2019年8月31日土曜日

消えたシールズ

 SEALDs(シールズ=自由と民主主義のための学生緊急行動)という学生団体がかつて、国会前のデモなどの活動を行い、一部のマスコミに大きくもてはやされた。若者が政治参加の声を上げ、動き出したという賛美だったが、シールズは2016年8月に解散した。

 シールズが残したものは何か、ぼやけている。どうやら解散とともに忘れられて終わりということらしい。一部のマスコミに祭り上げられ、世論を誘導するという利用価値がなくなって捨てられただけと見える。「反対するだけ」という野党側の政治運動に少し変わった色付けをしてみせた存在だったともいえる。

 現代では全てが消費される対象になり、多くは消費された後に捨てられて見向きもされない。シールズという運動も消費されて捨てられたと解釈すべきだろう。政治運動が消費されて捨てられたということは、その政治運動は残すに値する何ものも提示していなかったことでもある。

 政治運動だから、影響力が減退して「賞味期限」が過ぎれば捨てられるのは当然だろうが、少しの引っかき傷も残せず消えただけという運動は、潔いともいえるが、運動として無力だった。見方を変えると、一部のマスコミなどが賛美したからこそ、無力でも一時は勢いを得た。

 無力だったとしても、学生に政治運動への自由な参加の機会を広げたことはシールズの功績だろう。また、中央の執行部は弱体なままで分散型の組織を広げるという新しい組織像を提示したことも興味深い実験だったが、求心力と遠心力が釣り合ってこそ運動する組織は形を保つ。

 自由な連合というのは、運動の理想かもしれない。何かの目的を共有する個人が自由に集まって力を合わせて運動し、目的を達したり、運動の意味や意義が薄れたなら個人は散っていく……そんな運動が成立するには、自立した個人が集まることがカギとなる。自立した個人とは、1人で闘うことができる人のことだ。物語でいえば『水滸伝』の世界だ。

 シールズは、自由な連合になることができた可能性はあったのか。結果から判断すると、一部のマスコミにもてはやされ、利用されただけだった。「人は無力だから群れるのではなく、群れるから無力になる」(by竹中労)という言葉を思い出すなら、シールズが無力だった理由が見える。

2019年8月28日水曜日

集団が持つ承認要求

 各国で、様々なアイデンティティーを持つ人々が、社会から適切に尊厳を持って認識されていないという主張を強めている。それが民主主義の制度を通して政治に影響を与えており、ポピュリスト政治を助長しているとの見方がある。

 社会から適切に尊厳を持って認識されていないという思いが高まると、社会に正当に扱われていない被害者であると自分らを位置づけ、被害者であるから自分らの権利要求を社会は受け入れるべきだと自分らの主張を正当化するという循環。

 人々による様々なアイデンティティーの認識要求は、多文化主義など相互の尊重や差異の承認、自己抑制に基づいて共存を目指す方向で社会は受け入れるしかない。だが問題は、そうした様々なアイデンティティーの認識要求が政治的な主張となって現れる場合だ。

 政治的な主張には利害対立がつきまとう。ある人々の主張が優先されることが、他の人々の主張の制限や不利益になることは珍しくない。様々なアイデンティティーの認識要求が政治的な主張に変換される時、それは様々なアイデンティティーの人々の間の利害対立ともなる。

 個人が持つ「他者から認められたい」という感情が承認欲求で、そうした感情は自分は①もっと高く評価されたい、②不当に低く評価されている、のどちらかに基づく。様々なアイデンティティーを持つ人々による認識要求は、ある集団の承認要求とも解釈できる。

 様々なアイデンティティーを持つ人々による承認要求は、社会から我々は不当な扱いを受けているとの感情の共有によって支えられる。そうした人々の承認要求が解消されるために具体的に何が必要なのかを示す要求が政治的な主張になると、多くの雑多な政治的主張の中に埋没し、特別な主張とは見られなくなる。

 集団による承認要求は、その要求に同調する姿勢を示すことで集票が見込めるので政治家は無視できない。言葉だけなら政治家は、いくらでも様々な集団の承認要求を讃え、支持するだろう。しかし、ある集団の承認要求を政治家が完全に代行することは稀だから、集団の承認要求が満たされることはない。

2019年8月24日土曜日

普通選挙を求める人々

 香港には議会である立法会(定数70)があり、首相に相当する香港行政長官がいて、ともに選挙で選ばれる。だが、直接選挙で選出される議員は立法会の議員の半数だけであり、当選した議員も反中国的な言動で議員資格を剥奪されたりするので、親中国派の議員が大部分となっている。

 行政長官は、定数1200人の選挙委員会の投票で選ばれる。立候補するには100人以上の選挙委員会の委員の推薦が必要で、委員は事実上、親中国派のみがなるので、行政長官には親中国派か中国に逆らわない人物のみしか選ばれない。

 中国への返還後、香港の多くの人々が行政長官や立法会の議員を普通選挙で選びたいと運動してきた。香港が植民地であった頃は長い間、民主主義は存在しなかったが、中国への返還の2年前に英国は香港の議会の民選化を行った。それを返還後に中国は制限した。

 植民地を放棄するときに、争いのタネをまいて去るのが英国だ。普通選挙により構成される議会は民主主義の要だが、中国のような1党独裁国家において、自由な普通選挙による議会は排除される。英国は、香港を中国に返還する間際に香港の人々に普通選挙を「プレゼント」し、民主主義の擁護者を装う。

 香港の人々は普通選挙を、与えられるのではなく、自らの手で掴もうと運動を続けている。英国は高みの見物だが、中国は香港に普通選挙を許すことはできない。香港は中国の一部だという主張なのだから、香港に普通選挙を許せば中国全土でも普通選挙を要求する動きが高まる。

 中国の1党独裁は民意を統制・抑圧することで成り立っている。体制への翼賛しか許さない社会では、体制を賛美するか体制に従順になることだけが民意とされる。だが、普通選挙を要求するという民意が香港で示され続け、中国は香港の民意を統制・抑圧できていない。

 民意が行政には反映されていない社会に、人々が我慢できなくなって街頭に出て意思表示を始めた。香港の主権を有するのは香港人だと人々は主張し、香港の主権を有するのは中国政府だと中国は主張する。しかし、中国は香港の人々を説得する言葉を持たず、強権による抑圧しか方策がないように見える。中国も、追い込まれている。

2019年8月21日水曜日

中国の核武装

 社会に存在する具体的な問題をめぐる議論は、大きく3つに分かれる。第一は、政治的な立場などに基づく主張で、社会情勢や世界情勢が大きく変わると陳腐化する。第二は、原則的に考え、歴史的な批判にも耐える普遍的な論であることを意識する。第三は、弱者または強者に肩入れする感情論。

 例えば、半世紀ほど前に日本で人々が原水爆の禁止を求める署名運動を始め、原水爆禁止運動となって広がり、世界大会の開催まで高揚したが、やがて分裂した。安保を巡る対立で保守系が離反し、残った革新陣営内で、ソ連の核実験を認めるかどうかで対立が先鋭化し、分裂した。

 原水爆が非人道的な兵器であり、人類に対して2度と使われてはならないだろうから、原水爆の使用禁止論には普遍性があろうが、核兵器保有国が核廃絶に動く可能性は非常に小さく、逆に核兵器を保有しようと欲する国は少なくない。日本における原水爆禁止運動には普遍的な意義があったが、政治的には無力だった。

 中国の核兵器保有に対する態度も分かれた。半世紀ほど前に中国は自国の核兵器を、ソ連と米国の核兵器に対する対抗手段だと主張し、「核兵器を絶対最初に使わない。核兵器で攻撃されない限り中国の核兵器を使うことはない」とした(引用は全て『過客問答』加藤周一著から)。

 中国の主張に対して日本では、「あらゆる国の核兵器に反対で、核兵器反対はわれわれの悲願だ」と知識人は言い、サルトルは「米国とソ連が強力な核兵器を持っていて、しかもそれを中国国境に配置している時に、中国が核兵器を持つことがいけないとどうして言えるのか」と言った。

 米国の核兵器は悪だがソ連の核兵器は許容されるとか、米ソの核兵器は悪だが中国の核兵器は許容されるなどという論は、政治的な主張だ。政治的な主張だったから、世界情勢が大きく変化した現在、中国の核兵器を容認する主張に共感する人は世界に多くはないだろう。とはいえ、核兵器廃絶は人類の悲願だなどと情に訴えたところで現実を変えることはできなかった。

 原水爆禁止運動が広がったのは、各国が核兵器を実戦で使用することによる人類滅亡の危機感に現実味があったのだろう。だが、この半世紀に米国もソ連も中国も戦争を行ったが、核兵器を使用しなかった。核兵器は現実には使用できない兵器だった理由は様々だろうが、原水爆禁止運動の成果でないことは確かだ。

 核兵器は、人類に対する脅威であるとともに、保有する各国にとっては極めて有効な武器である。政治的な論で各国に核兵器を放棄させることはできまいし、人類の生存を脅かす大量殺戮兵器であると各国に放棄を説得することもできないのが現実だ。核兵器を国家が保有するデメリットが現実には希薄であることを踏まえた核兵器廃絶論はまだ現れてはいない。

2019年8月17日土曜日

北海道の公共交通

 JR北海道は2016年に同社単独では「維持困難」とする10路線13線区を発表し、沿線自治体などの支援が路線維持には必要としたが、沿線自治体の同意を得たのは2線区で、他の路線の協議は進展していない。同社単独では維持できず、沿線自治体などから支援が得られないとすれば廃線しかない。

 協議が難航するのは、沿線自治体には資金がなく、公共交通についてのアイデアもないからだ。利用者がいない鉄道を維持するには、赤字を補填し続けるしかないが、それは沿線自治体には困難だ。だが、過疎化に拍車をかけるなどと廃線には抵抗する。抵抗する姿を見せることが目的だとも見える。

 北海道の鉄路は、冬季の低温と降雪という過酷な環境にある。隙間に入り込んだ水分は凍ると膨張し、融けると流れ去るので毎年、鉄路は傷められ、修復作業を必要とする。JR北海道は除雪作業に加え、全道の鉄路の修復が毎年欠かせないという高コスト体質なのだが、自動車の普及や過疎化で北海道での鉄道利用者は減っている。

 鉄路維持と鉄道運行を分け、沿線自治体や北海道などが鉄路の維持管理を受け持ち、JR北海道は列車の運行だけに責任を持つなら路線は維持できようが、赤字を垂れ流す構造は同じで、赤字を付け替えるだけだ。鉄路の維持管理を収益化するのは困難で、公共事業として行うしかないだろう。

 冬季の低温と降雪は道路も傷める。道路の維持管理は自治体や北海道などの責任だから、あちこちの道路で春先から補修工事が繰り返される。道路は誰でも使うことができるので道路を維持管理する公共性は高いが、利用者が減っている鉄道を維持するためだけの鉄路の維持管理については公共性が高いとは見えない。

 鉄道の廃線をマスコミは感傷的に報じ、「ありがとう」などと叫ぶ鉄道ファンの姿を伝えるのが定番パターンだ。沿線自治体も廃線に対して感情的な対応が先立つようで、廃線は受け入れられないとの姿勢を崩さなかったりする。自治体が考えるべきは、公共交通のシステムを維持することであり、移動手段が鉄道であろうとバスであろうと構わないはずだ。

 JR北海道単独では「維持困難」とする路線は、人々から見限られ、その役目を終えたともいえる。鉄道が公共交通システムの主体であった時代は、少なくとも北海道では終わったから、JR北海道は苦しんでいる。システムとして北海道の公共交通を考えるなら、バス利用の利便性を高めることに比重を移すべきだろう。

2019年8月14日水曜日

常に動いている

 地球の自転の平均速度は約1670km/時(赤道上)というので、秒速にする約460mになる。日本付近では地球の直径が赤道よりも短くなり、1日の長さは24時間と同じなので自転の速度は約1380キロ/時、秒速は約380mほどと赤道よりも遅くなる。

 地球は太陽の周りを公転しているが、その速度は約10万8000km/時とされ、秒速にすると約28km。自転しながら地球は太陽の周りを凄まじい速度で移動を続けているのだから、部屋の中でじっと座っている人も、太陽系の外から見ると、激しく動き続けていると見えるだろう。

 さらに太陽を含め太陽系も天の川銀河の中を周回している。その速度は諸説あるが、約86万4000km/時とすると秒速240kmになる。地球も一緒に想像を絶する速度で動いているのだが、宇宙は広大だ。太陽系は天の川銀河の中心から離れた端の方に位置するので、1回の周回に2億年以上かかるとされる。

 約240km/秒で移動する太陽の周りを、地球などの惑星は太陽の移動方向と垂直の方向に公転しながら、太陽とともに約240km/秒で移動する。地球など惑星の公転は、書籍などの図(平面)では太陽を中心にいくつもの円で描かれるが、その円は宇宙空間では引き延ばしたコイルバネのような螺旋運動になる。

 さらに、天の川銀河も動いている。どのように動いているのかは明確には判明していないが、約250万光年ほど離れているアンドロメダ銀河と近づきつつあり、数十億年後に衝突するとされる。おそらくアンドロメダ銀河も天の川銀河も距離を縮めるように互いに動いているのだろう。

 他にも、膨張を続けているとされる宇宙では、宇宙空間そのものに動きがあり、その動きは宇宙の全ての物質に影響しているだろう。その動きがどのようなものかを知ることは簡単ではないだろうが、地球表面の、例えば、公園のベンチにじっと座っている人も宇宙空間の動き(膨張)の中にいる。

 地球は自転しつつ、太陽を中心に約28km/秒で螺旋を描きながら公転しつつ、天の川銀河の中を約240km/秒で移動しているが、天の川銀河もおそらく凄まじい速度で移動している。地球上の人々は、想像を絶するジェットコースーターに乗り続けている。

2019年8月10日土曜日

凡庸なアート作品

 アートに政治が持ち込まれた時には、政治的な力学が勝敗を決することが多い。ここでいう政治とは必ずしも国家権力や政治家、政治団体などに限定されず、その社会での善悪などの価値観、避けるべきものとされる行為や考えなども含む。社会によって、政治的に嫌われ、時には抑制すべきとされる表現は異なる。

 だから、自由な表現は権利だとアートが主張しても、社会の中での表現活動に何らかの制約が伴うのは日本に限らない。例えば、現在の西欧で、LGBTの人々を揶揄する表現やCO2排出増加による地球温暖化論を否定する表現、プラスチックの大量利用は人々の生活に恩恵をもたらすとする表現などは、アートの表現だとしても批判を浴び、時には激しい抗議活動を招くかもしれない。

 アートには自由な表現が欠かせないが、作品の価値は人々(社会)が決める。表現のみで作品の価値が判断されることがアートには望ましいだろうが、時には作者の制作の意図を含めて判断されることがある。作者も、属している社会にウケることを想定して作品の表現を工夫したりし、政治的な課題に触れた作品は「問題意識が高い」などと賛美されたりもする。

 そうした政治的な作品は、アートとして凡庸な表現であっても、作品が表現している何らかの価値観が受け入れられる社会では賞賛されようが、価値観が異なる別の社会では批判される。作品の表現ではなく、作者の制作意図に込められ、作品に表現されている政治的な主張が強く見えすぎて、アートとしての作品を霞ませる。

 政治的な主張を取り去ると、凡庸な作品だと見えてしまうアートがある。優れた作品にだけ表現の自由があるのではなく、凡庸な作品にも稚拙な作品にも表現の自由はあるのだが、アートとして同列に扱うべきではないだろう。ピカソの「ゲルニカ」から政治的な問題提起を取り去ったとしても優れた表現として残る。

 政治的な主張だけで成立しているような作品が、その政治的な主張が一般的ではない社会で批判されるのは当然の成り行きだろう。それを、表現の自由の問題と見るかどうかは政治的な立場により異なる。無制限に表現の自由は認められるべきだという考えもあろうが、その場合は自己の政治的な見解に反する表現も認めなければなるまい。

 政治的な問題となることで特別視される作品が、その表現の凡庸さが政治的な騒動によって覆い隠された。アートに政治的な主張があってもいいが、政治的な主張を取り除けば凡庸な表現だけが残る作品はアートとしての評価は低い。過激な表現も過激な主張もアートでは容認されるが、凡庸な表現はアートにはふさわしくない。

2019年8月7日水曜日

イヤホンの効用

 音楽を聴くことを好む人は多いが、音楽を聴くスタイルは大きく変わった。LPレコードを聴くためにはステレオなどの再生装置が必要だったが、カセットテープやCDの登場でポータブル機器からイヤホンで聴くスタイルが普及、音源をダウンロードして聴くようになるとソフトウエアだけで再生できるので特別な装置は要らなくなった。

 スピーカーやアンプなどを自分で組み合わせて聴くのは以前から趣味の世界とみられていたが、スピーカーの前に座って音楽を聴くことも今では趣味性の強い聴き方になったのかもしれない。イヤホンで聴くことが広まり、電車などでの移動中や歩行中、運動中などに音楽などを聞いている人が増えた。

 イヤホンで聴くスタイルが広まったことで、音楽の聴き方はどう変わったか。第一に、いつでも、どこでも音楽を聴くことができるようになった。第二に、自分だけで聴くようになった。第三に、自分の好む音楽をBGM的に流すことが簡単になった。

 イヤホンで聞く時でも、BGM的にではなく音や音楽に集中して聞くこともできるが、歩行中や運動中にイヤホンから聞こえてくる音や音楽に集中するのは危険を伴う。音楽に集中したいなら、自宅などで座って聞くことになるだろう。

 音や音楽に集中することで、BGM的に聴き流していた時にはスルーしていた細かな音や音質の違い、歌唱や演奏の微妙な表現にも気がつくから、新しい魅力を発見するかもしれない。そうなると、例えばイヤホンでも再現能力が高い(=価格も高い)ものに代えると、さらにいい音になったりし、趣味の世界に進むことになる。

 いい音でなくても音楽の魅力が損なわれるわけではない。小さなトランジスタラジオでは音楽は中音部しか聞こえてこないが、それでも自分の好む音楽なら楽しむことができよう。「音楽ファンは音質に無頓着だ」との言があるが、立派な再生装置で、自分の好みではない音楽を聴かされても苦痛でしかないだろう。

 いい音で聴くと音楽の魅力が増すことは確かだが、ある程度の音量で聞かなければ細かで微妙な音や表現は浮かんでこない。住環境に制約があってもイヤホンなら音量を上げることができる。立派な再生装置を持っている友人はロック好きだが、家族から「うるさい」と苦情が出て最近はもっぱらイヤホンで聴いているという。これもイヤホンの効用だな。

2019年8月3日土曜日

見せかけの芸能プロ批判

 芸能プロダクションに対する批判はマスコミではタブーだった。批判された芸能プロが所属タレントの出演を制限して仕返しするとされた。テレビ局には自社番組があり、新聞社はテレビ局と関係が深く、出版社には多くの刊行物がある。

 最近は芸能プロに対する批判がマスコミにあふれているように見えるが、実態は①公取委など官庁による発表、②造反したタレントの芸能プロ批判、を伝えているだけだ。造反したタレントが何を話しても芸能プロが強い態度を維持していればマスコミは沈黙しただろうが、芸能プロ側がスキを見せればマスコミは騒ぎ立てる。

 マスコミは芸能プロを直接、批判しない。Aに対するBの批判を増幅して伝えることでマスコミ自身がAを批判しているように見えるだけだ。そうした批判がマスコミに現れることは芸能プロの影響力の衰退とも見えるが、皆がそろって批判しているから批判できているだけで、どこのマスコミも単独ではおとなしくなるだろう。

 芸能プロに造反した芸能人が干されることは以前から珍しいことではなかった。それは、テレビ局や出版社、映画会社、新聞社などが芸能プロの意向に従うことで実現してきた。芸能プロ批判を真剣に行うと、芸能人を干すことの片棒を担いで来たマスコミにも火の粉が降りかかる。だから、芸能プロへの直接の批判は避ける。

 マスコミは騒ぎが起きることを歓迎する。自身の利害に関係がなく、悪玉がはっきりし、容赦なく批判できるような状況はマスコミにとって大歓迎だ。米トランプ大統領や北朝鮮などのように頻繁にネタを提供してくれ、批判や嘲笑の対象にもなる対象はマスコミにとって好都合な存在だ。

 芸能プロが騒ぎを起こしてくれることはマスコミには好都合だ。人気タレントが絡む騒動は人々の関心が高く、ほじくればネタはボコボコ出てくるだろうし、造反したタレントを「ヒーロー」かつ「被害者」に仕立てて報じれば同情を集めることもできるし、造反したタレントが干されたなら、人々とともにマスコミも忘れてしまえばいい。

 変化する時代に素早く適応することができず、既得権益にしがみついていることでは芸能プロもマスコミも似ている。芸能プロの体質を変えるには、フリーとなったタレントが自由に活動できる環境をつくるしかない。個人の権利がもっと尊重され、個人がもっと自由に活動できる世界に芸能界が変わることは日本の社会にも影響を与えよう。マスコミの役割はそこにある。