2015年8月30日日曜日

難民というより移住か


 アフリカ大陸の北岸にあるリビアから、EU入りを狙う移民や難民を“満載”した密航船がイタリアに殺到している。出航地のリビアにEUが乗り込んで、海岸線を直接管理できれば、密航船の出航を阻止することもできようが、リビアはEU外の国であるため、EU側の対策は洋上が主体にならざるを得ない。

 対策といっても、密航船の数は多く、劣悪な密航船に詰め込まれた人々は洋上では生命の危険もあるため、EU側が救助を余儀なくされたりする。最近も約400人が乗っていた密航船が沈没し、100人以上の遺体を収容したという。沈没した密航船の船倉に取り残された人も多いとされ、どれほどの人が亡くなったのかは分からない。

 国連の推定では8月末で、欧州に到着した今年の移民・難民は30万人を超え、海上での事故などで死亡した人は2500人という。8月で2500人だから、平均すると月300人以上が地中海で亡くなっている。もちろん、この人数は欧州側が把握した人数だろうから、亡くなった人の実数はもっと多いだろう。詰め込まれた密航船から転落したりして、行方不明になったままの人がどれだけいるのか。

 EU側が多少の対策を講じたところで、欧州を目指す移民・難民の数は減らない。内戦などによる治安崩壊で様々な暴力に直面して暮らすなら、危険を覚悟で地中海を渡り、警戒網をかいくぐって欧州に「移住」したほうがいいだろうと、地中海のリビア寄りにあるイタリア領の島を目指したり、実質的な財政破綻状態で海岸線の警戒に予算が回らないギリシャを目指す。今年はすでに、ギリシャに20万人、イタリアに11万人が到着したという。

 もちろんイタリアやギリシャはEUへの入口で、そこから難民・移民は北上してドイツやイギリス、北欧諸国を目指す。各国も警戒態勢を強化しているので、EU内の移動は密やかに行わなければならず、危険を伴うこともある。最近、オーストリアの高速道路で、停車していた保冷車から移民とみられる71人の遺体が見つかった。窒息死した模様だ。

 人数が増えすぎると、そう秘かにもしていられなくなる。英仏海峡トンネルのフランス側の入り口付近には英国入りを目指す移民が多数集まり、英国に向かうトラックに飛び乗ろうとしたり、英国へ渡ろうとトンネルへの侵入を図ったりしている。一晩に2000人がトンネルに入ろうとして阻止されたケースも報告されている。

 現世人類の祖先は数万年前にアフリカから出て世界に散らばった。やがて国境ができ、ある国境の内側では安全で豊かな生活ができ、ある国境の内側では貧困、暴力、腐敗などが蔓延する社会ができた。欧州諸国は国境を自分たちで決めたが、中東やアフリカでは国境は欧州諸国が決めたものだ。そんな旧植民地で暮らす人々が、国境を無視するように移動し始めたのは、はるかな歴史の蘇りでもあるかのような気にもさせる。

2015年8月26日水曜日

加害者の側にもいた


 福島第一原発の事故以来、反原発を声高に主張する人が増えた。1、3、4号機原子炉建屋で水素爆発が起きて放射性物質がまき散らされ、4年経っても広い範囲で人々の居住が制限されており、1〜3号機はメルトダウンに至って人が近づけず、原子炉解体のメドが立たない状況なのだから、原発が現実的な危険物であると見なされるのは当然だろう。

 事故が万一起きた時の影響の大きさに加え、使用済み核燃料の処理など難問を無視できなくなり、原発に拒否感を持つ人が増えたのも当然だろう。だから、即時の原発全面廃止の主張が高まったのは至極まっとうなものであるとも見えるが、引っかかるものがある。

 そうした主張を行う人は急増したが、その多くは福島原発事故の以前は反原発活動に積極的に参加もせず、黙って原発の“恩恵”を享受していたのに、事故後は、原発による被害者として自己を正当化し、反原発を言い立てているように見えることだ。40基を超す原発が建設され、稼働していたのは電気事業者や政府などだけの責任ではなく、皆が許容していたからでもある。

 乱暴にいうと、事故前は黙っていた人も福島事故の「共犯者」なのだ。もちろん、責任には濃淡があり、非常用電源など安全面の備えに抜かりがあった東電の責任は非常に大きく、重大事故が起きるものとしての安全対策を徹底させなかった政府の責任も大きいが、東電や政府を責めることで、原発を容認してきたという責任を消すことはできない。

 そうした責任を痛感するから、即時の原発全面廃止を主張するという人もいるだろう。黙って原発を容認してきたからこそ、福島原発の事故を防ぐことができなかったとの意識があるから、責任を持って自分らの時代に原発を廃止して、次代に原発(と事故)を持ち越したくないと考える人もいよう。

 「共犯者」としての責任をごまかしていないのだから正しい認識だろうが、反原発を声高に主張することが免罪符になる可能性もある。厳しく東電などの責任を問い、原発を稼働させないことが、原発を容認してきたことの罪滅ぼしとなるのか。原発の再稼働を阻止できたとしても、福島原発の広い周辺で居住を制限されている人の助けにはならない。

 「共犯者」であるということは加害者の側にいるということだ。謝れと言っているのではないし、補償をしろと言っているのでもない。被害者ぶるのではなく、加害者の側にもいたという意識を明確に持って考えることにより、見えてくる光景が異なってくるだろうし、当事者意識も出てくるかもしれない。

2015年8月22日土曜日

新聞社と謝罪


 70年以前の行為について、人はどこまで責任を負わなければならないのだろうか。例えば、70年以前に殺人の罪を犯した人が、裁判にかけられて有罪判決を下され、刑期を終えるとともに、個人の資産から損害賠償も行っていたならば、社会的には責任を取ったと見なされよう。もちろん、道義的な責任は生涯、消えることはないが。

 70年以前に殺人を犯した人が亡くなるとともに、その殺人に関する罪は消える。被害者の遺族が、殺人を犯した人の子や孫に対して、70年以前の殺人の責任を問うことはできない。現場におらず、殺人を止めることが不可能だった人達には責任はない。道義的な責任もない。

 しかし、人ではなく会社であるならば、70年以前のことであれ、社会に大きな不利益を与えた邪悪な行為の責任はついて回る。責任を認めて社会に謝罪し、邪悪な行為の当事者や、それを容認した経営陣を会社から追い出したとしても、同じ社名で営業している限り、負のイメージはついて回る。70年以前を知っている人達や道義的責任を問う人たちが少なくなれば、次第に忘れられていくかもしれない。が、それで道義的責任が消えたわけではない。

 70年以前に日本は国策を誤り、日本人のみならず近隣諸国の人々にも多大の損害を与えた。日本人は300万人以上が死に、アジア・太平洋諸国では2000万人以上が死んだとされる。そうした戦争に突き進んだ国家体制を支える一翼を担ったのが日本の新聞社だ。華々しく戦果を書き立て、人々の戦意を煽り、国策への協力を読者に促した。

 今の日本の新聞社は、民主主義や自由、人権など普遍的とされる価値観を尊重し、それらを擁護するためにも権力の監視を怠らず、自由な報道・自由な言論を駆使して、二度と日本が国策を誤ることがないように励んでいる(のだろうネ)。ただ、70年以前に同じ題字の新聞が何をどのように報じ、どのような論を掲げていたかを、新聞社自体が忘れがちであるようにも見える。

 毎年のことながら8月は、先の戦争に関する記事が大量に紙面を埋める。しかし、その中に新聞社自体が戦争に、どのように関わったかという具体的な検証の記事を見ることは、あまりない。どのように戦時体制を支え、戦意を煽ったのか。国際連盟からの脱退をどう伝えたのか。中国やアジア各地への日本軍の侵略をどう伝えたのか。

 日本の新聞社には、先の戦争に対して道義的な責任がついて回る。当時の記事や社説を引っ張り出して具体的に検証することは、自社のマイナスイメージを喚起することにもなるので消極的なのかもしれないが、日本政府などの戦争責任を熱心に追及する記事や、反省やお詫びの明確化を求める論などを見るにつけ、日本の新聞社は自らの責任には蓋をしているンじゃないかと映る。新聞社こそ、毎年8月には自らの責任を検証し、読者やアジアの人々に謝罪すべきかもしれない。

2015年8月19日水曜日

「個性」がにじみ出た批判


 何かの文書を批判することは簡単だ。読みながら、気に食わない個所をチェックしていき、それらを次々と指摘していけば一丁上がりだ。批判の根拠には、出来合いの価値観から都合のいいものを引っ張り出しておけば、体面を繕うことはできる。ただし、批判に熱心になるあまり、感情的な言葉が混じると、批判の底の浅さが露呈するかもしれない。

 価値観の異なる人が書いた文書を批判するのは、もっと簡単だ。批判する側の価値観に反する個所は片っ端から否定し、けなしていけばいい。イデオロギー対立が盛んだった頃は、そうした批判が珍しくなく、勢い余って、客観的な事柄を記しているような、批判しなくてもいい個所にまで批判を浴びせたりし、イチャモンをつけているだけだと見えることもあった。

 批判することを目的とする批判は、対象の文書に書かれていない事柄を指摘し、「○○について触れていない」「××を無視している」などと、それらを故意に書かなかったと批判したりもする。こうなると、批判は無敵だ。対象の文章に書かれていない事柄なら何でも批判できるのだから、批判する材料に事欠かない。

 さらには、対象の文章から「誠意が感じられない」「人間性が伝わってこない」などと、読み手側の感情を批判の根拠にしたりもする。誠意を感じるかどうかは人それぞれだから、こうした批判は必ずしも多数の人が共有するものとはならないが、「嫌いだ」という感情をベースにした批判であることは明らかにしてくれる。

 客観性のある批判であるためには、まず分析することが必要になる。ただし、批判的な分析も客観的な分析もあるので、分析結果がいつでも誰でも同じになることはない。文章や文言を解釈する時には、その人の善悪や正邪の価値観、さらにはイデオロギーの残滓の影響を受けるので、「個性」がにじみ出る。それは個人の文筆家なら許容されようが、新聞の社説においては異様な有り様に見えてくる。

 安倍談話についての朝日新聞の社説は、安倍嫌いという「肉声」が伝わって来るような感情がにじみ出ているものだった。「極めて不十分な内容だった」とまず否定し、次いで「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」と断じる。それが結論で、残りの長い文章は付けたし。ついでに、談話発表に至る過程の迷走も批判しているが、談話を発表しなかったなら、朝日新聞は何と書いたのかと知りたくなる。

 客観性のある分析の跡は希薄だが、奇妙で面白く、本音が出た正直な社説かもしれない。この談話について新聞社は以前から、さんざんネタにして大騒ぎをしてきたのに、発表された談話は穏便な調子で、もうネタにはなりそうにないと不満なのかもしれない。いつもなら朝日の報道を受けて騒ぎを大きくしてくれる中国、韓国が今回は自制的な反応だったのも、朝日には計算違いだったか。

2015年8月15日土曜日

共感する力


 8月に入ると新聞紙面に戦争に関する企画記事が増え、テレビでも戦争に関するドラマや検証特番が増える。戦争といっても、世界各地で現在行われている戦争がテーマではない。取り上げられるのは、日本が直接関わった先の戦争である。中東やアフリカなどで現在も行われている戦争についてはニュースとして報じられることがあるだけだ。

 でも8月15日が過ぎると、そうした企画記事や特番などは次第に消え、次に現れるのは12月だが、その量は8月より遥かに少ない。8月には2度の原爆投下、終戦と大きな出来事が続いたため、先の戦争の“記憶”が呼び起こされるのかもしれない。一方で、新聞社やテレビ局でも社員が夏休みを取るため、事前に作り置きがしやすい戦争関連の企画記事や特番が増えるともいわれる。

 送り手側の事情はさておき、日本のマスコミが、日本が戦争に直接関わった記憶、つまり、日本人だけの戦争体験を掘り起こし、伝えることを重視していることは間違いない。自国が関わり、自国民が体験した戦争をマスコミが重視することは当然だが、受け継ぐべき「戦争の記憶」は、日本が直接関わったものだけではあるまい。

 戦争に巻き込まれた人々は、平時には想像もつかない多くの悲惨な体験をする。それを後世に伝えていくことには意義がある。だが、日本人の体験だけが戦争体験の全てではない。戦争には様々な態様があり、また、技術や経済力の発展とともに変化するのだから現代の戦争は、日本人が過去に体験した戦争には見られなかった別種の悲惨さを持つ。日々のニュースで、それらを伝えきれているのだろうか。

 日本が直接関わった戦争は(今のところ)数十年以前のものだけであり、それだけを特別扱いしすぎると、「昔の戦争で日本人は大変だったけれど、今の日本は平和で良かったね」と現状を肯定するだけで終わるかもしれない。日本が平和であることは慶賀すべきだが、世界が平和になったわけではなく、各地で戦争は起き、世界は戦争の「記憶」に溢れている。

 日本や日本人が関わった戦争と、他国や他国人が関わった戦争に、悲惨さや愚かさにおいては本質的な違いはあるまい。戦争の「記憶」は、他国や他国人が関わった戦争からも受け継ぐことはできようし、現在行われている戦争からも「記憶」を受け継ぐことはできるはずだ。

 それには、共感する力が不可欠となる。数十年前の日本人の体験、記憶に共感するのと同じように、世界各地で戦争に巻き込まれる人々の悲惨な体験、記憶に共感できるなら、それらを受け継ぐこともできよう。だが、共感する力が乏しければ、日本人の「戦争体験」だけにしか興味、関心が向かないだろう。

2015年8月12日水曜日

落合の蹉跌


 今シーズンの出足は好調だったドラゴンズは開幕1カ月過ぎて失速し、負け越し数が15(8月11日現在)と最下位に沈んだままで、開幕前の評論家らの予想通りに最下位に落ち着いた印象だ。落合が監督を退いて以降のドラゴンズはBクラスの常連となってしまった。その落合がGMに就任し、チームを蘇らせるかと期待したが、成果は何も見えてこない。

 どのようなチームにしようと落合は構想したのか。最近のドラゴンズは、好調時の岩瀬のような絶対的な抑えの不在が多くの負けにつながっている。落合が監督だった頃の、1点差を守り切るというゲーム運びができず、かといって、相手チームのエースに対して打ち勝つほどの強力打線もない。12球団1といわれた投手陣も、今はそうではない。

 選手の世代交代が課題だと指摘され続けてきたが、ドラゴンズは失敗した。そう簡単に若手が育つなら、どこのチームも苦労しないだろうし、黄金時代を築いたチームの多くは低迷期を経験する。中堅選手の奮起や若手の台頭が希薄なポジションはトレードで補い、チーム力の低下を食い止めるのがフロント陣の役割だが、年棒が高くない外国人選手をかき集めるだけのように見える。

 どうせ低迷がしばらく続くのだろうから、勝敗は二の次にして若手を起用し、実戦で経験を積ませて1流に育て上げろと言いたくなるが、起用し続けた若手が必ず1流に育つとは限らず、プロ野球が興行でもあることを考えると、実績を示すことができない選手の起用には限度がある。

 起用された若手がすぐに活躍することは珍しくないのだが、活躍は続かない。他チームはデータを分析して弱点を洗い出し、次からは弱点を責められる。そうした新たな闘いに対応できた者がやがてレギュラーとなるのだが、実戦で対応力を誰でもが発揮できるわけではない。そして、対応力はコーチらが教えて身につくものでもなく、試合に出続ける間は常に対応力が求められる。

 どんなチームにすることを落合は構想したのだろうか。黄金期を築いた監督として誰よりもチームを知っていたはずだから、より明確にチームの強化策が見えていそうなものだが、成果となっては現れない。新戦力は伸び悩み、チームから放出した選手が他チームで1軍に定着するなど、選手の見極めが迷走気味にも映る。黄金期を知りすぎている故に、柔軟な発想に制約が生じているのかもしれない。

2015年8月8日土曜日

危機感を煽る


 危機感を煽るという手法は、演説や論説、ブログ、エッセイなどで広く蔓延している。危機感を煽ることには、聞き手を浮き足立たせ、演説や論説、ブログ、エッセイへの冷静な検証を抑制する効果もある。危機感を煽る当人は、切実な警告を発しようと“使命感”が先走るのかもしれない。でも、うっかり危機感に「感染」すると、踊らされることになったりもする。

 危機感を煽ることは、その言説に説得力があるように見せる手っ取り早い手法だ。専門家相手の論文なら、聞き手からの細かい検証を想定して緻密な論理構成が求められようし、根拠が不確かなことは書けまいが、一般相手には、分かりやすさがポイント。危機感を煽ることで、聞き手の情緒に訴えたほうがウケは良かったりする。

 危機感を煽るにも様々な手法があり、氷河が崩壊する様子や海上の氷に乗るシロクマの様子など温暖化の危機感をイメージ操作で煽るといったパターンはよく見かける。その一つ一つを冷静に考えれば温暖化とは無関係なのだが、温暖化の危機を示すイメージとして定着しているので、世論操作には便利。情緒に左右されやすいのが危機感なので、この種のイメージ操作は定番。

 各種のデータを散りばめて危機感を煽るのも、経済関係などではお馴染みのパターンだ。読み手に相応の知識があることを前提に、危機感を煽るのに好都合なデータを並べる。説得力がありそうなパターンだが、自説に不都合なデータがあってもスルーしている場合も珍しくない。

 危機感といえば、陰謀論には付きものだ。大方の陰謀論は、邪悪な考えに取り憑かれた「敵」が陰険な策謀を巡らし、あれやこれやと仕掛けてきて、じわじわと守勢に立たされ、その結果として「我々」が不利益をこうむっていると説く。都合のいい解釈を組み立てているだけだと見破られないためには、受け手に危機感を持たせることが欠かせない。

 陰謀論では危機感を煽るために邪悪な「敵」を強大に見せる必要があるが、時には「敵」を強大化しすぎることもあって、冷静な受け手には「それほどのものじゃ、ないだろう」と見破られたりする。邪悪な「敵」を強大に見せることは、ヒーローもののドラマや映画などでは基本で、最後には“正義”のヒーローが「敵」を倒してハッピーエンドになるのだが、現実世界では“正義”のヒーローも「敵」も相対的な存在。ドラマのようには現実はいかないので、陰謀論はいつまでも続く……のかな。

2015年8月5日水曜日

9年6カ月の宇宙旅行


 太陽系の端にある冥王星に、NASAの無人探査機「ニューホライズンズ」が1万2000キロまで近づき、鮮明な写真を送ってきた。地球から遠く離れた冥王星の姿はハッブルでも、ぼやけた画像でしか見ることができなかったので、人類は初めて冥王星の詳しい姿を見ることができた。全ての観測データが地球に届くにはまだ数カ月かかるというので、今後も新発見が続くだろう。

 冥王星の鮮明な写真で話題になったのが、巨大なハート形。冥王星の表面は窒素とメタンで覆われているというが、ハート形の一部を拡大すると、高さ3千メートルを超す氷の山があり、数十キロにわたり山脈のような地形が続いていたり、巨大な亀の甲のような模様が連なった地形があったりと複雑で、地質活動が続いている可能性があると報じられた。

 地球から冥王星までの距離は48億〜54億キロくらいという(冥王星の軌道が傾いていて、楕円がかって歪んでいるため)。この距離を移動するために「ニューホライズンズ」は、2006年1月19日の打ち上げから、2015年7月14日の冥王星への1万2000キロの最接近まで約9年6カ月かかった。光や電波では4.5時間かかる。

 「ニュー・ホライズンズ」は史上最高速で地球を旅立った探査機で、宇宙空間では秒速15キロ以上、時速にすると56000km/時くらいで移動しているという。せっかく冥王星まで行ったのだから、周回軌道に入って観測するチャンスだと思うが、減速するための燃料は軽量化のため積んでいないので、冥王星の近くを通過するしかなかった。

 9年半もの長い年月を要して冥王星に近づいた「ニューホライズンズ」。もし、この探査機に人が乗っていたなら、9歳半の年齢を重ねることになる。発射時に40歳の宇宙飛行士が乗っていたなら、49歳過ぎてやっと冥王星を近くで見て、そこからUターンして真っすぐ地球に戻ったとしても、地球帰還時には59歳だ。19年は長い。子供がいたなら、結婚して孫が産まれていても不思議はない年月だ。

 ところで、9年半の宇宙生活を支えるには、どれだけの物資が必要になるのだろうか。食糧で考えると、9年半は約3500日になるから、1日3食とすると1万食以上になる。全てを宇宙食として発射時に積み込んで持って行くとすると、重量がかさみ、冥王星まで9年半で行くためには強力な動力源を備えなければならないので、燃料が余計に必要になる。

 2人を搭乗させるなら2倍、3人なら3倍となるので、重くなった分だけ強力な動力源が要り燃料も多く積まなければならない。宇宙船内で食糧を生産できれば、打ち上げ時の重量を軽減できるだろうが、閉鎖空間で継続的に食糧を生産できるシステムはまだ開発されていない。

 9年半もの宇宙旅行中に飛行士は「冬眠」しないとすれば、様々な観測を毎日行うことになる。360度に見える天体を観測するだけで、それなりに忙しいだろうが、宇宙空間は広大で暗く、どこを見ても、おそらく同じような光景が広がっているだけだろうから、刺激は乏しいかもしれない。そんな中で9年6カ月……退屈が宇宙でも大敵か。

2015年8月1日土曜日

未来のことは確率で考える


 8月になると日本のマスメディアでは戦争をテーマにした番組や記事が増える。戦争といっても、現在進行中のシリアやイラクの内戦のことではなく、1945年に日本が敗戦を迎えた戦争のことに限られる。日本人が体験した戦争でどんなに苦しんだかという被害者感情に訴えながら、日本も悪かったんだと加害者責任をまぶして、番組や記事を仕立て上げる。

 そんなに戦争に関心があるなら、日本の敗戦後も間断なく世界のどこかで戦争は起こり続けていたのだから、戦争の番組や記事が年中あふれていてもいいはずだが……日本ではほぼ8月と12月に限られる。つまり、日本人が直接関わった戦争だけが対象であり、日本人の戦争体験だけが「伝えるべき」ものと見なされているかのようだ。

 自国民・自民族が関わった戦争の記憶を伝えようとするのは当然の行為だともいえようが、被害者感情と加害者責任だけで戦争を見ると、歪みが生じることもある。どんなに戦争の悲惨さを言い立て、加害者としての贖罪を示したとしても、戦争はなくならないという現実。悲惨で無意味な行為である戦争が人類の歴史からなくならないという現実が見えなくなる、

 世界全ての国の人々や民族が、自分たちだけは戦争に巻き込まれたくないと決意し、努力するなら、結果として世界から戦争は根絶される……のであれば理想的だが、いつも世界のどこかで戦争は起きている。

 日本だけが、日本人だけが巻き込まれなければいいと考えるなら、日本人が経験した戦争だけを回顧し、反省して、日本人が戦争に関わることへの嫌悪感を高め続けることは効果があるかもしれない。そうした嫌悪感に支えられて、軍事絡みの法案で世論が割れたりすると、例えば「戦争に巻き込まれる」「徴兵制で引っ張られる」などの拒否感を強調する人も現れる。

 だが、そうした感情が先立つと、“正しく”怖がることができにくくなったりする。浮き足立ってしまうと、冷静に判断をしているつもりでも、情緒に流され、理性的な判断が阻害されることもある。人々の感情の爆発が大規模な行動となって現れたりすると、政治に影響を及ぼすこともできようが、感情の爆発が必ずしも良好な結果をもたらすものでもない。

 「戦争に巻き込まれる」「徴兵される」などの、仮定の未来から感じる不安の感情は現実にある嫌悪感や拒否感を増大させる。不安を煽って誘導することは、プロパガンダの基本的手法だ。だが、対処法はある。仮定の未来に不安を感じた時には、それが起きる確率を考えるのだ。航空機で事故に遭う確率は、交通事故に遭う確率より遥かに低いなどというのが代表例だ。

 日本が戦争に巻き込まれる確率は何%か。徴兵される確率は何%か。もちろん、未来に起こるかもしれないことの実現可能性を正確な数字で示すことは困難だ。だが、徴兵される確率は10%か、30%か、50%か、70%か……などと具体的に考えてみることが、いたずらに不安が増大することを防ぐ。

 具体的な確率の根拠を提示することは学者らには不可欠だが、限られた知識しか持たない一般人なら主観で判断するしかない。それでも、日本が戦争に巻き込まれる確率は10%か、30%か、50%か、70%か……などと具体的に考えることで、冷静さを取り戻し、不安感などの情緒に流されることを抑止できる。ただし、冷静に見るようになると、感情の爆発による行動などには気軽に参加できなくなるかもしれないが。