日本で文学というと小説、詩歌、戯曲を思い浮かべる人が多いだろう。対象を広げても、随筆や文芸批評、作家の日記や体験記などを含めるぐらいが広義の文学か。だが、文学の定義は固定したものではないらしい。文学の概念は、史伝や歴史書、伝記などを重視したり、古典の注解や政治的・思想的評論なども対象とするなど、国や文化によって幅があるという。
個人が創作した文字表現の世界は広大かつ多様であり、詩の一節と同様に哲学書などの一文に美や面白さを感じたりもすることもある。フィクションに対象を限定せずに、対象を広げることで、文学の世界はもっと豊穣になろう。だが、あまりに多様になりすぎると、人間の知的活動の大半が文学の範疇になりかねない。
中国の影響を受け、詩と散文を重視していた日本で、文学の定義に大きな影響を及ぼしたのが本居信長だという。加藤周一氏は「十八世紀の後半に本居信長が日本文学を定義」し、漢学者や儒者など江戸時代のインテリが批判していた源氏物語を「代表的な文学作品として擁護した」(『日本文学史序説 補講』)という。本居信長は「道徳と文学作品の分離、つまり子どもに道徳を説くことと文学は違う」とし、「「文学は<もののあはれ>といったような美的な感動の表現である」とした(同)。
明治維新以後に儒者の影響力は衰えたが、本居宣長の文学の定義は継承され、漢文は廃れて言葉は日本語、内容は美学と日本文学の定義は狭くなった。そこに西洋化の影響が強くなり、詩と小説と劇が文学の中心だという英国の文学観が輸入され、国学に重なり、さらに第二次大戦後には、詩と芝居と小説だけを文学とする米国の影響を受け、狭い文学の定義が固定化された(同)。
加藤周一氏は著書『日本文学史序説』で文学概念を拡大し、漢文で書かれたものや口承の文学を積極的に取り入れ、宗教的、哲学的著作から農民一揆の檄文まで取り上げた。狭い定義は「日本文学史をいちばん面白く読むための道具ではない」「広い視野で見直せば社会思想も哲学思想もはるかに豊富に出てきて、日本文学史が豊かになる」(同)とし、過去の作品の列挙ではなく、「過去を押さえて、その上に新しいものを付け加えて変化」していったとの歴史を叙述した。
ノーベル文学賞も文学の概念を広げることにしたらしい。2016年のノーベル文学賞の受賞者はボブ・ディラン氏で、受賞理由は「偉大なアメリカ音楽の伝統の中で、新たな詩的表現を創造した」功績によるという。詩人としてではなく歌手としての受賞だそうで、シンガーソングライターも作家の仲間入りか。
ボブ・ディラン氏の歌う世界が豊穣であることは、英語に堪能ではなく、韻を踏むことに面白みも感じない人には理解しづらいだろう。英語圏の人にとってもボブ・ディラン氏の歌詞は簡単には理解できないことがあるというから、難解という点では既成の文学の概念にも当てはまる?
2016年10月29日土曜日
2016年10月26日水曜日
反米という選択肢
中国を訪問したフィリピンのドゥテルテ大統領はビジネスフォーラムの演説で、「軍事的にも経済的にも米国と決別する」と述べ、以前から、米軍との軍事演習打ち切りを表明したり、米国との軍事協力関係の見直しなどを主張していたこともあって、国際的に波紋を広げた。
「米国と決別する」発言が強烈なメッセージになったためかドゥテルテ大統領は帰国後、発言の意図は「アメリカに従属する外交から脱することだ」とし、外交的に断絶することではないと釈明することになったが、過去のフィリピン政権は米国の指示に常に従っていたとし、独自外交路線に転換するとした。
その独自外交の第一歩ともいうべき訪中でドゥテルテ大統領が得たものは、鉄道建設などインフラへの幅広い投資や麻薬中毒患者治療センターの整備支援、貿易の拡大など総額240億ドルの経済支援だった。中国側が豪勢な「土産」を持たせたともいえようが、中国の経済支援は、例えば、中国政府が資金を出し、中国企業が受注して中国人労働者を引き連れて現地で工事を行うだけなので、地元に対する経済的な波及効果が薄いという評価がある。
一方、米国との関係冷え込みでフィリピンが被る経済的な損失が今後どれほどになるのか、まだ定かではない。ドゥテルテ大統領はおそらく損得勘定では動いていないだろうし、かつての米国の植民地支配を批判するなど反米感情は強固だとも見えるので、米国と中国を天秤にかけて損得でドライに動くという外交ではなさそうだ。
アメリカに見向きもされないような小国が、金をばらまく中国を頼るようになるのは珍しい光景ではないが、長くアメリカと同盟関係にあった国が、アメリカからの離反と中国への傾斜を明らかにするのは珍しい。冷戦期なら、すわ裏切りかと見られただろうが、パックスアメリカーナに陰りが見られる現在世界では、アメリカとの“距離”の見直しは各国に共通する課題でもあるな。
陰りが見られるといっても米国はなお突出した大国である。米比の関係でいえばフィリピンは従属的にならざるを得まいだろうが、一寸の虫にも五分の魂があるとズケズケと米国批判をするドゥテルテ大統領の心意気は見習うべきかもしれない(彼は感情的で品がない言い方をするが)。まあ、フィリピンの国策としての反米ではなく、大統領の個性が強く出過ぎている結果としての反米であることは確かだろう。
フィリピンでは、植民地支配していた米国の影響力はなお強いが反米感情も受け継がれているともいう。フィリピンの病巣は大土地所有の富裕層の中で権力をたらい回ししていることで、そうした富裕層は米国との結びつきが強いとされる。ドゥテルテ大統領が米国を批判するのは、国内の富裕層をも念頭に置いているものだとすれば、彼の支持率が非常に高いこともうなずける。
「米国と決別する」発言が強烈なメッセージになったためかドゥテルテ大統領は帰国後、発言の意図は「アメリカに従属する外交から脱することだ」とし、外交的に断絶することではないと釈明することになったが、過去のフィリピン政権は米国の指示に常に従っていたとし、独自外交路線に転換するとした。
その独自外交の第一歩ともいうべき訪中でドゥテルテ大統領が得たものは、鉄道建設などインフラへの幅広い投資や麻薬中毒患者治療センターの整備支援、貿易の拡大など総額240億ドルの経済支援だった。中国側が豪勢な「土産」を持たせたともいえようが、中国の経済支援は、例えば、中国政府が資金を出し、中国企業が受注して中国人労働者を引き連れて現地で工事を行うだけなので、地元に対する経済的な波及効果が薄いという評価がある。
一方、米国との関係冷え込みでフィリピンが被る経済的な損失が今後どれほどになるのか、まだ定かではない。ドゥテルテ大統領はおそらく損得勘定では動いていないだろうし、かつての米国の植民地支配を批判するなど反米感情は強固だとも見えるので、米国と中国を天秤にかけて損得でドライに動くという外交ではなさそうだ。
アメリカに見向きもされないような小国が、金をばらまく中国を頼るようになるのは珍しい光景ではないが、長くアメリカと同盟関係にあった国が、アメリカからの離反と中国への傾斜を明らかにするのは珍しい。冷戦期なら、すわ裏切りかと見られただろうが、パックスアメリカーナに陰りが見られる現在世界では、アメリカとの“距離”の見直しは各国に共通する課題でもあるな。
陰りが見られるといっても米国はなお突出した大国である。米比の関係でいえばフィリピンは従属的にならざるを得まいだろうが、一寸の虫にも五分の魂があるとズケズケと米国批判をするドゥテルテ大統領の心意気は見習うべきかもしれない(彼は感情的で品がない言い方をするが)。まあ、フィリピンの国策としての反米ではなく、大統領の個性が強く出過ぎている結果としての反米であることは確かだろう。
フィリピンでは、植民地支配していた米国の影響力はなお強いが反米感情も受け継がれているともいう。フィリピンの病巣は大土地所有の富裕層の中で権力をたらい回ししていることで、そうした富裕層は米国との結びつきが強いとされる。ドゥテルテ大統領が米国を批判するのは、国内の富裕層をも念頭に置いているものだとすれば、彼の支持率が非常に高いこともうなずける。
2016年10月22日土曜日
最高権威と最高権力
各種のミサイル発射を繰り返し、核実験を続ける北朝鮮。同じような核開発疑惑があったイランやリビアに対して米国は、絶対に許さないと強硬な姿勢で核開発を止めようとしたが、北朝鮮には核開発を許した。北朝鮮の核開発能力を軽視しすぎたのか、中国の北朝鮮に対する影響力に過大に期待したためか、朝鮮半島の休戦状態維持を最優先したのか定かではないが、もう米国の影響力が限定的であることを示した。
米国は米韓合同軍事演習の規模を拡大して「警告」を繰り返すが、北朝鮮が核開発を放棄する気配はない。逆に、その演習を自国に対する現実的脅威だと北朝鮮は、ミサイル発射や核実験を正当化する口実に利用しているように見える。双方が軍事力を誇示しあっているような状況は偶発的衝突を招きかねない。
軍事力では米軍が圧倒的な優位にあるが、北朝鮮軍の敗北=北朝鮮の体制崩壊であろうから大量の難民(逃亡者)の発生や韓国の負担増大が懸念され、“勝てる”戦争に米国は踏み切れない。北朝鮮を国家として存続させつつ、ミサイルや核の開発を止めさせ、軍事力偏重から民生の向上重視へと政策を転換させることができれば米国はじめ周辺諸国には望ましいのだろうが、北朝鮮に路線変更の徴候は見えない。
北朝鮮には世襲の独裁的な権力者が存在するが、現在の金正恩氏がトップになって以来、対外的に硬直した強硬姿勢を続け、国際的な経済制裁にも反発するだけだ。ミサイルや核の開発に注力するのは、それが現政権にとって何らかの合理性がある選択なのだろうが、どのような合理性があるのか、北朝鮮内部の情報が不足しているので外部からは判断できない。
そうした中で、北朝鮮の独裁者の排除計画が米軍に存在すると報じられた。軍事的には常に各種の行動計画を検討しているのだろうが、本当に対象者を暗殺するつもりなら、相手の警戒心を刺激しないように計画は秘密裡にしておかなければならない。外部に知られるようにすることは「警告」や脅しが狙いだろうが、暗殺が困難であることを示しているようでもある。
さて、もし北朝鮮で独裁者が排除されたなら、体制崩壊をせずに国家として存続するのだろうか、体制崩壊するのだろうか。それを類推するには、独裁者が北朝鮮の人々にとって、どのような存在であるのかを知らなければならない。政治的な最高権力者というだけか、至高の価値を体現する最高権威者なのか。ただの最高権力者であったのなら、独裁者が排除されると混乱が広がるだろうが国としては存続可能かもしれない。
イラクのフセインやリビアのカダフィが殺された後には破綻した国家が残された。独裁支配による強権で締め付けている体制は、独裁者という重しが外れるとバラバラになる。一方、1945年に日本を占領した米国は、当時は独裁者と見なされた天皇を処刑せず、日本人の反乱を防止するとともに占領業務の遂行に利用した。最高権威者として米国は天皇を位置づけ、独立を失った日本は国家としては存続した。
世襲で権力を継承した北朝鮮の最高権力者は、さて、最高権威者でもあるのだろうか。残忍な最高権力者であったなら、外部からの力で排除された時に人々は喜ぶだろうが、最高権威者でもあったなら、国が存続する意味が薄れ、体制は崩壊するだろう(外部からの力に立ち向かって反乱を起こすだけの力が民間にあるようには見えない)。最高権力者か最高権威者か、見極めは容易ではなさそうだ。
米国は米韓合同軍事演習の規模を拡大して「警告」を繰り返すが、北朝鮮が核開発を放棄する気配はない。逆に、その演習を自国に対する現実的脅威だと北朝鮮は、ミサイル発射や核実験を正当化する口実に利用しているように見える。双方が軍事力を誇示しあっているような状況は偶発的衝突を招きかねない。
軍事力では米軍が圧倒的な優位にあるが、北朝鮮軍の敗北=北朝鮮の体制崩壊であろうから大量の難民(逃亡者)の発生や韓国の負担増大が懸念され、“勝てる”戦争に米国は踏み切れない。北朝鮮を国家として存続させつつ、ミサイルや核の開発を止めさせ、軍事力偏重から民生の向上重視へと政策を転換させることができれば米国はじめ周辺諸国には望ましいのだろうが、北朝鮮に路線変更の徴候は見えない。
北朝鮮には世襲の独裁的な権力者が存在するが、現在の金正恩氏がトップになって以来、対外的に硬直した強硬姿勢を続け、国際的な経済制裁にも反発するだけだ。ミサイルや核の開発に注力するのは、それが現政権にとって何らかの合理性がある選択なのだろうが、どのような合理性があるのか、北朝鮮内部の情報が不足しているので外部からは判断できない。
そうした中で、北朝鮮の独裁者の排除計画が米軍に存在すると報じられた。軍事的には常に各種の行動計画を検討しているのだろうが、本当に対象者を暗殺するつもりなら、相手の警戒心を刺激しないように計画は秘密裡にしておかなければならない。外部に知られるようにすることは「警告」や脅しが狙いだろうが、暗殺が困難であることを示しているようでもある。
さて、もし北朝鮮で独裁者が排除されたなら、体制崩壊をせずに国家として存続するのだろうか、体制崩壊するのだろうか。それを類推するには、独裁者が北朝鮮の人々にとって、どのような存在であるのかを知らなければならない。政治的な最高権力者というだけか、至高の価値を体現する最高権威者なのか。ただの最高権力者であったのなら、独裁者が排除されると混乱が広がるだろうが国としては存続可能かもしれない。
イラクのフセインやリビアのカダフィが殺された後には破綻した国家が残された。独裁支配による強権で締め付けている体制は、独裁者という重しが外れるとバラバラになる。一方、1945年に日本を占領した米国は、当時は独裁者と見なされた天皇を処刑せず、日本人の反乱を防止するとともに占領業務の遂行に利用した。最高権威者として米国は天皇を位置づけ、独立を失った日本は国家としては存続した。
世襲で権力を継承した北朝鮮の最高権力者は、さて、最高権威者でもあるのだろうか。残忍な最高権力者であったなら、外部からの力で排除された時に人々は喜ぶだろうが、最高権威者でもあったなら、国が存続する意味が薄れ、体制は崩壊するだろう(外部からの力に立ち向かって反乱を起こすだけの力が民間にあるようには見えない)。最高権力者か最高権威者か、見極めは容易ではなさそうだ。
2016年10月19日水曜日
子供の悲惨な写真
シリア北部アレッポで、反体制派が支配する地域にアサド政府軍とロシア軍によるとみられる空爆が続き、少なからぬ民間人の死傷者が出ていると報じられている。欧米のメディアでは、崩れたビルから救出された子供の姿など、悲惨さを強調し、同情心を煽る写真が大きく扱われているそうだ。ユニセフは9月23日からの1週間で少なくとも96人の子供が死亡し、223人が負傷したと発表。
アレッポから悲惨さを伝える情報発信が行われるのは、国際的な人権組織が入って活動しているからだ。アサド政権の支配地域では活動に制約があるということなので情報は乏しく、おそらく米軍主導の有志連合がISに対して行うという空爆によっても民間人に被害が出ている可能性があるが、それらの地域での悲惨さはほとんど伝えられない。
新聞やテレビ以外にネットによる情報発信も活発になったが、情報源に制約があることは珍しくなく、特定の意図に沿った情報誘導が行われることも珍しくない。シリア内戦に関して膨大な情報が発信されているが、それらの情報を熱心にフォローしたとしても、シリア内戦の正確な偏らない全体像が構築できるとは限らない。民間人の犠牲の悲惨さに心を痛め、同情するのは自然だろうが、同情するように情報操作されている可能性がある。
欧州メディアには「前科」がある。ボスニアやコソボの紛争で、子供を含む家族の殺害された写真や女性の被害など、対立する一方の側の被害だけを強調して世論を誘導し、NATOの介入などへ道を開いた。メディアに特定の意図はなく、その時々のニュース価値だけで判断していたのかもしれないが、結果として、対立する一方の側の暴力に対する批判だけを高めることに協力した。
傷ついた子供の写真を見せられると、人は感情を揺すぶられる。助けてあげたい、救ってあげたいとの思いを刺激されるが、写真に写った傷ついた子供は遥か遠くの土地にいるので、何もしてあげられない。その種の無力感は、例えば、空爆を行っている国や組織に対する怒りを増幅させる可能性がある。傷ついた子供がいるのだから怒りには正当性が与えられようし、感情に支えられた正当性は、相手側に対する攻撃(反撃)を正当化したりする。
子供を傷つけているような国や組織に対する攻撃が行われると、そこでも傷つき、死ぬ子供たちや民間人が出るのだが、そのような写真が発信されたとしてもメディアはもう取り上げないだろう。非道な「敵」に「罰」を与えることを支持するように世論を形成したなら、それに疑いを持たせるような報道は控えられる。メディアが正義を言い立てて、「戦いの正当性」を批判しなくなることは珍しいことではない。
悲惨な子供の写真といえば、内戦のシリアから逃れギリシャを目指したボートが転覆し、トルコの海岸に打ち上げられた3歳児の溺死写真を欧州メディアは大きく取り上げた。これで、悲惨な状況にあるシリア難民に対する同情が一気に高まり、世論に押されて欧州各国が難民受け入れに積極的になり、各国が大量の難民を受け入れ始めた……とは、ならなかった。遠く離れた土地での子供には同情するだけで済むが、実際に負担を伴うとなると感情に動かされてばかりもいられないということか。
アレッポから悲惨さを伝える情報発信が行われるのは、国際的な人権組織が入って活動しているからだ。アサド政権の支配地域では活動に制約があるということなので情報は乏しく、おそらく米軍主導の有志連合がISに対して行うという空爆によっても民間人に被害が出ている可能性があるが、それらの地域での悲惨さはほとんど伝えられない。
新聞やテレビ以外にネットによる情報発信も活発になったが、情報源に制約があることは珍しくなく、特定の意図に沿った情報誘導が行われることも珍しくない。シリア内戦に関して膨大な情報が発信されているが、それらの情報を熱心にフォローしたとしても、シリア内戦の正確な偏らない全体像が構築できるとは限らない。民間人の犠牲の悲惨さに心を痛め、同情するのは自然だろうが、同情するように情報操作されている可能性がある。
欧州メディアには「前科」がある。ボスニアやコソボの紛争で、子供を含む家族の殺害された写真や女性の被害など、対立する一方の側の被害だけを強調して世論を誘導し、NATOの介入などへ道を開いた。メディアに特定の意図はなく、その時々のニュース価値だけで判断していたのかもしれないが、結果として、対立する一方の側の暴力に対する批判だけを高めることに協力した。
傷ついた子供の写真を見せられると、人は感情を揺すぶられる。助けてあげたい、救ってあげたいとの思いを刺激されるが、写真に写った傷ついた子供は遥か遠くの土地にいるので、何もしてあげられない。その種の無力感は、例えば、空爆を行っている国や組織に対する怒りを増幅させる可能性がある。傷ついた子供がいるのだから怒りには正当性が与えられようし、感情に支えられた正当性は、相手側に対する攻撃(反撃)を正当化したりする。
子供を傷つけているような国や組織に対する攻撃が行われると、そこでも傷つき、死ぬ子供たちや民間人が出るのだが、そのような写真が発信されたとしてもメディアはもう取り上げないだろう。非道な「敵」に「罰」を与えることを支持するように世論を形成したなら、それに疑いを持たせるような報道は控えられる。メディアが正義を言い立てて、「戦いの正当性」を批判しなくなることは珍しいことではない。
悲惨な子供の写真といえば、内戦のシリアから逃れギリシャを目指したボートが転覆し、トルコの海岸に打ち上げられた3歳児の溺死写真を欧州メディアは大きく取り上げた。これで、悲惨な状況にあるシリア難民に対する同情が一気に高まり、世論に押されて欧州各国が難民受け入れに積極的になり、各国が大量の難民を受け入れ始めた……とは、ならなかった。遠く離れた土地での子供には同情するだけで済むが、実際に負担を伴うとなると感情に動かされてばかりもいられないということか。
2016年10月15日土曜日
義が行動原理
童話「桃太郎」のストーリーや人物設定などは地方によって様々な違いがあるそうだが、一般的なのは、桃から産まれた桃太郎が老夫婦に育てられ、成長してから鬼が島に行って、人々を苦しめる鬼を退治し、宝物を持ち帰るという筋書きだ。鬼退治には、犬、猿、キジに黍団子を与えて家来にして連れて行ったとされる。
だが、犬、猿、キジを桃太郎の家来と位置づけたのは明治以降であるという。もともとの話では、動物たちは同志であったり、道連れであったりしたのだが、富国強兵を目指す時代の気分にふさわしいように、忠孝とか報恩などの価値観を奨励しつつ、忠義を捧げられるべき主役と、忠誠を尽くすべき脇役を明確化させたのかもしれない。
犬、猿、キジが家来になったのではなく、桃太郎の同志であったなら、童話「桃太郎」の印象は変わってこよう。黍団子を貰ったから桃太郎に従うという話なら動物たちは目先の利益につられて動く存在でしかないが、「俺らも鬼には、ひどい目にあってるんだ」などという動機から、桃太郎の同志として動く話になると、動物たちの主体性が浮かんで見えてくる。
動物たちが同志になるには、敵は鬼であることを桃太郎と共有することが大前提だ。敵目標が一致するから、それまでバラバラに生きてきた桃太郎と動物たちが、連帯して共同戦線を構築することが可能になる。それ以前は、鬼に散々、ひどい目にあっていた人や動物たちが共同で対処しようとしなかったから、鬼は好き勝手に振る舞うことができた。彼らに欠けていたものは何か。
桃太郎と動物たちが同志になって共同戦線を構築することを支えるものは、敵目標の一致に加え、精神的な結びつきだ。生死を共にした戦いで同志となるには、黍団子などの利益供与ではなく、互いの信頼感が不可欠となる。そうした精神的な結びつきを義という言葉で説くのが竹中労だ。
竹中労は「〔義〕とは、人を呪縛するいっさいの公序良俗、国家権力に叛逆することである。〔すべて兄弟、貴賤を分たず〕という、血盟それ自体を指すのではない、まして無可有のユトピアの理想に殉ずることではない、いかなる報酬をも期待せず、ひたすら権力との闘争の過程に奮迅することによって、窮民の〔義〕は全うされるのである」(『水滸伝−−窮民革命のための序説』1973年刊。平岡正明との共著)とする。
これは窮民革命を論じた文章なので竹中労は、権力への叛逆に重点を置いて義を説明したが、竹中労は無党派・自由連合を基本と考えたので、自由連合への個々の参加意識を支えるものを義と見たはずだ。人間関係に束縛されず、思想信条・主義主張にも束縛されず、共通の敵を倒すためだけに連合する……各自が持つ義が共鳴するときに共同戦線が構築されるなら、理想的な展開だろう。
一般的な義の解釈は「行為が道徳・倫理にかなっていること」「よいとされる行為」などと幅広いが、竹中労はそこに個人の意思を加え、義は各自各人で形成するものと見なした。仁義や義理、正義、義務、意義など義を含む言葉は多いが、これらの言葉を現実に当てはめた実際の解釈では個人差が大きいから、どのような義を形成するかを各自は問われる。
時代劇でお馴染みの「義によって助太刀いたす」の言葉を動物たちが発したかどうかは知らないが、桃太郎と動物たちは同志となって鬼を倒した後、動物たちは各自がそれぞれの生活に戻ったに違いない。参加も自由だし、離脱も自由で、共通の敵を倒すときだけに共同するのが義による自由連合だから。
だが、犬、猿、キジを桃太郎の家来と位置づけたのは明治以降であるという。もともとの話では、動物たちは同志であったり、道連れであったりしたのだが、富国強兵を目指す時代の気分にふさわしいように、忠孝とか報恩などの価値観を奨励しつつ、忠義を捧げられるべき主役と、忠誠を尽くすべき脇役を明確化させたのかもしれない。
犬、猿、キジが家来になったのではなく、桃太郎の同志であったなら、童話「桃太郎」の印象は変わってこよう。黍団子を貰ったから桃太郎に従うという話なら動物たちは目先の利益につられて動く存在でしかないが、「俺らも鬼には、ひどい目にあってるんだ」などという動機から、桃太郎の同志として動く話になると、動物たちの主体性が浮かんで見えてくる。
動物たちが同志になるには、敵は鬼であることを桃太郎と共有することが大前提だ。敵目標が一致するから、それまでバラバラに生きてきた桃太郎と動物たちが、連帯して共同戦線を構築することが可能になる。それ以前は、鬼に散々、ひどい目にあっていた人や動物たちが共同で対処しようとしなかったから、鬼は好き勝手に振る舞うことができた。彼らに欠けていたものは何か。
桃太郎と動物たちが同志になって共同戦線を構築することを支えるものは、敵目標の一致に加え、精神的な結びつきだ。生死を共にした戦いで同志となるには、黍団子などの利益供与ではなく、互いの信頼感が不可欠となる。そうした精神的な結びつきを義という言葉で説くのが竹中労だ。
竹中労は「〔義〕とは、人を呪縛するいっさいの公序良俗、国家権力に叛逆することである。〔すべて兄弟、貴賤を分たず〕という、血盟それ自体を指すのではない、まして無可有のユトピアの理想に殉ずることではない、いかなる報酬をも期待せず、ひたすら権力との闘争の過程に奮迅することによって、窮民の〔義〕は全うされるのである」(『水滸伝−−窮民革命のための序説』1973年刊。平岡正明との共著)とする。
これは窮民革命を論じた文章なので竹中労は、権力への叛逆に重点を置いて義を説明したが、竹中労は無党派・自由連合を基本と考えたので、自由連合への個々の参加意識を支えるものを義と見たはずだ。人間関係に束縛されず、思想信条・主義主張にも束縛されず、共通の敵を倒すためだけに連合する……各自が持つ義が共鳴するときに共同戦線が構築されるなら、理想的な展開だろう。
一般的な義の解釈は「行為が道徳・倫理にかなっていること」「よいとされる行為」などと幅広いが、竹中労はそこに個人の意思を加え、義は各自各人で形成するものと見なした。仁義や義理、正義、義務、意義など義を含む言葉は多いが、これらの言葉を現実に当てはめた実際の解釈では個人差が大きいから、どのような義を形成するかを各自は問われる。
時代劇でお馴染みの「義によって助太刀いたす」の言葉を動物たちが発したかどうかは知らないが、桃太郎と動物たちは同志となって鬼を倒した後、動物たちは各自がそれぞれの生活に戻ったに違いない。参加も自由だし、離脱も自由で、共通の敵を倒すときだけに共同するのが義による自由連合だから。
2016年10月12日水曜日
引退の決断
五輪が終わって暫くすると、参加した選手の引退が報じられるようになる。ニュースになるのは上位でメダル争いした選手たちに限られるが、様々の競技で多くの選手が引退し、世代交代が行われているだろう。こうした引退は競技から離れることを意味するのだろうが、アマチュア選手なら第一線からの引退もある。
第一線からの引退とは、代表選手になることを辞退したり、勝利だけを目指すことをやめたりすることだが、勝敗や順位にとらわれず楽しむためにスポーツは続ける。過酷な練習から解放されて、ミスやヘマも笑いのタネにし、体を動かすことを楽しむようになるなら、それは一般の人にとってのスポーツの意味と同じになる。
プロ選手には第一線からの引退は許されず、引退はその競技からの離脱を意味し、生活の糧を失うことも意味する。9月に入るとプロ野球界では選手の引退表明が相次ぐようになり、主力だった選手の引退は大きく報じられ、10月になると各球団が戦力外通告を始め、スポーツ新聞の「12球団戦力外・引退選手一覧」などに掲載される名前が日ごとに増え、スター選手だけでプロスポーツが成り立っているわけではないと実感させる。
目立った活躍をすることがなかったプロ選手なら引退を当人も周囲も受け入れやすいかもしれないが、活躍した実績を持つプロ選手の現役引退の判断は簡単ではないだろう。年齢とともに成績が下降するのは避けられまいが、まだ一流と見られているうちに“美しく”引退するか、二流扱いされるようになっても現役を長く続けるか。どちらもそれなりに納得できる選手生活であろうから、個人の美学の違いとでも見るしかなさそうだ。
プロ選手の引退の美学の最たるものは、一流として活躍しているうちに引退することか。まだ、できるのにと周囲やファンは驚きつつ惜しみながら、その競技への愛着が強くはなかったと明かされたようでもあり残念に感じたりする。プライドが強い人ほど、一流でいるうちに引退したがるのか、ボロボロになっても俺は俺だと続けるのか定かではないが、惜しまれつつ引退することはプロ選手の特権の一つか。
格好のいい引退だけが美学の対象ではない。若手に負けたり、若手に追い越されたりすることも、若手の目標になる一流選手の責務だと考え、若手に負けるまで現役を続けるのもプロ選手の美学だ。若手に追い越されたなら、世代交代が自分の身にも及んできたと自覚でき、為すべきことは為したと現役への未練が薄れて引退を決断しやすくなるかもしれない。
スポーツ選手の全盛期は長くはない。10年も一流選手でいられたなら大選手と称讃されるだろう。ファンも、うっかりしていられない。関心が薄れて10年も遠ざかっていたなら、活躍する選手の顔ぶれが大幅に変わってしまう。主力選手の多くが自分より年下になって、プロ選手が憧れる対象というより、ただ眺めるものになったりする。引退は選手の世代交代を進めるとともに、ファンの世代交代も進める。
第一線からの引退とは、代表選手になることを辞退したり、勝利だけを目指すことをやめたりすることだが、勝敗や順位にとらわれず楽しむためにスポーツは続ける。過酷な練習から解放されて、ミスやヘマも笑いのタネにし、体を動かすことを楽しむようになるなら、それは一般の人にとってのスポーツの意味と同じになる。
プロ選手には第一線からの引退は許されず、引退はその競技からの離脱を意味し、生活の糧を失うことも意味する。9月に入るとプロ野球界では選手の引退表明が相次ぐようになり、主力だった選手の引退は大きく報じられ、10月になると各球団が戦力外通告を始め、スポーツ新聞の「12球団戦力外・引退選手一覧」などに掲載される名前が日ごとに増え、スター選手だけでプロスポーツが成り立っているわけではないと実感させる。
目立った活躍をすることがなかったプロ選手なら引退を当人も周囲も受け入れやすいかもしれないが、活躍した実績を持つプロ選手の現役引退の判断は簡単ではないだろう。年齢とともに成績が下降するのは避けられまいが、まだ一流と見られているうちに“美しく”引退するか、二流扱いされるようになっても現役を長く続けるか。どちらもそれなりに納得できる選手生活であろうから、個人の美学の違いとでも見るしかなさそうだ。
プロ選手の引退の美学の最たるものは、一流として活躍しているうちに引退することか。まだ、できるのにと周囲やファンは驚きつつ惜しみながら、その競技への愛着が強くはなかったと明かされたようでもあり残念に感じたりする。プライドが強い人ほど、一流でいるうちに引退したがるのか、ボロボロになっても俺は俺だと続けるのか定かではないが、惜しまれつつ引退することはプロ選手の特権の一つか。
格好のいい引退だけが美学の対象ではない。若手に負けたり、若手に追い越されたりすることも、若手の目標になる一流選手の責務だと考え、若手に負けるまで現役を続けるのもプロ選手の美学だ。若手に追い越されたなら、世代交代が自分の身にも及んできたと自覚でき、為すべきことは為したと現役への未練が薄れて引退を決断しやすくなるかもしれない。
スポーツ選手の全盛期は長くはない。10年も一流選手でいられたなら大選手と称讃されるだろう。ファンも、うっかりしていられない。関心が薄れて10年も遠ざかっていたなら、活躍する選手の顔ぶれが大幅に変わってしまう。主力選手の多くが自分より年下になって、プロ選手が憧れる対象というより、ただ眺めるものになったりする。引退は選手の世代交代を進めるとともに、ファンの世代交代も進める。
2016年10月8日土曜日
中心気圧
2016年10月4日に台風18号が沖縄を襲い、気象庁は数十年に1度の災害が予想されるとして沖縄本島地方に大雨、暴風、波浪、高潮の特別警報を発表した。この時点で台風18号は中心気圧915hPa、中心付近の最大風速(10分間平均)は秒速55m、最大瞬間風速は同75m、強さは「猛烈」とされた。
この台風18号は沖縄をかすめて北進し、韓国南部に大きな被害をもたらした。韓国では済州道で最大風速(10分間平均)49m、最大瞬間風速56・5mを記録し、韓国で観測された強風の中で歴代6位にあたると韓国気象庁。豪雨により大小の河川が氾濫し、現代自動車の蔚山第2工場では生産ライン停止を余儀なくされ、釜山市の海沿いにある高級マンションは高波で浸水し、海産物の屋台約30軒はが全壊したという。
中心気圧は台風の規模を見る目安ともなるが、今回の台風18号は915hPaと非常に低い。過去に日本を襲った台風(統計が始まった1951年以降)では、1961年9月の第二室戸台風が925hPaで最も低く、次いで1959年9月の伊勢湾台風が929hPa。今回の台風18号は観測史上で最大規模の台風ということになる。ただし、今年9月に台湾、中国大陸を襲った台風14号は中心気圧が890hPaだった。
統計開始以前では、1934年9月の室戸台風が911.6hPa、1945年9月の枕崎台風が916.1hPaと共に死者・行方不明者が3千人を超した台風があり、今回の台風18号はそれらに匹敵する巨大台風だった。強い勢力を維持したまま、沖縄付近から進路が北東にずれて日本列島を縦断していたなら、大きな被害は免れ難かっただろう。
フィリピンは2013年11月に台風30号の直撃を受け、高潮や強風などで死者・行方不明者8千人以上という大災害となった。この台風の中心気圧は895hPaまで低下し、中心付近で風速87.5m、最大瞬間風速105mという巨大台風だった。2005年8月に米ニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナは中心気圧902hPa。堤防決壊でニューオーリンズの8割を水没させ、死者・行方不明者2500人以上だった。
巨大で猛烈な台風に襲われると、すぐ異常気象と結びつけて考えがちだが、過去の記録を見ると、同規模の巨大台風に日本は何度も襲われていたことが明らかになる。観測体制が整っていない19世紀以前にも、おそらく巨大台風(熱帯低気圧)が日本や世界を何度も襲っていただろう。
巨大台風を異常現象だとするのは恐怖心を煽るためには好都合だろうが、過去から何度も巨大台風は日本を襲っていた。巨大台風は時には来るものだと認識するならば、「正しく怖がる」ことができよう。正しく怖がるとは適切な対応を行うということ。つまり、想定される被害を前提にして、予め対策を講じることだ。
この台風18号は沖縄をかすめて北進し、韓国南部に大きな被害をもたらした。韓国では済州道で最大風速(10分間平均)49m、最大瞬間風速56・5mを記録し、韓国で観測された強風の中で歴代6位にあたると韓国気象庁。豪雨により大小の河川が氾濫し、現代自動車の蔚山第2工場では生産ライン停止を余儀なくされ、釜山市の海沿いにある高級マンションは高波で浸水し、海産物の屋台約30軒はが全壊したという。
中心気圧は台風の規模を見る目安ともなるが、今回の台風18号は915hPaと非常に低い。過去に日本を襲った台風(統計が始まった1951年以降)では、1961年9月の第二室戸台風が925hPaで最も低く、次いで1959年9月の伊勢湾台風が929hPa。今回の台風18号は観測史上で最大規模の台風ということになる。ただし、今年9月に台湾、中国大陸を襲った台風14号は中心気圧が890hPaだった。
統計開始以前では、1934年9月の室戸台風が911.6hPa、1945年9月の枕崎台風が916.1hPaと共に死者・行方不明者が3千人を超した台風があり、今回の台風18号はそれらに匹敵する巨大台風だった。強い勢力を維持したまま、沖縄付近から進路が北東にずれて日本列島を縦断していたなら、大きな被害は免れ難かっただろう。
フィリピンは2013年11月に台風30号の直撃を受け、高潮や強風などで死者・行方不明者8千人以上という大災害となった。この台風の中心気圧は895hPaまで低下し、中心付近で風速87.5m、最大瞬間風速105mという巨大台風だった。2005年8月に米ニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナは中心気圧902hPa。堤防決壊でニューオーリンズの8割を水没させ、死者・行方不明者2500人以上だった。
巨大で猛烈な台風に襲われると、すぐ異常気象と結びつけて考えがちだが、過去の記録を見ると、同規模の巨大台風に日本は何度も襲われていたことが明らかになる。観測体制が整っていない19世紀以前にも、おそらく巨大台風(熱帯低気圧)が日本や世界を何度も襲っていただろう。
巨大台風を異常現象だとするのは恐怖心を煽るためには好都合だろうが、過去から何度も巨大台風は日本を襲っていた。巨大台風は時には来るものだと認識するならば、「正しく怖がる」ことができよう。正しく怖がるとは適切な対応を行うということ。つまり、想定される被害を前提にして、予め対策を講じることだ。
2016年10月5日水曜日
FAと世代交代
2016年のプロ野球のリーグ優勝は、パは日本ハム、セは広島となった。一昔前には東京をホームとする巨人の人気が突出し、他の球団は巨人人気に頼っていたことを振り返ると、球団の地方への分散により新規ファンを開拓する一方、各球団が巨人人気に頼らない球団経営を行い、その成果が現れたといえよう。地方経済が着実に“厚み”を増していることの反映でもある。
東京や大阪などから地方に移転した球団は、地元ファンを球場に集客することが基本となる。応援しながら観戦することが楽しいことだと認識してもらうためには、まず球場に来てもらわなければならない。球場に来る動機づけに工夫が必要だが、第一に必要なことは、強いチームをつくることだ。
といっても、FAで有力選手を集めるようなチームづくりでは地元ファンは育たない。負けが多い弱いチームから、若手選手が力をつけて優勝争いに絡む強いチームへと成長する過程をファンと共有し、自分たちのチームだとの意識を育てることに成功したなら理想的な展開だろう。日本ハムも広島も、若手選手を育てて強いチームになった。
一方で、低迷から脱することができないのが名古屋をホームとする中日ドラゴンズだ。地元では圧倒的な人気があり、優勝争いに絡まなくても200万人ほどの集客があるが、若手選手が主力に育たず、トレードやFAにも消極的で、チームを強くしようとの球団の決意が希薄であるように見える。弱くても球場に観客が来るからと球団経営が弛緩しているのか。
少し前のドラゴンズは毎年、優勝争いに絡むチームで強かった。弱くなった要因は、第一に世代交代に失敗したこと。第二に投手力が弱体化したこと。第三に監督などが頻繁に交代すること。根本にあるのは、球団にチーム編成のビジョンが欠如していることだろう。何を変え、何を変えてはいけないのか、現在のドラゴンズからは見えてこない。
強かった当時のドラゴンズは、30代の主力選手と次々に長期契約を交わし、引き止めることに成功したが、それが世代交代を阻害した。FAで主力選手が他チームに移ったなら、ポジションが空く。ベテランの主力選手が残ったなら、目先の勝利のためには起用するだろうから、若手の出番は少なくなり、経験を積む機会が減る。FAにはチームの新陳代謝を促進する効果もある。
2016年10月1日土曜日
中国人とサングラス
日本に多くの中国人観光客が来るようになり、その姿を地方の観光地でも見かけることが多くなった。集団で歩き、活発に大きな声で話したり、女性らが原色の組み合わせの目立つ服装だったりするので、それと察しがつく。子供や老人も多く、一家眷属揃って出掛けてきているらしいことがうかがえたりする。
中国人観光客は旺盛な購買態度を示し、その購買力を受け入れ側でも期待するが、外国に出掛けることは見聞を広める機会でもある。外国旅行を繰り返すことによって中国人観光客が「自由」な世界を味わい、その価値を理解し、中国国内の国家統制の異常さに違和感を持つようになって中国の民主化につながるなら、中国人観光客は大歓迎だ(そう単純にはいかないだろうが)。
中国人観光客といえば、その中に子供も含めて揃ってサングラスをかけている家族がいたりする。日差しが特に強いというわけでもないのに、まだ小学校にも行かない年頃らしき小さな子供もサングラスをかけて、はしゃいでいたり、観光施設の中で大人も子供もサングラスをかけたままだったりするので、奇異な感じを受ける。
ニュースなどで中国国内各地の映像を目にすることが多くなったが、それらの映像を見る限り、晴天であってもサングラスをしている中国人の姿はほとんど見かけない。もしかすると、サングラスをかけるのは外国旅行での「バカンス」の時だけなのかもしれない。映画などでバカンス中の白人がサングラスをかけているのを見て影響を受けたのかなどと邪推したくなる。
白人がサングラスを常用するのは、瞳(虹彩)の色が薄いので目の中に入って来る光の量が多くなり、茶色の瞳が多い東洋人に比べて同じ光の量でも、まぶしく感じるためだという。逆に屋内の照明が薄暗くても、虹彩の色が薄い白人には十分な明るさだと感じるという。薄暗い間接照明は白人にとっては十分な明るさだが、多くの日本人には暗すぎたりする。しゃれたファッションを気取るのも楽ではない。
必要があってサングラスをかけている白人の姿を真似ていると見なすなら、中国人観光客のサングラス姿は外国旅行に出掛けるときのファッションだろう。白人が多く住む国に旅行に行った経験がある中国人観光客が、現地の人々にサングラス姿が多いことに刺激を受け、サングラスをかけてみたくなったのかもしれない。
ファンションは真似ることで伝播する。必要性は二の次で、スタイルから入る(形から入る)というのは流行の基本形だろうから、中国人が外国に旅行して見聞を広げ、「自由」な世界を知ることで、多くのファッションが中国に流入する。真似るは学ぶにつながる……かもしれない。自由や民主主義を真似ることはファッションを真似るようには行かないだろうが、中国人にはサングラスよりも必要なものだろう。
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