2014年7月30日水曜日
それぞれの脅威
ウクライナ東部で起きたマレーシア航空MH17便の撃墜事件により、欧州はロシアに対する批判を強めている。ウクライナ東部で行動する親ロシア派の武装勢力がミサイルを撃った“犯人”だと見られているが、民間機と知って狙ったのか、ウクライナ軍機と誤認して狙ったのかなど、墜落に至る事実関係はまだ不明だ。
この親ロシア派の武装勢力の正体にも諸説あって、ウクライナのロシア系に加えて、ロシアの諜報関係者が加わっているとの見方や、チェチェン紛争などに参戦していた連中が流れてきているとの見方など様々だが、ロシアが何らかの関与をしているとの認識は共通だ。一方のウクライナの「民主化」活動家にもネオナチ勢力のほかに、欧米の支援があるともいうので、ウクライナを舞台にした、欧米とロシアの代理戦争なのかもしれない。
ロシアのクリミア併合以来、欧州メディアはロシア批判のボルテージを上げていたが、それがマレーシア機撃墜でいっそう高まった。例えば、英Economist誌は「この事件は、プーチン氏がもたらしてきた害悪の大きさを示すものでもある」「プーチン氏の支配下でロシアは昔に逆戻りし、もはや真実と嘘の見分けがつかず、事実が政権の都合で利用される場所になってしまった。プーチン氏は愛国者を気どっているが、実際のところは危険人物だ」「欧米は、プーチン氏のロシアが根本的に敵意を抱いているという不愉快な真実を直視すべきだ」などと攻撃する。
欧米ではロシア批判の高まりで、プーチン憎しという感情を隠さない記事も受け入れられるようになったと見えるが、こうしたロシア批判が許容されるのは、ロシアに対する潜在的な恐怖心が欧州にあるからだろう。それは冷戦期の旧ソ連に対して培われたもので、クリミア併合という現実でロシアに対する欧州の恐怖心が“正当化”されたようでもある。
ロシアに対する欧州の恐怖心は日本では実感できないものだろう。ちょうど、中国に対する日本の警戒心が欧州では実感できないことと対応する。ロシアの領土拡張の動きに対して欧州は敏感に反応するが、中国が領土拡張に動いても、欧州にとってはヨソ事で、反対に中国との経済関係の強化を怠らない。経済関係が強まるにつれ、欧州は中国に対する政治的批判をしなくなった。
現実的な脅威とは、欧州にとってはロシアであり、日本にとっては中国である。世界的に大きな影響力を持っている欧州メディアが、ロシアの脅威を書き立てると世界もロシアに対する警戒感を高め、欧州メディアが日中の緊張について「中国も悪いが、日本も緊張緩和への努力不足だ」などと書くと、世界は日本にも中国にも距離を置いて見るようになったりする。
今回のロシアの一連の行動は批判されるべき部分が大きいものの、欧州のロシア観には恐怖心がベースにあるから欧州メディアは、“邪悪な”ロシアなどという方向に向かってしまう。欧州メディアが中国の領土拡張に伴うアジアの緊張の高まりについて、いわば“高みの見物”で御高説をたれるように、日本は欧州に対して「もっとロシアと話し合う努力をすべきだ」などとお説教をしてみるのもいいかもしれない。
2014年7月26日土曜日
悩ましい選択(2)
国を評価する時に、政治、経済の二つの要素で見ると、どうなるか。「政治は最低だけど経済は最高だ」という国もあろうし、「経済は最低だけど政治は最高だ」という国もあろう。「政治も経済も最低だ」という国は珍しくなさそうだが、「政治も経済も最高だ」という国はごく少なそうだ。
ここに、サッカーの強弱という要素を組み合わせると、複雑に枝分かれしそうだが、サッカーの強豪国は限られているので、現実的に大半の国は「政治は〜〜で経済は〜〜だけどサッカーは弱い」となる。例えば、中国は「政治は共産党独裁で最低だけど、経済は先進国市場との結びつきによって最高。だが、サッカーは弱い」となる。
サッカーの強豪国は欧州と中南米に偏在しているが、「政治が最高で経済も最高、さらにサッカーも強い」という国はない。ドイツは、ユーロ安の恩恵で「経済は最高」だが、政治は無難なものの最高とのイメージはない。でも、サッカーは強い。オランダは家計債務が多く、政治も国際的に存在感はないが、サッカーは強い。
サッカー強豪国とされるが今回、グループリーグで敗退したスペインは不動産バブルがはじけて失業率が25%を超すなど経済は最低で、政治的にも目立たない。イタリアも経済は債務危機の影響もあって脆弱で、政治面で国際的存在感は希薄だ。イングランドは経済は堅調だが、関係が不安定なEUを動かす政治力はない。フランスは経済が低調で、政治は存在感だけはあるものの、うまく行っているとも見えない。
準決勝まで勝ち進んだのに“惨敗”イメージが先行するブラジルは、経済は最高とはいえないが、ひどいという状況でもない。政治も同様で、国内で政権批判が高まっているが、W杯招致が失政だったとはいえまい。アルゼンチンは「政治は最低で、経済は破綻しているけど、サッカーは強い」というべきか。
政治や経済が最低なことに国民は憤懣やるかたないだろうが、サッカーが強いということを、誇りの拠り所としているように見える。アルゼンチンがサッカーの強豪国であり続けることは、傍から見る以上にアルゼンチンの人々の国家意識維持のために重要な意味を持っているのかもしれない。
さて、三つが同時に「最高」になることが難しいなら、人々にとって最も「幸せ感」が高いのは、どの組み合わせなのだろうか。「政治が最高でサッカーが強い」か、「経済が最高でサッカーが強い」か。選択は難しい。「政治が最高で経済も最高だが、サッカーは弱い」という選択もあるが、これでは4年に1度の熱狂は味わえそうにない。常に冷静でいて、W杯の世界的な熱狂に冷ややかに背を向けている人々……たまにはハメを外すのも悪いことではあるまいに。
2014年7月23日水曜日
悩ましい選択
これは、『夜と女と毛沢東』(吉本隆明と辺見庸の対談。文春文庫)の一節。
(辺見) 女から「あなた、文章は最低だけど性格は最高だ」と言われるのと、「性格は最低だけど文章はいい」と言われるのと、もう一つ、「あなたは書くものもくだらないし性格も最低だけど、あっちのほうだけは凄い」と言われるのと、何が一番いいと思うか? 吉本さんなら何を選びます?
(吉本) うーん。
(辺見) 僕は絶対三番目だな(笑)。セックスが最高だと言われるのが、僕の夢ですね、というより人間的にそうあるべきじゃないかとどこかで思っている。現実にはまったくそうではないから、ものを書いたり理屈をこねたりしているわけですが、三番目が理想でしょう。
(吉本) やっぱりそれが理想ではありますよね。
(辺見) ええ。これ、僕、大真面目に言っているんです。抽象的にではなく、具体的に見れば、人間なんてたかだかそんなものでしょう。
何が一番いいと思うか?と問われても、返事に困りそうだ。「文章がいい」とも思われたいし、「性格がいい」とも思われたいし、「あっちのほうは凄い」とも思われたいしなあ。「文章がいい」を一般化して「仕事ができる」に置き換えると、この問いは誰にでも身近なものとなる。
二者択一ならぬ三者択一を迫る問いだが、実は「仕事ができる」「性格がいい」「あっちのほうは凄い」は、1人の人間が兼ね備えることができるものでもある。この三つは、どれかを選んだなら即座に、他のものが排除されるという関係にはないからだ。仕事ができて、性格が良くて、あっちのほうは凄いという、人生を謳歌しているだろう人物は実在する(多分ね)。
とはいえ、この三つを兼ね備えることは簡単ではない。自分は三つを兼ね備えているよと自信を持つ人もいるだろうが、それは主観でしかない。この三つとも、他の人からの評価によって決まるもので、いくら仕事や性格、あっちのほうに自信があったからとて、客観的な評価が伴うとは限らない。自己満足が客観的な評価と一致しないことは、よくあることだ。
そもそも、仕事や性格、あっちのほうのどれか一つだけでも、他の人から“最高”の評価を得ることさえ難しい。どれか一つだけでも“最高”の評価を得たなら、実りある人生といえるのではないか。でも、不断の努力で“最高”の評価を得たとしても、それが長続きする保証はない。人の心は変わりやすく、誰かの“最高”にもすぐ馴れてしまう。日常化した“最高”は日常でしかない。
2014年7月19日土曜日
混乱が続くリビア
シリアやイラクでISISが制圧地を拡大し、実質的に国家の分裂が進行していることは連日大きく報じられていたが、さらにイスラエル軍が空陸からガザに対する攻撃をエスカレートさせるなど、中東の情勢は揺れ動いている。強権的な政権に対する民衆からの異議申し立てが各国で相次いだ「アラブの春」は、すっかり今では霞んでしまった印象だ。
独裁を続けていたカダフィ政権を倒してリビアにも「春」が来ると期待されたが、「春」の代わりに混乱が続いている。7月に入って首都トリポリの国際空港周辺で、空港を管理していた民兵勢力に対してイスラム系武装勢力が攻撃を加え、戦闘になった。イスラム系武装勢力と民兵勢力の衝突は以前から各地で続いており、日本の外務省は退避勧告を発している。
リビアでは2011年2月に反政府デモが始まり、治安部隊との衝突が続き、多数の死傷者が出る中で、暫定政権「リビア国民評議会」に次第に反政府勢力が結集した。軍事的にはカダフィ政府軍が圧倒的に優勢だったが、米英仏を中心としたNATO軍がカダフィ政府軍への空爆を開始したことなどで反政府側は持ち直し、やがて首都トリポリを反政府側が制圧、逃亡したカダフィは殺された。
カダフィという「重し」が外れてみると、リビアに国としての求心力よりも、遠心力のほうが強く作用した。もともと多くの部族が割拠して対立する構造があり、さらには石油の利益配分をめぐっても不満が内在していた。この地域は歴史的に様々な帝国に入れ替わり支配され、20世紀になってからはイタリアに植民地支配された。独立したのは1951年で、カダフィらがクーデターを起こしたのは1969年。
リビア内戦では多くの反体制勢力が武器を持って戦ったが、内戦が終わった後に大型兵器以外の武器は回収されていない。内戦終結後には議会選挙が実施され、憲法制定に向けて歩み始めているが、多くの部族が一つの国としてまとまらなければならないという“必然性”が乏しいリビアなので、治安状況は悪いままだ。内戦時にはイスラム過激派勢力も入り込んだ。
「アラブの春」は「アラブ世界の流動化」開始の号令であったのかもしれない。エジプトは軍政に逆戻りして強権で国としてのまとまりを維持しているが、シリア、イラクの内戦は国家分裂を予感させる。リビアでも内戦が始まると、やがて分裂に向かう公算が大きい。どこかの1国でも実際に分裂すれば、植民地の境界を国境としている他の国でも、内部分裂を促進させる懸念がある。
「独裁」の反対語は「民主」とつい考えやすいが、アラブ世界では「民主」ではなく「混乱」だった。これには、植民地支配された諸民族混住の地域が、そのまま独立したという歴史が大きく関連している。多くの民族が混在している旧植民地には、新たな民族自決が必要なのかもしれない。ただ、その先にあるものが「安定」であるのか、さらなる「混乱」であるのかは誰にも分からない。
2014年7月16日水曜日
書道で書く言葉
多くの人が書道を初めて体験するのは小学生の時だろう。初めの頃はひらがなで「ゆめ」「はる」「ゆき」「げんき」「あさひ」「さくら」などと書くことから始め、学年が進んで漢字を覚えるにつれて「星空」「朝日」「新春」「春の光」「青い空」「真夏の海」「美しい心」などと書き、さらに学年が進むと「希望の朝」「自然の美」「青雲の志」「謹賀新年」「南十字星」「心機一転」などと書く。
四字熟語を書いたあたりで大方の人は書道から離れるが、書道を続ける人は古典を学んで様々な書体を学習していく。美しい字を書くことができるようになったことで満足する人が大半だろうが、中には、さらに自分の個性を発揮して書くことを目指す人や、中には、書くことをパフォーマンスとして演じたりする人もいる。
書とは「文字を素材とする芸術」「文字を美的に表現した芸術」であり、「符号にしかすぎない文字に芸術的意志を働かせ生命を与えたものが書」なのだそうだが(毎日書道会HP)、「書作品には、その作家の人間性がそのまま素直に表現され、生き方、思想、人格が反映されている」(同)と言われると、かなり創造力を逞しくさせないと書は鑑賞できそうにない。書かれた文字から、書いた人の人格を見るなんて、誰にでもできることではない。
書く人の生き方、思想、人格が書には反映されているということになると、題材は前向きな言葉や無難な言葉に限定される。書いた人の生き方や思想、人格が疑われるような言葉を書で書くことはできまい。見事な字が書かれていれば、どんな言葉を書こうと構わないじゃないかとも“部外者”は思うが、「芸術」としての書道としては制約があるのだろう。
だから、書道ではマイナスイメージを漂わせる言葉は排除される。例えば、悪、邪、恥、罪、嫌悪、邪悪、野心、嫉妬、汚点、隠蔽、阿呆、裏切り、汚い奴、戯け者、怠ける、甲斐性なし、ぼけ、ずるい、のろま、ふしだら、暗い未来、前科者、確信犯、貧乏人、金権腐敗、責任転嫁、自業自得などの言葉を、墨黒々と書き上げた作品にはまず、お目にかからない。
こうした言葉が並ぶ展示会があったなら、見た人達が「いい『汚点』ですなあ」「この、『ふしだら』は書き手の生き方を反映してますな」「この『野心』は、まさに人格を表している」「『ずるい』と『裏切り』ですか。なるほど彼の思想を物語る」などと感想を言いそうだな。こうした言葉のほうが、書き手の生き方や思想、人格が反映されそうな気にもなる。
こうした言葉が題材としては排除されるのが書道の世界だとしたなら、書かれている言葉の意味と、表現としての書には何らかの縛り(建前)があるのだろう。美しく表現されていれば、題材は何でもいいはずだが、例えば「嫉妬」という字が美しく書かれていても忌避されるなんてところが、自由な表現が不可欠な芸術に書道がなりきれないところか。
作品としての書から何を読み取るかは、個人に任されている。気張って芸術ぶるのもよし、美しい字を美しいと思うだけでもよし。無名の人が書いた見事な書よりも、著名人が書いた書のほうに高値がつくのも書道の世界。人格を誇る聖人君子ばかりが書を書いているわけでもあるまいし、書に必ず生き方や人格がにじみ出ているわけでもあるまい。見るほうは自由に芸術ぶらずに振る舞うのが気楽でいい。
2014年7月12日土曜日
悪魔は存在する?
この世に悪魔が存在すると信じるなんて、時代遅れの迷信だという印象だ。だが、バチカン法王庁が国際エクソシスト協会をカトリック団体として公認したというニュースを知って、神の存在を信じる人なら、悪魔の存在をも信じるはずだと思い至った。どちらも新約聖書に出てくる存在だからだ。
神が存在するかどうかについては、昔から議論が続けられてきた。科学が発達して人間が有する知識が増え、この世は神が造ったものではないことも明らかになった。分子、原子の微小な世界から地球上で起こる様々な出来事のメカニズム、さらには宇宙で起きていることも人間はかなり知ることができるようになったが、それでも神を信じる人は大勢いる。
悪魔とは何か。先々代の教皇ヨハネ・パウロ2世は「悪魔は擬人化した悪霊」と規定したそうで、人間に取り憑く悪霊が悪魔の正体ということらしい。日本の伝承で言うなら、狐憑きの類のイメージになるが、悪魔と狐では悪魔のほうが段違いに邪悪かつ強そうで、悪の次元が異なる印象だ。
物語に登場する悪魔は、黒装束で人間そっくりだが、目は赤く、耳が尖り、大きな口には牙が見え、角があったり、翼があったり、尻尾があったりと姿は様々だ。神に敵対するように人間を誘惑するというが、そんな姿で現れては警戒されるだけだろうにね。魔法陣などで呼び出されたりもするというので、見かけは怖そうだが、意外に腰が軽いのかもしれない。
だが、悪霊には姿はない。人間に取り憑き、その人間がいかにも禍々しい悪魔のように振る舞うことがあったりして悪魔イメージが確立されたのかもしれないが、悪霊といっても霊は霊、誰にも見えない(霊の存在は実証されていない。おそらく、存在を信じる人には霊は感じることができ、信じない人には霊は存在しない。悪霊も英霊も、その実在は不確定)。
神と悪魔の存在を信じるバチカンが認めたエクソシズムの儀式では、霊に憑かれた人間が病気ではないかをチェックすることが求められるようになった。霊の憑依現象が精神病に関係する可能性があるからだ。悪霊が取り憑いていると判断してからエクソシストが、聖水で祈祷し、神と聖霊の救いを願う連祷をする等の一連の正式な儀式を執り行う。
国際エクソシスト協会には、30カ国の約250人のエクソシストが所属しているという。エクソシストになる資格は、カトリック神父で、所属する教区の司教に任命されること。霊感が強いからといって民間人が勝手にエクソシストになることはできない。公認エクソシストになるにも、先輩エクソシストについて修業したり、養成講座で神学・典礼法のほか、医学・犯罪学などを学んだりしなければならないそうだ。
一方で、悪魔に取り憑かれていることを自覚しない人間もこの世には珍しくないような気がする。悪魔の所行とも見える行為、行動が世界中で行われていたりする。だが、人間の心に潜む悪魔は難敵だ。そうした悪魔には、公認エクソシストも手を焼くにちがいない。
2014年7月9日水曜日
逆かもしれない
立法府が関与しないまま政策の重大な変更が、与党内の協議を経て、内閣による閣議決定だけで行われた場合、その変更に反対する側から、民主制の否定であるとか、憲法を軽んじるものだなどの批判が沸き起きる。そうした批判の中には「日本の民主制と憲法の本質的脆弱性」の問題提起もあったりするが、この「憲法の本質的脆弱性」については異論も出そうだ。
紙に精緻な印刷を施したものが紙幣として、例えば1万円札なら1万円分の交換価値を持つのは、その紙切れを皆が紙幣だと認めるからだ。そうした交換価値を支えるのは紙幣を発行する政府への信任であり、皆が互いに紙切れを交換価値を持つ紙幣と信じて使うからだ。だから、政府が信用されない国では人々は自国紙幣よりも、例えばドル札のほうを重宝したりする。
憲法も同じようなもので、ある法律が憲法だとして通用するのは、国家と政府への信任があり、皆が憲法を最高法規として尊重するからだろう。だから、軍が頻繁にクーデターを起こして、そのたびに憲法を変えたり、国内に深刻な対立構造があって、政権が変わるたびに憲法をいじることが常態化しているような国では、人々は憲法を絶対的な存在とは見ないだろう。
憲法の本質的脆弱性の最たるものは、皆が憲法を最高法規と見なさず、それどころか憲法を含めた法体系を軽んじるようになることだ。今回の議論で出てきた脆弱性の指摘は、人々が憲法を軽んじるようになったということではなく、憲法解釈に関わる重要な政策変更を内閣の判断で行ったということらしいので、憲法の脆弱性といっても様々な態様があるようだ。
一方で、内閣が閣議決定だけで重要な政策変更をせざるを得なかったのは、憲法が脆弱だからではなく、逆に、憲法が強固すぎたからだともいえる。憲法の条文を変更して政策変更を行おうとしても、一字一句も変えることができない状況が現実。国際情勢などの“圧力”を受けて新たな対応策をとらざるを得なくなった内閣は、解釈の変更を言い立てて政策変更したとの見立てだ。
憲法が強固すぎて一字一句も変えることができないというのは、現憲法の「特異な脆弱性」かもしれない。憲法改正を主張する側は現憲法全体に否定的だが、出てくるのは“復古調”の憲法案だけ。いわゆる護憲派は9条に限らず改正そのものを拒否する。どちらも硬直度では似たようなもので、現憲法を大事にしながら、時代の変化に合わせていく努力が皆無だ。
日本で憲法に関する議論が硬直しているのは、日本という国のあり方に関して、人々に共有する価値観がないからだろう。日本はどういう国であるべきかという理念が共有されていないから、国家権力のあり方についても共有する見解がない。つまり、日本という国がどうあるべきかという具体的な理念についての広範な議論を重ね、共有できる部分を抽出していくことによって、現憲法の特異な脆弱性は解消されよう。道のりは遠いが。
2014年7月5日土曜日
焼そばにも歴史あり
カリッと焼いた麺に、具だくさんのアンが乗っている焼そばを名物にしている中華料理店は珍しくない。暑い夏に熱いスープに入っている麺類を食べると汗だくになるが、焼いた麺に熱がこもっている焼そばを食べても結構汗をかいたりする。だから、冬は熱いスープに入った麺類の出番だが、焼そばを食べても体が結構温まる。
焼そばは、麺の上に乗せる具次第で様々な個性を演出する。まちおこしを目的とする「B-1グランプリ」でも、全国各地から様々な焼そばが出展された。例えば、福島の浪江焼麺、岡山のひるぜん焼そば、宮城の石巻茶色い焼きそば、青森の黒石つゆやきそば、北海道の北見塩やきそば、秋田の横手やきそば、静岡の富士宮やきそばなど。
これら以外にも全国には、その土地、その店でしか食べることができないような焼そばメニューが“埋もれて”いるだろうから、「全国焼そばマップ」なんてものをつくることができそうだ。麺の種類、ソースの種類、麺と具材の炒め方、具に使う食材、トッピングなどで全国の焼そばは分類され、系統図めいたものが浮かび上がるかもしれない。
焼そばは日本で独自に発展した料理だが、ルーツは中国の、麺を炒めて作る料理「炒麺」という。炒麺の種類は多く、醤油味や塩味が基本。焼そばと異なるのは、麺に油がじっとりと絡んでいること。麺を炒める時に使う油の量が多そうで、本格中華料理店で出される炒麺は、食べ終わると皿に油が一面に残っていたりする。
焼そばは日本では戦後に広まった料理とされ、当初は駄菓子屋で子供のおやつとして売られ、60年前くらいから家庭でも食べられるようになったともいう。一方で、戦前の浅草で既にソース焼そばが食べられていたともいい、当時の浅草は大繁華街だったのだから、多くの人に馴染みの料理だったかもしれない。
ソース味のお好み焼きの店は浅草では昭和初期に誕生しているというから、焼いた麺にソースを絡ませた焼そばが当時の浅草で食べられていた可能性はありそうだ。焼そばという日常的な料理で、食べられるようになってから百年にも満たないのに、いつから食べられていたかがはっきりしないというのは不思議な気がする。
ラーメンもルーツは中国だが、日本で独自に発展した。焼そばも同じだが、“誕生”が早いラーメンの中華麺を使って、ソースで炒める焼そばが考案されたのか……など歴史の謎は広がる。焼そばといえば、お祭りの屋台の定番でもある。広い鉄板で麺と少しのキャベツ、もやしを手早く炒めてパックに入れただけ。それでも美味しく感じたりするのだから、焼そばの世界は奥深い。
2014年7月2日水曜日
パシフィック・カップだ
W杯ブラジル大会でアジア勢が1勝もできず、そろって1次リーグで敗退したことで、アジアからの出場枠が減らされるのではないかと懸念する声が出ている。アジアからの出場国を減らし、その分を欧州や南米に振り分けたほうが「レベル」が上がると、つい連想しそうになるが、そんなに単純なものではない。
各国の代表チームの選手は入れ替わるので、4年間で、強いチームに変貌することも弱いチームになることもある。スペインやイングランド、イタリア、ポルトガルも1次リーグで敗退したように、欧州の強豪国の代表チームだからといって常に強いわけではない。アジア勢の中からも4年後に強い代表チームが出てくることは、あり得るのだ。アジア勢が自陣営に籠って守るだけの退屈な試合をしていたわけではないし、惜しいシュートは幾つもあったのだから、アジアは卑屈になる必要はない。
それに、W杯を頂点に位置づけ、アジアでのサッカー人気が高まったことでFIFAをはじめ世界のサッカーマーケットを牛耳っている連中は大儲けしているはず。W杯へのアジアからの“関門”を狭めて、アジアのサッカー熱を冷すような決定は、FIFAなどが自分らの“儲け”をみすみす削るようなものだ。
とはいえ、日本代表チームが1次リーグで1勝もできずに敗退したことは現実で残念だ。敗因は、戦術か戦略かチーム構成か、選手の体力か技術か気力か経験か……いくつもの敗因が絡み合っているのだろうから、専門家が冷静に分析することが必要だが、素人から見ても、欧州で活躍する選手は増えているのに、代表チームは欧州や南米勢など強豪国との対戦数が少ないことは確かだ。
欧州や南米の選手は地域選手権を争う代表選に加え、クラブリーグでも強い相手と常に試合をしていることで、経験を積み、鍛え上げられるし、それが次世代に伝わっても行く。強い相手との定期的な試合を増やすことが日本代表チームに必要だが、日本周辺のアジアに欧州や南米勢に匹敵する強豪国はない。しかし、太平洋に接する国には豪、米、コスタリカ、メキシコ、ホンジュラス、コロンビア、チリなどと今W杯出場国がある。
こうした太平洋に接する国による年1回のパシフィック・カップを創設し、日本も参加するなら、強豪相手に日本代表チームは経験を積むことができる。大西洋カップがないからFIFA公認のカップ戦にすることは難しいかもしれないが、それなら日本主導で発足させればいい。太平洋に接する全ての国を招くことは費用の面などから難しいだろうから、当面は日本、米、豪、メキシコの4カ国を正式メンバーとし、コロンビア、チリなど太平洋に接する国の中から数カ国をゲストに招いてもいい。
パシフィック・カップが始まったとしても日本代表チームは最下位が続くかもしれないが、“格上”の相手と闘う経験を積むことで鍛え上げられ、また、学ぶことも多いはずだ。さらに、中南米の選手の“スカウトの場”ともなればJリーグの活性化策にもなり、Jリーグでプレーする代表候補の選手たちにも刺激になろう。
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