2025年11月29日土曜日

国連憲章

 国際連合憲章は「国連の基本文書で、加盟国の権利や義務を規定するとともに、国連の主要機関や手続きを定めている。また、国際条約としての国連憲章は加盟国の主権平等から国際関係における武力行使の禁止にいたるまで、国際関係の主要原則を成文化している」(国連広報センターHP)。

 国連憲章は1945年6月、連合国50カ国が集まったサンフランシスコ会議で採択され、米・英・仏・ソ連・中国(中華民国)の5大国と署名国の過半数の批准を経て、同年10月に国際連合が発足した。国連憲章の原案は1944年8月〜10月に米・英・ソ連・中国(中華民国)による会議で輪郭が形成されたもので、第二次大戦における連合国の思惑が強く反映している(この5大国は国連で拒否権を有する)。

 国連憲章の敵国条項では、第二次大戦で連合国に敵対していた枢軸国が、侵略行為を行うか、侵略政策を再現した場合、国連安保理の許可がなくとも当該国に軍事制裁を課すことができるとする。敵国は「第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国」とされる。枢軸国の復活に当時の連合国が強い警戒心を持っていたので、こうした条項が組み込まれた。

 敵国条項は、第53条(いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いて、この機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする)と第107条(この憲章のいかなる規定も、第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動で、その行動について責任を有する政府が、この戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない)などだ。

 中華人民共和国の在日本大使館は国連憲章の敵国条項を持ち出し、日本に対して「安保理の許可を要することなく、直接軍事行動を取る権利を有すると規定している」と脅したが、日本外務省は「死文化した規定がいまだ有効であるかのような発信は、国連において既に行われた判断と相いれない」と反論した。

 1995年の国連総会で敵国条項の改正削除が賛成155・反対0で採択され(中華人民共和国も賛成した)、「死文化したとの認識が示された」(外務省HP)。2005年の国連首脳会議の成果文書において「国連憲章上の敵国への言及を削除することへの加盟国の決意が表明されている」(同)。死文化したとはいえ敵国条項が削除されずに残っているので、今回のように中華人民共和国やロシアが外交の道具に使用する。

 国連において中華人民共和国は中華民国の、ロシアはソ連の席をそれぞれ引き継いだ。中華人民共和国の建国は1949年、ソ連崩壊後に現ロシアが誕生したのは1991年なので、両国は国連憲章にも国連形成にも関与していない。第二次大戦後の世界秩序の構築に関与せず、何らの責任も持たない両国が国連憲章を都合よく利用するのは、欧米主導の世界秩序に戦勝国ではない両国がタダ乗りしている様相だ。ロシアのウクライナ侵攻や中華人民共和国の南シナ海における領海拡大が示すように、両国は国連憲章が示す秩序を自国の都合で無視する。

2025年11月26日水曜日

思い込みとクマ

  何かについての思い込みは誰にでもあることだが、その思い込みは正しいこともあれば間違っていることもある。「それ、違うよ」などと他の人から指摘されても、思い込みが強かったり激しかったりすると、ムキになって反論したりする。こうなると、その思い込みは修正されず、逆に強化されたりもする。自説に固執することが自分の尊厳を保つと勘違いすると、「話が通じない人」とみなされよう。

 他の人から指摘されて、思い込みを修正できる人もいる。思い込みの程度が軽かったり、自説に固執しない人は、思い込みを修正でき、場合によっては捨てたりもできる。修正したり捨てたりするには、自分の思い込みを絶対視せず、客観視する姿勢が必要だ。思い込みに過度にとらわれない姿勢があるから、他の人からの指摘に素直に反応することができる。

 東北など日本各地でクマの市街地や集落での出没が相次いでいるが、クマを駆除した自治体に対する「クマを殺すな」「捕獲して山へ戻せ」と抗議する電話などは減っているという。クマの出没事例が連日報じられ、襲われた人が死傷した事例も少なくないことから、抗議電話などをかけていた人々が、クマの凶暴さや恐ろしさをやっと実感し、理解して抗議行動をやめたのだろうと見られている。

 ぬいぐるみなどでクマは人気があるという。ぬいぐるみのクマは親しみやすく愛らしかったりするが、現実のクマには親しみやすさも愛らしさもない。都会の中だけで暮らし、自然の中の野生動物など見たこともない人々が、イメージで野生動物をとらえ、環境保護や野生動物保護は崇高な理念だなどと思い込んだりしていると、現実認識が歪むだろう。

 抗議をやめた人は、以前の抗議が誤りだったと判断したのか、クマ駆除に賛成一辺倒な世間の雰囲気に黙っただけなのか、クマによって死傷する人々のことを知りクマの恐ろしさを実感したのか。野生のクマをむやみに殺すことと、人里に現れて人間に危害を加える可能性が大きいクマを駆除することは別の問題だ。そのことに気づいたから抗議をやめたと思いたいが、「クマちゃん、かわいそう」との思い込みを維持したまま黙っただけの可能性もある。

 「野生のクマは絶対に保護すべきだ」との思い込みは、人間が襲われる事例が相次ぎ、野生のクマと人間は共生できず、棲み分けるしかないという現実によって否定された。「クマは危険生物だ」という事実を認識していれば、「クマを殺すな」などという思い込みは生まれなかっただろう。情報不足や思慮の浅さなどが思い込みを生じさせるとともに、思い込みの自力での修正を困難にしている。

 思い込みは自分の判断が正しいと過信するところから生まれる。自分の思い込みが間違っていたと気がつく経験を重ねることで、自分の思い込みを絶対視せず、客観視できるようになる人もいるだろう。客観視するには、正誤や善悪の基準が複数あると心得て、新たな情報や見解を吟味することを軽視しないオープンな心構えが必要だ。

2025年11月22日土曜日

厄払い

 歌舞伎の「三人吉三巴白浪」で、お嬢吉三の「月も朧に白魚の〜」で始まる名セリフの途中、「〜思いがけなく手に入る百両」の後に、舞台裏から「御(おん)厄 払いましょう 厄払い」との門付けの声が聞こえ、ちと思い入れあって、お嬢吉三は「ほんに今夜は節分か〜」と続ける。

 厄払いの門付けは節分のほか、年の暮れに厄を払うために訪れると研究者。草葉達也氏によると「大阪では昭和の初めごろまでは厄払いという商売があった。年末の年越しの時に門付けが戸口に立って、なにがしかの物を受け取る形式の祝い芸」で、「あぁ~ら、めでたや、めでたやな。鶴は千年、亀は万年、浦島太郎は三千歳、東方朔は九千歳、三浦の大介百六つ。かかる、めでたき折からに、いかなる悪魔が来よぉとも、この厄払いが引っつかみ、西の海へさらり、厄払いまひょ」などと、めでたい言葉を並べた唄を唄った。来られた家のほうは嫌がらず、歓迎して心づけを渡したという。

 厄とは「災い・災難、苦しみ」だ(厄は厄年の意でも使われる)。「災い・災難、苦しみ」はそれぞれ一過性のこともあれば、長引いたり度重なることもある。一過性の「災い・災難、苦しみ」は、それをもたらした原因が消え去るにつれて解消されよう。だが、長引いたり度重なる「災い・災難、苦しみ」があり、塞いだ気分が続くような時に、けがれや悪運に取り憑かれていると考え、その状態を厄と説明した。

 めでたい言葉を並べた唄を聞くと厄払いできると人々が思ったのは、厄が当人の気持ちに左右される事柄だと感じていたからだろう。長引いたり度重なる「災い・災難、苦しみ」に直面した人は精神的に圧迫され、不安が増したり悲観的になったりし、そうした不安や悲観的な心情が尾を引くことは珍しくない。そうした気持ちを切り替えるキッカケの一つが厄払い・厄落としだった。

 「災い・災難、苦しみ」は当人の気持ちとは無関係に起きる。昔の人々は「災い・災難、苦しみ」が属人的な事象ととらえ、厄を考えだした。厄が存在するから厄払い・厄落としも存在できる。厄がないと考えるなら厄払い・厄落としは迷信の一つでしかないが、厄があるとして厄払い・厄落としで気持ちを切り替えることができたなら、憂鬱な毎日に区切りをつける便利な方便だ。

 厄に遭うとされるのが厄年だ。陰陽道に基づく迷信だが、現在も広く信仰(?)されている。厄年は人生の段階の一つとして受容される一方、厄除けを「客寄せ」に掲げる社寺は多く、厄年の周知に励み、お祓いをすることで厄を操作できるとし、厄年を過剰に意識する人々を呼び寄せる。厄は「あると思えば、ある。ないと思えば、ない」ものなのだろうが、気が弱くなっていると厄の存在を意識するのかな。

 ※厄落とし・厄払いは「①厄年にあたる人が厄難を逃れるための、まじない。社寺に参詣したり、神仏に祈ったりして災いを取り除いてもらう。招宴を張ったり、金や餅を巻くなどの風習がある、②門付け。節分や大晦日の夜、市中を回り、戸毎に厄払いの祝言などを唱えて銭をもらうもの。③つらねの一種。世話狂言で用いられる美文調で掛詞の多い、節よく言い回す台詞」(大辞林)。

2025年11月19日水曜日

事実と編集

 英BBCは24年10月に放送したドキュメンタリー番組「パノラマ」で編集上のミスがあったと認め、11月13日、米トランプ大統領への謝罪を表明した。トランプ氏側は14日までにBBCが番組内容を撤回し、謝罪しない限り、10億ドルの損害賠償を要求すると警告していた。ただBBCは、名誉毀損に該当するとのトランプ氏側の主張は否定し、賠償要求は拒否する姿勢だ。

 番組は21年1月6日の米連邦議会襲撃事件を扱ったものだ。トランプ氏が演説で「我々は議事堂まで歩いて行く。私も共に行く。そして我々は戦う。死ぬ気で戦う」と発言したように編集されていたが、実際には「我々は議事堂まで歩いて行き、勇敢な上下両院の議員たちを応援する」との発言から54分後に、「死ぬ気で戦う」と発言していた。

 「我々は戦う」に続けて「死ぬ気で戦う」と述べたのではなかったのだから、何らかの意図をもって2つの発言をBBCはつないだ。編集上のミスではなく、トランプ氏の意図は米連邦議会の襲撃だと解釈して視聴者にわかりやすく編集したのだろう。この編集が不正確だとトランプ氏側が主張するのは、米連邦議会襲撃にトランプ氏は一切責任がないとするからだ。

 トランプ氏の演説が支持者らを煽ったことは確かだろう。トランプ氏の演説が終わった後、支持者らは米連邦議会に向けて動き始めて襲撃に至ったのだから、状況証拠的にはトランプ氏が煽動したことは明らかだ。だが、トランプ氏の演説により支持者らが暴徒化して米連邦議会を襲撃したと断定するのは簡単ではなく、トランプ氏が法的責任を免れている状況では、トランプ氏の責任追及には限界がある。

 BBCは、「パノラマ(Panorama)」は長い歴史を誇る看板ドキュメンタリーシリーズで、世界各地の知られざる事象に鋭く切り込むスタイルで制作される-とする。ドキュメンタリーとは「実際にあった事件や実在する人物などの記録を中心として、虚構を加えずに構成された作品」だから、事実を歪める編集は許されない。とはいえ、ドキュメンタリーの製作者は何かのテーマに対する問題意識を持って、事実を組み合わせて作品を構成するのであるから、作品には製作者の主観がにじむ。

 ドキュメンタリー番組で、当事者の発言を編集して再構築することは珍しくない手法だ。番組のテーマに合わせて編集して再構築するのは製作者であり、そこではテーマを浮かび上がらせることが優先される。事実を歪めたり隠蔽することは論外だが、どういう事実を使い、どういう事実を使わないかは製作者の判断次第だ。トランプ氏の長い演説なら、切り取り方次第でトランプ氏の人間像を様々に描き出すことができよう。

 SNSのコメントには事実を伝えるものと解釈・意見を伝えるものがあり、おそらく解釈・意見を伝えるコメントが圧倒的に多い。事実を伝える情報と解釈・意見を伝える情報を混同すると、歪んだ現状認識にとらわれる。これはテレビや新聞などマスメディアの伝える情報でも同様で、事実を伝えるというニュースや記事にも編集サイドの解釈が紛れ込んでいることがある。BBCのドキュメンタリー番組で描かれた人物像は、事実か製作者の解釈か。

2025年11月15日土曜日

人民を冠する

  CNNによると、中国のコーヒーチェーン「人民珈琲館」は大半の店舗を、中国共産党を想起させる赤で装飾し、店頭に星を配置したりして、人民のためのコーヒーチェンであるとのイメージで訴求していた。だが、中国共産党の機関紙「人民日報」に、人民という言葉を使うのは不適切だと批判されて、コーヒーチェーンは謝罪し、名称変更すると発表した。

 人民日報は「マーケティングは創造的であってよいが、一線を越えてはならない」とし、人民という言葉は「公的性格と深い政治的含意を持つ。特定の社会的情緒と公共の利益を体現するものだ」と指摘、人民という言葉を「冒涜してはならず、誤用も許されない」とした。つまり、民間が人民という言葉を使うのはダメだと批判した。

 人民珈琲館の客層についての情報はCNNにはなく、党員の利用が多かったのか、非党員も多く利用していたのか、どのような人たちが利用していたのかは不明だ。人民という店名から、共産主義を信奉する同志が集う場と連想したくなるが、時代は大きく変わった。愛国意識を持つ人々が増えているから、国家色を演出し、熾烈なコーヒーチェーン間の競争を勝ち抜こうとしたのだろう。

 人民という言葉に目をつけたのは、資本主義的な発想だ。商標登録がなされていなかっただろう人民という言葉を「これ、ウケるんじゃないか」と採用した。商売に利用できるものは何でも利用するのは当然で、話題になって客が集まりそうな店舗にしつらえて客を呼ぶ。おそらく、このコーヒーチェーンは中国共産党の高官とつながりを持たなかったから人民日報に批判された(ただし、中国共産党の高官とつながりを持つと権力争いに巻き込まれる危険性がある)。

 人民という言葉は公的な言葉だと人民日報は主張したが、人民は和製漢語だとも言われる。明治時代に日本人が英語のpeopleを「人民」と訳し、それが中国に持ち込まれたという。中国で人民という言葉は古くから使われていたが、それは一般的な人々を指すもので政治的な見方は含まれていなかった。専制君主や貴族など特権階級に属さない人々を意味するpeople=人民という言葉の使用は日本由来だろう。

 人民という言葉は共産党や国家だけが使うことができ、民間は勝手に使うことはできない中国で、人民は支配する対象であり、自由に議論し、自由に行動し、時には特権階級を批判するような人々を人民とみなすことは許されない。共産党の独裁体制に従順に従う人々のみが人民であって、珈琲店で政治体制を議論するような人々が出現することは許されない。

 人民珈琲店が存続して、革命を含む社会変革を担うのは「我々人民だ」などという意識を持つ人々が集まるようになることは、絶対に防がなくてはならないのが現在の中国の体制だ。中国共産党だけが君臨し、人民は従順な羊の群れであればよいのであるから、政治的な意識を人々が持つことも制限しなければならないだろう。かくて人民珈琲店や人民酒場、人民映画館、人民飯店、人民コンビニなど人民を勝手に冠することは許されない。

2025年11月12日水曜日

号外は宣材

 米大リーグのドジャースがワールドシリーズを連覇したあと、日本では一般紙やスポーツ紙が号外を発行した。所属する大谷翔平選手と山本由伸投手、佐々木朗希投手の活躍もあって日本でも関心が高く、ドジャースを応援していた人も多かっただろうから、号外を発行して人々に一刻も早く知らせるべきだと新聞社は判断したようだ。

 一般紙の多くは朝刊と夕刊を発行し、スポーツ紙の多くは朝刊のみだ。特別に一刻も早く人々に知らせるべき大きな出来事が起きた場合に号外が発行される。だが、米大リーグのワールドシリーズの結果は一般紙にとって、特別に一刻も早く日本の人々に知らせるべき出来事なのだろうか。人々の関心が高かったとはいえ、多くの人にとっては、帰宅して夜のニュースで結果を知ればいい程度のニュースだろう。

 米大リーグのワールドシリーズに強い関心を持つ人はスマホで試合経過をチェックしていただろうから、号外を見ずとも試合結果を知っていた。今回の一般紙の号外発行は、大リーグにさほどの関心を持たないが、ニュースで伝えられる大谷選手らの活躍を喜ぶ程度のファンの人々に向けて、新聞社の存在を周知する活動だったのかも知れない。

 大リーグでの日本人選手の活躍は細かくニュースとして伝えられ、イチローが現役のころは、1本のヒットを打ったことがテレビなどで熱心に報じられた。おそらく米国で活躍する日本人を喜び、誇りに感じて歓迎する雰囲気が日本社会に充満しているから、大リーグでプレーする日本人選手の活躍をテレビや新聞は細かく伝える。そこには、米国で認められることを特別視する感覚がある。

 号外発行が示すのは、新聞社のニュースバリュー(価値)判断の現在地だ。ワールドシリーズの結果速報が本当に号外発行に値すると判断したのではないだろう。今回の号外発行は、社会的に重大な出来事を人々に知らせるためというよりも、「皆さんが関心を持つニュースを新聞は逃さず、報道していますよ」とのアピールだった。号外を手に取らせ、新聞という存在を人々に意識させるための行動だ。

 内外のニュースが大量に常時流れ続け、それを人々がキャッチしているネット時代に、号外の役目は終わった。新聞社は自社サイトでニュースを常時配信しているのだから、印刷物としての号外を発行する意味は薄れた。それでも号外を発行するのは、号外の性質が変化し、ニュース速報のためではなく、新聞という媒体を宣伝するための宣材として効果があると判断したからだ。

 マスメディアは読者・視聴者に媚びるものだと喝破した人がいた。新聞離れが指摘されて久しく、新聞を読む体験が乏しい人が増えているともいわれる。ニュースを知るにはスマホがあればいいという人々に、号外は新聞の存在感を示す。号外を人々が争って受け取るには、人々が関心を持つニュースで号外を作ればいいと新聞社は、ドジャースの連覇を利用して号外を発行した。ニュースバリューが商業主義によって歪められるのは珍しいことではない。 

2025年11月7日金曜日

唯一神信仰と日本

 9月の訪⽇外客数は326万6800人、1〜9月累計では3165万500人となり、過去最速で3000 万人を突破したと日本政府観光局(JNTO)は推計する。9月の300万人超えは初めてとされ、その要因は「継続的な訪⽇旅⾏の人気の高まり等もあり、東アジアでは中国、台湾、東南アジアではインドネシア、インド、欧米豪では米国、ドイツを中心に訪⽇外客数が増加した」とJNTO。

 円安もあって日本が格安の旅行先になり、初めて日本を訪れた各国の人々は、母国とは異なる社会・文化・風景・風土などを見たり感じたり発見しただろう。それらが母国とは異なるからと批判的にならず、受け入れたから旅行先としての日本が評価されている。世界には自国と異なる社会・文化・歴史などを有する国があり、自国とは異なる社会・文化・歴史などに新たな魅力があることを理解するには外国旅行が役にたつ。

 欧米はキリスト教の強い影響下に社会・文化を形成し、アラブ地域や中東などはイスラム教の強い影響下に社会・文化を形成した。どちらも唯一の絶対神を信仰する。アジアにもイスラム教の強い影響下に社会・文化を形成した諸国があり、インドはヒンズー教の強い影響下に社会・文化を形成したが、東アジア諸国には仏教の強い影響下に社会・文化を形成した国が多い。

 仏教圏から日本を訪れた人々は、寺が多い日本には親近感を感じ、日本の社会・文化などに違和感を感じることは少ないだろう。だが、唯一の絶対神を信仰するキリスト教やイスラム教の社会的影響が強い諸国から日本を訪れた人は、近代化された日本で垣間見える唯一神信仰とは異なる文化を経験する。そこで感じるのは、違和感か解放感か。

 どちらを感じるかは個人によって異なる。唯一神信仰を絶対とする人なら違和感を感じるだろうし、社会的な影響力が強い宗教を抑圧と感じていた人なら、宗教色が薄い日本で開放感を感じるだろう。また、唯一神信仰がなくても、人は生きることができるし、機能する社会や国家を構築することができることを日本で実際に見て、世界を創造したという唯一神に対する信仰について考え始める人もいるかもしれない。

 アニメなどの日本発の文化を好む人が世界で増えていると言われ、日本に来なくても日本文化を見て、体験する人が世界に増えている。唯一神信仰が基調の社会で日本文化が広がりを見せているのは、それぞれの社会における宗教の影響力の減退(宗教離れ)と関係するとすれば、宗教の社会的影響力が弱い日本社会は、唯一神信仰に基づいて形成された諸国の社会の将来像かもしれない。

 宗教には様々な禁忌(タブー)がつきものだ。宗教の影響が強い社会では宗教による禁忌が制度化され、それに従うことを人々は強制される。そうした禁忌の存在は信仰に距離を置く人には負担となる。唯一神信仰の束縛から自由に生きることができる日本社会は、宗教由来の規範ではなく、人々が歴史的に培ってきた規範で動く社会であり、脱宗教へと向かうかもしれない世界のモデルケースとなる。

2025年11月5日水曜日

米国流の帝国

 「支配を続けてやるから、カネを出せ」と米国に言われて、EUは6000億ドル、日本は5500億ドル、韓国は3500億ドルの対米投資をそれぞれ約束した。一方的な関税引き上げなど米国の強硬姿勢に抵抗できず、米国市場からの撤退は選択肢になかったので、各国の米国懐柔策は大盤振る舞いを約束することだった。

 EUと日本、韓国に共通するのは①安全保障を米国に頼っている、②経済規模が大きい、③対米黒字を計上している-ことだ。米国は世界各国に基地を置いて米兵を駐留させているが、EU諸国と日本、韓国には米軍基地が多く、日本やドイツ、韓国、イタリア、イギリスは米軍基地数のトップ5となる。

 米軍に安全保障を頼るということは、各国の独自の戦力が少なくて済むということだが、それは、各国の独自の戦力強化を米国が制約していることも意味する。そうした米軍の世界展開は米国にとって負担であろうが、同時に米国の各国に対する影響力を確保し、米国の世界的な影響力を維持するために必要なことだった。

 かつて米国は民主主義や自由、人権などを重視する外交姿勢で、そうした理念を掲げる国として世界に影響力を保っていると見られていたが、実態は世界各国に展開する米軍によって各国の「自立」を制約し、従わせていた。ロシアや中国など権威主義国家の台頭を「帝国の復活」と解釈する論があるが、米国こそ世界的な米軍の配置と圧力により帝国として第二次大戦後、君臨していた。

 帝国とは「多数の民族と異なる文明を内包する広大な土地を支配する国家」「広大な領土に複数の民族や文化を内包し、それらを超越する中央政府を持つ統治体制」などとされる。帝国の支配を支えるのは軍事力だ。かつての諸帝国は強力な軍事力で領土を広げたが、現在のアメリカは領土を広げず、世界各国に基地を置く。米国は帝国内に各国を取り込んで支配するのではなく、各国の「独立」を容認し、各国の文化などの独自性も容認するが、各国に米軍を駐留させ、安全保障については米国に頼る仕組みにさせている。

 安全保障を米国に頼らせ、米国市場を開放することで経済的にも米国に依存させることで米国流の帝国は存在する。民族自決などにより独立国に世界が分割された状況で米国流の帝国はうまく機能した(現在は帝国内に異民族を抱え込む時代ではない。中国がウイグルやチベットなどを強権で押さえ込むのは、過去の帝国の概念にとらわれているからだ)。米国流の帝国支配によって米国は世界的な影響力を保つことができているのだが、米国への富の還元システムが米国が推進したグローバリズムで機能しなくなってきて、国内の人々の不満が高まった。

 なりふり構わず米国はその帝国内の諸国からカネをむしり始めた。もちろん、米国から諸国が離反することは許さず、諸国の安全保障を米国は「保障」する=支配は続けるとの枠組みは崩さない。米国流の帝国の世界支配が終わるのは、ドイツがロシアと手を組み、日本が中国と手を組んだ時だろう。その時、米国の優位は一気に崩れるが、同時に世界は一気に不安定化する。

2025年11月1日土曜日

感情を刺激する

 地位や階級や年齢などが自分より上の人物の判断・主張・指示に、いつも黙って従っているだけの部下は召使いである。上位にいる人物が常に的確な判断・主張・指示を行うなら、その会社や集団などが誤った方向に進む可能性は低いだろう。だが、人間は神ではないので、見当違いの判断をしたり、偏った主張や誤った指示を行うことがある。

 そんな時に部下が、自分より上の人物の判断・主張・指示の誤りを指摘するには、慎重に言葉を選びながら説得しなければならないだろうし、相手のプライドや機嫌を損ねる可能性があるので勇気がいる。使命感が乏しい部下ならば、自分より上の人物の判断・主張・指示が誤っていたとしても、「仕方がない」と黙って従うだけかもしれない。

 例えば、プーチン氏や習近平氏や金正恩氏に諫言できる部下が存在するのかは不明だ。包容力の大きい人物だとのイメージは3人とも乏しく、利益や思想・信条を共有する側近以外の部下が直言することは簡単ではないだろう(そうした部下が現れたなら、直言が受け入れられれば自分らの立場を脅かされかねないと側近が、真っ先に排除に動くか)。

 判断・主張・指示の明白な誤りなら、言葉を選んで丁寧に説得できる可能性はあるかもしれないが、自分より上の人物の判断・主張・指示に異論を唱えたり、批判することは、相手と対等に議論する構図となり、自分より上の人物の感情を刺激する。感情を刺激された人が、冷静に相手の主張を判断することは簡単ではない。感情を刺激されたプーチン氏や習近平氏や金正恩氏ら独裁者は危険な存在と化す。

 加藤周一氏によると、「戦場では武士団が武士団に対抗する。その武士団内部に緊張が生じるのは、主従の意見が異なる時である。意見の相違は、戦略についても(家康と本田忠勝)、主家の内紛についても(家康と榊原康政)、政治的判断についても(秀吉と浅野長政、家光と柳生宗矩)現れるだろう。

 その典型的な解決法は『従』の側からの『主』の説得の試みであり、これを『諌』という。『諌』する側には、思慮の深さと同時に勇気がなければならない。誤りを指摘された『主』は従者を死をもって罰するかもしれないからである。

 かくして『諌』の場面は、『主従』の状況判断、価値観、決定の内容における対立であるばかりでなく、しばしば命がけでの全人格的な対決を意味する」(「新井白石の世界」、1978年=『加藤周一セレクション②』平凡社ライブラリー所収。適時省略あり)。

 集団指導体制ならば議論ができるので、諫言は必要ない。会社や集団などで権力を掌握した個人が君臨するから、時には諫言する人が出てくる。諫言が現れるのは、その会社や集団の組織が硬直していることの反映だ。一方で、権力を持ちたいと励むのは人間の自然な感情だろうから、各自が出世を争うことが会社や集団などに活力を与える。権力を掌握した個人に対する批判が許される組織体制を構築することは、簡単ではない。