2021年12月29日水曜日

その場しのぎ

 パンデミックが始まり、西欧などマスク着用の習慣がなかった諸国では、新型コロナウイルスの拡散防止対策としてのマスク着用の強制に人々から反発の声が上がった。日本ではマスク着用に厳しい拒否反応は起きなかったが、市中からマスクが消え、人々はマスクを探し回り、争奪戦が始まった。

 当時の政府はマスクの品不足解消が最優先課題と判断したのだろう、政府が布マスクを調達して人々に配布した。これがいわゆるアベノマスク(2020年4月。政府による不織布マスクの推奨がなされたのは2021年4月)。「適切な対応」に政府は人々からの賞賛や喝采を得ることができると期待したのだろうが、2枚の布マスク配布に人々の反応は冷淡だった。

 人々が欲しているものを政府が調達して配布した日本。布マスクは洗って再利用できるからマスク不足対策の妙案と政府は自画自賛した。「非常時」の対応なのかもしれないが、市場経済の原則に則るならば、政府が市場のプレイヤーになるのではなく、企業にマスクを市場に供給することを政府は促し、環境整備すべきだった。

 市場経済の国においても政府が行う経済活動は様々な公共事業などとして存在する。それらは次第に民営化され、企業に委ねられる傾向が20世紀後半以降に顕著となり、「民でできることは民で」との主張が叫ばれる。今回のパンデミックでは、民間主導の経済活動の収縮が続き、各種給付金の支給など国家による経済活動が「非常時」を支えた。

 マスクを政府が調達しなければならない状況とは、①マスクが必需品である、②マスクの生産や流通に関わる民間企業が不在または希少、③マスクの供給が不足ーの場合だ。市中からマスクが消えたのは、一気に需要が増えたためだが、生産や流通に関わる民間企業は存在していた(政府は民間企業から布マスクを調達した)。

 当時の政府がアベノマスクの配布を始めるまでには時間がかかり、配布を始めた頃には市中に各種のマスクが出回り始めていた。政府がマスクの在庫を大量に持っていたならば、市中からマスクが消えた時にすぐアベノマスクを配布できたであろうが、当時の政府にはマスクの大量在庫はなかった。

 そのアベノマスクが現在、8000万枚以上が在庫として保管され、保管費用に6億円以上かかっていることが明らかになり、批判を浴びた政府は希望する自治体や個人に無償で配布することを決め、残りは廃棄処分にするという。もったいないな。当分使用されない五輪施設にでも保管すれば費用は少なくて済むだろうから、「次に」マスク不足になったときのために政府は備蓄しておけばいい。

 それに、政府がマスクを調達して全国の家庭に配布するという愚策の記念物としてもアベノマスクを保存する意味がある。政治家が目先の出来事に振り回され、政府も官僚も基本的な対策を後回しにし、その場しのぎの対策に懸命になる日本の政治の記念物でもあるな。

2021年12月25日土曜日

人生の意味

  「人生には意味はない。だが、生きることには価値がある」とは友人の言葉。人生には台本はなく、その場しのぎの連続で誰もが行き当たりばったりに生きるしかないと友人は言い、無数の選択の結果として個人の人生は形成されるのだから、人生に意味を感じたり見いだしたりする人もあろうが、その意味とは当人らの解釈でしかないとする。

 だが、「生きることには価値がある」とするのは、人は誰でも地球上でただ1人の存在だからだ。30数億年前に誕生した単細胞生物の一つから始まった生命のリレーが続いて誕生した1人の人間。無数の偶然の結果として誕生した1人の人間が生きることは貴重なチャンスであり、生命のリレーに加わって、生きているだけで価値があると友人。

 人生に意味があるとする考えは、人生を肯定するために欠かせない。だが、自分の人生を肯定するために自分の人生の意味を求めることもある。何らかの意味を付与することで自分の人生を肯定する心境に至るのは個人の自由だから、人生の意味は主観で判断するしかない。傍目には否定的に見られようと、本人が満足しているなら、その人生には意味があったことになる。

 例えば、特筆することがない平穏な一生であっても満ち足りた人生だと評価することもできるし、何らかの業績を残したことを人生の意味とすることもでき、子や孫に生命のリレーを繋いだことに満足することもできる。自分以外の誰かを幸せにしたと思えるなら満足できる人生かもしれない。

 人生の意味を主観で判断するのだから、意味がある人生と意味がない人生に分かれよう。意味がある人生だとする人は何らかの達成感や満足感を自分の人生に感じるだろうし、意味がない人生とする人は後悔や慚愧の念に覆われているのかもしれない。大量殺人などの犯罪者らは責任を問われて罰を受けようが、その人の人生まで否定されるものではないから、意味がない人生だと他人の人生を決めつけることはできまい。

 人生の意味とは人生の評価であるが、評価基準は確固としたものではなく、人によって時によって揺れ動く。おそらく自分の人生を受け入れている人は自分の人生に意味があると感じるだろうし、自分の人生に不満を感じている人は意味があるとは感じにくいだろう。人生の意味とは人生の装飾品の一つに過ぎないと見れば、意味の有無にこだわることもない。

 「意味がある人生も意味がない人生も、生きるに値する」と友人は言い、人生の意味と人生の価値は別物で、意味と価値を混同するから、人生の意味に過度に重きを置いたりするのだと主張する。楽もあり苦もある人生は「楽しんだ者の勝ちだ」と続けて友人は、人生は全てが特注品で一人一人が個別に形成するものだから、全ての人の人生が特別なのだとする。

2021年12月22日水曜日

マスクと強制

 最近、建物内や公共交通機関内でマスクを着用していない人を見ることはほぼないが、行き交う人がまばらな路上ではマスクをつけていない人を見かけることは珍しくない。密になっていない環境なのだから、マスクの着用は個人が自由に選択することだ。だが、マスクをつけていない人を、とがめるような目で見るマスク着用者がいたりする。

 ただ、面と向かって「マスクをつけろよ」等と言う人はほとんどいない。「密ではない状況だから、マスクをつけるかどうかは個人の自由だ」等と反論されると、引っ込みがつかなくなってトラブルになる可能性があるから、とがめるような目でマスク非着用者を見るだけで済ます。マスク着用が義務だと誤解しているからマスクの非着用に敏感に反応するのだろう。

 マスク着用の目的は、咳やくしゃみによる飛沫の拡散をマスクで防ぐことだ。新型コロナウイルスでは無症状の感染者が多いので、誰をも感染者だとみなして、飛沫に含まれるウイルスの拡散を抑えるため全員のマスク着用が呼びかけられた(ウイルスの侵入をマスクが防ぐ効果は限定的で、マスクだけではウイルス侵入を防ぐことは難しい)。

 飛沫の拡散を防ぎ、感染を拡大させないことがマスク着用の狙いだとすると、行き交う人がまばらな路上ではマスク着用の必要性は低下する。飛沫にウイルスが含まれていたとしても周囲に人がいなければ感染拡大は起きない。3密の環境ではマスク着用が求められるが、3密ではない状況でのマスク着用は個人の判断による。

 他人にマスク着用を強制したがる人々はマスク着用が義務だと誤解しているが、自分は正しいと思い込む。厚労省や各自治体などはマスク着用を呼びかけているが、法に基づく強制ではない。国などの指針に過剰に適応しようとしつつ、国などと一体化して国の後ろ盾を得たと勘違いした人たちが「マスク警察」を演じるのだろう。国の方針などに過剰に適応しようとする人々はいつの時代にも存在する。

 マスク着用には煩わしさがつきまとう。先日、混んでいる商業施設内でフェイスガードだけをつけて買い物している人がいた。フェイスガードだけでは飛沫が拡散していると明らかなため、その人の周囲には人が寄り付かない。マスクよりフェイスガードだけのほうが煩わしさはないだろうが、感染予防には役立たない。

 冬を迎え、メガネが曇るという煩わしさが加わる。マスク着用で寒い外に出るとメガネが曇り、暖房されている建物内などに入るとメガネが曇りと繰り返す。雪国で暮らす友人は、冬には路面が凍り、メガネが曇ると足元がよく見えず、危ないと感じ、冬は鼻だしマスクにしているという。鼻だしマスクにするとメガネは曇りにくく、路面状況をしっかり見ることができるのだが、「鼻からの飛沫拡散は勘弁してもらう」と友人。

2021年12月18日土曜日

強制と自由

  経済活動をパンデミック前の状況に戻そうと、ワクチンの接種済みの人々に限定して飲食店や商業施設への出入りを自由にしたり、ライブイベントなどの参加を上限なしに認める「ワクチンパスポート」導入の動きが広まっている。だが、欧州諸国などでは、ワクチンパスポート携帯の義務化は個人の自由を国家が制約するものだとして反対の動きが顕在化している。

 フランスでは抗議デモが夏から毎週続き、ワクチンパスポートの携行強制は「移動の自由」の侵害だと反対している。参加者の政党色は薄く、デモでは三色旗が振られ、個人の自由をアピールしていると報じられた。イタリアではワクチン接種のデジタル証明書「グリーンパス」に反対するデモがあり、ベルギーのブリュッセルではEU域内での「グリーンパス」の強制導入に反対する人々の一部が暴徒化した。

 ワクチンパスポートの強制導入に反対する人々は、ワクチンパスポートが人々の移動の自由を侵害するとともに、ワクチン未接種者に対する差別的扱いを正当化し、さらにワクチン接種の義務化を強制するなどとして抗う。ワクチン接種を拒否している人々は各国に存在するので、ワクチン接種の義務化はワクチンの未接種者をあぶり出す。

 欧米などで新型コロナウイルスの感染拡大の勢いは衰えていないが、重傷者や死者は減少し、それはワクチンの接種拡大による効果だと説明される。ワクチン接種率が70%以上と高い国が多いのでワクチン接種を多くの人々が受け入れた。だが、国の指示に従った人々もいるだろうが、パンデミックに対応しようとの社会的な要請ととらえた人々も多かったような気もする。

 抗議行動には、ワクチン接種そのものに反対する人々に加え、国家による束縛を嫌い個人の自由の尊重を求めたり、未接種者の差別的な扱いに怒り、ワクチン接種の強制に抗議する人々が加わっているようだ。国家の要請よりも個人の自由を重視するのは健全な民主主義的な感覚であろうが、パンデミック対策を国家権力の問題に限定しているとの疑問も生じる。

 さらに、個人の自由を重視し、国家による強制を嫌う人々がワクチンパスポートには反対するが、例えば、内燃機関の自動車を禁止してEVに強制的に移行させるとの欧州各国の政策に、選択は個人の自由だと抗議し、反対する動きはないようだ。ワクチンパスポートに反対する人々の大半は地球温暖化論に従順に従っているのかな。

 ワクチンパスポートは経済対策であり、大半の人々はワクチン接種済みであるので素直に受け入れた。だが、ワクチンパスポートが人々の管理の道具になることは確かで、電子的なワクチンパスポートなら人々の動きを常時把握できよう。国家による束縛や強制を嫌う人々が敏感に反応するのは当然か。

2021年12月15日水曜日

中国の民主主義

  中国政府が「中国の民主」と題する白書を発表、報道によると「西側の民主モデルをただまねるのではなく、中国式の民主を創り上げた」と主張し、共産党主導の中国式民主主義の特色と成果を強調する内容だったという。中国にも民主主義があるとの主張だ。

 中国式の民主主義という主張は、民主主義に様々なバリエーションが存在することで成り立つ。民主主義は欧米発祥のものだが中国は「民主主義は全人類共通の価値観」とするものの、それぞれの国の歴史・文化に根差した多くの形態が民主主義にはあるとし、中国では共産党の指導による民主主義追求の歴史があるとする。

 共産党が独裁し、議会は形式だけのもので、法の支配は限定的、個人の自由は厳しく制約され、少数民族に対する過酷な支配が行われている現在の中国を民主主義国と認めるなら、現在の世界に民主主義ではない国はほとんど存在しないだろう。

 中国が誤魔化しているのは、国家の主権を有するのは誰かということだ。王や貴族など特権階級が国家権力を専有する体制を打倒し、人々が国家主権を共有することが民主主義の基本となる大原則だ。中国では国家主権を共産党が独占し、人々は共産党に支配される存在でしかない。そうした中国が民主主義を標榜するのは、「中国独自の」と限定したとしても間違っている。

 国家主権を人々(人民)が有するが、その人民が共産党の統治を支持しているというのが中国式の民主主義の解説なのだろうが、本当に人民(人々)が共産党の独裁を強制されずに支持しているかどうか不明だ。人々(人民)の支持を客観的に明確化する仕組みが自由選挙なのだが、中国では立候補にも投票にも制約がない自由選挙は実施されていない。

 中国が中国式の民主を主張したのは、民主主義を否定することができなかったからだ。市場経済を取り入れ、搾取を容認し、資本家階級も特権階級も形成されたとあっては、もう中国は共産主義の労働者階級独裁=共産党独裁との図式に頼ることはできなくなった。だから、民主主義を否定できず、中国式の民主主義があるとうそぶくしかなかった。

 民主主義が国により様々な形になるというのは正しい。土着の文化や歴史などに政治システムは影響を受けるので、国によって民主主義による政治のありようは異なるのだが、①人民主権、②主権者による自由選挙、③主権者の代表による議会、④法の支配ーなどは原則である。それらが欠如している中国が独自の民主主義を主張するのは、民主主義をつまらないものと人々に思わせることが狙いか。

2021年12月11日土曜日

自然に任せろ

 フランス南西部で、野生のイノシシを追っていた70歳の猟師(男性)がヒグマに遭遇、襲われて足に重傷を負ったという。ヒグマは欧州最大級の肉食動物で、報道によるとフランスではほぼ絶滅したが、政府が1996年に再繁殖を目指す取り組みを開始し、スロベニアからヒグマを輸入してピレネー山脈南西部に放していた。

 この猟師は政府の再導入策により生息していたヒグマによって負傷した。なぜフランスでヒグマが絶滅したのか詳らかではないが、国策としてヒグマの再導入が行われなければ、この男性が負傷することなかった。人が襲われるなどのヒグマ関連被害は329件(2020年)と多く、ヒグマの再繁殖には家畜を脅かされると農家は反対しているという。

 日本では一度絶滅したトキが政府の保護増殖事業により、中国からトキの提供を受けて飼育、人工繁殖したトキを放鳥し、野生下でも雛が誕生するなどトキの復活が軌道に乗っている。環境省は2019年、人工繁殖で野生復帰が進んだとしてトキを、絶滅の危険性が1ランク低い「絶滅危惧1A類」に指定を変更した。

 日本でトキが復活して増えたとしても、トキは人間に危害を加える存在ではないが、ヒグマは人間にも家畜にも危険な生物だ。スペインがフランスとの国境地帯の山間地に再導入したヒグマが馬や羊を殺したことが2019年に確認された。絶滅したヒグマを復活させることは、生態系の復活だとの解釈なのだろうが、人為的な生態系の改変とも解釈できる。

 地球の歴史において多くの生物種が絶滅して消えた。恐竜が絶滅して次に哺乳類が栄えたように、何かの生物種の絶滅は他の生物種の生息域を広げたりする。生態系を固定したものと見るなら、絶滅したヒグマを復活させることは生態系の維持と解釈されるだろう。だが、生態系は常に変化しているのだから、絶滅したヒグマを復活させることは人間が生態系を変えることだ。

 生態系の維持という思想には根本的な欠陥がある。それは、一つの固定した生態系しか許すことができないとの考えにつながり、自然における生態系の変化を許容できなくなることだ。さらに、絶滅の危惧が強調されて「白クマさんがかわいそう」などの情緒的な賛同者が加わることにより、生態系の維持という思想は批判に対して不寛容になる。

 おそらくフランスでヒグマは人間により絶滅させられたから人為的に復活させようとしたのだろうが、人間も生態系の一部であることを思い出すなら、人為的な生態系の破壊も生態系の変化と理解するべきだろう。人為的な生態系の破壊は愚かな行為であろうが、絶滅したヒグマを再繁殖させて人間が考える「理想」の固定された生態系を再構築しようとの発想は、「人工的な楽園」を作るという愚かな試みだ。

2021年12月8日水曜日

戦争責任の定義

 日常の会話では、言葉の定義(言葉が意味するもの)をいちいち意識することなく、おおよその理解や解釈で使っている人が多いだろう。人により言葉の定義に違いがあっても、誤解を生んだり意思疎通を阻むほどの障害になることは日常では少ないだろうし、違った意味で使っていることが判明しても笑いで済まされたりする。

 だが言葉の定義を明確にすることが必要不可欠となる場合がある。学問は言葉の定義を共有する前提で成り立つし、政治に関連した議論などでも、同一の言葉を各人がそれぞれの定義で使うならば議論は噛み合わないだろう。言葉の定義を共有することにより、認識を共有する部分と相違する部分が明らかになる。

 だが、言葉の定義を曖昧なままに放置して、各人が一方的な主張を行う場合もある。政治などが絡んで、相手の主張に理解を示すことが自己の主張の劣勢や敗北と見られることを避けるために、言葉の定義を共有する努力は放棄され、言葉の定義は自己の主張に好都合なものに設定され、一方的な主張を言い合う。

 例えば、戦争責任という言葉。この言葉は日本やドイツの責任を厳しく問う場合に使われることが多いが、例えば中国やロシア(ソ連)、米国、英国などの戦争責任を問う論説は見当たらない。参戦して戦争を遂行した責任を戦争責任とすれば第二次大戦に参戦した全ての国に戦争責任があるわけだが、そうした議論はなく、日本やドイツに対してだけ戦争責任が問われる。

 すると、戦争責任とは敗戦責任のことになるが、敗戦国の人民が自国政府の敗戦の責任を追及するのなら責任の意味は明白だが、戦勝国側が敗戦国の敗戦責任をいつまでも問うのは奇妙だ。第二次大戦では戦勝国側が日本でもドイツでも裁判を行って敗戦国の指導者を処罰したのだから、戦勝国側の敗戦国に対する責任追及は決着がついている。

 参戦して戦争を遂行した責任ではなく敗戦した責任でもないとすると戦争責任は、開戦した責任ということになる。第二次大戦では日本もドイツも先制攻撃を行ったのだから、開戦した責任は存在する(その責任も大戦終了後の戦勝国による裁判で厳しく問われた)。現在、国連が容認する戦争は自衛のための戦争と国連決議で参戦を容認した戦争だけだから、自国の判断で開戦したならば、その責任は戦争責任として厳しく問われるだろう。

 しかし、例えば、米国によるイラク攻撃やNATOによるコソボ攻撃は自衛のための戦争ではなく国連決議を得ていない戦争だったが、米国やNATOの戦争責任が厳しく問われることはなかった。日本やドイツにあって米国やNATOにないとすると、戦争責任とは開戦責任プラス敗戦責任ということになる。だが、日本もドイツも開戦責任は戦勝国側による裁判で決着済みだ。

 どうやら、終戦から何十年経っても問われ続ける戦争責任とは第二次大戦の敗戦国にだけ課せられたものらしい。第二次大戦後に形成された国際秩序は現在も続いているので日本やドイツの敗戦国という立場は続く。戦争責任という言葉は日本やドイツを牽制し、押さえつけておくためには便利だろう。言葉の定義が曖昧なまま使われるのは、相互の認識の共有が目的ではなく、第二次大戦後の国際秩序の維持のために、言葉の定義が曖昧で、どうにでも使うことができるほうが戦勝国側には都合がいい。

2021年12月4日土曜日

外交道具としての移民

 英仏海峡で2018年以降、フランスの海岸からゴムボートや小型船などで英国上陸を目指す移民が急増を続け、今年はすでに2万5千人以上になるという(英国の統計)。英仏海峡トンネルを通るトラックに潜む英国への密入国はパンデミックによる入国規制で難しくなり、犯罪組織がボートによる密航請け負いを活発化させたとみられている。

 英国を目指す移民の多くはイラクなど中東出身者という。EUに入っても独仏ではなく英国を目指す移民は、▽英国内に親族や知人のつてがある▽英国では不法滞在でも職を得やすい▽言語の壁が低い(英語を話すことができる移民は珍しくないか)などで英国を選ぶ。

 英仏海峡で最も狭いのは仏カレーと英ドーバー間で約34km。ゴムボートや小型船などには多数が詰め込まれる。11月24日には英国を目指した1隻の小型ゴムボートの空気が抜け、乗っていた約50人の移民のうち子供を含む27人が死亡した。事故の後に英国はフランス側の取り締まりが緩いと批判し、フランスは密航を助ける犯罪組織の撲滅に向けてEU各国と連携するとした。

 報道によると英国はフランスに警備の資金拠出を申し出て、仏海岸を合同パトロールすることを提案していたそうだが、仏側が受け入れなかった。仏海岸での取り締まりを強化すると、英国を目指す移民をフランス国内にとどめることになり、フランス側の負担が大きくなるためか。移民を英仏が押し付け合うことが続き、27人が死ぬ惨事となった。

 11月には、EU入りを陸路で目指す移民が政治問題化した。ポーランド国境のベラルーシ側にイラクやシリアなどからの多数の移民が集まり、ポーランドは鉄条網でフェンスを作ったり、催涙ガスや放水などで移民の流入を阻止したが、移民は国境付近にとどまった。EUに「入れろ」「入れない」の攻防は10日間ほど続き、ベラルーシは移民を国境から退去させた。

 退去させた移民は約7千人。EUが2千人を受け入れ、5千人はベラルーシが母国に送り返すとの提案をドイツは拒否し、ベラルーシは移民をイランなどに航空機で送り返し始めた。この多数の移民は、ベラルーシがEUに意図的に移民を流入させて圧力をかけるために集めたとの報道もあり、ベラルーシは移民を政治的な道具として使った疑いがある。なお、続報がないので一件落着したとみえる。

 英仏は移民を押し付け合い、ベラルーシは移民をEUに圧力をかける外交道具として使った。戦乱で中東各地から多数の移民が欧州を目指したが、各国はその扱いに困惑した。国境を押し破ろうとする人々に対して民主主義国といえども、その扱いは冷淡になる。戦乱の地にとどまって困窮する人々には同情するが、移民として押しかけて来られると拒否するというのが先進民主主義国の実態だ。

2021年12月1日水曜日

批判できる立場

 誰かを批判するのは簡単だ。誰かが右を向けば「右を向いた」と批判し、左を向けば「左を向いた」と批判し、動かずにいれば「何もしない」と批判する。批判することが目的とあれば、対象が何をしても何もしなくても批判は可能だ。そうした批判の判断基準は、好悪の感情だったりするが、批判することで「評価する者」として優位な立場になろうとする動機に支えられていたりする。

 批判の判断基準は好悪の感情のほかに、倫理観や道徳観、政治観、経済的な利害、個人や組織などの体面や優劣争いなど様々だ。一方、判断基準が曖昧でも批判することはできる。例えば、政治的な中立を標榜し、権力批判が使命だと自認しているマスメディアなら、選挙で勝って政権を担う全ての政党を批判するだろう。保守政党でも革新政党でも、国家権力を握った政党を批判できる。

 もちろんマスメディアにはそれぞれ政策や倫理観などに関して判断基準があり、権力だからと無節操に批判するわけではないだろうが、確固とした判断基準と徹底した権力批判は時には矛盾する。権力に追随すると見られるよりも、権力を果敢に批判すると見られることを好むマスメディアなら権力批判を重視するだろう。

 個人なら、感情や倫理観、道徳観、政治観など批判の判断基準は個人の自由であり、客観性や公平性などが希薄であっても許容されるので、側から見て歪んでいるような判断基準を固守する人は珍しくない。他人が共有できない独自の判断基準を押し通す人もいて、それが個性ともなるが、関わると厄介な人として周囲からは鬱陶しがられたりする。

 権力批判を好む人がいて、マスメディアに影響されたのか、深刻ぶったりしながら権力を批判する。だが、独自の判断基準が希薄な人の批判はマスメディアの受け売りだと見透かされる。世の中は全てくだらないと見ている人なら全てが批判の対象になろうが、独自の判断基準が曖昧だと見えれば、何でも批判する「お前は、何様だ?」などと反批判されるかもしれない。

 批判は①間違いを指摘する、②間違いを責める=責任を問う、に大別される。事実関係の間違いなら批判された側は修正せざるを得まいが、事実認識の相違や判断基準の違いなどについての批判なら、見解の相違として批判を突っぱねることができる。責任問題がちらつくと批判された側が、批判を認めないことに懸命になったりもする。

 批判には、対象を否定する狙いのものや、自分を目立たせるための批判=他者攻撃がある。対象を否定する批判なら何の根拠でも持ち出して批判するだろうし、自分をアピールするための他者の批判もある。選挙などでは、相手にダメージを与える目的の批判が活発になり、批判合戦に終始する。批判することが目的なのだから、批判することで目的は達している。

2021年11月20日土曜日

米中による世界分割支配

 ソ連が崩壊して米国の1強時代になると見られたが、アフガンやイラクへの出兵など軍事力に頼った支配拡大を目指して米国は失敗した。米国では世界を単独で率いていこうとの気配は希薄となり、G20の誕生もあって世界は多極化するとの論が現れたが、大幅な経済成長を遂げた中国が国際政治においても存在感を増し、米中の2強時代との見立てが増えた。

 経済は資本主義で政治は民主主義というシステムが西欧流の近代化だが、資本主義を導入して成功した中国は共産党による独裁統治を強化し、西欧流の民主主義と敵対する姿勢を隠さなくなった。米中が政治や経済で全面的に対立するようになり、軍事的な威嚇行動も珍しくなくなって、米中の2強時代をかつての米ソ対立による冷戦時代となぞらえる論も出てきた。

 かつてのソ連と今の中国の類似点は、①共産党が独裁(共産党トップに権力が集中)、②相当の軍事力を有する(部分的には米国を凌駕する)、③西欧流の民主主義を否定、④国内では政権批判を許さない、⑤造反者に対する過酷な弾圧、⑥文化も統制する、⑦国内植民地を有する(中国ではウイグルやチベット、モンゴルなど)、⑧宇宙開発など国威発揚できる事業に熱心ーなどだ。

 相違点は第一に、経済規模(経済的にソ連は弱小国だったが、中国は経済大国)。第二に、世界経済との結びつき(ソ連の西側との経済的結びつきは弱かったが、中国は西側と経済的に緊密に結びつく)。第三に、同盟国(ソ連には東欧諸国など支配する同盟国があったが、中国には同盟国はない)。第四に、西欧文明との距離(ソ連は西欧文明の辺境に位置するが、中国は独自の文明圏に位置する)。

 さらに、ソ連は共産主義の「本家」だったが中国は思想的に世界に影響を与える何ものも持っていないというイデオロギー的な相違点がある。中国の専制支配と経済的な成功を羨む独裁者が存在する途上国は多いだろうが、ソ連の国際共産主義運動のような影響力は中国にはない。ソ連の存在はイデオロギーでは賛美されたが、中国の存在は経済的な成功だけが賛美される。

 かつての冷戦は米ソによる世界の分割支配だった。米国もソ連も同盟国や追随国を有し、欧州以外の世界各地で対立が時には戦争となって露呈していたが、現在の中国には同盟国も追随国もない。新冷戦とも言われる米中の対立だが、米国と対立して世界を分割支配することが現在の中国にはできていない。

 米国との対立が続き、欧州諸国なども中国に対する警戒感を隠さなくなった状況を受けて中国は自己主張を強めている。欧米主導による国際ルールや普遍的価値感にあからさまに異議を唱え、中国本位の価値観を掲げる。だが、その中国本位の価値観の強調が世界で孤立を強める結果になる。世界を米国と分割支配するどころではなく、中国は孤立感を深め、自己防衛に必死なのかもしれない。

2021年11月17日水曜日

温暖化論議と神の不在

 温暖化により地球環境が危機に瀕しているとの不安が、世界規模で広がっていると内外の報道からは受け取れる。この危機には科学的な裏付けがあるとされ、反対したり異論を主張する人々は、まるで異端者のように攻撃されたりしている。温暖化の危機が絶対的な真理とされたような光景だ。

 温暖化対策の様々な仕組みを「国際標準」にするため欧州が頑張り、欧州メディアの世界的な影響力もあって、人為的な温暖化の進行を止めるために人類は協力して対策を取らねばならないとの国際世論が形成されたかに見える。ローマ教皇も2019年、世界は気候の緊急事態にあるとし、温暖化対策と化石燃料使用削減に向け「劇的な措置」を講じるよう各国政府に求めるメッセージを発表した。

 そのローマ教皇を含む世界の宗教指導者がバチカンに集まって10月に会議を開いた。参加したのはカトリック・東方正教会・英国国教会を含むキリスト教諸教会、イスラム教(スンニ派、シーア派)、ユダヤ教、ヒンズー教、シーク教、仏教、儒教、道教、ゾロアスター教、ジャイナ教など。2月から会議を重ねて作成した共同アピールに署名し、公表した。

 COP26に向けた共同アピールは報道によると、「生態系危機」から地球を救うために具体的な解決法を打ち出すよう呼び掛け、▽CO2実質排出量ゼロの早い達成▽地球全体の平均気温上昇を1.5度までに抑える▽豊かな国や大きな責任を負う国は気候変動対策を強化する▽弱い立場にある国に財政支援を行う▽各国政府は目標を高く持ち、国際協力を強化するーなどを提言した。

 この会議の名称は「信仰と科学、COP26に向けて」。宗教者が集まったのだから「生態系危機」に対して信仰のあり方を問う会議にしてもよさそうだったが、実際は、現代では信仰が科学に従っていることが示された。温暖化の危機なるものには信仰が無力だと自覚しているらしく、「世界の信仰者が皆で祈って温暖化の危機を食い止めよう」などのメッセージは見当たらない。

 絶対的な神の存在を信じる一神教であれば、この世界を創造して支配している神は、人間が引き起こしたという温暖化の危機を解消することは容易だろう。しかし、一神教の指導者らも今回の会議で、神に向けたメッセージではなく各国政府などに早急な対策を講じるように求めた。温暖化の危機は、神から与えられた試練とも解釈できようが、宗教的に解釈することをせず、このメッセージは神の不在を強調したように見える。

 西洋文化圏ではキリスト教、中近東などではイスラム教など宗教は信仰にとどまらず社会的に大きな影響力を持つ。そうした宗教が温暖化の危機に、信仰の力をアピールすることもできず、科学的な主張に従って思考するしかできないことをさらけ出した。どうやら、人々が「祈っても救われない」のが温暖化の危機なるものらしい。

2021年11月13日土曜日

広辞苑によると

 一昔前のエッセイなどでは、ある言葉の意味を明確にするため「広辞苑によると」と前置きして、広辞苑の説明を使って言葉の定義を明確にする書き方が珍しくなかった。広辞苑は権威ある大型辞書とみなされており、その説明は客観性を持ち、共有できるとの暗黙の了解が社会に存在したから可能だった手法だ。

 言葉の定義は個人によって差異があったりする。例えば、民主主義という言葉は「人民が主権を持ち、人民の意思をもとにして政治を行う主義」(新明解)であり、主権者による直接選挙で議会が形成され、そこで国家の針路が決められることを具体的には意味する。だが、民主主義に善きものとする価値判断を付与して、過剰に民主主義を高みに置く論説は少なくない。

 制度としての民主主義と、善きものとしての民主主義は異なる。だが、その違いを明確にさせず、民主主義の定義を共有しない人々が民主主義を論じ合ったところで議論はなかなか深まらず、互いの民主主義観の差異を認識できれば上出来か。言葉の定義は自分も他人も共有していると思い込んでいると、共通して使う言葉に差異があることに気が付きにくいだろう。

 民主主義を制度として理解する立場なら民主主義の限界を議論しやすいだろうが、善きものとして理解する立場なら民主主義の限界という発想は否定されかねない。理想と同義語とみなして民主主義を善きものと高みに置いてしまうと、民主主義の限界を論じることは反民主主義的な思考だと即断する人がいるかもしれない。

 言葉の定義を明らかにすることで、曖昧さは減少する。独りで考えている場合には思考が散漫になることを抑制し、思考がたどる道筋を明確化する助けになる。複数で議論する場合には、常に言葉の定義を確認・共有することで議論の共通土壌が形成されよう。互いに異なる意味合いで同じ言葉を使っていると議論は噛み合わず、互いの主張や解釈を言い合うだけになる。

 多くの人は日常生活や読書経験などから言葉の定義(言葉が意味するもの)を獲得するが、その大半は感覚的な理解で、細かに辞書を引く人は多くはないかもしれない。だから「広辞苑によると」との表現が通用していたのだが、今はスマホで何でもすぐに検索できる世の中だから、広辞苑の“権威”は低下し、「広辞苑によると」との言葉も使われなくなったか。

 広辞苑を含め辞書に載っている説明は編者や協力者が書いたもので、同じ言葉でも辞書により説明が微妙に異なる場合があるが、大要は同じだろう。いわば客観的な言葉の説明といえるが、そこに個人は善悪などの価値判断を付与したりして使用する。無意識に言霊化している人なら、共有できる定義を言葉に見いだす行為を歓迎しないだろう。言葉の定義を明確化することは言霊化に逆行する。

2021年11月10日水曜日

英霊になったか

 世界的に名を知られていた作家の三島由紀夫が死んだのは半世紀前の1970年11月25日だった。場所は東京・市谷の自衛隊駐屯地内の総監室。バルコニーで自衛隊員に向けて演説し、「今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望する」(檄から)と呼びかけたが、応じる隊員はいなかった。

 バルコニーから総監室に戻った三島由紀夫は、着ていた楯の会の制服のボタンをはずし、正座して短刀で真一文字に腹を切り、介錯されて死んだ。三島由紀夫の頭には「七生報國」と書かれた鉢巻が巻かれていたという。三島由紀夫なりに真剣に日本という国を憂えての行動であったのだろうが、頼りにした自衛隊員には背を向けられた。

 もし、自衛隊がクーデターを起こして権力を握ったとして、日本という国が三島由紀夫が考える理想通りになったかどうかは不明だ。クーデターに成功した軍は独自の判断で動く。それを指揮するのは軍を掌握した将校で、三島由紀夫ら外部の意向がどれほど反映されるのかは定かではない。

 さらに、クーデターに成功した軍を掌握することは国家権力を掌握することだが、軍を掌握した将校が例えば国民投票を経る手順を踏んだわけではなく、客観的な権力の正当性は希薄だから、強権的な統治に向かう。国家権力の正当性を主権者の選択に基礎付けることができないので、強権で押さえつけるしかなくなるのだ。

 これは、民族解放を掲げる武装勢力についても当てはまる。武装闘争で国家権力を掌握したとしても、その民族解放組織が主権者である人々の意向をどれだけ反映しているのかは不明だ。武力で国家権力を獲得した組織・人々には、その正当性に対して疑念がつきまとう。民族解放闘争を無邪気に正義だと断定するわけにはいかない。

 三島由紀夫の作品「英霊の声」では、二・二六事件で処刑された青年将校の神霊が霊眼をひらいた青年に乗り移って語る。現人神である天皇を慕い、君側の奸を斬った青年将校らの行動を天皇は慰撫し、「今よりのちは、朕親ら政務をとり、国の安泰を計るであろう」と言い、「その方たちこそ、まことの皇軍の兵士である」と青年将校らを称賛する。

 二・二六事件で処刑された青年将校を三島由紀夫は英霊と位置付けたので、おそらく三島由紀夫自身も英霊になると想定しただろう。だが、一般に英霊は「戦死者の霊」を敬っていう言葉で、天皇の意向が働いて処刑された二・二六事件の青年将校らが英霊とされることに同意する人々はそう多くはないかもしれない。三島由紀夫の霊も英霊と見なされるか定かではない。 

2021年11月6日土曜日

50歳では321cm

 日本人男子の身長の平均値は、5歳で111cm、6歳で117cm、8歳で129cm、10歳で140cm、12歳で154cm、14歳で166cm、17歳で170cmだ(文科省の学校保健統計調査)。10歳代後半で身長の増加はほとんど止まり、25歳〜49歳の平均身長は171cmほど(厚労省)。

 5歳から10歳までに平均身長は29cm伸び、10歳から17歳までに30cm伸びているので、単純に計算すると、5歳から17歳まで毎年4〜5cmほど身長が伸びることになる。170cmは成年男子の平均身長とほぼ同じなので、身体的には10歳代後半で皆「大人」になるといえよう。

 もし、毎年5cmの身長増加がいつまでも続くならば、20歳で171cmの平均身長が30歳では221cm、40歳では271cm、50歳では321cmになる計算だ。だが、人間の身長の増加には何らかの抑制要因があるらしく、20歳を超しても身長が10歳代と同様に毎年増え続けることはなく、50歳で3mを超す人はいない。

 人間には身長が伸びる成長期があり、それを過ぎると身長の伸びは停滞する。もし、人間の10歳代の平均身長の増加データを根拠に、「30歳では221cm、40歳では271cm、50歳では321cmになる」と分析・予想する評論家や学者がいたなら、笑われるだけだ。データを駆使して客観性を装ったとしても、重大な見落としがあることは誰にでもわかるだろう。

 人間の成長期のデータだけで人間の一生を推しはかるのは、部分と全体の混同である。だが、部分のデータだけが判明していて、全体像が明らかではない場合に、部分のデータの数値から増加量や成長量などを計算し、全体像を予測する手法は広く行われている。特に未来予測では、そうした手法が活用される。

 現在と過去のデータ(数値)から未来を予測するときに、使用するデータの選択で予測結果は異なる場合がある。例えば、50歳時点での平均身長を予測する人が、10歳代の平均身長の増加データを使うなら「50歳では321cm」とするだろうが、20歳代のデータを使うなら「171cmぐらい」とするだろう。

 さらに、「50歳では321cm」と未来予測する側が、20歳代以降のデータを無視したり隠すことが、その主張を確かなものと見せるためには有効だろう。未来予測が高度な学問分野に関係すると、無視したり隠されたデータを見つけるのは素人には難しい。

 未来を知る人間は存在しないので、未来予測は事実ではなく解釈である。未来予測は傾向を知るために参考とするべきものだが、決定した事実ではない。さらに、使うデータによって未来予測の結果が左右されるので、誘導も可能だ。「50歳の平均身長が3mを超す」などの未来予測を、なんか変だなと見破らなければ、誘導された未来を信じることになる。

2021年11月3日水曜日

溢れるマネー

 米ニューヨーク株式市場は連日で過去最高値を更新し、11月1日にはダウ平均株価が一時3万6000ドルを上回った。景気の先行きへの期待感から買い注文が多いためと報じられた。企業の好決算が続いたが、需要の強さがさらに続くとの見方だ。買いが増えれば増えるほど株価は上がる仕組みだ。

 米WTI原油市場では先物価格が1バレル=80ドルを超える高値が続き、日本でもガソリンや灯油などの価格が値上がりし続けている。各国で経済活動が活発化して需要が回復した一方、減産を続ける産油国は増産に消極的で、供給増加の見通しが立たない。この冬が厳冬になれば原油価格はもっと上がるとの見方も出ている。欧州では天然ガス価格が急騰した。

 これらの価格上昇は、取引市場に多量の買いが入って相場を押し上げたのだが、投機マネーがどれだけ動いたかをマスコミが詳しく報じることはない。相場が上がり続けるとなれば、投機マネーが集まってきて、さらに相場を押し上げる。原油市場などでは実需や供給の動向が相場を動かす原動力だが、投機マネーの動向も影響する。

 原油などの先物市場に投機マネーが流れ込めば、相場を押し上げ、ガソリンや灯油の価格の値上がりを招いたり、電気料金などの上昇をもたらす。社会における需要や供給の動向とともに投機マネーの動向も分析しなければ、現代の経済の動向を正確に見ることはできないだろう。

 モノやサービスの売買という実体経済の規模をはるかに上回る大量のマネーがつくり出されて、積み上がった現在の世界。マネー(金融)経済の規模は実体経済の規模の数倍とも10倍以上ともされ、モノなどの需要供給だけではもはや世界経済を論じることはできなくなった。

 世界に溢れるマネーが米国の株に向かえば株価は過去最高になり、原油市場に向かえば原油高になり、天然ガス市場に向かえば天然ガス高となり、資源市場に向かえば資源高になる。実体経済が産出する剰余金であったマネーが金融市場では大幅な自己増殖が可能になり、やがて実体経済をはるかに上回る大量のマネーが蓄積された。

 膨大に積み上がったマネーは利を求めて動き回り、それが原油市場に流れ込むと相場を押し上げ、ガソリン高や灯油高を引き起こす。実体経済における需要供給の動向だけでは相場の変動を正確に理解することは難しく、実体経済がマネー経済に振り回されるという世界に我々は生きている。

2021年10月30日土曜日

押し屋という発想

  朝の通勤時間帯などに、列車に乗り切れないほどの乗客が駅に集まって来て、到着した列車に先を争って乗ろうとするが、車内はすでに人で満杯。遅刻しまいと人々は無理に乗り込もうとするが、なかなか車内に体を入れることができず、列車のドアも閉じることができず、発車が遅れる。そこで押し屋と呼ばれる係員が力づくで押し込んだり、乗り切れない人をホームに下ろしたりした。

 毎日、列車に乗り切れないほどの乗客が存在するなら鉄道会社の対策は、第一に運行本数を増やす、第二に客車を増結して乗車人数を増やす、ことだろう。押し屋を増やすことは場当たり的な対応に見える。とはいえ、すでに過密ダイヤなら運行本数を増やすことは困難で、客車を増結するには各停車駅のホームの長さに余裕が必要になる。

 運行本数を増やすことも客車を増結することもできない中で、朝の通勤時間帯など短時間に乗客が集中するだけなら、押し屋を動員するという場当たり的な対応にも合理性はある。人間を荷物扱いしているとの批判は乏しく、人々は列車に押し込まれることに抵抗をしないのだから容認された手法であり、コスト面でも押し屋の動員は抜本的な対策より安価であろう。

 列車の乗車人数に上限を設けてホームへの入場を制限するという対応もある。列車に乗り切れない人々に他の交通手段を選ぶことを強制する対応だが、おそらく人々からの批判が高まる。他の交通手段がないから駅に乗客が集まって来て、押し込まれることも我慢しているのだろう。他の交通手段を選ぶことができるなら、そうしているはずだ。

 都市へ人々が流入し、人口が急膨張すれば、やがて駅には通勤客が溢れ、道路は車で渋滞する。人々の日常的な移動を考慮した包括的な都市計画があったなら、人口膨張に対応した公共交通の輸送力増強を進めていただろうが、そこまで配慮されていなかった。すでに建物が密集している都市で地上に新たな路線を敷設するのは困難で、地下鉄を新設するしかないが時間がかかる。それで駅には人々が集まり、押し屋が誕生した。

 太平洋戦時の米軍による空爆で日本の多くの都市が破壊された。敗戦後には人々は生き延びることに必死で、行政にも余力が乏しかった。そうした状況下で新たな発想による都市計画など求めることは無理な注文だろう。だが高度経済成長期には、人々の生活の質を考慮に入れて先を見通した都市計画を策定することができただろうに、行われなかった。「日本人は我慢する」との前提で日本の都市は発展してきたように見える。

 私鉄など鉄道会社も沿線の宅地開発などで乗客を増やしてきた。そうして増えた乗客は通勤でターミナル駅に集まり、乗換路線は大混雑となり、押し屋の登場となる。場当たり的な対応で凌いでいくという経済成長の象徴が押し屋なのかもしれない。

2021年10月27日水曜日

木彫の熊

 国内旅行のお土産は現在では、各地の菓子など食品が人気上位を占めている。食べてしまうと無くなるので「消えもの」であり、旅行の思い出は家族などで一緒に食べるときの会話に現れるだけだ。土産物屋で売っている民芸品などは旅行の思い出を呼び起こす記念品だが、旅行に行かなかった人が土産にもらっても旅行の記憶が喚起されるわけではない。

 海外旅行に大量の日本人が出掛けるようになり、国内でも各地に人々が頻繁に旅行に出掛けるようになり、旅行は日常的な行為と化して特別な行動であるとの非日常感は希薄になった。お土産に菓子などが好まれるのも旅行の非日常感が薄れたことと関係があるだろう。それに、民芸品などを旅行のたびに買っていては家庭内の設置スペースはすぐに埋まってしまう。

 民芸品などが土産物屋から消えたわけではない。東北各地のこけし、会津の赤べこ、高崎のだるま、信楽焼のたぬきなどが各地で売られているのは、旅行の記念品としての需要があるからだろう。一方で、すっかり見かけなくなったのが北海道土産の代表格だった、鮭をくわえた木彫の熊だ。半世紀前ころは各地の土産物屋に大小様々な大きさの木彫の熊が並べられていた。

 北海道は今も人気観光地だが、半世紀前ころの観光ブームでは全国から観光客が集まり、木彫の熊が土産物として大量に売れ、全国の家庭のテレビの上や玄関などに木彫の熊が置かれているとも言われたそうだ。機械による大量生産も行われていたそうだが、大量に出回りすぎたためか次第に土産物屋から姿を消した。

 現在でも木彫りの熊を販売している店舗はあるが、作家による作品として販売されているものが多いそうで、作家の個性を発揮した様々な造形の木彫作品であるから価格も相応に高いとか。写実に徹したものから抽象的な表現のものまで多彩な熊が造形されるそうだが、四つん這いで鮭をくわえた姿の熊では作家の個性を発揮しにくいかもしれないな。

 土産ものには流行り廃りがあり、横長の三角形で地名や寺社名などが書かれた「ペナント」は姿を消し、「通行手形」「ちょうちん」もあまり見かけなくなった。地名などを見ることで旅行の思い出を喚起する記念品はもうウケなくなったのだろう。旅行に行くことが特別な体験ではなくなったから、記念品の地名を見て旅行を思い出すより菓子などを食べるほうが好まれる。

 さらにスマホの普及で、旅行の思い出は各人のスマホに記録される。景勝地だけではなく旅行中のスナップ写真も大量に撮影されているだろうから、民芸品を旅の記念品として持ち帰る意味も薄れたか。とはいえ、鮭をくわえた木彫りの熊を欲しがる人がいなくなったわけではない。ネット上では中古品の取引が行われているというから、木彫りの熊は昔を懐かしむアイテムになったのかもしれない。

2021年10月23日土曜日

まき餌と毛針

 閣僚を歴任した自民党の故・渡辺美智雄氏は放言癖があり、何度も舌禍事件を起こした。放言の一つに、野党の支持者を毛針で釣られる魚に例えたものがあった。税金を下げるとか医療費をタダにするとか野党はうまい話ばかりだと批判し、「毛針で釣られる魚は知能指数が高くない。愚か者が増えると国が滅びる」と演説した。

 自民党は「ちゃんとエサをつけている」とし、エサに食いついて釣られる魚よりも、毛針で釣られる魚のほうを知能指数が高くないと主張した。魚の知能指数をどうやって計測するのか不明だが、エサでつられる魚も毛針でつられる魚も釣り上げられたことは同じだ。エサに食いついた魚を知能指数が高いと褒めるのは、自民党の支持者に対する媚びだな。

 支持者の知能指数を政党別に判定できる仕組みがあれば、日本の政治を分析することは簡単だが、そんな仕組みは存在しない。選挙の時に支持者に向けて「おいしい」公約を並べるのは野党に限ったことではない。現在の与党の自民党が発表した公約も、おいしい話に満ちている。

 自民党HPによると、「感染症から命と暮らしを守る」「新資本主義で分厚い中間層を再構築する」「農林水産業を守り、成長産業に」「日本列島の隅々まで活発な経済活動が行き渡る国へ」などと並べられ、現在の日本の問題点に対応しているように見える。だが、それらの問題点を生じさせたのは、これまでの与党の政策であったことを思い出すと、何やらマッチポンプの典型だと見えてくる。

 こうした自民党の公約は、毛針ではなくエサがついた針なのだろうか。エサがつこうと毛針であろうと、釣られた魚は調理されて食われるだけだ。食うのは、魚を釣った人=政党であり政治家連中だ。つまり、魚の知能指数が高かろうと低かろうと、釣られた魚は釣った人らに食われる。釣った魚にエサを与えて飼う釣り人はほとんど皆無だ。

 エサがついていようと毛針であろうと政党が掲げる公約を、まき餌だと見る人もいる。各政党の確固とした支持者を養殖された魚とすると、無党派層は自由に海中を泳ぎ回る魚だ。それらの魚を釣り上げるために、まき餌で魚を集める。うまい話ばかりを並べた公約を各政党は掲げ、無党派層という魚を集めて釣果を上げることを狙う。

 選挙は主権者による政権選択の機会だとする考えがあり、選択の判断材料として各政党の公約が重視されたりする。だが、おいしい話ばかりの公約を熟読玩味したところで、公約の実現可能性は低い。

 選挙は、それまでの与党に対する主権者の審判である。それまでの与党の政治を支持するなら与党に投票し、それまでの与党の政治に不満があるなら野党第1党に投票を集中する(政権を交代させるには野党第1党を勝利させなければならない。政権批判票の分散は与党の勝利を助ける)。政権選択とは、それまでの与党の政治を続けるかどうかを選ぶという意味だ。

2021年10月20日水曜日

宝クジと起業

 久しぶりに会った知人がしんみりした口調で言うには、「確かに大金をつかんだ奴が幅をきかす世の中ではあるが、二十代の若い奴が宝クジを熱心に買う話を聞かされると、情けないというか寂しい気持ちになる」。知人の子息の同僚に、ナンバーズやロト、ジャンボなど宝クジを買うことに給料を注ぎ込んでいる人物がいるという。

 その同僚氏は起業してリッチになることが目標だそうで、「金持ちの家に生まれもせず、頭もいいわけでもなく、何かにひたむきに取り組み根気もなく、誰にも負けないぞという根性もない」から、元手を得るためには宝クジしか思いつかないそうだ。だから、宝クジは幅広く買い、少しずつでも賞金を積み重ねることを目指しているという。

 リッチになることが目標だから起業は手段でしかなく、起業の具体的な構想はまだないという同僚氏は、とりあえず1千万円もあれば、なんとか起業の道は開けるだろうし、成功してリッチになることができるはずと夢見る。起業に惹かれるのは、リッチになることと成功者だと見られることが同時に実現できるからだとする。

 当たる確率を考えると宝クジは有利な投資法とはいえないが、大金をつかむことが具体的にイメージできる手段だ。何かの起業を計画しているなら、宝クジを買うより少しずつでも貯蓄して資金を貯めるのだろうが、起業することもリッチになることも夢想でしかないのだから、宝クジを買って大金が当たることを夢見るのが似合っているか。

 宝クジが当たることを条件とする構想は、見果てぬ夢だ(ほとんどが実現しないだろう)。大金が当たったなら、あれもできる、これもできると夢の実現が、つい、そこにあるような妄想に宝クジを買った人はとらわれるが、手を伸ばしても、どこまでも逃げていく大金。そんな大金でかなえられるという夢とは、人生に受け身でいることのシグナルでしかない。

 いつの世でも二十代の若者がリッチになることを夢見るのは不思議ではないと理解している知人だが、宝クジを買うことにしかリッチになる現実的な道筋がないと見る若者の姿に物足りなさを感じたという。起業などの夢を追っているようにも見えるが、実際は階級の固定化が進む社会の閉塞感に圧倒され、現実的な希望を持つことを諦めているのじゃないかと疑っている。

 誰もがリッチになることを望むが、ほとんど誰もリッチになることはできない現実。少しでも公平な社会に変えるように連帯して運動するよりも、個人が夢を持って、その夢を追うことが称賛され、夢が実現しなくても個人の責にされて終わり。リッチになれなければ肯定できない若者の人生とは何なのかと知人は考え続けているそうだ。

2021年10月16日土曜日

5つの仮説

  現象を観察し、その現象が起きた要因について合理的に説明する仮説を立て、その仮説の当否を客観的に検証するーこれは科学の基本的な方法だ。仮説は直感や思い込みなど主観の影響を受けるものだから、客観的な検証を経て、妥当であると確認されて定説となり共有される。

 科学は仮説に満ちているものだが、仮説と定説の見分けが曖昧だと混同して認識することになる。仮説を定説だと受けとる一般人は、科学者が言う仮説を、現実に起きている現象を正確に説明していると即断する。さらに、科学者が言う未来予測は仮説だが、そうした仮説を真実だと受け取る人々も多いようだ(未来については客観的な検証は不可能なので、未来予測は仮説にとどまる)。

 さて、日本で猛威をふるった第5波は終息したが、何が感染拡大を終わらせたのか。ワクチン接種者の増加が感染拡大を止めたと見られるが、確証は出ていない。第5波が終息した要因を正確に突き止めることができれば、第6波の対策にも役立つだろう。政府の感染症対策分科会の尾身会長は、新規感染者数が減少した要因として次の5つを指摘した。

 ①連休や夏休み、お盆休みなど感染拡大につながる人の移動が活発化する時期が過ぎ、感染拡大の要素(人の移動の増加)がなくなった、②医療が危機的な状態になったと広く伝わって危機感が共有され、人々がさらに感染対策に協力するようになった、③感染が広がりやすい夜間の繁華街の人出が減少した、④ワクチンの接種が進み、高齢者だけでなく若い世代でも2回接種を終えた人が増えた、⑤気温や雨など天候の影響で屋外での活動がしやすくなり、感染が起きやすい狭い空間での接触の機会が減った。

 これらは仮説であるが、専門家が集まっている政府の感染症対策分科会の見解にしては、素人でも思いつくような要因ばかりだ。それぞれの仮説について専門家なんだから仮説の根拠となる数字があるだろうが、そうした数字は報じられてはいない(報道の段階で数字を略したのか、そもそも根拠となる数字が示されていなかったのかは詳らかではない)。

 緊急事態宣言の終了後に全国で人の移動は活発化しているようなので、新規感染者が今後増加したなら①が正しかったことになる。医療体制の逼迫に対する人々の危機感が薄れることは当分ないだろうから、②であるなら、新規感染者の増加が再来することはないだろう(第6波が来たなら②は否定される)。

 緊急事態宣言の終了後に酒の提供規制は緩和され、夜間の飲食店の来客は増えるだろうから、③なら今後の新規感染者は増加する。④であれば、ワクチン接種者は拡大増加しているので今後の感染拡大は限定的であろう。⑤であれば、冬に向かって気温が今後下がり、屋外での活動は減るので新規感染者は増加する。

 第5波が終息した要因が明らかになれば、第6波を制御できるかもしれない。尾身会長が指摘した5つの要因には専門家の叡智はあまり感じられないが、それは専門家もCOVID-19には無力であることを示す。仮説も様々で、すぐに消え去るものもあれば厳しい検証に耐えるものもある。5つの仮説は、これから感染増加があるかもしれず、厳しい検証に試される。

2021年10月13日水曜日

デルタ株に脆弱

 中国の新型コロナウイルスの感染者数、死者数はともに国際的には少ないほうで、中国は強権で人々の行動を厳しく制約してCOVID-19の感染拡大を封じ込んだとされ、欧米やインド、ブラジルなどに比べ中国は感染対策に成功したと見られている。だが、中国が感染拡大を封じ込んだ後に世界ではデルタ株による感染が拡大した。

 感染力が強いとされるデルタ株が世界で感染拡大する前に中国は国内での感染拡大を抑え込み、外国からの人々の入国を厳しく制限した。その後も感染者は国内で出ているのだが、そのつど感染者が出た地域を封鎖するなど厳しい行動制限で感染拡大を封じているという。共産党が独裁統治する強権国家である中国流の対策だ。

 しかし、デルタ株が世界に蔓延し、各国で膨大な感染者を生じさせた。厳しい入国制限などによってデルタ株がほとんど中国に入っていないとすると、中国はデルタ株に対して脆弱性を持つ。デルタ株の流行を経験した各国はワクチン接種増加とともに規制を緩め、パンデミック前の社会への復帰を模索し始めたが、中国はデルタ株に対する強い警戒を緩めることができない。

 中国がデルタ株の国外からの流入にいつまでも警戒し続けなければならないとすると、外国人の入国を制限し、中国人の外国旅行も限定、観光旅行は許可されないだろう。厳しい入国制限と国外旅行の制限が続くとなると中国はほぼ「鎖国」となる。大量の中国人観光客の購買力に期待する各国は当てが外れる。

 デルタ株に対して中国製ワクチンの効果が高ければ中国は段階的に「鎖国」を緩めることができようが、そうしたニュースは伝わってこない。 世界に蔓延したデルタ株を中国の強権でもどうすることもできず、デルタ株が入ってくれば日本の第5波をはるかに上回る感染者数になるだろうから中国は「鎖国」を続けるしかない。

 感染を抑え込んでCOVID-19対策で世界のトップを走っていたつもりが、デルタ株によっって1周遅れのトップになった中国。感染抑止に成功したという共産党政府の輝かしい実績は否定されてはならないとするなら、デルタ株の流入もCOVID-19との共存への転換も許されまい。共産党政府の輝かしい実績を守ることが、政策の幅を狭め、強権で押し進むしかなくさせている。

 新型コロナウイルスに対して集団免疫が可能なのか不明だが、英国をはじめ各国はワクチン接種者の増加とともに規制を緩めた。爆発的な感染拡大が見られなければ各国は国際的な移動の規制も緩めるだろう。だが中国はデルタ株に脆弱のままでは、「鎖国」を続けざるを得ない。

2021年10月9日土曜日

ロックダウンを主張した人々

  日本で新規感染者が連日急増した第5波の最中に、感染拡大を抑制するために人々に対する厳しい行動制限など可能にするロックダウンを主張した人々がいた。政府の新型コロナウイルス分科会の尾身会長や全国知事会などの主張をマスコミは大きく伝え、ロックダウンを求める人々の声も加えて報じた。

 人々に自粛を要請することが日本では行われたが、諸外国では国家の強制力により、人々の外出や移動をほぼ禁止し、商業施設を閉鎖させ、企業活動をほぼ停止させたりした。ロックダウンも様々で、完全に都市を囲い込んで封鎖する厳格なものから、買い物などの外出や一部の商業施設の営業は認めるなど、その実施形態は幅広い。

 自粛要請だとされた日本では、人々の外出や移動は禁じられてはいなかったが、商業施設の営業はほぼ政府方針に従わせられ、酒類の提供などが厳しく規制され、企業も政府方針に従って社員の出社を減らし、リモートワークに移行した。自粛要請とはいっても日本でも実態はロックダウンだった。

 ゆるいロックダウンを続けてきた日本で、第5波が襲来する中でロックダウンを求める主張を始めた人々は、人々の外出や移動を禁じることが必要だと考えたのだろう。商業施設や企業などはほぼ政府の施策に従っていたが、飲み会などでのクラスター発生や観光地での感染拡大などが報じられ、感染爆発に専門家も行政も政府も無力とあっては、人々の外出や移動を禁止するしかないと考えたか。

 だが、厳しいロックダウンを実施した諸外国が感染拡大を押さえ込むことができたわけではない。欧州諸国のように、厳しいロックダウンでも日本をはるかに上回る感染者や死者を出している。今回のパンデミック対策では科学的知見に基づいていることが強調されたが、厳しいロックダウンによる感染拡大の抑止効果が数値化されて示されたわけではない。厳しいロックダウンの効果について科学的知見に基づいた分析も皆無だった。

 人々の外出や移動を禁じる厳しいロックダウンを求めた人々は、感染爆発の責任を人々に転嫁した。尾身会長や全国の知事らは、国家が強権で人々の行動制約を行うことと民主主義の関係を説明しなかった。彼らが民主主義をどのように考えているのか、質したマスコミもなかったようだ。

 厳しいロックダウンがなくても日本で感染増加の勢いは衰えた。厳しいロックダウンの必要性は現実には否定されたのだが、尾身会長や全国の知事の主張を検証するマスコミはなく、彼らの主張は否定されずに放置されたままだ。権力を振り回したがる人はいつでも存在する。パンデミックを、人々を厳しく管理する国家体制にしようとする人々のチャンスにしたならば、日本の民主主義はさらに空洞化する。

2021年10月6日水曜日

上位10

 世界の感染者数は2億3363万人、死者数477万人と増え続けている(10月1日現在。以下同)。感染拡大のペースが緩やかになった日本では感染者数は170万2580人、死者数1万7685人。9月末日で緊急事態宣言とまん延防止等重点措置が全面解除され、飲食需要や旅行需要などが活発化する兆しが伝えられ、ワクチン接種の普及もあって、ある種の解放感が漂い始めた。

 行政や医療関係者からは、人流や移動などの増加による感染拡大を懸念する声が伝えられ、冬に向かって第6波が到来するのは避けられないとの雰囲気。問題は、第6波の感染拡大がどの程度になるのかだが、先のことは誰にも分からない。ワクチン接種の拡大の効果を現実社会で試すことになる。

 第5波は大きな波だった。日本では1日あたりの新規感染者が1万人を超える日が続き、2万人を超えた日もあった。ワクチン未接種の年代に感染が広がっていたが、ほとんどの年代でワクチン接種が進むとともに感染拡大の勢いが衰えた。これがワクチンの効果であるなら第6波は第5波より新規感染者数は少ないと予想できるが、人流や移動の増加という要因が加わる。

 COVID-19についてはなお未知の部分が多く、人類は制御できていない。英国などが人々の行動制限を緩める社会実験を行っているが、日本でも規制を緩めて、感染状況がどうなるか実際に確かめることにしたと見える。ポイントは医療体制の逼迫度で、感染者が増えても重症者が少なければ、おそらく社会は規制緩和を許容する。

 米国でツアーを始めたローリング・ストーンンズのライブの様子がSNSに断片的にアップされていて、満員の観客が盛り上がっている。1日あたり新規感染者が10万人を超える日が続いている米国で、ストーンズの大規模コンサートでどれほどの感染拡大が起きるのか、これも社会実験だな。

 感染状況を知るために様々な上位10を見てみる(1位から順に10位まで)。

 ▽日本で感染者数が多い上位10=東京37.5万人、大阪19.9万人、神奈川16.7万人、埼玉11.4万人、愛知10.5万人、千葉9.9万人、兵庫7.7万人、福岡7.3万人、北海道6.0万人、沖縄4.9万人。

 ▽日本で十万人あたりの累計感染者数が多い上位10=沖縄3417人、東京2698人、大阪2268人、神奈川1823人、千葉1591人、埼玉1561人、福岡1448人、兵庫1416人、愛知1398人、京都1374人。

 ▽日本で死者数が多い上位10=大阪2970人、東京2934人、北海道1467人、兵庫1388人、神奈川1263人、愛知1136人、埼玉1007人、千葉999人、福岡610人、沖縄312人。

 ▽世界で感染者数が多い国の上位10=米国4361万人、インド3379万人、ブラジル2144万人、英国787万人、ロシア742万人、トルコ715万人、フランス711万人、イラン560万人、アルゼンチン525万人、スペイン496万人。

 ▽世界で死者数が多い国の上位10=米国70.0万人、ブラジル59.7万人、インド44.8万人、メキシコ27.7万人、ロシア20,4万人、インドネシア14.2万人、英国13.7万人、イタリア13.0万人、コロンビア12.6万人、イラン12.0万人。

 ▽世界で致死率が高い国の上位10=ペルー9.2%、メキシコ7.6%、中国4.8%、インドネシア3.4%、南アフリカ3.0%、ロシア2.8%、ブラジル2.8%、イタリア2.8%、ポーランド2.6%、コロンビア2.5%。

 ▽世界で十万人あたりの感染者数=米国13162人、英国11605人、ブラジル10081人、イタリア7733人、ロシア5088人、インド2447人など。

2021年10月2日土曜日

大口が流行り

 自動車には表情がある。正面から見ると、二つのフェッドライトが目、ラジエターグリルが口と映り、生き物の表情を連想させる。自動車は動くものだから、走るという動作が生き物のように自動車を見せ、向かってくる自動車の表情が生き生きとして見えたりする。

 生き物の目を連想させやすい丸いヘッドライトを持つ自動車は少なくなり、ボディラインと一体化した変形のヘッドライトの自動車が多くなり、自動車の表情は大きく変わった。親しみや愛嬌がある表情は少なくなり、感情が読み取れない無機質な表情が多くなり、どけ!どけ!と周囲を威嚇しているような顔つきの自動車も珍しくなくなった。

 そうした威嚇を強調するのが、大きく拡大したラジエターグリルだ。そんなに大きな開口部はエンジンルームの冷却には必要ないので、拡大したラジエターグリルの半分以上がダミー=実際は塞がれている。拡大したラジエターグリルは機能とは関係なく、存在感を強調するためのデザインだが、口を大きく開けている表情に見える。

 人々に好まれるから拡大したラジエターグリルの自動車が売れ、路上に大幅に増えたのだろう。人々の自己主張が強くなったから拡大したラジエターグリルの自動車が売れるのか、面白がって人々が買っているだけなのか定かではないが、おとなしい表情の自動車が何やら新鮮に見えるほど、拡大したラジエターグリルの自動車が路上に増殖している。

 自動車のデザインには世界的な流行があり、その最新の流行の一つが、拡大したラジエターグリルで、ベンツなどドイツメーカーもラジエターグリルを拡大させた。ドイツメーカーはEV(電気自動車)へのシフトを急ぎ、EVの新型車を続々と発表しているが、その多くにも拡大したラジエターグリルが備わっている。

 EVでもモーターやバッテリーなどの冷却は重要だろうが、ラジエターは必要ないのでラジエターグリルはなくてもいい。だが、ベンツなど各社はEVに大きなラジエターグリルを貼り付けている。大きく立派に見せなければ割高なEVを人々には売り込めないと考えたのか、単純に流行に合わせただけなのか詳らかではないが、自己主張が強すぎて環境フレンドリーに見えないところが残念だな。

 1950年代から60年代のアメリカ車は、横に広がった大きなラジエターグリルの下部にメッキが輝く立派なバンパーを装着し、堂々とした押し出しの表情だった。だが威圧感めいたものが希薄に感じられたのは、どこかに余裕と遊び心が漂っていたからだ。最近の拡大したラジエターグリルの流行には、そうした余裕や遊び心が感じられず、売るためには何でもしなければならないとのメーカーの必死さが漂っている。

2021年9月29日水曜日

非常事態

 国家における非常時の典型は戦時で、勝利を目指して国家権力が強権を発動し、総力戦体制を構築して生産力を統制したり人々を動員したりする。こうした非常時は国家権力への信任が問われる時でもあり、独裁的で民心から離反した国家権力が外敵に攻撃されていると人々がみなすと革命につながったりもする。

 大地震や巨大台風など大規模な災害に見舞われた時も国家的な非常時であるが、非常時そのものは時間的に限られる。短期間の非常時の後に長く続く救助活動や復旧・復興過程では国家権力が前面に出る。救助活動や復旧・復興過程は非常時が去った後なので、国家権力の強制力は日常における許容範囲に限られる。

 今回のパンデミックも非常時であり、終息の見通しがつかず長く続くかもしれない。日本以外の大半の国は非常時における国家の強制力を行使して都市を封鎖し、人々の外出や移動を制限し、商業活動を停止させたりした。だが、戦時が続くなら耐乏生活を人々に強制し続けることもできようが、感染症という目に見えない敵との戦いでは、そういつまでも非常時体制を続けることはできなかった。

 各国は徐々に人々の外出制限を緩和し、商業活動など経済活動を再開させた。だが、感染拡大の波が何度も繰り返す懸念があり、いつでも非常時の体制に戻すことができるように国家権力は備え、それを人々も想定しているようだ。

 日本政府が地域を限定したり全国に拡大したりして緊急事態宣言を行ったが、自粛の要請が主で強制ではなかったことに、非常時における国家の強制を認める諸外国から驚きの声が伝えられた。初期の緊急事態宣言では要請に応えて人々が外出を自粛し、商業活動が停止し、感染拡大の勢いは低下した。強制力の行使がなくても日本では人々の協力で諸外国と同等の効果をもたらしたように見える。

 非常時において日本政府が強権を発動できなかったのは、法体系が非常時を想定していなかったからだ。基本法である憲法が戦争放棄を宣言しているのだから、戦時を想定した非常時を法で正当化できない。パンデミックを想定した法整備もなされていなかった。持続する非常時に対応する法整備がなされていないのは、日本で国家権力が暴走した過去の歴史の反省ともいえるが、都合が悪いことは起きないとする思考停止でもある。

 非常時における国家権力の強制力行使の目的は、国家を守ることだ。国家を守る=社会を守る=人々を守るという図式で強制力行使は法で正当化されるが、おとなしく従う人ばかりではない。外出禁止解除や経済活動再開を集会などで要求したり、公園や海岸などに出かけたり、パーティーに集まって飲んで騒いだりと様々な人々の様子が各国から伝えられる。国家権力の強権は非常時であっても、自由を求める人々に常に試される。

2021年9月25日土曜日

新型から季節性へ

 インフルエンザとは「インフルエンザウイルスを病原とする気道感染症で、一般のかぜ症候群とは分けて考えるべき重くなりやすい疾患」で「人類に残されている最大級の疫病」である(国立感染症研究所。以下同)。

 インフルエンザウイルスは「A、B、Cの3型があり、流行的な広がりを見せるのはA型とB型」で、「A型では、HAには15種類、NAには9種類の抗原性の異なる亜型が存在し、これらの様々な組み合わせを持つウイルスが、ヒト以外にもブタやトリなどその他の宿主に広く分布」し、A型インフルエンザは「数年から数十年ごとに世界的な大流行が見られるが、これは突然別の亜型のウイルスが出現して、従来の亜型ウイルスにとって代わることによって起こる」。

 感染して「1~3日間ほどの潜伏期間の後に、発熱(38℃以上の高熱)、頭痛、全身倦怠感、筋肉痛・関節痛などが突然現われ、咳、鼻汁などの上気道炎症状が続き、約1週間の経過で軽快するのが典型的」な症状で、「呼吸器、循環器、腎臓に慢性疾患を持つ患者、糖尿病などの代謝疾患、免疫機能が低下している患者では、原疾患の増悪とともに、呼吸器に二次的な細菌感染症を起こし」やすくなり、「入院や死亡の危険が増加」する。

 インフルエンザの発生状況(2018/2019 シーズン)は、全国で医療機関を受診したインフルエンザの累計患者数は約1200万人で入院患者数は2万人強、死者(超過死亡)は約3400人で例年と同程度とされる。超過死亡とは「直接的、間接的を問わず、インフルエンザ流行がなければ回避できたであろう死亡者数」。

 新型インフルエンザが現れると世界的に流行することがある。過去には1918〜1919年のスペインインフルエンザ、1957〜1958年のアジアインフルエンザ、1968〜1969年の香港インフルエンザ、2009〜2010年の新型インフルエンザA(H1N1)などがある(厚労省サイトから)。

 スペインインフルエンザでは死亡者が日本で約40万人と推定されている(全世界で2千万人とも4千万人ともいわれる)。2009年に新型インフルエンザAが世界的に大流行し、日本では約2千万人が罹患したと推計され、入院患者数は約1.8万人、死亡者は203人だった(翌年以降も流行を繰り返し、季節性インフルエンザとして扱われるようになった)。

 新型コロナウイルスの感染がピークを過ぎたとは新規の感染者数の減少が続くことで判断できるだろうが、感染が終息したと判断するのは簡単ではない。感染者の発生がセロとなる状態が続いても、ウイルスが世界から完全に除去されることはあり得ないだろうから、感染の再発は想定される。

 新型コロナウイルスが消滅することはなく、今後、季節的な流行を繰り返すようになれば、人類は新型コロナウイルスと共存して行かざるを得なくなる。免疫を獲得する人々も増えるだろうから、いずれ新型コロナウイルスも季節性インフルエンザとして扱われるようになるかもしれない。

2021年9月22日水曜日

20年と15年

 米国は2001年10月にアフガニスタンに派兵し、タリバン政権を倒して民政政府を構築させたものの、タリバンを壊滅させることができず、勢力を盛り返したタリバンに追われる形で2021年8月末に駐留米軍はアフガニスタンを去り、20年に及ぶ「米国史上最長の戦争」は終わった。勝利したとの感覚はおそらく米国人にはないだろう。

 米国はアルカイダを駆逐し、オサマ・ビン・ラーディンを殺すことで同時多発テロに対する報復を成し遂げた。だが、弱体の民政政府を支えるために米国は駐留を続けたものの、タリバンはアフガニスタン支配を復活させ、米国流の民主主義の残滓を一掃するだろう。この20年間で米国は2461人の米兵や民間人が死亡し、2万人が負傷したという。それより遥かに多数のアフガニスタン人が死傷しただろうが、実数は不明だ。

 この20年間に米国は2003年にイラク戦争を始め(2011年に米軍はイラクから撤退したが2014年に再駐留)、2007年にソマリア内戦に介入、2011年にリビアに介入した連合軍に参加、2014年にシリアに介入するなど中東やアフリカで戦線を拡大した。だが、それらの戦争で米軍の勝利といえるのはイラク戦争だけだろう。

 20年間の戦争は長いが、15年間の戦争を続けたのが日本だ。1931年に柳条湖事件から満州事変を始め、1937年には盧溝橋事件を引き金に日本と中国との全面戦争である日中戦争に拡大、さらに1941年に真珠湾攻撃から太平洋戦争を始め、1945年に日本は無条件降伏した。中国大陸に侵攻して戦争を続けながら日本は米国などとの戦線を太平洋や東南アジアで拡大、大量の戦死者や餓死者を出して日本はボロ負けした。

 20年間の戦争と15年間の戦争の類似点は、第一に複数の戦争が組み合わせて行われた(20年戦争では個別の戦争が続いたが、15年戦争では最初の戦争が拡大した)。第二に戦争の達成目的が明確でなく撤退の判断が困難だった(達成目的が明確でないから、失敗と判断することに躊躇し、撤収する機会を逃す。国家の決定が失敗だったと認めることが難しい体制であるから、勝てない戦争が長引く)。

 相違点は①戦場(日本は戦場になったが米国は戦場にならなかった)、②兵站(戦線が拡大して日本は補給に支障をきたしたが、米国は補給を行い続けた)、③敵(15年戦争は国家間の戦いだったが、20年戦争は武装組織と国家の戦いが主)、④死者数、⑤核兵器の使用、⑥戦闘の規模(15年戦争では各地で戦闘が続いたが、20年戦争のほとんどで駐留米軍の任務は治安維持)。

 米国に軍事的・経済的に戦争を継続できる余力があり、米軍に比べて弱体な相手に対する戦闘だから20年も続けることができたが、最後には追い出される形でアフガニスタンを去らねばならなかった。15年戦争では米国は日本と4年間戦い、最後には核兵器を使って日本を降伏させた。米国は15年戦争では圧倒的な勝利者を演じ、20年戦争では武力だけでは民心を得ることができないと証明した。さらに土地によっては、核兵器を含む正規軍の武力より多数のゲリラが持つ銃のほうが優勢であることも証明した。

2021年9月18日土曜日

倫理観を先に立てる

  気候変動の危機なるものが共通認識とされる昨今、エコロジーに基づくとする人々の主張が、妙に倫理観を漂わせるのが気になっていた。未来予測は科学において確率で論じるべきものだが、決定したものとして未来を論じる人々が多すぎる。科学は全て真理で成り立っているとの誤解が未来予測を素直に信じることにつながっていると見える。

 エコロジーが倫理観と結びつくのは昔から珍しくなかったようだ。梅棹忠夫さんと鶴見俊輔さんの対談(「50年の幅で」1991年=晶文社刊『鶴見俊輔座談 民主主義とはなんだろうか』所収)で梅棹さんが指摘している。戦後を回想した対談の一部を紹介する(中略した箇所あり)。

鶴見 当時の京大マルクス主義系とは違う空気のなかで話のできる人だったな、あなたは。

梅棹 まったく違っていましたね。みなさん、どうしてあんなことになったのかなあ。50年代、60年代、マルキシズムを奉じる人がたくさんいた。どうしてそういうことが起こるのか理解できなかったし、どうしてそういう人たちが転んでゆくのかもわからない。マルキシズムは一種の新興宗教でしょう。そう思ったらわかるわけだ。ああ、これはやっぱり新興宗教の信者だなあと(笑)。近ごろのエコロジーがそれに近い。

鶴見 梅棹さんの陣営のほうに新興宗教的なものが入り込んできてしまった。

梅棹 そのときこちらはもうエコロジーをやめている(笑)。あれもマルキシズム、社会主義の代替物ですね。社会主義もエコロジーもひじょうに俗耳に入りやすい。だれにもよくわかるんです。いかにもほんとうみたいに聞こえる。だからみな、コロコロといかれてしまう、そういう現象だと思うんです。世界的にそうだと思います。

鶴見 まず倫理的なものを先に出しちゃうんじゃないかな。

梅棹 そうでしょう。倫理が先にあって、それがゆるぎのないものになって、それに全部あてはめてゆく。みんな道徳主義でゾルレン(当為=ねばならない)からはじまっている。

鶴見 客観的必然という考えをまずもとうとして、その必然とゾルレンがごっちゃになってしまう。科学的必然であり倫理的当為でもあるというかたち。「なすべきだ故になしあたう」という考え方。

梅棹 その科学的必然というのは、むしろあとからくっつけた理屈なんです。マルキシズムが日本知識人のなかで主流になったのは、まず道徳的な感覚があって、それを科学的に裏づけているらしく見えるので受容されたんだろうと思う。その道徳的なものも、日本に入ってくるのは江戸時代でしょう。江戸時代の侍の倫理観。

鶴見 侍の儒学。

梅棹 日本に宗教としての儒教が入ってきたとは思わないけれど、理論としての儒学がかなりの影響をおよぼしたのは事実です。とくに行動における倫理規範としての陽明学の影響が大きい。これは明治以後もつづいています。そうした倫理主義の流れがあって、それがマルキシズムにつながるのではないですか。客観的認識が先にあるのとは違います。

2021年9月15日水曜日

共同富裕

 中国共産党が以前から掲げる共同富裕という理念が、貧富などの格差をなくし、社会を構成する皆が等しく豊かになるという共産主義の理想を実現するものであれば中国にふさわしい。問題は、現在の中国は資本主義的な搾取が定着して貧富の格差が甚だしくなり、共産党の幹部が特権階級化していて、現代の中国で共同富裕を本当に実現するなら革命的な強権発動が必要だが、それは共産党の独裁支配を揺るがす。

 経済成長を続ける中国では富裕層が肥大した。富裕層のトップ1%が富の30%以上を得ているという。富裕層の誕生は先富論の実現として容認されたが、巨大化する民間企業が増え、億万長者が並ぶ資本家階級が形成されたとあっては中国共産党は坐視できなかったとも見える。

 「社会主義の本質的な要求だ」と習近平氏が持ち出した共同富裕だが、共産党の幹部や国有企業も対象になる増税による再配分は難しいので、民間企業や富裕層に寄付を求めることを打ち出した。共産党には逆らえないと、アリババは共同富裕の実現に向け2025年までに1000億人民元(約1兆7000億円)を拠出するとし、テンセントは500億元(約8500億円)を貧困層支援などに充てる計画を公表するなど民間企業は次々に政府の方針に従う姿勢を示している。

 富裕層に警戒感が出ているので共産党幹部は会見で共同富裕は「富裕層を犠牲にして貧困層を救うことではない」と説明したそうだが、富裕層の不安を解消できるか定かではない。中国共産党は中国国内では何でも実行できるのだから、必要となれば富裕層の富を国庫に吸収することもいとわないだろう。格差に対する人々の不満が高まれば(=不満を抑え込むことができなくなれば)共産党は豹変する。

 富裕層に富が偏り民間企業が巨額の内部留保を溜め込むという社会は中国だけではない。欧米や日本なども同様の傾向にあるといわれ、共同富裕の理想は各国にも当てはまりそうだ。中国は膨大な貧困層を抱える一方で億万長者など富裕層を肥大させたが、日本など各国は以前、中産階級を厚くすることで擬似的な共同富裕に近づけた。

 だが、その中産階級は非正規雇用の増加などの施策で解体に追い込まれている国が多いようだ。厚い中産階級は消費需要を活発化させるが、中産階級が解体されると可処分所得の総量も減るだろうから総需要は減少する。パンデミック前から日本はデフレが続くにも関わらず総需要が抑制気味なのは、中産階級の解体と下層移行の影響だろう。

 ごく少数の富裕層と大多数の下層で暮らす人々がいる社会が世界で増えると、共同富裕は各国の人々の理想ともなろう。だが理想は実現しないものだ。中産階級を厚くすることは国内の需要を厚くすることであり、社会の安定感をも高めることを各国政府は承知しているだろう。だが、強欲な富裕層の政治的な影響力に各国政府は抵抗できない気配だ。中国も同じに見える。

2021年9月11日土曜日

変化と破壊

  「生態系の変化」と「生態系の破壊」を人類は見分けて区別することができるのだろうか。例えば、ある地域で固有の生物が絶滅した場合、それは生態系の変化か破壊か。絶滅の要因が明確であるなら、変化か破壊かを判断はできようが、複数の要因による複合結果であるなら、どの要因を重視するかで判断は分かれよう。

 人為的に廃棄された有害物や乱獲などによって絶滅したのなら「生態系の破壊」と見なすことは容易だろうが、様々な要因が蓄積して数十年かかって絶滅した場合など、破壊か変化か簡単には判別できまい。客観的な判断が難しい状況では主観的な判断が勢いを得たりすることもある。

 さらに生態系の破壊だったとしても、それは長い時間軸で見ると生態系の変化に含まれる。恐竜の絶滅は小惑星がユカタン半島付近に激突し、その衝撃で広い地表に急激な環境変化がもたらされ、さらに舞い上がった粉塵により気温低下が長く続いたためとされる。これは生態系の破壊であり、環境の破壊でもあるが、新しい生態系や環境に移行したため、地球史からすれば生態系の変化であり環境の変化であろう。

 同じように「環境の変化」と「環境の破壊」の見極めも人類には簡単ではない。環境の破壊は許されないとの認識が広がっているが、環境の変化は人間が許そうと許さまいと人間の都合には関係なく進む。人間の時間軸で認識される変化を人間は環境の破壊と認識しがちだが、人間が環境の破壊と認識するものも地球史で見るならば環境の変化に過ぎない。

 地表の環境は激変を繰り返してきた。人類の歴史は猿人などを含めても1千万年ほどだが、数十億年にわたって超大陸が形成されたり分裂したりと地表の環境は変動し、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返す。人類が繁栄する現在の地表の環境を固定されたものとして基準にすると、環境の変化を破壊だとして危機意識を持つ。だが、人類の都合に関係なく地表環境は変化するので、「環境の変化」と「環境の破壊」の見極めは簡単ではない。

 地球史からすると、生態系や環境の破壊とされるものは生態系や環境の変化に含まれる。人為的な破壊だとしても百年、千年の時間で見ると変化の一つに過ぎない。だが、百年に満たない時間を生きる大半の人間にとって、人為的な要因による変化を破壊と見て、環境や生態圏を保護しなければならないとする。

 環境や生態系は固定されて変化しないものとするから、あってはならないものと破壊を解釈できる。自然を人間の力で制御できるとの思考が根底にある人々だから、破壊を人間の力で止めることができると発想する。だが、環境や生態系の変化ならば、対応することしか人類にはできまい。CO2排出削減で地球環境を変えることができるとの欧米主導による壮大な実験はおそらく失敗するだろうが、失敗だと判明するのは来世紀か(温暖化の危機を強硬に主張した人々の大半は亡くなっているだろう)。

2021年9月8日水曜日

言い返す

 日本は世界に向けての情報発信が下手だとの指摘がある。外国メディアの日本関連ニュースが正確でないと見えたり、日本批判の論評を偏った見方だと受け止めたりすると、誤解や曲解が広まっていて日本が「正しく」理解されていないと悔しがる。そして、情報発信を強化しろとの声が上がる。

 情報発信が下手とは、外国のメディアなどに理解不足や誤解があり、その主因は日本側にあるとの認識だ。だから日本からの情報発信を増やせば、「相手は正しく理解してくれる」に違いないと期待して、日本側の情報発信を改善しようと考える。一方で、外国メディアなどの日本礼讃は、理解不足や誤解があっても無邪気に嬉しがる。

 一般に理解不足や誤解がある場合、①情報の発信側に問題がある、②情報の受信側に問題がある、③双方に問題がある、に分かれる。外国メディアに問題があって理解不足や誤解になっているなら、日本側の情報発信を増やしても効果は限られようし、外国メディアに日本に対するバイアスや偏見があるなら、日本が発信をいくら増やしても期待する効果は得られないだろう。

 「話せば相手は理解してくれる」との期待は、相手が「聞く耳を持たない」なら空回りする。日本の情報発信が下手だから外国メディアに理解不足や誤解があると反省して、日本からの情報発信を増やしてもスルーされるだけだ。どこの国でもメディアが、特定の価値観に基づいてニュースや論を仕立てることは珍しくない。

 下手なのは、情報発信ではなくて日本のリアクション(反論)だとすると、必要なのは、情報発信量を増やすことではなく、言い返すことだと見えてくる。もちろん、情緒的な言葉や罵倒、中傷で言い返すのは禁物で、根拠が乏しい主張も逆効果だ。言い返すとは、相手を説得するための行為であると認識し、相手の理性と知性と理解力に働きかけること。

 理解不足や誤解が生じるのは、①情報の不足、②情報収集の偏り、③情報の解釈の偏りーが原因だが、④意図的な誤解(批判することが目的)の場合もある。言い返す(説得する)場合には、相手の理解不足や誤解の原因を見極めて言い返し、理解不足や誤解があると相手に認識させなければ、相手は認識を変えないだろう。

 何を言われても、言い返さなかったり、おずおずと小声で反論するような人は、何を言ってもいい対象だと甘く見られたりする。言い返すことは相手に理解不足や誤解を気づかせてあげることであり、言い返しの応酬が続くだろうが、そうした積み重ねでコミュニケーションは深まろう。

2021年9月4日土曜日

民主主義の限界

  アフガニスタンからまず大統領が国外に逃れ、米軍が撤収し、タリバンによる支配が20年ぶりに復活した。米国の後押しで誕生した民政政府と国軍が少しはタリバンの攻勢に抵抗するだろうとの米国の目論みはあっけなく瓦解、米軍の撤収はタリバンに追い出される格好となった。

 アフガニスタンに民主主義をもたらすことを米国が掲げたのは、アフガニスタンに侵攻したことを正当化するためだった。だが、「与えられた」民主主義はフガニスタンに根付かず、民生政府は腐敗にまみれていたと批判されるなど実態は「頭から」腐っていたとあっては、民主主義の良さを実感するアフガニスタンの人々は多くはなかっただろう。

 アフガニスタンの人々の多くは旧来の価値観に基づく社会で生きており、西欧起源の民主主義の必要性や価値などを理解できなかったのかもしれない。人権や自由など個人の権利を尊重する考え方も西欧起源だが、例えば、イスラム法などを西欧起源の価値観の上位に位置する社会において、民主主義など西欧起源の価値観が根付きにくいのは当然か。

 日本など西欧起源の民主主義が定着した社会は、統一国家が誕生した後に中央政府に対する人々の批判が活発に行われていたという歴史がある(そうした批判を封じ込めるために中央政府は従わない人々を弾圧した歴史もある)。自由を求める人々が存在したから、強権支配する中央政府が倒れた後に、民主主義が機能する社会に移行することができた。

 西欧起源の民主主義の必要性を理解しない人々が多数を占めている社会では、政治体制としての民主主義が導入されたとしても脆く、定着しても西欧における民主主義とは様相を異にする民主主義になったりもする。民主主義の精神を持たない人々にとって、民主主義の必要性は実感できないだろう。

 世界には自由選挙などを導入して民主主義の体裁を整えた国は多いが、ロシアなど強権支配が実態である国も珍しくない。制度としての民主主義は社会によって変形するものであり、西欧だけが民主主義の解釈権を独占しているわけではない。国情に合わせて様々な民主主義が存在するのであれば、民主主義という言葉の定義は複雑になる。

 タリバンは西欧起源の民主主義とは別種の国家を形成するだろう。サウジアラビアなど西欧起源の民主主義を拒否している国は珍しくなく、ロシアなど独自の民主主義体制の国もあり、中国など1党独裁を続ける国もある。西欧起源の民主主義の広がりには限界があり、多様な統治・支配形態があるのが現在の世界だ。

2021年9月1日水曜日

政権交代のチャンス

 感染爆発という状況に現在の政府が無力とも見えるのは、最優先の課題が何かをはっきりさせることができず、状況の後追いで手一杯だからだろう。新規感染者が大幅に増え、医療体制は逼迫し、経済活動の浮上のメドは立たず、生活に困窮する人々が増え、一方で外出自粛を呼びかけても人々はあまり真剣には受け取らなくなった。

 現在の政府は、人々に向けてポジティブなメッセージを発することもできていない。長引くパンデミックに人々は自分や家族らの感染の不安のほか、収入減や失職などによる生活不安などに直面し続けている。政府や政治家が人々に「よりそって」いるのなら、人々の不安を鎮め、少しでも前向きの気持ちを持ってもらうためのメッセージを発するだろう。

 政府が無力で人々の政府に対する信頼も低下していると見える今、野党は総選挙を待たずに政権交代を要求するチャンスだ。状況の後追いだけの現在の政府と与党にすぐ下野することを要求し、感染爆発の状況にも「我々なら、もっと適切な対応ができる」と具体的な政策を掲げ、人々の支持を得て新しい政府を形成するチャンスだ。

 だが、野党は政府を批判するだけで、現在の政府や与党に代わって政権を担おうとする姿勢を見せない。それは、第一に野党に政権をいつでも担うという意思がないからだ。第二に政権を担う準備がなく、独自の具体的な政策がない。第三に政府を批判するだけの存在である野党という立場に満足しているからだ。

 政権を担う意思がなく、政権を担う準備がなくても、野党が人々に「よりそって」いるのなら、人々の不安を鎮め、励ますメッセージを独自に発することはできる。だが、それも野党は行わない。政府を批判することだけが自分たちの責務だと思い込んでいる気配で、野党の議員は国会議員として相応の収入と地位を維持できることで満足し過ぎているのではないかと疑いたくなる。

 野党に独自の政策があったなら、長引くパンデミックに無力と見える政府が下野しない場合、緊急時における総力戦体制として閣外協力する方法もある。だが、野党は政府批判だけで、事態の打開に向けて具体策を示して協力する姿勢を示さない。政権の支持率が低下傾向だから野党は総選挙で有利かというと、野党に対する支持率は低迷する政府に対する支持率よりはるかに少ないのが現実だ。

 政府も与党も野党も、つまり政治家も政党も人々に「よりそって」いない日本の現在。人々の不安や痛みや嘆きなどを掬い上げて国政に反映させるのが民主主義における政治家や政党の責務だろうが、政治家が「上級国民」に化しているのなら、人々は統治や支配の対象でしかない。これは、主権者である人々が権力に従順であり続けたことが招いた状況でもある。

2021年8月28日土曜日

チャーリー・ワッツ

 チャーリー・ワッツがこの世から旅立った。1941年6月2日に生まれ、2021年8月24日に死去、享年80歳。1963年1月にローリング・ストーンズに加入し、約60年を現役ドラマーとして生きた。手元にある書籍や雑誌からチャーリー・ワッツの言葉を抜き出してみた。

 「初めてメンバーとしてプレイしたのは1963年、イーリング・クラブでだった。とはいえ、1962年にはミック、キース、ブライアンとすでに顔見知りだった。その頃、私はアレクシス・コーナーとシリル・デイヴィスのバンドの一員として、ウエスト・ロンドンにあるホットで汗臭くて狭苦しいクラブと、オックスフォード・ストリートにあるマーキー・クラブでプレイしていたのだ」

 「オルタモントはツアーの最終ステージだった。ヘリで到着し、外に出てみたら、手がつけられなくなった大観衆。ロック・フェスの始まりがウッド・ストックなら、終わらせたのは私たちだ。刺殺事件は見ていない。『ギミー・シェルター』の映像を見るまで気づかなかった。オルタモントで起きたことは、私たちの音楽のせいじゃない。私たちはまたしてもややこしい騒動に巻き込まれてしまったのだ」

 「リックス・ツアーのステージは、スティール・ホイールズのステージをさらに洗練させた感じで実に美しかった。よくミックのアパートメントでツアーの打ち合わせをしたものだ。ありがたいことに、私たちはテクノロジーを手にしている。だが観客とつなげるためには、常にテクノロジーと音楽を結びつけなくてはいけないんだ」

 「私たちは、自分たちが客席から見えないーー蟻みたいにしか見えないことを特に意識するようになった。実際、観客を盛り上げるために、ミックの姿をスクリーンに映し出さなければいけなくなったんだ。ショーの規模がこれだけ大きくなると、特別な助けが必要になってくる。花火やら、照明やら、舞台やら、ちょっとした『仕掛け』がね」

  ※以上は「ザ・ローリング・ストーンズ50」(2012年)から。

 「ある日ジェリー・マリガンの<Walking Shoes>を聴いて、ドラムのとりこになった(ドラマーはチコ・ハミルトン)。それ以来、サックスも他のどんな楽器も目に入らなくなってしまったんだ」

 「レコードを聴いた瞬間、『こんな風に叩きたい』と思った。今でもあの曲を聴くと、同じ思いが込み上げてくる。それほどの逸作だね」

 「セッションの仕事をしたことは一度もない。常にバンドがあった。一つ、または二つ。いや三つを掛け持ちしたこともあったな。ミュージシャンであるってことは、そういうことなんだよ。セッションからセッションを渡り歩こうが、同時に3バンドを掛け持ちしようが、様々な音楽的シチュエーションにおいてプレイできるのがミュージシャンだ」

 「バンドでプレイするってことに関しちゃ数だけはずいぶんとこなしてきた。どれも1〜2カ月単位だけどね。大抵リード・シンガーがメンバーのかみさんと駆け落ちしてずらかる。仕方なく僕は別のバンドに移る(笑)。さもなければ、バンドに人気が出てきて、わがまま放題になり消滅というお決まりのパターンさ」

 「この間もある奴に『まだ、やってるのか?』と尋ねられたので答えてやったよ。『ああ、まだやってるよ。カミさんが僕と別れずにいる唯一の理由もそれなんだ』とね」

 「今のペースのまま進めるのならローリング・ストーンズに終止符が打たれることはないだろう。このストーンズという何かは、大勢の人間に楽しみを与えるものらしいからね。キースもまだ夢中だ。残りの連中もだ」

 「楽しくなくちゃ。だって金はこれ以上欲しいとも思わない。一度100万ドル稼いでしまうと、それではまだ足りなくなる。5000万ドル稼いでもまだ足りない。金じゃないんだよ。気持ちの問題だ」

 「要は音楽なんだ。要は金だという人間も、そりゃ多くいるだろうが、ウサギとニンジンの関係さ。でもストーンズは金が動機だったってことは一度もない。このバンドはなんたってインスティテューションだからな(笑)。金は歯車の一つに過ぎないのさ。最後は上首尾に終わり、何かが僕たちの手元に残るんだろう。ま、せいぜい『何か』くらいは残って欲しいもんだね」

 ※以上は「ROCK JET」誌(Vol.55=2014年。1992年のインタビューの再録)から。

2021年8月25日水曜日

ロックダウンの効果

  首都圏だけでなく全国で新規感染者が激増し、感染爆発が現実となった日本。政府の対策は、緊急事態宣言とまん延防止措置の適用地域の拡大と、人々に外出自粛を求めるなど以前からの対策を繰り返すだけだ。デルタ株は感染力が強いとされるが、デルタ株に最適な新たな対策を示すことができていない。

 以前と同じ対策ではダメだと、もっと厳しい対策を求める声が出始めた。政府の新型コロナウイルス分科会の尾身会長は、ロックダウンの法制化に向けた議論の必要性を公言し、全国知事会も、緊急事態宣言の発令で効果はもう見いだせないことは明白だとして政府に、ロックダウンのような徹底した人流抑制策の検討を求める緊急提言を公表した。マスメディアはロックダウンを求める人々の声を伝えるなど、ロックダウン容認へ加担した風情だ。

 人々の外出や行動を厳しく制限するロックダウンを政府が行うには法的根拠が必要だが、日本では、そんな強い権限を政府に与えることには抵抗が強いだろう(日本には政府が強力な権限を持って人々を統制し、15年戦争に突入して無条件降伏し、独立を失った歴史がある)。だが、政府は感染爆発に無力と見える状況で、新しい対策が求められるのでロックダウンが持ち出された。

 ロックダウンを実施した国は多い。それらの国ではロックダウンで①人々の外出を制限(国内外の旅行などの移動も制限)、②飲食店や小売店など商業施設の営業は禁止、③学校などは閉鎖、④イベントや集会は禁止、⑤感染者が多い地域は封鎖ーなどを行い、違反者には罰金を科す一方で休業補償を手厚くするなど「ムチとアメ」を使い分けた。

 日本は最近の緊急事態宣言で飲食店に対してだけ厳しい営業制限を科したが、飲食店以外の商業施設は営業を続け、学校は閉鎖せず、イベントなども人数制限など条件付きで開催されている。感染者数や死者数が欧米より少なかった日本だが、ワクチン接種も医療体制の整備強化も遅れ、感染力が強いとされるデルタ株の広がりに打つ手が乏しく、人々の外出増加に感染拡大の責任を転嫁して、ロックダウンをチラつかせている。

 ロックダウンに効果があるのなら、欧州諸国などでは感染拡大に歯止めがかかっていただろう。現実は、永遠にロックダウンを続けることはできず、ロックダウン解除後に新規感染者は増加し、最近はデルタ株もあってか日本をはるかに上回る感染者数と死者数になっている。欧州諸国以外にもロックダウンを行った国は多いので、世界の諸国を実例として詳しく検証することが日本でロックダウンを論じる時に役立とう。

 厳しいロックダウンで感染封じ込めに成功した典型は中国だろう(公式発表では累計の感染者数は9万4631人、死者4636人=8月23日現在=とされる)が、それは強権による独裁統治の「成果」であり、日本などの参考にはならない。ワクチン以外にCOVID-19抑制の現実的な方策が見当たらない現在、ロックダウンはワクチン接種が行き渡るまでの時間稼ぎの手段に過ぎないが、ロックダウンの法制化に要する時間を考えると、日本はワクチン接種の拡大に注力するほうが効率的だろう。

2021年8月21日土曜日

中国の法治

 法治ではなく人治だとされてきた中国で、政府は法による統治の形式を急速に整えている。といっても共産党が独裁する中国で、法は政府が決めて形式的な議会を経て成立するが、他に規定など政府が決めて施行する類の「命令」も多く、法治の実態は形式だけだ。そんな中国で、政府が人々を統制するため法を活用している。

 例えば、しつけなど家庭内の教育を充実させる法律を中国政府は提出、年内に成立するという。高齢者や幼い子供を大事にし、勤勉節約に努めるなどの道徳心と、規則正しい生活などの生活習慣とともに、中国共産党への愛党精神を家庭内教育で教え、党や国、社会主義を愛し、国家統一と民族団結を守る概念を教え込むと報じられた。

 法が成立した後に政府は家庭内教育の指針を策定し、小中学校や幼稚園、町内会組織が保護者に、どのように子に教えるべきかなどを助言するのだという。草案では、素行が悪い子の保護者に警察や裁判所が、家庭教育に関する指導を受けるよう強制できるとしていたが、それは見送られた。とはいえ、法に縛られない中国政府とその支持者たちは、人々の家庭での子の教育に干渉を強めるだろう。

 食品の浪費を禁じる法律も中国政府は制定した。飲食店は大量に食べ残した客からゴミ処理の費用を徴収できるようになり、大食いの番組の放送や動画の配信を禁じた。賞味期限切れが近い商品の管理を徹底するようスーパーに求め、食堂を持つ政府機関や学校などと出前サービスを行うネット企業には食品の無駄が生じないような対策を要求したという。

 中国では宴会などで主催者が、客が食べ切れないほど多めに料理を注文し、招かれた客は食べ残すのが礼儀だとされた(客が残さず食べると、料理の数が少なかったとして主催者のもてなし不足とみなされる)。その習慣にも中国政府は法で規制をかけた。中国政府の狙いは、大量に食料を輸入している米国との緊張が高まっていることから、食糧安全保障を意識したと報じられた。

 さらに中国政府は、小中学生向け学習塾の新規開業の認可をせず、既存の学習塾は非営利団体として登記させ、塾の費用は政府が基準額を示す規制を実施した。高騰する教育費負担を抑えて少子化対策につなげる狙いだと報じられているが、学習塾の新規上場を禁じるなど民間の教育産業には大打撃だ。また、宿題量の目安を小学3~6年生は1時間、中学生は1時間半を超えないようにするとした。

 中国政府が人々の生活の隅々まで統制しようとしているのは、宗教的な規範も道徳的な規範も弱い社会で法治を人々の統制に活用し始めたと見える。政府の過剰なまでの統制に対して人々は、従うか黙っているしかない。民主主義の国では「余計なお世話だ」と人々は反発するだろうが、独裁権力が圧倒的な中国で人々は、異議を申し立てることは身の危険を伴うので、従うか黙るしかない。

2021年8月18日水曜日

記憶の伝承

 日本では、1945年に日本が降伏した戦争が特別視される。8月になると毎年、その戦争の記憶を新たにしようとの記事や番組がマスメディアに多くなり、戦争の悲惨さなどが強調され、戦争経験者の「戦争はいやだ」「二度と戦争をしてはならない」などの言葉が入るのが定番の構成だ。

 悲惨な戦争を日本が繰り返さないために、その戦争の記憶を伝承しなければならないと記事や番組で強調されることも多い。76年前に敗戦で終わった戦争の記憶は、戦争を体験していない世代の増加とともに忘れられるものだろう。だから、記憶を伝承しなければならないとする。だが、記録なら文字や音声や映像などで世代を超えて伝えることは可能だろうが、記憶の伝承は簡単ではない。

 記憶は人間の脳に保管される情報だから、脳が活動を停止すると記憶は失われる。戦場での記憶や空襲下の記憶、軍隊内での記憶などは、断片的な当時の記憶に当時の視覚映像や音、感情などの記憶が混じり合ったものだろうから、言葉にできた記憶は記憶の全てではないだろう。言葉にできた記憶を後世が受け継いだとしても、戦争体験者が記憶とともに感じる「実感」を伝えることはできまい。

 記憶の伝承をマスメディアは主張するが、8月15日を過ぎると1945年に日本が降伏した戦争関係の記事や番組は消える。記憶の伝承が必要だとするならマスメディアは常に戦争の記事や番組を提供するべきだが、戦争関連の記事や番組は季節ネタの扱いだ。つまり、1945年に日本が降伏した戦争の記憶の伝承とは、おそらく「戦争はいやだ」「二度と戦争をしてはならない」などの言葉の伝承に尽きるのだろう。

 「戦争はいやだ」「二度と戦争をしてはならない」などの言葉に異論は誰からも出ないだろう。だが、この言葉は戦争体験者の記憶と結び付けなくても、戦争を体験していない世代にも共感できるはずだ。1945年に日本が降伏した戦争を知らない世代も戦争のニュースは知っている。世界では常にどこかで戦争が起きており、大規模な破壊や人々の死傷、大量の難民流出などが起きている。

 マスメディアは、1945年に日本が降伏した戦争の記憶の伝承を人々に促すより、世界で起きている戦争の実態を積極的に伝えるほうが、現在の人々に戦争の悲惨さを実感させ、「戦争はいやだ」「戦争をしてはならない」と実感させることができよう。だが、マスメディアは世界で起きている多くの戦争を、日本人の戦争の記憶に合流させようとしない。

 日本人が体験した戦争は日本人にとっては特別な体験だ(どの国の人々にとっても直接に体験した戦争が特別だろう)。その記憶も記録も日本人が世代を超えて伝承していくことが大事だが、1945年に日本が降伏した戦争を特別視しすぎると、今の日本は平和で良かったねと世界で起きている戦争を軽視し、日本が平和であればいいとの1国平和主義に絡め取られかねない。

2021年8月14日土曜日

常に動いている

 帰省した友人一家と海を眺望できるレストランで会食した時に、友人の子供が穏やかな海を見渡して「静かで落ち着く。動いてるのは波ぐらいだ」と言ったので、実は地球は激しい運動を常に続けていると説明すると友人の子供はたいそう驚いていた。友人の子供に説明したのとほぼ同じ内容のブログを再録する。

  地球の自転の平均速度は約1670km/時(赤道上)というので、秒速にすると約460mになる。日本付近では地球の直径が赤道よりも短くなり、1日の長さは24時間と同じなので自転の速度は約1380キロ/時、秒速は約380mほどと赤道よりも遅くなる。

  地球は太陽の周りを公転しているが、その速度は約10万8000km/時とされ、秒速にすると約28km。自転しながら地球は太陽の周りを凄まじい速度で移動を続けているのだから、部屋の中でじっと座っている人も、太陽系の外から見ると、激しく動き続けていると見えるだろう。

  さらに太陽を含め太陽系も天の川銀河の中を周回している。その速度は諸説あるが、約86万4000km/時とすると秒速240kmになる。地球も太陽と一緒に想像を絶する速度で動いているのだが、宇宙は広大だ。太陽系は天の川銀河の中心から離れた端の方に位置するので、1回の周回に2億年以上かかるとされる。

  約240km/秒で移動する太陽の周りを、地球などの惑星は太陽の移動方向と垂直の方向に公転しながら、太陽とともに約240km/秒で移動する。地球など惑星の公転は、書籍などの図(平面)では太陽を中心にいくつもの円で描かれるが、その円は宇宙空間では引き延ばしたコイルバネのような螺旋運動で地球などは太陽を回っている。

  さらに、天の川銀河も動いている。どのように動いているのかは明確には判明していないが、250万光年ほど離れているアンドロメダ銀河と近づきつつあり、数十億年後に衝突するとされる。おそらくアンドロメダ銀河も天の川銀河も距離を縮めるように互いに動いているのだろう。

  他にも、膨張を続けているとされる宇宙では、宇宙空間そのものに動きがあり、その動きは宇宙の全ての物質に影響しているだろう。その動きがどのようなものかを知ることは簡単ではないだろうが、地球表面の、例えば、公園のベンチにじっと座っている人も宇宙空間の動き(膨張)の中にいる。

  地球は自転しつつ、太陽を中心に約28km/秒で螺旋を描きながら公転しつつ、天の川銀河の中を約240km/秒で移動しているが、天の川銀河もおそらく凄まじい速度で移動している。地球上の人々は、想像を絶するジェットコースーターに乗り続けている。

2021年8月11日水曜日

感染爆発に無力

  日本の累計感染者数は104万749人、累計死者数は1万5290人となった(8月9日現在。以下同)。7月29日に新規感染者が1万人/日を超えてから、ほぼ毎日、1万人/日超えが続いている。このペースが続くと1カ月で30万人以上増え、3カ月で90万人以上、半年では180万人以上増える計算になる。この感染爆発に医療体制は対応できず、各地で大量の自宅待機(療養)者が出るだろう。

 東京25万2169人、神奈川9万8921人、埼玉6万7299人、千葉5万7398人の1都3県で47万人を超え、全国の45.5%とほぼ半分を占める。ここに大阪12万3519人、愛知5万6947人を加えると65万人を超え、同62.8%と全国の3分の2になる。さらに兵庫4万7501人、北海道4万7075人、福岡4万5048人、沖縄2万9080人を加えると82万人を超え、同79.0%(これら都道府県が累計感染者数の上位10)。

 人口密度が高く、職場や学校、商業施設、娯楽施設、歓楽街など密になる状況が多い都市部で感染爆発が起きていると見えるが、過疎地とされる地方でも徐々に感染が増え、累計感染者数は島根810人を除いて全県で1千人を超えた(1万人以上は前記10都道府県と京都、茨城、広島、静岡、宮城、岐阜)。感染者数が多い都市部からの移動増加が全国的な感染増加を招いたと類推できる。

 状況が変わったなら、それに対応した新しい対策が必要だ。だが、COVID-19についてはまだ確実な情報が少ないためか、今回の感染爆発に政府は新しい対策を打ち出すことはできす、感染爆発に無力だとも見える。政府は従来の対策を繰り返し、緊急事態宣言とまん延防止等重点措置の適用地域を拡大しただけだ(緊急事態宣言とまん延防止等重措置に効果があったならば、感染爆発は抑え込めていただろう)。

 自粛要請にも関わらず都市部で人々の外出が増え、特に酒を提供する飲食店での会食が感染拡大の主要因だと政府や都道府県は規制を強めてきたが、感染は拡大を続ける。酒を伴う飲食店でクラスターが発生することは政治家や厚労省職員などの宴会の実例で明らかだが、酒や飲食店を狙い撃ちにするだけでは感染拡大を防ぐことができないと今回の感染爆発は示している。

 従来の対策だけでは効果が見えないことで政府関係からは、人々の気の緩みに責任転嫁したり、もっと厳しい行動制限へ向けての法整備を主張する声も聞こえてくる。だが、人々に対する厳しい行動制限を可能にする権限を無能な政府が手にしたなら、人々の行動を無闇に制限するだけで、効果は上がらず、感染拡大は続くとの予測もできる。

 今回の感染拡大は、政府の権限に問題があるのではなく政府の機能に問題があると認めるなら、政府の動き方は変わらざるを得まい。だが政府にはデルタ株という感染拡大の責任を転嫁できる対象がある。デルタ株に対する新しい対策を政府は提示できていないが、感染爆発はデルタ株によると政府は主張し、それをマスメディアは検証しない。こんな状況が続くなら、感染爆発は続く。

2021年8月7日土曜日

ジェンダー・ドーピング

 近年、性別は先天的に決まっているとの概念が揺さぶられ、個人が決める(=性別を変更する)ことを社会的に許容する動きが欧米から世界に広がりつつある。「男らしく」「女らしく」など性別による価値観や宗教的制約が根強い社会はなお多いが、欧米主導の価値観の影響力も強力だ。

 精神疾患の一つとして扱われる性同一性障害など性別と自己意識の不一致に苦しむ人がいるのだから、個人が自分の性別の決定権を持つのは、個人の尊厳と自由を重視する社会では当然かもしれない。とはいえ、誰かの性別の変更は周囲に困惑や混乱をもたらすだろうし、性別による様々な区別は社会に存在するのだから混乱や対立を招く。

 初めてトランスジェンダーの選手が五輪に参加し、各国メディアの注目を集めた。東京五輪の重量挙げ女子87kg超クラスにトランスジェンダーのNZ選手(43歳)が出場した(敗退)。同選手は10代から20代前半はNZで男子種目に出場し、35歳の時にトランスジェンダーを公表、2013年に性別適合手術を受けた後は女子種目に出場していたという。

 男性の選手として競技大会に出場していた人が、女性になって女子種目に参加することには公平性が損なわれるとの批判がある。第一に、性別は変えても筋肉や運動能力は男性のままだから他の女子選手より有利、第二に、一般に男性のほうが体格が良いので他の女子選手が不利、第3に、一般に男性のほうが持久力があるので他の女子選手は不利ーなどだ。

 IOC(国際オリンピック委員会)は2015年、トランスジェンダー選手が女子の競技に参加することについてガイドラインを策定し、男性ホルモンのテストステロンの値が12か月間にわたって一定以下であれば認めるとし、トランスジェンダー選手の参加を容認した。男性ホルモン値が基準以下であれば「女性選手」になることができると認めたわけだが、不公平感を一蹴できる説得力がどれほどあるのか不明だ。

 今回はトランスジェンダー選手が早々に敗退したため、トランスジェンダー選手の参加は大会のトピックの一つとして終わったが、参加が今後は徐々に増えることが予想される。競技者の中にも性同一性障害に苦しむ人がいるだろうから、そうした人の競技参加は容認されるべきかもしれないが、男性として鍛えてきた人が女性として女子種目に参加することが増えれば、五輪でメダルを取る人も増えよう。

 そうした状況を積極的に利用する国がやがて現れそうだ。選手の健康に害があるドーピングを選手に強制して五輪でメダル獲得を増やそうとする国は現在も存在する疑いがあるのだから、メダルに届きそうにない男性選手を女性選手に変えてメダル獲得数を増やす国はきっと現れる。国内ではトランスジェンダーを排除する強権支配の国のトランスジェンダー選手が、国際大会で活躍するという奇妙な光景がいつか見られるかもしれない。

2021年8月4日水曜日

世界でも繰り返す波

 世界の累計感染者数は1億9819万人で、累計死者数は422万人だ(8月2日現在。以下同)。累計感染者数が多いのは米国3497万人、インド3165万人、ブラジル1991万人で、この3国だけが1千万人を超えており、3国で世界の43.7%を占める。次いで多いのがロシアとフランスで620万人、英国590万人、トルコ572万人、アルゼンチン492万人、コロンビア478万人、スペイン444万人、イタリア435万人、ドイツ377万人などとなる。

 世界各地で感染拡大の波は繰り返している。大規模なワクチン接種により感染拡大を抑制できるとの期待があったが、若者らワクチン未摂取者の間で感染が拡大していると各国で報じられ、さらにワクチン摂取者は感染しても無症状が多いので感染源になるとの懸念も指摘されている。

 米国では新規感染者数が8万人/日になり、感染拡大が鮮明になっている。このままでは30万人/日になるとの予測もあるそうで、再び人々にマスク着用を呼びかける州や企業が増えているという。一方、共和党が強い州ではマスク着用やワクチン接種の義務化に消極的だと伝えられ、感染拡大対策が政治問題化しており、全米規模で感染を抑制できる見通しはぼやけている。

 インドでは4〜5月の40万人前後/日の感染爆発は収まったが、それでも4万人/日ほどの新規感染者が出ている。その感染爆発はデルタ株によるものとされるが、デルタ株は世界に広まり、120カ国以上で確認されたとWHO。感染力が従来株より強いとされ、さらに感染拡大が続き、数週間で2億人以上が感染するとWHOは予測する。

 ブラジルでも新規感染者は多かった6月より減っているが、それでも3万〜4万人/日ほど出ている。ワクチン接種が遅れ、冬が到来した状況は厳しいが、ボルソナロ大統領はじめ中央政府は感染対策の推進に否定的で、いわば放置状態が続いている。死者数は55.6万人と米国61.3万人に次いで世界で2番目に多い(インドは42.4万人)。

 ワクチン接種が進む英国で新規感染者は1月に5万人台/日だったが、その後、1万人/日を下回り、規制解除へと動いた。6月半ばから再び増加し始め、7月中旬にまた5万人/日を超えたものの最近は2万〜3万人/日。死者や重症者が増えていないことから規制解除を見直さないと政府は主張する。ただ感染者が増えて濃厚接触者として自己隔離を求められる人も増えて食品や日用品などの流通に影響が出ているという。

 昨年1月の感染確認以来、世界は緊急事態として感染拡大抑止を最優先させてきたが、COVID-19の終息のメドは立たない。ワクチン接種には重症化を抑制したり感染率を低下させる効果はありそうだと見えてきたが、変異を繰り返すウイルスは手強く、マスクを着用せずに会話や飲食を楽しむことができる日がいつになるのか見通しはつかない。

2021年7月31日土曜日

不安を煽る商売

  五輪が開幕する前は感染拡大の危機をさんざん煽っていた新聞やテレビだが、開幕すると一転し、日本人の活躍やメダリストのひたむきな努力ストーリなどを連日大きく扱う。東京はじめ全国で感染が拡大しているが、そうした報道は事実を伝えることが主で不安を煽ることは控えめな印象だ。中止も再延期もなく五輪が始まったという現実に合わせて素早く方向転換したと見える。

 マスメディアの方向転換は、よくある現象だ。新聞やテレビは各社のそれぞれの確固とした価値観に従って報道しているとのイメージを持つ人もいるが、実際は、読者や視聴者が関心を持つだろうことを優先する(=読者や視聴者に迎合する)。感染拡大の不安を煽るのも、五輪での日本人の活躍を報じるのも、その時々で変わる読者・視聴者目線のニュースバリューに従った振る舞いだ。

 「君子は豹変す」るそうだが、マスメディアも豹変する(マスメディア=君子だと言うのではない)。豹変はさておくとしても、「騒ぎすぎだ」「情緒的すぎる」「批判するか賛美するだけで、分析が欠如」など報道に対する批判はある。だが、理性的な報道に徹する新聞やテレビが存在したとしても、読者や視聴者の支持をどれだけ獲得できるか不明で、成功は見込み薄だろうことを考えると、人々に迎合するのが商業マスメディアだと理解するしかない。

 そうしたマスメディアは、例えば、感染拡大の危機を煽り立てて読者や視聴者の不安をかき立てるが、それは読者や視聴者が不安を感じてるから、それに迎合して危機を煽る。どちらが先かは定かならず、マスメディアは人々の興味や関心の動向を反映する鏡だとすれば、啓蒙的な役割をマスメディアに求めることは無理だろう。

 不安を煽ることでマスメディアは人々の注目を惹く。「日本の政治はうまくいっています」と報じるより、野党や評論家や外国メディアの日本政府批判を伝え、問題点を指摘してみせたほうがメディアの役割を果たしている風情になる。他者の批判を仲介して報じるから、当事者責任を回避しつつ、客観性を装って何でも批判できる。

 正確な情報を得て、脅威となる事象が起きる確率を知ることで危機を過大視せずに不安を抑えることができる。だが、マスメディアは確率を交えた情報提供をほとんど行わず、不安の存在だけを強調する。それは人々が浮き足立っていることの反映なのだろうが、不安を人々とマスメディアが交換しあって大きく育てているようでもある。

 「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」とは石川五右衛門の辞世だそうだが、「世に不安の種は尽きまじ」と人々が常に何かの不安を感じ、「世に不安を煽るネタは尽きまじ」とマスメディアは、その時々の不安を煽る。不安を煽ることも、勝った勝ったと大騒ぎすることもマスメディアの商法だ。

2021年7月28日水曜日

最速15分は長いか

  2016年3月に北海道新幹線が開業し、北海道内では木古内駅と新函館北斗駅に新幹線が停車するようになった。本州から新幹線に乗って来た人が人気の観光地である函館に行くためには新函館北斗駅でアクセス列車(はこだてライナー)に乗り換える必要があり、所要時間は快速で最速15分(函館駅は新函館北斗駅から約18キロ離れている)。

 この最速15分が「残念だ」と開業当時にメディアに現れた記事は指摘した。せっかくの新幹線の駅が函館市から離れた場所にあり、観光客が函館市に行くために、新幹線を降りて乗り換えて、さらに最速15分もかかるのはマイナスだとした。多くの記事で同じような主張が繰り返されたので、最速15分が残念なことだとのイメージは定着してしまった気配だ。

 しかし、最速15分はそんなに残念なのだろうか。函館駅に新幹線が直接乗り入れたなら最も利便性が高かっただろうが、そうすると札幌までの北海道新幹線の延伸に支障が出てくる(函館駅は青函連絡船との連絡に便利な海際の位置に設置されたので、鉄路は行き止まりになる)。

 北海道新幹線は札幌までの延伸を前提に構想されたのだろうから、函館を新幹線の終着駅とすることはできず、また、函館駅で新幹線の進行方向を前後を逆に転換するのは高速鉄道では余計な時間がかかり過ぎだと判断されよう。新函館駅の設置箇所は札幌延伸に好都合な場所に限られるからアクセス列車が必要となった。

 どこかの観光地に新幹線に乗って行き、新幹線を降りてから、さらに移動に時間がかかることは珍しくない。例えば、大阪府内の唯一の新幹線駅である新大阪駅から大阪市内の各地に行くには在来線に乗り換えなければならない(新大阪駅から難波駅に行くには15分かかり、天王寺駅には20分以上かかる)。

 東京も同様で、新幹線を東京駅で降りてから、例えば吉祥寺駅に行くには在来線に乗り換えて30分近くかかるし、スカイツリーに行くにも約30分かかり、新宿に行くには13分、渋谷には30分弱、池袋には約25分、浅草には約20分、六本木には14分、下北沢には約30分などと、新幹線を降りてからの移動には時間がかかる。

 最速15分が残念だという指摘の根拠は曖昧だ。そこには東京のメディアが地方を見る視線の歪みが露呈している。歪みとは、地方には地方の物差しを当てて評価するが、東京などには別の物差しを用意すること。だから、世田谷区の住民が東京駅で新幹線を降りてから自宅まで移動する時間は問題にしないが、新函館北斗駅から函館駅に移動する最速15分は残念だと評価する。

2021年7月24日土曜日

表現と主張

  子供から大人まで、絵を描く人は多い。何かを表現したいと描き始めて作品を仕上げた当人は精神の充実感を得るだろう。作品を仕上げて満足する人が多いだろうが、中には自分の作品を他の人にも見てもらいたいと公募展に参加したりする人もいる。作品が高評価を得て売買の対象になったりすると、絵を描くことを職業とする画家の誕生だ。

 画家には誰でもなることができる。売買される作品を描く人は他の人からも画家と認められるが、売れない絵を描き続けても画家だとの自負があれば画家だ。前者の描いた絵は芸術作品とみなされようし、後者の描いた絵は表現活動の成果とされる。売買の対象になる作品の芸術的な価値が、売買の対象にならない作品より常に高いかどうかは不明だ。

 売買の対象になる作品は芸術的な価値が高いとされるが、同時に商品としての価値も高い(芸術とされる作品は資産としての価値が高く、転売すると利益が出る可能性がある)。ただし、芸術的な価値と商品としての価値は常に比例するとは限らない。誰も買おうとしない画家の作品の中にも芸術的な価値が高いものはあるだろう。

 芸術としての価値にも、多くの人が認める場合と本人だけが認める場合がある。多くの人が認めない作品は芸術ではないとはいえず、人々による評価と芸術的な価値は必ず一致するとはいえまい。だが、それはしばしば生じることではなく、多くは人々が芸術とみなす作品が芸術とみなされる。

 極めて優れた表現や斬新な表現などによる完成度の高い作品が芸術作品とみなされるが、その表現に主張が含まれることがある。ただし、主張は表現の「解説」であり、主張を省いても優れた表現として自立できない作品は、芸術の名に値しない表現である。それは主張を広めるための宣伝物でしかない。

 だが、主張の宣伝物である作品は、その主張を支持する人々から高く評価される。それは主張を広める媒介物としての評価であり、表現に対する評価ではない。主張を広めるための表現は、極めて優れている必要はなく、斬新な表現である必要もない。主張を引き立たせるためには凡庸な表現でよく、表現として自立することは求められない。

 プロパガンダのための表現も芸術作品になることはあるが、そうした表現は主張と切り離しても自立する。とはいえ、年月とともに主張が陳腐化しても、表現として評価される作品は最初から主張を上回る優れた表現を見せているものだ。主張が評価されただけの作品を描いて満足している画家は、自分の表現が主張に隷属していることを恥じるべきだろう。

2021年7月21日水曜日

何でも異常気象

 ドイツ西部やベルギーなどで7月14〜15日に24時間の総雨量が100~150ミリという集中豪雨があり、河川が氾濫して洪水が発生した。確認されている死者はドイツで160人、ベルギーで31人だが、多数の行方不明者がいると見られている。欧州で大規模な洪水の被害が発生するのは2000年以降で4度目という。

 停滞する低気圧が今回の集中豪雨をもたらしたと報じられ、現地メディアは、春に降った大雨で土壌が大量の水分を含み、今回の集中豪雨の水分を十分に吸収できず、河川に大量に流れ込んだと伝えたそうだ。春に降った大雨の水分を夏になっても含み続ける土壌とは、よっぽど珍しい土壌だな。

 ドイツの被災州の首相は「100年ぶりの気象災害だ」と述べ、独政府のメルケル首相は「衝撃を受けている」と気候変動対策を急ぐ考えを示し、内相は「この惨事が気候変動に関係していることを疑うことはできない」と語り、欧州委員長は「気候変動の明らかな兆候だ。早急に行動すべきだ」と温暖化対策の重要性を訴えた。今回の集中豪雨でドイツにおける気候変動に対する危機意識が一層強まることは間違いないだろう。

 気候変動の危機なるものをドイツなど欧州は、経済構造を変えて世界における主導権を確保するために戦略的に活用する。EUが発表した温暖化ガスの大幅削減に向けた包括案では①内燃機関車の新車販売について2035年に事実上禁止、②環境規制の緩い国からの輸入品に関税をかける国境炭素調整措置(=炭素税)を23年に導入ーなどを打ち出した。

 今回の洪水被害は、まさしく気候変動による危機の現れであるとドイツも欧州もアピールする。住民への危険周知が遅れたとか洪水被害に対する事前の備えが足りなかったなどの批判を気候変動を言い立てることでドイツ政府などはうやむやにできるだろうし、気候変動に対応する新たな経済構造への移行を強制することでEUは主導権を確保できる。

 だが、今回の集中豪雨が気候変動によるものなのか科学的な検証は簡単ではない。24時間の総雨量が100~150ミリという集中豪雨は昔から世界のどこかで毎年、発生する(日本では梅雨末期や台風襲来時などに毎年起きる)。そうした集中豪雨の、どれが気候変動によるもので、どれが通常の気象現象に含まれるものか、判別することは研究者にも簡単ではないだろう。

 原因は気候変動による異常気象だとしておけという判断停止は、気候変動の危機を感じる人々と気候変動を利用しようとする人々に共通する。大雨も猛暑も旱魃も台風なども何でも異常気象だとして、気候変動が原因だとする判断停止が欧州をはじめ世界に広がる。例えば、今回の欧州西部の集中豪雨がどんなメカニズムで発生したのか具体的な説明を求めるなら、気候変動論に飛びつかなくても冷静に解釈できるだろう。

2021年7月17日土曜日

ある死刑論

  ある友人は若い頃に大逆事件を知ってから、死刑制度に反対する考えを持つようになったという。政府が社会主義運動を弾圧するために24人に死刑判決を下し、12人を恩赦により減刑する一方、幸徳秋水ら12人の死刑を執行して社会から完全に排除した大逆事件。国家(政府)が政治的な目的で死刑制度を都合よく利用することは、日本を含む世界各国で行われてきた。

 現在の日本では、大逆事件と同じような「でっち上げ」による死刑が行われることはないと友人は考える。だが戦後も自白の強要や証拠品の捏造・隠蔽などが珍しくない中で死刑判決が出され、後日、冤罪だと判明した事例も少なくないのだから、死刑という制度は放棄すべきだと友人は主張し、冤罪や誤審で死刑になる人が存在する確率は残っているのだから、死刑制度には問題が多いとする。

 その友人が、限定的な死刑制度の容認に考えを変えたのは宅間守の存在だった。2001年6月、大阪の教育大付属池田小学校に宅間守が侵入し、包丁で8人の児童を殺害、13人の児童と教諭2人に重軽傷を負わせた。裁判で宅間守は、殺害された児童の保護者に罵声を浴びせたり、最終意見陳述で「幼稚園ならもっと殺せた」などと話し、反省の態度は示さず、謝罪の言葉はなかったという。

 宅間守に同情すべきところはある。家族に君臨して暴力を振るう父親と育児放棄の母親との家庭で育ったという宅間守は小学生の頃から粗暴で問題行動を繰り返し、十数回の逮捕歴があり、少年刑務所で服役したり措置入院させられた。「虐げられて」育った宅間守が攻撃性を強めたのは自己防御の反応とも解釈でき、粗暴な父親を無意識に真似て育ったのかもしれないし、裁判での言動は一種の自殺願望の現れとも解釈できる。

 だが、無差別殺傷という犯行を正当化する理由はこの世に存在しないとする友人がおののいたのは、当時38歳の宅間守が小学校に侵入して児童8人を殺害、13人を負傷させたことだ。宅間守に比べ圧倒的な弱者の児童を次々と包丁で襲った行為には、弁解の余地は全くないと友人は判断し、極刑はやむを得ないと考えを変えた。

 死刑がなければ宅間守は無期懲役になっていただろう。懲役が続くうちに宅間守が反省し、謝罪するようになる可能性はあるが、その反省や謝罪にどんな価値があるのかと友人は疑問を持つ。本当に宅間守が反省し、謝罪したところで、宅間守が犯した児童の無差別殺傷を、なかったことにはできない。死んだ子供は甦らないし、負傷した子供の精神的な傷が癒されるわけではない。

 死刑制度には問題が多いとの考えを変えていない友人は、①無差別な複数人の殺人、②計画的な殺人ーに限って実行犯に対して死刑判決も容認するとした。そうした殺人には実行を考え直す時間は十分あり、あえて行った殺人行為は当人の強い意思によるものであるから、その判断には相応の重い責任が生じると友人は考える。

2021年7月14日水曜日

ただのカゼ

 日本でも接種が進むCOVID-19ワクチンの効果について厚労省サイトでは、①ファイザー社のワクチンでは約95%、武田/モデルナ社のワクチンでは約94%の発症予防効果が確認されている、②実際に接種された人の情報を集めた研究等から重症化予防効果を示唆する結果が報告されている、③感染を予防する効果については承認前の臨床試験では確認されていない。

 ①は、「100%の発症予防効果が得られるわけではない」ので「ワクチン接種後でも感染する可能性はある」が、約94〜95%の発症予防効果があるので感染は相当程度抑止できることを示す。外国ではワクチン接種者は接種していない人よりも感染者の発生が少ないとの報告もあるが、臨床試験ではないのでデータの扱いに注意を要すると厚労省。

 重症化予防については、ワクチン接種が進む各国で重症化する人や死亡者が減少していると報じられているので、効果はあると見てもよさそうだ。早期のワクチン認証による世界規模での「人体実験」という挑戦が、現在のところ成功した形だ。英国での調査では、接種者の91%に抗体が確認され、感染数や感染後の重症化リスクが下がったと報告されている。

 だが、ワクチンの効果はウイルスとの関係で変動するとの報告もある。イスラエル保健省は、ファイザー社ワクチンの感染予防効果が6月以降、従来の95%から64%に低下し、デルタ株の影響の可能性があるとした。重症化を防ぐ効果は従来同様の93%という。各国に先んじてワクチン接種を進めたイスラエルで新規感染者は減少、国内で規制を緩和したが、感染者が増加に転じた。

 イスラエルの発表したデータが各国にもそのまま当てはまるのか不明で精査が必要だろうが、ワクチンが万能ではないことは特に中国製ワクチンの大規模接種を進めた国に顕著だ。ただ、ワクチン接種の拡大とともに規制を緩和するのだから人々の接触機会が増え、感染者が増加するのは当然だろう。規制緩和で感染者が増えたとしても、重症化する人や死者を減らすことができるとすればワクチン接種の効果はある。

 ワクチン接種によって、新規感染を抑止することはできなくても、重症化や死亡する人を減らすことができるなら、ワクチンはCOVID-19を「死に至る病」から「ただのカゼ」へと変える。世界各地で感染者数は増減を繰り返しているので、いつかCOVID-19が雲散霧消するとの期待は薄らいだが、「ただのカゼ」になるなら病としての深刻さは低下しよう。

 ワクチン接種で重症化を抑制でき、死者も減っていると英国は法的規制をほぼ解除する。イベント等の人数制限も撤廃し、パンデミック前の日常に近づける計画だ。ワクチン接種により集団免疫を獲得し、COVID-19と共存する日常を実現する狙いだが、再び新規感染者数が増加傾向の状況で、英国の試みの結果がどうなるか。世界が注視する中で英国は新たな「人体実験」に踏み切る。

2021年7月10日土曜日

米軍の侵攻から20年

 米国は7月6日、アフガニスタンからの米軍撤収が9割以上完了したと発表した。米軍がアフガニスタンに侵攻したのは20年前の2001年10月。同年9月11日に米NY市における同時多発テロが発生した後、米国はアフガニスタンのタリバン政権にアルカイダのビン・ラーディンらの引き渡しを要求したが、タリバンは応じなかった。

 この20年間に米国はアフガニスタンでタリバン勢力を劣勢に追い込み、民政政府を誕生させたが、タリバンを壊滅させることはできず、米軍の活動範囲における治安は維持できたものの全土における治安は確保できなかった。米軍の撤収に呼応するようにタリバンは活動を活発化させ、米軍が去った後に全土を制圧するとも見られている。

 米軍はタリバンに敗れた構図だ。米軍はアフガニスタンに侵入し、圧倒的な武力で制圧することもできたが、民生政府はもろく、政府軍は弱体のままだ。厳格な宗教規範による統治を行ったタリバンが民心を得ているわけではないが、米軍もアフガニスタン民政政府も民心を得ているとは見えず、20年もあったのに米軍も米国もアフガニスタンをタリバンから解放された国にすることはできなかった。

 おそらく米国は同時多発テロに対する報復感情が当時のアフガニスタンに対する懲罰感情につながり、アルカイダを匿うタリバン政府を倒すことを急いだが、倒した後のことは考えなかった。圧倒的な武力でタリバン政府を倒すことは簡単だったが、米軍が引き上げたならタリバンはすぐに勢力を回復するので、タリバンの回復を抑えるために米軍は駐留を続けざるを得なかった。

 米軍の駐留は続いたが米国にアフガニスタンの国づくりのプランがあったわけではなく、民政政府という体裁を構築しながら20年が経過した。アルカイダを駆逐し、ビン・ラーディンを殺害したことが米国の成果だった。だが、米軍の撤収の後にはタリバン政府の復活が待っているとすると、米国は同時多発テロに対する報復を成し遂げたが、アフガニスタンで成し遂げたのは、それだけだった。

 米バイデン大統領は7月8日、アフガニスタン駐留米軍を8月31日までに撤収させるとし、米軍に協力したアフガン人の通訳らを米国に受け入れる作業を急ぐとも述べ、攻勢を強めるタリバンに対しては、兵30万人を擁するアフガニスタン政府軍に対応する能力があるとした。そのアフガニスタン軍の兵士は、タリバンの攻勢に押されタジキスタンなど隣国に逃げ込んでいると報じられる。

 米軍のアフガニスタン侵攻から20年。米国が望むような「民主国家」は誕生せず、同時多発テロに対する米国内の報復感情は収まり、長期の米軍派兵に対する負担感が勝るようになったとあっては、米軍撤収が米国の最優先課題となった。米軍侵攻から米軍撤収までの20年に欠けているものは、アフガニスタンで生きる人々に対する配慮と共感だ。

2021年7月7日水曜日

人民服の意味

 中国共産党の結党100周年の祝賀式典で中国共産党の中央委員会の総書記である習近平氏が演説し、報道によると「共産党がなければ新中国もなく、中華民族の偉大な復興もない。党の指導は中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴で、最大の優位性だ」などと述べて中国共産党を讃えた。

 共産党が独裁する中国で習近平氏は中国共産党の中央委員会総書記という最高位にあり、また、党中央軍事委員会主席を兼務する。習近平氏は中国という国家においては国家主席であり、国家軍事委員会主席でもある。共産党が独裁している中国で、党の総書記という地位は国家主席より遥かに上位のポジションである。

 祝賀式典で演説した習近平総書記が人民服を着ていたことについて、日本では「毛沢東を模倣した」「自分は毛沢東の後継者である」と内外に宣布する目的だとか、「一人だけ権威付けを行っている」「中国としては最もフォーマルな服をまとった」「現役の最高指導者だけが人民服を着て、他の人は背広を着る」のが中国のルールだなどと様々に中国ウオッチャーたちが述べた。

 演説する習近平総書記の背後に並んだ現役幹部や長老たちが全員、背広にネクタイ姿なのに習近平総書記だけ灰色の人民服姿だったのだから、この人民服姿には意味があると考えるのは当然だろうが、「毛沢東を模倣した」などは評者の思い込みでしかなく、「現役の最高指導者だけが人民服を着て、他の人は背広を着る」は習近平氏が背広姿で現れることが多いことを説明できない。

 中国の最高指導者が共産党中央委員会総書記として現れるときには人民服を着用し、国家主席として現れるときには背広姿だと理解すれば、今回の習近平氏だけが人民服姿だったことの意味がわかる。これは中国共産党が中国という国家を従えていることを示す演出なのだ。

 演説する習近平氏の人民服姿は中国共産党を示し、背後に並ぶ最高幹部らの背広姿は中国という国家を示す。現役幹部らも中国共産党の高官なのだから人民服姿でもよく、むしろ党の祝賀式典なのだから全員が人民服姿でもおかしくはないのに、わざわざ演説する習近平氏だけが人民服で、背後に並ぶ現役幹部らは背広姿。習近平氏が個人の意思で人民服を着用したのではなく、独裁統治を続けるという中国共産党の意思表示である。

 中国を支配する中国共産党が、内部では透明性がある民主的な仕組みで幹部や最高指導者が選出され、政策の立案や施行などにも歪みがないなど「賢人政治」が行われるなら慶賀の至りだが、伝えられるのは中華民族なるものに同化しようとしない人々に対する過酷な処置だ。中国共産党はこの100年間に、どれだけの人間を殺し、傷つけたのか。中国共産党から中国という国家が解放されることを願う人々には、祝うことは何もない。

2021年7月3日土曜日

AMからFMへ

 日本初の民放ラジオ局である中部日本放送と新日本放送が開局したのは70年前の1951年。次々と全国でラジオ局の開局が続き、相撲中継や野球中継、連続放送劇、リクエストによる歌番組、クイズ番組など多くの人気番組が誕生、ラジオは全盛期を迎えたが、やがてテレビの普及とともに聴取者は減少した。広告費減少などでラジオ局の経営は厳しく、2019年度の全国のラジオ局の売上高合計は3年連続で減った(帝国データバンク調べ)。

 FM局も全国各地に誕生したが、ラジオの主力はAM局だった。人気パーソナリティによるワイド番組や深夜放送など人気番組はAM各局に存在し、インターネットによる番組配信などで新たな聴取者の開拓も進めているが、全盛期のような多くの聴取者を獲得することはできていない。広告の出稿はインターネットに向い、ラジオ局の前途は先細りとの見方があった。

 こうした中、全国の民間AMラジオ47局のうち東京のTBSラジオ・文化放送・ニッポン放送を含む44局が2028年秋までにFM放送への転換をめざすと表明した。全局がFMに完全移行するのではなく、AMを併用する局もある。また、北海道と秋田の民放3局は放送エリアが広大であることなどからAM放送を続けるという。

 FM波の到達範囲は100km程度とされるが、AM波の到達範囲はもっと遥かに広く、山かげなどにも電波が回り込むので山かげに住む人にも届く(FM波は回り込みにくい)。音質はFM波がAM波よりいいとされるが、安価なラジオで聞く限りでは音質の差は目立たないだろう。ラジオ局がわざわざAM放送からFM放送に移行するのは、放送設備などのコストがFMよりAMのほうがかかるから。

 AMの波長は約200〜600m。送信アンテナの設置には広い場所が必要で波長約500mの大型のアンテナとなる(FMは波長3〜4m。送信アンテナの設置場所は山頂や鉄塔など高い場所。波長約4mのアンテナだから、AMに比べかなり小型ですむ)。広告収入も聴取者も減り、経営が厳しいAM局にとって設備の老朽化などもあって、ラジオ局を続けるならAMを維持するよりFMに転換したほうがコストがかからない。

 AM局はすでにワイドFMでも放送も行っている(従来のFM放送は周波数76MHz~90MHzだが、90.1MHz~95MHzを用いてAM番組を放送するのがワイドFM)。災害対策や難聴対策のためということだが、AM局のFM移行の試行のようでもある。AM局のFM移行は総務省でも検討され、22年以降にFM移行を認める制度改正とAM停波の実証実験を始めるという。

 AM局がFMへ移行すると、聴取者はワイドFMを聞くことができるラジオを用意しなければ聞くことができない(従来のFMの周波数しか受信できないラジオでは聞くことができない)。FMよりもインターネット専門ラジオ局に移行したほうが簡単なようにもみえるが、ネット専門ラジオ局になれば更なる聴取者減少は免れまい。FM移行に聴取者がどれだけついてきてくれるかーこれは現在のAMにどれだけ魅力があるのかを示す。

2021年6月30日水曜日

拡大再生産が破綻

 資本主義は拡大再生産のシステムだ。商品の生産量を増やし続ける拡大再生産を持続するには、常に新たな市場が必要になる。地域の市場から近隣に販路を拡大し、やがて全国を市場として販売を増加させ、拡大再生産を支える。さらには、国外へと販路を広げ、先進国や途上国などに新たな市場を開拓する。

 モノやサービスを売買する現物経済の市場に参入する企業が世界で増え、シェアを分け合い、新たな市場の開拓の余地がなくなるとともに、資本主義は金融経済の市場を開拓した。現物経済は需要に見合った供給が行われるところで市場拡大は頭打ちになるが、金融経済は投入される資金量に応じていくらでも拡大できる。

 最初に金融経済に投入された資金は現物経済によって得られた利潤だったが、次第に貨幣(交換価値)を売買するという金融市場が膨張、資金を金融経済が増殖させ、とうとう金融経済の規模は現物経済の数倍にまで膨れ上がった。ただし、金融経済は、交換価値への投機が過剰になって破綻するというバブル崩壊の危険を常にはらむ。

 モノやサービスを売買する世界の市場の拡大が頭打ちになり、金融経済の市場の開拓も進んで大幅な拡大が見込めなくなった次に現れたのがインターネットによる市場だった。情報や情報発信を売買するというインターネットの市場は、現物経済や金融経済も取り込み、拡大を続けた。インターネットの市場には拡大を制限する要素はないとみえたが、中国などに顕著な政府による規制が成長を制限する。

 資本主義は、新たな市場を見つけ、拡大することで、拡大再生産というメカニズムを維持してきた。現物経済の市場に加え金融経済、インターネット市場と活動範囲を拡大することで資金を膨張させてきた。それがCOVID-19によるパンデミックで、商品やサービスを売買する現物経済が世界で一気に縮小し、拡大再生産のメカニズムが破綻した。

 このパンデミックに資本主義は無力であり、利潤を目指さない国家による経済が人々を支えた。「市場に任せれば全てがうまくいく」との自由な市場が最善であるという資本主義の主張の薄っぺらさが暴かれ、資本主義が利潤を求めて勝手に動く中で、人々の健康や安全は国家による経済に頼ることが明確に示された。

 常に新たな市場を求める資本主義にとって国家は邪魔者だった。資本主義の圧力により、労働者市場などをはじめとして各種の規制緩和が進み、資本による収奪が加速するとともに中間層の解体と格差拡大が進んだ。だが、このパンデミックは資本主義の無力さと国家による経済の必要性を確認させた。

 とはいえ資本主義は強靭だ。社会に不可欠であることが明確になった国家による経済を新たな市場として資本主義は取り込んでいくだろう。それは、資本主義が国家を所有する構造になる。中国など国家が資本主義を所有する構造とは正反対だが、国家と資本主義が強固に結びつく構造は同じなので、人々が見る光景は似たようなものになる。

2021年6月26日土曜日

批判の根拠

 マスコミの重要な責務は権力批判だ。権力は腐敗するもので、時には暴走する。また、権力を行使する人々は都合よく情報を操作する一方、不都合な情報を隠し、権力行使に伴う責任を問われかねない情報なら破棄したりもする。そういう権力を監視し、常に批判する存在が民主主義(主権在民)には必要かつ不可欠であり、その代表がマスコミとされている。

 権力の行使に関わる人々の腐敗とか職務怠慢、不品行など不祥事や、権力行使により実害が生じている場合などにはマスコミの批判は人々の共感を得て、その批判は支持されるだろう。だが、政治方針や政策など立場により賛否が分かれる事柄に対する批判は、マスコミの批判と賛否を異にする人々から賛同を得ることはできまい。

 権力とは性悪であるとの見方に立つマスコミならば、保守寄りの権力でもリベラル寄りの権力でも常に時の権力を厳しく批判するだろう。そうした批判を人々に納得させるためには第一に、どんな権力の行使も人々を損う、第二に、どんな権力も社会を悪くさせるーーなどの暗黙の了解を想定しなければなるまい。

 マスコミは反権力であるべきだと考える人々には、こうした暗黙の了解は納得しやすいだろう。反権力であるマスコミなら、全ての権力を批判する。批判の根拠を問われても、権力のなすことは全て悪だと言えばすむ。日本のように保守寄りの権力が長く続いている社会で、マスコミの権力批判の根拠が曖昧に見えるのは、権力批判が反権力の情緒で描かれているからかもしれない。

 根拠が曖昧な批判は珍しくなく、根拠を曖昧にすることで何でも批判することができ、昨日批判したものを今日は称賛し、明日になってまた批判することも可能だ。いくらでも批判や称賛の根拠をでっち上げることは簡単だから、常に批判者でいることは難しくない。

 だが、マスコミの権力批判が何でも批判しているように見えては、やがて批判者への信頼が損なわれよう。反権力の人々は賛同するかもしれないが、賛否が分かれる事柄に関する権力批判を説かれて違和感を感じた人々は、マスコミの権力批判の根拠を問うだろう。マスコミの権力批判にも説明責任が求められる。

 権力批判を行わず、権力を翼賛するだけのマスコミも世界には珍しくないが、そうしたマスコミには権力の暴走を正す力はない。情報が平準化した現在の世界では国家権力以外に大きな影響力を持つ組織や運動などが存在する。そうした国家以外の権力に対する批判を日本を含め世界のマスコミが行うことができているか。そこでもマスコミに説明責任が求められる。

2021年6月23日水曜日

クマの生息数

 札幌市内の住宅地に早朝、クマが現れ、住民や通勤の人ら4人を襲って重軽傷を負わせながら移動し、約8時間後に丘珠空港近くの茂みで猟友会のハンターにより射殺された。このクマは体長が約1.6メートル、体重158キロの5〜6歳のオスだった。札幌市内でのクマの出没は珍しくなく、毎年、ニュースになって警戒が呼びかけられる。だが、市内でクマに襲われて負傷者が出たのは20年ぶりという。

 クマが人里に現れたとの情報は全国で年間2万件ほどあるという。4月頃から増え始め、冬眠前の11月頃までが多い。クマが人里にまで現れるようになった理由を専門家は①過疎化により里山などが荒廃し、クマの行動範囲が拡大、②住宅地の拡大でクマの生息地域と重複、③クマの生息数が増加、④人の怖さを知らない世代のクマが増加、⑤生ゴミや園芸栽培の作物などを狙ってクマが動くーなどを指摘する。

 クマは警戒心が強い臆病な動物なので、例えば住宅地と里山の間にある中間地で除草を徹底して見通しをよくすればクマの行動を抑制でき、住宅地への侵入を防ぐことができるとの見方もあるが、検証データは乏しい。今回のクマは用水路を伝って移動していたとの見方もあり、クマの市街地への侵入経路は多々ありそうだ。

 クマの生息数が増えているから、山から中間地を超えて市街地にまで行動範囲が広がっているとの見方も多い。クマが増えて人の生活空間に入ってくると、人とクマの共生は同じ空間では不可能だから、クマを駆除して人の安全を確保することになる。だが、クマが増えているとは言われるものの、それを示す確かなデータはない。

 ヒグマの生息数を北海道は10600頭プラスマイナス6700頭と推定した(2012年)。少なければ3900頭、多ければ17300頭とプラスマイナスの数字の幅は広く、実態は分からないということだ(従来のモニタリングや調査で蓄積された科学的データを用いたコンピュータシミュレー ションに基づき推定したそうだが、こんな大雑把な数字では実態に即した有効な対策を講じることは難しいだろう)。

 ヒグマの生息数は1990年比で1.8倍に増えたと北海道は推定するが、推定生息数は3900頭〜17300頭と実態は定かでないのだから、1.8という数字の根拠は希薄だ。増えていると関係者は見るが、その実体はぼやけている。なお北海道の推定10600頭の地域別の内訳は、道東・宗谷4200頭、日高山系2800頭、渡島半島1400頭、天塩・増毛1000頭などという。

 クマの生息数が増えていると確かめるには、もっと正確な生息数の調査が必要だ。タンチョウヅルなどでは目視による調査が可能だが、用心深く行動するクマの調査は簡単ではない、だが、ハンターや農業従事者などに聞いた話を元にコンピュータシミュレー ションしたところで大雑把な数字しか出てこない。クマの生息数の実態を把握しなければ対策は空回りする。全国で市街地へのクマの出没件数が増えているのだから、クマによる被害を防ぐとともにクマの過剰な駆除を避けるためには、正確な生息数という基礎データが必要だ。

2021年6月19日土曜日

中国の挑戦

 G7サミット(主要7カ国首脳会議)は共同宣言で、中国に「特に新疆との関係における人権及び基本的自由の尊重」を求め、さらに「英中共同声明及び香港基本法に明記された香港における人権、自由及び高度の自治の尊重を求める」とした。経済面では中国が「世界経済の公正で透明性のある作用を損なう非市場主義政策及び慣行という課題」だとした。

 さらに共同声明は「台湾海峡の平和及び安定の重要性を強調し、両岸問題の平和的な解決を促す」とし、「東シナ海及び南シナ海の状況を引き続き深刻に懸念しており、現状を変更し、緊張を高めるいかなる一方的な試みにも強く反対する」と武力による拡張主義的な行動を続ける中国を牽制した。

 また、パンデミックは世界的な「経済上の強靭性に対するリスクを例証した」とし、「重要鉱物資源及び半導体のような分野で、極めて重要な世界的なサプライチェーンの強靭性に係るリスクに対処するためのメカニズムを検討」するとした。「全ての人に対する開放性に関して強靭であり、開かれた市場、透明性及び競争という我々の共通の原則を保つに際してのリスクに対処可能であることを確保」すると、中国などに対する警戒感を確認した。

 続いてNATO(北大西洋条約機構)も共同声明で、「権威主義的な政権との争いに直面している」と中国に対する警戒感を鮮明にした。「中国の強引な振る舞いは国際秩序への挑戦だ」とし、「中国の影響力拡大と国際政策は、我々が同盟機構として対処する必要のある課題を突き付けうる」としてNATO加盟国は「NATOの安全保障上の利益を守ることを目的に中国と関与していく」と表明した。

 共同声明は中国をロシアと並ぶ脅威とし、急速な核兵器増強に加え、サイバー空間や宇宙での活動などを指摘した上で、「中国の野心的で強引な振る舞いはルールに基づく国際秩序と米欧の安保にとって体制上の挑戦」とし、「国際的な公約を守る」よう中国側に要請した。事務総長は中国に関してNATOは「共同で対応する必要がある」とした。

 G7もNATOも欧米主導であり、欧米主導の国際秩序を維持し、世界「標準」にするための有力な枠組みであり組織だ。揃って中国を脅威とする認識をあからさまに示したのは、欧米主導の国際秩序に対する中国の挑戦が効果を上げているためだ。欧米は中国との経済的な結びつきが強いため、封じ込めは欧米にもダメージを与えるので選択できず、中国に強いメッセージを送って「自重」を求めた。

 だが中国はG7もNATOも中国と同格と見なしているだろうし、中国主導の国際秩序の形成がおぼろげながら現実味を持ち始めたとあっては「自重」するはずもなく、強く反発するだけだ。基本的に、欧米主導の国際秩序は「力」によって形成されたものだから中国が同じことを試みるのは自然でもある。だが、欧米主導の国際秩序が崩れた時に国家間による「力による争い」が現れるとすると、これからの21世紀は大混乱が待っている。

2021年6月16日水曜日

時間と実在

 実在とは「現実に実際に存在する」ことであり、人間の意識に関わりなく存在することでもある。人間の意識が関係するのは、例えば、長さや重さなどに相当するものは実際に何かが存在しているのだろうが、それを長さや重さとして規定したのは人間であり、人間が単位を決め、測定することで長さや重さは現実世界に現れる。

 長さや重さなどの存在は人間の意識に基づくものであり、人間が存在しなければ長さや重さなどは現実世界に現れない。一方、現実世界には、例えば、動物や植物、鉱物などのように人間の意識とは関係なく存在しているものは多く、それらは実在する。

 実在するかどうか曖昧なものに時間がある。見えない時間の流れを人間は意識し、1日があり1年があるとカレンダーをめくるときに現在と過去、未来の存在を意識するだろう。単位を決め計測することで、時間は人間生活に欠かせない便利なものとなった。

 現実世界に時間に相当する何かが存在しているように見えるのは、様々な変化(動き)を認識するからだ。様々な変化(動き)を説明するためには時間という概念が必要となる。空間的な変化(動き)や化学反応などの現象的な変化などに加え、心変わりなど人間の精神における変化も時間を抜きにしては説明できない。

 時間を人間は人間が決めた単位で計測する。日の出から次の日の出までの変化(動き)を1日としたのは、人間の生活に最適な単位であっただろうし、それを基準に人は現実世界の理解を広げ、宇宙から素粒子レベルまでの様々な変化(動き)を説明することが時間を使うことで可能になった。

 現実世界は様々な変化(動き)に満ちている。それを理解するためには時間が必要で、つい時間が実在するような感覚にもなる。だが、時間が実在するのか=人間の意識に関わりなく時間という何かが存在するのかは不明だ。時間は目に見えず、人間が計測することによってのみ現れる存在でしかない。

 様々な変化(動き)に満ちている現実世界で生きる人間が、時間という概念を創出したのは必然かもしれない。長さや重さなどと同じく見えないものを認識し、単位を設定して計測することで、現実世界の理解を広げようという人間のたゆまぬ試みの上に現在、我々は生きている。

2021年6月12日土曜日

運命の線

 オー・ヘンリーの短編「運命の道」の主人公は、広い世界で生きようと田舎の村を出て、あてもなく歩き続ける。やがて広い街道に突き当たり、左に行くか、右に行くか、それとも引き返すか思案する。そこで物語は3つに分かれ、主人公の異なる3つの人生が描かれるが、いずれでも主人公は同じ銃の弾によって死ぬ。

 この物語は、運命というものを感じさせる。生きる中で人は常に自由意志による選択を重ね、独自の人生を形成すると見えるが、たどる道筋は様々に変化しても、最期の様子が決まっているとすれば、それは運命(定め)と呼ぶしかないだろう。運命が存在しても、どこまで予め決められているのかを人は知りようもないが、誕生と死の状況が決まっているのが運命であるなら、物語の主人公のような最期を迎えることになる。

 だが、運命などは存在せず、生きることは個人の選択の積み重ねで、人生は変化の集積だとの考え方もある。人生を1本の線とすると、個人が選択に直面するたびに複数の線が現れ、選択された線だけが残って他の線はたちまち消える。幼い時からの膨大な選択の積み重ねで個人の人生という線が描かれる。そうした人生の線は、滑らかな線にはならず、無数に折れ曲がった線になるだろう。

 囲碁のプロ棋士は対局で常に数十手先まで、時には数百手先までの展開を考えるという。囲碁は対局者が一手ずつ交互に石を置くゲームだが、一手で局面が大きく変化することもあり、そんな時には時間を費やして先を読む。といっても、一つずつ石が置かれるのを順に考えるのではなく、自分の石と相手の石の展開予想が線のように伸びていくのだという。十数手の展開予想を考えると、たちまち数百手を読むことになる。

 この展開予想という線は、なにやら人生の線に似ていなくもない。石が一つ置かれることは一つの選択がなされることであり、石が置かれる(=選択が行われる)たびに線は一つだけが残り、折れ曲がりながら伸びていく。人生に後戻りがないように囲碁でも、置いた石を後から別の場所に置き直すことはできない。選択は1回性だ。

 報われないと感じたり、色あせていると感じる人生を受け入れるには運命という発想は便利だ。運命ではなく自分の積み重ねた選択の結果であると人生を甘受すると、不満の矛先は自分に向かい、過去を振り返って、あそこで別の選択をしていれば……と悔やむこともあろう。運命を想定すると、自分の幾多の選択も運命というモヤの中に溶け込み、運命には抗うことができないと妥協できる。

 運命があろうとなかろうと、個人の人生が選択の積み重ねで折れ曲がった線の軌跡を描くことは確かそうだ。過去を振り返って、あそこで別の選択をしていればと悔やんでも、後戻りはできない。運命があろうとなかろうと、人は選択をし続けなければならないのが人生。同じ銃の弾で死ぬのかどうか、一回性の人生を誰もが生きるのだから、現実では確かめようがない。

2021年6月9日水曜日

中国の背反

 中国は習近平1強体制になり、共産党独裁体制から個人独裁体制に移行しつつあるようだ。労働者階級の独裁を正当化する共産主義の落とし穴は、労働者階級の前衛としての共産党の独裁につながることで、さらに共産党の独裁は指導部の独裁につながり、指導部を掌握したトップの個人独裁につながる。習近平氏の個人独裁は共産主義に起因する。

 労働者階級の独裁の結果が共産党独裁といっても、膨大な人々が労働者階級の代弁者として共産党を選挙で選んで権力を委ねたわけではない。共産党が労働者階級を代表するというのは、共産党の主張に過ぎない。勝手に共産党が労働者階級を代表していると自称しているだけだ。共産党独裁の結果として幹部党員が特権階級化した。それが中国の現実であるのだから、労働者階級の解放は夢物語でしかなかった。

 習近平氏の独裁体制が強固になるのと比例して、国際社会に対する中国の自己主張が強まっている。国際社会で自己主張するのは各国の権利であり、否定されるべきものではないが、中国の自己主張は①独善的すぎる(中国の無謬性を主張)、②批判には強く反発する、③成長を続ける経済力により融資や援助などを活用するーなどが特徴だ。国際社会においても中国共産党の絶対的な指導的立場を主張しているように映る。

 中国国内における強権支配を国際社会でも広げることができれば中国共産党は世界の支配者になることができる。当面は米国との世界分割支配を目指しているのだろうが、世界では中国に対する風向きが変わった。米国が中国批判を強め、中国に擦り寄るばかりだった欧州も中国との関係を見直し始めた。中国共産党の自己主張が欧米主導の国際秩序に対する挑戦となっては、欧米が座視しているはずもない。

 中国は2001年にWTOに加盟し、経済的に世界に開かれた体制に移行するはずだった。多額の外資を呼び込んで欧米と同等の産業基盤を構築して「世界の輸出基地」として大幅な成長を続けた中国は社会主義市場経済を標榜し、経済は市場主義で世界に開くが政治は社会主義を堅持するとした。欧米は、それを黙認した。

 しかし、中国は経済を国際市場にリンクさせて輸出拡大を続けたが、中国国内市場への各国企業の自由な参入は制限するなど中国流の市場主義はいびつなままだ。米国や欧州の中国批判は、WTO加盟で中国は経済的に世界に開かれた市場になるとの約束が棚上げにされたままで、中国本位のグローバル化は進めるという経済面での不満から来たものだ。ウイグル族などの人権問題を提起しているので政治的な動きとも見えるが、それらは欧米の対中批判を正当化するための道具に過ぎないだろう。

 欧米などを含む国際市場にリンクすることで成長した中国だが、共産党は市場主義を中国基準で変質させた。「政治は中国流だが、経済は国際標準で」という約束を捨てた中国への不信が、米中対立や欧州の対中関係見直しとなって現れた。国際社会に対する中国の背反が緊張を高めているのだが、強国になったとの自信から中国共産党は自己主張をさらに強硬に行っていきそうだ。かくして独裁政権は「毒」を国際社会に振り撒く。

2021年6月5日土曜日

供給過剰になったマスク

  出歩く時にマスクを着用することはマナーからルールになったようで、マスクを着用していない人を見かけることはほとんどない。とはいえ、鼻出しマスクの人は珍しくなく、あごマスクで口も鼻も覆わずにいる人も見かける。周囲に他の人が少なく、路上で密になることがないならマスクを外しても構わないだろうに。あごマスクの姿の大人からは、だらしなさが漂う。

 常にマスクを着用することに鬱陶しさを感じる人は多いだろうし、健康な人ならマスク着用を面倒くさいと思うだろう。パンデミック前はマスク着用が一般的ではなかった米国ではマスク着用を拒否する人が珍しくなく、マスク着用を求める店舗や交通機関などとトラブルになっているという。一方、ワクチン接種者が増えた国ではマスク着用の義務を緩和したところも増えている。

 マスクを着用する目的は飛沫感染を防ぐことだ。誰もが無症状の感染者だとみなして呼気に含まれているかもしれないウイルスの拡散を抑制する。ウイルスを吸い込まないためにマスクを着用するのではない(ウイルスを吸い込まないためには医療用マスクが必要。密閉度が高いから日常生活で着用していると息苦しいそうだ)。

 パンデミックが終息する気配はなく、マスク着用から人々が解放される見通しはつかない。機能からは不織布マスクがいいと専門家は推奨するが、人々が着用しているマスクはカラフルで、白い不織布マスクが圧倒的に多いとはいえない状況だ。様々な色でデザインも個性的なマスクが増えたが、それらの前面に折り目がないので不織布マスクではないだろう。

 パンデミックが始まった頃は店頭からマスクが消え、マスクを探して市中を探し回る人もいたという。そのマスクが現在、店頭に山積みになっている。マスクが再び出回り始めてからは30枚入りで2千円台などで売られていたのが、供給が回復するにつれて5百円台や4百円台になった。機能やファッション性を訴求する7枚入りで3百円台などもあるが、飛ぶように売れている様子は希薄だ。

 マスクであれば何でも売れたのは過去のこと。特色を出さなければ売れないとメーカーは、耳が痛くならないとか眼鏡が曇らない、着けていても涼しいとか様々な機能を加えたり、デザインに工夫を凝らしファッション性をアピールしたりする。個性をアピールしなければ選ばれなくなったのは、市場に商品が溢れている状態だ。参入企業が相次ぎ、中国からの輸入も増え、マスクは供給が需要を上回る状況になった。

 百円ショップでは、30枚入りで百円プラス消費税で売られていたマスクがパンデミックが始まると3枚で百円プラス消費税と値上がりしたが、やがて5枚で百円プラス消費税、7枚で百円プラス消費税、10枚で百円プラス消費税、15枚で百円プラス消費税と値下げが続き、最近になってパンデミック前の30枚入りで百円プラス消費税が復活した。店頭に山積みになっているマスクは、需要と供給を考察する格好の具体例だ。

2021年6月2日水曜日

Go To ワクチン

 緊急事態宣言で落ち込んだ個人消費を刺激しようと政府は、飲食業を活性化させるために「Go To イート」事業、旅行業や観光産業を活性化させるために「Go To トラベル」事業を積極的に推進した。だが、再度の感染拡大に見舞われ、「Go To」事業は頓挫した。人々に出歩くことを奨励するのは時期尚早だった。

 「Go To」事業は大幅割引などで人々に利用を促すものだった。自粛生活を続けていたことからの解放感もあってか多くの人々が利用して一時は活況を見せたが、人々の接触機会を増やし、感染の再拡大につながった。政府は「Go To」事業と感染拡大の因果関係は証明されていないと、「Go To」事業への未練を隠さない。

 「Go To」事業には、政府の従来の施策とは少し異質な雰囲気が漂う。COVID-19によるパンデミックという未曾有の事態のなかで、停滞した消費を刺激して経済を活性化させようとする施策は前例がないものであるだろうから“平時”の施策と異なるのは当然かもしれない。だが、ネーミングや人々に直接働きかけて動かそうという手法などから立案に広告代理店などが絡んでいる気配を感じる。

 従来の施策は、官僚が立案して政府が実行するものだっただろう。東大などを優種な成績で卒業したキャリア官僚が時流に適した政策を立案し、与党が法案を議会で通し、政府が実行に移すが、全国でノンキャリア官僚がその実行を支えた。政治家の「質」のレベルは昔も今も大差なく特に優れたものではないだろうが、優秀な官僚群が政府の施策を支えていた。

 だが与野党問わず政治家による一連の官僚バッシングが行われ、官僚人事を政府(政治家)が掌握したことなどから官僚の士気が低下し、さらに長時間労働が嫌われて優秀な人材が集まらなくなり始めたという。これまで日本の施策を支えていた優秀な官僚が次第に少なくなる一方で、政治家の「質」のレベルは以前と同様に特に優れたものではないとすると、日本の政治がおかしくなるのは当然か。

 今回の「Go To」事業がどのように立案されたのか知らないが、官僚の立案能力が低下している中で、特に能力が優れてはいない政治家(政府)が官僚に加えて広告代理店やコンサルティング会社、政商まがいの評論家などにアイデアを求めて「Go To」事業が浮かび上がったと想像すると、「Go To」事業の妙に商業キャンペーンめいた雰囲気が納得できる。

 政治が人々に直接働きかける「Go To」事業の効果はあり、人々を動かすことに成功した。この経験を現在に活かすなら「Go To ワクチン」事業だ。ワクチンを摂取した人数を増やすことが感染拡大を抑制する唯一の現実的な対策だとすると、「Go To ワクチン」事業で人々のワクチン接種を増やすことが最優先の対策となる。ただし、「Go To ワクチン」事業が成立するにはワクチン供給が十分にあることが前提だ。申し込みは殺到するが、全てに応じることができない状況では「Go To ワクチン」事業は成立しない。

2021年5月29日土曜日

一枝を折らば

  歌舞伎の「熊谷陣屋」で、源氏の武将の熊谷直実が主君・源義経から与えられた「一枝を折らば一指を切るべし」という桜の木の横に建てられた制札は、枝を折るなとの禁令だが、実は隠されたメッセージだった。それは敵の16歳の平敦盛を捕らえても殺さず、直実の16歳の子を身代わりに斬れとの意味だった。

 熊谷直実は苦しみつつ、敦盛を生かして自分の子どもの小次郎の首を討ち、首実験のために源義経が現れた時に直実は制札を引き抜き、義経に示しながら敦盛(実は自分の子どもの小次郎)の首を見せ、忠義を優先させて子への愛を抑圧した苦悩をにじませる。義経はその首を見て「敦盛の首に相違ない」という。

 現代の価値観では、主への忠義を優先させて我が子さえ殺すという設定は全く共感されないだろうし、許されもしないだろうが、そういう価値観が称揚される時代が過去にあり、また、そういう価値観が重視される時代があった(おそらく、そういう時代にあっても忠義のために親が子を殺すのは特異な出来事だっただろうし、忠義の優先は支配のためには便利だっただろう)。

 この「一枝を折らば一指を切るべし」という言葉を少し変えた「一枝を得らば一指を捨つべし」を心掛けている友人がいる。彼は、自分の衣類や家具、書籍、CD、電化製品など持ち物は必要なものだけを残して整理し、新たに何かを購入した時には、所有していた中から何かを処分することを基本にしている。

 所有物を増やさないという生き方は、消費社会に背を向けているようにも見えるが、「必要なものや欲しいものは買う。消費を否定しているのではなく、所有物を増やさないことが目的」と友人。流行りの断捨離に影響されたとも見えるが、彼はミニマリストと一括りにされることを拒み、家族には所有物の整理に同調することを求めていない。

 捨てることが目的ではなく、着ない衣類や読まない書籍、使わない家電など身の回りに澱のように溜まった品々を遠ざけたいのだと友人(大きな家ならば屋根裏か地下室にでも放り込んでおけばいいのだが)。使用されない品々が溜まることに対する一種の後ろめたさもあって、整理し、所有物を増やさないことにしたのだという。

 捨てる行為は、自分に本当に必要なものを明確にすることでもある。所有物を減らすと生活がシンプルになったと見えるようで、精神にもいい影響を及ぼすと友人は満足している。消費を我慢したり諦めたりせず、消費する快楽は維持しながら、しかし所有物を増やさない生活は選択を繰り返す生活であり、変化の渦中に居続ける生活に見える。

 熊谷直実は源義経に暇乞いを願い出て許されると、墨染の衣をまとって我が子の死を嘆きつつ去っていく。その時に吐き出す言葉が「十六年は一昔、夢だ夢だ」。整理して捨てたモノに未練を残さないので友人には、失ったことを「夢だ」と嘆く品物はないという。

2021年5月26日水曜日

最悪の事態を想定

 日本は各地で感染拡大の波に見舞われ、政府は緊急事態宣言を次々に適用せざるを得ない事態に追い込まれた。昨年から政府は同じような対策を繰り返している。まん延防止等重点措置を新設してはみたものの、その効果は皆無といった状況だ(市町村が独自の判断で機動的に発令できていれば結果は違っていたかもしれない)。

 政府の対策の基本は、飛沫感染と接触感染を防ぐことが中心で「密になるな」「会食するな」「外出するな」など人々の接触を減らすことに懸命だ。だが、同じ対策を1年以上続けてきて、少しも感染を抑制することができていないのだから、続けている対策では効果に限度があると認識すべきだろう。だが、他に対策を思いつかないとすれば、後は大量のワクチン接種の効果に期待するしかないか。

 感染者が増え重症者も増えたことで政府は医療崩壊を懸念し、大阪など地域によっては医療崩壊が現実に起きているとマスコミは連日報じる。これまでの政府の対策では、感染拡大を防ぐことも重症者を減らし死者を減らすこともできなかった。そんな対策を続ける政府は、①政策の効果を検証する能力が欠如、②他に対策が思いつかないーのどちらかだろう。

 感染拡大を防ぐことはできなかったかもしれないが、医療崩壊を防ぐために対策を講じる時間は政府に十分あった。COVID-19患者専用の仮設病院を東京、大阪など各地に準備することはできただろうし、COVID-19患者に対応していた病院の機能拡大を政府支援で大胆に進める時間もあった(さらに、抵抗するだろう医師会を説得する時間もあった)。

 政府の対応が後手にまわり、感染拡大という状況を後追いしているだけと見えるのは、人々の接触を減らすことだけを目的とする対策の限界が明らかだからだ。COVID-19の感染拡大を防ぐことはできないと判断すれば、「次」の対策を政府は考えざるを得なかっただろう。科学的という言葉を政府は専門家の言いなりに動くことと理解しているように見え、政治的な決断を忌避している。

 「次」の対策とは、感染拡大を抑制することは難しいと判断し、増える感染者や重症者に対応するために全国で医療体制を強化することだ。感染拡大を抑制することができず重症者が増えることも抑制できないと判断すれば、全国であふれるだろう感染者や重症者に対応する体制を構築するしかないと見えてくるはずだ。

 現実世界は絶え間ない変化の中にあり、そうした変化に対応することが政治だと理解していれば政府は、変化を後追いするのではなく変化の先を読んで対応する。そんな緊張感は、選挙では頼りない野党に負けるはずがないと慢心している自民党政権には期待できないかもしれないが、それが感染拡大を後追いするしかない政府を存続させているのだとすると、現在の状況を招いたのは日本国民の選択の結果だといえる。

 「最悪の事態を想定して備える」ことが今の政府にはできていない。それで、そのうち良くなるだろうと状況判断が甘く、専門家の科学的判断に基づくとして自己判断を放棄し、現実に対応することに終始するだけとなる。「情勢分析は悲観的に」との大原則が政治家ら指揮・指導する側には求められる。

2021年5月22日土曜日

台湾での感染拡大

 台湾で新規感染者が一気に急増し、政府は全土でバーやクラブ、スポーツジム、映画館、レジャー施設などの営業を禁止し、幼稚園から大学まで一斉に休校させ、居留証を持たない外国人の入国を停止し、台北などでは屋外でのマスク着用を義務化し、人が集まることを制限し、飲食店などの入店には実名記載を義務づけた。

 台湾はCOVID-19の封じ込めに成功したと見られていた。昨年、世界で感染が広がるとすぐに外国人の入国を制限し、帰国する台湾人は入国後に隔離するなどウイルスの持ち込みを防ぐ体制を築いた。だが、最近になって外国から英国型変異株が持ち込まれたそうで、新規感染者は過去最多を記録している。持ち込んだのは入国後の隔離措置が緩かった国際線のパイロットと見られ、その濃厚接触者が市中感染を広げたという。

 厳しい入国管理でウイルスが持ち込まれることを防ぎ、感染拡大を抑止することができた国には脆さが残る。それは①感染が抑止されたため抗体を持つ人々が少ない、②変異株を含むウイルスが外国から持ち込まれると脆弱、③世界からウイルスの猛威が消えない限り厳しい入国管理を続けざるを得ないーなどだ。

 インドの感染爆発のように世界で感染の波は繰り返し、ウイルスの威力が弱まる気配は見られない。厳しい入国管理で感染を抑え込んだ国は、いわば無菌室に人々を閉じ込めたようなもので、ワクチン接種を急がなければ脆弱さはいつまでも残る(ワクチンの効果は未知数だが、他に期待できる手段はないのが現在)。無菌室は、ほんの少し外気が入っただけで「汚染」される。

 世界で国境をまたぐ人の自由な移動が制限され、各国は人々が集まることを規制し、飲食店などの営業を制限した。感染が終息するまでの我慢だと人々は規制や制限に従ったが、我慢を続けるには限度があろうし、我慢を続けること=政府の無力さ・無能さのツケが人々に回されていることだとも見えてきた。

 人間は集団を形成し、様々な社会を形成して生きてきた。その社会は拡大を続け、世界規模での人々の自由な移動を可能にするまでに膨張したが、COVID-19は人々の交流範囲を一気に縮小させた。人と会い、会話や会食を楽しみ、旅をして見聞を広めることなどが人間の生活に不可欠の要素だとすると、各国が行っている規制や制限はいつまでも続けられるものではない。

 だが、まだ各国政府には人々の接触を減らすことしか有効な対策がなく、ワクチン接種拡大にすがる状況が続く。厳しい国境管理で人々を国内に閉じ込めることで感染抑止に成功したと見られた台湾での感染拡大は、さらに厳しい入国管理を招くだろう。それは人々を強く閉じ込め行動を制約する。感染の危機という非常時がいつまでもダラダラ続く状況に世界の人々は置かれている。

2021年5月19日水曜日

思い込みと因果関係

 年に数回発売されるジャンボ宝クジを友人は買うが、それ以外の宝クジは買わない。「当たる確率を考えると宝クジを買うことは無駄だと知っているが、もし当たったら、大きな家を買うとか高級スポーツカーを買うとか世界旅行するとか家族で言い合って、勝手な夢を膨らませることが楽しいから、ジャンボ宝クジだけは家族サービスの一つとして買っている」と友人。

 買わなければ、もし当たったなら〜という想像を家族で膨らますことができない。友人はジャンボ宝クジを買うことで、家族の会話を活性化させたとするなら、そこに因果関係が成立する(宝クジを買った→家族の会話が活性化した)。だが、宝クジを買うことと当たることには因果関係は存在せず、買わなければ当たらないが、買ってもおそらく当たらない(厳密には、買うとごく僅かの当たる確率が発生する相関関係)。

 宝クジの必勝法として様々なものが伝えられる。金運を上げるために買いに行く前に朝日に祈ったり、神社にお参りしたり、当たると有名な売り場にわざわざ出かけて買ったりし、買った後は宝クジを神棚に祀ったり、陽光に当てたり、風通しのいい場所に置いたりと努力するのだそうだ。もちろん、どれも当たる確率を高めることはできず、これだけ努力したのだから、その見返りはあるはずだとの期待に過ぎない。

 ある事実があり(原因)、それにより引き起こされた事実がある(結果)と両者には因果関係が成立する。だが、二つの事実が偶然続いて起きただけというケースも多い。さらに因果関係の判断は思い込みに影響されやすい。願望や不安に影響されて、二つに事実の間に何らかの関係があると短絡したり、関係があると思いたかったりすると因果関係を即断する。願望や不安に駆られると人は浮き足立つ。

 後から起きた事実が先に起きた事実の影響で起きたのかどうかを判別するには冷静さが必要だ。主観的な推論だけでは因果関係を即断しやすいが、客観的な推論をいつでも誰でも心がけているわけでもない。さらに、金運を上げるという行為を行って、買った宝クジは当たるはずだと願ったりすると主観的な推論に支配されるようになる。

 主観的な推論による因果関係は、複数の事実から一部だけ引き出して組み立てられたりする。例えば、様々な陰謀論の中には、関係する事実の一部を都合良く集めて主張を組み立てつつ、客観的な事実に基づくと装うものがある。さらに、検証が困難な「事実」を紛れ込ませて関係を複雑化させたりもして、フェイクニュースの出来上がりとなる。

 友人の家庭では、買ったジャンボ宝クジを夫人が以前に買った神棚に祀っているそうだ。神頼みしたって当たるはずがないと友人は思うが、夫人や家族には何も言わず、当たったら〜との会話を楽しんでいるという。

2021年5月15日土曜日

ちょっと一手間

  即席麺は世界で食べられている。世界の即席麺の販売量(2018年)は1036億食で、1位は中国の402億食。次いでインドネシア125億食、インド61億食、日本58億食と続く。日本はインドに抜かれて4位になった。インドは人口が日本より遥かに多いので、日本との差は今後もっと開くかもしれない。

 日本では袋麺が17億6220万食、カップ麺が39億6129万食とカップ麺のほうが圧倒的に多く食べられている。湯を入れるだけと調理が簡単なカップ麺は若者層などに人気で、袋麺はファミリー層に人気だとか。カップ麺に比べると袋麺は調理に手間がかかることになるが、料理全体の中で見ると袋麺は調理が簡単な食品だ。

 その袋麺を毎日食べているというのが友人。離婚し、定年退職してから気ままに1人で暮らしているが、自宅での夕食は袋麺で済ますという。以前は米食を続けていたのだが、おかずを作るのが面倒になり、スーパーやコンビニで惣菜を買って来て食べるのにも飽きてきた。そんな時に、袋麺は調理に一手間をかければ格段に美味しくなることを発見し、それからは袋麺の夕食を続けているという。

 友人のいう一手間とは、出汁の活用。といっても、専門店のように鶏ガラや野菜などを煮込んでスープを作るのではなく、最初に湯を沸かす時に出汁も取る。専門店のように鶏ガラなどでスープを作れば格段に美味しくなることは確かだが、それでは調理の手間をかけすぎると友人。簡単に食べることができるという即席麺の存在意義に反するとする。

 友人の方法はこうだ。①調理する1時間以上前に鍋に水を入れて、そこに昆布または煮干しを入れておく、②火をつけて沸騰してから昆布または煮干しを取り出す、③沸騰した湯に麺を入れて煮る、④最後に添付の粉末スープを入れる(粉末スープは全部を入れず、多くても半分しか入れない。全部を入れると粉末スープの味が強すぎて、出汁の味わいが霞んでしまう)。

 出汁を取る材料は、昆布または煮干し以外にもいろいろあるが、友人はまだ試していないのだという。煮干しで出汁を取る時には、沸騰させた後もアクを取りながら煮続けるとされているが、丁寧にアクを取るなんて面倒だからアクが出る前に取り出すと友人。また、粉末スープを多くても半分しか入れないので薄味になるが、薄味だから出汁の味わいが分かり、濃い味付けを好む人には出汁の味わいが分かるはずがないと友人は言う。

 次は鰹節で美味しい出汁を取る方法を見つけると友人。昆布、煮干し、鰹節を組み合わせる出汁の取り方もあるから、一手間かける袋麺の調理法はけっこう幅広い。出汁を取るには他にも干し椎茸、貝柱、鳥や牛など肉類、野菜なども使われるが、あくまでも一手間の範疇に限るのが袋麺に似合っているから、本格的な調理には手を出さないと友人。

 袋麺には様々な種類があり、気分によって銘柄を変えて味の違いを楽しむことができるので飽きることはなさそうだし、牛乳を加えて、まろやかにしたり、バターを入れて、こってり感を出したりと、友人の一手間の探究はまだまだ続きそうだ。

2021年5月12日水曜日

銃を買い始めた

  米国では各地でアジア系の人々に対する暴力事件が多発していると盛んに報じられている。ニューヨーク市でのヘイトクライム件数は通報ベースで180件となり前年比73%増えた(1月1日〜5月2日)。2020年に全米16の大都市で警察に通報のあったアジア系に対するヘイトクライムは19年比で約2.5倍に増加したとの調査結果もある。

 5月2日にはNY市のタイムズスクエアで、歩道を歩いていたアジア系の女性2人がすれ違った黒人女性にハンマーで突然襲われ、1人が頭部を殴打されて負傷する事件があった。襲った人は「マスクをとれ」と罵声を浴びせたというから、新型コロナウイルス絡みのヘイトクライムらしい。

 襲われたり嫌がらせを受けているのは女性や高齢者が多いようだ。襲っている人々の情報は乏しく、何に対する憎悪がアジア系に対する暴力や嫌がらせにつながっているのか明らかではないが、中国発の「チャイナ・ウイルス」(byトランプ前大統領)によって何らかのダメージを受けたり、怒りを覚えた人がアジア系を中国人と見なして攻撃しているように見える。3月にはタイムズスクエアで高齢のアジア系女性をホームレスが襲う事件があり、社会的な弱者がアジア系を襲う構図のようでもある。

 アジア系の人々らは抗議活動に立ち上がり、連邦政府などは暴力を非難しており、社会的な批判が強まればヘイトクライムは減少に向かうかもしれない。だが、厳罰を適用する法規制があったとしても路上で強盗や喧嘩沙汰などが起きるように、何らかの強い怒りや憎しみによって突然引き起こされる暴力や嫌がらせというヘイトクライムを根絶することはできないだろう。

 アジア系に向けられるヘイトクライムは今後も続くと判断した人々が、自分の身は自分で守るしかないと考えるのは不思議ではない。日本のように自衛のためであっても個人の武装が禁じられている国ではない米国では、警官が常にアジア系の人々の近くにいるわけでもなく、さらに最近になっても黒人の被疑者に対する警官の暴行事件が次々に報じられ、警察に対する社会的な信頼度は低いという。

 米国で昨年、銃の購入件数が大幅に増加したというが、ヘイトクライムの増加を受けて初めて銃を購入するアジア系の人々が増え、アジア系住民向けの銃の安全講習会が開催されたり、銃の購入に関する相談や扱い方、保管方法、射撃方法を教えるアジア系住民の団体も創設されたという。銃を持ったからとてヘイトクライムを防げるわけではないが、自分の身を自分で守るしかないとなれば有力な選択肢になる。

 銃が大量に出回る米国では悲惨な犯罪や事故が珍しくなく、銃の取り締まり強化を求める声も多いが、銃規制は進まず、社会的な緊張の度合いに比例して銃の販売数が増える。日本では個人の銃所持を認めることへの理解は希薄だが、自分の身は自分で守るしかない状況に置かれた人々は、現実に可能な自衛策を講じるしかない。銃の所持を善悪で判断することが日本では可能だろうが、米国のように厳しい状況になると善悪よりも必要性や有効性が優先される。

2021年5月8日土曜日

西洋という未来

  明治の頃の日本人にとって「西洋というのは外国というものじゃなくて、未来なんだよね、彼らにとっては」と中村真一郎氏(加藤周一氏との対談から=『加藤周一対話集①』。以下同)。鎖国を破られ西洋列強のアジア進出に直面した当時の日本政府は近代化を急いだ。近代化の具体例が西洋であり、近代化とは西洋化であった。それは西洋以外の諸国の近代化に共通する。

 そもそも当時の日本や日本人に独自の近代化の構想や思想があったなら、幕末に西洋に接した時に、西洋の近代化モデルを相対的に見て、利用できるものは取り入れるにとどめただろう。しかし、西洋と接してから日本や日本人は、西洋をモデルに近代化の必要性と近代化が急務であることを認識した。具体的な独自の構想や思想がないのだから日本は、西洋を近代化のモデルとし、日本の進むべき具体的な目標=未来とした。

 対談で中村氏の言葉を受けて加藤氏は、明治になって出てきた具体的な問題を「解決するのにいきなり『西洋』ということになった。しかし、西洋のどの面をということは、それほど総合的に考えたわけじゃなくて、ある特殊な面でそこへ直接行くわけですよ。だから、西洋から何を学ぶか、あるいは取るかという目的が、行く前から、接触する前からはっきりしていて、それを見つければ取るし、見つけなければよす、というふうに、はっきりしていたと思う。脇目もふらない、という感じがする」。

 さらに中村氏は「西洋というのは、未来像なんです。ロンドンでも、パリでも。だから、電燈を引きます、鉄道を敷きます、銀行をつくります、軍隊をつくりますと、そういうことはいい、悪い、国情に合う、合わないの問題じゃなくて、それをできるだけ早くやるというだけの話です。西洋との関係は、とても明快だと思うな。つまり単なる未来だよ。そして到達すべき未来」と続けた。

 近代化を着実に進め、西洋と同じような社会を構築して久しい日本だが、日本人にはなお西洋崇拝や西洋コンプレックスがあると言われたりする。今なお世界に対する大きな影響力を有する西洋に対する引け目や憧れは根強いとも見えるが、かつて近代化のモデルとして理想化された西洋に対する意識が受け継がれているのかもしれない。

 技術や経済などで日本が西洋に先んじることが珍しくなく、食など日本の独自の文化が西洋でも共有されるようになった現在、西洋をモデルとして「倣う」近代化の段階を日本は脱した。しかし、なお残る西洋崇拝や西洋コンプレックスは、近代化のトラウマかもしれない。そこには、西洋をモデルとすることが当然とされた過去の日本に対する愛着なども含まれているだろう。

 トラウマには、具体的な独自の近代化の構想や思想が希薄で、西洋を真似ることを続けたことに対する心理的な反発も関係している。そうした反発が過剰になると偏狭な日本礼賛になったりするが、日本を礼賛したところで具体的な独自の21世紀の「近代化」の道筋が見えてくるわけでもない。西洋崇拝や西洋コンプレックスは、日本や日本人に独自の構想や思想がなお希薄であることの反映である。

2021年5月5日水曜日

中国が倒れる時

 生産力の過剰、債務の膨張など様々な問題が指摘されて中国経済の崩壊論は以前から取り沙汰されているが、成長率は低下しているものの中国経済は成長を続けている。公表されているデータが実態をどれだけ正確に反映しているのかは定かではないが、崩壊といった状況には至っていないようだ。

 中国の18年のGDPは前年比6.6%増の90兆309億元(約1440兆円)で日本の約2.6倍、米国に次ぐ世界2位とされる。これだけ規模が大きくなると、構造が複雑になるとともに強固になり、単一の要因で簡単に倒れることは考えにくい。現在の中国共産党統治は経済発展を支えにしているとされ、中国経済が崩壊しない限り中国共産党の独裁統治は続くかもしれない。

 ソ連が崩壊したのは1991年。強力な軍隊はあったが、経済は非効率で低迷が続き、政治改革は進まず、ゴルバチョフが各種の自由化を促すと、押さえ込まれていた共産党や政府に対する批判が表面化し、ソ連邦からの分離独立の動きが各地で始まり、共産主義者による8月クーデターが失敗に終わり、12月にゴルバチョフがソ連解体を発表した。

 大混乱の中で誕生した新生ロシアでは、犯罪や汚職が増え、旧ソ連の国営企業や土地などの国有財産の払い下げを受けた新興財閥が勢力を拡大した。私有財産であった土地などを国有化した共産主義体制が崩壊した時、土地などは元の持ち主には返却されず(元の持ち主のデータなど失われていただろう)、莫大な国有財産は一部の有力集団の草刈り場になった。

 中国経済の成長が続く間は共産党による独裁統治も続く可能性はあるが、永遠に成長を続ける経済はないだろう。また、チュニジアで1人の男の焼身自殺が政府に対する抗議活動を拡大させ政権崩壊につながったように、政治に対する人々の押さえ込まれていた要求が噴き出したなら政権は揺らぐ。易姓革命を強権で防ぐことは簡単ではない。

 いつか、中国の共産党独裁体制が崩壊した時には何が起きるのだろうか。崩壊時のソ連と現在の中国には経済規模で大差があるので、政治的混乱による経済的な困窮の現れ方は異なり、民間経済の活発化が中国では早期に期待できるかもしれない。米欧など世界経済との結びつきも中国のほうが遥かに強いので米欧などからの支援も期待できよう。

 しかし、共産主義体制の崩壊に伴う国有財産の奪い合いはソ連崩壊時と同様に中国でも起きる可能性が高い。中国には強大な国有企業が多数あり、地方で権力を握っている人々が地場資本と一体となって新興財閥化するだろうし、民営の大企業も育っている。

 中央の共産党独裁が崩壊すれば「遠心力」が強まろう。強権により厳しく押さえ込まれていた諸民族の自立・独立要求が各地で高まろうし、地方の権力が軍と結びついて軍閥化する可能性もある。共産党に代わって権力を担う集団が現れるまで国家の解体作用は止まないだろう。

2021年5月1日土曜日

野良猫と祟り

  完全なリモートワークに移行した友人は、都心から3時間ほどの自然豊かな土地に移住した。前庭も裏庭も広く、裏庭ではそのうちに畑をつくり、野菜を育てようと家族と意見は一致しているが、現在は手が回らず放置した状態で、夫人が片隅で花を育て始めた。

 所用があって上京した友人に夫人から電話があり、少し怯えた声で「裏庭の雑草の中で野良猫が死んでいる。どうしたらいいの?」。友人は「裏庭の隅のほうに埋めるしかないな」と答えたが、「気持ちが悪いから何とかしてよ」と夫人に言われては「帰ってから俺が埋めるよ」と言わざるを得ず、鉄製のスコップを買って帰宅してから、住宅から遠い裏庭の隅に穴を掘り、野良猫の死骸を埋めた。

 友人によると、野良猫の死骸はしばらく前からあったようで、カラスにでも突かれたのか目の部分は空洞になり、半開きの口は歯が剥き出しで、内臓は食われたのか腹部はペシャンコ、腿には肉が露出していたそうだ。掘った穴に野良猫の死骸を入れて土をかけ、近くにあった大きめの石を墓石替わりに置いて友人は、「成仏しろよ」と手を合わせた。

 その夜、友人は猫の夢を見た。空洞になった真っ黒な猫の目が近づいてくるのを見て、友人はハッと目が覚めたそうだが、その夢の前後は覚えておらず、埋葬してくれた友人に感謝して猫が現れたのか、この世への執着を断てずに猫が友人に取り憑こうとしているのか判別できず、なんか気味悪い夢だったという。

 友人の夢に猫が現れたことを聞いて夫人は「猫に取り憑かれたのなら、猫っぽい声や仕草が現れそうだけど、そんな兆候は見られないから大丈夫よ」といい、「今のところはネ」と付け加えて笑ったそうだ。そして「猫を殺すと祟りがあるというけど、あなたは猫を葬ってあげたんだから、取り憑かれるはずはない」と言って夫人は友人を励ましたそうだが、猫の空洞の黒い目がなかなか記憶から消えないと友人。

 祟りとは、神仏や怨霊、死霊などの怒りが現れたり、自己の不適切な行為により後から災いを受けることだが、その実際の関係は曖昧だ。神仏や怨霊、死霊などが現世に力を及ぼすことが可能か不明で、神仏や怨霊、死霊などの実在がそもそも不確かだ。当人が感じた心理的な負荷が夢に現れたと解釈することが現代では一般的で、祟りの存在を信じている人は少ないかもしれない。

 何かの原因が存在し、それが災いという結果をもたらすという祟りの構造。何らかの因果関係が祟りには成立するはずだが、それを実証するのは困難なので、解釈に支えられる。解釈は個人の情緒に影響されやすく、祟りがあると思えば祟りがあるように見えてこよう。その後、何の災いもないそうで友人は野良猫が感謝して夢に現れたと思うことにした。

2021年4月28日水曜日

食品偽装の誘惑

 コシヒカリと表示しながら低級米を混ぜていたり、輸入肉を和牛として売ったり、他産地の肉を松坂牛など銘柄肉に偽装したりと業者による産地偽装は珍しくない。加工食品では原料表示や加工日、消費期限の偽装などがあり、レストランなどのメニューでは材料の表示の偽装などが存在した。

 産地偽装や等級偽装、品質偽装、原材料偽装、消費期限偽装など様々な偽装が食品につきまとう。偽装の手段は様々だが、目的は金だ。安いものや廃棄すべきものを高く売ることができれば、儲かる。安く仕入れたものを高級品やブランド銘柄に見せて、できるだけ高く売ることで儲けが増える。

 食品の高級品やブランド品は相応に価格が高い。だが、消費者が必ず味わいの違いを識別できるかというと、心許ない。価格の高い食品と低価格品の味の違いを消費者が必ず識別できるとは限らず、赤身肉に牛脂を注入して霜降りに偽装した牛肉と銘柄牛を食べて識別できる消費者も少ないだろう。価格の高低と味わいの関係は曖昧だが価格差は存在するので、食品の偽装は根絶されない。

 見つかる可能性が低く、儲かるのだから食品偽装の誘惑は大きい。DNA分析で多くの食品偽装が暴かれるようになったが、DNA分析が全ての食品に対して行われるわけではない。事件化したものは氷山の一角だろう。欧州でもオリーブオイルやワインなどの産地偽装が頻発しているというから、食品偽装は珍しいものではないらしい。

 より美味しいものを食べたいという欲求は誰にでもあるだろう。売られている食品の味わいの違いは見ただけでは峻別し難く、価格の高低は一つの指標となる。そこから、高い食品=もっと美味しく品質がいい食品という了解(幻想?)を売る側と買う側の双方が共有した。商品の差別化は、高いものを買うことに満足する消費者の心理に支えられている。

 食品の表示は食品表示法により規定が統合され、販売される全ての食品に表示が義務化された。食品の種類ごとに細かな規定があるが、これで食品偽装が一掃されるか不明だ。法の抜け穴を探って一儲けしようという業者は必ず存在するだろうし、そもそも、偽装が見つからなければ儲けが大きいのだから食品偽装の誘惑が消えたわけではない。

 ところで、キツネそばやタヌキうどん、ウグイス餅、タイ焼きなどにキツネやタヌキ、ウグイス、タイなどの肉が入っているわけではない。こちらも食品偽装の一種と冷やかす人もいるが、消費者を騙す目的でつけた名称ではないから不問に付されている。油揚げ入り蕎麦とか揚げ玉入りうどんなどと「正確」な名称より、キツネそばやタヌキうどんなどのほうが食欲をそそるのは確かだ。

2021年4月24日土曜日

世界で日本で第4波

 感染が急速に拡大し、新規感染者が約33万2千人/日で死者2263人/日と過去最高になったインド(23日)。2020年9月には新規感染者が10万人/日だったのが21年2月には1万人/日程度になっていたのに、感染拡大を抑制し続けることができなかった。政府は行動制限を解除し、大規模な選挙集会や宗教行事などで感染が拡大したことに加え変異ウイルスの蔓延で、感染悪化に拍車がかかっている。

 インドのほかに南米や欧州、トルコなどでも変異ウイルスによる感染拡大が顕著で、世界で新規感染者が大幅に増え、第4波が襲来している状況だ。イスラエルや英米はワクチン接種が他国より早いペースで進み、行動規制の緩和が報じられるが、インドやブラジルなどでは集中治療室が埋まり、病院には患者が溢れ、医薬品や医療用酸素の枯渇もあって医療崩壊が現実となっている。

 世界での感染者数は1億4千万人、死者数は300万人を超えた。ワクチン接種が進むのは先進国などの特定国に限られる一方で、インドをはじめとする多くの国は変異ウイルスなどによる感染の拡大を抑制できず、人々の気の緩みなども指摘され、外出禁止など行動制限や商店の営業規制などに頼るしかない。米国でも州によっては若者を中心に感染者数が増加に転じているという。

 日本にも第4波が襲来している。大阪など近畿圏で感染拡大が顕著だったが、自治体も政府も毎日の新規感染者数などを深刻がって見てるだけで、素早い対策は希薄だった。そうしているうちに東京をはじめ全国的に感染の拡大が広がり、緊急事態宣言に追い込まれる地域も出てきた。緊急事態宣言の前段階として設定された「まん防」の効果は何があったのかと疑問になるような展開で、感染拡大を後追いしているだけの自治体と政府だ。

 変異ウイルスによる感染ルートに顕著な相違は報告されていないので、飛沫感染と接触感染が主であることは変わらないだろう。3密を避けるとの対策が引き続いて有効だろうが、自治体や政府から聞こえてくる対策は、飲食店の営業規制に偏る。だが、飲食店での飲み会ルートでの新規感染者はどれくらいなのか具体的な数字は示されない。科学的な対策というなら、根拠になるのはデータだ。

 1年前とは人々の意識は変化した。ワクチン確保が後手にまわり、外出自粛や営業自粛を呼びかける以外に対策はないように見える自治体や政府を人々は冷ややかに見ている。厚労省をはじめ官僚らが多数で飲み会を開いていたことが次々に暴かれ、自治体や政府の発する言葉に説得力が薄れた。人々の信頼を得るためには自治体や政府は、第4波を見事に抑制してみせるくらいを達成しなければなるまい。

 都会では、飲食店の時短営業などにより路上で酒を片手に飲み会をする人々が現れたという。自治体は路上飲み会も厳しく取り締まるというが、法的な根拠はぼやけている。感染リスクがあると専門家は指摘するが、路上飲み会と同様の感染リスクがある状況は、混雑する通勤通学時や会社内など都市生活には珍しくない。路上飲み会の感染リスクを数字で可視化して警告することが専門家の役目だ。第4波に対して人々の協力を得たいのなら、具体的なデータで人々を説得しなければならない。

2021年4月21日水曜日

衰えた翻訳力

 日本では言語状況も「グローバル化」が進み、カタカナ語の大幅な増加が続いている。明治以来、日本人は英語など欧米の言葉を適当な漢字を使ったり造語して翻訳し、新しい概念や技術などを吸収してきたのだが、翻訳の過程は欧米の言葉の意味するものを日本語で明確化する過程でもあった。

 日本では今も欧米から新しい概念や技術を吸収することは続いているが、インターネットの普及と英語を理解する日本人が増えたこともあってか、適する漢字を使ったり造語して翻訳する努力は放棄されたような状況となり、英語などをそのまま取り入れていることが大幅に増えた。

 といっても英語などをアルファベットでそのまま日本語の中に取り入れるようになったわけではなく、読みをカタカナに直しているだけだ。新聞や雑誌はまだ縦書きが多いが他は横書きが主流となり、インターネットは横書きの世界なのだから、アルファベット表記を日本語の文章の中に取り入れることは容易になったはずだ。だが、読みをカタカナ書きするだけ。

 新しい言葉をカタカナ書きする弱点は、その言葉の意味するものがぼやけてることだ。カタカナ表記を読んですぐに理解できる日本人は少ないだろうからと、カタカナ表記に続くカッコ内で言葉の意味を説明したりする。それは文字数を増やすだけなのだから、新しい英語などの言葉を日本語に翻訳して表記するようにしたほうが効率的だ。だが、カタカナ表記は増殖するばかり。

 英語などのカタカナ表記が増えたのは、日本語に翻訳する日本人の能力が低下したからだろう。おそらく漢文の識字能力が衰えて漢字の知識が乏しくなり、日本語の読解力も衰えた日本人は英語などから日本語に翻訳する能力も低下し、新しい概念や技術などを表す英語などの言葉を日本語にうまく翻訳=置き換えることが困難になった。まあ、読みのカタカナ表記で済ますほうが翻訳に頭を悩ますより簡単だし、立派そうに見えるか。

 カタカナだけで説明がない表記も増えた。そうした新しいカタカナ表記の意味を知りたくても国語辞書にはまだ載っていない。英語に堪能な日本人が増えたのならカタカナ書きするよりはアルファベットで表記するほうが理解しやすいだろうが、そうなるのはまだ先だ。新しいカタカナ表記は、言葉の意味するものを正確に知ろうとしない多くの日本人にとって、意味がよく分からない言葉のまま放置される。

 カタカナ表記の氾濫は、①日本人の翻訳能力の低下、②日本人は言葉の意味が曖昧のまま使用、③欧米発の新しい概念に盲従し、検証しないーなどを示す。翻訳とは英語などの言葉が意味するものを自らの言葉で理解することでもある。日本語に翻訳する作業を放棄して見慣れぬカタカナ表記を増殖させることは、ますます日本語の世界を曖昧にし、情緒的にする。

2021年4月17日土曜日

無人島に持っていくもの

 「無人島に1枚だけCDかレコードを持って行けるとしたら、何を持っていくか」との問いは、頻繁に聴く愛聴盤か最も高く評価している作品は何かを尋ねている(無人島には電気がないだろうから、CDやレコードを持っていっても音楽を聴くことはできないのだが)。

 同様の問いに「無人島に1冊だけ本を持って行けるとしたら、何を持っていくか」がある。これも愛読書か最も高く評価する本を尋ねているのだろうが、無人島では読む時間が十二分にあるだろうから、愛読書などではなく、読むのに時間がかかる本を挙げる人もいる。例えば、大部の辞書など。

 これらの問いは、無人島に行って1人ぼっちになり、しかも帰っては来ないという想定だ。つまり、無人島に行ったきりになる。だが、食糧や水など生存に必要なものは確保でき、生存を続けていくことができるとの暗黙の前提があるらしく、本を読んだりする時間だけはたっぷりあるということらしい。

 愛聴盤や愛読本、最も高く評価するものなどを問うために無人島を持ち出す必要はない。無人島を持ち出すのは、現実の生活から完全に離れることと、所有物を失って身一つになることを設定するためだ。無人島に持っていくという選択は、多くの所有物を捨てて一つを残すという選択だ。

 無人島に持っていく本は「無人島での暮らし方のガイドブックだ」と友人、「あるいは、無人島からの脱出法を解説した本があれば、そっちの方がいい」。何を持っていくかではなく、無人島に1人で生きなければならなくなることに友人は目を向けた。

 しかし、「ガイドブックがあっても、無人島での生活の役に立つかどうかは判らない」と友人。無人島に一つだけ持っていくという設定なので、ガイドブックを選んだなら、他に何もないことになる。「ガイドブックに無人島ライフの多くのノウハウが書いてあっても、道具がなければ何も実行できないだろう。サバイバルナイフのほうが実際に役に立つかもしれない。いや、現代なら衛星携帯電話だな」。

 無人島で外界から遮断された時間を過ごした後、戻ってくるという設定ならば、「無人島に一つだけ持っていくことができるとしたら、何を持っていくか」との問いの無人島はリゾート地と同じだ。わざわざ無人島を持ち出すのは、現実生活から離脱することをロマンチックに想像させるためか。

2021年4月14日水曜日

時代についていけない

 森喜朗氏の「不適切」な女性蔑視発言は、日本社会で女性の地位が低い状態のままであることを可視化した。さらに世界の男女平等ランキング(ジェンダーギャップ指数)で調査対象156カ国のうち日本は120位であり、指導的地位にいる女性の割合が少なすぎることなどが問題点として報じられたが、たちまち、新聞社やテレビ局などでの女性役員の少なさを批判する声が現れた。

 「第四の権力」として国家権力を監視し、批判する大役を担う新聞社に人々が向ける目は厳しくなっている。インターネットには新聞社やテレビ局が報じない内外の情報が大量に流れ、新聞やテレビを見なくても人々は多くの情報を得ることができる現在、大所高所から権力や社会を批判し、人々に向けて御高説を発信していた新聞社の存在価値が薄れたことは確かだろう。

 その新聞社は経営面でも厳しくなっている。紙に情報を印刷して配送し、販売店が家庭に届けるというビジネスが、インターネットが普及し、さらに、どこにいてもスマホでいつでも情報を得ることができるという時代についていけなくなった。各社の発行部数はハイペースで減少を続け、希望退職を募集するなど事業規模の縮小を繰り返す。構造不況業種だな。

 こうした状況はインターネットが普及し始めた頃から予想されていた。すでに米国では新聞社の統廃合が進んでいて、日本の新聞社には対応策を検討し、展開する時間的な余裕は十分にあった。だが各社から大胆な対応策は出て来ず、時代の変化に対応した斬新な発想が簡単に生まれるものではないことを新聞各社は示してみせた。

 各社はホームページを作ったものの、課金にとらわれすぎるためか、紙の新聞に比べてもニュースなどの情報量が少なく、情報の更新も遅い(紙の新聞には原稿の締め切りがあるが、インターネットには締め切りはない=いつでも締め切り)。紙の新聞より大量の情報があって情報源として魅力があると人々に思わせなければ、新聞社サイトはポータルサイトと同列の存在でしかない。

 紙の新聞の発行部数は減るばかりで、自社サイトは収益減にいつまでも育たず、リストラで社員を減らして不動産収入に頼るだけとなっては新聞社は先細り。毎日新聞社は大阪本社ビルを銀行に譲渡して資金を借り入れ、運転資金に充てるという。同社は資本金を1億円に減資したことも話題になった。税制上は中小企業の扱いとなり節税につながるというが、経営の余裕がなくなった現れだ。

 監視や批判が緩めば権力は腐敗し、強権的に振る舞い、説明責任を軽んじ、企業や官僚と癒着したりすることは最近の日本の例が示している。権力を常に監視し、批判する存在は民主主義社会に不可欠だが、経営難の新聞社がその役割を担うことはいつまで可能か。インターネット上に、権力監視の公共的な役割を担う新聞社に代わる存在はまだ現れてはいない。

2021年4月10日土曜日

機動的な対応に失敗

 まん防とは「まん延防止等重点措置」の略称である。これは「地域の感染状況に応じて、期間・区域、業態を絞った措置を機動的に実施できる仕組み」(内閣官房HP)で、「集中的な対策により、地域的に感染を抑え込み、府県全域への感染拡大を防ぎ、更に全国的かつ急速なまん延を防ぐ」ことが目的という。

 まん防は緊急事態宣言の前段階として新たに設定されたものだが、都道府県など自治体が地域の感染状況に応じて自由に発令できるものではなく、要請に応じて国が実施を決める。「機動的に実施」するなら全国の市町村がそれぞれの感染状況に応じて発令や解除を適時行うほうが効果的だろうが、政府は規制の権限を手放さない。

 全国各地で以前の緊急事態宣言の発令時と同様の感染状況に悪化してから、まん防の適用を政府は決めた。まん防の適用は緊急事態宣言レベルより感染状況が軽度の場合のはずだが、感染状況は緊急事態宣言にふさわしいレベル。まん防と緊急事態宣言の発令基準の違いは微妙で、政府や官僚の裁量権が増しただけとも見える。

 まん防は、緊急事態宣言の発令時のような経済活動へのダメージを少しでも軽減するために設定されたものだが、政府がもたもたして感染状況の悪化を後追いしているだけとなっては、まん防の存在の意味が薄れる。まん防という新たな基準の設定は混乱を増やしただけで、緊急事態宣言との違いを人々は実感できないだろう。

 まん防は、政治が出すメッセージとしては失敗例だ。緊急事態宣言の前段階として人々に警戒心を高めるように促すはずのシグナルが、状況認識の複雑化をもたらし、より混乱を招くだけとなった。まん防のような人々に理解されない政治メッセージでは効果は限られ、感染拡大防止の効果は期待できない。

 新型コロナウイルスに対する警戒シグナルは都道府県独自のものもあり、感染状況や医療逼迫状況に合わせて、それぞれ数段階に分かれる。各都道府県が独自に設定するので名称も各段階の基準もばらつきがあり、ぱっと見ただけでは理解しにくい。人々が全国を自由に移動する現在、政府は各都道府県の基準に共通性を持たせて、人々の警戒心を高め、行動変容を促す方向へ導くべきだろうに、まん防という新たな基準を政府が設定し、混乱を増やしている。

 政府や官僚は感染拡大を裁量権の拡大にうまく使った。都道府県が独自に警戒シグナルを発するより政府に判断を一本化したほうが感染拡大を効果的に抑制できるなら喜ばしいが、実際は政府や官僚は機動的な対応に失敗し、各地での感染拡大をもたもたしながら後追いしているだけだ。感染拡大の波はこれからも次々と続くことを覚悟した方がよさそうだ。

2021年4月7日水曜日

中国人の愛国主義

 愛することは普遍的な行為で人類が共有するものだが、誰を愛するか何を愛するかは個人の選択に任される個別的なものだ。愛するという普遍的な行為は、現れる時には個別的で特殊なものとなり、それは多彩で様々な形態や展開となる。もちろん、ある個人を複数の人が同時に愛することは珍しくないだろうし、例えば、ビートルズの音楽を愛する人は多数いるだろうから、共有する愛も存在する。

 共有する愛の一つに祖国愛がある。それはかならずしも国家に対するものではなく、郷土愛と未分化であることも珍しくないが、近代国家においては国家を愛することを国家が主導し、奨励し、強制し、祖国愛と愛国主義が同一のものとされたりする。素朴な郷土愛の対象は人々が生まれ育った風土だろうが、そこに国家が重ねられ、愛国主義が自然なものであるように演出される。

 国家を愛するという人々は、郷土や風土を除くと、何を愛しているのだろうか。政府や体制に対する熱烈な支持がしばしば愛国主義の具体的行動として現れる。政府や体制を支持することは政治意識に促される行為であり、政府や体制は本来、感情が大活躍する「愛する」対象にはふさわしくない(だが、政府や体制を愛することは禁じられてはいない)。

 人は愛する対象との距離を縮めようとする。政府や体制を愛する人々は国家に対する帰属意識を、政府や体制との距離を縮め、一体になると感じることで満足させているのかもしれない。そうした一体感は、権力に関与しない人々には実態を伴わない「片想い」でしかないのだが、政府や体制との一体感は自己肯定感にもつながるから心地よさを実感することはできよう。

 愛は盲目とも言う。対象を肯定的にだけ見ることで可能になり、持続する愛なら、愛する対象に対する批判精神は抑制される。対象を愛しつつ批判もすることは可能だが、それは誰にでも、いつでも可能であるとは限らない。政府や体制を愛するという愛国主義の欠陥は、人々から常に批判されなければ「腐りやすい」政府や体制に対して盲目になることだ。

 愛国主義という国家に対する愛は個人が感じるものだが、しばしば集団的な行動となって現れる。国家に対する帰属意識が愛国主義を支えているのなら、個人より国家を上位に置く集団主義との親和性は高い。個人があって集団があるのではなく、集団があって個人があるという集団主義は、同調しない個人や組織などを攻撃し、自由な言動を制約するなど排他性を帯びる。

 愛は対象を縛ることがある。愛するに値するように対象は常に立派でなければならないと求め、対象の自由を縛る。国家が煽る愛国主義は同調する人々が増えるにつれて、その愛国主義から逸脱する行動を制限する人々の圧力が増し、かくして国家も人々も愛国主義を抜け出せなくなる。国内で愛国主義を煽る中国共産党もその愛国主義に縛られ、内外政治における自由裁量の枠が狭まっている。人々が強く愛国主義に駆り立てられるほどに、その愛に値する政府や体制であり続けなければならなくなる。

2021年4月3日土曜日

感染拡大の波状攻撃

  フランスはパリなどで続けていた外出制限や店舗休業を全土に拡大し、学校を遠隔授業に切り替えた。850万人以上(国民の1割強)がワクチンを接種したが、感染力が強い英国型変異ウイルスによる感染加速で新規感染者数が6万人(3月31日)にもなる状況では、人々の接触を制限するしか策はない。ドイツでも変異ウイルスによる感染拡大が続いているが、規制強化を打ち出したものの人々の反発が強く政府は撤回に追い込まれた。

 米国でも新規感染者が6万人/日になるなど感染拡大が続き、CDC所長は欧州諸国で感染者や死者が再び急増している事態がアメリカでも起きないか心配だと警戒感を示した。ブラジルでも感染拡大が顕著で、死者数は昨年の2倍のペースで増加しているという。世界最大規模のワクチン生産国インドでも新規感染者が増え、国内接種のワクチン確保を優先するため輸出の制限を始めた。

 世界では感染者数は1億2830万人、死者数279万人(3月31日現在、以下同)。米国は感染者3039万人・死者55万人、ブラジルは1266万人・32万人、インドは1215万人・16万人。感染者数が1千万人を上回るのはこの3国だけ。フランスとロシア、英国は感染者数が400万人台、イタリアとトルコ、スペインが300万人台で、ドイツとコロンビア、アルゼンチン、ポーランド、メキシコが200万人台。

 感染拡大は日本でも目立つ。大阪や兵庫、宮城、山形、青森などで新規感染者の増加が続き、東京などでも減少傾向から反転し始めた。全国の感染者数は47万5335人で、死者数は9176人。東京で感染者数が12万人を超え、次いで大阪5.2万人、神奈川4.8万人、埼玉3.2万人、千葉2.9万人、愛知2.7万人。北海道と兵庫が2万人台で福岡が1.9万人。1千人未満は11県で、鳥取と島根、秋田は200人台で推移している。

 日本でも世界でも感染拡大が起きている地域・国と抑制されている地域・国に分かれる。感染拡大の理由として①人々の接触機会が多い、②人々の移動が多い、③変異ウイルスの存在ーなどの違いが想定される。外出制限やロックダウンなどが長引くと人々は我慢できなくなって反発したり、制限が日常化したことによる気の緩みなどからコロナ以前の行動形態に戻ることなどが影響している可能性もある。

 この感染拡大は第4波が襲来したと懸念する地域・国が多いようだ。新型コロナウイルスの感染拡大には波があり、波状攻撃とも見えるが、実際には、感染者の増加で外出制限やロックダウンなど規制を強めて人々を自宅に閉じ込めることで感染者の増加を減らし、制限を緩めると人々の接触機会が増えて感染者が増加することを繰り返しているだけだ。

 人々の接触機会が増えると感染者が増える構造が続くなら、新型コロナウイルスが自然消滅するか治療薬が誕生するまで感染拡大の波状攻撃が続くだろう。ワクチンの効果は未知数で、外出制限やロックダウンを厳しくしたり緩めたりを繰り返すしか人類には対応法がないとすると、これからも波状攻撃は繰り返される。人々が出歩いて人々と会って話し、旅行することを放棄することはないからだ。

2021年3月31日水曜日

やり返すという対応法

 やられたら、同じ分だけ、やり返すという対応をする人は、強い精神力を有するタフな人物と見られるだろう。批判されたら同じように相手を批判し、嘲笑されたら嘲笑し返し、1発殴られたら1発殴り返し、2発殴られたら2発殴り返し、蹴られたら蹴り返す……こうした対応法の落とし穴は、双方の応酬がエスカレートしやすいことだ。

 先に1発殴ったのが相手で、同じ1発を殴り返したとしても、相手が同じ分だけ返されたと認識するかどうかは不明で、やり返されたことでカッとなって、さらに殴りかかってくることは珍しくない。言葉の応酬から始まって取っ組み合いに発展するのは子供の喧嘩によくあることだが、自制する力が伴っていなければ、やられた分だけ、やり返すという対応法は挑発行為となりかねない。

 やり返すという対応法は、他人と対等の立場に常に立っていようとする意志に基づく。批判されてもろくに反論せず、嘲笑されても黙ったままで、1発殴られて泣きべそをかくだけだったなら、なめられる存在となり、対等の立場に立つとはみられなくなる。だが、対等の立場にない者が対等に振る舞うと、相手を挑発する行為と見做されたりもする。

 やられた分だけ、やり返すという対応法は外交にも用いられる。強く批判されたなら強く批判し返し、経済制裁されたなら経済制裁し返すという外交で最近目立つのが中国だ。中国はEU関係者らや英国の政界関係者ら9人と4団体を対象に制裁を科し、また、米国とカナダの議員らにも制裁を科すと発表した。これは先にEUと米、英、カナダが対中制裁を実施したことに対する対抗措置。

 中国の主張は「ウイグルの人権問題を口実に中国に制裁を実施し、内政に干渉した」「噓と偽りの情報に基づいて一方的に制裁を実施した」など強硬で、譲歩する気配は皆無だ。世界2位の経済大国になり、欧米と対等の立場に立ったとの自負と、国内で愛国主義を煽っているので、欧米の主張に少しでも譲歩すればプライドを傷つけられた人々の怒りの矛先が中国共産党に向かいかねず譲歩できないのだろう。

 以前から指摘されていたウイグルにおける大規模な人権侵害を口実に今になって欧米が中国に対する批判を強め、経済制裁に動くのは、中国に対する警戒感の高まりを示す。欧米主導の世界秩序に対する現実的な脅威だと認識したのなら、封じ込めの動きの手始めかもしれない。だが、欧米企業との経済的な結びつきが緊密なので中国は欧米に対して強気に出ることができるし、欧米も経済的な関係を壊してまで中国封じ込めに動くことはできまい。

 やられたら、やり返す外交は他国と対等の立場に立とうとする主権国家にとって当然かもしれないが、自制心が希薄ならエスカレートしやすいことは子供の喧嘩と変わりない。欧米にとってウイグルの大規模な人権侵害は対中国の交渉カードに過ぎないだろうが、中国にとっては妥協の余地がなく、否定し続けなければならない。エスカレートしやすいのは中国のほうだ。

2021年3月27日土曜日

撤収できない米軍

 米トランプ政権がアフガニスタンのタリバンと和平合意を結び、今年5月1日までの米軍撤収を明記したが、バイデン大統領は5月撤収について「厳しい」とした。和平合意に対する批判ではなく、アフガン政府とタリバンとの停戦協議が難航する一方、タリバンと政府軍の戦闘が続き、自爆テロなどもあって治安が悪化する状況を踏まえた発言だ。

 米軍撤収を急いだ和平合意だったが、アフガン政府は弱体で米軍抜きの自力での治安維持は困難なため、タリバンの協力が不可欠だった。停戦協議で優位に立つことを狙ってタリバンは政府軍に対する攻撃を各地で強め、すでにアフガン全土の半分を押さえているとされる。米軍の削減が進む中で、実力で勢力圏を拡大したタリバンがアフガン政府との停戦協議で妥協するはずがない。

 アフガン政府との協議でタリバンは、イスラム法に基づいた統治体制の構築などを主張していると報じられた。かつてタリバンはイスラム法に基づく厳格な統治で知られたが、現在の支配地でも同様で、音楽を禁止するなど人々の締め付けを強めているという。一度はタリバン政府を崩壊させた米国は、多大な費用と軍人の損傷を重ねた後にタリバンの政権復帰を容認する。

 米軍を再び増派する選択肢はないが、タリバン単独のアフガン支配は容認できないバイデン政権は、タリバンを交渉に留めなければならない。米軍撤収後のアフガン和平に向けバイデン政権が行った新たな提案は、①米露中印パとイランを加えた和平協議を開催する(3月18日に露が中パと米も加え協議を開催し、アフガン政府とタリバンに直ちに停戦するよう呼びかけた)。

 さらに②アフガンの憲法作成や統治体制の案を米国が作成して提示、③アフガン政府とタリバンが国外で会談する、④90日間の暴力削減期間を設ける、⑤5月の米軍撤収を延期ーなど和平合意の修正に動いた。米国が憲法や統治体制の案を示すのは、アフガン政府とタリバンの統治者能力を見限ったということだが、統治者能力に欠ける勢力に任せるしかないのが現実だとすれば、和平合意が成立したとしても脆さは残る。

 脆さとは、米軍が撤収すればタリバンは自力でアフガン全土の制圧にいつでも動きかねないことだ。米軍という「重し」がなくなった状況でタリバンの動きをどう封じるかが和平協議のポイントだが、自力で単独政権を狙えるタリバンに和平協議で譲歩を求めることは簡単ではない。米国などが監視するアフガン政府とタリバンの暫定政府ができたとしても、実権はタリバンが握る。

 バイデン政権は米軍撤収を6カ月程度遅らせる方向で調整しているとの報道もあり、5月1日までの撤収の可能性は低い。圧倒的な武力でタリバン政権を倒し、アフガンを占領した米軍だが、アフガンの統治に失敗し、今になって「後は勝手にしろ」と投げ出すこともできず、体裁を整えてから引き上げようと難儀している。アフガンは、紀元前から多くの王国や帝国に代わる代わる支配されたり、自力で何度も王朝を起こしたり、侵略軍と戦ったりと戦いの歴史を積み重ね、米国よりもはるかに長い戦いの歴史を有する。

2021年3月24日水曜日

占いの根拠

  血液型占いは、血液型と人の性格に何らかの関係があるとするから成立する。だが、血液型は客観的に判定できるが、人の性格は茫漠としている。陽気だとか真面目だとか気が強いとか消極的だとか人の性格は多くの要素が重なり合って形成され、時には陽気になり時には陰気になり、時には強気になり時には弱気になるのは珍しくなく、様々な条件次第で人は異なる反応をするだろうから、性格の見え方は変化する。

 相手次第で強気に出たり、上司がいると積極性を出したりと人は性格を状況に合わせて変えたりもするので、人の性格をこうだと固定することは簡単ではない。ドラマや小説などでは登場人物の性格を固定して分かりやすくするが、現実世界で人の性格を「正確」に判定することにはかなりの困難を伴うだろう。また、見ている側は主観で判断するから、人の性格の客観的な判定は揺れ動く。

 2つの関係を論じるときに、一方が固定されているが他方は揺れ動く状況では確実なことは言えまい。正確に言おうとすれば、揺れ動く状況に応じて確率を示し、例えば、A型の人が真面目な性格である確率は◯%、O型の人が陽性である確率は◯%などとするしかない。その確率の根拠には主観ではなく確かなデータが必要だが、性格に関する科学的なデータは乏しい。

 血液型占いは、血液型という客観的に判定できる要素と、人の性格という茫漠な要素を組み合わせることで、占う側が幅広く解釈する=どうにでも血液型と人の性格をこじつけることができる仕組みだから生き残っている。この種の占いを試す人々はおそらく、遊び半分で楽しんでいるのだろうから、占う側に客観的な正確さなどは求めていないことも血液型占いを存続させている。

 血液型により人の性格に決まった傾向があるとすれば、例えば、A型の人の性格が皆似ているとすると、日本人の約40%=約5000万人が同じような性格だということになる(日本人の血液型分布はおおよそA型40%、B型20%、AB型10%、O型30%という)。5000万人を同じ性格だとするためには、人の性格を大雑把に分けて誰にでも当てはまるような判定をするしかないだろう。

 血液型占いを信じる人は、「A型は真面目タイプ」などと言われると、それに合致する誰彼を思い浮かべ、血液型と人の性格に関連があるとうっかり納得したりするが、それは聞き手が占いの御託宣に合わせて解釈しているだけだ。A型だけどチャランポランな誰彼のことを忘れている。さらに、誰にでも真面目な一面があるので自分がA型なら「そうか」と簡単に納得できよう。

 運勢、吉凶、性格など占いの対象は様々だが、共通するのは占う対象が茫漠としていることだ。だから占う側は何でも言える。そうした占いに何かの根拠があるように見せかけるために、血液型とか天体とか科学で解明されている事柄と結びつけたりするが、掌を見たり人相を見たりと更に解釈次第で何でも言える手法と結びつけたりもする。科学を利用する占いのほうが近代的な装いだが、根拠が皆無なことは同じだ。

2021年3月20日土曜日

事実の確認

 インターネット上には情報が溢れているが、それは①事実を正確に伝えている情報、②事実を誤って伝えている情報、③事実を歪めて伝えている情報、④事実と無関係に創作された情報、に大別される。その見極めは簡単ではなく、また、人は自分が好む情報を探す傾向があり、正確さが常に意識されているわけでもない。

 さらに、事実を正確に伝えている情報が常に正しいとは限らない。典型的なのは、誰かの発言を伝える情報だ。その発言の存在が事実で、発言内容を正確に伝えている情報であっても、その発言の意味する内容が正しいかどうかは別問題だ。

 例えば、政治家など著名人が「UFOを見た」と言ったと伝える情報。その発言が実際に存在し、発言内容を確認したならメディアは「UFOを見たと◯◯さんが言った」と報じることができる(UFOなら、その情報を見た人は発言を面白がるだけで、UFOの存在を信じる人は少ないだろう。だが、現実的な事項についての発言なら、発言内容を事実と受け止める人がいるだろう)。

 「UFOを見た」との発言の存在と発言内容を確認して歪めずに伝えたなら、メディアは事実を伝えたことになる。しかし、「UFOを見た」とメディアが報じることで、UFOの存在が確かめられたかのように受け取る人もいるだろう。意図的なミスリードでなかったとしても、結果としてはミスリードとなる。

 この種のミスリードを防ぐためには、メディアは誰かの発言を報じる時には、その発言内容を検証し、事実であることを確認する必要がある。だが、発言は当人の見解や主張を述べる場合が多く、客観的な事実認識に基づいていることもあるし、主観的な事実認識に基づいていることもある。偏った見解や主張であっても著名人の発言であればメディアが報じるのは、発言の存在という事実のみに基づく。

 メディアは、発言の内容を検証して客観的事実に基づかない見解や主張は報じるべきではないだろう。誰かが「UFOを見た」のが事実かどうか客観的に検証することは不可能なので、UFOの存在は確認されていないというのが客観的な判断だろうが、UFOが社会的に大きな関心事であるなら、UFOに関する著名人の発言がニュースバリューを持つ。

 「UFOを見た」との発言が事実であっても、本当に何かを見たのか、見たのは本当にUFOかなど確認すべきことはある。ただし、UFOの存在を肯定し、存在するとの認識を広めたいと考えるメディアなら、「UFOを見た」という著名人の発言を積極的に利用するだろう。

2021年3月17日水曜日

増植する言葉

 「よりそう」という言葉が増殖している。悲しむ人々や苦しむ人々の悲しみや苦しみに共鳴・共感しつつ見守り、時には励ましたりすることを意味しているようだ。よりそう行為は具体的ではなく、災害の被災者や事故などの被害者に同情し、精神的に支えるなど主に直接的な支援以外の働きかけを指して使われている。

 漢字を混えた「寄り添う」の本来の意味は「相手のからだに触れんばかりに近くに寄る」「ぴったりとそばへ寄る」で、「寄る」プラス「添う」だ。本来の意味での寄り添う行為は、ボランティアや募金活動などを行って被災者や被害者を具体的に支援することだろうが、よりそうは「寄る」ことよりも「添う」ことに重心が置かれ、忘れないとのメッセージの色が濃い。

 よりそうためには対象が必要だが、誰でもいいわけではない。寄り添う相手は自分が興味・関心を持った近くの対象だが、よりそう相手は、距離を隔てて存在する災害の被災者や事故などの被害者で、直接的な支援を行うことが容易ではない対象だ。被災者や被害者は同情される対象でもあり、人々の自然な同情心が刺激されて、よりそうことになる。

 被災者が被災者によりそうのではなく、被害者が被害者によりそうのでもなく、被災者や被害者に平穏な日常生活を続けている人がよりそうという構図。よりそうには、同情するが傍観している気配も漂う。被災者や被害者の間では、寄り添って助け合い支え合うのだろうが、よりそう側と、よりそわれる側には互いに助け合い支え合う関係はない。

 よりそうと似た言葉に連帯があるが、連帯はもっと積極的な精神的支援の意思表示であり、不正義による犠牲があったりすると時にはデモなどとなって現れ、連帯の対象は自国にとどまらず、国際的な動きとなったりもする。よりそうの対象は日本国内に限られ、被災者や被害者の窮状が伝えられても、よりそう人々がデモなどを行うことはない。

 よりそうと、寄り添う。ひらがな表記にすることでソフトな感触になり、直接的な接触感が薄れる。テレビ画面で被災者や被害者を見ながら同情している心境にふさわしい表現だ。同じく増植する「ふれあい」とも共通する距離を置いた間接的な接触感は、濃密な対人関係を好まない風潮の反映かもしれない。

 だが、よりそうことは悪いことではない。次々に自然災害や事件・事故が発生するのだから被災者や被害者も次々に増え、直接的に支援できる対象は限られる。被災者や被害者に無関心ではいられない人々が被災者や被害者に「よりそう」ことしかできなかったとしても、被災者や被害者の社会的な孤立感を薄めることはできよう。

2021年3月13日土曜日

目を合わせる

 京都や奈良など全国各地の古刹が保有する仏像を借り出して、東京などの美術館や博物館で展示する催しは年中どこかで行われている印象だ。日本は全国で古刹や仏像の数が多いことに加え、人気がある仏像をメインにした催しなら数年ごとに全国どこかで開催される。

 古刹から仏像を借り出す展示会が多いのは、動員数が好調だからだろう。人が集まるといっても、それは、ありがたい仏像を拝む信仰心からではなく、優れた彫刻作品を美術品や芸術作品として鑑賞するためだ。美術館や博物館で仏像に向かって手を合わせて熱心に祈っている人を見かけることはほとんどない。

 仏像は美術品や芸術作品として作家が創造したものではなく、仏教の信仰の具体的な対象として制作されたものだ。拝むものから眺め鑑賞する対象に仏像が変わったのは、仏教信仰の衰退の表れでもある。だが、信仰心に支えられて制作された彫刻や絵画などが、宗教とは離れて創作作品として鑑賞の対象になるのは日本に限らず世界的な現象だ。

 仏像は仏教が説く至高の価値などの表現であり、悟りを開き、真理に到達したという如来や菩薩、明王などが造形される。如来などは修行を経て人間が到達した姿とされるから、人間の姿で造形される。だから、肖像彫刻として鑑賞されることに抵抗が少ないのだろう。

 さらに「7世紀後半から8世紀にかけての日本に、様式上の創意はなかったが、実に美しい像が多く作られた」「鎌倉時代の代表的な作品は、それが菩薩像であっても仁王像であっても、人間の身体から出発して人間を超える。仏像の人間化は、必ずしも現実の人間の写実ではなくて、むしろその『理想化』である」(加藤周一『日本その心と形』)と優れた造形作品が多い。

 仏像には、ちょっと変わった鑑賞法がある。それは、仏像の顔の正面に鑑賞者の顔を持っていき、仏像と視線を合わせることだ。仏像の視線の方向は様々で、視線を合わせるために鑑賞者はしゃがんだり背伸びをしたりと動かなければならないが、視線が合った時に鑑賞者は仏像の強い眼力を感じ、仏像が何かを伝えようとしているような印象を受けるだろう。

 古刹の金堂に安置された巨大な仏像があると、正面に立って見上げた鑑賞者は仏像の少し下向きの顔と見合い、視線が合ったりする。慈愛に満ちた目と仏像の存在感に圧倒される感覚になるだろう。仏像と目を合わせることで人は、単なる美術品や芸術作品にとどまらない仏像の力を感じることができよう。