2023年3月29日水曜日

神と存在

  八百万とは「いちいち数えることができないほど数が多い」ことで、八百万の神とは「神道における神観念で、きわめて多くの神々」とされる。多くの神がいるされるが、全ての神が「見えない」存在とされ、神々がどんな姿形なのか不明だ。見えないのに神がいるとされるのは、おそらく様々な場面で神を感じたと古代から人々が信じ、それが受け継がれてきたからだろう。

 うっそうとした森林の中などで何かの気配を感じたり、巨岩や険しい山などを見て畏敬の念を抱いたり、荒々しい天候などに恐怖を感じたり、作物の実りに感謝の念を持ったり等、そうした感情が神の存在を信じることに結びつき、そうした感情を人々が共有することで神の存在が確かなものとされ、次には神が存在するからそうした感情が起きるとされるように変化したのだろう。

 見えない存在を信じるといえば、妖怪も同様だ。こちらは古くから様々な絵に書かれたりし、水木しげる氏の作品などでキャラクター化されて、すっかり一般化した。だが、それらの絵は想像力の産物であり、実在は確かめられていない。妖怪を見たという人がいたから、絵に書かれたのだろうが、書かれた絵で妖怪の実在を立証することは無理だ。何か得体の知れないものがいると感じ、それを妖怪だとしたのだろう。

 神の姿形が不明なのはキリスト教やイスラム教など一神教でも同様だ。欧州では古くから神の姿を描いた絵画が存在するが、それらも想像力の産物だ(イスラム教では神の姿を描くことは禁じられている)。神の姿形が実際に人々に見えたのなら、神の実在には異論の余地は少なく、一神教などで「神を信じよ」と熱心に布教する必要はなかったかもしれない。

 八百万の神にしても一神教の神にしても、見えない存在であるのに、人々は神の存在を信じてきた。初期には、神の存在を感じる人がいて、次には神の存在を信じる人が増え、さらに神の存在が社会的に共有されて精緻な神学が構築されて人々は神の存在を知るようになった。時代と共に人々は神の存在を「感じ」、次には神の存在を「信じ」、さらには神の存在を「知る」ようになった。

 神の姿形は21世紀の現代でも人々には見えない。神の存在を信じる信仰は世界で組織化され、神の存在を信じる人々は世界に多い。だが、宗教的な規範が律している社会では神の存在を疑う人は少ないかもしれないが、政教分離の社会では信仰の強制力は緩み、もはや神の存在を知る人も信じる人も感じる人も社会で絶対的な多数を占めなくなっているように見える。

 八百万の神は人間を支配する神ではなく、野や山など各所に存在するとされる神だ。世界を創造し、人間を裁くという一神教の全能の神と八百万の神は、人々との関係が異なる。人々と共存する八百万の神は人々の生活圏の中にいるが、人々に超越する一神教の神は人々の生活圏の外部にいる。どちらも「見えない」存在であるが、存在する位置は大きく異なる。

2023年3月25日土曜日

キャッシュレス時代の取り付け騒ぎ

 日本での取り付け騒ぎといえば、1927年の東京渡辺銀行に対するものが最初とされる。当時の蔵相が議会で「東京渡辺銀行がとうとう破綻した」と失言したことで取り付け騒ぎが発生し、東京渡辺銀行は経営破綻に追い込まれた。人々の不安が高まり、ほかの銀行にも取り付け騒ぎが波及した。

 銀行は人々に預金してもらって、その金を運用して利益を出す商売だ。人々が預金するのは銀行を信用・信頼しているからで、大事な金が目減りしたり、引き出せなくなるとは考えていない。だから、銀行や証券会社などで経営不安などが明らかになると人々は急いで預金を引き出そうと殺到するが、窓口には大量の現金の用意はなく、混乱が起きる。これが取り付け騒ぎ。

 集めた預金を銀行などは運用に回しているので、人々が一斉に預金を引き出そうとしても現金が足りず、また、すぐには大量の現金を用意することができない。窓口に殺到した人々は、預金を引き出すことができないので、ますます不安が高まり、それが怒りとなって現れたりする。預金を現金として取り戻さない限り人々は納得しない。

 預金通帳に記された数字が残っていたとしても人々の不安は現金を手にしなければ解消されない。経営破綻した銀行での人々の預金が保護される制度があったとしても、不安に駆られた人々は一刻も早く自分の金を現金にして確かめようとする。だが、フィンテックやキャシュレス化が進む21世紀において人々は、預金の数字を素早く別の金融機関に移動させることに励む。金はインターネット上では数字でしかない。

 米国でシリコンバレー銀行(SVB)が経営破綻した。急激な預金流出が起きたというが、銀行に人々が預金を引き出しに詰めかけずとも、スマートフォンやPCを操作するだけで預金を引き出した。ソーシャルメディア上にSVBから預金を引き上げるように勧める投資家のコメントが流れ、預金引き出しの動きが広がったという。「オンライン口座とソーシャルメディアの存在による預金取り付けに対して安全と言える銀行はなくなった」との大手ヘッジファンド経営者の発言も報じられた。

 21世紀の取り付け騒ぎはインターネット上で発生し、銀行は営業を続けている限り人々の預金引き出しを停止させることはできない。預金の流出を止めるにはオンライン取引を停止するしかないが、それは銀行に対する不安を一層高めるだけだ。インターネットは根拠が乏しい風評の広がりにほぼ無力であることを考慮すると、21世紀の取り付け騒ぎは今後も世界で繰り返される可能性が出てきた。

 以前の取り付け騒ぎで人々は現金を手にすることを要求したが、キャッシュレスやフィンテックの時代に人々は預金の数字を素早く安全な場所に移動させる。預金額の数字はデータに過ぎないのだが、そのデータは現金を意味すると人々は信用する。その信用が保たれている限り、21世紀の取り付け騒ぎの被害者は銀行など金融機関だが、その信用が毀損されると預金者も被害者になる。

2023年3月22日水曜日

革命の成果は独裁

 ロシアでプーチン氏は個人独裁の体制を構築し、君臨しているように見える。中国では習近平氏が3選を実現して権力の座に居座り続け、個人独裁を目指していると報じられている。両国には過去に革命で共産党が権力を掌握したという共通点があり、さらに皇帝が絶対的な権力を握って君臨していた過去があることも共通する。

 共産国家ではほかに北朝鮮やルーマニアなど各国で個人独裁が行われていた。共産主義はブルジョア独裁を否定して労働者階級の独裁(プロレタリアート独裁)を掲げたが、その理論は現実では、労働者階級を代表するという共産党独裁の正当化となり、次いで共産党を掌握する執行部の独裁の正当化、さらには共産党の執行部を掌握する個人の独裁化につながった。

 ロシアと中国の共産革命の主体は人民であったはずだ。その人民が西欧流の市民とならなかったのは、革命以前のロシアと中国に市民社会の萌芽がなかったからだろう。共産革命の主体の人民としての意識は人々の間から自然発生したものではなく、理論として教えられたものだったから、共産革命が成功した途端に人民は革命体制を支えるべき存在に変質させられ、革命体制を翼賛するのが人民とされた。

 市民意識は、君臨する皇帝や貴族などの専制支配に抗い、人々が社会の主導権を握るための闘争から生まれるものだ。市民意識は人々が個人の権利を主張するところから生まれる。だが人民意識は階級意識が優先される中にあり、個人の利益よりも階級の利益が優先される構造だから、階級意識より個人意識を優先させる人々は反革命とされたりする。

 ロシアと中国の過去は、皇帝にしろ共産党にしろ中央で権力が独裁し、専制支配と従属させられる人々という同じ構図だ。両国で人々が共産党に与して革命を目指したのは、個人の権利の主張でもあったのだろう。だが、共産党が問題としたのは共産党以外の権力の独裁の否定であり、共産党の独裁は容認した。

 ロシアや中国におけるプーチン氏や習近平氏の個人独裁は、両国の歴史的な統治スタイルへの回帰とも見える。ロシアは共産党独裁を経て西欧流の民主主義社会に転じたように見えたが、経済的混乱などもあって市民意識の定着に失敗し、プーチン氏が個人独裁の体制を構築した。中国は人民意識から市民意識への転換を許さず、経済が資本主義化しても共産党の独裁統治を続けるために統制を強めざるを得ない。

 共産革命は人民の解放につながるものと吹聴された過去があるが、革命が成功したあと、人々(人民)は皇帝らが君臨していた時代と変わらない状況に置かれ続けた。人民(人々)の力がなければ共産革命は成し遂げられなかったが、共産党は革命の成果を簒奪し、人民に君臨した。ロシアや中国など市民社会の萌芽がない国における共産革命は、新たな独裁体制への移行に過ぎなかった。

2023年3月18日土曜日

解放感を味わう

 2年ぶりに会った友人がニコニコしていた。湧き出る嬉しさを抑えきれないといった風情の笑顔だった。何か良いことがあったのかと聞くと、友人は「こんなに、マスクを外すと解放感があって、気持ちがウキウキするとは思わなかった」。息をするのが楽になったこともあるが、マスクを着用しなければならないとの重荷がなくなったことが大きいとする。

 マスクの着脱は個人の自由だと政府が認めて以来、友人はマスクを外して出歩き、電車やバスに乗り、量販店などで店内をぶらつき、コンビニなどで買い物をしたという。外出時に友人は以前から人混みでなければマスクを外していたが、電車やバスに乗るときや商店など建物の中に入る時にはマスクをつけていた。マスク着用が半ば強制される空間では友人はおとなしく従ってマスクを着用していた。

 マスクをしていない友人を、以前はとがめるような目で見る人がいたというが、個人の自由だと政府が認めて以降は、目をそらして見なかったふりをする人が増えたと友人。目をそらす心理を「ウイルスが拡散されているとでも連想したのか」と友人は笑い、「あるいは、羨ましいのかもしれない。自分も外したいのに、踏み切れない。だから、外している人を見なかったことにする?」と解釈してみせた。

 マスク着用について新聞やテレビは大騒ぎで報じている。「感染が怖いから」とか「花粉症対策で」当分はマスク着用を続けるという街の声が圧倒的に多いとされるが、マスク着用の効果の冷静な分析は見当たらず、マスクを外すことについて不安感を煽っているとも見える。人々の不安を煽ることをマスメディアは社会に警鐘を鳴らすのが使命だなどと正当化するが、不安に駆られた人々のマスメディアへのアクセスも高まる。

 マスク着用が強制された国では人々は、強制が終了すると途端にマスクを外した。強制ではなかった日本で人々は自発的にマスクを着用するようになった(マスク着用を強制される施設や交通機関などが多く、実態は強制と同じだった)。おそらく人々はマスク着用を強制されているとの意識が希薄だから、個人の自由だとされても、自発的に着用したマスクを外すことに躊躇するのかもしれない。

 マスクを外すことに踏み切れない人が多いことについて友人は「日本人は慎重な国民性だからとか、大勢に従う国民性だからと解釈できるだろう。が、臆病で自己決定を避ける国民性ともいえるんじゃないか」とし、「自己決定を避けるということは、個人の自由を負担に感じるということだ。自由は日本人にとって過分な権利だーなんて皮肉りたくなる」と酒が回ったのか毒づき始めた。

 マスク着用の目的を「ウイルスを吸い込まないため」とする人が多いらしいが、マスクを顔に密着させず、鼻の両脇などに空間を作って着用している人は珍しくなく、マスク着用の意味はすでになくなっていた。「おそらく、3割ぐらいがマスクをしなくなれば、一気にマスクを皆が外し始める」と友人は予想し、「マスクを外せば解放感を感じて、マスクを着用していた頃を変な時代だったと思う人が増えるだろうな」とまた笑った。

2023年3月15日水曜日

5つの基本

 雨が少しでも降ると「雨が降ってきたから皆さん、傘をさしましょう」としきりに呼びかけ、晴天の日が続いても「いつか雨が降ってくる可能性があるから皆さん、傘を持ちましょう」と呼びかけ続ける気象予報士がいたなら、鬱陶しいと多くの人が感じるだろう。いつ雨が降るのかを予報せずに、いつか雨が降る可能性があると警戒感を呼びかけるのは科学的な態度ではない。

 雨に備えて傘を常に持てという気象予報士の呼びかけは、善意に基づく注意喚起だとしても天気予報の本来の目的から外れている。雨が降るのか降らないのかを明確に予想するのが天気予報であり、また、天気予報に人々が求めるものであろう。常に傘を持てという天気予報士は自分の職責を果たしておらず、雨が降った場合の言い訳にはなるだろうが、無責任との誹りを免れまい。

 新型コロナウイルスに対する過剰な対応を終了してウイズ・コロナの日常に日本も移行することになったが、厚生労働省の専門家会合は、新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけが「5類」に5月に変更されたあとの感染対策について「5つの基本」として感染への警戒を呼びかけた。だが、それらの基本の対策が感染を何%減らすのか明確な数値は示されておらず、科学的な指針とするには疑念が拭えない。

 基本という5つは、▽体調不安や症状があるときは自宅で療養するか医療機関を受診する、▽場面に応じたマスクの着用やせきエチケットの実施、▽3密を避けることと不特定多数の人が集まる場所の換気、▽手洗いや手指消毒、▽健康状態に応じた適度な運動と食事。これらが感染対策に効果があるだろうことは素人にも判断できるが、専門家が集まって、この程度のことしか提言できない現実を見せつけられた。

 将来予測を科学的に行うためには確率に基づかなければばならない。専門家の主観による将来予測には客観性がなく、検証が不可能であるのだから、素人の思いつきと同レベルだ。「体調不安や症状があるときは自宅で療養するか医療機関を受診する」というのは専門家に提言されずとも誰でもが行うことだろう。こんな提言を行う専門家は日本人を相当低いレベルと見ているようだ。

 5つの基本を人々が忠実に履行したならば第9波は起きないのだろうか。5つの基本によって今後の感染拡大をどれほど防ぐことができるのか確率は示されていない。5つの基本はこれまでも言われていたことであり、それでも第8波などが起きた。第9波が起きるとする専門家もいると伝えられ、5つの基本は、これまでの感染拡大に無力だった専門家のアリバイづくりかもしれないな。

 厚生労働省の専門家会合は、なぜ第8波が収束したのかを分析して解明し、第9波が起きるのかの見通しを示すべきだった。それらを行わず(行うことができず)、5つの基本でお茶を濁すのでは、専門家会合の存在意義が疑われよう。それとも、今回の5つの基本をまとめるぐらいが専門家会合の「能力」なのだと理解すべきか。

2023年3月11日土曜日

3つの大地震

  2011年に発生したM9.0の東日本大震災では東日本など広範囲が大きく揺れ、さらに巨大な津波が岩手県、宮城県、福島県など太平洋沿岸部を襲い、死者・行方不明者が計2万2千人以上に達した。震源域は南北約500km、東西約200kmとされ、宮城県牡鹿半島では東南東方向に約5.3m水平移動し、約1.2m沈降するなど東北地方から関東地方にかけて東向きの地殻変動が観測された。

 巨大な地震災害に加えて、東京電力福島第一原発で津波による全電源喪失が発生し、大規模な水素爆発が複数回起きて大量の放射性物質が大気中に放出され、広範囲の住民が避難を余儀なくされた。当時の推定では、大津波による漁船被害は2.2万隻以上、農地の被害は2.3万ha、建物の被害は全壊6.2万戸、半壊2.5万戸、一部破損19.4万戸。避難生活を余儀なくされた人は最大で40万人以上とされた。

 1995年に発生したM7.3の阪神大震災は内陸の断層が動いた直下型地震で、神戸市などや淡路島北部で大きな被害が生じた。死者6434人、負傷者4.4万人、建物の被害は全壊約10.5万棟、半壊約14.4万棟。阪神高速道で高架が横倒しになる区間が生じるなど交通や鉄道網にも大きな被害が発生し、水道や電気、ガス、電話などライフラインが絶たれた。避難生活者は約31.7万人。震源は淡路島北部で深さは16km。

 死者のうち窒息・圧死が77%とされるなど住宅などの倒壊による被害が多く、また、焼失棟数は7574棟で全焼が7036棟になるなど火災が広がった。神戸市長田区など木造住宅が密集した地区での建物の倒壊と火災の被害が激しく、当時のニュースでは取材のヘリから神戸市のあちこちで黒煙が立ち上っている映像が中継された。各地から駆けつけた大勢のボランティアの活動が目立ったのも阪神大震災だった。

 2023年にトルコ南部でM7.8の大地震が発生した。活断層によって地表に9.1mのズレが確認され、「内陸の地震で水平方向のずれとしては世界最大級だ」と研究者。この地震はプレート境界で発生したものだが、2つのプレートが直接ぶつかり合っているため内陸型の直下型と似た地震だった。今回の本震のエネルギーの規模は2016年の熊本地震の20倍だったという。

 トルコとシリア合計の死者数は5.2万人以上とされ、倒壊した建物は22万棟以上、被災者は2千万人以上とされる(トルコとシリア両国)。大きな地震に繰り返し襲われているトルコは耐震基準を厳しくしたのだが、金を払えば見逃してもらう仕組みがあったり、耐震性を損なう改築が横行したりと実態は以前と変わらず、多くの建物の倒壊による多くの死傷者の発生は「ある程度、防ぐことができた」ものだったかもしれない。

 3つの大地震の発生メカニズムは異なるが、地表に住む多くの人間の日常生活を破壊し、建物の倒壊などで甚大な人的被害を発生させた。さらに被災地を東日本大震災では津波が襲い、阪神大震災では火災が広がり、トルコ大地震では余震のたびに建物が次々と倒壊した。大地震は繰り返し発生すると想定して建物や交通網やライフラインなどを強化するしか対応策はないことを3つの大地震は教えている。

2023年3月8日水曜日

自由な音楽

 4人組の「たま」というバンドがあった。アコースティック楽器を主に使い、テレビの勝ち抜きバンド合戦番組で有名になり、「さよなら人類」のヒット曲があった。オリジナル曲を演奏したが、歌詞は言葉のイメージが飛躍して交雑し、独自の詞の世界を構築していた。最初のアルバムは「サンダル」。2003年に解散した。

 たまについて竹中労氏が1990年、「たまの本」を上梓し、まえがきで「一聴、ぼくは彼らのとりこになった。詞をなぞって言えば胸いっぱいに、かなしいいろの水が充ちあふれた。どのバンドよりも彼らは、ユニークでしかも普遍的な、人生の夢まぼろしを詠っていた、滅びのうたと言ってもいい。さんらんと、世紀末を飛び去りゆく、光のように」。

 次いで本文から。

「知久 同じ歌でも、どんどん変えていったり。

竹中 『らんちう』という曲は、初期のテープを聴いたら、ずいぶん違うんだね。唄いだしがデュエットでしょう、柳原くんと石川くんの」

「竹中 いつごろからなの? 台詞をライブごとに変えてみたり、演奏が割りこんできたりするようになったのは。

知久 ウン、柳さんのせいですね。

石川 メロディも歌詞も、ちゃんと覚えられないんですよ。

知久 微妙なところがさ、ちょっと、こう狂っちゃうの。とくに語尾が、でも何とかしなきゃいけないから。

石川 たまたま、アドリブになっちゃったわけですね。

竹中 でもそれが実にユニイクなんだ。

滝本 たとえば『さよなら人類』。シングルをつくったとき、間奏の部分を三回だったかな、入れ直して、そしたら歌詞も変わっちゃって、それからずっとそのまんま」

 人々が即興で歌い、演奏する音楽は今でも世界各地にあふれているだろう。だが、商品化された音楽は著作権に保護され、ファンはCDや配信で聴いたヒット曲をコンサートで聴きたがり、歌い手や演奏者の自由気ままな表現は制約される。興にのった歌い手が即興の歌詞で歌い続けたり演奏者が自由に演奏を続けることは、ショービジネスの世界では限定されよう(ライブでは、ステージ背後のスクリーンの映像や照明の変化と演奏がコラボするようになった)。

 商品化された音楽は、聴いて楽しむ音楽だ。商品化されない音楽には、自由気ままに歌う楽しみ、演奏する楽しみがある。さらに、商品化された音楽でも、自分で歌い演奏するときには自由気ままさが許され、例えば、カラオケで自由気ままに歌って楽しんでいる人は多いだろう(譜面通りに歌うことが上手なのか、自分の節回しで自由気ままに歌うことができるほうが上手なのか、解釈は分かれよう)。うたが私有物から共有物になっても、自由な表現を誰もが楽しむことができるなら、歌は自由であり、気ままな表現が生まれよう。

2023年3月4日土曜日

中国の歴史意識

  ロシアのウクライナ侵攻開始から1年になる2月24日に中国は、政治的解決を呼びかける12項目からなる仲裁案を公表した。報道によると内容は①各国の主権尊重、②冷戦思考の排除、③停戦、戦闘の終了、④和平対話の始動、⑤人道危機の解決、⑥民間人と捕虜の保護、⑦原子力発電所の安全確保、⑧戦略的リスクの減少、⑨食糧の国外輸送の保障、⑩一方的制裁の停止、(11)産業チェーン・サプライチェーンの安定確保、(12)戦後復興の推進。

 ロシアとウクライナ両国に停戦を呼びかけたと報じられたが、両国が対話に向かう気配は皆無で、中国にも停戦や対話を促す具体的な動きはなく、この仲裁案は中国の存在を国際的にアピールする狙いのようだ。ロシアと同列の強権国家と見做されている中国の提案に欧米各国は無視に近い反応だが、欧米と距離を置くグローバル・サウスへのアピールを狙った提案だとの見方もある。

 中国の仲裁案では、ロシアとウクライナ両国に停戦と戦闘の終了、和平対話を呼びかけたが、ウクライナ国内からのロシア軍の撤退には触れていない。ロシアの特別軍事作戦はウクライナ国内においてのみ実行されている軍事行動であり、ロシアのウクライナ侵略だ。ウクライナにとっては祖国防衛戦争なのだから、ロシア軍のウクライナ国外への撤退が停戦や和平対話の前提となる。

 中国にも過去に同じような状況があった。日本軍が中国大陸に侵攻し、占領地を拡大させて満洲国をつくって中国から切り離した。そのような状況において、第3国が中国と日本両国に停戦を呼びかけるが、日本軍の中国からの撤退を求めず、日本軍の占領地はそのままにして和平対話を促したとしたら中国は受け入れただろうか。

 そうした第3国の呼びかけは今回の仲裁案とそっくりだ。かつて中国は現在のウクライナと似た状況にあったのだが、歴史を忘れてしまったようだ。日本に対して中国は歴史問題を都合よく持ち出すが、それが中国の外交における基本となっていないことも今回の仲介案は明らかにした。

 中国には、アヘン戦争で負けて南京条約により香港を英国に割譲させられた歴史もある。自国に侵攻した外国軍に敗北することの意味を中国は承知しているはずだが、中国が味わった歴史上の屈辱だけを特別扱いする。中国の歴史は時には侵略し、時には侵略される繰り返しだから、現在はロシアと同じように侵略する側の思考に中国はなっているのかもしれない。

 中国が本気で停戦や和平対話を求めているのではないことは、おそらく中国を含め各国が承知している。中国は国際舞台で大国として振る舞うことを欲し、実効性が皆無の仲裁案を披露してみせ、「終始、客観的で公正な立場を取り、積極的に和平を促し対話を促進し、危機の解決のために建設的な役割を果たした」(中国外交部)と自画自賛するが、侵略された側への配慮が皆無であることを曝け出した。

2023年3月1日水曜日

法は修正できる

 2022年の通常国会では、政府が提出した法案61本が全て成立し、これは26年ぶりだという。過去には、与野党が鋭く対決する法案が国会に提出され、新聞などマスメディアや世論を巻き込んで賛否の議論が活発化することが珍しくなかったが、この通常国会で野党側は与野党対決法案を仕立てることができず、政府・与党に主導権を取られた。

 与野党対決法案の典型は、国家による管理を強化したり増税したり自衛隊の行動範囲の制限を減らしたりする法案だ。野党やマスメディアは「民主主義の危機だ」とか「戦争に巻き込まれる」などと危機感を煽るが、法案が成立すると野党やマスメディアの反対論は急速に衰え、やがて消えてしまう。

 そうした与野党対決法案によって本当に「民主主義の危機」が生じたり、「戦争に巻き込まれる」ことが起きるのなら、そうした法は放置できないから、翌年の国会で修正すべきだろう。しかし、翌年の国会で野党が修正法案を提出したり法の廃止や改正に動くことはない(国会は、すでに成立した法を修正したり廃止することができる)。

 そこから、野党が煽る「民主主義の危機だ」とか「戦争に巻き込まれる」などの危機感は①一時的なものだった、②本心からの主張ではなかったーが、採決では負けるので危機感を煽って世論頼みの「場外戦」を仕掛けたと見えてくる。党議拘束が厳しい日本の国会では、どんなに熱心な議論が行われようと採決に影響を与えることがないのだから、議論の質が低下し、相手を説得しようとする言葉は姿を消し、一方的な主張をぶつけ合うだけの議会になる。

 野党が国会のたびに与野党対決法案などで危機感を煽るのは、野党が無力であるからだ。自民党が政権を担う状況が長期化し、野党の議席数は過半数に遠く届かない状況も常態化し、野党にできることは少ない。それが野党の無力さを際立たせる。無力であるから野党は目立つために政府批判のメッセージ発信に熱心になるが、独自にネタを発掘する能力は低いので、政府が提出した法案の中から与野党対決法案を仕立てて危機感を煽ることにすがる。

 危機感を煽る野党は、国会では過半数に遠く及ばない存在であるため、与野党対決法案の成立を阻止することができず、その法案の修正や廃止を行う法案を翌年の国会に提出しても、修正や廃止は多数を占める与党に阻まれて実現しないことを承知している。無力であることを野党は自覚しているから、成立阻止を掲げて危機感を煽って存在をアピールするが、世間の関心が冷めた頃に、修正や廃止などに向けての「無駄」な努力は行わない。

 こうした状況は野党が政治的パフォーマンスで動くとともに現状追認に流されていることを示す。「民主主義の危機だ」とか「戦争に巻き込まれる」などの言葉は広告コピーに似た軽いもので、野党も本気でそう考えていないのじゃないかとの疑いを招いている。本気で「民主主義の危機だ」とか「戦争に巻き込まれる」と危機感を持っているなら、与野党対決法案を成立したままにはしておけないはずだ。