2014年10月29日水曜日

言葉を換えると


 中国共産党の中央理論機関誌の最新版は、「西側は常に自らの民主主義が『普遍的価値』だと誇示し、民主主義に別の形があること否定している。西側の民主主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」とした。内部からの民主主義を求める声を封じ込めるため、西側という外部が強制するという解釈にして民主主義を否定してみせたのだろう。

 民主主義は中国共産党の1党独裁体制とは共存できないから、中国政府は民主主義を否定せざるを得ないだろうが、近代化するために中国は西側から様々な制度を拝借している。共産党にとっては都合が悪いものだけを声高に否定してみせて、都合のいいものは黙って受け入れる……のは悪いことではないが、そのことが国内でバレないためには、いっそうの情報統制が必要になるだろう。

 ところで、先の文中の民主主義を、例えばマルクス主義に置き換えると、こうなる。「西側は常に自らのマルクス主義が『普遍的価値』だと誇示し、マルクス主義に別の形があること否定している。西側のマルクス主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」。共産主義や共産党というものは西側の発想なのだから、西側の民主主義を否定するなら、そのうちにマルクス主義も否定してみせるかもしれない。

 さらには資本主義に置き換えると、こうなる。「西側は常に自らの資本主義が『普遍的価値』だと誇示し、資本主義に別の形があること否定している。西側の資本主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」。だから中国は「政治的には社会主義、経済的には市場経済」という社会主義市場経済を導入したんだと胸をはる……のか。

 官僚主義に置き換えると、「西側は常に自らの官僚主義が『普遍的価値』だと誇示し、官僚主義に別の形があること否定している。西側の官僚主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」。確かに西側の官僚とは比較にならないほど、中国の官僚の腐敗や横暴はひどいらしいから、中国独自の官僚主義があるようだ。

 帝国主義に置き換えると、「西側は常に自らの帝国主義が『普遍的価値』だと誇示し、帝国主義に別の形があること否定している。西側の帝国主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」。西側の帝国主義が時代遅れになった現代の世界で、世界的な影響力を発揮するには普遍的価値観で理論武装することが必要だが、その流れに乗れないのが中国流帝国主義の弱点か。

 立憲主義に置き換えると、「西側は常に自らの立憲主義が『普遍的価値』だと誇示し、立憲主義に別の形があること否定している。西側の立憲主義は本質的に欠陥があり、『普遍的価値』ではない。むやみにまねることは惨事につながる可能性がある」。中国の憲法に書いてあることは立派だが、運用は政府や官僚のサジ加減次第だとか。人治だからか。


 こうなると先の文では修正主義、全体主義、軍国主義、愛国主義、歴史修正主義、連邦主義、民族主義、秘密主義、精神主義、形式主義、合理主義、拝金主義、血縁主義、菜食主義、原理主義、御都合主義、日和見主義、禁欲主義など、どんな主義でも置き換えできそうだ。中国流の理屈は万能だな。西側とは異なる「中国の独自の」という言葉を付け加えて自己正当化すると、どんな主義でも、たちまちに中国の独自性の主張に転化できるのだから。

2014年10月25日土曜日

仮説と検証


 今年の連休中の5月5日の早朝、伊豆大島近海を震源とするM6.0の地震があり、東京都心で震度5弱を観測した。東日本大震災以来、東京でも震度4までの地震は珍しくなかったが、震度5クラスは久々。首都直下地震との関連が案じられたが、この地震は深さ162キロの太平洋プレート内部で起きたものなので、首都直下地震とは異なるタイプの地震だと気象庁。

 この地震のメカニズムをマスコミは、プレートの動きで説明した。曰く、関東の地下は、陸が乗る北米プレートの下に東から太平洋プレートが、南から相模トラフ沿いにフィリピン海プレートが沈み込む複雑な構造をしている。首都直下地震の想定震源は北米プレートと太平洋プレートの境界面などと考えられ、今回の地震は、沈み込んだ太平洋プレート内の162キロという深い場所で起きたので、首都直下地震とは別物だとした。

 地球の地殻は十数枚のプレートで構成され、それぞれが動いているというのがプレートテクトニクス理論。この理論が認められたのは20世紀半ばだ。大陸移動説はもっと前から唱えられていたが、立証が困難だった。世界各地での様々な観測結果が蓄積してから、やっと定説となった。

 プレートの動きは地面を見ても分かるものではなく、地震が起きた時のプレートの滑りを見た人もいない。だが、理論は構築された。ある程度の知見から仮説を立て、多くの研究者が様々な観測データを蓄積して、その仮説が、現実に起きていることを説明する有効性があると認められる。こうして科学は進歩してきた。

 仮説を立てて、検証することが大事なのは、科学に限らない。例えば通販では、カタログやサイトに載せる商品が過去の売れ筋だけだったら、販売は先細りする。少し先の売れ筋の仮説を立てて商品を提案し、その販売実績で検証し、好売れ行きの商品ならプッシュし、売れない商品は外して、別の商品を提案する。売れ筋は様々な要因で変化し続けるので、仮説と検証を繰り返していく。

 個人の意見というものも、直感に基づいた仮説が多いのかもしれない。他の人からの批判や共感が検証にあたり、批判により軌道修正したり、共感を得て確信を持ったりする。他人からの検証をいやがるのでは、いくら声高に激しい言葉で言い募ろうと、仮説は仮説のままでしかない。批判される勇気、反論される勇気を持つことが、仮説と検証には必要だ。

2014年10月22日水曜日

現実味を増すエボラ感染


 今年2月頃から西アフリカで始まったエボラ出血熱の大流行により、10月中旬現在で、疑い例を含む感染者数が9千人を超え、死者数は4500人を超えた。西アフリカ3カ国での感染者数の増加ペースは加速しており、WHOは過去3〜4週間は週ベースで約1000人、12月までに週5000〜1万人に達する可能性があるとの見方を示している。

 西アフリカに感染者が限られていた頃は「対岸の火事」視していた欧米も、自国に入国した感染者から、医療従事者への二次感染、さらには三次感染の懸念が現実となって慌て始めた。空港でのチェック体制を強化しているが、「アフリカの感染地域からの渡航者は全員、入国拒否すべきだ」との意見も出るなど、エボラ出血熱への警戒感が広まっているようだ。

 アメリカでは、二次感染が疑われる医療従事者が民間航空機などで“自由”に移動していたことで、「封じ込め」ができていないじゃないかと拡散に対する警戒心が強まった。帰国後に発症した感染者が最初に受診した病院で「ありふれたウイルス感染症」と診断されて自宅に帰されたことや、感染者の治療に関わった医療従事者の感染防止対策が甘かったことなどが、社会の警戒心を焚き付けた。

 欧米での警戒体制強化を受けて、日本でも警戒態勢への関心が強まっている。厚労省は、アフリカの発生国への渡航者や帰国者に注意喚起し、流行地域からの帰国・入国者には健康監視を行う。発生国からの帰国者でエボラウイルスへの感染が疑われる人が見つかれば、感染症指定医療機関に搬送するなどの体制が整えられているという。

 流行地域からの帰国者で、感染した疑いのある人を見つけた医療機関等から連絡があると国立感染症研究所が検査を行い、感染の有無を確認する。感染している場合、患者は感染症指定医療機関に移送され、感染防御対策の施された病室に隔離されるという。感染症指定医療機関は国立国際医療研究センター病院、成田赤十字病院など全国に47機関ある。

 アジアでの新型の鳥インフルエンザの流行などもあって、入国者の監視を強めるなど日本の感染対策は万全を期したものだろう。だが、欧米で感染者が増えれば、アフリカには行っていないが欧米で感染者と接触し、発症していない感染者が入国時の監視を通り抜ける可能性はある。発症していない人からは感染しないそうだが、自覚症状もないので入国時に自己申告もしないだろう。

 エボラ出血熱は潜伏期の後、発熱、頭痛、倦怠感、筋肉痛、咽頭痛などの症状がまず現れるそうだ。入国してから十数日後に発症した人が、風邪などと思い込んで近場の病院を受診する可能性はある。そこが感染症指定医療機関なら検査体制が整っているだろうが、一般の病院なら多くを求めるのは無理かもしれない。薬を処方されて自宅に帰されたとしても不思議はなさそうだ。

2014年10月18日土曜日

観ることができない李香蘭の映画


 「カサブランカ」とか「望郷」「自転車泥棒」「市民ケーン」「天井桟敷の人々」「風とともに去りぬ」「第三の男」などの名作洋画DVDが10作品入って二千円前後というボックスセットが書店で売られている。ほかにも西部劇、ミュージカル映画、ジョン・ウエインやフレッド・アステアら人気俳優の主演作を集めたボックスなど種類は多彩だ。

 安価だからと購入して観てみると、画質もまあまあで、十分に楽しむことができる。誰かの名言に「音楽好きは音質にこだわらず、映画好きは画質にこだわらない」とあったが、内容に引き込まれて、画質はさほど気にならないのが映画好き。そうして購入した名作洋画を、繰り返して観るかといえば、そうでもない。いい映画であっても、一度観ただけで終わり……ということも珍しくない。

 購入した映画DVDを繰り返して観ることが少ないのは、いつでも観ることができるから、そのうちに観ればいいと安心して、そのままになるから。よほどの思い入れがある作品なら、折に触れて繰り返し観ることもあるだろうから、購入して手元に置いておく意味もあろうが、名作ではあっても一度観ればいいという作品なら、わざわざ購入することはない?

 映画ファンなら、未見の作品は、とにかく一度観ておきたいと思うだろう。自宅の近くにレンタル店があって、古今東西の映画が、古典的名画から新作まで豊富に揃っていれば理想的だが、映画ファンが皆、そんな場所に住んでいるわけではない。でも、動画配信サービスが充実してきたので、一度だけ観たいという映画を観ることは、現在では簡単になった。

 ただし、過去の作品を含めて全ての映画が動画配信サービスで提供されているわけではない。例えば、李香蘭が、映画スターとして輝いていた満州時代の作品を見たいと思っても、DVD化されていない。「白蘭の歌」「支那の夜」「熱砂の誓ひ」「萬世流芳」などの李香蘭の出演作品は見ることは困難だ。軍国主義のプロパガンダ映画であることや著作権の問題など複雑そうだ。

 李香蘭の名は知られていても、その代表作を観ることができないのは映画ファンにとっては残念な状況だ。李香蘭の映画を観るには、京橋のフィルムセンターで上映される機会を待つしかない。まあ、李香蘭の映画を観たいと思う人は、よほどの映画ファンか、映画や歴史の研究者だけかもしれず、ごく少ないかもしれないが、確実に存在するだろう。

 ネット販売の利点の一つにロングテール効果がある。年に1個しか売れないものでもネット販売なら品揃えでき、顧客に提供することができる。DVD化するのは採算面で無理な映画でも、ネット配信ならラインアップに加えることができ、熱心なファンや研究者の要望に応えることができよう。

 古典的な名作映画や埋もれた映画を見る機会を与えてくれる場所としてネットでの配信サービスは、以前に多かった名画座の役割を果すことができる。とはいえ軍国主義のプロパガンダ映画の配信には政治的な支障もありそうで、簡単には李香蘭の映画は観ることはできないかも。フィルムセンターがアーカイブのネット配信を行ってくれれば理想的なのだが。

2014年10月15日水曜日

日の出・日の入り


 最近は夕方6時にはすっかり暗くなる。夏には夕方7時でも明るかったことを思うと、ずいぶん日の入りが早くなった。朝も、夏には4時頃には明るかったのだが、最近では5時過ぎになって、ようやく明るくなるなど、日の出も遅くなった。外が明るい時間が短くなると、何だか損をしているような気にもなり、冬へと急かされているようでもある。

 東京で見てみると、今年の日の出と日の入り(各月1日の時間。国立天文台)は、1月=6時51分と16時38分、2月=6時41分と17時08分、3月=6時12分と17時36分、4月=5時28分と18時02分、5月=4時50分と18時27分、6月=4時27分と18時51分。

 7月=4時29分と19時01分、8月=4時49分と18時46分、9月=5時13分と18時09分、10月=5時35分と17時26分、11月=6時02分と16時46分、12月=6時32分と16時28分。日の出から日の入りまでの時間は6、7月は14時間以上あるが、8月は13時間台、9月は12時間台、10月は11時間台。夏の感覚でいたなら10月は、ずいぶん日が短くなったと感じるはずだ。

 日の出は、5月から8月まで4時台だが、9、10月は5時台になり、11月から翌3月までは6時台になる。日の入りは、7月は19時台に延び、8、9月はまだ18時台だが、10月は17時台、11月から翌1月までは16時台となる。日の出から日の入りまでの時間は、1月から7月までは毎月増えるが、8月以降は翌1月まで毎月減る。

 植物は日照時間の蓄積で季節の推移を感知していると聞いたことがあるが、人間も日照時間に影響を受ける。北欧で育ったゴッホが南欧の明るい日差しに憧れたことは知られているが、日照時間が長いことは心理的にある種の解放感をもたらす。夏には夏を楽しみ、冬には冬を楽しむ……というような人生観に凡人はなかなか至らず、日照時間に左右されるのも自然なことか。

 現代人は、時間で行動せざるを得ないので、日照時間などに構ってはいられず、明るかろうが暗かろうが、決まった時間に出掛け、早く暗くなっても勝手に帰ることはできない。空調が整ったので気温変化による影響も限定されるものになった。そんな中で、日の出や日の入り、外が明るい時間の長短は、季節感を最も感じさせる自然現象かな。

 なお日照時間は気象条件に左右されるため、日の出から日の入りまでの時間よりも短くなる。30年平均の各月の日照時間(気象庁)は、7月は140時間台、8月は170時間台だが、9月は120時間を割り、10月は130時間台、11月は140時間台とけっこう変動がある。雨が多かったり、台風が相次いでやって来たりするなら、あまり解放感にはつながらなさそうだ。

2014年10月11日土曜日

責任を負う不条理


 朝日新聞の第三者委員会が初会合を開いた。今後、約2カ月をめどに提言をまとめるという。第三者委員会では、1)慰安婦に関する過去の記事の作成、今回の記事取り消しに至る経緯、2)今年8月5、6日付朝刊に掲載した特集紙面「慰安婦問題を考える」の評価など、3)国際社会に対する慰安婦報道の影響、を検証する予定。

 第三者委員会の審議は非公開だが、事実関係の検証を進めるため、委員会で関係者の聞き取りを実施するという。その対象は「記事を書いた記者」のほか、社内外、外国も視野に入れて検討するそうだ。これで朝日バッシングは暫く下火になり、提言が出される年末に再燃するのかな。

 それにしても、現在の朝日新聞社で働く記者たちは、先輩の不始末と、それを長年“放置”してきた先輩諸氏の怠慢に腹が立つだろうな。批判の矛先は現在の朝日に向かっているが、32年前に現役記者だったり、紙面編集に関わった先輩連中は大半がリタイアしているだろう。現役は「誤報は俺たちが紙面化したのじゃないのに」と思うだろうが、朝日という看板で商売しているのだから「連帯責任」だな。

 大所帯の朝日だから、慰安婦関連の報道に関係した記者よりも、関係がない記者のほうが過去も現在も遥かに多いだろう。そんな彼らに、どういう責任があるのだろうか。それは、1)事実に基づいている、2)公平な視点を保っている、3)特定の方向づけをした報道は行っていない等を、日々の紙面で示すこと。それ以外に、現在、朝日に向けられている疑念を現役の記者らがはらす方法はない。

 自分らが直接関わっていないことの責任を問われるというのは、珍しいことではない。例えば、戦前の日本人の行為について、戦後生まれの日本人が責任を問われるという構図がある。戦後の日本人は「悪うございました」と頭を下げてきたが、冷静に考えると、生まれてもいない過去のことについて、責任を負うということは不条理である。

 戦前の日本人の行為を、戦後生まれの日本人が正そうとしても、生まれてもいないし、タイムマシンも存在しないのだから、不可能だ。自分が影響を及ぼすことができない決定・行為について、その人には責任がない。米政府の決定について、日本人には責任がないことと同じだ。だから、戦後生まれの日本人は、戦前の日本人の行為について、直接の責任はない。

 直接の責任はないが、全くの無関係ではない。持続している国家や企業は、人は入れ替わりながら、同じ「看板」を掲げる。その看板で過去に行ったこと、その経緯、責任の所在などを認識し、同じ失敗を繰り返さないようにする責任はある。

2014年10月8日水曜日

お得意様の批判は控える


 香港で、次期の行政長官を決める選挙を北京政府がコントロールしようとしたことに抗議し、普通選挙を求める民主派が街頭行動を続けていることに関して、米オバマ大統領は、訪米した中国外相に「米国は香港情勢を注視している」と述べ、暴力的な対応をとらないように中国政府を牽制した。

 中国外相は米国務長官との会談で「香港でのデモは内政問題」と述べたそうだ。内政問題だから余計な口出しは無用と中国は言いたいらしいが、香港は特殊な土地だ。チベットやウイグルなら外国人を閉め出し、中国外での報道を制限することもできようが、長らく英国の植民地だった香港は外国人にもオープンな土地で、いまさら外国人を皆追い出すわけにも行かない。

 中国が経済大国になり、経済での相互結びつきが強まるにつれて欧米諸国からの、人権や民主主義を振りかざしての中国批判は徐々にトーンダウンしていたので、今回の“懸念表明”には懐かしささえ漂う。が、北京政府が暴力を行使しない限り、欧米諸国は口先だけの批判に終始するだろうな。金儲けさせてくれる中国市場を失っても、人権や民主主義などで中国批判する余裕は欧米諸国にはない。

 独裁を続ける中国共産党政府は政治を何よりも優先させるので、例えば、政治的緊張が高まると、反日デモを組織して日本との経済関係を冷え込ませることを辞さなかった。中国経済にとって、日本の代わりを担う先進国は他にもあるからだ。欧米にも代替可能ではない国はないのだから、経済関係での主導権は中国が握っている。

 これまで欧米諸国は多くの国に対して、人権侵害や民主主義などに関わる問題が起きると批判してきた。その国の内政問題ではあっても、人権や民主主義を尊重するのは普遍的価値観(欧米中心で形成された価値観でもあるが)であり、1国の主権を超えたものとして位置づけ、批判を正当化した。ただ、今回のように、相手によっては言い方を変える。

 国家主権により、人権が踏みにじられ、民主主義が破壊されるのは悲劇だ。人権や民主主義が国家主権を超える普遍的価値観であることは、世界人類のためには結構なことだろうが、利害関係に左右されて欧米などの国家は、他国を批判したり批判しなかったりするのが現実。経済関係とは無関係に、普遍的価値観に基づく外交を貫き通す国はない。自国の利益を最大限にするのが外交だから。

 ところで北京政府は、長らく植民地だった香港に関して欧米がちょっかいを出してきていると、欧米からの批判を「歴史問題」にすり替えることもできた。過去の欧米の植民地主義を持ち出して批判すれば、欧米諸国に後ろめたさを感じさせつつ、国内の愛国心を煽ることもできたかもしれない。

 「歴史問題」化させなかったのは、1)欧米を反発させて“団結”させれば、経済関係での主導権を失う、2)欧米主導の世界で政治的にいっそう孤立する、3)租借期間が終わるまで、植民地・香港を中国共産党が自力で回復できなかったことが国内でもバレる恐れ、4)欧米に対する反発で中国国内での愛国心が高まると、暴走してコントロールできなくなる可能性がある等、北京政府にも弱みがあるからだ。

2014年10月4日土曜日

上から目線


 いつ頃から使われるようになったのか知らないが、すっかり定着した言葉に「上から目線」がある。誉め言葉ではなく、相手のエラソーな言い方や、他人を見下したような態度を批判したりする時に使う。相手の言ったことに対する反論というより、自分と対等なはずの相手の態度を批判し、時には相手の人格批判の言葉にもなる。

 マスコミでも使われている。例えば、地方創生について「首相は各閣僚に『従来とは異次元の施策を』とハッパをかけたが、新しい政策を進めるにあたっては政府が上から目線でレールを敷くのではなく、自治体側とともに知恵を出し合う共同作業が欠かせない」(朝日)とか、スコットランド人が「僕はナショナリストじゃない。でも、ロンドンの『上から目線』には我慢ならない」(産経)。

 さらに、原発事故を受けた中間貯蔵施設の建設をめぐり「最後は金目でしょ」と発言した石原伸晃環境相に対して「事故から3年以上たった今も故郷を追われたまま避難生活を続ける福島県大熊、双葉2町の町民からは『上から目線』『避難者の気持ちが分かるか』と強い批判の声」(共同)なんて記事もある。

 また、福島第一原発事故による健康不安を解消するために、福島県の全県民約200万人を対象に実施している県民健康管理調査の名称について「県は新年度から『管理』という言葉を外し、『県民健康調査』に改める。現名称に『上からの目線だ』との批判が県議会で出たため」(読売)と、行政に携わる側の姿勢・意識を批判する時にも使われる。

 上司が部下に上から目線で言うことは容認されているが、権力に関係する側が人々に上から目線で発言すると反発される。政治家や官僚が人々の上位に位置する人間だとは、政治家や官僚以外は誰も思っていないからだろう。してみると「上から目線」という相手への批判は、人々の間に平等意識がすっかり定着した証しかな。

 相手の言うことが納得できなければ反論すればいいのだが、相手の言った内容とともに、見下すような言い方にカチンと来た時に「上から目線」だと相手を批判する。自分より上位であるかのような相手の言動に我慢できないのだ。人間社会には上下関係がつきもので、対等か下位のはずが、勝手に上位になったような相手の言動が許せない。そういえば、「あいつは何様のつもりなんだ」なんて言い方は以前からあったな。

 でも、上から目線だと批判された相手が「悪うございました」と思うかどうかは分からない。逆に、悔しがっている様子を見て、優越感を感じるかもしれない。そんな態度をされると、いっそう腹が立ちそうだな。上から目線の言い方をする相手には、上から目線で言い返すしかない。感情的にならず、クールに相手に反論することで相互に対等な関係だと相手に認識させる。ただ、意識的に上から目線を使うことで、相手を感情的にさせるという討論術もあるが。

2014年10月1日水曜日

事実と客観


 ある問題について考える場合、直感的に善悪の色づけをし、その直感に添うような論を組み立てることは珍しくない。まず冷静に、その問題に関する客観的事実を知ることから始め、どのような事実で構成されているのかを理解することを基本として、それから、自分の考えを組み立てていく……のが望ましいのだろうが、それは誰にでもできることではなさそうだ。

 直感的に善悪の色づけをするということは、先入観を持つということである。先入観を持たずに臨むことは理想的だろうが、先入観を持たない人間は幼い子供くらいだろう。それまでの人生で蓄積した経験、知識などによって人間は先入観(予断)を持つ。一方で、その先入観に対して意識的な検証を行うことはほとんどない。自分の中で確立されたものが先入観であるからだ。

 先入観は強いものである。ある問題について、客観的事実に基づいた新たな論が示されたとしても、それが自分の先入観と異なる場合に、すんなり許容する人は少ないだろう。熱心な人ならば、示された客観的事実を自ら検証し、事実を確かめてから、自分の考えを修正することもあり得るかもしれないが、そんな人は多くはない。自分の先入観とは異なる論に背を向ける人のほうが多いだろう。

 客観的な事実の尊重が論の基本であることは多くの人が知っている。だから、マスコミやネットに溢れる多くの主張は、その主張の“正しさ”を支える事実を散りばめて論を展開し、主観に偏らないものであることを装う。が、そこで示されている事実が、その主張に都合のいいものばかりを集めていることは珍しくない。その主張に不都合な客観的事実がどれほどあるのかを知るのは、専門家ででもなければ容易ではないだろう。

 こうした、自説に都合のいい“事実”ばかりを集めた主張は、事実に主観(感情)が交じっている。事実は客観的なデータや根拠を示して述べ、主張する時にも主観に偏りすぎず、客観性を忘れないことが、理性的・知性的な論の装いとなろう。事実を例示するときにも主観を交え、さらには感情も交じるようだと、相手を説得することは困難だろうし、自分とは異なる相手の先入観を固めさせることにもなろう。

 いろいろな問題について常に客観的事実を検証することは、誰もが行うことではないだろうし、客観的な事実を知ることに意識的である人も少ないだろう。つまり、多くの人は自分の先入観に添う情報や主張を受け入れやすく、自分の先入観に反する情報や主張は排除する。これは自分の先入観を強化する作業でもある。

 客観的な事実を尊重し、知ろうとすることは、先入観などにとらわれない認識を持つためには基本となる姿勢だ。客観的な事実を知ることは、主観を抑えて事実に謙虚になることでもある。それが、知の誠実さを支える。ただ、人間社会は主観のぶつかり合いで、感情で動くものであることも確かで、先入観に突き動かされる人も多く、そうした人々には客観的事実などはたいして“意味がない”のかもしれないが。