2021年6月30日水曜日

拡大再生産が破綻

 資本主義は拡大再生産のシステムだ。商品の生産量を増やし続ける拡大再生産を持続するには、常に新たな市場が必要になる。地域の市場から近隣に販路を拡大し、やがて全国を市場として販売を増加させ、拡大再生産を支える。さらには、国外へと販路を広げ、先進国や途上国などに新たな市場を開拓する。

 モノやサービスを売買する現物経済の市場に参入する企業が世界で増え、シェアを分け合い、新たな市場の開拓の余地がなくなるとともに、資本主義は金融経済の市場を開拓した。現物経済は需要に見合った供給が行われるところで市場拡大は頭打ちになるが、金融経済は投入される資金量に応じていくらでも拡大できる。

 最初に金融経済に投入された資金は現物経済によって得られた利潤だったが、次第に貨幣(交換価値)を売買するという金融市場が膨張、資金を金融経済が増殖させ、とうとう金融経済の規模は現物経済の数倍にまで膨れ上がった。ただし、金融経済は、交換価値への投機が過剰になって破綻するというバブル崩壊の危険を常にはらむ。

 モノやサービスを売買する世界の市場の拡大が頭打ちになり、金融経済の市場の開拓も進んで大幅な拡大が見込めなくなった次に現れたのがインターネットによる市場だった。情報や情報発信を売買するというインターネットの市場は、現物経済や金融経済も取り込み、拡大を続けた。インターネットの市場には拡大を制限する要素はないとみえたが、中国などに顕著な政府による規制が成長を制限する。

 資本主義は、新たな市場を見つけ、拡大することで、拡大再生産というメカニズムを維持してきた。現物経済の市場に加え金融経済、インターネット市場と活動範囲を拡大することで資金を膨張させてきた。それがCOVID-19によるパンデミックで、商品やサービスを売買する現物経済が世界で一気に縮小し、拡大再生産のメカニズムが破綻した。

 このパンデミックに資本主義は無力であり、利潤を目指さない国家による経済が人々を支えた。「市場に任せれば全てがうまくいく」との自由な市場が最善であるという資本主義の主張の薄っぺらさが暴かれ、資本主義が利潤を求めて勝手に動く中で、人々の健康や安全は国家による経済に頼ることが明確に示された。

 常に新たな市場を求める資本主義にとって国家は邪魔者だった。資本主義の圧力により、労働者市場などをはじめとして各種の規制緩和が進み、資本による収奪が加速するとともに中間層の解体と格差拡大が進んだ。だが、このパンデミックは資本主義の無力さと国家による経済の必要性を確認させた。

 とはいえ資本主義は強靭だ。社会に不可欠であることが明確になった国家による経済を新たな市場として資本主義は取り込んでいくだろう。それは、資本主義が国家を所有する構造になる。中国など国家が資本主義を所有する構造とは正反対だが、国家と資本主義が強固に結びつく構造は同じなので、人々が見る光景は似たようなものになる。

2021年6月26日土曜日

批判の根拠

 マスコミの重要な責務は権力批判だ。権力は腐敗するもので、時には暴走する。また、権力を行使する人々は都合よく情報を操作する一方、不都合な情報を隠し、権力行使に伴う責任を問われかねない情報なら破棄したりもする。そういう権力を監視し、常に批判する存在が民主主義(主権在民)には必要かつ不可欠であり、その代表がマスコミとされている。

 権力の行使に関わる人々の腐敗とか職務怠慢、不品行など不祥事や、権力行使により実害が生じている場合などにはマスコミの批判は人々の共感を得て、その批判は支持されるだろう。だが、政治方針や政策など立場により賛否が分かれる事柄に対する批判は、マスコミの批判と賛否を異にする人々から賛同を得ることはできまい。

 権力とは性悪であるとの見方に立つマスコミならば、保守寄りの権力でもリベラル寄りの権力でも常に時の権力を厳しく批判するだろう。そうした批判を人々に納得させるためには第一に、どんな権力の行使も人々を損う、第二に、どんな権力も社会を悪くさせるーーなどの暗黙の了解を想定しなければなるまい。

 マスコミは反権力であるべきだと考える人々には、こうした暗黙の了解は納得しやすいだろう。反権力であるマスコミなら、全ての権力を批判する。批判の根拠を問われても、権力のなすことは全て悪だと言えばすむ。日本のように保守寄りの権力が長く続いている社会で、マスコミの権力批判の根拠が曖昧に見えるのは、権力批判が反権力の情緒で描かれているからかもしれない。

 根拠が曖昧な批判は珍しくなく、根拠を曖昧にすることで何でも批判することができ、昨日批判したものを今日は称賛し、明日になってまた批判することも可能だ。いくらでも批判や称賛の根拠をでっち上げることは簡単だから、常に批判者でいることは難しくない。

 だが、マスコミの権力批判が何でも批判しているように見えては、やがて批判者への信頼が損なわれよう。反権力の人々は賛同するかもしれないが、賛否が分かれる事柄に関する権力批判を説かれて違和感を感じた人々は、マスコミの権力批判の根拠を問うだろう。マスコミの権力批判にも説明責任が求められる。

 権力批判を行わず、権力を翼賛するだけのマスコミも世界には珍しくないが、そうしたマスコミには権力の暴走を正す力はない。情報が平準化した現在の世界では国家権力以外に大きな影響力を持つ組織や運動などが存在する。そうした国家以外の権力に対する批判を日本を含め世界のマスコミが行うことができているか。そこでもマスコミに説明責任が求められる。

2021年6月23日水曜日

クマの生息数

 札幌市内の住宅地に早朝、クマが現れ、住民や通勤の人ら4人を襲って重軽傷を負わせながら移動し、約8時間後に丘珠空港近くの茂みで猟友会のハンターにより射殺された。このクマは体長が約1.6メートル、体重158キロの5〜6歳のオスだった。札幌市内でのクマの出没は珍しくなく、毎年、ニュースになって警戒が呼びかけられる。だが、市内でクマに襲われて負傷者が出たのは20年ぶりという。

 クマが人里に現れたとの情報は全国で年間2万件ほどあるという。4月頃から増え始め、冬眠前の11月頃までが多い。クマが人里にまで現れるようになった理由を専門家は①過疎化により里山などが荒廃し、クマの行動範囲が拡大、②住宅地の拡大でクマの生息地域と重複、③クマの生息数が増加、④人の怖さを知らない世代のクマが増加、⑤生ゴミや園芸栽培の作物などを狙ってクマが動くーなどを指摘する。

 クマは警戒心が強い臆病な動物なので、例えば住宅地と里山の間にある中間地で除草を徹底して見通しをよくすればクマの行動を抑制でき、住宅地への侵入を防ぐことができるとの見方もあるが、検証データは乏しい。今回のクマは用水路を伝って移動していたとの見方もあり、クマの市街地への侵入経路は多々ありそうだ。

 クマの生息数が増えているから、山から中間地を超えて市街地にまで行動範囲が広がっているとの見方も多い。クマが増えて人の生活空間に入ってくると、人とクマの共生は同じ空間では不可能だから、クマを駆除して人の安全を確保することになる。だが、クマが増えているとは言われるものの、それを示す確かなデータはない。

 ヒグマの生息数を北海道は10600頭プラスマイナス6700頭と推定した(2012年)。少なければ3900頭、多ければ17300頭とプラスマイナスの数字の幅は広く、実態は分からないということだ(従来のモニタリングや調査で蓄積された科学的データを用いたコンピュータシミュレー ションに基づき推定したそうだが、こんな大雑把な数字では実態に即した有効な対策を講じることは難しいだろう)。

 ヒグマの生息数は1990年比で1.8倍に増えたと北海道は推定するが、推定生息数は3900頭〜17300頭と実態は定かでないのだから、1.8という数字の根拠は希薄だ。増えていると関係者は見るが、その実体はぼやけている。なお北海道の推定10600頭の地域別の内訳は、道東・宗谷4200頭、日高山系2800頭、渡島半島1400頭、天塩・増毛1000頭などという。

 クマの生息数が増えていると確かめるには、もっと正確な生息数の調査が必要だ。タンチョウヅルなどでは目視による調査が可能だが、用心深く行動するクマの調査は簡単ではない、だが、ハンターや農業従事者などに聞いた話を元にコンピュータシミュレー ションしたところで大雑把な数字しか出てこない。クマの生息数の実態を把握しなければ対策は空回りする。全国で市街地へのクマの出没件数が増えているのだから、クマによる被害を防ぐとともにクマの過剰な駆除を避けるためには、正確な生息数という基礎データが必要だ。

2021年6月19日土曜日

中国の挑戦

 G7サミット(主要7カ国首脳会議)は共同宣言で、中国に「特に新疆との関係における人権及び基本的自由の尊重」を求め、さらに「英中共同声明及び香港基本法に明記された香港における人権、自由及び高度の自治の尊重を求める」とした。経済面では中国が「世界経済の公正で透明性のある作用を損なう非市場主義政策及び慣行という課題」だとした。

 さらに共同声明は「台湾海峡の平和及び安定の重要性を強調し、両岸問題の平和的な解決を促す」とし、「東シナ海及び南シナ海の状況を引き続き深刻に懸念しており、現状を変更し、緊張を高めるいかなる一方的な試みにも強く反対する」と武力による拡張主義的な行動を続ける中国を牽制した。

 また、パンデミックは世界的な「経済上の強靭性に対するリスクを例証した」とし、「重要鉱物資源及び半導体のような分野で、極めて重要な世界的なサプライチェーンの強靭性に係るリスクに対処するためのメカニズムを検討」するとした。「全ての人に対する開放性に関して強靭であり、開かれた市場、透明性及び競争という我々の共通の原則を保つに際してのリスクに対処可能であることを確保」すると、中国などに対する警戒感を確認した。

 続いてNATO(北大西洋条約機構)も共同声明で、「権威主義的な政権との争いに直面している」と中国に対する警戒感を鮮明にした。「中国の強引な振る舞いは国際秩序への挑戦だ」とし、「中国の影響力拡大と国際政策は、我々が同盟機構として対処する必要のある課題を突き付けうる」としてNATO加盟国は「NATOの安全保障上の利益を守ることを目的に中国と関与していく」と表明した。

 共同声明は中国をロシアと並ぶ脅威とし、急速な核兵器増強に加え、サイバー空間や宇宙での活動などを指摘した上で、「中国の野心的で強引な振る舞いはルールに基づく国際秩序と米欧の安保にとって体制上の挑戦」とし、「国際的な公約を守る」よう中国側に要請した。事務総長は中国に関してNATOは「共同で対応する必要がある」とした。

 G7もNATOも欧米主導であり、欧米主導の国際秩序を維持し、世界「標準」にするための有力な枠組みであり組織だ。揃って中国を脅威とする認識をあからさまに示したのは、欧米主導の国際秩序に対する中国の挑戦が効果を上げているためだ。欧米は中国との経済的な結びつきが強いため、封じ込めは欧米にもダメージを与えるので選択できず、中国に強いメッセージを送って「自重」を求めた。

 だが中国はG7もNATOも中国と同格と見なしているだろうし、中国主導の国際秩序の形成がおぼろげながら現実味を持ち始めたとあっては「自重」するはずもなく、強く反発するだけだ。基本的に、欧米主導の国際秩序は「力」によって形成されたものだから中国が同じことを試みるのは自然でもある。だが、欧米主導の国際秩序が崩れた時に国家間による「力による争い」が現れるとすると、これからの21世紀は大混乱が待っている。

2021年6月16日水曜日

時間と実在

 実在とは「現実に実際に存在する」ことであり、人間の意識に関わりなく存在することでもある。人間の意識が関係するのは、例えば、長さや重さなどに相当するものは実際に何かが存在しているのだろうが、それを長さや重さとして規定したのは人間であり、人間が単位を決め、測定することで長さや重さは現実世界に現れる。

 長さや重さなどの存在は人間の意識に基づくものであり、人間が存在しなければ長さや重さなどは現実世界に現れない。一方、現実世界には、例えば、動物や植物、鉱物などのように人間の意識とは関係なく存在しているものは多く、それらは実在する。

 実在するかどうか曖昧なものに時間がある。見えない時間の流れを人間は意識し、1日があり1年があるとカレンダーをめくるときに現在と過去、未来の存在を意識するだろう。単位を決め計測することで、時間は人間生活に欠かせない便利なものとなった。

 現実世界に時間に相当する何かが存在しているように見えるのは、様々な変化(動き)を認識するからだ。様々な変化(動き)を説明するためには時間という概念が必要となる。空間的な変化(動き)や化学反応などの現象的な変化などに加え、心変わりなど人間の精神における変化も時間を抜きにしては説明できない。

 時間を人間は人間が決めた単位で計測する。日の出から次の日の出までの変化(動き)を1日としたのは、人間の生活に最適な単位であっただろうし、それを基準に人は現実世界の理解を広げ、宇宙から素粒子レベルまでの様々な変化(動き)を説明することが時間を使うことで可能になった。

 現実世界は様々な変化(動き)に満ちている。それを理解するためには時間が必要で、つい時間が実在するような感覚にもなる。だが、時間が実在するのか=人間の意識に関わりなく時間という何かが存在するのかは不明だ。時間は目に見えず、人間が計測することによってのみ現れる存在でしかない。

 様々な変化(動き)に満ちている現実世界で生きる人間が、時間という概念を創出したのは必然かもしれない。長さや重さなどと同じく見えないものを認識し、単位を設定して計測することで、現実世界の理解を広げようという人間のたゆまぬ試みの上に現在、我々は生きている。

2021年6月12日土曜日

運命の線

 オー・ヘンリーの短編「運命の道」の主人公は、広い世界で生きようと田舎の村を出て、あてもなく歩き続ける。やがて広い街道に突き当たり、左に行くか、右に行くか、それとも引き返すか思案する。そこで物語は3つに分かれ、主人公の異なる3つの人生が描かれるが、いずれでも主人公は同じ銃の弾によって死ぬ。

 この物語は、運命というものを感じさせる。生きる中で人は常に自由意志による選択を重ね、独自の人生を形成すると見えるが、たどる道筋は様々に変化しても、最期の様子が決まっているとすれば、それは運命(定め)と呼ぶしかないだろう。運命が存在しても、どこまで予め決められているのかを人は知りようもないが、誕生と死の状況が決まっているのが運命であるなら、物語の主人公のような最期を迎えることになる。

 だが、運命などは存在せず、生きることは個人の選択の積み重ねで、人生は変化の集積だとの考え方もある。人生を1本の線とすると、個人が選択に直面するたびに複数の線が現れ、選択された線だけが残って他の線はたちまち消える。幼い時からの膨大な選択の積み重ねで個人の人生という線が描かれる。そうした人生の線は、滑らかな線にはならず、無数に折れ曲がった線になるだろう。

 囲碁のプロ棋士は対局で常に数十手先まで、時には数百手先までの展開を考えるという。囲碁は対局者が一手ずつ交互に石を置くゲームだが、一手で局面が大きく変化することもあり、そんな時には時間を費やして先を読む。といっても、一つずつ石が置かれるのを順に考えるのではなく、自分の石と相手の石の展開予想が線のように伸びていくのだという。十数手の展開予想を考えると、たちまち数百手を読むことになる。

 この展開予想という線は、なにやら人生の線に似ていなくもない。石が一つ置かれることは一つの選択がなされることであり、石が置かれる(=選択が行われる)たびに線は一つだけが残り、折れ曲がりながら伸びていく。人生に後戻りがないように囲碁でも、置いた石を後から別の場所に置き直すことはできない。選択は1回性だ。

 報われないと感じたり、色あせていると感じる人生を受け入れるには運命という発想は便利だ。運命ではなく自分の積み重ねた選択の結果であると人生を甘受すると、不満の矛先は自分に向かい、過去を振り返って、あそこで別の選択をしていれば……と悔やむこともあろう。運命を想定すると、自分の幾多の選択も運命というモヤの中に溶け込み、運命には抗うことができないと妥協できる。

 運命があろうとなかろうと、個人の人生が選択の積み重ねで折れ曲がった線の軌跡を描くことは確かそうだ。過去を振り返って、あそこで別の選択をしていればと悔やんでも、後戻りはできない。運命があろうとなかろうと、人は選択をし続けなければならないのが人生。同じ銃の弾で死ぬのかどうか、一回性の人生を誰もが生きるのだから、現実では確かめようがない。

2021年6月9日水曜日

中国の背反

 中国は習近平1強体制になり、共産党独裁体制から個人独裁体制に移行しつつあるようだ。労働者階級の独裁を正当化する共産主義の落とし穴は、労働者階級の前衛としての共産党の独裁につながることで、さらに共産党の独裁は指導部の独裁につながり、指導部を掌握したトップの個人独裁につながる。習近平氏の個人独裁は共産主義に起因する。

 労働者階級の独裁の結果が共産党独裁といっても、膨大な人々が労働者階級の代弁者として共産党を選挙で選んで権力を委ねたわけではない。共産党が労働者階級を代表するというのは、共産党の主張に過ぎない。勝手に共産党が労働者階級を代表していると自称しているだけだ。共産党独裁の結果として幹部党員が特権階級化した。それが中国の現実であるのだから、労働者階級の解放は夢物語でしかなかった。

 習近平氏の独裁体制が強固になるのと比例して、国際社会に対する中国の自己主張が強まっている。国際社会で自己主張するのは各国の権利であり、否定されるべきものではないが、中国の自己主張は①独善的すぎる(中国の無謬性を主張)、②批判には強く反発する、③成長を続ける経済力により融資や援助などを活用するーなどが特徴だ。国際社会においても中国共産党の絶対的な指導的立場を主張しているように映る。

 中国国内における強権支配を国際社会でも広げることができれば中国共産党は世界の支配者になることができる。当面は米国との世界分割支配を目指しているのだろうが、世界では中国に対する風向きが変わった。米国が中国批判を強め、中国に擦り寄るばかりだった欧州も中国との関係を見直し始めた。中国共産党の自己主張が欧米主導の国際秩序に対する挑戦となっては、欧米が座視しているはずもない。

 中国は2001年にWTOに加盟し、経済的に世界に開かれた体制に移行するはずだった。多額の外資を呼び込んで欧米と同等の産業基盤を構築して「世界の輸出基地」として大幅な成長を続けた中国は社会主義市場経済を標榜し、経済は市場主義で世界に開くが政治は社会主義を堅持するとした。欧米は、それを黙認した。

 しかし、中国は経済を国際市場にリンクさせて輸出拡大を続けたが、中国国内市場への各国企業の自由な参入は制限するなど中国流の市場主義はいびつなままだ。米国や欧州の中国批判は、WTO加盟で中国は経済的に世界に開かれた市場になるとの約束が棚上げにされたままで、中国本位のグローバル化は進めるという経済面での不満から来たものだ。ウイグル族などの人権問題を提起しているので政治的な動きとも見えるが、それらは欧米の対中批判を正当化するための道具に過ぎないだろう。

 欧米などを含む国際市場にリンクすることで成長した中国だが、共産党は市場主義を中国基準で変質させた。「政治は中国流だが、経済は国際標準で」という約束を捨てた中国への不信が、米中対立や欧州の対中関係見直しとなって現れた。国際社会に対する中国の背反が緊張を高めているのだが、強国になったとの自信から中国共産党は自己主張をさらに強硬に行っていきそうだ。かくして独裁政権は「毒」を国際社会に振り撒く。

2021年6月5日土曜日

供給過剰になったマスク

  出歩く時にマスクを着用することはマナーからルールになったようで、マスクを着用していない人を見かけることはほとんどない。とはいえ、鼻出しマスクの人は珍しくなく、あごマスクで口も鼻も覆わずにいる人も見かける。周囲に他の人が少なく、路上で密になることがないならマスクを外しても構わないだろうに。あごマスクの姿の大人からは、だらしなさが漂う。

 常にマスクを着用することに鬱陶しさを感じる人は多いだろうし、健康な人ならマスク着用を面倒くさいと思うだろう。パンデミック前はマスク着用が一般的ではなかった米国ではマスク着用を拒否する人が珍しくなく、マスク着用を求める店舗や交通機関などとトラブルになっているという。一方、ワクチン接種者が増えた国ではマスク着用の義務を緩和したところも増えている。

 マスクを着用する目的は飛沫感染を防ぐことだ。誰もが無症状の感染者だとみなして呼気に含まれているかもしれないウイルスの拡散を抑制する。ウイルスを吸い込まないためにマスクを着用するのではない(ウイルスを吸い込まないためには医療用マスクが必要。密閉度が高いから日常生活で着用していると息苦しいそうだ)。

 パンデミックが終息する気配はなく、マスク着用から人々が解放される見通しはつかない。機能からは不織布マスクがいいと専門家は推奨するが、人々が着用しているマスクはカラフルで、白い不織布マスクが圧倒的に多いとはいえない状況だ。様々な色でデザインも個性的なマスクが増えたが、それらの前面に折り目がないので不織布マスクではないだろう。

 パンデミックが始まった頃は店頭からマスクが消え、マスクを探して市中を探し回る人もいたという。そのマスクが現在、店頭に山積みになっている。マスクが再び出回り始めてからは30枚入りで2千円台などで売られていたのが、供給が回復するにつれて5百円台や4百円台になった。機能やファッション性を訴求する7枚入りで3百円台などもあるが、飛ぶように売れている様子は希薄だ。

 マスクであれば何でも売れたのは過去のこと。特色を出さなければ売れないとメーカーは、耳が痛くならないとか眼鏡が曇らない、着けていても涼しいとか様々な機能を加えたり、デザインに工夫を凝らしファッション性をアピールしたりする。個性をアピールしなければ選ばれなくなったのは、市場に商品が溢れている状態だ。参入企業が相次ぎ、中国からの輸入も増え、マスクは供給が需要を上回る状況になった。

 百円ショップでは、30枚入りで百円プラス消費税で売られていたマスクがパンデミックが始まると3枚で百円プラス消費税と値上がりしたが、やがて5枚で百円プラス消費税、7枚で百円プラス消費税、10枚で百円プラス消費税、15枚で百円プラス消費税と値下げが続き、最近になってパンデミック前の30枚入りで百円プラス消費税が復活した。店頭に山積みになっているマスクは、需要と供給を考察する格好の具体例だ。

2021年6月2日水曜日

Go To ワクチン

 緊急事態宣言で落ち込んだ個人消費を刺激しようと政府は、飲食業を活性化させるために「Go To イート」事業、旅行業や観光産業を活性化させるために「Go To トラベル」事業を積極的に推進した。だが、再度の感染拡大に見舞われ、「Go To」事業は頓挫した。人々に出歩くことを奨励するのは時期尚早だった。

 「Go To」事業は大幅割引などで人々に利用を促すものだった。自粛生活を続けていたことからの解放感もあってか多くの人々が利用して一時は活況を見せたが、人々の接触機会を増やし、感染の再拡大につながった。政府は「Go To」事業と感染拡大の因果関係は証明されていないと、「Go To」事業への未練を隠さない。

 「Go To」事業には、政府の従来の施策とは少し異質な雰囲気が漂う。COVID-19によるパンデミックという未曾有の事態のなかで、停滞した消費を刺激して経済を活性化させようとする施策は前例がないものであるだろうから“平時”の施策と異なるのは当然かもしれない。だが、ネーミングや人々に直接働きかけて動かそうという手法などから立案に広告代理店などが絡んでいる気配を感じる。

 従来の施策は、官僚が立案して政府が実行するものだっただろう。東大などを優種な成績で卒業したキャリア官僚が時流に適した政策を立案し、与党が法案を議会で通し、政府が実行に移すが、全国でノンキャリア官僚がその実行を支えた。政治家の「質」のレベルは昔も今も大差なく特に優れたものではないだろうが、優秀な官僚群が政府の施策を支えていた。

 だが与野党問わず政治家による一連の官僚バッシングが行われ、官僚人事を政府(政治家)が掌握したことなどから官僚の士気が低下し、さらに長時間労働が嫌われて優秀な人材が集まらなくなり始めたという。これまで日本の施策を支えていた優秀な官僚が次第に少なくなる一方で、政治家の「質」のレベルは以前と同様に特に優れたものではないとすると、日本の政治がおかしくなるのは当然か。

 今回の「Go To」事業がどのように立案されたのか知らないが、官僚の立案能力が低下している中で、特に能力が優れてはいない政治家(政府)が官僚に加えて広告代理店やコンサルティング会社、政商まがいの評論家などにアイデアを求めて「Go To」事業が浮かび上がったと想像すると、「Go To」事業の妙に商業キャンペーンめいた雰囲気が納得できる。

 政治が人々に直接働きかける「Go To」事業の効果はあり、人々を動かすことに成功した。この経験を現在に活かすなら「Go To ワクチン」事業だ。ワクチンを摂取した人数を増やすことが感染拡大を抑制する唯一の現実的な対策だとすると、「Go To ワクチン」事業で人々のワクチン接種を増やすことが最優先の対策となる。ただし、「Go To ワクチン」事業が成立するにはワクチン供給が十分にあることが前提だ。申し込みは殺到するが、全てに応じることができない状況では「Go To ワクチン」事業は成立しない。