札幌の不動産会社の店舗内で、除菌消臭用のスプレー缶約120本を従業員が室内で噴射して廃棄処分しようとしたが、室内に充満したガスに引火して爆発、建物が全焼するとともに隣の飲食店の客ら50人以上が負傷した。爆発の衝撃波で一帯の建物の窓ガラスが破損した。
消臭剤のほかヘアスプレー、制汗スプレーや殺虫剤、芳香剤、塗料など様々なスプレー缶(エアゾール缶)が市販されているが、それぞれの機能を持つ薬剤をガスと一緒に缶に封入している構造だ。使われるガスはLPG(液化石油ガス)やジメチルエーテルなど。
今回の札幌の爆発は、危険性を知らない従業員が不適切な方法で大量のスプレー缶を廃棄処分したために生じたが、別の懸念を示唆している。都市内などで特定の建物に損害を与えるために、近隣で意図的に今回と同様の方法で爆発を起こすことが可能なことを実証した。スプレー缶はどこでも誰でも入手可能だ。
武器ではないもので社会に混乱をもたらすものにはドローンが知られている。英ガトウィック空港でドローンの目撃情報が相次ぎ、3日間に渡って断続的に滑走路が閉鎖され、旅客機の発着ができず、約14万人が影響を受けたという。
地元警察はテロの可能性を否定、混乱を狙った妨害行為とみて調べていると英メディア。容疑者2人が拘束されたが、釈放され、誰がドローンを飛ばしたのか不明のままで、「最初からドローンがなかった可能性がある」との捜査関係者の発言も出てくる始末。
今回の英空港のドローン騒動は、世界中の空港においても起こり得るだろう。何かの目的で意図的にドローンを空港に侵入させる行為を防ぐことは簡単ではない。地上なら柵や塀を強固にすることができるが、空港は空に向かって開かれている。ドローンを使った侵入などで業務を妨害する行為は、空港に限らず各地で増える可能性はある。
都市部における自動車を使った歩行者への攻撃は世界各地で何回も起きている。入手が容易な商品を使って誰にでも、無差別攻撃や社会の混乱を狙った行為が可能で、そのハードルは実は低いことを一連の事件は示している。
2018年12月29日土曜日
2018年12月26日水曜日
言葉の概念や定義の共有
AI(人工知能)という言葉を雑誌などで見かけることが増えた。人工的な知能だから、まもなく、映画「2001年宇宙の旅」に出てくるHALのようにコンピューターが独自の意識を持って、人間と対等に渡り合うようになると短絡する人もいる。でも、そうした未来が実現するとしても、遥か先のことだ。
現在のAIにできることはパターン認識だけだ。蓄積された大量のデータから目的とするものを探し出す速度が、機械学習の高度化などで飛躍的に早くなった段階だ。大量のデータ(=過去の記録)を分析・利用する分野でAIを実用的に活用できるようになったが、独自の知能といえるものをコンピューターが持ったわけではない。
AIに対する過大な評価が起きるのは、現在のAIにできることを曖昧に理解したままの人が、期待を込めて可能性を論じるからだろう。AIに限らず、言葉の概念や定義を曖昧に認識したままの論は、正確性が不足するとともに、主観が混じりこみやすい。
言葉の概念や定義が人によって微妙な違いがあることは珍しくなく、時には、主観によって拡大解釈されている。日常会話などでは、そうした違いは無視されるだろうが、正確な認識や分析、展望を持つためには、言葉の概念や定義の明確化が欠かせない。
何かについての議論が、言葉の概念や定義を共有していないため、互いの主張を言い合うことに終始したり、それぞれが都合よく解釈した状況認識で自己の主張を正当化する光景はよくある。言葉の概念や定義を共有することは、言葉の意味する範囲を限定するので、共通理解と相違点を明確化する。
例えば、ひところよく見かけた国際貢献という言葉。国際とは何か。貢献とは何か。さらに、(日本が国際に)貢献するとは何か。曖昧なままに活発な論が沸き起こったが、現在でも国際貢献という言葉は曖昧なままだ。言葉は曖昧なままのほうが政治家は使いやすいだろうが、政治家の論は政治的な主張でしかない。
言葉の概念や定義を共有しないことが、一方的な主張を可能にする。共通理解を広げつつ自分の論の正しさで相手を説得しようと試みず、自分の存在証明のために一方的な主張をするためには、言葉の概念や定義の共有は邪魔になるだろう。かくして国際貢献をめぐる議論は不毛に終わった。
現在のAIにできることはパターン認識だけだ。蓄積された大量のデータから目的とするものを探し出す速度が、機械学習の高度化などで飛躍的に早くなった段階だ。大量のデータ(=過去の記録)を分析・利用する分野でAIを実用的に活用できるようになったが、独自の知能といえるものをコンピューターが持ったわけではない。
AIに対する過大な評価が起きるのは、現在のAIにできることを曖昧に理解したままの人が、期待を込めて可能性を論じるからだろう。AIに限らず、言葉の概念や定義を曖昧に認識したままの論は、正確性が不足するとともに、主観が混じりこみやすい。
言葉の概念や定義が人によって微妙な違いがあることは珍しくなく、時には、主観によって拡大解釈されている。日常会話などでは、そうした違いは無視されるだろうが、正確な認識や分析、展望を持つためには、言葉の概念や定義の明確化が欠かせない。
何かについての議論が、言葉の概念や定義を共有していないため、互いの主張を言い合うことに終始したり、それぞれが都合よく解釈した状況認識で自己の主張を正当化する光景はよくある。言葉の概念や定義を共有することは、言葉の意味する範囲を限定するので、共通理解と相違点を明確化する。
例えば、ひところよく見かけた国際貢献という言葉。国際とは何か。貢献とは何か。さらに、(日本が国際に)貢献するとは何か。曖昧なままに活発な論が沸き起こったが、現在でも国際貢献という言葉は曖昧なままだ。言葉は曖昧なままのほうが政治家は使いやすいだろうが、政治家の論は政治的な主張でしかない。
言葉の概念や定義を共有しないことが、一方的な主張を可能にする。共通理解を広げつつ自分の論の正しさで相手を説得しようと試みず、自分の存在証明のために一方的な主張をするためには、言葉の概念や定義の共有は邪魔になるだろう。かくして国際貢献をめぐる議論は不毛に終わった。
2018年12月22日土曜日
客の力、芸の力
落語家の噺などを直接聞くことができる寄席は、舞台に正対して観客が座る椅子席が並ぶ構造だが、昔の寄席の客席は畳敷きで、客は好きな場所に座った。そうした畳敷きの客席を最後まで残していたのが改築前の池袋演芸場だった。
あの頃の池袋演芸場で客は、客席の後方に積み重ねてある座布団を手にとって、客席に散らばるように座った(混んでも20人程度だったから)。舞台上の演者と客との距離が近く、熱演には文字通り客は引き込まれた。
だが、次々と出てくる演者が皆、熱演するわけではない。むしろ、聞いたことのある噺をだらだらと聞かされたり、同じ演者からいつも同じ演目を聞かされたりと、客が退屈することもフツーだった。そうなると客はあちこちで、うとうとし始める。客を眠らせないということは、演者の力を推し量る指標ともなる。
もちろん、笑うポイントは個人差が大きい。ちょっとしたクスグリに大笑いする人もいれば、多くの演者の舞台を見ている人は、“いつも”のクスグリなどには簡単に笑わなかったりする。すぐ笑う客から、なかなか笑わない客まで、いろいろな客を相手にしなければならないから寄席は演者を鍛える。
同時に、演者も客を鍛える。言葉の積み重ねで想像の世界を演者は描き出し、それを客が共有することによる笑いもある。笑わせる商売だから演者は様々の客が笑えるように、すぐ笑う客にも、じっくり聞いて笑う客にも楽しんでもらうように工夫しており、寄席通いの経験が増えるにつれ客は、笑いの奥深さを知る。
寄席の数が減った現代でも人々は笑いを求め、お笑いタレントがテレビには出まくっている。笑いに対するテレビの影響力は格段に大きくなったが、寄席番組は減り、芸人が鍛えた芸を見せることも減り、トークや街歩き、食べ歩きなどで、ちょっとした笑いをとって見せるのが、お笑いタレントの芸になった。
ちょっとした笑いとは、誰かの言い間違いなどを笑うのと同じように刹那的な反応だ。視聴率を争うテレビ局には、すぐ笑わせることが必要だろうが、そんな笑いが増えた結果として寄席番組が減った。テレビの笑いは客を鍛えず、テレビの客は出演者の芸を鍛えない。
あの頃の池袋演芸場で客は、客席の後方に積み重ねてある座布団を手にとって、客席に散らばるように座った(混んでも20人程度だったから)。舞台上の演者と客との距離が近く、熱演には文字通り客は引き込まれた。
だが、次々と出てくる演者が皆、熱演するわけではない。むしろ、聞いたことのある噺をだらだらと聞かされたり、同じ演者からいつも同じ演目を聞かされたりと、客が退屈することもフツーだった。そうなると客はあちこちで、うとうとし始める。客を眠らせないということは、演者の力を推し量る指標ともなる。
もちろん、笑うポイントは個人差が大きい。ちょっとしたクスグリに大笑いする人もいれば、多くの演者の舞台を見ている人は、“いつも”のクスグリなどには簡単に笑わなかったりする。すぐ笑う客から、なかなか笑わない客まで、いろいろな客を相手にしなければならないから寄席は演者を鍛える。
同時に、演者も客を鍛える。言葉の積み重ねで想像の世界を演者は描き出し、それを客が共有することによる笑いもある。笑わせる商売だから演者は様々の客が笑えるように、すぐ笑う客にも、じっくり聞いて笑う客にも楽しんでもらうように工夫しており、寄席通いの経験が増えるにつれ客は、笑いの奥深さを知る。
寄席の数が減った現代でも人々は笑いを求め、お笑いタレントがテレビには出まくっている。笑いに対するテレビの影響力は格段に大きくなったが、寄席番組は減り、芸人が鍛えた芸を見せることも減り、トークや街歩き、食べ歩きなどで、ちょっとした笑いをとって見せるのが、お笑いタレントの芸になった。
ちょっとした笑いとは、誰かの言い間違いなどを笑うのと同じように刹那的な反応だ。視聴率を争うテレビ局には、すぐ笑わせることが必要だろうが、そんな笑いが増えた結果として寄席番組が減った。テレビの笑いは客を鍛えず、テレビの客は出演者の芸を鍛えない。
2018年12月19日水曜日
「正義」に見える後進性
立法、行政、司法がそれぞれに独立した機関となり、相互に監視することによって国家権力の濫用や暴走を防ぐという仕組みが三権分立だ。民主主義とともに多くの国で採用されているが、それぞれの独立の程度は一様ではなく、国によって違いがある。
三権のうち主導権を取るのが行政だ。人々による選挙で選ばれた議員で構成する議会(立法)が日本では国権の最高機関とされるが、議会は議員による政治的主張の対立の場となるので、首相を頂点とする政府(行政)が国家権力の行使において中心となっている。
直接選挙で行政府の長(大統領など)を選出する国では、行政が立法と対等であり、大統領に選ばれた個人に大きな権限が与えられるので、大統領を頂点とする政府(行政)がやはり国家権力の行使において中心となる。
司法の役割は、立法や行政を監視することが中心になる。国家権力の行使の正当性を検証し、乱用や偏り、暴走を防いだり、是正することが務めだ。逆にいうと、行政が正当性を得る(乱用や偏り、暴走が容認される)ためには、司法を行政の影響下に置くことが必要となる。
そのために、選挙で選出されて大統領に就任した人が自分に都合のいい人物を最高裁に送り込むことは各国で珍しくない。そうして最高裁(司法)が、行政の意にかなった判断を連発する。三権分立という建前をかざして、司法の判断を尊重するとして行政は「暴走」を始める。例えば、韓国。
法の上に国民情緒法があるなどと韓国は揶揄されていたが、その国民情緒が韓国独自の「正義」を支える。北朝鮮に融和的であるか批判的であるか、韓国には深刻な分断があり、その時々の政権の「正義」が法に優越する。つまり民主主義による政権交代は「正義」をめぐる争いであり、三権分立は韓国では不安定だ。
韓国は民主主義国であると見なされている。しかし、韓国は政権交代によって、それ以前の政治(と外交的な蓄積)を簡単に覆す。それぞれの政権の「正義」を優先した結果であり、韓国国内では時の政権の「正義」を実現する行動だと支持者は持て囃すが、韓国の外から見ると、普遍性を軽視し、独自の「正義」を正当化するために民主主義を装うという韓国の後進性を示すものでしかない。
三権のうち主導権を取るのが行政だ。人々による選挙で選ばれた議員で構成する議会(立法)が日本では国権の最高機関とされるが、議会は議員による政治的主張の対立の場となるので、首相を頂点とする政府(行政)が国家権力の行使において中心となっている。
直接選挙で行政府の長(大統領など)を選出する国では、行政が立法と対等であり、大統領に選ばれた個人に大きな権限が与えられるので、大統領を頂点とする政府(行政)がやはり国家権力の行使において中心となる。
司法の役割は、立法や行政を監視することが中心になる。国家権力の行使の正当性を検証し、乱用や偏り、暴走を防いだり、是正することが務めだ。逆にいうと、行政が正当性を得る(乱用や偏り、暴走が容認される)ためには、司法を行政の影響下に置くことが必要となる。
そのために、選挙で選出されて大統領に就任した人が自分に都合のいい人物を最高裁に送り込むことは各国で珍しくない。そうして最高裁(司法)が、行政の意にかなった判断を連発する。三権分立という建前をかざして、司法の判断を尊重するとして行政は「暴走」を始める。例えば、韓国。
法の上に国民情緒法があるなどと韓国は揶揄されていたが、その国民情緒が韓国独自の「正義」を支える。北朝鮮に融和的であるか批判的であるか、韓国には深刻な分断があり、その時々の政権の「正義」が法に優越する。つまり民主主義による政権交代は「正義」をめぐる争いであり、三権分立は韓国では不安定だ。
韓国は民主主義国であると見なされている。しかし、韓国は政権交代によって、それ以前の政治(と外交的な蓄積)を簡単に覆す。それぞれの政権の「正義」を優先した結果であり、韓国国内では時の政権の「正義」を実現する行動だと支持者は持て囃すが、韓国の外から見ると、普遍性を軽視し、独自の「正義」を正当化するために民主主義を装うという韓国の後進性を示すものでしかない。
2018年12月15日土曜日
革命を経た共和国の伝統
1789年7月12日、国王が「軍隊によってパリを制圧するのではないかという恐怖心」に人々はとらわれ、「武装した民衆が街を駆けまわり、パリは騒然とした状態」になり、同7月14日、人々は廃兵院で大量の銃と大砲を手に入れ、さらに武器を手に入れようとバスチーユ監獄に向かった。(引用は全て『物語 フランス革命』安達正勝著から)
同10月5日、武装した「8000人のパリの女性たちが雨の中をヴェルサイユに行進」して来て、国会の議場になだれ込み、パリの窮状を議員に訴えた。2万人の国民衛兵隊と1万人以上の武器を持った男たちも続いて来て、国王一家はパリに連れてこられた。議会もパリに移って来て、「革命を軌道に乗せた」。
1792年8月10日、「パリの民衆は連盟兵団とともに、チュイルリー宮殿に攻め寄せ、守備についていたスイス人傭兵部隊との銃撃戦の末に、宮殿を制圧」した。女性も多数参加していた。「国会は民衆の勝利を見届けたあと」王権停止を宣言、「これ以降はその社会的実力が認められて民衆が革命の舞台に躍り出てくる」。
1793年6月2日、「数万人の武装した民衆が国会を包囲する中でジロンド派の主だったメンバーの国会追放が決議」され、革命の主導権争いに決着がつき、「ジャコバン派の天下になる」。同9月5日、「パリの民衆が武装蜂起して国会を取り囲み」、この民衆蜂起が「ジャコバン革命政府の形成を加速化」させた。
1795年の春、「生活の苦しさに耐えかねたパリの民衆」は2回蜂起したが、「リーダーたちが恐怖政治期にギロチン送りになっていたため、かつてのような威力を発揮できず」鎮圧された。「これがフランス革命における最後の民衆蜂起」だった。その後は「民衆に代わって軍隊が革命の動向に大きな影響力を持つ」ようになった。
報道によると、フランスで蛍光の黄色いベストを着用した参加者は「マクロン、辞めろ」と口々に叫びながら行進し、断続的にフランス国歌の合唱が起きたりしながら方々でデモをし、増強された治安部隊はデモ隊の進路を塞ぎ、放水し、催涙弾を投げ、参加者を拘束した。
労働者の解雇をしやすくし、社会保障費の国民負担を増やす一方、法人税の減税や富裕税廃止、投資促進などを進めてきた仏政府の構造改革路線が、現代の民衆“蜂起”によって路線修正を余儀なくされている光景は、革命を経た共和国の伝統とグローバリズムの衝突でもある。
同10月5日、武装した「8000人のパリの女性たちが雨の中をヴェルサイユに行進」して来て、国会の議場になだれ込み、パリの窮状を議員に訴えた。2万人の国民衛兵隊と1万人以上の武器を持った男たちも続いて来て、国王一家はパリに連れてこられた。議会もパリに移って来て、「革命を軌道に乗せた」。
1792年8月10日、「パリの民衆は連盟兵団とともに、チュイルリー宮殿に攻め寄せ、守備についていたスイス人傭兵部隊との銃撃戦の末に、宮殿を制圧」した。女性も多数参加していた。「国会は民衆の勝利を見届けたあと」王権停止を宣言、「これ以降はその社会的実力が認められて民衆が革命の舞台に躍り出てくる」。
1793年6月2日、「数万人の武装した民衆が国会を包囲する中でジロンド派の主だったメンバーの国会追放が決議」され、革命の主導権争いに決着がつき、「ジャコバン派の天下になる」。同9月5日、「パリの民衆が武装蜂起して国会を取り囲み」、この民衆蜂起が「ジャコバン革命政府の形成を加速化」させた。
1795年の春、「生活の苦しさに耐えかねたパリの民衆」は2回蜂起したが、「リーダーたちが恐怖政治期にギロチン送りになっていたため、かつてのような威力を発揮できず」鎮圧された。「これがフランス革命における最後の民衆蜂起」だった。その後は「民衆に代わって軍隊が革命の動向に大きな影響力を持つ」ようになった。
報道によると、フランスで蛍光の黄色いベストを着用した参加者は「マクロン、辞めろ」と口々に叫びながら行進し、断続的にフランス国歌の合唱が起きたりしながら方々でデモをし、増強された治安部隊はデモ隊の進路を塞ぎ、放水し、催涙弾を投げ、参加者を拘束した。
労働者の解雇をしやすくし、社会保障費の国民負担を増やす一方、法人税の減税や富裕税廃止、投資促進などを進めてきた仏政府の構造改革路線が、現代の民衆“蜂起”によって路線修正を余儀なくされている光景は、革命を経た共和国の伝統とグローバリズムの衝突でもある。
2018年12月12日水曜日
政府を動かす人々
フランスで人々が怒っている。地球温暖化対策のためと軽油やガソリンの燃料税を引き上げようとする政府に、「ノー」を全国に広がるデモで突きつけた。デモで示された「民意」に押された政府は、2019年1月に予定していた燃料増税を半年先送りすると発表したが、さらに19年には増税しないとした。
クリーンとされたディーゼルエンジン車が多い仏で軽油価格は190円弱/ℓという(ガソリンは210円弱/ℓ)。原油価格の高騰で世界的に燃料価格は上昇しているが、そこに仏では増税分が上乗せされる。車が必需品で生活に余裕がない人々は重税感を持つだろう。
ディーゼル車が実はクリーンではないことが明らかになり、ディーゼル車の増加で都市部の大気汚染が深刻化しているので仏政府は、ディーゼル車やガソリン車の販売を2040年までに禁止する方針で、電気自動車(EV)の普及を目指すとした。燃料増税もEVへの移行を促す施策だろう。
燃料増税の大義名分として地球温暖化対策が掲げられたが、そのために大衆課税が増やされることに人々は納得しない。富裕層に対して仏政府は減税していたのだから、なおさらだ。地球温暖化対策という名目を政府が都合よく活用している気配だ。
これからディーゼル車やガソリン車を禁止し、EVに移行したとしても大気中のCO2が減るわけではない。すでに排出された膨大な量のCO2が存在するのだから、温室効果があるとすれば、それは加速する。つまり、地球温暖化対策は、「防ぐ」ことより「損害をできるだけ抑制する」しかない段階に入っている。
本気で燃料増税でEVへの移行を促すなら、もっと大幅な増税が必要だろう。人々の反対が強いからと燃料増税を抑えつつEVへの移行を促すなら、さらに多額の補助金を上積みし、充電網を急いで整備することが必要だ。そうした社会的コストに見合う地球温暖化抑止効果がEVにあるかどうかは定かではない。
エリートでも富裕層でもない多くの人々が街頭に出て「ノー」を突きつけ、政府を動かした光景は、さすが革命で誕生した共和国だ。労組などに動員されたのでもなく、自発的に街頭に出た人々の怒りが政府を動かした。一部の過激な行為がマスコミではクローズアップされて報じられるが、そうした過激な行為に注目させることは主権者意識を眠らせておくためには効果がある?
クリーンとされたディーゼルエンジン車が多い仏で軽油価格は190円弱/ℓという(ガソリンは210円弱/ℓ)。原油価格の高騰で世界的に燃料価格は上昇しているが、そこに仏では増税分が上乗せされる。車が必需品で生活に余裕がない人々は重税感を持つだろう。
ディーゼル車が実はクリーンではないことが明らかになり、ディーゼル車の増加で都市部の大気汚染が深刻化しているので仏政府は、ディーゼル車やガソリン車の販売を2040年までに禁止する方針で、電気自動車(EV)の普及を目指すとした。燃料増税もEVへの移行を促す施策だろう。
燃料増税の大義名分として地球温暖化対策が掲げられたが、そのために大衆課税が増やされることに人々は納得しない。富裕層に対して仏政府は減税していたのだから、なおさらだ。地球温暖化対策という名目を政府が都合よく活用している気配だ。
これからディーゼル車やガソリン車を禁止し、EVに移行したとしても大気中のCO2が減るわけではない。すでに排出された膨大な量のCO2が存在するのだから、温室効果があるとすれば、それは加速する。つまり、地球温暖化対策は、「防ぐ」ことより「損害をできるだけ抑制する」しかない段階に入っている。
本気で燃料増税でEVへの移行を促すなら、もっと大幅な増税が必要だろう。人々の反対が強いからと燃料増税を抑えつつEVへの移行を促すなら、さらに多額の補助金を上積みし、充電網を急いで整備することが必要だ。そうした社会的コストに見合う地球温暖化抑止効果がEVにあるかどうかは定かではない。
エリートでも富裕層でもない多くの人々が街頭に出て「ノー」を突きつけ、政府を動かした光景は、さすが革命で誕生した共和国だ。労組などに動員されたのでもなく、自発的に街頭に出た人々の怒りが政府を動かした。一部の過激な行為がマスコミではクローズアップされて報じられるが、そうした過激な行為に注目させることは主権者意識を眠らせておくためには効果がある?
2018年12月8日土曜日
現場が否定する高品質イメージ
免震・制振装置の検査データを改竄していたKYBは、判明しているだけで設置していた建物は900以上になり、改修などがいつ終わるのか不明だ。2015年に免震ゴムの性能偽装が発覚した東洋ゴムの、対象となる150棟余の改修工事は2019年中に完了するという。
品質データ偽装が発覚した日本企業は他にも三菱マテリアル、日立化成、宇部興産、神戸製鋼所、川金ホールディングス、川崎重工業、東レなどがある。日本企業の「現場」で最近になってモラルが低下したようにも見えるが、長く改竄が行われていて、それが相次いで発覚しただけだ。
素材メーカーが品質データを偽装すると、それを使って製造した製品に対する信頼は低下する。だがデータ偽装は、例えば、完成車メーカーでも常態化し、長く続いていた。日産やSUBARUでは無資格の従業員が完成検査を行い、さらに新車の検査で燃費や排ガスのデータを書き換えていた。新車の出荷前検査ではマツダやスズキ、ヤマハでも不適切な事例が見つかった。
素材でも製品でも品質データ改竄が横行していた日本企業。日本の製造業の強さは高品質にあるとのイメージは、事実によって否定された。高品質から品質偽装へとイメージが正反対になったのは、日本の製造業の現場の劣化を示すものか、高品質というイメージが根拠のないキャッチフレーズだったのか。
品質が良いとのイメージが実態とは違っていても、そのイメージを否定する企業はないだろう。法的規制や社内マニュアルは完全に遵守され、製造・生産工程では厳しい管理がなされ、細かな社内チェックを経て出荷されるものは要求される品質を満たしている……はずだから。
信じたいものを信じる傾向が人にはある。高品質であるとのイメージは全ての企業や企業人が喜んで信じたいイメージだろう。だが、不祥事が発覚してイメージダウンに苦しむ企業は日本にも世界にも数多く存在するように、肯定的なイメージは諸刃の剣でもある。
日本企業に関わる高品質イメージは長い年月を要して築かれた。企業や工場が存続し続けていても働く人は30年もすれば、すっかり入れ替わるし、高品質の判断基準も年月とともに変化する。いつしか現場の「実力」以上の高品質イメージになっていたのかもしれない。
品質データ偽装が発覚した日本企業は他にも三菱マテリアル、日立化成、宇部興産、神戸製鋼所、川金ホールディングス、川崎重工業、東レなどがある。日本企業の「現場」で最近になってモラルが低下したようにも見えるが、長く改竄が行われていて、それが相次いで発覚しただけだ。
素材メーカーが品質データを偽装すると、それを使って製造した製品に対する信頼は低下する。だがデータ偽装は、例えば、完成車メーカーでも常態化し、長く続いていた。日産やSUBARUでは無資格の従業員が完成検査を行い、さらに新車の検査で燃費や排ガスのデータを書き換えていた。新車の出荷前検査ではマツダやスズキ、ヤマハでも不適切な事例が見つかった。
素材でも製品でも品質データ改竄が横行していた日本企業。日本の製造業の強さは高品質にあるとのイメージは、事実によって否定された。高品質から品質偽装へとイメージが正反対になったのは、日本の製造業の現場の劣化を示すものか、高品質というイメージが根拠のないキャッチフレーズだったのか。
品質が良いとのイメージが実態とは違っていても、そのイメージを否定する企業はないだろう。法的規制や社内マニュアルは完全に遵守され、製造・生産工程では厳しい管理がなされ、細かな社内チェックを経て出荷されるものは要求される品質を満たしている……はずだから。
信じたいものを信じる傾向が人にはある。高品質であるとのイメージは全ての企業や企業人が喜んで信じたいイメージだろう。だが、不祥事が発覚してイメージダウンに苦しむ企業は日本にも世界にも数多く存在するように、肯定的なイメージは諸刃の剣でもある。
日本企業に関わる高品質イメージは長い年月を要して築かれた。企業や工場が存続し続けていても働く人は30年もすれば、すっかり入れ替わるし、高品質の判断基準も年月とともに変化する。いつしか現場の「実力」以上の高品質イメージになっていたのかもしれない。
2018年12月5日水曜日
制度としての民主主義
民主主義が実施されている国の選挙で、強権的な指導者や自国優先を主張するポピュリストを選出する動きが各国で相次いでいる。これらを憂慮し、民主主義が損なわれていると主張する論がある一方、民主主義が機能しているから分断が表面化するとの論もある。
民主主義を巡る議論が噛み合わないのは、民主主義の定義が人により異なっているからだ。人によっては「善なる」民主主義擁護の姿勢を示すことで自説を正当化したりする。民主主義については幅広い解釈が可能だろうが、共有する定義としては、善悪などの価値判断を含まない最小限のものになろう。
制度として見るか、理念として見るかで民主主義の位置付けは変わってくる。理念としては人民主権であり、個人の権利を擁護し、自由・平等を実現するのが民主主義だろうが、制度としては、主権者である人々の自由選挙により形成された議会や政府に正当性を付与する仕組みとなる。
理念はしばしば、崇高で善なるものとされるが、客観的な崇高さや善なるものの見極めは簡単ではなく、主観が入りやすい。民主主義の現実化は政治により行われるが、政治的な主張に主観が混じると、対立や分断を先鋭化させるとともに、そうした主観の共有は仲間内(同志)にとどまるだろう。
人々が様々な思いを込めることで民主主義は支持される。抽象化した理念だけで成り立った民主主義が、現実の社会で人々によって具体化される時に様々な主観が紛れ込むのは避けられまい。だから、理念としての民主主義は現実政治においては多様にならざるを得ない。
理念としての民主主義が多様になるということは、その定義も多様になり、多くの人がそれぞれの民主主義を掲げて争うことも起きる。例えば、個人の自由を最重視する人と平等を最重視する人とでは論点が異なろう。どちらも「正しい」のだろうが、理念に関わることだから妥協は簡単ではない。
理念としての民主主義が人々によって多様になるのは民主主義を豊かにするが、定義を共有するには困難が増す。制度としての民主主義の定義のほうが共有しやすいだろう。定義としての民主主義の要件は①国家の主権を有する人々が自由選挙に参加、②その自由選挙で選出された人々が議会や政府を構成、、③その議会や政府だけに正当性が与えられる。
民主主義を巡る議論が噛み合わないのは、民主主義の定義が人により異なっているからだ。人によっては「善なる」民主主義擁護の姿勢を示すことで自説を正当化したりする。民主主義については幅広い解釈が可能だろうが、共有する定義としては、善悪などの価値判断を含まない最小限のものになろう。
制度として見るか、理念として見るかで民主主義の位置付けは変わってくる。理念としては人民主権であり、個人の権利を擁護し、自由・平等を実現するのが民主主義だろうが、制度としては、主権者である人々の自由選挙により形成された議会や政府に正当性を付与する仕組みとなる。
理念はしばしば、崇高で善なるものとされるが、客観的な崇高さや善なるものの見極めは簡単ではなく、主観が入りやすい。民主主義の現実化は政治により行われるが、政治的な主張に主観が混じると、対立や分断を先鋭化させるとともに、そうした主観の共有は仲間内(同志)にとどまるだろう。
人々が様々な思いを込めることで民主主義は支持される。抽象化した理念だけで成り立った民主主義が、現実の社会で人々によって具体化される時に様々な主観が紛れ込むのは避けられまい。だから、理念としての民主主義は現実政治においては多様にならざるを得ない。
理念としての民主主義が多様になるということは、その定義も多様になり、多くの人がそれぞれの民主主義を掲げて争うことも起きる。例えば、個人の自由を最重視する人と平等を最重視する人とでは論点が異なろう。どちらも「正しい」のだろうが、理念に関わることだから妥協は簡単ではない。
理念としての民主主義が人々によって多様になるのは民主主義を豊かにするが、定義を共有するには困難が増す。制度としての民主主義の定義のほうが共有しやすいだろう。定義としての民主主義の要件は①国家の主権を有する人々が自由選挙に参加、②その自由選挙で選出された人々が議会や政府を構成、、③その議会や政府だけに正当性が与えられる。
2018年12月1日土曜日
身捨つるほどの祖国はありや
どんな上の句(五七五)に続けても、意味ある狂歌にする魔法の下の句が「それにつけても金の欲しさよ」だとされる。例えば、「古池や蛙飛びこむ水のおと それにつけても金の欲しさよ」「これがまあ終の住処か雪五尺 それにつけても金の欲しさよ」「降る雪や明治は遠くなりにけり それにつけても金の欲しさよ」「朝顔に釣瓶とられてもらひ水 それにつけても金の欲しさよ」など。
この下の句は江戸時代の太田南畝が使ってから広まったと言われるが、室町時代に山崎宗鑑が使っていたともいう。時代を超えて「それにつけても金の欲しさよ」が共感されるのは、いつの世でも人々は金に苦労しているからか。
似たような魔法の下の句に「身捨つるほどの祖国はありや」がある。寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の下の句だが、こちらは、国家を見つめる問題意識を内包しているので、何の句につけても成立するような下の句ではない。
上の句を選ぶのが下の句「身捨つるほどの祖国はありや」だが、寺山修司の句も上の句と下の句の結びつきの必然性がそう強いわけではなく、心象的な結びつきが強いのだから、読む側の解釈で適合する句は結構ありそうだ。
例えば、芭蕉の句からは「夏草や兵どもが夢の跡 身捨つるほどの祖国はありや」「荒海や佐渡によこたふ天の河 身捨つるほどの祖国はありや」「むざんやな甲の下のきりぎりす 身捨つるほどの祖国はありや」など。
蕪村からは「葱買うて枯木の中を帰りけり 身捨つるほどの祖国はありや」「春の海ひねもすのたりのたりかな 身捨つるほどの祖国はありや」「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな 身捨つるほどの祖国はありや」など。
他の俳人の句にもつけてみると、「焼跡に遺る三和土や手毬つく 身捨つるほどの祖国はありや」「鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな 身捨つるほどの祖国はありや」「狂院の窓ごとにある寒灯 身捨つるほどの祖国はありや」「鰯雲ひとに告ぐべきことならず 身捨つるほどの祖国はありや」「雲がみな西へ行く日を病んでいる 身捨つるほどの祖国はありや」「愛なき日避雷針見て引き返す 身捨つるほどの祖国はありや」などとなる。
この下の句は江戸時代の太田南畝が使ってから広まったと言われるが、室町時代に山崎宗鑑が使っていたともいう。時代を超えて「それにつけても金の欲しさよ」が共感されるのは、いつの世でも人々は金に苦労しているからか。
似たような魔法の下の句に「身捨つるほどの祖国はありや」がある。寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の下の句だが、こちらは、国家を見つめる問題意識を内包しているので、何の句につけても成立するような下の句ではない。
上の句を選ぶのが下の句「身捨つるほどの祖国はありや」だが、寺山修司の句も上の句と下の句の結びつきの必然性がそう強いわけではなく、心象的な結びつきが強いのだから、読む側の解釈で適合する句は結構ありそうだ。
例えば、芭蕉の句からは「夏草や兵どもが夢の跡 身捨つるほどの祖国はありや」「荒海や佐渡によこたふ天の河 身捨つるほどの祖国はありや」「むざんやな甲の下のきりぎりす 身捨つるほどの祖国はありや」など。
蕪村からは「葱買うて枯木の中を帰りけり 身捨つるほどの祖国はありや」「春の海ひねもすのたりのたりかな 身捨つるほどの祖国はありや」「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな 身捨つるほどの祖国はありや」など。
他の俳人の句にもつけてみると、「焼跡に遺る三和土や手毬つく 身捨つるほどの祖国はありや」「鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな 身捨つるほどの祖国はありや」「狂院の窓ごとにある寒灯 身捨つるほどの祖国はありや」「鰯雲ひとに告ぐべきことならず 身捨つるほどの祖国はありや」「雲がみな西へ行く日を病んでいる 身捨つるほどの祖国はありや」「愛なき日避雷針見て引き返す 身捨つるほどの祖国はありや」などとなる。
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