2015年1月31日土曜日

本当に味わっている?


 「まだ世間では誰もウイスキーなど飲んだことない時代に、『やがて日本にも必ずウイスキーの時代が来る』と信じ、本場に負けない国産ウイスキーを造る夢を追った男」(NHKサイトから)を主人公にしたテレビの朝ドラで関心が高まったのか、ウイスキーの売り上げが増えているという。

 朝ドラのモデルになったメーカーでは注文に応じきれない状況だそうで、ウイスキーブームの恩恵が及んだライバルメーカーの販売も好調だとか。スーパーなどでも酒類のコーナーで、ビールの限定ものなどが陳列されていた特設コーナーにウイスキーが並ぶようになっていたりする。

 タイミングよくライバルメーカーの高級シングルモルト・ウイスキーが英での評価本で最優秀に選出されたことが日本のマスコミでも大きく報じられ、話題となった。朝ドラでウイスキーへの関心が高まっているタイミングを逃さず、自社商品への関心を高めるというマスコミ活用策は見事。大量CMとマスコミ戦略で知られる企業だけに、抜かりはない。

 以前からジャパニーズウイスキーへの国際的な評価は高まっていたそうで、日本での朝ドラ放映に合わせて急に評価が高まったということではないのだろうが、その国際的評価を、朝ドラ放映でウイスキーブームが起きることを見越して、自社に有利な話題としてフル活用したメーカーは大スポンサーでもあるから、マスコミ各社は取り上げざるを得まい。

 国際的に評価されているという日本の高級ウイスキーだが、ブームで需要増だからと生産量を簡単には増やせない。モルトやグレーンなどの原酒を単独あるいはブレンドして製品化するのだから、仕込みに時間がかかる。でも、過去のブーム時には大量生産して大量出荷したことがある。

 大量生産できたのは、原酒比率を抑え、工業用アルコールなどを大量に加えて、香りや色は添加物で調整してウイスキー風に仕立て上げていたから。乱暴に言えば、無味無臭の焼酎もどきに香りと色をつけてウイスキーと称していたようなものか。そうした商売で儲けることを法的にも認めさせたというから、マスコミだけでなく政界にも影響力があったのだな。

 味は二の次だっただろうが、本物のスコッチウイスキーなどは高額の税金で高価だった時代なので、本物のウイスキーの味を知っている日本人なんて少なかった。だからストレートで飲むことを推奨せず、水割りにして味を薄めることを広めた。人々の味覚が、大量CMにより操作可能であるという一つの例だ。

 さらに販売を増やすため、和食店などで食事の時に水割りを飲むことを広めた。日本人の多くは口内調味をするから、食事の時にウイスキーの水割りを飲んでも、ビールを飲んでも、酒をしっかり味わうことはない。かくして、本物の酒の味は二の次という日本独自の飲酒文化が形成された……さんざんマガイモノで儲けてきた連中が、国際的評価を誇っている様子は一歩前進か、厚かましいのか。

2015年1月28日水曜日

「表現の自由」にしがみつく


 冗談が通じない人に対して、冗談を言うのは控えた方がいい。冗談だから笑ってもらえると期待しても、反応がなかったり、無視されたりするだろうし、場合によっては、冗談だと許してもらえず、機嫌を損ねたり、怒らせたりもしよう。後から「冗談だったんだ」と言い訳せざるを得なくなるなら、初めから言わない方がいい。

 冗談が通じる相手かどうか判らない時は、シャレなど無害な軽い冗談を言ってみて、相手の反応を確かめてから、つき合い方を考えるのが無難だ。冗談が、皮肉や批判を内包している場合は要注意。そうした冗談が、相手に対する批判と受け取られたりもする。後から「そんなつもりで言ったんじゃないンです」などと弁解せざるを得なくなったりする。

 つい自分のユーモアのセンスを過信していたりすると、いつでも誰にでも自分のユーモアは“正しく”理解され、笑って受け止めてもらえるなどと油断したりする。だが、面白いだろうと押し付けられたユーモアが、受け手をシラケさせることも珍しくない。いったんシラケると、一方的に押し付けられる関係が不快になる。

 自分のユーモアのセンスを過信しすぎると、笑ってもらえることを当然と見なし、怒り出した相手がいたりすると、「このユーモアが解らないのか」と笑わない相手を批判したりもする。でも、ユーモアを売物にする人が、笑ってもらえないことを相手のせいにして、ユーモアに対する感覚・理解が乏しいなどと批判するのでは、コミュニケーションが成立しなくなる。

 相手に通じない冗談や、笑ってもらえないユーモアは途端に色褪せる。色褪せたことに気づくには、自分の発したユーモアと相手や周囲の反応などを冷静に見る目が必要だろうが、自分のユーモアのセンスを過信しすぎていたりすると、笑ってもらえないことを冷静に見る目がぼやける。

 ましてや、ユーモアを「表現の自由」という高邁な理念でラッピングしたりすると、自分のユーモアのセンスを疑うことができにくくなる。ユーモアはもちろん自由に表現していいのだが、笑ってもらえないユーモアは淘汰されるだけだ。相手を笑わせることができず、怒らせるだけなら、そんなユーモアには笑いのセンスがなかったことに気づかなければならない。

 笑ってもらえなかったユーモアが「表現の自由」にしがみついているのは無惨な光景だ。「表現の自由」を持ち出すと、笑ってもらえなかったことを相手側の責任にすることを助長し、自分らのユーモアのセンスの検証を妨げる。高邁な理想という逃げ場があると、表現には弛緩や劣化が現れることは珍しいことではない。

2015年1月24日土曜日

硬いステーキ


 最高のもの、一流のものを知っておくことは、見る目を養ってくれる。ただし、最高のもの、一流のものだけを知っていることは、見る目を養うかどうかは分からず、偏った見方をする原因にもなりかねない。望ましいのは、最高のものと最低のもの、一流のものと三流のものを同時に知っておくことだ。そうすれば、評価の尺度を身につけることができ、適切な判断をすることができるようになる。

 例えば、千円程度のステーキを食べ、次には数万円のステーキを食べてみたならば、食感の違い、味わいの違い、肉の良し悪し、焼き加減の良し悪し、味付けの違いなどを体験でき、同じステーキといっても、その“世界”は広いことを知ることができる。(千円のステーキが最低だという意味での例ではない。違いを知るためには食べ比べなければならないということ)

 このステーキの話は永六輔さんがラジオで以前に話していたもの。淀川長治氏に連れられて、安くて硬いステーキを食べさせられ、次にはホテルで高級なステーキをごちそうになり、淀川氏から「これで、最高と最低を知ったろう。これから、どこでどんなステーキを出されようと、そのステーキがどの程度のものか判断する基準を、自分の中に持つことができるはず」というようなことを言われたという。

 誰でも自分の中に評価の尺度を持っているが、世の中に存在する最高のものと最低のもの、一流のものと三流のものを知らずにいると、狭い範囲の経験と主観に頼って判断することになる。千円程度のステーキしか知らずにステーキ全般について語るようなもので、客観性に乏しい見方だと、見る人が見れば分かってしまう。

 最高のものと最低のものを知ることが大事なのは、ステーキを味わうことだけに限られない。衣食住に関わることから、社会に関わることまで、あらゆることに当てはまる。例えば、芸術、芸能、文化などで、見る目を養うためには、一流のものに触れ、知っておくことが欠かせない。ただし、一流のものだけを愛でなければならないということではなく、好みは人それぞれ。三流のものを好きであってもいいが、見分ける目は持っておくこと。

 とはいえ、衣食住から社会の様々なことまで全てに対して、最高のものと最低のもの、一流のものと三流のものを体験して知ることは困難だろうから、最高のもの、一流のものを体験するのは限られた分野になることは避けられない。最高のものを知らずに何かの評価を下す場合には、価値の尺度が自己流でしかないことを意識しておいたほうがいい。

 人間を見る目にも同じことがいえよう。最高の人間と最低の人間、一流の人間と三流の人間を知っておくことが、世の中で出会う人を、どの程度の人物か判断する助けになる。ただ困るのは、最高の人物、一流の人物が誰であるのかが曖昧なこと。例えば、今の日本の政治家で最高の人物、一流の人物は誰かと問われると、誰の名を挙げればいいのか途方に暮れる。二流の人物なら、けっこう思い当たるのだが。

2015年1月21日水曜日

民主主義と、民意の反映


 民主主義の原則は、議会や政府が主権者の意思を反映して形成されることだ。だが、そうして形成された議会や政府が、一部または大部分の民意に反するような政策を選択することがある。それで、反政府デモなど大規模な街頭行動が起きたり、民主主義の“限界”が議論されたりする。

 主権者は、数年に一度だけしか意思表示ができないことに、もう我慢ができなくなっているのかもしれない。様々な情報が次々に流れ、様々な課題・問題が次々に提起され、政府や議会は対応に迫られる。選挙公約などに示されていなかった事柄が次々に議論の俎上に上がるようになったりするが、主権者の声はほとんど無視される。選挙で議員や大統領を選んでも、次の選挙まで主権者は傍観するしかない?

 主権者の意思を政府や議会にもっと反映させるためには、二つの方法がある。一つは、個別の課題に対する主権者の賛否を問う直接投票制度を導入し、議会や政府の決定に民意を細かく介入させること。もう一つは、議員の任期を1、2年に短くし、常に“最新”の民意を反映させた議会にすること(大統領などの行政職の任期の短縮は、国政の安定性を損なう可能性がある)。

 直接投票制度は民意をストレートに反映できるようだが、投票率が低かったり、動員やボイコットが行われる可能性があり、必ずしも「正確」な民意が示されるとは限らない。また、誰の判断で直接投票を実施できるかという制度設計の難しさもある。例えば、増税を求める政府が、増税の賛否を国民投票にかけたがるはずもない。

 議員の任期を1、2年に短縮することは、主権者の意思を議会に反映させやすくはなるが、選挙が終わると議会や政府に任せるしかなという仕組みに変わりはない。例えば、1年という任期は短いが、1年間でも経済状況、社会状況、国際情勢などは激変するので、判断力の確かな人物を選出しなければ、議会が民意から逸れていくことはあり得る。

 議会や政府が民意を反映していないと主権者が感じるのは、議会や政府からの情報発信(説明)が不充分で、その決定に納得しないからだ。主権者は白紙委任したつもりはないのに、議会や政府は主権者から白紙委任された気でいることが、説明不足を招いているのかもしれない。

 世界各地で、政府や議会の決定に抗議する反政府デモなどの街頭行動が相次ぐ。これは民意を示すストレートな方法だが、それが一部の民意なのか、大多数の民意なのかが判別しにくいという弱点がある。ある民意の強さを激しい抗議活動は示すことができるかもしれないが、民意の「量」を示すものではない。

 自由な選挙により示された主権者の意思を反映した議会や政府を構築し、その議会や政府に常に主権者の意思を反映させること。これが、世界の民主主義にとっての現在の課題なのかもしれない。数年ごとの選挙に加えて、主権者の意思を適時反映させる仕組みを各国がそれぞれに築くことが、民主主義を強靭にするだろう。

2015年1月17日土曜日

美少年ではない


 興福寺の阿修羅像は日本でもっとも人気がある仏像といわれる。2009年に東京国立博物館など各地で開催された特別展の入場者は200万人近くにもなり、美術ファンや仏像ファン以外にも、憂いをたたえた表情で美少年像にも見えるから、“イケメン”を見に女子中高生らも大勢訪れたという。新たなファンの開拓にも成功したようだ。

 こうした反応は目新しいものではない。阿修羅像は以前から仏像界のアイドルとも呼ばれていて、人気があった。イケメンなどという声を聞くと、阿修羅像は古代に実在した人物の肖像彫刻であるかのように錯覚しかねないが、もちろん実在した人間ではなく、神様。

 阿修羅とは、ヒンドゥー教から仏教に取り込まれた仏法の守護神で、戦いの神ともされる。戦いや争いが始終続いている修羅道に住むともいう。大元は古代ペルシアの神で、古代インドの神となり、さらに仏教に取り入れられたのだが、実際に阿修羅の姿を見た人間は、古代から現在まで、世界のどこにもいないだろう。信仰心が強ければ“見える”かもしれないが、それは実在する証明とはならない。

 だから、阿修羅像は製作者が、仏像製作の約束事などに従って創造した造形だ。実際に見たこともない神の姿を造形するためには、既に絵や像などが存在すれば参考にしただろうし、表情や姿勢の参考にするために人間をモデルに造形したかもしれない。

 そうして完成した阿修羅像が表現しているのは、阿修羅という神の「あり方」だろう。阿修羅を誰も見たことがないのだから、その姿や表情などの「個性」を表現できるはずがない。表現するのは、阿修羅という神の宗教的な意味づけであり、宗教的な解釈であろう。たまたま阿修羅像は憂いをたたえた美少年に似た造形となったが、表現しているのは神のイメージであり、美少年ではない。

 仏教でもキリスト教でも、神の姿は人間に似たイメージで表現される。なぜ、人間の姿に合わせて神の姿を造形するのか。言い換えるなら、神が人間と同じ姿をしなければならない必然性は、ない。全能であったり、何かの超能力めいた力を持つという神が、人間と同じ姿である必然性はない。目や鼻や口や耳がなくても神には不都合はないだろうし、腕や足がなくても、何かを動かしたり移動したり、神はできるはずだろう。

 見たことがない神の姿を、人間に似た姿で造形してきたことは、神の概念を理解しやすくして宗教を広めることに効果があっただろう。一方で、神の像を人間に似せたことで、神が人間世界の延長上に存在するものとの解釈を広めたかもしれない。そうした神もいるだろうが、人間に近すぎると神の全能性や絶対性は損なわれよう。偶像崇拝を禁じるイスラム教では、神の絶対性は保たれているように見える。

2015年1月14日水曜日

笑うチカラ


 昨年、約3年ぶりに行われた日中首脳会談は、両首脳の固い表情の握手で始まり、2人とも親しげな表情は見せないままに終わったと報じられた。公開された映像では、特に中国の習近平主席の不機嫌そうな、ソッポを向いて握手する様子が話題となった。

 不快感全開といった習近平主席の様子は、自然に出た態度というより、意図して演じていることが見え見えだが、外交的儀礼からすると失礼千万。もし、来日した習近平主席との会談で日本の首相が、そっぽを向いて握手したなら、“大国”中国の国内世論には怒りのコメントが溢れそうだが、日本国内では冷静に受け止めていた。

 日本では「あれは、中国の国内世論対策」という見方が多かった。さんざん反日世論を煽り続けてきたのに、急に仲良く会談するのでは格好がつかないから、いやいや会ってやったという体裁を整えるために、習近平主席は不機嫌を装わざるを得なかったという解釈だ。とすると、習近平主席の国内での基盤は世論で揺らぐほどのもので、盤石ではないのだろう。

 大嫌いな相手でも、政治理念が正反対の相手でも、外交舞台で会う時には政治家は礼儀正しく振る舞うのが基本。うっかり感情的に振る舞うと、相手に攻撃材料を与えてしまうからだ。日本の外交は「おとなしい」ので、習近平主席の態度を今後の中国攻撃に利用したりはしないだろうが。まあ、習近平主席が大人(たいじん)ではないことが明らかになったのは外交的収穫かな。

 一方で、今回の日中首脳会談における習近平主席の仏頂面に対して、アハハと笑い飛ばす反応は少なかった。日中関係の深刻な対立を反映したものなどと理解するよりも、習近平主席の仏頂面を多くの日本人が笑い、欧米でも笑いのネタにされたなら、“中国独自”の行動で恥をかくことがあることに中国は気づいたかもしれない。恥をかくことで成長・成熟することもある。

 公人である政治家は国籍を問わず、批判の対象であり、風刺の対象であり、笑いの対象でもあるのに、習近平主席の仏頂面に対して日本で大笑いが沸き起こらなかったのは、笑う力が衰弱しているからかもしれない。政治家を笑ってはならず、尊敬しなければならない……なんて社会にはなっていないだろうが、自主規制めいたものがマスコミの一部に垣間見えたりする。

 例えば、爆笑問題がNHKの番組に出演したときに、用意していた政治家に関するネタはすべて局側にボツにされたという。政治的圧力ではなく、問題を避けるための局側の自粛によるものだとか。圧力はタレントにではなく、局など媒体にかかるようになったから、触らぬ神に祟りなし……なのだろうが、政治家を笑うことができなくなれば、批判などできるはずがない。

 おおらかに政治家を笑うことができる社会は風通しがいい。笑う力を活性化させるには、習近平主席の仏頂面を思い出すのがいい。笑い飛ばす手頃な材料を提供してくれた。世界にも日本にも、おかしなことには事欠かないから、おおらかに今年はもっと笑おうか。

2015年1月10日土曜日

実際の使用状況と違う


 新型車が出るたびに自動車雑誌には試乗リポートが掲載される。新型車といっても、軽もあれば大型セダン、大小のミニバンやSUV、2人乗りのスポーツカー、商用車など様々なタイプがあって、それぞれに想定される使用状況は異なる。だから、試乗リポートも、新型車それぞれの用途にふさわしい状況で乗ることが本筋だろう。

 しかし、新型車それぞれの使用状況に合わせた設定で試乗することにはさほど注意が払われてはいないようで、借り出した試乗車をリポーターが乗って都内や周辺を走り、少し高速に乗って往復してみるくらいが多い。セダンならそれでもいいのだろうが、都内での使用をほとんど想定していない試乗車にはふさわしくない。

 10年ぶりに復活した「ランクル70」の試乗リポートが自動車雑誌に掲載されていた。タフな使用に耐える頑丈な車が必要だとの要望に応えての限定再発売だというが、試乗リポートの中には都内や周辺で乗っただけらしいものもあり、そういう状況で使うならランクル70の欠点ばかりが目立つだろう。

 曰く「ギアチェンジの操作感はシブい」「乗り心地は空荷のトラック」「ステアリング真ん中付近の手応えはスルッスル」「風切り音が出てる」「最小回転半径が大きい」「後方視界は良くない」「クラッチは踏みごたえがある」「舗装が荒れたところや高い速度域では縦揺れ、横揺れが出てくる」「低速域でのトルクの粘り強さがあるが、騒音や振動が大きい」「あまりハンドルが切れず、戻りも鈍い」など散々。

 都内などで四駆に乗るなら、もっとオシャレなSUVが各社から発売されている。ハンドルがクイックで、乗り心地がよく、静かで、各種操作が軽く快適な車は今や珍しくないだろう。なぜランクル70は、そうした車と違うタフな車に仕立て上げられているのか。そこに焦点を当てなければリポートの意味がない。言い換えれば「便利さ」の示す内容は車により異なるのであり、それをスルーして、ハンドリングや乗り味がどうこう言ってみても無意味だ。

 試乗リポートの中には悪路走破性に触れたものもあり、パートタイム4WDであることの意味、対地障害角、前後アクスルに電動デフロックを装備できることなども説明していたりし、生活の必要からランクル70を選択する人に向けての情報提供になっている。東京や周辺で「シティ」暮らしをしているリポーター氏には気づきにくい点かもしれない。

 例えば、2人乗りのスポーツカーの試乗を、道が込み入った住宅地で行い、「日常の買い物の足としても使える」などとリポートしても、それは的確に評価したとは言えない。同様に、ランクル70の真価を試すなら、それ相応の場所に行って乗らなければ、的確な評価はできまい。ただ、そうなると問題は、無傷のままで試乗車を返却できるかどうかになったりするかな。

2015年1月7日水曜日

100年前は1915年


 1914年に欧州で各国が互いに宣戦布告して開戦した第1次世界大戦は1915年、さらに拡大した。ドイツ軍と英仏軍は西部戦線で持久戦の様相となり、消耗戦が続いた。ドイツはこの年、初めて毒ガスを使用したり、潜水艦を用いて商船などを無差別攻撃したり、飛行船を使って英仏を空爆したりと総力戦化を進めた。

 日本は1914年にドイツに宣戦布告し、ドイツが権益を持つ中華民国山東省の青島を攻略、ドイツが植民地支配していた南洋諸島を占領した。1915年1月に日本は袁世凱政府に21カ条要求を行った。これは▽ドイツが持っていた山東省の権益を日本が引き継ぐ▽関東州の租借期限の延長▽中国政府に日本人顧問を雇う▽日本人の土地所有権を認める、など。

 欧州が戦場となったため、工業化が進んでいた日本から欧州向け軍需品やアメリカ向けのほか、欧州勢が姿を消したアジア向けなどの輸出が急増、この年から好景気が続き、大戦景気とか大正バブルと呼ばれ、鉱山・貿易・船舶などで成金が続出した。工業生産が増え、重化学工業も発展し、日本の産業構造の転換が進んだ。

 「銀ブラ」が流行語になった1915年、前髪ウェーブやショール、こうもり傘がはやり、女学生に袴の裾をくくったブルーマが流行し、カフェ女給の白エプロン姿が始まった。かめのこたわしが特許を取得したこの年の人口は約5275万人。年末現在で全国の自動車1244台・自転車61万7184台・人力車12万3776台だった。

 大杉栄・荒畑寒村らが第2次「近代思想」を創刊したが、発禁続き。夏目漱石が「道草」、森鴎外が「山椒大夫」、芥川龍之介が「羅生門」を発表したこの年、「ゴンドラの唄」「道頓堀行進曲」などがはやった。8月には尼僧殺しで手配の元僧侶・大米竜雲が逮捕されたが、この凶悪犯は放浪しながら各地で強盗、婦女暴行、殺害、放火などを続けていた。現在ならワイドショーが大騒ぎで取り上げるだろうな。

 中国大陸では日貨排斥運動が起こり、5月に中国は日本の最後通牒を承認したが、排日運動は激化し、日本商店が襲撃された。袁世凱が日貨排斥取締りを命令する一方、上海で袁世凱の帝政反対暴動が発生した。欧州では、伊が墺とトルコに宣戦布告し、ブルガリアがセルビアに宣戦布告、英・モンテネグロがブルガリアに宣戦布告、仏がブルガリアに宣戦布告、伊露がブルガリアに宣戦布告するなど戦乱は拡大して行った。

2015年1月3日土曜日

試される「普遍的でない部分」


 異質なものを認めたり、受け入れたりすることは、時には簡単であり、時には困難を伴う。食物ならば、馴染みのない異質なものでも試してみるというようにハードルは低いだろうが、異質な価値観などともなれば、受け入れる前に、まず理解する努力が必要になるし、そもそも理解しようと思うには異質なものに対する関心が必要だろう。

 異質な価値観に対して関心がない人々に受け入れさせるためには、理解を求める努力をするよりは、強制したほうが簡単だ。そうした例は世界の歴史に珍しくない。代表的なものが欧州の価値観で、帝国主義の時代に欧州各国は、武力による支配を世界に広げるとともに、欧州の価値観も伝え広めた。

 異質の判断は基準の設定次第で変わる。欧州の価値観を基準に世界各地の価値観を異質だとしても、世界各地から見れば、欧州の価値観こそ異質なものであるかもしれない。そうした中で欧州の価値観が世界に受け入れられたのは、そこに人間として共有すべき価値観が多く含まれていたからだろう。ただし、欧州の価値観の全てが普遍的なものではない。

 現代でも欧州の価値観は、なおも世界に大きな影響を与えているが、21世紀になって欧州経済の相対的な勢力衰退とともに、欧州の価値観の優勢が脅かされるようになった。例えば、経済的に圧倒されるようになった中国に対して欧州は人権や民主主義を持ち出すことを控えるようになった。さらに中東やアフリカの旧植民地における、欧州の価値観の「不在」も明らかになった。

 昨年、イラクなどで急速に勢力を強めた「イスラム国」は、欧米人の人質を処刑するなど残忍な過激武装集団として報じられる。その実態は定かではなく、中東やアフリカに散在する武装集団と同類なのかもしれないが、目新しい点もいくつかある。「イスラム国」がつきつけているものは、欧州の価値観とは異なるイスラムの価値観だ。

 それは、▽指導者たるカリフ(後継者)を擁立し、シャリーア(イスラム法)による統治を行う、イスラムを国教とした一つのウンマ(国)樹立▽欧州がオスマン帝国領の分割をしたサイクス・ピコ協定を否定(現存する国境線を否定)▽初期のイスラム共同体を理想とし、再現する▽イスラム文化への矜持と誇示▽欧米中心の資本主義体制の否定……など。

 単なる抵抗運動ではなく、欧州が押し付けた国境線を拒否し、イスラム共同体の再構築を掲げる「イスラム国」は、欧州の価値観に挑んでいる。中国も欧州の価値観をベースとした欧米主導の“世界秩序”にあからさまに挑むようになった。欧州には、その価値観を押し付ける武力も経済力もなくなりつつある。残っているのは知力だけか。

 こんな大雑把なことを考えていると、普遍的とも見なされた欧州の価値観の、普遍的ではなかった部分などが世界各地で挑戦を受けることが今年も続きそうに思える。その結果として世界史的な大変動につながって行くのか……今年も世界は面白そうだ。