2017年5月31日水曜日

欧米が問題を設定

 最近、LGBTの人々を肯定的に取り上げ、社会で受け入れようと啓蒙する記事が増えてきた印象だ。LGBTの人が急に増えたのか、黙っていた人々が声を上げるようになったのか、それともメディアが積極的にLGBTの人々の取材を行うようになったのか。LGBT関連の記事が増えた理由は定かではない。

 一つの推測は、以前からLGBTの人々による権利主張の運動が盛んに行われている欧米で、近頃は同性婚を法的に認める動きが広がり、それが大きなニュースになっているので、リベラルを好む日本のメディアも日本のLGBTに目を向け始め、欧米のリベラルに歩調を合わせようとしているとの解釈。

 欧米メディアによる問題設定や評価、論考などを日本のメディアが参考にし、時には追従したりすることは珍しくはない光景だ。欧米の諸機関による各種の世界ランキングを、嬉しがったり残念がったりしながら「日本は@位」などと報じる記事も珍しくはないが、そうしたランキングの評価の「正しさ」を検証することはほとんどない。

 LGBTの人々の権利は尊重されるべきであろうが、欧米におけるLGBTの人々の置かれた状況と日本の状況とは同じなのだろうか。欧米メディアに“影響”されて日本メディアが問題を認識しているのだとしたなら、書かれた記事も欧米メディアの論考に合わせたものになろう。価値観の判断を欧米に委ねているからだ。

 一神教が大きな影響力を持つ社会では、例えば、異性間の結婚は神に祝福されたものとするが、同性愛は神の摂理に反するものと見なし、偏見や差別、迫害の対象になってきた。最近もISが占領地で同性愛者を残酷なやり方で処刑する映像を公開するなど、社会的に容認できないとの考えがあった。だからLGBTの人々を社会的に承認、受け入れるということは大きな問題であった。

 欧米メディアに追従して日本のメディアがうっかり、LGBTの人々が置かれている状況は欧米も日本も同じだと思い込んで、宗教的な規範が強く残っている欧米と同じ問題設定で記事を書くと、日本の地から“足が離れた”記事の出来上がりになりかねない。

 日本ではすでに、性別の取扱いの変更が法的に認められ、性的指向や性自認を理由とする偏見や差別をなくす啓発活動を行政が行ったりもしている。実際には偏見などが残っているから啓発活動が必要なのだが、日本では同性愛だけが抑圧されているわけではない。LGBTの人々を記事にしても強い反発が来ないだろうからと日本のメディアが取り上げているのなら、リベラルを気取るには格好の題材ではある。

2017年5月27日土曜日

ジャズとは何か

 カフェやレストラン、居酒屋など飲食店で、小洒落た雰囲気を演出するための道具としてBG(背景音楽)によく使われるのがジャズだ。ジャズといってもスタイルは多彩で、ムード音楽に近いものからハードバップ、クール、フリー、フュージョン、ファンクなど様々あるが、飲食を楽しむための演出だから、心地よさを来店客に感じさせるようなものが選ばれる。

 ジャズは熱心なファンが愛好する音楽とのイメージが過去にはあったが、今では特別な音楽とのイメージは薄らいでいるようだ。関心を持つ人が増えてブームになっているわけでもないが、都市部ではライブを聴くことができる店が増え、飲食店のBGなどでジャズに興味を持った人も生のジャズ演奏に触れることが容易になった。

 そうした半面で、ジャズを嫌いじゃないけれど、どういう音楽であるかを知らない人が増えているといい、ミュージシャンが即興で演奏していることを知らない人もいるとか。楽しんで聞いているのなら、それでも構わないのだが、ジャズの世界の広さ、奥深さを知らないのはもったいない。

 ジャズの大半は器楽だ。クラシックも同様だが、主に使用する楽器が、ジャズでは金管楽器とリズム楽器であり、弦楽器が主になるクラシックとは異なる。最大の違いは、クラシックが楽譜に忠実に演奏するのに対し、ジャズでは何かの楽曲を使い、そのコード進行に基づいて即興で演奏することだ。テーマの演奏ではジャズでも譜面を重視して演奏するが、ソロパートでは銘々が即興で演奏する。

 例えば、カウント・ベイシー楽団の「ワン・オクロック・ジャンプ」はD♭メジャーのブルーズ進行(12小節)の曲で、コード進行は<D♭/D♭/D♭/D♭7/G♭7/G♭7/D♭/B♭7/E♭m7/A♭7/D♭/D♭>となる(/の区切りがそれぞれ小節を示す)。このコード進行に乗ってミュージシャンは音を選んで演奏する。

 人と音楽の長い歴史の中から、聞いていて違和感がないようなコード進行のパターンがいくつも誕生し、それらの組み合わせが大半の曲に含まれる。例えば、Ⅱm7ーⅤやⅠーⅥmーⅡmーⅤ、ⅠーⅢmーⅣーⅤ、ⅢmーⅥmーⅡmーⅤ、ⅣーⅢmーⅡmーⅤなど。そうしたコード進行に出合うとミュージシャンは得意のフレーズを決めたりする。

 モードやフリーはコード進行の「縛り」を脱して、もっと自由にミュージシャンの意のままに演奏することを目指したもので、即興演奏の表現の可能性を大きく広げた(聴いていて耳に心地よいと感じるかどうかは人それぞれだが)。

 ミュージシャンが何をやっているのかを理解しないでジャズを楽しむこともできようが、コード進行も意識して聴くと、ミュージシャンがソロでやっていること・やろうとしていることなどが浮かび、ジャズはもっと面白く聴くことができる。

2017年5月23日火曜日

崩壊するベネズエラ

  ベネズエラのカリブ海沿岸に住む先住民ワラオ族が1000キロの旅をして、ブラジルのマナウスに数百人規模で流入している。報道によると、食糧や物資の不足などによる困窮から国を捨て、家や食料、医薬品などの支援を得たり職探しができるマナウスに移った。その一人は「ベネズエラではすべてが終わっているが、ここなら働き、暮らすことができる」。

 深刻な経済危機が続くベネズエラから出国しようとする人々は増えているが、パスポート申請は大半が却下されるという。その理由は、パスポートをラミネート加工する樹脂がなくなったためというから物資不足は深刻だ。周辺国に脱出することができない人々は、マドゥロ政権に怒りを向ける。

 4月から全国で大規模な反政府デモが始まったが、治安部隊は強硬に抑え込む姿勢を続けている。2カ月弱でデモ参加者の死者は約50人となり、数百人が負傷し、二千人以上が拘束され、軍事裁判で有罪判決を受けた人が続出しているというが、物資不足に加えハイパーインフレ、治安悪化などに苦しむ人々の蓄積した怒りは簡単には収まらないだろう。

 原油の確認埋蔵量で世界1とされるベネズエラは原油輸出で豊富な外貨収入を得て、医療や教育を無償にするなど手厚い福祉を進める豊かな国だったが、高値だった原油価格が低迷すると一転、全てが逆回転し始めた。バラマキではなく、人々が自立して生活できるような社会制度を構築し、広く産業を育成することに資金を向けていればと悔やんでも遅かった。

 今年1~4月のインフレ率は93.8%、去年の幼児死亡率は30%で妊産婦死亡率は65%増加、殺人発生率は52.2人/日……これらのデータが示すのは、国家として破綻している現実だ。「経済危機と食料不足で略奪や動物狩りが横行」「食料品店を狙った略奪が日常茶飯事」「機能不全に陥った病院」「政府は節電目的で公務員の出勤を週2日に制限」などとも報じられている。

 自由選挙が行われるなど民主主義の体裁は維持されているが、マドゥロ政権の権限が強く議会の機能は限定的。経済も治安も崩壊した社会で人々が行うべき「正しい」行動は、直接行動で政府を倒すことしかないようにも見えるが、「正しい」行動だからといって成功するとは限らない。

 それに「正しい」行動を支えるのは社会・国家に対する信頼があることだが、経済や政治が破綻した中で人々が、システムを変えれば良くなると信頼できるのか怪しい。怒りに任せて政権を倒したとしても、すぐに物資不足が解消され、ハイパーインフレが止まり、治安が回復されるわけでもない。崩壊したシステムを再建することは至難の技だ。

 国家や社会のシステムを信頼できなくなった人々は、毎日を生き抜いていくために自分の身は自分で守るしかない。破綻した国家で略奪が横行するのは、それが無法状態における「正しい」行動の一つであるからかもしれない。国を捨てて他国に逃れるという行動も、破綻した国家における合理的な判断であろう。

2017年5月20日土曜日

インフラ整備と需要

 中国が主導する「一帯一路」構想の賛同国を集めた国際会議が北京で開かれ、130カ国から約1500人が出席した。報道によると共同宣言では、「世界の貿易と投資の伸びは依然として低迷している」とし、「自由な貿易を確保し、あらゆる形態の保護主義に反対」を表明、一帯一路は「各国に協力を深める重要な機会を提供し、積極的な成果をもたらした」と自画自賛しているそうだ。

 低コストの生産地となって世界相手の輸出で経済成長した中国が、保護主義に反対し、自由な貿易を擁護するのは当然だとも見えるが、拡大する中国の国内市場を保護することに加え、共産党の独裁支配を脅かされないように、外資の参入には各種の厳しい規制を講じているのが現実。いつの間にやら自由貿易の旗手を演じ始めた中国は、相変わらず自国に都合のいい部分だけを、つまみ食いで主張している。

 この一帯一路構想は、中国と欧州を結ぶ陸路と海路の現代版シルクロード構想とも称され、各地で道路や鉄道、港湾などインフラ建設を行って中国主導の巨大経済圏をつくろうというもの。中央アジアや東南・南アジアでのインフラ整備が主になるとみられている。

 インフラ整備が遅れている一帯なので膨大なインフラ整備需要があると見込まれているが、自前でインフラ整備を行う資金に乏しい諸国が連なっている。それで、中国が資金と技術、資材(と労働力)を提供すると期待する諸国が一帯一路構想に反対する理由は乏しいから、アジア諸国は賛同し、事業への参画を目論んで欧州諸国も名を連ねた。

 中国国内で交通網などのインフラ整備が急速に進んだように、中央アジアや東南・南アジア、さらには中東を経て欧州までのインフラが整備されれば、モノと人の移動が活性化し、それなりの経済圏が形成されるとの期待が膨らむ。だが、そもそもモノや人の移動の需要が少ない地域でインフラ整備を進めたところで、需要が増えるわけではないことは中国国内でも明らかだ。

 どこでも、道路を作れば走る車が増え、鉄道を敷設すれば乗客が増え、港湾を整備すれば寄港する船舶が増える……なら大成功だが、潜在需要が乏しいならインフラ整備の効果は限定的だろう。中央アジアや東南・南アジアなどの諸国で、国境を越えてモノや人が移動する需要が潜在しているのなら一帯一路は刺激策となろうが、そうした潜在需要が乏しいのなら、中国から欧州への輸送路になるだけだ。

 一帯一路が中国からの援助であるなら諸国にとって恩恵だけがもたらされようが、借款であるなら事情は異なる。インフラは整備されたものの収益が伴わなければ、中国に対する負債だけが膨らむ。諸国が中国に負債で縛られ、中国が実質的に支配する巨大な経済圏が誕生するなら中国の狙い通りだろうが、そのためには、まずインフラ整備の成功事例を積み上げなくてはならない。中国に可能か、お手並み拝見だ。

2017年5月17日水曜日

身体は酸性?

 インターネットがまだ一般化していなかった頃に、中規模の物流倉庫の食堂で昼休みに、アルカリ整水器の実演販売を行っているのを見たことがある。食事を終えた人を集めて業者は、まずリトマス試験紙をなめさせ、「ほら、あなたの体は酸性になってる」と次々に指摘していた。

 そして業者は、酸性に体が傾くとバランスが崩れ、数々の病気につながりかねないと不安を煽り始めた。リトマス試験紙が酸性を示しているのだから、人々は業者の言うことを疑わない。すかさず業者は、整水器でアルカリになった水を飲むことで体が中性に戻ると説明を始め、整水器を売り込んでいた。

 リトマス試験紙を客になめさせるというのは、実演販売ならではの効果的な客の掴み方だ。科学的な装いがあり、業者側はリトマス試験紙の判定に関与しないので、客は信用せざるを得なくなる。客が“食いついた”後は、「体が酸性」の不安を大いに煽り、その解決策(整水器)を手際良く示す。

 業者が使ったトリックは、リトマス試験紙を客になめさせ、「あなたの体は酸性だ」と断定したところにある。リトマス試験紙が示したのは、口中が酸性であるということだ。食事の後に口中は酸性になるから、リトマス試験紙をなめると酸性を示すのは当然。口中が酸性になったから、体が酸性になったとはいえない。

 例えば、「トマトジュースを飲めば体が赤くなる」などと言われても、人々は信用せず、相手がバカなことを言ってると判断するだろう。だが、酸性/アルカリ性など、目に見えないことになると、食べたものにより体が酸性に傾いたり、アルカリ性に傾いたりすると無邪気に同意したりするのは奇妙な光景だ。

 食べたものは胃に入り、強酸の胃液が分泌されて溶かされることを思い出せば、アルカリ性の液体や食物を摂取したところで、胃の中では酸性になることが理解できよう。同様に、様々な健康食品でも口から摂取した成分が胃で消化される時に、どのような変化をし、どのように吸収されるかが解明されなければ、実際の効能なるものは不明だ。

 健康をテーマにした番組がテレビに増えたが、基本的な構成は、①体のちょっとした不調を並べ、重度の病気や不具合が隠れているかもしれないなどと不安を煽る、②医師が出てきて解説し、効果的な運動法や食品を示すなどして手軽な解決策を提示する。

 この②のところで、健康食品や健康器具などを紹介するのが通販番組だ。実演販売ならリトマス試験紙を客になめさせることもできるが、電波では、いかに視聴者の不安を煽るかがポイント。不安にかられた客は、例えば、アルカリ整水器を経た水で体が中性になると信じて安心するなら……信じる者は救われるか。

2017年5月13日土曜日

決められない政治②

 議員が議会よりも次の選挙での当落を重視することが、議会を存在感アピールの場に変質させ、議員が非妥協的に振る舞うので「決められない政治」を招いているのだとすれば、議員が選挙に気をとられすぎないようにすることは一つの選択肢だ。例えば、議員の任期を20年などと長期化し、さらには終身制などの導入。

 歴史を振り返ると、社会に身分制が存在した時代に、議会に参加する議員が貴族や有力者に限られ、終身制のこともあった。そうした議会が存在した頃の主権者(最高権力者)は王や皇帝であったりしたので、議会の役割は限定的。つまり議員は王や皇帝の補佐役の位置づけ。議員は選挙のことなど考えないが、それが議会の機能を充実させたわけではない。

 任期を長期化しても、例えば4年の任期で「機能」しない議員が、任期が伸びれば「機能」するようになると信じる理由は乏しい。目先の選挙だけを優先する人物は、資質面で議員に不適当である可能性が低くないからだ。加えて、長期任期や終身の議員が無能であることが明らかになった場合に、どう「取り替える」かという問題が出てくる。たびたび「取り替える」のなら、任期を長期化したり終身化する意味がない。

 次の選挙を意識しない議員は存在しないとするなら、議員の任期を1年などに短期化する選択肢もある。主権者にとって議員は「取り替え」やすくなり、議員は、当選してもすぐに次の選挙があるから自分の活動の成果を主権者に見せなければならず、硬直した議会は議員にとっても不利益になろう。ただし、任期を短縮化すると選挙回数が多くなるので、選挙の公営化を進め、金のかからない選挙にすることが必要だ。

 議員の任期を変えずに議会の硬直化を打開する方法には、国民投票の導入がある。「議員の3分の1の賛成があれば国民投票を実施しなければならない」などと決めておけば、乱用を抑制しながら、与野党の対立が激化して硬直した状況の打開策になるだろう。ただ、議員は予算や法案の最終決定権が奪われると国民投票に反対する。「決められない政治」に甘んじる議員にとって、最終決定権は飾り物でしかないのだが。

 誰もが立候補でき、誰にも当選する可能性がある現在の民主主義の行き着く先が、政党や議員が言い争いを続ける「決められない政治」なのかもしれない。でも、主権者の数が多すぎて意見集約が困難になっているからといって、特定の人々が主権者として独裁するような社会には戻れない。民主主義は完全ではない制度だが、封建制に後戻りすることに人々は抵抗するだろう。

 「決められない政治」が民主主義に反するものではないとしても、硬直した議会を主権者は望んでいない。おそらく、予算や法案などの具体的かつ細かな修正を議会が恒常的に活発に行うようになることが議会の活性化に最も効果的だろうが、最終決定権を官僚から議会(議員)が奪うことが必要だ。それは、議員の任期を動かすよりも難題かもしれない。

2017年5月10日水曜日

決められない政治①

 議会で与党と野党が議論するものの、一致点を見いだす努力を放棄し、妥協せず、激しく対立する状況が続くことは珍しくはない。野党の政権チェック機能がよく働いていると見ることもできるが、野党が何にでも反対しているようにも見える。与野党の主張を検証して主権者は次の選挙のときの判断材料にするのがいいのだが、次から次と対立が続くと、つきあってもいられなくなる。

  与野党の激しい対立の行き着く先は、多数決で決めることになる。日本のように政党が党議拘束を行うなら、最初から結果は明らかであり、野党が存在感を目立たせるためには、審議で非妥協的な激しい言葉で政府批判することが有効だろう。与党は、予定されている多数決で決着するのだから、議会での議論で妥協点を見いだし修正などを行って採決への協力を求める必要は感じまい。

 いわゆる「決められない政治」とは、議会で行われる討論が、一致点を見いだすための議論ではなく、それぞれの政党の存在感をアピールするための議論になっている状況だ。主権者が選んだ議員たちが、最後は多数決で決めているのだから、「決められない政治」は民主主義に反するものではない。しかし、民主主義がよく機能しているとも見えないから、不信感は高まる。

 「決められない政治」は、民主主義の不在を意味するのではない。民主主義は機能しているが、議会の機能が低下している状態だ。機能が低下した議会は軽んじられようが、議員になること(選挙で選ばれること)の価値が低下していないとすれば、議会は次の選挙のための存在感アピールの場に変質する。

 選挙で当選した人が議員となり、議会を形成するのだが、議員にとってはおそらく自分が当選することのほうが議会よりも価値がある。議会の価値は社会的なものだが、議員でいることが自分の価値を高める。つまり、一般には「議会>選挙」だが、議員にとっては「議会<選挙」だから、議会が選挙のために存在感アピールに使われる。

 社会の成熟とともに価値観は多様化する。そうした多様な価値観が選挙結果に反映すれば、議会でも多様な主張が現れ対立が激しくなろうから、「決められない政治」は社会の成熟を反映したものでもあろう。そこに議員を続けるために励む議員が加わる。「決められない政治」は日本だけではなく、米国など民主主義が定着した各国に見られる現象だ。
 
 選挙で選ばれることを最優先する議員たちによって演じられる「決められない政治」は、ポピュリズムとも相性が良さそうだ。票を獲得するためには手段を選ばない人達にとって、存在感をアピールすることが第一であろうから、議会も道具であり、ポピュリズムも道具になる。

2017年5月6日土曜日

主権在民にふさわしい憲法は

 国家の主権が、王侯貴族や特権階級、軍など限られた一部の人間にあるのではなく、広く人民にあるとする国家にふさわしい憲法は、第1章で主権在民を宣言する憲法であろう。ところが現行の日本国憲法は第1章に天皇の位置づけが来ており、第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とある。

 日本国憲法では前文で「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と主権在民を宣言しているが、条文では第3章で「国民の権利及び義務」について記すものの、そこで主権在民を明確に規定してはいない。前文は条文と同等の拘束力を持つのだろうが、前文は様々な理念を羅列しているので、主権在民の理念だけが強調されているわけでもない。

 欽定憲法である大日本帝国憲法では第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と国家主権を天皇が有することを宣言している。主権在民である日本国憲法に改正されたというのに、大日本帝国憲法と同様に第1章が天皇に関する規定というのは、当時は時代的な制約もあったのであろうが、主権在民の憲法としてはふさわしくない。

 主権在民にふさわしい憲法とは、第1条で主権在民を宣言する憲法だろう。例えば、第1章で「日本人の権利及び義務」を規定し、第1条で「われら日本人は、日本国の主権を有し、日本国を統治する」などとする。

 もう少し具体的に記すなら、例えば「われら日本人は日本国の主権を有し、思想・表現・信仰などの自由を有し、個人の尊厳と社会的な統合・安定を尊重しつつ、社会的・経済的・政治的正義の実現を目指す」「われらの日本国は、独立した不可分の、非宗教的かつ民主的な共和国である。日本国の政治は日本人により、日本人のために行われる。日本国の政治は、日本人の厳粛な信託によるものであり、その権威は日本人に由来し、その権力は日本人の代表者が行使し、その福利は日本人が享受する」などとしてもよい。

 主語を「われら日本人」とするのは、主権者である人民により制定された憲法であることを表しているのであり、憲法のすべての条文は「われら日本人」を主語として記されるべきであろう。

2017年5月3日水曜日

善悪で見る

 高度な知能を持つ地球外生命が大挙して地球に押し寄せてきて、地球を乗っ取るために人類を絶滅させようと襲い始め、さあ大変、圧倒的な攻撃力の差で人類の危機だ。そんな時に、戦いに巻き込まれていた人物が地球外生命の弱点を偶然知って、反撃を開始し、地球外生命を撃退して地球を救うというのはハリウッド映画などに珍しくないストーリーだ。

 こうしたストーリーは、①主人公を疑いがないヒーローに仕立てることができる、②地球外生命だから主人公らが残虐に殺害(破壊?)しても観客は同情を抱かない、③最後には危機を脱するというストーリーを予感しているだろうから観客は安心してハラハラドキドキを楽しむことができる、などの娯楽作品に仕立てやすい要素を備えている。

 一方、地球外生命は①圧倒的に強い、②主人公や人類を窮地に追い込む、③主人公や人類に決定的なダメージは与えない、などと設定される。圧倒的に強く描かれなければならないのは、観客をハラハラドキドキさせるとともに、最後に主人公たちが勝利する姿を見て観客が喝采するためだ。でも、圧倒的に強かったはずがボロ負けする地球外生命は、哀れさを誘う余韻を残したりする。

 地球を破壊から救う人物は間違いなく大ヒーローで、善悪で分けるなら善の側になるだろう。地球外生命は無条件で悪との設定になり、善が悪を打ち倒すのだから観客の大方は納得する。善とは何か、悪とは何かと考え始めると、たちまち意見は千々に分かれるだろうから、そんな疑問を観客に持たせないために、地球外生命は次から次と無慈悲に人間を攻撃する。

 現実世界では、無条件の善も無条件の悪も存在しないだろう。誰もが善の部分と悪の部分を有するので、時には善となり、時には悪となるのが人間。悪玉だと見られていた人物に意外な穏やかな人間性が垣間見えたりすると、ただ憎むことが難しくなったりする。

 だが、人間を無条件の悪と設定する映画は昔からあった。悪玉は世界支配を目論む独裁者や冷酷で残虐な犯罪者などだが、最近ではテロリスト集団が冷酷な犯罪者として描かれたりする。人間がテロリストになるには相応の理由があるはずだが、そこに目を向けると無条件の悪との設定がぐらつき始めるから映画では触れられない。

 映画の世界では登場人物の善悪を最初から決めることがストーリー展開に便利だろうが、現実世界でも最初から善悪を決めつけて人を見ていることは実は珍しくない。そうした決めつけで見えなくなっているものがあることを認識していなければ、そうした人には現実世界も映画のような単純な善悪の闘いと見えているのかもしれない。