2024年12月28日土曜日

自由を求める自由

 アナキストを自称していた竹中労さんは「いちばん大切な自由は、『自由になろうとする』自由だ」とし、「自由の有難味が全て物質で、ものの形で表れてこないと理解できない」人々を批判し、檻があるから外へ出ようとする精神がいちばん自由であり、「どんな時代でも、どんな立場でも、どのような環境でも『自由になろうとする自由』はある。幕末にもあった、戦時中にもあった。それが失われている」とした(「対論・草莽のロマンチシズム」ー『竹中労の右翼との対話』所収。以下の引用も同書)。

 さらに、「世界を支配しているガン、諸悪の根元は階級ではなくて差別である」と指摘し、「世界を支配している体制は、戦いに勝ったものが負けたものを支配する、勝てば官軍である」「負ければ悪人である、無抵抗で裁かれねばならない。これはまさに差別」だと断じた。

 続けて「人間諸悪のすべてを二文字に象徴すれば、差別である。持てる国の持たざる国への差別、先進国の後進国に対する差別、技術を持っている国の技術を持っていない国への差別、教育程度の高い国の教育程度の低い国への差別、その国内における差別、門地・種族・性別・貧富……さまざまな差別があるけれども、人間諸悪は差別という共通項でくくられる」「支配するものと支配されるものがある限り、そこには差別が存在する」とした。差別という概念は人と人との関係において適用されるのが一般的だが、竹中労さんは国家間にも適用範囲を拡大した。

 様々な格差が国家間にも存在し、優越的な立場にある国家が差別を認識することは困難なようにも見られるが、竹中労さんは「人類が目ざしていかなければならないのは大国の滅亡であり、小国寡民の分立であり、終局的には地球規模における混民族連邦である」と世界が目指す理想を示し、「世界の支配の秩序、国家間の差別を打ちこわす方向は政治的安定ではなく、人々に窮乏をもたらすかもしれないが大動乱・現状破壊の方向である。真のユトピアはいくつもの秩序を破壊した彼岸に見る村落共同体の連合であり、混民族連邦である。これが、アナキズムの理想」だとする。

 竹中労さんが理想とする世界の実現には膨大な時間を要しようが、できることから始めるしかない。「左右の思想を弁別しない。人間を差別し、中央集権で管理しようとする力と永久に戦うことが革命なのであって、体制をもって体制に換えること、国家機構をもって国家機構に替えることは、政変もしくは奪権であって革命ではない」と、権力闘争ではなく、人間が自由かつ平等に生きる世界を目指す闘争を続けることが解放への道筋だと説く。

 人と人との関係における差別について竹中労さんは「差別を解消するものは、けっきょく愛だと思う。愛が差別をなくしていく唯一絶対の手だてなのです。ですから、損得というものをまず捨てよう。他者のために損をする快感みたいなものを若い人たちは味わいなさい。報酬を期待しない行為を身につけていかねばならない」と、他人を愛するのは他人の尊厳を認めることであり、愛する他人に対する差別は解消されると説く。

 人々を厳しく統制・管理する国が世界には珍しくないが、どんなに抑圧が強い国でも人々には「自由を求める自由」はある。心の中にある「自由を求める自由」を国家が奪うことは不可能だ。世界中で「自由を求める自由」を行使する人々が続々と現れ、そうした人々によって形成された国家が増えたならば、国家間における差別も解消される方向へ歩み出すかもしれない。

2024年12月25日水曜日

米軍には頼れない

  もしもの時に保険金の支払いが行われるから、生命保険や損害保険は成立する。もしもの時になってから保険会社が様々な理由をつけて保険金の支払い拒否を繰り返すと、そんな保険会社は信用されなくなる。もしもの時にも保険金の支払いが行われるかどうか信用できない保険会社と契約して金を払い続ける人は、保険会社に貢いでいる。

 保険金が支払われるかどうかは保険会社の判断次第だという生命保険や損害保険はバクチと同類だが、バクチなら人々は「当たる」確率が小さいことを知った上で賭ける。保険は、約束した保険金が必ず支払われるとの信頼に基づく契約だ。もしもの時に契約が履行されず、保険金が支払われるかどうかは保険会社次第だというなら保険の名に値しない。そんな保険は空手形だ。

 トランプ氏は第一次政権の頃、NATO加盟国に防衛費の名目GDP比2%への増額を要求し、2%を達成できない国に対して米軍が防衛義務を順守しない可能性をちらつかせて圧力をかけた。日本などに対しても同様の要求を行い、NATO加盟国も日本も防衛費の増額に動いた。米国の強大な軍事力に頼るという同盟の意味が変化したのは、各国に対する防衛義務が負担になっているとの認識に米国が変化したからだ。

 日本に対して2019年に来日した当時のボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)が、年80億ドルの防衛費負担をトランプ大統領が求めていると伝えたそうで、在日米軍の撤退の可能性を示して日本を脅して交渉するようにトランプ氏が指示したという。多額の思いやり予算で日本は米軍の駐留経費を援助しているが、そんなものはトランプ氏の眼中になかったらしい。

 軍事力も経済力も米国は世界トップを続けているが、世界各地への軍事介入を長年にわたり繰り返して「浪費」を続け、その疲弊を隠せなくなり、米軍の軍事力の傘に入る対価を各国に求め始めた。米軍の軍事力の傘に入る対価は、各国に対する米国の大きな政治的な影響力であり、米国は相応の対価を得ていたのだが、それを米国は意識していない。

 トランプ氏は第二次政権で、以前と同様に各国に対して防衛費の増大を求め、米軍が防衛義務を順守しない可能性をちらつかせるだろう。各国は米国の要求に以前は従ったが、ロシアに対するトランプ氏の融和的な姿勢を見せられ、もう米軍が自国防衛の助けになるかどうか定かではないと判断し、米国に「貢ぐ」より自力での防衛力整備に予算を使ったほうが賢明だと防衛政策を変更する可能性がある。

 日本は、米国に防衛費の大幅増を要求されたなら、拒否して、現行の思いやり予算に見合う規模に米軍の駐留を縮小させることを容認、覚悟し、自力での防衛力整備に路線変更することが、米軍に自国防衛を頼ることができなくなったという新しい現実に対応する施策だろう。米国に資金を提供して自国防衛を委ねるという「保険」はもう空手形になりつつある。

2024年12月21日土曜日

偉大な国だった

 トランプ氏がMAGA(Make America Great Again)を掲げたのは2016年だ。大統領選挙のスローガンとし、この文句が記された帽子などを支持者は着用したり、プラカードを掲げたりした。この文句はロナルド・レーガンが1980年の大統領選挙で使用したのが最初で、社会的には知られた文句だが、トランプ氏は商標出願しているという(ウィキペディア)。

 「アメリカを再び偉大な国にする」というスローガンが支持されたのは、現在のアメリカが偉大な国ではなくなったという意識をアメリカ人の多くが共有していることを示す。アメリカは現在でも世界1の経済大国で、軍事力でも世界1であり、国際政治における影響力も世界1かもしれず、映画や音楽などでもアメリカの存在感は大きい。外からは偉大な国であり続けていると見えるが、アメリカに住む人たちには偉大な国だとの実感が薄れているようだ。

 世界に突出した豊かな過去のアメリカではなくなり、厚い中産階層が解体されて、極めて少数のスーパーリッチと大多数の中低所得層に分離した現在のアメリカ。「再び偉大に」とは、世界1豊かだったアメリカを基準にした発想で、もう一度、偉大なアメリカになろうということだ。アメリカ人の多くが何らかの喪失感を持っているから、この文句が広く支持されたのだろう。

 「偉大」が何を示すかが具体的には示されないのは、様々な解釈を許すことで多様な人々に共感させ、支持へとつなげるためだろう。国際的にアメリカは現在でも大きな存在であるから、「再び偉大にする」とは国内向けのメッセージであり、製造業の衰退などで働く場を失って貧しくなった中低所得層に受け入れられた。

 豊かだった頃のアメリカは白人中心の社会であり、トランプ氏の支持者に白人が多いことと関係があるだろう。当時は保守的な宗教の規範が社会的に大きな影響力を持ち、LGBTQなどの主張が表面化することもなく、マイノリティーに対する配慮は限定的だった。そうしたアメリカに再びなることが「偉大だ」とする考えは、保守的な白人層以外では受け入れ難いだろう。

 過去のアメリカで厚い中産階層が享受できていた豊かな生活とは、一軒家に住み、自動車を持ち、様々な電化製品を備え、食料に困ることなく、レジャーを楽しむ家族のイメージだ。そうした生活を世界各地で人々が享受できるようになった現在、アメリカ人が自分たちの生活を特別に豊かだと感じることが難しくなったことも「偉大さ」の喪失感に影響しているかもしれない。

 アメリカ人が「偉大さ」を失ったと感じるアメリカに、中米など世界各地から人々が続々と押し寄せている。移民にとってアメリカには、ある種の希望があるのだろうが、トランプ氏は移民の流入規制を強化することが MAGAの重要事項だとする。既成権力批判に有効だったMAGAは現状を否定的にとらえる発想で、外からはアメリカはまだ「偉大」だと見られていても、その実感がない人々に受け入れられた。

2024年12月18日水曜日

領土を広げる

 「抵抗の枢軸(Axis of Resistance)」とはイランが支援する中東の武装組織のネットワークで、ガザのハマスやレバノンのヒズボラ、イエメンのフーシ派などが含まれる。イランは武器や資金などの提供のほか、軍事訓練を指導しているとされ、中東各地での情報も共有していただろう。各地の武装組織は反イスラエルの行動などを続けてきた。

 枢軸(axis)とは「回転軸、軸線、(物の)中心線、活動の中心となる重要部分」で、枢軸国(the Axis)は第二次大戦で三国同盟の側に属した国。イスラエルや米国などに対する抵抗運動を行う武装組織群の中心にいるのがイランという構図だが、それぞれの武装組織は独自の判断で活動していたともされる。周辺国に散らばる武装組織はイスラエルにとって現実的な軍事的脅威だった。

 ハマスのイスラエル攻撃に端を発したイスラエル軍の容赦のないガザ侵攻で、ハマスは弱体化した。イスラエルは次にヒズボラの弱体化を目指し、ヒズボラの戦闘員らが所持していた通信機器を爆発させて多数を殺害したり、複数のヒズボラ幹部を殺害したり、レバノンのヒズボラの拠点に対する空爆を繰り返し、時には大規模な空爆で多数の死傷者を出している。

 レバノンという独立国に対する攻撃は侵略行為だが、レバノンでヒズボラは合法政党で、議会に多数の議席を有するなど国政に影響力を持ち、軍事部門は政府軍をしのぐ戦力とされるなど強大な存在で、イスラエルの攻撃に対してレバノン政府は見ているだけだ(ヒズボラはイスラエルにロケット弾による攻撃を行っているので、ヒズボラの取り締まりをイスラエルから要求されてもレバノン政府は何もできない)。

 ハマスの攻撃に対して容赦ない過酷な反撃を行ってハマスを弱体化させたイスラエルは、ヒズボラに対する様々な攻撃をエスカレートさせてヒズボラの弱体化を進める。イスラエルは圧倒的な軍事力で一気に「抵抗の枢軸」の弱体化を進め、中東におけるイランの影響力の減退を狙う。これは中東における勢力のバランスを狂わせ、ヒズボラの弱体化でシリアではアサド政権があっけなく崩壊した。

 イスラエルはシリア国内にも攻撃を活発化させ、ゴラン高原から進んで緩衝地帯に軍を進駐させた。自衛のために周辺国の武装組織を攻撃しているとの主張だが、ヨルダン川西岸で入植地を増やして領土化し、ガザではイスラエル軍の管理する土地を増やし、ゴラン高原でも入植地を増やすという行動は、防衛を大義名分に領土拡大を実現している。圧倒的な軍事力で領土を拡大するという行動には国際的な批判が多いが、イスラエルの行動を止めることはできていない。

 「抵抗の枢軸」ネットワークをズタズタにされたイランが、ハマスやヒズボラの勢力を回復させるのは簡単ではないだろう。通常兵器ではイスラエルに対抗できないとイランが核兵器の開発に積極的になると、それを阻むためにイスラエルがイランを攻撃するとの懸念も浮上している。戦線を広げたイスラエルは、もう後戻りできないだろう。イスラエルは軍事力に頼り、防衛のためと占領地(=領土)を広げ続ける。

2024年12月14日土曜日

一切を捨てる

 亡くなる前に経典以外の持っていた書物などを全て焼き捨て、「葬礼の儀式をととのふべからず。野にすてて、けだものに施すべし」と言い残したという一遍上人は捨聖とも呼ばれた。著作は残っていないとされるが、門下が記した一遍上人法語がある。一遍上人がすてたのは書物だけではない。

 その法語に「念仏の行者は智恵をも愚癡をもすて、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、一切のことをすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内にとかくの道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」とある。

 智恵も愚癡も善悪の境界も貴賤高下の道理も地獄を恐れる心も捨て、一切のことを捨てて唱える念仏こそ弥陀超世の本願にかなうというのは精神世界のことだ。だが、無常を悟っていただろう一遍が、死期を前に書物など一切を焼き捨て、葬式は無用で遺体は野に捨てろと言い残したのは、現実世界で我が身を含めて全ての物質は無だと考えたからだろう。仏の浄土に行くという往生を前に現世の諸々は皆捨てていくだけだ。

 一遍上人は鎌倉中期の僧で時宗の開祖。「伊予の豪族河野通広の子。諡は円照大師。延暦寺で天台宗を学び、太宰府で法然の孫弟子で西山派の聖達を師とする。のち熊野本宮に参籠して霊験を得、名を一遍と改める。念仏札を配る諸国遊行に出て、各地で念仏や踊り念仏を勧めた。そのため遊行上人ともいわれた」(大辞林)。

 時宗は「13世紀に一遍の開祖した浄土宗の一派。阿弥陀の救済力の絶対的な強さを説き、信者の信仰のあり方を問わず、称名さえすれば往生すると説いた」(同)。称名を唱えるだけで往生できるとの教えは当時の人々にとって受け入れやすいものだっただろう。さらに「宗主以下僧は諸国を遊行し、名号を記した賦算と呼ばれる札を配り、念仏踊りを行った。広く民衆に浸透し、15世紀に最盛期を迎えたが、本願寺教団の発展などにより、勢力を小さくした」(同)。

 念仏踊りとは「太鼓・鉦・瓢などを打ち鳴らして、念仏・和讃を唱えながら踊ること。空也上人に始まるといわれ、鎌倉時代、一遍の時宗派僧侶の遊行時に用いられて全国に流行した。のち芸能化して、江戸時代には女歌舞伎にも取り入れられた。また、盆踊りの源流といわれる」(同)。芸能の源流を辿ると宗教に行き着くことは珍しくない。

 「称名さえすれば往生する」という教えが真実なのか客観的に検証することは不可能だ。死後の世界の存在は検証不可能だから、往生が事実として行われるのか、称名と往生に何らかの相関関係があるのか、検証不可能なことばかりで一遍の教えは成り立っている。信じることによって成立する論理であり、世界観だ。検証が不可能だということは、否定も肯定もされないということだ。

 江戸時代に品川の東海時で没した沢庵は「私は一介の僧に過ぎない。すでに荒野に捨てた身だから、葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」と言い残したという。現実世界とのつながりを断つことを高僧が言い残したのは、精神世界に深く入り込んで生きた人生だったからだろう。

2024年12月11日水曜日

自由と分断

 米国の社会は分断しているとの論調や分析は多く、中には分断の存在を憂うる調子の論もあって、社会に分断が存在することは好ましくないと見られているようだ。確かに、意見の異なる人々の対立が先鋭化して、互いの暴力の応酬に発展したり、2021年の米国議会議事堂の襲撃事件などのように暴動が起きて社会の安定を損なうことは望ましくない。

 社会は様々な思想や信条や心情などを持つ個人の集まりで、思想や信条や心情などは細かく異なる。個人の信条や心情などが異なることが許容される社会でも、政治が絡むと、意見の相違が分断となって現れる。そうした政治的な主張は、各個人の置かれている経済的状況や社会的状況などを反映し、複雑に利害が絡むので妥協することは難しい。

 意見の相違はどんな社会にもあることだろうが、それが分断へと発展するには、①双方の主張が同時には社会に受け入れられない、②一方が勝者となり、他方が敗者とみなされる状況となる、③勝者と敗者の間に相互理解を促す対話が成立しない、④敗者は不満を溜め込み、勝者になるために主張を強める-などの過程を経る。米国などでは勝者と敗者は選挙のたびに入れ替わったりするので、分断は固定化する。

 様々に異なる意見を持つ人々によって社会は構成されているので、社会に分断が存在するのは当たり前だろう。だが、それが政治的な対立に発展するのは、選挙などでの支持拡大を狙って分断が煽られることも一因だ。スポーツの試合などでは、贔屓のチームを応援するだけではなく対戦相手にブーイングしたり、罵倒することも珍しくないが、そうした行動様式が政治運動にも持ち込まれた。

 意見の異なる人々が、対立の激化などが進んで共存・共生できなくなる懸念が現実化すると、社会の分断が問題になる。だが、分断が選挙のたびに現れるだけなら、社会の一体性は保たれよう。そこには選挙に対する人々の信頼が残っている。深刻なのは、選挙が信頼されなくなった時で、主張を実現するためには暴力にしか頼ることができなくなった状況になると、混乱だけが待っている。

 分断があることは、人々が自由に意思表示できる社会では当たり前の現象だが、選挙をしても社会の分断が現れない国々がある。例えば、北朝鮮やロシアや中国などでは、独裁権力を掌握している人物が圧倒的な多数で選出される。社会の分断は選挙結果に現れないが、それは社会に分断が存在しないことではなく、権力に不都合な主張は抑え込まれ、表面化が許されないからだ。

 米国で選挙のたびに分断が現れるのは、嘆かわしい現象ではなく、人々が自由に意思表示できる社会であることを示している。社会がまとまっているのを良いことと考える人は、異論を許さず、他人の考えもコントロールしようとする傾向があり、分断を過剰に問題視する。分断が見える社会は人々が政治的な主張を自由に表明できる社会であり、分断の表面化は民主主義が機能している社会につきものだ。

2024年12月7日土曜日

1カ月後の広島

 GHQの指令で原爆投下の1カ月後に広島に入った日米合同調査団に、東大医学部附属病院に当時所属していた加藤周一氏も日本側メンバーとして加わったが、広島の第一印象は「広島はこんなにも平らだったのか」だったという(「ヒロシマ・ナガサキ50年」=『加藤周一セレクション⑤』所収。以下の引用は同書から。適時省略あり)。

「建っている家が1軒もない。少しばかりのコンクリートの建物が一部残っていたけれども、それ以外は広島の街は全く平らになっていた。高いものがなくなってしまい、異常なほどに平たい土地になり、残っていたのは道路網と川や運河だけだった」

「道路には子供も含めて彷徨っている人たちがいた。子供も大人もケロイドで覆われていた。原爆の熱で皮膚が破壊された症状だ。女性は布を頭にまとっていた。頭髪が抜けていたからです。これは放射線障害の典型的な症状である脱毛症だった」

 「患者は三種類に分けられた。原爆の中心から1キロぐらいのところでは人々は瞬時にして消えた。炭化した。その周囲には身体的な障害を受けた人々がいた。瓦礫によって怪我をした人、熱症を受けた人、原爆の熱によってケロイドができたり火傷をした人。皮膚が熱のために大きく変形した人もいた。第三番目は放射線による障害。まず発熱があり、それから脱毛。

 主要な違いは血中の変化だった。循環血にではなく骨髄の破壊が起きた。骨髄は造血組織で、骨髄によって血液が造られている。放射線がまず影響を及ぼすのは若い細胞、未熟な細胞で、これらは骨髄の中で造られている」

「骨髄における大きな障害によって奇妙な状況が生まれていた。広島市の周囲や近郊の病院には多くの患者が集まっていて、最初の頃はほとんど症状が出ておらず、兆候がなく、そこで、もう大丈夫だと自分の家や田舎に帰った人もあった。

 それらの人々の追跡調査を1カ月くらい行った。ある人は被爆後1カ月半ほど経って出血が始まり、軽い熱が出てきた。骨髄穿刺を行って骨髄の標本を採り、検査した。わかったのは、おそらく快復は見込めず、亡くなるだろうということだった」

「最初は軽い熱や軽い出血だが、半月経ったら非常に重篤な症状が出始める。これが放射線障害。その場合、生死の確率は五分五分だろう。医学的観点からすれば、原爆は時限爆弾で、『よくぞ生き残った』と家族がお祝いをした人でも2カ月後には亡くなる。効果歴な救済の方法は全く何もなかった」

「放射線、放射能による障害は、その後の何年も調査や観察を続けて、ガンの発生の頻度、白血病の発生の頻度が統計的にはるかに高くなることがわかった。放射能は生殖器に影響を及ぼすので奇形の問題も出てくる。皮膚、頭髪、骨髄に放射能は大きな影響を及ぼす。この三つが放射線障害の中心となり、それによって時限爆弾となる」

「非常に残虐な、残酷な状況だった。『よくぞ生き残った』とお祝いをされた人が、『半月後あるいは1カ月後か2カ月後に亡くなるだろう』とは家族にとても言えなかった。これが原爆投下後の広島で、非常に残酷な状況がそこには繰り広げられていた」

2024年12月4日水曜日

世界人口の6割強

 世界の人口は81億1900万人となり、2023年より7400万人増加した(国連人口基金の世界人口白書2024。初めて80億人台に達したのは2022年11月)。インドが14億4170万人で最も多く、中国14億2520万人、米国3億4180万人、インドネシア2億7980万人、パキスタン2億4520万人、ナイジェリア2億2920万人、ブラジル2億1760万人、バングラデシュ1億7470万人と続く。日本は1億2260万人で12位。

 世界の人口が60億人を超えたのは26年前の1998年。1950年には約25億人だったが、1960年に30億人台に達し、1975年に40億人台に乗り、1987年に50億人台に達した。70億人台に乗ったのは2011年。1950年に約25億人だったので、80億人に達した2022年までの72年間で3.2倍に世界人口は膨張した。

 2020年の世界人口は78億2095万人だったが、この年の宗教人口はキリスト教が23億8000万人、イスラム教が19億人、仏教は5億人とされる。3大宗教の信者数は合計で約48億人で世界人口の約62%を占める。これは世界の人々のおよそ3人に2人は3大宗教の信者ということになる(ヒンズー教信者は11億6000万人で仏教徒より多いが、信者はほぼインドに限定されるので世界3大宗教には含まれない)。

 信者といっても信仰の度合いは様々だろう。聖書やコーラン、仏典に書いてあることを全く疑わずに信じる信者から、神や仏は信じるけれど聖典などの記述を鵜呑みにはしない信者や、科学的知識を備えていて聖典などに書かれていることは架空の物語だと受け止める信者まで信仰の実態は広く分かれるだろう。信仰の度合いは様々であっても、その神や仏を信仰する人々は信者と見なされる。社会で生きるために必要だったり有利だったりするため多数派の宗教の信者になっている人も含まれよう。

 世界に膨大に存在する信者たちだが、信仰に入った経緯は様々だろう。何かの宗教の信者になることを自分の意思で選択した人から、親や家族や集落の信仰を受け継いだ人、何かの宗教の信者になることが当然とされる社会に生まれ、その宗教を自然に受け入れた人など多彩に分かれる。宗教的な環境で生まれ育った人々はその宗教の規範に則った生き方を続けてきただろうから信者であることは当然で、宗教が選択の対象ではない場合もあるだろう。

 宗教は信者に価値観を与える。キリスト教とイスラム教と仏教が与える価値観は、それぞれに「よき生き方」を説くなど共通する部分もあるが、大きく異なる部分もある。イスラム教は信者の日常生活を強く律し、社会に規範を与え、国家のあり方をも方向づけるので、イスラム教国の多くは世俗国家とは見なされない。イスラム教の信者とキリスト教や仏教の信者に要求される信仰のあり方も大きく異なる。

 3大宗教は神や仏の実在を肯定するので、それぞれの信者も神や仏の実在を肯定する(神や仏の実在を否定する人は信者にはならない)。だが、神や仏の実在は証明されず、神や仏の存在は信じることによって担保される。神や仏の存在を感じるという人々も信者に含まれるだろう。神や仏の実在を考える人々よりも、神や仏の存在を信じたり感じたり疑わない人々が現在の世界で6割強と多数派であることは、理性や知性だけでは動かない世界の状況を理解するための重要な前提だ。