2015年8月19日水曜日
「個性」がにじみ出た批判
何かの文書を批判することは簡単だ。読みながら、気に食わない個所をチェックしていき、それらを次々と指摘していけば一丁上がりだ。批判の根拠には、出来合いの価値観から都合のいいものを引っ張り出しておけば、体面を繕うことはできる。ただし、批判に熱心になるあまり、感情的な言葉が混じると、批判の底の浅さが露呈するかもしれない。
価値観の異なる人が書いた文書を批判するのは、もっと簡単だ。批判する側の価値観に反する個所は片っ端から否定し、けなしていけばいい。イデオロギー対立が盛んだった頃は、そうした批判が珍しくなく、勢い余って、客観的な事柄を記しているような、批判しなくてもいい個所にまで批判を浴びせたりし、イチャモンをつけているだけだと見えることもあった。
批判することを目的とする批判は、対象の文書に書かれていない事柄を指摘し、「○○について触れていない」「××を無視している」などと、それらを故意に書かなかったと批判したりもする。こうなると、批判は無敵だ。対象の文章に書かれていない事柄なら何でも批判できるのだから、批判する材料に事欠かない。
さらには、対象の文章から「誠意が感じられない」「人間性が伝わってこない」などと、読み手側の感情を批判の根拠にしたりもする。誠意を感じるかどうかは人それぞれだから、こうした批判は必ずしも多数の人が共有するものとはならないが、「嫌いだ」という感情をベースにした批判であることは明らかにしてくれる。
客観性のある批判であるためには、まず分析することが必要になる。ただし、批判的な分析も客観的な分析もあるので、分析結果がいつでも誰でも同じになることはない。文章や文言を解釈する時には、その人の善悪や正邪の価値観、さらにはイデオロギーの残滓の影響を受けるので、「個性」がにじみ出る。それは個人の文筆家なら許容されようが、新聞の社説においては異様な有り様に見えてくる。
安倍談話についての朝日新聞の社説は、安倍嫌いという「肉声」が伝わって来るような感情がにじみ出ているものだった。「極めて不十分な内容だった」とまず否定し、次いで「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」と断じる。それが結論で、残りの長い文章は付けたし。ついでに、談話発表に至る過程の迷走も批判しているが、談話を発表しなかったなら、朝日新聞は何と書いたのかと知りたくなる。
客観性のある分析の跡は希薄だが、奇妙で面白く、本音が出た正直な社説かもしれない。この談話について新聞社は以前から、さんざんネタにして大騒ぎをしてきたのに、発表された談話は穏便な調子で、もうネタにはなりそうにないと不満なのかもしれない。いつもなら朝日の報道を受けて騒ぎを大きくしてくれる中国、韓国が今回は自制的な反応だったのも、朝日には計算違いだったか。
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