ドイツの検察は10月、ディーゼル車の排ガス不正問題でアウディに罰金8億ユーロ(約1千億円)を科し、アウディは「責任を認める」と受け入れた。04年以降に販売したV6とV8エンジン搭載車に、排ガス測定時にだけ有害物質を不正に制御するソフトウエアを搭載していた責任を問われた。
その不正ソフトを最初に考案したのはアウディのエンジニアだったとVWが米国検察当局との間で合意した声明で認め、当時のアウディのルペルト・シュタートラー社長は逮捕されていた。詳細は明らかになっていないが、アウディが開発した違法ソフトがVWグループ全体で使われたようだ。
6月にVWも独検察から、1000万台以上の乗用車に不正ソフトを搭載して販売したとして10億ユーロ(約1300億円)の罰金を科され、VWは「責任を認める」と罰金を受け入れた。ディーゼル不正発覚後、VWは罰金や賠償金、米国での買い戻しのために300億ドル(約3兆4000億円)を支払った。
今回の罰金でVWグループによるディーゼル不正にケリがついた訳ではない。不正発覚後の株価下落で損失を被った投資家がVWの筆頭株主のポルシェSEを訴え、損害賠償の支払いを命じる判決を独の地方裁判所が下した。同様の裁判はVWに対しても起こされており、米国でも起こされている。VWなどのディーゼル不正の「代償」がいくらになるのか、見通しはつかない。
このディーゼル不正はドイツの自動車業界ぐるみとの疑いも出ている。BMWは2月、一部のディーゼル車に不正ソフトを搭載していたとしてリコールした。ダイムラーに対して独政府は6月、不正ソフト搭載を理由にリコールを命じた。
不正ソフトが誤って搭載されたなどとしてBMWは意図的な不正を否定し、ダイムラーも意図的な不正を否定している。不正ソフトを搭載した自動車を製造・販売していたのに両社が意図的な不正を否定するのはなぜか。独の大手自動車部品企業が不正ソフト開発に関与していたと報じられたことと関係がありそうだ。
不正ソフト搭載でクリーンを装っていたディーゼル車を欧州メーカーは売りまくった。その結果、欧州で特に都市部の大気汚染が悪化し、都市部へのディーゼル車の乗り入れ規制が各地で始まった。それで不利益を最も被るのはディーゼル車を買ったユーザーだ。
不正ソフト搭載のディーゼル車のユーザーは、リコールによって排ガスを基準に適合させたとしても、燃費の悪化を余儀なくされる。排ガス中の窒素酸化物の排出量を減らすと、CO2排出量は増える(=燃費が悪化)。VWグループなどが行ったディーゼル車の大規模不正で、メーカー、ユーザー、環境とそれぞれに代償を払わされた。責任追及は始まったばかりだ。
2018年10月31日水曜日
2018年10月27日土曜日
移動の自由と国境
地中海を挟んで欧州とアフリカは向かい合う。最近は大量の難民・移民を乗せた多くの船がアフリカ側のリビアから地中海に出て、イタリアなど欧州を目指す。欧州は迷惑がっているが、豊かな欧州に行けば仕事があると期待する大量の難民・移民の「船出」は続いている。
陸路でも欧州を目指す大量の難民・移民の動きがあったが、経由地の諸国で規制が強化され、海路に比重が移った。難民・移民が乗った船の多くは粗末なもので沈没の危険があり、欧州側の警備船は救助せざるを得ないというから、生命の危険は大きいものの、陸路より海路のほうが難民・移民は欧州にたどり着ける可能性が大きい。
陸路で豊かな先進国を目指す動きがアメリカ大陸でも始まった。大量の麻薬が中南米から北米に流れ込んでいたので、そうしたルートで密入国などは従来から行われていたのだろうが、今回は日中、集団で行進してホンジュラスなどから米国を目指している。
彼らは何を求めているのか。治安が崩壊して日常的に暴力に晒されている環境から逃れるためには、治安がいい隣接国に移住するだろう。紛争国から難民が周辺国に溢れ出すのは珍しいことではない。今回の陸路で米国を目指している集団は、米国でなければ得られないものを求めている。それは職であり、安定した豊かな生活だろう。
これまで米国を目指す中米の人々は、合法的に入国するか密入国してきた。おそらく米国に合法的に入国することも密入国することもできない困窮した人々が今回、米国を目指して歩き始めた。何らかの衝動に突き動かされたとも見える動きだが、母国へレッドカードを突きつけた意思表示でもある。
米国に行けば何とかなると母国を捨てた人々。だが、米国は拒絶の姿勢を明らかにし、メキシコなどに対する圧力を強めている。母国を捨てた人々は、国家の支配から逃れたかに見えるが、国際社会における国家間の利害対立に巻き込まれ、別の国家の支配下に置かれる。
現在の人類(ホモ・サピエンス)はアフリカから出て世界に拡散したという。文明が発達した現在でも、生き延びるために移動する人々がいることを大量の難民・移民や今回の集団は示している。そうした移動を阻むのが、国家であり国境である。国境を超えて自由な移動を求める人々の動きは、国家による人間の支配に疑問を突きつけている。
陸路でも欧州を目指す大量の難民・移民の動きがあったが、経由地の諸国で規制が強化され、海路に比重が移った。難民・移民が乗った船の多くは粗末なもので沈没の危険があり、欧州側の警備船は救助せざるを得ないというから、生命の危険は大きいものの、陸路より海路のほうが難民・移民は欧州にたどり着ける可能性が大きい。
陸路で豊かな先進国を目指す動きがアメリカ大陸でも始まった。大量の麻薬が中南米から北米に流れ込んでいたので、そうしたルートで密入国などは従来から行われていたのだろうが、今回は日中、集団で行進してホンジュラスなどから米国を目指している。
彼らは何を求めているのか。治安が崩壊して日常的に暴力に晒されている環境から逃れるためには、治安がいい隣接国に移住するだろう。紛争国から難民が周辺国に溢れ出すのは珍しいことではない。今回の陸路で米国を目指している集団は、米国でなければ得られないものを求めている。それは職であり、安定した豊かな生活だろう。
これまで米国を目指す中米の人々は、合法的に入国するか密入国してきた。おそらく米国に合法的に入国することも密入国することもできない困窮した人々が今回、米国を目指して歩き始めた。何らかの衝動に突き動かされたとも見える動きだが、母国へレッドカードを突きつけた意思表示でもある。
米国に行けば何とかなると母国を捨てた人々。だが、米国は拒絶の姿勢を明らかにし、メキシコなどに対する圧力を強めている。母国を捨てた人々は、国家の支配から逃れたかに見えるが、国際社会における国家間の利害対立に巻き込まれ、別の国家の支配下に置かれる。
現在の人類(ホモ・サピエンス)はアフリカから出て世界に拡散したという。文明が発達した現在でも、生き延びるために移動する人々がいることを大量の難民・移民や今回の集団は示している。そうした移動を阻むのが、国家であり国境である。国境を超えて自由な移動を求める人々の動きは、国家による人間の支配に疑問を突きつけている。
2018年10月24日水曜日
国を捨てる人々
米国の南側に位置するのがメキシコで、その南は順にグアテマラ、ホンジュラスと続く。外務省サイトによるとホンジュラスは人口911万人、農林牧畜業(コーヒー、バナナ、パーム油、養殖エビ等)が主要産業で1人当たりGDPは2361ドル、経済状況の立て直しが急務の課題という。
ホンジュラスへの渡航に対して外務省は、首都テグシガルバを含め国土の半分以上の地域を危険レベル2(「不要不急の渡航は止める」)とし、残りの地域も危険レベル1(「特別な注意が必要」)とするなど、治安状況は良くない。殺人発生率が高く、ギャング集団の活動が活発で、世界で最も治安が悪い国ともされる。
そのホンジュラスから、米国を目指して5千人以上の集団が陸路で北上を続け、一部はすでにグアテマラを通過してメキシコに入ったという。最初は100人規模だったが、途中で加わる人々が次々に増えて膨れ上がり、さらに新たな集団が北上を始めたともいう。どういう経緯で人々が北上を始めたのかはまだ伝えられていない。
日常において暴力にさらされ、貧困の中で生きる人々が、少しでもマシな生活を求めて移動するというのは人類の歴史において繰り返されてきたことだ。最近でも、ベネズエラから200万人以上が国を捨てて周辺国に移ったとされ、中東やアフリカからも毎年、多くの人々が欧州を目指して移動している。
国境が存在しない昔なら人々の移動は自己責任で自由だったが、地表を国家が国境で分割した現代、国境を越える人々の移動を国家は制限する。特に米国や欧州などの豊かな先進国は世界の人々の移動の目的地になるだけに、人々の自由な移動を制限する(富を世界から自国に収集(収奪)することは正当化している)。
国境を越える人々の移動は、①より良い生活を求めて先進国に移住、②生命や生活が脅かされる社会からの脱出、に大別される。②の人々は難民とされることが多い。ホンジュラスやベネズエラなどのように自国を捨てて脱出する人々は主観では難民だろうが、国際政治では移民と扱われよう。
難民と移民では国際社会の扱いは異なる。国際報道は欧米メディアが主体であるから、難民でも移民でも先進国を目指す人々は、迫る脅威とか同情すべき対象として扱われる。そうした国際報道からは、国を捨てて脱出する人々の決断の「重さ」が欠落し、そうした人々側からの視点がない。
苛政や貧困、暴力などからの逃避を人間の権利として国際社会が認めたならば、この世界は、どんなに様変わりするだろうか。先進国への人々の大規模な移動が始まり、先進国が世界から収集した富はそれらの人々のために使われ、グローバリズムの結果としての先進国への富の偏在を修正するために役立つかもしれない。
ホンジュラスへの渡航に対して外務省は、首都テグシガルバを含め国土の半分以上の地域を危険レベル2(「不要不急の渡航は止める」)とし、残りの地域も危険レベル1(「特別な注意が必要」)とするなど、治安状況は良くない。殺人発生率が高く、ギャング集団の活動が活発で、世界で最も治安が悪い国ともされる。
そのホンジュラスから、米国を目指して5千人以上の集団が陸路で北上を続け、一部はすでにグアテマラを通過してメキシコに入ったという。最初は100人規模だったが、途中で加わる人々が次々に増えて膨れ上がり、さらに新たな集団が北上を始めたともいう。どういう経緯で人々が北上を始めたのかはまだ伝えられていない。
日常において暴力にさらされ、貧困の中で生きる人々が、少しでもマシな生活を求めて移動するというのは人類の歴史において繰り返されてきたことだ。最近でも、ベネズエラから200万人以上が国を捨てて周辺国に移ったとされ、中東やアフリカからも毎年、多くの人々が欧州を目指して移動している。
国境が存在しない昔なら人々の移動は自己責任で自由だったが、地表を国家が国境で分割した現代、国境を越える人々の移動を国家は制限する。特に米国や欧州などの豊かな先進国は世界の人々の移動の目的地になるだけに、人々の自由な移動を制限する(富を世界から自国に収集(収奪)することは正当化している)。
国境を越える人々の移動は、①より良い生活を求めて先進国に移住、②生命や生活が脅かされる社会からの脱出、に大別される。②の人々は難民とされることが多い。ホンジュラスやベネズエラなどのように自国を捨てて脱出する人々は主観では難民だろうが、国際政治では移民と扱われよう。
難民と移民では国際社会の扱いは異なる。国際報道は欧米メディアが主体であるから、難民でも移民でも先進国を目指す人々は、迫る脅威とか同情すべき対象として扱われる。そうした国際報道からは、国を捨てて脱出する人々の決断の「重さ」が欠落し、そうした人々側からの視点がない。
苛政や貧困、暴力などからの逃避を人間の権利として国際社会が認めたならば、この世界は、どんなに様変わりするだろうか。先進国への人々の大規模な移動が始まり、先進国が世界から収集した富はそれらの人々のために使われ、グローバリズムの結果としての先進国への富の偏在を修正するために役立つかもしれない。
2018年10月20日土曜日
二重の所属
人は様々な集団を形成したり、集団に所属したり帰属したりして生きる。最小単位は家庭で、収入を得るために会社などの組織に所属し、スポーツクラブや趣味サークルなどに属し、人によっては政治組織に所属する人もいるだろう。属していると意識する最大の集団は国家かもしれない(もっと大きな人類意識を持つ人もいよう)。
集団と個人の関係は多様だ。集団は属している個人に義務と責任を負わせたりするが、個人も集団に影響を与え、集団を変化させることができる(個人の力が弱すぎたり、個人が集団に無関心であれば、集団から一方的な義務と責任を求められたりするので、集団の圧力ばかりを感じることになる)。
集団が個人を強く束縛する場合もあれば、緩い束縛もある。その違いは集団の性格により異なるが、集団と個人の関係にもよる。所属意識が強い個人なら強い束縛は気にならないかもしれないが、自立心が強い個人なら強い束縛を圧迫と感じよう。集団と集団の利害が対立することも珍しくなく、例えば、企業は社員に家庭生活より会社を優先することを求め、遅くまで毎日残業し、休日にも出社する人がいる。
様々な集団に人は属するといっても、同じ性質の集団で2つ、3つと複数に属することは忌避すべきとされる。例えば、正式に結婚した相手がいる家庭の他に家庭を持ったり、会社勤めをしながら他の会社の社員になって仕事をしたり、与党の党員になりながら野党の党員にもなるなど、そうした行為が明るみに出たなら批判されよう。
同じ性質の集団には一カ所にしか属さない……というのは原則ではない。スポーツクラブや趣味サークルなどなら複数に属することは個人の裁量に任されるだろうし、社員の副業を容認する企業もある。問題視されるのは、利害が対立する可能性がある複数の集団に同時に属するケースだ。例えば、国籍。
全ての国が民主主義や個人の自由・権利を尊重して平和に共存する世界なら、二重国籍は問題にならないかもしれない。だが現実は、強権で国内を抑え込み、対外的な勢力拡張のために軍事行動をちらつかせる国があちこちに存在する。そうした国には、外国に居住する自国の国籍保持者にも自国への忠誠を求め、自国からの指示に従って“愛国”的な行動を行うように定めているところもある。そんな指示に従わない人もいれば、従う人もいるだろう。
欧州のように国境を越える人の移動が活発だったり、度重なる戦争で国境が揺れ動いた地域や、南北アメリカなど移民で国家を形成したところでは歴史的にも二重国籍を容認しやすいだろう。日本のように、国境を越えての人の移住が活発ではない歴史を持つ国では、二重国籍は特別な問題となる。欧米を見習えば良いという安易な発想では片付かない問題だろう。
集団と個人の関係は多様だ。集団は属している個人に義務と責任を負わせたりするが、個人も集団に影響を与え、集団を変化させることができる(個人の力が弱すぎたり、個人が集団に無関心であれば、集団から一方的な義務と責任を求められたりするので、集団の圧力ばかりを感じることになる)。
集団が個人を強く束縛する場合もあれば、緩い束縛もある。その違いは集団の性格により異なるが、集団と個人の関係にもよる。所属意識が強い個人なら強い束縛は気にならないかもしれないが、自立心が強い個人なら強い束縛を圧迫と感じよう。集団と集団の利害が対立することも珍しくなく、例えば、企業は社員に家庭生活より会社を優先することを求め、遅くまで毎日残業し、休日にも出社する人がいる。
様々な集団に人は属するといっても、同じ性質の集団で2つ、3つと複数に属することは忌避すべきとされる。例えば、正式に結婚した相手がいる家庭の他に家庭を持ったり、会社勤めをしながら他の会社の社員になって仕事をしたり、与党の党員になりながら野党の党員にもなるなど、そうした行為が明るみに出たなら批判されよう。
同じ性質の集団には一カ所にしか属さない……というのは原則ではない。スポーツクラブや趣味サークルなどなら複数に属することは個人の裁量に任されるだろうし、社員の副業を容認する企業もある。問題視されるのは、利害が対立する可能性がある複数の集団に同時に属するケースだ。例えば、国籍。
全ての国が民主主義や個人の自由・権利を尊重して平和に共存する世界なら、二重国籍は問題にならないかもしれない。だが現実は、強権で国内を抑え込み、対外的な勢力拡張のために軍事行動をちらつかせる国があちこちに存在する。そうした国には、外国に居住する自国の国籍保持者にも自国への忠誠を求め、自国からの指示に従って“愛国”的な行動を行うように定めているところもある。そんな指示に従わない人もいれば、従う人もいるだろう。
欧州のように国境を越える人の移動が活発だったり、度重なる戦争で国境が揺れ動いた地域や、南北アメリカなど移民で国家を形成したところでは歴史的にも二重国籍を容認しやすいだろう。日本のように、国境を越えての人の移住が活発ではない歴史を持つ国では、二重国籍は特別な問題となる。欧米を見習えば良いという安易な発想では片付かない問題だろう。
2018年10月17日水曜日
国際機関トップと不祥事
2011年5月に米ニューヨークで性的暴行、強姦未遂容疑で身柄を拘束されたのが国際通貨基金(IMF)のドミニク・ストロス=カーン専務理事。この件は示談になったそうだが、同氏はフランス政界の実力者で、有力な大統領候補の一人でもあった。
同氏はまた、数々の女性問題でも知られていたそうだ。米NYでの事件は当時、仏大統領選の有力候補でもあった同氏を失脚させる陰謀との見方さえあったが、翌年、売春婦が参加するパーティーに同氏は臨んでいたそうだ。政治より女性が同氏にとって上位の「価値ある」ものだったのかもしれない。
国際機関の現職トップが不祥事を起こしたり、過去の不祥事が暴かれて任期途中で辞任するケースは珍しい。国際機関トップは同時に出身国の威信や利害とも微妙に関係するだけに、不祥事などがあっても隠蔽して各国は穏やかに任期を全うさせるようにするだろう。
だが、国際舞台で「強国」との自負を隠さなくなり、各国に大国として扱うよう求める中国は、せっかく2016年、国際刑事警察機構(インターポール)の総裁に中国人の孟宏偉氏を着かせたのに、その総裁を2018年9月に中国に帰国させて拘束、辞任させた。
9月下旬から総裁が行方不明になっているとの報道があり、2週間ほど後に中国は孟宏偉総裁を収賄容疑で拘束し、取り調べていると発表した。公職者の汚職摘発を担う中国当局は孟氏が捜査対象となっているとし、公安トップだった周永康氏との関係に注意を向けさせる動きもあるそうだ。
総裁の具体的な容疑は明らかにされていないが、孟宏偉氏は中国国内で長く警察関係で働き、国家海洋局副局長などに就任していた。汚職などの容疑が以前からあったのなら国際機関トップに中国が推したりはしないだろうから、孟宏偉氏が総裁に就任した後に容疑が浮上したことになる。
国際機関の数少ない中国人トップを引き摺り下ろすという中国の行動は不思議で奇妙に映る。国際舞台での「メンツ」を重んじるなら、1期だけでも任期を全うさせたり、病気などを理由に退かせることもできた。すぐ拘束に動かざるを得ない何らかの事情があったと解釈するしかないが、汚職容疑が正当なら、中国はインターポールのトップに汚職官僚を推していたことになる。
同氏はまた、数々の女性問題でも知られていたそうだ。米NYでの事件は当時、仏大統領選の有力候補でもあった同氏を失脚させる陰謀との見方さえあったが、翌年、売春婦が参加するパーティーに同氏は臨んでいたそうだ。政治より女性が同氏にとって上位の「価値ある」ものだったのかもしれない。
国際機関の現職トップが不祥事を起こしたり、過去の不祥事が暴かれて任期途中で辞任するケースは珍しい。国際機関トップは同時に出身国の威信や利害とも微妙に関係するだけに、不祥事などがあっても隠蔽して各国は穏やかに任期を全うさせるようにするだろう。
だが、国際舞台で「強国」との自負を隠さなくなり、各国に大国として扱うよう求める中国は、せっかく2016年、国際刑事警察機構(インターポール)の総裁に中国人の孟宏偉氏を着かせたのに、その総裁を2018年9月に中国に帰国させて拘束、辞任させた。
9月下旬から総裁が行方不明になっているとの報道があり、2週間ほど後に中国は孟宏偉総裁を収賄容疑で拘束し、取り調べていると発表した。公職者の汚職摘発を担う中国当局は孟氏が捜査対象となっているとし、公安トップだった周永康氏との関係に注意を向けさせる動きもあるそうだ。
総裁の具体的な容疑は明らかにされていないが、孟宏偉氏は中国国内で長く警察関係で働き、国家海洋局副局長などに就任していた。汚職などの容疑が以前からあったのなら国際機関トップに中国が推したりはしないだろうから、孟宏偉氏が総裁に就任した後に容疑が浮上したことになる。
国際機関の数少ない中国人トップを引き摺り下ろすという中国の行動は不思議で奇妙に映る。国際舞台での「メンツ」を重んじるなら、1期だけでも任期を全うさせたり、病気などを理由に退かせることもできた。すぐ拘束に動かざるを得ない何らかの事情があったと解釈するしかないが、汚職容疑が正当なら、中国はインターポールのトップに汚職官僚を推していたことになる。
2018年10月13日土曜日
神輿と山車
毎年10月に開催される川越まつりでは、最上部に精巧な人形を乗せた高さ8メートルほどの山車が市中を曳き回される。山車の台車の上には囃子方と面をつけた舞い手が乗る舞台(囃し台)があり、その上部の二層の鉾と人形は上げ下げでき、高さを調節できるようになっている。
川越の山車は、台車の上で舞台が水平に回転できるようになっており、夜間の巡行で交差点などで山車どうしが出合うと、互いの舞台を回して正面を向き合い、演舞合戦をする(曳っかわせ)。これが最大の見どころとされ、山車の周りに集まった観客の盛り上がりは最高潮になる。
川越まつりは川越氷川神社の祭礼が起源という。山車が出る祭礼は関東各地にも多いのだが、関東でも特に東京の祭というと、神田祭や三社祭、深川八幡祭りなどのような、神輿がメーンの祭りの印象が強い。各地の神社の祭礼が、神輿と山車に分かれるのはなぜか。
一般的には、神輿は、神社にいる神が神社を出て氏子の間を回って御旅所まで行って帰ってくるときの乗り物とされる。山車は、山などにいる神が祭礼の時に招き入れられ、その落ち着き所(依り代)とされる。神輿では祭礼の時に御神体を神輿に移すが、山車には自然に山などから神が降りてくるとされている。
また、人々が曳き回す山車には人が乗ってもいいいが、人々が担ぎ上げる神輿に人が乗ることは許されないなどの違いもある。山車では山などから訪れた神と混じり合って人々が祝うのが許されているのに対し、神輿に乗っている神は人々が畏れ敬う対象とされている。
その土地に「定住」している神が神社を離れる時の乗り物が神輿で、その土地には「定住」していない神がやって来て一時の宿とするのが山車。どちらも神の存在が前提で、日本には数多くの神がいるとされるから、神と人間の接し方に様々な変化が生まれたのだろう。
神社であれ山などであれ、そこに神が存在すると本当に信じている人が現在どれほどいるのか不明だが、各地で祭礼は多くの観客で賑わう。日本の神に対しては信仰を強制されないから、曖昧なままで多くの神の存在は否定されずに、神輿も山車も祭礼も受け継がれている。
川越の山車は、台車の上で舞台が水平に回転できるようになっており、夜間の巡行で交差点などで山車どうしが出合うと、互いの舞台を回して正面を向き合い、演舞合戦をする(曳っかわせ)。これが最大の見どころとされ、山車の周りに集まった観客の盛り上がりは最高潮になる。
川越まつりは川越氷川神社の祭礼が起源という。山車が出る祭礼は関東各地にも多いのだが、関東でも特に東京の祭というと、神田祭や三社祭、深川八幡祭りなどのような、神輿がメーンの祭りの印象が強い。各地の神社の祭礼が、神輿と山車に分かれるのはなぜか。
一般的には、神輿は、神社にいる神が神社を出て氏子の間を回って御旅所まで行って帰ってくるときの乗り物とされる。山車は、山などにいる神が祭礼の時に招き入れられ、その落ち着き所(依り代)とされる。神輿では祭礼の時に御神体を神輿に移すが、山車には自然に山などから神が降りてくるとされている。
また、人々が曳き回す山車には人が乗ってもいいいが、人々が担ぎ上げる神輿に人が乗ることは許されないなどの違いもある。山車では山などから訪れた神と混じり合って人々が祝うのが許されているのに対し、神輿に乗っている神は人々が畏れ敬う対象とされている。
その土地に「定住」している神が神社を離れる時の乗り物が神輿で、その土地には「定住」していない神がやって来て一時の宿とするのが山車。どちらも神の存在が前提で、日本には数多くの神がいるとされるから、神と人間の接し方に様々な変化が生まれたのだろう。
神社であれ山などであれ、そこに神が存在すると本当に信じている人が現在どれほどいるのか不明だが、各地で祭礼は多くの観客で賑わう。日本の神に対しては信仰を強制されないから、曖昧なままで多くの神の存在は否定されずに、神輿も山車も祭礼も受け継がれている。
2018年10月10日水曜日
セダンの復権
トヨタの「クラウン」がモデルチェンジし、受注は好調だという。ある程度の台数はコンスタントに毎年売っていたモデルだから、買い替え需要だけで相応の受注があるのは当然だろう。発売1カ月の注文の約45%が法人で、年代別では6割が60歳以上だという。
クラウンはオーソドックスな4ドアセダンのスタイルを守ってきたが、新型は「クラウン史上最高にスポーティなデザイン」を目指したとする。リアウインドーを寝かせた4ドア6ライトクーペに変身させ、「ダイレクトで正確なハンドリング」に「徹底的に鍛え抜いた」そうだ。
そうしたイメージチェンジが受注にどれほど影響しているのかは定かではないが、法人や高齢層からの受注が多い販売動向からは従来ユーザーが買っていると見える。メーカーはクラウンを新しいスポーティーセダンに位置付けてユーザー層の若返りを狙ったのだろうが、その効果のほどはまだ確かではない
後部にトランクを持つセダンスタイルは長らく自動車の主流だった。しかし、自動車が大衆化し、生活道具として機能が一層重視されるようになると、乗り降りするには車高が高いほうが楽で、荷物を多く積むことができるほうが便利だと使い勝手がいいSUVやミニバンなどに世界的に需要がシフトした。
自動車の所有がステータスシンボルであった時代は過ぎ去り、生活道具と見なされる時代になり、4ドアセダンの販売は世界的に低迷している。米フォードは北米市場でセダンの販売から撤退し、SUVなどに商品を絞ると表明、ブランド信仰に支えられている独メーカーでもSUVのラインナップを大幅に拡充している。
そんな中でトヨタは、新型カムリの発表時に強調するなど「セダンの復権」を目指しているらしい。大ヒットすることが見込めないセダンの新型車を発表するから、「セダンの復権」を強調しなければならなくなったとも見える。だが、セダンが復権する必要はあるのか疑問だ。
クラウンではニュルブルクリンクを走ってテストしたことをアピールするなどトヨタは、セダンの魅力として「走り」を強調する。独の高級セダンのイメージとダブらせるのは販売戦略だろうが、ファミリーカーだったセダンが「走り」のイメージに頼るしかなくなったのは、「セダンの復権」ではなく「セダンの変質」だろう。
クラウンはオーソドックスな4ドアセダンのスタイルを守ってきたが、新型は「クラウン史上最高にスポーティなデザイン」を目指したとする。リアウインドーを寝かせた4ドア6ライトクーペに変身させ、「ダイレクトで正確なハンドリング」に「徹底的に鍛え抜いた」そうだ。
そうしたイメージチェンジが受注にどれほど影響しているのかは定かではないが、法人や高齢層からの受注が多い販売動向からは従来ユーザーが買っていると見える。メーカーはクラウンを新しいスポーティーセダンに位置付けてユーザー層の若返りを狙ったのだろうが、その効果のほどはまだ確かではない
後部にトランクを持つセダンスタイルは長らく自動車の主流だった。しかし、自動車が大衆化し、生活道具として機能が一層重視されるようになると、乗り降りするには車高が高いほうが楽で、荷物を多く積むことができるほうが便利だと使い勝手がいいSUVやミニバンなどに世界的に需要がシフトした。
自動車の所有がステータスシンボルであった時代は過ぎ去り、生活道具と見なされる時代になり、4ドアセダンの販売は世界的に低迷している。米フォードは北米市場でセダンの販売から撤退し、SUVなどに商品を絞ると表明、ブランド信仰に支えられている独メーカーでもSUVのラインナップを大幅に拡充している。
そんな中でトヨタは、新型カムリの発表時に強調するなど「セダンの復権」を目指しているらしい。大ヒットすることが見込めないセダンの新型車を発表するから、「セダンの復権」を強調しなければならなくなったとも見える。だが、セダンが復権する必要はあるのか疑問だ。
クラウンではニュルブルクリンクを走ってテストしたことをアピールするなどトヨタは、セダンの魅力として「走り」を強調する。独の高級セダンのイメージとダブらせるのは販売戦略だろうが、ファミリーカーだったセダンが「走り」のイメージに頼るしかなくなったのは、「セダンの復権」ではなく「セダンの変質」だろう。
2018年10月6日土曜日
読者に媚びる
雑誌「新潮45」が休刊となった。新潮社は「お知らせ」で「部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになって」いて「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現を掲載」したことをお詫びし、「十分な編集体制を整備しないまま刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思いを込め」て休刊を決断したとする。
同誌は大幅な部数の落ち込みで、右寄りの保守系雑誌(売れているのだろう)に追随する方向に編集方針を転換したと見られている。それで販売部数が上向いたかどうかは定かではないが、二番煎じで「当てる」のは簡単ではない。右寄り層の注目を集めるために過激になったとも見られるが、それも定かではない。
新潮社の「お知らせ」では、「企画の吟味や原稿チェックがおろそか」だと同誌の編集部を批判するが、「不十分な編集体制だった」と出版社の責任も認めた。どうやら共同責任ということで幕引きになりそうだ。説明責任を問い、客観的な検証を要求することは告発記事に欠かせないが、自社に関して沈黙する出版社は珍しくない。
右寄りに誌面を変え、朝日新聞や既存リベラル、野党を批判し、嫌韓・嫌中や自民支持などの記事を必ず掲載すれば販売部数が増える……なら編集者は気楽な稼業なのだが、そんな後追いで売れるほど甘くない。編集者には時代の半歩先、1歩先を見通すカンが必要だが、販売部数という目先の結果だけを求められると編集現場は疲弊する。
とはいえ、売れなければ雑誌の発行を続けることは困難だから、販売部数の増加を目指すことは当然で、売れている雑誌などの企画に「ヒントを得る」ことは珍しくない。だが、ただの二番煎じと見破られないように編集者は、切り口や視点を変えたり、新しい書き手を発掘したり、工夫するものだ。
「新聞は読者に媚びるものだ」とは山本夏彦氏の言葉だったか。販売部数を増やすために読者に媚びるのは雑誌も同じだ。テレビが視聴者に媚び、ネット媒体がページビューを増やすために閲覧者に媚びるのは、広告を増やすためだろう。
「新潮45」が右寄り保守系雑誌に衣替えして部数が伸びていたなら、出版社は、編集長の交代で責任を取らせる一方で雑誌の発行は続けただろう。右寄り保守層の読者に媚びてはみたものの、競合誌から読者を奪うほどの誌面をつくることができなかったのが「新潮45」の敗因だ。つまり、媚びるだけでは読者が面白がる雑誌はできないということ。
同誌は大幅な部数の落ち込みで、右寄りの保守系雑誌(売れているのだろう)に追随する方向に編集方針を転換したと見られている。それで販売部数が上向いたかどうかは定かではないが、二番煎じで「当てる」のは簡単ではない。右寄り層の注目を集めるために過激になったとも見られるが、それも定かではない。
新潮社の「お知らせ」では、「企画の吟味や原稿チェックがおろそか」だと同誌の編集部を批判するが、「不十分な編集体制だった」と出版社の責任も認めた。どうやら共同責任ということで幕引きになりそうだ。説明責任を問い、客観的な検証を要求することは告発記事に欠かせないが、自社に関して沈黙する出版社は珍しくない。
右寄りに誌面を変え、朝日新聞や既存リベラル、野党を批判し、嫌韓・嫌中や自民支持などの記事を必ず掲載すれば販売部数が増える……なら編集者は気楽な稼業なのだが、そんな後追いで売れるほど甘くない。編集者には時代の半歩先、1歩先を見通すカンが必要だが、販売部数という目先の結果だけを求められると編集現場は疲弊する。
とはいえ、売れなければ雑誌の発行を続けることは困難だから、販売部数の増加を目指すことは当然で、売れている雑誌などの企画に「ヒントを得る」ことは珍しくない。だが、ただの二番煎じと見破られないように編集者は、切り口や視点を変えたり、新しい書き手を発掘したり、工夫するものだ。
「新聞は読者に媚びるものだ」とは山本夏彦氏の言葉だったか。販売部数を増やすために読者に媚びるのは雑誌も同じだ。テレビが視聴者に媚び、ネット媒体がページビューを増やすために閲覧者に媚びるのは、広告を増やすためだろう。
「新潮45」が右寄り保守系雑誌に衣替えして部数が伸びていたなら、出版社は、編集長の交代で責任を取らせる一方で雑誌の発行は続けただろう。右寄り保守層の読者に媚びてはみたものの、競合誌から読者を奪うほどの誌面をつくることができなかったのが「新潮45」の敗因だ。つまり、媚びるだけでは読者が面白がる雑誌はできないということ。
2018年10月3日水曜日
つくられるニュース
東京の上野動物園で2017年6月に生まれた子パンダ「シャンシャン」に関するニュースは妊娠から誕生、生育状況と細かく報じられ、一般公開以降も折に触れてニュースに登場する。日本に存在する唯一の子パンダだから関心が高く、ニュース価値がある……ようだが、事実は異なる。
和歌山県のアドベンチャーワールドは、2018年8月に誕生した子パンダの一般公開を始めた。アドベンチャーワールドではこれまでに15頭の繁殖に成功し、うち11頭を中国に送っている。日本での子パンダ誕生は珍しい出来事ではなかったのだが、それが上野動物園での出来事となると大きなニュースとなる。
大きなニュースに仕立て上げられるのは、第一にニュースの発信力が強大な大手メディアが東京に集中しているからだ。ニュースは圧倒的に東京から全国に流される。和歌山での子パンダ誕生は東京から見てローカルニュースの扱いだが、上野動物園での子パンダ誕生は東京発の全国ニュースになる。
第二に、東京の大手メディアが取材に動いたからだ。東京のメディアが取材した出来事は東京発のニュースとして全国に向けて流される。別の言い方をすれば、和歌山の子パンダ誕生を東京から取材に行っていれば大きな全国ニュースになっただろう。
東京に集中した大手メディアが取材し、報じることで大半の全国ニュースがつくられ、ニュース価値の軽重も提示される。そうやって、つくられ、流される全国ニュースによって大半の受け手は社会や世界の認識を形成する。上野動物園での子パンダの誕生が事実であるのと同様に、他のニュースも事実であると受け止める。
ニュースとして報じられることは全て事実である……と送り手も受け手も大半が信じるニュースの多くは東京の大手メディアによって取材され、つくられている。和歌山で誕生した15頭の子パンダより、上野動物園で誕生した1頭の子パンダに大騒ぎするように、人々の世界観は東京発のニュースによって形成される。
ニュースは消費されるものである。東京圏に人口が集中していることがニュース価値に影響を与え、東京圏で上野動物園での子パンダ誕生への関心が高いことで、東京の大手メディアが取材するたびに東京発の全国ニュースに仕立てられる。かくして東京圏以外に住む人々も、東京圏の価値判断を刷り込まれることになる。
和歌山県のアドベンチャーワールドは、2018年8月に誕生した子パンダの一般公開を始めた。アドベンチャーワールドではこれまでに15頭の繁殖に成功し、うち11頭を中国に送っている。日本での子パンダ誕生は珍しい出来事ではなかったのだが、それが上野動物園での出来事となると大きなニュースとなる。
大きなニュースに仕立て上げられるのは、第一にニュースの発信力が強大な大手メディアが東京に集中しているからだ。ニュースは圧倒的に東京から全国に流される。和歌山での子パンダ誕生は東京から見てローカルニュースの扱いだが、上野動物園での子パンダ誕生は東京発の全国ニュースになる。
第二に、東京の大手メディアが取材に動いたからだ。東京のメディアが取材した出来事は東京発のニュースとして全国に向けて流される。別の言い方をすれば、和歌山の子パンダ誕生を東京から取材に行っていれば大きな全国ニュースになっただろう。
東京に集中した大手メディアが取材し、報じることで大半の全国ニュースがつくられ、ニュース価値の軽重も提示される。そうやって、つくられ、流される全国ニュースによって大半の受け手は社会や世界の認識を形成する。上野動物園での子パンダの誕生が事実であるのと同様に、他のニュースも事実であると受け止める。
ニュースとして報じられることは全て事実である……と送り手も受け手も大半が信じるニュースの多くは東京の大手メディアによって取材され、つくられている。和歌山で誕生した15頭の子パンダより、上野動物園で誕生した1頭の子パンダに大騒ぎするように、人々の世界観は東京発のニュースによって形成される。
ニュースは消費されるものである。東京圏に人口が集中していることがニュース価値に影響を与え、東京圏で上野動物園での子パンダ誕生への関心が高いことで、東京の大手メディアが取材するたびに東京発の全国ニュースに仕立てられる。かくして東京圏以外に住む人々も、東京圏の価値判断を刷り込まれることになる。
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