2024年12月28日土曜日

自由を求める自由

 アナキストを自称していた竹中労さんは「いちばん大切な自由は、『自由になろうとする』自由だ」とし、「自由の有難味が全て物質で、ものの形で表れてこないと理解できない」人々を批判し、檻があるから外へ出ようとする精神がいちばん自由であり、「どんな時代でも、どんな立場でも、どのような環境でも『自由になろうとする自由』はある。幕末にもあった、戦時中にもあった。それが失われている」とした(「対論・草莽のロマンチシズム」ー『竹中労の右翼との対話』所収。以下の引用も同書)。

 さらに、「世界を支配しているガン、諸悪の根元は階級ではなくて差別である」と指摘し、「世界を支配している体制は、戦いに勝ったものが負けたものを支配する、勝てば官軍である」「負ければ悪人である、無抵抗で裁かれねばならない。これはまさに差別」だと断じた。

 続けて「人間諸悪のすべてを二文字に象徴すれば、差別である。持てる国の持たざる国への差別、先進国の後進国に対する差別、技術を持っている国の技術を持っていない国への差別、教育程度の高い国の教育程度の低い国への差別、その国内における差別、門地・種族・性別・貧富……さまざまな差別があるけれども、人間諸悪は差別という共通項でくくられる」「支配するものと支配されるものがある限り、そこには差別が存在する」とした。差別という概念は人と人との関係において適用されるのが一般的だが、竹中労さんは国家間にも適用範囲を拡大した。

 様々な格差が国家間にも存在し、優越的な立場にある国家が差別を認識することは困難なようにも見られるが、竹中労さんは「人類が目ざしていかなければならないのは大国の滅亡であり、小国寡民の分立であり、終局的には地球規模における混民族連邦である」と世界が目指す理想を示し、「世界の支配の秩序、国家間の差別を打ちこわす方向は政治的安定ではなく、人々に窮乏をもたらすかもしれないが大動乱・現状破壊の方向である。真のユトピアはいくつもの秩序を破壊した彼岸に見る村落共同体の連合であり、混民族連邦である。これが、アナキズムの理想」だとする。

 竹中労さんが理想とする世界の実現には膨大な時間を要しようが、できることから始めるしかない。「左右の思想を弁別しない。人間を差別し、中央集権で管理しようとする力と永久に戦うことが革命なのであって、体制をもって体制に換えること、国家機構をもって国家機構に替えることは、政変もしくは奪権であって革命ではない」と、権力闘争ではなく、人間が自由かつ平等に生きる世界を目指す闘争を続けることが解放への道筋だと説く。

 人と人との関係における差別について竹中労さんは「差別を解消するものは、けっきょく愛だと思う。愛が差別をなくしていく唯一絶対の手だてなのです。ですから、損得というものをまず捨てよう。他者のために損をする快感みたいなものを若い人たちは味わいなさい。報酬を期待しない行為を身につけていかねばならない」と、他人を愛するのは他人の尊厳を認めることであり、愛する他人に対する差別は解消されると説く。

 人々を厳しく統制・管理する国が世界には珍しくないが、どんなに抑圧が強い国でも人々には「自由を求める自由」はある。心の中にある「自由を求める自由」を国家が奪うことは不可能だ。世界中で「自由を求める自由」を行使する人々が続々と現れ、そうした人々によって形成された国家が増えたならば、国家間における差別も解消される方向へ歩み出すかもしれない。

2024年12月25日水曜日

米軍には頼れない

  もしもの時に保険金の支払いが行われるから、生命保険や損害保険は成立する。もしもの時になってから保険会社が様々な理由をつけて保険金の支払い拒否を繰り返すと、そんな保険会社は信用されなくなる。もしもの時にも保険金の支払いが行われるかどうか信用できない保険会社と契約して金を払い続ける人は、保険会社に貢いでいる。

 保険金が支払われるかどうかは保険会社の判断次第だという生命保険や損害保険はバクチと同類だが、バクチなら人々は「当たる」確率が小さいことを知った上で賭ける。保険は、約束した保険金が必ず支払われるとの信頼に基づく契約だ。もしもの時に契約が履行されず、保険金が支払われるかどうかは保険会社次第だというなら保険の名に値しない。そんな保険は空手形だ。

 トランプ氏は第一次政権の頃、NATO加盟国に防衛費の名目GDP比2%への増額を要求し、2%を達成できない国に対して米軍が防衛義務を順守しない可能性をちらつかせて圧力をかけた。日本などに対しても同様の要求を行い、NATO加盟国も日本も防衛費の増額に動いた。米国の強大な軍事力に頼るという同盟の意味が変化したのは、各国に対する防衛義務が負担になっているとの認識に米国が変化したからだ。

 日本に対して2019年に来日した当時のボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)が、年80億ドルの防衛費負担をトランプ大統領が求めていると伝えたそうで、在日米軍の撤退の可能性を示して日本を脅して交渉するようにトランプ氏が指示したという。多額の思いやり予算で日本は米軍の駐留経費を援助しているが、そんなものはトランプ氏の眼中になかったらしい。

 軍事力も経済力も米国は世界トップを続けているが、世界各地への軍事介入を長年にわたり繰り返して「浪費」を続け、その疲弊を隠せなくなり、米軍の軍事力の傘に入る対価を各国に求め始めた。米軍の軍事力の傘に入る対価は、各国に対する米国の大きな政治的な影響力であり、米国は相応の対価を得ていたのだが、それを米国は意識していない。

 トランプ氏は第二次政権で、以前と同様に各国に対して防衛費の増大を求め、米軍が防衛義務を順守しない可能性をちらつかせるだろう。各国は米国の要求に以前は従ったが、ロシアに対するトランプ氏の融和的な姿勢を見せられ、もう米軍が自国防衛の助けになるかどうか定かではないと判断し、米国に「貢ぐ」より自力での防衛力整備に予算を使ったほうが賢明だと防衛政策を変更する可能性がある。

 日本は、米国に防衛費の大幅増を要求されたなら、拒否して、現行の思いやり予算に見合う規模に米軍の駐留を縮小させることを容認、覚悟し、自力での防衛力整備に路線変更することが、米軍に自国防衛を頼ることができなくなったという新しい現実に対応する施策だろう。米国に資金を提供して自国防衛を委ねるという「保険」はもう空手形になりつつある。

2024年12月21日土曜日

偉大な国だった

 トランプ氏がMAGA(Make America Great Again)を掲げたのは2016年だ。大統領選挙のスローガンとし、この文句が記された帽子などを支持者は着用したり、プラカードを掲げたりした。この文句はロナルド・レーガンが1980年の大統領選挙で使用したのが最初で、社会的には知られた文句だが、トランプ氏は商標出願しているという(ウィキペディア)。

 「アメリカを再び偉大な国にする」というスローガンが支持されたのは、現在のアメリカが偉大な国ではなくなったという意識をアメリカ人の多くが共有していることを示す。アメリカは現在でも世界1の経済大国で、軍事力でも世界1であり、国際政治における影響力も世界1かもしれず、映画や音楽などでもアメリカの存在感は大きい。外からは偉大な国であり続けていると見えるが、アメリカに住む人たちには偉大な国だとの実感が薄れているようだ。

 世界に突出した豊かな過去のアメリカではなくなり、厚い中産階層が解体されて、極めて少数のスーパーリッチと大多数の中低所得層に分離した現在のアメリカ。「再び偉大に」とは、世界1豊かだったアメリカを基準にした発想で、もう一度、偉大なアメリカになろうということだ。アメリカ人の多くが何らかの喪失感を持っているから、この文句が広く支持されたのだろう。

 「偉大」が何を示すかが具体的には示されないのは、様々な解釈を許すことで多様な人々に共感させ、支持へとつなげるためだろう。国際的にアメリカは現在でも大きな存在であるから、「再び偉大にする」とは国内向けのメッセージであり、製造業の衰退などで働く場を失って貧しくなった中低所得層に受け入れられた。

 豊かだった頃のアメリカは白人中心の社会であり、トランプ氏の支持者に白人が多いことと関係があるだろう。当時は保守的な宗教の規範が社会的に大きな影響力を持ち、LGBTQなどの主張が表面化することもなく、マイノリティーに対する配慮は限定的だった。そうしたアメリカに再びなることが「偉大だ」とする考えは、保守的な白人層以外では受け入れ難いだろう。

 過去のアメリカで厚い中産階層が享受できていた豊かな生活とは、一軒家に住み、自動車を持ち、様々な電化製品を備え、食料に困ることなく、レジャーを楽しむ家族のイメージだ。そうした生活を世界各地で人々が享受できるようになった現在、アメリカ人が自分たちの生活を特別に豊かだと感じることが難しくなったことも「偉大さ」の喪失感に影響しているかもしれない。

 アメリカ人が「偉大さ」を失ったと感じるアメリカに、中米など世界各地から人々が続々と押し寄せている。移民にとってアメリカには、ある種の希望があるのだろうが、トランプ氏は移民の流入規制を強化することが MAGAの重要事項だとする。既成権力批判に有効だったMAGAは現状を否定的にとらえる発想で、外からはアメリカはまだ「偉大」だと見られていても、その実感がない人々に受け入れられた。

2024年12月18日水曜日

領土を広げる

 「抵抗の枢軸(Axis of Resistance)」とはイランが支援する中東の武装組織のネットワークで、ガザのハマスやレバノンのヒズボラ、イエメンのフーシ派などが含まれる。イランは武器や資金などの提供のほか、軍事訓練を指導しているとされ、中東各地での情報も共有していただろう。各地の武装組織は反イスラエルの行動などを続けてきた。

 枢軸(axis)とは「回転軸、軸線、(物の)中心線、活動の中心となる重要部分」で、枢軸国(the Axis)は第二次大戦で三国同盟の側に属した国。イスラエルや米国などに対する抵抗運動を行う武装組織群の中心にいるのがイランという構図だが、それぞれの武装組織は独自の判断で活動していたともされる。周辺国に散らばる武装組織はイスラエルにとって現実的な軍事的脅威だった。

 ハマスのイスラエル攻撃に端を発したイスラエル軍の容赦のないガザ侵攻で、ハマスは弱体化した。イスラエルは次にヒズボラの弱体化を目指し、ヒズボラの戦闘員らが所持していた通信機器を爆発させて多数を殺害したり、複数のヒズボラ幹部を殺害したり、レバノンのヒズボラの拠点に対する空爆を繰り返し、時には大規模な空爆で多数の死傷者を出している。

 レバノンという独立国に対する攻撃は侵略行為だが、レバノンでヒズボラは合法政党で、議会に多数の議席を有するなど国政に影響力を持ち、軍事部門は政府軍をしのぐ戦力とされるなど強大な存在で、イスラエルの攻撃に対してレバノン政府は見ているだけだ(ヒズボラはイスラエルにロケット弾による攻撃を行っているので、ヒズボラの取り締まりをイスラエルから要求されてもレバノン政府は何もできない)。

 ハマスの攻撃に対して容赦ない過酷な反撃を行ってハマスを弱体化させたイスラエルは、ヒズボラに対する様々な攻撃をエスカレートさせてヒズボラの弱体化を進める。イスラエルは圧倒的な軍事力で一気に「抵抗の枢軸」の弱体化を進め、中東におけるイランの影響力の減退を狙う。これは中東における勢力のバランスを狂わせ、ヒズボラの弱体化でシリアではアサド政権があっけなく崩壊した。

 イスラエルはシリア国内にも攻撃を活発化させ、ゴラン高原から進んで緩衝地帯に軍を進駐させた。自衛のために周辺国の武装組織を攻撃しているとの主張だが、ヨルダン川西岸で入植地を増やして領土化し、ガザではイスラエル軍の管理する土地を増やし、ゴラン高原でも入植地を増やすという行動は、防衛を大義名分に領土拡大を実現している。圧倒的な軍事力で領土を拡大するという行動には国際的な批判が多いが、イスラエルの行動を止めることはできていない。

 「抵抗の枢軸」ネットワークをズタズタにされたイランが、ハマスやヒズボラの勢力を回復させるのは簡単ではないだろう。通常兵器ではイスラエルに対抗できないとイランが核兵器の開発に積極的になると、それを阻むためにイスラエルがイランを攻撃するとの懸念も浮上している。戦線を広げたイスラエルは、もう後戻りできないだろう。イスラエルは軍事力に頼り、防衛のためと占領地(=領土)を広げ続ける。

2024年12月14日土曜日

一切を捨てる

 亡くなる前に経典以外の持っていた書物などを全て焼き捨て、「葬礼の儀式をととのふべからず。野にすてて、けだものに施すべし」と言い残したという一遍上人は捨聖とも呼ばれた。著作は残っていないとされるが、門下が記した一遍上人法語がある。一遍上人がすてたのは書物だけではない。

 その法語に「念仏の行者は智恵をも愚癡をもすて、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、一切のことをすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内にとかくの道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」とある。

 智恵も愚癡も善悪の境界も貴賤高下の道理も地獄を恐れる心も捨て、一切のことを捨てて唱える念仏こそ弥陀超世の本願にかなうというのは精神世界のことだ。だが、無常を悟っていただろう一遍が、死期を前に書物など一切を焼き捨て、葬式は無用で遺体は野に捨てろと言い残したのは、現実世界で我が身を含めて全ての物質は無だと考えたからだろう。仏の浄土に行くという往生を前に現世の諸々は皆捨てていくだけだ。

 一遍上人は鎌倉中期の僧で時宗の開祖。「伊予の豪族河野通広の子。諡は円照大師。延暦寺で天台宗を学び、太宰府で法然の孫弟子で西山派の聖達を師とする。のち熊野本宮に参籠して霊験を得、名を一遍と改める。念仏札を配る諸国遊行に出て、各地で念仏や踊り念仏を勧めた。そのため遊行上人ともいわれた」(大辞林)。

 時宗は「13世紀に一遍の開祖した浄土宗の一派。阿弥陀の救済力の絶対的な強さを説き、信者の信仰のあり方を問わず、称名さえすれば往生すると説いた」(同)。称名を唱えるだけで往生できるとの教えは当時の人々にとって受け入れやすいものだっただろう。さらに「宗主以下僧は諸国を遊行し、名号を記した賦算と呼ばれる札を配り、念仏踊りを行った。広く民衆に浸透し、15世紀に最盛期を迎えたが、本願寺教団の発展などにより、勢力を小さくした」(同)。

 念仏踊りとは「太鼓・鉦・瓢などを打ち鳴らして、念仏・和讃を唱えながら踊ること。空也上人に始まるといわれ、鎌倉時代、一遍の時宗派僧侶の遊行時に用いられて全国に流行した。のち芸能化して、江戸時代には女歌舞伎にも取り入れられた。また、盆踊りの源流といわれる」(同)。芸能の源流を辿ると宗教に行き着くことは珍しくない。

 「称名さえすれば往生する」という教えが真実なのか客観的に検証することは不可能だ。死後の世界の存在は検証不可能だから、往生が事実として行われるのか、称名と往生に何らかの相関関係があるのか、検証不可能なことばかりで一遍の教えは成り立っている。信じることによって成立する論理であり、世界観だ。検証が不可能だということは、否定も肯定もされないということだ。

 江戸時代に品川の東海時で没した沢庵は「私は一介の僧に過ぎない。すでに荒野に捨てた身だから、葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」と言い残したという。現実世界とのつながりを断つことを高僧が言い残したのは、精神世界に深く入り込んで生きた人生だったからだろう。

2024年12月11日水曜日

自由と分断

 米国の社会は分断しているとの論調や分析は多く、中には分断の存在を憂うる調子の論もあって、社会に分断が存在することは好ましくないと見られているようだ。確かに、意見の異なる人々の対立が先鋭化して、互いの暴力の応酬に発展したり、2021年の米国議会議事堂の襲撃事件などのように暴動が起きて社会の安定を損なうことは望ましくない。

 社会は様々な思想や信条や心情などを持つ個人の集まりで、思想や信条や心情などは細かく異なる。個人の信条や心情などが異なることが許容される社会でも、政治が絡むと、意見の相違が分断となって現れる。そうした政治的な主張は、各個人の置かれている経済的状況や社会的状況などを反映し、複雑に利害が絡むので妥協することは難しい。

 意見の相違はどんな社会にもあることだろうが、それが分断へと発展するには、①双方の主張が同時には社会に受け入れられない、②一方が勝者となり、他方が敗者とみなされる状況となる、③勝者と敗者の間に相互理解を促す対話が成立しない、④敗者は不満を溜め込み、勝者になるために主張を強める-などの過程を経る。米国などでは勝者と敗者は選挙のたびに入れ替わったりするので、分断は固定化する。

 様々に異なる意見を持つ人々によって社会は構成されているので、社会に分断が存在するのは当たり前だろう。だが、それが政治的な対立に発展するのは、選挙などでの支持拡大を狙って分断が煽られることも一因だ。スポーツの試合などでは、贔屓のチームを応援するだけではなく対戦相手にブーイングしたり、罵倒することも珍しくないが、そうした行動様式が政治運動にも持ち込まれた。

 意見の異なる人々が、対立の激化などが進んで共存・共生できなくなる懸念が現実化すると、社会の分断が問題になる。だが、分断が選挙のたびに現れるだけなら、社会の一体性は保たれよう。そこには選挙に対する人々の信頼が残っている。深刻なのは、選挙が信頼されなくなった時で、主張を実現するためには暴力にしか頼ることができなくなった状況になると、混乱だけが待っている。

 分断があることは、人々が自由に意思表示できる社会では当たり前の現象だが、選挙をしても社会の分断が現れない国々がある。例えば、北朝鮮やロシアや中国などでは、独裁権力を掌握している人物が圧倒的な多数で選出される。社会の分断は選挙結果に現れないが、それは社会に分断が存在しないことではなく、権力に不都合な主張は抑え込まれ、表面化が許されないからだ。

 米国で選挙のたびに分断が現れるのは、嘆かわしい現象ではなく、人々が自由に意思表示できる社会であることを示している。社会がまとまっているのを良いことと考える人は、異論を許さず、他人の考えもコントロールしようとする傾向があり、分断を過剰に問題視する。分断が見える社会は人々が政治的な主張を自由に表明できる社会であり、分断の表面化は民主主義が機能している社会につきものだ。

2024年12月7日土曜日

1カ月後の広島

 GHQの指令で原爆投下の1カ月後に広島に入った日米合同調査団に、東大医学部附属病院に当時所属していた加藤周一氏も日本側メンバーとして加わったが、広島の第一印象は「広島はこんなにも平らだったのか」だったという(「ヒロシマ・ナガサキ50年」=『加藤周一セレクション⑤』所収。以下の引用は同書から。適時省略あり)。

「建っている家が1軒もない。少しばかりのコンクリートの建物が一部残っていたけれども、それ以外は広島の街は全く平らになっていた。高いものがなくなってしまい、異常なほどに平たい土地になり、残っていたのは道路網と川や運河だけだった」

「道路には子供も含めて彷徨っている人たちがいた。子供も大人もケロイドで覆われていた。原爆の熱で皮膚が破壊された症状だ。女性は布を頭にまとっていた。頭髪が抜けていたからです。これは放射線障害の典型的な症状である脱毛症だった」

 「患者は三種類に分けられた。原爆の中心から1キロぐらいのところでは人々は瞬時にして消えた。炭化した。その周囲には身体的な障害を受けた人々がいた。瓦礫によって怪我をした人、熱症を受けた人、原爆の熱によってケロイドができたり火傷をした人。皮膚が熱のために大きく変形した人もいた。第三番目は放射線による障害。まず発熱があり、それから脱毛。

 主要な違いは血中の変化だった。循環血にではなく骨髄の破壊が起きた。骨髄は造血組織で、骨髄によって血液が造られている。放射線がまず影響を及ぼすのは若い細胞、未熟な細胞で、これらは骨髄の中で造られている」

「骨髄における大きな障害によって奇妙な状況が生まれていた。広島市の周囲や近郊の病院には多くの患者が集まっていて、最初の頃はほとんど症状が出ておらず、兆候がなく、そこで、もう大丈夫だと自分の家や田舎に帰った人もあった。

 それらの人々の追跡調査を1カ月くらい行った。ある人は被爆後1カ月半ほど経って出血が始まり、軽い熱が出てきた。骨髄穿刺を行って骨髄の標本を採り、検査した。わかったのは、おそらく快復は見込めず、亡くなるだろうということだった」

「最初は軽い熱や軽い出血だが、半月経ったら非常に重篤な症状が出始める。これが放射線障害。その場合、生死の確率は五分五分だろう。医学的観点からすれば、原爆は時限爆弾で、『よくぞ生き残った』と家族がお祝いをした人でも2カ月後には亡くなる。効果歴な救済の方法は全く何もなかった」

「放射線、放射能による障害は、その後の何年も調査や観察を続けて、ガンの発生の頻度、白血病の発生の頻度が統計的にはるかに高くなることがわかった。放射能は生殖器に影響を及ぼすので奇形の問題も出てくる。皮膚、頭髪、骨髄に放射能は大きな影響を及ぼす。この三つが放射線障害の中心となり、それによって時限爆弾となる」

「非常に残虐な、残酷な状況だった。『よくぞ生き残った』とお祝いをされた人が、『半月後あるいは1カ月後か2カ月後に亡くなるだろう』とは家族にとても言えなかった。これが原爆投下後の広島で、非常に残酷な状況がそこには繰り広げられていた」

2024年12月4日水曜日

世界人口の6割強

 世界の人口は81億1900万人となり、2023年より7400万人増加した(国連人口基金の世界人口白書2024。初めて80億人台に達したのは2022年11月)。インドが14億4170万人で最も多く、中国14億2520万人、米国3億4180万人、インドネシア2億7980万人、パキスタン2億4520万人、ナイジェリア2億2920万人、ブラジル2億1760万人、バングラデシュ1億7470万人と続く。日本は1億2260万人で12位。

 世界の人口が60億人を超えたのは26年前の1998年。1950年には約25億人だったが、1960年に30億人台に達し、1975年に40億人台に乗り、1987年に50億人台に達した。70億人台に乗ったのは2011年。1950年に約25億人だったので、80億人に達した2022年までの72年間で3.2倍に世界人口は膨張した。

 2020年の世界人口は78億2095万人だったが、この年の宗教人口はキリスト教が23億8000万人、イスラム教が19億人、仏教は5億人とされる。3大宗教の信者数は合計で約48億人で世界人口の約62%を占める。これは世界の人々のおよそ3人に2人は3大宗教の信者ということになる(ヒンズー教信者は11億6000万人で仏教徒より多いが、信者はほぼインドに限定されるので世界3大宗教には含まれない)。

 信者といっても信仰の度合いは様々だろう。聖書やコーラン、仏典に書いてあることを全く疑わずに信じる信者から、神や仏は信じるけれど聖典などの記述を鵜呑みにはしない信者や、科学的知識を備えていて聖典などに書かれていることは架空の物語だと受け止める信者まで信仰の実態は広く分かれるだろう。信仰の度合いは様々であっても、その神や仏を信仰する人々は信者と見なされる。社会で生きるために必要だったり有利だったりするため多数派の宗教の信者になっている人も含まれよう。

 世界に膨大に存在する信者たちだが、信仰に入った経緯は様々だろう。何かの宗教の信者になることを自分の意思で選択した人から、親や家族や集落の信仰を受け継いだ人、何かの宗教の信者になることが当然とされる社会に生まれ、その宗教を自然に受け入れた人など多彩に分かれる。宗教的な環境で生まれ育った人々はその宗教の規範に則った生き方を続けてきただろうから信者であることは当然で、宗教が選択の対象ではない場合もあるだろう。

 宗教は信者に価値観を与える。キリスト教とイスラム教と仏教が与える価値観は、それぞれに「よき生き方」を説くなど共通する部分もあるが、大きく異なる部分もある。イスラム教は信者の日常生活を強く律し、社会に規範を与え、国家のあり方をも方向づけるので、イスラム教国の多くは世俗国家とは見なされない。イスラム教の信者とキリスト教や仏教の信者に要求される信仰のあり方も大きく異なる。

 3大宗教は神や仏の実在を肯定するので、それぞれの信者も神や仏の実在を肯定する(神や仏の実在を否定する人は信者にはならない)。だが、神や仏の実在は証明されず、神や仏の存在は信じることによって担保される。神や仏の存在を感じるという人々も信者に含まれるだろう。神や仏の実在を考える人々よりも、神や仏の存在を信じたり感じたり疑わない人々が現在の世界で6割強と多数派であることは、理性や知性だけでは動かない世界の状況を理解するための重要な前提だ。

2024年11月30日土曜日

読んだ経験

 例えば、夏目漱石の小説を読んだことがない人に、その面白さや素晴らしさなどを漱石ファンが熱心に説いても、実感としての読書体験は伝わらない。そもそも小説なんか読んだことがないという人は小説に興味がなく、小説との接点も希薄だろう。そうした人に小説の面白さを実感してもらうには、何かの小説を読む経験から始めてもらう必要がある。

 小説を読み始めた人が、いつか漱石の小説を読んでも面白いとも素晴らしいとも感じないかもしれないが、実際に自分で読む経験をしたか、読まずにいるかでは、判断の信憑性が異なる。漱石やその作品の情報はネット上に多く、ネット上の情報を読んだだけで漱石とその作品について知ったかぶりで論じたりすることもできようが、読まずに言う見解は自分のものではなく、誰かの見解の受け売りでしかない。

 「月ぎめで紙の新聞をとっている」人は50.6%で、 「新聞や新聞記事は読まない」人は 37.5%。「月ぎめで紙の新聞をとっている」人は年代の上昇とともに多くなり、70代以上で80.4%になるが、30代以下では10%台だ。「新聞や新聞記事は読まない」人は年代が低いほど多く、30代以下で60%を超え、30代以下では3人に2人は新聞を読む経験が乏しいのが現代だ(メディアに関する全国世論調査、2023年)。

 新聞をとっていない家庭で育った人は、新聞を読む習慣が身についておらず、親元を離れて暮らし始めても新聞をとらないだろう。ニュースに接するのはテレビがスマホという人が、新聞を軽視し、読んだことがない新聞記事には関心も興味も持たず、SNSなどで流れる玉石混合の情報に影響されるのは自然な現象だ。

 その存在は誰もが知っているだろうが、ニュース源として重要視されなくなった新聞。宅配が減り購読者数を減らし続けている新聞業界は、ネット空間に活路を求め、各社は自社サイトを公開している。だが、有料購読者数は伸びず、収益事業としての成長は見込めず、記事の有料化を増やしたり、いちいち読者登録を求めたりし、公開している記事の冒頭だけしかサイトを訪れた人は読むことができない状況だ。

 これでは、何かについて知りたいと新聞社のサイトを訪れた人がSNSなどに流れるのは当然だ。新聞記事を読んだ経験が乏しい人なら、新聞社のサイトは「面倒くさい」と感じるだけだ。新聞が読まれなくなっている現在、新聞記事を読む体験を広く提供できるのが新聞社サイトのはずだが、各社は新聞記事を囲い込んで、新聞記事を読む体験を広めるチャンスを放棄している。

 新聞記事を読んだ経験が乏しい人々が新聞を見捨て、「情報はネットで」となる流れは定着した。新聞各社は縮小再生産から脱することができず、ネット戦略は収益性にとらわれすぎている。新聞社は自社サイトを「新聞記事を読む経験をしてもらう」場として再構築し、積極的に無料公開記事を増やすなら、より多くの人が新聞記事を読む経験ができる。新聞を読む体験をした人々を増やすしか、新聞が生き延びる道はない。

2024年11月27日水曜日

中国と保護貿易

  世界への輸出基地として高度成長を続けて世界2位の経済大国になった中国は、次第に独自の政治的な主張を強めるようになった。欧米の価値観に基づく現在の国際秩序の変更をあからさまに唱えたり、新興諸国との連携を強化したりする一方で、軍事力の膨張を進め、海軍の展開能力の拡大を誇示する演習などを繰り返している。

 中国への投資や中国企業の米国での上場などで利益を得ていたため中国の経済成長を歓迎していた米国は、中国に対する警戒心を高め、その膨張する軍事力は西太平洋から東アジアにかけての米国の軍事覇権に対する脅威だとの認識に転じた。米国は中国企業に対する制裁を増やし、米国内での中国人の活動制限を厳しくするなど、中国封じ込めに転換した。

 対抗して中国も米国企業を標的に制裁を発動し、互いに相手国企業の活動に対する制約を増やしている。制裁対象になるのは軍事関連や情報関連などの企業が多く、民生品に関わる企業が制裁対象になることは少ない。だが、中国では、行政機関による法の解釈が恣意的で、外資企業も共産党統治のシステムに組み込まれることを強制されるなど、以前から外国企業の経済活動は自由ではなかった。

 さらに米国は中国EVに高関税を課すなど関税面でも中国からの輸入を制限する方向に動き、「やられたら、やりかえす」中国は対抗して米国からの輸入商品に関税を上乗せするなど、互いに国内市場を囲い込み、相手国の商品の国内市場からの排除を進める。EUも中国EVに高関税を課したので、中国は対抗措置に動くだろう。

 制裁合戦や関税引き上げで各国が国内市場を囲い込む動きが広がると、最も影響を受けるのは輸出主導で成長してきた中国だ。中国の国内市場は大きいと内需主導の成長に切り替えるしかないだろうが、国内需要を遥かに上回る生産能力が中国経済の重荷になる。国内需要を遥かに上回る供給能力は中国の強みだったが、それが弱点に転じる。

 「これからは内需だ」と中央政府が指示したとしても、中国の人々が簡単には消費活動を活発化させないことは、不動産バブル崩壊で国内消費の停滞が長引く現実が示している。自由貿易により多大な利益を得てきた中国は、制裁合戦や関税引き上げなどで各国が保護貿易に向かうことに反対し、「自由貿易はwin-winだ」などと主張するだろう。

 だが、国内のインターネット空間への米国など外国企業の参入を制限し、基幹産業は国営企業などで押さえ、スパイ取り締まりを口実に外国企業の駐在員らを逮捕するなど、様々な非関税障壁で国内市場を保護する保護貿易は中国が以前から続けてきたことだ。自国市場を保護しながら、自由貿易で各国への輸出を拡大させるという状況は中国に好都合だったが、そんな状況に変化が訪れようとしている。

2024年11月23日土曜日

可視化された影響

 北海道森町の函館線・森駅―石倉駅間でJR貨物の貨物列車が脱線したのは11月16日。このため森駅―長万部駅間で普通列車と特急北斗とJR貨物の貨物列車が3日間運休し、鷲ノ木道路踏切の近辺で破損したレールや枕木の取り替え作業が完了したあと、19日始発から運転を再開した。特急北斗の運休で影響を受けたのは16日が約5500人、17日と18日はともに約7000人。

 運休が続く函館―長万部駅間で17日から代行バスの運行が始まった。特急北斗は函館-札幌間を11往復/日しているが、JR北海道が用意できた代行バスは4往復分で、十分な代替輸送を確保できなかった。JR北海道は他の交通機関を利用するよう呼び掛けたが、札幌と函館を結ぶ都市間バスや航空便は満席となり、多くの乗客が取り残され、報道によると、函館-札幌間のJR以外の交通手段が乏しいことに観光客らから不満の声が上がった。

 函館―長万部駅間が運休したことにより、函館と室蘭・苫小牧・千歳・札幌などの間をJR特急で移動する人々は足止めされ、長距離輸送に欠かせないJR貨物の貨物列車が動かないので本州と北海道を結ぶ物流はストップし、北海道産の農産物をはじめ宅配便や雑誌などの輸送に大きな影響が出た。今回の運休は、道南で函館線が機能しなくなれば、どういう影響が出るのかを実際に示した。

 運休が始まった16日にJR北海道は代行バスを手配できず、代行バスの運行が開始されたのは17日だったが、4往復分だけ。特急北斗の乗客全員を輸送できるか不明で、報道によると、利用客は「駅員から『代行バスに乗れる保証はない』と冷たく言われた。誰のせいでこうなったのかと腹が立った」。代行バスに使用した観光バス1台の乗客数は補助席を含め60人程度。

 函館市は新幹線の函館駅への乗り入れを目指し、コンサル会社に経済効果を試算させたり、PRイベントを開いたりと公金を使う。新幹線が函館駅に乗り入れるためには、新函館北斗駅-函館駅間の全面的な工事が必要になる。在来線のレールの外側に1本、新幹線の軌道に合わせたレールを設置しなければならないが、それには枕木を全て取り替える必要があり、橋なども架け替えたり、場所によっては地盤強化も行わなければならないだろう。

 今回、鷲ノ木道路踏切近辺で破損したレールや枕木を取り替える作業は昼夜を通して行われたが3日間を要した。新函館北斗駅-函館駅間は約18kmあり、新幹線を走らせるための作業は昼に限られるだろうから、相当の日数を要する。それは、相当の日数、特急北斗を含む在来線とJR貨物の貨物列車が運休することを意味する。在来線や貨物列車が3日間、運休しただけで大勢の利用客が移動できず、本州と北海道間の物流はストップした。

 函館駅への新幹線乗り入れを実現するためには、特急北斗や貨物列車などを工事が行われる相当期間、ストップさせることになり、その影響(=利用客や物流関係や道内の農業関係にかける迷惑)は計り知れない。函館市は現実的に問題が多い函館駅への新幹線乗り入れ計画を放棄し、市民の福祉向上のために公金を使うべきだ。新函館北斗駅-函館駅間を、新幹線工事のために運休させる責任を函館市は負えるのか。

2024年11月19日火曜日

怒る神と裁く神

  スペイン東部のバレンシア州などで、8時間の雨量が491mm(年間降水量に匹敵)の地点や、過去最高の雨量を記録した地点が相次ぐなど記録的な豪雨があり、やがて同国では過去最悪レベルの洪水被害を生じ、死者は220人を超えるなど大きな被害をもたらした。対応の遅れで洪水の被害が広がったとして州政府に対する住民の怒りが爆発し、バレンシアでは約13万人の大規模なデモが発生、警官隊との衝突に発展した。

 豪雨や洪水、雷、強風、日照り、地震、噴火など、現在では自然現象であると解明され、発生のメカニズムを多くの人が理解している現象も、古代の人々には、恐れ、おののき、過ぎ去るまで耐えるしかない現象だっただろう。自然現象の強大な「パワー」を見せつけられた人々が、起きている自然現象に意味を求め、自然を支配し、あやつる何らかの存在を想像したのは不思議ではない。

 そうした目に見えない何らかの存在が人格化されて、世界各地で人々が崇める様々な神が誕生したのだろう。陸や海などで豊かな恵みをもたらす神々もあれば、人々の生活を破壊し、死をももたらす神々も人々は想定した。おそらく自然現象や日常生活の出来事の一つ一つを神のなしたものであると見なし、多くの神々と「共生」していると現実世界を理解しただろう。

 キリスト教やイスラム教の影響が弱い社会では、様々な神が存在する。人々は豊かな恵みや安寧をもたらす神に感謝し、自然災害など災いをもたらす神々を恐れ、慈悲を求めて祈る。自然災害などの災いと神を関連させた人々は、なぜ神が人間に災いをもたらすのかと考え、何かの罰だとか試練だ-などと恐れただろう。

 豊かな恵みや安寧をもたらす神は人間の生活を豊かにし、人間を守る神だが、自然災害などの災いをもたらす神は人間の生活を時には破壊する怒れる神だ。キリスト教などでは、全能で唯一の存在の神が人間に「正しく」生きることを求め、最後の審判で人間を裁くという。地獄に落とされる人もあるとされ、神の裁きは厳しいものだが、その裁きが行われるのは未来においてだ。

 自然災害など災いをもたらす怒れる神と、最後の審判で人間を裁く神は同一の存在ではない。怒れる神は人々を守る神と一緒に人間生活に関与する神々だが、最後の審判で人間を裁く神は、現世で起きる自然現象や日常生活の出来事の一つ一つには関与しない存在で、人間に神を信じて「正しく」生きることを求めるだけだ。

 キリスト教やイスラム教が強い影響力を持つ現在、神は全能で唯一の存在との解釈が優勢だが、目に見えない存在なのだから、唯一の神だけが存在しているとも様々の神々が存在しているとも解釈でき、どちらを信じるかは個人の自由だ。人々と「共生」する神々がいて、人間に超越して一方的な信仰を人間に求め、人間を裁く唯一の神もいる。

 スペインの人々は豪雨も洪水も自然現象であると理解し、避難指示などが遅れ、多大な被害を出し、多くの人命が失われたことに怒り、州政府の責任を問い、警官隊とも衝突した。今回の災害と神を結びつけないのは合理的な判断だが、豪雨や洪水に巻き込まれた人々は、おそらく神に祈っただろう。だが唯一の神に祈っても現世において救いはない。

2024年11月16日土曜日

カキフライ

 マガキ(真牡蠣)は全国各地で養殖されていて、10月〜4月に水揚げされ、旬は12月~2月ごろだ。夏は産卵期で、蓄えた栄養を放出してしまうので水っぽくなり、味が落ちるという。だが、岩ガキの旬は6月~8月ごろで、春に旬を迎える産地もあり、春牡蠣としてブランド化して販売している産地もあり、厚岸(北海道)は低水温で成長が遅くなる性質を利用して、1年中出荷している(本田水産HP)。

 カキといえば「Rが付かない月は牡蠣をたべるな」との欧州由来の警句がある。欧州ではカキの生食が古くから行われていたので、「あたると怖い」と食中毒への警戒を呼びかけた言葉だ。現在では、カキの生育環境の衛生基準が厳しく、冷凍冷蔵の設備や流通が整っているので年中、カキを食べることができるようになった(生食用はすぐ食べ、他は中心部までよく加熱すること)。

 富士山の初冠雪が報じられて、冬の到来を意識した友人はふと、「何年もカキフライを食べてない」ことに気づいたという。仕事であちこち動いていたころは外食が多かった友人は、冬場になるとカキフライ定食がお気に入りで、昼食に入った飲食店でメニューにあると、よく注文していたそうだ。

 定年後の再雇用を断り、放置されていた実家に戻って「農家のマネゴトを始めた」と友人。マネゴトというのは、専業農家のように収穫量増加を目指さず、自家用を目的に多くの種類の野菜を育てるが、獲れすぎた場合にだけ野菜を友人知人に送るという形態だからだ。野菜を方々に配るボランティア農業だと言う友人は、こどもの頃に手伝わされていたので、農作業のコツはすぐに思い出したという。

 「久しぶりにカキフライを食べたい」と思い始めると我慢できなくなり、近隣では知られているトンカツ店に出かけた友人は、メニューを見たが、カキフライがない。店員に聞くと、「今年は遅れていて、まだ、やってないんです」。高まっていたカキフライへの思いが一気にくじかれ、他のメニューを見ても、どれも魅力的には思えなかったという友人は、1時間近くかけて出かけてきたのだからとカツカレーを注文したそうだ。

 海水温の上昇で死滅するカキが増えたり小ぶりにとどまり、収穫量は減っており、今年は全国的に品薄で、取引価格は2倍ほどに高騰していると報じられている。こうした傾向は数年続いており、海の環境の変化が養殖事業にも大きな影響を及ぼしているようだ。「まだ牡蛎の身入りは弱く、全体的に水っぽい牡蛎がほとんど」「販売開始は11月中旬以降となる見通し」だったが「多少の遅れが出る模様」(仙台かき徳HP、11月5日投稿)。

 カキフライを年中提供する居酒屋などがあるが、「あれは冷凍物を使ってるんだろう。小さなカキフライばかりで、カキを食べたという満足感が薄い」と友人。カキフライのカキは大ぶりでなければいけないと主張する友人は「あのトンカツ屋は、産地で今年採れたカキだけを使っているんだな。いいカキフライを出してくれそうだ」と期待を新たにし、年末ごろにまた出かけていくと決めた。

2024年11月13日水曜日

累が及ぶ

 累は「迷惑」の意の漢語的表現で、累が及ぶは「巻き添えを食う。とばっちりを受ける。他者の災いが自分に及ぶ」ことで、累を及ぼすは「巻き添えにする。他者に迷惑を掛ける。災いが他者にまで及ぶ」ことだ。累が家族に及ぶ可能性があれば多くの人は行動を自重したり、慎重になる(家族に累が及んでから後悔する人もいる)。

 家族に累が及ぶことを強調して、人を操ろうとする犯罪組織があり、SNSや求人アプリや掲示板などで「高額収入」を掲げ、「簡単な仕事」「すぐに稼げる」「誰でも即日支払い」「リスクなし」「運ぶだけ」「引越しの手伝い」「荷物を受け取るだけ」「電話をかけるだけ」などの誘い文句を並べ、闇バイト(犯罪行為によって報酬を受け取るバイト)に応じる人を探している。

 うっかり応募した人は、運転免許証や身分証などで個人情報を握られ、さらに親など家族の情報の提供を求められる。その後に仕事が犯罪がらみと知って断ると、「個人情報を晒す」「逃げられないぞ」「家に行くぞ」「家族に危害を加える」などと犯罪組織から脅され、やめられなくなる。また、最初は簡単な仕事を任されるが、やがて強盗グループなどに加えられ、逃げ出すことができなくなることもあるという。

 闇バイトの求人は、▽「叩き」「運び屋」など隠語が求人情報に掲載されていることがある、▽具体的な仕事内容が書かれていない、▽報酬が異常に高い、▽募集対象の性別が限定されている、▽連絡手段を匿名性が高いSNSに限定するーなどと専門家。個人情報や家族の情報を犯罪組織に知られているので、闇バイトに応じた人は脅され、なかなか抜け出すことができなくなるという。

 離れて暮らす親などにも危害が及ぶと犯罪組織から脅され怯えた人は、犯罪組織の指示に従わざるを得なくなるという。自分に向けられた暴力には立ち向かう覚悟が芽生えた人でも、遠く離れて暮らす親などに暴力が加えられる可能性が高いと心配すると犯罪組織に立ち向かうことは難しくなるだろう。

 「累が親族にも及ぶ」ことを国家として利用しているのが中国だ。日本や米国など外国に居住する中国政府に批判的な評論家や活動家を黙らせるために、中国大陸に居住する親族に累が及ぶと日本や米国など現地駐在の公安関係者らが接触して警告すると報じられている。こうした警告が説得力を持つのは、中国大陸では中国政府に批判的な人物に対して容赦ない制圧が加えられるという現実がある。

 中国政府は人民の個人情報を把握し、全国に張り巡らせた監視網で個人の行動情報の収集を続けていると見られ、中国大陸に親族が居住している人は、自分が外国に出たとしても親族を「人質」に取られ、中国政府の警告(脅し)から逃れることはできないのが現実だ。親などに累が及ぶことを心配するのは国籍に関係ない自然な心情だろうが、中国では政府が個人情報を握り、共産党の独裁統治の維持のために活用する。

2024年11月9日土曜日

増える棄権

 日本の総人口は1億2435万2千人で前年比59万5千人減と13年連続の減少、日本人人口は1億2119万3千人で同83万7千人減と減少が続いている(2023年10月1日現在。総務省)。第50回衆院選の当日有権者数は約1億388万人だが、投票率は53.85%で戦後3番目の低さだった。これは約5594万人が投票したが、約4794万人が棄権したことを示す。

 選挙で投票する権利を持つ人は有権者と呼ばれ、現在は満18歳以上の日本人が該当する。選挙で投票することは権利であり、人々は選挙で投票することにより国政などに参加する。棄権とは「権利を行使しない。権利を捨てる」ことで、棄権した理由は人により様々で、やむを得ない事情があった人もいるだろうが、主権在民の体制は棄権する人が増えることにより脆弱化する。

 前回選の投票率は55.93%だったので今回は2.08ポイント下がった。今回の投票率の1%は約104万人だったので、今回は棄権した人が200万人以上増えた。投票率53.85%=約5594万人が投票したのだが、約5594万人は日本人人口の1億2119万の半分に届かない。今回の選挙の結果、日本人人口の半数を下回る人々の意向で今後の日本の国政が左右されることになった。

 報道によると第50回衆院選の小選挙区の政党別得票総数は、自民党が約2086万票、立憲民主党は約1574万票。自民党は前回選挙より約700万票少なく、立憲民主党も約150万票減らした。投票総数が減る中で自民党は大きく得票数を減らし、立憲民主党は減ったものの踏みとどまったといえる。獲得議席数では自民党は56議席を失って191議席、立憲民主党は50議席増の148議席。

 総務省によると、今回の比例代表の得票数は自民党が前回選から533万票も減らした1458万票となる大敗で、連立を組む公明党も同114万票減で600万票台を割り込む596万票だった。両党とも比例代表導入以降では過去最少の得票数だというから、連立与党の政治の実績と政治姿勢が厳しく批判されたといえよう。とはいえ、宗教団体との不適切な関係や裏金問題など不祥事が次々と暴かれたにもかかわらず、自民党に投票し続ける人々が最も多いことも示した。

 立憲民主党はほぼ横ばいの1156万票。国民民主党は前回選の259万票から617万票へと358万票も増えた。維新の会は510万票で前回選より294万票減と失速し、国民民主党が野党第2党になった。れいわ新撰組は380万票と大きく得票数を増やし、336万票へと得票数を減らした共産党を上回った。参政党は187万票、保守党は114万票、社民党は93万票などとなった。

 二大政党制だったら政権交代が起きていただろうが、不祥事が次々に暴かれた自民党に対する批判票が野党各党に分散し、政権交代には至らなかった。「自民党には反省してもらう必要がある」などと考えた自民党支持者が野党第1党に投票を集中させていれば政権交代となっただろうが、彼らは棄権するか立憲民主党以外の野党に投票した。そうした行動が、変わることができない自民党を支えている。

2024年11月6日水曜日

混沌に突き進む

 トランプ氏は、大統領に選出されれば、米国への輸入品に「10%から20%の関税をかける」とし、外国に工場を移していた「企業を米国に呼び戻すつもりだ」とする。関税を高くする対象にはEUなど同盟国も含まれ、中国からの輸入品には60%以上の関税をかけ、メキシコから輸入される自動車の関税は200%にし、ドイツなどから輸入される自動車にも関税を課すと主張した。

 関税が引き上げられると、輸入品の価格は高くなり、価格競争力を失った輸入品は輸入されなくなり、米国市場に頼る外国企業は米国内での生産を増やさざるを得なくなる。トランプ氏は、関税引き上げは米国内の製造業を活性化させ、雇用を増やし、貿易赤字や財政赤字の拡大を防ぐと利点を強調し、「バイデン政権は貿易赤字を記録的に増やした。多くの雇用が失われ、多額の富を流出させた」とする。

 自由貿易の利点は、▽各国が得意な分野に特化する国際分業が進み効率化が図られる、▽各国の消費者は外国産の商品を安価に購入できる、▽輸出が増えることで各国の生産や雇用が拡大する、▽貿易が活発になるーなど。短所は▽競争力の低い国内産業は衰退する、▽競争力を失った国内産業からの失業が増加する、▽輸入が過大になると貿易赤字が拡大するーなどにより、関税や輸入制限などの通商障壁を設ける保護貿易を求める動きが顕在化する。

 トランプ氏が主張する関税引き上げに対し、経済学者らは、輸入業者は関税分を販売価格に転嫁したり、米国内で製造される割高の製品に切り替えたりしてインフレを再燃させると批判する。さらに各国による関税引き上げ合戦を招いて、世界で貿易取引を減少させ、世界経済の停滞につながると懸念する。米国が高関税に移行すると、ロシア・中国も対抗して高関税に移行し、世界はいくつかのブロック経済圏に分かれる可能性がある。

 また、関税を引き上げて所得税を引き下げるというトランプ氏の政策で恩恵を受けるのは富裕層だけで、低中所得層の消費者はインフレにより負担増になるとされる。日用品の多くが低価格の輸入品に代替されている状況で、輸入品に「10%から20%の関税をかける」と、その関税引き上げ分を負担するのは米国内の低中所得層の消費者になるとの見方だ。

 米国が高関税国になれば、米国への輸出で経済成長を続けていた諸国に大きな影響が及ぶだろう。米国に対抗して各国も関税を引き上げるなら、モノの移動が自由でなくなり、グローバリズムは停滞あるいは終焉を迎える。ロシアや中国など権威主義国と欧米の対立が先鋭化している状況で、ブロック経済圏の構築が進むことになったなら、第二次世界大戦につながった1930年代の再来も想定される。

 自由や民主主義や人権など欧米由来の価値観に基づく国家形成が「標準」だとされた世界秩序は現在、ロシアや中国、イスラエルなどの行動により、信頼性が揺らいでいる。そこに米国が高関税政策に転換するなら、築かれていた国際秩序は崩壊に向かい、世界は混沌に突き進む。欧米由来の価値観は見向きもされず、自国ファーストとして各国が本音むき出しの行動に励む世界が近づいているのかもしれない。

2024年11月2日土曜日

心配すんな

 クレイジーキャッツのヒット曲「だまって俺について来い」は1964年に発売され、何度もカバーされている(作詞は青島幸男、作曲は萩原哲章)。「植木(等)の極めて無責任なリーダーシップが、かえって人の悩みを吹き飛ばしてしまう。『そのうちなんとかなるだろう』というフレーズと、あまり根拠のなさそうな高笑い」(「クレイジーキャッツ/ホンダラ盤」解説)が聴いている側の心を開放的にする。

 1番の歌詞は「ぜにのないやつぁ 俺んところへこい」と始まるが「俺もないけど 心配すんな」。そして、青い空や白い雲を一緒に見て、雄大な自然に比べりゃ小さい悩みだと気分を転換させ、「そのうちなんとか な〜るだろう」とチョー楽観的な気分にさせ、確かな見通しがなくても不安を過剰にせず、自信を持って進めと促される。

 楽観的な気分にさせられたり、自信を持って進めと促されるのは歌詞にある「ぜにのないやつ」なのだが、同時に歌を聴いている人も巻き込んで、一緒に楽観的な気分にさせる。人生の応援歌というには無責任すぎる歌詞だが、聴く人の元気を喚起する歌になったのは、植木等のハキハキとしてアッケラカンとした明るい歌唱が聴く側の気持ちを楽しくさせるからだ。

 ゼニがない不安にとらわれ、どうやって食いつなごうかと気が塞いでいる人が、楽観的になっても状況は変わらないだろう。ゼニがない不安を解消するにはゼニを得ることだ。だが、簡単にはゼニを得ることができないから、ゼニがない不安に押しつぶされて悲観的になる。そこへ「なんとかなる」という根拠のない励ましは時と場合によっては逆効果で、悲観的になっている人を怒らせるかもしれないが、どうにもならない状況を笑い飛ばすことができれば、塞いでいた気分の転換になる。

 2番の歌詞は「彼女のないやつぁ 俺んとこへこい」、3番の歌詞は「仕事のないやつぁ 俺んとこへこい」と始まり、水平線やあかね雲など雄大な自然を一緒に見て、「そのうちなんとか な〜るだろう」と続けるが、3番の歌詞では「そのうちなんとか な〜るだろう」の後に、「だまって俺について来い」と付け足して締める。

 ぜにも彼女も仕事もない「俺」について行っても、いいことは起こりそうにないだろうが、そんな状況でも「俺についてこい」と言うことが出来る「俺」は頼りがいがある人物に見えなくもない。現代なら、ぜにも彼女も仕事もない「俺」が仲間を集めて金目当ての犯罪に走ったりしそうだが、高度経済成長の1960年代には「なんとかなるだろう」との気分が社会にみなぎっていて、この歌はその反映なのかもしれない。

 単純な歌詞と単純な構成の歌だが、この歌には確かにパワーがある。訪問客を集めようと全国でパワースポットが増殖しているそうだが、本当にパワーがあるのかどうかは誰も知らず、信じる人だけがパワーを感じる場所でしかない。だが、この歌は紛れもないパワーソングで、発売から60年を経た今日でも、聴く人の心を明るくさせ、楽しませるパワーを失っていない。

2024年10月30日水曜日

アジアの存在価値

 アジアを国連は、西アジア(トルコからアフガニスタンまでとアラビア半島などの15カ国)、中央アジア(カザフスタンなど5カ国)、南アジア(インドなど7カ国)、東南アジア(ASEANなど11カ国)、東アジア(日本、中国、韓国、北朝鮮、モンゴルの5カ国)とする。ロシアは東ヨーロッパに分類され、北アジアという概念は使われない。

 人種的な広がりが大きく、多くの民族が混在し、習俗や文化や宗教などでも大きな違いがある広大な地域をアジアと一括りにする概念は、地域的な一体感が希薄で大雑把すぎる。これは、紀元前に地中海東部のフェニキア人が使っていた呼称が起源で、太陽が出る東方を示した呼称がやがてアジアという名称になり、太陽が沈む西方の呼称がヨーロッパになったという。

 外務省は東アジアと東南アジアと南アジアをアジアとしているので範囲は狭まったが、まだ地域的な共通項や一体感が希薄な印象は否めない。アジアという地域的な名称の括りが、そこに住む人々から出てきたものではないので、相互のつながりを意識することがなく、地域的な連帯感めいたものも少なかった。西アジアと中央アジアにはイスラム教という共通する要素がある。

 国連の定義によるアジアの範囲は広く、共通するのは欧州諸国の植民地支配の対象だったことだけだ。20世紀にアジア諸国は独立したが、少し前のアジアのイメージはヨーロッパに比べて近代化が遅れ、経済的に停滞しており、クーデターが頻発するなど民主主義が根付かず、人権や自由などを尊重する社会にはなっていないーか。つまり、ヨーロッパにとってアジアは見下す対象であった。

 日本を始めとする東アジア諸国や東南アジア諸国、さらにはインドの経済発展もあり、人々の国境を超えた交流が増えるにつれ、アジア人との意識が広がっているようにも見える。ヨーロッパにとって成長するアジアは有望な市場となり、収奪の対象から対等の市場になり、さらには今後の経済成長が見込める市場となった。ヨーロッパにおけるアジア観は大きく変容した。

 共通項や共通イメージを求めることが、アジアという枠組みにとらわれた発想である。ヨーロッパの白人とは異なる人々が住む地域であるとくくるより、アジアの人々はそもそも別種の文化で生きてきた人々であると了解するところに、EUのような枠組みがアジアで可能となる道がある。その枠組みは、多様性を許容し、各国の独自性の主張を包含するものとなるだろう。

 アジアの存在価値とは、ヨーロッパの価値観とは異なる社会が地球上にあり、機能しているとともに歴史的な持続性や正当性があると主張することだ。アフリカはヨーロッパに対抗できるほどの社会になっておらず、ラテンアメリカはヨーロッパの価値観の延長上で社会形成を行っている。ヨーロッパ由来の価値観の「偏光」を是正することができるのはアジアだ。

2024年10月26日土曜日

未来か過去か

 多くの人は正月に初詣に出かけ、新年の家族の無病息災や平安無事、進学や就職の成功、恋愛の成就などを神様にお願いする。宗教行事というより慣習化した行動だが、信仰心のない人々が年に1回ぐらいはと神様を意識する行動を長年続けているのは興味深い。一方、初詣では願い事をするのではなく、前年の1年間、平穏無事に暮らすことができたことを神様に感謝すべきだとする人もいる。

 年に1回、願い事をするのは新年という未来に向けた「その時だけ」の神様との縁だが、神様が過去1年ずっと見守っていてくれたことを初詣で感謝するのは、神様との縁がつながっているとの意識があるからだ。初詣での願い事を大半の人はじきに忘れ、願い事がかなわなかったとしても神様を意識することはないだろう。そして新年になると初詣に出かけ、新たな願い事を神様に頼む。

 願い事を神様に伝えて効果がなかった人々も、願い事をしたことなど忘れた人々も、新年を迎えて年中行事の一つとして神様に新たな願い事を伝える。神様に願い事をすることに意味があり、その願い事を神様が聞き届けるかどうかには関心がない様子だ。平穏無事に暮らした1年を神様に感謝する人々のほうが神様の存在を意識している。

 数年ごとに行われる国政選挙で多くの人は、候補者や政党が掲げている公約を投票の判断材料にするという。それらの公約が実現するかどうかは定かではなく、政権与党になった候補者や政党の公約であっても、その公約が実現するとは限らない。おそらく、自分が判断材料にした候補者や政党の公約がどうなっていくかを投票した人々の多くは次第に忘れ、国政選挙のたびに候補者や政党の公約を見比べる。

 候補者や政党の公約は、選挙後という未来に向けた主権者との約束だが、その実現性は不確かで、投票した人々にできることは実現を期待するだけだ。だが、過去の候補者や政党の行動や実績なら判断材料が豊富にそろっており、選挙後の数年をまかしてもいい候補者や政党であるのかを人々は具体例で評価、判断することができる。

 初詣での神様への願い事なら、それが叶うかどうかは神様まかせだろうが、人々の生活に密接に関係する国政を担う政治家や政党に、実現するかどうか分からない公約を頼りに投票することは白紙委任状を渡す行為だ。初詣での願い事が叶わなくても神様を見限らないように、公約を実現させなくても政治家や政党を見限らないなら、それは非政治的な行動だ(神様には責任を問うことはできないが、政治家や政党には責任を問うことができる)。

 判断材料は、未来か過去か。投票するときに、実現するかどうか分からない公約という未来を判断材料にするよりも、歴史に刻まれた政権与党の実績という過去を判断材料にすることが現実的で賢明だろう。全ての候補者や政党は選挙の時には「美味しい」公約を並べて飾るものだ。国政選挙とは、それまでの政権与党に対する評価であると位置付けるなら、判断材料は過去だ。

2024年10月23日水曜日

不動産バブルの重し

 中国は、官による膨大な公共投資と民による過剰な不動産投資を内需拡大の両輪として高成長を続けてきた。過剰な不動産投資で都市部などにマンションが陸続と建てられたが、居住者がいない空き住戸が2億戸以上と推定されるほど、需要を無視した不動産開発だった。その不動産バブルが崩壊し、中国経済の低調が伝えられる。

 金融緩和や財政出動などが必要だと見られていたが、中国政府は不動産バブル崩壊の処理に手間取っていた。今年9月以降に中国政府は景気刺激策を相次いで発表、それは▽預金準備率を0.5%引き下げ市中に出回る金を増やす▽融資済みの住宅ローン金利を引き下げ▽特別国債を発行して大手国有銀行に資本注入(銀行の健全性を高める)▽優良な住宅開発案件への銀行の融資を促す制度を拡大(不動産開発会社の資金繰りを支援)▽上場企業の自社株買いに対する融資枠3000億元を設定(株式市場支援策)ーなどだ。

 ゾンビ化した不動産企業が多すぎるとともに負債額が大きすぎて、破綻処理すると多くの地方政府や金融機関が傾くので見守るしかできず、中国政府は不動産バブル崩壊に無力だった。不動産バブル崩壊で日本は国債を増発して景気刺激策を繰り返し、国の借金を膨張させた。おそらく中国は日本の対策を研究し、中央政府の負債が膨張することの危険性を認識した。

 危険性とは、中央政府に対する人々の信頼が毀損されることで、それは中央政府が発行する通貨に対する信頼が揺らぐことにつながる。中国の人々が金(gold)を好むことは以前から知られており、平時においても中国では人々が金(gold)などを買い溜めたり、外国に資金を移そうとするのは、中央政府が発行する通貨に対する完全な信頼が人々にはない現れと見ることができる。

 天安門事件やコロナ禍における過剰な行動制限など、いざとなれば多くの人々の犠牲をいとわず、共産党の独裁統治を守るという中国政府の真の姿を人々は見抜いているから、そんな政府が発行する通貨に対する信任は限定的なものになる。華僑の存在が示すように歴史的に中国の人々が他国に移住することを繰り返してきた。中国では政府が人々を管理の対象と見るが、人々は政府を見捨てることで対応したともいえる。

 中国政府の一連の景気刺激策は、金融機関の健全性を高め、救える不動産企業を救いつつ、消費を活性化させることを狙ったものだろう。だが、金額は足りず、遅すぎたとの批判もある。さらに中国政府は都市部で、老朽化した住宅100万戸を買い取り、住人には新たな住宅に住み替えてもらう政策を発表するなど、積み上がった空き住戸の処理に懸命だが、2億戸以上ともされる空き住戸の解消には程遠い。

 中国政府が発表する経済統計の信憑性は低いとされ、中国経済の実態を外部から正確に知ることは簡単ではない。改革開放から「中国の夢」を追う経済体制に転換しつつあるようだが、何がどのように変化させられるのか外部からは見えづらい。不動産バブル崩壊により金融システムが揺らぎ、景気低迷が長期化した日本を反面教師に中国は不動産バブル崩壊の後始末を手際よく行い、景気を上向かせることができるのか試されている。

2024年10月19日土曜日

発情期の動物

 京都府福知山市で、胸に刺し傷のある60代の男性が田んぼで倒れているのが見つかり、死亡が確認された。田んぼには野生のオス鹿1頭がいたと目撃されており、角で刺された可能性があると警察は調べているという。鹿の角はかなり硬く、先が尖っているので、鹿が勢いよく人間に向かってきたりすると危険だ。

 奈良公園では、鹿の角が観光客の足に刺さって負傷する事故が9月に43件あり、前年比2.5倍になるなど、観光客がシカの角で負傷する事故が相次いでいると報じられた。鹿の発情期は9〜11月頃で、オス鹿は非常に気が荒くなるので、不用意に近づいたり、触れたりするのは危険だと注意喚起されている。草食動物の鹿はおとなしそうに見えるが、実は力が非常に強い動物だそうだ。

 発情期にオス鹿が気が荒く攻撃的になるのは交尾の相手を求めることと、他のオス鹿とメスを巡って争うからだ。野生動物には発情期があり、気が荒くなったオス同士が激しく争う場面はテレビの自然番組でよく見かけるシーンだ。哺乳動物で発情期がないのはヒト以外ではネズミ類だという(野生では肉食動物のエサになるから、常に繁殖するようになったと考えられている)。

 争いに勝った強いオスが交尾相手を獲得して子孫を残す仕組みは自然淘汰の重要な要素だろうが、出産した子供を連れているメスは他の肉食動物に狙われやすくなる。発情期と子育て期が一定期間に限定されるのは、野生動物が確実に子孫を育てる可能性を高めるための仕組みだろう。発情期には動物のオスが攻撃的になり、子育て期には子供を守るためにメスが攻撃的になる。

 多くの人が身近で見かける発情期はネコやイヌのそれだろう。ネコやイヌでは発情するのはメスで、オスはメスの匂いなどに反応して、異様な声で鳴いたり、遠吠えしたり、メスをめぐって他のオスと争ったりする(発情期とは「哺乳類などが交尾可能な状態にあり、交尾を求める行動をする時期。繁殖周期の中でメスがオスを受け入れる期間」)。また、野生のウサギには発情期があるが、飼われているウサギには発情期がなくなり、繁殖は年中可能になるという。

 発情期のネコやイヌの狂おしいような鳴き声を聞いたりすると、自然の摂理に突き動かされ、異様な行動をするようになる動物の哀れさに思いを寄せたりもする。だが、繁殖の実現による「種の保存」が最重要だというのが自然の法則だとすると、動物に発情期があり、否応なく動物が進んで交尾に向かうという仕組みは、うまくできている。種の保存が本能として動物には組み込まれているのだ。

 ヒトは常に繁殖可能だ。常に発情しているともいえるが、多くの人にとっては10代〜30代ほどが発情期に相当するか(個人差は大きいだろう)。生まれた子供が成人するまでに長期を要し、手間も要するのでヒトにとって発情期よりも子育て期間のほうが「種の保存」のために重要だ。動物の多くは子育てをメスだけで行うが、ヒトではオスも子育てに参加する(個人差はある)。家族の形成と発情期の有無には何らかの関係があるのかもしれない。

2024年10月16日水曜日

開放的な人

 開放的と見られる人がいる。開けっぴろげな人物で自分を包み隠さないというイメージで、何でも思いついたことをすぐ言葉にし、会話を弾ませる。時には、発言が不適当で批判されたりすると、自説に固執することなく、納得すると批判を受け入れ、さらに会話を発展させたりする。

 開放的な人は楽観的な性格だと見られる場合もあって、周囲の人から親しみを持って遇される。逆に、何を考えているのか分からない人は閉鎖的な人物と見られ、あからさまな警戒感を持たれたりはしなくても周囲からは距離を置かれたりし、周囲からの親しみを得ることに苦労したりする。

 他人を分け隔てなく受け入れると感じさせることは開放的な人物の条件だ。自分が気に入った人だけを受け入れることは誰でもやっていることだが、どんな人物であれ受け入れることは誰にでもできることではない。他人の肯定的な部分を受け入れ、否定的な部分を批判・拒否することも誰でもやっているだろうが、否定的な部分をも受け入れることは簡単ではないだろう。

 誰であっても他人を受け入れることは、好き嫌いがないことではなく、また、嫌いな人を笑顔をつくろって我慢して受け入れるのではない。考えや感情が自分と他人は異なることを自明とし、ことさら意識しなくても、自分とは異質な他人の存在を容認する。開放的な人は他人の目にさらされても動じない自己を持っていて、そんな自分と異質な他人の存在を認めるようにも見える。

 自分の思ったことを素直に言っているようなイメージも開放的な人物にある。他人の感情などに配慮して、自分が言いたいことを言わないのではなく、思ったことを言葉にしているイメージだ。言いっぱなしの人もいるが、相手の反応により言い換えたり修正したりといった気の使い方をする人もいる。

 こうした開放的な人物のイメージは類型的なものであるかもしれない。開放的に装うことは可能であり、周囲に人がいる時にだけ開放的な人物になってみたり、本音を隠したまま気軽な話題について開放的に振る舞ってみたりと、時と場合によって開放的に振る舞う人や、仲間内でだけ開放的になる人は珍しくないだろう。

 心の内を全てオープンにしているように見える開放的な人物にも、いわゆる素の部分が心にあるだろうが、それは見せない。1人になった時には素に戻るのかもしれないが、それを人前では決して見せないのが開放的な人物に見える秘訣か。開放的な人物とは誰かという問いは、誰が開放的に見えるかという問いである。

2024年10月12日土曜日

魂と仏教

 魂は「①生きている動物の生命の原動力と考えられるもの。死後は肉体を離れるといわれる。②仕事を支えるものとしての人間の精神。気力」とされ、霊は「①人間の知識や経験を超えて、そこに何かあると感じられるが、実態としてはとらえられない神秘的な現象(存在)。②死者の魂」、霊魂は「その人が生きている間はその体内にあって、その人の精神を支配し、死後も色々な働きをなすと考えられるもの」と新明解国語辞典。

 魂も霊も霊魂も物質として存在することは確かめられておらず、その存在は「信じる」か「感じる」しかない。さらに魂や霊や霊魂が、その人の死後も消滅することがなく、どこかに存在し続けることも客観的に確かめられてはいないので、死後の魂や霊や霊魂の存在も「信じる」か「感じる」しかない。

 ある人が信じることや感じることは個人的な経験であり、それを他者と共有することは簡単なことではない。だが、魂や霊などの存在を否定する人が少ないように見受けられるのは、多くの人が魂や霊などに相当する何かを信じたり感じたりしているからかもしれない。魂や霊などの存在が宗教を超えて信じられているのも、魂や霊などの存在を信じたり感じる人が多いからか。

 魂を操作できるとする宗教者がいる。仏教の多くの宗派では仏壇や墓、位牌などを購入した人に魂入れを行うとして、仏壇や墓、位牌などに向かって僧侶が読経を行う。魂入れを行うことによって仏壇や墓、位牌などに個人の霊が宿り、礼拝の対象になるとする。僧侶が魂や霊などを仏壇や墓、位牌などに本当に入れることができるのか誰も知らない。引越などで仏壇を移動させる時には、まず魂抜きを行い、引越先で魂入れの儀式を行うのだという。

 僧侶が本当に死者の魂や霊を読経によって操作し、仏壇や墓、位牌などに死者の魂や霊魂を入れたり抜いたりできるのだとしたなら、それは驚嘆すべきことだ。だが、そうした僧侶の行為は魂や霊や霊魂の実在を前提とし、さらに魂や霊や霊魂を僧侶がコントロールできるとするから成り立つ。魂や霊や霊魂の実在を疑う人々からは、そうした僧侶の魂入れ魂抜きは御布施稼ぎの行為としか見えない。

 魂も霊も霊魂も、その存在を信じたり感じたりする人には実在するものであろうが、その存在を疑う人には実在しない。人々が感じている魂や霊や霊魂と、僧侶が儀式化する魂入れ魂抜きの対象の魂や霊や霊魂が一致していれば仏教に対する信仰は堅固であろうが、一致しなくなれば仏教に対する信仰は形骸化するばかりだ。

 仏教の基本的な立場は無我説にあり、輪廻する主体や中有の状態にある霊魂は否定されるとする説がある(『仏教とは何か』山折哲雄著、中央新書)。「仏教において解脱というのは主体(我)もしくは霊魂的な存在(有)から自由になることを意味」し、無我の立場によって「我と霊魂の存在を否定することになった」。

 しかし、「ブッダは霊魂の有無を論ずることの無益を説いたと伝えられる」が、後の部派仏教の時代に至って「輪廻の主体にかんする反省があらわれ、霊魂的な存在としてのブドガラ(捕特伽羅)を認める議論が登場」した。つまり輪廻転生する主体として霊魂が持ち出されるようになった。ブッダが否定したという魂や霊の存在を後の宗教者が必要としたのは現世的な理由からだろうと推察できる。

2024年10月9日水曜日

諜報機関の活躍

 2024年4月にシリアの首都ダマスカスにあるイラン大使館の領事部をイスラエル戦闘機が空爆し、イラン革命防衛隊の司令官や軍事顧問らを殺害した。この攻撃は、革命防衛隊の司令官らが逗留していることを察知・確認したから行われたものだ。これはイラン大使館に出入りする人物の情報をイスラエルが把握していたことを示す。

 同年7月にはレバノンの首都ベイルートをイスラエル軍は空爆し、ヒズボラの幹部を殺害した。この空爆では子供を含む30人以上が殺害されたとレバノン保健省。こうしたヒズボラの幹部を標的にした空爆を行うことができたのは、イスラエルがヒズボラの幹部の居場所を把握していたからで、レバノンでのヒズボラ幹部の動向を常にイスラエルは監視しているのだろう。

 7月にはイランの首都テヘランで、イラン新大統領の宣誓式に出席するため宿泊施設に滞在していたハマスの最高幹部が殺害された。ミサイルが撃ち込まれたとも仕掛けられた爆発物が遠隔操作により爆発したとも報じられたが、ハマスの最高幹部を標的にしたピンポイントの攻撃だったことは明らかだ。ハマス幹部を殺害する動機を持っているのはイスラエルで、イラン首都にも綿密な情報網を構築していると推察される。

 9月17日にレバノン各地で、ヒズボラのメンバーが使用するポケットベルタイプの通信機器が一斉に爆発し、死者30人超、負傷者は約4000人という被害を出した。携帯電話の電波は探知されるとしてヒズボラはポケットベルタイプの通信機器を戦闘員や関係者らに配っていたという。この通信機器はイスラエルの諜報機関が関与するハンガリー企業が、ヒズボラ向けに爆薬を電池に混ぜ込んで製造していたと報じられた。

 同18日にはレバノン各地で、ヒズボラのメンバーの所持するトランシーバーが一斉に爆発し、死者20人超、負傷者約600人となった。このトランシーバーは日本企業の製品とされたが、同社は10年前から同機種を「製造も輸出もしておらず、作動に必要なバッテリーも製造していない」。今も模造品が出回っているといい、ここでもハンガリー企業の関与が疑われるとする報道もある。

 2023年10月7日にハマスはイスラエルに対して大規模な奇襲攻撃を行ったが、この攻撃をイスラエルは察知することができなかった。約1200人が殺害され、251人が拉致され、今も約100人が人質になっている。ガザにもイスラエルは諜報員を確保したり、侵入させて情報収集に励んでいたであろうが、大規模な攻撃を察知できなかったのだから、イスラエルの諜報能力にもアナがあった。

 イスラエル軍のガザ侵攻が始まって以来の情報戦では、レバノンやイランやシリアなどの諜報網をフル回転させているだろうイスラエルが圧勝している。だが、ハマスの奇襲攻撃をイスラエルが察知して防いでいれば、現在のガザやレバノンでの大量の民間人の死傷はなかった。諜報網や諜報機関は、自国が戦争に引き摺り込まれることを未然に防ぐことに存在価値がある。自国が戦争に引き摺り込まれてから、やっと「活躍」するような諜報機関は国を危うくする。

2024年10月5日土曜日

裏目に出た戦略

 フォルクスワーゲン(VW)がドイツ国内での工場閉鎖を検討していて、工場閉鎖は創業以来初めてだと報じられた。VWはドイツ国内の12万人以上の従業員の雇用を保証する協定も破棄し、労働組合との交渉が続いている。稼ぎ頭だった中国市場で中国EVメーカーが台頭してVWはシェアを失いつつあり、コスト削減へ縮小せざるを得なくなった。

 VWは以前、トヨタなどのハイブリッド車に対抗するためディーゼル車に注力したが、排気ガス不正が暴露されて好調だったディーゼル車販売は停滞し、自動車産業で主導権を握るとのEUの戦略もあってVWはEV一辺倒へと舵を切った。だが、割高なEVの販売は補助金頼みから脱することができず、さらに割安な中国製EVが大量に輸出されてきて欧州のEV市場は侵食され、VWのEV一辺倒の戦略は裏目に出た。

 経営戦略のミスを繰り返したのだからVWの経営が揺らぎ、工場閉鎖に追い込まれたのは当然だ。「これからはEVだ」と欧州などのメーカーもEVの新車を続々投入したが、期待通りには売れず、戦略の再考を余儀なくされている。メルセデス・ベンツやボルボ、GM、フォードなどはEVへの投資見直しを表明し、売れているハイブリッド車を増やすそうだ。

 売れない商品から売れている商品へと切り替えるのは当然の経営判断だが、市場動向に追随しているだけとも見える。VWはディーゼル車やEVなどを投入し、市場を自分たちの思うように塗り替えようとしたが、失敗した。自分らが考える「理想的」な商品を投入して、市場を操作しようという考えが破綻したのだが、内燃エンジン車の禁止とEV転換はEUの方針でもある。

 構造的に新しい商品の投入により、既存市場に大きな需要が生まれるという代表例はテレビだ。液晶テレビの誕生でブラウン管テレビの陳腐化が明らかとなり、世界のテレビ市場で大きな買い替え需要が生まれたが、液晶テレビに注力した韓国や中国の家電メーカーが急成長することにもなった(日本などの家電メーカーは需要を取り込めず、衰退した)。

 飽和市場でもメーカーはモデルチェンジなどで既存商品の陳腐化と新規需要の開拓を行うが、構造的に新しい商品の投入は市場の飽和性を消滅させるので、大きな需要を新しく発生させる。EUがEV転換を強制するのは、飽和した先進国の自動車市場で欧州メーカーに主導権を取らせようとの狙いがあったのかもしれないが、割高なEVは浸透せず、中国メーカーのEVが市場を席巻することを助けた。

 EUは自動車市場を強制的に変えようとして失敗した(現時点では)。EV転換を正当化する根拠は気候変動論で、「CO2削減は正しい」という主張だ。EUは気候変動論を効果的に拡散させて世界で主導権を取ろうとしているようにも見えるが、市場(人々)はそっぽを向いて、EV転換は進まない。EUは中国製EVに高関税を課すが、それで欧州メーカーのEVが売れるようになるのか新たな実験が始まった。

2024年10月2日水曜日

巨大ブラックホール

 地球が属する太陽系は天の川銀河の中にあり、天の川銀河の中心には太陽の400万倍の質量のブラックホールがあるという。ブラックホールはその重力によって光さえ閉じ込めるので見ることはできないが、ブラックホールに超高速で吸い込まれる大量の物質の摩擦により周囲が光り輝く。天の川銀河の中心にあるブラックホールの画像が2022年に公開され、明るい光の中心に暗い領域がぼんやり映し出されていた。

 ブラックホールの大きさは様々で、太陽の数倍ほどから数十億倍の質量のものが知られているが、さらに太陽の数百億倍のものも存在すると考えられている。ブラックホールは周囲の恒星などを吸収したり、他のブラックホールと合体することを繰り返して巨大化すると考えられているが、138億年前に宇宙が誕生して、その数億年後に巨大ブラックホールが存在していたと明らかになった。

 英国などの研究チームは、宇宙誕生から4億年後に、質量が太陽の数百万倍という巨大ブラックホールが存在していたと発表した。太陽の数百万倍の質量のブラックホールが形成されるには、従来は約10億年が必要と考えられていたが、発見されたブラックホールは宇宙誕生から4億年後に存在していた。研究チームは、発見したブラックホールは従来の考えとは異なる過程で形成された可能性を指摘した。米ハーバード大学などの研究チームは、宇宙誕生から4億7000万年後にはすでに大質量ブラックホールの形成が始まっていたと発表した。

 東大宇宙線研究所などの研究チームは、宇宙誕生から10億~20億年後の120億~130億光年先にある銀河185個のうち10個で、ブラックホール由来となる特徴的な波長データを発見した。ブラックホールの質量は太陽の100万倍から1億倍で、宇宙誕生からはるか後に形成された同規模の銀河のブラックホールよりも10~100倍大きく、急成長したと考えられると研究チーム。

 国立天文台などの研究チームは、宇宙誕生から9億年後の129億光年先にある成長の初期段階の暗いクエーサーのペアを詳細に観測したところ、二つの銀河が合体して超巨大な銀河になろうとしているところで、高光度クエーサーの祖先であるとした。極めて明るく輝く高光度クエーサーは巨大ブラックホールの存在を示すものであり、初期宇宙における天体の進化を明らかにする大きな手掛かりとなる発見だという。

 宇宙誕生から数億~20億年後の初期の時代に、巨大ブラックホールが数多く存在していたことは確実なようだ。観測精度が上がるにつれ、さらに多くの巨大ブラックホールが発見されるかもしれない。素人考えだがと前置きして友人は「宇宙誕生では現在の宇宙全体の質量の数十倍の質量が誕生し、現在よりもはるかに狭い宇宙で数億年で次々と巨大ブラックホールになった。それらの大量の巨大ブラックホールは現在の宇宙の外縁部に散らばっている」とした。

 続けて友人は「宇宙の外縁部に散らばる大量の巨大ブラックホールが宇宙の中心とは反対側に動き続けているため、宇宙の膨張が加速されているんじゃないか。ダークエナジーと宇宙の外縁部に散らばる大量の巨大ブラックホールには何かの関係がありそうだ」と直感したそうだ。星空を見るのが好きで、天体望遠鏡を買おうと思いながら数十年を過ごしてしまった友人は、数年後の定年退職を機に天体望遠鏡を買うことにしているという。

2024年9月28日土曜日

収集して保存

 世界で既知の総種数は約175万種で、哺乳類が約6000種、鳥類が約9000種、昆虫が約95万種、維管束植物は約27万種という(環境省HP。維管束植物はシダ植物と種子植物=裸子植物・被子植物=で、菌類や藻類やコケ類は別)。世界中で研究者が探し回って発見した種のデータが共有され、膨大なデータが蓄積され精査されて分類されて系統樹が作成された。収集して分類するのは学問の基本的な方法だ。

 収集して分類することが有効なのは学問に限ったことではない。例えば、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻などを正確に理解するには、多方面からの情報を集めて精査することが必要だろうし、西洋美術史を知るにはギリシア美術から中世の美術、ルネサンス美術、バロック美術、近代美術などの作品を多く見て、表現の対象や技法の変遷などを整理して理解することが必要だ。

 浮世絵は日本独自の表現作品で世界に多くのファンがいて、現代では日本で独自に発展した漫画やアニメにも世界に多くのファンがいる。だが、浮世絵に特化した国立の美術館はなく、多くの美術館や博物館で展示が行われているだけだ。浮世絵は高価になるとともに世界中のコレクターが収集対象にしているので、これから国立の浮世絵美術館をつくろうとすると相応の金額を要するだろう。

 漫画やアニメの国立の美術館も日本にはない。2009年に当時の麻生首相が、アニメや漫画・映画・ゲームなどを展示する国立メディア芸術総合センターの建設に動いたが、約120億円の整備費が無駄遣いだとか、「アニメの殿堂」「国営マンガ喫茶」などと批判が多く、政権交代後の民主党政権が計画を中止した。昨年、政府が漫画やアニメの原画を扱う国立美術館などの建設を検討していると報じられた。訪日外国人の増加に向けた施策だという。

 浮世絵の美術的価値を最初に認識したのは19世紀のフランスなど欧州諸国だった。日本で美術館や博物館が建設されるまでには年月を要し、浮世絵の収集などの優先順位は低かっただろう。漫画やアニメなどは現代日本の特色ある表現作品であり、その美術的価値は高く、漫画やアニメなどを収集して分類し、日本の漫画やアニメの系統樹を作成することは必要だ。漫画もアニメも大衆芸術で、見終わったなら忘れられ、捨てられる。今、保存しなければ大半が消えていくだけだろう。

 浮世絵も漫画・アニメも平面(二次元)の表現だ。政府のアニメ美術館の建設計画は旧来の発想にとらわれ、公共事業でハコモノを建設することに固執している。漫画やアニメの作品量は膨大であり、ハコモノを建設しても展示できるのはごく少数でしかない。二次元の表現はディスプレー画面によく馴染む。ハコモノの代わりに専用のデータセンターを建設し、そこに漫画やアニメなどのデータをストックするなら全く新しい美術館が誕生する。

 今後も漫画やアニメ作品は増え続けるだろうから、データセンター形式の美術館なら必要に応じて容量を拡大できる。作品はスマホやPCなどで見ることができ、世界中からアクセスできるので、日本に関心を持つ外国人もさらに増えるだろう。さらに浮世絵も加えるなら、日本の美術史を概観できる美術館になる。漫画やアニメを収集して保存する作業は日本にしかできない。

2024年9月25日水曜日

石庭と解釈

 京都の龍安寺の石庭は日本を代表する庭園だとする人もいる。水を使わず山や川を砂や岩だけで表現するという枯山水の石庭は作庭者が不明で、何を表現しているのかも不明で、様々な解釈を許す。白砂が広がる中に15個の岩が配され、虎が子供を連れているように見えるので「虎の子渡しの庭」ともされる。

 また、岩が7個、5個、3個と分けて配置されているので「七五三の庭」ともされ、7+5+3の和である15という数字は完全を意味するという考えがあるといい、石庭を眺めるどこからも15個の岩が一度に見えないので、完全はないとの示唆だとか、禅の精神を表現したとか、大海に浮かぶ島々を表すとか、作庭の意図をめぐって多くの推測がなされてきた。

 作庭者が石庭で何かを表現しようとしたのか、あるいは、広い長方形の白砂の中に作庭者の感覚でバランスよく美しく岩を配置しただけなのか、そこも不明だ。石庭は白砂と岩による抽象的な表現であり、作庭者が何かを表現しようと意図したとしても、出来上がった作品(石庭)は見る人に様々な解釈を許す。どこかの自然を模倣しただけの庭園になっていたなら石庭の人気は限定的だったかもしれない。

 神社仏閣を見て回るのが趣味だという友人は京都に20回以上行っているという。龍安寺の石庭は何度か見たことがあり、「いつも混んでるので人混みの後ろから見るだけだったが、1回だけ、観光客が少ないタイミングで、正面に座ってじっと見ることができた」と言い、「白砂が広がりと波の動きを感じさせ、岩が島々を連想させた」が感想。

 禅の精神が何かを知らず、虎が子供を連れているようにも見えなかったという友人が、石庭から禅の精神も虎のイメージも湧かなかったというのは当然か。抽象的な表現に対しては、何らかの解釈を付与する人もあり、解釈を排して、ありのままの抽象的な表現を鑑賞する人もある。解釈は人それぞれで分かれ、解釈は心情や感情などに影響される。

 何らかの解釈を「正解」だとするには客観的な根拠を必要とする。だが、石庭の作庭の意図を説明する資料はなく、様々な解釈が主張される状況を許している。様々な解釈は作庭者の意図を推測するものであり、石庭を見た人の感じたことが様々な解釈に発展しているが、「正解」は誰にも分からない。

 高尚な解釈に背を向けて友人は、作庭者が表現しようとしたのは「故郷の風景か、思い出深い風景という可能性もあるし、どこかで見た水墨画をイメージして白砂の中に岩を並べたのかもしれない」と新解釈を思いついた。石庭は自由な解釈を許すので、見る人は自由に各自の解釈を許されるし、解釈を排して抽象的な表現を鑑賞することもできる。

2024年9月21日土曜日

劣等民族

 YouTubeチャンネルでジャーナリストの青木理さんが、対談相手の津田大介さんから「人々はなぜ自民党に入れ続けるのか?」という講演を予定していることを告げられると、「ひとことで終わりそうだよ。劣等民族だから」と述べたと報じられた。リベラル派の論客だという青木さんの発言に批判が高まったが、青木さんは取材に応じず、発言の真意はぼやけている。

 劣等は「等級・程度などが水準より劣っている」「ふつうのものより劣っている。質が悪い」「下等」などの意味で、劣等民族は「他民族よりも劣っている民族」の意味になる。青木さんが属している日本人(日本民族)を青木さんが劣等民族と言うのは、相当に自己肯定感が低い人物だから卑下しているのかと即断しそうになるが、青木さんは自分は別だと位置付けているらしい。

 青木さんの発言は、自民党に投票する人々に対して劣等民族だと主張している。とすると、日本民族のうち自民党に投票する人々が劣等民族で、野党などに投票したり棄権する人々は劣等民族ではないことになる。このような民族の定義は、全く新しく斬新なものであるが、民族学的には一考にも値しないだろう。

 同一民族であっても人々の政治的主張は様々で、民族内で時には鋭く対立することがあるのは世界の各国の歴史が示している。だが、同一民族の内部で対立する相手側を劣等民族と批判することは、自分も劣等民族の一員だということを失念している。ある民族が劣等民族だと主張できるのは、別の民族に属しているか、すべての民族に属さない人々だけだ。日本人の青木さんの主張が成り立つには、青木さんが自分を日本民族には属さないとするしかない。

 ところで、不祥事が相次ぐ一方、既得権益を守りつつ新たな利益誘導や米国追従外交などを長く続ける自民党の政治は閉塞感をもたらし、政権交代を望む人々も少なくないだろう。しかし、国政選挙では多数の人々が自民党に投票し、政権を委ねている。自民党に投票する人々は、劣等な人々で、政治意識が低く、判断能力が劣った人々なのだろうか。

 政治は細かな現実問題に対処することの繰り返しだが、自民党は日本社会の膨大な現実問題に対処してきた(対処の方向性や成果の評価は分かれよう)。日本では野党に投票しても、野党には現実問題に対処する力はない。少しでも社会を良くするためには現実的に考えると、自民党を動かすことが野党の「成長」を待つよりも有効だろう。

 自民党はダーティーでタフな政党だが、制度を変えたり、政策の優先順位を変えたり、予算配分を変えたりして実際に社会を少しずつ変えてきた(成果の評価は分かれよう)。現状の何かを変えて欲しいと思う主権者が、野党ではなく自民党に投票したり、自民党に近づく行動は、ある種の合理的な判断でもあろう。野党に現実問題に対処する力があったなら、野党に投票して政権交代を実現することが、現実を変える有効な手段になるのだが。

2024年9月18日水曜日

増殖する詐欺メール

 警察や中央省庁の職員を騙り、詐欺に引っ掛けようとする電話が全国で増えているそうだが、友人のパソコンには今年になって、実在の大企業からのメールが毎日、10〜20通ほど届くようになったという。発信元はアマゾン、JCB、東京電力、三井住友カード、エポスカード、JR東日本、アメックス、イオンカード、ヤマト運輸、セゾンカード、TS・CUBIC、楽天市場、ETCマイレージサービスなどで、最近は国税庁まで現れたそうだ。

 友人は宛先に自分の名前が記載されていたこともあって発信元を疑わず、「この会社のクレカは持っていないのに、なんでオレあてに、支払いを求めるメールが届くのか」と不思議だった。それで、説明を求めようとメールの文中にある問い合わせ先のURLをクリックしたが、途端にパソコン画面に、そのサイトは怪しいと警告が表示され、友人は慌ててサイトを閉じた。

 クレカ各社からのメールは「パスワードの入力ミスが続いているのでサイトの利用を制限しています」「再認証が必要です」「確認が必要な取引があります」「セキュリティ保護のため携帯番号の再認証が必要です」「カード利用を制限しているので、制限解除の手続きを行ってください」「不審な取引が検出されたため、カード情報の再確認が必要です」「本人の利用か確認したい取引があったので、利用確認を行ってください」「決済が不成立となっている」などと不安を煽り、メール内にあるリンクやボタンをクリックさせようとする。

 また、「今だけ、ワンクリックでポイントをゲットできます」などと誘ったり、多額の「異常な取引が確認されたので、確認手続きをお願いします」「カードの利用が一時停止されました」と確認のリンクに誘導したりもする。友人あてに、持っていないカード会社から「ご請求金額が確定しましたので、ご確認ください」とか「次回の引き落とし日が確定しました」と金額を確認するようクリックさせるメールを毎日見ているうちに、怪しいメールに対するカンが働くようになったと友人。

 ヤマト運輸を騙ったメールは「不在なので荷物を持ち帰りました」とメール内の再配達のボタンをクリックさせようとし、アマゾンでは「アカウントを更新できなかったので、アカウントの情報を確認し、更新してください」「支払い方法の承認手続きを完了してください」「不審な取引が検出された」、東電では「お支払いが未確認です」、JR東日本では自動退会処理の人でも「えきねっとに一度ログインすれば、引き続き利用できます」、楽天市場は「あなたのカートのアイテムがもうすぐなくなります」、国税庁では「未納の所得税および延滞金があり、納付期限を過ぎると財産の差し押さえが開始される可能性がある」などとまぎらわしい。

 これらのメールの作成には「きっとA Iが使われているに違いない」と友人は推察し、詐欺グループは「実際の大企業のメールを参考に詐欺メールをA Iに作成させて大量にバラ撒いているのだろう」。よくできているので、ちょっと見には本物と見分けがつかないが、メール内でどこかをクリックさせようとするので、怪しいと見分けがつくと友人。

 中国人の知り合いがいない友人に、中国語のメールが届いたことが一度あったことから、これらの大量の詐欺メールに中国人が関わっていて、中国か東南アジアから発信されているンじゃないかと友人は疑う。ただ、メールの宛先に友人の名が記されていたことが気に掛かり、日本人の個人情報が大量に中国などに流れているのではないかと不安を感じているそうだ。

2024年9月14日土曜日

ブルースの自由さ

 人間を商品として大々的に貿易の対象にしたのがポルトガル・スペイン・イギリス・フランス・オランダなど欧州諸国だ。まずポルトガルが15世紀にアフリカから連れ帰った黒人を欧州で奴隷として売り、16世紀にスペイン・ポルトガルがアメリカ大陸の植民地にアフリカから連れてきた黒人を供給するようになり、17世紀にはイギリスやフランスが参入、イギリスは1713年のユトレヒト条約で大西洋の黒人奴隷貿易を独占した。

 米国で黒人は奴隷として売買され、労働力として酷使された。1861年に南北戦争が始まり、1863年にリンカーン大統領が奴隷解放を宣言し、1865年の南北戦争終戦後に制度としての奴隷制は廃止され、南部諸州においても奴隷は解放された。奴隷貿易と奴隷制度は弁解の余地がない悪行だが、アフリカからアメリカへの大規模な人の移動は様々な変化ももたらした。

 代表的なものは、黒人音楽が発展し、世界的に大きな影響を与えたことだろう。昔の黒人たちは自由に歌っていたのだろうが、西洋由来の楽器を手にした黒人たちは西洋音楽の和声や規範などを取り入れ、ブルースという音楽が形成されていった。黒人たちが思いついた言葉を歌ったり、時にはダンスの伴奏をしたりと自由な表現を繰り広げ、徐々に形成された音楽がブルースだった。

 黒人たちが楽しんでいたブルースはやがてジャズやR&Bなどに取り入れられて発展していった。ブルースを歌い、演奏する黒人ミュージシャンとは別に、音楽形式としてのブルースが広まった。それは12小節で4小節を3回重ねる構成の音楽だ(古いブルースミュージシャンは8小節や16小節など、必ずしも12小節にとらわれないが、12小節のブルースが圧倒的に多い)。20世紀後半にはロックの誕生にブルースが重要な役割を果たした。

 形式としてのブルースはジャズやロックのミュージシャンに自由な表現の場を与えた。代表例は、ジャズではチャーリー・パーカー、ロックではエリック・クラプトンで、多くの名演が残されている。ブルースは12小節で単純な構成の音楽だが、単純な構成だから多彩な表現を許し、演奏者の個性を際立たせる。言葉数に制約がある和歌や俳句が人々の個性を存分に発揮させるように単純な枠組みは自由な表現を促す。

 形式としてのブルースは表現の制約が少ない音楽で、演奏者は自由に個性を発揮することができる。これは、誰もがチャーリー・パーカーやエリック・クラプトンのように演奏できるということではない。創作力が乏しい人が演奏すると単調で陳腐なフレーズしか奏でることができないだろうから、自由に個性を発揮できる場は常に演奏者が試される場である。

2024年9月11日水曜日

需要と供給

 都会ではJRなどの駅前には必ずタクシー乗り場があり、地方都市では駅前でタクシーが客待ちしていたりするが、各駅列車しか停まらない過疎地の駅ではタクシーの姿はなく、利用者は電話でタクシーを呼ぶしかない。利用者がいない駅でタクシーが客待ちするのは、需要がないのに供給を続けている状態だ。

 JR北海道は、赤字だが国や自治体の支援を受けて存続をめざす8線区(黄色線区)の存続プランを発表した。観光列車を増やしたり、特急列車の利便性を向上させるなどで利用拡大を図るとともにコスト削減を進めるという。ただ、今回の目標を達成したとしても赤字は解消されず、年間100億円に赤字幅が短縮されるだけだ(8線区の23年度の赤字額は148億円だった)。

 JR北海道の2023年度決算は、グループ売上高は1477億円(うち鉄道事業売上高が698億円)だが営業経費が1977億円かかり、営業損益は499億円の赤字。営業外収益で経営安定基金の運用益315億円と国からの補助金249億円などがあり、最終的な当期純利益は33億円。鉄道事業単体の赤字額は563億円だが、小売業・不動産賃貸業・ホテル業などで64億円の利益を確保し、最終的にグループ全体の赤字額を499億円に圧縮した。線区別では全21区間が営業赤字だったが、9区間で赤字幅が縮小した。

 赤字体質のJR北海道は国鉄分割民営化以降は経営安定基金の運用益で赤字を補填する仕組みになっていたが、長く続く低金利により運用益は減少し、国から毎年、財政支援を受けている。純粋な民間企業なら、赤字を垂れ流している事業は撤退や売却など整理の対象にするだろうが、JRは公共交通の色彩を色濃く保っているので簡単には赤字路線を廃止するわけにはいかない(赤字路線を廃止するとJR北海道に路線が無くなってしまう?)。

 赤字路線はJR北海道以外にも多く存在する。赤字でも列車を走らせるのは地域の人々の移動手段を確保するためで、鉄道インフラは公共事業の側面を持つ。だが、旧国鉄の赤字路線には厳しい目が向けられ、赤字路線は順次廃止されてきた。一方、全国の道路を線区ごとに見るなら大半が赤字だろうし、地方空港の大半も赤字だろうが、そうした赤字は騒がれない。維持費などには税金が投入されている。

 鉄道だけが赤字路線が問題視される。だが鉄道の赤字路線を存続させる方法は簡単だ。それは利用者を増やすことで、利用者を増やすには、沿線に住む人数を増やしたり、沿線の駅周辺に学校や病院や企業の事務所や工場などを新設することなどが効果があるだろう。おそらく誰もが、そんなことは分かっているだろうが、現実には地方自治体は人口減少や過疎化に無力で、学校や病院や企業を沿線に誘致するインセンティブを提供する余力もない。

 JRの赤字路線の問題は、人口減少や過疎化に無力な地方自治体が多すぎ、地域の衰退に歯止めがかからず、地域経済が縮小を続けていることを示す。利用者がいなくなった路線は、需要が消えた路線だから供給(路線維持)が停止されるというのは民間企業としては合理的な判断だが、地方鉄道は公共インフラでもあるから地方自治体は路線廃止に難色を示す。鉄道会社にも地方自治体にも金がなく、名案も出てこず、ただ議論ばかりが続く。

2024年9月7日土曜日

移民の受け入れ

 多くのインドシナ難民が発生した1975年、日本にもボート・ピープルとして続々と到着した。75年に9隻126人、76年に11隻247人、77年には25隻833人へと急増し、79年から82年の4年間は毎年1000人台を記録した(外務省HP)。日本政府は当初、一時的な滞在のみを認めていたが、78年にベトナム難民の定住を認めることにし、定住許可の条件を順次緩和した。2005年までのインドシナ難民定住受入れ数は11319人。

 ボート・ピープルの日本への到着は当時、マスメディアで大きく報じられ、社会的な関心が高まった。到着した難民をベトナムなどへ送還することは現実的ではなく、他国に移送することもできず、日本政府は難民の定住を認めざるを得なかった。ちなみにインドシナ難民を最も多く受け入れたのは米国で約82万人、オーストラリアとカナダが約14万人、フランスが約10万人、ドイツと英国が約2万人。

 ドイツ東部テューリンゲン州の州議会選挙で、移民排斥を掲げる極右政党「AfD」が州議会レベルで初の第1党となり、州議会で極右政党が勝利したのも第2次大戦後で初めてとあって、ドイツで極右の勢力が拡大していると警戒感が高まり、シュルツ首相は「全ての民主的政党は今、右翼過激派を排除した安定した政権を樹立することを求められている」と述べたと報じられた。

 この州議会選では、反移民を掲げる極左政党も躍進した。AfDと極左政党は、反移民・反EU・反体制・親ロシア・ウクライナ支援に消極的ーなど政策面では共通点があるという。欧州では極右は反移民や反イスラムや反ユダヤなど特定の人々に対する排他性を持つ人々で、極左は反資本主義や反グローバリズムなどを主張する人々だ。反移民は既存体制の批判に有効なのだろう。

 欧州には中東やアフリカなどから大量の移民・難民が現在も殺到しており、ドイツにも移民・難民が押し寄せている。2015年にはドイツに100万人以上の移民・難民が殺到し、ロシアが侵攻したウクライナからは100万人以上を受け入れている。大量の移民・難民を受け入れた国では、人々の日常生活の場に移民・難民が現れて住みつき、言葉が通じなかったり、異なる文化・習慣が持ち込まれたりし、共生を強いられたとの感情を持つ人々もいるだろう。

 ドイツの州議会におけるAfDの勝利を日本のマスメディアは、極右が勢力を拡大していると報じた。だが、日本に中国大陸や朝鮮半島やアジアなどから毎年、数十万単位の移民・難民が押し寄せる状況になったら、送り返すことはできまいから日本政府は滞在を認めざるを得ず、日本社会にも大量の移民・難民が現れて住みつく。現在も日本在住の外国人に対するバッシングは存在するが、数十万単位の移民・難民が毎年増える状況になったなら、反移民感情が高まるだろう。

 そうした状況になったなら反移民を掲げる政党も日本に現れるだろう。大量の移民・難民受け入れ問題は日本ではまだ現実感を持って論じられてはいないが、中国大陸や朝鮮半島やアジアなど日本周辺で政権崩壊などが起きれば、大量の移民・難民が発生する可能性はある。現在の欧州諸国や米国などのように、大量の殺到する移民・難民に対する対応が日本政治の重要課題になる日が来るかもしれない。

2024年9月4日水曜日

中国の過剰生産

 中国で過剰生産されたEVなどが欧州市場に大量に輸出されて問題となっている。中国には年間4000万台の自動車生産能力があるが、中国国内での販売台数は2200万台程度という。品質向上もあってか中国車は徐々に世界各地で受け入れられるようになって輸出台数は増え続け、2023年には約500万台に達した(EVは4分の1)一方で、稼働していないガソリン車工場は多いという。

 過剰生産は鋼材でも同様で、2023年の生産量は国内消費量(約9億トン)を1億トン超も上回ったが、不動産販売の低迷などで内需が低迷し、国内では膨れ上がった在庫を処分するため価格が急落した一方、輸出ドライブに拍車がかかっている(中国は世界の粗鋼生産の半分を占める)。過剰生産はソーラーパネル、リチウムイオン電池、アルミなどでも指摘されている。

 中国国内の過剰生産が問題になるのは、第一に過剰に生産された製品が世界市場にあふれ出て、安値で各国市場を侵食する、第二に中央政府や地方政府が各種の補助金によって工場建設や設備投資を促した結果、設備過剰となって過剰生産になっているーからだ。中国の過剰生産には政治主導の側面があり、EUや米国が中国に過剰生産の是正や政策転換を求めても中国政府は反発するだけだ。

 過剰生産は資本主義につきものの病だとするのが共産主義だ。もっと多くの利潤を得ようと資本家たちは過度の投資を行い、やがて過剰生産から過剰供給になって景気低迷、時には恐慌に至るとする。かつての共産主義国では生産は国家に統制され、旧ソ連などのように日用品を買うためにも人々が行列を作ったように、計画経済国には過少生産が多かった。

 中国は1992年、計画経済に資本主義を取り入れた社会主義市場経済を導入すると決定した。改革開放以来の経済発展に伴い市場主義の比重が大きくなっていたが、習近平体制になって計画経済(社会主義)の比重が大きくなっているようだ。そうした中で中国の様々な業種における過剰生産は、市場経済(資本主義)による資本家たちの過度の投資と、計画経済による中央・地方政府の投資奨励策が重なって起きている現象だ。

 市場経済(資本主義)と中国共産党による計画経済のメリットが重なって成長が続いた中国で、過剰生産となっているのは市場経済(資本主義)と計画経済のデメリットが重なって生じている現象だ。過剰生産は中国政府の政策の結果でもあるため簡単には軌道修正できず、過剰生産の抑制に動くことは欧米の批判に「負けた」ことにもなるので中国政府は、過剰生産だという指摘を受け入れることができない。

 中国が世界経済と切り離されていたなら、過剰生産は供給過剰となって国内市場に襲い掛かり、景気低迷が長引いただろうが、中国は世界市場に参入しているので、過剰な生産物は世界市場にあふれ出る。皮肉なことに、欧米が中国に大々的に投資して製造業を育てた結果として現在の過剰生産がある。だが、欧米が自国の製造業の衰退を座視してきたため欧米の供給力は減り、中国の過剰生産が続いても世界恐慌にはつながりそうにない。

2024年8月31日土曜日

官僚の働き方改革

 一昔前には、政治家の能力が概して低い日本は優秀な官僚によって支えられているとの主張があった。霞が関の中央官庁で働く官僚が「日本を動かしている」とのイメージだが、そうしたイメージが崩れたのは政治家や政党などによる度重なる官僚バッシングと、主権者の審判を経ていない官僚の専制は主権在民に反するとの批判の影響だろう。

 その霞が関で働く官僚の勤務実態が“ブラック”であると報じられる。超過勤務の上限を超えた職員の割合は9.9%と全体の1割を占め、過労死ラインとされる100時間以上/月の残業をした職員は約5500人と報じられ、離職者が大幅に増えているという(2022年度に官僚を辞めた人は約6000人で、2015年度比で約1.4倍に増えた)。こうした勤務実態が明らかになって官僚試験の応募者は減っている。

 官僚の勤務実態が激務になったのは、①国家公務員数の過剰な削減(以前は約80万人だったが、約28万人に減少。仕事量は増えている)、②国会での審議で議員の質問に対する大臣答弁を官僚が作成する(審議の前夜に質問を官僚が把握し、大臣答弁を官僚が時には深夜までかかって作成する)ーためだ。②については、自分で答弁できない大臣は官僚にとって意のままに操ることができて好都合だろうが、官僚の身に負担として降りかかっている。

 官僚の人々が誠実に働くことで日本の行政が機能していることは確かだろう。優秀で国や社会のために使命感をもって働く人々が官僚として相当数存在することは、日本の国力を維持するためには必要だろうから、“ブラック”な勤務実態を改善し、これからも優秀な若手が官僚を有望な就職先として認識することが必要だ。

 そのためには①国家公務員の過剰な削減から、適正数の人員確保に方向転換する、②大臣答弁を官僚が作成することをやめるーしかない。②は大臣側が答弁を作成できるのかという現実的な問題を生じさせるが、国会議員には政策秘書がいて、国費で給与が支払われているのだから、政策秘書に頑張ってもらうしかない。なお、大臣答弁を官僚が作成しなくなれば官僚の大臣に対する影響力は低下するだろう。

 根本にある問題は、答弁する側が議員からの質問を前もって知るという現行ルールにある。野党議員による爆弾質問で大臣が立ち往生することを避けるために現行ルールができたようだが、ガチでの政策論議をなくし、大臣らがペーパーを読み上げるだけの国会審議にしてしまった。真摯な政策論議を求める声は以前からあるが、質問内容を事前に知らなければ答弁できない人々が大臣を務めている間は現行ルールの廃棄は難しい。

 米国の大統領選では候補者が自己の主張を人々に向かって演説で示し、説得して支持を得ようとし、テレビ討論会などでは議論する能力を試される。米国や欧州諸国の議会でどのような審議が行われているのか詳らかではないが、日本のように答弁する側が事前に質問を入手して、あらかじめ用意させた答弁を読み上げるというような議会の空洞化は起きていないのではないかと感じる。そうした行為は議会での質疑を軽んじるアンフェアな行為だからだ。

 霞が関の官僚の働き方改革は、国会の質疑の現行ルールの変更に踏み込まなければ実効性が薄いだろう。政治家は現行ルールを変えようとしないだろうから、優秀な官僚が黙って“ブラック”な勤務に耐え続けている限り現状は変わらない。優秀な官僚が実は自分たちの“ブラック”な勤務実態を改革することもできないのだとすると、既得権益に縛られて改革が進まない日本の現状を反映していると見えてくる。

2024年8月28日水曜日

革命の英雄の霊

 靖国神社の石柱と台座に黒いフェルトペンのようなもので、トイレを意味する中国語などが書かれていたという。この落書きの画像が中国のSNSに「出国する」などと書かれたメッセージとともに投稿されていたと報じられ、5月の中国人3人による落書き事件を模倣した中国人による犯行のようだ。

 この犯行は中国人にとっては「愛国無罪」の行為らしく、中国国内で称賛されることはあっても批判されることはないだろう(批判した側が中国国内ではバッシングされよう)から、同様の模倣犯は今後も続発するかもしれない。中国政府にとっては、人々が日本を標的にし、日本でコトを起こしているだけなら傍観していればいいので気楽だ。

 靖国神社HPによると同神社には、戊辰戦争など国内の戦いでの死者や坂本龍馬ら幕末の志士達、日清・日露・第一次大戦・満洲事変・支那事変・第二次大戦の死者の御霊が祀られている(246万6千余柱)。その中には従軍看護婦や勤労動員中の死者、シベリア抑留中の死者、日本人として戦死した台湾及び朝鮮半島出身者、戦争犯罪人として処刑された人らも含まれ、「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社」だとする。

 こうした主張が成立するには、死者の霊を集めることができるとともに、祀られていなかった戦争犯罪人の霊も加えることができるなど、現世で生きている人間が思うがままに自由に死者の霊を扱うことができなければならない。靖国神社の主張は、彼らが自由に死者の霊を動かすことができるという主張でもある。霊の存在は客観的に証明されてはおらず、信じる人には霊が存在し、信じない人には靖国神社の主張は荒唐無稽であろう。

 中国人の落書きを防ぐには、靖国神社が、毛沢東をはじめとする中国革命の英雄の御霊も一緒に祀ることが効果的だ。靖国神社は死者の霊を自由に動かすことができ、霊の世界には国境など無意味だろうから中国人の霊も靖国神社なら動かすことができるだろう。中国革命の英雄の御霊も祀られている靖国神社に対して中国人がトイレなどと落書きなどしようものなら、その行為は反革命的で、革命により成立した現在の中国に対して国家反逆罪に相当するかもしれない。

 靖国神社が中国革命の英雄の御霊を祀るには特別の理由が必要になる。だが、現在の中国が欧米による世界支配に立ち向かい、かつての日本が失敗した大東亜共栄圏の構想を引き継いで、アジアからグーローバルサウスに広がる非白人諸国による共栄圏の構築を着実に進めているとし、中国革命の成功が現在の大東亜共栄圏の実現につながったと解釈するなら、特別に中国革命の英雄の御霊を靖国神社に祀ることも許されるかもしれない。

 問題は、中国革命の英雄の御霊を祀った靖国神社に対して中国政府が激しく反発するだろうことだ。毛沢東など中国革命の英雄の霊が日本に行ってしまったなら中国政府のメンツは丸潰れだ。もう一つの問題は、靖国神社が革命を信奉する中国人の聖地巡礼の場所になってゾクゾクと中国人が押し寄せる一方、中国では絶対にできない革命の英雄を批判する行為が日本なら許されると思いこんだ中国人が、中国革命を批判する落書きを試みるかもしれないことだ。

2024年8月24日土曜日

竹中労さんの人物評<下>

 竹中労さんは名文家でもあった。装飾に頼った美文ではなく、的確で独自の表現を連ねて、あざやかに対象を描いた。週刊誌に連載したタレントの人物評や芸能論を集めた『スター36人斬り』(1970年、実業之日本社。『芸能人別帳』と改題して2001年にちくま文庫)から、当該タレントの人物像を浮かび上がらせる文章をいくつか引用する(末尾の西暦は週刊誌の掲載年)。

 ・「悪評ふんぷんたる有馬稲子、逆説的にいうなら、その悪評のゆえに今日まで大スターであり得たのです」「人生をたえまなく“演技”していなければ不安でたまらない、精神の緊張をもの語る。皮肉なことに、そんな擬勢がスターと呼ばれる人びと特有の心理なのです。有馬稲子さん、あなたは紛れもなくスターであり、スター以外の何者でもないのです」(1967)

 ・「髪をひっつめにして、いかにも清楚、知的な印象のかげに、どす黒い女の惨心が隠されている」、新珠三千代は「牢固としてぬきがたい“美女”のイメージを創りあげてしまった。しかし、それはいかにも非人間的で人工的な美形であった」「逆にいうなら、あまりにフィックス(固定)したイメージてえものは、かえって維持が困難なのだ」「女優であるかぎり、まったくプライバシーを消去したところの“美女の仮面”を脱ぐことができない」(1967)

 ・舞台出演で「彼女は一生懸命だった、謙虚だった。舞台に賭け、ここを先途と必死の力をふりしぼっていた。かっては傲慢であった映画スターのおもかげは、みじんもなかった」「五社協定の荒波にもまれ、にがい水を飲んだことで、山本富士子は“女優”になった」(1966)

 ・吉永小百合は「強烈な“処女シンボル”として売り出され、大スターとなったのであるから、なまはんかな自己否定では“虚像”を突きくずせないだろう」「問題は彼女自身に危機の自覚がまるでなく、純潔路線のエキストラ・イニングで女優商売が成り立っていくと錯覚しているところにある」(1970)

 ・「池端直亮(加山の本名)という、太平洋戦争中に生まれた若者が、ある日、加山雄三なるスターに変身したのは、一にも二にもジャーナリズムの宣伝のおかげである」「そんなふうにして、スターというものは、つくられるのだ」「スターと芸能記者は大衆に虚像を売る“共犯者”である」「人気が頂上をきわめたとき、イメージ・アップは完了するのだ。そこから、ゴシップ、スキャンダルの谷底への落下がはじまる。一時の人気など風の前のチリにひとしい」(1967)

 ・三船敏郎の「酒グセの悪さは以前から定評があり、乱酔の果てに腕力をふるったり、関係のない人間に暴言を吐いたりするクセがある」「エライ人間で、酔えばますますイバるやつほど、不愉快な存在はこの世の中にあるまい」「監督に従属し意のままにあやつられてきた欲求不満は、強烈な“権力への願望”と転化したのである。つまりミフネは自分が“王様”に、クロサワになりたかったのである」(1969)

 ・「美空ひばりという超カリスマが存在して、スキャンダルの雨ニモマケズ、風ニモマケズ、その法王庁的権威は小ゆるぎもしない」「美空ひばりは“三代のうた声”ー明治演歌、大正怨歌、昭和艶歌を一身に集約し、昇華した天才である。いうならば、日本民衆歌曲のアンソロジーであり、エンサイクロペディアである」「浄るり、民謡、端唄、浪曲から、ジャズにちかいフィーリングまで、一つの曲に括って聴かせる芸当は、美空ひばり以外のだれにもマネができないのである」(1970)

 ・「扇(ひろ子)失踪事件の根底には芸能界の人身売買的機構があり、タレントを消耗品としてしか扱わない芸能プロのすさまじい収奪のシステムがあるということなのだ」「自由な1私人の垂松博美(扇の本名)であるかぎり、芸能界の愚劣な“掟”なんか、テンから無視してさしつかえない。もはや消耗品でも、サル廻しのサルでもないのだから」「金で身を売る女郎はみずからの悲惨を知っているが、人気という虚栄虚飾に魂を売るタレントは、自分がどれだけ愚かな存在であるかということを知らない」(1970)

 ・「(雪村)いづみという歌い手は、歌謡界のあさましき内情、修羅の様相てェものに愛想をつかし、知らぬ他国に新規まき直し天地を求めた、ただ1人のスターであった」「借金返すことだけが目的なら、ニッポン低国キャバレー回りでかせげばよい。いづみのアメリカ脱出は、そんな歌手商売のみじめさからのエスケープであった」(1970)

2024年8月21日水曜日

竹中労さんの人物評<上>

 竹中労さんが世間に知られるようになったのは芸能ジャーナリストとしてだった。フリーになってからは社会派ルポルタージュの書き手として名を上げ、ルポライターという肩書きを最初に名乗った1人だった。アナキストを自称し、政府や権力に対する批判は苛烈だったが、既存左翼や各界に君臨する既成権威に対しても容赦なく批判を浴びせた。

 そんな竹中労さんは名文家でもあった。装飾に頼った美文ではなく、的確で独自の表現を連ねて、あざやかに対象を描いた。週刊誌に連載したタレントの人物評や芸能論を集めた『スター36人斬り』(1970年、実業之日本社。『芸能人別帳』と改題して2001年にちくま文庫)から、当該タレントの人物像を浮かび上がらせる文章をいくつか引用する(末尾の西暦は週刊誌の掲載年)。

 ・浅草で舞台に出ていた頃の渥美清は「肩を怒らせ牙をむいている壮烈な迫力があった。一挙手一投足に、こうすりゃ笑わずにいられねエだろ、笑え、笑えってんだと、グイグイ押しまくってくるリキがあった」「最近の渥美清、懸命に昔のアカを洗い落としている風にみえる。庶民のサンチマンってやつが次第に失われ、鼻もちならない大スターめいた糊づけのにおいが、フンプンとまつわり付いとるのだ」(1970)

 ・「人間本来無一物という人生のテーマを、勝新太郎としては爽快なまでに貫徹しているのだ。そして、それがあの座頭市の演技に漂う“無常感”の秘密なのである」「勝という役者は“演技の世界”を絵空事ではなく、実人生として生きようとしているのだ」(1970)

 ・「(藤山)寛美、ものごころがつくまで、肉親に甘えた思い出がまったくなかった。そんなふうに育った息子が成人したら、なんで孤独のウメアワセをするか、女だす」「アホの寛ちゃん、とめどなく遊びの道にいそしみました。それも、ないゼゼをキレイに使っての極道だす」(1967)

 ・三木のり平は「日常ふだんは、無口。とっつきにくい印象を人に与えます」「のり平、自意識がきわめて強い人間で、どうしてもゆずれない意見というものを肚の底に持っております。話しだすとだんだん理屈っぽくなり、相手とケンカをしちまう。それがイヤだったものだから、黙っている。そんな次第で、けっして悪い人間ではございません」(1967)

 ・「人呼んで、カラミの六宏。戸浦六宏は、むざんなる酒狂の徒である。飲むほどに酔うほどに心気冴えわたって、ナニゴトかを論じ、ナニゴトかに怒りを発し、ついに支離滅裂、ベロンケンシュタインとなるまで、酒に溺れずにいられないのだ」「六宏って役者は口跡ががいいねえ。セリフが確かで、明晰である。これも“悪役”であることの条件」(1967)

 ・「佐藤慶の“フ”と笑うところが好きだ。そいつはフフじゃない。フフフでもない。“フ”ときたら、それっきりである。あたしゃ笑ってますって、笑いかただな」「佐藤慶の資質は、つまるところ、留保の精神にある」「佐藤慶は、うまれながらに悪の因子を体内に持っている人物を演じて成功した」(1967)

 ・「小松方正なる男は相当なニヒリストで、韜晦の癖を有しておる。東映作品なんぞでも、例の悪相を怒らしてやくざの親分、子分をさっそうと(?)演じておるが、ふとそのバンビロな面がまえと三白眼を孤独憂愁の影が走るのだ」「小松方生は、貧乏、体制、事故その他もろもろの宿命に追い詰められて、魂が破産しちまった男を演ずるとき、余人の追ズイをゆるさぬ名演技を発揚する」「彼が“悪役”としてみごとなのは弱者の抵抗としての凶暴をエキセントリックにみせる場合なのである」(1967)

 ・「ヨタ公、ポン引き、大道芸人、タイコモチ、ニコヨン、行商人、香具師、センミツ(詐欺師)、下人足軽車夫馬丁等々、モロモロの疎外され蔑視される“最低人間”にふんするとき、(小沢)昭一の演技は光芒を放つ。そいつは、彼の俳優としての身構えに、オノレを下司下郎と観じる傀儡の精神、脈々と流れているからにほかならない」が、「しょせんインテリの含蓄というやつが、乞食芸人に徹しきれぬ学問知識の臭気が、ふとハナを突く」(1970)

 ・杉村春子は「四十年という苦惨な道程をへて、ユニークな演技を創造した。『女の一生』の布引けいは、杉村春子が生み出した分身である。その演技は彼女個人に属している。それは、コピーのきかない原画のようなものだ」(1966)

 ・山田五十鈴は「ラジカルに自己の意志と情念を生きて、スクリーンに舞台に多彩な芸の花を咲かせた。女性心理の多面の変化を、これほどあざやかに表現できる女優は、これから将来おそらく生まれてこないのではないか」「彼女が演じつづけてきたのは、男がつくりあげ、支配している社会に体当たりして一歩も引かない“新しい女”であった。そしてそれは彼女自身を演ずることでもあった」(1966)

2024年8月17日土曜日

残虐行為は続く

 ロシア軍はウクライナの都市を標的にミサイル攻撃を続け、相当数の市民が死傷していて、イスラエル軍は侵攻したガザで無差別攻撃を行い、こちらでも相当数の市民の死傷者が出ていると報じられている。こうした残虐行為に対しては国際的な批判があるが、例えば、イスラエルは破壊した学校や病院がハマスの拠点だったと残虐行為を正当化する(徹底的に破壊するので後からの検証は困難だ)。

 他国に侵攻した軍隊が無軌道に振る舞い、残虐行為を行った例は歴史に数多く記されている。だが、そうした残虐行為は看過されることが多く、責任を問われたことは少ない。戦時国際法(国際人道法)は①民間人や降伏した兵士らを軍事行動の攻撃目標としてはならない、②過度の傷害を与えたり、無用の苦痛を与えるなど非人道的な兵器を使ってはいけないーなどとし、ジュネーブ諸条約に加入している世界196カ国には守る義務があるが、罰則や強制力はない(国家の上に立ち、国家を処罰できる存在は不在)。

 ロシア軍やイスラエル軍が残虐行為の責任を問われないのは、ロシアやイスラエルに強制力を行使できる国がないからだ。ドイツや日本が戦時中の残虐行為の責任を取らされたのは、無条件降伏した敗戦国であり、戦勝国に占領されて、独立を失っていたからだ。戦勝国も戦時中の残虐行為の責任を問われない(米国の2度の原爆投下で広島で約14万人、長崎で約7万人以上の死者が出ているが、非人道的な兵器を使用した責任は不問にされた)。

 戦場では交戦国の軍隊による残虐行為が行われるが、その責任を問われるのは敗戦国だけであり、戦勝国側では独自の判断で残虐行為を行った部隊が責任を問われることはあっても、国家として残虐行為の責任を問われることはない。これが現実の世界規範だとすると、ロシアもイスラエルも敗戦国となる可能性が低いので、両国の軍隊による残虐行為も不問にされるだろう。

 戦争は悲惨なものであり、人々を苦しめるだけだから全否定されるべきものだ。だが、ロシア軍の侵略戦争に巻き込まれたウクライナの人々が戦う戦争を否定できるだろうか。侵略に対する自衛のための戦争は国連憲章で認められており、また、米国などの独立戦争を否定すると現在の国際秩序は崩壊するので、独立戦争も容認されていると理解すべきだろう。

 戦争には容認されるものと容認されないものがあり、容認されない戦争だけが批判されるのが現在の世界だとすると、戦争放棄の憲法を掲げ、全ての戦争を否定的にとらえる日本の世論は世界的には異質なものだろう。日本には侵略に抗して戦った歴史や、独立を求めて戦った歴史が希薄なことが影響し、戦争は全て悪だとの意識が無批判に受容されている。

 交戦中の敵軍に対する攻撃は、どんなに残酷なものであろうと残虐行為とはほとんんど見なされず、同様の行為を相互に行っていたりする。戦争放棄の憲法により日本人は戦争を現実的に考えることをやめ、敗戦体験もあって戦争に対する忌避感だけを強め、戦争や軍や軍事について現実的に向き合って考えることを疎かにした。侵略に対して戦う戦争は正義だとする現在世界で、戦争や軍事に向き合わない日本が外交的に軽視されるのは当然か。

2024年8月14日水曜日

どこに向かうか

 バングラデシュで直近15年間の長期政権を維持し、経済成長を実現するとともに強権的な統治を行ってきたハシナ首相が隣国インドに逃亡し、政権が崩壊した。反政府デモが再燃し、学生らのデモ隊が首相公邸などを占拠した。今回の反政府デモで学生らに300人を超す死者が出るなど警察は容赦ない鎮圧を続けたが、人々の怒りを増しただけだった。

 若年層の失業率が高い同国で、1971年の独立戦争の退役軍人の家族に公務員の採用枠の30%を割り当てるという優遇策に対する抗議運動が始まった。だが政府が暴力的に鎮圧し、多数の死傷者が出たため人々の怒りが高まり、反政府デモへと発展した。ハシナ首相はラーマン初代大統領の長女で、独立戦争の退役軍人の家族を優遇することに疑問を持たなかったのだろうが、軍は鎮圧に動かず、民意を見失っていた首相は国外に逃れるしかなかった。

 高い経済成長を続けて経済大国になった中国は共産党による独裁統治が続き、習近平氏が最高権力者になって以来、強権的な統治が強化されている。経済成長に伴って民主化が進むだろうという欧米諸国の期待は裏切られ、欧米に対し、かつてのソ連を大きく上回る「敵対国」が誕生、欧米主導の世界秩序に異議を唱え、欧米主導の世界秩序を揺るがしている。

 その中国では治安対策が強化され、共産党政府や習近平氏の「独裁」に対する批判は厳しく抑え込まれているようだが、稀に批判の動きが外国にも伝わってくる。最近では、湖南省の歩道橋に「独裁の国賊、習近平の罷免を」などと書かれた横断幕が掲げられ、「自由が欲しい、民主が欲しい、投票用紙が欲しい」とのスピーカーの音声が流れたり、北京の中心部で退役軍人が待遇の改善を求める垂れ幕を掲げた様子が伝えられた。

 厳しすぎる行動制限などが続いていた2022年11月には、「ゼロコロナ」政策に対する抗議活動が各地に広がり、参加者が無言のまま抗議の意思を示す白い紙を掲げ、白紙運動と呼ばれた。上海では「習近平は退陣せよ」などと公然と体制批判も行われるまでに発展し、中国政府は厳しすぎる「ゼロコロナ」政策の転換に追い込まれた。白紙運動は大規模な政権批判の抗議活動だったが、中国政府が統制を一層強化することにつながった。

 中国の民意が必ず政府に従うものではないとすると、政府の統制強化に対する不満・批判は何かのきっかけで噴出する可能性がある。その場合、中国政府はさらに厳しい治安対策をとるだろうが、それが人々の怒りを倍増させる事態になり、全国各地で政策や体制の転換を求める動きが拡大した場合、数千数万数十万の犠牲をいとわず鎮圧に動くことができなければ、習近平氏は国外に逃亡せざるを得なくなるかもしれない。

 ハシナ氏は隣国インドに逃亡できたが、習近平氏はどこに向かうか。民衆の抗議活動により出国を余儀なくされた独裁者を欧米など西側諸国は受け入れないだろうから、習近平氏の向かう先は上海協力機構の加盟国あたりか。ただ、習近平氏が去った中国の新政権が習近平氏の引き渡しを要求する可能性もあり、経済援助や貿易などのため中国との関係悪化を避けたい国は習近平氏を受け入れないだろう。とはいえ、中国に対して習近平氏の引き渡しを交渉材料にできるロシアやインド、イランなどなら、あえて習近平氏を引き受けるかもしれない。

2024年8月10日土曜日

青森駅と新幹線

 新幹線を利用して青森駅に行くためには、新青森駅で降りて在来線に乗り換えなければならない。新青森〜青森間の所要時間は6分だが、はこだてライナーのようなアクセス電車は存在しない(同区間は特急やリゾートしらかみなどにも普通料金で乗車することができる)。青森駅への新幹線乗り入れの議論はないようだ。

 青森県の観光入り込み客数は2680万人(延べ人数、2022年)で、青森市は364万人(2021年)。新型コロナの影響により減少したが、新型コロナ禍前の2019年には青森市の観光入り込み客数は602万人、青森県は3544万人と多かった。新型コロナの影響が残る2022年にも、ねぶた祭りの期間中には累計105万人の観光客が訪れたというから、全国に知られたねぶた祭りの観光客誘引力は大きい。

 青森市と津軽海峡を経てフェリーで結ばれる函館市は観光都市として名高いが、観光入り込み客数は2023年度に528万人(2019年度とほぼ同水準に回復した)だった。人数的には函館市よりも青森市のほうが多いのは、青森市を拠点に弘前や八戸、むつ(恐山)、奥入瀬渓流、十和田湖などを日帰りで観光できる利便性が影響しているだろう。

 青森市内の主な観光施設は、ねぶたの山車を複数展示している「ねぶたの家 ワ・ラッセ」、「八甲田丸」、観光物産館「アスパム」(展望台あり)などが青森駅から徒歩圏内に集まっている。「三内丸山遺跡」や「北のまほろば歴史館」「近代文学館」「八甲田ロープウェー」などは青森駅から離れているのでバスを利用し、浅虫水族館に行くには青い森鉄道を利用する。

 函館駅の徒歩圏内にある観光施設は「朝市」「摩周丸」ぐらいで、函館山や五稜郭、赤レンガ倉庫や教会群がある元町、トラピスチヌ修道院などに行くには市電かバスを利用するが、所要時間は30分程度のところが多い。函館市は観光名所が市内に点在しているので、駅周辺に限れば青森市のほうが観光客には便利だが、風景や土地の様子を見ることを楽しむ観光客にとっては移動も旅の一部だろうから観光名所が点在していることは大きなマイナス要因ではあるまい。

 函館駅と青森駅の周辺の最も大きな違いは活気の差だろう。青森駅からはびっしりとビルが立ち並んで市街が広がるが、函館駅からは旧棒二森屋など所々に空きビルがあり、更地も方々にあり、飲食店や商店などの2階建がビルの間に混じっている。経済活動は両市とも活発なのだろうが、県庁所在地の青森駅周辺に比べると函館駅周辺は地方都市の趣だ。駅前の人通りの多さは両駅とも同じだが、函館駅の場合は半数が観光客という印象だ。

 大型商業施設の撤退が続き、圏域の消費力の減退が明らかな函館市は一層の観光客誘致を目指す。その一つの案が新幹線の函館駅乗り入れだが、フル規格の新幹線の整備費は169億円と想定された。大金を費やすなら、現実的に問題が多い新幹線の乗り入れよりも、函館駅周辺の再開発に注力して函館市民に魅力のある都市空間をつくることが賢い公費の使い方だろう。函館駅周辺が魅力ある空間になると、次の世代にも財産として残る。

2024年8月7日水曜日

抱きつくしかない

 戦時下でも政府高官の汚職事件が相次いで報じられるなどウクライナは腐敗している。民主主義や法の支配・人権尊重など崇高な理念を理由にウクライナを擁護することは奇妙な光景にも映るが、米国をはじめ欧米や日本などはウクライナを支援する。ウクライナを「失う」ことで、ロシアが西方に支配地を広げ、勢力を拡大することを米国や欧州は警戒しているようだ。

 ウクライナは米国などからの武器弾薬の補給がなければ、ロシアの攻撃に持ちこたえることは困難だろう。ゼレンスキー大統領はしきりに米国やEU諸国に武器弾薬の供与を要請することを繰り返し、諸国からの支援は続くが、報じられる戦況は一進一退の気配だ。長期戦では兵站が重要だが、ウクライナは米国やEU諸国に頼るしかなく、ゼレンスキー大統領は米国やEU諸国が離れて行かないように、抱きつくしかない。

 戦時体制にあるイスラエルはハマスの壊滅を掲げるとともに、「やられたら、やり返せ」と周辺各国に存在する戦闘集団との戦闘を辞さない構えで、散発的な攻撃の応酬のほか、戦闘集団の幹部や指導者を殺害することを繰り返している。戦線をむやみに拡大することには慎重であるべきだろうが、イスラエルは緊張の維持並びにエスカレートを狙っているように見える。

 汚職疑惑による裁判を抱え、世論調査で8割が「辞任すべきだ」とするなど支持率が低下したネタニヤフ首相は、権力の座に居座り続けるためには戦時体制を続ける必要があり、そのために緊張の維持並びにエスカレートを行っているとの見方がある。ガザでの大規模な破壊を続ける軍事行動や周辺諸国から飛来するドローンやミサイルを撃ち落とすために武器弾薬の支援が必要だが、頼るのは米国しかなく、ネタニヤフ首相は米国に、抱きつく。

 中国は個人独裁を防ぐために最高指導者(国家主席・共産党総書記)の68歳定年を慣例化していたが、習近平氏は2022年、最高指導者として異例の3期目に入り、27年以降の4期目も想定していると見られている。7月に開催された共産党の三中全会では新たな目標として、建国80年の29年までに改革の任務を完成させることが掲げられたが、これは29年にも習近平氏が最高指導者として君臨することを示すと受け止められた。

 習近平氏が最高指導者の座に居座り続ける理由として、①国政運営に強い意欲を持っている、②自分だけが重責を担えると自負している、③権力欲が非常に強い、④大規模な腐敗摘発活動で、あまりに多くの高級官僚(党員)を処分したため、権力を手放すと恨みの標的になるーなどが推察できる。④であるなら習近平氏は身の安全を確保するため、死ぬまで権力を手放さないだろう(=習近平氏は権力に抱きつく)。

 ゼレンスキー氏は侵攻するロシアに負けないために欧米諸国に抱きつき、ネタニヤフ氏は戦時体制を継続するために米国に抱きつき、強権で政敵などを排除した習近平氏は生き延びるために権力に抱きつく。国家の最高権力は時には後ろ盾となる外国を必要とするので最高権力者は抱きつくのだが、抱きつかれた外国はそれを利用する。生き延びるには最高権力に抱きつくしかなくなった独裁者は、寿命が尽きるか、人民により追い出されるまで抱きつき続ける。

2024年8月3日土曜日

象を喰った連中

 「象を喰った連中」(吉村公三郎監督)は1947年2月に公開された映画だから、撮影されたのは前年の敗戦後の1946年か。脚本がいつ書かれたのか詳らかではないが、戦意高揚へ向けて厳しい統制が行われていた戦時中にコメディ映画の制作は難しかっただろう。「進め1億 火の玉だ」などの標語が掲げられていた時代にコメディ映画は似合わないか。

 病死した象の肉を焼いて喰った5人の男がいて、その病死した象はバビソ菌に感染していて、その菌を含む肉を喰った人が30時間後に死ぬ例があったと判明して、死期が迫る中で5人と周囲の人々とのやりとりが、ゆったりしながら、だらけさせないテンポで描かれる。簡潔明瞭な状況設定の中で各人の個性が浮かび上がる。

 30時間後に死ぬというのに、誰にも切迫感や悲壮感が過剰にならないので、見ている側も、とぼけたセリフや登場人物らの気持ちのすれ違いや勘違いなどを笑って見ることができた。死を覚悟した夫に妻が「どうして象を食べるなんて意地汚いことをなさいましたの?」「私がそんなにもひもじい思いをさせまして?」なんて問い詰めたり、太鼓を叩いて南無妙法蓮華経を唱えさせたり、老母が「勉強のしすぎでオカシクなったに違いない」と、もうすぐ死ぬと言う息子の気持ちを鎮めるために一緒に子守唄を歌ってあげたりと周囲の人々の反応が可笑しい。

 切実感があるのは子持ちの父親を演じたのが笠智衆で、現実感のある悲しみを混ぜて見せることで、とっぴな設定による現実離れした物語だとの色合いを弱め、地に足がついたコメディ映画になった。チャップリンを意識したと思われる笠智衆の木訥とした風情の演技がコメディ映画の雰囲気を盛り立てた。

 このコメディ映画は役者の騒ぎまわる演技や展開で笑わせるのではなく、なごやかで温かみがある登場人物が、突然の出来事に巻き込まれて狼狽して、互いを攻め合ったり、他の人々を助けるために自己犠牲を表明したりと、目前の死を意識して揺れ動く各人の心情を描き、そこに周囲の人々の思いを絡ませて、軽やかに描いた。

 加熱処理することでバビソ菌は死滅することが判明し、誰も死なずにハッピーエンドで映画は終わる。死期を意識した人々による約1日間の騒動は、戦時中の厳しい統制から脱した人々の日常を描いたものでもあった。定職があり、住む住宅もある登場人物たちは、おそらく当時の中産階級に属する人々であっただろう。生活苦などと無縁な状況設定だったから、ほんわかとしたコメディ映画が成立した。

 1946年は2月に食糧不足に対応した食糧緊急措置令が出されたが、都市部の食糧配給の遅配・欠配が深刻となっていて、5月には25万人が皇居前広場に集まって「米よこせ」と食糧メーデー集会が行われた。病死した象でも喰うという状況は現在からすれば空想の領域かもしれないが、食糧難の当時では、「象でも何でも喰えるものは喰う」との人々の衝動には少し現実感があったかもしれない。

2024年7月31日水曜日

スポーツとルール

  パリ五輪の体操女子代表の宮田笙子選手(19)が、喫煙と飲酒の発覚により代表を辞退した。成人年齢は18歳となったが、喫煙・飲酒は20歳以上という法規制は残っており、体操協会の行動規範では、日本代表として活動するときは20歳以上でも飲酒・喫煙は禁止となっていることから、代表辞退は当然と世間は受け止めたようだ。

 一方、「問題だったが、代表権を奪うほどではない」とか「厳重注意のうえ反省文を書かせれば良いことだ」「些細なことで19歳の夢を潰すのか」「成人しても煙草、酒がダメなままなのが理解できない」「ドーピングではなく犯罪でもないから、出場停止は過剰な罰だ」「投票権も持つ19歳の体操選手が喫煙で代表辞任に追い込まれる異常さ」などと五輪代表辞退に疑問や異議を唱える反応も報じられた。

 五輪代表選手としての重圧があったであろう19歳に同情する声や代表チームのコーチらの選手管理の責任を問う声なども上がったが、飲酒・喫煙は禁止という明示されていたルールを破った当人が悪いと受けとめた人が多かったようで、賛否両論が激しく衝突することは続かず、開幕したパリ五輪の話題に隠れてしまった。

 スポーツにはルールがあり、選手がルールを守ってプレーすることは義務であり、違反行為にはペナルティーが課せられる。例えば、19歳だからとサッカー選手が手を使ってボールを動かしてもいいとなれば競技は成り立たないだろうし、体操競技で19歳だからと着地で大きく動いても減点しないとなれば競技が歪むだろう。側から見ているとスポーツのルールには不合理なものも見受けられるが、それぞれのスポーツのルールをプレイヤーが遵守することは義務だ。

 だが、社会では多少のルール破りは大目に見られることもある一方、厳しく咎められることもあるなど状況次第で責任の問われ方は変わる。ルール破りが見つかれば批判されたりするが、見つからなければ問題にはならない。20歳未満で飲酒・喫煙している人はいるだろうが、見つからなかったり、周囲の大人が甘かったりすると容認された状況になる。

 ルールは人間が決めたものであり、スポーツのルールでも社会のルールでも現実に合わなくなったり、ルールを守ることによる弊害が大きくなったりしたなら、変更することができる。だが今回の代表選手辞退を受けて、法を変えて飲酒・喫煙の年齢制限を18歳以下にしろ等の主張は希薄で、現行の飲酒・喫煙ルールの是非はほとんど問題視されていない。

 スポーツに大金が絡むようになり、スポンサーの意向もあってか世界のテレビ視聴者に分かりやすくするため多くのスポーツでルール変更がなされた。時代の変化に合わせてルールに問題があれば変更するのは当然だが、現実には社会でもスポーツ界でもルール変更は簡単ではない。特に、決められたルールは守るのが当然で、ルールを決めるのは自分たちではないとする人々が多数の社会では、ルールに不満があっても我慢することが要求される。「みんな我慢しているんだから、おまえも我慢しろ」と。

2024年7月27日土曜日

意見の相違と人格攻撃

 米国の大統領選では民主・共和両党の候補者陣営が激しく対立候補を批判する。政策の違いだけではなく、相手候補の過去の不祥事を暴いたり、過去の不適切な言動を探し出して大々的に相手を攻撃するネガティブキャンペーンを繰り広げる。時には、ファシストだとか過激な左派だとかレッテル貼り合戦になり、政策論議は添え物のような扱いになる。

 意見の対立は米国の政治家に限らず、おそらく世界中の人々の間で日常的に生じているだろう。そうした意見の対立が、相手への反感となって怒りへと発展し、相手の人格を否定する言動になることも珍しくないだろう。相手を否定することで自分の主張が正当化されるわけではないのだが、意見の対立が感情を爆発させることにつながったりする。相手との意見の相違を、相手の人格否定などに発展させないためには何をどうすれば良いのか。

 加藤周一氏は、相手との意見の相違を認識して対話・議論を進める必要と重要性を説く。批判が相手の人格否定に変わると、互いに相手を攻撃するだけとなる。当選者が1人の選挙では、相手の失点=自分の得点になるだろうが、共存を続けていかなければならない状況下では相手の否定が自分の得点になるとは限らず、相手の人格否定を行う側は周囲から冷ややかに見られたりする。

 「たとえば原発を作ることに賛成と反対があるでしょう。なぜ反対なんですかと聞けば、その人は反対理由を明示する。なぜ賛成なんですかと聞けば、その人は賛成の根拠を列挙する。そして、それらの返答に対するコメントが必要で、『あなたが言っている第一の理由は、事実と合わないではないか。第二は確かに合っている。第三は私もそうだと思う』などと話が展開する。そうして『何がなんでも賛成だと言っているのではなく、反対にも十分理由があると思う』などとなる。そういうことになって議論が成立する」

 「ただ、話の展開には一つ条件がある。意見の違いが、その人に対する攻撃になってはいけない。人に対する攻撃ではなく、意見が違っても人を攻撃しないという区別がはっきりしないといけない。それがごっちゃになるから、日本人は議論しない」「日本では、誰かの意見に反対すると、人に反対しているのだと思われる。危ないから黙っているということになります。それを何とかして除く必要がある」(「20世紀と放送」内川芳美氏との対談、1997年=『加藤周一対話集⑤ー歴史の分岐点に立って』所収。適時修正あり)。

 意見の対立を相手の人格否定に発展させないためには、①感情をコントロールする、②自分の意見が正しいと絶対視しない、③丁寧な言葉遣いに努めるーことが必要となる。意見の対立から相手の人格否定へと攻撃的になると、やがて対話や議論は放棄され、行き着く先は暴力の応酬にもなったりする。対話や議論の「マナー」を身につけることは共同体や社会の安定にも寄与する。

2024年7月24日水曜日

負けるを覚悟で

 米バイデン大統領が大統領選から撤退することを発表、後継の民主党の大統領候補としてカマラ・ハリス副大統領を支持するとした。ハリス氏が後継候補になることへの支持が民主党内で広がっているともされるが、一方で、トランプ氏に対する支持率は高く、ハリス氏が民主党候補になってもトランプ氏優位を覆すことができるのか不透明だ。

 民主党は大統領選での敗北を想定し、上院・下院での民主党の議席確保を重視してバイデン氏に撤退させたという見方がある。高齢不安が高まったバイデン氏が大統領選にとどまり続けると、上院・下院での民主党候補に対する投票行動に影響を与え、上院・下院の過半数を共和党に取られるとの懸念だ。最高裁は共和党が「押さえ」ているので、行政・立法・司法を共和党が掌握すると米国で三権分立は形骸化する。

 不人気だとされるハリス氏が大統領選でトランプ氏に勝つことは難しいと見られる中で、ハリス氏はどういう選挙戦を闘うべきだろうか。当選を目指して選挙運動を行うことは確かだろうが、負けるを覚悟で選挙戦を闘うという戦略もある。知名度や認知度を上げることと、政策を訴えることに注力し、次の選挙につなげる闘いだ。

 どんな選挙でも候補者は当選を目指して闘うのだが、いつか自分の主張が理解され、いつか自分が支持されると信じて闘うという闘い方もある。当選を目指しつつ落選をも想定し、自分の政策を訴えることを最優先し、対立候補に対する批判は重要視しない。それが信念のある政治家だというイメージにもつながる。ただし、独自の政策が希薄な候補者では、こうした選挙戦略は無理だろう。

 かつて自民党の総裁選で三木武夫氏は3回立候補して敗れたが、当時の田中角栄首相が金権批判で退陣した後、推されて首相に就任し、政治資金規制法の改正など政界のクリーン化に努めた。小泉純一郎氏は3回目の立候補で総裁に当選、首相となり、世論調査で80%という高い支持率を得て、構造改革を行った。

 三木武夫氏や小泉純一郎氏の施政には限界も偏りもあったが、何度も総裁選に立候補して負けるを覚悟で、その主張を曲げずに訴え続けたことが後の首相就任につながったことは否めないだろう。主流派派閥に適当な人材がおらず、党のイメージの刷新が求められている時に三木武夫氏や小泉純一郎氏の存在と起用は自民党にとって「最後の一手」だった。

 負けるを覚悟で闘う候補者の存在は ①次代の候補者の準備、②異論の確保・保存ーなどの意味がある。ハリス氏は当選を目指すだろうが、4年後を視野にトランプ氏とは異なる政策を訴えるという戦略もある。選挙運動を続けるには大金を必要とする米国の大統領選では、4年後を見据えた選挙などという悠長なことは現実に困難だろうが、ハリス氏が民主党候補としてトランプ氏相手にどのような負けっぷりを見せるか興味深い。

2024年7月20日土曜日

あふれるデマ

  デマとは、①事実に反する噂、②悪口や根拠のない噂、③政治的な目的で相手を誹謗し、相手に不利な世論を作り出すように流す扇動的かつ虚偽の情報、④社会情勢が不安な時などに人心を惑わすような憶測や事実誤認による情報ーだ。デマはdemagogyの略で、古代ギリシアで扇動政治家が民衆を扇動するために用いた宣伝・扇動が原義だという。

 フェイクニュースは、①メディアやブログやSNSで公開されている本当ではない記事(総務省HP)、②政治的な目的で世論を操作するため、ウェブサイトのアクセス数を増やすため、センセーショナルで面白いからなどと発信・拡散される不確実な情報、③事実とは異なるが真実のように伝えられる情報ーだ。フェイクニュース=デマは確かな根拠がない情報で、フェイクニュースはネット時代の産物だ。

 トランプ氏の暗殺未遂事件では、▽シークレットサービスの長官が容疑者を倒す命令を出すのを拒否した、▽銃撃は大統領選に向けてトランプ氏の人気を高めるための演出だ、▽トランプ氏は「安倍元首相の声が聞こえて振り返った」、▽トランプ氏が事件の翌日に「ゴルフに行った」、▽バイデン大統領が暗殺を指示した、▽シークレットサービスがホワイトハウスの命令により意図的にトランプ氏を保護せず、セキュリティ強化の要請を断ったーなどのフェイクニュースが米国で流れたという。

 デマに浮き足だって踊らされず、冷静に関連ニュースを集めて検証すればデマだと見破ることは可能だろうが、自己の直感や政治的信条に合致するからとデマを信じたがる人やデマを面白がる人がいて、デマは拡散する。デマは人々の好奇心を刺激するのだが、時には人々に不安や怒りなどの強い感情を抱かせ、人々を行動に向かわせたりすることもある。

 政治が絡むと、政敵に不都合なデマを歓迎したり静観したりするが、自己に不都合なニュースならデマだと主張する人々が現れる。人間には知性と理性が備わっているはずだが、政治や利害が絡むと知性や理性は自己の利益のために働き、デマを許容したりもする。知性や理性は主観に影響され、デマの峻別に有効に働くとは限らないとすると、人はデマに無防備かもしれず、デマがあふれる状況が続くことも当然か。

 「嘘も百回言えば真実になる」はナチス・ドイツ宣伝大臣のゲッベルスの言葉だそうだが、今はSNSなどで「デマも百回見れば真実だと思う」か。ただし、真実だと思わせるには、デマを信じさせるために都合のいいニュースの断片を散りばめつつ特定の方向へと誘導する主張をさりげなく行う。全体の8〜9割が事実であることが残り2〜1割のデマを人々に信じさせる。

 トランプ氏の暗殺未遂事件であふれたフェイクニュースには、米国内の対立を煽る狙いでロシアなど諸外国が関与したものが含まれるだろう。言論戦には国境がなく、常に世界中で激しく展開されているのが現代だと認識するなら、トランプ氏の暗殺未遂事件はロシアなどにとって絶好のネタだ。日本でも大きな地震が起きるたびにフェイクニュースが流れた。国内外からデマは常に湧き出て、撒き散らされる。

2024年7月17日水曜日

函館バスの闇

  北海道南部の渡島半島に路線網を展開しているのが函館バスだ。函館市内には密に路線を張り巡らし、西は江差や上ノ国、南は木古内や松前、東は鹿部や椴法華、北は森や長万部や今金などへ路線が伸びていて、渡島半島の各地を結ぶ路線バスは函館バスしかない。その函館バスには問題があるようだ。

 報道された主なニュースを並べると次のようになる。

 <2024年>7月=裁判で函館バスの違法性が何度も認められているにもかかわらず同社が改善の姿勢を見せないため、私鉄総連函館バス支部と組合員2人が函館弁護士会に人権救済を、函館地方法務局に人権侵犯の被害を申し立てることを決めた。2021年以降、支部は民事訴訟や労働委員会への不当労働行為救済申し立てを相次いで起こし、会社側の敗訴や労働委による救済命令が続いているが、「函館バスは司法判断にすら従わない」(支部代理人の弁護士)。

 6月=函館バスの株主である函館市は同社の森健二社長について最高裁で「再雇用を不当に拒否した」とする判決が確定したことから、判決に従って再雇用するよう指導した。

 5月=慰謝料計550万円の支払いなどを命じた裁判所の判決に会社側が応じず、函館地裁は森健二社長の預金を差し押さえる命令を出した(函館地裁は昨年10月、配置転換が不当労働行為に当たるとして会社と森社長に賠償を命じる判決。札幌高裁も今年4月、一審判決を支持し、会社側の控訴を棄却)。

 5月=判決で言い渡された慰謝料の支払いに函館バスが応じていないことをめぐり、函館地裁は森健二社長の自宅を差し押さえることを決定(判決には強制執行が可能な仮執行宣言が付いていた)。

 3月=函館バスが労使協定を結ばないまま乗務員に時間外労働をさせたとして函館労働基準監督署は、会社と社長・常務を労働基準法違反の疑いで書類送検(函館バスをめぐって労働組合が去年10月に告発状を提出し、函館労働基準監督署が聴き取りや勤務記録を計算するなどの捜査を進めていた)。

 1月=函館バスの労働組合に所属する男性が従業員としての地位確認などを求めた裁判で最高裁は上告を退ける決定をし、従業員としての地位を認めた上で会社に未払い賃金などの支払いを命じる判決が確定した。

 <2023年>10月=函館地裁は、函館バスの人事措置は組合活動を侵害する不当労働行為にあたると認定。同社と森社長に慰謝料計605万円の支払いを命じた。同社の労使紛争を巡っては、札幌高裁が8月、同支部の執行委員長に対する雇い止めは無効だとする判決を出している。

 10月=函館バスが労働組合が求める団体交渉に応じなかったり、組合側への支配介入を行ってきたのは不当労働行為にあたるとして、北海道労働委員会は組合側の申し立てを全面的に認める救済命令を出した。

 10月=函館バスに対して札幌高裁が未払い賃金など約500万円を支払うよう命じた判決について、会社側が応じていないことから裁判所は、会社に保管されている現金を差し押さえる強制執行を行った(判決の確定前に強制執行ができる仮執行宣言が付いていた)。

 8月=札幌高裁は、雇い止めを無効とした一審・函館地裁判決を支持。会社側に雇い止め後の賃金など約530万円の支払いを命じた。判決は、組合休暇の取得方法は労使間で合意に至っておらず、懲戒処分の理由に当たらないと指摘。同社の制度では定年後も希望者を再雇用することになっており、黒瀧さんの雇い止めは「社会通念上相当であると認めることはできない」。

 ※函館バスは報道によると、担当者不在などとして取材にほとんど応じていない。

 私鉄総連は「今回の函館バス㈱のように、団体交渉拒否・不当解雇・不当配転・支配介入・そして中立義務違反に至るまで、ここまで正面から労働組合法を無視し、労働委員会の命令や司法判決が明確に出されても従わない経営者は、私鉄総連の長い歴史を振り返っても極めて稀有な存在です」とコメント。

 労働法規を無視し、裁判所の決定にも従わない函館バス。競合する路線バス会社が渡島半島には存在しないから、労組潰しなど、やりたい放題を函館バスの経営陣が行っていると見える。一連の報道で函館バスの企業イメージは低下しただろう。全国的にバス運転手が不足しているというから、函館バスは全国のバス会社にとってバス運転手の草刈場になるかもしれない。

2024年7月13日土曜日

濃い味付け

  毎年の健康診断のたびに血圧が高いことを指摘された友人は、減塩を意識するようになり、漬物には箸をつけず、お椀に半分ほどしか味噌汁を入れず、ラーメンなどのスープも残すようになった(以前は必ずスープを飲み干していた)。そうした食事作法が身につくには数年かかったというが、今では意識せずに自然に減塩の薄味の食事を楽しんでいるという。

 醤油やソースを使わないように心掛けるようになったので、外食時にも醤油やソースを使わないことがあり、店主や周囲の客から怪訝な顔をされることもあるという。だが、すっかり薄味になれた友人は「例えば、とんかつにソースをドバドバかけて食べると、ソースを味わっているだけだ。揚げた肉の味なんか分からないだろう」とし、調味料を使うなら最低限にすべきだとする。

 天ぷらなどを塩につけて食べることを推奨する飲食店は珍しくなくなったが、友人は「塩は人体に必要なものであり、外部から取り入れるしかないので、塩を美味しいと感じるのは人間の本性だ。だから、塩をつけて食べることで料理を美味しいと感じさせるマジックが働く」と言い、「平凡な料理でも、塩をつけて食べさせることで客に美味しいと錯覚させている」と厳しい。

 塩辛いものが以前は好きだった友人だが、薄味に慣れてからは「味付けが濃すぎるから」と外食を好まなくなった。移動が多い仕事の関係で昼食は外食になるというが、「中華は濃い味付けで出される料理が多いので行かなくなった。和食かカフェで、卓上の調味料を使わず素材の味を楽しむことができるような店を探す」。

 そうした店が見当たらない時に友人は見つけた飲食店に入るが、「我慢して、濃い味付けの料理を食べることもあるが、濃い味付けに塩辛さを感じることが多く、食べている間はずっと気になる。気になるのは、塩分量が多いことではなく、塩辛さという単調な味付けしかできていないことで、うまさや美味しさを提供しようという意欲が店側に欠如している」と厳しい。

 濃い味付けやタレなどに頼った料理の全てを友人は否定はしない。「例えば、ウナギの蒲焼きは素材の味ではなく、タレの味を楽しむ料理だ。素材のウナギがどんな味なのか白焼きを食べたことがない人には分からないだろう。蒲焼きを楽しむことは濃厚なタレの味を楽しむことだから、たまには食べに行くよ」、続けて「山椒は好きだから、俺は多めに掛ける」と塩分を含まない調味料にはおおらかだ。

 薄味になれたことで友人は、素材の味を楽しむことを発見した。刺身を醤油にどっぷり浸してから食べる人もいるが、「それでは魚の味が霞む。醤油の味のかなたに魚の味がぼんやり浮かんでいるようなもので、魚種による味の違いを楽しむには適さない」と友人は批判的だ。薄味になれて味覚が繊細になったらしい。

2024年7月10日水曜日

状況を変化させる

 フランスの国民議会(下院)の総選挙で議会第1勢力になったのは、予想されていた右派政党の国民連合(RN)ではなく、左派の政党連合の新人民戦線(NFP)だった。マクロン大統領率いる与党連合は2位となったが、選挙協力を行ったNFPと政策面では隔たりがあり、今後の議会運営はマクロン大統領が進めてきた路線の修正に向かうとの見方が有力だ。

 イギリスでも下院の総選挙が行われ、労働党が209議席増の411議席の単独過半数を獲得し、14年ぶりに政権を奪還した。与党だった保守党は251議席減の121議席と大敗して政権の座から降りた。保守党には長期政権の驕りや弛緩が表面化し、EU離脱の成果が乏しく、インフレによる生活苦などが重なり、主権者は政権を交代させることを選んだ。

 イランの大統領選では改革派のマスード・ペゼシュキアン元保健相が当選した。最高指導者のハメネイ師は保守強硬路線の継続を求めていたとされるが、主権者は保守強硬派の候補ではなく、欧米との対話を重視する改革派のペゼシュキアン氏を選んだ。保守強硬派の政治は国内で厳しくヒジャブの取り締まりを行い、多数の死者を出すなど過酷なものだったが、そうした政治の軌道修正を主権者は選んだ。

 インドでも総選挙が行われ、モディ首相率いる与党インド人民党(BJP)主導の与党連合が議席を減らしたものの下院で過半数を超える293議席を獲得した。が、BJPは単独では過半数を獲得できず、連立政権となり、モディ首相が強権的な政権運営を続けることができるのか不明だ。疲弊した農村や宗教色の濃い政策、強権的手法、インフレなどに対する主権者の不満が選挙結果に現れ、モディ政権に対して軌道修正を求めた。

 米国では11月の大統領選挙を控え、現職のバイデン大統領(民主党)に対する撤退圧力が高まっている一方、共和党のトランプ前大統領の当選が有力視されている。両氏の個人的なキャラクターをめぐっての選択とも見えるが、政策では、トランプ陣営は減税策、アメリカ第一主義、パリ協定軽視、自動車排ガス規制の撤廃などを掲げ、バイデン陣営は半導体など巨額の政府支援、気候変動対策の重視、ウクライナ支援の継続などを掲げるが、対中強硬姿勢では大差ない。

 トランプ大統領が現職だった頃、パリ協定やTPPやWHOから離脱し、減税政策を行い、中国製品に対する制裁関税を高め、北朝鮮の金正恩氏と会談し、メキシコとの国境に壁を建設し、NATO諸国などに軍事費の増額を要求し、同盟国からの輸入品に関税上乗せを行うなど、それまでの米国の政策を変更した。トランプ氏が大統領選に勝利すると数々の政策変更が行われるだろう。それはトランプ氏の個人的な判断によるものだろうが、主権者が選択した政策でもある。つまり、トランプ氏を当選させることで主権者は政策変更を選択したことになる。

 選挙で主権者は政治状況を変化させることができる。選挙で、驕りや弛緩や腐敗が目立つ長期政権を交代させたり、インフレや失業や生活苦に喘ぐ人々が「現状を変えろ」との要求を政党・政治家に突きつける。政治状況を選挙により変化させ、野党に政権を担わせることで野党に経験を積ませ、野党を現実的な政権運営能力を備えた政党に育てることで、いつでも主権者は選挙で政権交代を行い、政治状況を変えることができるようになる。頼りになる野党がいないから長期政権が続いているという状況は主権者の責任である。

2024年7月6日土曜日

現世と神

 パレスチナのガザでの戦闘でイスラエルの首相は「ハマスの壊滅が近づいている」とし、国防相はハマスが「壊滅しつつある」と発言したという。イスラエルはヨルダン川西岸でのユダヤ人入植地の建設を続けていて、約13km2の土地を国有地と宣言し、領土拡大に向け実効支配地の拡大をやめない。

 イスラエルはパレスチナを国家として認めていないので、今回のガザへの侵攻は国家間の戦争ではなく、テロ組織との戦闘との位置付けだろうが、イスラエルに敵対する相手に対して容赦なく圧倒的な武力で制圧するという姿勢は変わらない。イスラエルの軍事行動や入植地拡大には国際的な批判が高まっているが、国際社会がナチスドイツのユダヤ人の大量虐殺に無力だった歴史もあってかイスラエルは、そうした批判を無視する。

 シオンの地を追われて約1900年、ユーラシアの各地などで流浪の民として生きてきたユダヤ人がパレスチナの地にイスラエルを建国したのは第二次大戦後のことだった。ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々のことで、人種や民族という概念で捉えることはできない。ユダヤ教の信者がユダヤ人だが、米国に住む約750万人のユダヤ人は政財界やメディアで大きな影響力を持つとされる。

 ユダヤ教は、唯一絶対で万物の創造主である神が存在するという宗教で、神から与えられた律法を守ることなどを信者に求め、この世の終わりには神が派遣したメシア(救世主)が来てユダヤ人だけが救われるとする。唯一絶対の神の存在を信じるユダヤ人は、離散して移り住んだ土地で迫害を受けたり、大量虐殺などの経験を経て生き延びたのだから、現世において神の救済はないと見極めたのかもしれない。

 ユダヤ教が現世での救いを約束する宗教であったなら、ナチスドイツによる大量虐殺などの苦難の歴史を体験した人々はユダヤ教を見捨てただろう。人間から神への一方的な信仰だけが存在するとし、現世は神が人間を試す場で、神の裁きが死後に待っているというのは検証不可能のストーリーだが、信じることしか人間にできることがないから信仰は保たれた。

 現在、パレスチナでは同じ神を信じるユダヤ教の信者たちとイスラム教の信者たちが殺し合っている。唯一絶対の神の存在を信じる人たちが無慈悲に殺し合っている光景は、現世には神が不在であり、神による救いはないと証明している。また、同じ唯一絶対の神を信じる人たちだから、神の正義は自己の側にあるとして妥協の余地がなくなっているようにも見える。

 現世に神が関与しないと身に染みて経験したユダヤ人は、自分ら人間の都合のいいように現世では行動する。神のためではなく、生存のために戦いを続け、無慈悲に対立する側の人々を殺し続ける。そうした行動を正当化するのは、ユダヤ人の歴史意識と宗教だろう。どちらもストーリー(物語)だが、そうしたストーリーの中に身を置いて生きる人々が殺し合っているのが現世だ。

2024年7月3日水曜日

お笑い選挙

 大統領選を控え民主党候補になるとみられるバイデン氏と共和党候補になるとみられるトランプ氏の公開テレビ討論が行われ、報道によると、バイデン氏は声がかすれ、何度も言い間違えたり口ごもり、うつろな表情で高齢不安を払拭できず、トランプ氏は司会者の質問に答えずに根拠のない自説を述べたり、不規則発言が多かったという。政策をめぐっての議論は深まらなかったそうだ。

 世界最大の経済力と軍事力を有する米国の指導者を選ぶ選挙で、4年の任期を全うできるのか不安がある人物と、自分勝手で何をするか分からない人物のどちらを選ぶのかと問われて、返答に困る人は多いだろう。毒蛇か肉食獣のどちらかと一緒にベッドに入れと言われたなら、両方とも嫌だと拒否するのが正解だろうが、選挙において両方とも嫌だとすると棄権するしかない。

 主権者が自由投票により、国家権力の行使に関与する議員や行政の長を選出するという民主主義は、能力・見識があり信頼できる有能な人物を選挙で選び出すことで立派に機能する。だが、選挙に立候補した候補者が、精神的に詐欺師やコソ泥ばかりで、当選したならばガッチリ儲けようと狙っている連中だとしたら、主権者がどの候補者を選出しようと、民主主義による政治は混迷するばかりだろう。

 また、当選して「名誉」ある地位につくことだけが目的だったり、権力を握ることだけが目的だったりする人物や国政に関与するには無能というしかない人物、偏狭な主張にとらわれて異論を排除することに熱心な人物らが候補者として並ぶと、どの候補者に投票しようと主権者は機能不全の民主主義から逃れることはできない。

 主権者の自由投票により成立する民主主義が機能するには、全ての候補者の「質」を一定水準以上に保つことが必要だと考えられるが、誰もが立候補できることも民主主義には必要な条件だ(イランの大統領選のように候補者の事前審査を行うと、審査する側にとって不都合な人物は排除される。日本のように高い供託金を設定すれば、金持ちしか立候補できない)。

 全ての問題を解決する正義のスーパーマンは存在しないと思えば、さまざまな立候補者の中から、少しでもマシな人物を見分けて投票するしかなく、公約などを見比べて検討することになる。だが、公約は票集めのためのキャッチコピーに過ぎないとすると、主権者は何を根拠に候補者を選択すればよいのか曖昧になり、少しでもマシとは何かを考えることになる。

 民主主義を支える自由選挙が変質し、トンデモ候補者が跋扈して部外者からは「お笑い」選挙のように見えたりするのは米国の選挙だけではなく、日本の選挙でも珍しい光景ではなくなった。だがね、主権者が国家や自治体の政治の方向を決めるという民主主義は、主権者が真摯に自由投票に臨むことで健全さが保たれる。お笑い選挙の結果として、お笑い権力者やお笑い行政が誕生すると、いつまで主権者は笑っていられるのか誰にも分からない。

2024年6月29日土曜日

味の評価

 タレントが地方を巡るテレビ番組が増え、各地の温泉に入ったり、名所を訪ねたりするが、欠かせないのは飲食店で名物料理などを食べることだ。どんな味かと視聴者は興味を持つだろうが、タレントは「うまい」「美味しい」「柔らかい」などと出された料理を単純な言葉で褒めるだけだ。美味しいとしても、どのような味わいなのかは伝えてくれない。

 まずかったり、好みに合わなかったとしてもタレントは正直に言うことはできない。テレビ取材を受け入れた飲食店に対して、その味をタレントが厳しく批評したり、けなしたりするのは「取材マナー」に反する行為だろうし、タレントが「正直」に味の感想を言う番組では、テレビ取材を受け入れる飲食店を見つけることは簡単ではなくなるだろう。

 平凡な味であっても、好みに合わない味であっても、まずくても、食べて感動したような顔つきで「うまい」「美味しい」「柔らかい」などと言えるのも旅番組に出演するタレントの芸なのだろう。できるのは「うまい」「美味しい」「柔らかい」などの声の大きさを場面によって変えたり、時には、しみじみと「うまい」「美味しい」「柔らかい」などと言うことか。

 タレントや番組スタッフが都内や地方の飲食店を訪ねて、料理を食べるという食べ歩き番組も増えた。こちらもタレントや番組スタッフは、甘みがあるとかピリ辛だとか塩味がいいなどと多少、味について説明するが、「美味しい」「うまい」と褒めることが基本であることは変わらない。こちらでも、まずかったり、好みに合わなかったとしてもタレントや番組スタッフは正直に言うことはできない。

 うまい・まずいは個人の感覚に左右されるから、タレントやスタッフの否定的で正直な感想を番組で伝えることは公平性に欠け、飲食店とのトラブルになる可能性がある。だから番組では、飲食店を紹介する範囲を超えないようにタレントやスタッフは基本的に味を褒めるしかない。つまり、旅番組や食べ歩き番組での飲食店の料理の紹介は、そこに料理が存在するという情報でしかない。

 テレビ番組では、紹介する飲食店の料理に対する批判は行わず、評価も行わない。どの料理も「うまい」「美味しい」「柔らかい」などと褒めるだけだ。SNSなどでは飲食店の料理に対する「正直」な批判が現れるが、それは客として入店した人にだけ許される行為であり、アポを取って取材するテレビ番組には取材先に対する配慮が求められるとともに、批判を遠慮するのは当然だろう。

 うまい・まずいは個人の感覚に左右されるので、個人の感覚を一般化できるのかという課題もテレビ番組には突きつけられる。タレントやスタッフが料理をまずいと思ったとしても、うまいと思う客がいるから、その料理は提供され続けている。味の評価は人それぞれだとすると、テレビ番組を見て興味を惹かれた視聴者は自分で食べに行くしかない。

2024年6月26日水曜日

「与えられた」課題

 SDGsに取り組んでいることを掲げる企業が増えた。これは①企業のブランドイメージ向上につながる、②新しいビジネスが生まれるきっかけになる、③社員のモチベーション維持につながる、④投資家へアピールできるーからで、SDGsの導入は、SDGsの知識習得→課題を設定→目標設定→自社のビジネスに組み込む→SDGs活動開始の順に行うという(日本能率協会HP)。

  行政関係や企業人以外で、SDGsというアルファベットの連なりの意味するものを即座に理解できる人がどれだけいるのか定かではない。生活実感としてSDGsの必要性を感じている人は少ないだろうし、SDGsの必要性を説かれても何をすれば良いのか分からないという人も少なくないだろう。行政関係や企業人にしても、共感して賛同するというより、対応しなければならないと受け身で思考・行動している人が大半のようにも見える。

 SDGsとは持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)で、2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された、2030年までに持続可能で、よりよい世界の実現を目指す国際目標。17の目標・169のターゲットから構成され、地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを目指す(外務省HP)。

 17の目標は、▽貧困をなくす▽飢餓をなくす▽すべての人に健康と福祉を▽質の高い教育を▽ジェンダー平等を達成▽すべての人に安全な水と衛生の利用・管理を▽安価で信頼できるエネルギーへのアクセスを▽経済成長と雇用を確保▽産業と技術革新の基盤をつくる▽各国内や各国間の不平等を是正▽持続可能な都市を実現▽持続可能な生産・消費形態を確保▽気候変動に緊急対策▽海洋資源を保全し、持続的に利用▽陸の生態系の保護・回復・持続可能な利用促進、森林の持続可能な管理など▽平和で包括的な社会の促進、すべての人々に司法へのアクセス提供など▽持続可能な開発のための実施手段を強化し、グローバル・パー トナーシップを活性化。

 国際社会の課題を列挙した17目標に異論を唱える人は少ないだろうが、どの目標も個人レベルの課題だと受け止める人も少ないだろう。日本政府がSDGs策定の議論にどれほど参画していたのか知らないが、国連で決まったことに従っているだけのような印象も受ける。SDGsは政府レベルや企業レベルで取り組む課題だが、日本独自に設定した課題ではなく、「与えられた」課題のようだな。

 他人が設定した問題を他人の解釈をなぞって考えたり、他人と同じ問題意識を持つことは教育の場などでは必要だ。そうやって子供らは、与えられた課題を考え、解くことを学ぶ。そうして大人になって、自分で課題を見いだし、問題を設定し、解決の道筋を考えるようになるーーはずだが、自力で課題を見いだし、問題を設定できる人はそう多くはいない気配だ。

 自力で課題を見いだすより、「与えられた」課題の解決の道筋を他人の解釈に追従して検討するほうが簡単だろう。だが、それは先生に課題を与えられて、考え始めた生徒の振る舞いでしかない。他人の問題意識や他人の思考を追っているだけだ。より良い世界を実現しようというSDGsは尊重されるべきだろうが、「与えられた」課題に対応すればいいとも見える行政や企業の動向から、独自の哲学めいたものが希薄なのは当然か。

2024年6月22日土曜日

横断歩道の毛虫

 郊外の割と交通量が多い片側1車線の道路で友人は、横断歩道の端のほうに長さ6〜7cmの細長い黒い毛虫を見た。樹木の多い公園側から、ゆっくりゆっくりと横断歩道を渡り始めた毛虫は、信号が変わって発進する車両に気づいたのか風圧に耐えるためか、動きを止めたが、車両が途切れるとまた動き始めたという。

 交通量が多い道路を横断しているという状況を「毛虫がどう認識していたのか見当もつかないが、あのままでは毛虫はいずれ車両に轢かれる。次に何が起きるのかを知らず、あの毛虫は身の破滅に向かって進んで行った」とし、「あの毛虫と人間は同じだ。次に何が起きるのかを知らずに毎日を生きている」と友人。

 毛虫が認識すべきだったのは、①その道路は交通量が多い、②車両に轢かれると潰される、③車両が止まっているのは前方の信号が赤の時だけ、④自身が道路を横断するには時間がかかりすぎるーだ。これらは人間なら学習によって得ることができる認識だ。毛虫の学習能力がどのくらいなのか詳らかでないが、おそらく毛虫は道路交通に関して学習することはできないだろう。

 予測可能な死に向かって進むことを毛虫が続けたのは、置かれている状況を理解せず、次に起こり得るであろうことを知らず、死の概念を持たず、捕食者以外に対する危険予知ができなかったからだ。この世界は道路交通など人間が構築したシステムで動いているが、それは毛虫には理解が及ばないことだろう。つまり、道路を横断しようとして轢かれて死ぬのは、毛虫にはどうすることもできないことだった。

 信仰を持たないが宗教には関心があるという友人は「あの毛虫を見てたら、神が人間を見ているような気分になった。状況を正しく理解せず、死や破滅に向かって進んで行く人間を神はきっと傍観するだけだろう。神が存在するとすれば、そう考えるしかない」とし、「人類が破滅に向かっているとは思わないが、死や破滅に突き進む人々は世界に数限りなくいる」。

 道路を横断する毛虫が轢かれて死ぬように、自身に予測できなかった現実は受け入れるしかない。どうにもできないことを受け入れるには運命という考えが便利だが、そうした現実肯定は無力さや判断力とか行動力の欠如などと結びついている。世界で宗教が現在も大きな影響力を持っているのは「あの毛虫と同様に、どうにもできない現実に翻弄される人々が多く存在して、何らかの解釈を求めているからだろう」と友人。

 予測可能な状況であっても、毛虫のように予測できないなら不幸な結果は自分の身に降りかかってくる。予測できないのは自己責任だともいえるが、人間の予測能力には限界があり、何が起きるか、誰もが正しく認識できるわけではない。「死が確実だと知らずに、せっせと前に進む毛虫の生き方は人間を含む生物の実相だな」と言って友人は深いため息をついた。

2024年6月19日水曜日

寄り合いと会議

 日本には民主主義の歴史がなく、民主主義は15年戦争の敗戦後に米国が日本に導入させたという解釈がある。民主主義の最低条件は、①主権を国民が有する、②主権者による自由選挙が行われる、③自由選挙は公正に行われる、④主権者による自由選挙で選出された人々が国権の最高機関である議会を形成するーだろう。

 15年戦争の敗戦前の日本では、主権は国民になく、自由選挙は損なわれ、軍部独裁体制に迎合する人々が選出される選挙システムとなり、言論や出版、集会など個人の自由は大きく制約された。敗戦前の日本で軍部独裁体制が確立する以前には自由選挙が行われていたが、主権が国民になかったので民主主義の政体とはみなされない。

 だが、人々は支配されるだけの対象だったわけではない。国権に関わる事柄は中央政府が決め、人々はそれに従うことを余儀なくされたが、地域の共同体における課題は人々が集まって話し合っていたところもあった。誰かに決めてもらって皆がそれに従うというのではなく、皆が納得するまで話し合うという仕組みは民主主義の原型とも見える。

 宮本常一氏の『忘れられた日本人』(岩波文庫)所収の「対馬にて」に、そうした民主主義の原型をうかがうことができる。当該個所の概略を紹介する。

・村の寄り合いがあり、森の中に人が集まっていた。次の日も寄り合いは続き、数人ずつ固まって話し合っていた。村で取り決めを行う場合には、皆の納得のいくように何日でも話し合う。

・初めに区長からの話を聞き、地域組が話し合った結論を区長のところに持って行くが、折り合いがつかなければ、また自分のグループに戻って話し合う。用事のある者は帰ることもあり、言うことがなくなれば帰ってもいい。

・議題に縛られずに参加者は自由に話すので容易に結論は出ないが、皆が思い思いのことを言ったあとで、話は次第に展開し、さらに話し合った後で老人や区長が結論をまとめ、皆が了承する。

・この寄り合い方式は古くからの歴史があり、村の申し合わせ記録の古いものは二百年近い前のものもあり、それ以前からも寄り合いはあったはずである。古老の記憶では、三日でたいていの難しい話もかたがついた。気の長い話だが、無理はせず、皆が納得のいくまで話し合った。結論が出るとキチンと守らねばならなかった。

・少なくとも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄り合いが古くから行われており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようだ。反対の意見が出ても賛成の意見が出てもそのままにしておき、皆が考え、最後に最高責任者に決を取らせる。

 宮本氏が記録した寄り合いの事例が日本全国で行われていたかどうかは不明だが、共同体の成員が意見を交わして決めるという仕組みは共同体を維持するために有効かつ必要だっただろう。皆で納得のいくまで話し合うという地域における歴史があったから、日本で民主主義が大きな抵抗なく受け入れられたとも見ることもできよう。

 こうした村寄り合いは、効率を重視して長い会議を問題視し、会議をスピーディーな意思決定の場にしようという発想とは逆方向のものだ。だが、皆が自由に話し、時間をかけて皆が納得する結論に達するという仕組みは、共同体の結束を強固にするものだっただろう。社員が入れ替わる企業などで効率重視の会議が持てはやされるのは、利益や売り上げにつながらない共同体の結束は重視されないからだろう。

2024年6月15日土曜日

酒飲み無宿

  人別帳は江戸時代の戸籍だが、農民や町民ら民衆を管理する制度でもあった(後に各自の宗旨を記載させた宗門人別改帳へと拡大)。人別帳が現在の戸籍と違うのは、夜逃げや家出・勘当などで姿を消した人々、窃盗や刃傷沙汰などで追放されたり所払いになった人々らは人別帳から外されたことだ。

 人別帳から外された人々が無宿だ。時代劇映画などでは放浪するヤクザや博徒という無宿が主人公になり、非道な連中を派手な立ち回りで倒したりするが、無宿になった人々の多くは乞食になったり、江戸などに流入して暮らした。無宿となった人々の人数は不明だが、江戸幕府が何度も増えすぎた無宿の取り締まりを行い、佐渡金山に人夫として送ったり、佃島に人足寄場を設けたりしたのは相当数の無宿が江戸に集まっていたからだろう。

 無宿という生き方は完全な自己責任の生き方だ。生まれ育った土地を離れて放浪を続けて野垂れ死ぬ人もあれば、放浪先で仕事を見つけて落ち着く人もあれば、金を手に入れるために何でもやる人もあれば、裏稼業に居場所を見つけた人もあるだろう。土地を離れた人も生きるためには金を稼がなければならず、食いつなぐためには自分の才覚に合わせて何でもやらなければならないだろう。

 社会保障の制度が未発達だった当時、家族や共同体の助けもなく、市中に放り出された無宿は見方を変えると、全くの自由な生き方を送ったとも言える。自由という概念は当時なかっただろうが、国家権力(当時は幕府)は「敬して遠ざける」存在で、関わりを持たずに生きるしかなかっただろうから、自分勝手に生きるという意味で自由だった。

 無宿として様々な境遇で生きた人々に共通する精神があったとすれば、それは個として立つことだった。放浪して野垂れ死んだ人も江戸などで居場所を見つけた人も裏稼業に生きた人も、社会に放り出されてからは独力で生きねばならなかった。個として立つと各自の判断力や行動力など才覚の違いが明らかになる。生きるも死ぬも己の才覚次第というのは、過酷だが分かりやすい構図でもある。

 現代において無宿はアナキズムと親和性がある。国家権力の束縛・統制を嫌い、極端になると社会保障なども拒否して、国家権力の世話にはならずに生きると標榜する人もいる。現代の無宿の精神は国家権力の管理・統制と距離を置くことと解釈すると、学問の自由などを重視する研究者は国家権力と距離を置くことに留意するので無宿の精神を幾分か持っているのかもしれない。

 かなり以前のことだが、飲み会で酔うと「俺は酒飲み無宿だ」と必ず言う人がいた。酔っ払うと誰かのところに転がり込み、自宅に帰らないことが珍しくなかったというから、友人知人の家を放浪していたつもりだったか。彼が言う無宿は精神ではなく状況を指していたが、豪放磊落を装っていた気配もあり、時代劇や任侠映画のファンだったので、彼には無宿の精神への憧れもあったのかな。

2024年6月12日水曜日

感染拡大の波があった

 コロナ禍を経て変わったものというと「外出時にトイレを使用した後で必ず手洗いをするようになったことぐらいだ」と友人。コロナ禍の最中は自分や家族がコロナに罹患することを恐れる気持ちが強く、人と会うことが少なくなったそうだが、以前から使用することが稀だったマスクはとっくに着用しなくなり、3蜜を意識することもなくなり、コロナ禍以前の日常に復帰したという。

 仕事ではオンラインの打ち合わせが増え、飲み会は減ったそうだが、1人でチョイ飲みすることが増え、行きつけの店が増えたそうだ。知人らとの付き合い方は変わらないが、無理に会わなくてもいい人との付き合いは減り、家族や自分の健康により注意を払うようになったと言う友人は、外出を忌避するようになったりはせず、生活の価値観に「大きな変化はない」とする。

 コロナ禍の最中は、手洗いや消毒、マスク着用などが半ば強制的に求められ、外出自粛や面会自粛、旅行自粛、会合自粛、会食自粛など自粛という体裁の政府主導の感染対策に人々は従った。その効果があってかコロナ禍は過ぎ去った気配だが、対策の何が効果があって何が効果が少なかったかーなどの検証が行われているのかは定かではない。

 コロナ禍では感染症の専門家のマスメディア露出が大幅に増えた。科学的な対策だとの名分が掲げられ、数々の対策が提言され、専門家は人々に対して対策の実行を呼びかけた。それら数々の対策が現実の社会において、どのように作用して効果を発揮したのか(あるいは、期待された効果はなかったのか)を検証して明らかにすることは、今後の感染症対策をより実効性のあるものにするために必要だろう。

 例えば、新型コロナの感染拡大には何度かのピークがあり、第9波まで観測されている。それらの感染拡大はなぜ起きたのか、そして、それらの感染拡大がなぜ終息したのか。この疑問に感染症の専門家は答えていない。ワクチンの接種者が増え、複数回のワクチン接種も行われたが、感染拡大の波はワクチン接種とどのような相関関係があったのかも明らかになっていない。

 手洗いや消毒、マスク着用に加え数々の自粛を人々が行っていたにもかかわらず、新型コロナの感染拡大の波は繰り返した。何が感染拡大を起こさせ、何が感染拡大を終息させたのか。科学的な分析が専門家からまだ示されていないのは、検証しているが結果がまとまらないのか、検証をしていないのかも明らかではない。ウイルスの変異によって感染拡大が繰り返されたとの解釈もあるが、それなら客観的に検証することは難しくはないだろう。

 新型コロナの感染拡大の波は「自然現象かもしれない」と友人。感染者が市中に増えても「天井」があって、それ以上に感染者は増えずに感染拡大は終息に向かい、市中の感染者が減れば感染拡大に転じることを繰り返すとの解釈だ。「その説では、第9波の後に第10波以降の感染拡大が起きていないことを説明できないな」と聞くと友人は「そうすると考えられるのは、ウイルスが急速に弱体化したということか? 感染拡大の波が自然現象だとしても、そのメカニズムを解明するのは専門家の責務だよ」。

2024年6月8日土曜日

独裁者の後継者

 国家における最高権力者の決め方は様々だ。米国などでは大統領を選挙で決め、日本などでは首相を議会が決めるが、議会の議員は自由選挙で選出される。だが、最高権力者が居座るために選挙に介入し、対立候補の立候補を阻んだりして結果を有利にするよう仕組んだりする国もあって、自由選挙の実態も様々だ。

 人々の自由選挙で国家権力のあり方を決めるという民主主義では、最高権力者の交代による混乱は少なく、権力承継の安定性を確保するためには有効なシステムだ。民意が反映されて最高権力者が決まるシステムが明確に構築され、そのシステムに則って最高権力者の交代が行われる。北朝鮮などのように最高権力者の選出が選挙によらず、支配層トップだけで決める国もある。

 最高権力者の交代がシステム化されている国では、最高権力者は決められた任期を務めるだけだ。そうした国では、国家の主権は人々にあることが明確化され、最高権力は主権者にあり、それを代表して行使する人を選出して権力の行使を委ねる。一方、最高権力者が居座ることを正当化するために権力が行使され、憲法や選挙制度、司法制度などを都合よく変えたりする国もある。

 権威主義の諸国でも最高権力者を選出するシステムは構築されているが、中国では習近平氏が権力を掌握し、憲法を改正して最高権力者の座に留まり続けることを可能にし、ロシアも憲法を改正してプーチン氏が最高権力者の座に留まり続けることを可能にした。これらの国では最高権力者が国家主権を有し、それに憲法も従っているように見える。

 個人が国家主権を有している国で、最高権力者の交代は最大の不安定要因となる。後継者を決定するシステムが曖昧だったり、システムが明示されていても実態は支配層トップの談合で決定したりするなら、権力継承の安定性は低い。むき出しの権力闘争が勃発する可能性があり、軍を掌握することが決め手になったりする。

 ある国家で、好きなように権力を行使できる最高権力者であったとしても人には寿命がある。最高権力者の突然の死によって権力の承継レースが始まる。そうした国での最高権力者の正当性は民意に関係なく、最高権力を掌握したことによってのみ担保されるので、承継者が決まっていなければ、後継者を争って権力闘争が始まるだろう。最高権力者の死がしばらく隠蔽されたりすると、死んだ最高権力者の警護責任者が承継レースのキーパーソンになったりすることもある。

 最高権力者が国家の主権を掌握している場合、最高権力者の死は国家主権の空白を示す。国家は永続すると思われているが、個人が主権を掌握している国家では、最高権力者の死によって主権の存在が希薄になり、人々が周辺諸国に流失したりすると国家は衰弱する。個人が主権を掌握している国家には、権力の承継という不安定性が付きまとう。

2024年6月5日水曜日

朱鷺と大山椒魚

 食用のために輸入されたチュウゴクオオサンショウウオ。逃げ出したのか放たれたのか定かではないが、やがて野生化して定着した。食用にならずにすんで日本に住み着き、子孫を残して生命のリレーを行っているのだから、静かに見守っていてもいいはずだが、日本在来種のオオサンショウウオとの交雑が問題視され、環境省はチュウゴクオオサンショウウオとその交雑種を、生態系などに被害を及ぼすとして特定外来生物に指定した。

 交雑できるほどに近い仲間である日本と中国のオオサンショウウオ。日本では特別天然記念物で絶滅危惧種、中国では重点保護野生動物で絶滅危惧種に指定され、どちらも希少な生物だ。報道によると見た目は「交雑個体や中国種は模様が大きめ、頭部のイボが少なく対になることが多い。在来種は模様が小さめ、頭部のイボが対になることはあまりない」そうだが、交雑種であっても希少なオオサンショウウオの種の保存にとって貴重だろう。

 中国では養殖のオオサンショウウオが食べられていて、高級食材になっているそうだが、日本でもかつては食べられていた。北大路魯山人は「山椒魚は珍しくて美味い。それゆえにこそ、名実ともに珍味に価する」「腹を裂き、肉を切るに従って、芬々ふんぷんたる山椒の芳香が、厨房からまたたく間に家中にひろがり、家全体が山椒の芳香につつまれてしまった」「すっぽんを品よくしたような味で、非常に美味であった。汁もまた美味かった」(青空文庫から)。なお天然記念物ではない小型のサンショウウオは唐揚げなどで現在も食べられている。

 一方、歓迎されているのが中国産のトキだ。日本産のトキは1952年に特別天然記念物に指定されたが減少は止まらず、1981年に野生のトキが捕獲されて人工飼育に移行した。だが、繁殖は成功せず個体数は減るばかりで、2003年に最後の1羽が死亡し、絶滅した。そこで日本にトキを「復活」させようと、1999年に中国産のトキを導入して人工繁殖に成功し、2008年から毎年のようにトキの放鳥が行われ、現在では野生下での繁殖が実現するなど中国トキは日本で増え始めた。

 中国トキと日本トキは、報道では遺伝子の違いは0.065%で個体差レベルとされ、日本トキのDNA型と中国トキのDNA型は共通のものがあり、両者に遺伝的な違いはなく、大陸と日本のトキが行き来して交雑していたことを示すとされる。それで中国トキを日本で人工繁殖で増やし、放鳥して野生に戻して増やすことが国策として続けられている。

 チュウゴクオオサンショウウオとその交雑種を特定外来生物に指定したのは日本のオオサンショウウオの「純血」を守るためだろうが、トキは日本で絶滅しているので「純血」を守りたくても、もう守ることはできない。それで日本産でも中国産でもトキには大して違いはないとして、中国トキの導入で、日本のかつての生態系を再現しようとすることが進められ、賞賛されるばかりで批判は封印される。

 中国トキは日本の固有種ではないが、日本における生存は歓迎される。中国トキが増えれば日本の生態系に影響を与えるだろうが、チュウゴクオオサンショウウオの存在のようには問題視されない。 ニッポニア・ニッポンという学名を持つからトキは政治的に特別扱いされるのかもしれず、おそらく潤沢な予算措置が続いていて、日本トキの保護から中国トキの繁殖へとトキに関わる人々が多く存在することもトキの「特別待遇」を支えているか。

2024年6月1日土曜日

革新と伝統

 非常に偉い人の定義とは「革新的なことをする人」で、シェーンベルクの十二音階の音楽やゴッホの絵、ピカソのキュービズムとか偉い人は「全く新しい世界をつくる人だ」とするのは加藤周一氏。ただし、初めから革新的であったのではなく、伝統的な方法を短い期間で習得し、伝統の方法の中でやることがなくなって革新的なことをやり始めるのだと言う。発言を引用する。

 偉い人というのは早く卒業をするんだ。親父までの人たちのやっていたことを卒業しないで偉くなる人はいない。必ず伝統的な方法を経るんだけれど、ただ卒業の時期が非常に早い。たいていの人は一生卒業しないだろうけど。

 たとえば音楽ではシェーンベルク。彼の《浄夜》は初期の作品ですが、後期ロマン派の手法で書いたオーケストラの曲として完璧でしょう。彼もまた非常に早く卒業して、やがて十二音階という問題に出会う。絵画でいえばピカソですね。初期のピカソを観るとだいたい16、7歳で伝統的な技法を完全に卒業してしまう。

 モンドリアンは美術学校を出る頃にはもうオランダの伝統的な描き方で、とびきり上手な風景画を描いてた。それを崩し出してたちまち、あの抽象の時期になる(「20世紀芸術家の肖像」中村真一郎との対談=『加藤周一対話集④言葉と芸術』所収。一部修正あり)。


 偉い人は割に短い時期に絵画史を通過してしまう。ゴッホは、古典的な近代絵画はオランダで卒業して、パリでは当時の典型的な印象派の絵を描き、アルルに移って独創的なことを始め、我々がよく知っているゴッホの絵を描き出した(「ドイツの言語空間と文化空間」大町陽一郎との対談=『加藤周一対話集④言葉と芸術』所収。一部修正あり)。

 革新的な独創性は、ただ才能によるのではなく、伝統の中で成長し、伝統の中には収まりきらなくなった才能が独自の表現などを求めて活動するところに現れると加藤周一氏は指摘する。言い換えれば、才能を育む伝統が希薄なところには革新的な独創性が現れることは難しい。

 西洋音楽の伝統がない社会からは西洋音楽を革新する音楽家の出現は珍しく、西洋絵画の伝統がない社会からは西洋絵画を革新する画家の出現が乏しい。革新的な表現は伝統に対する反逆であると見なされやすいが、伝統の中で成長し、伝統の中に収まりきれなくなった才能によって革新的な独創性が現れるのだろう。

2024年5月29日水曜日

出合いは才能だ

 土日に仕事などが入らず自由に時間が使えるとなると日帰りか1泊の旅に出ることがある友人は、どこに行くかを事前に決めることはなく、行き先は「その時の気分で決める」という。名所旧跡や評判の名物料理や飲食店などを事前に調べることはなく、「出たとこ勝負というか、駅についてからカンでどっちの方向に歩くか決める」そうだ。

 だから、その土地の名所旧跡に行かなかったり、名物料理を食べることを逃したりすることが珍しくない。「せっかく行った土地で、機会を逃して、残念じゃないのか?」と聞くと、「名所旧跡は駅前の観光案内板に記載されていることが多いから、気が向けば見に行く。それに名物料理より、見かけた飲食店に入って、おいしい料理に出合えると、俺が発見したという気になって嬉しい」と友人。

 ガイドブックやネットの情報を事前に調べて、何を見るか、何を食べるか、誰と合うかなどを決めて、そのスケジュール通りに動くのは「俺の旅行スタイルではない。日常を離れて自由に動くのが旅行の楽しさの一つだろう?」とし、「どんな景色と出合うか、どんな店に出合うか、どんな人に出会うかーどんな出合いをすることができるのかは、その人の才能の一つだと思うんだ」と友人。

 旅に限らず、ふと気になる本を書店で見かけて、買って読んでみると大きな感銘を受けたり、見かけて気になった飲食店に入って美味しい料理に出あったり、通りかかった映画館でポスターが気になって入って観ると、いい映画だったり、チラシで知ったシンポジウムに出かけ、この人は正しいことを言っていると共感できる人を知ったりすると、出合いは才能だと友人は実感するそうだ。

 ガイドブックに載っておらず、ネットにも情報がほとんどない事柄は多い。ガイドブックやネット情報に頼りすぎると、その人が認知する世界が狭くなる。書籍を例にとると、出版されてから10年、20年経っているような書籍は社会的に忘れられたような存在だろう。書名を知らない書籍を検索することは困難だが、書店の店内を歩いていて、ふと出合うことはある。

 書店の多くの書籍から、ふと出合った1冊を買って読んで満足することは誰にでもあることだろう。そうした出合いは自分で動いて書店に行き、何か発見はないかとアンテナを作動させていたから生じた。自分にとって価値あるものに遭遇していても、それに気づかなければ出合うことはできない。自分が動いて価値ある情報に出合い、キャッチすることを友人は「出合いは才能だ」とする。

 今では何でもスマホで検索することが行われているが、自分が気づいていないことを検索することはできない。友人は「自分で動いて、出合って何かを感じることが大事なんだ。それが自分の情報感度を磨く」と言い、「ガイドブックやネットに載っている情報は万人向けの情報であり、そうした情報で満足していると、独自の情報を見つけて蓄積することが少なくなる。出合って発見することが才能だ」と主張する。

2024年5月25日土曜日

先進性とデザイン

 1997年に発売された初代プリウスは世界初の量産ハイブリッドカーだ。「21世紀に間に合いました」のキャッチコピーで、「既存のガソリン車と同等の走行性能を保ち、約2倍の低燃費とCO2排出量半減などを実現した」(トヨタHP)ことを宣伝していた。EV普及の勢いに翳りが見え、HVが見直されているという現在、HVを実用化したプリウスの功績は大だ。

 ずんぐりとしたスタイルの初代プリウスは、低燃費を重視して空気抵抗を少なくする造形で空力性能Cd=0.30を実現したという。だが、ずんぐりして車高が高い4ドアセダンで、短いフロントノーズは前下がり、短いトランクがつく初代プリウスにはスポーティーというイメージは皆無だった。当時は車高が低くてノーズが長く、窓の上下の幅が短いスタイルがスポーティーとされていた。

 初代プリウスは、低燃費を実現するという目的を最優先にデザインされ、居住性を確保するために車高を高くした。セダンにこだわったのはセダンが主流だった当時の時代の制約だろう。スポーティーに見せることは放棄され、低燃費=CO2排出量減という先進的な目的に合理的に対応した造形だった。

 2003年に登場した2代目プリウスはセダンスタイルから、リアデッキを無くしたハッチバックに姿を変えた。「優れた空力性能とゆとりの室内空間の両立を実現」(同)したというスタイルは、前席乗員の頭部あたりをピークにルーフがなだらかに後部へ向かって下がり続けるデザインで、おそらく風洞実験から見いだされた最適なラインだったのだろう。

 SUVの流行もあって現在ではフツーになった5ドアハッチバックというスタイルを世界的に広く認知させたことには2代目プリウスの貢献があったもしれない。2009年にモデルチェンジした3代目プリウスは5ドアハッチバックというスタイルを引き継ぎ、「CD値はさらに向上して0.25となった」(同)。2015年からの4代目プリウスも5ドアハッチバックだが、「重心を下げてアグレッシブなデザインにチェンジ」「攻めのモデルチェンジ」(同)だったが、そのスタイルは好悪がはっきり分かれるものだった。

 そして2023年に登場した5代目プリウスはハッチバックスタイルを引き継いだが、各社の品揃えが増えてHVが一般化した状況を踏まえて、外観による差別化を重視して全高を少し低くした4ドアクーペに変身した。Aピラーがかなり寝ていて空力特性を重視するという方針は受け継がれたが、ずんぐりとか奇抜というイメージは払拭され、スタイリッシュとも見える造形に転換した。EVなどが増え、低燃費訴求のイメージをスタイルで表現することは重要視されなくなったか。

 歴代プリウスはデザインで先進性イメージを表現しようと模索してきた。低燃費=CO2排出量減という先進的な目的に合理的に対応した造形を続けてきたが、程度の差はあれ低燃費が珍しくなくなった現在、プリウスは低燃費以外の個性を示すことを強いられ、スポーティーさのアピールに転換した。低燃費であってもダルではなく、運転を楽しむことができてスポーティーだと示すことが現在の先進性だと主張しているようだ。プリウスのデザインの変遷には時代の色彩が反映している。

2024年5月22日水曜日

犯罪と国籍

 栃木県日光市と長野県松本市、群馬県安中市、福島県南会津町で相次いだ強盗事件で警察は、栃木県の事件の被害者のキャッシュカードで現金を引き出そうとした疑いなどでベトナム国籍の男2人を逮捕した。栃木、長野、群馬の強盗現場近くの防犯カメラに2人が使っていた車と似た車が写っていたともいう。

 狙われたのはいずれも山あいにある民家。報道によると、一連の事件は未明の時間帯に民家に侵入し、刃物で住人を脅して手足などを粘着テープで緊縛して現金などを奪う手口が似ていた。山あいなどにポツンと1軒だけある民家は強盗犯に襲われやすく、夜に押し入り、住人を刃物で脅して「金を出せ」と要求する日本人の強盗は昔から存在した。

 カンボジア国籍の5人が群馬県警に逮捕されたのは、千葉県野田市にある2か所の太陽光発電所から銅線ケーブル(合計およそ950m分、時価695万円相当)を盗んだ疑い。報道によると、栃木県内で金属を狙った窃盗事件は今年1〜3月に578件と昨年の倍以上に急増しており、被害の大半は太陽光発電施設の送電用の銅線ケーブルだという。

 茨城県や岩手県でも昨年、太陽光発電施設の銅線を狙う窃盗団のカンボジア人が逮捕されていた。太陽光発電所の銅線を狙う窃盗団が北関東を中心に増加しているとみられているが、SNSを介して犯行ごとに仲間を集めるスタイルでメンバー間の関係が希薄で捜査の支障になっているという。また、犯行を経験した人が新たな窃盗団を組織したりし、金属盗の認知件数は増加する一方だ。

 銅線が狙われるのは銅の価格が高騰しているためで、金属スクラップの買取業者に売るためだ。無許可の買取業者もいるというから、盗んだ銅線ケーブルの流通経路が確立していることもカンボジア人の窃盗団が増える要因だ。人目の少ない郊外にある太陽光発電所の銅線を盗むのは「参入障壁」が低い犯罪で、盗んだ品物の流通経路が存在するなら、ひと稼ぎしようとする人間が現れるのは不思議ではない。盗んだ品物の流通経路には日本人が関与している可能性が高い。

 犯行を促す環境があり、そうした情報に接した人が、まとまった金が手に入るとの誘惑に誘われて犯罪に手を染めてしまう現象には、おそらく外国人と日本人に大きな差はない。外国人の犯行が報じられると「外国人により日本の治安が乱される」などと感情的に反応しやすい。押し込み強盗や金属類の窃盗は日本人も行っているだろうが、ニュースとして報じられることは少ない。

 一方で、治安がいいと安心しきっている日本は外国人の犯罪プロにとっては格好の出稼ぎ先である可能性もあるし、遵法意識が低い人間は国籍を問わず、どこでも一定割合存在すると仮定すると、日本に住む外国人が増えたから外国人による犯罪も増えたと見ることができる。全てのベトナム人が押し込み強盗をするわけではないし、全てのカンボジア人が銅線の窃盗をするわけもないと冷静に考えれば、犯罪と国籍を結びつけて考える必要はない。

2024年5月18日土曜日

させていただく

  「〜〜させていただきます」との言い方が増殖しているが、「この言葉を聞くたびにイラッとする」と友人。「国会議員が質疑で、質問させていただきますなどと言っているのを見ると、国会質疑で質問するのは議員の責務であり権利だろうが。権利を行使するのに、なんで『させていただきます』なんて言うのか」と友人は怒る。

 「させていただきます」は「させてもらう」の謙譲語で、謙譲語とは「 話し手が、自分または話し手側にある所有物、動作、状態等を卑下して表現することにより、相対的に相手や話中の人に敬意を表わす語」だ。相手に対して自分などが相対的に下位にあるものとして、相手に敬意を示すために用いる言葉だ。

 友人は「議員は、ていねいで謙虚な言い方だと思っているのだろうが、いちいち相手に同意を求めているように聞こえる」とし、「質問させていただいた議員は、政府側が様々な理由をつけて『返答は控えさせていただきます』などと突っぱねると、質問させていただいた議員側は困惑するだけで、怒って見せるのが精一杯だ」と皮肉り、当然の権利の行使の意味を議員が考えていないと批判する。

 「させていただきます」は、自分が行うことを①相手側または第三者の許可を受けて行う、②そのことで恩恵を受けるという事実や気持ちのある場合に使われるーと文化庁の敬語の指針。「させていただきます」には、適切な場合と、あまり適切だとは言えない場合があるが、①②の条件を実際には満たしていなくても、満たしているかのように見立てて使う用法があり、それが「させていただきます」の使用域を広げているとする。

 相手などから許可を得ることがなく、恩恵を受けることもないのであれば「させていただきます」は、相手側に媚びている表現となる。与党議員なら政府に質問するときに、大臣連中は与党の実力者である場合が多いから、媚びてしまうのかもしれない。あるいは、与党の実力者や政府から恩恵を受けているという感覚があるから「質問させていただきます」との言葉が自然に出てくるのか。

 「選挙に立候補させていただきますとか言い出す候補者もいそうだな」と友人、続けて「当選すれば、己の名誉欲を満たしたり、利権に関与できたり、権力を振り回すことができると候補者が期待しているとすれば、立候補して当選することにより恩恵を受ける。立候補させていただきますという奴らは、己の欲や利益のためだけに動いているんだ」と断じる。

 自分の意思で行うことや自分の権利を行使する場合にも「させていただきます」を使う人は卑下して見せて、ささいなミスは見逃してもらえるようにと責任回避のための保険として使っている可能性もある。「させていただきます」が蔓延する社会は、皆が互いに媚びあっている社会なのかもしれない。

2024年5月15日水曜日

移民と経済成長

 米バイデン大統領がアジア系米国人らを招いた資金集めのイベントで、米国の「経済が成長している理由の1つは、移民を受け入れているからだ」とし、「なぜ中国の経済がひどく失速しているのか。なぜ日本は問題を抱えているのか。なぜロシアもインドもそうなのか。それは彼らが外国人嫌いで移民を望んでいないからだ」と述べたという。

 この発言は米国への移民を歓迎しているような印象を与えるが、現実の米国はメキシコ側から殺到する移民の対応に苦慮している。取り締まりを強化し、国境沿いに壁を作ったりしているが米国を目指す移民の波は続いている。殺到する移民を持て余したテキサス州などは移民に寛容なニューヨーク州などに移民をバスで送り込むなど移民受け入れをめぐって米国内で賛否の対立さえ起きている。

 バイデン氏の父方の先祖はイングランド系で、母方の先祖はアイルランドからの移民だというからバイデン氏も移民の子孫だ。だから移民を称賛するのかと早合点したくなるが、おそらく、移民の活力で米国経済は成長しているとアジア系米国人の歓心を買おうとしたリップサービスが脱線してしまったものか。ちなみにトランプ氏は父方の先祖がドイツからの移民、母親はスコットランド出身だという。

 米国の総人口3億3144万人(2020年時点)を人種別に見ると、白人が57.8%で最も多く、ヒスパニックまたはラテン系が18.7%、黒人またはアフリカ系が12.1%、アジア系が6.1%(ほかにアメリカインディアン・アラスカ原住民、混血=複数の人種など)。白人の割合は2010年には63.7%だったので10年間で6割を割り込むまでに低下した。ヒスパニックまたはラテン系は2010年には16.3%だったが2割以上も増加した。黒人の割合はほぼ横ばい、アジア系は2010年に2.8%だったから2倍以上に増えた。

 少し古いデータだが米国の総人口を出身民族別に見ると(2000年)、ドイツ15.2%、アイルランド10.8%、アフリカ系8.8%、イギリス8.7%、メキシコ6.5%、イタリア5.6%、ポーランド3.0%、フランス2.8%などとなり、白人が多いので欧州諸国が多い。ちなみに中国0.8%、フィリピン0.8%、韓国0.4%%、日本0.4%、ベトナム0.4%などとアジア系の存在感はまだ少ない。

 米国の先住民はアメリカインディアン・アラスカ原住民・ハワイ原住民など各地にいるが少数派となり、米国は移民が形成した国家で様々な出自の移民が時には摩擦を起こしながらも共存する社会となった。最近はメキシコ経由で米国へ入国しようとする中国人が増えているという。約14億人の人口を有する中国には、独裁政治の圧政を嫌って移民を決意した優秀な人材も多いだろうから、経済成長に寄与すると米国が歓迎するかというと、そうでもないようだ。

 受け入れた移民が増えると経済が成長するという相関関係は証明されていない。バイデン氏が例に挙げた中国、日本、ロシア、インドの経済停滞には、移民云々よりも個別の事情の影響が大きいだろう。移民が殺到し、受け入れ続けている欧州諸国も経済が順調に成長しているとは見えない。おそらく移民により形成された国家で伝統によるしがらみが薄い米国だから、様々な移民が競い合って活力をもたらし、経済成長につながっていると解釈したほうがいいだろう。つまり、移民で成長した米国は例外的な国家なのだ。

2024年5月11日土曜日

エバンジェリカル

 今年の選挙で勝利し、大統領に返り咲く可能性があるとされる共和党のトランプ氏は保守層に支持されているとされ、中でも影響力が強いとされるのがキリスト教プロテスタントの福音派(エバンジェリカル=Evangelical)だ。2017年に当時のトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と公式に認め、米国大使館を移したのはエバンジェリカル向けのアピールだったという。

 報道によると、エバンジェリカルは聖書には神の言葉が書かれていると信じる人々で、米国では人口の約25%(うち白人が8割)を占め、共和党支持が多く、政界に大きな影響力を有する。聖書に書いてあることが判断基準になるので、▽進化論を否定▽人工妊娠中絶や同性婚の禁止▽キリスト再臨と世界の終末を信じるーなどの主張を続けている。

 聖書に書かれていることを信じるので、神はアブラハムと子孫に土地を与えると約束していると信じ、「神はイスラエルをユダヤ人に与えた」とイスラエルを擁護・支援する姿勢が強く、神から祝福されるためにはユダヤ人を祝福し、イスラエルを支持すべきだとする。さらに、イスラエルが関わる戦争は「最後の審判」につながる戦争であり、キリストの再臨につながると解釈する人々もあるという。

 熱心なイスラム教徒がコーランには神の言葉が書かれていると信じるのと同様、エバンジェリカルは聖書に神の言葉が書かれていると信じる。何を信じようとそれは個人の自由だが、問題は、現実世界を彼らが信じる聖典に書かれている言葉に沿うように解釈し、作り替えようとすることだ。イスラエルを支持することが神の意思に沿うことだと信じる米国のエバンジェリカルの圧力で米国政府は中東における調停者の役割を放棄した。

 聖書には神が人間(アダムとイブ)を創造したと書かれており、聖書に書かれていることが真実だと信じるエバンジェリカルは進化論を否定する。生命の進化を探求し、知見を積み上げてきた科学の否定であるのだが、エバンジェリカルが問題にするのは「事実」でも「合理性」でもなく、宗教的「正しさ」である。その宗教的「正しさ」は信じるという行為によって支えられる。

 SNSによる情報発信を世界中で個人が行うことができるようになり、事実に反する情報や偏った情報、世論工作のための歪められた情報などが大量に流れる状況となった。そうした情報はフェイクとされるが、エバンジェリカルのように、信じることによる価値判断が優先する人々にとってフェイクとは、彼らの信条に反する情報や言説のことだろう。

 問題は、キリスト教の神が信者の心の中にだけ存在して現実世界に不在であるように見える中で、エバンジェリカルの思考や行為の「正しさ」は彼らの信仰心によってのみ担保され、客観性が不在であることだ。知性や理性ではなく、信じることによって支えられる宗教的な「正しさ」を振り回す人々と、どのような対話が成立するのか不明だ。対話や妥協が成立しなければ暴力に解決を委ねるしかない状況に落ち込むことは現在のイスラエルとパレスチナが示している。

2024年5月8日水曜日

さくらを詠む

 釧路地方気象台が5月3日にエゾヤマザクラの開花を宣言した。1月5日に沖縄県宮古島でヒカンザクラの開花が観測され、3月29日の東京など3月下旬から全国各地でソメイヨシノの開花宣言が相次ぎ、桜前線は北上、4カ月かけて日本列島を縦断、釧路が気象庁の全国58観測地点の最後の開花宣言だった。

 桜の開花宣言を全国各地で人々は待ち望んでいるようで、テレビのニュース番組などで大きく取り上げられる。開花宣言から満開宣言まで毎年の重要な季節ネタとして定着し、開花した桜を見に訪れた人々や桜の木の下で飲食を楽しむ人々の様子などは毎年必ず報じられる。

 桜を愛でる風習の歴史は長い。多くの歌人が桜を題材にしたり、桜に伴う風情や感慨などを詠んできた。例えば、「百人一首」を見ると次のような和歌がある。

 久かたのひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ(紀友則)

 いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな(伊勢大輔)

 諸共に哀れと思へ山桜花より外に知る人もなし(大僧正行尊)

 高砂の尾上の桜さきにけり山の霞たたずもあらなん(前中納言匡房)

 花さそふあらしの庭の雪ならでふり行くものは我身なりけり(入道前太政大臣)


 平安時代にも開花を待ち望んで人々はソワソワしていたのか、伊勢物語の桜を詠んだ2首が知られている。

 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(在原業平)

 散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき

 小野小町の次の歌も知られている。

 花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに

 平安末期の武将の源頼政は朝廷警固に当たっているとき、ヌエを退治したとの伝説があるが、歌人としても知られ、山桜を詠んだ歌が知られている。

 深山木のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり

 旅と歌に生きたという西行法師は桜の歌を多く詠んだというが、最も知られているのは次の歌だろう。

 願わくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃


  鎌倉時代の源実朝も桜を詠んでいる(金槐和歌集から)。

 桜花さける山路や遠からむ過ぎがてにのみ春の暮れぬる

 み吉野の山したかげの桜花咲きてたてると風に知らすな

 桜花咲き散る見れば山里にわれぞおほくの春は経にける

 木のもとにやどりはすべし桜花ちらまくをしみ旅ならなくに

 さくら花さくと見しまに散りにけり夢かうつつか春の山風

 行く水に風のふきいるる桜花流れて消えぬ泡かとぞ見る

 空蝉の世は夢なれや桜花咲きては散りぬあはれいつまで


  桜を詠んだ歌はないともいう石川啄木だが、花を詠んだ歌はある。

 花咲かば楽しからむと思ひしに楽しくもなし花は咲けども

 花散れば先づ人さきに白の服着て家出づる我にてありしか

 花びらや地にゆくまでの瞬きに閉ぢずもがもか吾霊の窓

2024年5月4日土曜日

カスハラが問題化

 カスハラ(カスタマー・ハラスメント)が社会問題としてマスメディアに取り上げられることが増え、JR東日本は乗客によるカスハラが行われた場合、客への対応を「いたしません」と対応方針を公表した。社員への身体的・精神的な攻撃や土下座の要求、社員の個人情報のSNS投稿などの行為には対応しないとし、社員を「守ることも、継続的に安全で質の高いサービスを提供していくために不可欠」と説明した。

 UAゼンセンが行った調査では、過去2年以内にカスハラ被害に遭った人は46.8%で、カスハラの実態は「暴言」39.8%、「威嚇・脅迫」14.7%、「何回も同じ内容を繰り返すクレーム」13.8%、「長時間拘束」11.1%など。カスハラのきっかけは「客の不満のはけ口や嫌がらせ」26.7%、「接客やサービス提供のミス」19.3%、「消費者の勘違い」15.1%など。

 セクシュアル・ハラスメントやパワー・ハラスメントを行った人物に対する批判や糾弾が行われることはフツーとなり、そうした言動を暴かれた高位にある人物や著名人が謝罪に追い込まれることも珍しくなくなった。そして、店舗や企業に対する客の言動にハラスメントに該当するものがあり、カスハラだとの認識が広がっている。「お客様は神様」だとの幻影は消えつつあるようだ。

 ハラスメントとは「嫌がらせ、いじめ、苦しめることなどの迷惑行為」で、優越的な立場にある人物による周囲の人物に対する不適当な言動が該当する。対等な立場にある人物間では、不適当な言動はハラスメントではなく単なる喧嘩や諍いだ。カスハラは客が自分の立場を優位にあると信じ、それに相応した扱いを受けることができない時に感情的な言動を行ってしまうことで生じる現象だ。

 一方、ハラスメントを受けたと判断するのは人間であり、客が冷静に商品やサービスに対する苦情や不満を言ったつもりでも、つい声が大きくなったりすると、言われた店員や社員が「ハラスメント攻撃を受けている」と感じることもあるだろう。言葉だけのハラスメントの判断は個人が行うことであり、状況などによって判断が揺れ動いたりし、「これはハラスメントだ」「いや、苦情を言っているだけだ」などと水掛け論になったりする。

 感情的になりやすい人や粗暴な言動が身についた人に対応した店員や社員が、被害者意識に敏感だったりすると、すぐにカスハラ騒動に発展するだろう。カスハラは否定されるべきものとの認識が広がると、「お客様の言うことは尊重し、逆らってはいけない」などという接客マナーは捨てられ、客も店員も社員も対等な人間であるとの意識が広がっていくかもしれない。さらに、地位や立場に関係なく誰もが対等な人間であるとの意識の広がりに繋がっていくなら、風通しのいい日本社会への変化に寄与するかな。

 ※法改正により、職場におけるパワーハラスメント防止のために必要な措置を講じることが雇用主の義務となり、また、顧客等からの暴行、脅迫、暴言、不当な要求などの著しい迷惑行為(カスタマー・ハラスメント)に関し、事業主は適切に対応する体制整備や被害防止の取り組みなどが求められていたこともあってカスハラ対策を強化することが急務となった。

 厚労省は、顧客等からのクレーム・苦情は「商品・サービスや接客態度・システム等に対して不平・不満を訴えるもので、それ自体が問題とはいえず、業務改善や新たな商品・サービス開発につながる」ものだが、「過剰な要求を行ったり、商品やサービスに不当な言いがかりをつけるもの」は従業員に「過度に精神的ストレスを感じさせると共に、通常の業務に支障が出るケースも見られ」、企業は「不当・悪質なクレームに対して従業員を守る対応が求められる」として、カスハラ対策の企業マニュアルを2022年に公開した。

2024年5月1日水曜日

主人公の暴力

 アクション映画では主人公が容赦なくバッタバッタと「敵」を倒すシーンが最高の見せ場となり、主人公が「敵」を殺しまくることも珍しくない。降参した相手に情けをかけて許してやろうとした主人公が、隙をついた相手に突如反撃され、危機一髪のところで相手を倒してトドメを刺すという設定もよくある。

 日本映画では時代劇や任侠映画で主人公が群がる「敵」を次々に倒すシーンが最高の見せ場となり、非道な行いを重ねる「敵」に我慢に我慢を重ねた主人公の怒りがついに爆発し、主人公の圧倒的な強さが解禁されて「敵」をなぎ倒す。その主人公がヒーローとして留まることはなく、さすらい者として何処かに去っていくとの設定も多い。

 米国映画などでは、人々を襲う悪の集団とか地球を侵略する異星人とか「敵」は絶対悪として最初から設定され、そうした絶対悪を倒すのは無条件の正義と肯定され、「敵」に対する主人公の実力行使(=暴力)がクライマックスの見せ場となる。絶対悪の「敵」の非道さに主人公が我慢を重ねるのではなく、闘いながら何度も窮地に追い込まれ、何とか脱出して闘い続けるというストーリーが多い。

 時代劇や任侠映画では主人公に敵対する相手を極悪非道の人物であると描くことがストーリー展開の主軸となるが、米国のアクション映画やSF映画などでは主人公が絶対悪の相手と闘い続けることが主軸となり、人間であっても絶対悪の人物像はモンスター的人物だとの描写になり、観客は絶対悪の登場人物に感情移入せず、絶対悪の相手が主人公に倒されても喝采するだけだ。

 観客が映画の主人公の暴力に共感し、主人公の暴力を肯定するのは、「敵」に対する主人公の容赦ない実力行使=暴力を喜ぶようにストーリー展開で誘導されるからだ。加えて、観客は主人公の実力行使=暴力が存分に発揮されるクライマックスシーンを想定して観に来ており、主人公が容赦なく「敵」を倒すことを期待している。その期待が満たされて観客は喜ぶ。

 「悪を憎んで人を憎まず」という言葉があり、昔のTVドラマ「月光仮面」では主人公は悪人の「敵」を懲らしめるだけで殺すことはなかったという。原作者の川内康範氏の「憎むな、殺すな、赦しましょう」という言葉は函館市にある月光仮面の像の台座に刻まれている。悪人だからと問答無用で殺してもいいという発想が映画ではフツーになった現在、「憎むな、殺すな、赦しましょう」の精神は忘れられている。

 主人公に敵対する相手を好敵手(ライバル)として描くことは現在でもアニメなどではフツーだ(悪人だから殺してもいいとは子供に見せられないか)。好敵手ならば共存は可能だが、絶対悪の相手とは共存は難しく、妥協の余地はないだろうから、映画では主人公が「敵」を容赦なく倒す。娯楽として観客は一時の高揚感を得ることができて楽しむのだろうが、絶対悪と相手を設定した途端に相手を殺すことが許容される。それが観客の現実に対する世界観に影響を与えているのでなければいいが。

2024年4月24日水曜日

国家を分類

 現在の世界では、欧米諸国などの民主主義国と中国やロシアなどの権威主義国の対立が先鋭化し、政治や経済における対立にとどまらず、両勢力の代理戦争が世界各地で始まった。この対立は民主主義体制と権威主義体制(個人や組織が権力を独占的に掌握する体制)の勢力争いと解釈されたりする。

 20世紀には、欧米諸国などの民主主義国とソ連や中国などの共産主義国の対立が先鋭化し、世界各地で両勢力の代理戦争が起きた。この対立は冷戦と呼ばれ、両陣営が交戦するならば核兵器が使用され、世界は大規模な破壊により壊滅的な損害を被ると危惧された。だが、両陣営は直接には政治的な対立を続けるにとどまり、冷戦は両陣営が世界を分割支配する仕組みであると見ることもできた。

 現在の民主主義国と権威主義国の対立は、価値観をめぐる対立であると解釈されるが、今回も両陣営が世界を分割支配する争いであるかもしれない。20世紀と異なるのは、第一に中国の経済大国化により欧米諸国の経済的優位が失われ、第二に欧米諸国などが掲げる民主主義などの理念が普遍的とは必ずしも見られなくなり、第三に中国の世界における影響力が増大したーなどだ。

 現在の両陣営の対立が、直接の交戦を回避するとの暗黙の了解に基づくものならば世界の分割支配を目指す動きと見ることができる。第三次世界大戦は避けられそうだと安心したいが、冷戦期と同様に両陣営の代理戦争が世界各地で頻発する可能性がある。また、遅く大国化した中国が領土拡大の誘惑に逆らえずに直接の武力行使に動くならば、両陣営の対立が先鋭化するだろう。

 国家の分類は様々ある。英仏など西欧諸国が世界で植民地獲得に励んでいた頃、西欧は世界を文明国・未開国・野蛮国に分け、野蛮国を文明国である欧州諸国が植民地支配することは正当とし、中国などの未開国にも(西欧)文明の成果を及ぼすとの大義名分を掲げ植民地支配しようとした。西洋文明が現在も世界的に先進的な文明と見なされていることが西欧諸国の国際的な影響力を支えている。

 先進国と発展途上国との分類もある。経済発展や経済力で国家を評価するのだが、先進国は欧米諸国と日本だけという構図が中国の台頭によって崩れた。中国には世界に誇る独自の価値観が希薄で、欧米の民主主義に対抗できる価値観を提示することはできていないが、経済成長に伴う圧倒的な資金力によって影響力を拡大している(債務のワナとの指摘も絶えないが)。

 富裕国と貧困国との分け方もあり、政府の統治機能が維持されている国と破綻国家という分け方もある。英語が通じる国と英語が通じない国との分け方もあるが、これは米英の影響力拡大に寄与する分類法だ。かつて文明国と野蛮国などに世界の国々を分けたのは欧州であり、分類して整理するという自然科学の手法を国家にも適用した結果だった。欧州は世界を分類して整理するという方法論で影響力を保っている。

2024年4月20日土曜日

大使館を侵害

 エクアドルの首都キトにあるメキシコ大使館に4月5日、エクアドルの警官隊が強行突入し、エクアドルのホルへ・グラス元副大統領を逮捕・拘束した。同氏は汚職疑惑で逮捕状が出されていて亡命を求めて同大使館に逃げ込んでいた。暴徒となったデモ隊が不可侵とされる大使館を襲った事例は各国でもあるが、警察という公権力が大使館に踏み込んだのは異例だ。

 エクアドル大統領府は「エクアドルは主権国家であり、いかなる犯罪者も野放しにはしない」と主張したが、メキシコは猛反発し、「元副大統領は迫害と嫌がらせを受け、難民として亡命手続き中だった」「これは明白な国際法違反でメキシコの主権に対する侵害だ」と主張、メキシコはエクアドルと断交し、エクアドルを国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。

 グラス元副大統領は昨年12月からメキシコ大使館に滞在しており、5日に亡命が許可された。グラス元副大統領は2017年にブラジルの建設大手が絡んだ汚職事件に関連して1350万ドル(約20億円)の賄賂を受け取ったとして禁錮6年の有罪判決を受け、釈放後の2022年に別の汚職疑惑で逮捕状が発行されていたという。

 犯罪組織が跋扈し、暴力事件や刑務所での暴動が頻発するなど治安が悪化しているエクアドルでは、学校は閉鎖されて授業はオンラインで行われ、2023年の大統領選では政府の汚職や組織犯罪を追及してきた候補者が銃撃されて死亡した。報道によると、豊富な資金力を持つメキシコやコロンビアなどの麻薬密売組織がエクアドルの組織と連携し、軍や警察を買収して各地の刑務所を麻薬取引の拠点にし、犯罪組織は各地の商業施設や公的機関、病院や学校に対しても「みかじめ料」を払うよう要求するという。

 メキシコも麻薬密売組織の活動が活発で、外務省HPは、複数の対立する武装麻薬組織(麻薬カルテル)や地元密着の犯罪グループによる「各組織間の銃撃戦や、政府・治安機関に対する襲撃等が頻繁に発生」し、活動地域は「主として北部国境地域や太平洋側の主要港湾、米国につながる内陸の主要幹線道路沿いの地域など」で、「麻薬の密造や密輸、密売等の麻薬関連犯罪や人身売買、誘拐、恐喝」に加え、みかじめ料(通行料や場所代など)の要求等と犯罪活動の幅は広く、大都市や観光地でも活動していると注意を呼びかける。

 大使館といえば4月1日、シリアの首都ダマスカスにあるイラン大使館に隣接する領事部がイスラエルに攻撃され、現地司令官ら13人が死亡したという。イランの最高指導者ハメネイ師は「わが本土への攻撃と同じだ」「邪悪な政権は過ちを犯した。罰せられなければならない」と報復を宣言、イランは14日、イスラエルへ多数のドローンとミサイルによる攻撃を行った。

 ジュネーブ条約第22条で大使館は不可侵とされている。不可侵とは、侵害( 他人の権利や利益を侵し損害を与えること)をしてはならないということ。エクアドルもイスラエルもジュネーブ条約を締結しているが、他国の大使館を公然と侵害した。国際的な批判が限定的だと見えるのは、国際秩序が揺らいでいるからか、国際秩序が建前に過ぎないことを各国が承知しているからか。両国の行為が放置されたなら、同様の行為に歯止めはなくなるだろう。

2024年4月17日水曜日

新型コロナと日常

  新型コロナウイルスの扱いが昨年5月から5類感染症に変更され、「通常」の病気扱いとなった。政府が感染者や濃厚接触者に外出自粛を求めることはなくなり、感染対策は個人の判断に委ねられ、感染の疑いがある人は特定の病院ではなく多くの病院での受診が可能になった(医療費は自己負担)。ワクチンの無料接種は終了し、自己負担となった。

 街中ではマスク着用者はいるものの、マスクを着用しない人が大幅に増え、飲食店などには賑わいが戻り、長い自粛期間の閉塞感の反動か国内での旅行需要が活発となり、海外からの観光客も加えて各地の観光名所は大混雑となっている。海外クルーズ船の日本寄港も新型コロナ流行以前に戻り、すっかり新型コロナ前の日常を回復した様相だ。

 新型コロナの感染は続いているが、インフルエンザの流行状況のほうが大きく報じられる。厚労省は毎週、新型コロナの発生状況を公表していて、最新の状況(4月1~ 7日)は、1医療機関当たり平均患者数は4.26人で9週連続で減少だ。10人を超えたのは秋田県で、青森県、宮城県、秋田県が8人台と北東北で感染者が多い。一方、東京都、広島県、山口県、愛媛県、高知県、福岡県、熊本県が2人台と西日本で感染者が少ない県が目立つ。

 ただし、この感染状況は医療機関を受診した人数なので、現在は症状があっても受診しない人が少なからず存在する可能性があり、実際の感染状況をどれだけ正確に反映しているのかは不明で、大まかな傾向を表すものだ。なお、最新(4月1~ 7日)の入院患者数は1790人で、60歳以上が8割以上を占めるが、ICU入室や人工呼吸器の利用は全体の7%弱。

 新型コロナの流行で世界でも日本でも多数の死者を出した。未知の病気に怯えた当時の人々は世界各国で政府の厳しい対策に従ったが、経済活動が縮小し、多くの人々が離職を余儀なくされた。外出自粛が呼びかけられる中で医療従事者や介護福祉士、保育士、教職員、物流業者、清掃員、小売などの販売員、公共交通や電気・水道など生活インフラの従業員、ゴミ収集作業者、農業・漁業などの従事者、金融機関の職員などエッセンシャルワーカーとされる人々が社会を支えていると見直され、外出自粛の中で業務に精励する人々への賞賛の声さえ上がった。

 その一方、需要が激減したバスやタクシー、ホテルなど宿泊関連では人員削減が広がり、新型コロナ前の日常に戻ってみると運転手不足や人員募集難などが顕在化し、新型コロナ後遺症は尾を引いている。真っ先に人員整理の対象になった人々が、新型コロナ前の日常に戻ったからといって、以前の職業に戻ることを歓迎する気にはならないだろう。新型コロナは人々の心情を変化させ、社会の変化を促した。

 新型コロナは世界で、日常が実は不安定な状態にあることを可視化した。今日と同じ穏やかな明日があることを当然だと人々は思っていただろうが、新型コロナは日常がいつでも非日常に転換することを示した。日本などの人々は地震により穏やかな日常が簡単に失われることを知っているだろうが、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻など地域紛争によっても膨大な人々が穏やかな日常から非日常に放り出された。新型コロナは、平穏な世界でも日常と非日常が紙一重であることを知らしめた。

2024年4月13日土曜日

菩提を弔う

 菩提を弔うとは「死者の冥福を祈って供養を行う」ことだ(菩提は「煩悩を絶って得た無上の悟りの境地。仏果を得て極楽往生すること」で、菩提心は「仏道に入り、真の道を求める心。仏心、情け心」)。冥福は「死後の幸福。後生」で、後生は「仏教でいう死後に生まれる世界。来世」だ。弔うとは「人の死を悲しみ悼む。死者の霊を慰めるために法事を営む」。

 供養とは「仏前や死者の霊前に有形・無形の物を備え、加護を願い冥福を祈るための祭事を行うこと」で、法要を行ったり、香華や飲食などの供物を捧げたり、仏壇に花を供え、線香をあげて手を合わせたり、お墓参りすることなどが具体的な行動となる。これらの言葉は仏教に由来するものだが、もう日本では宗教用語としてではなく、一般化した風習として受け継がれているようだ。

 死後に来世があると考えないのなら、死者の冥福を祈る行為は無意味だと考えるだろうし、さまざまな供養を行うことも無意味になる。死後に来世があると考えないなら仏教の全ての行事が無意味と見えようが、そう考える人の多くもおそらく、死者を送る日本の風習だと思って供養を行い、菩提を弔う行事に参加している。そこでは供養の様式よりも死者を弔う気持ちが優先する。

 葬式や法要の様式は仏教でも宗派によって異なる。様式は人間が考え、受け継がれてきたものだから宗派が異なれば異なる儀式が発案され、それがその流派の正式な作法となった。葬儀や法要の様式はブッダが決めたものではなく、国により宗派により異なる形態となる。共通するのは葬儀や法要は、生きている人々が亡くなった人を弔うためにある行事であることだ。

 全ての人間に死は訪れる。おそらく古代から人類は、死による親しい人との別れを特別なこととして、さまざまな弔い方を行ってきたのだろう。死という概念を理解できなかったかもしれない古代の人々は、親しかった人との別れの悲しみを儀式化することにより集落など共同体で別離の悲しみを共有し、それが儀式化されて受け継がれた。

 死者を弔うことは人類共通の行動だろうが、世界では多くの国や宗教があり、それぞれに死者との別れが儀式化され、それぞれに葬儀や法要の様式がある。葬儀や法要の様式を共有することで人々は、死者に対する供養を行い、死者に対する敬愛や尊敬などの気持ちを示したと互いに確認もできる。

 死後の世界や来世を信じない人が増えた現在でも世界で葬儀や法要が、宗教など以前から受け継がれてきた様式に則って行われることが多いのは、それ以外に死者を弔う一般化した様式がないからだろう。無神論者のための葬儀や法要の様式は存在しないが、死者を弔うことに関心がもっと薄れたなら直葬などが増えるかもしれない。

2024年4月10日水曜日

現実離れの施策

 新函館北斗駅から函館駅への北海道新幹線の乗り入れは、2030年の北海道新幹線の札幌への延伸開業と同時に実現することを目指しているという。すると、2030年の北海道新幹線の札幌への延伸開業の前に、新函館北斗駅〜函館駅間の三線軌条化の工事などが行われ、新函館北斗駅〜函館駅間を在来線の列車が走行することはできない。

 三線軌条化とは、在来線は狭軌(1067mm)であり、新幹線は標準軌(1435m m)であるため、狭軌の2本のレールの外側にレールを1本加えて、在来線も新幹線も走行できるようにしたものだ。新幹線も貨物列車も走行する青函トンネルなどで実際に存在している。

 新函館北斗駅〜函館駅間は現在、狭軌で特急「北斗」や普通列車、貨物列車が走っているが、新幹線を走らせるためには全面的な工事が必要になる。現在の枕木は狭軌に対応したものなので、標準軌のレールを加えるには長い枕木に交換する必要があり、場所によっては地盤の強化も必要になるだろう。現在の狭軌の外に1本のレールをただ設置すればいいいという安易な発想は通用しない。

 これは新函館北斗駅〜函館駅間を全面的に作り直す工事になり、相応の期間を要する。その工事期間中は、札幌駅から来た特急「北斗」は新函館北斗駅止まりとなり、函館に向かう乗客は車かバスに乗り換えることを強いられ、札幌などに向かう乗客は函館から新函館北斗駅に車かバスで向かうことを強いられる。路線バスが函館駅と新函館北斗駅を結んでいるが、かなり時間を要することに加え、本数が少ないのでバスは相当の混み具合になり、多くの乗客は立ったまま我慢を強いられよう。

 道内の各地から来た貨物列車は大沼駅〜七飯駅を経由して五稜郭駅に着き、そこから海峡線を経由して本州に向かう。新函館北斗駅〜函館駅間には七飯駅と五稜郭駅があり、工事期間中は貨物列車の運行が止まるだろう。北海道新幹線の札幌延伸開業に伴って長万部駅以南の並行在来線の存続が議論されているが、道内から本州への貨物列車の運行を確保することが重要視され、貨物専用線としての存続が有力視されている。

 だが、新函館北斗駅から新幹線を函館駅に走らせるための工事で、貨物列車が運行できないとすれば長万部以南の並行在来線の存続議論に影響を与える可能性がある。加えて、道内各地からの貨物列車は大量の野菜などを本州へ運んでいるのであり、函館駅への新幹線乗り入れ工事のために貨物列車の運行がストップしたなら、道内各地の生産者から函館市は厳しく批判される

 新幹線の函館駅乗り入れは、特急「北斗」を利用する人々に過大な迷惑をかけ、貨物列車の運行に支障をきたす愚かな施策といえる。こうした施策のためにコンサル会社に大金を払って調査させたり、市役所職員を動員して案を具体化させたりするのは壮大な浪費でしかない。北海道新幹線をPRして観光客を増やしたいのなら、北東北各県と協力して「北東北〜道南」観光キャンペーンを首都圏で頻繁に展開するほうが効果があるし、すぐにでも実行できよう。