2019年5月29日水曜日

移動時間の価値

 新幹線と飛行機の選択において「4時間の壁」が存在するとされる。新幹線の所用時間が4時間を超える区間では飛行機を選ぶ利用者が増え、4時間を切ると新幹線の利用者が増えるそうだ。東京~広島間で所要時間を4時間に短縮した新幹線を増やしたところ、飛行機より新幹線の利用者が増えたという。

 ただし、「4時間の壁」の存在が検証されたわけではなく、厳密な定義があるわけでもない。例えば、4時間は新幹線では乗車時間のみだが、飛行機では、自宅から空港への移動時間や到着地での空港〜駅間の移動時間を含むなど、4時間に含む行動範囲が広くなる。

 「4時間の壁」が広まったのは北海道新幹線の開業の前後だった。東京―新函館北斗間が最短でも4時間を上回ることから、東京からの乗車率は高くないだろうとの論調が多く、貨物列車と共有する青函トンネルでは最高速度が在来線と同じに抑えられることが課題として指摘された。

 この3月、北海道新幹線の東京―新函館北斗間の所要時間は4分短縮され、最短で3時間58分になった。青函トンネルを含む貨物列車との共用区間で最高速度を20キロ引き上げ、時速160キロにしたことで4時間の壁を打ち破った。この速度でも貨物列車とのすれ違いでは安全が保たれるという。

 「4時間の壁」を僅かに突き破ったわけだが、これで東京から函館へ向かう新幹線利用者が一気に増えるかどうかは定かではない。数分短縮されたといっても、従来の所要時間と大差ないのだから利用者にとっては、状況が変わったというより状況は同じままだという実感か。

 移動に要する時間は、短ければ短いほどいいというのが一般の感覚だろう。商用でも私用でも旅行でも移動は目的地に到着するための途中段階にすぎず、移動の時間を楽しむのは鉄道や飛行機などのファンだけかもしれない。鉄道ファンにとって新幹線内での4時間は長くはないが、鉄道に興味がない人にとって座っているだけの4時間は長い。

 長距離移動においては基本的に飛行機に優位性がある。新幹線が選ばれるためには、移動の時間の価値を高める必要があるが、過度な演出は商用などでの利用者にとって邪魔だろうから、限度がある。新幹線を利用する移動に、どのような付加価値を加えるかがぼやけているところに「壁」があるのかもしれない。

2019年5月25日土曜日

世界を分割支配

 米国は中国からの輸入品(2000億ドル相当)に対する関税を10%から25%に引き上げ、さらに関税引き上げの対象を3000億ドル相当の中国からの輸入品に拡大することを発表した。

 米国と中国の協議はまとまりかけたものの、合意文書の大幅な修正を中国政府が提示してきて、米国が実力行使に踏み切った形だ。中国政府は▽知的財産・企業秘密の保護▽技術の強制移転▽競争政策▽金融サービス市場へのアクセス▽為替操作ーで法律を改正するとの約束を撤回したという。

 中国における法律の改正を合意文書に明記することは、米国の圧力に屈して中国政府が国内法を変えることが公表されることでもある。だが、中国政府の「メンツ」を尊重して合意文書に明記しなければ、確実に合意事項が履行されるか不透明だ(過去の中国政府の行動からすると、履行されない可能性が高いだろう)。

 米国と中国が互いに自国の利益を第一に争っている様子を、世界における覇権争いと解釈する論評が増えた。かつての冷戦で米国と覇権を争ったソ連が解体し、米国の1強体制が続いていたが、改革開放で経済の急成長を遂げて米国に次ぐ国力を備えた中国が覇権を求めているという解釈だ。

 中国はかつて覇権主義を厳しく批判していた。批判の対象はソ連であり、ソ連衰退後は米国であった。世界第二の経済大国に成長し、相応の軍事力を整備した中国が現在、覇権を求めていると批判されるのは皮肉だが、中国は立場を使い分けて自国に都合がいい主張をするのは珍しくない(経済大国になっても、時には途上国だと主張する)から、覇権を求めているとの解釈には相応の説得力がある。

 昨年、改革開放政策40年を祝う式典で習近平国家主席は「開放型の世界経済の建設を積極的に推進し、覇権主義に反対する」と演説した。開放型の世界経済に中国経済が含まれるのか、そこが各国から疑念を持たれて、中国の行動が各国から覇権主義に見えてもいる。だが、中国は「変わろう」としない。

 かつての冷戦は米国とソ連による世界の分割支配だった。現在の中国が支配しているとみなせる勢力圏は世界にほとんどなく、中国と米国との世界分割支配には程遠い。しかし、「債務のワナ」などに見られるように中国は世界各地に勢力圏を拡大しようとしている。中国は単独の覇権ではなく、米国と中国による世界の分割支配を目指しているとみるなら、近年の中国の世界における行動は理解しやすい。

2019年5月22日水曜日

時間とは何か

 時間とは、過去から現在を経て未来へと流れるような何かだというのが一般的な解釈だろう。さらに、床に落ちて割れたコップは元の形状に戻らず、燃えた紙片は復活せず、昨日が繰り返されないように、時間は巻き戻すことができないものだとも解釈されている。

 映画やSFなどでは、人間が過去や未来に行き来できたり、過去や未来が同時に存在したりする。現在以外に過去も未来も同時に存在すると、割れたコップと割れていないコップ、燃えた紙片と燃えていない紙片が同時に存在することになり、空間が「現在」のものだけなら、その空間にはモノが溢れるだろう。過去や未来が同時に存在するなら、それぞれの空間が必要かもしれない。

 しかし、「現在」の空間と別に過去や未来の空間があるとすれば、人間も空間ごとに存在するから、「現在」の空間にいる人間が過去や未来の空間に同時には存在できないだろう。過去や未来が同時に存在しても、人間だけが「現在」のままでは過去や未来の空間を認識するには特別な能力が必要かもしれない。

 空間が「現在」のものだけで、そこに過去や未来が部分的に存在しても、それを人間が識別することはできまい。人間は過去を記憶するが、未来については知らない。だから、過去や未来が同時に存在する空間で、割れたコップが存在しても、それが過去に起きたことか現在起きたことか未来に起きることか判断できない。

 人間は過去を記憶する。過去は人間の記憶に蓄積されるともいえるが、記憶や記録があるから人間は過去を認識できる。記憶や記録が存在しなければ人間にとって時間とは現在だけになるかもしれない。現在だけになると、時間の概念は全く異なったものになるだろう。

 時間は実在するのだろうか、それとも人間の意識の中だけにあるものなのか。楽しい時間は早く過ぎ、退屈な時間はゆっくり過ぎたりするので、時間は人間の意識の中にあるようにも見えるが、1秒1分1時間の長さが伸び縮みしているわけではない。

 宇宙はビッグバンから始まったなどと言われ、それは138億年前とされる。長くても百年前後の時間を生きる人間にとって億年という時間は想像を絶し、永遠と実質的には同義だ。太陽が「寿命」を迎える50億年ほど先に地球上には生物は生存できなくなるとされるが、それも人間にとって永遠と同義だろう。永遠が実在することは確からしい。

2019年5月18日土曜日

気候変動対策を求める少女

 16歳のスウェーデン人少女グレタ・トゥーンベリさんが一人で、気候変動対策を政府に求める行動を始め、賛同者が増え、欧州など各国で同様の運動が広がった。小学生の参加者もいるそうで、学校を休んで運動に参加する「気候のための学生ストライキ」も各国に広がっているという。

 注目を集めたこの少女は、EUの諮問機関でEUの温室効果ガスの削減目標を倍増するよう訴え、COP24(第24回気候変動枠組条約締約国会議)に出席して「あなた方は、子どもたちの未来を奪っています」「政治的に何が可能かではなく、何をする必要があるのかに目を向けようとしない限り、希望はありません。危機を危機として扱わなければ、解決することはできません」と訴え、ダボス会議で講演し、各国に招かれて抗議活動に参加したりと国際的な活動家に「成長」した。

 少女は「気候変動に対する危機感とその行動力が評価され、ついにはノーベル平和賞の受賞候補となった」と報じられるほどで、国際的に大きな影響力を持つに至ったようだ。この少女は真摯に考え、気候変動が避けられない確実な将来で、「今の文明の終わりを導くかもしれない」と危機感を持ったのだろう。だが、この少女には、何かの目的のために利用されている気配が常に漂う。

 気候変動対策を求める少女が「なぜ国際的に注目されるのか」という問いは、「なぜ国際的に注目される存在に仕立てられたのか」と読み替えることができる。各種の国際会議に参加して講演するのは、誰にでも可能なことではない。おそらく環境保護運動団体や環境保護運動家がシンボルまたは広告塔として少女に、注目される場を用意したのだろう。

 この少女は「CO2放出量を50%削減するなどの永続的な変化を、社会のあらゆる面で起こさない限り」、もう後戻りできない破滅的な状況が実現すると確信しているそうだ。「確実なことは誰にもわかりません」と気候変動が予測であることに留意しながらも、CO2放出量を削減ではなくゼロに、さらにマイナスにしなければならないと主張する。

 CO2の排出増加が温暖化の原因であるとの仮説が正しければ、CO2排出量をゼロにすべきという少女の主張は当然だ。しかし、気候変動の危機を訴える「大人」たちは、例えば、排出量取引など気候変動をビジネスにすることには熱心だが、CO2排出量をゼロにしようとはせず、ましてCO2排出量をマイナスにしようなどとは言いださない。

 想定される将来の危機に、この少女は過敏に反応しているとも真っ当に反応しているとも解釈できる。解釈の違いは危機感の違いであろうし、気候変動に対する考え方の違いである。ただ、学校に行かずに抗議運動に専念する少女を諭しもせず、称賛しつつ利用する「大人」たちの姿が見え隠れするのは、気候変動対策を求める運動の醜い一面を示唆している。

2019年5月15日水曜日

温暖化論の新たな仮説

 電磁波は、波長が最も短いガンマ線からX線、紫外線、可視光線、赤外線、遠赤外線、マイクロ波、中波などと分類される。波長が短いほどエネルギーが高く、波長が長いほどエネルギーが低い。波長が短いX線は病院でのレントゲン撮影やCT、工業での非破壊検査など広く利用されているが、人体には有害とされ、厳密に管理される。

 電波と呼ばれるのは3THz以下のマイクロ波と中波で、衛星放送やマイクロ波通信、携帯電話、GPS、電子レンジ、無線LAN、デジタルテレビ、FMラジオ、短波放送、AMラジオなどに幅広く使われている。電子レンジはマイクロ波を発生させ、食品中の水分子を振動させて摩擦熱を発生させることで食品を温める。

 ある友人は、「20世紀から人間が、軍事用や民間のレーダーや無線通信、ラジオやテレビ放送、GPS、携帯電話など各種の電波の使用を各国で大幅に増やし、空気中に地球規模で大量の電波が常に飛び交う状態になったことが、地球温暖化を引き起こしているのではないか」と疑っている。

 地球を温暖化させているのは、大気中に排出されたCO2の増加によるものだとされ、国際的にCO2の排出削減に向けた取り組みが進められている。温暖化によると見なされる「異常」な気象現象が世界各地で起きているとされ、各国はCO2排出削減を確実に進めていくことになっているが、すでに排出されたCO2による温暖化効果が強力なので、もう手遅れだとの見方もある。

 友人は、「温暖化現象とCO2排出増加が同時に起きたから、CO2排出増加が温暖化現象を生じさせていると解釈されているだけだ。CO2に温室効果があるのは確かだろうが、CO2による温室効果は熱を溜めるだけで、新たに熱を発生させるわけではない」とする。

 「だが、温暖化現象と電波の世界的な大量使用も同時に起きている」と友人は指摘し、「電波が大気中の水分の振動をわずかに促進させていると考えるなら、大気中に新たに熱が発生することが説明できる」。さらに「波長が様々な各種の電波が世界中で使われるようになったので、それらが大気中の水分のみならず窒素、酸素などの分子にかすかにエネルギーを与えている可能性もある」という。

 大気の成分は一般に窒素78.1%、酸素20.9%、アルゴン0.93%、CO2が0.03%などとされる。水分(水蒸気)の存在は場所や時間で大きく変動するが最大で4%ほどとされる。電波が大気中の水分などにエネルギーを与えていたとしても、人類は各種の電波の使用をやめることはできない。つまり、友人の仮説が当たっていたとしても、やはり温暖化現象の進行はもう止めることはできない。

2019年5月8日水曜日

国家像と軍事

 日本という国の防衛体制は、憲法と日米安保条約が一体となって構築されている。非武装を掲げる憲法がありながら実際には軍事的な防衛力が必要だと自衛隊を発足させたが、防衛に徹するので軍隊ではないと憲法との辻褄を合わせ、反撃(攻撃)は駐留米軍が担うという枠割分担だ。

 日本はかつて、強大な軍部が支配し、アジア・太平洋の各方面で戦争を行い、結局は無条件降伏した歴史がある。多くの人々が死傷し、多くの都市が空襲で焼け野原になったのだから、軍事や軍隊に対する強い拒否感が人々にあるのは当然だろう。だが、その拒否感が軍事や軍隊について冷静に考えることを阻害してきた面がある。

 軍事や軍隊に対する拒否感は人々の悲惨な戦争体験に基づいていたが、世代交代が進むにつれて、その拒否感は軍事や軍隊を悪だとみなす意識に変化し、受け継がれているように見える。軍事や戦争を悪だとすることで、冷静に考えることを拒否することが正当化される。

 世界の全ての国が軍事力を放棄し、国際関係は相互信頼と理性に基づいて友愛と正義を共有しながら構築されるなら素晴らしい。だが、そんな世界は現実には存在しない。米ロ中など強大な軍事力を誇示する国が大きな影響力を持ち、大国ではない国々も軍事力を重視している。

 軍事や戦争は国家の管轄である。日本で軍事や戦争の全面否定論が有力なのは、日本の国家像が揺れているからだろう。軍事や戦争が戦前の日本の体制とのみ結びつけて考えられ、主権在民の民主国家における軍事や戦争についての考察が日本では欠如する。民主国家の主権者である日本の人々のための軍事や戦争とは何か、ほとんど議論されてこなかった。

 市民革命を経て成立した主権在民の民主国家なら、国の防衛(独立)と市民の権利の結びつきが明確で、軍事や戦争を否定することは自らの権利の否定にもなりかねない。だが日本では、多大の犠牲があったとはいえ、主権在民も民主主義も日本の人々が自力で勝ち取ったものとはいえない。

 戦前の日本の体制を判断基準にすれば、軍事や軍隊は人々の抑圧や犠牲をもたらすものとなるだろう。だが現在の日本は主権在民の民主国家とみなされている。軍事や戦争を悪だとして冷静な考察が欠如しているのは、国家は人々に害をなす存在と現在でも多くの日本人が感じ、そんな国家が管轄する軍事や戦争に対する嫌悪感によるものかもしれない。

2019年5月4日土曜日

戦争はあった

 この30年は「国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代」だったと平成天皇は回顧し、85歳の誕生日を迎えた時にも「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べたという。

 昭和天皇の時代は前半3分の1が戦争の時代でもあり、昭和天皇には戦争と関連づけるイメージがつきまとった。昭和天皇の戦争責任については議論が分かれるが、戦争に向かうことに対して天皇が強く抵抗しなかったことは確かなようだ。

 前憲法では天皇に絶対権力が与えられていたが、実際には個人独裁の政治ではなかった。「国民の平和を希求する強い意志に支えられ」という言葉を勘ぐると、過去の「国民の戦争を希求する強い意志」に押されて戦争に突入した時代の再現に対する恐れが平成天皇にあったのかもしれない。もちろん個人として、戦争を経験する御代にしてはならないとの意識は強くあっただろうが。

 「近現代において初めて戦争を経験せぬ時代」とは日本と日本人を対象にした感想だ。この30年に世界では各地で戦争や武力紛争があり、多くの人々が死傷し、多くの人々が難民となった。現在も武力紛争は世界各地で続いている。この言葉は1国平和主義の典型のように見えるが、天皇が日本と日本人のことだけを考えるのは当然か。

 日本や日本人が戦争に巻きこまれなかったことは評価すべきだろう。だが、1国平和主義に閉じこもって、世界各地で続いている武力紛争に対する関心が薄れるなら、そんな1国平和主義は孤立主義でもある。もちろん日本が国際情勢に積極的に関与し、結果として戦争に巻き込まれるよりは1国平和主義のほうがマシだろうが。

 世界の全ての国が1国平和主義に専念するなら、結果として世界から戦争や武力紛争はなくなるはずだ。だが、ISのような非国家の強力な武装勢力が活動する現在の世界で、各国が1国平和主義に閉じこもると、それらの武装勢力が弱体な国家を侵食することを許す。国家単位で戦争や平和を考えていればいい時代ではなくなっている。

 日本における1国平和主義は弱体な外交と一体だった。武力は使わないが、言葉を使って日本が世界で起きる戦争や武力紛争の解決に積極的に関与していたなら、日本の1国平和主義は各国から賞賛されていたかもしれない。この30年、日本と日本人は戦争を経験しなかったが、世界で起きる戦争や武力紛争を鎮め、解決することに積極的ではなかった。

2019年5月2日木曜日

坂口安吾の天皇制批判

 坂口安吾は1946年(昭和21年)に発表した『堕落論』『続堕落論』で天皇制について厳しい目を向けている。例えば、次のようなものがある。

 天皇制は「社会的に忘れられた時にすら政治的に担ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家たちの嗅覚によるもの」で、それは「天皇制に限るものではない。代わり得るものならば、孔子家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代わり得なかった」だけである。

 天皇制は「日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具に過ぎず、真に実在した試しはなかった」。

 藤原氏や将軍家にとって「彼等が自分自身で天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更に良く行きわたることを心得ていた」。彼等が「天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押し付けることが可能」になる。

 彼等は「天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた」。「それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではない」。軍人は「徹底的に天皇を冒瀆しながら、盲目的に天皇を崇拝」していた。

 「藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた。彼等は真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の道具」とし、「現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、概ねそれを支持している」。

 「天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念に絡み残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花は望むことができないのだ」「天皇制だの、武士道だの(中略)、かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は再び昔日の欺瞞の国へ逆戻りする」ばかりだ。

 「政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも所詮カラクリの一つの進化に過ぎないこともまぬがれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される」。

2019年5月1日水曜日

演歌の定義

 全8巻からなる企画CD「昭和の演歌」には、「これも演歌なの? 違うだろ」と言いたくなる曲がけっこう含まれている。例えば、「愛と死をみつめて」「赤いグラス」「ラブユー東京」「夜霧よ今夜も有り難う」「君こそわが命」「ブルーライト・ヨコハマ」「瀬戸の花嫁」「別れても好きな人」「愛の水中花」「ラブ・イズ・オーヴァー」「俺さ東京さ行ぐだ」「時の流れに身を任せ」など。

 演歌のヒット曲を持つ歌手が歌ったものは全て演歌とみなしたと解釈しても、歌謡ポップス歌手の歌謡ポップス作品など演歌ぽくない曲が含まれている。多くのレーベルから曲を提供してもらうために、偏らないように各社で曲数のバランスをとる必要など“大人の事情”があったのかもしれないな。

 歌詞を丁寧に歌い上げ、時にはコブシを回すなど演歌ぽい歌い方はあるし、恋や別れの情感、追憶など男女関係をメーンとする歌詞でも演歌ぽい世界がある。理屈っぽく語ったり内省するのは演歌には似合わないし、ラップ調も演歌に似合わない。酒や旅、地方都市、ご当地ブルース、雨、涙、夜、港、北国、酒場、雪などを散りばめて男女の情感を歌うのが演歌か。

 演歌の定義を探すと、例えば、「小節をきかせた浪曲風メロディーで二拍子、短調の曲が多く、義理人情を歌う」とか「〈ヨナ抜き音階〉により〈こぶし〉をきかせて歌う歌謡曲」「こぶしのきいた日本調の歌謡曲」「伝統的な民謡に聞こえるものからフォーク色が強いもの、分類不能のものまで作風は様々」などがある。

 音楽的にはヨナ抜き(4度と7度の音を使わない)で作曲するものと言えそうだが、ヨナ抜きは演歌の独占物ではないからヨナ抜きだけで演歌を定義するわけにはいかない。聞いた印象で演歌だと判断するしかないとすれば、演歌の定義には個人差が生じる。

 他の音楽との境界がぼやけているのは演歌に限らない。というより、時代の変化や流行の影響を強く受けたり、諸外国の多様な音楽の影響を受けやすいのが音楽だ。例えば、かつて演歌に任侠ものが珍しくなかったが、社会からのヤクザ排斥が強まった現在、演歌の世界から任侠ものは姿を消した。

 J-POPが全盛の一方で演歌は衰退の一途に見える。リズムや乗りが重視される時代に、じっくり聴かせ、情緒を重視する演歌の居場所は狭まっているようだ。だが、J-POP全盛だから演歌に新しい定義が追加された。それは①口パクをせず自分で歌う、②ダンスをしない、③ユニット化しない。