2015年5月30日土曜日
迷走する憲法観
5月3日の憲法記念日に合わせて毎年、新聞などは憲法についての記事を掲載し、各地で憲法を巡る集会が開かれ、その様子はTVなどでも大きく扱われる。だが1、2日後には憲法に関する記事はほとんど姿を消し、TVではUターンラッシュが大きく扱われるようになる。憲法は、数ある季節ネタの一つになってしまったようだ。
憲法は国の基本的在り方を決める最高法規であるとされるが、日本人自身が主体的につくりあげたという実感が乏しいのも事実だ。日本国憲法だけではなく、大日本帝国憲法も同様で、どちらも国家観を巡って日本人による広範な議論から誕生した憲法である……とは言いがたい。
つまり、日本という国の基本的在り方について、日本人による真剣な議論が足りなかったンじゃないかという疑問が、憲法論議の陰に潜んでいる。日本という国家意識が日本人に定着したのは維新以降の、中央集権による明治政府が誕生してからであろう。日本という国の在り方を巡り自由民権運動などはあったが、それらが憲法の内容に反映していたとは見えない。
大日本帝国憲法のもとに運営された日本という国家は隆盛をとげたものの、1945年に敗戦し、占領されて、再び主権を回復して独立国となるまでに7年を要した。ボロ負けの敗戦により国家主権を失ったことで、大日本帝国憲法による国づくりには重大な欠陥があることを日本人は痛感し、認識せざるを得なかった。
敗戦から2カ月ほどでマッカーサーから急かされて日本政府は憲法改正に動き始めたが、大日本帝国憲法の影響下から抜け出すことができない案しかつくることができず、「マッカーサー草案」を受け入れて日本政府案を作成し、それが議会で承認された。ここでも、日本人による広範な議論を経て、1945年以降の日本という国の在り方を決めた……とはいえない。
とはいえ、日本国憲法を日本人は受け入れた。それは、敗戦から1年足らずの当時は戦争に対する拒否感・嫌悪感が高まっていたからだろう。二度と戦争はごめんだという気持ちが強く、個人を縛る統制国家ではない、個人の自由を尊重する国家に期待したからかもしれない。そして、米軍の駐留が続く中、日本は経済的に発展した。
憲法を巡る今年の報道では、自民党が憲法改正に具体的に動き出したことが大きく取り上げられていた。といっても、環境権などを掲げて“お試し”改憲を狙う方針というので、改憲のハードルを下げることが狙いのようだ。解釈改憲で、憲法を棚上げにしたまま、その時々の内閣により「国の形」が変えられることよりも、お試しではあっても憲法改正を試みるほうが、政治姿勢としては真っ当だろう。
日本における憲法論議で今、日本人自身による日本という国の在り方を巡る広範な議論が沸き起こっているのだろうか。王制に対する市民革命を経ていないが、日本人は近代憲法を手にすることができた。その憲法を政党や政治家任せにせず、日本人自身がどうするのかが問われている。だから、護憲も選択肢として、今後どのような憲法を日本人が持つかということは、日本人の政治的な成熟の度合いを示す。
2015年5月27日水曜日
学問の領域と政治の領域
米国などの日本研究者187人(当初)が発表した「日本の歴史家を支持する声明」の文中に、「多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、いまだに難しいことです」とあり、“歴史認識”の問題が日本にだけあるわけではないことを認めている。が、日本だけが槍玉に挙げられることについては何も語らない。
声明は不正義の例として「第2次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに40年以上」かかったことや、「アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに1世紀」かかったが、「人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くって」いるとする。
さらに「米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、19・20世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません」とする。確かに米国、ヨーロッパ諸国は、世界の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分には取り組んではいない。
そういう認識なら、日本だけが歴史認識の問題で槍玉に挙げられることに興味を持つのが日本研究者だろう。各国が「クリア」している歴史認識の問題を、日本が「クリア」できていないとすれば、戦後処理に問題があるのか、政治体制に問題があるのか、社会的な問題があるのか、比較研究の格好の材料だ。それは日本研究をより深めるために有効だろう。
声明は「今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です」と促す。日本に歴史認識で問題があることを前提とした“助言”だ。韓国、中国が外交問題化していることが大きく影響して、日本における歴史認識がクローズアップされていることを日本研究者は承知の上で声明を出したのだろう。
その韓国、中国にも、例えば、朝鮮戦争の開戦責任など歴史認識の相違はあるし、自国が関わる「慰安婦」絡みでは隠していることがあり、中国が共産党支配に都合の悪い歴史を封じ込めていることも知られている。国が異なれば歴史認識の「正しさ」が異なるのは当然だが、自国の「正しさ」を主張するために他国を貶めることも珍しくはない。
だからこそ歴史研究は様々な政治から距離をとり、政治などに左右されない事実だけを歴史から抽出することが研究者の重要な役割となる。そうした確かな事実だけを積み重ねて研究者が再構築した過去を論じる時に、初めて研究者の主観が示されるべきで、事実認定に研究者の主観を付着させるべきではない。政治などに左右されない事実を抽出することは、社会に冷静な判断材料を提供することにもなる。
なお、日本では15年戦争を肯定したり、旧日本軍を含め戦時体制を懐かしがるような動きは根強く存在したし、「戦争を知らない」世代が多数になるにつれて、そうした見解の表明への抵抗が薄れているようにも見受けられる。そうした風潮への批判はあって当然だが、それは学問の領域ではなく、政治の領域だ。
2015年5月23日土曜日
全能の神の存在
この世界をつくった全能の神がいて、その神が人間をもつくったとする。人間にとって全能の神は、自分たちを生んでくれた親みたいな存在なのであるから、あがめる対象となるのが当然のはずだが、そうはならなかった。この世界には全能の神の存在を信じない人々が多数いる。それで、神は御言葉を人間に下しおかれ、「神を信じよ」と人間に布教活動を始めさせた。
ここで疑問が出てくる。全能の神が人間をつくった時に、全能の神が存在することを人間の記憶に埋め込んでおけば、後になって「神を信じよ」などと布教活動を人間に行わせる必要もなかった。唯一の全能の神が存在することを人間が知っていれば、数多の宗教が誕生する余地は少ないだろうから、宗教を背景とした紛争、戦争なども起こらなかったかもしれない。
全能の神は、人間をつくる時に、神の記憶を埋め込むことをなぜ行わなかったのか。考えられるのは、1)神がつくった、初めての人間には神の存在が見えたので、後の人間も同様だと神は思い込んだ、2)人間が神の存在を疑うようになるとは神は予想しなかった、3)神の記憶を人間に埋め込むことを神は失念した。
いずれも全能の神がミスったということであり、これらは神の全能性に疑問符をつける。つまり、「神を信じよ」と人間に布教活動をさせなければならない神は、全能の存在ではなく、間違うこともあるという人間臭い存在。そんな神がつくったという世界に、不備やトラブルが多いのは当然か。
他に考えられるのは、4)世界に人間が増えてから、神を敬ってほしいと全能の神が思うようになった、5)人間の信仰心を試すために、神の記憶を人間に埋め込まなかった。4)は全能の神が気まぐれでもあることを示すもので、これも全能性を傷つけよう。5)は、全能の神がつくった人間を「なぜ、わざわざ神が試すのか」という根本的な疑問を消すことができない。人間世界を全能の神は、ゲームを見るように面白がって見ているのか。
さらに、6)全能の神は人間には関心がないから、神の記憶を埋め込まなかった……とも考えられる。多くの人間にとって、足元で動くアリたちの存在に関心がないように、神にとって人間は、死のうと生きようと、苦しもうと楽しもうと、どうでもいい存在でしかないから、無関心だとの解釈だ。すると、人間が行う布教活動にも全能の神の関与はなく、人間が思いついたものでしかないことになる。
神が全能であり、神の存在を人間に認識させようと神が考えるなら、生きている全ての人間の記憶を操作して、全能の神の存在を新たに埋め込むこともできるはずだ。「神を信じよ」などと人間に布教活動させるよりも遥かに効率的だ。だが、そんなことを全能の神は行わない。全能の神が存在するという徴候さえ示さない。
ここから導き出されるのは、1)全能の神は存在しない、2)全能の神は存在するが、人間には無関心、3)神は全能ではない……のいずれかだ。神が全能ではないとするならば、全能の神を想定する宗教は人間の創造したものとなろうし、全能の神が人間に無関心なら、神に救いなどを求めても無駄だ。神は全能ではなく、人間臭い存在だとするならば、八百万の神々やギリシャ神話の神々のイメージになる。
2015年5月20日水曜日
事実に対する誠実さ
米国などの日本研究者187人が発表した「日本の歴史家を支持する声明」の目的は何だったのか。声明は、第二次大戦後の日本の歩みを肯定的に評価しながら、世界から祝福を受けるにあたっては障害となるものが歴史解釈の問題で、最も深刻な問題の一つが「慰安婦」制度の問題だとし、慎重な言い回しながら日本政府に「言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる」ことを促す。
声明作成のまとめ役となったジョージタウン大のジョルダン・サンド教授はインタビューで、日本の「憂慮すべき風潮に対する意見」だとし、「ジャーナリストに対する脅迫が起きている」ことや「日本にいる研究仲間は政府の財政援助を受けるために、ある種の問題を扱えない」ことなどを見て、「仲間として意見を述べるときが来た」と判断したそうだ。
それで声明の中ほどで「私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます」としたのだろう。歴史研究の自由を守るとか、それを政府が尊重するように求めるのは当然だ。だが、「慰安婦」問題においては、歴史研究の自由が失われ始めたのか、事実関係の見直しが始まったのか、どちらなのだろうか。
タイムマシンがないため研究者は事実関係を直接検証できず、歴史研究は文献や関係者の証言などに頼るしかない。定説や歴史的事実だとされているものは、新たな史料や証言などにより新事実が判明すれば書き換えられる。そうした誠実さが歴史研究を支え、また、社会から信頼される条件ともなる。
声明の重点は「慰安婦」制度の問題だ。「規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべき」とする一方、軍関係資料のかなりの部分は破棄されたとし、被害者の証言の信憑性について留保しつつも「証言は全体として心に訴える」とする。歴史研究において“心”はどう客観化できるのか。
さらに「永久に正確な数字が確定されることはないでしょう」と政治的対立に巻き込まれないよう研究者としての逃げ道を確保してから、「日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません」と断ずる。正確な数字に少しでも近づくように努力することが研究者としての誠実さの一つだろうに。
日本軍の直接関与について異論があることは認めつつ、「大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている」と論をすり替え、「限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません」とする。互いに立場によって資料を使い分ける?
朝日新聞が大誤報を認めて以来、「慰安婦」制度問題で歴史的に事実と見なされるのは何なのかが揺らいでいる。学問的に検証された事実を提示することが、政治的な立場にとらわれない(はずの)歴史学者の役割だろう。米などの歴史学者が為すべきことは、日本に向って歴史研究の自由を訴えることではなく、「慰安婦」制度について、学問的に信じるに値する事実だけを抽出することだ。朝日や吉田証言など信憑性が疑われるもの、根拠が怪しいものを全て除いて、新たに検証し直すことが誠実さの証しともなる。
2015年5月16日土曜日
動いている地表
ネパールで4月25日にM7.8の地震があり、周辺のインドや中国、バングラデシュを含めて死者は8100人を超え、全半壊の建物は57万棟、政府施設の全壊も1万以上と甚大な被害になっている。震源に近い首都カトマンズでは世界遺産の歴史的建造物が崩壊し、観光客のキャンセルが相次いで主要産業の観光業に対する打撃は大きい。
ネパールの面積は北海道の1.8倍で、人口2600万人余。GDPは約221億ドル、1人当たりGDP約703ドルの後発開発途上国で、GDPの約34%及び就労人口の約66%を農業に依存。各国政府・国際機関から多額の開発援助を受けている(外務省サイトから)。大地震後の経済再建に必要なコストは50億ドル以上で、ネパールのGDPの2割に相当するとも推定されている。
ヒマラヤ山脈を国土に含むネパールは、ユーラシアプレートと、南側から北上するインド・オーストラリアプレートの衝突帯の上にあり、そこで地震が起きた。震源の断層は東西150キロ、南北120キロに及び、場所によっては4m以上ずれたという。
地球の地殻が十数枚のプレートに分かれていて、それらが移動して押し合っているため地震などが起きるというのは「地震多発国」日本ではお馴染みの説明だろう。インド・オーストラリアプレートは北上を続け、インドがユーラシア大陸に衝突してヒマラヤ山脈やチベット高原が形成されたのだが、その動きは続いていてヒマラヤは今でも年々高くなっているというから、自然界のエネルギーは巨大だ。
日本でも、北上するフィリピン海プレート上にある島が本州にぶつかって伊豆半島となり、丹沢山地が形成されたというから、「国の形」は常に変化の中にある。さらにプレートに乗るオーストラリアも北上を続けていて、0.5億年後には日本列島に衝突し、ボルネオやフィリピン、日本列島などが巨大山脈を形成するというから、今のネパールと似た環境になっているかもしれない。
陸地の形が一変する0.5億年後の地球は、どんな世界なのだろうか。約500万年前に猿人が現れ、約170万年前に原人が出現し、約20万年前に、現世人類の直接の祖先となる新人(ホモ・サピエンス)が現れて生命をつないできたのだが、0.5億年の人類はどんな形態で存在し、どんな文明をつくっているのか(想像もつかないが、見てみたいなあ)。
地球上で1.6億年以上も繁栄した恐竜は滅びたが、代わりに哺乳類が栄え、人類が栄える。そんな様々な生命を乗せて、地表は動き続ける。地球も社会も常に変化しているのなら、固定した世界観にとらわれていては見えないものが結構ありそうだ。
2015年5月13日水曜日
度が過ぎる横やり
福岡、長崎、鹿児島など8県の製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業等の23施設が「明治日本の産業革命遺産」として、ユネスコの世界遺産に登録される見通しになった。7月にドイツで開かれる世界遺産委員会で正式に決定されるというが、韓国が異論を唱え、投票に持ち込んで阻止しようとしているので、日本で19件目の世界遺産が誕生するかどうかは定かではない。
この産業革命遺産は、1850年代から1910年、西洋技術が日本の伝統文化と融合し、造船、製鉄・鉄鋼、石炭の重工業分野で産業国家となった道筋を時系列で伝えているとされる。官営八幡製鉄所(福岡)や「軍艦島」(長崎県の端島炭坑)、松下村塾など九州、山口県の施設が中心だが、橋野鉄鉱山・高炉跡(岩手)、韮山反射炉(静岡)なども構成遺産になっている。
産業革命は英で始まり、欧州各国が続いた。近代化に関する産業遺産は欧州では世界遺産登録されているそうだが、欧州以外で重工業分野の近代化を達成したのは日本が初。韓国で重工業分野が発展したのは朝鮮戦争が終わってからだし、中国では20世紀後半になってからだ。「明治日本の産業革命遺産」の登録は、欧米以外で最も早く産業化し、近代化した日本にふさわしいものであろう。
発表のあと、連休ということもあって、構成遺産となる各地の産業施設などでは観光客が増えたという。正式に決定したなら各地で観光ブームが沸き起こりそうだ。ただ、一過性のブームで終わらせないためにも、8県23施設は単なる観光地としてではなく、日本における産業近代化の歴史を伝える役割を果たして欲しいものだ。
韓国政府は、戦時中に長崎市などの7施設に、強制徴用された朝鮮人約5万7900人が動員されたと主張し、世界遺産登録に反対する。「軍艦島」など構成遺産の一部について申請撤回を求め、国会の外交統一委員会も非難決議を採択するなど、反対のボルテージを上げている。以前から反対運動を続けていたのに、登録を阻止できなくなりそうで、悔しさは一層増すのだろう。
韓国は、大統領が訪問先国で日本批判を行うなど異常な外交を続けてきたが、そのことで何を得たのだろうか。日本の国際的地位が下がったわけでもないし、韓国の国際的地位が上がったわけでもない。「歴史問題」を持ち出すことで韓国を“被害者”と位置づけることはできたかもしれないが、国際外交において“被害者”だからといって何でも言うことが通るわけでもない。
韓国政府が望んでいるのは何か。強制徴用された朝鮮人には給与が支払われていたともいい、未払い分については1965年の日韓基本条約(韓国は対日請求権を放棄)で決着がついている。韓国がどうしても見直したいというのであれば日韓基本条約を破棄すべきだろうが、そうなると日本が放棄した「朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産」の対韓請求権も復活する。対日請求額と対韓請求額のどちらが大きいのか。
確かなことが一つある。「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産への登録が韓国の“努力”により見送りになった場合、日本国内における韓国イメージは大きな打撃を受けよう。今回の構成遺産は全国に点在し、登録確実ということで喜ぶ人々は多い。韓国政府が日本国内で嫌韓感情をもっと広く蔓延させたいと狙っているなら、登録阻止は有効に機能するだろう。
2015年5月9日土曜日
客人
高倉健が主演し、大人気だった任侠映画で、欠かせない登場人物だったのが「客人」だ。主人公の高倉健をつけ狙う悪辣な組織に雇われた、凄腕の一匹狼という設定。といっても単純に主人公を襲い続けるのではなく、要所要所で現れては主人公と対立しながら会話をし、ストーリーを進めて行くという重宝な狂言回しの存在。
この客人には大別して2タイプある。悪辣な組織と一体となって主人公を襲い、返り討ちにあうタイプと、秘かに主人公を応援して助けるタイプ。後者は更に、1)悪辣な組織から裏切り者とされて殺されるタイプ、2)最後に主人公と共に悪辣な組織との闘いに立ち上がるタイプに分けられる。
悪辣な組織から殺される客人の場合は、その死を見て主人公の怒りが一気に高まり、大団円の殴り込みへとつながったりする。こうした客人は、どこか善人風な設定で、あまり強そうに見えないことも多い。一方、主人公と共に最後に悪辣な組織と闘う客人は、強いけれど、世間を冷めた目で見ているニヒルな人物に描かれる。敵に回すと手強いけれど、味方になると頼もしいといったイメージだ。
映画などでは主人公の強さを強調するために、敵対する相手側も強そうに描かなくてはならない。強い相手を倒してこそ、主人公の強さが際立つ。だから、強そうだった客人が、あっけなく悪辣な組織に殺されたりすると拍子抜けだ。組織の悪辣さと、主人公の善良さを浮かび上がらせる役割の客人が、実は弱かったと見えてきて、主人公の強さが浮かび上がらない。
相次ぐ暴力団に対する法規制で現実の客人の渡世は厳しくなったかもしれない。そんな中、一人暮らしの堅気の友人の家を訪れる客人がいる。そいつは虎縞の猫。ふらっと庭に現れるようになり、友人が放るエサを奪うようにくわえて走り去っていたが、やがて友人の見ている前でエサを食べるようになり、いつしか家にも上がるようになった。
そいつを友人は「客人」と呼んでいる。どこかに本宅がある気配だが、ふらっと姿を現し、時にはエサを催促したりするようになったという。最近は、エサを食べる客人に友人は「いいか。客人。一宿一飯の義理というものがあるんだぞ」と話しかける。猫はニャアと応えることが、あるそうだ。
こちらの客人が強いかどうかは、友人は周辺の猫の勢力関係に疎いので詳らかではない。見た目には、大して強そうには見えないとのことだが、エサを食べた後、お気に入りのイスに上がって一眠りして行くそうだから、一人暮らしの友人のいい気散じの相手にはなっていそうだ。
2015年5月6日水曜日
殺される黒人
米でまた、警察と関わった黒人男性が死亡し、人々が抗議している。ボルティモアの検事によると、黒人男性フレディ・グレイ氏は4月12日、警官と目が合い、飛び出しナイフを所持していたとして拘束され(ナイフは合法の種類だった)、警察車両で移送中に頸椎を損傷、グレイ氏が痛みを訴え、治療を求めたにもかかわらず、意識不明になるまで警察官は無視し、すぐに病院に搬送しなかった結果、19日に死亡したという。
死亡が明らかになった後、抗議デモが始まり、27日には黒人住民らの一部が暴徒化し、州知事は非常事態を宣言、州兵を派遣した。抗議デモは全米に拡大、報道によると抗議の対象は、「警察の不正義」に加え、「黒人と白人の不平等」にも広がっているという。
ボルティモア警察は調査書を作成し、4月30日に検察当局に提出したが、調査書の内容は公開されず、5月1日になって検事が、警察が男性を違法に拘束し、移送までの過程で負傷させたにもかかわらず、病院に搬送しなかった結果、死亡したとして、警官6人を第2級殺人や過失致死などの罪で起訴したことで、経緯が明らかになった。
昨年8月にはファーガソンで黒人青年が白人警官に射殺され、今年4月にもサウスカロライナ州で、黒人男性が白人警官に射殺された。この時の、逃げようとする黒人男性の背後から白人警官が何発も発砲する様子を撮影した映像が公開され、警察の対応に批判が高まっていた。
フレディ・グレイ氏が頸椎損傷という致命傷を負ったのは警察車両の中だったことが明らかになり、警察は言い逃れができなくなって、検事も起訴せざるを得なかった……と皮肉りたくなるほど、黒人一般人を殺した疑いがあっても白人警官は逃れてきた。だから、今回の起訴を黒人住民らは歓迎し、「今まで似たような事件はいっぱいあったが、当局に握りつぶされてきた。歴史的な第一歩だ」なんて声も伝えられた。
ただ、問題は黒人と白人の対立にだけあるのではない。抗議デモには白人も参加していたし、警官には黒人もいる。起訴された6人の警官のうち3人は黒人だ。ファーガソンの事件で指摘されたのは、米の地方自治体の多くで交通違反切符などの罰金が収入に占める割合が高く、警察には罰金をより多く集めるよう圧力がかかるため、黒人を標的にしやすいという警察の在り方だ。
さらに、犯罪に関わる資産を州政府や連邦政府が没収する資産没収制度の影響を指摘する報道もある。多くの罰金の徴収が期待できる麻薬犯罪の取り締まりに司法省が力を注ぎ、地方の警察署は交通違反の取り締まりなどを強化するようになるという。捕まえやすい人を捕まえて、罰金を積み上げるという警察は、怖い存在だな。
もちろん問題の根本にあるのは、黒人男性が狙われやすいという差別構造だ。そこに経済問題も複雑に絡む。ボルティモアでは黒人は失業率が高く、低所得で貧困率も高く、多くは劣悪な住環境の一帯に住み、組織暴力との関係も取沙汰されたりする。だから黒人が警察に目をつけられやすいのかもしれないが、黒人も一人ひとりが独立した人格だ。黒人だからと、個人を無視した一般化は差別意識そのものだ。
2015年5月2日土曜日
誤報を恐れるな
スキャンダルというと日本では、芸能人らの恋愛沙汰や金銭トラブルなど“醜聞”をさすイメージだが、もともとは汚職事件、疑獄などを意味するし、英和辞典によると「スラム街は我々の町の恥である」(The slum is a scandal to our town)などとも使われ、不名誉なこと、恥ずかしいこと、けしからぬこと等を広くさす言葉だ。中傷や悪口、陰口の意味もある。
だから、スキャンダルを暴くのは週刊誌やスポーツ紙などの専権事項ではなく、汚職や疑獄を始め、社会に存在する不名誉なこと、けしからぬことなどを報じる一般紙もスキャンダルを暴いているといえよう。その新聞社が、社会的に大きな影響を与えた誤報を放置し、32年も経ってから誤報だと認め、訂正したというのは、報道機関として大きなスキャンダルだ。
スキャンダルをさんざん報じてきた報道機関が、誤報を放置していたという自身のスキャンダルで騒がれているのは皮肉な光景だが、誤報は実は報道機関につきものでもある。記者の取材不足や事実誤認、編集スタッフの見逃しや事実誤認、怠慢などによって誤報が世に流れていく。どんなに綿密に取材したつもりでも、一つの事実を見落としただけで全体像が歪むことはある。
誤報といっても様々あるが、やっかいなのが事実と主観の混同。扇谷正造氏の『夜郎自大』によると、戦前の新聞はしばしば紙面で当事者を断罪したといい、戦後の占領下でGHQは、▽事実と意見を区別して掲載せよ、▽客観的な事実に対し、記者の意見あるいは解釈を述べる場合には、記事の末尾に署名せよ、▽署名記事と報道とは、紙面をかえて掲載せよなどと指示したそうだ。
昔から誤報は批判され、事実と主観が混同した記事も批判された……が、なくならない。誤報を減らすために記事チェック体制を見直す一方、誤報はあるものとして、報道後に厳しく客観的に検証し、誤報が疑われる記事を洗い出し、誤報と判明すれば速やかに訂正することが不可欠だ。だが、誤報を防ぐ体制が過剰な事前チェックを要することになって管理が強化され、記者の活力を削ぐことになるなら、当たり障りのない記事しか出てこなくなりそう。
誤報はないけれど退屈で刺激もない新聞と、誤報はあるけれど活気があって刺激がある新聞のどちらかを選ぶなら、どうするか。「誤報は速やかに訂正する」という条件付きで、刺激があって活気もある新聞のほうが楽しそうだ。誤報を恐れず、誤報は記者の向こう傷……なんて実際にやられては困るが、それくらいの心意気が、常に変化を続けている世界と切り結ぶスタッフには必要だ。ただし、事実と主観の区別は誤報以前の問題。
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