2014年8月30日土曜日
人生50年
第二次大戦後の第1次ベビーブームの1947〜1949年に生まれた人々は「団塊の世代」と呼ばれる。消費動向など社会的に大きな影響を与えてきた団塊の世代だが、2012年以降に65歳に達し始め、今年は1949年生まれの人も65歳になる。会社勤めの多くの人は定年退職を迎え、高齢化社会をいっそう促進することにもなる。
団塊の世代を対象に内閣府が行った調査(2012年)によると、25.1%が「働けるうちはいつまでも」働きたいとし、「70歳 まで」が21.3%、「75歳まで」3.7%で半数が働き続けたいと望んでいる。生活に対する満足度は、「非常に満足」12.5%、「ある程度満足」67.0%で計79.5%と高い。行政に要望する注力すべき高齢者対策は、「介護や福祉サービス」68.4%、「医療サービス」60.3%、「公的な年金制度」58.3%、「働く場の確保」15.6%の順。
高齢社会白書(2013年)によると、世帯の主な収入源は「年金」が最も多く53.4%。世帯年収は「240万〜300万円」が17.3%、「300万〜360万円」14.0%、「360万〜480万円」14.0%、「480万円以上」18.8%、「120万円未満(収入なしを含む)」8.3%。世帯の貯蓄額は「1000万〜2000万円」が15.0%、「100万円未満」9.8%、「2000万〜3000万円」9.7%、「700万〜1000万円」9.5%。
こうした調査から大まかな傾向はうかがえるが、団塊の世代の実態は曖昧だ。当たり前だが、65年の間に個人差が相当に生じており、例えば、世帯収入が少ない場合は、蓄えが十分にあって積極的には働こうとしないケースもあれば、生活を維持するために低収入の仕事でもつかざるを得ないケースもある。
65年生きてきた団塊の世代で、優雅な隠居生活に移行する人々がどれくらいいるのか分からないが、現在では65歳は老け込む年齢ではない。日本人の平均寿命(2012年)は女性86.41歳、男性79.94歳なので、15〜20年ほどの余生がある。無為に過ごすには長過ぎようが、かといって年齢的な衰えも始まり、20代の若者と同じように人生を新たに切り開くことは難しかろう。
テレビドラマなどで織田信長が描かれると、必ずといっていいほど登場するのが、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」の謡曲で舞うシーンだ。織田信長は48歳の時に本能寺で死んだ。まさしく「人生50年」と、天下を取って、日本の歴史に名を刻んで輝いて生きたわけだが、当時と比べて寿命が長くなった現在、団塊の世代の人々は、人生65年のあとを長く生きる。
寿命が長くなって、第2、第3の人生を楽しむことができるならば、それもまた一興。しかし、人生50年が夢幻の如くであるとしたならば、人生80年も同様だろう。天下を取っても取らなくても、長くても短くても人生は「下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」か。
2014年8月27日水曜日
読者からの信頼への裏切り
朝日新聞は、(1)吉田清治氏の関連記事について「虚偽の証言だと判断」して記事を取り消し、(2)女子挺身隊と慰安婦を誤用していたことを認めた。いわば32年も経って誤報を認めたわけだが、事実関係を間違えている記事を32年も“放置”していたことへの説明はなかった。
慰安婦絡みなので他マスコミからの執拗な批判がいつまでも続き、そのため朝日は今になって検証を余儀なくされ、「訂正」に至ったという印象だ。だから、政治的な問題とはならない他の記事なら、事実関係を誤って報じていても執拗な批判は少ないだろうから、放置したままなのではないかとの疑念も生じる。「そんなことはない」のだろうが、32年経っての訂正に関する朝日の説明が不足しているので、記事全般に対する信頼性を損ねたことは確かだ。
朝日は日本を代表する新聞だと欧米のマスコミからは見られているといい、日本国内でも朝日をリーディングペーパーと見なす人は珍しくない。宅配で長年読んでいた個人的経験からも、内容が充実した読み応えがある新聞であるといえる。加藤周一氏の連載コラムが載らなくなってからは購読をやめたのだが、朝日が他の新聞よりはマシだとの印象は持っている。
だからこそ、朝日が今回、説明責任を十分に果たしていないことを危惧する。世の中に事件、事故は満ちあふれ、多くの腐敗も潜んでいるだろう。新聞が報じるべきことは多く、締切りまでの時間は短い。そんな中で紙面をつくるのだから、記者が間違うこともあろうし、編集スタッフが見逃すこともあろう。だから、「誤報」の速やかな訂正が不可欠で、それが新聞への信頼を支える。
誤報が新聞社により訂正されないと読者は、どれが誤報の記事で、どれが誤報でないのか区別がつかなくなる。新聞社は「全ての記事は正しく、誤報ではない」との建前なのだろうが、そんな建前を信じる人はいないよ。32年経ってからの「記事取り消し」は、事実確認をおろそかにしていたという新聞社にとって重大な瑕疵であり、読者からの信頼に対する裏切りでもある。
今回の朝日「誤報」騒ぎでは、日本国内で慰安婦問題を提起し続けていた人達からの反応が鈍い。政治的な運動は、事実関係の客観的な正しさ云々より、政治的な効果を重視するものであるから、事実関係がどうであろうと大した問題ではないのかもしれないが、大騒ぎして、後は知らんぷりする連中だとの印象にもなる。
「批判する時は元気だけど、説明責任を求められると黙りがち」というのは、当事者能力の欠如を示すものかもしれない。都合が悪いと黙るという行動は、みじめで弱体化したと傍からは見え、そうした人間に対して新聞記者が容赦なく鋭い質問を浴びせたりして「真相」を追及することはよくある……朝日が黙ったままでは、新聞不信につながりかねず、権力にとっては好都合だろう。
2014年8月23日土曜日
夢か情熱か志か
「夢を持て」と若者に言う人がいる。夢を持つことは大事だと、うっかり同意したくなるが、待てよ、若者が何を夢とするかは、まちまちだ。「平和な世界にしたい」やら「プロ野球選手になりたい」「人気歌手になりたい」などというものから、「正社員になりたい」「公務員になりたい」などまで、人によって夢が意味するものは幅広い。夢と願望の区別はつけにくい。
何を夢とするかは、客観的に決められるものではなく、あくまで主観でしかないから、その人の直面する状況によって、夢の内容は変化する。例えば、「プロ野球選手になりたい」という夢を持っていた人が、プロ入りした後は、1軍でプレーすることを夢にし、更には、タイトルをとることを夢にするかもしれない。もちろん、夢を“発展”させることができるのは少数だろうが。
「夢を持て」と推奨されるのは、その夢の実現に向かって当人が努力することが期待され、時には、当人に自覚や努力を促すためである。だから、実現可能性はさておいて、どんな夢でもいいからと、まず「夢を持つ」ことが促される。自分の将来について、何も考えないよりは、届かぬ夢であってもマシだということかもしれない。
子供にとって夢を持つことは大切なことかもしれないが、大人にとっては、どういう意味があるのだろうか。思いどうりにならない現実を受け入れ、現実に対応して生きることを覚えるのが大方の大人だろう。そうした大人が持つ夢は、「ジャンボ宝くじに当たりたい」だったりするのかな。
米の大学の卒業式で、来賓スピーチの決まり文句の一つは「情熱を傾けるものを持て」だという。似たような言葉ではあるが、「夢を持て」よりは、実際的で現実的な言葉だ。実現すべき対象が夢だとすれば、「情熱を傾ける」はポジティブな取り組み姿勢を意味する。夢は主観でしかないが、ポジティブな取り組み姿勢は客観的にも評価可能なものであり、そういう姿勢は、例えばビジネスなどでも役立つだろう。
ポジティブな取り組み姿勢を身につけることは、人生を切り開くには役立つ。「プロ野球選手になりたい」「人気歌手になりたい」などの実現のために情熱を傾ける人もいようが、ポジティブに取り組むという生き方を身につけたなら、情熱を傾ける対象が変わったとしても、積極的に生きていくことができそうで、大人になりかかっている人へ向ける言葉としては適していそうだ。
「目標を明確にしろ」という言葉も若者に向けて語られることが多い。長期的な目標を決めて、それを実現するためには何が必要かを考え、「今日やること」「今月やること」「今年やること」などと短期的な目標を設定して、それらを着実にこなしていくことで、長期的な目標の実現に近づいていく。夢よりも目標は現実的な設定になるだろう。
最近はあまり聞かれなくなったが、昔は「志を持て」という言葉が若者に贈られた。夢や目標よりも志は個人の理念に関わってくる言葉だ。理想的な世の中にするために努力することであったり、規範に則って恥ずかしくない生き方を貫くことであったりする。「志を高く持て」などと、個人の利害、願望にとらわれることを戒める言葉もあった。
夢を持つことも、情熱を傾けることも、目標を持つことも、志を持つことも、若者に期待する言葉だ。まだ社会的には“微力”な若者にとって世の中は見通しがあまり利かず、理不尽なことが多く混沌としたものかもしれないが、切り開いていくしかない。そのために役立つのは、夢か情熱か目標か志か。
2014年8月20日水曜日
共感する力
8月に入ると新聞紙面に戦争に関する企画記事が増え、テレビでも戦争に関するドラマや検証特番が増える。戦争といっても、世界各地で現在行われている戦争がテーマではない。取り上げられるのは、日本が直接関わった先の戦争である。中東やアフリカなどで現在も行われている戦争についてはニュースとして報じられることがあるだけだ。
でも8月15日が過ぎると、そうした企画記事や特番などは次第に消え、次に現れるのは12月だが、その量は8月より遥かに少ない。8月には2度の原爆投下、終戦と大きな出来事が続いたため、先の戦争の“記憶”が呼び起こされるのかもしれない。一方で、新聞社やテレビ局でも社員が夏休みを取るため、事前に作り置きがしやすい戦争関連の企画記事や特番が増えるともいわれる。
送り手側の事情はさておき、日本のマスコミが、日本が戦争に直接関わった記憶、つまり、日本人の「戦争体験」を掘り起こし、伝えることを重視していることは間違いない。自国が関わり、自国民が体験した戦争をマスコミが重視することは当然だが、受け継ぐべき「戦争の記憶」は、日本が直接関わったものだけではあるまい。
戦争に巻き込まれた人々は、平時には想像もつかない多くの悲惨な体験をする。それを後世に伝えていくことには意義がある。だが、日本人の体験だけが戦争体験の全てではない。戦争には様々な態様があり、また、技術や経済力の発展とともに変化するのだから現代の戦争は、日本人が過去に体験した戦争には見られなかった別種の悲惨さを持つ。日々のニュースで、それらを伝えきれているのだろうか。
日本が直接関わった戦争は(今のところ)数十年以前のものだけであり、それだけを特別扱いしすぎると、「昔の戦争で日本人は大変だったけれど、今の日本は平和で良かったね」と現状を肯定するだけで終わるかもしれない。日本が平和であることは慶賀すべきだが、世界が平和になったわけではなく、各地で戦争は起き、世界は戦争の「記憶」に溢れている。
日本や日本人が関わった戦争と、他国や他国人が関わった戦争に、悲惨さや愚かさにおいては本質的な違いはあるまい。だが、戦争の「記憶」は、他国や他国人が関わった戦争からも受け継ぐことはできようし、現在行われている戦争からも「記憶」を受け継ぐことはできるはずだ。
それには、共感する力が不可欠となる。数十年前の日本人の体験、記憶に共感するのと同じように、世界各地で戦争に巻き込まれる人々の悲惨な体験、記憶に共感できるなら、それらを受け継ぐこともできよう。共感する力が乏しければ、日本人の「戦争体験」だけにしか興味、関心が向かないかもしれない。
2014年8月16日土曜日
批判される「正解」
昨年夏に、シリアのアサド政権が反政府側に対して化学兵器を使用していたとの疑惑が浮上し、「邪悪」なアサド政権を倒すために米など西側の軍事介入を求める声が上がった。しかし、オバマ米政権はシリアに対する軍事介入を行わず、交渉によってシリアが保有する化学兵器を国際管理下に置くことにした。
化学兵器はシリア国外に搬出されたもののシリア国内では内戦が続いている。それまでの反アサド派勢力に加え、様々な勢力がシリアに入り込んで戦闘に加わったが、政府軍を倒すほどの勢力にはならずにいる。一方、政府軍にも反政府武装勢力を圧倒して、国内から追い出すほどの力はなく、内戦が続いている。
そのシリア内戦で「成長」したと見られるのがスンニ派の武装組織「イラクとシリアのイスラム国」(ISIS)だ。今年になってイラクにまで勢力を拡大し、イラク第2の都市モスルのほか、イラク西部やシリア東部の広い範囲を制圧し、「イスラム国家(IS)」の樹立を宣言、指導者を「カリフ」とした。
米などがイラクに軍事介入してフセイン政権を倒したのは2003年。イラクの人々は圧政から「解放」されたはずなのに、イラクの人々は平和も民主主義も手にすることができずにいる。反対に、ISISが勢力を拡大して、イラクを分割統治するようになって混乱は拡大……米などの軍事介入の「成果」は失われた。
西側メディアには例えば「シリア内戦への干渉を、化学兵器を使ったかどうかで片付け、軍事介入を控えた。それは事なかれ主義であり、内戦を放置してきたツケが今、ISISの伸長、イラク内戦、イランの台頭という形で現れてきた」などとの批判がある。オバマ政権など西側諸国に先見性が欠如していたとする批判だが、結果論でしかない。
昨年、米など西側がシリア内戦に軍事介入していたならば、支援を受けた反政府武装勢力がアサド政権を倒していたかもしれないが、アサド後のシリアが、平和で民主的な国に変わる可能性がどれほどあったのか定かではない。むしろ、様々な武装勢力が入り込んでいたのだから、アサド後のシリアは、現在のリビアと同じような状況になっていた可能性が高いだろう。
リビアも内戦状態になり、米などの軍事介入の支援を得た反政府武装勢力がカダフィ政権を倒したが、その後は武装した諸勢力が対立し、実質的に内戦状態は続いている。暫定政府は首都の治安さえ保つことができず、各国の大使館などが襲撃され、外交官が国外に退去した。
シリア内戦の死者は15万人以上になるともいわれ、悲惨な状況であることは確かだが、米など西側が軍事介入しなかったのは「正解」だったかもしれない。軍事介入してアサド政権を倒しても、破綻国家を一つ増やし、諸勢力が争う暴力が支配する地域を広げる結果に終わった可能性が高い。人々の苦しみは終わらない。
しかし、「正解」が、いつでも誰にでも歓迎されるとは限らない。特に、ISISの勢力拡張など新しい状況に対する解決策が見つからない場合には、過去の、行われなかった選択が「誤り」とされ、批判される。そういう批判は容易だからだが、架空の根拠に基づく批判でしかない。
2014年8月13日水曜日
客観性が欠如
成分表示の表記には記載されていない怪しげな何かを含む食品を、数十年も販売していた食品会社があった。以前から疑惑が指摘されていたのだが、その食品会社は否定し続けていた。食品の偽装表示などで成分表示に対する世間の目が厳しくなったので、その食品会社はやっと、成分表示が誤っていたことを認めた。
その食品会社は、社員で構成した調査チームをつくり、問題があったのに、どうして数十年も正されなかったのかを検証し、報告書を発表した。報告書では、怪しげな何かが数十年前から食品に入っていたことを認めたが、当時の知見では明確に判別できなかったとし、「当時は他社でも同じような混入があった」と書くことを忘れなかった。
さらに報告書では、表示の担当者が、成分表示には含まれていない怪しげな何かが含まれていることを最近になって気付いたとし、怪しげな何かが含まれていることを知っていた人間は他にいなかったとした。疑惑が以前から指摘されていたが、会社として対応しなかったことに関する説明は報告書にはなく、成分表示の法規制が緩やかであることが混乱を生じさせていると問題提起した。
この報告書を、新聞社など報道各社は批判した。怪しげな何かが含まれていたことを認めたことは当然だと評したが、疑惑が指摘されながら数十年も黙り続けてきたことや、気付いた社員がいなかったということなどに疑問を投げかけ、さらに、法規制に論点をすり替えようとしていると指摘した。
以上は架空の話だが、不祥事を起こした会社、組織が、問題点や関係した社員を、社員など内部の人間だけで調査した調査報告を公表した場合、その調査・検証に客観性があると受け止められることはまずないだろう。反対に、会社に都合が悪いことは隠しているのじゃないか、社内の関係者には手心を加えた質問をして体裁を繕っただけじゃないか、最初に結論を決めて、それに沿った調査をしただけじゃないか等の疑念を持たれるだろう。
企業が不祥事で失った信用を回復するには、問題点を厳しく調査・検証して、同様の不祥事が二度と起こらないように対策を講じるとともに、それを社会から見えるカタチにする必要がある。会社から独立した調査委員会による検証は、企業が社会的信用を回復する第一ステップであり、ウミを出し切らなければ問題が再発することもあり得よう。
不祥事を起こした企業が、独立した調査委員会を設置せず、実態解明に消極的だったりすると、報道各社はその企業は「自浄能力が乏しい」「隠蔽体質だ」「仲間内でかばい合っている」などと批判する。その批判は正しい。不祥事が長年隠蔽されていた企業や、問題を知りながら解決に長年動かなかった企業には組織的な欠陥があるはずだ。
新聞記事は大きな社会的影響力を持っている。怪しげな何かが含まれていた新聞記事を流していた新聞社が為すべきことは、独立した調査・検証委員会を設置すること。そして、客観性を有する報告書を公表すること。だが、今回の朝日の32年経っての「記事取り消し」で他の新聞社は、独立した調査委員会の設置について触れない。
記事の客観性を第三者が検証することは他の新聞社にも現実的な課題だから、各社は朝日批判に止めたいのだろうが、新聞社から独立した常設の記事検証機関を設置するぐらいをしなければ、今後、新聞自体の信用度が低下して行くことを防ぐことはできないだろう。
2014年8月9日土曜日
無責任になる時
以前に聞いた話だが、人が金を使う時に、最も慎重になるのは「自分の金を他人のために使う時だ」という。何らかの見返り(相手からの好意、感謝など無形のものも含む)を期待し、それが、自分の使う金に相応するものかを推し量るが、実際の見返りが予想通りになるかどうかは分からないからだ。
最も無責任になるのは「他人の金を他人のために使う時」だという。どんなに浪費しようと、自分の懐には影響しない。むしろ、他人の金を大盤振る舞いすると、その恩恵を受けた人から自分が感謝されたりするのだから、「他人の金」を気前よく使うことは心持ちが良さそうだ。政治家や官僚が国の金を、莫大な借金を積み上げながら、大盤振る舞いするのは、「他人の金」だと思っているからかな。
ここで「金」を「ニュース」に置き換えると、新聞社やテレビ局などが、最も慎重に報じるのは「自分に関するニュースを他人に伝える時」だとなる。確かに、報道各社は自社の不祥事などについて、どこかに暴かれるまで伝えなかったり、伝える時も目立たない小さな扱いで済ますことは珍しくない。
さらには、他社からの取材にもろくに応じず、会見を開くことにも積極的ではなかったりする。他人や他社の不祥事なら、取材陣が追いかけ回し、「説明責任があるだろう」などと強く迫ったり、関係者に取材して回るのにね。中にはNHKのように、女子トイレの中にまで取材対象者を追いかけて行く……ところもある。
自分らに関することなら、慎重に取材し、報じるとしても慎重に報じるのに、他人や他社の不祥事なら容赦なく暴き立て、時には「社会的責任を明らかにしろ」などと糾弾する調子になる。これは、「他人に関するニュースを他人に伝える時」に最も無責任になる……ことか。
でも「他人に関するニュースを他人に伝える」のは日常的な報道であり、大量に流される。それらのニュースを報道各社がいつも無責任に伝えているのではないと信じたいが、むやみに「大騒ぎ」することはよくあり、対象となった人や会社などに、自社が対象となった時と同じように十分に配慮していると見えないことも確かだ。
民主的で「開かれた」社会を維持するために、世にある不祥事を報道各社が暴き、追及することは欠かせないが、「他人に関するニュースを他人に伝える時」に、新聞社などは無責任になっていることがあると疑問を感じることは結構ある。最近では、32年も経ってからの「記事取り消し」があったが、これなど無責任の極みかもしれない。
2014年8月6日水曜日
独裁政治と腐敗
中国は1党独裁政治であるため、国家権力は共産党に集中する。最高指導部は中国共産党の中央政治局(委員25人)で、そこから選出された7人で中央政治局常務委員会を形成する。常務委員はまさしく“雲の上”の人物だ。ちなみに、中国共産党中央軍事委員会が、党の軍隊である人民解放軍を指揮し、中国共産党中央規律検査委員会が党の規律維持を担当する。
2年前の2011年まで中央政治局常務委員(当時は9人)だった周永康について、「重大な規律違反」で中央規律検査委員会が調査を開始したと中国国営通信が伝えた。「重大な規律違反」とは汚職事件を意味するという。中央政治局常務委員は現職、経験者を問わず、刑事責任を追及されないとの不文律があったそうで、今回の“摘発”は驚きをもって迎えられた。
立法も行政も司法も軍事も「道徳」も党がコントロールする1党独裁体制の弱点は、権力をチェックする機能が弱いことだ。だから、1党独裁体制は最高指導部の独裁体制になり、さらには、最高指導部を押さえた人間による個人独裁になりやすい。このため最高指導部内での権力争いは激化し、「政敵」を殺してでも排除しようとしたりする。
中国では25年前の天安門事件後に趙紫陽元総書記が更迭されたが、それが権力者の失脚の最後だった。共産党内での権力闘争激化を避けるために、中央政治局常務委員クラスの指導者の責任は問わないとの暗黙のルールをトウ小平がつくったというが、それが裏目に出た。「権力は腐敗する」といわれるが、司法の監視を受けない独裁権力に腐敗が蔓延することは珍しくない。
中国は、革命のために権力を前衛党に集中するという発想から、権力を維持するために共産党が独裁を維持するという発想に変質した。社会基盤が整い、経済的に豊かになったのだから、1党独裁を放棄して多党制に移行する頃合いだろうが、1党独裁を維持するために強権を振るって様々な「無理」を重ねている。独裁党が権力を失うことに怯えて、強権を振るうしかなくなったようでもある。
「重大な規律違反」で中国共産党中央規律検査委員会が調査を開始したということは、独裁する共産党内の組織が間違った決定を下すことはない建前だから、結果は「クロ」と既に決まっている。裁判で「有罪」から「無罪」に覆ることもない。
その先については諸説が入り乱れる。腐敗して莫大な資産を形成した中央政治局常務委員経験者は他にもいると取沙汰され、周永康以外にも腐敗摘発の矛先が向かうのか、習近平政権の「政敵」だった周永康一派を倒して終息するのか。腐敗が一掃されることは理想的だが、腐敗した1党独裁体制が自浄能力を発揮しすぎると、独裁までもが揺らぎかねない。独裁党内での権力闘争と見たほうがいい。
2014年8月2日土曜日
弾まない会話
弾まない会話というものがある。あまり親しくない相手と同席せざるを得なくなり、互いに気を使って話題を探すが、二言三言で話が続かなくなることを繰り返したり、相手が“受け身”の姿勢で話題を探そうともしない時などには、心の中で「この人は、話したくないのかな?」などと疑いを持ちつつ、弾まない会話に徒労感が増すばかりとなったりする。
親しい関係でも、会話が弾まないことはある。誰かの体調が思わしくなかったり、気にかかっていることがあったりと原因は様々だが、そういう時には気まずい沈黙がふいに訪れたりし、いつもなら会話に没入しているはずが、ふと我に返ったりする。会話が弾まないことに気がつくと内心であせったり、耐え難かったり、寂しい思いをしたりする。
会話が弾む時には、互いの言葉のやり取りが会話をいっそう促す。誰かの言葉が次の誰かの言葉を引き出し、さらに次の誰かの言葉を引き出す。内容を変えながら言葉がキャッチボールされているかのようでもある。もし言葉に反発係数があるのなら、弾む会話の時に交わされる言葉の反発係数は、きっと高いだろうな。
弾まない会話で交わされる言葉は、当たり障りのないものであったり、どうでもいいと聞き手に感じさせるものであったりする。心が乾いていたり、何かが気にかかっていたり、相手や周囲に対する関心が低かったりすると、反発係数の低い言葉が発せられるのかもしれない。そんなときの言葉には本来の言葉の意味に加えて“水分”が多すぎて弾みにくくなっているのかも。
ただし、反発係数が高い言葉は会話を弾ませるだけではない。会話が弾むにつれて親密さも増すが、逆の場合も珍しくない。何かの言葉で誰かがカチンときて、黙ってしまうならともかく、我慢できないと言い返したり、嫌みを言おうものなら、そこで交わされる言葉の反発係数は一気に高くなったりする。心が熱くなると、言葉も熱せられて“水分”が一気に飛んでしまうのだろう。
そうした険悪な雰囲気の時にこそ、反発係数の低い言葉のやりとりで場を落ち着かせるのがいい。心が熱くなって、情緒に動かされやすい状態のときこそ、意識的に理性的な物言いをするのが望ましい。だが、相手の言うことが気に食わないからと反発係数の高い言葉を相互にぶつけ合っているような時には、冷静になれといっても無理だろうな。
個人の間で、反発係数の高い言葉をぶつけ合って険悪な関係になろうと、それは当事者間の問題だが、外交で使う言葉が反発係数の高い言葉であっては、多くの人々が迷惑する。日本に向けて、一方的な主張を、時には礼を失したまま、意図的にぶつけてくる国が増えたように見える。厄介なのは、こちらも反発係数の高い言葉を投げ返さなければ不利になると早合点する手合いがいることか。
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