2015年4月29日水曜日
水戸黄門の正義
1969年から2011年まで42年間も放映されていた「水戸黄門」というテレビドラマがあった。「世の為、人の為になる時代劇」というコンセンサスのもとに誕生した(TBSの「水戸黄門」公式サイト)との位置づけだ。黄門様一行が全国を旅し、不正や悪を暴いて悪人を懲らしめ、ついでに、お家騒動も解決したりした。
主役の水戸黄門の判断が絶対に公平で公正で、言うことが間違っていないという暗黙の前提があるから、勧善懲悪のドラマは成り立っていた。その上に、隠居した縮緬問屋を装っていた黄門様が実は「さきの副将軍」であると最後に明かされ、幕藩体制の下で黄門さまと権力との密接な関係が明示されるのであるから、悪人とされた連中は抗議することも抵抗することもできない。
悪事を働いていた代官や城勤めの役人(武士)らは、うるさく嗅ぎ回る連中を、旅の町人だと見下して始末しようとするが、その相手が実は自分らより身分が上で、さらに検事であり裁判官でもあるというのだから、抵抗しても無駄だ。悪人らにも自分たちなりの正義があったとしても、絶対的正義の側の相手から悪と断定されたら、言い分など通るはずもない。
もし、勧善懲悪のドラマの主人公が、公正な判断を標榜しながら実は偏った信念を隠し持っていて、ことの善悪の判断に、個人的な善悪の基準を持ち込んだ正義を振り回して、相手を悪と決めつけて断罪するというなら、そんな勧善懲悪ドラマに視聴者は違和感を感じるだろう。
例えば、水戸黄門個人が考える正義に相手が反しているとし、相手が悪人だとするのに都合がいい証拠ばかりを集めて、「おまえは、こんなにひどい悪人だ」と断定し、印籠をかざして「控えおろう」などと反論を許さず、一方的な正義で相手を断罪するドラマ……こんなのは興ざめだな。
ただし、勧善懲悪ドラマのストーリーは、主役を絶対的な正義の側と設定し、悪役には極悪非道な振る舞いをさせ、視聴者から悪役への反感を募らせたところで、主役が悪役に勝つのが常法。中国などで多く放送されているという、日本軍や日本人を悪役に仕立てた反日愛国のプロパガンダドラマはこのテのものだろう。主役が最後に勝つことで、主役の正義を視聴者にも共感させることが目的だ。
公平で公正な正義なるものは、完璧を装うほどに、少しでも疑念をもたれたなら、すぐに信用されなくなる。疑念を持たれた正義が信用を回復するためには、印籠を振り回して「控えおろう」と疑念を抑えつけるのは逆効果で、その正義を第三者に検証させ、間違っていた点を明確にし、その上で正義を再構築するしかない。ただし、再構築した正義で、信用を回復できるかどうかは不明だが。
42年も続いた勧善懲悪のテレビドラマが終わったのは、水戸黄門の正義に疑念を持たれるようになったからではなく、黄門様の正義が予定調和すぎて、視聴者にとっては、つまらなくなったからだろう。飽きられる正義というものもある。
2015年4月25日土曜日
残虐性の意味
後藤健二氏を拘束した「イスラム国」が、殺害して首を切断した映像を公開したことで、その残虐性は日本でも大きく印象づけられた。日本人人質はいなくなったが、「イスラム国」の残虐性を示す捕虜殺害の映像の発信は続いている。手を縛ったままビルの屋上から突き落としたり、群衆に石を投げさせたり、銃殺や刺殺を少年兵にさせたりする映像が毎週のように公開されている。
人間を殺害してはいけないと考えるなら、どんな方法であろうと人間を殺害することは全て残虐だ。だから、国家が行う死刑で、銃殺や絞首刑、電気イスなどよりも、麻酔をした後に薬物注射により殺すことが残虐ではない……とはいえまい。麻酔をしてからの薬物注射による殺害のほうが「苦しまずに死ねる」かもしれず、死刑を容認する側の良心の負担が少ないだけだ。
世界では、人々は殺害され続けている。内戦が続く国もあり、外国軍が介入する地域もあり、戦争はなくても自爆テロが起きる国もある。そうして人々は様々な状態で殺される。「イスラム国」による断首などの殺害方法が残虐で、「正規」の国家による様々な殺害が残虐ではないとはいえまい。違いは、「イスラム国」は残虐性をアピールするが、「正規」の国家は残虐性を隠す。
残虐性の受け止め方は、地域や文化によって変化する。人間の首をナイフでかき切るという殺害方法に日本人は驚くが、遊牧の文化が色濃い地区の住人なら、あれは家畜を苦しませずに殺すやり方から来ていると受け止めるだろう。石打ちによる処刑は現代でも行う国がイスラム圏にあるというから、驚かない人々もいるに違いない。
残虐性の受け止め方には、時代による変化もある。殺害した遺体から首を切断するということは、中世の日本では合戦の時などに「御首頂戴」などと言いながら行われていたそうだし、切断した首を出すのは現代でも歌舞伎ではお馴染みの演出だ。処刑した罪人の首を曝すことも行われていて、近藤勇は板橋で処刑され、その首は京都に運ばれて梟首された。
人道主義などの影響を受けた現代世界では、残虐な殺害方法や、遺体を損傷することは狂気の為せることと受け止めたくなる。「イスラム国」のメンバーが皆狂っているなら、彼らの所業も少しは“納得”しやすくなる。だが、正気な人間でも残虐になることができることを日々の犯罪により知らされるし、理性的に大量殺害と遺体損傷を行ったナチスドイツを狂気と片付けることはできない。
何を残虐とするかは、主観の影響が大きく、個人による違いや文化による違い、地域による違いが大きい。人間の尊厳についての見方がそれぞれ異なるところから来ているのだろうが、報復感情などを尊重しすぎると、相手への処罰として残虐性が増すことになる。内に潜む残虐性を人間はまだ、制御できるようになっていない。
2015年4月22日水曜日
当たらない予想
プロ野球のペナントレースが始まったが、セパともに昨年の優勝チームは勝率5割台とスタートダッシュに失敗した(4月中旬現在)。昨年のAクラスのチームで、好調なのはパの日本ハムだけ。ブームを巻き起こした広島は負け越して最下位、オリックスも負け越しが10以上となり最下位だ。一方、開幕前の順位予想で低評価だった中日、ヤクルト、西武が好調だ。
順位予想で、セでは中日が最下位か5位とされ、優勝は阪神か巨人とする人が多かった。パでは優勝予想はソフトバンクとオリックスに分かれた。ところが開幕してみると、セは昨年のAクラスの阪神、広島が調子に乗れず、パではオリックスが勝率2割にも達しないほどの惨状。
まだシーズンは始まったばかりで、順位予想が最終的に当たるか外れるかは不明だ。だが、シーズン序盤に負け越し数が増え過ぎたチームは、調子が上がってきて連勝しても、やっと勝率5割に戻った辺りで息切れして行きつ戻りつし、シーズンを5割前後で終えることも珍しくない。今年のオリックスは、いつ5割に達するかな。
オリックスは昨年2位と健闘し、シーズンオフの補強で打線を強化したので、多くの予想で優勝候補に挙げられていた。選手層が厚いチームが、シーズンを通しては強いのだろうが、故障者続出とあっては、補強の効果は薄れる。誰が故障するかまで予想する人はいないだろうから、予想は外れる。
順位予想が外れがちなのは、キャンプなどを見ても、主力選手の状態、新戦力の台頭具合、チームの実際の戦力バランスなどを評論家や担当記者が充分に把握していないからだろう。評論家が各チームのキャンプを1、2日ずつ訪れたとしても断片的な印象しか得ることはできまいし、担当記者は他チームの仕上がり具合を直接見ることができない。
具体的な細かな情報を得ることができないため、順位予想が断片的な印象に基づく主観的なものになると、前年のチーム、選手の活躍度が影響しよう。つまり、前年シーズンの延長線上に今年のチーム、選手を位置づけるので、そこに前年の調子を持続しているとの“期待”も混じり込む。だが、毎年が新しいスタートとなるので、前年の延長線上にあるとは限らない。
評価が主観的に偏ることを避けるためには、要素を点数化するのが確実な方法だ。細かな要素についての評価を事前にポイント化しておいて、キャンプなどでチェックする。できるがけ多くの人の評価を積み上げることで、人による評価の偏りを抑制できる。これは評価を共有することにもつながる。つまり、キャンプやオープン戦を断片的に見た人の評価を集めることで、総合的な状況が浮かび上がる。
予想が外れることなどが繰り返されるのは、プロ野球がまだ科学的な分析の対象になり切れておらず、客観的な分析を行うことができる人材が、プロ野球とその周辺に欠けていることの現れでもあろう。ただ、優勝争いを含めて「筋書きのないドラマ」がプロ野球の魅力だとするなら、予想が外れることは当然視されるか。
2015年4月18日土曜日
「のたれ死に」は難しい
若くて健康で、独り身で気ままに暮らしている時なら、自分の最期について「俺は、のたれ死にするから」と言ってみることは簡単だ。その「のたれ死に」の言葉には、孤高を貫いて孤独に死んでいくというようなロマンチックなニュアンスさえ漂ったりする。自分の死を現実的なものと受け止めず、若さの気取りがつきまとっている。
そこに反体制の気分が加わると、「俺は、のたれ死にする」から健康保険や年金制度など国家の“助け”は要らないと言い出したりし、さらには、抑圧的で保守的で、個人に強権を振るったりする国家なんて不要だとエスカレートし、無頼を気取る。自分一人で生き抜いてみせる……なんて気負いが加わったなら、ますます国家が不要なものに見えてくる。
若くて健康な時には、本当にそう感じて言ってみたりしているのだが、時間は容赦なく進んでいき、若さは永遠には続かない。家庭を持ったり、子供が生まれたり、ケガをしたり大病をしたり、向き合わざるを得ない現実が次々に現れ、いつまでも無頼を気取ることはできず、「のたれ死にする」なんてことも言わなくなる。
独り身で気ままな暮らしを貫くことができるほどの資産があれば、国家は不要だと背を向けて反体制を貫き、孤高に生きて、孤独に死ぬこともできようが、それでも、のたれ死にとはいかない。大昔なら、のたれ死にした人は無縁仏として葬られてケリがついただろうが、現代では、のたれ死にした死体の火葬や法的処理は誰かがせざるを得ず、死んでも国家の管理から逃れることは難しい。
「俺は、のたれ死にするから」というのは、現実逃避の一種なのかもしれない。のたれ死にを夢想するのは、若い人など社会とのつながりが希薄であるからで、仕事や様々な活動などで社会との結びつきが広がると、のたれ死ぬことなんかよりも、自分の能力を発揮して社会や人生を動かすなど、自分を生かす大事なものがあることを知る。
社会における自分の立ち位置が変わると、言うことが変わるのはフツーのことだ。それを宗旨替えだなどと批判しても、あまり意味がない。見聞も狭く、人生経験が乏しい若い時に言ったことにとらわれていては、人生をうまく渡っていくことは難しい。のたれ死ぬことよりも、しぶとく生き抜く……それも、人生にしがみついて、他からどう見られようと気にせず、生き抜くという気持ちが育つのも、人生が与えてくれる“果実”かもしれない。
2015年4月15日水曜日
需要に見合ったインフラ整備
経済成長とともに中国ではインフラ整備が進んだ。道路が整備され、都市化が進み、高速鉄道や高速道路が全国に張り巡らされ、空港も各地に整備され、原子力発電所などの建設も急ピッチで進んでいる。アジアでも経済成長が続き、インフラ整備の需要が急増している。
アジア開発銀行(ADB)の試算によると、2010〜20年の11年間にアジアで必要なインフラ投資額は約8兆ドルという。1ドル120円で計算すると、8兆ドルは960兆円。ちなみに日本の15年度予算の一般会計総額は96兆3420億円で過去最大だったが、その約10年分に相当する。8兆ドルのうち半分の4.1兆ドルが発電所など電力部門、ついで2.5兆ドルが道路や鉄道など運輸部門。国別では中国とインドで8割を占めるという。
インフラが整備されることで、生活環境が改善され、便利になり、快適にもなり、人々は歓迎するだろうが、アジアでのインフラ整備は遅れていた。欧州なら、整備された道路や鉄道が各国を結び、航空路線網も密なのに、人口が多いアジアでは遅れていた。それは、アジア各国に資金がなかったからだ……ともいえる。
だから、資金を集めてアジア各国のインフラ整備に投資すれば、アジアの流通や交通の近代化を促進し、人々に喜ばれることは確かそうだ。だが、インフラ整備には需要を過大評価するというワナがある。つくってみたものの、通行量が少ない高速道路、乗客が少ない高速鉄道、利用者が少ない空港や商業施設などは日本にも存在する。
中国でも同じような例があり、年7万8000人の利用客を見込んだ大連長海空港は実際には年4000人にも満たず定期便が運行停止となったり、高速道路(利用者数に関する公式な情報はほとんどない)が通行料不足で多額の損失が出たとか、高速鉄道が3.4兆元の債務を抱えていることなどが報じられている。住む人がいない高層の集合住宅が建ち並ぶ鬼城(ゴーストタウン)も各地に点在しているという。
売れる見込みがなくても製品を生産することができるのと同様に、インフラも、需要がなくても整備することはできる。インフラが整備されれば需要が出て来るはずだと期待して高速道路をつくっても、1日に十数人しか通らない地域なら、新しい道路だからと通る人が大幅に増えるはずもなくペイするはずがない。
インフラ整備は人々の生活を改善するための手段であるが、巨額の資金が動くために、インフラ整備をすることが目的とされやすい。そのためには、需要を過大視することが欠かせない。廃れたシルクロードに沿って、交通インフラを整備すれば交通や流通が活発になるのだろうか。需要が本当に存在するインフラ整備とは何か、アジアを舞台に試されることになりそうだ。
2015年4月11日土曜日
仕掛けは成功
中国が主導して設立するアジアインフラ投資銀行(AIIB)の評価が分かれている。肯定派は、1)アジアの今後の莫大なインフラ整備需要に対応、2)官僚的で硬直した世界銀行、アジア開発銀行(ADB)に代わってスピーディーに融資、3)経済大国化した中国との関与を深める、4)融資されたインフラ事業への参加ーーなどで有望だとする。
否定派は、1)運営や融資などの意思決定プロセスが不透明、2)運営も中国主導の可能性、3)融資を中国が影響力拡大に利用、4)無秩序な貸し出しが不良債権化、5)AIIBの格付けが低いと資金調達コストが割高、6)米国主導の国際金融秩序への悪影響ーーなどを指摘する。
中には、中国の秘めた狙いは中国の通貨である元の基軸通貨化を目指し、国際的に流通させることだと見る人もいる。だが、AIIBの資本金は1000億ドルになる予定だ。各国の外貨準備に占める元の割合は微小なので、元で拠出しろとなったなら、元の手持ちが少ない各国は困るだろう。ドルなら各国は保有している。資金調達も融資もドルで行われるだろう。
AIIB設立では中国に好都合な展開になったことは間違いない。米国の牽制にも関わらず欧州諸国や豪、韓国などが参加を表明し、米国の影響力の低下を世界に印象づけた。ただし、注目が集まりすぎたので、中国の意のままの運営や融資はしにくくなっただろうし、「国際金融機関」としての体裁をつくらなければならず、中国が越えるべきハードルは上がった。
とはいえ、AIIBが順調に動き出せば、国際金融における中国の存在感は増すだろうし、影響力も大きくなろうから、中国にとっては重要な一歩だ。さらに、AIIBがどんな組織になるのかも不透明なのに、IMFや世界銀行、ADBが「連携しよう」とAIIBと協力することを言い出しているので、中国にとっては願ったりかなったりの展開になりつつある。
そもそも既存の国際金融機関における中国の影響力を増大させたかった中国にとって、AIIBを通じて中国の意向をIMFや世銀、ADBに反映させることができるなら、実質的に発言力を増したことになる。まあIMFや世銀、ADBが中国(AIIB)に振り回されるようなことにはなるまいが、中国の言い分をきちんと聞いてあげなくてはならなくなりそう。
AIIB設立という問題を国際的に提起して、注目を集め、結果として参加国を広く集め、さらに欧米の金融連携を崩すことができたのだから、今回のAIIB設立の仕掛けで中国は成功した。AIIBが動き出す前から中国は影響力を高めることができ、AIIBが動き出したなら、アジア各地でのインフラ事業に関与できるのだから、中国は完勝した。
今回のAIIB設立問題で各国は、中国の影響力拡大にどう対応するかを試された。明らかなのは、各国との貿易量が多い経済大国の封じ込めは不可能だということだ。関与する部分を増やして“中国独自”の政策、やり方などを是正させるのが最善策か、中国が失敗して反省してから関与してあげるのが最善策か。いずれにしても大国化する独裁強権国家をどう受け入れていくのか、今後も国際社会は試され続ける。
2015年4月8日水曜日
科学的な装い
それほど親しくない人や初対面の人と一緒に時間をつぶさなければならなくなった時に、持ち出す無難な話題のトップは天候に関することだろう。暑いとか寒いとか、いい天気だとか雨が続くとか、台風が来るそうだとかゲリラ豪雨があったとか、見たまま感じたまま聞いたままを話していれば、座持ちがするのだから便利だ。
「暑い日が続きますな」などと言われて、「いや、この地域の平均気温からみると、今年は少し低いほうですよ」などとマトモに反応する人は稀で、大方の人は、天候の話には適当に相づちを打って聞き流す。天候の話は互いに適度な距離感を保ちつつ、共感を保つためには最適な話題だ。
最近、天候に関する話題のシメの言葉で「これも温暖化の影響ですかね」「異常気象なんでしょうか」「この先、どうなるんでしょうねえ」などと嘆くような調子になったり、不安がったりしてみせるのが流行のようだ。温暖化や異常気象などの言葉を持ち出して、無難な天候に関する話に“知的装い”をまぶしてみせる。
天候については誰もが実感を持って話すことができるが、実感がいつも「正しい」とは限らない。昨年の今頃はどんな気候だったかを正確に覚えている人は少ないし、平年と変わらない暑い夏でも人は「今年の夏は特に暑い」なんて思ってしまう。そこに、「地球は温暖化している」などという言説を聞かされると、「そうか、温暖化してるのか。だから、今年の夏は特に暑いんだ」などと思ったりする。
天候を話題にする時に、データを検証する人はまずいない。だから、温暖化や異常気象について「専門家が言うンだから、本当なんだろう」と大半の人は受け止め、「今年の夏は暑い。温暖化だ」とか「今度来る台風は、温暖化だから、大型だ」とか「集中豪雨が増えたのは異常気象だからだ」などと、それらの言葉を都合よく使う。
温暖化や異常気象とは科学的な見解の一つだが、素人が厳密に定義を考えるはずもなく、それらは、実感を支えるための好都合で感覚的・情緒的な言葉に変質している。しかし多くの人は、情緒的な物言いをしていることに無自覚で、温暖化や異常気象という言葉を持ち出すことで、科学的な装いをまとったかのように錯覚する。実感と科学的装いに支えられるのだから、素人は温暖化談義を好むのかもしれない。
夏になれば暑さを楽しみ、冬になれば寒さを楽しむ……こういうふうに達観できる人は少ない。だから、天候はいつまでも無難な話題として人々に愛されるのかもしれない。が、天気相手にどうこう言ってみたって、人間に都合がいいようにならないのは大昔から変わらない。猛暑や集中豪雨、台風などを納得するためにも、温暖化や異常気象という言葉は便利だろう。
2015年4月4日土曜日
70年前は1945年
今年は第2次世界大戦の終戦から70年ということで、世界各地で様々な行事が予定されている。テレビや新聞などでも今年は、折に触れて70年前を回顧する特集が相次ぎそうなので、戦争に絡む情報は大量に報じられそうだ。戦争と終戦という大きな出来事に翻弄された1945年はどういう世相だったのか振り返ってみる。
日本国内では、1月にM6.8の三河地震が発生、死者・行方不明は2千人以上。2月に、京浜行き乗車券は軍・公務以外は発売停止となった。3月には全学徒総動員のため国民学校初等科を除く学校授業が停止となり、3月と5月に東京が大空襲を受けた。4月には名古屋城のシャチホコを疎開のため取り外し、京都の美術品を疎開させる一方、本土決戦に向け日本刀づくりに励んだ。
5月には朝刊の駅売り等が全国的に禁止され、6月には墓地以外の仮埋葬が許可され、土葬禁止が解除された。7月には米機攻撃により9隻が沈没して青函航路が壊滅した。8月の敗戦後には、国民動員令による各種制限・禁止が撤廃され、ラジオの天気予報が復活した。9月にはNHKで「実用英語会話の時間」が始まった。
10月にはGHQが東京5紙の事前検閲を開始し、東京の待合・バー等の営業が許可され、第1回宝くじが発売された(1等は10万円と副賞に純綿キャラコ2反)。11月には人口調査で総人口は7199万人だったが、女性が男性より420万人多かった。12月には「狩り込み」が始まり、上野地下道で浮浪者2500人を一斉収容し、GHQが修身・日本歴史・地理の授業禁止と教科書回収を指令した。
終戦前は戦況悪化で食糧事情が逼迫し、横浜でジャガイモ盗人を撲殺した自警団員は正当防衛に準ずると不起訴になったが、東京でジャガイモ2個を盗んだ人には懲役3年の判決。終戦後も食糧事情は厳しく、餓死者が続出する一方、都会では多くの人が買い出しに出た。
終戦後には映画「愛染かつら」が人気を呼び、戦後映画の第1作「そよかぜ」から「リンゴの唄」が流行った。一方でGHQが236本の映画を上映禁止とし焼却命令。出版では「日米会話手帳」が360万部の大ヒットとなった。大相撲秋場所で復員力士は坊主頭で土俵に上がり、プロ野球は11月に東西対抗戦で復活した。
70年前の1945年は今とずいぶん違った時代であったのは確かだが、例えば1945年生まれの人を見ると、エリック・クラプトンが3月生まれ、吉永小百合も3月生まれ、タモリが8月生まれ、ニール・ヤングが11月生まれであり、同時代感は充分にある。1945年と現代の連続性を今年は強く意識しそうだ。
2015年4月1日水曜日
主役になれない記者
最近のサスペンスドラマで主人公になるのは警察関係者が多い。自殺に見せかけた殺人や身元不明の遺体、手がかりが乏しい殺人、過去の事件との関連など、事件の真相を僅かな手がかりをたぐって突き止めるには、主役が警察関連のほうがストーリーを組み立てやすいからだろう。事件を追う新聞記者が主人公になることはなくなった。
もう50年以上前だが、新聞記者たちが主役のテレビドラマが大人気だった。NHKが放映していた「事件記者」は、警視庁詰めの各社の記者が、事件をめぐって激しい取材合戦を繰り広げるというドラマで、視聴率が40%を超えることもあったという。ただ生放送だったため、現在ではほとんど見ることはできない。
このドラマの作者・島田一男はミステリーで名高い作家だが、新聞記者ものの作品も多数残している。満州日報の記者時代の体験、見聞を織りまぜた作品には独特の現場の“臭い”があり、ネタをかぎ回る個性的な記者たちにはプロ意識や仲間意識が横溢している。それらの小説の世界がドラマで再現されていたとするなら、人気になることも不思議ではないと思わせる。
新聞記者に代わって、最近のサスペンスドラマではフリーライターがよく登場する。ただし、謎解きにフリーライターが活躍するという設定は少なく、事件関係者のあとをこっそり嗅ぎ回り、そのうちに真犯人に殺されるというケースが多い。さらには、フリーライター氏が実は、つかんだネタで関係者を脅して金をせびっていたという設定も珍しくはなく、もはやフリーライターは「正義の味方」のポジションから遠い役回りだ。
新聞記者がドラマの主役から外されたのも、新聞記者が必ずしも「正義の味方」ではないと見られるようになったからか。サツ回りの新聞記者が実は警察発表に頼って記事を書いていることを皆が知ってしまい、記者が独自の取材を重ねて真犯人特定につながるネタをつかみ、事件を解決する……なんてストーリーにリアリティーがない時代になったのかもしれない。
さらに、捜査方法も一変し、鑑識捜査が徹底されるようになった。立入り禁止の犯行現場から、鑑識捜査が終わった後で記者が何かの証拠を発見できるはずもない。記者に対する管理も強化され、毎日ある程度の出稿はしなければならないので、一つの事件を追って取材するなんて立場はベテラン記者の遊軍だけ。でもベテランは、早期退職後の職探しに忙しかったりもする(?)。
最近のサスペンスドラマでは警察関係者が主役になるとはいえ、良心的で打たれ強い主人公が事件を解決するとともに、警察内部の不正を暴くというストーリも増えた。腐った上層部やキャリア幹部が、ドラマの最後で主人公から“引導”を渡されるのだが、この設定は、新聞社を舞台にしても流用できそうだ。主人公の正義感が強い新聞記者が、事件を追ううちに、腐った警察上層部と新聞社幹部の癒着を突き止める……「裏金」に目を瞑った新聞社にはリアルだったりして。
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