2016年7月30日土曜日

歌の解釈は自由


 「上を向いて歩こう」は1961年に発売されてヒットし、人々は様々な思いを込めて「♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」と歌い継いで来た。涙がこぼれそうな場面は失恋や別離、喪失、諍い、敗北など様々あり、悲しさ、悔しさ、情けなさ、衝撃、未練など様々な思いを込めて歌ったのだろう。もちろん、そうした特別な思いがなくても、いい歌として歌うことができる。

 この曲の作詞者の永六輔氏が亡くなり、追悼する文章が多く現れたが、その中には、この曲の歌詞は、60年安保闘争で安保改定を阻止できなかった側の気持ちをつづったものだと説明するものがあった。永六輔氏が明らかにしていたというから間違いではないのだろうが、永六輔氏の失恋体験をつづったものだとする説明もあったりする。

 政治に敏感な人なら「上を向いて歩こう」は反安保の歌だとし、イデオロギー色がついた歌だと見なすかもしれない。そうなると安保を容認する人は、この曲を歌うことを憚らなければならないのかな。でも、安保条約を現在の日本人の多くが容認していると世論調査などでは示されるが、この曲は人々に愛され、歌い継がれている。

 政治は全てを支配下に置こうとし、歌など芸能も支配下に置いて利用しようとする(ここでいう政治とは権力を持つ側だけに限定されず、反体制の側なども含む)。だが、政治に従属した途端に歌など芸能は輝きを減じ始める。発想や表現などに自由さが歌など芸能には欠かせないのに、政治に従属することで途端に窮屈さが増すからだ。そうした窮屈さを人々は敏感に察する。

 「上を向いて歩こう」がどのような経緯で誕生したものであろうと、今さら60年安保闘争と結びつけて解釈する必要はない。そもそも60年安保闘争を知らない世代も増えているのだから、50年以上前の反体制側のイデオロギーが現在でも有効であるかどうか疑わしい。60年安保闘争を崇め奉る人達が、この曲を歌って当時を懐かしがることは自由だが、何でも政治色に染めて見るという悪癖は自覚すべきか。

 歌が世に出て人々に歌い継がれたなら、歌は作者から離れて一人歩きする。作詞者がどのような思いを歌詞に込めようと、歌う人は自分の思いを込めて(あるいは、単なる歌として)歌う。作者の意図に沿って解釈し、歌わなければならないするのは、芸術至上主義めいた思い上がりであろう。60年安保闘争という特定の状況から誕生したものであったとしても、普遍的な感情を表現した歌に変化したから多くの人は歌い継いでいるのだ。

 人は、歌いたい歌を歌いたい時に自由に歌うことができる。軍歌を平和論者が歌い、「上を向いて歩こう」を安保条約支持者が歌い、「網走番外地」を警官が歌ったって自由なのだ。歌など芸能は自由な存在であり、解釈も自由であるからこそ人々に受け入れられる。多くの人を慰め、元気づける歌を作詞したということだけで作詞者にとっては大いなる名誉であり、60年安保闘争に結びつけた解釈は蛇足であった。

2016年7月27日水曜日

中立や公平を装う


 中立とは「ある特定の立場・意見にかたよらず、中正の位置にあること」で、「戦争に参加していない国家に生ずる国際法上の地位。交戦当事国に対して公平と無援助の立場をとること」の意で使うこともあり、公平は「どれにもかたよらず、すべてを同じように扱うこと。えこひいきをしないこと」と辞書にはある。

 「かたよらず」ということでは似たような言葉だが、中立と公平を両立することは簡単ではない。対立する人々の間で中立を保とうとすると、双方から「味方でなければ敵方だ」と見られる。公平を保とうとするなら、対立する双方に細心の注意を払って同じように接しなければならず、双方から満足と不満が同じくらいに出たなら、対立する双方に公平に接していた証しともなろう。

 何が中立であり、何が公平であるか。そこに客観的な基準はなく、状況によって変化するので、当事者が状況を判断して、中立や公平を決めることになる。だから個人が主張する中立や公平は、主観の影響を免れることが難しい。組織の決定であるなら、複数人による議論で、個人による主観を薄めることができようが、組織トップの主観的判断をも修正することができる健全さを全ての組織が備えているわけでもない。

 中立と公平には利害も関係してくる。対立する片方だけに利害関係がある第3者が中立や公平を装っても、客観的には中立とも公平とも見なされまい。対立する双方に利害関係がある第3者なら、中立を装えば双方から「裏切ったな」と見られ、公平を装えば双方が「こっちに味方しろ」と不満を持つ。中立も公平も、意味するところは関係する各自の主観により異なるので、誰からも批判されない中立・公平は難しい。

 中立や公平という言葉には、理性的な言動を意味する響きがあるので、自己の言動を説明する時に中立や公平の言葉を使うことで、主観でしかないものを客観的な判断による言動であるかのように装うことができる。その時々に言葉の定義を確認しながら議論する人は少ないので、先に中立や公平を振りかざした側が有利になったりもする。

 中立を装うことで公平を損ねることがあり、公平を装うことで中立を損ねることもあるので、批判を免れることはできない。求められる中立や、求められる公平が立場によって異なり、そこに各自の主観が絡む。そうした場合、互いに相手を批判し、それぞれの中立や公平を言い立てることになる。主観の色濃いものを押し通すには、少しも引かずに言い立てるのが最善の方法だ。

2016年7月23日土曜日

借りた土地で借りた時間で借りた金で生きる


 英国の植民地だった香港に住むことは、「借りた場所で、借りた時間で」の生活と表現されたことがある。1839年からのアヘン戦争のあとに香港島は英国に永久割譲され、第2次アヘン戦争のあとに九龍半島も割譲され、新界は1898年から99年間の期限で英国が租借した。香港では土地の所有権は住人には与えられず、使用権のみが売買された。

 中国本土では土地は国有ということで、現在でも土地の所有権は個人には与えられず、使用権が売買されている。だが実際には地方政府が、住人を追い出した土地を業者に売って再開発させたりすることで売却益を確保したりしているので、個人の使用権は限定的だ。中国の人々は「借りた場所」で生活しているが、「借りた時間」であるかどうかは今は不明だ。

 「借りた時間」とは、いつか期限が来るということ。土地の私有を認めない1党独裁体制が終わったときに、次の政権では政策が変わるだろう。借りたものは、いつか返さなければならない……というのが世の中の決まりなのだろうが、踏み倒す人もいたりする。土地や時間なら、体制が変わり政権が代われば人々に「返される」のだろうが、大企業などが借りた金は、体制が変われば騒ぎにまぎれてウヤムヤになるかもしれない。

 中国の借金総額は2015年末時点で168兆元(約2650兆円)でGDPの249%に達し、企業分が156%を占めると新聞が報じた。中国では主要な産業を大企業である国有企業が牛耳っているが、その国有企業が抱える負債が全企業の負債の3分の2を占めているという。国有企業の負債が膨らむのは、これも国有である銀行が貸し続けるからだ。国有の銀行が貸し付ける資金とは公的な資金である。

 巨額の負債ではあるが、中国が公表する統計数値は政治的な配慮を加えて修正されたものであろうから、実際の負債はもっと多いだろう。中国では国有企業や地方政府の債務が膨らんでいると見られているが、実態は闇の中。例えば、IMFは中国の債務総額はGDP比で225%とし、米マッキンゼー国際研究所は同282%とするが、「正解」は誰も知らない。

 すでにデフォルトが少しずつ増えているともされるが、続々と国有企業を破綻させることは中国では政治的な責任問題にもつながるので、大規模な破綻処理は不可能だろう。政治的な影響が大きすぎて、つぶせない国有企業に銀行は資金を流し続けるしかない。つまり、負債額は増え続け、中国経済を蝕み続ける。

 いつか中国で1党独裁体制が崩壊したなら、国有企業は相次いで行き詰まるだろうが、膨大な借金は騒ぎにまぎれて踏み倒されるだろう。国有企業だけではなく地方政府も民間企業も個人も、「借りた金で」生き延びていた連中の大半も負債を返すことはできないだろう。現在の中国の繁栄は、踏み倒すことを暗黙の前提とした資金の垂れ流しで支えられている。

2016年7月20日水曜日

軽自動車を世界規格に


 2014年の新車販売台数は556万台だが、登録車329万台、軽自動車227万台で軽自動車が4割を占める。乗用車に限ると、車種別販売台数ベスト10のうち7台が軽自動車であるなど、軽自動車の比率は高くなる。軽四輪車の保有台数(2014年12月末現在)は2988万台で、世帯当たり軽四輪車の普及台数は100世帯に54.0台と普及度は高く、人々の“足”となっている。

 世帯当たり普及率が高いベスト5は佐賀県、鳥取県、長野県、島根県、山形県の順。低い方から普及率をみると、東京都、神奈川県、大阪府、埼玉県、千葉県の順になる。「100世帯に100台(1世帯に1台)以上の普及」は6県、「同90台台の普及」4県、「同80台台の普及」16県、「同70台台の普及」8県。「同50台以下の普及」は8都道府県(全国軽自動車協会連合会の集計)。ちなみに東京都の普及率は11.8%。

 そんな軽自動車の規格にTPP(環太平洋経済連携協定)の日米協議の時に米国側から、非関税障壁であるとして撤廃要求が出されたとの報道があった。公式に話は出ていないと経産省は否定し、やがて、アメリカ側の関税撤廃を遅らせることで自動車を巡る交渉は一段落したので、軽自動車の規格を巡る話は立ち消えになった。

 TPPに関する各国の交渉は秘密にされた部分が多いので軽自動車規格について、どのようなやり取りが実際にあったのかは詳らかではないが、日欧EPA(経済連携協定)交渉でもEU側から軽自動車規格を問題視しているなどの報道が現れるなど、日本独自の軽自動車規格には欧米が関心を持っているらしい。まあ、普通車を主力とする国内メーカーが一連の報道の裏で糸を引いているとの見方もあるが。

 日本独自の製品や規格を「ガラパゴス」だと揶揄(卑下?)する見方は、評論などでは珍しくない。世界市場で少数派であることが批判の根拠となる。日本国内で商売になっているのだったら、そんなに揶揄(卑下)しなくてもいいいのにとも思うが、西洋崇拝の残滓は日本人の思考にこびりついているから、そこにグローバルスタンダードという呪文をまぶすと、ガラパゴス=悪いこと、というイメージが完成する。

 しかし、発想を変えてみると、軽自動車の規格は世界に広めるべきものだろう。大人4人が乗れるミニマムサイズで、排気量が小さいのでガソリン消費量も抑制される(はず)。ドイツ車をはじめとして欧州では自動車の大型化が進むが、CO2排出規制に直面して方向転換を迫られている。EUが軽自動車規格の導入を行ったなら、世界規格にもなろう。

 大人1、2人が移動するたびに、2トン以上で全長5メートルにもなる車を使用しなければならないのかという疑問を持てば、軽自動車の存在意義が見えてくる。軽自動車規格は、都市化する世界に最適な、エコでコンパクトな移動手段の現実的な提案である。日本が提案して世界に広めることは、ガラパゴスなどと言って国内で揶揄(卑下)しているよりも建設的だ。

2016年7月16日土曜日

普通の人の何倍もの人生を生きた人


 北海道などには、カスベという魚の煮物や煮こごり料理がある。ゼラチン質が多く、身は淡白でほぐしやすいので食べやすく、軟骨なので骨もそのまま食べることができ、ぬた、唐揚げなどにしても美味しいという。カスベはガンギエイ科のメガネカスベのことで、ヒレの部分を調理して食べる。

 カスベを含むエイの仲間は扁平な形をし、両側のヒレを上下に動かして泳ぐ。カスベは尾を含めて全長1mほどで、砂にもぐったりもして海底で暮らしているが、海面近くで暮らすマンタなど大型エイは、両側のヒレを優雅に羽ばたかせるような泳ぐ姿が伸びやかで、ダイバーには人気があるそうだ。

 世界の水族館ではエイのグッズを販売しているところがあるそうだが、名字にちなんでエイのグッズをコレクションしていたというのが永六輔さん。ラジオ、テレビの放送分野で活躍し、「上を向いて歩こう」など多くの名曲(日本のスタンダード・ナンバーになった)の作詞をし、『大往生』などの著作も多数。日本各地に出掛け、多くの人と語るなど、普通の人の何倍もの人生を生きた人だ。

 永六輔さんが作詞した曲は多い。中村八大さんの作曲したものでは、「黒い花びら」「おさななじみ」「遠くへ行きたい」「黄昏のビギン」「上を向いて歩こう」「一人ぼっちの二人」「夢であいましょう」「娘よ」「芽生えて、そして」「いつもの小道で」「こんにちは赤ちゃん」「帰ろかな」「ウエディング・ドレス」などがあり、永六輔さんが自分で歌った「たこ酢で一杯」なんて面白い曲もある。

 いずみたくさんと組んだ曲も多く、「見上げてごらん夜の星を」や日本の歌シリーズがあり、日本の歌シリーズからは「いい湯だな」「女ひとり」「筑波山麓合唱団」などが歌い継がれている。ほかの作曲家のものでは「若い季節」「二人の銀座」などがあり、永六輔さんの作詞した曲を知らない日本人は少ないだろう。

 これらの曲の多くはAメロとBメロだけで構成されていたりして、覚えやすい短めのメロディーと、聴いてすぐに理解できる歌詞なので、人々は歌いやすかっただろう。最近の曲はCメロ、さらにはDメロと複雑に展開し、断片的に英文も紛れ込んだりするから、覚えるには決意して努力しなければなるまい。最近の曲は、歌い継がれることを放棄した「アーティストの作品」なのだろう。

 これから、永六輔さんが作詞した曲を聴く機会は増えそうだ。テレビなどで、永六輔さんの作詞した曲だけで構成した音楽番組や、追悼コーナーを設ける番組が続こうし、年末の回顧番組では必ず永六輔さんの作詞した曲が使われるだろう。大晦日の紅白歌合戦では特設コーナーを設けて皆で歌ったりするかもしれない。でも、永六輔さんが作詞した「遭いたい」が歌われることはなさそうだ。悲しさが増しすぎるだろうから。

2016年7月13日水曜日

分裂は常に存在する


 英国の国民投票で、EU離脱賛成が得票率51.9%で残留支持の48.1%を上回り、英国はEUから離脱することになった。EU残留支持に投票した人達はこの結果に納得せず、再度の国民投票を求める請願に410万人以上が署名をし、街頭に出てデモをしていたことが日本でも大きく報じられた。

 だが、再度の国民投票で仮に結果が残留支持となった場合、今度はEU離脱に賛成した側が黙っていないだろう。署名集めをし、街頭に出てデモをする。国民投票のやり直しが一度認められたのなら、二度目のやり直しを拒むことは困難だろうから三たびの国民投票が行われ……と何度も国民投票は続き、その間は英国はEUに離脱通告できないから、国民投票を繰り返すことで英国はEUに残留し続けることができる。

 米国で大統領選を闘っているトランプ氏は、その言動が国際的に物議をかもしているが、その言動故に支持者がついているので、トランプ氏は過激で偏狭な主張を簡単に穏便化することはできまい。本当に大統領になることができるかもしれないとトランプ氏が色気を出し、“まともなこと”を言い始めたなら、それまでの支持者は失望するだけだ。

 英国の国民投票でEU離脱を支持したのは主に労働者階級や高齢者で、EU残留を支持したのは経営者や若者、富裕層などと言われ、国民投票で英国社会の分裂が表れたとの解説、解釈がなされた。米では、トランプ氏の支持者は主に地方在住の白人の低所得者層とされ、ワシントンの既成政治家への反感、反発の広がりがトランプ氏を押し上げたともいわれる。

 英国の国民投票の結果や米国のトランプ人気は、それぞれ国内が2分され、分裂していることを示すと懸念する見方がある。だが、若者と高齢者、低所得層と富裕層、労働者と経営者など社会内に対立構造はいつでも存在するのだから、主権者の意向(民意)が正しく示されたなら、分裂傾向を示すことは珍しいことではなかろう。

 過激なポピュリスト政治家が選挙で勝つために対立を煽り、分裂を促進する恐れはある。だが、民意が分裂し、対立しているのが社会の実態であるなら、選挙の結果に現れた分裂を特に問題視し、様々に論じてみたところで分裂はなくならない。分裂は常に存在する。注意すべきは、宗教、民族、人種、地域差などの要素を社会に存在する分裂にまぶして煽り立てる言動に惑わされないようにすることだ。

 分裂のない社会が存在するとすれば、主張や自我を自己抑制する人々だけが集まった社会か、強権によって個人が抑え込まれている社会だろう。まとまりのある社会に見えるかもしれないが、どちらも息苦しそうだ。様々な考えの人がいて、自由にその考えを表明できるから分裂が現れると考えると、分裂そのものを過大に問題視する必要はない。

 ただし、英国が植民地支配で行った「分割して統治する」という支配方法が、先進国を含め多くの国でも有効だとするなら、国家権力や支配層が巧妙に国内の分裂を煽り、対立構造をつくり出すことで互いに憎みあうように仕向け、批判の目を権力から別の対象に逸らすことは支配に都合がいいだろう。

2016年7月9日土曜日

周回遅れの前衛


 前衛であり続けることは難しい。前衛音楽や前衛美術など、既成概念の枠から飛び出した新しい表現をつくりだしたとしても、それはたちまち新たな1ページを与えられて既成概念に加えられ、体系化される。新しさだけで前衛を気取っていた表現は、いっとき注目されて、やがて新鮮さが失われると色褪せていく。目新しさが失せた後にも、表現として自立できるものが、前衛の座を失っても、残っていく。

 政治にも前衛がある(あった?)が、こちらも前衛であり続けることは難しい。政治で前衛であるには、新たな視点による問題提起が不可欠だ。さらに、政治に新しい表現や新しい話法を持ち込んだり、新しい運動方針に基づいて新たなネットワークをつくって、新たな政治運動形態で活動することが、政治における前衛の証しになる。

 政治における前衛は、議会を目指さず、社会運動としての政治運動であったりもしようが、現実を変える力を得るという意味では、議会を目指すことが自然だろう。本当に前衛であるならば、新たな発想による新たな選挙戦術で新たな選挙戦を闘うだろう。既存政党の組織論や選挙戦術とは一線を画し、斬新で新しい運動形態となる。なぜなら、前衛とは既存の方法論にあきたらない精神の発動だからだ。

 しかし、前衛が前衛でいられる時間は短い。新たな組織論、新たな選挙戦術などは、それが効果を発揮して有効だと見なされたなら、すぐに模倣される。ただし、模倣されるのは前衛の精神ではなく、前衛が編み出した方法論の中から利用可能な部分だけだ。そして前衛は、ちょっと変ったやり方として、既成の枠組みに加えられて秩序の一部になる。

 軍事で前衛は最前線で戦う戦闘部隊のことだが、政治で前衛党といえば、人民を指導する政党のことだと共産主義ではいう。共産党なんかに勝手に指導されたくないと思う人もいようが、前衛党と規定することで共産党は独裁を正当化する。プロレタリア独裁は正当であり、それは、プロレタリアの政党である共産党の独裁によって実現されるという発想だ。

 前衛というものは、社会に受け入れられたときから既成秩序の一部となり、斬新さは色褪せるのだが、前衛という装いを手放そうとしない人たちがいる。真に前衛であり続けるには、不断に新しい価値観、新しい表現を打ち出すことが必要だが、そんな飛び抜けた能力を持つ人や政党は存在しない。短い期間だけ輝いて、やがて消えていくのが真の前衛の宿命なのかもしれない。

 前衛という装いを手放さない人や政党は、そういう社会的ポジションに執着があるのだろうが、たまにライトを浴びたりもする。トラック競技で周回遅れとなっている人が、先頭を走るランナーより前を走る状態になって、観客の注目を浴びていると誤解するような状態だ。周回遅れになっていることを軽く見て、誰よりも前を走っている気分を楽しむのかな。

2016年7月6日水曜日

誰に投票するか


 どこかの政党の党員やシンパであるなら、選挙で投票する時に迷うことはない。迷うとすれば、日頃から支持している政党が候補者を立てず、推薦する候補者もいない選挙のときぐらいで、投票する候補者を自分で決めなければならない。だが、どこの政党の党員でもなくシンパでもない多くの人は、選挙のたびに、投票する候補者を捜して迷う。

 なぜ迷うのか。それは、政策を検討して、支持する政党を決め、その政党の候補者に投票するのが、選挙だと思い込んでいるからだ。ところが、政策を検討するために、例えば選挙公報を読んでみたって、程度の差はあれ誰でも強いて反対しないような抽象的な文言を並べている政党が多いから、判断の決め手にはならない。さらに、選挙のたびに新しい政党がいくつか加わっているから、ますます判断に迷う。

 選挙で投票することは主権者の最も重要な権利行使だから、棄権はしたくないと考える無党派の人は、自民か反自民かと基本的態度を決め、ほかの政党は頼りないからと自民に投票したり、自民は嫌だからと野党の中から投票先を選挙のたびに決めたりするのだろう。

 反自民の人の中には、どうせ野党は国会では政府批判に終始するだけで、政策に影響を与えることができず、野党のどれに投票しても政治には変化はないだろうからと、その時々のフィーリングで投票先を選ぶ人もいるかもしれない。ただ、そうした投票行動では現実の政治の方向性は変わらないから、反自民の人はいつまでも反自民で居続けるしかない。

 選挙では、支持する政党を選ぶ必要はないという考え方がある。投票する基準は、それまでの政治に不満があれば野党第1党に投票し、不満がなければ与党に投票する。そのときの野党第1党や与党がどこかなんて気にせず、政権を交代させるか否かで判断するのだ。それまでの政治に不満があっても、野党の中で票が分散すれば政権交代にはつながらないから、そのときの野党第1党に投票を集中しなければならない。

 選挙では、どこかの政党への支持を表明するのではなく、それまでの政権に対する評価を示すとすれば、投票のたびに迷うことはなくなる。政党なんてどれも怪しい人間の集まりで信用できないと考えている人や、政党なんか支持したくないが棄権はしたくないという人なら、政権交代を判断の基準にするのが便利だろう。

 選挙前の世論調査では必ず、支持政党を訪ねる設問があり、支持する政党を決めることが選挙には必須であるかのような雰囲気づくりがなされる。だが、政党を支持しなければならない義理は多くの人にはないだろう。国政を担う政党を主権者が選択するのが選挙であり、政党は主権者に使われる存在である。だから“使えない”政党を淘汰するチャンスが選挙である。