るしかなく、運良く当選したって、いざ国政を動かそうとしても思うようには捗らず、人々の期待値が高ければ高いほど失望も大きい。すぐに「結果」が出るはずもないので、ますますクスんでいるように見えたりする。
だから、期待が失望に変わるにつれて支持率は下降していき、コアな支持層プラスα当たりで下げ止まる。コアな支持層とは所属政党の支持者や候補者個人の熱心な支持者であるから、よほどの失態でもなければ離れることはないだろう。そうした支持者に支えられて政治家は、世論調査で支持率が下がろうとも国政を担い続ける。
さて、支持率が急降下し、5%なんてことになったなら非常事態だ。主権者に見放されたと言ってもいい支持率なのだから、「信なくば立たず」ということで、辞任の時期を探し始めることになる。支持率なんて瞬間風速みたいなもので、また支持率は盛り返すと期待して居座り続けると、それが反感を高めることになったりするから、支持率というものの実態は読みにくい。
5%の支持率でも辞任せずに政治家で居続けるには、第一に、国政が停滞することを気にしないこと、第二に、どんなに批判も受け流し、第三に、主権者のほうを見ないようにすることが必要だろう。それには素質が要る。選挙で主権者と向き合わざるを得ない民主主義国の政治家にも、そんな素質を持った政治家が紛れ込んだりしているが、他の政治家に辞任に追い込まれるのが一般的だろう。
韓国の世論調査で朴大統領の支持率が5%に急落し、政権発足後の最低となった。不支持率は89%というから、辞任要求を突きつけられているようなものだ。世論調査の支持率が「正しい」かどうかは歴史に任せるしかないが、あまり見かけない支持率5%という数字は興味深い。不人気な大統領を曝しておくほうが次の選挙に有利だと野党は本気で辞任に追い込まないとの見方もあり、混乱が長引きそうなことだけは確かだ。
飲食店なら、顧客の支持率5%で営業を続けるには高級店になるしかなく、それにふさわしい料理を提供し、店構えも高級感を出さなければならないだろう。大衆料金の飲食店が、5%の客しか獲得できなければ維持していくのは簡単ではない。民主主義国では主権者は1人1票なので政治家は、誰も「高級」政治家にはなれない(政治家本人は高級な政治家を自認したがったりするが)。
5%の支持率は楽天家の政治家なら「まだ5%ある」と考え、前向きになる……はずもなく、与党内からも公然と批判が出てきて、官僚の対応が鈍くなり、遠慮していたマスコミは何でも批判のネタにするようになるなど厳しい現実に直面せざるを得ない。支持率5%の政治とは何か、どんな混乱をもたらすのか、その実例を韓国で見ることができる。
だから、期待が失望に変わるにつれて支持率は下降していき、コアな支持層プラスα当たりで下げ止まる。コアな支持層とは所属政党の支持者や候補者個人の熱心な支持者であるから、よほどの失態でもなければ離れることはないだろう。そうした支持者に支えられて政治家は、世論調査で支持率が下がろうとも国政を担い続ける。
さて、支持率が急降下し、5%なんてことになったなら非常事態だ。主権者に見放されたと言ってもいい支持率なのだから、「信なくば立たず」ということで、辞任の時期を探し始めることになる。支持率なんて瞬間風速みたいなもので、また支持率は盛り返すと期待して居座り続けると、それが反感を高めることになったりするから、支持率というものの実態は読みにくい。
5%の支持率でも辞任せずに政治家で居続けるには、第一に、国政が停滞することを気にしないこと、第二に、どんなに批判も受け流し、第三に、主権者のほうを見ないようにすることが必要だろう。それには素質が要る。選挙で主権者と向き合わざるを得ない民主主義国の政治家にも、そんな素質を持った政治家が紛れ込んだりしているが、他の政治家に辞任に追い込まれるのが一般的だろう。
韓国の世論調査で朴大統領の支持率が5%に急落し、政権発足後の最低となった。不支持率は89%というから、辞任要求を突きつけられているようなものだ。世論調査の支持率が「正しい」かどうかは歴史に任せるしかないが、あまり見かけない支持率5%という数字は興味深い。不人気な大統領を曝しておくほうが次の選挙に有利だと野党は本気で辞任に追い込まないとの見方もあり、混乱が長引きそうなことだけは確かだ。
飲食店なら、顧客の支持率5%で営業を続けるには高級店になるしかなく、それにふさわしい料理を提供し、店構えも高級感を出さなければならないだろう。大衆料金の飲食店が、5%の客しか獲得できなければ維持していくのは簡単ではない。民主主義国では主権者は1人1票なので政治家は、誰も「高級」政治家にはなれない(政治家本人は高級な政治家を自認したがったりするが)。
5%の支持率は楽天家の政治家なら「まだ5%ある」と考え、前向きになる……はずもなく、与党内からも公然と批判が出てきて、官僚の対応が鈍くなり、遠慮していたマスコミは何でも批判のネタにするようになるなど厳しい現実に直面せざるを得ない。支持率5%の政治とは何か、どんな混乱をもたらすのか、その実例を韓国で見ることができる。
2016年11月5日土曜日
死刑廃止について②
死刑廃止宣言に見ることができる日弁連の主張は理解できるものではあるが、ヒューマニズムや理想論に傾きすぎている気配もある。「生まれながらの犯罪者はおらず」「多くは、家庭、経済、教育、地域等における様々な環境や差別が一因となって犯罪に至っている」から「罪を悔い、変わり得る存在」とするのだが、理想というものはしばしば現実に裏切られる。
宅間守という男がいた。家族に暴力を振るう父親、家事や育児が苦手の母親の家庭で育ち、子供の頃から問題行動が多かったといわれ、十数件の前科を重ね、37歳の時(2001年)に大阪で小学校に侵入し、包丁で1、2年生8人を殺害、児童13人と教諭2人を負傷させた。初公判では謝罪の言葉を口にしたが、その後は暴言を隠さなくなり、「時間がもう少しあれば、もっと殺せた」など非道な発言を繰り返したと伝えられる。
一審で死刑判決が下され、弁護団は控訴したが宅間は控訴を取り下げ、死刑判決確定後には、早く死刑にするようにと要求した。死刑確定の約1年後の2004年に、異例の早さで死刑が執行された。宅間守は死刑判決確定後に文通で知り合った死刑廃止運動の女性と結婚、死刑執行前に妻に向け「ありがとう」の言葉を残したが、被害者遺族に対する謝罪の言葉はなかったという。
宅間守の家庭環境や生い立ちなどは恵まれたものではなかったようで、それが彼の「荒んだ」生き方につながったと解釈でき、同情すべき余地はある。とはいえ、無差別に小学生を刺殺した宅間守の犯罪は残忍すぎて、同情すべき点はない。宅間守の存在は、死刑制度廃止の主張を納得させるものなのか、それとも死刑制度の存続を納得させるものなのか。
宅間守が、内心では改悛したのに改悛しないように見せていたのか改悛しなかったのか、傍からは判らない。だが、宅間守が残したのは、改悛する様子を見せず、確信犯であり続けた凶悪犯の姿である。「罪を悔やまず、変わることをしない」凶悪犯を、日弁連の死刑制度廃止の主張は想定していないように見える。
改悛せず、被害者遺族に謝罪もしない凶悪犯について、それでもなお死刑にすべきでないと主張するには、どんな人間であろうと殺してはならないという崇高なヒューマニズムを掲げなくてはならないだろう。だが、崇高なヒューマニズムが現実的に説得力を持つとは限らず、むしろ、現実離れの理想論だと片付けられて終わることも珍しくない。
「生まれながらの犯罪者はおらず」、どんな凶悪犯も必ず改悛するのなら話は簡単で、死刑にせずに立ち直りを期待すると同時に、被害者遺族への公的支援を拡充することが社会的な安定のために望ましいだろう。だが、人間の本質的な姿は様々だろうから、かくあってほしいという理想像で強弁することはできない。改悛しない凶悪犯を、この社会は「許す」ことができるのか、そこが問われている。
宅間守という男がいた。家族に暴力を振るう父親、家事や育児が苦手の母親の家庭で育ち、子供の頃から問題行動が多かったといわれ、十数件の前科を重ね、37歳の時(2001年)に大阪で小学校に侵入し、包丁で1、2年生8人を殺害、児童13人と教諭2人を負傷させた。初公判では謝罪の言葉を口にしたが、その後は暴言を隠さなくなり、「時間がもう少しあれば、もっと殺せた」など非道な発言を繰り返したと伝えられる。
一審で死刑判決が下され、弁護団は控訴したが宅間は控訴を取り下げ、死刑判決確定後には、早く死刑にするようにと要求した。死刑確定の約1年後の2004年に、異例の早さで死刑が執行された。宅間守は死刑判決確定後に文通で知り合った死刑廃止運動の女性と結婚、死刑執行前に妻に向け「ありがとう」の言葉を残したが、被害者遺族に対する謝罪の言葉はなかったという。
宅間守の家庭環境や生い立ちなどは恵まれたものではなかったようで、それが彼の「荒んだ」生き方につながったと解釈でき、同情すべき余地はある。とはいえ、無差別に小学生を刺殺した宅間守の犯罪は残忍すぎて、同情すべき点はない。宅間守の存在は、死刑制度廃止の主張を納得させるものなのか、それとも死刑制度の存続を納得させるものなのか。
宅間守が、内心では改悛したのに改悛しないように見せていたのか改悛しなかったのか、傍からは判らない。だが、宅間守が残したのは、改悛する様子を見せず、確信犯であり続けた凶悪犯の姿である。「罪を悔やまず、変わることをしない」凶悪犯を、日弁連の死刑制度廃止の主張は想定していないように見える。
改悛せず、被害者遺族に謝罪もしない凶悪犯について、それでもなお死刑にすべきでないと主張するには、どんな人間であろうと殺してはならないという崇高なヒューマニズムを掲げなくてはならないだろう。だが、崇高なヒューマニズムが現実的に説得力を持つとは限らず、むしろ、現実離れの理想論だと片付けられて終わることも珍しくない。
「生まれながらの犯罪者はおらず」、どんな凶悪犯も必ず改悛するのなら話は簡単で、死刑にせずに立ち直りを期待すると同時に、被害者遺族への公的支援を拡充することが社会的な安定のために望ましいだろう。だが、人間の本質的な姿は様々だろうから、かくあってほしいという理想像で強弁することはできない。改悛しない凶悪犯を、この社会は「許す」ことができるのか、そこが問われている。
2016年11月2日水曜日
死刑廃止について①
日弁連が人権擁護大会で、「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」を採択した。組織として死刑制度の廃止を掲げるのは初めて。2020年には日本で国連犯罪防止刑事司法会議が開催されるので、それまでに死刑を廃止し、仮釈放のない終身刑などを導入することや、受刑者の社会復帰の支援拡充などを目指すとした。
この宣言は日弁連のHPに掲載されており、死刑廃止を主張する理由として▽生まれながらの犯罪者はおらず、人は罪を悔い、変わり得る存在、▽国連人権理事会などから廃止を考慮するよう求められている、▽死刑制度を廃止する国は増加し、国際社会の大勢が死刑の廃止を志向している、▽冤罪による処刑の危険性は重大−−などを挙げ、刑罰制度全体を、罪を犯した人の真の改善更生と社会復帰を志向するものへと改革するよう国に求めている。
同HPには詳細な「提案理由」も掲載され、そこでは▽日本でも300年以上、死刑執行がなかった時代がある、▽死刑執行の基準、手続、方法等に関する情報が公開されていない、▽死刑判決に関する慎重な司法手続が保障されていない−−などを問題点と指摘し、死刑が、かけがえのない生命を奪う非人道的な刑罰であるとする。
さらに、日本の刑事司法制度は「起訴前の勾留期間を通じて長期間・長時間の取調べがなされ、虚偽の自白がなされる危険性が高い」とし、「取調べの全件・全過程の録音・録画、弁護人の取調べへの立会い及び全面的証拠開示制度も実現して」おらず、現行の刑事司法制度で「冤罪が発生する危険性は高いレベルにある」と危惧する。
また、「犯罪の抑止は、犯罪原因の研究と予防対策を総合的・科学的に行うべきであり、他の刑罰に比べて死刑に犯罪抑止力があるということは科学的に証明されていない」とし、政府は国民世論に支持されているというが、死刑制度に関する情報公開は極めて不十分であり、十分な情報の提供で熟議すれば、国民世論も変化し得ると期待する。
死刑の廃止は、受刑者の更生と社会復帰を軸とした刑罰制度の改革の一環として行われるべきだとする日弁連は、受刑者に対する多岐にわたる基本的人権の制約に異議を唱え、仮釈放制度の改革を提言し、被拘禁者の生活全般を一般社会の規則や生活に近付けることなどを提言する。
日本の刑罰制度には様々の問題があり、死刑制度を廃止することで必然的に刑罰制度全体の見直しをせざるを得なくなるというのが日弁連の見立てのようだ。これは、政府は現行の刑罰制度を大きく変えたくないから、見直しの端緒となる死刑廃止に動かないと解釈することもできる。つまり、死刑廃止の実現は、日本の刑罰制度の見直しに直結する。
この宣言は日弁連のHPに掲載されており、死刑廃止を主張する理由として▽生まれながらの犯罪者はおらず、人は罪を悔い、変わり得る存在、▽国連人権理事会などから廃止を考慮するよう求められている、▽死刑制度を廃止する国は増加し、国際社会の大勢が死刑の廃止を志向している、▽冤罪による処刑の危険性は重大−−などを挙げ、刑罰制度全体を、罪を犯した人の真の改善更生と社会復帰を志向するものへと改革するよう国に求めている。
同HPには詳細な「提案理由」も掲載され、そこでは▽日本でも300年以上、死刑執行がなかった時代がある、▽死刑執行の基準、手続、方法等に関する情報が公開されていない、▽死刑判決に関する慎重な司法手続が保障されていない−−などを問題点と指摘し、死刑が、かけがえのない生命を奪う非人道的な刑罰であるとする。
さらに、日本の刑事司法制度は「起訴前の勾留期間を通じて長期間・長時間の取調べがなされ、虚偽の自白がなされる危険性が高い」とし、「取調べの全件・全過程の録音・録画、弁護人の取調べへの立会い及び全面的証拠開示制度も実現して」おらず、現行の刑事司法制度で「冤罪が発生する危険性は高いレベルにある」と危惧する。
また、「犯罪の抑止は、犯罪原因の研究と予防対策を総合的・科学的に行うべきであり、他の刑罰に比べて死刑に犯罪抑止力があるということは科学的に証明されていない」とし、政府は国民世論に支持されているというが、死刑制度に関する情報公開は極めて不十分であり、十分な情報の提供で熟議すれば、国民世論も変化し得ると期待する。
死刑の廃止は、受刑者の更生と社会復帰を軸とした刑罰制度の改革の一環として行われるべきだとする日弁連は、受刑者に対する多岐にわたる基本的人権の制約に異議を唱え、仮釈放制度の改革を提言し、被拘禁者の生活全般を一般社会の規則や生活に近付けることなどを提言する。
日本の刑罰制度には様々の問題があり、死刑制度を廃止することで必然的に刑罰制度全体の見直しをせざるを得なくなるというのが日弁連の見立てのようだ。これは、政府は現行の刑罰制度を大きく変えたくないから、見直しの端緒となる死刑廃止に動かないと解釈することもできる。つまり、死刑廃止の実現は、日本の刑罰制度の見直しに直結する。
2016年10月29日土曜日
文学の領域
日本で文学というと小説、詩歌、戯曲を思い浮かべる人が多いだろう。対象を広げても、随筆や文芸批評、作家の日記や体験記などを含めるぐらいが広義の文学か。だが、文学の定義は固定したものではないらしい。文学の概念は、史伝や歴史書、伝記などを重視したり、古典の注解や政治的・思想的評論なども対象とするなど、国や文化によって幅があるという。
個人が創作した文字表現の世界は広大かつ多様であり、詩の一節と同様に哲学書などの一文に美や面白さを感じたりもすることもある。フィクションに対象を限定せずに、対象を広げることで、文学の世界はもっと豊穣になろう。だが、あまりに多様になりすぎると、人間の知的活動の大半が文学の範疇になりかねない。
中国の影響を受け、詩と散文を重視していた日本で、文学の定義に大きな影響を及ぼしたのが本居信長だという。加藤周一氏は「十八世紀の後半に本居信長が日本文学を定義」し、漢学者や儒者など江戸時代のインテリが批判していた源氏物語を「代表的な文学作品として擁護した」(『日本文学史序説 補講』)という。本居信長は「道徳と文学作品の分離、つまり子どもに道徳を説くことと文学は違う」とし、「「文学は<もののあはれ>といったような美的な感動の表現である」とした(同)。
明治維新以後に儒者の影響力は衰えたが、本居宣長の文学の定義は継承され、漢文は廃れて言葉は日本語、内容は美学と日本文学の定義は狭くなった。そこに西洋化の影響が強くなり、詩と小説と劇が文学の中心だという英国の文学観が輸入され、国学に重なり、さらに第二次大戦後には、詩と芝居と小説だけを文学とする米国の影響を受け、狭い文学の定義が固定化された(同)。
加藤周一氏は著書『日本文学史序説』で文学概念を拡大し、漢文で書かれたものや口承の文学を積極的に取り入れ、宗教的、哲学的著作から農民一揆の檄文まで取り上げた。狭い定義は「日本文学史をいちばん面白く読むための道具ではない」「広い視野で見直せば社会思想も哲学思想もはるかに豊富に出てきて、日本文学史が豊かになる」(同)とし、過去の作品の列挙ではなく、「過去を押さえて、その上に新しいものを付け加えて変化」していったとの歴史を叙述した。
ノーベル文学賞も文学の概念を広げることにしたらしい。2016年のノーベル文学賞の受賞者はボブ・ディラン氏で、受賞理由は「偉大なアメリカ音楽の伝統の中で、新たな詩的表現を創造した」功績によるという。詩人としてではなく歌手としての受賞だそうで、シンガーソングライターも作家の仲間入りか。
ボブ・ディラン氏の歌う世界が豊穣であることは、英語に堪能ではなく、韻を踏むことに面白みも感じない人には理解しづらいだろう。英語圏の人にとってもボブ・ディラン氏の歌詞は簡単には理解できないことがあるというから、難解という点では既成の文学の概念にも当てはまる?
個人が創作した文字表現の世界は広大かつ多様であり、詩の一節と同様に哲学書などの一文に美や面白さを感じたりもすることもある。フィクションに対象を限定せずに、対象を広げることで、文学の世界はもっと豊穣になろう。だが、あまりに多様になりすぎると、人間の知的活動の大半が文学の範疇になりかねない。
中国の影響を受け、詩と散文を重視していた日本で、文学の定義に大きな影響を及ぼしたのが本居信長だという。加藤周一氏は「十八世紀の後半に本居信長が日本文学を定義」し、漢学者や儒者など江戸時代のインテリが批判していた源氏物語を「代表的な文学作品として擁護した」(『日本文学史序説 補講』)という。本居信長は「道徳と文学作品の分離、つまり子どもに道徳を説くことと文学は違う」とし、「「文学は<もののあはれ>といったような美的な感動の表現である」とした(同)。
明治維新以後に儒者の影響力は衰えたが、本居宣長の文学の定義は継承され、漢文は廃れて言葉は日本語、内容は美学と日本文学の定義は狭くなった。そこに西洋化の影響が強くなり、詩と小説と劇が文学の中心だという英国の文学観が輸入され、国学に重なり、さらに第二次大戦後には、詩と芝居と小説だけを文学とする米国の影響を受け、狭い文学の定義が固定化された(同)。
加藤周一氏は著書『日本文学史序説』で文学概念を拡大し、漢文で書かれたものや口承の文学を積極的に取り入れ、宗教的、哲学的著作から農民一揆の檄文まで取り上げた。狭い定義は「日本文学史をいちばん面白く読むための道具ではない」「広い視野で見直せば社会思想も哲学思想もはるかに豊富に出てきて、日本文学史が豊かになる」(同)とし、過去の作品の列挙ではなく、「過去を押さえて、その上に新しいものを付け加えて変化」していったとの歴史を叙述した。
ノーベル文学賞も文学の概念を広げることにしたらしい。2016年のノーベル文学賞の受賞者はボブ・ディラン氏で、受賞理由は「偉大なアメリカ音楽の伝統の中で、新たな詩的表現を創造した」功績によるという。詩人としてではなく歌手としての受賞だそうで、シンガーソングライターも作家の仲間入りか。
ボブ・ディラン氏の歌う世界が豊穣であることは、英語に堪能ではなく、韻を踏むことに面白みも感じない人には理解しづらいだろう。英語圏の人にとってもボブ・ディラン氏の歌詞は簡単には理解できないことがあるというから、難解という点では既成の文学の概念にも当てはまる?
2016年10月26日水曜日
反米という選択肢
中国を訪問したフィリピンのドゥテルテ大統領はビジネスフォーラムの演説で、「軍事的にも経済的にも米国と決別する」と述べ、以前から、米軍との軍事演習打ち切りを表明したり、米国との軍事協力関係の見直しなどを主張していたこともあって、国際的に波紋を広げた。
「米国と決別する」発言が強烈なメッセージになったためかドゥテルテ大統領は帰国後、発言の意図は「アメリカに従属する外交から脱することだ」とし、外交的に断絶することではないと釈明することになったが、過去のフィリピン政権は米国の指示に常に従っていたとし、独自外交路線に転換するとした。
その独自外交の第一歩ともいうべき訪中でドゥテルテ大統領が得たものは、鉄道建設などインフラへの幅広い投資や麻薬中毒患者治療センターの整備支援、貿易の拡大など総額240億ドルの経済支援だった。中国側が豪勢な「土産」を持たせたともいえようが、中国の経済支援は、例えば、中国政府が資金を出し、中国企業が受注して中国人労働者を引き連れて現地で工事を行うだけなので、地元に対する経済的な波及効果が薄いという評価がある。
一方、米国との関係冷え込みでフィリピンが被る経済的な損失が今後どれほどになるのか、まだ定かではない。ドゥテルテ大統領はおそらく損得勘定では動いていないだろうし、かつての米国の植民地支配を批判するなど反米感情は強固だとも見えるので、米国と中国を天秤にかけて損得でドライに動くという外交ではなさそうだ。
アメリカに見向きもされないような小国が、金をばらまく中国を頼るようになるのは珍しい光景ではないが、長くアメリカと同盟関係にあった国が、アメリカからの離反と中国への傾斜を明らかにするのは珍しい。冷戦期なら、すわ裏切りかと見られただろうが、パックスアメリカーナに陰りが見られる現在世界では、アメリカとの“距離”の見直しは各国に共通する課題でもあるな。
陰りが見られるといっても米国はなお突出した大国である。米比の関係でいえばフィリピンは従属的にならざるを得まいだろうが、一寸の虫にも五分の魂があるとズケズケと米国批判をするドゥテルテ大統領の心意気は見習うべきかもしれない(彼は感情的で品がない言い方をするが)。まあ、フィリピンの国策としての反米ではなく、大統領の個性が強く出過ぎている結果としての反米であることは確かだろう。
フィリピンでは、植民地支配していた米国の影響力はなお強いが反米感情も受け継がれているともいう。フィリピンの病巣は大土地所有の富裕層の中で権力をたらい回ししていることで、そうした富裕層は米国との結びつきが強いとされる。ドゥテルテ大統領が米国を批判するのは、国内の富裕層をも念頭に置いているものだとすれば、彼の支持率が非常に高いこともうなずける。
「米国と決別する」発言が強烈なメッセージになったためかドゥテルテ大統領は帰国後、発言の意図は「アメリカに従属する外交から脱することだ」とし、外交的に断絶することではないと釈明することになったが、過去のフィリピン政権は米国の指示に常に従っていたとし、独自外交路線に転換するとした。
その独自外交の第一歩ともいうべき訪中でドゥテルテ大統領が得たものは、鉄道建設などインフラへの幅広い投資や麻薬中毒患者治療センターの整備支援、貿易の拡大など総額240億ドルの経済支援だった。中国側が豪勢な「土産」を持たせたともいえようが、中国の経済支援は、例えば、中国政府が資金を出し、中国企業が受注して中国人労働者を引き連れて現地で工事を行うだけなので、地元に対する経済的な波及効果が薄いという評価がある。
一方、米国との関係冷え込みでフィリピンが被る経済的な損失が今後どれほどになるのか、まだ定かではない。ドゥテルテ大統領はおそらく損得勘定では動いていないだろうし、かつての米国の植民地支配を批判するなど反米感情は強固だとも見えるので、米国と中国を天秤にかけて損得でドライに動くという外交ではなさそうだ。
アメリカに見向きもされないような小国が、金をばらまく中国を頼るようになるのは珍しい光景ではないが、長くアメリカと同盟関係にあった国が、アメリカからの離反と中国への傾斜を明らかにするのは珍しい。冷戦期なら、すわ裏切りかと見られただろうが、パックスアメリカーナに陰りが見られる現在世界では、アメリカとの“距離”の見直しは各国に共通する課題でもあるな。
陰りが見られるといっても米国はなお突出した大国である。米比の関係でいえばフィリピンは従属的にならざるを得まいだろうが、一寸の虫にも五分の魂があるとズケズケと米国批判をするドゥテルテ大統領の心意気は見習うべきかもしれない(彼は感情的で品がない言い方をするが)。まあ、フィリピンの国策としての反米ではなく、大統領の個性が強く出過ぎている結果としての反米であることは確かだろう。
フィリピンでは、植民地支配していた米国の影響力はなお強いが反米感情も受け継がれているともいう。フィリピンの病巣は大土地所有の富裕層の中で権力をたらい回ししていることで、そうした富裕層は米国との結びつきが強いとされる。ドゥテルテ大統領が米国を批判するのは、国内の富裕層をも念頭に置いているものだとすれば、彼の支持率が非常に高いこともうなずける。
2016年10月22日土曜日
最高権威と最高権力
各種のミサイル発射を繰り返し、核実験を続ける北朝鮮。同じような核開発疑惑があったイランやリビアに対して米国は、絶対に許さないと強硬な姿勢で核開発を止めようとしたが、北朝鮮には核開発を許した。北朝鮮の核開発能力を軽視しすぎたのか、中国の北朝鮮に対する影響力に過大に期待したためか、朝鮮半島の休戦状態維持を最優先したのか定かではないが、もう米国の影響力が限定的であることを示した。
米国は米韓合同軍事演習の規模を拡大して「警告」を繰り返すが、北朝鮮が核開発を放棄する気配はない。逆に、その演習を自国に対する現実的脅威だと北朝鮮は、ミサイル発射や核実験を正当化する口実に利用しているように見える。双方が軍事力を誇示しあっているような状況は偶発的衝突を招きかねない。
軍事力では米軍が圧倒的な優位にあるが、北朝鮮軍の敗北=北朝鮮の体制崩壊であろうから大量の難民(逃亡者)の発生や韓国の負担増大が懸念され、“勝てる”戦争に米国は踏み切れない。北朝鮮を国家として存続させつつ、ミサイルや核の開発を止めさせ、軍事力偏重から民生の向上重視へと政策を転換させることができれば米国はじめ周辺諸国には望ましいのだろうが、北朝鮮に路線変更の徴候は見えない。
北朝鮮には世襲の独裁的な権力者が存在するが、現在の金正恩氏がトップになって以来、対外的に硬直した強硬姿勢を続け、国際的な経済制裁にも反発するだけだ。ミサイルや核の開発に注力するのは、それが現政権にとって何らかの合理性がある選択なのだろうが、どのような合理性があるのか、北朝鮮内部の情報が不足しているので外部からは判断できない。
そうした中で、北朝鮮の独裁者の排除計画が米軍に存在すると報じられた。軍事的には常に各種の行動計画を検討しているのだろうが、本当に対象者を暗殺するつもりなら、相手の警戒心を刺激しないように計画は秘密裡にしておかなければならない。外部に知られるようにすることは「警告」や脅しが狙いだろうが、暗殺が困難であることを示しているようでもある。
さて、もし北朝鮮で独裁者が排除されたなら、体制崩壊をせずに国家として存続するのだろうか、体制崩壊するのだろうか。それを類推するには、独裁者が北朝鮮の人々にとって、どのような存在であるのかを知らなければならない。政治的な最高権力者というだけか、至高の価値を体現する最高権威者なのか。ただの最高権力者であったのなら、独裁者が排除されると混乱が広がるだろうが国としては存続可能かもしれない。
イラクのフセインやリビアのカダフィが殺された後には破綻した国家が残された。独裁支配による強権で締め付けている体制は、独裁者という重しが外れるとバラバラになる。一方、1945年に日本を占領した米国は、当時は独裁者と見なされた天皇を処刑せず、日本人の反乱を防止するとともに占領業務の遂行に利用した。最高権威者として米国は天皇を位置づけ、独立を失った日本は国家としては存続した。
世襲で権力を継承した北朝鮮の最高権力者は、さて、最高権威者でもあるのだろうか。残忍な最高権力者であったなら、外部からの力で排除された時に人々は喜ぶだろうが、最高権威者でもあったなら、国が存続する意味が薄れ、体制は崩壊するだろう(外部からの力に立ち向かって反乱を起こすだけの力が民間にあるようには見えない)。最高権力者か最高権威者か、見極めは容易ではなさそうだ。
米国は米韓合同軍事演習の規模を拡大して「警告」を繰り返すが、北朝鮮が核開発を放棄する気配はない。逆に、その演習を自国に対する現実的脅威だと北朝鮮は、ミサイル発射や核実験を正当化する口実に利用しているように見える。双方が軍事力を誇示しあっているような状況は偶発的衝突を招きかねない。
軍事力では米軍が圧倒的な優位にあるが、北朝鮮軍の敗北=北朝鮮の体制崩壊であろうから大量の難民(逃亡者)の発生や韓国の負担増大が懸念され、“勝てる”戦争に米国は踏み切れない。北朝鮮を国家として存続させつつ、ミサイルや核の開発を止めさせ、軍事力偏重から民生の向上重視へと政策を転換させることができれば米国はじめ周辺諸国には望ましいのだろうが、北朝鮮に路線変更の徴候は見えない。
北朝鮮には世襲の独裁的な権力者が存在するが、現在の金正恩氏がトップになって以来、対外的に硬直した強硬姿勢を続け、国際的な経済制裁にも反発するだけだ。ミサイルや核の開発に注力するのは、それが現政権にとって何らかの合理性がある選択なのだろうが、どのような合理性があるのか、北朝鮮内部の情報が不足しているので外部からは判断できない。
そうした中で、北朝鮮の独裁者の排除計画が米軍に存在すると報じられた。軍事的には常に各種の行動計画を検討しているのだろうが、本当に対象者を暗殺するつもりなら、相手の警戒心を刺激しないように計画は秘密裡にしておかなければならない。外部に知られるようにすることは「警告」や脅しが狙いだろうが、暗殺が困難であることを示しているようでもある。
さて、もし北朝鮮で独裁者が排除されたなら、体制崩壊をせずに国家として存続するのだろうか、体制崩壊するのだろうか。それを類推するには、独裁者が北朝鮮の人々にとって、どのような存在であるのかを知らなければならない。政治的な最高権力者というだけか、至高の価値を体現する最高権威者なのか。ただの最高権力者であったのなら、独裁者が排除されると混乱が広がるだろうが国としては存続可能かもしれない。
イラクのフセインやリビアのカダフィが殺された後には破綻した国家が残された。独裁支配による強権で締め付けている体制は、独裁者という重しが外れるとバラバラになる。一方、1945年に日本を占領した米国は、当時は独裁者と見なされた天皇を処刑せず、日本人の反乱を防止するとともに占領業務の遂行に利用した。最高権威者として米国は天皇を位置づけ、独立を失った日本は国家としては存続した。
世襲で権力を継承した北朝鮮の最高権力者は、さて、最高権威者でもあるのだろうか。残忍な最高権力者であったなら、外部からの力で排除された時に人々は喜ぶだろうが、最高権威者でもあったなら、国が存続する意味が薄れ、体制は崩壊するだろう(外部からの力に立ち向かって反乱を起こすだけの力が民間にあるようには見えない)。最高権力者か最高権威者か、見極めは容易ではなさそうだ。
2016年10月19日水曜日
子供の悲惨な写真
シリア北部アレッポで、反体制派が支配する地域にアサド政府軍とロシア軍によるとみられる空爆が続き、少なからぬ民間人の死傷者が出ていると報じられている。欧米のメディアでは、崩れたビルから救出された子供の姿など、悲惨さを強調し、同情心を煽る写真が大きく扱われているそうだ。ユニセフは9月23日からの1週間で少なくとも96人の子供が死亡し、223人が負傷したと発表。
アレッポから悲惨さを伝える情報発信が行われるのは、国際的な人権組織が入って活動しているからだ。アサド政権の支配地域では活動に制約があるということなので情報は乏しく、おそらく米軍主導の有志連合がISに対して行うという空爆によっても民間人に被害が出ている可能性があるが、それらの地域での悲惨さはほとんど伝えられない。
新聞やテレビ以外にネットによる情報発信も活発になったが、情報源に制約があることは珍しくなく、特定の意図に沿った情報誘導が行われることも珍しくない。シリア内戦に関して膨大な情報が発信されているが、それらの情報を熱心にフォローしたとしても、シリア内戦の正確な偏らない全体像が構築できるとは限らない。民間人の犠牲の悲惨さに心を痛め、同情するのは自然だろうが、同情するように情報操作されている可能性がある。
欧州メディアには「前科」がある。ボスニアやコソボの紛争で、子供を含む家族の殺害された写真や女性の被害など、対立する一方の側の被害だけを強調して世論を誘導し、NATOの介入などへ道を開いた。メディアに特定の意図はなく、その時々のニュース価値だけで判断していたのかもしれないが、結果として、対立する一方の側の暴力に対する批判だけを高めることに協力した。
傷ついた子供の写真を見せられると、人は感情を揺すぶられる。助けてあげたい、救ってあげたいとの思いを刺激されるが、写真に写った傷ついた子供は遥か遠くの土地にいるので、何もしてあげられない。その種の無力感は、例えば、空爆を行っている国や組織に対する怒りを増幅させる可能性がある。傷ついた子供がいるのだから怒りには正当性が与えられようし、感情に支えられた正当性は、相手側に対する攻撃(反撃)を正当化したりする。
子供を傷つけているような国や組織に対する攻撃が行われると、そこでも傷つき、死ぬ子供たちや民間人が出るのだが、そのような写真が発信されたとしてもメディアはもう取り上げないだろう。非道な「敵」に「罰」を与えることを支持するように世論を形成したなら、それに疑いを持たせるような報道は控えられる。メディアが正義を言い立てて、「戦いの正当性」を批判しなくなることは珍しいことではない。
悲惨な子供の写真といえば、内戦のシリアから逃れギリシャを目指したボートが転覆し、トルコの海岸に打ち上げられた3歳児の溺死写真を欧州メディアは大きく取り上げた。これで、悲惨な状況にあるシリア難民に対する同情が一気に高まり、世論に押されて欧州各国が難民受け入れに積極的になり、各国が大量の難民を受け入れ始めた……とは、ならなかった。遠く離れた土地での子供には同情するだけで済むが、実際に負担を伴うとなると感情に動かされてばかりもいられないということか。
アレッポから悲惨さを伝える情報発信が行われるのは、国際的な人権組織が入って活動しているからだ。アサド政権の支配地域では活動に制約があるということなので情報は乏しく、おそらく米軍主導の有志連合がISに対して行うという空爆によっても民間人に被害が出ている可能性があるが、それらの地域での悲惨さはほとんど伝えられない。
新聞やテレビ以外にネットによる情報発信も活発になったが、情報源に制約があることは珍しくなく、特定の意図に沿った情報誘導が行われることも珍しくない。シリア内戦に関して膨大な情報が発信されているが、それらの情報を熱心にフォローしたとしても、シリア内戦の正確な偏らない全体像が構築できるとは限らない。民間人の犠牲の悲惨さに心を痛め、同情するのは自然だろうが、同情するように情報操作されている可能性がある。
欧州メディアには「前科」がある。ボスニアやコソボの紛争で、子供を含む家族の殺害された写真や女性の被害など、対立する一方の側の被害だけを強調して世論を誘導し、NATOの介入などへ道を開いた。メディアに特定の意図はなく、その時々のニュース価値だけで判断していたのかもしれないが、結果として、対立する一方の側の暴力に対する批判だけを高めることに協力した。
傷ついた子供の写真を見せられると、人は感情を揺すぶられる。助けてあげたい、救ってあげたいとの思いを刺激されるが、写真に写った傷ついた子供は遥か遠くの土地にいるので、何もしてあげられない。その種の無力感は、例えば、空爆を行っている国や組織に対する怒りを増幅させる可能性がある。傷ついた子供がいるのだから怒りには正当性が与えられようし、感情に支えられた正当性は、相手側に対する攻撃(反撃)を正当化したりする。
子供を傷つけているような国や組織に対する攻撃が行われると、そこでも傷つき、死ぬ子供たちや民間人が出るのだが、そのような写真が発信されたとしてもメディアはもう取り上げないだろう。非道な「敵」に「罰」を与えることを支持するように世論を形成したなら、それに疑いを持たせるような報道は控えられる。メディアが正義を言い立てて、「戦いの正当性」を批判しなくなることは珍しいことではない。
悲惨な子供の写真といえば、内戦のシリアから逃れギリシャを目指したボートが転覆し、トルコの海岸に打ち上げられた3歳児の溺死写真を欧州メディアは大きく取り上げた。これで、悲惨な状況にあるシリア難民に対する同情が一気に高まり、世論に押されて欧州各国が難民受け入れに積極的になり、各国が大量の難民を受け入れ始めた……とは、ならなかった。遠く離れた土地での子供には同情するだけで済むが、実際に負担を伴うとなると感情に動かされてばかりもいられないということか。
2016年10月15日土曜日
義が行動原理
童話「桃太郎」のストーリーや人物設定などは地方によって様々な違いがあるそうだが、一般的なのは、桃から産まれた桃太郎が老夫婦に育てられ、成長してから鬼が島に行って、人々を苦しめる鬼を退治し、宝物を持ち帰るという筋書きだ。鬼退治には、犬、猿、キジに黍団子を与えて家来にして連れて行ったとされる。
だが、犬、猿、キジを桃太郎の家来と位置づけたのは明治以降であるという。もともとの話では、動物たちは同志であったり、道連れであったりしたのだが、富国強兵を目指す時代の気分にふさわしいように、忠孝とか報恩などの価値観を奨励しつつ、忠義を捧げられるべき主役と、忠誠を尽くすべき脇役を明確化させたのかもしれない。
犬、猿、キジが家来になったのではなく、桃太郎の同志であったなら、童話「桃太郎」の印象は変わってこよう。黍団子を貰ったから桃太郎に従うという話なら動物たちは目先の利益につられて動く存在でしかないが、「俺らも鬼には、ひどい目にあってるんだ」などという動機から、桃太郎の同志として動く話になると、動物たちの主体性が浮かんで見えてくる。
動物たちが同志になるには、敵は鬼であることを桃太郎と共有することが大前提だ。敵目標が一致するから、それまでバラバラに生きてきた桃太郎と動物たちが、連帯して共同戦線を構築することが可能になる。それ以前は、鬼に散々、ひどい目にあっていた人や動物たちが共同で対処しようとしなかったから、鬼は好き勝手に振る舞うことができた。彼らに欠けていたものは何か。
桃太郎と動物たちが同志になって共同戦線を構築することを支えるものは、敵目標の一致に加え、精神的な結びつきだ。生死を共にした戦いで同志となるには、黍団子などの利益供与ではなく、互いの信頼感が不可欠となる。そうした精神的な結びつきを義という言葉で説くのが竹中労だ。
竹中労は「〔義〕とは、人を呪縛するいっさいの公序良俗、国家権力に叛逆することである。〔すべて兄弟、貴賤を分たず〕という、血盟それ自体を指すのではない、まして無可有のユトピアの理想に殉ずることではない、いかなる報酬をも期待せず、ひたすら権力との闘争の過程に奮迅することによって、窮民の〔義〕は全うされるのである」(『水滸伝−−窮民革命のための序説』1973年刊。平岡正明との共著)とする。
これは窮民革命を論じた文章なので竹中労は、権力への叛逆に重点を置いて義を説明したが、竹中労は無党派・自由連合を基本と考えたので、自由連合への個々の参加意識を支えるものを義と見たはずだ。人間関係に束縛されず、思想信条・主義主張にも束縛されず、共通の敵を倒すためだけに連合する……各自が持つ義が共鳴するときに共同戦線が構築されるなら、理想的な展開だろう。
一般的な義の解釈は「行為が道徳・倫理にかなっていること」「よいとされる行為」などと幅広いが、竹中労はそこに個人の意思を加え、義は各自各人で形成するものと見なした。仁義や義理、正義、義務、意義など義を含む言葉は多いが、これらの言葉を現実に当てはめた実際の解釈では個人差が大きいから、どのような義を形成するかを各自は問われる。
時代劇でお馴染みの「義によって助太刀いたす」の言葉を動物たちが発したかどうかは知らないが、桃太郎と動物たちは同志となって鬼を倒した後、動物たちは各自がそれぞれの生活に戻ったに違いない。参加も自由だし、離脱も自由で、共通の敵を倒すときだけに共同するのが義による自由連合だから。
だが、犬、猿、キジを桃太郎の家来と位置づけたのは明治以降であるという。もともとの話では、動物たちは同志であったり、道連れであったりしたのだが、富国強兵を目指す時代の気分にふさわしいように、忠孝とか報恩などの価値観を奨励しつつ、忠義を捧げられるべき主役と、忠誠を尽くすべき脇役を明確化させたのかもしれない。
犬、猿、キジが家来になったのではなく、桃太郎の同志であったなら、童話「桃太郎」の印象は変わってこよう。黍団子を貰ったから桃太郎に従うという話なら動物たちは目先の利益につられて動く存在でしかないが、「俺らも鬼には、ひどい目にあってるんだ」などという動機から、桃太郎の同志として動く話になると、動物たちの主体性が浮かんで見えてくる。
動物たちが同志になるには、敵は鬼であることを桃太郎と共有することが大前提だ。敵目標が一致するから、それまでバラバラに生きてきた桃太郎と動物たちが、連帯して共同戦線を構築することが可能になる。それ以前は、鬼に散々、ひどい目にあっていた人や動物たちが共同で対処しようとしなかったから、鬼は好き勝手に振る舞うことができた。彼らに欠けていたものは何か。
桃太郎と動物たちが同志になって共同戦線を構築することを支えるものは、敵目標の一致に加え、精神的な結びつきだ。生死を共にした戦いで同志となるには、黍団子などの利益供与ではなく、互いの信頼感が不可欠となる。そうした精神的な結びつきを義という言葉で説くのが竹中労だ。
竹中労は「〔義〕とは、人を呪縛するいっさいの公序良俗、国家権力に叛逆することである。〔すべて兄弟、貴賤を分たず〕という、血盟それ自体を指すのではない、まして無可有のユトピアの理想に殉ずることではない、いかなる報酬をも期待せず、ひたすら権力との闘争の過程に奮迅することによって、窮民の〔義〕は全うされるのである」(『水滸伝−−窮民革命のための序説』1973年刊。平岡正明との共著)とする。
これは窮民革命を論じた文章なので竹中労は、権力への叛逆に重点を置いて義を説明したが、竹中労は無党派・自由連合を基本と考えたので、自由連合への個々の参加意識を支えるものを義と見たはずだ。人間関係に束縛されず、思想信条・主義主張にも束縛されず、共通の敵を倒すためだけに連合する……各自が持つ義が共鳴するときに共同戦線が構築されるなら、理想的な展開だろう。
一般的な義の解釈は「行為が道徳・倫理にかなっていること」「よいとされる行為」などと幅広いが、竹中労はそこに個人の意思を加え、義は各自各人で形成するものと見なした。仁義や義理、正義、義務、意義など義を含む言葉は多いが、これらの言葉を現実に当てはめた実際の解釈では個人差が大きいから、どのような義を形成するかを各自は問われる。
時代劇でお馴染みの「義によって助太刀いたす」の言葉を動物たちが発したかどうかは知らないが、桃太郎と動物たちは同志となって鬼を倒した後、動物たちは各自がそれぞれの生活に戻ったに違いない。参加も自由だし、離脱も自由で、共通の敵を倒すときだけに共同するのが義による自由連合だから。
2016年10月12日水曜日
引退の決断
五輪が終わって暫くすると、参加した選手の引退が報じられるようになる。ニュースになるのは上位でメダル争いした選手たちに限られるが、様々の競技で多くの選手が引退し、世代交代が行われているだろう。こうした引退は競技から離れることを意味するのだろうが、アマチュア選手なら第一線からの引退もある。
第一線からの引退とは、代表選手になることを辞退したり、勝利だけを目指すことをやめたりすることだが、勝敗や順位にとらわれず楽しむためにスポーツは続ける。過酷な練習から解放されて、ミスやヘマも笑いのタネにし、体を動かすことを楽しむようになるなら、それは一般の人にとってのスポーツの意味と同じになる。
プロ選手には第一線からの引退は許されず、引退はその競技からの離脱を意味し、生活の糧を失うことも意味する。9月に入るとプロ野球界では選手の引退表明が相次ぐようになり、主力だった選手の引退は大きく報じられ、10月になると各球団が戦力外通告を始め、スポーツ新聞の「12球団戦力外・引退選手一覧」などに掲載される名前が日ごとに増え、スター選手だけでプロスポーツが成り立っているわけではないと実感させる。
目立った活躍をすることがなかったプロ選手なら引退を当人も周囲も受け入れやすいかもしれないが、活躍した実績を持つプロ選手の現役引退の判断は簡単ではないだろう。年齢とともに成績が下降するのは避けられまいが、まだ一流と見られているうちに“美しく”引退するか、二流扱いされるようになっても現役を長く続けるか。どちらもそれなりに納得できる選手生活であろうから、個人の美学の違いとでも見るしかなさそうだ。
プロ選手の引退の美学の最たるものは、一流として活躍しているうちに引退することか。まだ、できるのにと周囲やファンは驚きつつ惜しみながら、その競技への愛着が強くはなかったと明かされたようでもあり残念に感じたりする。プライドが強い人ほど、一流でいるうちに引退したがるのか、ボロボロになっても俺は俺だと続けるのか定かではないが、惜しまれつつ引退することはプロ選手の特権の一つか。
格好のいい引退だけが美学の対象ではない。若手に負けたり、若手に追い越されたりすることも、若手の目標になる一流選手の責務だと考え、若手に負けるまで現役を続けるのもプロ選手の美学だ。若手に追い越されたなら、世代交代が自分の身にも及んできたと自覚でき、為すべきことは為したと現役への未練が薄れて引退を決断しやすくなるかもしれない。
スポーツ選手の全盛期は長くはない。10年も一流選手でいられたなら大選手と称讃されるだろう。ファンも、うっかりしていられない。関心が薄れて10年も遠ざかっていたなら、活躍する選手の顔ぶれが大幅に変わってしまう。主力選手の多くが自分より年下になって、プロ選手が憧れる対象というより、ただ眺めるものになったりする。引退は選手の世代交代を進めるとともに、ファンの世代交代も進める。
第一線からの引退とは、代表選手になることを辞退したり、勝利だけを目指すことをやめたりすることだが、勝敗や順位にとらわれず楽しむためにスポーツは続ける。過酷な練習から解放されて、ミスやヘマも笑いのタネにし、体を動かすことを楽しむようになるなら、それは一般の人にとってのスポーツの意味と同じになる。
プロ選手には第一線からの引退は許されず、引退はその競技からの離脱を意味し、生活の糧を失うことも意味する。9月に入るとプロ野球界では選手の引退表明が相次ぐようになり、主力だった選手の引退は大きく報じられ、10月になると各球団が戦力外通告を始め、スポーツ新聞の「12球団戦力外・引退選手一覧」などに掲載される名前が日ごとに増え、スター選手だけでプロスポーツが成り立っているわけではないと実感させる。
目立った活躍をすることがなかったプロ選手なら引退を当人も周囲も受け入れやすいかもしれないが、活躍した実績を持つプロ選手の現役引退の判断は簡単ではないだろう。年齢とともに成績が下降するのは避けられまいが、まだ一流と見られているうちに“美しく”引退するか、二流扱いされるようになっても現役を長く続けるか。どちらもそれなりに納得できる選手生活であろうから、個人の美学の違いとでも見るしかなさそうだ。
プロ選手の引退の美学の最たるものは、一流として活躍しているうちに引退することか。まだ、できるのにと周囲やファンは驚きつつ惜しみながら、その競技への愛着が強くはなかったと明かされたようでもあり残念に感じたりする。プライドが強い人ほど、一流でいるうちに引退したがるのか、ボロボロになっても俺は俺だと続けるのか定かではないが、惜しまれつつ引退することはプロ選手の特権の一つか。
格好のいい引退だけが美学の対象ではない。若手に負けたり、若手に追い越されたりすることも、若手の目標になる一流選手の責務だと考え、若手に負けるまで現役を続けるのもプロ選手の美学だ。若手に追い越されたなら、世代交代が自分の身にも及んできたと自覚でき、為すべきことは為したと現役への未練が薄れて引退を決断しやすくなるかもしれない。
スポーツ選手の全盛期は長くはない。10年も一流選手でいられたなら大選手と称讃されるだろう。ファンも、うっかりしていられない。関心が薄れて10年も遠ざかっていたなら、活躍する選手の顔ぶれが大幅に変わってしまう。主力選手の多くが自分より年下になって、プロ選手が憧れる対象というより、ただ眺めるものになったりする。引退は選手の世代交代を進めるとともに、ファンの世代交代も進める。
2016年10月8日土曜日
中心気圧
2016年10月4日に台風18号が沖縄を襲い、気象庁は数十年に1度の災害が予想されるとして沖縄本島地方に大雨、暴風、波浪、高潮の特別警報を発表した。この時点で台風18号は中心気圧915hPa、中心付近の最大風速(10分間平均)は秒速55m、最大瞬間風速は同75m、強さは「猛烈」とされた。
この台風18号は沖縄をかすめて北進し、韓国南部に大きな被害をもたらした。韓国では済州道で最大風速(10分間平均)49m、最大瞬間風速56・5mを記録し、韓国で観測された強風の中で歴代6位にあたると韓国気象庁。豪雨により大小の河川が氾濫し、現代自動車の蔚山第2工場では生産ライン停止を余儀なくされ、釜山市の海沿いにある高級マンションは高波で浸水し、海産物の屋台約30軒はが全壊したという。
中心気圧は台風の規模を見る目安ともなるが、今回の台風18号は915hPaと非常に低い。過去に日本を襲った台風(統計が始まった1951年以降)では、1961年9月の第二室戸台風が925hPaで最も低く、次いで1959年9月の伊勢湾台風が929hPa。今回の台風18号は観測史上で最大規模の台風ということになる。ただし、今年9月に台湾、中国大陸を襲った台風14号は中心気圧が890hPaだった。
統計開始以前では、1934年9月の室戸台風が911.6hPa、1945年9月の枕崎台風が916.1hPaと共に死者・行方不明者が3千人を超した台風があり、今回の台風18号はそれらに匹敵する巨大台風だった。強い勢力を維持したまま、沖縄付近から進路が北東にずれて日本列島を縦断していたなら、大きな被害は免れ難かっただろう。
フィリピンは2013年11月に台風30号の直撃を受け、高潮や強風などで死者・行方不明者8千人以上という大災害となった。この台風の中心気圧は895hPaまで低下し、中心付近で風速87.5m、最大瞬間風速105mという巨大台風だった。2005年8月に米ニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナは中心気圧902hPa。堤防決壊でニューオーリンズの8割を水没させ、死者・行方不明者2500人以上だった。
巨大で猛烈な台風に襲われると、すぐ異常気象と結びつけて考えがちだが、過去の記録を見ると、同規模の巨大台風に日本は何度も襲われていたことが明らかになる。観測体制が整っていない19世紀以前にも、おそらく巨大台風(熱帯低気圧)が日本や世界を何度も襲っていただろう。
巨大台風を異常現象だとするのは恐怖心を煽るためには好都合だろうが、過去から何度も巨大台風は日本を襲っていた。巨大台風は時には来るものだと認識するならば、「正しく怖がる」ことができよう。正しく怖がるとは適切な対応を行うということ。つまり、想定される被害を前提にして、予め対策を講じることだ。
この台風18号は沖縄をかすめて北進し、韓国南部に大きな被害をもたらした。韓国では済州道で最大風速(10分間平均)49m、最大瞬間風速56・5mを記録し、韓国で観測された強風の中で歴代6位にあたると韓国気象庁。豪雨により大小の河川が氾濫し、現代自動車の蔚山第2工場では生産ライン停止を余儀なくされ、釜山市の海沿いにある高級マンションは高波で浸水し、海産物の屋台約30軒はが全壊したという。
中心気圧は台風の規模を見る目安ともなるが、今回の台風18号は915hPaと非常に低い。過去に日本を襲った台風(統計が始まった1951年以降)では、1961年9月の第二室戸台風が925hPaで最も低く、次いで1959年9月の伊勢湾台風が929hPa。今回の台風18号は観測史上で最大規模の台風ということになる。ただし、今年9月に台湾、中国大陸を襲った台風14号は中心気圧が890hPaだった。
統計開始以前では、1934年9月の室戸台風が911.6hPa、1945年9月の枕崎台風が916.1hPaと共に死者・行方不明者が3千人を超した台風があり、今回の台風18号はそれらに匹敵する巨大台風だった。強い勢力を維持したまま、沖縄付近から進路が北東にずれて日本列島を縦断していたなら、大きな被害は免れ難かっただろう。
フィリピンは2013年11月に台風30号の直撃を受け、高潮や強風などで死者・行方不明者8千人以上という大災害となった。この台風の中心気圧は895hPaまで低下し、中心付近で風速87.5m、最大瞬間風速105mという巨大台風だった。2005年8月に米ニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナは中心気圧902hPa。堤防決壊でニューオーリンズの8割を水没させ、死者・行方不明者2500人以上だった。
巨大で猛烈な台風に襲われると、すぐ異常気象と結びつけて考えがちだが、過去の記録を見ると、同規模の巨大台風に日本は何度も襲われていたことが明らかになる。観測体制が整っていない19世紀以前にも、おそらく巨大台風(熱帯低気圧)が日本や世界を何度も襲っていただろう。
巨大台風を異常現象だとするのは恐怖心を煽るためには好都合だろうが、過去から何度も巨大台風は日本を襲っていた。巨大台風は時には来るものだと認識するならば、「正しく怖がる」ことができよう。正しく怖がるとは適切な対応を行うということ。つまり、想定される被害を前提にして、予め対策を講じることだ。
2016年10月5日水曜日
FAと世代交代
2016年のプロ野球のリーグ優勝は、パは日本ハム、セは広島となった。一昔前には東京をホームとする巨人の人気が突出し、他の球団は巨人人気に頼っていたことを振り返ると、球団の地方への分散により新規ファンを開拓する一方、各球団が巨人人気に頼らない球団経営を行い、その成果が現れたといえよう。地方経済が着実に“厚み”を増していることの反映でもある。
東京や大阪などから地方に移転した球団は、地元ファンを球場に集客することが基本となる。応援しながら観戦することが楽しいことだと認識してもらうためには、まず球場に来てもらわなければならない。球場に来る動機づけに工夫が必要だが、第一に必要なことは、強いチームをつくることだ。
といっても、FAで有力選手を集めるようなチームづくりでは地元ファンは育たない。負けが多い弱いチームから、若手選手が力をつけて優勝争いに絡む強いチームへと成長する過程をファンと共有し、自分たちのチームだとの意識を育てることに成功したなら理想的な展開だろう。日本ハムも広島も、若手選手を育てて強いチームになった。
一方で、低迷から脱することができないのが名古屋をホームとする中日ドラゴンズだ。地元では圧倒的な人気があり、優勝争いに絡まなくても200万人ほどの集客があるが、若手選手が主力に育たず、トレードやFAにも消極的で、チームを強くしようとの球団の決意が希薄であるように見える。弱くても球場に観客が来るからと球団経営が弛緩しているのか。
少し前のドラゴンズは毎年、優勝争いに絡むチームで強かった。弱くなった要因は、第一に世代交代に失敗したこと。第二に投手力が弱体化したこと。第三に監督などが頻繁に交代すること。根本にあるのは、球団にチーム編成のビジョンが欠如していることだろう。何を変え、何を変えてはいけないのか、現在のドラゴンズからは見えてこない。
強かった当時のドラゴンズは、30代の主力選手と次々に長期契約を交わし、引き止めることに成功したが、それが世代交代を阻害した。FAで主力選手が他チームに移ったなら、ポジションが空く。ベテランの主力選手が残ったなら、目先の勝利のためには起用するだろうから、若手の出番は少なくなり、経験を積む機会が減る。FAにはチームの新陳代謝を促進する効果もある。
2016年10月1日土曜日
中国人とサングラス
日本に多くの中国人観光客が来るようになり、その姿を地方の観光地でも見かけることが多くなった。集団で歩き、活発に大きな声で話したり、女性らが原色の組み合わせの目立つ服装だったりするので、それと察しがつく。子供や老人も多く、一家眷属揃って出掛けてきているらしいことがうかがえたりする。
中国人観光客は旺盛な購買態度を示し、その購買力を受け入れ側でも期待するが、外国に出掛けることは見聞を広める機会でもある。外国旅行を繰り返すことによって中国人観光客が「自由」な世界を味わい、その価値を理解し、中国国内の国家統制の異常さに違和感を持つようになって中国の民主化につながるなら、中国人観光客は大歓迎だ(そう単純にはいかないだろうが)。
中国人観光客といえば、その中に子供も含めて揃ってサングラスをかけている家族がいたりする。日差しが特に強いというわけでもないのに、まだ小学校にも行かない年頃らしき小さな子供もサングラスをかけて、はしゃいでいたり、観光施設の中で大人も子供もサングラスをかけたままだったりするので、奇異な感じを受ける。
ニュースなどで中国国内各地の映像を目にすることが多くなったが、それらの映像を見る限り、晴天であってもサングラスをしている中国人の姿はほとんど見かけない。もしかすると、サングラスをかけるのは外国旅行での「バカンス」の時だけなのかもしれない。映画などでバカンス中の白人がサングラスをかけているのを見て影響を受けたのかなどと邪推したくなる。
白人がサングラスを常用するのは、瞳(虹彩)の色が薄いので目の中に入って来る光の量が多くなり、茶色の瞳が多い東洋人に比べて同じ光の量でも、まぶしく感じるためだという。逆に屋内の照明が薄暗くても、虹彩の色が薄い白人には十分な明るさだと感じるという。薄暗い間接照明は白人にとっては十分な明るさだが、多くの日本人には暗すぎたりする。しゃれたファッションを気取るのも楽ではない。
必要があってサングラスをかけている白人の姿を真似ていると見なすなら、中国人観光客のサングラス姿は外国旅行に出掛けるときのファッションだろう。白人が多く住む国に旅行に行った経験がある中国人観光客が、現地の人々にサングラス姿が多いことに刺激を受け、サングラスをかけてみたくなったのかもしれない。
ファンションは真似ることで伝播する。必要性は二の次で、スタイルから入る(形から入る)というのは流行の基本形だろうから、中国人が外国に旅行して見聞を広げ、「自由」な世界を知ることで、多くのファッションが中国に流入する。真似るは学ぶにつながる……かもしれない。自由や民主主義を真似ることはファッションを真似るようには行かないだろうが、中国人にはサングラスよりも必要なものだろう。
2016年9月28日水曜日
特権としての政務活動費
都議会各派の議員が相次いで豊洲市場を視察し、建物の地下で水がたまっているのを確認している様子などが報じられている。にわかに大問題となったので都議が真面目に調査しているようにも見えるが、主要施設が完成して移転間近になってからの調査とあっては、これまで何も調査していなかったことを誤摩化すためのパフォーマンスと受け取られても仕方があるまい。
何かの問題が浮上し、世間の関心が高くなると、にわかに議員が報道陣を引き連れて現地調査などに動く姿を見ることは珍しくはない。日頃から問題意識を持って広く情報を収集し、実態の調査に動く議員ならば、マスコミ報道などに先んじて問題を提起できるのだろうが、マスコミが騒ぎ始めてから多くの議員は“アリバイ証明”のように調査する姿を見せる。
社会に存在する問題を掘り出し是正して社会を善くしていくのは議員の責務だ。いろいろな人と会って情報を収集したり、資料や専門書を購入したり、現地へ行って調査したりすることが問題を掘り出すためには必要で、それなりの時間と経費がかかるだろう。そのためにも政務活動費が支給されている。
都議会議員には月額60万円(年720万円)の政務活動費が支給されている。都議会の定数は127人、つまり毎年、720万円×127人=9億1440万円の政務活動費が支給されている計算だが、豊洲市場の盛り土問題をマスコミが騒ぐ前に議員が認識し、調査して指摘することはできなかった。政務活動費が都民の暮らしを良くするために役に立っているのだろうかとの疑念を持たれても仕方があるまい。
政務活動費がどのように使われているかという実態の一端を明らかにしたのが、富山市議会議員が不正に受け取っていた問題だ。実際には使っていない費用を請求したり、白紙の領収書に水増しした金額を記入したりして政務活動費を受け取ったほか、、飲食費や会合での茶菓子代や酒の代金などを含めていた。
政務活動費は議員活動を支援するため、調査研究活動、情報収集活動、政策立案活動、広報・広聴活動、その他の政務活動に限って使うとされる。その他の政務活動などと用途を幅広く認めているから、政務活動費の使途は議員の良識に委ねているのだが、一連の不正受給問題は、良識を備えない議員が珍しくないことを示している。
良識を備えた議員が少ないのは、良識に欠けた人が議員になるからか、議員になると人は良識を徐々に失うのか定かではない。だが、もし議員の多くに良識が欠けているのだとすれば、豊洲市場の土壌汚染の懸念が指摘され続けながら、議員が厳しいチェックを行わず、“粛々”と建設が進んできたことも理解できる……都議会議員に支給された政務活動費のどれくらいが豊洲市場に関する調査研究などに使われたのだろうか。
2016年9月24日土曜日
窮民とは誰か
窮民といえば、貧乏などのため生活に苦しんでいる人々を指し、貧民と同じ意味で用いられることも多い。窮するとは、金などが足りなくて困ることであり、「生活に窮する」などと使われるが、行き詰まって苦しむ意にも用いられ、「返答に窮する」「選択に窮する」などと、金に困る意味以外にも用いられる。
窮する人々=何かに行き詰まって苦しむ人々は、どんな時代にも存在する。だから、貧しくはなく、それなりの地位に就いて生活は安定していても、人生に行き詰まって苦しんでいる人々がおり、それらの人々を窮民と呼んでも間違っているわけではない。思うようにいかず不条理なことが多いのが人生だから、行き詰まる要因は貧しさに限定されない。
窮民という言葉を積極的に広く使ったのが竹中労だ。『水滸伝−−窮民革命のための序説』(1973年刊。平岡正明との共著)で水滸伝を論じながら、竹中労独自の解釈による窮民の概念、窮民革命の概念を説く。
竹中労は「私のいう窮民(流民)とは、いわゆる経済概念ではない、被救恤的“窮民”ではない、窮民とは願望の位相における“自由の民”である、社会制度の桎梏から躱身(ドロップアウト)して流民へ、そして剽民・暴民へと彼らは転生していくのである」(『水滸伝』)とする。
貧しく困窮する人々に加え、制度からはみ出し、自由を求める人々、つまり精神的な要素を窮民の定義に加えるという考え方だ。繁栄した豊かな時代であっても、全ての人が世に入れられるはずもなく、また、世に受け入れられることを誰もが求めるものでもない。さらに、いつの時代にも制度から弾き出される人は存在する。そうした人々の中で、自由に生きようとして闘う人は皆、窮民であり、制度に抗うことでは連帯が可能だとする。
水滸伝の108人の主要登場人物は、役人、商人、下級将校、刑務所の典獄、漁師、遊び人、武芸者、居酒屋経営、上級将校、医者など様々な職種と階層からドロップアウトした人達だ。その経緯は多彩で、追いつめられたり、弾き出されたり、自ら出てきたり、はめられたり……不本意ながら制度の外に出た人もいるが、制度に頼れず個人で生きなければならなくなった時に、自由に生きるために闘おうと決めた人達が多い。
貧しくて困窮する多数の窮民も精神的な窮民も、腐敗が蔓延する制度や権力で人々を統制する制度、人間を抑圧する制度に反発し、抵抗し、闘うことでは連帯できる。敵目標が一致するなら共同戦線をはり、自由な連合で闘うことができるはずだと竹中労は多くの著書で主張した。
豊かな先進国の一員になった現代の日本にも、社会保障の制度の網の目からこぼれ落ち生活に困窮する窮民や、様々な制度からドロップアウトして自由に生きようとする精神的な窮民は存在する。ただ、窮民の自由な連合のためには敵目標の共有が大前提だが、敵はあまりに小粒で多方面に分散する時代になった。誰かを倒し、何かを倒せば、全てが解決すると信じられなければ敵目標は一致しない。
共産主義国家の実情が詳しく知られるようになり、革命が信じられていた時代は遠く去った。体制をもって体制に代えたところで、ユートピアに近づくわけでもないが、転覆の危機感を失った体制は澱み、新たな様々な窮民が出てくる。無党派の窮民による自由な連動というのは永遠の課題だ。
2016年9月21日水曜日
歓迎すべき解散
人気があるバンドの主要メンバーがソロ活動を始めることが、バンドの解散の端緒となることはよくある。過去のヒット曲中心に演奏するライブツアーにマンネリ化を感じたり、新しいアイデアを試すことに他のメンバーが消極的など音楽的な動機もあるが、メンバー間の不和が根底にあることも珍しくはないとか。
プロダクションが所属タレントからメンバーを選んで、歌を歌わせてデビューさせたグループなら、ソロ活動は簡単だろう。テレビのバラエティー番組やドラマなどにメンバーをバラ売りしているのだから、音楽においてもソロ活動させてバラ売りすればよい。しかし、プロダクションが仕立てた人気グループのメンバーがソロ歌手デビューすることは、ほとんどない。
その理由は、1)歌がグループとしての主要な存在意義であること(歌でソロ活動を認めたら、グループとしての存在意義が薄れる)、2)音楽的才能があふれていたり、歌唱力が優れているメンバーがいない(そんな才能を持ったタレントがいたなら、最初からソロで売り出すだろう)、3)提供された楽曲を歌うだけなので、ソロ活動をさせると楽曲調達コストが増大する、4)音楽でソロ活動をしようと欲するメンバーがいない。
グループとして新曲を発売すれば個別メンバーのファンも買うだろうが、誰かがソロ歌手となって新譜を発売しても、そのファンしか買わない。プロダクションが新曲を用意したなら、グループとして発売したほうが多く売れるだろう。つまりプロダクションにとって、グループが存続しているのに、メンバーをソロ歌手デビューさせる利点は乏しい。
メンバーをタレントとしてバラ売りしているのにプロダクションがグループを存続させるのは、新譜を発売し、全国ツアーを行えば巨額の売り上げが見込めるからだろう。グループとして人気があれば、たいした曲でなくても駄曲であっても、そこそこは売れるだろうから、商売を続けることができる。
プロダクションが所属タレントの中からメンバーを選んで仕立てたグループには、最初からグループを形成すべき理由も必然性もなかった。ヒット曲を連発したとしても、与えられた曲をメンバーが特に秀でているわけでもない歌唱力で歌っただけなら、歌手としてのポジションにメンバーはさして未練はないかもしれない。
つぶれるものは、つぶれるしかない。与えられた曲を歌っているだけで歌唱力にも特筆すべきものがないタレントの寄り集まりに過ぎないグループが、さっさと消え去ることは日本の音楽シーンにとっては僥倖だろう。だが、人気タレントが歌えば何でも売れるという市場は存続し続けるからプロダクションはすかさず、同じようなグループを仕立て上げて売り出す。問題の本質は音楽にはなく、タレント活動にある。
2016年9月17日土曜日
専守防衛の手本?
米共和党の大統領候補トランプ氏は日本に対して、駐留米軍の経費の全額負担を要求すると主張している。トランプ氏が大統領になるかどうかはさておいて、もし日本が駐留米軍の経費を全額負担するなら、駐留米軍は日本防衛のための傭兵ということになる。それなら駐留米軍の指揮権は日本が持つのが当然だが、そんな用意は米国にも米軍にもないだろう。
思いやり予算で日本は既に駐留米軍の経費をかなり負担している。費用対効果を考えると、米軍を駐留させておくことは日本にとって最善策なのだろうか。冷静な検証は見当たらない。日本に対する「脅威」の評価は恣意的になりがちで、駐留米軍の抑止効果を膨張させることも少なめにすることもできよう。日本に駐留米軍の経費の全額負担をさせるためには「脅威」を煽ることが有効だろうし、怯えは「脅威」を大きく見せる。
1945年に敗戦した日本を占領した米国主導の連合国は、日本の非武装化を徹底的に進めた。米国は日本が独立を回復すると同時に日米安保条約を締結、日本が軍事的に独り立ちできないようにして、日本の軍事力を米国のコントロール下に縛り付ける体制を続けている。
米側が考える望ましい日本の軍事力は、時代とともに変化してきた。冷戦期には、日本を反共側に位置させて軽武装で軍事的に自立させつつ駐留米軍の補完戦力とし、冷戦後に米軍が中東各地で戦争を始めてからは、日本周辺から離れた地域での米軍への軍事協力を求め、日本周辺を離れての展開に制約がある日本に対し米国は、苛立ちをあらわにすることも珍しくなかった。
日本の軍事力の在り方に、トランプ氏は基本的には無関心だろう。経済的観点から日本に負担増額を求め、応じなければ撤退もあり得るとする主張からは、駐留米軍の存在は必要だと見ていないことが伝わる。経済的観点からいえば、駐留米軍の補完戦力であるから日本は米軍需産業の大きなマーケットとなっているのだが、駐留米軍が去れば日本はもう、米軍需産業を最優先して扱う必要はなくなる。
日本の軍事力が米国のコントロール下に置かれ続けていることもあってか、日本人による日本の軍事力に対する検証は活発ではない。日本の軍事力は日本の防衛に必要な範囲にとどめるべきだろうが、現在は、補完戦力として駐留米軍と共同行動を行うことを前提にした装備などになっている。それが日本独力の専守防衛に最適なのか、駐留米軍が撤退する可能性があるならば検討するべきだろう。
駐留米軍の戦力は、米国の影響力を世界で行使するために必要な能力を備えているが、そうした戦力は日本独力の専守防衛には過大な戦力といえよう。核兵器を保有しないとして、どの程度の通常兵力が日本独力の専守防衛に必要なのか。「脅威」に煽られることなく冷静に判断しなければならないが、その種の議論は乏しい。駐留米軍の長すぎる存在の弊害といえよう。
通常戦力で米韓に大きく見劣りする北朝鮮は、ミサイル開発に注力している。配備数は不明ながら各種の射程のミサイルを備える様子は、ハリネズミを連想させる。これは、日本独力の専守防衛の参考になるかもしれない。空母や最新戦闘機の数を大金を使って増やすよりも、地上移動式の各種の射程のミサイルを日本全国に配備する……これは、海外派兵を考えない日本独力の専守防衛にふさわしそうだ。
2016年9月14日水曜日
米軍駐留の効果
米共和党の大統領候補トランプ氏は日本に対して、駐留米軍の経費など日本防衛に要する費用の全額負担を要求すると主張している。その根底にある認識は、いわゆる日本の安保ただ乗り論だろう。米軍が日本を守ってやているのだから、その費用の全額を日本が払うべきだとする。日本が応じなければ駐留米軍を撤収するとも言っているので、駐留米軍の撤収が圧力になると考えているようだ。
韓国に対しても同様の主張をし、NATO諸国に対しては国防費支出がGDP比2%という最低要件を守っていないと国防費支出の増額を求めている。これら主張を支える認識は、第一に米国の国力の相対的な衰えであり、第二に各国が負担増できる国力を備えているのに負担増加に消極的であるとし、第三に各国を守ってやることで米国だけが加重な負担を強いられているということだろう。
米国は負担の報酬として、陰に陽に各国に大きな政治的影響力を有する。それは米国に有利な国際環境を形成、維持することに役立った。日本のことだけ見ても、日本の再独立後に米軍が撤退し、日本独自の再軍備が進んでいたとしたなら、日本の経済成長は遥かにゆっくりしたものであっただろうが、日本の政治に対する米国の影響力は限定的であり、対米追従と揶揄されたりもする日本外交は存在しなかったかもしれない。
米国はイラクやアフガニスタンにも米軍を駐留させたが、治安を維持することもできず、分裂状態になったままだ。米軍の駐留で影響力を及ぼすことができるのは現地政府に対してだけで、民意などをコントロールできないことは日本を始め各国でも同じだった。つまり、現地政府が実効支配できている国でしか、米軍駐留は米国に利益をもたらすことができないのだ。
イスラム系の武装勢力の活動が活発化し、中東やアフリカなどの欧州植民地の境界線をそのまま国境とした国々から人々が国境の外へと流動化している現在は、国家が揺らいでいる時代でもある。そうした世界で各国における米軍駐留の効果が政治的には限定的になってきたと見なすなら、米国が米軍の世界展開を修正することは必要だろう。それは、費用の負担増加を求める姿勢とは異なるものだ。
各国における米軍駐留は米国の国際的影響力を高め多大の利益をもたらしてきたが、トランプ氏などの目には、米軍が各国を守ってやっているとしか映らないのであろう。米国の国力が相対的に衰えている中で、各国から駐留米軍が撤退するなら、米国の国際的影響力はさらに弱まる。一方で各国は、更なる費用負担に見合う成果が米軍駐留から得られないと判断するなら「自立」も選択肢とならざるを得まい。
トランプ氏の主張は、外交ではなくビジネス流の交渉スタイルなのかもしれない。駐留米軍を各国から撤退させる意図はなく、交渉を有利にするため最初に大きく吹っかけて、相手から多くの譲歩を引き出し、少しでも“取り分”を多くすることを狙う……駐留米軍という「重し」があるから日本政府が負担増に応じるとすれば、米軍を駐留させている大きな効果があったということになる。
2016年9月10日土曜日
挑発的行為が示すもの
北朝鮮の挑発的行為が続いている。9月5日に日本海に向けて発射した弾道ミサイル3発は約1000キロ飛行し、奥尻島の西方沖200〜250キロの日本の排他的経済水域(EEZ)内に落下した。8月24日には北朝鮮沖の日本海で海中から発射したSLBMが約500キロ飛行し、日本の防空識別圏内に落下した。8月3日にも日本海へ向けて発射した弾道ミサイルが約1000キロ飛行、秋田県沖の日本のEEZ内に初めて落下した。
今年に入って相次ぐ北朝鮮のミサイル発射に、安保理は非難声明を発表するが、北朝鮮は反発するだけだ。今回も安保理は、過去の安保理決議への重大な違反にあたると非難する声明を発表したが、報道によると北朝鮮は、尊厳や生存権に対する侵害行為で「全面排撃する」とし、核実験や弾道ミサイル発射を今後もやめないと強調したという。
日本のEEZ内に落下した北朝鮮の弾道ミサイルにより、日本の漁船などに被害が生じた場合に日本はどのような対応をするのか知りたいが、報道はない。世論が落ち着いている時にこそ冷静に議論すべき性質の問題だが、絶対平和主義の制約がマスコミにあるのか、“今そこにある危機”についての議論は乏しい。
日本の漁船に被害が生じた場合に日本は、強硬に抗議するだろう。だが安保理の非難声明にも従わない北朝鮮が日本の抗議を受け入れる可能性は小さく、補償にも応じないだろう。軍事的な報復は、日本単独では実行できないだろうし、在日米軍は動かないだろう(米軍が攻撃すれば北朝鮮は全面的な軍事行動に移る可能性がある)。経済制裁は既に行われている。
つまり、実効性のある対応策がないだろう日本は、沸き立つだろう世論をなだめつつ、北朝鮮に対する強硬姿勢を見せなくてはならないが、打つ手がない。それを見越して北朝鮮は、日本のEEZ内でもかまわず弾道ミサイルを打ち込んできているようにも見える。朝鮮総連の本部施設の問題を蒸し返し、今さら朝鮮総連を施設から追い出すことも難しいだろう。
北朝鮮の挑発的行為が明らかにしたのは、第一に安保理の無力さであり、第二に日本をはじめ米国や中国、韓国などの無力さだ。政治的にも経済的にも国際的に孤立している国に対する外部からの影響力は限られ、挑発行為のエスカレートを止めることができない現実。国連主導で世界に平和がもたらされるという希望が全くの空想であることが突きつけられている。
情報が限られているため北朝鮮の意図を知ることは困難だ。核とミサイルしか頼るものがなくなったので開発を急いでいるように見えるが、数発の核と数十発のミサイルを保有したところで北朝鮮は、全面戦争となれば敗北は時間の問題でしかないだろう。国際経済に取り込まれた中国は援軍を送らないだろうし。
今の北朝鮮にとって、国家(と独裁者)のプライドを示すことができるものは核とミサイルしかなく、そのプライドを掲げるために挑発的行為をしているのかもしれない。一貫した意図や戦略は希薄で、核実験を行い、ミサイルを発射するという行為そのものが目的だとすると、挑発的行為は現在の統治体制が続く間は止みそうにない。その犠牲になるのは北朝鮮の人々であり、日本人もミサイルの落下場所次第では犠牲になる。
2016年9月7日水曜日
空気の取引で商売
2020年以降の地球温暖化対策の新たな枠組み「パリ協定」は、世界の温室効果ガス排出量を今世紀後半に実質ゼロにし、産業革命前からの気温上昇幅を2度未満、できれば1.5度に抑えるのが目標だという。主要排出国を含む全ての国が削減目標を5年ごとに提出・更新し、実施状況を報告、レビューを受ける決まりだというから、主要排出国が参加していなかった従来よりはマシ?
温暖化問題となると「まだ途上国だ」と主張し、温室効果ガス排出削減に消極的だった中国が、G20開催に合わせてパリ協定の締結を承認、批准した。米国も批准して共同発表したことからマスコミは総じて好意的に報じ、両国の発表は各国にも批准を強く促し、協定の発効へ向けて大きな前進だなどと評した。
一連の報道には中国の削減目標の解説は見当たらなかったが、中国の目標とは、2030年の国内排出量をGDP当たりで2005年比60〜65%削減するというもの。そのころにCO2排出量の伸びをゼロにし、経済成長とCO2排出量の増加のデカプリング(切り離し)を実現するという。つまり、2030年までは経済成長(GDP増)に伴って排出されるCO2は増え続ける。
GDP当たり排出量を減らすために中国は、太陽光発電や風力発電などの非化石燃料エネルギーを大幅に増やしたりするというが、もっと効果的な方法がある。それは、鉄鋼産業など大量に温室効果ガスを排出している工業分野で、企業を減らすことだ。実質的に破綻しているが生産を続けているゾンビ企業を片っ端から整理、廃業させれば中国のC02排出量はかなり減るだろう。
投資主導で成長してきた中国では、中央政府の政策に合わせて各地方政府がそれぞれに企業を作って生産に励むので、結果として過剰生産となる。中途半端な計画経済と中途半端な市場経済が組み合わされ、市場が歪められるので淘汰のメカニズムが働かず、ゾンビ企業は赤字を垂れ流し続け、CO2を排出し続ける。
パリ協定の批准に続けて中国がゾンビ企業の大量整理に動き出すなら、2030年を待たずに中国の温室効果ガスの排出量は減少に向かうかもしれない。が、実現はあまり期待しないほうがいい。各地のゾンビ企業は多くの労働者を雇用しているから、大量の失業者が溢れて社会に不満が充満することを避けつつ、ゆっくりとしかゾンビ企業の整理は進まないだろう。
一方で中国は排出権取引市場の育成を進め、2017年から中国全土で排出量取引制度を開始することを決めた。事業者などに排出量を割り当て、市場で余剰排出量や不足排出量を売買するというものだ。CO2排出を有料にして排出削減につなげようとの狙いだが、技術力に劣る中国企業は実際のCO2削減よりも、他から排出枠を購入することでツジツマをあわせるだろう。
温室効果ガスの排出量が増えているから温暖化現象が起きている……のが真実なら、温室効果ガスの排出量そのものを削減する以外に対策はない。だが、温暖化論者も排出権取引を容認するという奇妙さは相変わらずだ。排出権取引市場を育成して、「空気の取引で金を動かそう」と目を付けた中国。GDP当たりのCO2は多少減るかもしれないが総排出量は増え続ける中国では、“いい商売”になりそうだな。
2016年9月3日土曜日
昭和のジャズの歩み
ジャズ喫茶などで、眉間にしわを寄せて、難しそうな顔をして聴くのがジャズ通だというようなイメージが半世紀前にはあった。ちょうどモード奏法が広まり、一方ではフリージャズ的なアプローチをするミュージシャンが増えたりし、リズムに合わせて音楽を楽しむというより、演奏される音に集中して聴き入るスタイルが広まったのだろう。
あのころのミュージシャンは、即興演奏の可能性を拡大するために、様々なアプローチを行った。斬新で興味深い音楽が登場したりもしたが、そうした音楽のほとんどは主流になることもなく、残したレコードが過去の名盤扱いされるものが多少あるぐらいだ。
眉間にしわを寄せて聴いていたのは、当時の先端のジャズが難解だったからだ。難解とは、聴いて楽しさが即座に伝わるような音楽ではなく、音楽のよさを聞き手が“理解”しなければならないこと。ミュージシャンは高度な技法を駆使し、即興を試み、その表現と意図を聞き手は解釈して楽しむ……だから、音楽に現れたミュージシャンの「精神性」も批評の対象になったりした。
その後のジャズはリズム面でロックやファンクの影響を強く受けたが、21世紀の新しい表現を獲得したかどうかは、もう新しいジャズに関心が薄れて久しい当方には判断できない。ただ、即興演奏ということでは既に様々な試みが為されており、そう簡単に新しい表現は出てきそうにないなと、たまにジャズ喫茶で単調なモード奏法の新譜を聴かされたりすると痛感する。
一方でジャズは、小洒落た焼き鳥屋や居酒屋などでBGMとして流されるようになった。そこで使われるのは、眉間にしわを寄せて聴くようなジャズではなく、リズムに合わせて楽しむことができるようなタイプ。これは、ジャズが「出世」したのか、ムード音楽に編入されたのか定かではないが、そうしたBGMではミュージシャンの個性は必要とされない。飲食店の雰囲気づくりのジャズは、即興性を重視するジャズの否定か。
でも、昔のジャズもムード音楽でもあったかもしれないと気づかせてくれるのがCD3枚組「昭和ジャズ大全〜幻の名盤・秘蔵盤〜」だ。コロムビアが豊富な過去の音源から日本の戦後ジャズの軌跡を音でたどる企画ものだが、洗練された演奏が心地よい。ていねいに主旋律を奏で、各ミュジシャンのソロは抑制的だ。
当時もライブでは各ミュージシャンが思う存分に即興演奏していたのであろうが、レコーディングは収録時間が長くても3、4分とあってはアレンジ優先で仕上げるしかない。だから各自のソロはメーンではなく、うっかり聴くとジャズ風のムード音楽に聞こえないではない。が、延々とソロを聴かされることが普通になった現代の感覚からすると、妙な新鮮さを感じたりもする。
収録されているのは、レイモンド・コンデとゲイ・セプテット/中村八大モダン・トリオ/小野満トリオ/平岡精二クインテット/フランキー堺とシティ・スリッカーズ/鈴木章治とリズム・エース /北村英治とオール・スターズ/藤家虹ニ/松本英彦クインテット/渡辺貞夫&宮間利之とニュー・ハード/秋吉敏子/ジヨージ川口とビッグ・フォー/南里文雄&宮間利之とニュー・ハード/ウエスト・ライナーズ/美空ひばり&原信夫とシャープス・アンド・フラッツ。
2016年8月31日水曜日
カモメとウミネコ
旅行で海辺の街を訪れた時に、白と黒、灰色が混じった鳥を街中で見かけた子供がはしゃいで「カモメだ」などと言ったら、地元の人に「あれはウミネコだよ」と優しく訂正された。子供は「海の猫なの? 鳥じゃないの?」と聞くと地元の人は「鳥だよ。カモメの仲間なんだけど、カモメとは少し違うんだ」と説明してくれた。
カモメもウミネコも同じカモメ科に属し、見た目は非常に似ている。大きさもほぼ同じ(カモメがウミネコよりやや小さいが、個体差を考えると、大きさだけで見分けることは難しい)。見分けるポイントはクチバシで、ウミネコのクチバシの先端は黒い(赤も混じる)。飛んでいるなら、尾羽が白いのがカモメで、黒い帯があるのがウミネコ。ついでに、目つきはウミネコのほうが鋭い。
両者とも海辺や水辺などに住むが、季節により顔ぶれは変わる。カモメは渡り鳥で、秋に日本に飛来して冬を過ごす。ウミネコは留鳥で日本で繁殖するので、夏に見かけるのはウミネコだということになる(オオセグロカモメも北海道などで繁殖する留鳥だが、ウミネコより一回り大きい)。
「クチバシを見るんだよ」と言われた子供は、警戒しながらも立ったまま動かない鳥に、こわごわと近寄って、「ホントだ。クチの先が黒くなってて、少し赤い」と嬉しそうに言う。海辺の白い鳥=カモメだと思っていた子供の世界認識が広がったのは歓迎すべきか(大げさな表現だけど)。
尾のほうを見ようと子供がさらに近づくとウミネコは飛び立った。「尾は見えたか」と聞くと、「よく分からなかった」との答え。「港に行けば、たくさんいる」と地元に人に聞き、港に行くと、そこここにウミネコがいる。子供が近づくとウミネコは逃げるが、何回か繰り返した後、さりげない近寄り方を子供は見つけた。だが、地上のウミネコは閉じた羽根の先が尾の上に重なるので、黒い帯があるのか、よく見えない。
港の突堤のほうでウミネコが飛び交っていたので見に行くと、1羽が低く滑空してきて、目で追いながら子供は「尾が黒い」。そのウミネコは何かをまき散らしながら飛んでいった。地上には点々と白い斑点状のもの。通りかかった人が「気をつけないと、ひっかけられるよ」と笑う。
鳥類には膀胱も尿道もなく、尿は腸に排出され、他の排出物と一緒に排出する。飛ぶためには軽いほうがいいので、溜れば出すということらしい。確かに、飛びながら何かをまき散らしているウミネコは他にもいた。友達がカラスにフンを落とされたことがあると子供は言い、「鳥って飛びながらフンをするんだ」と、また、世界認識が広がったようだ。
2016年8月27日土曜日
譲位できなかった大正天皇
長嶋茂雄という人々に愛された天才的なプロ野球選手がいた。1974年に引退したのだが、人気者の長嶋茂雄であり続けている。プロ野球選手という職務からは引退できるが長嶋茂雄という個性からは引退できない。もし、長嶋茂雄が特別な選手だからと、引退を許されず生涯現役でいなければならないとしたら、体力や気力の衰えもあるだろうから、いつか、現役を続けなければならないことが苦痛になるだろう。
引退の様式は職業によって異なり、例えば、歌手など個人で活動する職業の場合は生涯現役を続けることが可能だ。ただし、売れなければ若くても消えていったりするので、常に引退と背中合わせでもある。生涯現役を続けたとしても、ヒットが続くことは稀で、やがて忘れられていく。生涯現役のつもりでも、いつしか声量が衰え声域が狭まったりもし、懐メロ番組などで無惨な歌声を聴かせるはめになったりもする。
病んだり老いたりする人間が高齢になって、それまでの職務・責務を手放し、続く世代にバトンタッチすることは社会の流動を促し、活力を保ちつつ安定させる循環システムであろう。本人にとっても、第一線を退き、社会的な役割などが次第に薄れ、平穏な日々を過ごすようになることは、人生の果実の一つであるかもしれない。
天皇は日本の象徴とされ、存在することが責務となる。でも、ただ座っているだけではなく、象徴としての様々な公務があるほかに、天皇として振る舞うことも要求される。自分が天皇であることの使命感を常に持っていなければ、天皇を“続ける”ことが重荷になることがあるかもしれない。
公的な存在であることに限界を感じた個人なら、自分の意思で引退は可能だが、象徴として存在することが責務である天皇は老齢になっても簡単には引退できない。個人の意思は制約され、天皇として存在し続けることを要求され、それに応え続けなければならない存在だ。神であったのなら引退など考えなくてもいいのだろうが、現人神はもういない。
人間には様々な限界があり、天皇としての役割・責務を果たせなくなることもある。病気で天皇の責務を果たすことができなくなり、摂政を設置されたのが大正天皇だ。象徴としての天皇ではなく現人神の天皇の時代であったのだが、記憶や言語に障害が見られ、ついには寝たきりになったというから、存在としての天皇の姿を見せることもできなかっただろう。
そんな大正天皇でも譲位できなかったのは、存在するだけで尊いとの考えが強く、現人神としての公務は軽視されていたからだろう。象徴としての天皇には象徴としての公務があり、その公務を満足に務めることができなくなったと自覚した天皇本人が、象徴としての存在に強い責任感を持っていたなら、ポジションを次の世代に譲るという考えが生じるのは自然なことだろう。
2016年8月24日水曜日
偶像からの脱出
グループとして活動していた人達が、年月とともにメンバー各自の方向性の違いや不和などが顕著になり、解散することは珍しくない。個人が集まって結成したグループの場合、一緒に活動することによる不満や苦痛のほうが満足や楽しみより大きくなったなら、自らの意思で解散できる。グループの主導権をメンバーが有しているから、グループの進路を自分らで決めることができる。
プロダクションがメンバーを集めて、つくりあげたグループの場合、生殺与奪の権はプロダクションが握る。グループとしての活動に不満があってもメンバーは、プロダクションの意向に従うしかない。従わないなら、グループから追い出される(売れていないグループなら、もう余計な金は使えないと、解散させられる)。
プロダクションは、歌手やタレント志望の少年や少女の中からメンバーを選んでグループを形成させ、テレビ各局に売り込み、楽曲を与えてデビューさせ、“金のなる木”に育てる。個人が集まって結成したグループなら、楽曲をつくることも、それを披露する場を得ることも自力でやるしかない。そうした“産みの苦しみ”をくぐり抜けて大きな存在となる(もちろん、大半は消えていくが)。
ビートルズやローリング・ストーンズのようなビッグ・グループになると、自らの創作や活動の自由を保つため、マネジャーやプロデューサーを自分らで選び、自分らでレーベルをつくり、自分らでツアーを企画し、バンド名を自分らで所有し、グッズ類の製作・販売を管理する。メンバーの交代やグループの解散を決めるのも自分らだ。
プロダクションがタレント志望者を集めてつくったグループが、与えられた楽曲を歌ってヒット曲を連発したりもし、各メンバーに音楽などの才能があるようにプロダクションが演出したりもするので、自発的に集まったグループと混同されやすい。しかし、そこには大きな違いがある。前者が行っているのはタレント活動であり、後者が行っているのは音楽活動だ。
プロダクションは、グループとして売るとともに各メンバーの“バラ売り”も行い、メンバーは個別にテレビのバラエティー番組やドラマなどに出演するようになる。個別のタレント活動の場が広がると、グループとしての活動は従属的になるが、それをプロダクションは歓迎する。グループなら1番組にしか出られないが、個別メンバーでバラ売りすれば複数の番組に同時に出ることもできるから、売り上げが上がる。
プロダクションの所有物であるグループを、メンバーの意思で解散させることが難しいのは、メンバーは管理され収奪される対象でしかないからだ。自発性を求められない従属的位置づけの存在であるメンバーが、急に自己主張を始めたところで、プロダクションに聞き入れてもらえるはずもない。
音楽などの才能に関わりなくプロダクションに「アーティスト」に仕立て上げられたタレントは、自立しても「アーティスト」としては生きていくのは難しい。グループの解散を求めることはタレントとして自殺行為であるが、それでも解散を求めるなら、プロダクションのクビキを脱して自立して生きる機会になる。プロダクションと対立した多くのタレントは消えたが、プロダクションに従属して生きる人生だけが最高とは限らない。
2016年8月20日土曜日
自由の女神
画家ドラクロワの作品「民衆を導く自由の女神」は、1830年7月の労働者や学生、市民による蜂起を題材とした作品だ。右手に持った三色旗を高々と掲げ、左手に銃を持つ女性が中央に描かれ、女性に先導されるかのように、銃や剣を持った男たちが続く。足元には死者らが倒れているが、彼らを踏み越えて人々は戦いに向かう。
王侯貴族らと新興ブルジョアジー、市民、労働者らが衝突したフランス革命とその後の政権争いでは、社会の混乱は長引き、何度も衝突が起き、多くの人が傷つき、死んだ。だが、王侯貴族の支配が打倒され、民主主義社会の先駆けとなったことで歴史的な評価は高く、多くの人が死んだからと否定的に見る人は少ないだろう。それは、蜂起に立ち上がった市民、労働者らの側から見る視点を受け継いでいるからだ。
殺すことも殺されることも否定、拒否し、傷つけあうことを嫌悪するのが正しい歴史体験の伝承の仕方だとするのなら、人々の悲しみや苦しさなどの記憶を中心に語り継ぐだろう。だが、フランス革命では、多くの人が死んだことよりも、権利や自由を求めて立ち上がった人々への称讃や革命の意義などが伝承される。
フランスのように革命により成立した社会では革命の精神を伝承することが正しいとされるが、戦後日本のように敗戦により成立した社会では戦争への拒否感を伝承することが正しいとされ、拒否感を維持するために戦争による個人の悲惨で苦しい体験にスポットを当てる。歴史を受け継ぐためには、感情よりも精神のほうが一般化しやすく適しているだろうが、敗戦の精神となると負け犬根性と見分けがつき難くなりそう。
国家間の戦争と、人々が権利や自由を求めて権力と戦う革命とを同列に論じることには異論もあろうが、どちらも生命を危険に曝すことでは個人にとって似たようなものだ。敵国により殺された兵士や人々のほうが、自国の治安部隊により殺された人々よりも悲惨だとはいえまい。個人の悲惨で苦しい体験を伝承すべきとするのは、語り継ぐべき精神が先の戦争にはなかったことを示しているだけだ。
戦争は悪であり、起きないことが望ましいが、戦争をなくすことはできていない。人々が傷つけあい殺しあう革命も起きないほうが望ましいから民主主義の制度を人間は整え、革命によらずに社会矛盾を解消して行く方法論を人間は見いだした。感情に基づく拒否感では戦争を抑止することはできないが、革命から受け継いだ価値観や精神は社会の基盤となり、安定させた。
1945年以前の日本にも権利や自由を求める様々の動きがあったものの、制度としての民主主義は敗戦後の占領により実現した。だが、人々が立ち上がって獲得した価値観ではなかったため、人権や自由、民主主義などの精神が社会を強く支え、伝承されている……とは言い難い面がある。語り継ぐべき精神や価値観が希薄のままの戦後日本。敗戦で打ちのめされた人々に革命の精神を求めるのは無理があったか。
2016年8月17日水曜日
伝えるものは論理
日本人で戦争を経験した人々が次第に少なくなり、戦争の“現実感”が風化することを危惧するマスコミは、戦争の記憶の伝承が大切だと強調する。悲惨で苦しかっただろう個別の様々な具体的な経験は歴史を記録する豊富な資料になるため、後世に残すことは必要だ。しかし、個別の体験を伝えることだけが、戦争体験を伝承することではない。
個人の様々な経験を伝えるという作業には限界もある。体験を伝えるとは体験者の実感(感情)を伝えることだろうが、それは聞き手に想像力と共感力を要求する。聞き手と話し手が知見、感情などで共有する部分が多いほど伝えやすいが、生活実感の隔たりが大きい場合は伝えにくいだろう。つまり、世代を経るほどに実感を伝えることは簡単ではなくなる。
隔たりとは世代間だけではなく、例えば、国が異なれば生活実感に大きな隔たりがあろうが、戦争による悲惨で苦しい体験となれば、人間として共感できる部分が多いはずだ。でも、第二次大戦後も世界で戦争は起き続けているのに、そうした戦争の実態を伝えることも使命であるはずのマスコミは、日本人の戦争体験の伝承を重視する。
日本人が関わった戦争が他の戦争と異なる点は核兵器が使用されたということであり、その記録や記憶を伝承することは重要だ。だが、核兵器の使用は先の戦争の一部分でしかない。戦争は個人にとって全てが特別な体験であり、語り伝えるべき重みを持つ体験であろうが、個別の体験から見た戦争と全体としての戦争が同じものであるとは限らない。
個別の戦争体験の伝承は、悲惨さや苦しさを強調しがちだ。そうした伝承から導き出されるのは、戦争への感情的な拒否感であり、非戦論の有力な支えになる。第2次大戦後に日本人が直接巻き込まれ、日本が戦場になる戦争がなかったから、戦争に対する嫌悪感をかき立てるために、悲惨で苦しかった戦争体験を伝えることに励むのかもしれないな。
戦争は否定されるべきものであり、起こらないほうがいいに決まっているが、人類は常に世界のどこかで戦争を続けて来た。人々にとっては悲惨で苦しいだけの戦争が根絶されないのは、全体としての戦争には個人の感情とは別の論理が働き、方法論として戦争を肯定するからだろう。それは、個人の戦争体験の伝承からだけでは見えてこない。
悲惨さや苦しさなど個人の体験を伝えることに偏重すると、「戦争はいやだね」と拒否感は再生産されようが、世界のどこかで常に戦争が続き、世界では戦争が容認される場合があるという事実から目をそらすことにもつながる。個人にとっては悲惨で苦しいだけの戦争が世界では起き続けている理由を考えるためには、個人の戦争体験だけでは不充分なのだ。
個別の経験、事実を総合したところに一般化された論理が生まれる。日本人の個別の戦争体験から、一般化された戦争否定の論理が生まれたのなら喜ばしいが、戦争への拒否感を再生産するにとどまっている。個別の体験の伝承には限界があるが、一般化された論理なら世代を超え、国境を越えて理解されやすいだろう。個別の戦争体験の伝承にこだわり続けるのは、戦争否定の論理を構築することに日本人が失敗していることの反映でもある。
2016年8月13日土曜日
悪い奴らは殺すという政治
乱暴な社会実験がフィリピンで進行中だ。麻薬や犯罪を撲滅することを目指すドゥテルテ大統領が、密売人らを警察が摘発する時に殺害を容認(訴追免除)し、殺害した警官には報奨金を払い、民間人であっても密売人を殺害したなら報奨金を払うと約束したから、民間の自警団も密売人の殺害を始めている。
「効果」ははっきり現れた。ドゥテルテ大統領が就任して1カ月余りで麻薬絡みの容疑者402人を射殺したとフィリピン警察は発表、自警団による射殺なども加えると800人以上が殺害されたという。就任前の半年間で警官に射殺された容疑者は約100人だったというから、大幅な増加だ。また、薬物中毒者ら約57万人が当局に出頭し、リハビリ施設に送られるという(そんな大量の人数を収容できる施設があるのかは不明)。
報奨金の額は報じられていないが、高額なら、西部劇の賞金稼ぎのように密売人を捜して次から次にと殺す連中(自警団?)が現れそうでもある。人が多い都市部で生活する麻薬の密売人の存在を突き止めることは、西部劇のように荒野を探しまわることより容易だろう。犯罪を憎む警官なら、この機会に「悪」を一掃しようと奮起するかもしれない。報奨金で収入も増えるしね。
麻薬の密売人らに対象を限定したとはいえ、殺人を合法化したフィリピンの社会で今後、何が起きるのか、乱暴な社会実験だが、興味深い。麻薬の密売人が消え失せ、中毒者が大幅に減少し、犯罪件数も減少、リハビリを経て社会復帰した元中毒者らが仕事に励むようになり、安定した社会になったフィリピンは着実な経済成長軌道に乗りました……となれば理想的だろう。
だが、映画や小説と違って社会には「終わり」がないから、殺人を合法化したことによる歪みは社会にいつか現れる。厳しい取り締まりで抑えつけている体制は、抑えつけを続けるしかなく、厳しい抑えつけが少しでも緩めば反動が生じるが、ドゥテルテ大統領には任期がある。ドゥテルテ氏が大統領でなくなれば、裁判を経ずに殺害された人々の家族・親族などの恨みが噴出する可能性もある。
さらには、麻薬販売で生きていた連中が自衛のために強力に武装して、例えば、過激主義を掲げて武装闘争を正当化したり、ゲリラ闘争組織と連携したりすることは、ドゥテルテ大統領の任期中にも起きる可能性がある。歴史を振り返れば、政治的な武装闘争組織が麻薬を資金源にしていたことは珍しくなく、島嶼国フィリピンには各地に武装闘争組織がある。
今回の乱暴な社会実験には、密売人ら犯罪者を片っ端から殺害すれば麻薬を根絶できるのかという根本的な疑問のほかにも、▽殺害された人々は本当に密売人なのか(殺害の妥当性について個別に検証はなされているのか)▽自警団の正体は何か(仲間を売る犯罪者が紛れ込んでいないか)▽誤認殺害が判明したなら誰が責任を負うのか……など疑問点が放置されたままだ。
警官が裁判官をかねたように、現場で容疑者を死刑にするという光景が現実となったフィリピン。法の支配が損なわれ、「悪人」は殺害して排除するという社会で何が起きるのか……という貴重な社会実験は、自由選挙で選出された民主主義国の大統領なら、強権を発動して人権を軽視することが許されるのかという社会実験でもある。民主主義が実現したなら社会は善くなると期待しがちだが、民主主義の実現が全ての「解」ではない。
2016年8月10日水曜日
民主主義の手法で民主主義を否定
トルコで軍の一部がクーデターに動いたが、失敗に終わり、政権は一気に、軍のみならず検察、警察、公務員、教育界、報道など広い範囲で多くの人を拘束、解任するなど粛正の動きを進めている。今回のクーデター失敗でエルドアン体制の強権支配が数歩前進したことは間違いなく、欧米は対応に苦慮している。
今回、民主主義を守ることを、クーデターに動いた側も政権側も掲げた。クーデターに動いた側は、憲法による秩序や民主主義を回復させることが行動の目的だとアピールし、政権側はトルコの民主主義に対する攻撃であると主張し、人々に街頭に出て抗議の意思を示すよう呼びかけた。報道では、街頭で人々が兵士らを説得しているらしき映像が流れた。
クーデターが失敗に終わり、トルコにおける民主主義は「危うい」ままなのか、「守られた」のか、どちらだろうか。選挙で選ばれた政権が維持されたことで、トルコにおける民主主義は守られたように見えるが、クーデター騒ぎや強権による粛清は、民主主義が「傷つけられた」ことを示している。民主主義という“錦の御旗”を奪い合って、今回は政権側が勝っただけか。
善悪などの価値判断を加えずに民主主義を定義すると、「主権を有する人民による自由投票で選出された人々が議会や政府を形成し、政治を行う」体制を是とする主義で、その議会や政府の交代は人民の自由投票のみにより行われる。だから、軍事力や強権で議会や政府の停止・交代を行うことは民主主義に反するが、議会や政府が強権支配を容認・正当化することも民主主義を損なう。
自由選挙で選出された議会や政府が強権を容認・正当化するようになるのは実はそう珍しいことではない。代表例は独ナチスで、自由選挙で第1党になって権力を掌握し、徐々に独裁へと歩んだ。民主主義は、民主主義を否定する活動をも許容するという弱点を有する。規範としての民主主義と、方法としての民主主義は一体のものではない。
今回のトルコでは、民主主義を守ろうと軍の一部が反民主主義的なクーデターに動き、民主主義は守られたとする政権側は反民主主義的な強権支配を加速している。おもしろいネジレ現象が繰り広げられたわけだが、どちらも民主主義を、おそらく権力闘争の口実として持ち出しただけであろうことは想像に難くない。
規範としての民主主義は尊いものだが、多くの国にとっては移入された概念であり、簡単に実現するものではない。民主主義を政治体制として根付かせて行くためには、それぞれの国で、方法としての民主主義をそれぞれ見つけだし、規範としての民主主義との乖離を狭めるように努力を続けるしかない。その努力とは、例えば、クーデターにも強権支配にも否と主張する人々を増やすための報道・教育を確保することであろう。
2016年8月6日土曜日
安売りされる感動
五輪の陸上や水泳などの長距離競技で、他の選手がゴールした後、大きく遅れた1人の選手が懸命にゴールを目指していると、観客から盛大な声援が送られたりする。あきらめずに最後まで力を振り絞って競技を続ける姿に、声援を送りたくなるのは自然な気持ちだろうが、それは感動しているのだろうか。もし感動だとするなら、その選手は観客に感動を与えたことになる。
最近、大舞台に臨む意気込みを訪ねられたスポーツ選手から、「感動を与えたい」との言葉を聞くことが珍しくない。活躍する姿を見て喜んでほしいという程度の意図なのだろうが、「感動を与えたい」などと言われると、ありがたく感動させてもらいますと期待するか、与えてなんかいらねえよと反発したくなる、
選手は、上から目線で言っている気はないだろうし、観客のマインドをコントロールするつもりもなく、コントロールできるとも思っていないだろう。でも、選手は「感動を与えたい」と言いたがるようになった。「感動を与える」と公言することで、必ず成果を出すと自分を奮い立たせているのかもしれないが、それなら「期待に沿うように頑張ります」と決意を込めて言えばいいだけだ。
中には、日本人に「感動を与えたい」などと大きなことを言う人もいたりして、どれだけの感動を与えてもらえるのかと(さして期待もせずに)見ていると、結果はさっぱりで、感動よりも肩すかしを与えられることも珍しくない。感動を期待して見ていた側は、期待した感動の分だけ、負けた選手が色褪せて見えるのかもしれない。
「感動を与える」の感動は勝利を意味する。もちろん、大差のビリでも懸命にゴールに向かう姿にうっかり感動する観客がいるかもしれないが、声援を送る皆が感動しているわけではない。大差で離されながら懸命に頑張ってゴールを目指す姿より、1着を目指してデッドヒートの中で懸命に争う選手の姿のほうが感動につながろう。
ただ、勝利する姿が必ず感動と結びつくわけでもない。五輪では次から次と競技が行われるので観客は、勝利した選手にいちいち感動してはいられまい。それに、自分が応援する、例えば自国の選手が勝利した時には感動するが、他国の選手が頑張って勝利した時には感動しないなどという便利な感動の使い分けは難しいだろう。
引退したスポーツ選手に「感動をありがとう」の言葉が送られたりするので、どうやらプロ・アマ問わずスポーツを見る側は感動を味わったり、求めているらしい。感動は特別な感情ではなく、日常にありふれた感情の一つと位置づけられたのだろうが、安売りされすぎている気配もある。デフレが続く日本では、感動などの感情表現も安売りされる?
2016年8月3日水曜日
大義が隠すもの
大義とは、「人間として踏み行うべき最も大切な道(特に国家・君主に対して国民のとるべき道をいうことが多い)」「重要な意義。大切な意味」(大辞林)であり、大義名分は「人として、また臣民として守るべき事柄」「何か事をするにあたっての根拠。やましくない口実」(同)とある。何か大きなものと結びつけて、自己の言動を正当化するときに使われる言葉だ。
現代では、君主を持ち出す大義は歌舞伎や時代劇の中だけに限られるように、大義は時代とともに変わる。「国家のために」という大義はまだ生き残っているが、国家のためと言えば何でも許されるわけではなくなった。国家の在り方が問われるようになり、国家のための大義よりも、例えば、民主主義や人権などを優先する人もいる。
大義は地域によっても変わり、宗教によっても変わる。現代の世界を揺るがしているのは、イスラム圏の大義だろう。異教徒との戦いをイスラム教徒の大義だとし、武装勢力の活動や欧州諸国などでのテロを正当化しているように見える。日常の中にテロを持ち込まれたと感じる欧州諸国の人々にとっては、まことに迷惑な「大義」だ。
大義がうさん臭く見えるのは、殺人を正当化するケースだ。社会には人命よりも優先する価値があるという考え方は、抽象論としては検討に値するだろうし、歴史的な事件を検証する時には当時の価値判断を考慮しなければならないので、当時の大義を踏まえることは必要だ。だが、死刑廃止の広がりが示すように現在では、人命より優先する大義があるとの考え方は限定されよう。
フランス北西部の教会で高齢の神父が殺害された。教会に入った犯人2人は朝の礼拝中の神父を跪かせ、喉を切って殺害し、その様子を動画で撮影していたとも伝えられた。喉を切る殺害方法は、捕虜などを残忍に殺害するISの公開動画を連想させる。事件後にIS関係の通信社は犯人がIS指導者に忠誠を誓う映像を公表した。犯人2人とISの関係は詳らかではないが、2人はISの影響下にあったようだ。
欧州では人々を狙った無差別テロが相次ぎ、多数の人命が失われているが、フランスで神父を殺害した今回の事件は更なる危惧を抱かせる。それは欧州はじめ世界で、ISが影響下にある人々にキリスト教の聖職者を標的にすることを促し、宗教対立を煽ることで社会の不安や混乱を拡大させるとの懸念だ。彼ら流のイスラムの大義を掲げるためには、キリスト教の聖職者を標的にすることは役立とう。
ローマ法王は事件後、世界では「利益をめぐる戦争やカネをめぐる戦争、天然資源をめぐる戦争、人々を支配するための戦争が起きている」と述べたが、宗教戦争ではないとし、「あらゆる宗教は平和を欲している。戦争を欲しているのは他の人々だ」と語った。ISのテロリストがカトリック聖職者を殺害したのは欧州では初めてであり、動揺を抑えようとの意図もあっただろう。
宗教戦争が始まったなら、大義と大義の衝突であるから、双方とも簡単には妥協できなくなる。シリアなど本拠地で劣勢のISにとっては、世界でのテロが宗教戦争の装いを帯びることは好都合だろう。ISの影響下にある世界各地の人々がテロを実行し、成功しても失敗してもISには恐怖を煽ったという「成果」だけは残る。大義をまとったテロは厄介だ。犯罪の枠組みから抜け出し、政治行為や宗教行為に化けることもある。
2016年7月30日土曜日
歌の解釈は自由
「上を向いて歩こう」は1961年に発売されてヒットし、人々は様々な思いを込めて「♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」と歌い継いで来た。涙がこぼれそうな場面は失恋や別離、喪失、諍い、敗北など様々あり、悲しさ、悔しさ、情けなさ、衝撃、未練など様々な思いを込めて歌ったのだろう。もちろん、そうした特別な思いがなくても、いい歌として歌うことができる。
この曲の作詞者の永六輔氏が亡くなり、追悼する文章が多く現れたが、その中には、この曲の歌詞は、60年安保闘争で安保改定を阻止できなかった側の気持ちをつづったものだと説明するものがあった。永六輔氏が明らかにしていたというから間違いではないのだろうが、永六輔氏の失恋体験をつづったものだとする説明もあったりする。
政治に敏感な人なら「上を向いて歩こう」は反安保の歌だとし、イデオロギー色がついた歌だと見なすかもしれない。そうなると安保を容認する人は、この曲を歌うことを憚らなければならないのかな。でも、安保条約を現在の日本人の多くが容認していると世論調査などでは示されるが、この曲は人々に愛され、歌い継がれている。
政治は全てを支配下に置こうとし、歌など芸能も支配下に置いて利用しようとする(ここでいう政治とは権力を持つ側だけに限定されず、反体制の側なども含む)。だが、政治に従属した途端に歌など芸能は輝きを減じ始める。発想や表現などに自由さが歌など芸能には欠かせないのに、政治に従属することで途端に窮屈さが増すからだ。そうした窮屈さを人々は敏感に察する。
「上を向いて歩こう」がどのような経緯で誕生したものであろうと、今さら60年安保闘争と結びつけて解釈する必要はない。そもそも60年安保闘争を知らない世代も増えているのだから、50年以上前の反体制側のイデオロギーが現在でも有効であるかどうか疑わしい。60年安保闘争を崇め奉る人達が、この曲を歌って当時を懐かしがることは自由だが、何でも政治色に染めて見るという悪癖は自覚すべきか。
歌が世に出て人々に歌い継がれたなら、歌は作者から離れて一人歩きする。作詞者がどのような思いを歌詞に込めようと、歌う人は自分の思いを込めて(あるいは、単なる歌として)歌う。作者の意図に沿って解釈し、歌わなければならないするのは、芸術至上主義めいた思い上がりであろう。60年安保闘争という特定の状況から誕生したものであったとしても、普遍的な感情を表現した歌に変化したから多くの人は歌い継いでいるのだ。
人は、歌いたい歌を歌いたい時に自由に歌うことができる。軍歌を平和論者が歌い、「上を向いて歩こう」を安保条約支持者が歌い、「網走番外地」を警官が歌ったって自由なのだ。歌など芸能は自由な存在であり、解釈も自由であるからこそ人々に受け入れられる。多くの人を慰め、元気づける歌を作詞したということだけで作詞者にとっては大いなる名誉であり、60年安保闘争に結びつけた解釈は蛇足であった。
2016年7月27日水曜日
中立や公平を装う
中立とは「ある特定の立場・意見にかたよらず、中正の位置にあること」で、「戦争に参加していない国家に生ずる国際法上の地位。交戦当事国に対して公平と無援助の立場をとること」の意で使うこともあり、公平は「どれにもかたよらず、すべてを同じように扱うこと。えこひいきをしないこと」と辞書にはある。
「かたよらず」ということでは似たような言葉だが、中立と公平を両立することは簡単ではない。対立する人々の間で中立を保とうとすると、双方から「味方でなければ敵方だ」と見られる。公平を保とうとするなら、対立する双方に細心の注意を払って同じように接しなければならず、双方から満足と不満が同じくらいに出たなら、対立する双方に公平に接していた証しともなろう。
何が中立であり、何が公平であるか。そこに客観的な基準はなく、状況によって変化するので、当事者が状況を判断して、中立や公平を決めることになる。だから個人が主張する中立や公平は、主観の影響を免れることが難しい。組織の決定であるなら、複数人による議論で、個人による主観を薄めることができようが、組織トップの主観的判断をも修正することができる健全さを全ての組織が備えているわけでもない。
中立と公平には利害も関係してくる。対立する片方だけに利害関係がある第3者が中立や公平を装っても、客観的には中立とも公平とも見なされまい。対立する双方に利害関係がある第3者なら、中立を装えば双方から「裏切ったな」と見られ、公平を装えば双方が「こっちに味方しろ」と不満を持つ。中立も公平も、意味するところは関係する各自の主観により異なるので、誰からも批判されない中立・公平は難しい。
中立や公平という言葉には、理性的な言動を意味する響きがあるので、自己の言動を説明する時に中立や公平の言葉を使うことで、主観でしかないものを客観的な判断による言動であるかのように装うことができる。その時々に言葉の定義を確認しながら議論する人は少ないので、先に中立や公平を振りかざした側が有利になったりもする。
中立を装うことで公平を損ねることがあり、公平を装うことで中立を損ねることもあるので、批判を免れることはできない。求められる中立や、求められる公平が立場によって異なり、そこに各自の主観が絡む。そうした場合、互いに相手を批判し、それぞれの中立や公平を言い立てることになる。主観の色濃いものを押し通すには、少しも引かずに言い立てるのが最善の方法だ。
2016年7月23日土曜日
借りた土地で借りた時間で借りた金で生きる
英国の植民地だった香港に住むことは、「借りた場所で、借りた時間で」の生活と表現されたことがある。1839年からのアヘン戦争のあとに香港島は英国に永久割譲され、第2次アヘン戦争のあとに九龍半島も割譲され、新界は1898年から99年間の期限で英国が租借した。香港では土地の所有権は住人には与えられず、使用権のみが売買された。
中国本土では土地は国有ということで、現在でも土地の所有権は個人には与えられず、使用権が売買されている。だが実際には地方政府が、住人を追い出した土地を業者に売って再開発させたりすることで売却益を確保したりしているので、個人の使用権は限定的だ。中国の人々は「借りた場所」で生活しているが、「借りた時間」であるかどうかは今は不明だ。
「借りた時間」とは、いつか期限が来るということ。土地の私有を認めない1党独裁体制が終わったときに、次の政権では政策が変わるだろう。借りたものは、いつか返さなければならない……というのが世の中の決まりなのだろうが、踏み倒す人もいたりする。土地や時間なら、体制が変わり政権が代われば人々に「返される」のだろうが、大企業などが借りた金は、体制が変われば騒ぎにまぎれてウヤムヤになるかもしれない。
中国の借金総額は2015年末時点で168兆元(約2650兆円)でGDPの249%に達し、企業分が156%を占めると新聞が報じた。中国では主要な産業を大企業である国有企業が牛耳っているが、その国有企業が抱える負債が全企業の負債の3分の2を占めているという。国有企業の負債が膨らむのは、これも国有である銀行が貸し続けるからだ。国有の銀行が貸し付ける資金とは公的な資金である。
巨額の負債ではあるが、中国が公表する統計数値は政治的な配慮を加えて修正されたものであろうから、実際の負債はもっと多いだろう。中国では国有企業や地方政府の債務が膨らんでいると見られているが、実態は闇の中。例えば、IMFは中国の債務総額はGDP比で225%とし、米マッキンゼー国際研究所は同282%とするが、「正解」は誰も知らない。
すでにデフォルトが少しずつ増えているともされるが、続々と国有企業を破綻させることは中国では政治的な責任問題にもつながるので、大規模な破綻処理は不可能だろう。政治的な影響が大きすぎて、つぶせない国有企業に銀行は資金を流し続けるしかない。つまり、負債額は増え続け、中国経済を蝕み続ける。
いつか中国で1党独裁体制が崩壊したなら、国有企業は相次いで行き詰まるだろうが、膨大な借金は騒ぎにまぎれて踏み倒されるだろう。国有企業だけではなく地方政府も民間企業も個人も、「借りた金で」生き延びていた連中の大半も負債を返すことはできないだろう。現在の中国の繁栄は、踏み倒すことを暗黙の前提とした資金の垂れ流しで支えられている。
2016年7月20日水曜日
軽自動車を世界規格に
2014年の新車販売台数は556万台だが、登録車329万台、軽自動車227万台で軽自動車が4割を占める。乗用車に限ると、車種別販売台数ベスト10のうち7台が軽自動車であるなど、軽自動車の比率は高くなる。軽四輪車の保有台数(2014年12月末現在)は2988万台で、世帯当たり軽四輪車の普及台数は100世帯に54.0台と普及度は高く、人々の“足”となっている。
世帯当たり普及率が高いベスト5は佐賀県、鳥取県、長野県、島根県、山形県の順。低い方から普及率をみると、東京都、神奈川県、大阪府、埼玉県、千葉県の順になる。「100世帯に100台(1世帯に1台)以上の普及」は6県、「同90台台の普及」4県、「同80台台の普及」16県、「同70台台の普及」8県。「同50台以下の普及」は8都道府県(全国軽自動車協会連合会の集計)。ちなみに東京都の普及率は11.8%。
そんな軽自動車の規格にTPP(環太平洋経済連携協定)の日米協議の時に米国側から、非関税障壁であるとして撤廃要求が出されたとの報道があった。公式に話は出ていないと経産省は否定し、やがて、アメリカ側の関税撤廃を遅らせることで自動車を巡る交渉は一段落したので、軽自動車の規格を巡る話は立ち消えになった。
TPPに関する各国の交渉は秘密にされた部分が多いので軽自動車規格について、どのようなやり取りが実際にあったのかは詳らかではないが、日欧EPA(経済連携協定)交渉でもEU側から軽自動車規格を問題視しているなどの報道が現れるなど、日本独自の軽自動車規格には欧米が関心を持っているらしい。まあ、普通車を主力とする国内メーカーが一連の報道の裏で糸を引いているとの見方もあるが。
日本独自の製品や規格を「ガラパゴス」だと揶揄(卑下?)する見方は、評論などでは珍しくない。世界市場で少数派であることが批判の根拠となる。日本国内で商売になっているのだったら、そんなに揶揄(卑下)しなくてもいいいのにとも思うが、西洋崇拝の残滓は日本人の思考にこびりついているから、そこにグローバルスタンダードという呪文をまぶすと、ガラパゴス=悪いこと、というイメージが完成する。
しかし、発想を変えてみると、軽自動車の規格は世界に広めるべきものだろう。大人4人が乗れるミニマムサイズで、排気量が小さいのでガソリン消費量も抑制される(はず)。ドイツ車をはじめとして欧州では自動車の大型化が進むが、CO2排出規制に直面して方向転換を迫られている。EUが軽自動車規格の導入を行ったなら、世界規格にもなろう。
大人1、2人が移動するたびに、2トン以上で全長5メートルにもなる車を使用しなければならないのかという疑問を持てば、軽自動車の存在意義が見えてくる。軽自動車規格は、都市化する世界に最適な、エコでコンパクトな移動手段の現実的な提案である。日本が提案して世界に広めることは、ガラパゴスなどと言って国内で揶揄(卑下)しているよりも建設的だ。
2016年7月16日土曜日
普通の人の何倍もの人生を生きた人
北海道などには、カスベという魚の煮物や煮こごり料理がある。ゼラチン質が多く、身は淡白でほぐしやすいので食べやすく、軟骨なので骨もそのまま食べることができ、ぬた、唐揚げなどにしても美味しいという。カスベはガンギエイ科のメガネカスベのことで、ヒレの部分を調理して食べる。
カスベを含むエイの仲間は扁平な形をし、両側のヒレを上下に動かして泳ぐ。カスベは尾を含めて全長1mほどで、砂にもぐったりもして海底で暮らしているが、海面近くで暮らすマンタなど大型エイは、両側のヒレを優雅に羽ばたかせるような泳ぐ姿が伸びやかで、ダイバーには人気があるそうだ。
世界の水族館ではエイのグッズを販売しているところがあるそうだが、名字にちなんでエイのグッズをコレクションしていたというのが永六輔さん。ラジオ、テレビの放送分野で活躍し、「上を向いて歩こう」など多くの名曲(日本のスタンダード・ナンバーになった)の作詞をし、『大往生』などの著作も多数。日本各地に出掛け、多くの人と語るなど、普通の人の何倍もの人生を生きた人だ。
永六輔さんが作詞した曲は多い。中村八大さんの作曲したものでは、「黒い花びら」「おさななじみ」「遠くへ行きたい」「黄昏のビギン」「上を向いて歩こう」「一人ぼっちの二人」「夢であいましょう」「娘よ」「芽生えて、そして」「いつもの小道で」「こんにちは赤ちゃん」「帰ろかな」「ウエディング・ドレス」などがあり、永六輔さんが自分で歌った「たこ酢で一杯」なんて面白い曲もある。
いずみたくさんと組んだ曲も多く、「見上げてごらん夜の星を」や日本の歌シリーズがあり、日本の歌シリーズからは「いい湯だな」「女ひとり」「筑波山麓合唱団」などが歌い継がれている。ほかの作曲家のものでは「若い季節」「二人の銀座」などがあり、永六輔さんの作詞した曲を知らない日本人は少ないだろう。
これらの曲の多くはAメロとBメロだけで構成されていたりして、覚えやすい短めのメロディーと、聴いてすぐに理解できる歌詞なので、人々は歌いやすかっただろう。最近の曲はCメロ、さらにはDメロと複雑に展開し、断片的に英文も紛れ込んだりするから、覚えるには決意して努力しなければなるまい。最近の曲は、歌い継がれることを放棄した「アーティストの作品」なのだろう。
これから、永六輔さんが作詞した曲を聴く機会は増えそうだ。テレビなどで、永六輔さんの作詞した曲だけで構成した音楽番組や、追悼コーナーを設ける番組が続こうし、年末の回顧番組では必ず永六輔さんの作詞した曲が使われるだろう。大晦日の紅白歌合戦では特設コーナーを設けて皆で歌ったりするかもしれない。でも、永六輔さんが作詞した「遭いたい」が歌われることはなさそうだ。悲しさが増しすぎるだろうから。
2016年7月13日水曜日
分裂は常に存在する
英国の国民投票で、EU離脱賛成が得票率51.9%で残留支持の48.1%を上回り、英国はEUから離脱することになった。EU残留支持に投票した人達はこの結果に納得せず、再度の国民投票を求める請願に410万人以上が署名をし、街頭に出てデモをしていたことが日本でも大きく報じられた。
だが、再度の国民投票で仮に結果が残留支持となった場合、今度はEU離脱に賛成した側が黙っていないだろう。署名集めをし、街頭に出てデモをする。国民投票のやり直しが一度認められたのなら、二度目のやり直しを拒むことは困難だろうから三たびの国民投票が行われ……と何度も国民投票は続き、その間は英国はEUに離脱通告できないから、国民投票を繰り返すことで英国はEUに残留し続けることができる。
米国で大統領選を闘っているトランプ氏は、その言動が国際的に物議をかもしているが、その言動故に支持者がついているので、トランプ氏は過激で偏狭な主張を簡単に穏便化することはできまい。本当に大統領になることができるかもしれないとトランプ氏が色気を出し、“まともなこと”を言い始めたなら、それまでの支持者は失望するだけだ。
英国の国民投票でEU離脱を支持したのは主に労働者階級や高齢者で、EU残留を支持したのは経営者や若者、富裕層などと言われ、国民投票で英国社会の分裂が表れたとの解説、解釈がなされた。米では、トランプ氏の支持者は主に地方在住の白人の低所得者層とされ、ワシントンの既成政治家への反感、反発の広がりがトランプ氏を押し上げたともいわれる。
英国の国民投票の結果や米国のトランプ人気は、それぞれ国内が2分され、分裂していることを示すと懸念する見方がある。だが、若者と高齢者、低所得層と富裕層、労働者と経営者など社会内に対立構造はいつでも存在するのだから、主権者の意向(民意)が正しく示されたなら、分裂傾向を示すことは珍しいことではなかろう。
過激なポピュリスト政治家が選挙で勝つために対立を煽り、分裂を促進する恐れはある。だが、民意が分裂し、対立しているのが社会の実態であるなら、選挙の結果に現れた分裂を特に問題視し、様々に論じてみたところで分裂はなくならない。分裂は常に存在する。注意すべきは、宗教、民族、人種、地域差などの要素を社会に存在する分裂にまぶして煽り立てる言動に惑わされないようにすることだ。
分裂のない社会が存在するとすれば、主張や自我を自己抑制する人々だけが集まった社会か、強権によって個人が抑え込まれている社会だろう。まとまりのある社会に見えるかもしれないが、どちらも息苦しそうだ。様々な考えの人がいて、自由にその考えを表明できるから分裂が現れると考えると、分裂そのものを過大に問題視する必要はない。
ただし、英国が植民地支配で行った「分割して統治する」という支配方法が、先進国を含め多くの国でも有効だとするなら、国家権力や支配層が巧妙に国内の分裂を煽り、対立構造をつくり出すことで互いに憎みあうように仕向け、批判の目を権力から別の対象に逸らすことは支配に都合がいいだろう。
2016年7月9日土曜日
周回遅れの前衛
前衛であり続けることは難しい。前衛音楽や前衛美術など、既成概念の枠から飛び出した新しい表現をつくりだしたとしても、それはたちまち新たな1ページを与えられて既成概念に加えられ、体系化される。新しさだけで前衛を気取っていた表現は、いっとき注目されて、やがて新鮮さが失われると色褪せていく。目新しさが失せた後にも、表現として自立できるものが、前衛の座を失っても、残っていく。
政治にも前衛がある(あった?)が、こちらも前衛であり続けることは難しい。政治で前衛であるには、新たな視点による問題提起が不可欠だ。さらに、政治に新しい表現や新しい話法を持ち込んだり、新しい運動方針に基づいて新たなネットワークをつくって、新たな政治運動形態で活動することが、政治における前衛の証しになる。
政治における前衛は、議会を目指さず、社会運動としての政治運動であったりもしようが、現実を変える力を得るという意味では、議会を目指すことが自然だろう。本当に前衛であるならば、新たな発想による新たな選挙戦術で新たな選挙戦を闘うだろう。既存政党の組織論や選挙戦術とは一線を画し、斬新で新しい運動形態となる。なぜなら、前衛とは既存の方法論にあきたらない精神の発動だからだ。
しかし、前衛が前衛でいられる時間は短い。新たな組織論、新たな選挙戦術などは、それが効果を発揮して有効だと見なされたなら、すぐに模倣される。ただし、模倣されるのは前衛の精神ではなく、前衛が編み出した方法論の中から利用可能な部分だけだ。そして前衛は、ちょっと変ったやり方として、既成の枠組みに加えられて秩序の一部になる。
軍事で前衛は最前線で戦う戦闘部隊のことだが、政治で前衛党といえば、人民を指導する政党のことだと共産主義ではいう。共産党なんかに勝手に指導されたくないと思う人もいようが、前衛党と規定することで共産党は独裁を正当化する。プロレタリア独裁は正当であり、それは、プロレタリアの政党である共産党の独裁によって実現されるという発想だ。
前衛というものは、社会に受け入れられたときから既成秩序の一部となり、斬新さは色褪せるのだが、前衛という装いを手放そうとしない人たちがいる。真に前衛であり続けるには、不断に新しい価値観、新しい表現を打ち出すことが必要だが、そんな飛び抜けた能力を持つ人や政党は存在しない。短い期間だけ輝いて、やがて消えていくのが真の前衛の宿命なのかもしれない。
前衛という装いを手放さない人や政党は、そういう社会的ポジションに執着があるのだろうが、たまにライトを浴びたりもする。トラック競技で周回遅れとなっている人が、先頭を走るランナーより前を走る状態になって、観客の注目を浴びていると誤解するような状態だ。周回遅れになっていることを軽く見て、誰よりも前を走っている気分を楽しむのかな。
2016年7月6日水曜日
誰に投票するか
どこかの政党の党員やシンパであるなら、選挙で投票する時に迷うことはない。迷うとすれば、日頃から支持している政党が候補者を立てず、推薦する候補者もいない選挙のときぐらいで、投票する候補者を自分で決めなければならない。だが、どこの政党の党員でもなくシンパでもない多くの人は、選挙のたびに、投票する候補者を捜して迷う。
なぜ迷うのか。それは、政策を検討して、支持する政党を決め、その政党の候補者に投票するのが、選挙だと思い込んでいるからだ。ところが、政策を検討するために、例えば選挙公報を読んでみたって、程度の差はあれ誰でも強いて反対しないような抽象的な文言を並べている政党が多いから、判断の決め手にはならない。さらに、選挙のたびに新しい政党がいくつか加わっているから、ますます判断に迷う。
選挙で投票することは主権者の最も重要な権利行使だから、棄権はしたくないと考える無党派の人は、自民か反自民かと基本的態度を決め、ほかの政党は頼りないからと自民に投票したり、自民は嫌だからと野党の中から投票先を選挙のたびに決めたりするのだろう。
反自民の人の中には、どうせ野党は国会では政府批判に終始するだけで、政策に影響を与えることができず、野党のどれに投票しても政治には変化はないだろうからと、その時々のフィーリングで投票先を選ぶ人もいるかもしれない。ただ、そうした投票行動では現実の政治の方向性は変わらないから、反自民の人はいつまでも反自民で居続けるしかない。
選挙では、支持する政党を選ぶ必要はないという考え方がある。投票する基準は、それまでの政治に不満があれば野党第1党に投票し、不満がなければ与党に投票する。そのときの野党第1党や与党がどこかなんて気にせず、政権を交代させるか否かで判断するのだ。それまでの政治に不満があっても、野党の中で票が分散すれば政権交代にはつながらないから、そのときの野党第1党に投票を集中しなければならない。
選挙では、どこかの政党への支持を表明するのではなく、それまでの政権に対する評価を示すとすれば、投票のたびに迷うことはなくなる。政党なんてどれも怪しい人間の集まりで信用できないと考えている人や、政党なんか支持したくないが棄権はしたくないという人なら、政権交代を判断の基準にするのが便利だろう。
選挙前の世論調査では必ず、支持政党を訪ねる設問があり、支持する政党を決めることが選挙には必須であるかのような雰囲気づくりがなされる。だが、政党を支持しなければならない義理は多くの人にはないだろう。国政を担う政党を主権者が選択するのが選挙であり、政党は主権者に使われる存在である。だから“使えない”政党を淘汰するチャンスが選挙である。
2016年1月16日土曜日
移民・難民との共生
昨年、メルケル首相が受け入れ歓迎を表明してからドイツへの移民・難民の流入は加速し、前年の5倍以上にもなり110万人を超えたという。難民受け入れに積極的だったスウェーデンは15万人以上を受け入れ、EUはギリシャ、イタリア、ハンガリーに滞在する難民計16万人を他の加盟国が引き受けることを決定した。
内戦や迫害、飢餓などを逃れて脱出し、遠路をたどり着いた人々を受け入れるのは人権擁護の具体的な行為だろうし、人類愛などの理想を現実化する崇高な行為であるかもしれない。かつて戦乱により欧州で大量の人々が難民となった記憶もあってか、メルケル首相の言葉にドイツの人々が、自分らは理想の側に立っているのだと酔ったのも理解できないわけではない。
が、理想は現実に裏切られるというのもよくあることだ。ドイツで受け入れを実際に担当する自治体からは、移民・難民の流入人数が多すぎることに批判が出ていたし、加盟国に難民を割り当てるというEUの決定に反対し、受け入れ拒否を表明している国もある。理念として難民受け入れは崇高な行為だろうが、実際の受け入れは煩瑣で煩雑な支援策の積み重ねとなろうし、長く続けざるを得まい。
さらに、移民・難民は出身国が様々で出身地域も異なる個別の人間の集まりであり、健康状態や適応能力など各自の状況は異なるので支援にも個別対応を要し、十把一絡げと扱うわけにはいかない。集団として扱うなら難民は人類愛の対象にしやすいだろうが、自宅に1人の難民を受け入れることを想像するなら、実際の支援は簡単なことではないと分かる。
欧州に受け入れられた移民・難民が、支援策が手厚い国への更なる移動を求めたり、収容施設や場所の変更、都市部への移転を要求したりなどと個別の声を上げ始めたことが伝えられ始めた。移民・難民が収容施設内に住み、言語を習得して就労し、稼いだ金で独立した生活を送るようになるというのが受け入れ側の理想だろうが、移民・難民の誰もがおとなしく従うわけではないのも現実。
独ケルンで昨年の大晦日の夜、多数の女性が大勢の男に囲まれ性的暴行や窃盗などの被害にあった。容疑者の多くが難民保護申請者とみられ、寛大な受け入れ策に対する批判が沸き起こっているという。100万人以上がドイツにやって来たのだから、ヘンな人間や荒んだ心を持つ人も混じっていようし、先進国に来て自由な雰囲気の中で、つい羽目を外しすぎてしまった人もいるだろうとは、遠く離れた傍観者だから言えることか。
ドイツでは新しい労働力(低賃金の)として移民・難民は期待されているが、彼らが個別の人間としての扱いを要求し始め、欧州人と対等の権利を要求し始めた時に、難民・移民への同情に満ちた歓迎ぶりは変わっていくだろう。社会的弱者としてではなく、対等の人間として認めることができるのか。移民・難民の流入で、欧州は試されている。
2016年1月13日水曜日
様々な外貨準備
2015年12月末における日本の外貨準備高は1兆2332億ドルで世界2位。うち1兆1790億ドルが外貨で、その大半の1兆642億ドルが証券(ほとんどが米国債)。ちなみに金は261億ドル、IMFリザーブポジションは95億ドル、SDRは180億ドル。外貨準備高の世界1位は中国で3兆3303億ドル(15年12月末)と、日本の3倍近くにもなる。
輸出主導で大幅な成長を続け、経済規模では日本の2倍にもなった中国だから、外貨準備高が多いのは当然にも思えるが、3兆ドル以上という額は多すぎる。内訳の公表は部分的で、米国債の保有高は日本をやや下回る程度というから、中国の外貨準備の過半が外部からは窺い知れない闇の中にある。
だから中国の外貨準備高には、世界各地での巨額の資源投資で焦げついた分が含まれているとか、多くの高官らが不正に持ち出した巨額の海外流出分が含まれているとか、いろいろな憶測が出てくる。GDP成長率を始めとして中国が発表する統計数字の信用性が揺らいでいることを考えると、外貨準備高も参考程度に評価すべきものか。
中国の12月末の外貨準備高3兆3303億ドルは11月末と比べて1079億ドルの減少で、月間の減少幅は過去最大という。15年の5126億ドルの減少額も過去最大で、減少の3分の2近くが8月以降に発生したものという。8月以降に中国は、景気減速に伴う人民元の下落を阻止するため大規模な市場介入をしたと見られている。
輸出で稼ぐ国なら自国通貨安は有利になるはずだが、中国はドルを売って人民元を買い支える。様々な要因が絡んでいるのだろうが、買い支えなければ暴落する懸念があるのか……と勘ぐりたくなる。人民元の下落は、中国からの大量の資金流出と関係しているともいわれ、外貨準備のドルを売って人民元を買い支えなければならない状況だとすると、今後も中国の外貨準備高の減少は続きそうだ。
中国の外貨準備高が最も多かったのは14年6月の3兆9932億ドル。中国政府が自由に使える金を大量に持っていると見て欧州を始め世界各国が、金を引き出そうと中国になびいたのが昨今の国際情勢だが、中国政府が自由に使える金は実際には、そう多くないとなると、中国を見る世界の目は変ってこよう。
なお、中国の外貨準備高が膨れ上がったのは、外貨集中制の名残りで、海外からの借り入れなどにより中国内に入った外貨を銀行から人民銀行が買い入れ、それも外貨準備に含めているからだという見方がある。中国に流れ込んだ膨大な外国からの投資が外貨準備高にカウントされているのだとすると、中国の外貨準備高が巨額になることは理解できるが、それは自由に使うことができない金だ。
2016年1月9日土曜日
4時間を楽しむ
今年3月26日に北海道新幹線が開業する。北海道新幹線といっても、北海道を走る距離はそう長くはない。新青森駅まで開業している東北新幹線が、青函トンネルを通って道南の新函館北斗駅まで延伸しただけというのが実際だ。だが、新幹線の北海道初上陸であることは確かだし、これで北海道から九州まで新幹線の鉄路で結ばれたのだから、画期的だと評価するのも見当違いではあるまい。
ただ、前評判は高くない。15年に開業した北陸新幹線(長野新幹線を金沢まで延伸したもの)の営業成績が好調で、東京から北陸を訪れる観光客を増やしたことと比較すると、北海道新幹線の開業効果は低いと見なされているようだ。その理由の一つが、東京駅から新函館北斗駅まで4時間以上かかり、更に新函館北斗駅から函館駅まで乗り換え時間を含め30分程度かかることだ。
観光地としての魅力で函館は金沢に負けていないが、函館中心部から近い函館空港に羽田から1時間20分で着くとあっては、乗車時間の長短で北海道新幹線は航空機に対抗できない。だから、東京からの観光客による北海道新幹線の利用増はそれほど期待できないと見られ、北関東圏や東北圏からの利用者増に期待がかけられているようだ。
新幹線では乗車時間4時間というのが航空機との競争力の目安で、乗車時間が4時間を切ると新幹線を選ぶ人が増えるとされる。北海道新幹線は、青函トンネルを貨物列車と共用するため上限速度が抑えられるので、東京〜新函館北斗は最速でも4時間2分、平均で4時間22分。厳密に4時間にこだわることはないとも思えるし、最高速度を260キロから上げれば、乗車時間の短縮は可能だが、現状では4時間切りはできなかった。
しかし、視点を変えると4時間が常に「壁」であるとは限らない。出張などで移動が目的なら所要時間は短いほうがいいだろうが、旅を楽しむなら、乗車時間が長いことは必ずマイナス要因になるものでもない。鉄道ファンはもちろんだが、車窓に次々と現れる景色を飽きずに眺めるなど乗車時間を能動的に楽しむ人には、4時間を超えても長過ぎるということはない。
新幹線にはビジネス客が多いので、観光客優先で沿線の観光案内などを車内放送で過度に流すことはできないだろうが、次の停車駅をアナウンスする時に観光情報を加える程度なら可能だろう。更に客室の前後に大型スクリーンを設置して映像主体の多彩な情報を提供したり、無料WIFI環境を整備してネットを活用しての情報提供など、新幹線での乗車時間を観光客に楽しんでもらえるようにする演出の余地は大きい。
乗車時間が長くても、その長い時間が、ただ乗せられて移動している時間ではなく、能動的に活用する楽しい時間になるならば、観光客にとって乗車時間は苦にならない。北海道新幹線(東北新幹線を含め)は、乗客の半分が観光客だと思い切って、移動する時間の演出にもっと励むなら、長い乗車時間を「武器」に転じることができるかもしれない。
2016年1月6日水曜日
100年前は1916年
イラクやシリアで勢力を拡大した「イスラム国(IS)」が主張しているのが、サイクス・ピコ協定の破棄。英仏とロシアがオスマン帝国領の分割を定めた秘密協定がサイクス・ピコ協定で、現代の中東諸国の国境線を決めたといってもいいもの。欧州による植民地支配が現在まで影響を及ぼしていることを如実に示すこの秘密協定が結ばれたのが、100年前の1916年だった。
1916年にはまだ、14年に始まった第1次世界大戦が続いており、欧州の西部戦線などで激しい戦いにより何百万人もの死傷者を出していた。パリは独ツェッペリンの空襲で大被害を受け、ソンムの戦いでは戦車が初めて使用された。ポルトガルやルーマニアなど参戦していなかった欧州諸国も相次いで参戦、欧州における戦火は拡大した(中東、アフリカなど各国の植民地でも戦闘は拡大)。
中国では袁世凱が帝位につき、国号を中華帝国にしたが、各地で軍閥が反乱を起こし、3月に袁世凱は帝位取り消しを宣言、中華帝国は短命に終わった。しかし、南方からの第3革命の波は収まらず、広東・四川・陜西・湖南が独立を宣言するなど、中国は各地で軍閥が相争い、割拠するようになった。6月に袁世凱は病没した。
欧州での戦火拡大は日本から世界への商品輸出を急増させ、日本は貿易収支が大幅黒字になり、空前の好景気になった。軽工業に加え、重化学工業も発展し、工場労働者が増え、都市への人口増加が加速した。成金が現れ、景気回復で補助貨幣不足となり釣銭が無くなったりしたが、インフレも進み、賃金生活者に生活苦が広がった。河上肇は「貧乏物語」を新聞に連載した。
9月に、工場労働者を保護するための工場法が施行された。といっても、産業界からの反対で長らく制定が阻止されてきたものであり、年少者の就業年齢や女性労働者の就業時間などに制限を設けたが、例外規定があったり、小規模工場は適用外で、勅令で適用除外を拡大できるなど、産業界の意向に背くことはない内容。
この年、デンキブランが登場し、見合いの場として帝劇・三越・白木屋・文展会場が人気になった。東京で闘犬が流行し、京都の小学校が林間学校を始め、チャップリンやキートン映画が人気になったが、コレラが流行して全国で患者数は1万人を超え、翌年にかけて7482人が死亡した。
軍艦島として知られる長崎県端島に7階建て炭鉱住宅(日本で最初の鉄筋コンクリート造アパート)が建設されたのも、この年。それから58年後の1974年に閉山し、やがて無人島となって、放置された建物は廃墟となった。その廃墟が人気を集めて、有望な観光スポットになるのだから、歴史は面白いというか皮肉というか。
11月には、葉山日陰茶屋で神近市子が大杉栄の首を刺すという事件が起きた。大杉は重傷を負い、神近は自首したが、世間の同情は神近に集まり、大杉の評判はガタ落ちになったという。自由な恋愛を主張しつつ大杉は神近から資金援助を受けていたのだから、自由恋愛論は身勝手な主張と受け止められても仕方がない。この事件で大杉と伊藤野枝は孤立するが、絆を一層強め、大杉の自由恋愛の実践は終わる。
2016年1月3日日曜日
繰り返してきたことか
中東からアフリカにかけて、政府が機能しない破綻国家が点在してテロ集団が跋扈し内戦状態となり、欧州には大量の難民・移民が流入して、多文化主義など欧州が掲げる理念・理想が揺さぶられる一方、台頭する中国が欧米主導の国際秩序に黙って従うことを拒否し始めるなど、世界は流動化しつつある。
世界は細かく分断され、秩序が解体しつつあるようにも見えるが、これが常態だと考えれば、過度に不安視したり、危機感を持たなくてもいいことに気がつく。どのような分断が何処で起きているのか、どのような秩序が誰によって、どのように解体されようとしているのか、冷静に分析して対応すればいい。
確固とした世界秩序の下で全人類が平和で安定した生活を送るというのはユートピアだろう。つまり、現実には有り得ない。世界は常に変化しているのであり、分断も秩序の解体も変化の現れにすぎない。ユートピアを基準にするなら、地球上の人間世界は欠陥だらけにしか見えないだろうが、聖人君子ではない欠陥だらけの人間がつくる世界なのだから相応だな。
地表にある陸地が移動し続け、何万年もかけて形を変えるように、人間がつくる社会・国家も世界も形成と解体を繰り返し、数十年、数百年で形を変えるのが当然か。そう考えるなら、分断や秩序の解体は、時代の変化に対応した新しい変化の兆しでもあり、否定すべきものと批判的に見るだけなら、変化の示すものを捉えることは難しくなろう。
とはいえ、個人の“持ち時間”は数十年だ。年表には過去に起きたことは記されているが、未来に起きることは記されていない。長い時間の流れの中で見えて来る世界の変化を、個人が個別の出来事から類推し、正確に理解することは困難であることは間違いない。分断や秩序の解体の先にあるものを個人が見通すことはできず、不安視し、危機感を持つことは、繰り返されてきた反応だろう。
繰り返されてきたのは個人の意識だけではなく、生存や社会生活に関する多くのことが、その時々の時代の“衣装”をまといながら、同じように繰り返されてきた。例えば、敵をつくって殺害することは太古から人間が続けてきたことで、殺害する武器が「進化」したに過ぎない。石で殴り殺し、槍で突き殺し、刀で斬り、銃で撃ち、ミサイルを撃ち込むと方法は変わったが、人類は繰り返し、殺しあってきた。
現実を肯定し、無気力に流れに追随することを正当化するのではない。人間は永遠に未完成で、同じ過ちを繰り返すものだと突き放して見るなら、分断や秩序の解体の先にあるものは、人類が過去に何処かでしでかしたことの繰り返しかもしれないと見当がつく。それには、世界の変化に一喜一憂せず、浮き足立たずに情報を集め、分析するしかないだろう。
登録:
コメント (Atom)