2022年5月28日土曜日

告発する人と支援

 米ハリウッドの大物プロデューサーだったハーベイ・ワインスタイン氏は女性2人への性的暴行などで2018年に起訴され、2020年に裁判所は禁錮23年の実刑を言い渡し、収監された。大きな影響力を持つ大物プロデューサーという立場を利用して同氏は、多数の女優らにセクハラや性的暴行を行っていたとされる。

 同氏の長年に渡る悪行を暴いたのは2017年のニューヨークタイムズ紙。それをきっかけに、被害を受けたとする女優らが名乗り出て同氏を糾弾した。告発の動きは拡大し、他の有名俳優らの過去のセクハラなども明るみに出て、「#Me too」運動に発展した。セクハラ被害にあったのは女優だけではなく、少年の頃にセクハラ被害にあったと告発する男優も続出し、米映画界ではセクハラや性的暴行が横行していた気配だ。

 米国では富豪の投資家だったジェフリー・エプスティーン氏も多数の少女に対する性的人身取引罪で起訴されたが、2019年に拘置所で自殺した。同氏は過去に児童買春の罪で有罪判決を受けた人物だったが、ビル・クリントンやドナルド・トランプら政治家や投資家、俳優ら著名人と親しく、その一人が、エプスティーン氏の邸宅や私有の島にある別荘で未成年の女性に性的暴行を働いたとして告発、提訴された英アンドルー王子。

 米国と同様に日本の映画界でも、影響力を持つ強い立場の人物によるセクハラなどが横行していた気配だ。監督やプロデューサー、俳優らのセクハラや性的暴行に対する告発が週刊誌で最近相次いで報じられた。監督やプロデューサーらのセクハラや性的暴行は以前から一部で問題視されていたというが、表面化は封印され、是正しようとする動きは業界に乏しかった(過去の巨匠監督や大物プロデューサーも同類だったというから、業界の浄化が行われるはずもなかったか)。

 映画界や芸能界などでは枕営業が珍しくないと言われてきた。枕営業とは「仕事の利害関係者同士が性的な関係を築くことで、業務が有利に進むようにする営業手法」とか「地位・権力のある人と性関係を持つことで、業務上の便宜を図らせる営業手法」とか「販売員などが、契約成立の交換条件として顧客と性的関係を結ぶこと」とか「肉体関係によって顧客や仕事、利益を得ること」とされる。

 枕営業では一方は肉体を提供し、他方は何らかの利益を提供する。両者の合意の上での取引としての性行為であり、セクハラや性的暴行には該当しないだろうが、枕営業が例えば、映画界や芸能界にはびこっているとすれば、俳優やタレントらを強い立場の人が性的対象として見ることを助長するだろう。それがセクハラや性的暴行を見ぬふりをする業界にしてきた可能性がある。

 セクハラや性的暴行は密室などで行われることが多く、明るみに出すためにはセクハラなどを強要された人々が告発することが必要だ。同時に、そうした告発者を孤立させずに支援する社会でなければならない。誰と性関係を持つかは当人が決めることであり、奔放な性関係を繰り広げたとしても当人の自由だが、強い立場を利用するなどして性関係を強制する人間はゲス野郎でしかない。さて、この話題は映画化すると面白そうだが、業界内の抵抗を押し切って映画化するパワーが日本の映画界にあるのか不明だ。

2022年5月25日水曜日

竹中労と沖縄音楽

 沖縄出身の歌手やミュージシャンは現在多いが、沖縄には独自の音楽文化があり、それは素晴らしいものであると復帰前に日本人に知らせることに大きな貢献をしたのが竹中労氏だ。竹中労氏が紹介したのは島唄(沖縄民謡)だが、「安里屋ユンタ」が知られていた程度の周知度だった頃、沖縄に素晴らしい歌い手が多くいることを様々な媒体に書き、多くのレコードをプロデュースし、日本本土でも多くのコンサートが開催されるようになった。

 竹中労氏が紹介したのは、嘉手苅林昌、登川誠仁、照屋林助、知名定男、大工哲弘、国吉源次、山里勇吉、大城美佐子、知名定繁、金城睦松、糸数カメ、饒辺愛子ら個性豊かな優れた歌い手たちだ。竹中労氏によって初めて日本本土に紹介された歌い手も多く、その魅力を琉球フェスティバルなどで日本本土の多くの人々が知った。

 竹中労氏がプロデュースしたレコードでCDとして復刻されたものは「綾なす島の伝説 嘉手苅林昌①」「綾なす島の伝説 嘉手苅林昌②」「沖縄恨み節 大城美佐子」「辻のブルースと情歌の世界 糸数カメ・知名定男」「神々と潮騒の歌声 国吉源次・大工哲弘」「美ら弾き 登川誠仁」のほか、「日本禁歌集③ 海のチンボーラー 嘉手苅林昌・山里勇吉・宇根綾子・横目しずえ・大工哲弘」「琉球フェスティバル’74 日比谷野音ライブ」「琉球フェスティバル’91 語やびら島うた」などがあり、照屋林助とともに構成した「沖縄/祭り・うた・放浪芸」もある。

 これらのCDのほとんどはもう入手が難しいだろうが、その代わりに何らかの沖縄民謡を置いているCDショップは珍しくなく、三絃(さんしん)を弾きながら歌う歌手をテレビなどで見ることも珍しくなくなった。こうして歌などの芸能の力で沖縄は日本本土における存在感を高めたのだから、竹中労氏の存在を抜きにして日本本土における沖縄音楽を語ることはできない。

 竹中労氏は『琉歌幻視行 島うたの世界』(1975年刊)の「まえがき」で「1969年から、琉球弧を旅すること三十数度、ようやく島うたに関する一冊の書物を上梓することができた」とし、小沢昭一と照屋林助との鼎談で竹中労氏は「私が沖縄に行って最初に聞いたのは『辻町小唄』『海のチンボーラー』といった廓の唄なんです」、嘉手苅林昌と出会った最初は「そのころは大酒飲みです。ネジリ鉢巻で三絃わしづかみにして、べろんべろんに酔っぱらってね、魔のごとく歌いまくる」「次に会ったときに違うんですよ。うたい方も歌詞も。またその次はまるでちがっちゃう」。

 「変幻自在なんですね。私は唄というものは本来、そうあるべきだと思っていたのです」「整除された、洗練された形で民謡はうたわれるべきものなんだろうかという疑問を、私はずっと抱きつづけてきました」「それが沖縄にやって来た日から、ふっ切れちゃった。嘉手苅林昌だけじゃなくて、登川誠仁のうたを聴いても、実に気ままに唄っている。伴奏もおはやしもその場の即興です。つまり生きている」。

 商品化された音楽では歌い方も歌詞も演奏も固定化され、そこでは自由な表現は限定されようが、沖縄で竹中労氏は、「島うた四千といいますね。そう、湧いてくるとしか表現のしようがないんじゃないですか」と人々が自由にうたっていた状況を記録し、伝えた。うたが人々による自由な表現であり続けた沖縄に比べ、日本本土では民謡は商業音楽の1ジャンルとなり、歌い方も歌詞も固定化してしまった。

2022年5月21日土曜日

自分探し

 自分探しとは「それまでの自分の生き方、居場所を脱出して、新しい自分の生き方、居場所を求めること」とされる。自分とは何か。それが分からなかったり混乱しているから探すのだろうが、自分を見つけたと判断するのは自分であり、探している自分を見つけることができるのは自分だけ。それまでの自分と新しい自分がどう違うのか、見分けることができるのも自分だ。

 自分を見つけたと見分けて判断するのは、その人の主観である。客観的に自分を定義している人は少ないだろうし、客観的に自分を定義できるなら自分探しをする必要はない。定義できず、ぼやけている自分に満足できないから自分探しを始めるのだろう。自分探しは、それまでの自分に不満を持ったり、それまでの自分を否定したりすることで成り立つ行為だ。

 自分探しをするのは、それまでの自分と違った新しい自分があると信じるからだろう。だが、それまでの自分と違った新しい自分などというものが存在せず、存在するのは、それまでの自分でしかないのなら、いくら自分探しを続けても、新しい自分を見つけることはできない。「ない」ものは探しても見つからないから、自分探しという行為が続く。新しい自分とは、気持ちがリフレッシュされた自分かもしれない。

 新しい自分とは、自分が高く評価するに値する自分でもある。判断や評価は当人の主観で行われるので、その基準は簡単に変動する。だから、気分次第で新しい自分が見つかる(=見つかったという気分になる)。例えば、日常から離れて初めての土地に行ったりして環境が変わると、気分がリフレッシュされ、前向きの評価をしやすくなり、新しい自分がいるようにも感じることは珍しくない。

 自分探しは、「現在」の「ここ」に存在する自分ではなくて、どこかに存在するに違いない新しい自分を探すのだが、探すという行為は、①確かに存在するものを探す、②存在が不確かなものを探すーに分かれる。自分探しは、新しい自分が存在するはずだとの思いが強ければ①になるが、生き方に迷っているだけなら②になる。ただし、UFOや幽霊などを熱心に探す人もいるので、②であっても主観的には見つかることはあろう。

 自分探しは若者に似合う。中年になって様々のストレスに耐えられず、「自分探しの旅に出ます」などと言っても周囲は困惑するか諌めるだろう。まだ不安定で自己の確立が不十分な若者には自分探しが許容されるだろうが、中年には、自分が満足していなくても、与えられた位置で励むことが求められる。中年だって自分に満足せず、新しい自分を求める気持ちはあるだろうが、どこかに新しい自分があるとの確信は希薄だろうし、むしろ、与えられた場所で励むべきとされる。

 自分には広い多くの可能性があると感じるのは若さの賜物だ。新しい自分を探しあて、新しい充実した毎日が始まるなら喜ぶべきことだ。新しい自分とは気分や意欲が前向きに変化した自分だったとしても、それで生きることに積極性が出てくるのなら自分探しには効果があったということになる。ただし、気分次第で判断や評価が変わるなら、自分探しの旅は断続的に続くかもしれない。

2022年5月18日水曜日

補給を断つ

 沖縄県沖の太平洋で中国海軍が大規模な演習を行った。報道をまとめると、中国側の発表は、▽共同戦闘作戦の強化に向け台湾周辺で演習を行った▽東部戦区は海軍と空軍が5月6〜8日に台湾東部沖や南西部沖の海空域で演習を行った▽演習は「複数の軍隊の共同戦闘能力を試し向上させる」狙い。中国軍の東部戦区は台湾や東シナ海を担当する部隊で、軍機関紙は演習の目的を、海空軍などの「統合作戦能力をさらに向上させること」とした。

 台湾国防部は、▽中国軍の演習には爆撃機や戦闘機、対潜哨戒機などが使用された▽中国軍の対潜哨戒機や爆撃機など計18機が5〜8日に台湾の防空識別圏に侵入して台湾の南東空域まで飛行し、台湾空軍機が緊急発進したーと発表した。この演習は「西太平洋の海上大型目標を攻撃する訓練だった」との専門家の解説を台湾紙は伝えた。

 日本の防衛省は、▽中国軍の空母が艦載機の発着艦訓練を沖縄県南方の太平洋で3日から連続10日間実施した▽発着艦回数は200回を超えた▽これまでで最も日本に接近した海域での演習だったーとし、さらに▽空母を含む艦艇8隻は5月2日に沖縄本島と宮古島の間を太平洋に南下し、3日から沖縄県の沖大東島の南西約160キロから石垣島の南約150キロの海域で艦載機の発着艦訓練を行った▽海自の護衛艦が情報収集や警戒監視を行い、航自の戦闘機が緊急発進で対応ーと発表した。

 ▽中国軍の艦隊は、空母と空母を防御する中国版イージス艦のミサイル駆逐艦、中国海軍最大規模の最新ミサイル駆逐艦、燃料補給の高速戦闘支援艦などで構成され、「実戦的な艦艇の構成」(防衛省幹部)。演習の狙いは▽台湾有事を想定した大規模な合同演習だった可能性▽中国側から空軍の戦闘機が台湾に近づいたとされ、「海軍と空軍で台湾を挟み撃ちする作戦を想定した訓練の可能性」「台湾を包み込むように幅広い方向から攻撃できると中国軍が圧力をかけた」(同)。

 中国海軍の艦隊が宮古海峡を抜けて太平洋で演習を行うことはもう珍しいことではなくなったし、昨年10月には合同海軍演習を行った中国とロシアの艦隊が日本海から津軽海峡を抜けて本州の太平洋側を南下し、九州沖の大隅海峡を通って東シナ海に抜けた。中ロの艦隊が津軽海峡と大隈海峡をそろって通過したのは初めての行動。中国国防省は「他国の領海に進入しなかった」とし、ロシア国防省は「パトロールの一環として初めて津軽海峡を通過した」。中国は日本に対する軍事的な牽制を隠さない。

 今回の中国海軍の太平洋における演習は、台湾有事を想定したものという見方が妥当だろうが、ウクライナ情勢が微妙に影響した可能性もある。それは、中国軍が台湾に侵攻した場合、台湾に対する米国からの武器などの補給を断つ必要性が明らかになったからだ。ロシア軍に対して劣勢と見られていたウクライナ軍が有効な抵抗を続け、ロシア軍の「勝利」を阻止しているのは米国や欧州諸国からの武器の大量補給が貢献しているとされる。

 海に囲まれた台湾に中国が侵攻した状況で、台湾に武器を補給できる能力を持つのは米国だけだ。米国から台湾への武器などの補給を阻止するためには中国海軍や空軍が、台湾に近づく米国の艦艇や航空機を排除しなければならない。おそらく従来の中国海軍の太平洋における演習は、台湾への侵攻と米国艦艇の牽制を想定したものだっただろうが、ウクライナ情勢から、台湾への武器などの補給を断つ必要性が大きくなった。沖縄ー台湾間の連絡を断つことも含め今後、太平洋で中国海軍の演習は様々な想定で頻繁に行われるだろう。

2022年5月14日土曜日

敵の能力を見誤る

 世界の新型コロナウイルス感染者数は5億2011万人、死者数は626万人だ(5月13日)。発生源とも見られていた中国は感染拡大を制御していると自賛していたが、今年に入って変異株の感染が各地で広がり、感染者数113万人、死者数5205人との発表だ(5月12日)。上海で都市封鎖(ロックダウン)が長引いているように、ゼロコロナを掲げる中国において感染拡大の沈静化のメドは立っていない。

 首都の北京市でも感染が広がりかけているようだ。北京市は4月24日、防疫措置を強化し、新規感染者が多い朝陽区では全域でPCR検査を頻繁に実施するとし、都市封鎖が実施されることを警戒して人々が食料品などを買うためスーパーなどに押しかけたと報じられた。強権国家の中国における都市封鎖は厳しい取り締まりを伴うので、人々の外出はほぼ不可能になる。

 さらに北京市は4月25日、感染対策を大幅に強化すると発表、住民らを対象にした週内3回のPCR検査を市のほぼ全域に拡大した。感染拡大の封じ込めに北京市が必死になるのは、封じ込めに失敗すれば習指導部の求心力に響きかねず、習近平総書記の3選に影響しかねないとの危機感があるとマスコミは報じた。

 さらに4月29日から小中高校や幼稚園などが一斉休校となり、同30日にレストランでの店内飲食が禁止され、映画館も営業停止となった。公共の場所やホテルに入るには48時間以内のPCR検査の陰性証明の提出が求められる。5月4日に北京市は中心部の朝陽区の企業に原則在宅勤務とするよう求め、同8日には朝陽区で対策を強化するとし、「市民生活の維持に関係がない企業」には営業停止を求め、百貨店などは休業しているという。

 翌9日には同市南西部で市民の外出が禁止され、感染対策以外の全ての活動の停止が命じられた。ほかの地区でも在宅勤務が指示され、飲食店や公共交通機関は閉鎖され、道路や集合住宅、公園も封鎖されたという。こうした北京市の一連の対策は、感染者が増え続けている状況を示すが、同時に「ゼロコロナ」を維持・達成しなければならない地方行政の必死さを浮かび上がらせる。

 「ゼロコロナ」を維持・達成するために中国は、人々に対する厳しい行動制限で内需が落ち込み、経済活動が混乱・停滞するという代償を払っている。人々は不満や怒り・批判を様々な形で表しているが、そうした声はSNSなどに現れても、すぐに消されるという。行動制限や言論統制など強権による封じ込めに頼るしかなくなった状況が示すのは、強権統治の強さか脆さか、判断は分かれよう。

 世界では新型コロナウイルスとの共存に向かい、規制を緩めたり解除する国が相次いでいるが、中国は「ゼロコロナ」政策を堅持する。それは①武漢での感染封じ込めという成功体験の呪縛、②独裁する共産党の無謬性の維持ーなどに支えられるが、変異株の出現が中国共産党の思惑を打ち砕いた格好だ。

 中国が「ゼロコロナ」政策にこだわるのは、新型コロナウイルスという「敵」の能力を見誤ったことを認めることができないからだ。武漢での封じ込めという「初戦」の戦果にとらわれすぎて、変異株が次々に誕生して世界で感染を広げるという新型コロナウイルスの「実力」を中国は認めることができず、厳しい行動制限を各地で展開する。敵の能力を見誤って過小評価し、状況の変化に対応した対策を講じることができない中国。「ゼロコロナ」政策の成功をうたうには、もう感染の実態を糊塗するしかない?

2022年5月11日水曜日

抵抗する精神

 ロシア軍が国境を超えて侵入してきたことを受けてウクライナは2月24日、国民総動員令を発出し、18歳から60歳の男性に対してウクライナからの出国を全面的に禁止した。ウクライナ国内にとどまった男性が徴用されているのか、自発的な協力を求められるだけなのか詳らかではないが、広範囲の惨禍と大量の避難民という状況に応じて男性たちは行動しなければならないだろう。

 戦争は絶対悪である。だが戦争は世界各地で起き、根絶されることがないのが人間界の現実だ。戦争は絶対悪だから、戦争には関わることを一切せず、戦争が起きて徴用されたなら逃げるというのは有効な個人的な対処法だろう。だが、戦争から逃避する人々が多いほど侵略を行う敵対国に有利に働く。侵略に抵抗することも、戦争から逃げることも個人が判断することだが、総力戦に巻き込まれたなら国家の強制力が強く働く。

 出国が禁止されたウクライナで何らかの手段で出国した男性がいる一方、ウクライナに帰国する男性もいて、「家族や国を守る」ために武器をとってロシア軍と戦うという帰国男性の声が報じられる。帰国して戦うという行動をうっかり愛国心と結びつけて早合点する人もいようが、自発的に帰国して侵略軍と戦う人々の多くはおそらく、ウクライナの独立(主権)を守ることを考えている。

 うっかり愛国心と結びつけて早合点する人は、国家があって人々が存在すると解釈しているのだろうが、それは人々によるレジスタンスが希薄だった歴史の反映だ。さまざまな侵略に人々がレジスタンスを行ったという歴史があるなら、レジスタンスの精神は受け継がれているだろう。レジスタンスは、侵略や暴政に人々が立ち上がって抵抗する精神に支えられている。

 ウクライナは1991年のソ連からの独立後、たびたび政権の腐敗が指摘されたり、親ロシア派と親欧州派の政権争いが続いたりした。そうした中で独立国としての国家意識を人々は形成してきた。腐敗した政権や、対立する勢力の政府が主導する国家に対して人々は厳しい目を向けただろうから、国家の要請や命令にいつでも素直に応じるとは限らない。愛国心ではなく愛郷心が侵略や暴政に対する抵抗を起こさせる。

 国家の主権者は「我々だ」との人々の意識がレジスタンスを支える。また、戦争が総力戦に変化したので人々が戦争に巻き込まれる状況となり、人々の日常生活を破壊する敵に対して抵抗する精神が刺激される。ウクライナがロシアの傀儡国家になることは、ウクライナの人々から主権が奪われるということだ。主権者であることを維持するためにウクライナの人々は戦っている。

 日本では憲法の戦争放棄の影響もあるのか、絶対平和主義の声が珍しくなく、リベラル層からは戦争を忌避する声ばかりが伝えられ、戦争を現実的に考えず、侵略されたときの対応については論じることが封印されている印象だ。いつか日本が戦争に巻き込まれた時に、日本人が主権者として抵抗する精神を持っているのかが明らかになる。