2022年6月28日火曜日

自己判断で追従

 英国でエリザベス女王の在位70年を祝う行事が先日行われたが、パレードなどを見る沿道の人々を映したニュース映像ではマスク着用者は皆無だった。英国は1月に規制の大半を撤廃し、マスク着用は法的義務ではなくなっていた。英国では、法的義務であった頃もマスクを着用しない人が多かったといわれ、マスクは嫌われていた。

 日本でマスク着用は法的義務ではないが、気温も湿度も高い夏を迎えて政府は「基本的な感染対策としてのマスク着用の位置づけは変更しない」が、熱中症予防のため「屋外ではマスクをはずしましょう」(厚労省サイト)と呼びかけ始めた。どんな時にマスクをはずしていいのか判断に困る人が多いと政府は見ているらしく、細かく「マスクをはずしていい」状況を具体的に例示している。

 政府は「屋外ではマスクをはずしましょう」と言っているのだが、まだ、歩いている人の大半はマスクを着用している。東京の繁華街など路上に人が密集している3密の状況ならば、感染予防のためのマスク着用に合理性はあろうが、人影がまばらな道を歩く人の大半もマスクを着用している。過疎化が進む地方都市などでも、歩く人の大半はまだマスクを着用しているようだ。

 日本で人々がマスク着用を続けるのはなぜか。その理由として、第一に日本人はマスクが好きだから着用を続ける、第二に周囲からの批判の目を恐れる(同調圧力に迎合する)、第三にマスク着用者が多いので大勢に合わせる、第四に新型コロナウイルスに対して過大な恐怖心を維持している、第五に政府の方針に反対する意思表示?ーなどが推察される。日本ではマスク着用に忌避感が乏しいことが影響しているのは確かだ。

 気温も湿度も高い夏を迎えて、マスクの常時着用の負担が増す状況になった。複数回のワクチン接種が進み、感染拡大の勢いが衰えているが、人々はマスク着用を続け、息苦しさに耐えている。これは、マスク着用を人々が選択していることを示す。パンデミックが始まって、人々は政府の指示(強制ではない)に従ってマスク着用を受け入れたが、それは人々が自発的に選択したマスク着用である。

 マスク着用を個人が判断すると、英国などでは人々がマスクを着用しなくなり、日本では大半がマスク着用を続ける。日本では人々が政府の指示に従順だと見えるが、常に政府の指示に人々が従順であるはずもないから、政府の指示に従順なように見えているのは、マスク着用が一般化した結果だ(政府の指示に従順な人々も多いだろうが、その割合は不明だ)。

 個人の自由意思による判断が尊重される社会で、政府の施策や方針を個人が是と判断して共有することも、批判して拒否することもある。前者の場合は、個人の判断の結果として政府の政策や方針に追従しているように見える。だが、「屋外ではマスクをはずしましょう」との政府の方針に人々が同調せず、マスク着用を続けている光景は、個人の判断が政府の方針よりも優先されることを示している。

2022年6月25日土曜日

科学的とは

 科学的な思考とは「実証的・合理的・体系的に考えること。また、そのような傾向にあること」だ。科学的な思考をする人ならば、学者の主張でも鵜呑みにせず、その主張を実証的・合理的・体系的に検証する。学者の主張の、受容できる部分と留保する部分、批判して受け入れない部分を見分けることができれば、科学的な思考を実現できているだろう。

 科学的な思考の反対は非科学的な思考だ。それは「実証的ではなく、合理的でもなく、体系的でもなく考えること。また、そのような傾向にあること」で、そうした思考をする人は主観だけで判断したり、思い込みや感情に判断が影響を受けたりする。非科学的な思考をする人の問題は、自分の非科学的な思考を自覚できないことだ。

 学者の主張が全て真理であると無批判に受け入れる人は、自分では科学的な思考をしているとの自負があったとしても、実際には非科学的な思考をしている。学者の主張が全て真理であるーということはなく、学者の主張は一つの仮説である。現実に観察される事象や実験結果を合理的に説明される仮説だけが共有され、体系を構築するのが科学だ。

 だが、学者の主張する仮説を評価することは研究者ではない一般人には簡単ではなく、学者の主張を一般人は「信じる」しかないのが実際だろう。学者の主張を検証しようとしても、大量の生データや複雑な数式などを見せられて、ほとんどの一般人は検証をあきらめるだろう。

 「信じる」という行為は科学的な思考ではない。科学的な思考では全てが検証の対象となり、学者の主張も他の学者からの厳しい検証・批判にさらされ、それに耐えて残った主張だけが共有される。科学的な思考には、批判的に考えることが不可欠だ。宗教指導者の言うことや神の言ったことを信者は受け入れる(=信じる)だけで、それらに対する批判は許されないのが宗教である。

 学者の主張を無批判に受け入れ、学者の主張を受け売りすることや、御託宣であるかのように学者の主張に盲従するのも非科学的な思考の結果だ。だが、学者の主張を受け売りすることが科学的な思考による行為であると振る舞う人は珍しくなく、多くのマスメディアも学者の主張を無批判に報じる。

 学者の主張の細部を理解せず結論だけを見て納得した気になって盲従する人は、学者は真理を言い、科学は真理の体系だと考えている気配だ。だが、それは科学への信仰であり、学者を宗教指導者だと誤解している結果だ。仮説と真理の混同が、科学や学者への崇拝につながる。

2022年6月22日水曜日

様々な主権国家

 プーチン大統領が若者との対話集会で、主権を持たない国は「厳しい地政学的争いの中で生き残ることはできない」と述べたという。報道によると、プーチン氏は、米国など他国の影響力を排し、独自の判断ができる国を「主権を持つ国」と呼び、「指導的役割を求める国なら主権を確保する必要がある。主権ある決定ができない国は植民地であり、その中間はない」とした。

 プーチン氏は自国ロシアは主権国家だが、米国の軍事力に頼るNATO加盟のドイツや日本などは主権国家ではないと批判した。他国に頼らず自前の軍事力で自国を防衛できることを主権国家の条件とするプーチン氏は、国家の主権は軍事力によって保証されると考えているようだ。だが、主権国家ロシアを支える自前の軍事力が他国への侵攻にも使われているように、軍事力は「祖国防衛」を口実に暴走する。

 国家の主権は「領域内において持つ排他的支配権」とされ、その権利により国家は①国民および領土を統治する、②他国からの干渉を受けずに独自の意思決定を行う、③国家意思を最終的に決定する。主権国家は独立国のことであるが、米国の強い影響下にあって従属しているように見える諸国をプーチン氏は主権国家ではないとおとしめた。

 ロシア軍の侵攻を受けているウクライナは独立国であり主権国家だ。首都キーフの占領を当初目指したロシアの行動は、ウクライナという主権国家の存在の否定だ。ロシアにはウクライナに侵攻する権利があり、ウクライナには独立国であり続ける権利はないというのは一方的な主張だが、プーチン氏のロシアは国家主権を都合よく解釈してウクライナ侵攻を正当化する。

 台湾は前記の①②③を満たすので主権国家である。だが、台湾を独立国として承認する国家は少数だ。台湾は国家主権を現実に行使しているが、中国が台湾の独立を強く否定するため、台湾の国家主権は国際社会で「見ないふり」をされている。国家主権は他国からの相互承認により確認されるのが現在の世界だが、他国から承認されているウクライナの国家主権をロシアは否定した。

 ロシアのウクライナ侵攻を見てフィンランドとスウェーデンはNATO加盟申請に動いた。独自の軍事力が限られている国が軍事同盟に参加するのは主権国家による判断であり、米国の影響下に入るというのも主権国家の判断であろう。プーチン氏の主張する「主権を持つ国」の侵攻に対抗するため、欧州の主権国家がNATOに結集する状況になった。

 ウクライナの国家主権はロシア軍の侵攻に脅かされているが、人々がロシア軍に対する抵抗を続け、ウクライナの国家主権は維持されている。ロシアがウクライナ東部を完全に占領してもウクライナは解体せず、その国家主権は維持されるだろう。一方、プーチン氏が主導する主権国家は、独自の判断が誤った判断だと世界各国から批判されても、それを修正すると誤りを認めることになるので、勝利を目指して戦い続けるしかない。独自の判断の責任をウヤムヤにするのは主権国家に珍しくない。

2022年6月18日土曜日

男はすたる

 「男は強くなければならない」とか「女は優しくなければならない」などの男女の性差による固定観念は、女性の社会進出が進むとともに、個人の自由な生き方や多様性を尊重することがますます重視されるようになった現代の世界で時代遅れの考えだとされる。そうした固定観念は根強いだろうが、おおっぴらに振り回すことは難しくなる。

 男女の性差による差異が消えたわけではないが、性差による差異に基づく役割分担は、ある時代の社会の価値観を反映したものであり、社会の変化とともに見直しを迫られる。例えば、強権支配によって人々が特定の価値観に従わざるを得ない社会から、自由選挙が実現し、人々の権利や自由が保障されている社会に移行したなら、固定観念は変わるだろう。

 そもそも固定観念は大雑把なものだろうし、ある時代の社会の反映でしかないとすると、固定観念は時代とともに変化する。また、固定観念には個人差が大きい。生きている社会環境は人それぞれで、何を男女の性差と認識するのかは個人により異なるだろうし、さらには性差と個人差を混同する人もあろう。男女の性差が何かを厳密に検証するには、先入観や思い込みなどを排除しなければならず簡単ではない。

 ただ固定観念は他者を批判したり、牽制するときに、自分の主張を正当化するために便利に持ち出される。たいして重んじていない固定観念であっても、誰かを批判するときに便利であれば活用する人もいる。固定観念の縛りは社会に従おうとする傾向が強い人々には強く作用するので、他者をおさえつけるための道具として固定観念は重宝される。

 固定観念ではないが、「男は廃(すた)る」ものであり、「女は腐る」ものであるとの持論を主張し続けている友人がいる。ダメな男もダメな女もいつか自滅していくが、自滅の仕方が、男は廃っていき、女は腐っていくのだと力説する。廃り方や腐り方は人それぞれだが、その時がくれば男は一気に廃り、女は時間をかけて腐っていくと友人。

 「男が廃る」という言葉は、男としての面目が立たないとの意味で使われる。男としての面目が立たないとは男に求められるものが実現できない状況で、男の面目には時代の固定観念が反映する。強い男が求められる時代には強くあることが男の面目になるが、時代とともに男に求められるものは変化するし、過剰な男らしさが忌避されることも時代によってはある。

 廃った男も腐った女も忘れられるが、消え去るのではなく、それぞれにしぶとく生きていくのだと友人。ただ、男も女も固定観念にただ従うだけでは廃りも腐りもしないだろうが、固定観念などに縛られず独自の生き方を貫くうちに、それぞれに自滅する人がいて、それで男は廃り、女は腐るのだと友人は力説する。でも、固定観念に縛られずに廃った男や腐った女には、熟れすぎた果物のような魅力があるのだと友人は言う。

2022年6月15日水曜日

中華ナショナリズムの迷走

 国家意識は自国の個別利益を考える特殊主義的な観念で、天下意識は個別国家の利益を超えた普遍主義的な観念だ。中華民族主義(中華ナショナリズム)は普遍主義と特殊主義が融合した構造を持つ観念だが、それが現在の中国でどのような現れ方をしているのか。加々美光行さんの『裸の共和国』(世界書院、2010年)から以下、関係がありそうな個所を引用する(適時修正あり)。

 中国の「天下」観念は空間的限定性を持たない「大天下」だったから、それ自体としては空間限定的な「国民国家」に転化し得なかった。梁啓超や孫文の「中華ナショナリズム」観念の創造は、「天下」である「中華」を「民族」に接木したもので、「天下」観念は生き続けて普遍・特殊融合型の観念構造の一翼をなした。

 「天下」観念の発生は春秋期まで遡ることができる。隋唐の時代を例にとると、当時の長安や洛陽は中華「天下」の心臓部であると同時に国際都市でもあり、西はシルクロードを渡り、東は海越え野を越えて、多くの異域の人々が行き交う文明の十字路でもあった。異域の人々は先端的な文明に惹かれて、吸収しようと集まってくる。つまり「天下」は周辺部や外部に対し強制的に働くのではなく、むしろ自発性に基づいて求心的に働く。これが「天下」観念の重要なところで、その本質は武力で支配することではなかった。

 つまり「天下」観念は一見、内部と中心部が主体であるかに見えて、その実、外部と周辺部が主体をなす観念だった。重要なのは、集まる先や行く先を選ぶのは外部と周辺部の人々の主体的選択に基づくということだ。

 中国の現在の状況が問題なのは、「天下」観念の「向心性」が衰弱を始めている点にある。「中華ナショナリズム」が抵抗のナショナリズムであった限りでは、「天下」観念に固有の、この外部と周辺部からの「向心性」が働く余地があり、それが反侵略のメンタリティを持つ多くの外部の人々を中国が惹きつけた理由でもあった。

 中国の周辺部をなす新疆ウイグル地域、チベット地域、内モンゴル地域はイスラム教とチベット仏教の信仰が極めて強い少数民族の居住地域だ。チベット仏教もイスラム教も、「中華」の「天下」と同様の普遍主義の性格を持つ。チベット人やウイグル人などが抵抗の目的から民族主義を勃興させると、梁啓超らが反侵略の抵抗のために「中華ナショナリズム」の観念構造を形成したのと同様に、自己の抵抗的な民族主義を、普遍主義的なチベット仏教やイスラム教の信仰と接木し、普遍・特殊融合型の「仏教ナショナリズム」や「イスラム・ナショナリズム」の観念構造を生み出す可能性があった。

 問題は、そうした「仏教ナショナリズム」や「イスラム・ナショナリズム」などの宗教ナショナリズムが、中国国家の骨格原理をなす「中華ナショナリズム」と同じ観念構造をなすゆえに、相互に共鳴することもあるけれど、対立しあうものにもなるという点だ。毛沢東から歴代の指導者は、なべて「宗教ナショナリズム」と「中華ナショナリズム」を対立関係をなすものと見てきた。

 90年代移行、開発至上主義の展開とともに「中華ナショナリズム」が変質過程に入るにつれて、その対立関係は激化し、それがまた「中華ナショナリズム」を危機に陥れている。

2022年6月11日土曜日

天下と国家

 資本主義に移行して経済大国化した中国は、共産党独裁を堅持しつつ、国家の統合原理としてナショナリズムを強く打ち出し、人々にも愛国主義が広がっているように見える。そのナショナリズムや愛国主義は、対内的には少数民族の過酷な支配となり、対外的には攻撃性を強める。中国のナショナリズムや愛国主義が排他性を強めるのはなぜか。加々美光行さんの『裸の共和国』(世界書院、2010年)から以下、関係がありそうな個所を引用する(適時修正あり)。

 中国では「中国」や「中華」という観念は歴史的には元来、国家を意味する観念ではなかった。国家の観念はたとえば戦国時代の戦国七雄である秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓こそが王朝国家であったので、中国や中華はこの七国の上に天を覆って広がる「天下」を意味していた。

 こうした世界観の下では、どれほど「国家」としての王朝が滅びようとも「天下」としての中国や中華が滅ぶことはないと考えられてきた。 

 ところが19世紀半ば、西欧列強の侵略をこうむることによって、清王朝が滅びるかもしれないという危機がまず訪れ、史上初めて「天下」としての中国も滅びるかもしれないという強烈な危機感が覆うようになった。

 そうした危機状況を救う新たな統合原理として考え出されたのが「中華ナショナリズム」にほかならなかった。「中華民族」の概念は梁啓超が1902年に提起し、孫文がこれを革命運動の政治理念に変えて実践的に利用した。梁啓超は日本の文献の中から英文のnationの訳語である「民族」の概念を見つけ出し、これと本来「天下」概念である「中華」を結びつけて「中華民族」の概念を造語した。

 問題は「中華民族」の観念の中では依然、普遍主義的な「天下」観念は否定されておらず、生き続けているという点だ。「中華民族」の観念の下で、「中国」の観念はかつてのように「天下」のみを意味するのではなく、「国家」を意味すると同時に「天下」でもあるものになってしまった。

 国家意識は自国の個別利益を考える特殊主義的な観念で、天下意識は個別国家の利益を超えた普遍主義的な観念だから、「中華民族主義」の観念は普遍主義と特殊主義が融合した構造を持つ観念だ。ただ中国の指導者は、この「中華ナショナリズム」観念の構造を十分自覚的に把握できていない。

 中国は米ソ両大国と同じく、単一の国家として成立するには大き過ぎ、また非常な多様性を含む世界だから、中国が19世紀半ば以後の未曾有の危機に直面して、米ソ両大国と同様の普遍・特殊融合型のナショナリズムを生み出したのも不思議はなかった。

 90年代以後の中国の排他的民族主義の高まりは、中国の普遍主義である「天下」「中華」の観念を絶対善視する傾向が現れ、それへの異論を許さないリゴリズムの度合いを高めることになった。

 「中華ナショナリズム」は抵抗的性格を持続的に持つ限りで、その普遍・特殊融合型の構造はむしろ中国の絶体絶命の危機を救う奇跡的な力を発揮しえた。問題はその抵抗的性格を失うときだ。

 中国国家や漢民族の利益追及を優先する「民族主義」の観念が強まり、普遍主義的な「天下「中華」の観念が押しつけ的なリゴリズムを強めるとき、「天下」「中華」はその求心力を弱めて、その普遍主義が周辺や外部に受け入れられない度合いを高めてゆく。中国の場合、少数民族の民衆レベルで「天下」「中華」観念への拒否反応が強まる。

2022年6月7日火曜日

戦場のドローン

 ウクライナ軍は侵攻してきたロシア軍に対して、トルコ製の軍用ドローン「バイラクタルTB2」も活用して攻撃し、戦車など多くの戦闘車両を破壊したと伝えられる。同ドローン製造元の企業は「技術の進歩が戦闘手段に劇的な変化をもたらしている」とし、「最先端の地対空システムや先端的砲兵システム、装甲車を破壊することで成果を上げている」「全世界が顧客だ」と拡販を狙う。

 ウクライナ軍は同ドローンを使ってロシア軍の戦闘車両や弾薬貯蔵庫などの破壊に成功した映像を積極的に公開するので、ドローンを活用したピンポイント攻撃が非常に効果的だとのイメージが高まった。だが、ロシア軍の地対空ミサイルに撃墜されたドローンも少なくないと言われ、軍事用ドローンの使用で必ず戦場において優勢になることができるかどうかは不明だ。

 同ドローンは長さ6.5m、翼長12mで、ミサイルやレーザー誘導爆弾などを4基(計150kgまで)装備でき、巡航速度130km/h、運用高度5500m、航続時間は27時間、製造コストは1億〜2億円とされる。初飛行は2014年で、中東やアフリカなど諸国に販売され、リビアやシリアでは内戦で政府軍が敵対勢力の攻撃に使用したという。

 トルコ製ドローンを2020年のアルメニアとの戦争でアゼルバイジャン軍が活用した。アルメニア側はレーダーでドローンを有効に検知できず、また、ドローンを誘導する通信を遮断する機器を備えておらず、ドローンによる偵察と集中的な砲撃などの攻撃を連動させたアゼルバイジャン軍が優勢に戦いを進めた。停戦合意でナゴルノ・カラバフの大部分を得たアゼルバイジャンの勝利に寄与したとトルコ製ドローンは注目されていた。

 軍事用ドローンはミサイルなどを搭載して攻撃力を有するが、民生用のドローンでも偵察やミサイルなどの誘導に活用できる。ウクライナの戦場では米国製や中国製のドローンを双方の軍が偵察などに使用しているとされ、ウクライナは中国DJI社のドローンがロシア軍のミサイル誘導に使われていると批判、中国DJI社はロシアとウクライナでの事業活動の一時停止に追い込まれた。中国DJI社のドローンは世界の多くの軍事紛争地域で活用されているという。

 ドローンは戦場の様相を一変させた。偵察衛星による情報は断片的だが、戦場上空で飛行し続けるドローンはリアルタイム(即時)の戦力配置などの情報を提供する。ドローンの登場で、戦場で部隊や兵は常に見られている状況になった。今後の戦場においては、いかにドローンの偵察や攻撃を阻止するかが重要になり、ドローンに対する補足能力と攻撃力が勝敗を左右するかもしれない。

 戦場の上空に長時間滞在することでドローンは偵察やピンポイント攻撃の効果を発揮できる。だが、軍事用ドローンは大量の燃料を積載する必要があり、大型化する。それはレーダーに捕捉されやすくなることでもある。やがてドローンは自律飛行するようになり、AIなどで判断して敵目標を攻撃するとともに防御行動もできるようになるだろう。人間不在のドローンが地上の人間を殺傷することが戦場の日常となる。

2022年6月4日土曜日

死刑制度

 世界で死刑を事実上廃止した国は144で、存置国は55という(2020年、アムネスティ調べ)。事実上廃止した144カ国の内訳は、すべての犯罪に対して廃止が108カ国、通常犯罪のみ廃止が8カ国、事実上の廃止が2カ国。世界での死刑執行件数は18カ国で483件以上(中国と北朝鮮は件数不明)。死刑執行が多い上位5カ国は中国、イラン、エジプト、イラク、サウジアラビアと推定。

 死刑制度が存続している日本でも死刑制度の廃止を求める声はあるが、多数とはなっていないようだ。内閣府の死刑制度についての世論調査(2019年)によると、「死刑は廃止すべき」9.0%、「死刑もやむを得ない」80.8%で約9割が死刑制度を容認している(「わからない・一概に言えない」10.2%)。この種の調査は設問次第で調査結果を誘導することができることを勘案すべきだが、死刑容認が多数であることは確かそうだ。

 「死刑もやむを得ない」理由は、56.6%の人が「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」、53.6%は「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた(重複回答)。厳しく罰するべきだと見ている。だから「将来も死刑を廃止しない」54.4%と過半数。だが、「状況が変われば死刑を廃止してもよい」39.9%と4割になるので、死刑制度が盤石の支持を得ているとはいえない。

 一方、「死刑は廃止すべき」理由は、50.7%の人が「裁判に誤りがあったとき、死刑にしてしまうと取り返しがつかない」、42.3%が「生かしておいて罪の償いをさせた方がよい」、32.4%が「死刑を廃止しても凶悪な犯罪が増加するとは思わない」、31.7%が「人を殺すことは刑罰であっても人道に反し、野蛮」、31.0%が「国家であっても人を殺すことは許されない」、28.2%が「凶悪な犯罪を犯した者でも更生の可能性がある」(重複回答)。

 加害者に犯した罪に相応する処罰を求める感情は自然なものだろうが、世界では国家が体制に抗う人々を処刑してきた歴史があるので、国家による処刑=死刑制度に対して懐疑的な人々が増え、死刑制度を廃止・凍結する国々が増えた。さらに、検察(国家)が都合よく誘導して死刑に持ち込むなど裁判には誤審がつきものなので、死刑が執行されることに対する警戒感も高まった。

 死刑執行された人間は生き返らないので死刑執行には慎重であるべきだ。だが、残虐な殺人を犯した人物に対する社会の処罰感情が根強い国や、被害者や家族らによる報復感情が尊重される国で死刑制度が存続しているように見える。さらに強権国家では国家反逆罪を独裁統治に活用するので、死刑が増える。

 死刑制度を考えるときには善悪の感情に左右されやすいが、善悪の感情を抜きに死刑制度を考えることは難しい。例えば、効率を最重視すると、刑務所に多人数を長期間閉じ込めておくのは莫大なコストがかかるので、死刑制度により受刑者数を減らしたほうがいいとなる。そうした考えの行き着く先は、ナチスのユダヤ人大量虐殺になる。

 死刑制度を廃止すれば最高刑は釈放なしの無期懲役になる。社会から隔離(排除)されることでは死刑と同じだが、無期懲役になった受刑者が必ず反省し、更生するとは限らない。むしろ釈放されることがないと開き直る可能性もある。死刑か無期懲役か、合理的に判断することは簡単ではなく、やはり善悪の感情が大きく影響しそうだ。

2022年6月1日水曜日

マスクと同調圧力

 欧米諸国などではマスクの着用義務を撤廃する動きが広がっているが、日本ではまだマスク着用が一般的だ。マスク着用が推奨に留まっていたのに日本で人々はマスクを着用し、実質的に着用が義務化されたような状態だった。だが、欧米に比べマスク着用に抵抗感がないと言われる日本でも、いつまでマスク着用を続けなければならないのか?との疑問が出てきた。

 そうした声は、政府に判断を求めるのだが、それはマスク着用について自分で判断して行動できないことを示す。例えば、3密の状態や環境ならマスクを着用し、3密でないなら外すーなどと自分で判断できるなら、義務でもないのだから政府の判断をいちいち求めはしない。マスク着用は、状況に応じて個人が判断すればいいのだが、そうした判断を躊躇する人々がいる。

 政府に判断を求めることを正当化するために持ち出されるのが、同調圧力だ。圧力といっても、マスクを着用しない人に対して人々が「マスクを着用しろ」と直接強制することは少なく、「世間の目が気になる」=「世間の目を気にする」意識から同調圧力の存在を言い募る(同調圧力があるからと、自分で判断することをせずに、流れに黙って従うことを正当化する)。

 同調圧力は便利な言葉だ。自分で判断することを放棄している人が、何やら同調圧力による被害者であるかのように装うことを可能にする。自分で判断することには責任も伴うが、同調圧力があるから仕方がないと、自己判断も自己責任も放棄できる。自分で判断せずに何ごとも政府の判断に従う人々が増えると、民主主義は形骸化する。

 個人で判断できるなら、同調圧力に抗うことができよう。マスクを着用していないことを咎めるような他人の視線は無視すればいいし、何か言われたなら、マスクを着用していない理由を説明してあげればいい。同調圧力に屈するのは、同調圧力に屈したい気持ちがあるからで、自分で判断することを放棄する口実にしている。

 同調圧力は、「少数意見を持つ人に対し、周囲の多くの人と同じように考え行動するように暗黙のうちに強制すること」とか「地域共同体や職場などで意思決定を行う際に、少数意見を有する者に対して暗黙のうちに多数意見に合わせることを強制すること」などと定義される。「暗黙のうちに強制」できるのは、少数意見を有する側が雰囲気に屈するからであり、その少数意見が放棄できることを示す。

 猛暑の夏を前に政府は5月25日、マスク着用が推奨される状況と必要がない状況を細かく説明した指針を公表したが、引き続きマスク着用が基本として推奨されることも示した。重症化率が低下した新型コロナウイルスと共生するなかで欧米諸国はマスク着用義務の撤廃に動き、日本では人々はマスク着用の判断を政府に求め、政府は基本としてマスク着用を推奨し続けた。日本における新型コロナウイルスとの共生は、同調圧力も加わって、一層息苦しいものになる。