2015年7月29日水曜日
バレない粉飾
歴代の経営トップの指示によって不正な会計処理を組織的に続けていた東芝。2008年4月から2014年12月末で、計1518億円の利益を過大に計上していた(第三者委員会の調査報告)。利益水増しの内訳は、インフラ事業で477億円、映像・パソコン事業で680億円、半導体事業で360億円。
不正な会計処理の方法は▽原価の過少計上や売上高の過大計上、▽損失の計上を次年度決算以降に先延ばし、▽損益目標を達成するため損益調整で当期利益をかさ上げ、▽製造委託先に通常より高い価格で無理に部品を買わせる「押し込み」販売で当期利益をかさ上げ、▽取引先などに請求書の発行を遅らせてもらい、経費の計上時期をずらす、など。
歴代3社長がそろって辞任したが、東芝の信用は失墜した。黒字を「予定」していたのに決算発表ができなくなり、無配に転落、6月の株主総会では業績を報告できず、もう一度、9月に総会開催を予定せざるを得ないという異常事態になった。売上高6.5兆円超(13年度)という大企業が決算を発表できないというのは、かなり珍しい光景でもある。
この問題は今年2月に証券取引等監視委員会への内部通報で発覚した。つまり、経団連会長を出す“名門企業”として認知されていた東芝だが、その不正な決算は何年もまかり通っていた。調査報告では▽上司の意向に逆らえない企業風土、▽社員は不適切会計を継続的に実行、▽内部統制部門が機能せず、▽内部通報制度が活用されず、など東芝社内の問題を指摘する。社内に問題があったのは確かだが、監査法人が不正を見抜かなければならなかった。
社内の監査体制が機能せず、社外の監査法人も不正を見抜くことができないとなれば、経営トップは業績を良く見せるために“無理”を言い、その“無理”が通って、立派な業績を誇示する粉飾決算ができあがる。こっそり“細工”をほどこして、売上げは伸び、利益も伸びたとなれば経営トップの評価は高まり、社内での影響力は増大、東芝などの企業トップなら、財界総理の座も視野に入ってくるだろう。
こうなると、不正な会計処理は蔓延しているのじゃないかという疑いが出てくる。そうした疑いを払拭するには、今回の東芝の不正が特異な例であり、歴代3トップ以前の東芝の会計処理には問題がなく、ほかの大企業の会計処理にも問題がないこと明らかにされなければならないが、そんな調査はおそらく行われないだろう。何も出てこないことが期待される調査なんて、積極的に行うところはない。
2015年7月25日土曜日
美か醜悪か
1961年の断交から54年ぶりに米国との国交を回復したキューバは、米国が経済制裁を続けていたため、断交以前に輸入された1950年代製の米国車が現役で走っていることで知られている。現役といっても“満身創痍”で、エンジンを始めパーツ類は交換され、外見だけが当時のオリジナルを保っている車が多いという。綺麗に塗装されているのはタクシーだそうで、今後は米国から押し寄せる観光客の人気になりそうだ。
1950年代の米国車は、長く塊感のあるボンネットを持つ4ドアセダンが多く、テールフィンをつけることが流行ったので、トランクが長くなった車もある。丸形のヘッドライトを持つフロントマスク下部にある頑丈そうなバンパーはシルバーに輝き、ラジエターグリルにも金属が多用されている。
人間の表情に例えると、歯を剥き出して笑ったようなフロントマスクもけっこう多く、全体の伸びやかさもあって1950年代の米国車のデザインは、当時の米国の豊かさとパワーを表現しているようにも見える。ただ、セミクラッシックカーとして見るから、そうしたデザインも抵抗なく受け入れるが、発表された新車のデザインが同様のものだったなら、受け止め方は違ってくるかもしれない。
これらの1950年代の米国車のデザインが、美しいかというと、意見が分かれるだろう。燃費など考慮しない時代だから、空力などはデザイナーの意識にはなかっただろうし、ジェット戦闘機からヒントを得たというテールフィンには実用的な機能はないだろうし、歯を剥き出して笑っているようなフロントマスクは過剰な装飾そのものだ。
もちろん、美醜の判断は主観による。さらに、美醜の判断と、好き嫌いは別物だ。美しいデザインだと多くの人が認めた車よりも、力強さを感じさせるデザインの車のほうが売れたりするし、高級そうに見えることも大切かもしれない(美醜や力強さ、高級のイメージも時代とともに変化する)。
最近発表された新型ミニバン「シエンタ」。メーカーは「魅力は、なんと言ってもその新鮮な見た目」「アクティブ感と使いやすさを両立したエクステリア」などと宣伝につとめるが、パッと見た印象は「ひでぇデザインだな」。フロントもサイドもリアも、意味のない線や面で構成されている。機能性を重視するだけではミニバンは皆同じような形になってしまうから、個性を演出したのだろうが、個性があればいいってものではないゾと忠告したくなる。
車のデザインには世界的な流行があり、意味のない線を多用する車種は各国に増えた。シエンタのデザインに刺激を受けて各国のメーカーも今後、意味のない面や色分けを新型車で試みるなら、「ひでぇデザイン」の車が珍しくなくなるかもしれない。50年以上も後の人は「あの時代には、奇妙なデザインが流行ったんだね」などと言うのかな。
2015年7月22日水曜日
隠しておきたかったこと
1933〜34年頃に撮影された20秒ほどの動画に映っていた、幼少期の英エリザベス女王が母親(後のエリザベス皇太后)とともに右手を上げてナチス式敬礼をする様子を英大衆紙がすっぱ抜いた。ナチス支持者を疑われた伯父のエドワード王子(後の国王エドワード8世)が、幼少期の女王に敬礼の仕方を教えたと英大衆紙。
親ナチスを疑われかねない英王室のこの映像は過去に公開されたことがなく、初めて明らかになった。バッキンガム宮殿の報道官は「80年も前に撮影された、王室が保有する個人的な動画が、このような方法で利用されたのは遺憾だ」と声明。王室筋はBBCに「大半の人はこの映像を当時の状況を踏まえて見るだろう。当時は事態がどのように進展するか予想できた人はおらず、それ(家庭内でのたわいない遊び)以外の意味を持たせるのは誤解を招く、誠意のない行為だ」とコメントしたという。
この王室筋のコメントは興味深い。「当時は事態がどのように進展するか予想できた人はおらず」というのは正直な言い分だな。1933年にはヒトラーが国家元首に就任、1934年には大統領職と首相職を統合してヒトラーが兼任するなどナチス独裁体制を固めた。1934年には6月に英ロンドンでファシスト連合が集会する一方、9月にはロンドンで10万人の反ファシズムデモが行われるなど、対立が先鋭化していた。
ナチスが絶対悪とは「まだ」見なされてはいなかった当時、英紙『ザ・タイムス』は「ヒトラー氏の誠実さを疑う者は1人もいない。約1200万人のドイツ人が彼に従ったのは、彼の人間的磁力によるものである」と書く(児玉襄著『誤算の論理』)など、英にも親ナチスの人々はいただろうし、右手を上げるポーズも、現代のようにタブーではなかっただろうから、英王室の面々が「戯れて」ナチス式敬礼のマネをした可能性はある。
だが、エドワード王子の存在が大きく影を落とす。母親の王妃がドイツ人という王子は親独姿勢で知られ、1936年1月にエドワード8世として即位してからも、英独友好の必要を強調したが、12月に退位する。“不倫の恋”を貫くためとされているが、実際には、親独言動が問題視されたためという(前掲書。退位勧告を決めた閣議記録は2037年まで非公開)。
エドワード8世だけでなく英王室自体が親独だったとしても不思議ではないから、今回の映像には意外性はさほどない。英がドイツに宣戦布告したのは1939年9月で、1933、34年頃ならナチスに対する評価は割れていただろうが、現在では違う。ナチスは絶対悪であるというのが歴史的に正しい認識とされる現代では、ナチス式敬礼は反社会的な行為とも映る。
「当時は事態がどのように進展するか予想できた人はおらず」というのは、いつの時代でも、どんな人にもあてはまる。正しいと考えることを言い、正しいと考える行動を人は行うのだろうが、それが、歴史的な評価と一致するとは限らない。むしろ、人々の行動が時代を変えることで、新たな価値観が生まれ、その新しい価値観によって検証し直される。
第2次大戦前の欧州で、独を含め各国の指導層は反共、反ユダヤ、反民主主義で一致する傾向があったともいうから、英王室に限らず親独姿勢は、探せば欧州各国の当時の指導層からも見つかるかもしれない。人は歴史の中で生きているが、後になって定まる歴史的評価を知るはずもないから、時とともに、都合が悪い事実を隠蔽、偽装するのは珍しくない。
2015年7月18日土曜日
盗まれても減らない
3万円入れた財布ごと鞄をどこかに置き忘れ、あわてて探して鞄はあったが、財布には1万円しか入っていなかったら、2万円が盗まれたことはすぐ分かる。が、財布に3万円入っていれば「大丈夫だった」と安心し、誰にも鞄や財布の中は見られてはいないと思うだろう。でも、財布に金がそっくり残っていたから、誰にも鞄や財布の中を見られてはいないと言い切ることはできない。
財布の中から、物質としての金が盗まれていなかったとしても、誰かがその紙幣をコピーしたり、鞄の中を調べた可能性はある。紙幣をコピーすることは意味のない行為だろうが、金銭のデジタルデータなら、それをこっそりコピーすることは盗むことと同じだ。まして鞄の中に入っていた物質としての書類をコピーするのは窃盗になるかもしれない。
アメリカ政府の職員の情報を管理する連邦人事管理局のコンピューターシステムが外部から侵入され、約2150万人の連邦政府の職員や元職員らの、社会保障番号や経歴、家族の情報など個人情報が盗まれていたという。このコンピューターシステムは4月にも侵入され、約420万人の個人情報が盗まれていた。
合わせて2500万人を上回る大量の情報流出だが、実はアメリカではコンピュータシステムへの不正侵入による個人情報の大量流出はたびたび起きている。例えば、第2位の大手保険会社が、顧客・従業員8000万人の情報が漏洩したことを公表したり、小売大手ターゲットからは顧客のクレジットカード情報4000万件が盗まれた。
日本でも年金機構のコンピューターシステムが狙われ、125万件の個人情報が流出したとされている。うち101万人分は都内の海運会社のサーバーから見つかったというが、米国のサーバーとも大量のデータを通信した形跡があるので、さらに流出件数が増える可能性があると報じられている。
紙幣や宝飾品、車など物質なら、盗まれると持ち主の視界から消えてしまうが、デジタルデータは、データを消去する手間をハッカーは惜しむだろうから、盗まれてもデータはコンピューターに残る。盗まれたことに気づくのが遅れ、異常な通信量などの異変を管理者が察知したり、個人情報を悪用されたとの外部からの指摘などが端緒になって、不正アクセスされた形跡を発見したりする。
盗まれても減らないものを、盗まれないように守るのは簡単ではない。盗むという行為が見えにくい一方、守るという行為は具体的な対応を迫られる。守っている効果も簡単には見えにくく、しばしば被害が現れてから、盗まれていたことに気がついたりする。デジタル版のカラーボールを開発して、正規を含め全てのアクセス者を“色づけ”しておき、何かあった時には追跡できるようにすることが、迂遠だが地道な対応策かもしれない。
2015年7月15日水曜日
緊縮の苦しさを知っているはずのドイツ
第1次大戦後に敗戦国ドイツは、船舶や物資等の現物賠償のほかに国民総所得の2倍以上にもなる多額の賠償金を戦勝国から課され、外貨で支払うことを強要された。国内ではハイパーインフレとなり、人々の生活に大きなダメージを与え、通貨マルクが暴落したことで、賠償金の支払いは困難を極めた。
さらに世界恐慌もあって経済はさらに落ち込み、企業の倒産が続き、失業者が溢れ、ドイツは賠償金を払うことができなくなった。生活に苦しむ人々は、共産党なども支持したが、一方で大衆政党のナチスの台頭を助けた。やがて政権を掌握したナチスは賠償金の支払い停止を宣言、ナチスはヒトラー独裁体制を構築して、軍事的な膨張を始め、第2次大戦が始まる。
第1次大戦後のドイツと現在のギリシャには、経済が大打撃を受け、失業者が溢れ、人々の生活が厳しい中で、外国への多額の支払いを行わなければならない等の共通点がある。外国への支払いといっても、ドイツは敗戦国に課された賠償金であり、ギリシャは自分でつくった借金という違いはあるが、現実に支払いが不可能であることでは似ている。
冷ややかに見れば、第1次大戦後のドイツも現在のギリシャも、外国への多額の金の支払いで窮しているのは自ら招いた結果だ。どんなに人々の生活が苦しかろうと、自分たちが選んだ政府による政治の結果なのだから、主権者としての責任がある。とはいえ、主権者の責任として、自分らの生活が破壊されることまで人々は甘受しなければならないのかという疑問は残る。
生活に苦しむ人々は政治を変えようとする。第1次大戦後のドイツの人々はナチス政権を選び、ギリシャの人々は反緊縮財政を掲げる急進左派連合を選び、新たな政府に期待した。状況が似ていれば、どこの国の人々も似たような行動をとるらしい。外国への多額の支払いに国内経済が押しつぶされ、窮乏する人々のことを過去の経験から、よく理解できるのはドイツ人のはずだ。
第2次大戦で敗戦国ドイツが多額の賠償金を課されなかったのは、困窮した人々がまた、ナチスのような政権を選ぶようになることを避けるためだった。第2次大戦後にドイツが多額の賠償金を課されていたならば、今日の経済大国ドイツはなかっただろう(EUやユーロもなかったかもしれず、ギリシャ危機もなかったかもしれない)。
現代のドイツの人々はギリシャに批判的だという。自分たちが稼いだ金が、「働かない」ギリシャ人のために使われることに反発するのだと伝えられている。韓国などはドイツを「歴史認識問題」の模範として日本批判の時に持ち出すが、その模範のドイツがギリシャに対しては、自らの過去の歴史を封印しているように見える。ドイツが模範になるのは、対ナチスに関わる歴史認識に限定されるのかもしれない。
2015年7月11日土曜日
議論の成果
幕末の頃、攘夷派と開国派、倒幕派と佐幕派などに対して誰かが「殺し合いは止めて、話し合いで日本の方向性を決めましょう」と呼びかけ、公開討論会のようなものが実現したとしても、冷静な議論が成立したかは疑問だ。自分らの主張が絶対に正しいとし、相手側の主張が容認できないからと殺し合いを始めた連中なのだから、相手の主張を黙って聞いているはずがなく、怒鳴り合いで済めばマシなところか。
冷静な議論が成立するためには、考えが異なる相手側の主張を聞き、理解した上で反論するという姿勢が相互に必要。だが、自分が正義の側にいると思い込んでいる人は“異論”を聞く耳を待たず、討論会を開催しても、声を大きくして自説を述べ、相手の主張を抑え込もうとしたりする。幕末に活発に活動した人達なら、相手を説得することより、斬り捨てて反対者を減らした方が簡単で、妥当だとさえ思うかもしれない。
社会を、自分らの主張するように変えるために武力や暴力を容認する人達との議論は、そもそも成立しがたい。自分らが絶対に正しいとする人達には、その正しい自説を検証する必要性はなく、その正しい自説を実現することの方が大事になる。そして、自分らの武力の行使を正当化するためにも、自分らが絶対に正しいことが必要になる。
自分らの「正しさ」は自明だから、議論より行動だとする人は、幕末だけに存在したわけではなく、現在も世界中にいる。その「正しさ」をどう獲得したかは人により様々だが、「正しさ」が宗教に支えられている場合には、議論すること自体が否定されるだろう。宗教に基づく価値観とは、議論の対象ではなく、受け入れる対象でしかない。
そこには、宗教などによる絶対的な「正しさ」に依存するという奇妙な存在も含まれる。そうした人は、その宗教の価値観を理解し、納得して受け入れたのだろうが、宗教を自発的に選んだときから関係は逆転し、その宗教の「正しさ」に同化していかざるを得なくなる。そうした人の持つ「正しさ」はもはや議論の対象ではなく、依存の対象になる。
宗教以外に既存の思想や価値観に依存する人もいる。そういう人にとって議論は苦痛かもしれない。自説や自分の価値観の自由な転換を行うことができない人には、議論の場は、自説を誇示したり異論を攻撃するための場でしかないだろう。既存の思想や価値観に強制されることを望んで依存した人にとって、議論で依存する対象が変わるはずもない。
2015年7月8日水曜日
懲罰としての緊縮策
2009年の政権交代後に、それまで公表していたよりも財政赤字が実際には大幅に多いことが明らかにされ、ギリシャの危機は始まった。国債が暴落し、ギリシャは窮した。IMFやEUなどからの多額の資金支援でギリシャは経済再生へと歩み出したのだが、増税や年金・公務員削減などの厳しい緊縮策を受け入れざるを得ず、人々の生活に影響は及んだ。
厳しい緊縮策が数年も続き、人々は職を失ったり、住宅ローンや学費を払えなくなったりして生活水準は大幅にダウン、多くの人が税金の申告をやめ、企業は従業員の賃金のほかに取引代金も支払わなくなったともいう。国の実力以上の過剰な消費生活のツケが回ってきたともいえるのだが、過酷な緊縮策は人々の生活を破壊した。
一方、ギリシャの基礎的財政収支(プライマリーバランス)は黒字となり、対外経常赤字も解消するなど国家経済としては縮小均衡を達成した。といってもGDPが2008年比25%縮小しており、財政が健全になったなどと喜ぶことができる経済情勢ではない。
さらに国の借金は残っており、公的債務はGDP比180%近くになる。理想的なシナリオは、ギリシャで経済活動が活発になって景気が上向き、税収が増えて、ギリシャが自力で稼いだ金で返済することだ。だが、生活防衛のため人々は銀行から預金を引き出して溜め込み、消費は回復せず、失業率が25%にもなる中で、簡単には景気は上向きそうにない。
経済が疲弊したままでは税収は増えず、ギリシャ政府には金は集まらない。借金を返すためには新たに借金するしかない状況だ。そんなギリシャに資金支援の条件として、新たな緊縮策を押しつけようとするEU。金持ちに対してなら「生活を切り詰めろ」と要求すれば、浮いた金が出て来るかもしれないが、生活を切り詰めてきた人に更なる緊縮策を押しつけることは、懲罰的な意味合いしかない。
傾いた企業が人員削減や“乾いた雑巾を絞る”ようなコスト・経費削減で決算を乗り切ったとしても、本格的に立て直すには事業を活性化させ、売上げを増やしていくのが基本。毎年、人員やコストの削減に頼っていては、いずれ立ち行かなくなる(金貸し側は回収を最優先させるものだから人員削減などに熱心になるが)。
緊縮策を続けてプライマリーバランスを黒字化したギリシャだが、景気は落ち込み、税収は減り、政府は年金などを支払うために国中から現金を集めるしかない状況だ。ギリシャの人々の意思は示された。今後のギリシャをどうするのかを決める立場にあるのはEUだ。
ギリシャの経済を活性化させるプランがEUにあれば、とっくに実行させているだろうから、EU側にも妙案はなさそうだ。独自通貨に戻ったならギリシャは、ユーロ側から見て激安の観光地になる。年間2千万人以上の外国人観光客(その1割がドイツ人)が来るギリシャは、ユーロ圏を追い出されたなら、外国人観光客が増えたりして……。
2015年7月4日土曜日
ギリシャの新しい悲劇
近松門左衛門作の人形浄瑠璃の演目「冥途の飛脚」は、歌舞伎では「恋飛脚大和往来」として上演される。上方の和事の代表作の一つだ。その「封印切」の場面では、大阪の飛脚屋の養子・忠兵衛が、遊女・梅川の身請けを他の男と張り合って、金があることを示すために、飛脚屋として預かっていた為替の小判の封を切ってしまう。当時は、封を切っただけで死罪だった。
この忠兵衛は以前にも梅川の身請け問題を巡って、友人へ届けられた金を無断で使ってしまったことがあり、他人の金を預かるには問題がある人物だ。当時の飛脚屋は手紙や現金を輸送する業者で、預かりものの金に手をつければ死罪だった。それを承知で、小判の封をきったのだから、よほどの衝動に突き動かされたのだろう。
これを行うとマズいと理解しながら、つい行ってしまうことがある。自制しているはずなのに飲み過ぎたり食べ過ぎたり、言わずもがなのことを言ってしまったり。だが、身の破滅につながりかねないことなら誰しもが慎重になる。身の破滅と分かっていながら、小判の封を切ったりすると、芝居では役者が内心の葛藤を演じる名場面になるだろうが、現実世界では重い責任を負うことになる。
最近、あえて重い責任を負うことを選択したのがギリシャだ。こちらも金に窮していたのだが、遊女に入れあげるようなことで他人の金に手をつけたのではなく、経済の実態を粉飾して外国から金を集めていたことがばれ、簡単には金を貸してもらえなくなった。
厳しい緊縮策を“強要”されてギリシャの経済はすっかり疲弊し、銀行はECBからの資金が頼りで、政府も手持ちの金がなくなり、IMFなどから融資を受けなければ債務を返すことができない状況。そうした中で、緊縮策に対する嫌悪に支えられて登場したチプラス政権は、さらなる緊縮策を回避しながら金を借りようと交渉していたが、失敗した。
それなら国民投票で、緊縮策を受け入れるかどうか決めるとチプラス政権は一方的に宣言。国民向けに大見得をきってみせた格好だが、金を貸すEU諸国側が「では国民投票の結果を待とう」と素直に支払い期限の延長に応じてくれるはずもなく、とうとう6月30日が支払期限だった債務16億ユーロ(約2200億円)をギリシャ政府は返済できない事態になった。
忠兵衛と梅川は心中を決意し、死出の旅に赴いて芝居は幕となる。だが、国家に幕引きはなく、ひどい経済状況であろうと存立し続け、ユーロ圏にとどまろうと離脱しようとギリシャの人々はこの先、さらに疲弊した経済状況の中で生きて行かなければならない。粉飾して外国から金を引っ張っていたギリシャ。手をつけてはいけない金に手をつけてしまった悲劇は、芝居ならず現実世界でも起こっている。
2015年7月1日水曜日
公人としての覚悟
例えば、米国では黒人に対する差別は法的にはなくなったが、差別意識を持っている白人はまだ存在し、ヘイトクライムが疑われる殺人も絶えない。黒人に対する差別感情を秘めている白人が、どれほどいるのかは定かではないが、それを公言することは現在の社会規範に反し、はばかられることだろうし、ましてや政治家など公職にある人が、私的な場であっても、差別を容認する発言をしたならばアウトだろう。
誰にも「本音」と「建て前」があり、それらを場面によって使い分けて生きているのかもしれないが、公職にある人には、私的な場であっても、相応の責任が生じる。公職にあることの責任とは、その社会における価値観を尊重することだ。価値観を共有する人物であると認識されるからこそ、公職につくことが容認される。
民主主義や自由など、社会の価値観を共有しない人が公職にあると、失言や問題発言を繰り返す。公職にあることの責任に対する自覚が不足している人は、失言や問題発言を批判されると、私的な場でつい本音が出たなどと甘えて言い訳したり、マスコミに嗅ぎつかれて批判のやり玉にあげられたなどと不平を言ったりし、公職にある者なのに「公」の意識が希薄であることを自ら暴露する。
政治家の中には、ポロリと本音を言うことが主権者にウケるとし、本音を言うことが許されていると勘違いする人もいる。確かに、その人の人間性をさらけ出す笑える本音ならウケるだろうが、民主主義や自由などの価値観を否定したり、差別を容認するような「本音」は、その人が公職にあることの不適切さを示すだけだ。
公職にある人は、私的な場であろうと、全ての発言には公的な責任を負う。そうした厳しさを担う覚悟がないまま公職につく人は、失言騒ぎを起こすとマスコミに責任転化する。マスコミは騒ぎを好むものだから、失言や問題発言は格好のネタだ。わざわざネタを提供して、マスコミに騒ぐなと要求しても無駄だ。
公職にある人は何らかの権力に関わるから、厳しい自覚と覚悟が求められるのだ。だが、責任や覚悟が希薄なまま、何らかの権力に関わる人は、勘違いした特権意識を持つことがある。自分が特別な人間だから権力に関わると誤解する。公職にあるから権力に関わるだけであるのに、ポストではなく個人に権力が与えられたように勘違いする。
何らかの権力に関わるから、公職にある人は批判される対象になる。公職につく覚悟とは、常に注目され、批判されることを受け入れる覚悟だ。公職にある人には批判される勇気が必要で、批判される勇気を持つならば、言論の自由を恐れることはなくなる。自分の意に染まない批判でも、見当違いの批判でも、間違った批判でも、聞く勇気を持つ。批判される勇気がないから、言論を封じようと発想するのだ。
登録:
コメント (Atom)