韓国軍艦艇に海上自衛隊の哨戒機が低高度で接近する「威嚇飛行」をしたと韓国国防省が主張している。哨戒機が高度約60〜70m、距離約540mに接近したとするが、仮に韓国側の発表が正しいとして、哨戒機に接近されたから威嚇されたと騒ぎ立てる韓国軍隊の姿は異様だ。
交戦中でもないのに隣国の哨戒機に接近されたぐらいで、威嚇されたと大騒ぎする軍隊。警戒心が過剰なのか、恐怖心が過剰なのか定かではないが、意地悪な見方をすると、これだけ大騒ぎするなら、もっと哨戒機を「接近」させてビビらせてあげるのが、韓国軍を鍛える効果的なやり方かもしれない。
さらに、意地悪な見方をすると、韓国が「威嚇された」と騒ぎ立てて海上自衛隊の哨戒機の飛行が減ったり、制約されると、喜ぶのは中国や北朝鮮だろう。日本海や東シナ海では中国や北朝鮮の潜水艦が活動しているだろうから、韓国が日本の哨戒機の飛行を批判し、制約を課すことができれば、中国や北朝鮮の潜水艦の活動がもっと自由になる。
威嚇とは相手を脅すことで、例えば、犬が歯をむき出したり、猫が毛を逆立て唸ったりしている状態のことだ。人間は言葉や行為などで威嚇するが、必ずしも攻撃的な姿勢は伴わず、穏やかな口調の何気ないような一言が、相手には威嚇と受け止められることもある。韓国軍が日本の自衛隊に日頃から恐怖心を抱いていたから、威嚇されたと感じるのだろうか。
威嚇されたと韓国が言い立てるのは、国際社会に対するアピールだろう。威嚇されたと主張することで韓国は、被害者の立場を演じることができる。日本に対して被害者であるとの立場に韓国を設定し続けることで、韓国は国際社会において発信力を確保してきた過去がある。国際社会は理性や知性だけではなく、情によっても大きく動くからだ。
威嚇されたとの主張は、事実の問題ではなく、感覚の問題である。哨戒機の高度や距離の正確な数値が判明したとしても、威嚇されたとの韓国側の主張は否定できない。威嚇されたと感じたと韓国は主張し続けるだろう。飛んでいる哨戒機を見て威嚇されたと、軍隊としてはみっともない主張を韓国は行ってまでも、国際社会で被害者の立場を得ようとする。
被害者が有利なのは、同情されて、その主張が共感や支持を得やすい傾向が国際社会に存在するからだ。被害者であるとアピールするメリットを韓国は国際社会で享受してきたのだから、今度も日本の哨戒機に威嚇されたと国際社会に泣きつけば、同情を得ることができると踏んだのだろう。おそらく、いつまでも、韓国は日本に対して被害者を装い続ける。
2019年1月30日水曜日
2019年1月26日土曜日
パワースポットと事実
パワースポットとされる場所がある。その場所で何かを感じた人がいたから、特別な場所とされたのだろうが、何かとは霊的なものであるらしく、誰もが必ず何かを感じるものでもないようだ。パワースポットだとありがたがる人には、それらしく錯覚もできるから、人気になって訪れる人が増えたりする。
パワーとは何か、そのパワーがその場所に存在するのは本当か、客観的な定義も検証もなされていない。パワーもスポットも主観的なものであるから、人によって解釈は様々で、パワースポットとされる場所が増殖する。「ここはパワースポットだ」と誰かが断言すれば、パワースポットが新たに誕生する。
各地のパワースポットがテレビなどで紹介されることがある。といっても、そこに何かのパワーがあることを確認して紹介するのではなく、「パワースポットとして知られている」などと名所案内のように紹介する。「パワースポットとして知られている」ことの真偽は検証できるが、そこに何かのパワーがあるとの検証は困難だろう。
「パワースポットとして知られている」ことを確認すればテレビなどは、「知られている」という事実を担保したことになる。ある場所がパワーがあるスポットであるかどうかは別の問題とみなし、パワースポットなんて胡散臭いと見ていたとしても、名所案内的に報じることができる。
そこが「パワースポットとして知られている」事実と、そこがパワーがあるスポットであるという事実は大きく異なる。だが、テレビなどが報じることを人々は事実だと受け止めがちで、テレビなどが伝えることで、例えば、どこかの場所がパワースポットであるとうっかり信じたりする。
同じような伝え方はテレビや新聞では珍しくない。例えばニュースで、ある人物の発言や外国の報道機関の記事を紹介することは多いが、その発言や記事が存在した事実だけが確かだったりする。その発言や記事の内容の真偽を確かめているわけではなく、一方的な主張や偏った記事などが紹介されたりする。
このように真偽が入り混じっていると、受け手は騙されやすい。本当のパワースポットであるかどうかは、嘘っぱちだったとしても実害がないだろうが、テレビや新聞のニュースに、部分的な事実の確認だけのものが混じっても人々は気がつきにくいだろう。
パワーとは何か、そのパワーがその場所に存在するのは本当か、客観的な定義も検証もなされていない。パワーもスポットも主観的なものであるから、人によって解釈は様々で、パワースポットとされる場所が増殖する。「ここはパワースポットだ」と誰かが断言すれば、パワースポットが新たに誕生する。
各地のパワースポットがテレビなどで紹介されることがある。といっても、そこに何かのパワーがあることを確認して紹介するのではなく、「パワースポットとして知られている」などと名所案内のように紹介する。「パワースポットとして知られている」ことの真偽は検証できるが、そこに何かのパワーがあるとの検証は困難だろう。
「パワースポットとして知られている」ことを確認すればテレビなどは、「知られている」という事実を担保したことになる。ある場所がパワーがあるスポットであるかどうかは別の問題とみなし、パワースポットなんて胡散臭いと見ていたとしても、名所案内的に報じることができる。
そこが「パワースポットとして知られている」事実と、そこがパワーがあるスポットであるという事実は大きく異なる。だが、テレビなどが報じることを人々は事実だと受け止めがちで、テレビなどが伝えることで、例えば、どこかの場所がパワースポットであるとうっかり信じたりする。
同じような伝え方はテレビや新聞では珍しくない。例えばニュースで、ある人物の発言や外国の報道機関の記事を紹介することは多いが、その発言や記事が存在した事実だけが確かだったりする。その発言や記事の内容の真偽を確かめているわけではなく、一方的な主張や偏った記事などが紹介されたりする。
このように真偽が入り混じっていると、受け手は騙されやすい。本当のパワースポットであるかどうかは、嘘っぱちだったとしても実害がないだろうが、テレビや新聞のニュースに、部分的な事実の確認だけのものが混じっても人々は気がつきにくいだろう。
2019年1月23日水曜日
特異な国の奇妙な外交
韓国の日本に対する外交対応の奇妙さが顕著になった。左派の文在寅政権には北朝鮮シンパが多数参画しているから、韓国の外交が北朝鮮の外交に似通ってきたとの解釈があるが、日本を軽視し、貶めるような外交は前の保守派政権でも顕著であったから、韓国という国家の外交の基本的姿勢になったのだろう。
韓国の対日外交における一連の摩擦は、韓国側から一方的に「枠組み」を変えたり、事実を無視することにより生じている。韓国に好意的に解釈するなら、国力を増大させたことにより、妥協し続けていた外交において自己主張を強め、韓国の「国益」を主張するために、日韓関係を主眼に既存の国際秩序の変更を目指しているのだろう。
韓国には対日外交において妥協してきたという「屈辱」があるのかもしれない。しかし、外交において対外的に決めたことには責任が伴う。最近の韓国外交が奇妙に見えるのは、過去の外交における自国の責任を独自の解釈(=自国内でしか通用しない)で放棄し、韓国に有利な新たな主張に置き換えていることだ。
外交とは、外国と友好関係を築き、国際社会における自国の地位を高めることだろうが、韓国は対日外交において、日本との友好関係を傷つけ、日本国内における韓国の印象を大きく損ねている。何を目指しているのか。
韓国の日本に対する姿勢は、以前のような「友好関係」には戻らないだろう。米国や日本に追随するしかなかった国際関係が、冷戦の終結や中国の台頭、世界的な韓国企業の出現などにより力関係のバランスが変わり、韓国はもう米国や日本に頼らなくてもやっていけるとの自信が、韓国の政治や外交に変化をもたらしたように見える。
おそらく韓国は、保守・革新を問わずに米国から中国に乗り換えようとしている。問題は、中国に従うという国際秩序に韓国が参加すると政治的には韓国政府の判断で舵を切ることはできようが、経済的には西側世界に組み込まれていることだ。西側の市場を捨てて中国市場だけで韓国企業が生きることができるか定かではない。
韓国の外交の変化はまず、「弱腰」な日本に対する独善的な外交で現実化した。国際法上の協定を破り、慰安婦問題では国家間で交わした約束を一方的に捨て、観艦式から日本艦艇を排除し、日本海での韓国艦艇の行動を隠蔽し、感情的な日本批判を続ける……こうした現実を直視するなら、北朝鮮と同盟しかねない韓国は日本にとって潜在的な敵国でしかない。
韓国の対日外交における一連の摩擦は、韓国側から一方的に「枠組み」を変えたり、事実を無視することにより生じている。韓国に好意的に解釈するなら、国力を増大させたことにより、妥協し続けていた外交において自己主張を強め、韓国の「国益」を主張するために、日韓関係を主眼に既存の国際秩序の変更を目指しているのだろう。
韓国には対日外交において妥協してきたという「屈辱」があるのかもしれない。しかし、外交において対外的に決めたことには責任が伴う。最近の韓国外交が奇妙に見えるのは、過去の外交における自国の責任を独自の解釈(=自国内でしか通用しない)で放棄し、韓国に有利な新たな主張に置き換えていることだ。
外交とは、外国と友好関係を築き、国際社会における自国の地位を高めることだろうが、韓国は対日外交において、日本との友好関係を傷つけ、日本国内における韓国の印象を大きく損ねている。何を目指しているのか。
韓国の日本に対する姿勢は、以前のような「友好関係」には戻らないだろう。米国や日本に追随するしかなかった国際関係が、冷戦の終結や中国の台頭、世界的な韓国企業の出現などにより力関係のバランスが変わり、韓国はもう米国や日本に頼らなくてもやっていけるとの自信が、韓国の政治や外交に変化をもたらしたように見える。
おそらく韓国は、保守・革新を問わずに米国から中国に乗り換えようとしている。問題は、中国に従うという国際秩序に韓国が参加すると政治的には韓国政府の判断で舵を切ることはできようが、経済的には西側世界に組み込まれていることだ。西側の市場を捨てて中国市場だけで韓国企業が生きることができるか定かではない。
韓国の外交の変化はまず、「弱腰」な日本に対する独善的な外交で現実化した。国際法上の協定を破り、慰安婦問題では国家間で交わした約束を一方的に捨て、観艦式から日本艦艇を排除し、日本海での韓国艦艇の行動を隠蔽し、感情的な日本批判を続ける……こうした現実を直視するなら、北朝鮮と同盟しかねない韓国は日本にとって潜在的な敵国でしかない。
2019年1月19日土曜日
買わずに、見て楽しむ
例えば、陸上競技の短距離や水泳競技では、スタート地点に並んだ選手が合図とともに飛び出し、ゴールを目指して走り続けたり、泳ぎ続けたりする。各自のコースは明確に区切られ、抜かれまいとコースからはみ出て競合選手を牽制したりすることはできない。
選手は互いに争っているのだが、勝敗は個別の所要時間で決まる。個別のタイムレースを複数の参加選手が同時に行っている形態だが、観客にとっては勝敗がわかりやすく、僅差のデッドヒートでは応援に夢中になるなど楽しむことができる競技形式だ。
タイムレースではアルペンスキーなど選手が個別に走る競技もある。複数の選手が並ぶとコースコンデションを均等に保つことが難しく、複数選手ではコース取りによる有利不利が大きいことなど、競争条件を均一に保つことが困難だからだ。
アルペンスキーで複数の選手が同時にスタートするとなれば、タイムは第二義的となり、順位を争うことが主眼となろう。ターンする時には有利なコースをめがけて選手が殺到するから接触は当たり前となり、押し合ったり、抜かせまいと牽制しあったりすることも当たり前になるかもしれない。
100分の1秒を競うタイムレースも見ていて面白いが、複数の選手が同時にスタートし、ゴールラインに真っ先に到達することを目指しつつ、途中で互いに押し合ったり、抜かせまいと牽制しあったりするレースも面白そうだ。そんなレースが日本の競輪だ。
競輪は公営ギャンブルなので、スポーツ競技と見られることは少ない。だが、スポーツ競技と見て楽しむことが禁じられているわけではなく、車券を買わずにレースを見るだけのファンもいる。先頭を争いつつ選手は、牽制したり、押したり、頭突きをしたりで「走る格闘技」だとファンは言う。
ほぼ毎日、全国のどこかの競輪場でレースは開催され、その全てがネット中継されているのでファンは、自分の都合に合わせてレースを楽しむことができる。大きな大会でなければTV中継されない陸上や水泳に比べ、見る機会が多い競輪ファンは見巧者になり、勝敗とともに、レースでの選手の駆け引きを楽しむ。
選手は互いに争っているのだが、勝敗は個別の所要時間で決まる。個別のタイムレースを複数の参加選手が同時に行っている形態だが、観客にとっては勝敗がわかりやすく、僅差のデッドヒートでは応援に夢中になるなど楽しむことができる競技形式だ。
タイムレースではアルペンスキーなど選手が個別に走る競技もある。複数の選手が並ぶとコースコンデションを均等に保つことが難しく、複数選手ではコース取りによる有利不利が大きいことなど、競争条件を均一に保つことが困難だからだ。
アルペンスキーで複数の選手が同時にスタートするとなれば、タイムは第二義的となり、順位を争うことが主眼となろう。ターンする時には有利なコースをめがけて選手が殺到するから接触は当たり前となり、押し合ったり、抜かせまいと牽制しあったりすることも当たり前になるかもしれない。
100分の1秒を競うタイムレースも見ていて面白いが、複数の選手が同時にスタートし、ゴールラインに真っ先に到達することを目指しつつ、途中で互いに押し合ったり、抜かせまいと牽制しあったりするレースも面白そうだ。そんなレースが日本の競輪だ。
競輪は公営ギャンブルなので、スポーツ競技と見られることは少ない。だが、スポーツ競技と見て楽しむことが禁じられているわけではなく、車券を買わずにレースを見るだけのファンもいる。先頭を争いつつ選手は、牽制したり、押したり、頭突きをしたりで「走る格闘技」だとファンは言う。
ほぼ毎日、全国のどこかの競輪場でレースは開催され、その全てがネット中継されているのでファンは、自分の都合に合わせてレースを楽しむことができる。大きな大会でなければTV中継されない陸上や水泳に比べ、見る機会が多い競輪ファンは見巧者になり、勝敗とともに、レースでの選手の駆け引きを楽しむ。
2019年1月16日水曜日
新聞社は変われるか
元日の朝日新聞の企画記事「エイジング・ニッポン」の見出しは「変わらないことがリスクだ」。本文では「終身雇用の昭和型人生から抜け出す(中略)。そんな生き方は珍しくなくなった」と、起業や転職で自分の人生を切り開く人たちを紹介した。
記事では「新たな生き方を模索する人たちに共通しているのは、一つの組織に頼り切らず、変化し続ける姿勢だ」と、電通や経産省を飛び出したり、自力で新しい職場を作った女性たちのチャレンジを肯定的に描いた。共感できる内容ではあったものの、読んでいて「で、新聞社は変わることができるのか」との疑問が離れなかった。
多くの企業の様々な「変われない」有り様を新聞社は報じ、批判するが、長時間労働や少ない女性役員など新聞社も同様の問題を抱えている。終身雇用から人材の流動性が高く転職者が多数の雇用形態に新聞社が変わったとも聞かないから、変われない企業には新聞社も含まれているだろう。
「技術革新についていけない国や企業でキャリアを積むのは無駄でしょう。人材が循環する社会の方が旧来の日本型システムより強い」「会社の動きに合わせて疲れ切る人」「東京一極集中や単線の仕事人生に象徴される昭和のシステム」……こうした言葉は新聞社や記者たちにも当てはまらないのか?
「働きやすく、生きやすい社会を作る取り組み」を新聞社や記者が実践し、自ら示すことができれば、紙面に載った数々の言葉はもっと説得力を持つだろう。企業における「変わることができた」労働モデルを社会に示すことができるのか新聞社も試される。
購読部数の減少が続き、取材したニュースを紙に印刷して全国の家庭に配達するというビジネスモデルは先細りだ。新聞社は、変わらなければならない企業だが、先んじて変わっているようには見えず、どう変わるのかのメッセージは伝わってこない。
速報性を重視するなら新聞社はデジタルメディアに移行すべきだが、その場合は編集と営業などだけで運営できるので、印刷や配送、全国の販売網は不要になる。大胆な組織の簡素化が不可欠だが、デジタルメディア移行後の収益モデルがぼやけている。
紙の新聞を続け、解説や分析、評論などを重視するなら、記者には取材経験より専門知識や見識が求められる。各分野の専門家や学者と張り合える、例えば博士号を持った専門記者を増やすとともに、夜討ち朝駆けなどは通信社に任す。しかし、読み応えのある解説や分析、評論が増えているのか、紙面から感じることはできない。
記事では「新たな生き方を模索する人たちに共通しているのは、一つの組織に頼り切らず、変化し続ける姿勢だ」と、電通や経産省を飛び出したり、自力で新しい職場を作った女性たちのチャレンジを肯定的に描いた。共感できる内容ではあったものの、読んでいて「で、新聞社は変わることができるのか」との疑問が離れなかった。
多くの企業の様々な「変われない」有り様を新聞社は報じ、批判するが、長時間労働や少ない女性役員など新聞社も同様の問題を抱えている。終身雇用から人材の流動性が高く転職者が多数の雇用形態に新聞社が変わったとも聞かないから、変われない企業には新聞社も含まれているだろう。
「技術革新についていけない国や企業でキャリアを積むのは無駄でしょう。人材が循環する社会の方が旧来の日本型システムより強い」「会社の動きに合わせて疲れ切る人」「東京一極集中や単線の仕事人生に象徴される昭和のシステム」……こうした言葉は新聞社や記者たちにも当てはまらないのか?
「働きやすく、生きやすい社会を作る取り組み」を新聞社や記者が実践し、自ら示すことができれば、紙面に載った数々の言葉はもっと説得力を持つだろう。企業における「変わることができた」労働モデルを社会に示すことができるのか新聞社も試される。
購読部数の減少が続き、取材したニュースを紙に印刷して全国の家庭に配達するというビジネスモデルは先細りだ。新聞社は、変わらなければならない企業だが、先んじて変わっているようには見えず、どう変わるのかのメッセージは伝わってこない。
速報性を重視するなら新聞社はデジタルメディアに移行すべきだが、その場合は編集と営業などだけで運営できるので、印刷や配送、全国の販売網は不要になる。大胆な組織の簡素化が不可欠だが、デジタルメディア移行後の収益モデルがぼやけている。
紙の新聞を続け、解説や分析、評論などを重視するなら、記者には取材経験より専門知識や見識が求められる。各分野の専門家や学者と張り合える、例えば博士号を持った専門記者を増やすとともに、夜討ち朝駆けなどは通信社に任す。しかし、読み応えのある解説や分析、評論が増えているのか、紙面から感じることはできない。
2019年1月12日土曜日
3億3360万円の価値
東京・豊洲市場の新春初競りで、青森県大間産の278kgのクロマグロが3億3360万円の史上最高値で買われた。1kgあたりでは120万円だが、これは御祝儀相場。当日のクロマグロの中値は45,844円/kg、安値は2,500円/kgというから、初競りとはいえ、あまりにも突出した価格だ。
クロマグロのサクの小売価格はバラツキ幅が広いが、2,000〜5,000円/200gぐらいだろう(1kgあたりにすると10,000〜25,000円ぐらい)。3億3360万円の初競りマグロの200gは24万円になる計算だが、“原価”で販売したとしても、買う人はいまい。
食品の価値は決めるのは①味、②食感、③健康に寄与、④害がない。初競りマグロが、どんなに味がよくて、健康にいいとしても、食品として3億3360万円の価値はない。この価格は広告宣伝費だと誰もが見るところで、今年もテレビや新聞で大きくニュースとして報じられた(欧米でも報じられたという)。
3億3360万円の初競りマグロは解体され、寿司チェーン店で通常価格で供されたことも報じられ、正月休みでネタが少ないテレビや新聞にとっては、ありがたいネタとなった。大間港で船から運び出される様子を報じたところもあり、露出時間やスペースを金額に換算すると3億3360万円のモトはとった?
初競りマグロには様々な価値があったが、食材としての価値、宣伝材料としての価値、報道のネタとしての価値、新春の話題としての価値はいずれも消費された。貨幣ならば価値を保存することができるが、初競りマグロは客に供されることで完結するネタだったので、様々な価値は消費されて消えた。
寿司チェーンが3億3360万円で、例えば、1万人を食べ放題で無料招待したり、生活困窮者への支援に振り向けたり、全額を福祉のために寄付したとしても、テレビや新聞は初競りマグロと同じだけの時間とスペースを使って報じることはないだろうから、初競りマグロに3億3360万円を投じたのは広告宣伝費としては効果があったのだろう。
テレビや新聞は初競りマグロの3億3360万円を驚きをもって報じるだけだった。踊らされるのを承知で初競りマグロに群がり、大騒ぎしてみせたテレビや新聞……様々な価値を多くの人々が消費し尽くして楽しむ一方、テレビや新聞も恩恵を受けたのだから3億3360万円を批判できなかった。
クロマグロのサクの小売価格はバラツキ幅が広いが、2,000〜5,000円/200gぐらいだろう(1kgあたりにすると10,000〜25,000円ぐらい)。3億3360万円の初競りマグロの200gは24万円になる計算だが、“原価”で販売したとしても、買う人はいまい。
食品の価値は決めるのは①味、②食感、③健康に寄与、④害がない。初競りマグロが、どんなに味がよくて、健康にいいとしても、食品として3億3360万円の価値はない。この価格は広告宣伝費だと誰もが見るところで、今年もテレビや新聞で大きくニュースとして報じられた(欧米でも報じられたという)。
3億3360万円の初競りマグロは解体され、寿司チェーン店で通常価格で供されたことも報じられ、正月休みでネタが少ないテレビや新聞にとっては、ありがたいネタとなった。大間港で船から運び出される様子を報じたところもあり、露出時間やスペースを金額に換算すると3億3360万円のモトはとった?
初競りマグロには様々な価値があったが、食材としての価値、宣伝材料としての価値、報道のネタとしての価値、新春の話題としての価値はいずれも消費された。貨幣ならば価値を保存することができるが、初競りマグロは客に供されることで完結するネタだったので、様々な価値は消費されて消えた。
寿司チェーンが3億3360万円で、例えば、1万人を食べ放題で無料招待したり、生活困窮者への支援に振り向けたり、全額を福祉のために寄付したとしても、テレビや新聞は初競りマグロと同じだけの時間とスペースを使って報じることはないだろうから、初競りマグロに3億3360万円を投じたのは広告宣伝費としては効果があったのだろう。
テレビや新聞は初競りマグロの3億3360万円を驚きをもって報じるだけだった。踊らされるのを承知で初競りマグロに群がり、大騒ぎしてみせたテレビや新聞……様々な価値を多くの人々が消費し尽くして楽しむ一方、テレビや新聞も恩恵を受けたのだから3億3360万円を批判できなかった。
2019年1月9日水曜日
マイナスとプラス
気温にはプラスとマイナスがある。天気予報で日常的に接しているから当然のことと受け入れているが、セ氏(℃)単位は水が凍結するのを0度、沸騰するのが100度と決めて制定したものだ。水は生物の生存に欠かせないものであるため、水の状態変化を基準にすることは自然な発想に見える。
水が凍結するのを0度としたので、それより低い気温はマイナスとなる。冬季には気温がマイナスとなり、路面が凍結したりするので、プラスとマイナスの設定は季節感にも生活実感にも馴染んでいるようでもある。だが、マイナスという設定は人為的なものだ。
セ氏とは別の0度に絶対零度というものがある。原子・分子の熱による振動がすべて静止する温度であるセ氏マイナス273.15度のことで、そこを0度とし、セ氏温度と同じ目盛間隔で温度を表す。絶対温度にはマイナスはなく、プラスの温度だけの世界になる。
プラスとマイナスは基準を設定することで現れる。例えば、一つの線分のどちらかの端を0(基準)とするなら、線分上は全てがプラスとなる(あるいは、全てをマイナスとも設定できる)。線分の中ほどのどこかに0(基準)を設定すると、そこでプラスとマイナスに分かれる。
気温以外にも人間社会には様々なプラスとマイナスがある。人間が物事や人物を評価するときに、加点評価はプラス、減点評価はマイナスとして判断するのだが、基準の設定は各自で異なる。異なる基準による異なる見方があるから、人間社会では対話が必要となる。
絶対零度という考え方にならうと、この世界に存在するものはプラスだけになる。プラスだけの評価は加点するのみであり、肯定するだけとも見えたりしよう。一方、マイナスだけの評価をする人もいて、否定するだけと見えたりする。都合よく使い分けたりすると、公平で客観的な評価ができない人だと敬遠されるかも。
存在するものがプラスで、存在しないものがマイナスと考えると、ある人間が所有していない何かは当人にとってマイナスの存在である。所有していないから欲しくなる。つまりマイナスの存在とは欲望の対象でもあり、所有する(プラスに転化する)ことを欲望し続けてきたのが人間の歴史か。
水が凍結するのを0度としたので、それより低い気温はマイナスとなる。冬季には気温がマイナスとなり、路面が凍結したりするので、プラスとマイナスの設定は季節感にも生活実感にも馴染んでいるようでもある。だが、マイナスという設定は人為的なものだ。
セ氏とは別の0度に絶対零度というものがある。原子・分子の熱による振動がすべて静止する温度であるセ氏マイナス273.15度のことで、そこを0度とし、セ氏温度と同じ目盛間隔で温度を表す。絶対温度にはマイナスはなく、プラスの温度だけの世界になる。
プラスとマイナスは基準を設定することで現れる。例えば、一つの線分のどちらかの端を0(基準)とするなら、線分上は全てがプラスとなる(あるいは、全てをマイナスとも設定できる)。線分の中ほどのどこかに0(基準)を設定すると、そこでプラスとマイナスに分かれる。
気温以外にも人間社会には様々なプラスとマイナスがある。人間が物事や人物を評価するときに、加点評価はプラス、減点評価はマイナスとして判断するのだが、基準の設定は各自で異なる。異なる基準による異なる見方があるから、人間社会では対話が必要となる。
絶対零度という考え方にならうと、この世界に存在するものはプラスだけになる。プラスだけの評価は加点するのみであり、肯定するだけとも見えたりしよう。一方、マイナスだけの評価をする人もいて、否定するだけと見えたりする。都合よく使い分けたりすると、公平で客観的な評価ができない人だと敬遠されるかも。
存在するものがプラスで、存在しないものがマイナスと考えると、ある人間が所有していない何かは当人にとってマイナスの存在である。所有していないから欲しくなる。つまりマイナスの存在とは欲望の対象でもあり、所有する(プラスに転化する)ことを欲望し続けてきたのが人間の歴史か。
2019年1月5日土曜日
100年前は1919年
100年前の1919年1月に、第1次大戦の講和条約などを話し合うパリ講和会議が始まった一方、独ベルリンで武装労働者20万人が蜂起し、各地に拡大した(ローザ・ルクセンブルクらが虐殺された)。ハンガリー全土での工場占拠運動やブエノスアイレスの冶金工場争議など各国で労働者が立ち上がった。
2月にはエジプト全土で反英デモ、3月にインド全国で反英スト・デモ(4月にインド全土でガンディー呼び掛けの非暴力的抵抗が始まり、反英集会に英軍が発砲して死傷者1600人)や朝鮮各地でデモが発生するなど、植民地で抵抗運動が活発化した。
世界的に労働者の権利要求が盛んになり、スペインやフランスで8時間労働が法制化され、その後も労働者はフランス、カナダ、イタリアなどでゼネストを行うなど活発に活動した。一方、ヒトラーが2月にミュンヘンで独労働者党の25カ条綱領を発表した。
日本でも労働者は各地で待遇改善を要求するストを行い、上野公園で日本初のメーデー集会が開催され、普通選挙を要求する運動も活発になった。一方で株価や商品相場が暴落し、銀行に取り付けや休業・合併が相次いで日銀が非常貸し出しを行うなど「戦後恐慌」が始まった。
この年、第1回の国勢調査が行われ、人口は内地5596万人、外地2102万人だった(東京369万人、大阪市258万人)。食料対策で原首相は「愛国者は麦を食え」と発言し、「普選案は階級制度の打破を目指し、現在の社会制度に脅威を与えようとするもの」と演説して普選法案上程日に衆院を解散した。
阪急梅田駅に白木屋梅田出張所が開店したが、これが初のターミナルデパート。日本初のダンスホール(花月園舞踏場)も開場し、電話の需要が急増、私立大学の設立が認可され、東京帝大で女子聴講生が許可されたのも、この年。童謡のレコードが売れ、「安来節」「八木節」もはやった。
米国ではロシア革命の恐怖から赤狩りが始まり、70都市で1万人が逮捕されたが、シベリアからは撤兵した。米上院は国際連盟への加盟やベルサイユ条約の批准を否決し、米加州が排日土地法を施行した。禁酒法が施行され、ラジオ放送がレギュラー番組で営業放送を開始し、南部でKKKが勢力を伸ばしたのも、この年。
2月にはエジプト全土で反英デモ、3月にインド全国で反英スト・デモ(4月にインド全土でガンディー呼び掛けの非暴力的抵抗が始まり、反英集会に英軍が発砲して死傷者1600人)や朝鮮各地でデモが発生するなど、植民地で抵抗運動が活発化した。
世界的に労働者の権利要求が盛んになり、スペインやフランスで8時間労働が法制化され、その後も労働者はフランス、カナダ、イタリアなどでゼネストを行うなど活発に活動した。一方、ヒトラーが2月にミュンヘンで独労働者党の25カ条綱領を発表した。
日本でも労働者は各地で待遇改善を要求するストを行い、上野公園で日本初のメーデー集会が開催され、普通選挙を要求する運動も活発になった。一方で株価や商品相場が暴落し、銀行に取り付けや休業・合併が相次いで日銀が非常貸し出しを行うなど「戦後恐慌」が始まった。
この年、第1回の国勢調査が行われ、人口は内地5596万人、外地2102万人だった(東京369万人、大阪市258万人)。食料対策で原首相は「愛国者は麦を食え」と発言し、「普選案は階級制度の打破を目指し、現在の社会制度に脅威を与えようとするもの」と演説して普選法案上程日に衆院を解散した。
阪急梅田駅に白木屋梅田出張所が開店したが、これが初のターミナルデパート。日本初のダンスホール(花月園舞踏場)も開場し、電話の需要が急増、私立大学の設立が認可され、東京帝大で女子聴講生が許可されたのも、この年。童謡のレコードが売れ、「安来節」「八木節」もはやった。
米国ではロシア革命の恐怖から赤狩りが始まり、70都市で1万人が逮捕されたが、シベリアからは撤兵した。米上院は国際連盟への加盟やベルサイユ条約の批准を否決し、米加州が排日土地法を施行した。禁酒法が施行され、ラジオ放送がレギュラー番組で営業放送を開始し、南部でKKKが勢力を伸ばしたのも、この年。
2019年1月2日水曜日
トランプと習近平
TPPやパリ協定などから離脱し、米国有利に諸国との貿易協定を再交渉し、外国での米軍展開を見直し、国境の壁建設を具体化し、国内では大幅減税を行うなど米トランプ大統領は、選挙時の主張を着実に実行しているように見える。
政治の「素人」が大統領になって何ができるのかとの危惧があったが、政策の是非はともかく、トランプ氏に実行力(命令力?)があることを示している。次々に主要スタッフの交代が続くのは、政権の不安定さと同時にトランプ氏個人が政権の原動力であることを示す。
選挙で公約したことを当選後に具体化し、実行することは当然ではあるが、既存の政策との整合性などもあって簡単ではなく、実務を担う官僚の協力を得なければ公約の政策化は難しい。だが、トランプ氏は抵抗する官僚を排除することで、主張を政策化している。
米国と張り合う大国となった中国では、習近平氏が絶大な権力を手にしているように見える。中国の政策に習氏の個性がどれだけ反映しているのか定かではなく、近年の中国の行動や政策が習氏にどれだけ引っ張られているのかも定かではないが、米国と中国が共に強力な指導者を要していることは確かだ。
しかし、この2人が手にしている権力の正当性には大きな違いがある。トランプ氏は選挙に勝って大統領に就任したが、習氏は独裁する中国共産党内で選ばれただけだ。中国で、投票も立候補も自由な選挙を行ってみても、習氏が人々から中国の最高権力者に選ばれるかどうかは不明だ。
習氏の権力には正当性がなく、トランプ氏の権力には正当性があるが、大統領にふさわしい人物かとの疑念がつきまとっている。2人とも権力者として強力さと不安定さが共存するが、外交や通商などで対外的には強く対応することは共通する。つまり、不安定さは対内的なものだ。
既存の欧米主導の秩序は、「外」から中国が異議を唱え、「内」から米国が背を向けることで揺らいでいる。2人の権力者が、強者総取りの世界へ導いていくのか、新しい世界秩序が見えてくるのか、なお混乱が続くのか……この2人に今年も世界は振り回されることになりそうだ。
政治の「素人」が大統領になって何ができるのかとの危惧があったが、政策の是非はともかく、トランプ氏に実行力(命令力?)があることを示している。次々に主要スタッフの交代が続くのは、政権の不安定さと同時にトランプ氏個人が政権の原動力であることを示す。
選挙で公約したことを当選後に具体化し、実行することは当然ではあるが、既存の政策との整合性などもあって簡単ではなく、実務を担う官僚の協力を得なければ公約の政策化は難しい。だが、トランプ氏は抵抗する官僚を排除することで、主張を政策化している。
米国と張り合う大国となった中国では、習近平氏が絶大な権力を手にしているように見える。中国の政策に習氏の個性がどれだけ反映しているのか定かではなく、近年の中国の行動や政策が習氏にどれだけ引っ張られているのかも定かではないが、米国と中国が共に強力な指導者を要していることは確かだ。
しかし、この2人が手にしている権力の正当性には大きな違いがある。トランプ氏は選挙に勝って大統領に就任したが、習氏は独裁する中国共産党内で選ばれただけだ。中国で、投票も立候補も自由な選挙を行ってみても、習氏が人々から中国の最高権力者に選ばれるかどうかは不明だ。
習氏の権力には正当性がなく、トランプ氏の権力には正当性があるが、大統領にふさわしい人物かとの疑念がつきまとっている。2人とも権力者として強力さと不安定さが共存するが、外交や通商などで対外的には強く対応することは共通する。つまり、不安定さは対内的なものだ。
既存の欧米主導の秩序は、「外」から中国が異議を唱え、「内」から米国が背を向けることで揺らいでいる。2人の権力者が、強者総取りの世界へ導いていくのか、新しい世界秩序が見えてくるのか、なお混乱が続くのか……この2人に今年も世界は振り回されることになりそうだ。
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